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ナンシー・ペロシ下院議長の政治的資源 - 久保文明研究室
ナンシー・ ナンシー・ペロシ下院議長 ペロシ下院議長の 下院議長の政治的 政治的資源 東京大学法学部 増田周治 序 (1)本稿の狙い 2007年、米下院民主党の院内総務であったナンシー・ペロシ(Nancy Pelosi)議員は、下院議長に就任した。これは、多数、少数が逆転した選挙後の 議会では、少数政党の院内総務を務めていた者が議長に繰り上がるという慣習 によるものである。かくして、米議会初の女性議長が誕生した。本稿では、ペ ロシ議員の出世の過程において使われた政治的資源について考察し、ペロシ議 員の特長について推察する。それによって米下院議会で出世するための条件の 一部を提示することが本稿の目的である。 ペロシ議員の政治生活には二つの画期があったと考えられる。一つ目が、天 安門事件に対する対応を中心とする対中強硬政策を打ち出し、全米メディアに 取り上げられ始めた時期。全米メディアに取り上げられることにより知名度が 上がり、政治家として安定した地盤を形成できたと考えられるからである。二 つ目が、2001年の院内幹事選出選挙における勝利である。院内幹事に選出 されることにより、民主党の執行部として認知され、政治家としての存在感が 飛躍的にあがったと考えられるからである。そこで本稿でも、前半にペロシ議 員の対中姿勢と選挙区対策、後半にペロシ議員の政治資金、とくに2000年 選挙における選挙資金再配分について分析する。 前半部分では、過激な対中強硬姿勢が、選挙区の住民に対するアピールも兼 ねていたということを論証する。さらに他の議員と比べたときのペロシ議員の 特色についても言及する。 後半部分では、彼女の政治資金の提供者の分析から、彼女の支持者の変遷を 探る。さらに2000年の選挙資金再配分実績を、ステニー・ホイヤー(Steny H. Hoyer)下院議員のそれを比較することにより、彼女の選挙資金再配分が翌年の 院内幹事選挙に与えた影響を考察する。 (2)先行研究について ペロシ議員に関する先行研究についてはまだまとまったものは少ない。ペロ シ議員に早くから注目し、彼女の89年から90年代前半までの大統領との対 立をとらえたものに Nakatsuji, Kenji ”Nancy Pelosi and Human Rights in China”,立命館国際研究 1999年12月号がある。 Ⅰ ペロシ議員 ペロシ議員と 議員と対中外交 (1)バックグラウンド ナンシー・ペロシは1940年3月26日生まれ。出身はボルティモア市の イタリア系居住区。父は下院議員、後にボルティモア市長、母は地域の顔役で、 兄はボルティモア市長、という政治一家に生まれる。ボルティモアでは自らが 主体となる政治活動はせず、1969年、投資家の夫とカリフォルニアへ。そ こで党活動を本格的にはじめる1。5児の母である2。 80年代に入ると、州民主党組織の中で頭角をあらわした。特に顕著なのは 彼女の集金力であった。2002年の院内総務就任時に、 「1985年に早くも カリフォルニア民主党の議長に就任できたのは、その集金力のおかげ」3とされ ている。集金力と政治資金の再配分については、後述する。 国政を志したペロシ議員は、87年初当選、選挙区はカリフォルニア州サン フランシスコであり、サンフランシスコ中心街とチャイナタウンを含んでいる4。 チャイナタウンを含んでいる影響か有権者には中国系が多い。有権者の30パ ーセントがアジア人であり、その中には多くの中国系が含まれると考えられる。 初当選から天安門事件までの間は、AIDS患者に対する平等な扱いを求める 活動や、医療保険問題を中心に政治活動を行っていた。活動範囲は典型的な都 市型リベラル議員(”typical liberal politician,” Nakatsuji)といえ、マスコミ への露出も少なかったと考えられる。 (2)最恵国待遇の更新をめぐって 89年に天安門事件が発生すると、全国放送のトークショウや全国紙への進 1 2 3 4 “The New Republic” November 25, 2002 “US News & World Report” June 17,2002 前出 The New Republic ペロシ議員HPより 出を果たした。留学生の在留資格延長措置、中国への最恵国待遇更新問題をめ ぐって、ブッシュ大統領と真っ向から意見が対立したからである。 ブッシュの対中静観という姿勢に反発するために、ペロシ議員は何度も対中 最恵国待遇の更新に関する議決を繰り返すことになる。