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平安時代集落址の発掘調査
松本市教育委員会
遺 跡 の立 地 と環 境
調査 地は、松本市寿 小池地籍 である。 ここは東 から西へ緩 やかな傾斜 を成 し、西側 は水 田と して 、東側 は畑地
として利 用されて おり、標高 は660m∼663mに
位 置 して いる。南側300mに は鉢伏 山よ り西へ流 れる塩 沢川 があ
り、内田の小集落 とその後 ろに赤 木山が見 える。西 下方1kmに は北流 する[ヨ川が あり、当地 とは約20mの 比 高差
を生 じている。 また北側 か ら東 には寿住宅 団地の家並 と現在 建設中 の家が50∼100mに 迫 ってき ている。
周辺 の遺跡で は、南 東の鉢伏 山山麓地帯 、内田集 落付近 に縄文時代 の雨堀、エ リ穴遺跡な どがあ り、また赤木
山台上部 からその縁辺 には縄文 ・弥生 ・古 墳時代 の石 行 、横 山城な どが遺跡群 を成 して いる。これ に対 し、低 湿
地 ともいえる田川沿 いは上流 より弥生時代以 降の遺 跡が多 く、特 に野村 地区か ら吉 田地区 につ いて は、最近 調査
された吉 田向井、吉田川西 等を掲げ る。これらか らは平安 時代を中心 と して前者 は94軒の 、後者 は269軒の住居 肚
を検 出 している。両者 とも遺構 の多 さ と緑 紬陶器な どの土器 類に見るべ きものが多 い。
この小 池を含む一帯 は古代 には筑摩郡 の一 つ良 田郷 に含 まれ、東 山道 が通過 して いた。そ して岐蘇路 が開かれ
る と合流 して国府へ 向かい 、この辺 に覚志駅 が位置 していた ものと思わ れる。r延喜式」には 「
埴原牧 」の名 が見
え 、中 山には牧監庁 も置 かれる。 『
続 日本紀Jに は延暦8(789)年
に 「
信 濃国筑摩郡人 … …賜姓 田河造」 なる記
事も あり、国司 に匹敵 する権力 をもつ人物 が牧場経 営を背景 に存在 していたこ とを窺 わせる。 なお この牧 も平安
末期 には衰 退 し、『吾妻鏡 』による と以 後、北 内 ・南内 が代わ って牧 と して登場 して いる。
鎌 倉時代 に入る と、「
小池 郷」 という名 が見 られ、独立 した集落 を成 す。岡 山県にあ る 『赤木文書Jに よる と、
弘安9(1286)年
には赤 木氏が隣 の赤木郷 も含めて地 頭で あったと して いる。またr小 笠原文書 』 によ ると小 池
は東 、西 とあるが 、そ れほ ど広 いものか どうかはわ からな い。鎌倉末期 には春近領 とな り諏訪 下社領で あった。
室町時代 に入 ると 、建武 新政後 の信 濃 は小笠 原氏が領 したが 、大塔合戦後 で小笠原氏 は失脚 し、こ こ小池 は料所
となる。1425年 に は再 び小笠原氏 が守護 となる。も と小 池の地 蔵堂 に安置 されていた応 永29(1422)年
銘 のある
奪衣婆坐像(現 牛伏寺 蔵)に は、小 池殿左馬 亮信道 と波多腰某 が見えて いる。当時牛伏 寺の参 道は ここ小 池よ り
始ま って いたら しく、入 □ に当 たる村井地 区には地頭 である村 井氏が住 した。この後 天文17(1548)年
、塩尻 峠
の合戦後 に武田氏が入 り、牛伏寺 への寄進状 には 、武 田信綱 が小 池 を所領 し、こ こに隠居所 を建 てる ことを希望
している。 また元和3年 以降小池 は他の地 区ととも に、明治 に至る まで諏 訪高島藩 に入 り、藩 は百瀬 に陣屋 を置
いた。以後 明治4年 には高島県 に、後 に筑摩 県、 同9年 に長野 県とな った。なお手元 にある 「旧高嶋藩殿様 御枕
絵図、五千石 之部」(元本 は享保の頃)を見 ると、発掘 地は旧小 池村 に当たり、西 には南 北 に走 る白河道 、東 に内
田村松本道 、また南 には東西 に流 れる良道汐(セ ギ)が あ り、既 に小池堤 があった ことがわ かる。北側 には宝蔵
寺、諏訪明社(小 池神社)、 その東 に山神 が見 えている。
調 査 結果
今 回調査の成果 は以下 のとお りで ある。竪穴住居 姓
は奈良 時代13、 平安時代前 期41、 同中期16、 同後期5、
不 明4で あ った。掘立柱建 物姓5棟 はいずれ も平 安時
代 前期である。住 居埴 の内には柱穴 配置 に特色 のある
11・15・76住な どが ある。また建物 堪は県内で も最大
規模のもので あ り、 これらは いず れも後 に図を掲げ触
れる。遺物で は22・30・44・45住 などか ら優 品の緑粕
陶器 が出土 している。 また銅製帯金 具が25住 よ り、皇
朝十二銭 の一 つ 「富寿神 宝」が59住よ り出土 した。9・
62住 にはフイゴ の羽 □、鎌、薄 い小 鉄片が多量 にあ り、
これ らが鍛 冶関係の建 物を示 している。竪穴 状遺構 は
5基 とも近世 ある いは近代の ものである。4基 の火葬
墓は いず れも中世 に属 し、人骨 ととも に3基 から渡来
銭が複数 出土 して いる。溝 は計22本 ある。1は 明治時
代 、上 にある沢が決壊 した氾濫 の跡で 、15は遺物 より
みて奈良 時代のも のである。 また2地 区には7∼10、
19∼21、24な どが あるが、 いずれも近世 のもので あり、
井戸 とともに後 に触 れる。土 坑では灰紬 陶器 を出土 し
た82が 特殊なも のである。 また1地 区南西 部の方形土
坑 には内耳鍋が 目立 ち、中世 の土坑群 を成 して いた。
ピッ トには時期不 詳である が、10本並ぶ 柵列が2基 見
つ かっている。
以 上今回の調査 は実質面積8,800m2に つ いて行 ない 、
主 に平安時代前期 を中心 と して、地形 的には集落 の南
限 まで実施で きたと思われ る。また東西 はもう少 し拡
がるが、北 はや はり15溝 が奈 良期の一 つの集落境 を示
す ものであ ろう。
調 査 地 の 範 囲(1:4000)
発 見 され た遺 構 ・遺 物一 覧 表
遺
構
遺
