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佛教大学社会学部論集
第 53 号(2011 年 9 月)
いわゆる「脳死・臓器移植」を超えて(2)
──その医療思想と代替医療をめぐって──
村
〔抄
岡
潔
録〕
前回,拙稿「いわゆる「脳死・臓器移植」を超えて」(村岡,2011)では,「改定
・臓器移植法」で,事前意思不明の脳死患者のドナー化を事後的な家族のみの同意で
合法化したことの医療倫理的な問題点を扱った。本稿はその後編として,「脳死・臓
器移植」にみる医療思想の諸問題と,その代替医療(異種移植,人工臓器,再生医
療,「固有生体医療」)を紹介し,臓器障害の患者の治療法としては,他の人間をドナ
ーという手段として利用する臓器移植,特に「脳死・臓器移植」に代わる手段が多様
に存在する,ないしは,近未来的に利用可能性が高いことの医療社会学的意味につい
て論じた。
キーワード:脳死・臓器移植,代替医療,人工臓器,再生医療,「固有生体医療」
本稿は,前論考(村岡,2011)に引き続き「脳死・臓器移植」の問題点について考察する
ものである。前回では,医療倫理的および医療法的アプローチを行なった(1)が,今回は,前
世紀に実用化されたまま,今日に至る「脳死・臓器移植」ないしは「臓器移植」という「旧態
依然の医療思想」と,その代替となりうるが,特に日本では「脳死・臓器移植」に比して等閑
視されぎみの代替療法について医療社会学的および医学概論(哲学)的なアナトミーを行なう
ものである。
1.臓器移植のイデオロギーとは何か
現代医学(近代医学)は,瀉血(腕の静脈から血を抜く)や瀉下(薬物で下痢をさせる)で
専ら治療を行なっていた西欧の「英雄医学」(ワイル,A, 1993 : 15−19)の末裔である。それ
が,今日私たちが認識するような医療形態の萌芽をしめすようになるのは,周知のように自然
科学が自然哲学にとって代わり,生物という概念や生物学という分野が誕生する 19 世紀のそ
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いわゆる「脳死・臓器移植」を超えて(2)
(村岡
潔)
れも半ば以降のことである。とくに R・コッホや L・パスツールらによって確立された細菌
学を医学の理論的支柱としつつ,近代医学は自然科学に擬態し,あたかも医師=科学者のよう
に装うようになった(2)。
19 世紀には(近代的な意味での)臓器移植は行なわれなかったが,それ以前から皮膚移植
は行なわれた(3)。臓器移植という医療技術は,さらに 1 世紀後の 20 世紀半ば以降に実用化さ
れることになる。このテクノロジーが世界の注目を集めたのは 1967 年 12 月に南アフリカや
米国で相次いで行なわれた心臓移植の世界的報道のためだが,腎臓移植はその十年余り以前,
肝臓や膵臓の移植も数年前に実験治療(人体実験)として試行されていた。
近代医学は,というより,元来医学は,患者の身体の損なわれた機能の回復を外部から様々
な手段(薬や手術)を用いて援助するという方法をとってきたし,現在もそれが主流である。
しかし,特殊なのは,臓器移植というアプローチが,従来の全体論的指向と異なり,19 世紀
以降,医学の支配的イデオロギーとなっている人間機械論と特定病因論に立脚している点だ。
つまり,身体は心臓や肝臓や腎臓などという臓器という部品(以下,部品臓器)の集合体であ
り,その身体を病気たらしめているのは,いずれかの臓器の故障なので,その故障を修理しさ
えすれば全身の病気は治るというアイデア(観念)に基づいている。つまり,臓器移植は,機
能不全と見なした臓器を患者から取り外し,代替として他の人間(または人間に近い哺乳動
物)から摘出した「同名の臓器」と交換すれば同等の機能を果たすという信念の体系に支えら
れている。こうした機械論的前提が正しければ,すべての移植手術が成功すべきはずだが,失
敗例も起こる。だがその失敗の原因は,克服可能な条件の問題(拒絶反応の強さ,患者の重篤
