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長崎警備初期の体制と佐賀藩
、 し ζ J 一一、正保四年のポルトガル船の来航と妨備体制 一一一、長崎警備体制の進展 問、配備された大砲とその質 むすびにかえて はじめに 野 濯 賀藩であった。長崎警備について、防御体制に、五点をおきながら検討してみよう。 ( 1 ) 鎖国体制を維持する上で、来航する外悶船に対する前御が肝要であった。長崎の警備を担当したのが福岡藩と佐 長 長崎警備初期の体制と佐賀藩 はじめに t : ゐ ; 、佐賀藩の長崎容備担当問題 中 鎖国がキリスト教の禁圧を基軸にした西欧的世界への対応であったことから、キリスト教関との対決の姿勢が強 2 0 1 防 備 体 制 佐 賀 大 学 経 済 論 集 第3 5巻第 4匂 ( 2 ) くなる。この対応の場が長崎であった。出品を築造し、 の拠点とした長崎の警備は、鎖国体制を維持する上で も肝要であった。このことから、長崎山首備とりわけ外国船来航にたいする防御は訪ね袈な課題であった。長崎町行備の 体制を検討し、その防御体制が鎖国制を維持する上で有効性を持ち得ていたかを検討することは、鎖国の意味づけ の解明にもつながるであろう。 長崎警備においては、番所が西泊と一円陀に設けられ、七つの大砲舟台場が構築された。番所と台場の設置の経緯 と配錨された武器とりわけ大砲の状況を検討しよう。 幕府は権力を維持し強化するために、寛永十二年(一六一一一五)六月に五O O石積み以上の軍船の建造を禁止して 諸藩の海軍力の抵減を関った。これは来航する外国船にたいして、諸諸が大都一の軍船で対抗する体制をもたないよ うになったことでもあった。 ( 3 ) キリスト旧教諸国への対決をすすめた鎖国体制形成期のおいて、西洋諮問では軍事力として大砲が有力な武器に (4) なってきていた。日本では、戦国末期においては、鉄砲が盛んに使用されるようになったが、大砲は、王戦力までに ( 5 ) はなっていなかった。このような状況においては、大砲を装備している外田船にたいしてどのように対抗するかが 課題になってくる。このことが現実になったのが正保四年(一六四七)六月のポルトガル船の長崎来航であった。 長崎警備のあり方を検討するうえで、この折に防制御体制がどのように機能したかを考察することは、鎖闇体制と長 山口桜一一日四悶と閉山岡い(岩波設問、 吋山公約県災対外交渉編﹂(長崎県、 九九三年)凶O一段。 九八六)第四議第二節二五Oi二七O真 。 崎警備の問題を解明することに繋がるものがあるとみなされよう。 'd~ 2 1い 2 0 2 一二!一五二資。 九七九年) 一 O i一一二郎一気。 ( 3 ) ルiドウィヒ・ベツク・中沢殺人訳叫技術的・文化史的にみた欽の歴史 第二巻第二分間い(たたら当局、 (4) 洞広雄吋鉄砲i伝米とその彩終﹂(閉山中又悶出版、一九九一一一年)二一一一六変。 ( 5 ) 吋長崎市史通交貿易⋮縮問洋諸閣部い(長崎市役所、九一一一五年)川口八五!五一 八頁、同誌付録一 一、佐賀藩の長崎欝備の担当需題 鎖国体制の進展として長崎の野母崎に遠見番所が設けられたのは寛永十五年(一六一一一八)であった。 寛永十五年松平伊豆守殿嶋原僻帰陣之刻、長崎御越野母村御巡検、此所異国之渡口ニ鉄条、異形之船為見届番所 を建造遠見之者召置可然 とあり、野母崎に遠見番所が寛永十五年に建てられたとされている。 B 寛永十六年ご六一ニ九)七月に幕府はポルトガル船の米航を禁じて鎖関体制を厳しくし、翌年には、来航したポ ルトガル船の焼却と乗組員の新刑を行って鎖国の意向を明示した。ポルトガル船に備えて、寛永十八年(一六四一) 二月に福岡藩に対して長崎の替備を命じた。寛永十八年(一六四二二月八日に者中から黒悶忠之に対して参勤せ 福岡藩は防備のために、幕府が保持している石火矢・大筋の借用を願い出た。 鹿長十四年ごムハO九)九月に幕府は大名が五O O芯の大船の所持することを禁止し、西国大名の安弔船を没収 した。これによって大名は大型船を持たず、関船を軍船とせざるをえなくなった。また、寛永十二年(一六一一一五) 六月に幕府は武家諸法度を改定して、参勤交代の義務を定め、五OOおの大船の建造を禁止した。西間大名は大型 2 0 3 ず、長崎の警護に当たる事が命じられたことにより、長崎併設備を担当する段取りが開始され(幻。 ;即時傍鍛初期の体制と佐釘総 諸 務統 の 力 の 減 少 と な り せいぜい関船で対応する状況になった。また、大砲は戦国末期に於いても、王戦力では 前一一棲楼ヲ組上、石火矢・大筒ヲ城内へ放入ント潮ノタルミヲ計ル﹂と記され、寛永十五年( 六三八) 月十八 日神代ニテ島原ノ方ニ大鉄砲・石火矢ノ音開ケルニ付﹂とあり、同年十二月十日の陣場定めでは﹁兵船五十陣、紬 鴫原・天草の一授のおりには、右火矢・大簡が用いられている。寛永十四年(一六三七)十一月十二日には﹁今 におこなわれたといわれている。 慶長十九年(一六一四) の役に於いては、大砲の鋳造が急がれ、このことから鉄製の大型石火矢の製造が慶長末 していたものとみられる。 鉄砲などに大量の鉄が使われたことから、良質の鉄が石火矢につかわれたとはかぎらず、これが石火矢の質を悪く コックスが東インド会社に送った書簡に、日本の鉄が良質であることに触れている内容が紹介されている。しかし、 ( 5 ) 鉄の質が低かったからではないとみられる。二ハ一四年(慶長十九年)十一月二十五日の平一戸高館長リチ 1ヤド・ とあり、龍造寺中間十のなかに少数の大抱が取り入れられているが、鉄砲と槍が主体であった。 ( 4 ) の一隊、つぎに弓矢の一隊が続いた。また少数ではあったが大砲を曳かせ、その後から前の如き他の銃隊がきた 軍隊の先頭にはそスケット銃に似た大きな銃千挺、つぎに千五の鍛金の槍が来て、その後から薙万E 低 EE 印 る箪編成について 石火矢(大砲) の使用は鉄砲に比べて遅れていた。龍造寺陸信の天班十二年(一五八四) の嶋臨での合戦におけ なかった。 海 軍 権力の形成において幕府は、諸藩の軍事力安制約し、 とりわけ策船用大船の建造と所持を禁止した。 これは、 とれなかった。大砲の威力は認められてきていたが、主戦力にはなっていなかった。 船を建造できなくなっていた。それゆえ、長崎管備においても来航する同柴田船にたいして、大船で防御する体制は 佐賀大学経済論集第 3 5巻第 4号 2 0 4 (刊) (9) 日には﹁一、石火矢入用次第借用可被下事﹂が上使から佐賀藩に伝えられている。この 人宇佐出兵させているが、その蹟編成は鉄砲と拾が、玉体であった。 (HH) 捺に佐袈穣は一一一万四千余 平戸商館長ニコラス・クiケパツケルの書簡によれば、以下のようであった。寛永十五年一月二日に﹁現在手許 (刊以) にある大砲の中で最も大型の整ったものをおくつた﹂とあり、大型の大砲を島原におくつている。