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対イラク戦争後の国際石油情勢に関する調査 第4章 イラクの石油・天然

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対イラク戦争後の国際石油情勢に関する調査 第4章 イラクの石油・天然
IEEJ:2004 年 7 月掲載
対イラク戦争後の国際石油情勢に関する調査∗
第4章
イラクの石油・天然ガスに関わる主要国、国際石油会社の動向
総合エネルギー動向分析室
総合エネルギー動向分析室
研究員
客員研究員
ジェームス
宮崎
和作
イーストコット
4−1.イラク石油産業概史
西暦紀元前、人類が初めて農耕を行ったとされる『肥沃な半月地帯』‐現在のイスラエ
ル、パレスチナからチグリス、ユーフラテス両大河流域を経てアラビア湾(ペルシア湾)
のシャットル・アラブ河口に至る大きな三日月型をした地域‐の東端、メソポタミアでは石
油が地表に滲み出し、往時の人々がそれをダウ船‐アラビア特有の帆船‐の防水塗装や貴
人達の遺体のミイラ化などに使用していたと記録されている1。
この地域において石油が近代産業の形を取るに至ったのは 1904 年、時のドイツ帝国銀行
支配下のアナトリア鉄道会社がオスマン・トルコ皇帝から付与されたトルコ∼バグダード
間の鉄道敷設権に付随する鉄道路線両側 20km 幅にわたる鉱業権に着目したトルコ在住のア
ルメニア人実業家、カルースト・グルベンキアンが、第 1 次世界大戦勃発前の 1912 年、英
国系資本のトルコ国立銀行、既にロシア産石油の売買、輸送に携っていたシェル・グループ
の子会社、アングロ・サクソン石油会社、ドイツ帝国銀行の3社と組んで『トルコ石油会社』
(Turkish Petroleum Company ‐ TPC)を設立し、アナトリア鉄道会社が保有する鉱業権を引
き継いだことに端を発する2。
TPC は 1914 年、既に隣国ペルシアで石油を発見していたアングロ・ペルシァン石油会社(後
のアングロ・イラニアン石油会社、現在の BP の前身)がトルコ国立銀行持ち分の大部分を
引き取り、グルベンキアン個人が 5%を保有する形となった。因みにこれが、後にグルベン
キアンが『ミスター・5%』と呼ばれることとなるゆえんである。この時点での TPC の株主構
成は次のようになっていた。
アングロ・ペルシァン石油会社(後の BP)
47.5%
ドイツ帝国銀行
25.0%
アングロ・サクソン石油会社(後のシェル)
22.5%
カルースト・グルベンキアン
5.0%
∗
本報告は、平成 15 年に経済産業省資源エネルギー庁より受託して実施した受託研究の一部である。この
度、経済産業省の許可を得て公表できることとなった。経済産業省関係者のご理解・ご協力に謝意を表す
ものである。
1
宮下二郎 「王と石油資本の砂漠外交‐アラビアの石油開発史」 (石油文化社、1991)
2
アンソニー・サンプソン 「セブン・シスターズ‐不死身の国際石油資本」 (日本経済新聞社、1976)
1
IEEJ:2004 年 7 月掲載
第 1 次世界大戦の終結、ドイツ帝国とその同盟国であったオスマン・トルコ帝国の敗戦と
ともに、戦勝国の英国、フランスの間で 1920 年に密かに成立させた『サンレモ合意』に基
づき、オスマン・トルコ統治下にあった北方アラブ諸国を両国の委任統治領に分割するとと
もに、TPC の旧ドイツ帝銀持ち分を接収し、フランス石油(CFP)に付与することとした。
この時点で TPC の株主構成は以下のようになった。
アングロ・ペルシァン石油会社(後の BP)
47.5%
フランス石油(CFP)
25.0%
アングロ・サクソン石油会社(後のシェル)
22.5%
カルースト・グルベンキアン
5.0%
この時、英仏両国が「米国は対トルコ戦線に参戦しなかった」との理由から米国をサン
レモ協議に招聘しなかったことがアメリカ側の憤激を呼び、米国政府が英国側に強硬な申
し入れを行った結果、1922 年になって米国石油会社の TPC への参入交渉が開始された。
TPC 参入を目的に米国側が設立したコンソーシアム、『近東開発会社』(Near East