さ,医療者の技量不足,免疫抑制剤等による合併症や偶発事故など)に還元され,移植理論
(観念)の是非はまず検討されない。
このような観念にしたがえば,心臓の場合,その機能回復を図る薬物療法や外科的療法(心
臓弁の取替えやカテーテルによる心筋の血流回復などの従来の固有の心臓の強化を図る従来の
治療法)が無効で心機能が悪化した場合,死に至るものと見なされるので,第 3 者(多くの
場合,ドナーとなる人間)の心臓と置き換えると,ちょうど機械の部品交換のように,心臓機
能が回復されるはずなのである。だが,このテクノロジーが実践され機能回復が完成するため
には,クリアしなければならない 2 つの大きな条件がある。それは医学的には免疫システム
による移植後の拒絶反応(4)の抑制であり,バイオポリティカルには「臓器部品の調達」シス
テムの開発である。
2.臓器移植の秘匿されやすい特徴
まず,免疫の問題について見てみよう。臓器移植で移植される臓器や組織は移植片(graft)
と呼ばれる。この移植片が,移植された人間(宿主)側の免疫システムで非自己のものと識別
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され排除される過程が拒絶反応である。人間同士でも(同種でも)拒絶反応が起こらないの
は,原則として,移植片が宿主自身に由来する自家移植か,一卵性双生児のように同一の遺伝
子構造をもつもの同士の同系移植の場合に限られる。それ以外の個体間の臓器移植では拒絶反
応が起こり,移植臓器は排除されてしまう。1970 年代までの心臓移植ではそのほとんどに拒
絶反応が起こり失敗に終っている。拒絶反応は 1980 年代以降,「免疫抑制剤」の開発で抑制
可能になってきた(5)。しかし,拒絶反応は生体が日々自己を認識し維持しつづけるのに不可
欠な免疫システムの反応であるから,移植の妨げだから抑制するという機械的発想は,抑制過
剰だと免疫力の低下をもたらし(感染症やがんにかかりやすくなる),また,抑制不足だと拒
絶反応を招来するなどして,しばしばその個体のホメオスタシス(恒常性)を破壊に導くので
ある。
したがって,臓器移植は,一回移植手術を行なえば,その後半生を無事に過ごせるというわ
けではない。たとえば,2001 年の米国の UNOS の記録でも,移植患者の 5 年後の生存率(5
年後の移植片の生着率[一個の移植片が拒絶されないでいる率]
)は,生体腎移植が 91%(生
着率 78%)と高いものの,死体腎移植 82%(生着率 65%),肝臓移植 74%(生着率 66%),
心臓移植 70%(生着率 69%),肺移植 44%(生着率 42%)などである(スティラー,CR,
ウォール,WJ, 2007 : 2041−42)。生存率には,再移植の数値も含まれているので,移植片の
生着率よりも高くなっている。こうした数値や評価法をみると,がん治療の成績(5 年生存
率)のパターンとよく似ている。最近は,がん治療の成績も向上しているからだが,臓器移植
待機患者も進行がんの患者も,臨死的で重篤なのにも関わらず,前者は治療すれば前途はばら
色で,後者はそうではないというイメージが定着しているように思われる。また,その成績を
より高く(95% 以上に)維持することができないのは,単に免疫抑制の不十分さによる拒絶
反応だけでなく,他者の身体に入れられた移植片のうけるストレス(元来の物理的生理学的な
意味での歪み)による臓器部品の消耗もあると考えられる。
つぎに,臓器部品の調達(米語圏では「収穫」ともいう)システムの開発面だが,当初,死
体や生体(一卵性双生児の片方など)あるいは,ヒトに近い動物から場当たり的に調達されて
いた。しかし,成績は不振であり,長期生存は,1970 年代までは見込めなかった。それは,
調達した臓器の「鮮度が低い」ことと,次に述べるように免疫機構による拒絶反応が主な理由
であると考えられた。
臓器調達に関しては,ヒトと異種である動物臓器は拒絶反応が強く,一方,生体からの臓器