また、一月四日 ( 日 )(HH) には﹁六樽の火薬を彼等におくつた﹂と火薬もおくつている。ニ月二十四日には原城近くにオランダ船デ・ライプ (お) 号が着いた。二月二十八日には﹁われわは陸上のオラン、グの砲台の一つから二門の大砲で二十六発発射した﹂﹁われ (問) われの睦上及び海上からの大砲の発射を非常に菩んでいるといった﹂﹁一平戸からおくつた五円の大砲をどこに据え (げ) つけたら一番良いか﹂などと記されており、一一一月一日には一授側が矢文で﹁日本にも多くの勇敢な忠実な武士が沢 出いるのに何故オランダ人を呼んで加勢を頼んだかと尋ねた由である﹂とある。これらからすると、幕府軍は積極 的にオラン、ダの大砲を活用したことがうかがえる。これは幕府軍の大砲の装備が不十分であったことを示すもので あろう。 (刊日) ヨーロッパでは十五世紀始めに鋳鉄による大砲の製造がはじめられており、穿孔による大砲も十六世紀後半には 佐賀藩の軍事力編成では、寛永中期においても石火矢・大筒は編成の基軸になっていない。それゆえ、長崎警備 のおいては、大船が無いことから、陸上で石火矢・大簡を撃つことが欠かせなかった。このことから石火矢と大衝 の供給を幕府に依存せざるをえなかった。このことは長崎替備における箪事的防舗においても、幕府の統制下にお かれ管理されていたことを示すものであった。 石火矢・大筒の装備は不十分であったが、長崎容備においては、石火矢と大筒かせなかったことから、福岡藩は 大砲の借用を幕府に願いでた。覚永十八年四丹十四日にそれが認められた旨の奉警が崩き、これによって、福間務 2 0 5 使用されていて、戦闘でも大砲が盛んに用いられていた。 長崎i 警 告i ; 初期の体制と佐賀議 の鉄砲大顕飯田党兵衛・組足軽態村山七兵衛などが大坂城に赴いて五月十四日に受け取っている。 御石火矢大小一一一十挺御措被成首候御奉書米伊賀守様ヨリ御直筆ニテ申来候、依之大坂へ御箆受取ニ鉄砲大頭飯田 (印) 党兵部問弁組足軽頭村山七兵衛・毛陸太郎衛門・丹一一一郎大夫被遣期受取擢帰党兵衛請取自録景上候控如左 石火欠 大i 勾 ぷ 仁 ょ1 、 ( 1 . 3 6 t ; ) 台ナシ 5 0自 4ツは 7尺 ( 2 . 1 2 f ; ) 合アリ 1ツは 4尺(l.2t ; ) 台アリ ( l .8f ; ) 1 5 1アリ 右之御石火矢御大筋玉薬之儀ハ壱挺ニ付五十放ノ宛也髄受取申候のテ如件 さ 松平お衛門佐内 6J : ミ8寸 (2.06t;") 飯朋党兵衛 7J ミ5寸 ( 2 .2 7 t ; ) 成金 7 0 01 = 1 j 寄金 7 0 0白 J : ! f f 金 7 0 0E l 1 7 尺 2 寸 (2.18~;) 鉄 6 0 0 E l 3 6J ミ3づ(l.9t ; ) 8 0 0日 1 6尺 3寸(l.9~;) 約金 7 5 0凶 l 7尺 1 寛永十八年巳五月十四日 ( 2 . 1 2 f ; ) 鉄 .h ! r金 今村伝在衛門殿 水野伝臓殿 とあり、寛永十八年五月に大坂城で石火矢と大 4尺 5寸 5 6尺 による五火矢の 1 0 5 助 殿 簡・玉薬を受け取っている。 l. l ' fl = l 五 受け取りは、武器の聞においても、幕府の統制と 11 ' 1 2 0 0= 1 1 鉄 田 にあったことを示している。 1 0 0民 3 0悶 8尺 5す ( 2 . 57 t ; ) 鉄 d 長 数 [ 1 ヨ ' . 7尺 4寸 ( 2 . 2 4 f ; ) 1 そ 主 数 自 二 ヨ 平 日 その武器の内訳は、下表のようであった。 i tIJ~II均:礼子 1 J とあり、﹁諒取申御石火矢制御大筒井玉薬之事﹂として、受取書が提出されており、石火矢・大鰐の目録が記されたあとで 佐賀大学絞済論集第 35宅l1 ~H 王子 , 討 I J毛~;守党^;!}J 206 長崎容?倣初期の体制と佐2 2 t 許 石火矢には唐金と鉄製の物がある。唐金は銅七O %と鉛一ニO%の割合で製作されたものといわれ、ここではニメl (幻) になってきた。 トル級のものが多い。鉄製の石火矢が一一一門ある。これらが日本製か外関製かは不明である。鉄製の石火矢は、 製の場合は鍛造製であったとみなされる。 福岡藩が幕府から借用した石火矢・大儒は、以土のような内容であった。 箆永十八年四月に平一戸にあったオランダ商舘が出品に移されたことから、対外関係で長崎が このことから、長崎警備を佐賀蔀にも担当させるようになった。 佐賀滞が長崎讐備を担当するようになった経緯は、次のように記されていれる。 月二六日 、 一 勝茂様相ト誠御暇御拝領其上於御前一被仰出候ハ、先年かれうた船着岸仕せ御成敗被成残者ハ被差一帰候、重市て参儀 (幻) も可有之と被思召候、昨年以米松平右衛門佐忠之江被仰付候、当年者手寄之儀候条、信濃守江長崎御番被仰付候 と党永十九年ご六四二)三月に長崎警舗を担当するようになったことが綴られている。 佐賀滞も長崎哲備のために幕府所有の大筒や五火矢の拝借を願い出た。覚、氷十九年五月十三日にそれが認められ ている。 筆中入候大筒・石火矢指程度之由示談之趣達土問候之処、松平右衛門佐江昨年御溜之分此目録之通被為借候之 (幻) 問、縦彼手酷可被請取之候、期右之段右俸門江申遺候之間被得其怠候 ツ右衛門佐殿江被御貸躍候を とあり許可されている。大筒や石火矢は先に長崎容備を担当した福岡務が貸与されていたものである。 大坂御城ニ有之候御お火矢拾挺・大筒二十挺・ 七月三日ニ御請取相成 とあり、石火矢一 O 門、大筒一一O 門などであった。これらの武器は七月一一一臼に福間州議から受け取り、同月十一日に 207 日 本 深掘の鉄砲蔵に収納されている。二十年一一一月十一日には福岡藩に引き渡されている。 (お) 寛永二十年には、長崎野備が﹁寛永二十年四月御参勤之上、長崎御番之儀松平布謝門佐殿ニ被仰付事﹂と、 * 1 六回六) については (出家老井続類之者怒之) 鍋島七郎在荷門 物顕六人 船参拾般(天和二年之御窺諮ニハ此船田拾六般ト制御帯出) 鉄砲二百五十挺 内 一人数千三百人 あり、不明とされている。正保一一 長崎響備を担当するようになった当初の警備人数については﹁寛永十九年・正保元年間度之御番人数不分明﹂と 者りで福間離と佐賀藷の交帯制になった。 佐賀大学経済論集第 35;巻第 4-~' 人数を出シ候様ニと是又此以前被仰付鍛 十四日に各大名 年 ご。 ﹀ 、 主 ナご J'LJふ / 所江相越斗之可申付宙開取前被仰出候、其上ニも人入ニテ俄之時ハ近所ニ付市高刀摂津守井長崎之奉行人差図次第 異国船令米朝若人なと入候節為制御仕置錦島信濃守・松平布衛門佐様々九州ニ被差置之、在様之刻ハ松平隠岐守其 であった。そこで四閣・中間・九州の大名を動員する体制をとり、 とある。福岡落に人数を問い合わせ、それに準じた人数であった。この人数では間接関船が到来したおりには不十分 弾楼船十般 早鉛大小ニ十鰹 1 2 0 8 長崎慾備初期の体制と佐賀務 (約) と指示されていた。 (l) ﹁長崎御番大概こ(史料は、特に記さない限り、佐賀田町立図設鯨架蔵) 注 (2) 川添昭一了一衡問古文設を読む会校訂話相訂銅山町家殺第一一巻い(文献出版、一九八二年五月)八一一1 一八一一一頁、新訂増補決凶 出入大系第四十巻い﹁大猷院殿御災記巻四十六党永十八年正月i 二月﹂(吋徳川実記第三錦町古川弘文館、一九割一年六月) 二一七頁。 (3) 洞答雄吋鉄砲伝来とその影響﹂(閉山文間出版一九九一年七月)一一三七賞、奥村正二定八総統i江戸時代の技術い(岩波書版、 一九七O年)五的資、所荘宙吋火縄銃い(雄山間出版、一九六九年)一七六資。 (4) 村上直次郎訳・柳谷武夫編総﹁イエズス会日本年報上﹂新築困撲諒一一一(雄松笠設成、一九八O年五月)一一一郎一一ニ凹二真。 (5) 澗儀雄、前掲設二六六賞、﹁錫は英国の備にては此地にては売るれず、又鉄は此地にては英悶よりも良質にして且つ燦備なり﹂ (岩成金一訳註吋腹元イギリス品川と奥国滋設五、駿間社、昭和四年八月、一一九郎頁)とある。 (6) 洞富雄、前掲設二四五頁。 (7) ﹁勝茂公諮考補第十巻下﹂(﹁佐賀県近役史料第一編第二巻町一九九八年一一一月四四六真)。 (8) 問、五二四資。 (9) 向、五八四一員。 ( m w ) 向、五一一 1 五二二一員。 (日)つ長崎県史史料編第一一一﹂(一長崎関川、一九六六年)一一回O頁│一六一一一八年二月十五日(寛永十五年一月二日)。 (竹川)問、二四六頁!一六三八年一一一月一日(寛永十去年一月十六日)。 。 (ロ)問、二四一寅一六一一一八年二月十七日(寛永十五年一月四日)。一一四O資 。 (M) 向 (vm) 問、二五一 o t o - 二五二寅!一六一一一八年十一月九日(究永十五年十月四日)。 (日)問問、一一四八頁!一六一一一八年一一一月十五日(寛永十五年二月十臼)。 (幻)問、間九一良二五O頁!一六一一一八年一二月一日(究永十五年一月十六日)。 2 0 9 佐賀大学経済論集第 35巻 ~4 母 間二賞。 (山川)ル lドウィヒ・べツク、中沢殺人訳﹃欽の歴史 (川口)﹁長崎党世⋮と。 (初)向。 (幻)山山富雄、前掲設二四一 i 二間二賞。 第二巻第二分間﹂(たたら者一房、 i御擬人数井船数之事。 0 成尚ゆ﹁佐賀漆銃砲沿不出入い(療設一房、一九八一年)一一一凶i一一一五官民参照。 一九七九年) (幻)﹁長崎御番方大概抜諮一﹂、なお、前掲﹁勝茂公務考補第十巻下﹂(前掲﹁佐鈎近世史料 (お)﹁長崎御議允縦録﹂。 (討)問問。 (お)﹁長崎制御議ニ付而之一週﹂ (幻)向。 (お)﹁長崎線番方大概抜書一﹂ (間四)正保三年之比、 四国・中部・九州之各江御詰物被相波候等之襲。 五 μ 。こ (天正九) 四月にフエリッペ二世はポルトガルの王位に就いた。これによってポルトガルはイスパニアに統 の出身であったことを理由に、 イスパニアはポルトガルに進行し、 月にポルトガル王エンリケが亡くなり、直系の王位継承者がなかったことから、イスパ の船はポルトガル船であった。 一五八O年(天正八) J ¥ 編第二巻い六八八資)。秀烏 第 ﹁正保田年訂六月一子四日かりあん船ニ般伊王島沖へ渡来、同二十六日長崎入津﹂と外国船の来襟に触れてい 正保四年六月二十四日に外国船ニ般が長崎に来航した。 正保盟年のポルトガル蛤来航と饗備体制 一 、 一 ニア王フエリッペ 一世の母がポルトガル /¥ 2 1 0 治されるようになったが、 一六四O年(寛永十七)に独立を獲得し、十二月十五自にジョアン四世が却位した。国 威の宣揚と貿易拡大を図る対外政策をすすめ、日本には貿易の再開を目指してゴンサル、ボ・デ・ジケ lラ・デ・ソー 六四七年七月一(正保四年六月二十四日)に長崎いた。 ( 2 ) セそ特使として派遣した。特使一行は一六四四年(寛永二十一)一月にポルトガルを発ちアジアに向かった。暴風 などで手間取り、 来航したポルトガル船にたいして、長崎奉行は役人を派遣して来航の意図を問うた。これに対して、ポルトガル の手 人が到着し、 五日ま 一十七日に熊本穫に出動 側は国王派遣の特使であり、貿易再開を求めた来日であることを告げた。奉行はこのことを江戸に報告し、近隣大 のこともあって、 五人・船頭嗣子一七ニ六人計三七四 名の出動を求めた。この年の当番藩は福岡藩であった。人数が が命じられ、七月一日には熊本藩の先陣として兵一一O でには他の諸藩兵も参集した。 ポルトガル船への対応策が検討された。長崎奉行馬場三郎左衛門は﹁今度黒魁御乗とり被成候に付、 行も候は無遠慮可申上﹂と指示され、それによって色々と案が出されたが、寺沢兵庫家老並河太左衛門の﹁彼黒船 走出候瀬戸口に大締を幾筋も為御張候ては如何﹂との意見が用いられ、大綱が張られるようになった。 七月七日には大綱が出来たことから大綱張りが始められた。﹁向十六日、未明に船橋出来﹂とポルトガル船の出港 高鉾ヨリ影ノ尾ニ至テ大締ア張渡シ、舟数百般ヲ並へ張切トイへトモ海市二対シ舟数少シ、依之上使ヨリ隣間ノ 舟ヲ被催シカハ、不日ニ五百余糠相集ル、其舟ヲ以テ東ハ女神山奇ヨリ西ハ至香容・升筏ヲ組事三震ニシテ、帆柱 大木ヲ横へ藤綱一一テ航之、海上ヲ張切黒舟ヲ閤ム事数盟関也 に繋がらせ、机柱や大木を藤綱で結び、 ヲ往来スル一二向平地ノ如シ﹂という とあり、高鉾と陰ノ尾の間に大縦を張り渡し、そこに船を並べるというもので、隣国から五百余般の船が集められ た。女神と神崎の間に加を一ニ 2 1 1 を遮る関御網が整備された。この模様について見れば 長崎!後係i 初期の体制と佐賀芸春 乗 廻 ス に ヰ ト オ 土 イカテカ難キ事アラン ポルトガル船側からも 我等は開閉まれゐたり、フネは各列は殆んと百艇を有し、 に板の道コ一つあり、各五人を容るべ の返答を待っとういう姿勢であった。 当りて如何なる事あるも港を出ざる覚梧をなしたればなりと述べたり 外に出でんと欲する者ありしが、大使は之に対し、強固なる決心を定め、決して之をなすべからず、入港するに 払暁、船にて造りたる橋の港口を閉塞せるを認めたり。その全く強固なるものにあらざるを見て、風に乗じて港 七月十五日のこととして ポルトガル側の対応は、貿易再開を願って穏使に過ごし、 ともあり、不意の出港のおりは乗っ取るようにとの指示をだしている。 一、不躍に黒船かけ出候は、乗取可申一事 と、江戸からの指示が無いうちに勝手な行為をとることを禁じている。また、 、黒船之儀に付縦江戸被仰出無之以前作法潜にいたし、かぴたん気遣不仕候様に可相心得事 ことがあってはいけないとする事からなされている。七月十五日に、次のような指出が出されている。 と船橋の状況を記している。船橋を設けたことは、老中からのポルトガル特使にたいする指示がくる前に出港する (郊) し、橋は鉄及び縄を以て好き桁を緊縛したる甚だ強潤なるものにして 列より成り いささか過剰な表現であるが張切りの模様を伝えている。