Development Company ‐ NEDC)と TPC との交渉は5年間にわたって延々と続けられたが、
1927 年、キルクーク油田での石油発見とともに急転直下、合意が成立した。この間、TPC
は 1924 年にその名称を『イラク石油会社』(Iraq Petroleum Company ‐ IPC)と変更して
いたが、新たに合意された IPC の株主構成は下記のようなものとなった3。
アングロ・ペルシァン石油会社(BP)
23.75%
フランス石油(CFP)
23.75%
アングロ・サクソン石油会社(シェル)
23.75%
近東開発会社(米コンソーシアム)
23.75%
Participation & Investments Company*
5.00%
*カルースト・グルベンキアン個人所有の株式を法人化したもの。
この時点での米国側コンソーシアム、NEDC の構成会社はニュー・ジャージー・スタンダー
ド石油(後の Exxon)、ソコニー・モービル石油(後の Mobil)、ガルフ石油(Gulf Oil)の
3社であったが、1934 年にガルフが撤退し2社による 50/50 体制となった。また、IPC は
その原油生産地域、操業地域に準じて、後年イラク石油(Iraq Petroleum - IPC)、モスル
石油(Mosul Petroleum - MPC)、バスラ石油(Basrah Petroleum - BPC)の3社に徐々に
3
TPC の歴代株主構成については、宮下二郎およびアンソニー・サンプソン(ともに前出)による。
2
IEEJ:2004 年 7 月掲載
分社化され、石油産業が国有化されるまでその形態が存続した。
因みに、1922 年に開始された米国コンソーシアムと TPC との間の交渉は、往時の国際石
油大資本 6 社‐後の BP、シェル、CFP、エクソン、モービル、ガルフ‐を一堂に会せしめる
結果となった。このことは、
『セブン・シスターズ』に CFP を加えた8大石油会社による後々
に至る国際石油市場の分割支配、カルテル独占体制への基礎を実質的に築く先駈けとなっ
たばかりか、IPC グループの 100%子会社、『ペトロリアム・デベロップメント会社』を通じ
たオマーン、カタール、トルーシャル・コースト(『休戦海岸』、現在のアラブ首長国連邦)
などへの共同進出に道を拓いたものとして、国際石油産業史上ひとつの時代を画した出来
事と言える。
第2次世界大戦に際し、イラクは連合国側の中近東作戦に協力し、主として対ソ連石油・
戦略物資供給基地の役割を担った。しかし、1948 年のイスラエル建国に反対する第1次中
東戦争に当ってはアラブ諸国側に組みして参戦し、IPC のイスラエル向け石油パイプライン
を閉鎖したのを皮切りに、1952 年のガマル・アブドルナーセル(ナセル)中佐らエジプト国
軍自由将校団による反王制クーデターに触発されたアブドルカリーム・カセム将軍率いる
自国陸軍民族主義将校グループによる 1958 年の王制転覆、軍事革命政権樹立を経て、その
石油政策においても民族主義的傾向を次第に深めて行った。
1960 年にイラクは石油輸出国機構(OPEC)の設立に創設メンバーとして参加するととも
に、翌 1961 年にカセム政権は新法を制定し、国内で操業する外国石油会社の上流部門にお
ける活動に厳しい制限を加え始めた。この措置によって IPC グループ会社はその保有下に
あった利権操業区域の 99%以上を接収あるいは無効化された。
さらに、1965 年のバアス党革命、バアス党政権成立とともにイラクの石油政策は先鋭化
の度を増して行った。外国石油会社がイラク国内に保有していた資産、操業権益は 1972 年
から 1975 年にかけて完全に国有化され、1964 年に設立されていた『イラク国営石油会社』
(Iraq National Oil Company - INOC)にすべてが集約された4。
その後イラクはその民族主義的石油政策動向と相俟って、アラブ世界にあっては極めて
特異な実利主義的、世俗的政策発想に基づき、国内石油部門への外国企業の操業請負契約
形態での招致、導入を積極的にはかり、主として旧ソ連、共産圏諸国との関係が深まった。
しかしながら、その反面米英先進石油企業との連携が絶たれることとなった結果、その間
の種々、度重なる政策判断ミスのコストは老朽油田のメンテナンス不足による衰退、不適