調達は同種なので拒絶反応はそれより弱いが,摘出で「健康な人間に傷を負わせる」として倫
理的に問題視されるため,とくに英米では避けられる傾向が見られた。
最初の心臓移植という実験治療(1967 年 12 月)を契機として,臓器移植を推進する医療
界は,臓器調達の対策として,早くもその半年後に死を再定義した。1968 年 8 月の米国ハー
バード大学医学部特別委員会の「不可逆性昏睡の定義」[脳死の判定基準]やそれを受けたと
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いえる世界医師総会での「シドニー宣言」がそうである。それの本意(工藤直志,2010 : 31
−33)は「死を定義する基準が時代遅れのものでは,移植のための臓器を得るときに論争を起
こすだろう」から,というものであった。こうした診断基準(死の再定義)が公的に認めら
れ,その結果「重篤な脳機能不全の患者」は,もはや回復の見込みがないという判定がなされ
れば,心臓が力強く拍動しているうちに「死亡宣告」され「死体」とする制度が開始された。
この「心拍動死体」からは,心臓停止以前に,心臓を含むすべての臓器が「より新鮮なうち
に」摘出することが合法化されていった(6)。死の定義は,元来,文化社会的なものだが,「脳
死=個体死」の「発明」は,そのバイオポリティカルな側面を如実に現した(7)。
また,移植用の臓器不足は,臓器移植が起動に乗り出す当初から喧伝されてきた。その際
に,ドナー不足の原因が国民の臓器移植への理解不足や無関心にあり,もっと世論を喚起すべ
きといった主張も少なくない。しかし,移植医療がこうして脳死・臓器移植に依拠する限り,
最初から,臓器は不足する構造になっている。なぜなら,三徴候死(いわゆる「心臓死」)で
亡くなる人と「脳死」で死亡判定を受ける人の比は,世界的に,ほぼ 99 対 1 であり,言い換
えれば,この 1% のうちからドナー(臓器提供者)が生じ,一方で移植すれば 99% の何割か
に相当する死者が助かるはずだという設定とも言えるからだ。
臓器移植が盛んな北米では(8),M・ロックによれば(ロック,M, 2004 : 299),移植臓器不
足が繰りかえし喧伝されているが,その一方で,これまでは制限されてきたような重篤の患
者,高齢者,幼児などにも移植が進められるようになった結果,臓器の需要は増加の一途をた
どっている。[シートベルト着用率向上や飲酒運転の減少による]交通事故死の減少も,臓器
不足を加速させている「原因」に挙げられているという。この論法で行けば,脳外科の進歩も
「脳死」を減らすので臓器不足の原因とされかねないであろう。まさに移植至上主義といえよ
う。移植医療の特徴は,従来のように,患者の持てる臓器を最後まで補修して活用するのでは
なく,臓器部品は使い捨てで,次々と新しい臓器に換えていくものだという観念に呪縛されて
いるかのようである。
臓器不足解消の新たな候補者は,PVS(persistent vegetative state;遷延性植物状態)の
人間や無脳症の嬰児である。前者は大脳皮質の働きが大部分低下している存在,後者は大脳が
(しばしば小脳も)欠如している存在だが,いずれも間脳や脊髄による植物性機能(心拍動,
呼吸,消化吸収,発汗,排泄など自律的機能)は一般に健在である。[特に米国では日本と異
なり,脳死患者や PVS の患者の治療に消極的なため],彼らの治療を中止しようという傾向
が強い(ロック,M, 2004 : 300−307)。すでに,無脳症の嬰児は第 2 例目の心臓移植の際にド
ナーにされているし[本邦でも例がある],PVS の患者も,人工心臓の開発の際に実験台にさ
れたこともある。
このように英米の移植医療では,臓器資源の確保が絶対命令となり,必然的に脳蘇生術の研
究は後退しているともいえよう。瀕死という点では同等な患者同士でも,脳障害(ドナー候