遺
構
数:量:
竪 穴住居 姓
79軒
掘立柱建物姓
5棟
竪穴 状遺 構
火
葬
5基
4基
溝
姓
22本
柵
列
2基
井
戸
/基
土
坑
78基
ト
約700
ツ
種 類 ・種 別
土器 ・
陶磁器
墓
ピ
物
内
容
・
数
量
縄文土 器片 少量 、土師器 ・須 恵器 ・灰紬 陶器 が主体 で総量整 理用 コンテ ナ
ー40箱 、緑紬 陶器 片約60点(陰 刻花 文陶 を含 む)、中 ・近世 の内耳 土器 ・
青
磁 ・瀬戸 美濃 系陶器 な ど少量
鉄
器
鍛 、 鎌 、 力 子 、 紡 錘 車 、 釘 、麻 引 金 具 な ど
石器 ・
石製品
縄 文時代 の石器 、砥 石 、播鉢 、石 臼、火打 石
土
製
品
土 錘 、 フ イ ゴ(羽
銅
製
品
帯金 具(鋏 具)、刀装 具
銭
□)、 土 製 円 盤
貨 皇朝 十二銭(富 寿 神宝)1枚
、渡 来銭9枚 、寛 永通 宝4枚 、不明2枚
4
住 居 趾(1:80)
第11号 住 居 趾
第11号 住 居 肚
規 模 は 南 北5.om、
117.一Eを
東 西5.1mで
完掘状 態
、 主 軸 はN-
測 る 。床 面 は ロ ー ム で 特 に 堅 い 。カ マ ド
は 東 壁 中央 に 位 置 す る 粘 土 カ マ ドで あ る 。 主 柱 穴
は あ ま り深 く な いP1∼P4の4本
で 、入 □ の た
め の2本 の 補 助 柱 穴 が あ る 。 遺 物 の 量 は少 な く 、
カ マ ド周 辺 よ り土 師器 甕 と須 恵 器 圷 ・杯 蓋 を 得 て
い る 。8世
紀中頃 のものであ る。
同上
カマ ド
第15号 住 居 趾
第15号 住 居 姓
規 模 は 東 西4.gm、
南 北4.6m、
こ こ に は 第2号
建 物 肚 が 先 行 して い る 。主 軸 はN-110.一E。
壁高
は 最 大47cmを 測 る 。 東 壁 中 央 に は石 芯 粘 土 カ マ ド
が 位 置 す る 。 主 柱 穴 は4本 で 、入 □ 部 に2本
の補
助 柱 穴 を も つ 。 土 器 に は 土 師 器 甕 、 内 黒 椀 、須 恵
器 杯 な ど が あ る 。8世 紀 後 半 の も の で あ る 。
同上
カマ ド
完掘状 態
第76号 住 居 趾
完掘状 態
第76号 住 居 堆
南 北5.5m、
東 西5.1mを
測 り 、主 軸 はN-83.一Wを
示
す 。 カ マ ド は西 壁 北 寄 り に あ る 。 柱 穴 は 壁 際 に計10本 並
び 、 い ず れ も 径 は小 さ いが 深 い 。 遺 物 量 は 多 く 、全 体 か
柱穴配 置模 式図
ら 出 土 した 。 土 器 は 土 師 器 椀 、 内 黒 椀 ・皿 を 中 心 と す る 。
鉄 器 に 刀 子 ・紡 軸 な ど が あ る 。 こ れ ら は9世 紀 中 頃 の も
ので 、今回調査 した住居祉 の主たる時期 である。
第38号 住 居 趾
第38号 住 居 坑
規 模 は 南 北4.2m、
東 西4.1m、
主 軸 はN-83.一Wを
指
す 。 南 部 覆 土 中 に は 近 世 の溝 が つ く ら れ た 。 残 存 壁 高 は
最 大35cmを 測 る 。床 は ロー ム で 堅 く良 好 で あ る 。 カ マ ド
は石 組 カ マ ドが 西 壁 に あ る 。 柱 穴 は見 当 ら な い 。 遺 物 は
カマ ド北 側 か ら北 壁 に か け て 多 く 、土 師器 圷 ・椀 、灰 粕
陶器 椀 が 中 心 にな る 。10世 紀 初 頭 の 様 相 を み せ る 。
同上
力マ ド
完掘状態
建 物1止
掘 立 柱 建 物 肚 は5棟 を 検 出 し た 。
こ れ ら は重 複 せ ず 、 あ る 程 度 の距
離 を保 つ よ う に位 置 して い る 。1
∼3は そ の全 容 を調 査 した が 、4
は 住 居 肚 の た め 、5は 別 工 事 に よ
り 、そ の一 部 が 不 明 瞭 と な っ て し
ま った 。
これ ら の 構 造 は す べ て 側 柱 式 が
基 本 と な っ て お り 、1は 西 と南 に
廟 を設 け 、 さ ら に西 の 一 部 に孫 廟
が つ く 。2は 西 に庸 を 設 け 、一 部
を 総 柱 に して い る。
棟 方 向 と 規 模 につ い て 見 て み る
と 、1・2は
南 北 に長 く 、 庸 ま で
含 め る と6×4(3)間
とな り、
現在 県内で調査 された 中で最大規
模 の も の で あ る 。3は1×2間
、
4は2×3間
、5は2×4間
以上
と な り 、 いず れ も 東 西 に長 く な っ
ている。
掘 り 方 は 平 面 方 形(1・5)、
一
部 が方 形(2・4)、
ある いは円形
(3)の
ものがある。
埋 没 状 況 につ い て 見 る と 、 柱 痕
跡 が 明 瞭 に 残 り根 腐 りを 示 す も の
(1・2)、
柱 穴 が重 複 して お り 抜
き 取 っ た 可 能 性 の あ る も の(2の
一 部 、4)、 覆 土 が 単 層 で 柱 の様 子
が 全 くわ か ら な い5が あ った 。
遺 物 は 少 な い な が ら5棟 と も 、
8世 紀 末 か ら9世 紀 前 半 の 土 器 類
を 出 土 す る 。1・2・5は
大 きな
規 模 、 広 い柱 間 寸 法 、 方 形 の 掘 り
方などか ら、役所の ような公的性
第1号 建 物 趾 実 測 図(1:150>
第1号 建 物 趾
南 北に長 く 、廟 まで含 めた 規模 は18m×12mで
第5号 建 物 趾
ある。
東側 はわ から ない が、現 状9個 の柱 穴か ら成 る。柱
柱間 寸法 は桁 間8尺 、 梁間9尺 、廟部 は11尺 とな って
間寸法 、掘 り方 な どは1建 と 同規模 の もの で ある。近
いる 。柱 穴の掘 り方は1辺1m前
接 す る1建 とは棟 方 向をgoo違え てお り、1建 を主殿 と
後で 、柱 痕跡 は直 径
30∼40cmで あ った 。床 を設 けた居 館な い し役所 の施 設
