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見る/開く - ROSEリポジトリいばらき

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見る/開く - ROSEリポジトリいばらき
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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ファンタジー童話における「幻想体験」の意味 ―宮沢
賢治『注文の多い料理店』を中心に―
鈴木, 亜季子; 昌子, 佳広
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術), 65: 3954
2016-03-28
http://hdl.handle.net/10109/12956
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します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。
お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)65 号(2016)39 - 54
ファンタジー童話における「幻想体験」の意味
―宮沢賢治『注文の多い料理店』を中心に―
鈴木亜季子 *・昌子佳広 **
(2015 年 11 月 18 日受理)
Connotation of fantastic experience in fantasy stories
―In the case of Miyazawa Kenji's "The Restaurant of Many Orders"―
Akiko SUZUKI * and Yoshihiro SHOJI *
(Received November18, 2015)
1 「ファンタジー童話」の基本構造
ファンタジーという外来語は,一般に「空想」とか「お伽噺」「とりとめのないこと」など
の意味で使われる。そのために,文学の一形式を示す「ファンタジー」も,何やらとりとめの
ない物語のことだと誤解されやすいようである。
(昭和 54)年に編んだ『ファンタジー童話傑作選1』1)の末尾に記した「解
これは,佐藤さとるが 1979
説」の冒頭である。佐藤は,日本各地に伝わる小人譚―小さな人の登場する民話や言い伝え。「一
寸法師」もこれに属する―に関心を持ち,アイヌの伝説と日本神話(『古事記』)に登場する少彦名
命(すくなひこなのみこと)のイメージから創造した「小さな人」たちの世界と現代の人々との交
流を描いた「コロボックル」シリーズで知られる児童文学作家であり,児童文学の研究者でもあった。
シリーズの第 1 作となった「だれも知らない小さな国」が出版されたのは 1959(昭和 34)年のこ
とで,この同じ時期頃から,いぬいとみこや長崎源之助といった児童文学作家が,いわゆるリアリ
ズムに基づくストーリーとは異なる,非現実的・超自然的な事象が起こる物語や,現実世界とは異
なる空想世界を舞台とする物語などの作品を数々発表することになる。それらの作品は,
「メルヘン」
や「ファンタジー」などの名称で呼ばれることになるが,上記の佐藤の言うように,何となくとり
とめのない話,空想的な話という漠然としたイメージの中で,時に「メルヘン」と言ったり時に「ファ
ンタジー」と言ったりして,区分が曖昧なままであった。佐藤が前掲書を編んだのは,そうした区
分のあり方を,作品そのものを通して提示し読者とともに検討したいという意図に基づいたようで
ある。
*茨城大学大学院教育学研究科研究生.
** 茨城大学大学院教育学研究科国語教育専修,茨城大学教育学部附属教育実践総合センター.
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)65 号(2016)
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今日,児童文学研究界においても,それらに対する区別にはやや曖昧なところがある。例えば『児
童文学事典』2)には「ファンタジー」「メルヘン」のそれぞれの項目が設けられているが,その説
明記述には相互に重なり合う部分があって,区別は明確でない。「メルヘン」に対する説明記述に
おいて,「ファンタジー」との境目は曖昧である,とさえ書かれている。したがって,一般におい
てはなおいっそうそれぞれの言葉が曖昧に用いられており,「メルヘンチック」「ファンタジック」
のような和製英語(和製独語)も横行している。それらはいずれも,「幼い」とか「かわいらしい」
あるいは「不思議な」「神秘的な」などの漠然とした感覚語として,文学作品に対してのみならず
さまざまな事物や現象に対して用いられる。例えば独特な形状をもつ建物や,商品のディスプレイ
の様子などに対して,である。殊に「ファンタジー」は近年かなり広い範囲で使用され,テレビア
ニメーションやゲームソフトなどの作品名称に用いられたり,映画作品のジャンル名称に用いられ
たりし,これらにおいても,現実とは異なる空想世界が描かれたり,魔術や魔法が登場したりさえ
すれば,それらをすべて「ファンタジー」の一言で括るような傾向が見られる。
本稿で言う「ファンタジー」は,佐藤さとるの言うところの「文学の一形式として」のそれであ
り,明確な定義が与えられるものである。佐藤は,「ファンタジー」を「メルヘン」と対置する形
で次のように説明している 3)。
①メルヘンの世界は一次元性である。
②メルヘンの登場人物は類型から出ない。
③メルヘンの世界は,人々の心の内面にある共通の非現実を,そのまま外に持ちだして広げ
たものと考えられる。
おそらく,メルヘンの特質はほかにもあるにちがいないが,この三つだけ抜き出したのには
理由がある。つまり,これらが原則としてファンタジーの対極にある特質と思えるからだ。
①に対して,ファンタジーの多くは二次元性の物語世界を持っている。
②に対して,ファンタジーの登場人物は,内面世界を持った個性として描かれる。この点で
リアリズムの申し子といえる。
③に対して,ファンタジーは一人の作者の心の中(内面世界)にはいりこんで物語る形式。
現在の児童文学研究界における「ファンタジー」の最も基本的な定義としては,この佐藤の言う
ところの「二次元性」が採用されることが多いようだ。「二次元性」を佐藤は次のように説明して
いる 4)。
二次元性の物語世界とはどういうことかというと,物語の中でも現実と非現実とは区別され
ていて,無定見にまぜ合わせたりしないのである。いわば二重構造になっていて,現実から非
現実へ,あるいは逆に非現実から現実に移り渡るにも,それなりの定則が用意されている。
一般の写実的文学作品は現実と同じ世界のもとに描かれていて,とうぜんながら非現実を排
除している。これも,もちろん一次元だが,メルヘンのように非現実を当たり前とした世界も
また,一次元である。それに対してファンタジーは,この両方の性格を兼ね備えている場合が
圧倒的に多く,二つの世界を結ぶためのくふうがさまざまになされる。
鈴木・昌子:ファンタジー童話における「幻想体験」の意味
41
つまり,「ファンタジー」では,我々が生きているのと同じ現実の枠組みが存在する世界があり,