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補)か,交換可能な臓器障害(レシピエント候補)かで,治療中止か延命治療かが峻別される
ことになった。そして「故障した臓器」に対する治療戦略も,従来の修理に徹した医療から
「使い捨ての医療」へと方向転換を示したことになる。
そこで次節では,瀕死の脳障害の治療実践を担保し,「脳死・臓器移植」という戦略を回避
しつつ,臨死の臓器障害の患者を治療することができる代替医療について見てみよう。
3.「脳死・臓器移植」に代わる様々な医療技術について
重篤な臓器障害の患者は,臓器移植でしか助からないと医療者から説明され「臓器移植候補
者」となり,生体移植の対象でなければ,「脳死・臓器移植」[実際は,「死者」に見立てた脳
死患者の犠牲の上に成立する「臓器移植技術」というべきところをキーワードつなげた隠語的
省略語]を最後の命綱として臓器を待ち続けることになる。しかし,医学は自然科学ではない
ので解としての治療法は常に複数存在することを忘れてはならない。その中で主流(メディカ
ル・ファッション)になっているからといってそれが唯一の治療法ではないのである(10)。そ
こで,いくつかの「脳死・臓器移植」の代替医療について,臓器移植に近いものから列挙して
みよう。ただし,心停止後の患者からの移植のような同種移植については同質なので省略す
る。
A)異種移植:
異種移植とは,細胞,組織,臓器を,活性を保ったまま異種生物の個体間で移植すること,
すなわち,人間の文脈で言えば,治療目的で,たとえば,人以外の種から得た臓器を人のレシ
ピエントに移植することなどを言う。人の臓器と置き換えるため,多数の動物種の臓器を「ス
ペア部品」として開発する試みが始まっており,今日では細胞レベルの応用(再生医療)に力
が注がれている。歴史的には,例えば 1964 年から十年あまりの間,チンパンジーなどの類人
猿,ブタ,ヒツジなどから盛んに 40 例余り試みられた(いずれも失敗)。異種移植では,同
種移植で見られるより,異種間ゆえに,より重篤な拒絶反応(超急性拒絶反応)がおこるから
でもある。(ダール,AS,チャップマン,LE, 2007 : 45−56)
そのため,近年では,遺伝子操作により,ブタの受精卵にヒトの遺伝子を組み込むなどして
人間に移植したときの拒絶反応を抑えるような研究が進められている(クーパー,DKC,ラン
ザ,RP, 2001 : 121−143)。このように異種移植は,目下,実験的なものだが,一部では細胞
レベルでの再生医療的なヒトでの臨床試験にまでこぎつけており,21 世紀の早期には治療に
応用可能な選択肢となるものと期待されている。しかし,ほかにも異種原性感染症の予防や,
医療倫理的手続きや動物の権利運動からの反対などの諸問題の解決も課題となっている。ま
た,米国では,肝臓移植の待機患者が病状悪化で昏睡に陥った際に,同種間移植が行なわれる
までの「間に合わせ」としてブタの肝臓が異種移植されて数日間,患者の意識回復に寄与した
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という事例がある。こういう一時的使用法なら現時点でも利用可能である。
B)人工臓器:
人工臓器とは,機能低下や機能不全となった生体の臓器部品(その臓器の一部や組織)を一
時的ないしは半永久的に代替わりする目的で開発された人工物をいう。人工臓器を利用する考
え方も,臓器移植同様,人間機械論にもとづいている(11)。
近年,人工臓器として,実用化されている代表的なものには,人工腎臓,人工心臓弁,人工
血管,人工心臓ペースメーカー,補助人工心臓,眼内レンズ,人工骨,人工関節,人工内耳な
どがある。開発中のものとしては,人工心臓(補助人工心臓は日常使用されているが),人工
血液,人工肝臓,人工膵臓,などがあり,その一部,臨床で使われている(また,人工呼吸器
や人工心肺装置は,外部から装着し随時着脱可能なため,通常は人工臓器には含まれない。)
人工臓器を人体内に埋め込むという(イメージが与えるであろう)違和感の一部を払拭する