4
Energy Intelligence Research “Iraqi Oil & Gas – A Bonanza-In-Waiting” (Spring 2003) および
アラビア石油株式会社 「湾岸危機を乗り越えて‐アラビア石油 35 年の歩み」 (1993)
3
IEEJ:2004 年 7 月掲載
切な油田管理や経済生産計画の欠如などにも及び、石油生産能力の全体的低下となって表
われ現在に至っている。
ここで石油をめぐるイラクとわが国との関係に触れておきたい5。まず、イラク原油のわ
が国への輸入は 1953 年に開始され、イラク軽質原油がわが国市場の需要パターンに適合し
たことから最盛時の 1979 年度にはその輸入量がほぼ 30 万 B/D に達した。その後 1990 年夏
のイラクによるクウェイト侵攻に伴って同原油の輸入は約5年間にわたって中断したが、
国連による 1995 年の『石油・食糧交換計画』実施を機に、1997 年に輸入が再開された6。
さらに特筆すべきは、1974 年、イラクの輸出製油所、LPG プラント、石油化学・化学肥料
プラント、発電所などの建設に日本企業が協力し、日本政府が 10 億ドルの円借款を供与す
ることを謳った『経済および技術協力に関する協定』と、イラクがわが国に対し 10 年間に
わたって 9,000 万トンの原油、その他石油製品を供給することを約した『原油取引に関す
る覚書』(いわゆる『中曽根オイル』についての合意覚書)が日本・イラク政府間で調印さ
れたことである。
これらを受けて、1970 年代後半には(財)中東協力センター内に『日本イラク委員会』が
設置され、上記『協力協定』に基づく対イラク折衝の窓口となり、肥料工場、発電プラン
ト建設などいくつかの大型協力事業が実施に移された。しかしながら、1980 年代に入って
これらの協力事業はイラク・イラン戦争の勃発とそれに引き続くイラクのクウェイト侵攻、
湾岸戦争による中断あるいは撤退を余儀なくされ、結果的にこの『協力協定』に基づく事
業は当初予定を遥かに下回る成果しか挙げ得ずに終った。
また、原油輸入については、当時のわが国民族系石油精製元売6社・1グループから成る
『イラク原油輸入協議会』によって 1974 年第4四半期から原油の供給・引取が実行され、
イラク・イラン戦争の勃発まで継続された。
石油上流部門との関係では、1970 年代央、石油公団、住友石油開発、三菱石油開発、そ
の他数社から構成される日本イラク石油開発会社がフランスのエルフ社と共同でイラク南
東部陸上鉱区の開発請負操業に携わり、商業生産に成功したが、イラク・イラン戦争勃発と
ともに権益を接収され撤退した。
5
6
宮﨑和作 『中東主要国関係の再構築とそのための政策プラットフォームを考える—イラク』
(財団法人・中東協力センター内部報告、2000)
出光興産株式会社 『出光石油資料』 昭和 48 年版∼平成 15 年版
4
IEEJ:2004 年 7 月掲載
4−2.イラク戦前の石油・天然ガス開発への外国企業参入状況
第 3 章で述べた通りイラク政府は、1972 年から石油産業の国有化を実施し、石油産業の
全てを国営石油会社 INOC の管理下に置いてきた。以降、石油・ガス分野においてサービス
契約7以外は外国資本の参入を一貫して拒んできた。しかし、1991 年に発生した湾岸戦争に
よって重大な損傷を受けた生産設備や輸送設備の修復の必要性に加え、国連制裁下で油田
への十分な投資、必要なスペアパーツの入手にも問題が生じていた。さらに既発見で未開
発の大規模油田を開発するには巨額の投資を必要とするため、外資導入の方向に転換、1997
年に入って 3 件(石油:2 件、天然ガス:1 件8)の大型契約を外資との間で調印した。
1990 年代以来から戦争までに 50 社もの外国企業がイラクにアプローチした模様であるが、
その内で目に引くのはロシアやフランス、トルコや欧州、中国そして東欧企業で、2000 年
以降ではマレーシア、ベトナム、インドなどアジア国営石油企業のアプローチも目立って
きた。
こうした背景には、資本・技術の導入という本来の外資導入による経済効果だけでなく、
対イラク制裁を主導する米国とそれ以外の主要国(ロシア、中国、フランス等)の間に、