その一方に非現実としての「幻想」
「空想」の世界が描かれ,現実と非現実は物語内で区別されている。
その二つの世界を移り渡ることでストーリーが形成されていく。これが「ファンタジー」の基本構
造であると言える。「メルヘン」の場合には,我々の生きている現実とは異なる物事が当初から物
語世界に組み込まれており,それがその物語世界における現実を形成するのである。
本稿で考察の対象とする「ファンタジー童話」は,素朴な意味で,こうした構造をもつ作品を指
すものであると,まずは明確に定義しておくこととする。
2 ファンタジー童話における「幻想体験」
前述の通り,ファンタジー童話では現実・非現実の二つの世界が描かれ,物語の主人公ないし物
語を語る一人称の語り手が,当初はあたりまえの現実世界におり,その後非現実の世界に移動する
か,非現実の世界からやってきた者と出会い,ひとまとまりの体験をした後に,再び現実に戻ると
いうのが基本的な筋となる。
言うまでもないことだが,「ファンタジー」は外来語であり,ここでとりあげるファンタジー童
話は我が国において発祥したわけではない。起源は海外の児童文学作品にあり,その具体的な作品
としては諸説あるが,よく知られた古典的な作品と言えるのが,イギリスの作家,ルイス・キャロ
ルによる「不思議の国のアリス」(1865 年発表)である。まずは,同作品をもとにして前述の基本
構造を具体的に確認してみよう。
主人公である少女アリスは,ある日,服を着て人の言葉を喋る白ウサギに遭遇し,その後を追い
かけてウサギ穴に落ちてしまった。その先には現実世界とは異なる不思議の国が広がっていた。しゃ
べる動物や動くトランプなどさまざまなキャラクターたちと出会いながらその異世界を冒険してい
く。が,一連のできごとはアリスが姉のひざを枕にして寝入ってしまった間に見た夢であった。夢
から醒めてアリスは現実に戻ったのであるが,アリスにとっては何日間にもわたる冒険であり,一
瞬の夢として片付けられないほどの体験であった。
日本においては,文学ジャンルとしての「ファンタジー」なる用語がひろく意識され始めたのは
いわゆる戦後のことであり,前述の佐藤さとるらの作品が昭和 30 年代前後から相次いで発表され,
それらがファンタジー童話の基本構造を備えるものであった。そうした作家たちは,
「ファンタジー」
の用語を使用し,意識的にそれに属する作品を生み出していたと言える。それらはもちろん,西洋
ファンタジーの単なる模倣にとどまるものではなく,日本独特の伝統的な価値意識などを持ち込み
ながら,独自の展開を遂げてきたと言える。戦後日本において創作されたファンタジー童話から,
ここでは今江祥智の「小さな青い馬」(1970 年発表)を以下に紹介する。
主人公はのぼるという少年である。母を亡くし,面倒見の良い父と二人で暮らしている。父は踏
切番の仕事をしており,月の半分は夜勤に出かけなくてはならない。父が不在のある晩,のぼるは
青く光る子馬に出会う。子馬は人の言葉を話し,父が不在の時にやってきてはのぼるを背中に乗せ
て野山を駈けめぐる。馬はのぼるが欲しがっていたものの一つであった。のぼるは子馬のことを口
外しないという約束を子馬と交わしていたが,ひょんなことから父に全てのことを話してしまい,
それ以来子馬は姿を見せなくなる。のぼるは,自分に寄り添ってくれる父に感謝しつつ,必死で悲
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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)65 号(2016)
しみをこらえる。やがて父から,来年から小学校に上がることになると告げられて元気を取り戻す。
その晩,夢に現れた母が,子馬と同じ目をしていることにのぼるは気づく。
繰り返しになるが,ファンタジー童話では,物語内における主人公や一人称の語り手が一時的に
現実とは異なる世界に身を置くか,異世界からやってきた何者かと交流をもつことが,物語の基本
的な筋をなす。ここでその体験を「幻想体験」と名づけることにする。そしてそれは,多くの場合,
主人公や語り手だけのものとして描かれ,その他の人には共有されない。また幻想体験には時間的・
回数的な制約があり,一回限りの,刹那的なものであることも多い。
では,その幻想体験は何によって起こり,体験者に何をもたらすのか。もちろんこの問題は個々
の作品によってさまざまであろうが,比較的よく見られるのは,幻想体験が体験者の内なる欲求(本
人に無自覚な場合も含まれる)に応じて立ち現れ,その欲求をある程度満たす形で体験がなされる
場合である。これは日本におけるファンタジー童話においては特に顕著な傾向であると見られる。
例えば先の「小さな青い馬」の場合で言えば,主人公のぼるは,優しく頼りがいのある父に見守ら
れて元気に暮らしてはいるが,母のいない寂しさを抱えており,しばしば亡くなった母の夢を見て
いる。しかし,顔を覚えていないために夢の中の母はその都度違う顔で現れる。町から離れて暮ら
しているので近所に友だちもおらず,独りで遊ぶしかない。弟がほしいと思っているがその願いが
叶うことは決してない。そして馬もほしいと思っている。後に幻想体験として出会った「青い馬」は,
ほしがっていた馬そのものでもあり,弟でもあり,友だちでもあり,仕事に出かけている間の父の
代わりであり,そして母でもあったということになる。つまり,のぼるが抱えていたさまざまな欲
求が「青い馬」という幻想になって立ち現れたのだという解釈ができるであろう。このようにファ
ンタジー童話における幻想体験によって,体験者は,自らの欲求が満たされた満足感や幸福感に一
時的に浸るということもあるし,自らは無自覚のうちに抱えていた欲求のありかに気づくこともあ
り,あるいはそうした欲求を抱える自らの愚かしさに直面するということもある。
本稿では,以上に述べた幻想体験がファンタジー童話においてどのような意味をもつものかを,
具体的な作品を通して考察し,これを通して,ファンタジー童話を分析・考察する一つの観点やそ
の方法論確立の一つの契機としたい。その具体的な作品として,宮沢賢治の「注文の多い料理店」
をとりあげる。
3 宮沢賢治のファンタジー童話
前述の通り,ファンタジー童話というジャンル,あるいはファンタジーという用語は,我が国に
おいては戦後(昭和 20 年代以降)に意識されたもので,佐藤さとる,いぬいとみこ,あまんきみ
こといった児童文学作家は自覚的にファンタジーの物語を創作することに努めたが,まだファンタ
ジーという用語が導入される以前,具体的には大正期・昭和初期の時点で,今日で言うところのファ
ンタジー童話と呼べる作品は既に生まれていた。例えば芥川龍之介は,当時既に作家として一定の
地位を築いていたが,1918(大正 7)年に創刊された我が国初の児童向け文学雑誌と言われる『赤
い鳥』に,編者の鈴木三重吉に請われて,児童向けの読み物として「蜘蛛の糸」「杜子春」などを
発表した。これら芥川の童話作品のうちの「魔術」は,特に典型的なファンタジーの枠組みを持っ
ており,佐藤さとるは芥川を評して「本格ファンタジーを創る素質を豊かに持っていた作家」5)と
鈴木・昌子:ファンタジー童話における「幻想体験」の意味
43
し,「魔術」を『ファンタジー童話傑作選』に収めている。
そして,芥川にやや遅れるが,宮沢賢治もまたこの時期にファンタジーと呼んで差し支えのない