ために,ここで私たちの人体(一般の生物体もそうであるが)の構成について補足しておく必
要があろう。「生身の人間」などという言葉からは,人体は約 60 兆個以上といわれる生きた
細胞だけでぎっしり隙間もなく埋まっているというイメージがあろう。しかし,実際はそうで
はなく,人体は,生きた細胞と細胞が生産した物質(基質,等)からなる複合体である。確か
に皮膚や筋肉はほとんど細胞で埋め尽くされているが,骨や軟骨や脂肪などの結合組織と,あ
るいは,赤血球や白血球などの血液細胞と基質となる血液では基質の占める割合が大きい。基
質は,有機化合物であるとしても細胞の間隙を埋めている物質であるから,人体={生きた細
胞+生きていない基質(物体)との共存}ということになる。
このことは,生きた細胞を傷害しないかぎり,体内でも物体が細胞と共存できる空間がある
ことを意味している(手術中のミスで体内に器具を置き忘れられたまま何年も無事に過ごした
例もあるように)。人工臓器の原理は,こうした人体のもつ物体との共存可能性という性能に
依拠している。人工血管でも,当初は人工物だった血管壁は,最終的には血液細胞(血小板)
やそのほかの細胞に覆われていって生来の血管壁に似たものになっていく。無論,生体内での
生産物と違い,金属などの人工物の導入は,臓器移植と違った意味での生体からの拒絶反応
(異物反応)や,(体外式の補助人工心臓のように,生体と物体との接触部分が皮膚を通じて体
内外と交通している場合など)感染の危険性がある。
バイオセラミックスは,そうした人工物の問題点を解決するための「生体材料(biomaterial)」を研究・開発している学問領域である。生体材料とは,身体に移植する材料だけでな
く,「生きている細胞(cell)に直接接触する材料」で,生体への適合性・親和性の向上が求
められている。合成高分子化合物として,テフロン,ポリエステル,ポリプロピレンなどは人
工弁,人工心臓,人工関節,人工靭帯,人工骨,人工歯根,人工血管等に,再生・置換型セル
ロース,ポリメチルメタクリエート(PMMA)は人工腎臓(人工透析)などに広く使われて
いる。また,天然高分子化合物であるキトサン,コラーゲン,ヒアウロン酸も体内で吸収され
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うる生体材料に含まれている。(田中順三,生駒俊之,上村寿公,大村健一,2009 : 1−8)
人工臓器の限界・問題点については,まず,人工臓器は,まだ技術的に,生体機能を部分的
にしか代行できない。人工腎臓は,水・電解質と老廃物の処理はできるが,血圧調整はできな
い。生体材料と生体細胞・組織間の親和性の不調和(血栓形成,異物反応など)があり,耐久
性も不十分などがある。小型化軽量化という改良の余地も残している。
しかし,人工材料を用いて形態的機能的回復を目指す人工臓器は,様々な分野で臨床応用が
進んでおり,補助人工心臓を使用した結果,自己の心臓が拍出力を回復する例もあることか
ら,臓器移植の代替医療としての期待は高まっている。また,電動義手・義足などもある。特
に,21 世紀では,コンピューター技術と脳・神経科学の進展に伴い,人工網膜や BMI(神経
系と機械を接続させる接続された自己制御可能なメカニズム)をもつ筋電義手なども研究され
ている。
C)再生医療:
再生医療とは,生体がもつ従来の形態や機能が欠如した状態を,細胞,組織あるいは臓器を
用いて人為的に補うバイオテクノロジーをいう。つまり,組織工学(tissue engineering)に
よって培養した(細胞・組織・再生臓器等の)生体培養材料と生体材料(合成・天然問わず高
分子化合物からなる生体材料等)で形態・機能欠如を補うものである。
現時点では,ヒトや動物由来の細胞や組織の培養が一部できるようになっているが,臓器の
形成まではまだ道が遠い。
その方法には,主に,生体外で自己や他のヒトの(いろいろな細胞・組織に分化する能力の