と考 える 。
する と脇殿 と しての性 格 をもつ 建物 と考え る。
7
格を もつ官 衙的な建 物、あ るいは郡司層 の居 館な どと考え られる。配置 状況も考慮 する と、大 規模な3棟 は4の
倉ある いは3の 小屋 的な施設 とセツ トと して使 用 され たも ので あろ うか。住居虻 との関係 を見 ると 、この建物肚
直後の時期 がその後 のピーク とな り、帯金具 を出土 した25住 も同時期で ある。
1建 は総計28基 の柱 穴の うち、22基 につ いて土層 断面 に柱痕 跡を認 めた。1の 暗褐色 土層 がそれで あり、自然
埋没の様相 を示す。周 囲はIIの ローム塊混入 黒褐色土 で埋め立 てて いる。20基が このような状 況にあ ったが、 こ
こに掲げたP658とP659は 、後世 に住居 肚 を設 けた際 に移 動 した土 や残 って いた柱材 を抜 き取 った ためか 、他 とは
やや変わ った土 が見 えている。
第1号
建 物 趾Pg掘
り方 断 面
1暗 褐 色土
IIロ ー ム塊 混入黒褐 色土
IIIロー ム塊 多量混 入暗褐 色土
IV小 ローム塊 多量混 入暗褐 色土
Vロ ー ム塊 多量混入 黒色土
(ロー ム塊が板 状 に混入)
1:30
1建 は 総 計28基
の 柱 穴 の う ち 、22
基 につ い て 土 層 断
面 に柱 痕 跡 を 認 め
た 。1の 暗 褐 色 土
層がそ れであ り、
自然埋 没の様相 を
示 す 。 周 囲 はIIの
ローム塊 混入黒褐
色土で埋 め立てて
い る 。20基 が この
ような状 況にあ っ
た:が、 こ こ に 掲 げ
たP658とP65gは
、
後世 に 住 居 埴 を 設
け た 際 に移 動 した
土や残 っていた柱
材 を抜 き 取 っ た た
め か 、他 と は や や
変 わ っ た土 が 見 え
て いる 。
各建 物肚の棟方 向
1建:N-0.一E
2建:N-5.一E
3建:N-91.一E
4建:N-95.一E
同 上P、 。 掘 り 方 断 面
第4号
5建:N-91.一E
建物趾
柱 間寸 法が5尺 前後 で 、
規 模 は3.3m方 形 の 建物 であ
り、南 には廟 が付 いて いた よう で ある。倉 な ど収 納施
設 と して の性格 を考 え たい。 柱 穴の 平面形 が不 整形 で 、
建替 があ った こと が窺 える。
第4号 建 物 趾 実 測 図(1:80)
本 調 査 発 見 の建 物 吐 模 式 図 集 成(白 ヌキは掘 り方のみ、黒丸は柱痕 あ り)
建 物跡 の大 きさ比 較
上 図 は 今 回 の調 査 で 発 見 さ れ た 建 物 肚 す べ て の 平 面 形 と 規 模 、軸 方 向 、 柱 間 、 柱 痕 の 有 無 を 比 較 す る 模 式 図で
あ る 。1・2・5号
が 特 別 に 大 き い こ と や 、1号
か ら み る と 、1・3・5号
1号 と2号
と2号
が最 終 ㎝ こ同 じプ ラ ン を 持 つ こ と な ど が わ か る 。 軸 方 向
が ほ ぼ真 北 か そ れ に90.直 交 す る の に対 し、2・4号
を 中 核 と す る2個
は 東 へ 約5.振 れ て お り 、 そ れ ぞ れ
な い し2時 期 の グ ル ー プ が 想 定 で き よ う 。 また2号
は 、 南 側 の2間 分 の 柱 間 が 他 よ
り微 妙 に 短 く 、 後 か ら 増 築 した 可 能 性 も 指 摘 で き る 。
下表 は 松 本 市 内 で 発 見 さ れ た 大 形 の 建 物 坑 一 覧(廟 部 分 を 含 む床 面 積 に よ る 比 較)で
床 面 積 、 桁 ・梁 行 の 長 さ と も に3番
あ る 。 本 遺 跡1・2号
は
目 以 下 を大 き く 引 き 離 して お り 、 当 地 域 に お い て は飛 び 抜 け て 巨 大 な も の で
あ る こ とが わ か る 。ま た 、2方 向 に 廟 を持 つ の も 珍 しい 。この 表 に は 現 れ て い な い 各 建 物 の 時 期 に つ い て は 、NQ4
∼6・8・9が7世
紀 末 ∼8世
紀 前 半 、 他 は9世 紀 代 と 推 定 され て お り 、本 遺 跡1・2号
も出土 土器や遺構 の重
複 な ど か ら9世 紀 前 半 ま で に 属 す る と 考 え られ る 。
松本市 内発見の大形 建物祉一 覧
No
遺 跡
・遺 構
規
桁 × 梁(間
柱
桁
模
・m)
面 積
間
梁
柱
平面形
方
穴
規 模
備
考
/
小 池 ・1号 建物
6x3
15.36x8.60
132.0/
2.50∼2.85
2.753.00
0.85-1.05
南 ・西醜 、西こ3× 澗 の彌
2
小 池 ・2号 建物
6x3
12.30x8.50
104.55
1.852.15
2.802.85
方 ・円
0.68∼1.00
南 ・西 面 廟
3
三 の 宮 ・ST61
4x3
7.63x8.30
63.33
1.87
2.653.11
方
0.65∼0.85
4
南 栗 ・ST560
5x3
9.08x5.54
50.30
1.462.44
1.56.1.70
5
南 栗 ・ST538
4x3
8.54x5.19
44.32
1.982.22
1.68ti1.80
6
三 の 宮 ・ST21
4x3
7.98x5.33
42.53
z.00
1.301.90
7
北 栗 ・ST8
3x2
10.44x4.06
42.38
3.18.3.70
1.942.10
方
方
円
方
8
千鹿頭北 ・建物虻6
6x5
7.60x5.40
41.04
1.40一
1.30-1.40
9
南 栗 ・建 物 肚3
5x3
8.30x4.80
39.84
1.50.1.80
10
三 の 宮 ・ST57
4x2
7.93x4.98
39.49
1.90
一1.60
1.60∼1.70
2.46
0.92一
一1.26
0.68-0.95
0.30.0.60
南面廟
西面廟
南面廟
床束?