石火矢を用いることは殆ど考慮されていない。 とす 、)ブ 船数百般寄セニナラベ、クリヲ以ツナキ皆、大角を引テ巣の繁子ヲカキ、大地ノ如ク一一仕懸ケハ、数百ノ馬 神埼口ノ左右ノ小島一一即大綱ヲ以二重一一一二張切、材木ヲ渡シ棲(井)楼ヲアケ、大石・小沼・大木ヲ仕カケ、大 状況をつくり、だしている。これについては 佼:'&~大学経済論集第 35巻第 4~ヲト 2 1 2 長崎空手備初期の体制と佐賀漆 とある。堅牢な防御縮でないので、港外にでることを望んだ者もいたけれど、港外に出ない決心で入港したので、 それを認めなかったとしている。また、船内の主要な者には、出港の危検性と問題点を指摘している。 若し帆を揚げ船を動かす時は、集合せる(日本の︺船の多数は必ず来たてガリアン船を襲撃するか、少なくとも ( M ) 橋の破壊を防止すべく之が為め著しき危検を生じ、又橋上の日本人等も之を守るべく、戦争は予想と異なたる結 果に至ること屡々なり (日} と出港のおりには戦闘になる危険性があるとしている。さらに、オランダ船が三般入港しているので、﹁ポルトガル 王の大使逃出したりと一言う﹂とオランダ側が翌日うようになれば、好ましいことではないと指摘したとある。 (日刊) 七月二十九日に幕府の意向が長崎に伝えられた。日本はキリシタンの取締をしており、キリシタン来日の場合は 二十八 死罪を課していたが、このたびは王の交代を告げる使者なので差し許し帰国させるとの主旨であった。この意向が 伝えられ、ポルトガル船は八月六日の聴に長崎を出港した。 ポルトガル船の来航に対しては、九州地域の藩から多くの兵船が派遣された。総数は﹁人数五万五千五 o 人、船九百六十九糠﹂で佐賀藷は﹁一万千一一一百五十人(又言、万千三百人但水友人芝、船数一一百十五騨(又一斉百二十五線)﹂ を派遣し(問。この折の諸藷がした派遣人数には諸説あるがありるが、大量の兵力・船が動員されてい必 正保四年のポルトガル船の長崎来航における警備状況からすると、明確な警備の方針がとられていたとはみられ ない。七月五日の中思議に於いて﹁今度黒船御一衆とり被成候に付、各存寄の予行も候は無遠慮可申上の宮被仰渡﹂と いわれ﹁無遠慮塁恵存の留をも可申上の由笠 度のポルトトガル船を囲む警備体制がとられたとされている。 鍋島淡路守 この時期の佐賀藩の長崎への出動体制を﹁於一曲目人数可入刻之定控﹂よりみれば、以下のようであっ凶。 千七百一人 2 1 3 佼 賀 大 学 経 済 論 集 第3 5 巻 第 4~サ 主水与私 市佑 中野内近与私 鍋島七部左衛門与私 五百七十二人 十九人 大木兵部与私 十七人 百六十五人 紀伊守 手可指出之由候時 鍋島若狭守 多久美作守与 鍋島隼人 際大和与私 鍋島伯き守 但右之外廼船並び取綱子可有之候多少其時之見合次第たるべし 四百ニ十九人西五大夫・田沢助左衛門 人 人 人 千七百五十八人(担半役ニ〆) 右人数之上我等 人数多候ハハ其持之見合次第諌早・矢上間可残置候 人数可差出之由上使衆御指図ニ候ハハ先右之名書之分人数召連早々罷出可然候 合人数 五百九人 千ニ百五十八人 千五百九十九人 i 司 同 ニ百九十六人 一 2 1 4 長崎怒辞fJ初期の体制と佐賀務 合人数 一万千八百六十四人 人 内若狭・み、まさか間 お火矢が配置されていたことが伝えられている。 人之人数除て 二五艇としている。これよ 一十丁)、小 一了・又一一出向ニ十丁)乗組員惣人数四苦五十人 正保四年に来航したポルトガル船に対しては、関船で囲み、鉄砲・槍などを用いる従来の箪備が じられていない。大砲の点では、 日本側は決定的に劣っていた。 設 i附録﹁潟思特派使節史料﹂ 正保早川船来初記、長崎市附潟館日誌、シケイラ・デ・ソイザ日本遺使録。 四葉)。 吋吟長崎市史通交貿易編凶洋諸国部﹂(長崎市役所、昭和十一年一月)間八五i五O 二頁、開設、約録﹁務霞特派使節史料﹂ ﹁御怒方大統﹂。 で、石火矢は 能のよには多数の兵士在り、無数の小銃・矢・槍・カタナな携へ、 又城には数門の大砲を備へたり﹂と記している。 八月六日にポルトガル船は出港しているが、この折の日本側の響備状況について、使節の者が﹁船並びに築造物 街ニO円であり、 それも質の惑いものであった。 日本側が圧倒的に多かったが、 ポルトガル側は 一般で石火矢四O門を装備していた。日本側の石火矢は一 O門・大 とある。諸説があり、必、ずしも一致しないが、石火矢は各船に二O門は配備されていたとみなされる。兵力数では 舟長二十四問、横六問、深田間(又一言横五間)、石火矢二十二丁 ポルトガル船二鰻の装備は、﹁大舟長二十六問、横七閥、深八問、石火矢二十四挺 りすれば、上記の﹁於西国人数可入刻之定控﹂の人数とほぼ合うので、この体制で動員されたとみなされる。 正保四年の長崎出兵人数を﹁御番方大概﹂では、水、去を含めて一万一一一一OO人、船 都合人数 千 前掲、正保米朝記(品川掲引小川﹁長崎市史週刊父貿易総西洋諸隈部﹂ 2 1 5 (2 3 佐 賀 大 写 経 済 論 集 第3 5巻 第 4号 (4) 隠、(同勢一二間頁)。 通交貿易編問洋諸問部い│附録﹁葡悶特派使節史料﹂一九O頁 ) 。 。 (5) 向 (6) 問、(問書二一九頁)。 (7) ﹁勝茂公諮考補第十下﹂(﹃佐賀県近世史料 第一編第二巻﹄佐賀県立図設館、 一九九凶年、七四四一良)。 。 (8) 向 。 (9) 向 (日)﹁シケイラ・デ・ソイザ日本逃使録﹂(前掲﹃長崎市史 (日)﹁正係議船来初記﹂(悶努二ニ二氏)。関投、一一一一一賞。 (臼)向。 (お)向、(河川首一八八一八九頁)。 (M) 問、(河設一八九百周)。 (お)向。 (口)前掲﹁勝茂公務考補第十下﹂(吋佐賀県近世史料第一一編第二巻い七一一一八百民)。 一 頁 。 (お)前掲吋長崎市白人通交貿易編西洋諸底部門四九九五O 一 七千九百四十二人・紛七百一一一十一般佐賀務八千三百五十人内三千三百五十人綱子、関船ニ十忍般、荷船百綬﹂(前掲﹁正保来 (日)降、(問者七三七支)、﹁御番方大概﹂では水主入れて﹁一万千一二百人・船数百二十五綬﹂とあり、﹁正保米航記﹂では﹁凶万 朝記﹂ロい沢一崎市出入通交貿易編西洋諸図部い附録﹁務国特派使節史料﹂一回二頁)、﹁徳川笑記﹂には﹁四万八千三百余人・船 ﹁正保扇町船来胡明記﹂前掲﹁長崎市交通交貿易抑制西洋諸国部門一一一四頁。 八液九十八般﹂とある。 (初)﹁多久家有之御常一日物写﹂、﹁御援方大柳川﹂。 ( ω ) (幻)前掲叶勝茂公諮考補第十下﹂(﹁佐賀関町近世史料第一編第二巻町七二六支) (幻)﹁侶⋮⋮間家殺﹂ではニ般の乗如船員四五六人、石火矢一般一一O門で三段の矢慾に配備されていたとある。(前相現新訂奥田家譜第 )0 0( 前掲吋長崎市史通交貿日朝⋮湖西洋諸闘部い│附録﹁葡悶 二巻い一九三頁)。