イラク巨大油田の開発権へのアクセスを梃として「くさび」を打ち込み、イラク包囲網を
分断化させようとする政治的ねらいがあったものと考えられる。
以下では、ロシア、中国等主要国企業との開発契約の経緯について簡単にまとめる。
4−2−1.ロシア Lukoil との開発契約
旧イラク政権は 1997 年 3 月 21 日、ロシアの Lukoil との間で生産分与契約に調印した。
対象となったのは West Qurna 油田の開発第 2 フェーズであり、Lukoil をオペレーターとす
るロシア・コンソーシアムが権益 75%9となり、残り 25%をイラク国営石油企業が保有するこ
ととなった。投資額はおおよそ 37 億ドルと見積もられる大規模プロジェクトで、当初計画
では 2000 年 3 月までに採油設備を設置して 10 万 B/D を生産する予定とされていた。その
後の増産拡張によって、生産規模が約 60 万 B/D に達することが計画されており、イラクの
外資導入計画の中でも代表的な巨大プロジェクトになる予定であった。
7
2001 年から国連は、オイル・フォー・フード・プログラムの下でいくつかのサービス掘削契約を承認し
た。トルコの Turkish Petroleum Corporation (TPAO)との間で、キルクーク油田の Khurmala Dome で 22
鉱の油井を掘削する契約が締結された(2002 年まで 22 鉱のうち 8 鉱は掘削完了)
。露石油企業の
Zarubezhneft と Tatneft の間でも Bai Hassan 油田と Saddam 油田に合計 78 鉱の油井の掘削契約、また中
国 China Petroleum Technology Service(CPTS)との間で Bai Hassan に 30 鉱の掘削契約も締結された。
8
1997 年 5 月にはトルコの TPAO および Botas、Tefken が、Mansuriya ガス田を開発するとともにトルコ
へのパイプラインを敷設することで契約を締結した。
9
権益の内訳 Lukoil:52.5%、Zarubazhneft:11.25%、Machinoimport:11.25%で合計 75%。
5
IEEJ:2004 年 7 月掲載
しかし、国連制裁下において実際の投資は行われず、本プロジェクトは未着手状況に留
まっていた10。こうした状況下、イラク石油省は 2002 年 12 月 9 日、Lukoil 社長宛ての書簡
を通して、West Qurna の契約を破棄することを通告した。同契約破棄の原因は、あくまで
契約に基づく掘削義務を履行しない Lukoil にあるとのイラク側の立場であった。確かに、
イラク側は 2000 年 10 月頃から、Lukoil との契約は経済制裁に関係なく 2 億ドルを投下す
るべきで、Lukoil はその履行を怠っているとし、別の企業を見つけることを示唆していた。
一方、ロシア側の立場は、経済制裁下ではイラクに投資することが不可能であり、同契約
破棄の原因は以下に述べる政治的意図から生じたと強調した。当時、対テロ戦争の遂行を
めぐって米ロが接近し、対イラク戦争に関してもロシアの同意・容認(少なくとも明確な
反対姿勢をとらないこと)を確保するため、米国側が働きかけを強めていたと考えられる。
こうした動きに対して危機感を抱いたイラク側が「政治的メッセージ」としてロシアとの
契約破棄を通告したとも考えられるのである。また実際に、2002 年 10 月頃、ロシア外相が、
Lukoil など国内石油企業からの圧力によってイラクに保有する油田権益などを保護するた
めに米国政府と秘密交渉を行ったとの見方もあった。これに対してロシア政府は、秘密交
渉が行われた事実はないと強く否定したが、Lukoil 自身がサダム政権崩壊後もこの権益を
保証するとの確約を米国政府から得るようロシア政府に要求したとの反論もある。いずれ
にせよ、その当時、実際に何が起こったかは不透明であり、2004 年 3 月現在でもこの油田
権益の行方は未解決である。
4−2−2.中国 CNPC による Al-Ahdab 油田の開発契約
イラクは中国の国営石油会社 CNPC と 1997 年 6 月 4 日に、Al-Ahdab 油田開発に関して生