0.650.90
楕円
円
0.90-1.50
円
0.40-0.96
0.73∼1.23
柱穴間が溝で連結
南面廟
9
土 塘 墓
南北約160cm、東西76cmの 規模 をも
つ楕 円形 の土坑で ある。南側 は近世
の8溝 に破 壊され ている。 ロー ム中
に掘 り込 まれて おり、その深 さは現
況で20cmを 測る。埋土 は径0.2Gm∼0.
5cmの小礫 を含 む暗褐色土 である。
遺物 は中央 やや南 の覆土中 に灰 紬
陶器 の椀3点 、そ して南部の ほぼ床
面上 に灰紬 陶器の三耳 壺が1点 、い
ずれ もほとんど完形 のまま、正位 で
出土 した。人 骨等 は見 当た らな いが、
このよ うな 出土状況 から遺物 は副葬
品 と考 える。本埴 は10世紀代の土 堰
墓で あろう。
同時期 のものと して は近接す る吉
田lll西遺跡 に、7点 の緑 粕陶器 と灰
粕陶器の広 □瓶1点 他 を出土する例
が見られる。・
なお里 山辺 の石上遺跡
では棺の痕跡や 副葬品 の残 りも良 く、
埋葬時の状況 を推測す るに足る出土
例 がある。
第82号 土 坑
遺 物 出 土 状 態(1:20、
遺 物 は14)
第82号 土坑 遺物 出土 状況 。左3点 は覆土 中 から 、右 は
ほ ぼ床 面 上か ら。 西 より。
第82号 土坑 完掘 、奥 側 は8溝 に よ り破 壊 され てい る。
北 から 。
同
出土 遺物:灰 粕 陶器椀3点 、灰 粕陶器 …耳 壺1点
、
10
溝
溝 は 計23基 あ る 。 こ
れ ら は 幅50cm(19号)
か ら440cm(2号)、
さ も3.6m(22号)か
71m(1号)ま
長
ら
でと多
彩 で あ る 。 時期 的 に は
奈 良 時 代 の15号 か ら 近
代 の1号
ま で あ り、 そ
の 用 途 は土 層 よ りみ て
自 然 流 路 の1号 、 水 路
と して の8号 、 空 濠 ら
しき15号 な ど が あ り 、
こ れ ら以 外 に も 地 区 南
端 に石 を 充 填 さ せ た 暗
渠 が3基 が あ っ た 。
1は 地 形 な り に東 か
ら西 へ 、 少 し蛇 行 し な
(左上)15溝 の掘 下 げ作業 、 西 から
(右)15溝 完 掘、 西 か ら
(左下)1溝 が地 を深 く 削 り込 ん でい る。 覆土 は砂 礫で 充
満。深 さ90cm以 上。 東 か ら
(右下)1溝 が19住 を破 壊 して いる。 西 か ら
(下)7溝(左
は20溝)。1建 は溝 よ り古 い。 東 から
が ら向かっている。 幅
50∼240cm、 深 さ5∼150
cmで 、狭 広 、 浅 深 が 目
立 つ 。 断 面 形 は不 定 形 、
所 々V字 形 を な す 。 地
元 にある古文・
書による
と 、 永 禄3(1562)年
の水 論 の 後 、牛 伏 川 の
水 を小 池 へ 引 い て い た
訳 で あ る が 、大 雨 に よ
りその水路が度 々切れ 、
洪 水 と な り流 れ た よ う
で あ る 。 近 く は 明 治29
年7月 の 大 洪 水 が あ り 、
下の田川 にまで流れて
いった記録 が残 って い
る。 この溝 はその痕跡
の一部で あろう。
7は 住 居 祉 、 建 物 坑 よ り
1新 し い。U字 形 の 断 面 、 覆
…
土 、規 模 な ど の共 通 点 を19・
1
…20に見 る 。 同 時 代 の も の は
18・9・10・17・24:があ り 、 こ
iの辺 に 集 中 す る 。 遺 物 は:こ
iれ ら溝 内 と2地 区 に 散 布 し 、
i近世 陶磁 器 類 が少 量 で あ る。
}15は 北 向 斜 面 を 東 西 に通
り 、西 端 は 南 西 へ 向 く。 幅
}は130∼240cm・ 覆 土 は黒 色
で水 を伴わな い。遺物 は中
層 に 須 恵 器 の 杯 蓋 、 同鉢 型
膿 齢鍵黙
ヱヱ
近世 の 屋 敷 地
当地 は地下水の 浅い所で 、今でも畑 中に
灌潮用 の井戸が ある。井戸 は住居姓掘込 中
に確認 した。底部 水溜上 には仕 □を45.に切
って井籠組 を行な い、そ の上に地表 まで約
3.5m円 筒 形 に石組 み し、井 戸側 を形成 し
た。最 下部は地表下 約4mの 粘土層上 で、
現在 も水が湧いて いるた め細 部 まで検証 で
きな かった。ただ廃 棄時 には、四角 いホ ゾ
穴 をもつ井桁よ り長 い煤 けた住宅用板材 と
付近 より切 り出 した長さ70cm、 直径30cmの
赤松 の丸太が一番最:初に投 げ込まれた よう