作品を数多く書いていた。芥川と異なるのは宮沢賢治の場合はこの時点ではほとんど世に知られて
いない作家であり,『赤い鳥』に複数の作品を投稿するも一度も採用されることはなかった。宮沢
賢治の童話作品が注目されある程度の評価を得られるようになったのは没後のことであって,本格
的な評価は戦後に始まったが,今にしてみれば芥川とほぼ同じ時期において芥川以上に「本格ファ
ンタジーを創る素質を豊かに持っていた」と言えるだけの作品を書いていたのである。佐藤さとる
の『ファンタジー童話傑作選』には「月夜のでんしんばしら」が収められ,同作に対して佐藤は「(賢
治作品の)数多い短編の中には,ファンタジーとしてよい作がいくつもあり,この作品は特に見事
である。」6)とコメントしている。大正期という時期にあって,今日ファンタジー童話と呼んで差
し支えない作品を数多く書いていた宮沢賢治には強い興味を惹かれる。
宮沢賢治が童話の創作を始めたのは大正 7 年,22 歳の頃とされている。これは実弟清六氏の証
言に基づいており,
「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」などを読み聞かせられた記憶があると言う。
「蜘蛛となめくぢと狸」は後に「洞熊学校を卒業した三人」と改題・改作され,また「花鳥童話」
と題する童話集の構想メモにおいては,蜘蛛,なめくじ,狸のそれぞれのエピソードを独立させ別々
の作品とする考えもあったことがうかがわれるが,それらはいずれも生前未発表のままであった。
これらに始まる賢治の創作童話作品を何編と数えるかは,改題・改作された場合の作品の数え方,
断片や未完成のものを数えるかどうかなどによって異なるが,およそ 100 編内外となる。そのうち,
生前に発表されたのはわずか 19 編であった。生前に新聞や雑誌に発表した童話は 10 編あり,発
「やまなし」(大正 12 年 4 月),
「氷河鼠の毛皮」(同
表順に挙げると,
「雪渡り」(大正 10 年 12 月),
年同月),「シグナルとシグナレス」(同年 5 月),「オツベルと象」(大正 15 年 1 月),「ざしき童子
「猫の事務所」
(同年 3 月),
「北守将軍と三人兄弟の医者」
(昭和 6 年 7 月),
「グ
のはなし」
(同年 2 月),
「朝に就ての童話的構図」
(昭和 8 年 3 月)である。そして,
スコーブドリの伝記」
(昭和 7 年 3 月),
生前に刊行した唯一の童話集が『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』であり,発行年月日は大正
13 年 12 月 1 月である。ここには「どんぐりと山猫」「狼森と笊森,盗森」「注文の多い料理店」「烏
の北斗七星」「水仙月の四日」「山男の四月」「かしはばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」「鹿踊
りのはじまり」(掲載順)の 9 編をおさめた。
以上の生前発表作品 19 編において見てみても,賢治の童話作品は一つのジャンルのみにおさま
るものではなく,リアリズムに則った作品もあれば,現実世界とは異なる自然や動植物の世界を描
いたメルヘン作品もある。そして現実世界と非現実世界との二層からなるファンタジー作品も見ら
れる。生前未発表であり一部未完成とも見られるが,長編である点で代表作と見なされることの多
い「銀河鉄道の夜」は,主人公ジョバンニ少年の一夜の幻想体験を描いたもので,賢治作品の中で
は代表的なファンタジー童話であると言ってよいであろう。そこで,以下ではまず宮沢賢治作品に
おけるファンタジー童話のあり方について,「銀河鉄道の夜」の構成を中心として述べてみたい。
以下,本文の引用は『宮沢賢治全集7』7)による。
物語は「一、午后の授業」の場面から始まる。ジョバンニと親友カムパネルラらが天文学の授業
を受けており,銀河宇宙についての説明が行われている。これは後にジョバンニが銀河を旅する鉄
道に乗るという幻想の基となる。「二、活版所」では,ジョバンニが活版所で活字拾いのアルバイ
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トをしており,同級生たちから疎外され,周囲の大人たちからもいくぶん冷ややかに見られている
という不憫な状況が描かれる。その状況は「三、家」でもさらに強調され,母親が病床にあり,父
親は長く不在であること,その理由が投獄されているからだという噂が広まっていることなどで,
いっそうジョバンニの疎外感と孤独感とが強められていく。そんな中,母が飲むための牛乳が届い
ていないので,ジョバンニが受け取りにいくことにする。それは「星祭り」が行われる晩のことで,
ジョバンニが牛乳屋へ向かう中,町は賑やかに沸き立っている。その喧噪の中にジョバンニと同級
の子どもたちもおり,一人の友達がジョバンニを冷やかすような言葉をかける。カムパネルラは少
し気の毒そうに笑ってジョバンニを見つめたが,その目線から逃げるようにして,ジョバンニは「黒
い丘の方」へ向かう。
ここまでで,ジョバンニ少年の現実生活が活写され,その置かれた不憫で孤独なありさまが描か
れる。そうした状況から逃避して一人丘に上り,草の上に体を投げ出したジョバンニは,町を走る
鉄道の音に耳を傾け,そして空を見上げて昼間の授業で習った銀河の様子を思い浮かべる。すると
そこで不思議なできごとが起こる。
するとどこかで,ふしぎな声が,銀河ステーション,銀河ステーションと云ふ声がしたと
思うといきなり眼の前が,ぱっと明るくなって,まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石さ
せて,そら中に沈めたといふ工合,またダイアモンド会社で,ねだんがやすくならないために,
わざと穫れないふりをして,かくして置いた金剛石を,誰かがいきなりひっくりかへして,ば
ら撒いたといふ風に,眼の前がさあっと明るくなって,ジョバンニは,思はず何べんも眼を擦っ
てしまひました。
気がついてみると,さっきから,ごとごとごとごと,ジョバンニの乗ってゐる小さな列車
が走りつづけてゐたのでした。ほんたうにジョバンニは,夜の軽便鉄道の,小さな黄いろの
電燈のならんだ車室に,窓から外を見ながら座ってゐたのです。
丘の上に寝転んでいたはずのジョバンニはいつの間か鉄道の客車に乗っている。ここからが
ジョバンニの幻想体験となる。向かいの席には濡れたような黒い服を来たカムパネルラが乗って
おり,ジョバンニは二人で誘い合わせてここに来たのだと思うが,「何か忘れたものがあるとい
ふやうな,をかしな気持ち」になる。そして二人は一緒に銀河宇宙を走る旅をすることになる。
途中でさまざまな人に出会い,車窓からさまざまな光景や出来事を目撃しながら続く旅のなかで,
これは死者を天上へ運ぶための鉄道なのではないかと思わせるが,そのことは明言されず,ジョ
バンニもそのことには気づかない様子である。カムパネルラとはジョバンニはお互いの友情を確
かめ合うような会話を交わしていくが,やがて窓外を見ていたカムパネルラが自分のおっかさん
が居る,と言い,ジョバンニもそちらに目を向けるが何も見えず,再び車内に視線を戻すとカム
パネルラの姿がない。慌てて立ち上がり,窓外に体を乗り出して叫ぶと,ジョバンニの視界が暗
転する。
ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむってゐたのでした。胸