ある)幹細胞を用いたりして,皮膚や神経などの組織を再生させたりアプローチと,生体内
で,生命体のもつ自己修復力に依拠しつつ再生をはかるアプローチ(再生の足場を築いたり,
組織成長因子を使ったり,組織成長因子をつくる遺伝子を導入したりする方法)とがある。具
体的には,骨髄(幹細胞)移植,培養皮膚シート,角膜上皮細胞シート,あるいは,梗塞に陥
った壁を覆って心臓壁を回復させる心筋シートなどがあり,成長因子としてのエリスロポエチ
ンが貧血の治療に臨床応用されている。また生物の細胞と人工材料とをあわせて機能効率を高
める(生体と親和性の高い人工材料を用いて基本的な形態を与え,その表面や内部に細胞を増
殖させるもの)ハイブリッド臓器も人工腎臓や人工肝臓で研究されている(ブタの肝細胞をつ
かったものは海外で臨床応用されている)。
松井は,近未来的に実用化され利用可能な再生医療のメニューに次の項目をあげている(松
井 2004 : 62−98)。それには,皮膚の再生,心臓の再生(心筋シートや幹細胞移植による),
肝臓の再生(肝臓の幹細胞の移植によるもの。それを肝臓だけでなく,構造が似ている脾臓に
移植し,脾臓を代理肝臓にしようという計画もある)があり,他に,腎臓,膵臓,骨・軟骨,
血液・血管,骨格筋や歯の再生も挙げている。
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D)「固有生体治療」:
ここで言う「固有生体治療」というのは本稿での命名だが,従来からの治療戦略である。臓
器移植や人工臓器と違い悪くなった臓器でも取り替えず(組織・細胞など部分的には切り貼り
するものの)その臓器を温存しながら治していこうとする治療法をいう。それには,前項 C)
の再生医療の多くが相当するが,ここでは,「脳死・臓器移植」の強い動機付けになっている
障害臓器が心臓である場合の薬物療法と外科的療法について書いておこう。
薬物療法だが,循環器疾患のうちでも,一般に心臓移植の対象としてまず考えられるのが拡
張型心筋症(左心室の収縮機能の低下と拡大を特徴として多くが心不全を起こすもの)であ
る。しかし,ACE 阻害薬や β 遮断薬の使用が可能になった現在では,予後は以前に比して改
善していて 5 年生存率 80% になっている(土居 2011 : 386−387)というほどである。
また,外科的治療法には,バチスタ手術の名で知られている心臓縮小手術(左室形成術)が
ある。「重い心筋症患者の心臓を切り縮め,心機能を改善する」もので,臓器不足が続くにも
かかわらず,日本でも世界でも普及してこなかったが,日本では須磨久善医師らの「地道な改
良の結果,成績も向上し,世界の注目を集め始めた。昨年[2004 年]6 月までの 120 例では,
1 年生存率は 68.5%,5 年は 45.4%。容体が安定した状態での待機手術だけでは,それぞれ
77.8%,56.9% に達する。」という(共同通信 2004)。この外科的療法は,現時点では,通常
の心臓移植よりはやや低い成績であり,引き続き薬物治療も必要だが,弱って拡張した自前の
心臓壁を縮小し縫い縮めるだけで心拍出力が改善するというのは何でもかでも心臓移植しかな
いという思考法の反証になっている。利点としては,ドナーが不要で,[法改正で可能になっ
たのになかなかドナーが出現しない]15 歳未満にも可能であり,保険適用もあり心臓移植に
比して安価な点などであるし,免疫抑制剤の使用も不要である。
また,バチスタよりもさらに知名度の低い手術としては,背筋巻き付け手術がある。これは
わきの下から背中にかけたところにある背筋を心臓に巻き付け,次に特殊なペースメーカー
で,心臓とリズムを同調させながら背筋を運動させる。これによって心臓の拍出力を補助する
もので,海外ですでに 1,000 例の臨床応用があるという。また,成長ホルモンも心筋症の薬物
療法として試みられている。(Suma Heart Consultation 1997)
臓器不足を訴えるのにこういう可能性のある代替療法が本邦で十分試みられているとは思え