で 、その上部 には拳 大∼小児 頭大の石 、最
上部 には土が充填 された様子 がよ くわ かる。
なお遺物 には御深 椀、灯明皿 、石 臼な どが
あ り、その廃絶期 は18世紀 の様相 を見せ る。
第7・19・20・21号 溝 は屋 敷を取 り囲む
溝 と思わ れる。7溝 の北端 は鍵の手 とな り、
敷地へ の入 □ を示 してい るら しく、これら
で画 される広さ は約106坪 にな る。
溝 は現在
東 と南 、北の農道 で囲 まれ る大きな 区画 内
の南西 隅に位置 している 。7・20溝 はそれ
ぞれ西 と南の農道 下 にあり、入□ を想 定 し
た所 は旧 「
白河道 」へ の道があるな ど、現
区画 に符合す る点 が多 い。この中 には某家
の墓地 や古木等 があ り、大 きな屋敷地 であ
った ことを窺わせ る。水路 の8溝 と上記 井
戸姓 からは18世紀 代の遺物 を、 また近 くの
土坑 からは中世末 頃の古瀬 戸碗な どを得 て
いる。 これ らの施 設は大 きな屋敷地 に含 ま
れる。 遺物 、地元 の言 い伝 えも考 え合 わせ
る と、戦国時代 から近世 にかけて比較 的有
力な人 物が ここに居住 したもの と考 える。
井戸上部σ
石組み
(下)井戸 の 断面 を見 る た め重機 で掘 っ たと ころ
中世以 降の遺構配 置
内黒土師器圷の体部外面 墨書。7号 住居 虻出土
建 建 物趾
住 住 居趾
溝 溝 趾
竪 竪穴状 遺構
数 字の みは土坑
小池遺跡発掘 調査区全体 図
内黒土師器 圷の体部外面。74号住居姓出土
、
二L器 ・陶 磁 器
土 師器 ・須恵器 ・灰 粕陶器 ・緑 粕陶器 ・青磁 ・白磁 ・瀬戸 美濃系 陶器 な どが 出土 して いるが ・量 的には古代 の
遺構 に伴 う土師器 ・須恵器 ・灰 粕陶器 が大半を 占める。緑 粕陶器 は小 片も含 めて総数で58点 の出土 だが、当地域
の該期 遺跡のな かでは際だ って多 い といえよう 。
土師器
圷 ・椀 ・皿な どの食 器類 ζ、
煮炊具 の甕が ある。出土土器 の
な かでは量的 に最多 で、本遺 跡
の時期 を代表す る土器 といえる。
食器 類のほ とん どは内面 に黒色
処 理が施され る、黒色土 師器 で
ある。写真 は黒色 土師器 の杯と
椀。
須恵器
杯 ・有 台の 圷 ・杯 の蓋な どの
食器 と大小の貯蔵 用の壺類で構
成 される。土 師器 に次いで量 は
多 いが、比較的古 い時期の住居
姓 から出土す る。 圷のなか には
焼 きがあま い軟質 のものも見 ら
れ る。写真後列左 は有台圷 、右
が圷、前列 は圷の蓋である。
灰 紬陶器
椀 と皿 が大半で 、少 量の壺類
が混 じる。住 居姓 には出土土器
が灰紬陶器 で主体 的に構成され
るもの はないが 、土 塙墓である
第82号土坑 への埋納 品はすべて
灰粕陶器 であ った 。ほとん どが
東濃産 とみられる が、黒笹14号
窯式 の製 品も散見 する。写真 は
後列が椀 、前列が皿 である。
青磁 ・陶器
中世∼ 近世 にかけての陶磁器
類も少量 出土 して いる。写真右
と中央 は17世紀末∼18世 紀の瀬
戸 ・美濃系小 椀。写真 左は見込
に草花文 の陰刻を もつ青磁。
15
墨 書 ゴニ器
外面 に墨で字 、な い しは記号 が書かれる墨 書土器が多 数出土 して いる。同期 の他 の遺跡 に比 べてかな り多 く 、
本遺跡の特殊性 を物語 る根拠 の一 つである。 墨書の ほとん どは内黒土 師器 の食器類(圷
・椀 ・皿)の 体部外 面か
底 面に記され るが 、土 師器 小形甕 の胴部外面 にある珍 しい例 も見られる。 複数の文字 ・記号 が記される ものも散
見 する。出土状 況は各遺 構か ら散 発的で、地点 的に集 中する ことはなか った。(13頁上段 にも2点 を示す)
内黒土師器椀の高台 に囲まれた底面に
書かれる。下半部が欠損するため文字の
特定ができない。30号住居堪出土。
出土。
内黒土師器の杯体部外面で逆位で「
上」
の墨書。書体は太 く稚拙。1号 住居雄出
土。
内黒土師器の小形甕胴部に正位で「生」
の墨書。小形甕への墨書も、内黒土師器
の小形甕も珍 しい。59号住居 姓出土。
内 黒土 師器 の 圷体 部 外 面 に正 位 で 「宗 」
の墨 書 。 かな り 達筆 で あ る 。27号 住 居 姓
内 黒 土 師 器 の皿 の 底 面 、 高 台 内 側 に
「大 」 の墨 書 。68号 住 居 虻 出土 。
完形の内黒土師器皿の体部%周 ほどに