は何だかをかしく熱り頬にはつめたい涙がながれてゐました。
鈴木・昌子:ファンタジー童話における「幻想体験」の意味
45
ジョバンニはばねのやうにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの
灯を綴ってはゐましたがその光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたっ
たいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平
線の上では殊にけむったやうになってその右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき,そら
ぜんたいの位置はそんなに変ってもゐないやうでした。
目を開けたジョバンニは現実の世界で寝転んでいた丘の上に戻っている。さっきまでの銀河鉄道
の旅は,
「ねむっていた」間に見た「夢」だったのだと自覚する。この後,丘を下りて川の近くまで行っ
たジョバンニは,カムパネルラが川に落ちた友達を救おうと自らも川に入り,友達は助かったがカ
ムパネルラはそのまま上がってこないことを聞く。カムパネルラの父は冷静に息子の死を覚悟して
いる。ジョバンニは,カムパネルラの父に,カムパネルラの行った方を知っていると言おうとする
が,カムパネルラの父から礼を言われ,さらにジョバンニの父から便りがあり,間もなく帰ってく
るであろうと告げられる。ジョバンニはこうしたいろいろのことで胸がいっぱいになり,家に向かっ
て駈けていく。
以上に見るように,「銀河鉄道の夜」は,現実の世界から始まり,主人公が非現実の世界で幻想
的な体験をし,再び現実の世界に戻るという展開を辿る,ファンタジー童話の基本的な構成となっ
ている。本作は原稿に一部空白の部分なども見られ,前述の通り未完成,改稿過程にあったものか
もしれない。ここに述べたのは生前のいわゆる「最終形」に基づいているが,改稿過程においては,
後年「ブルカニロ博士形」と呼ばれている原稿があり,それは,ジョバンニが銀河鉄道の旅から現
実に戻った際,「ブルカニロ博士」なる人物が現れて,銀河鉄道の夢は「遠くから私の考えを人に
伝える実験」だったとジョバンニに明かすという展開であった。「最終形」ではこの展開が削除され,
「博士」はカムパネルラの父の呼称に用いられている。「ブルカニロ博士形」でもファンタジーの構
成をもつことに変わりはないが,ジョバンニの幻想体験が他者たる「ブルカニロ博士」の実験であっ
て,ジョバンニはその被験者であったという展開であるよりも,ジョバンニの内的な動機によって
その幻想体験が発生したものと解釈できる「最終形」の方が,ファンタジーの基本構造をよりよく
体現していると言えるだろう。
以上,代表的な作品として「銀河鉄道の夜」を取り上げたが,宮沢賢治はある程度意識的にファ
ンタジーを創作していたことがよく理解できるであろう。複数の先行研究の中で,賢治が「不思議
の国のアリス」などの海外のファンタジーに精通し,その影響を受けていたことが指摘されている。
例えば谷本誠剛の『宮沢賢治とファンタジー童話』8)では,「銀河鉄道の夜」が「主人公の子供が
現実界から出発して幻想の別世界に入り込み,しばらくの時を過ごしたあと,再び現実にもどって
くるというパターンを取る物語」として「ファンタジーの定型に従っている」としたうえで,それ
が既に宮沢賢治が読んでいたであろう「不思議の国のアリス」の強い影響下にあると見て,両者の
比較に基づく考察を試みている。その考察の結果,谷本はこの作品を「児童文学のファンタジーの
枠外に出てしまった」
「児童文学のファンタジーの域を超えたもの」と位置づけているが,ともあれ,
宮沢賢治は,西洋文学の手法を取り入れながら,日本の風土や伝統的な価値観などを盛り込み,独
自の作品世界を創り上げた稀有な童話作家であったと言えるであろう。
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4 童話集『注文の多い料理店』
『注文の多い料理店』は宮沢賢治の生前に刊行された唯一の童話集であったが,よく知られてい
るように,半ば「自費出版」のような刊行形態であり,必ずしもひろく読まれたわけではなかった
ようだ。また,刊行に至るまでには紆余曲折があったらしいことも知られる。例えば,ある時点の
刊行予告においては,「山男の四月」が童話集のタイトルに据えられており,作品配列も異なって
いた。6 種類の配列が検討されたらしいことがわかっているが,最終的には前節に記した配列とな
り,全体のタイトルに据えられたのが「注文の多い料理店」であった。「注文の多い料理店」は一
作品名にとどまらず,童話集の“看板”にもなったわけである。
これもよく知られる「序」の一節を以下に改めて見ておこう 9)。
これらのわたくしのおはなしは,みんな林や野はらや鉄道線路やらで,虹や月あかりから
もらつてきたのです。
ほんたうに,かしはばやしの青い夕方を,ひとりで通りかかつたり,十一月の山の風のなか
に,ふるへながら立つたりしますと,もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほ
んたうにもう,どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを,わたくしはそ
のとほり書いたまでです。
『注文の多い料理店』におさめられた作品は,本稿で言う「ファンタジー」の形式を備えたもの
もあれば,「メルヘン」に属するものもある。この「序」において宮沢賢治は,自らがこれらの作
品を創作したというよりも,「林や野はらや鉄道線路やらで,虹や月あかりからもらつた」もの,
つまり作者自身の幻想体験として,自然とわき上がってきた物語を書きつけたものだと言ってい
る。これはもちろん一種の「コピー」
(広告)のようなものであるかもしれないが,このような「序」
を置くことによって,この童話集全体が「ファンタジー」の性質を帯びていることを方向づけるで
あろう。前述の通り,童話集におさめる作品は,配列順序こそ定まっていなかったが先の 9 編であ
ることは一貫して変わらず,しかし童話集全体のタイトルについては二案があったことがうかがわ
れ,最終的には『注文の多い料理店』が選ばれた。一時的に童話集のタイトルに据えることが検討
されたらしい「山男の四月」は,人間とはどうやら異なる「山男」が,木樵に化けて人の町へ行く
と「支那人」に会い,少し怖い思いをするがそれがすべて夢であった,という,端的に言ってよく
意味のわからない,不可思議な話である。印象としてはまさに幻想の断片のような,緻密に構成さ
れたとは一見思われないような作品で,本書刊行に際して作られた広告チラシにおける,作者自身
によるものと思われる作品解説には「四月のかれ草の中にねころんだ山男の夢です。(改行)烏の
北斗七星といつしょに,一つの小さなこゝろの種子を有ちます。」と書かれているが,この解説文
の趣旨もよくわからない。これに比較すると,作品「注文の多い料理店」は,後にも確認するよう
にかなり緻密に構成され,まとまりのある,筋の通った物語になっており,作者自身の意思につい
ては確認しようもないが,今日の多くの読者には完成度の高い作品として受け止められるだろう。