産分与契約に調印した。同油田はバグダッドの東南約 180 キロメートルに位置し、確認埋
蔵量 10∼14 億バレル、9 万 B/D の生産が可能といわれている。この契約では経済制裁時で
の探鉱活動に対して 22 年間で 6 億 6,000 万ドルの開発投資と 6 億ドルの事業費、合計 12
億 6,000 万ドルの投入が義務付けられると明確な条件をつけていたが、CNPC は探鉱活動を
一切行わなかった。その代わりにオイル・フォー・フード・プログラムを通して石油貿易
を行ってきたのみである。そのために理論的に言えば、この契約は無効なものと考えられ
るが、Lukoil の場合と異なり、サダム政権による契約破棄を示唆するような通告等はなか
った。同契約の有効性の問題を含め、今後の展開は全く不透明である。
このほか、サダム・フセイン政権時代に世界の多く石油会社がイラクの石油開発に参入
しようとした。欧州企業とは大筋で合意に達成しているものとされるものも多い。その内
でも仏 Total の Majnoon 油田や Nahr Umar 油田、伊 Eni の Nasiriya 油田などの大型プロジ
West Qurna の第 1 フェーズは、技術契約下で国際石油会社に対し入札にかけられる予定であったが、
結局 1999 年には、イラク国営石油プロジェクト会社自身(State Company for Oil Projects:SCOP)に
よって実行された。
10
6
IEEJ:2004 年 7 月掲載
ェクトが注目されていた(表 4−2−1)。これらの開発プロジェクトをもとに単純に合計す
ると外資によって追加的に約 300 万 B/D もの生産能力が増加することになる。
表 4−2−1.サダム・フセイン政権時代におけるイラクの外資との開発プロジェクト
油田
西クルナ(West Qurna)
目標産油能力
600
アル・アダブ(Al-Ahdab)
90
マジヌーン(Majnoon)
600
ナー・ビン・ウマール(Nahr bin Umar)
440
アマラ(Amara)
ヌール(Nur)
ラフィダイン(Rafidain)
ガラフ(Gharraf)
ナシリヤ(Nasiiriyah)
80
50
100
100
300
ハルファヤ(Halfaya)
250
ラタウイ(Ratawi)
200
トバ(Tuba)
キフィル東バグダッド
(Kifl East Baghdad)
探鉱鉱区1
180
30-50
−
探鉱鉱区2
−
探鉱鉱区3
探鉱鉱区4
探鉱鉱区5
−
−
−
探鉱鉱区6
探鉱鉱区7
探鉱鉱区8
探鉱鉱区9
−
−
−
−
概要
1997 年にロシアのルクオイルが生産分与契
約に調印したが、イラク側がこれを 2002 年
に取り消した。
1997 年に中国の CNPC が生産分与契約に
調印。
1998 年にトタルフィナエルフ(現トタル)が生
産分与契約の調印に向けた交渉を開始。契
約未調印。
1998 年にトタルフィナエルフ(現トタル)が生
産分与契約の調印に向けた交渉を開始。未
調印。ロシアのザルベジュネフチを交渉開始
の意向。
2002 年、ペトロベトナム、DPC が契約調印。
2001 年、SPC、DPC が契約調印。
2003 年、ソユーズネフチェガスが基本合意。
2002 年、TPAO が交渉開始。
1998 年以降、ENI とレプソル YPF が関心表
明。
契約未調印。
BHP、CNPC、韓国企業が関心表明。契約未
調印。
ペトロナス、クレセント、シェル、ネクセンが関
心表明。契約未調印。
ソナトラック、ONGC、リライアンスが交渉中。
チュニジアのエタップが関心表明。
TPAO、エタップ、カルネフチェガスが関心表
明。
ペトロナスが交渉を進展。他企業も関心表
明。
2002 年、プルタミナと契約調印。
2003 年、ストロイトランスガスと契約調印。
クレセント、ネクセン、ペトロベトナムが交渉
中。契約未調印。
CNR、ペトレルが交渉中。契約未調印。
ベラルーシ企業が交渉開始。
2000 年、ONGC が契約調印。
タトネフチと交渉中。
(出所)Petroleum Intelligence Weekly, April 7, 2003, ‘Special Supplement Iraq’s Upstream:Unlimited Potential.