﹁正保黒船来航記﹂では、石火矢が大小船に各二六門で計五二円、(両方に二O門、表一一門、艦二門、隠二 特派使館史料﹂一一三官民 門)、大船乗組問良一一O O余人、小船一五O余人であったとしている 2 1 6 ;長崎努備初期の体制と佐賀務 長崎滋台場の場所 秀島成忠ff;左潔藩銃砲沿革史j 第 8 2悶より 217 佐 賀 大 学 綬 済 論 集 第3 5巻第 4i ラ 2 3 ﹁シケイラ・デ・ソイザ日本逃使録﹂前掲コぃ氏崎市山人 一一一、長崎饗備体制の進展 通交 mH 日明編問洋諸問同部い附録﹁瀦悶特派使節史料﹂、二二三官民。 -高嶋・脇津の五か所に遠見番所が設けられた。 O折、お火矢ムロ一一一ケ所、一戸町番所は一九軒、石火矢置き所四ケ所であった。此れよりする (一六回九)には、 オランダ船帰帆までは、一縮問藩主、佐賀藩主とも在領となり、非番の者が其の後参 慶安二年一一被仰出候ハ、長崎御番之犠非番之年も阿関陀船帰帆迄ハ前筑前守・前信濃守河人共ニ致荘問、非番之 勤することになった。 鹿安 と石火矢は西泊番所と一戸町番所に配置されていたとみられる。 西泊番所の定小践は と、西治番所は震安部年(一六五)に、一戸町番所は承応元年(六五二)に定番所が設けられたとしている。 一同四年氷川州酋治御番所定小屋建板屋右翠位筑前より残之、承応一克年壬間以一戸町御番一所右悶隣位此御方建之 (俊安) 大概﹂には とまだ佼小屋であった。正式の定番所が設けられた年に就いては確定されていないが、慶安期とみられる。﹁御番方 番中西治・戸町仮小屋ニ御番被相勤候 御両家共御番始者御番所無之ニ付御番人船ニ被差援候処、其後筑前番中西泊・女神再所江仮小屋相立、此御方制御 とある。四泊番所、外町番一的ともまだ正式の番所はなく仮番所であった。 同年初市香焼・沖島・伊王島・高嶋・脇津此五ケ所へ遠見番所相立候事 寛 永 ニ 十 年 ( 六回一ニ)には香焼・沖鳥・ 番所・大砲管理体制の展開 → ( 218 (5)(6) 方ハニ之自を相勤、間関陀船帰帆之上参勤可仕留被仰付候事 とある。また、﹁毎年九月二十日阿闘陀船帰帆以後相伺候テ加番引受申候﹂と、オランダ'船に応じて参勤体制が整え られた。オランダ船の帰帆は九月ニ十日であった。の長崎見聞りに就いては、九月までに一一一剖は行うこと が決められた。 -神崎・女神・大田尾の七ケ所の建設は 承応元年より長崎見廻之義九月迄ニコ一度羅越候様ニと被仰渡候事 とあり、長崎見回りが義務づけられている。 石火矢を備える台場、自崎・陰の尾・長刀岩・ に改められている。この七ケ所 一承応二年発日制御石火矢ム口場被建、右普請之儀松浦肥前守殿江被仰付候、場所見積鍋島志摩被仰付、 七ケ所台場 出来候事 と平一一戸藩が担当した。この台場は﹁寛文七年庚牛七ケ所共石一知一之上木柵建﹂に のム口場は、明暦冗年(一六五五)八月に当番年と非番年における受け持ちが決められた。これまで石火矢・大簡の 受け取りは 御石火矢・大筒・玉菜毎年御番方江御奉蓄を以被相渡候 と、老中からの奉書を基に当番藩に長崎奉行が渡していた。これが明暦元年八丹には -於長崎神崎・女神・大田尾此三ケ所石火矢ムロ之者其年之当番人、白崎・陰の尾・長刀岩・高鉾此四ケ所者非番 之方江附之、石火矢玉薬共一一向後者不及十本書、当番・非番次第受け取致し之儀年々無相違可有之 と、当番の藩は神崎・女神・大関尾の石火矢の台場宇佐、非番の藩は白崎・陰の尾・長刀岩・高鉾の台場を受け持つ の台場には石火矢一 O門・大筒九門を商泊番所から当番藩に、 ニ門を外町番所かで受け取るようになった。 2 1 9 ことになった。これに応じて、神崎・女神・ 白崎・絵の尾・長刀岩・高鉾の台場にはお火矢と大筒各 長崎努備初期の体制と佐賀務 佐賀大学経済論集主主 3 5巻第 4考 明限刷 のように規定している。 と長崎警備を第 権力に包摂された大名権力の 義的な役目と位置付けている。極めて重課していることが窺える。 、長崎御番仕組之畿、渡霞候帳面之通縦非番之年たり共油断有間数候、長崎御番第 とあり、﹁長崎御番第一ニ 長崎警備は軍役の一貫であり、 それに対応する姿勢が出ている。外交権も無く、統 状況がここに表されている。 数が定められていることが判明する。石火矢については と、規定通りに船・鉄砲・武具を整えることが命じられている。これより慶安五年段階ではすでに船・鉄抱・武具 無相違様可入念候、自然不足之犠も可有之かと存申渡候 一、当番之年、深堀・西泊・一戸町其外所々番之者替りニ申付候条、人数井船数・鉄砲数・武具何レも帳酉ニ少も また次ようにもある。 ニ候条兼而其心得可為肝 佐 賀 藩 は 慶 安 五 年 ご 六 五 二 八 月 二 十 二 日 に 長 崎 警 備 に つ い て ﹁ 長 崎 僻 番 付 市 之 子 頭 ﹂ を 出 す が 、 それには次 藩にとっては、より責任が重くなったことでもある。 とある。これらの措置によって長崎警備の石火矢・火薬が佐質藩と黒間諜の管理に任されるようになった。これは 御五火矢御ムロ場柏商一シ候刻ハ、当番之方より、七ケ所なから御芯火矢仕かかる候市非番之方江可相渡候こと うになった。 と、老中からの泰警なしで、受け取れるようになり、また、当番薄が七箇所の石火矢を非番年であった滞に渡すよ 七ケ所御台場井御石火矢・大筒・玉薬共以向後不及御奉書恩請取渡被成候様一一と制御達書被相渡候事 は 2 2 0 長崎警備初期の体制と佐賀務 一 、石火矢打候処誘之儀、今有之もの大形ニ候、其上打所も少く候条、鍋島七郎左衛門好一一て誘置候様ニ可被山中 一 ふ ぺ J rri 一 E τ とあり、石火矢打ちにも対応が求められている。 長崎盤備の体制 寛永十八年から開始された長崎替備の体制も次第に整えられてきた。警護の人数については﹁寛永十九年・正保 元年再度之御番人数不分明﹂とあ(円、警護を担当するようになった当初な人数は不明とされている。正保一一一年(一 六四六)では一一ニOO人ほどが長崎に詰めていた。延宝九年(二ハ八二四月の体制の様相を見ておこう。 警備において、当番年と非番年とでは体制が大きく異なっている。当番年では一三九四人が出動し、船頭腕子が 五九O人とある。また四六般の船が動員される。これが非番の年では人数は五一ニO入、船がニ四股と半分以下にな り、船頭綱子は一七O人と四分の一程度になる。当番年はかなりの人数を派遣しなければ ならず、警備の担当が濯にとっては大きな負担になっているが、オランダ船が出帆した以 凡都合人数八百人余﹂となり、 ややこの響備体制が緩め )四月に報告されたものによるとオランダ船来航の折と、帰帆以後 後は﹁阿閣柁船婦帆以後詰人数 られる。 延宝九年(一六八 では体制が異なっている。当番の年には大物頭一入、主従が八五人の隊制で赴任し、これ に鉄砲頭四人・主従各一 O人が伴い、鉄砲足較が五五人加わる。五火矢関係では、侍層七 人・主従者三人で出役している。人数の点からすれば、鉄砲関係者が石火矢役の者より多 い。石火矢は必ずしも主体になっていない。関船大小一一一般とある。関船は早船ともいわ 2 2 1 ( こ 今 苦 笑 1 長崎怒備の人数 れ、速力が速く行動力にとんでいた。