ないし,移植一辺倒のようなファッションの中で代替療法の研究も等閑視されていると危惧さ
れる。また,将来的には,「固有生体治療」の変奏として人工臓器や再生医療のアプローチを
加味した,いわゆる患者の「サイボーグ(医療)化」が展開される可能性も出てきている。
…
本邦では,様々な臓器障害について,目下,脳死・臓器移植が唯一究極の治療法(解決法)
であるかのように喧伝されてきているが(12),後半で見てきたように,現時点および近未来を
射程に入れるとその治療法には多様で可能な選択肢が見込まれている。元来,臓器障害の治療
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法にも選択肢が多数あるほうが様々な患者・疾患に対応するためには望ましいはずである。
そうは言っても医療思想史におけるメディカル・ファッションの分析からは,医師たちは,
より合理的で新たな方法が見つかっても必ずしも旧来の治療法をすぐに手放すとは限らない。
例えば,今日おなじみの虫垂炎の手術(虫垂切除術)は,19 世紀末に米国で開発されたが,
英国でそれが膿を流すだけの切開排膿術に取って代わるのは 20 世紀初頭であり,日本では
1920 年代以降である。
臓器移植が,今,臓器治療の頂点を極めているが,要するにこれもその時代,その国や地域
におけるファッションなのであり,常に変化しうる諸行無常性を備えている。筆者は,そのプ
ロセスを先端医療の《アミダくじ的展開》と呼ぶが,それは〈アミダくじ〉の一部分の横棒の
ように,いくつかの偶発的事象が連続して出現するなかで方向性がかわり,近縁の医療思想・
技術が相互に引き寄せ合って新たな医療様式を形成していく情況をさしている。(村岡 1995 :
225−244)
最後にもう一つ,少し長くなるが,移植医療等,新たな治療法を行なう際の外科医たちの
(野心,名誉,徳性といった)心象について L・ゴールドマンが初期の「移植大論争」に触れ
て述べた一節を転記して本稿を完了したい。
「『新しい考察,新薬,手術,治療法の試みや研究の強い動機の背後にある出世欲や大衆の喝
采を浴びることへの個人的野心は大した問題ではない。このような個人的野心は臨床科学
者の上品な熱情にうまく隠れており,むしろ健康な社会の徴候でもある。・・・この野心
は別に恥ずべきことではない。』
これはハーバード大学外科学教授でボストンのピーター・ベント・プリガム病院外科部長
FD・ムーアの言葉である。・・・偽善以外のなにものでもないと思われる,彼の主張は,臨
床科学者が未知のものを探求する動機について,・・・まことに正直にいっている。
「有名になることは,しばしば刺激的である。・・・傍観者にとっては世界中の多くの移植外
科医が[1967 年世界で最初に同種で同所性(同じ心臓の解剖の位置に)の心臓移植を行なっ
た;筆者注]バーナードの楽隊車(バンドワゴン)にとび乗るのを見せられると,死んでいく
患者のための治療技術の革新であるとともに外科的利己主義の現れでもあると思いたくなる。
たしかに彼らの多くは,正直に心から,主要な目的は治療であると信じたであろう。しかし,
どれくらいの外科医が同じように心から他の動機がまじっていないと誓えるであろうか。ひと
たび,個人的(あるいは愛国的)野心が介入してくると,基本的な医師−患者関係は歪む。な
ぜなら「野心は,それがいかに賞賛の価値あるものでも,確かに個人を堕落させる」(と,ム
ーア教授は付言する)。彼はこれを早すぎる科学的成果の公表についていっている。個人的な
評価を求める動機に動かされない,冷静な判断で,より決定的な証拠があがるまで待つべきだ
というのである。」(ゴールドマン,L, 1975 : 114−115)
― 47 ―
いわゆる「脳死・臓器移植」を超えて(2)
(村岡
潔)
〔注〕
⑴
前回の拙稿「いわゆる「脳死・臓器移植」を超えて」(村岡,2011)では,いわゆる「改定・臓器
移植法」で,事前意思不明の脳死患者のドナー化を事後的な家族のみの同意で合法化したことの医