(注)目標産油能力の単位は「1,000B/D」。
7
IEEJ:2004 年 7 月掲載
4−3.石油関連施設の復旧に関わる外国政府・企業の状況
4−3−1.サダム政権下で調印した契約の行方
サダム政権下・経済制裁下のイラクにおける開発契約の行方は上述のとおり不確実であ
る。戦争前に一部で指摘されたような米国石油企業による上流部門の開発契約独占という
ような事態も起こらなかった。現時点での問題はこれらの契約の法律上の有効性をどう判
断するかということである。つまり、サダム政権下で調印・批准された契約の全てが法的
有効性について疑問が呈されている状況にある。
前述(4−2−1)では、露 Lukoil および中国 CNPC のサダム政権下での調印された契約の
行方についての概説されているが、これ以外の契約(締結に至ったもの)の現状を述べて
おこう。
1. ペトロベトナムは 2002 年に‘Ammara 油田の開発契約を調印した。今後の開発プログラ
ムに関する共同管理委員会(Joint Management Committee)の会議を 2003 年 3 月中央
にベトナムで開催する予定であったが、米英主導による対イラク戦争が開始された結
果、中止となった。
2. 印 ONGC 国営石油会社等による西砂漠地帯における第 8 鉱区の開発契約については、サ
ダム政権は 2000 年末に批准した。2003 年 7 月に ONGC からの代表団は、イラク石油省
を訪問し、イラク南部のセキュリティが安定する場合、ONGC が探鉱活動を実施する予
定を表明した。
3.
インドネシア国営石油会社プルタミナは、西砂漠地帯における第 3 鉱区の開発契約を
サダム政権と 2000 年 4 月に調印した。またイラク政府は 2002 年 12 月に本契約を批准
した。同鉱区の推定埋蔵量は、原油:20 億バレル、天然ガス:1.2 兆立方フィートと
予測されている。プルタミナはこの鉱区における探鉱活動を実施していない。
手短に言えば、中国 CNPC との間の契約を含めて 4 件の「契約」が存在する(
「破棄」通
告された Lukoil との契約を除く)。これ以外のものは、未調印で終了あるいは交渉段階に
留まっていた。
これらの契約の有効性については、2003 年 5 月、当時の Phillip Carroll 石油部門諮問
委員長は、国際石油会社とサダム政権の間で調印された開発契約を再評価する必要がある
と語った。特に、外国企業側が享受する利益が不当に(あるいは合理的と考えられる範囲
も超えて)高いとみなされる場合、イラク石油省による再評価が行われるであろうと述べ
た。一方、2003 年 9 月にイラクの Ibrahim Bahr al-Uloum 石油相の発表によれば、サダム
8
IEEJ:2004 年 7 月掲載
政権下・国連制裁下で調印された開発契約に関する再評価は 3 つの重要な理念に基づく。
それは適法性、競争力、イラク国民にとっての利益の 3 点である。さらに al-Uloum 氏は同
年 11 月には、外国のイラク復興に対する協力・努力(支援金を含む)は、同開発契約の運
命を左右すると発表した。
しかし、いずれにせよ石油開発会社が新規油田開発に参加する場合、(契約タイプにも
よるが)通常 20∼30 年程度の長期契約になることが多い。従って,石油専門家や国際石油
会社(IOC)各社の間では、新規開発契約の締結、つまり本格的石油開発の実現のためには、
治安が回復することとイラク人による正統的安定政権が樹立されることが絶対条件である
との見方で一致している。一度締結した開発契約が産油国(イラク)側の事情(政変など)
で一方的に破棄されたり契約条件が不利な内容に変更されたりした場合、石油会社側は当
初予定利益の確保が困難となる、あるいは大きな損失をこうむる可能性があるからである。
またイラクにおいて本格的な石油開発が実現するための条件として上述した治安回復と正
統的安定政権の樹立に加えて、その政権による炭化水素法等・石油関連諸法規の制定・整