櫓数が四O挺以下のものが小型関船、八O挺が大関船とされていた。関船の g t 自 主 香 月r r j ! オランダ船来滋時 オランダ紛帰帆以後 r f 古 血 管 倒J / 許 カf ニ付I T 百之一寸f i下j 主 悉 5 人 大物頭 1人主従 8 番頭侍 1人主従 1 5 人 鉄砲頭 4人主従 1 5 人 鉄砲頭 2人主従 1 0 人 石火矢役侍 7人主従 3人 石火矢役侍 4人労従 3人 ! を5 5 人 鉄砲足I 主総4 5人 鉄砲f │沼紛大小 1 2綬 関船大小 5般 船強制子 1 9 6 人 船頭綱子八 1 3 人 戸町議所 オラン夕、船来?を時 f d帰帆以後 オランダi 年 大物i l i U人主従 8 5 人 番顕{す l人主従 1 5人 鉄砲頭侍 4人主従 1 0人 鉄砲顕侍 1人支従 1 0 人 日付役侍 1人主従 1 0人 0人 隠付役{苛 1人主従 1 お火矢役{す 7人主従 3人 鉄砲足I ! 笠5 5 人 鉄砲足軽 4 5人 2綬 関船大小 1 僚船大小 5 s 受 船頭刺子 1 9 6 人 3 人 船頭綱子 8 注{長崎斜1 / 寄ガニ付削之…i 随 一F J 当 番 お ある。 。 三 ) ておこ﹀フ。 香焼向劫 当番年には、侍 の手明鑓三人、鉄抱足軽 O人、関 人、各主従三人 とっていた。これらについて検討し 藩は長崎湾内の領地に警備体制を 長崎の響備を強めるために、佐賀 佐賀藩独自の長崎饗備体制 それだけ負担が軽減されることでも れる措霞であるが、藩にとっては、 くになることは、鎖国体制からとら 警備体制が緩められ、人数も半減近 以上からすると、長崎警備はオランダ船に対する対応が中心になっている事が窺える。オランダ船の帰杭以後は 一戸町番所の警備体制も酉治番所とほぼ同じである。だだ目付役一人が記寵されているのが異なっている。 大物頭は岡市藩し、番頭一人が統括責任者になり、鉄砲頭、石火矢役も半数ほどになる。関船も半減している。 オランダ船は九月下旬に帰帆の途につき、長崎警備もこれによって警備体制が緩められ、兵員はほぼ半減する。 大小の内訳は不明であるが、これを操船するために、総顕嗣子が一九六人動員されている。 佐T T大 字 経 済 論 集 第 3 5 巻 第 4号 2 2 2 長 I~奇後備初期の体制と佐賀務 侍 1人 手明鑓主従 3人 鉄i l 包足軽 1 0人 多Il窓足軽下議 ~Jr[合 1 綬 ~JM'd 1般 関紛 船 頭 綱 子 6人 船 頭 脳 子 6人 船E 員総子 6人 2人 御iJ[Jf軽下番 2 人 u型 会 i :I 災i 防御選ニ付裕之一巡下j 伊王嶋 f 年 非番 当番年 オランダ船来浴時 オ ラ ン ダl t { ' d1 活机以後 J ! ) ( T i 包頭{ぎ l人主従1 0人 侍 1人主従 3、 4人 侍 1人 : t従 3、 4人 欽 約 足i ! l i10人 御TI[足絞ド番 2人 御 陵J E i j 笠下番 2人 !潟船 2般 関 船 1綬 関自治 船頭綱子 9人 船 頭 脳 テ 5人 船 頭 側 子 5人 u使 t 主「長崎斜I j 霊ニ付浦之一一巡 F J の警舗は香焼島とやや異なる。当番年は鉄 砲組が主従一 O 人の頭と足軽一 O人が配備される。 関船はニ服、船頭嗣子も九人が配置されていて、 焼島よりも多い。この体制がオランダ船帰帆以後は I 司 鉄砲組がいなくなり、関船、船頭艇子もほぽ半減す r す さ l 鳩 る。この体制が非番の年も継続されている。 高嶋も伊王島と同じ響備体制であり、鉄砲足軽 O入、関船二般が配備されている。高嶋ではオラン ダ船帰帆以後も関船は減っていない。高嶋の位讃か 2 2 3 らして関船が重視されている。 沖 島 般、船頭嗣子六人となっている。オランダ船帰帆以後も、鉄砲足軽の配備が解かれる以外は、この体制は基本 侍 1人 手明鎚主従 3人 ム向制川 侍 I人 f t j鎚主従 3人 手<l 八日 ゴド番年 オ ラ ン ダ 船 帰i 汎以後 的には維持されている。非番の年もオランダ船帰帆以後の体制と同じである。これらからすれば、香焼島の警備体 当若手年 オランダ船来港B~j 制は、足軽人数以外では、非番にかかわらず基本的には同じ警備体制であったとみられる。 香焼島 佐 賀 大 学 経 済 論 集 第3 5巻第 4号 深堀 当番:年 非番年 オランダ船来港特 オランダ紛帰帆以後 0人 鉄 砲 頭 I人 主 縦 1 侍 1人 主 従 3、 4人 侍 1人 主 従 3、 4人 鉄 砲 足 軽1 0 人 1 1 香2人 御直足毅1'"= 御E 室足軽下番 2人 関 船 2綬 i 鶏船 2般 詩書船 2綬 船 頭 綱 子 9人 船 頭 綿 子 8人 船 頭 綱 子 8人 注 1 : 炎筒倒1 詩ニ付随之…i l l iドj 対3烏 当主寄生f- 非番年 オランダ船来港時 オランダ船帰I 机以後 侍 1人 主 縦 1 0 人 待 l人 侍 l人 主 従 3、 4人 足 軽 5人 街l 直足軽下番 2人 係i 直 足I 陛下番 2人 関 船 2綬 高司船 l綬 関 紛 1綬 船 頭 綱 子 9人 船頭綿子 船頭 aI 長約御iIl'ニイヨ[訂之一巡下j l 協津 当番年 非番年 オランダ船帰机以後 侍 1人 侍 1人 侍 I人 手司尽鑓主縦 3人 n u 経n 箆 足i 経下番 4人 足 経 5人 耳 自 互足軽下番 r M l 船 I般 関 船 1綬 関 船 1綬 船 頭 鶴 子 7人 船 販 制 子 7人 船 頭 刺 子 7人 注 3人 I J 造的綴1 ' 1 許 ニ { 寸I 而之-;自で i 沖島は侍一人、足軽五 人、関船二般、腕子九人が 当番年の配備体制である。 鉄砲組の配備はない。オ ランダ船帰帆以後は、枇な 髄人数が半減する。あま り積一一きが霞かれていない。 脇津 脇津も沖島と似た体制 であるが、関船は一一般の みの配備である。ここも オランダ船の帰帆以後は、 配備人数が半減する。 幕府指示の長崎警備の担当場所は以上の所であるが、響備体制を強化するために、佐賀審は、藩領域である深堀 に比震をおいた体制をとっていた。 当番年は佐賀藩本藩船が八般、船頭綱子八五人の配備とともに、深堀に知行地を持つ深堀氏が四娘、船頭嗣子ムハ 高嶋 2 2 4 侍 4入 0 0 人 鍋島志摩家来3 斜 ( 船 1 鈎 盟l 諸 手 純 首 ( 子 i 船5 6 9 人綬 ) f ( E 船 J 1 手頭前航1 3 I 詩 子 1 2 6 綬 7人 ) 志(船摩頭4 腕綬 子 67 人) 約般 子6 7 人) 五 ( 三 均 燦 台 頭4 オランダ船帰l 汎以後 番頭侍 1人主従 15人 主主「長0I!;j街J~寄ニ付而之一週j 七人を出している。 深堀の役割が高まるのは、オランダ船が出航してからである。深塘氏の家臣一一 OO人が警備担当となり、佐賀本藩からは、番頭人が派遣され、御手前船も一 二般になっている。 