細い線刻がある。∫田」と読める部分があ
るが、他は不 明。10号住居姓出土。
土器 の種 類 と 変 化 く16・17頁)
松 本 平 南 部 で は 、 い くつ か の 発 掘 調 査 の 結 果 か ら 、古 代 の 土 器 に つ い て 、 器 種 組 成 と 個 々 の型 式 変 化 の 方 向 が
大 枠 で 判 明 して い る 。 こ こ で はそ の 成 果 を用 い て 、 今 回 、 住 居 姓 か ら 出 土 した 代 表 的 な 土 器 群 に つ い て 概 観 し、
相 対 的 な 時 期 の 区 分 を考 え て み る 。 区 分 の 基 準 は 圷 ・椀 類 の 種 別 ・形 態 や 製 作 技 法 の差 に基 く。
16頁 は須 恵 器 の 圷 が 主 体 に な る 時 代 。 そ の な か で も 、底 面 ヘ ラ 切 り ・ヘ ラ ケ ズ リ → 糸 切 り→ 底 径 縮 小 ・体 部 直
線 化 、 の 順 に 変 化 し、 そ れ ぞ れ に11号 住 居 姓 ・32号 住 居 姓 段 階(1∼9)、15号
(10∼17)、25号
ク ロ(1)の3種
住 居 姓 段 階(18∼24)が
相 当 す る 。 土 師器 の 甕 は 、 厚 手(7∼9)・
住 居 肚 ・58号 住 居 姓 段 階
ハ ケ メ(6・17)タ
か らハ ケ メ の み の も の に絞 ら れ て い く が 、 最 後 に ケ ズ1」の も の(21∼23)が
タ キとロ
短 時期現れ る。
17頁 は黒 色 土 師 器 が 主 体 と な る 時 代 。 さ ら に 、 黒 色 土 師 器 圷 内 面 の 緻 密 な ミ が キ ・須 恵 器 圷 の 残 存 → 同 ミが キ
の 粗 雑 化 ・灰 粕 陶 器 の 出 現 と 増 加 → 同 ミ が キ と 黒 色 処 理 の 省 略 、 の 細 か い 変 化 を 認 め 、10号 住 居 姓 ・76号住 居 肚
段 階 →30・46・68号
住 居 姓 段 階 →38住 居 姓 段 階 を 考 え る こ とが で き よ う 。 灰 粕 陶 器 は ま ず 少 量 の 猿 投 産K-14号
窯 式 の も の が 、 や が て 東 濃 産 の も の が 多 量 に伴 う よ う に な る 。.・
16
土 器 実 測 図(1)
17
土 器 実 測 図(2)
18緑紬陶器/
本遺跡 出土土器 の特徴 の第一 は何 と いっても緑粕 陶器の多 さである。 大小の破片58点 が 出土 したが 、そのう ち
の5点 は陰刻花文陶で あった。器種 は椀 ・皿 類が圧倒 的 に多 いが、瓶類 も3点 ほど見られ る。粕の発色 は薄い草
色や黄緑 から濃緑色 まで様 々だが 、概 して淡色 の ものが多 い。出土状況 は住居埴 の覆土や検 出面か ら散発 的に出
土 しただ けで、集中す る傾 向はな い。
草色粕調の輪花椀。□縁部を%ほ ど欠く
が全形がわかる優品で、漆状の付着物が僅
かに認められる。胎土は硬質灰白色 、底面
施紬、付け高台。46号住居姓出土。
草色 紬 調 の皿 。 口縁 部 を%ほ ど 欠 く。 胎
小 形 の 圷 。 □縁 を僅 か に欠 くだ け の良 好
土 は硬 質 で 灰 白色 。 高 台 はケ ズ リ出 しで 、
な状 態 で あ る 。底 面 は 回転 糸 切 り痕 をそ の
底 面 は露 胎 で あ る。30号 住居 肚 出 土 。
ま ま残 し、 露胎 。 胎 土 は榿 色 軟質 で 、紬 の
発色 も 悪 い 。22号 住居 姓出 土 。
体部 を僅かに欠 くがほぼ完形の椀。紬調
大形 の瓶の底 部破片 と推定。内外全 面に
は濃緑 、胎土は薄榿軟質で器肉は厚 い。底 淡緑の緑紬が掛かるが一部で剥落する。胎
面は糸切 り痕の上 に施粕。 トチン痕 をもつ。 土は硬質暗灰白色。内面のロク ロ調整痕 が
44号住居姓出土。
顕著。46号住居比出土。
緑 粕 陶 器 実 測 図(1:4)
椀か皿の破片に穿孔 したもの。補修孔 か。
粕は黄緑色で厚く、灰白色 だが軟質な胎土
も特徴的。30号住居姓出土。
19
各 種 の緑 紬 陶器 。
いず れ も椀 ・皿 類の
一 部 で 、 輪花 も 見 ら
れ る。 粕 の色 は 草色
か ら濃 緑 ま で様 々 で
胎 土 も榿 色 軟質 の も
の か ら須 恵 器質 のも
のま で ある 。
緑紬陰刻花文 陶
緑 粕陶器 の椀 ・皿類破片 には 、陰刻 による花文 が描かれ ているも のが5点 出土 している。長野 県内で は緑 紬陶