また,物語内で「二人の紳士」に対して次々と「注文」が出されるというのが主要な筋をなすが,
扉を開けるたびに新たな「注文」に出会っていくさまは,一冊の本の中に複数の作品が並べられ,
鈴木・昌子:ファンタジー童話における「幻想体験」の意味
47
頁をめくるたびに次の作品に出会っていくことになる童話集の体裁そのものを連想させる。このよ
うな意味において,「注文の多い料理店」を童話集のタイトルに据えたことは成功であったと思わ
れる。
「注文の多い料理店」は,既に述べたように,緻密に構成された完成度の高い作品であるが,はっ
きりと「ファンタジー」の形式を備えていることも確認できる。次節以降では,本稿の目的に沿っ
て,「注文の多い料理店」の内容・構造等を確認しながら,それが本稿で言うファンタジー童話の
枠組みに則っていることを把握したうえで,さらに物語内における「幻想体験」の意味について考
察し,本作品の特性を明らかにしていきたい。
5 「注文の多い料理店」の内容と構成
以下,作品本文の引用は『宮沢賢治全集8』10)によるものとする。
まず物語の「語り」について確認すると,いわゆる三人称客観視点で語られている。即ち,基本
的には第三者の視点から話の中の状況や様子を客観的に語っているが,語り手が登場人物の心情に
寄り添う形で語られる箇所もいくつか見られる。その場合,寄り添う対象は「二人の紳士」である
が,彼らの心中に入り込み,寄り添う語りはそう多くない。したがって,全体としては三人称客観
視点によって語られたものと捉えることとする。
登場する人物たちは,「二人の若い紳士」である。「紳士」という言葉は,上流社会の男性,また
は上品で教養があり礼儀正しい男,と意味づけられる。物語内部の時代において,この登場人物た
ちは社会的に高い階層にいる人々,もしくは上品さや教養をもちあわせている人物たちであるとい
うことになる。さらにその風貌は「イギリスの兵隊のかたちをして」おり,「ぴかぴかする鉄砲を
かついで」いるという。二人の紳士の国籍については明記されていないが,のちに「山猫軒」とい
う料理店の看板が日本語で登場すること,終盤に二人が「東京」に帰っていることから,二人は日
本人,それも都会の住人であると推測される。日本の人々が西洋の兵隊の格好をしているというこ
とになるが,物語内において上流階級の人々が西洋に憧れていた,もしくは西洋のステータスをと
りいれていた時代であったということだろうか。また,二人が所有している「鉄砲」は,兵隊とし
ての武器ではなく,狩猟として使用するためだということが,二人の会話から読み取れる。そして,
その狩猟は彼らの職業ではなく,趣味の一環であることが「なんでも構はないから,早くタンタアー
ンと,やつて見たいもんだなあ」,「ずゐぶん痛快だろうねえ。」といった発話から分かる。それだ
けでなく,二人が生き物の命を奪うことに関して何の躊躇や思慮もみられないこと,それどころか
狩猟に楽しみや喜び,快感を覚えていることが読み取れる。趣味として狩猟を楽しむ人は現在でも
いるが,時代によっては上流階級が嗜好するステータスの一種のイメージもある。また,連れてき
ていた犬が死んでしまったことに関して,「~円の損害だ。」と発言していることからも,二人が生
物に対する愛着が薄いこと,それよりも金銭や損得の意識が強いことなどがうかがえる。この点で,
先に述べた「紳士」なる言葉の意味,「上品さや教養をもちあわせている」とはお世辞にも言えそ
うにない,逆に「俗」的な人物として設定されているように思われる。
二人が狩猟に来た場所は,「だいぶ山奥の,木の葉のかさかさしたとこ」であり,そこは「だい
ぶの山奥」で,共についてきたはずの「案内してきた専門の鉄砲打ち」も「ちよつとまごついて,
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どこかへ行つてしまったくらゐ」であり,つれてきていた「白熊のやうな犬」二匹も,「めまひを
起こして,しばらく吠つて,それから泡を吐いて死んでしま」うほどに,
「あんまり山がものすごい」
状態であったと表現されている。山のすごさに犬が泡を吐いて死んでしまう,というのはどこか現
実味がなく,異常さを感じるできごとである。物語の舞台であるこの山は,全体が幻想体験の起こ
るフィールドであり,「ものすごい」という表現や,「鳥もけものも一ぴきもいやがらん。」という
紳士の発話からわかるように,私たちが知るような普通の山ではなく,異質な,動物も存在しない
ような場所であるということが感じられる。二人の紳士がこの山に入った時から,つまり物語本文
においては最初から,既に幻想体験がはじまっていたと考えるべきであろうか。
「山」や「森」などは,ファンタジー童話作品において幻想の起こるフィールドとして多用される。
西洋における多くのファンタジー作品の中で山や森は舞台として用いられており,日本における作
品においてもその西洋からの印象が受け継がれているようだ。例えば安房直子の「きつねの窓」では,
主人公が山で道に迷ったことから物語が始まり,その後ききょう畑を見つけ,不思議なきつねの子
どもに出会うことによって幻想体験が語られる。また,神沢利子の「銀のほのおの国」でも,トナ
カイはやてを追って,兄と妹が最初に辿り着いた幻想の世界は山の中であった。「山」は「里」つ
まり人が住み生活を営む場所とは異なる「異界」であるという観念は日本にも古くから存在するも
ので,昔話でも鬼や山姥などが山に住み,時に人里にやってきたり,山に侵入した人を襲ったりする。
現在でも山や森という場は未開の地であることが多く,未知なる生物の存在が噂されるなど,フィー
ルド全体が神秘性や幻想性を有し,その中に入り込んだ人々を迷わせ,惑わせ,さまざまな幻想体
験を経験させてくれる場であると考えられる。その意味で,山に入っている二人の紳士は,既に現
実の世界から離れ,異世界に足を踏み入れてしまっているのだ。
犬が死んでしまったことによる損害の悔しさを覚え,興ざめしたのか,二人の紳士は顔色を悪く
し,戻ろう,切り上げよう,と言い,宿屋で動物を買って帰ろうとする。しかし,困ったことに,
帰り道の見当が二人にはいっこうにつかない。そのとき,「風がどうと吹いてきて」,周りの木々を
鳴らす。「風」もファンタジー文学作品では多用される現象の一つで,大きく強い風であったり,
突風であったりと,時に不自然な形で起こる「風」によって場面の切り替わりが為され,幻想世界
への入り口や,幻想体験が起こるきっかけの役割を担うことが多い。本作品でも,この風がふいた
ことをきっかけに,物語が大きく展開し始める。
空腹の二人の紳士は,ふと「西洋造りの家」を見つけ,「西洋料理店 山猫軒」と書かれた看板
を見,少し何故このような場所にあるのか,と疑問をもつものの,あまりの空腹から,願ったり叶っ
たりだと喜ぶ。「西洋」風の建物に,「西洋料理店」と,西洋に憧れを抱いている二人の紳士に関心
をもたせ,誘導しているかのようである。玄関に書かれていた「どなたもどうかお入りください。
決してご遠慮はありません。」という言葉を,彼らは「たゞでご馳走」してくれるのだと自分たち
の都合のいいように捉え,ひどく喜ぶ。疑いの様子もなく,むしろ幸運だとすら感じている。次の
言葉は「ことに肥つたお方や若いお方は,大歓迎」するとあり,これにも二人は何の疑いもなく,
自分たちはこの条件にぴったりだとひどく喜ぶ。廊下を進んでいくとまた同じように扉があったた