最恵国待遇に関しては、 前駐中大使であったウィンストン・ロードの政策提言により、一年後ごとの更 新を条件付きでおこなうこととなっていた。90年5月24日、ブッシュ大統 領が中国との最恵国待遇を延長すると発表した。このときは、中国を通して潤 っている香港を見捨てないために中国との最恵国待遇を維持するという論法を 使った。これに反発し、最恵国待遇の維持を取り消す法律がペロシ議員から提 出される。下院は圧倒的多数で通過したものの、ブッシュ大統領サイドの切り 崩しが奏功し、上院では差がつまり、可決されるものの拒否権を発動されてし まう。91年にも、ペロシ議員は6月4日(天安門事件から2周年)に中国大 使館へ抗議するなど活動を続けるが、この年も同様に拒否権を行使されてしま う。この間も着々と米中の貿易額は伸びていったため、経済を優先する視点で 見た場合、中国との最恵国待遇の打ち切りは時を追うごとに選択することが難 しい対策となっていった。愚直に人権の擁護を訴えるペロシ議員は、”like a lone crusader”5という立場に追いやられた。 しかし、ペロシ議員の最恵国待遇更新反対の訴えは、人権外交の重視を訴え たクリントンが大統領に就任することにより、ほぼ現実のものとなった。クリ ントンは、行政命令の形で、中国への最恵国待遇を更新するための条件として、 政治犯の釈放などを求めた6。しかし中国がこれを主要な部分は履行する気配が なかったため、産業界の突き上げを受けたクリントンは、中国との経済交流に、 政治的関係を持ち込まないという、政経分離の原則へと方針を転換する。7これ により、中国への最恵国待遇更新問題は政治問題とされなくなった。 (3)抵抗の構造 既出のように選挙区には中国系が多く、その上にもともとカリフォルニアは リベラルの強い風土であるため、まさに中国政府による人権侵害に関してはも Nakatsuji 前掲論文 その他にも中国におけるコンプライアンスの向上なども求めており、人権条項 を付帯させたというよりは、さまざまな付帯の中に人権条項も含まれた、と考 えるほうが実態に即しているかもしれない。Nakatsuji 前掲論文参照。 7 飯田敬輔、 「対中人権外交」『社会科学研究』54巻2号(2003年)参照 5 6 っとも注目度が高い地区であったと推察される。よって、中国における人権侵 害については、これを非難すればそれだけ支持があがると考えられる。最恵国 待遇に関しても、人権条項を付帯させることにより選挙区での人気は上がる。 まさにペロシ議員にとっては、対中国の人権遵守要求は、やればやるだけ自己 に有利になる構造を持っていたと考えられる。Nakatsuji 前掲論文では、ペロシ 議員について”the crackdown at the Tiananmen Square made her a crusader for human rights in China ”と表現しているが、ペロシ議員を人権概念への信奉 者としてだけとらえるのではなく、一生懸命に戦えばそれだけ「天国」に近づ く、という十字軍におけるモチベーションと同じ構造である、ととらえるほう がしっくりくるのではなかろうか。だからこそ、成立する見込みがなくても毎 年、中国への最恵国待遇更新に反対するキャンペーンを行うことができたのだ ろう。 そうといえども、サンフランシスコの議員ならすべてペロシのような対応を するというわけではない。実際に、カリフォルニア州と中国との経済的交流は 活発で、91年のデータでは、全米の対中輸出金額のおおよそ六分の一がカリ フォルニア州からの輸出であった。州内の大企業では、中国からの原料輸入が 不可欠であるところもあった。これをとらえて、対中最恵国待遇を継続できな ければ相応の失業者がでることを覚悟せざるを得ないとした分析もあったが、 ペロシ議員はこれに対して、対中輸出は全輸出額の1.9%にすぎず(ただし 全米の輸出額に対する割合)、中国への最恵国待遇は「価値か、雇用か」 (”values vs. jobs”)ではなく、 「理想か、取引か」(“ideals vs. deals”)の選択である、と反 論している。8 そのような視点から見れば、ペロシ議員の対中強硬路線は、非常に特殊な選 挙区配分(選挙区の中にチャイナタウンがある)と、潤沢な資金(特定の業界 に頼らない集金ネットワーク)、強固な信念がそろって初めて可能になったもの であろう。 (4)その後の声明 その後も、ペロシ議員は、毎年6月4日に天安門事件に関するコメントを出 し、さらにさまざまな主体に働きかけて中国に対する批判に協力を呼びかけて いる。例を挙げると、3メートル台の自由の女神像をチャイナタウンに寄贈し 8 Nakatsuji 前掲論文 た。