器 そのもの の出土数が多 くはないが 、中でも陰刻花 文陶の事例 は特 に少ない。松 本市内 に限れ ば、県町 、北栗、
三間沢川左岸な どの遺跡 からあわせ て数点の出土 がある に過 ぎず 、本 遺跡か らの出土品 は最 も充実 して いるとい
えよう。
椀か皿の見込み部で、二重 に巡る花弁文
しべ
椀か皿 の見込み部で、二重 に巡る花弁文
しべ
大形の椀か皿の見込み部中央。花弁文の
しべ
の 内側 の花 弁 に は蕊 の み 、外 側 は 脈 のみ が
の外側の部分と推定。花弁には交互に蕊 と
中心 の 円 、花 弁 と蕊 が 線 刻 され る が 、作 り
表 現 され て い る。 粕 は 濃 い草 色 で厚 く、 貫
脈が描かれる。淡緑色の粕は厚く光沢があ
は雑 で稚 拙 。 粕 は透 明 か ら淡 い草色 を呈 し、
入 が全 面 に見 られ る 。 胎土 は 灰 白色 で や や
り、全面に貫入がある。胎土は灰 白色でや
胎 土 は硬 質 灰 白色 。 器 肉 が他 の 個体 と は際
軟質:。6号 と60号 住居 祉で 出 土 、接 合 。
や軟質。30号住居祉出土。
立 つ て厚 い 。41号 土 坑 出土 。
緑 紬 陰刻 花 文 陶 実 測 図(1:3)
20
金 属製 品
刀子 と鉄 鋲
写真左側5本 は刀子。各 部を欠損 して おり、全 形がわ かるの は下段 の一点の みである。刃部 と、柄
なかご
を差 し込 む茎に分かれ てお り、当 時は木製の柄 と鞘が付 属 して いたと考え られ る。現在 のナイフ に相 当。
やじり
写 真 右 側4本
は鉄 製 の 鎌(矢 の 先)。 右 側2点
は 「雁 又 鋲 」と呼 ば れ 、 先 端 が二 股 に 分 か れ る 特 殊 な も の ・ こ の
時 代 の鍍 は 対 人 戦 闘 用 と して 大 形 の も の が 多 く 、 右 端 の も の は長 さ17cm、 左 端 の も の で も11cmを 測 る 。
か
こ
銅製 の鋏 具(バ ック ル)
鍔 帯(ベ ル ト)の 留 め金
具 。ベ ル トに通す 差 し金 な
どは現 代の もの と構造 が 同
じで ある。 当時 の高位 の身
分 は銅 や石 の飾 り(鍔 帯金
具)を 付 けたベ ル トを着用
した が、本 遺跡 にも有 力者
がい たのだ ろ うか。25号 住
居姓 出土。
鋏 具 実 測 図(1:1.5)
土錘
ふ いご
鞘 の羽 □
紡錘 形 を した土 製
鍛冶 に用 い る土製
品。2点 出 土 してい
の送風 管。 写真 左側
る。紐 を通 す穴 があ
の羽 □の先 端 は、炉
り、一 般 に漁網 の錘
から の被熱 で溶 解変
り と考 え られて いる,
色 が著 しい。 約20点
この周 辺で の漁 の存
の出土 を見 た が、 そ
在 を物語 るので あ ろ
の大半 は9号 住 居 姓
う か。70号 住居 肚 出
と62号 住 居肚 か ら出
..1_0
土 した。
21
No.
銭 貨
本調査で は11∼15世 紀 に中 国で鋳造された輸入 銭 と、国産の
富寿神宝 、寛 永通宝が 出土 している。このう ちの半数 は火 葬墓
などの墓 姓 に伴 って いた ものであ ろう。
出土 地 点
銭種
初鋳年
ノ1
24住 南 東 部
元豊通宝
1078
2
24住
煕寧元宝
1068
3
59住
富寿神宝
818
4
火葬墓2
永楽通宝
1408
不明
煕寧元宝
1068
5
6
ノノ
墓3NQ1
7
No.2
不明
8
No.3
元豊通宝
1078
36坑NQ2
寛永通宝
1636
10
36坑 半 割東
寛永通宝
1636
11
P678No.1
煕寧元宝
1068
12
P678No.2
洪武通宝
1371
元符通宝
1098
、寛 永 通 宝
1636
9
13
ノノ
14
井戸際排土
15
ノソ
寛永通宝
1636
16
1地 区排 土
皇宋通宝
1038
小池 遺跡出土銭貨一 覧
富 寿神 宝
奈 良 ∼平安 時代 に かけて
松本市 内出土の皇朝十二 銭
作 られ た皇朝 十二 銭 のひ と
左表 に示 すよう に、今 回を含めて11
つ。 平 安 初 期 の818年 に鋳
例が出土 している にすぎ ない。対象範
囲を松本平 に広 げて も、塩尻 市吉 田川
造。 松本 市 内で は2例 目の
出土 。59号 住 居肚 出土 。
西遺 跡SB159の
富寿 神宝1例 が カロ
わ
るだ けで ある。ただ し三 間沢川左岸遺
跡161号住 居姓 で は延喜 通宝 と みられ
る数枚 が溶着 して いるので正確な枚数
はわ からない。 これ らを出土 した遺跡
No.