め,一人の紳士がさすがに疑問をもつが,もう一人が「これはロシア式だ。」と言い,納得させる。
知ったかぶりにも思える西洋への憧れは,二人の思考を盲目的にさせてしまっているようである。
(ロシアは日本からすれば西洋と見る場合が多い。)そして,「当軒は注文の多い料理店ですからど
鈴木・昌子:ファンタジー童話における「幻想体験」の意味
49
うかそこはご承知ください。」とあり,タイトルの言葉が登場する。この時二人の紳士は,当然客
側からの注文が多いのだと解釈し,山の中で隠れ家のようになかなかにはやっている店なのだと考
える。その後の「注文はずゐぶん多いでせうがどうか一々こらへて下さい。」という言葉に少し驚
くが,これは注文が殺到して料理の支度が手間取るというお詫びなのだというように捉える。ここ
でもまた,彼らは辻褄合わせのように都合よく言葉の意味を捉えている。一方で,料理店の主の言
葉はずいぶん腰が低いようにも感じられる。後にこれらの言葉は全て紳士を誘い込むための,偽り
ではないが巧妙にその真意を隠した言葉なのだとわかってくるが,疑いをもたれないように,ずい
ぶん用心し言葉を選んでいるようにも感じられる。
料理店からの最初の「注文」は,
「髪をきちんとして,それからはきものの泥を落してください。」
というものだった。二人の紳士は,偉い客も多く,作法の厳しい店なのだと何の疑いもなくそれに
従う。この「注文」はそう考えると決して不自然なものではないが,二人が使い終わったブラシを
置くと,それは「ぼうつとかすんで無くなって,風がどうつと室の中に入って」いったのである。
この不思議な現象に驚き,ややおびえながらも,次へ進むと,次の「注文」には「また変なこと」
が書かれており,「鉄砲と弾丸をこゝへ置いてください。」とあった。これにも二人は疑問をもつこ
となく,作法の一つだと捉えて素直に従う。次には「どうか帽子と外套と靴をおとり下さい。」とあり,
一人の紳士が「どうだ,とるか。」と判断を仰ぐともう一方の紳士が「仕方ない」と言い,よっぽ
ど偉い人が来ているのだと答える。この辺りでは二人がだんだんと躊躇し始めている様子がうかが
える。次では,
「金物類,ことに尖つたもの」を置いて行けという「注文」であった。金庫や鍵もあっ
たことから,貴重品を回収するかの如く二人はすっかり信じ,「何かの料理に電気をつかうと見え
るね。」「帰りに勘定はこゝで払ふのだらう」と辻褄を合わせ,またしても「注文」に従う。
次にきた「注文」は「壺のなかのクリームを顔や手足にすつかり塗つてください。」というもの
で,次の部屋でも塗り忘れた箇所がないか念押しするほど,強く「注文」してくるのであった。だ
が二人は,クリームはひび割れ防止のものだととらえ,疑うどころか「こんなとこで,案外ぼくら
は,貴族とちかづきになるかも知れないよ。」と言っており,彼らの強欲さなども垣間見えてきて
いる。だんだんと二人が空腹にしびれをきらせてきたところで,ちょうどその気持ちを汲んだかの
ように「料理はもうすぐできます。十五分とお待たせはいたしません。すぐたべられます。」とあり,
さらに香水をふりかけろという。香水とはいかにも身だしなみをよくするためのアイテムではある
が,その香水はどうも酢くさく,明らかにどこかおかしい。それでも下女が間違えたせいだとまた
しても辻褄を合わせる。一度に様々な「注文」をするのではなく,内容を細切れにして,一つ一つ
の部屋で「注文」を課すようにしており,それは紳士を巧妙に導くものであると同時に,読者側に
は,繰り返しによるテンポの良さや,コミカルさなどを感じさせる。本作品は数多く絵本形態での
出版もなされているが,ほぼ例外なく,頁をめくるごとに次々と「注文」が出されていくような体
裁で製作されており,読み進めていく面白さも誘う効果的な編集がなされている。
さて,数々出されてきた「注文」であるが,「いろいろ注文が多くてうるさかつたでせう。お気
の毒でした。もうこれだけです。どうかからだ中に,壺のなかの塩をたくさんよくもみ込んでくだ
さい。」という「注文」が現れる。ずいぶん気を遣った丁寧な物言いだが,今度という今度は二人
の紳士も従うことができなかった。どうもおかしい,と言い合い,ここで「注文」とは客側からの
注文ではなく,店側から客にむけての注文であるのだと気付くのである。そして,この西洋料
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理店が,来た客を西洋料理にして食べてしまう家なのだと悟り,怯えはじめ,もう物も言えなくなっ
てしまう。逃げようとするも後ろの扉は既に開かず,奥の方には,化け物が二人を食べようと待ち
構えているのであった。周りでこそこそと話す複数の会話によって事の真相が紳士にも読者にも判
明し,とうとう自分たちが食べられてしまうと悟った二人は,「あんまり心を痛めたために,顔が
まるでくしやくしやの紙屑のやうになり,お互にその顔を見合わせ,ぶるぶるふるへ,声もなく泣」
いてしまうのだった。「くしやくしやの紙屑」のような顔は,これまでに経験したことのないほど
の恐怖や悲しみによってゆがめられた顔なのだろう。「二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きまし
た。」と,反復を用いて,彼らがあまりの恐怖に声も出ず涙を流し続けるしかなかった様子が読み
とれる。
その時,物語の冒頭で死んでしまったはずの白熊のような犬が二匹,その場へ飛び込んで来,奥
の扉へと飛びつく。すると,「にやあお」と,いかにも猫の鳴き声のようなものが聞こえるが,こ
こで料理店の名前からも,二人を食べようとしていた化け物が「山猫」なのではないかと思わせる。
猫にとって犬は天敵と言えるだろうが,この犬の登場によって,「室はけむりのやうに消え」,幻想
体験は終わりを迎える。二人の草原の中に立っており,脱いだ服などはあちらこちらに散らばって
いる。そしてまた料理店が現れた時と同じように,風がどうと吹き付ける。犬が戻り,いなくなっ
てしまったはずの「専門の猟師」の二人を探す声を聞きつけ,元気を取り戻し,やっと安心する。
犬は死んでいたわけではなく,猟師も比較的近くに存在していたことからすると,やはり二人は物
語の冒頭から既に幻想の世界に足を踏み入れてしまっていたということになるのだろう。その後二
人は猟師が持ってきた団子を食べ,予めに言っていた通りに宿屋で山鳥を買って「東京」に帰って
いった。あれだけ酷い目に遭っても,何らかの獲物を持ち帰らなければならなかったのは,やはり
彼らの精一杯の見栄だったのだろうか。
物語は,「しかし,さつき一ぺん紙くづのやうになつた二人の顔だけは,東京に帰つても,お湯
にはひつても,もうもとのとほりになほりませんでした。」と締めくくられる。恐怖や様々な感情
が表れた二人の顔は,若いはずなのにくしゃくしゃのしわだらけになり,この体験を忘れさせない
ようにするがごとく,直らずにとどまっているのである。彼らは一生その顔をもって暮らしていか
なければならない。上流階級にあって「紳士」を気取る彼らにとって,これほどおそろしいことが
あるだろうか。 死よりもおそろしい罰を,彼らは受けたと言える。いや,あるいはその顔こそが
彼らの本当の顔だったのかもしれない。山での体験は彼らの虚飾で固めた表の顔を,仮面であった
ごとく引き剥がし,醜い本性を顕わにさせたとも言えるだろう。問題は,彼らがそのことをどう受
け止めたか,である。物語を締め括る最後の一節は,読者に対して,この一連のできごとへの批評