備など石油開発に直接かかわる制度面の整備も重要である。
4−3−2.石油関連施設の復興契約
イラク戦争後の復興計画に関する枠組みの樹立は、対イラク戦争が開戦される前に策定
された。この復興事業は、国防総省の管轄下である米国際開発局(United States Agency for
International Development:USAID)の管理下で行うこととなった11。また、2003 年 1 月
20 日に米国ブッシュ大統領は、人道的な支援を提供(電気・水など日常生活に関するライ
フラインの復旧)し、イラク国民による望ましい暫定政権の樹立を準備する目的として、
復興人道援助局(Office of Reconstruction and Humanitarian Assistance:以下 ORHA)
の創立を発表した。当初局長として Jay Garner 陸軍少将が就任した。戦後のイラク復興を
担う組織で、米国防総省を中心に同盟各国の代表者で構成するものであった。
2003 年 5 月 22 日に国連安保理決議 1483 号の採択により、以前暫定統治の主体であった
ORHA を改組し、連合暫定統治機構(Coalition Provisional Authority:CPA)が設立され
た。同決議の採択によって国連安保理委員会は、イラクに対する国連制裁を解除するとと
もに、今後のイラク復興を担うイラク開発基金(Iraq Development Fund)の設立も認知さ
れ、開発基金はイラク暫定行政機構(Iraq Interim Administration:IIA)12と協議の上、
CPA の指示によって支出されることが決められた。また、石油部門の復興については、2003
年 4 月から当初米陸軍工兵隊(United States Army Corp of Engineers:UNACE)、ORHA(同
年 6 月から CPA)、Kellogg、Brown and Root(ケロッグ・ブラウン・ルート社:KBR)の管
米政府は、イラク復興および人道支援事業として USAID に 24 億ドルを割当てていた。USAID による
と、17 億ドルを復興事業に、残る 7 億ドルを人道支援に充てる計画ということであった。
12 しかし、IIA の代わりに 2003 年 6 月から CPA の指揮、監督下に、イラク統治評議会(Iraq Governing
Council)が石油省、その他省庁を統括している。
11
9
IEEJ:2004 年 7 月掲載
理下で、イラク石油復興チーム(Team RIO(Restore Iraqi Oil))が戦前の原油生産量に
戻すための修復ニーズ・必要な投資を評価する目的として設立された。
しかし、できるだけ早く原油輸出を再開し、かつ石油収入を確保したいという圧力が高
まる中で 2003 年 4 月、UNACE はハリバートン子会社の KBR に対して入札なしで 70 億ドルの
契約を発注した。この契約下で KBR は戦争中に発生した油田火災の消火、また油田とパイ
プラインの修復・イラク国内への石油製品供給を行うことになった。しかし、イラクに輸
入した石油製品代を水増し請求した疑い、KBR との間の契約が戦争開始以前に秘密裏に交わ
されたこと、KBR の親会社であるハリバートンは 1995∼2000 年に現米副大統領のディック・
チェイニーが最高経営責任者(CEO)を務めていたことから特別の扱いを受けたのではない
か等の疑惑が高まる中で契約の見直しが行われた。すなわち、2003 年 8 月から KBR に入札
なしで発注した契約を 2 つに分割(北部と南部)して、合計 10 億ドルの競争入札を開始し
た。その後 2003 年 10 月末に行われた略奪および損害活動による再評価に基づき、従来の
合計 10 億ドル規模から 20 億ドルに倍増(北部:8 億ドルと南部:12 億ドル)、契約決定を
2 ヶ月延長して 12 月後半とした。両契約とも Indefinite Delivery Indefinite Quantity