また、玩具販売のトイザラスの前に、中国の牢獄で生産されたおもちゃを 販売しないよう呼びかける看板を設置している。9また、クリントン大統領に中 国政策の見直しを求める10など、中国攻撃に余念がない。さらに、2000年と 2008年のオリンピックに北京市が立候補した際には、ラントス議員、コッ クス議員、ウォルフ議員とともに、立候補に反対するとのコメントを出した。11 特に声明の効力などはないと考えられる。しかしながら、中国政府による人権 概念は、ことさらに生存権が主張され、集会の自由などは発展途上国から抜け 出してからおいおい認めてゆくということでよかろう、というものである。こ れに対しオリンピックへの立候補は先進国の仲間入りを果たしたいという欲求 が根底にあると考えられるので、先進国の仲間入りをしたいというのなら、ま ずは先進国並みの人権状況の改善を行うべきである、というメッセージである と考えるのが自然であろう。それができないのならばオリンピックなど開催す る資格はない、ということである。 (5)ペロシ議員の特色 このように目新しい話題から大きな抗議運動へとつなげていくという政治手 法を確立したかに見えるペロシ議員だが、それだけでは党内の支持基盤は磐石 ではない。彼女は、議院内で民主党の顔として活躍するためには、少しリベラ ルすぎるのではないかとされていた。 彼女の選挙区は全米でも有数のリベラル派の集住地域であり、彼女の再選の ためには原理的なリベラルであったところで問題はない。むしろ彼女が警戒す べきなのは選挙区予備選であり、選挙区予備選を落とさないためには、かなり 強烈なリベラル色を打ち出していくのも必要な戦術であったと考えられる。彼 女の選挙区のようなリベラルは出身の候補者が、全米民主党の中でもかなり左 派の主張を展開し、選挙区民は伝統的な左派の主張に慣れ親しんでいたからで ある。つまりはペロシ議員にとって、極端なリベラルという姿勢は非常に合理 的であった。 しかし、院内総務から下院議長として民主党の顔の一人として活躍していく ためには、彼女の主張はやや極端である。特に院内総務就任時は、翌年以降の Nakatsuji 前掲論文 看板の文言は”Toycott die-ins” みにトイザラスは、”Toys R Us” 10 米議会 HP:1998年12月10日 11 同 HP:2001年3月21日 9 だそうである。ちな 大統領選挙をにらみ、もっと穏健な人物が民主党のイメージを作っていったほ うがよいのではないか、との観測があった。民主党の大統領候補が当選するた めには、共和党の地盤に食い込むことが必要であり、そのためには民主党に投 票してくれるかもしれない共和党支持者に対してアピールできるような院内総 務が必要である、という理屈である。これに対してペロシ議員は、議会の情報 委員会(Intelligence Committee)の議長としての感触から、イラク攻撃には激し く反発し、2002年当時は共和党支持者からは見向きもされない立場であっ た12。政治的立場に関してはなかなか譲らないものの、この時期のペロシ議員は 全国民主党組織の代表としてふさわしく見られるべく、工夫を凝らしていたこ とが伺える。その一つが服装である。カリフォルニアの選挙民を意識していた ときは、赤などの派手な色のスーツを身にまとい、いかにもリベラルの女性闘 士という服装が多く見られたが、院内総務就任にむけ、色を抑えた、普通の働 く女性という服装が多くなったという13。潜在的民主党投票者(特に女性)に対 するアピールであろう。ヒラリー・クリントン上院議員とペロシ議長が200 8年の大統領選挙において女性表を民主党にもたらすであろう、との予測もあ る14。有権者登録数では、女性が男性を上回り、女性であることをチャームポイ ントとするのは、選挙対策上有効だろうという計算もあったと考えられる。 Ⅱ:ペロシ議員 ペロシ議員の 議員の党内政治 (1)卓越した集金力 彼女の下院議員としてのもう一つの特徴として、集金力にたいへん秀でてい ることが上げられる。彼女の集金ネットワークの背後には、イタリア系移民団 体の応援・故郷のボルティモアからの支援などがあると考えられるが、もっと も彼女の政治資金集めの助けとなったのは、夫のポール・ペロシ(Paul Pelosi) であった。彼は Microsoft やAT&Tなど、大企業の株を大量に保有するやり 手の投資家であり、仕事柄保有するコネクションを活用することによって妻の この点は2006年の選挙においては民主党にたいへん有利に働いたと考え られる。自説を曲げないことによる成功の一例といえる。 13 前出 US News & World Report 参照 14 “CQ Weekly” January 29,2007 12 選挙資金集めに協力を惜しまなかった15。