を迫るもののように思われる。
以上,筋を追いながら「注文の多い料理店」の内容と構成を見てきた。再三述べてきたように,
「注
文」などが二重の意味を帯びる形で緻密に組み立てられ,幻想体験の始まりと終わりにまるで何か
の「サイン」であるがごとく「風がどうと吹いてきて,草はざわざわ,木の葉はかさかさ,木はご
とんごとんと鳴りました。」と全く同じ一節が配置されるなど,作品構成上の工夫も垣間見られる,
極めて完成度の高い作品であることが確認できたであろう。
次節では,当作品のもつ「ファンタジー童話」としての特性についてさらに考察を加え,また当
作品における「幻想体験」がどのような意味をもつものであったかなどについて検討してみたい。
鈴木・昌子:ファンタジー童話における「幻想体験」の意味
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6 「ファンタジー童話」としての「注文の多い料理店」
(1)教訓性
本作品からは強い教訓性が読みとれると考えられる。幻想体験者である二人の紳士の性格,傾向
に着目すると,西洋かぶれ,自己顕示欲が強い,狩猟を趣味とし生き物を尊ぶ気持ちが薄いなどの
特徴があげられると考えられる。客観的に見て,二人は「紳士」と呼ばれるにふさわしい人物たち
であるとは感じにくい。むしろその呼び方に皮肉ささえ感じられる。そんな二人をこらしめてやろ
う,痛い目を見せてやろうとする気持ちは自然に生まれるだろう。更には二人が殺生する側の動物
側の山猫による人間側への逆襲,などの意図が作品の中に含意されているとも考えられる。多くの
読者がこの作品をそのような主題をもつとしてとらえて読むものと想定される。
(2)幻想体験のあり方
本作品は,その幻想世界に起こるできごとがスリリングに展開し,読者を大いに楽しませてくれ
る。特に,本作品のテーマとなっているのは「注文」である。注文する側,料理を食べる側の逆転
が本作の要であり,その繰り返しによってだんだんと怪しさが募り,真相が明らかになっていくと
いうスタイルである。先に,本作は二人の紳士がこの山に入った時から,つまり物語本文において
は最初から既に幻想体験がはじまっていたと考えられる,と述べた。確かに犬の死などは現実的に
考えて怪しさが感じられるが,山猫のいる西洋料理店そのものは,現実世界に通常存在するもので
あり,山奥にあることが少々気になるが,なんら不思議なことはない。店に入ったさいの店側から
の「注文」も同様に現実的なものである。それがだんだんと辻褄が合わないようになってくるのだが,
初めの方の「注文」の内容自体は現実にもあり得る内容なので,怪しさを感じにくい。むしろ疑い
を感じさせないように,なんとか現実的に,人間の常識に合わせるように取り繕っているようにも
感じられる。読者も初読の段階ではその暗示にかけられてしまうのではないだろうか。また,本作
において特に幻想の住人として印象の強い存在として出現するのは「山猫」であるが,その存在は
終盤まで登場してはこない。繰り返しになるが,「注文」自体は現実に起こり得ることの範囲内で
あり,本作に見られる幻想は,何か魔法的なもの,異世界的なものなどをとりあげて用いるのでは
なく,あくまで現実世界にも起こり得ることをコミカルに用いることによって,面白さをより引き
出し,読み手の身の周りでも起こり可能性があるかもしれない,と思わせる効果をもつと考える。
(3)幻想を操る者の存在
さて,幻想世界の住人として登場してくるのが「山猫」である。
本文においては,二人を食べようとした存在の正体を明記されてはいない。しかし,二人を見る
鍵穴からの「二つの青い目玉」,そして店名である「山猫軒」は,正体が「山猫」であることを強
く印象づけるであろう。猫と言うと今日では飼い猫のイメージが強いが,ここで言う「山猫」と
は,山に住む猫,野生に近い猫ということだろうか。この山猫が登場するような物語や小説は他に
も少なくなく,賢治の作品においても「どんぐりと山猫」が挙げられる。同作品では,主人公「一
郎」を幻想の世界に招待する,必ずしも好意的とも言えないがさりとて敵性をも有しない存在とし
て登場する「山猫」だが,「注文の多い料理店」における「山猫」は幻想体験者たちにとっての明
確な“敵”としての役割をもつことになる。人間に飼い慣らされていない猫,野生の猫であるうえ
に,いわゆる「化け猫」の要素も含まれているようだ。「化け猫」は日本の妖怪の一種であり,そ
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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)65 号(2016)
の名のとおり猫が妖怪に変化したものであるとされており,日本各地でその伝説が残されている存
在である(「猫又」と呼ばれる妖怪も存在するが,その区別はあいまいだとされている)。本作にお
ける「山猫」たちは,人間世界から離れた山奥で暮らしているようであるが,人間の言葉を巧みに
あやつり,話すこともできる。これは,人を化かすことを生業としている化け猫,幻想の生き物で
あるからこそ所有しているスキルであると考えられる。そして,妖怪として伝えられている化け猫
のように,本作においても人を襲い,自分の腹の肥やしにしようとしているのである。伝説として
伝えられる「化け猫」たちは,人に変化したり,人にとり憑いたり,腕力と巨体をもって人を襲っ
たりと,その行動は様々である。本作の「山猫」たちを見てみると,紳士たち人間の気持ちを鋭く
読み取った上で,彼らに疑いをもたせないよう細心の注意を払いながら「注文」の文言を考え,人
間自ら自分たちの腹の中に入ってくるように騙そうとする。
(4)幻想体験者の設定
本作の幻想体験者は「二人の若い紳士」である。ファンタジー童話における幻想体験者は,年齢
の低い子どもであることが多い。またその人数は単独であったり,複数であったりするが,複数の
場合,兄弟関係であるなど近しい関係同士であることが多い。本作では,「二人の若い紳士」と,
年齢ははっきりと明記されていないが大人の男性であり,また二人の関係は,同じく都会に住み,
同じ趣味を共有する友人同士であると推測する。そしてその「二人」には,敢えて性格上の区別を
つけられていなように思われる。では,なぜ「二人」であるのか。その意味は「会話」によっても
たらされると考えられる。本作は店側から「注文」を受け,それを二人の紳士が都合よく解釈して
従っていく形のくり返しであるが,二人の会話は一方が疑問を投げかけ,一方が都合よく辻褄を合
わせる,というスタイルであり,それはさながら一人の人間が頭の中で様々な考えによって葛藤す
るさまそのものであるように感じられる。不審な点に疑問をもちつつ,空腹や疲れも相まって,都
合よく物事を解釈しようとする人間の中での葛藤を,人物を二人登場させて,会話をさせることで
表現しているのではないかと考えられる。また,山奥にある料理店に疑問や不信感をもったはずだ
ろうに,その中へと入ってしまったのは,もちろん空腹感のせいもあるだろうが,一人孤独ではな
かった,二人であったからこそ,気持ちが大きくなり,恐怖や不安などを薄れさせ,自然に幻想へ
と誘わせる効果もあるのではないかと考える。
(5)幻想体験の意味
ファンタジー童話における幻想世界は幻想体験者の欲望や願望を基にして,その幻想体験者の力