長崎警備で当番年には西泊と一戸町の番所の詰めるが、高泊番所には大物頭や鉄 砲頭など在番し、石火矢役、鉄砲足軽も一詰めている。西泊番所と一戸町番所の体制 はほぽ同じであるが、一戸町番所には自付役が配置されている。 西泊番所と戸町番所の人数は貞享元年では八O 四人とあり、笠(の構成は侍主縦 六人、足軽四 二五二人、足軽一一 O人、船頭水主四四二人となっている。船数は一 田駿である。 一八人となっている。 この折に深堀に配置された人数は四四八人、この内訳は侍主従三 人、船頭水主 以上、延宝九年四月に提出された書類から長崎警備の体制について検討してき た。基本的にはオランダ船の来港と出港後とでは、警備体制は異なり、出港後で は配備の人数は半減する。 長崎警備が外国船に対応するものであったとしても、警備の体制はオランダ船 の動向にもとづいて運営されている。季節風の関係からオランダ船は九月下旬に帰帆の途につく。それゆえ九月以 │ │ 理 蓄 額 額 棋 請 弘 会 致 教 ) ) 侍 4人 鍋島志摩家来3 0 0人 侍 4人 非主寄生手 当番年 長崎警備は福間藩と交替制であり、四月に警備を引き継ぐようになっている。九月下旬にはオランダ船は出港す るから四月から九月までの警備が肝要となる。派遣藩兵一一ニO O余人、配備の関船五腰、船頭嗣子丑六O人の動員 2 2 5 深場 後は警備人数はほぽ半減する。 長崎怒綴初期の体制と佐賀芸春 佐 賀 大 学 経 済 論 集 第3 5巻第 4号 は、落にとっては震い であった。 ところで、長崎警備を武器の閣から見れば、石火矢が配錆されるのは西治番所と戸昨番所のみであり、その他に は配寵されていない。派遣される藩兵の基軸は鉄砲組であり、関'船の比重が高い。石火矢にはあまり議きが置かれ ていない。この点は配備された石火矢の状況から窺われる。 注 会-m剛山)。 (1) ﹁御番方大級﹂、なお﹁長崎仰向後ニ付限之一通﹂、﹁勝茂公諮考惜別 第十下﹂(前掲門佐賀県近欧史料 第 編第二巻いふハ九九官民 一問、四泊・一戸町へ被抑制立、其内一戸町ハ当家ヨリ、西治ハ筑前ヨリ勤之﹂(前掲吋佐川以関川近肢史料第一一編第二巻い七五二真)と ( 2 ) ﹁御援方大概﹂。 ( 3 ) 向。﹁御襟ガ大概﹂では附脱出女間年としているのに対して、﹁勝茂公譜考補第十下﹂では﹁今年(俊安二年・:注)長崎将御革命 いる o (﹁日本地名大辞典間十二長崎い角川設応一九八七年、六七一、七四一一一反)。 あり、﹁制御援方大級﹂の記述と災なっている。﹁崎陽郡談﹂には皮安一川和十、﹁中日却設臼記﹂は間近年になっていることが紹介されて 官民的御洛ニ付而之一通い。 ﹁長崎党書﹂、なお﹁勝茂公諮考補第十下﹂(前掲﹁佐賀県近役史料第一一編第二部い七況一一一員参照)。 ﹁長崎御番ニ付限之一通﹂。 ﹁長崎党沢口。 問問。 ﹁御誘方大概﹂。 (叩)﹁匹目的御援方大概抜書ご。 (4) ( 5 ) (6) (7) ( 8 ) (9) m日系譜第二巻い二間五真。 (日)前掲辺制訂磁⋮⋮ m (立)肉祭、一一間七i 一一回八真。 (日)﹁長崎御番方大級抜設一﹂。 2 2 6 ;長崎幸子辞j i 初期の体制と世主主4 務 f 住 11H500 図(鉛ミL~24、鉄五 31) 2 金 l l l D O O日(鉛 ' = E 1 2、鉄玉 2 5 ) 1 E 立 金 9 5 0自(鉛玉 1 0、鉄五 3 5 ) l 6 0 0殴(鉛ヨ5:2 0、鉄ミE 9 7 ) 2 鉄 f 選 住 三 j 者 金 府 金 2質問 (~;主主 20) 1JH回 ( 鉄 : l i3 1 ) 1 6 0 0自(鉄五 3 0 ) 1 言1 1 0 タ ト ニ ニ 1 <1 -八九六匁(Jミさ;)J~ 2す) ll k E(沈落合よりヲ I t 1 詰 ) 花火矢合 4長E 1 1J r 造的御 i 係先淡緑 i ノr 咋 I f 司 五 ミ 自 門数 1 0 0日(鉛:玉 2 0 0 ) 4 5 0日(鉛玉 9 6 ) 2 0 ) 3 0図(鉛ヨi12 3 9 aI J 乏i 防御I 話先線級j ( i ) 西治番所 ~.g ~ I 埼 延 長川 :t:附子 九御 i 燦 年援しも 磁ガ 聞大 月概 川抜 [ J i l ? 源ー 五 さ 1 箔 L3 門 よ り 長 l 崎 街 I I お A 数 J t 外 側l 付 荷 主 1 : i f i ' 被 椴 改 線 大 日 ー 主 主 長 御 番 付 加 之 通 Yi ﹂に所収)。 一 O%の成分 商泊番屋のお火矢は上表のように一 O 、 門のうちで銅七O %と からなる唐金製が七門で、これが中心に なっている。鉄石火矢が二門有る。お火 矢台が四門なので、すべてのお火矢が台 っきでなかった。 2 2 7 四 配備容れた大砲とその質 Jj~f 1 i 1 ! ( M ) 1 (vm) 門数 11 ' J 8 0 0目 ( 鉄 三E 1 2、鉛ミ五 1 2 ) (日) 銅 (げ) ロ 玉 1 き 幕府から貸与された石火矢・大筒の配備状況を見れば、以下のようである。 石火矢 佐 賀 大 学 経 済 論 集 第3 5 著書第 4号 唐 金 1 ] 雪7 0 0臼 (鉛玉 1 2、鉄三五 1 1 ) 1 j 者 金 8 0 0笥 (鉛玉 1 0、鉄三五日) 1 蔭 、 炉 泣乙 5 0 0 1 3 (鉛.:E1 2、鉄玉 2 2 ) 1 金 7 0 0自(鉛玉 1 0、鉄玉 2 1 ) 1 腐 f : 筏i 均衡J c j 号先縦録j 注 u空間 金 麗 3 0 0自(鉛.:E 1 0 ) 1 1 0 0回(鉛.:E30 0 ) 6 5 0 1 3 (鉛ミE14 4 ) 3 3 0自(鉛玉 8 0 ) 2 金 E 普 1 1 金 (鉛玉 1 0、鉄玉 1 2 ) 9 0 0日(鉛三五 1 0、鉄玉 2 9 ) 長 雪 1 鉄 n雪包 鉄 l貿 2 0 0悶(鉛玉 1 0、鉄玉 1 0 ) l 鉄 6 0 0目(鉛3i6 2、鉄三& : 5 5悶) 4 (鉛玉 1 2、鉄三& : 1 0 ) 1 2 計 一戸町番方 戸町番所には石火矢が上表のように 二門配備されているが、このうち鉄 製が六門であり、西泊番所とややこと 西泊番所の高火矢 るが、 その質は極めて劣悪であった。 った。石火矢は幕府から貸与されてい 筒の配備状況を見れば以下のようであ )の石火矢・大 なっている。石火矢台もニ門に過ぎな 0 天和元年(一六八 し3 門数 回 玉 門数 目 3i f 長崎御主幸先総長量j 1 2 大筒 嶋原や天草から運んだものなどが主であり、凡そ実戦に耐えるものではなかったとみられる。 石火矢は五の重さで大きさが表され、 五OO匁以上が石火矢、 それ以下が大筒と称されとされているが、 の嶋原・天草の一授の折に用いられたものとみられるが、これが長崎警備用に使われている。 うちこ門は﹁悪敷ニ付鋳直﹂されている。