彼女の選挙資金の提供もとを分析する ことによって、彼女の党内政治の動力源となった強い集金力の正体を探る。 (2)集金力の分析16 95年から98年にかけて、彼女は合計114万ドルほどの選挙資金を献金 によってまかなっているが、この資金の約7割強(85万ドル)は企業・個人 からのものである。政治資金団体からの寄付は3割弱と、少ない。前半部分で 述べた特定の業界との関係に頼らない選挙資金構造である。さらに、政治資金 団体のなかでも、金融業の作る政治資金団体からの寄付が最も多い。これには 前述のように大物投資家である夫の尽力があったと考えられる。また、98年 までは、州内からの献金が9割を占め、この頃のペロシ議員がいまだに全国規 模で影響力を行使できるような立場になかったことを示唆していると考えられ よう。 99年から2000年にかけて、ペロシ議員への献金もとの団体構成はそれ までとは大きく変わる。金融業界からの献金がほとんどなくなり、さらに個人 からの寄付もその前の二年間の5分の1と振るわなくなってしまった。これに はこの時期の米国金融の調子がよくなかったことが原因だと考えられる。その かわり、不況の影響からか労働者団体からの寄付が急増した。その結果合計で は前二年間と比べて大きく減りはしたものの、労働者団体とのコネクションを 得た結果、その後の資金ポートフォリオは豊富になったと考えられる。 2001年以降は、個人からの献金も回復し、ペロシ議員の集金額は議会平 均よりもかなり上の水準にある。院内幹事就任による知名度のいっそうの向上 が献金の回復に寄与していると考えられる。また、州外からの献金の比率が飛 躍的に伸び始めたのもこの頃からである。州外からの献金元はワシントン D.C や故郷のボルティモアからのものが多い。ワシントンからの献金が増えたとい うことは利益団体のナショナルセンターから献金先として認められたと考えら れ、その意味でも院内幹事就任がペロシ議員の政治キャリアの二つ目の画期で あったことがわかる。その後、州外からの献金の比率は増えており、08 年度選 挙へ向けた基金では、州内、州外からの献金がほぼ半々となっている。 15 16 www.sfgate.com 2007年1月1日掲載 以下、金額などのデータは www.opensecrets.org を参照し、筆者がまとめた。 (3)2001年の院内幹事選挙に向けて 2001年の院内幹事選挙において、ペロシ議員はホイヤー議員を破り、院 内幹事に就任した。この院内幹事選挙について考察する上で、その直前の20 00年下院議員選挙における両議院の選挙資金再配分手法を分析する。200 0年選挙において選出された民主党議員が選挙人となって院内幹事選挙が行わ れたため、その直前の選挙協力が院内幹事選挙に影響を与えたであろうことは 想像に難くないからだ。 ペロシ議員のリーダーシップ PAC である”PAC to the Future”とホイヤー議 員の”AmeriPAC”について、2000年選挙時における資金提供をした候補とそ の勝敗、さらにその得票率を調べた。(結果は別表1・2を参照) 表には記入されていないが、総献金額はペロシ議員側が約 75 万ドルに対し、ホ イヤー議員側が約 62 万ドルである。献金した候補の数はペロシ側が 102 人、ホ イヤー側が 95 人である17。 結果からは、次のことが読み取れる。ペロシ議員側は、1万ドル以上の大口 献金をした候補者数が、ホイヤー議員側よりかなり多い。ペロシ側の 52 人に対 し、ホイヤー側は 28 人である。両議員側とも、接戦の地区により多くの資金を 割きたがる傾向があると考えられる。民主党と共和党という枠で選挙を戦って いる以上、これは当然の帰結である。 両者の再配分における一番の差異は、一万ドル以下のやや規模の落ちる献 金の使い方である。ペロシ議員側は、一万ドル以下の献金のほとんどを接戦と ならなかった地区に投入している。一万ドル以下の献金の行き先の 3 分の1以 上18が、60 パーセント以上の得票で圧勝した候補である。これは、ホイヤー議 員側では6分の1にしかすぎない。選挙資金の多寡でないところで勝負の決ま った選挙区に対して、多くの出費はしていないということがペロシ議員側の特 徴として挙げられるだろう。そうすることにより、接戦の地域へと大口の選挙 資金を回すことができ、結果として多くの接戦の選挙区へと軍資金を届けるこ とができたと推察される。選挙結果の予想から逆算した選挙資金配分という点 で、ペロシ議員側はホイヤー議員側よりも一枚上手であったといえる。 ホイヤー議員側には、一万ドル以上の献金先で負け越していたり、接戦地域 このうち、無投票当選やデータ欠損を理由として、8 人の候補を表1・2 の結 果集計処理段階からは削除している。 