(納期未定・数量不確定:IDIQ)のコスト・プラス・フィーの 24 ヶ月契約であり、最大 3
年のオプションがついている。
結局、米陸軍工兵隊が 2004 年 1 月 17 日、イラクの石油施設修復事業の契約(北部と南
部の 2 つ)を落札した。南部地域の契約については、以前作業をした KBR が落札した。し
かし、ハリバートンの内部告発によれば、同社の業務員 2 人が下請業者からリベートを受
け取ったことが明らかとなった。また、クウェイトからの石油製品供給契約に関する犯罪
行為の疑惑の発生を受け、この契約がキャンセルされる可能性も考えられる。
その他の石油関連施設の復興契約に関する状況は以下の通りである。
−
上述した北部地域の石油復興契約については、Parsons Iraqi Joint Venture(豪
州の Worley Group との合弁会社)が落札。
−
港湾復興管理事業の契約(特にイラク南部にある Umm Qasr 港の浚渫)は米国
Stevedoring Services 社が 4,800 万ドルで受注。
−
空港、電力・水道、道路、橋梁、病院、学校等の建設事業は、USAID 担当事業で
の最大の分野である。2003 年 8 月に USAID は、米国 Bechtel 社が提出した入札
を承認した。当初契約額は 3,460 万ドル(総額 6 億 8,000 万ドル)であった。
同契約において、Bechtel は電力部門には約 2 億 3,000 万ドルを投入することと
なる。
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IEEJ:2004 年 7 月掲載
4−3−3.石油・天然ガス開発部門の対外開放見通し
新生イラクに向けての石油・ガス産業の復興、再編および新石油・ガス政策の策定に係る
理念は「イラクの石油はイラク人の手に」(“Iraqi oil for Iraqi people”)であり、ブッシュ
米大統領を始め、ブッシュ政権の多くの閣僚からブレマーCPA 行政官に至るまでがこの点
を強調している。また、在外・元イラク政府高官、反体制イラク人活動家、知識人などが米
国務省の呼びかけに応えて集まり 2002 年 6 月に結成した『将来のイラク・プロジェクト』
グループの石油部会が、新生イラク石油産業のあるべき姿を「国民のための石油資源を国
民の最大利益に」かなうよう活用するものとしており、この精神はイラク統治評議会にも
受け継がれている。
石油・ガス産業部門の外国資本への開放の可否については国家の将来に関わる最重要事
項のひとつであるだけに、明確な形での政策形成には未だ至っておらず、また統治評議会
あるいは暫定政府の高官が公に、かつ明示的に言及したこともない。従って、その論議は
最終的には新政権体制確立後まで持ち越されるものと思われる。しかしながら、その考え
方の基礎としては、上記『将来のイラク・プロジェクト』石油部会が 2002 年夏に作成した
報告書の中に、
「国際石油会社主導の石油産業復興」、
「外資導入に向けたビジネス環境整備」、
「先端技術導入による生産性と操業効率の向上」などが将来の有力な選択肢として掲げら
れているのが今後の論議の伏線となるかと想像される。
また一方で、極めて現実的な視点からは、これまでのところ予見される国内資金需要と、
米国投入資金とマドリード会議支援国拠出資金総額並びに石油輸出収入をすべて合算した
国家歳入総額との比較においては、今後数年間にわたり政府資金の殆ど全額が民生、福祉、
社会インフラ整備、その他復興事業に専ら費消されることとなり、新規石油・天然ガス開発
投資に資金を振り向ける余裕は全くないものと考えられる。従って、その意味からは、将
来のイラクの新規石油・天然ガス開発事業が資金面でも、また最先端技術導入の面において
も、国際石油会社に依存して行かざるを得ない状況が続くものと結論づけられる。
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