鉄簡七門、大筒九門が嶋原と天草から運ばれている。寛永十四、十五年 目安である。 一貫目から二質五O O匁が主体になっているが質は悪い。﹁沖ニ沈船より引揚﹂の唐金筒が七門、この 一応の たことが窺える。唐金は銅七O %と 鉛 一 一 一O%の割で鋳造された大砲であるが、沖に沈んだ船から引き揚げたもの、 西泊番所の石火矢四門の由来が表ーのように記されているが、これによれば様めて劣悪な右火矢でしかなかっ 石火矢 2 2 8 長崎慾備初期の体制と佐賀務 I H[500E ! 1 1 I 1 2寅 5 0 0自 I 2 ] 者7 0 0自 1 j 寄金街 2門 I震 5 0 0白 l 沖ニ沈船より司!揚佼筒、悪!敬 6 0 0自 l ニ付鋳直し 3 1 主日極Jf U 部より参る由 唐金筒 1門 l紫 6 0 0白 1 出所不知 鉄筒 2門 1貿尽 I 臨海原より参る出 1J ' UOO回 1 鉄 筒 7門 l質問 3 鉄 筒 5門 1 8 0 匁的問先 近年天草より参る由 大 街 9門 初 主 よ りi 泊 強 i Z 南高原より参る自 注「長崎街J i 香ニ付而之-;段下J 戸町番所の石火矢 戸町番所には表 2 のように一五門が配備さ れていたが、これも西泊番所と悶じ状況で あった。 沖に沈んだ船から山引き揚げたのが、鹿金簡 門は鋳産 でニ門、鉄簡で一門あり、嶋原からも鉄筒呂 門、大筒一門がきている。麿金筒 されているが、庇があるとしている。 明 騎 二 年 ( 六五六) のこととみなされる 事項として、次のような記述がある。 御奉書を以沈船より揚候麿金御石火矢壱挺、 長九尺弐寸、 五呂八百九拾六匁之鯖当番ニ 被相付旨此御方江被仰下繰 と沈船より引揚られた石火矢が引渡されて ルトガルと断交した。このポルトガル船から引き揚げられた石火矢が長崎警備に用いられている。 沈船と申候は慶長十四日酉有馬修理允・同左衛門乗取串候異国船之由 と あ ( わ れ o この船はポルトガル船マ iドレ・デ・デウス号で、神之島の沖で有馬晴信によって沈められれ。幕府はポ 5 0 0図 3 0 0自 松 浦n t I J前守進上 l察 白 唐金筒 2門 この沈船については 0 0回 2貿 5 8食尽 右五挺ハ i 中ニ沈船ヨリ号 I t 易 2] 雪白 筋金筋 5門 来 出 門数 自 玉 種類 る 三 酉治番所と戸町番所に配備された石火矢は、質としては良くなかったことが窺われる。長崎では石火矢の台場が 229 い 表 1 間泊番所の石火矢の由来 佐 賀 大 学 経 済 論 集 第3 5 巻 第 4号 表 2 戸町議所の石火矢の出来 1質問 l 沖ニ i 允船より引き揚げの出 1賞 3 0 0日 2 出所不知 1質問 1 1 1 5 0 0臼 l 鋳E ますも庇あり 1貿 5 0 0自 I 異国船より進上 沖ニ沈船より号 i き揚げの出 3 0 0自 初 最 よ り1 5 0 先 進 嶋原より参る出 鉄筋一門 大筒一門 │鳩原より参る山 aI 長崎鈴子容ニ付 i l u之J 白下 j E お 造られたが、配備された石火矢・大簡の質が悪かったことは、 石火矢と大筒で呉国船に対処することに重点が置かれていな かったことに由来するとみられる。 長崎には其の後も石火矢が持ち込まれている。 覚政五年(一七九一一一)年のこととして、次のような記述が ある。 公儀被相渡置候御五火矢唐鋼鉄両様一一て都合コ一拾九挺、往 古蛮閤其外諸邦より御取集之御筒故ニも候候哉、伺連も性 合惑敷、経年踏錆起等有之、存分之薬込放出難相叶 とある。石火矢は一一一九挺に増えているが、取り集めの石火矢 で質が惑く、錆も出来ており、十分な火薬を入れて発射する のが困難であるとしている。 注 j6666662 (2) ﹁天利一一年ニ改之自民総州方御番所側抑石火矢大筒員数党﹂(﹁一回目的御番ニ付市之一碍 1﹂ 1 に所収 ( 3 ) ﹁長崎期間設先般録﹂。 。 (4) 向 (5) ﹁勝茂公論考補 第十下﹂(前仰向吋佐賀県近世史料 第一編第二巻い二六七i ニムハ八頁)。 )O (l) ﹁公儀被召援候御石火矢大筒井五薬御道具峡﹂(﹁長崎御番先 縦録﹂に所収)。秀島成忠﹁佐賀議銃砲沿不出入い(肥前史談会、一九三四年)一一一八一一一 一二八瓦資。 1質問 4 f 自 倒れもlJl 鉄筋羽河 5 0 0E l 鉄筋二丹 1 腐食街五門 門数 玉 種類 7 0 0回 1 寄金筒一門 来 自 8 0 0自 j 寄金筒ニ門 2 3 0 ﹁長崎御革命方大概﹂。 むすびにかえて 鎖国体制下で大きな役割を持った長崎の防備体制について、若干の検討をしてきた。紡備に欠かせない大砲は、 幕府から借用という形態をとっていた。戦国期においても、大砲は、王戦力として運用する度合は、鉄砲に比べて低 かった。平地が広くなく、山が多いため重い大砲の運搬に多くの労力を要したことなどが、大砲の普及をもたらさ なかったとみられる。大型軍船を所持できず、大砲も保持しない状況にあっての長崎警舗は、関船と鉄砲および兵 力が主体になっていた。統一権力に包摂され、その編成原理の中に組み込まれた大名権力の様相が如実にでている。 軍役としての長崎容備であることから、佐賀藷と福岡藩は長崎警備に力を注がざるをえなかった。 正保四年にポルトガル船が来航した折の対応は、関船を主に使用した体制であった。ポルトガル国王の使節であ り、打ち払いの方針が採られなかった事によるものであった。大砲数では、長崎に配備された大砲よりも、ポルト ガル船ニ般の方が多かった。このような奥田船の装備からして、多数の異国船来航の場合は、十分な警備体制たり えない状況であった。配備された大砲が、沖に沈んだ船から引き揚げられた物や筑のある物であったことは、大砲 での防備では有効性を持たない警備体制であったことを示している。東南アジアの覇権を掌握したオランダが貿易 に転換してきたことが、長崎警備での武器の増強を強いるものでなくなった。 通常の長崎警備に於いても、すでに延宝九年(一六八一)時においてオランダ船の出港以後には、警備人数が減 らされることから、 オランダ船との対応で長崎警備の体制が運用される事態にあったことを示している。警備もキ 2 3 1 6 相手国であり、 イスパニヤやポルトガルの来航渡も低まったことから、防備体制にそれほど力を注がなくてもよい 長崎滋備初期の体制と佐 i ? I i務 リシタン統制から漂流民の対応に転換してゆくが、これは長崎警備が形式化してゆくことでもあった。 佐賀藩は蕃領内に独自の警備場を設けた。香焼島、伊王島、高嶋、沖島、脇津にそれぞれ藩兵と関船を配置した。 これらが長崎入港の折の通過地であったことから、長崎警備を支えるためであった。 ω 本稿は文部科学省平成十四年度科学研究費補助金﹁特定領域研究 ﹂の研究課題﹁我が国科学技術繁明期資料の 体系化に関する調査・研究﹂による研究成果の一部である。 佐 賀 大 学 経 済 論 集 第3 5務第 4号 2 3 2