1
遺 跡
・遺 構
下 神 ・SK490
発掘年
は いず れも緑紬陶器 の出土量が特 に多
初鋳年
1985
銭種
萬年通宝
760
か った り、また文献 に現れる荘 園と判
その他
2
ノソ
・
ノノ
ノノ
ノソ
ノソ
明す るなど、通常 の集落:とは明 らかに
3
ノノ
・
ノノ
ノノ
ノノ
ノソ
異な っている。出土 遺構 は、下神遺跡
4
ノソ
・
ノソ
ノノ
神功開 宝
765
5
ノノ
・
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
6
ノノ
・
ノノ
ノソ
ノソ
ノノ
7
ノソ ・SK554
ノノ
萬年通宝
760
8
刀
ノノ
神功開 宝
765
1987
富寿通宝
818
1988
延喜通宝
907
1990
富寿神宝
818
9
10
11
・SD108
三 間 沢 川 左 岸 ・16住
刀
・161住
小 池 ・59住
松本市内 出土皇 朝十二銭一 覧
で は溝 と土坑 、他 は竪 穴住居姓で 、埋
没 の性 格は一様で はない。銭種 は4種
類で 、
三 間沢 川左岸16り
号 住居肚例 を除
き 、鋳造年が平安 時代初期 まで の比 較
的古 いもめ に集 中する。銭貨 の出土 に
よ り、出土遺構 の埋没年代の上 限を区
切 ることがで きるが、伴 出 した土器 か
数:枚溶着
ら推 定できる年代 とは、吉 田川西 遺跡
の例 で約100年の隔た りがある。この点
につ いて本例や三 間沢川左岸遺跡例 で
は未検 討。
、
22
調査のまとめ
/
大 でも20∼30軒程 度 と推定 される。 しかも、この2世
1.大 形建物1止について
紀 間の変化 は一様 ではな い。8世 紀代 は遺構の分布が
1・2号 建物堪 は松本平で は最 大級、長野 県下で も
薄 く、9世 紀 の後半に最 も遺 構が増 える。集落の最盛
有数 の規模 を誇 ってお り、 おそ らく一般住宅 と同等 に
期 である。 ところが、10世紀 に入る と衰 退が急速 に進
捉 えることはで きまい。周囲がすべ て竪穴住居 である
ん だようで 、10世紀 後半代 には遺構 はほとんどな くな
点か らみても、本遺跡 の9世 紀代集 落の中で はきわめ
り、古代の本集落 は終焉を迎 える。前述 の大形建物姓
て特殊 な存 在であ った と考えられる 。この ことは当該
が建 てられたの は繁 栄前夜 の9世 紀前半で あり、土塙
集落 自体 の特異性も示 唆 しよう。構造 上からも 、1号
墓で ある82号土坑(9頁
建物肚 は西側廟 の柱穴列 の外側 に 、さらに4個 の柱 穴
以降 に設けられた ことになる。
が並ぶ特殊 なものである。 この部分 は3×1間
4.小 池遺跡 の背景
の孫廟
と理解 して復元 図(表 紙)を 描 いたが 、類例 があれ ば
御 教示を頂 きたい。
2.出 土遺物 につ いて
同時期の他 の遺 跡にく らべ て、緑 粕陶器 、墨書土器
の 出土 量が多 いことが最大の特徴で ある。 また鉄器も
参照)は 終末期 の10世紀中頃
本 集落の出現や繁 栄の背景 は何で あろうか。遺跡 立
地 は山麓の西 向き斜 面にあ たり、出土遺 物が物語 る豊
かな経済力を支 えるような格好 の水 田域 を特定す るの
は困難である。主 な生活基盤 と して水 田経 営以外 を想
定 することが必要 なのかも しれない。
多 く、金 属製品や銭貨 など貴重品 の出土も ある。これ
本 遺跡を巡る古代 から近世 の歴 史的環 境は前述(2
は塩尻市 吉田川西 、松本 市三間沢川左岸 遺跡の 出士遺
頁)の とお りだ が、古 代に関わ る項 目で は、以下 のこ
物の様相 と類似 して おり、珍 しい遺物 の多 出す る集落
とが挙 げられる。
遺跡のひ とつの傾向で ある。
良EB郷(倭 名類i聚鋤)
3.古 代集 落について
東 山道と覚志 の駅(延 喜式)
古代の遺構 と しては 、最終 的に79軒 の竪 穴住居堪 、
5棟 の建物姓 と多 数の土坑 、溝 などが発見 された訳 だ
が(3頁
埴原 の牧(延 喜式)
田河 造の賜姓(続 日本紀)
一覧表参 照)、遺構分布範 囲の東 ・
西 限が未確
このな かの、牧 、あるいは駅 に関連 して本集 落が栄 え
認で ある ことを考慮 に入れ ると、遺跡全体で は竪穴住
た のな ら、農業経営基盤 の希薄 さも納得で きよう。 し
居姓 だけでも100軒 を越 える存在が確実 であろう。しか
か し、現在 までの出土 遺物の整 理状況で は、残念な が
し8世 紀 中頃∼10世紀 前半の約2世 紀 間 にわ たる こと
ら発掘資料 の中 ににそ れを直接 に裏付 けるようなも の
が判 明 してお り、一 時期に存在 していた住居 の数は最
は まったく見出 し得 ていない。
か しや
火 舎(カ マ ド形 土器)実 測 図(1:4)
火 舎(17号 住居 趾 出 土)
□径20cm、 最 大 径36cmを 測 る 火舎(カ マ ド形 土 器)の 大 破
片 。 元来 は 緑紬 陶 器 の器 種 で あ り 、土 師 器 で模 倣 した在 地 産
の も ので あ ろ う。 部分 的 に黒 色研 磨 の 器 面 が残 り、 本来 は黒
色 土器 と推 定 する 。器 形 の 復 元 は畿 内 出 土 の緑 紬 製 品 を参 考
に した。 胴 部 の1か 所 には 周 囲 に反 り出 しを有 す る 大 きな 開
□ 部 があ り、長 方 形 の透 か し窓が そ れ 以 外 の胴 部 に等 間隔 で
並 ぶ。 肩 に は凸 帯 が全 周 し、一 部 に耳 状 突起 が 付 さ れ てい た
痕 が ある 。 珍 しい 器種 で 、 長 野県 内 初 の 発見 。
小池 遺跡 と周辺 の航 空写 真
中央 に縦 に細長 く調 査地 が写 る 。写真 は上 方 が北で 、北 東部 一 帯 に並 ぶ 住宅 群 は寿台 団地 。北 辺中 央の森 は小 池神 社。 調
査 地南 西の 池は小 池堤 。 その南 を西 北西 に流 れ るの が塩沢 川 であ る。一 帯 は東 か ら西(写 真 右 から左)へ 緩 く傾 斜 する地 形
で 、 田畑の 境界 も等 高線 にそ って南 北 に長 い。 平成3年1月
の撮影 で 、 日陰 には雪 が残 り、池 に氷が 張 ってい る。
遺
跡
名
遺 跡台 帳NQ
小 池遺 跡
松 本市64-246(長
野 県市 町村遺 跡一 覧表)
松 本市223(長 野 県史 、名 称は 「神社 付近 」)
調 査 地
長 野県 松本 市大 字寿小 池字 東旬34番 他
調査 期間
平 成2年9月10日
調査 面積
9300m2
調査原 因
調査 主体
寿小 池地 区土地 区画 整理 事業
●
∼12月17日
松本市 教育 委員 会
「
小 池 遺 跡
一 平安時代集落肚の発掘調査 一
印刷
平成3年3月20日
発行
平成3年3月30Eヨ
編集 ・発行
松本市教育委員会
〒390松 本市丸の内3-7
TELO263C34)3000
印
刷 、 精美堂印刷株 式会社
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