によって生み出されるものであると考えられる例が多い。つまり,「~したい」という感情(意識
的にも無意識的にも)に応えるようにして幻想世界がつくられ,そこでの体験によってその望みは
叶えられ,満足させてくれる。それによって登場人物の内面にも変化が表れる,というようにその
仕組みを捉えられる。だが,本作はそれにはあてはまらない。その点で,本作における幻想体験の
意味,さらにはファンタジー童話一般における幻想体験の意味を,より幅を広げて捉え直す必要性
があるものと考える。
本作における幻想体験者である「二人の若い紳士」たちがもつ欲望・願望としては,動物を狩る
ことで爽快感を味わいたいという思い,動物の死を目の当たりにすることそのもの,そしてまた貴
族とお近づきになりたいという思い,などが挙げられるであろう。そしてまた,その言動に垣間見
ることのできる二人の性格として,見栄を張りたい,都合よく良い思いをしたいなどの傾向にある
鈴木・昌子:ファンタジー童話における「幻想体験」の意味
53
ことも読み取れるだろう。そのような二人の思いを反映した形で幻想世界が生み出されたとするな
らば,「西洋料理店」は,まさしく二人の西洋嗜好そのものの表れである。しかし一方では,動物
の見つからない山の中,狩りたいと願っていた二人の前にようやく現れてくれた動物は,二人が狩
る対象としてではなく二人を食べようとするという,立場の逆転した状態で出現してくるのである。
二人の願いに応じて幻想は出現したが,結果としては二人の望みを叶えるものではなかった。貴族
と近づきたい,という思いも,二人の自己顕示欲のようなものから生まれたものの一つだと思われ
るが,高級そうな西洋料理店,格式高い店だからこそつけられる店側からの「注文」も,彼らの潜
在的な欲望を反映させて現れた幻想だとも考えられる。そしてこちらについてもまた,その望みは
叶えられない。
物語の中で起こった幻想の一つ一つを見ていくと,すべてが登場人物たちの内面,欲望,願望と
関わっている。しかしながら,その幻想を体験したとしても,必ずしも幻想体験者の望み通りにな
るとは限らない。幻想体験は,幻想体験者の願望を叶え,幸せにすることばかりがその役割ではな
いようだ。もちろん,そのように望みを叶えられた幸せな幻想体験をする場合も多く存在する。し
かし,それはやはり一時の幻想であって現実そのものではない。幻想は必ず消滅,終わりを迎える。
このことは,体験者が幻想だけに縛られ,現実世界に戻れなくなってしまう危険を避けるためであ
る,と考えてきた。幻想体験は,現実世界に生きる幻想体験者たちにとって,一歩間違えればとて
も危険な毒となり得るのである。理想の叶えられた幻想体験によって,現実世界を批難し,逃避さ
せ,忘れさせようとすることが,幻想体験の意味ではない。ファンタジーでは,現実世界に住む人
物が,ある幻想体験をしてまた現実世界の日常に戻ってくることによってようやく意味を持つので
あり,幻想体験前後の人物の内面の変化そのものに意味がある。
前に本作は「教訓性」を有していると述べたが,それはあくまでも読者の側にある程度捉えやす
いものとしてのそれであって,「動物の殺生をやめるべきだ」「お前らに痛い目を見させてやろう」
というはっきりとした意図や意向を,幻想体験そのもので示しているわけではない。幻想世界は,
現実世界の住人たちに幻想を体験させることによって,ただ投げかけをしているのみであると考え
る。繰り返すが,幻想体験の意味は,幻想世界,幻想体験そのものにあるわけではない。幻想体験
者自身がその体験をどう受けとめるかによって,それによってはじめて幻想体験の意味が生まれる
のではないか。
本作においても,二人に残った「くしやくしやの紙屑」のような顔は,幻想体験の名残りである
が,その顔と一生つきあっていくこととなった二人がその後どういう心境でいるのか,二人に変化
は生まれたのか,幻想体験はその後の現実世界での日常にどう影響されたか,その部分に幻想体験
の意味が初めて生まれてくるのであろう。二人を怖い目に遭わせたいだけならば,幻想世界で山猫
に食べられることで物語は終わっていたはずである。しかし,紳士は彼らが連れてきた犬によって
救われ,現実世界に帰還することとなる。この理由こそ,幻想体験がただ体験させるだけで終わら
ないこと,幻想体験自体によって善し悪しをつけたりするようなものではないということの顕れで
あると考えられる。
また,幻想体験は幻想を用いてしか体験できないこと,経験できないことだからこそ必要性をもっ
て出現するものである。本作においては,二人の紳士が殺生する側の動物たちが,人間の言葉を用
いて,二人に接触してくる。このような接触は,幻想世界だからこそ初めて可能となる出会いであ
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る。現実世界では言葉を用いてのコンタクトができないのを,幻想世界を生み出すことによってそ
れが可能となった。このようなことから,二人が幻想を体験するに至った経緯,幻想を生み出した
ものの根本的な部分が解き明かされているように考えられる。
7 終わりに―ファンタジー童話の魅力―
ファンタジー童話における幻想世界は,しばしば,幻想体験者の潜在的な欲望,願望が反映され
る形で出現する。つまり,幻想世界を生み出すのは幻想体験者自身である。しかし,つくり出され
た幻想世界は,必ずしも体験者のそうした欲望や願望を満たすものばかりではなく,そうした意図
や目的を有しているわけでもない。幻想体験は,幻想世界から現実世界への問いかけや投げかけで
あり,その体験が現実世界を逆照射することによってはじめて,真の価値が発生するものではない
かと思われる。幻想を体験する以前と比べて,体験者,また現実世界それ自体がある大きな変容を
とげる。ファンタジーという手法,魔法によって生み出された,超越的な,飛越的な変容によって,
現実生活の中に潜むさまざまな問題が見出され,見直されていく。ここにこそファンタジーを読む
重要な価値,意義,魅力があるのだと考える。
本稿では,ファンタジー童話においてその物語内に発生する「幻想体験」がどのような意味をも
つものかを考察することが,ファンタジー童話を分析・考察する一つの観点あるいは方法論として
重要なものであるという認識に立ち,そうした方法論確立の契機とするために,宮沢賢治の「注文
の多い料理店」をとりあげて,具体的な考察を試みた。あくまでも一事例に過ぎないものであるが,
さまざまな作品においてこうした考察を積み重ねることで,個別の作品そのものの理解を深めるの
みならず,ファンタジー童話総体への理解をいっそう深め,またその魅力と存在意義をより確かに
認識することができるであろう。今後も多くの作品を対象に考察を重ねていきたい。
注
1)講談社(文庫)刊.
2)日本児童文学学会編,東京書籍,1988 年.
3)佐藤さとる『ファンタジーを読む』,講談社,1978 年,69-70 頁.
4)同上書,70-71 頁.
5)1)と同書,258 頁.
6)同上書,259 頁.
7)筑摩書房(ちくま文庫),1985 年。本作品の掲載は 234-298 頁.
8)北星堂書店,1997 年.
9)『宮沢賢治全集8』,筑摩書房(ちくま文庫),1986 年,15 頁.
10)同上書.本作品の掲載は 40-51 頁.
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