18 金額ではなく、人数ベースである。45人中 17 人。 17 に一万ドル以下の献金しか届けられなかったりと、再配分に無駄が多い感が否 めないと思われる。このような選挙資金再配分におけるリードが、ペロシ議員 の院内幹事当選を後押ししたと考えられる。 この時期の“PAC to the Future”において、理事を務めたのは、レオ・マッカ ーシー(Leo McCarthy)であり、彼は元カリフォルニア州副知事(任 82 年~ 94 年)で、当時はシリコンバレーの企業を経営していた19。彼のような地元の 有力者で、かつ幾度も選挙を経験しているスタッフがいたからこそ、選挙結果 の逆算による資金の再配分先の決定がスムーズに行われたのだろう。なお、現 在の理事は、ペロシ議員の夫である。 Ⅲ:おわりに (1)ペロシ議員の足跡 以上、ペロシ議員の足跡をたどった。彼女の政治活動の特徴はなんだろうか。 選挙民の要望を敏感に感じ、パフォーマンスを通じて支持者を増やしていく、 という手法が挙げられる。パフォーマンスは大きく報道され、しかも低コスト で済むというメリットもある。敵に回さざるを得ない産業もあるが、それ以上 に宣伝効果は大きい。ペロシ議員の場合は、自身の選挙区の人たち、そして注 目されるようになってからは全国の民主党支持者に歓迎されるパフォーマンス を実行しようとした結果が、天安門事件に対する度重なる抗議であったように 思われる。天安門事件に対する抗議は、重層的にサンフランシスコという風土 にぴったり合っていたのではなかろうか。チャイナタウンの住人に対しては祖 国の同胞を勇気付ける解放の闘士のように考えられたことはもちろんであろう。 さらには西海岸からワシントンに乗り込んで、大企業を擁護しようとする共和 党に敗れていく様はチャイナタウンだけでなく、西海岸の人々の多くが注目し、 同情するに値する舞台装置であったと考えられる。そして女性であることも彼 女のパフォーマンスにもう一つの効果を加えた。全国のリベラル派の女性は、 天安門広場に乗り込み、中国国旗を燃やすペロシ議員の鬼の形相をテレビで見 るにつけ、彼女こそが私たちの代表であるという親近感を覚えたのではあるま いか。ペロシ議員の自らの見せ方には、このような重層性があり、それが結局、 19 http://govinfo.library.unt.edu/ngisc/members/mccarthy.html 下院議長という幅広い支持が求められる立場へと彼女自身を押し上げた決め手 であったのではなかろうか。 また、選挙地域への票固めについても、特徴がある。中国たたきのパフォー マンスはクリントン大統領の政経分離方針決定以降注目度が落ちたと考えられ るが、ペロシ議員は毎年声明を発表しつづけた。その結果サンフランシスコに も、中国にも縁がなかった彼女は、磐石の支持基盤を気づくことができた。1 8年たっても変わらず非難声明を発表するそのしつこさが、忘却されることを 恐れるマイノリティーたちからの支持を集めていると考えられないだろうか。 さらに、ペロシ議員の集金力は、選挙結果を見越した的確な再配分を行うこ とにより、金額以上の政治資源となっていることも判明した。まず金額を積み 重ねるために活用されたのが特に夫などを通じた金融業界・実業界とのコネク ションである。そのうえで、的確な再配分を差配する能力を持つ地元の有力者 との協力関係を築いた。資金をフル活用した政治力により、ワシントンでの院 内幹事選挙に勝つことができたのである。その後は選挙準備資金もますます増 加し、それに伴う政治力の増大により、院内総務へと就任していった。 (2)教訓としてのペロシ議員 下院議会での成功をつかんだペロシ議員であるが、彼女の特徴をかんがみて、 なぜ彼女が下院議長になれたのか、という問いの答えの一部として、二つの能 力を掲げたいと思う。一つは、パフォーマンスと絡めて信念を吐露し世論を喚 起するマスメディア操作能力。もう一つは、獲得した政治資金を効率よく再分 配する選挙操作能力である。このどちらがかけても、下院議長ペロシは誕生し なかったであろうとも思われる。今後、下院議長を目指す皆様にも、ぜひ参考 にしていただきたく思う。 参考文献 井尻秀憲『現代アメリカ知識人と中国』1992年 田中明彦「天安門事件以後の中国をめぐる国際環境」、 『国際問題』1990年 1 月号 有賀貞編 『アメリカ外交と人権』1992 年(財)日本国際問題研究所 大津留(北川)智恵子・大芝亮編著 『アメリカが語る民主主義』2000 年 ミ ネルヴァ書房 久保文明・赤木莞爾編 『アメリカと東アジア』2004 年 その他、適宜文中で示した。 慶應義塾大学出版会