療倫理的な問題点を扱った。本稿はその後編として,紙幅の関係上,前論考で割愛した脳死・臓器
移植の代替医療を主題とするものである。
⑵
本邦では,医学は自然科学(物理化学など)だと喧伝されており,図書館でも,医学関係の専門書
は自然科学のコーナーにおかれることが多い。しかし,医学では,自然科学や数学などと違って厳
格な解はなく,多様な解決策が存在している。医学統計で治療効果を評価するときの指標の一つで
ある「有意差」でも,5% 未満で確定的とされる(すなわち,20 回に 1 回くらいの違いは誤差範囲
内として無視している)のに対して,物理化学などでは,ゆるく見ても 1% 以上の誤差を見過ごす
ことはできないであろう。しかし,近年では,ますます,医学の科学への擬態化は進んでおり,医
療を「人間工学」と見なし,医師は自らを人間工学の担い手(エンジニア)としての科学者である
と認ずる「工学モデル」が主流となっているようだ。
⑶
皮膚移植は組織移植という。解剖学的な意味では,組織とは同じ機能を果たす細胞の集合体であ
り,臓器とは,異なる機能をもつ組織の集合体をいう。ちなみに,今日,再生医学では,皮膚や神
経などの一部の組織の段階まではつくれるようになっているが,臓器はまだつくれない状況であ
る。
⑷
臓器移植の代替となりうる人工臓器の技術にも同様の問題はある。もし適切なサイズの人工臓器部
品がえられれば,生体と機械との間には生物学的な細胞同士の拒絶反応は起こりえないが,金属な
どの人工物と生物間の不適合(感染や組織破壊など異物反応)は起こりうる。
⑸ 「免疫とは,外来の微生物や異物または生体内に生じた不要物質・病的細胞・病的物質などを非自
己として認識し,これらの非自己物質を排除し,自己の恒常性を維持しようとする生体の反応であ
る。免疫は感染症だけでなく,腫瘍,アレルギー性疾患,エイズなどの免疫不全,自己免疫疾患な
どの免疫異常疾患にも深く関与している。また,臓器移植の移植片に対してみられる「拒絶反応」
も免疫の一般的働きである。臓器移植を成功させるためには,この免疫応答(拒絶反応)を人為的
に抑える「免疫抑制」が不可避となる。その方法として,まず 1958 年,腎不全の患者への実験的
腎移植の際には,試みに全身への X 線照射が行われた。しかし,X 線照射は管理が難しく危険な
ため,次に劇薬による免疫系全般の抑制が試みられた。拒絶反応は抗体(タンパク質)によって起
こるのだから,タンパク質の生成に関与する核酸の合成を抑えれば拒絶反応が起こらなくなるとい
う発想から,1960 年代には核酸合成阻害剤のアザチオプリン(イムラン)が免疫抑制剤として登
場する。また,ステロイド(合成副腎皮質ホルモン)剤もリンパ系の抗体づくりを抑えるため採用
された。さらに 1980 年代以降は T リンパ球を優先的に抑えるシクロスポリンが出て,イムランよ
り拒絶反応を抑えやすくなり,移植手術後の死亡率を下げることにつながった。このように臓器移
植は,外科的技術よりも,免疫学やその成果としての免疫抑制剤によって保証される医療形態であ
る。そして,技術的な保証が臓器移植の「適応」範囲の拡大を正当化していく(「技術的にできる
治療をせず患者を見捨ててはならない」という人道主義的言説は人々の共感を呼ぶからだ)。一方,
移植を受けた患者は移植後も免疫抑制剤を使用しつづけなければならない。使用量の不足は拒絶反
応を招き,多すぎれば感染症・悪性腫瘍・出血などを引き起こすことになる。」(村岡
潔,1992 :
40−41)
⑹
日本では,1997 年のいわゆる「臓器移植法」までは,「脳死」は人の死かどうかをめぐる論争が盛
んに行なわれたが,日本と違い,北米・西欧ではさしたる「脳死」議論もないまま「脳死患者」の
ドナー化に成功し,移植医療が慣習化した経緯がある。これに加えて,医療経済的に「脳死」状態
や植物状態といった意識障害の患者の治療を「医療費の無駄使い」と見なす功利主義的イデオロギ
ーの問題があるが,本稿では割愛した。
― 48 ―
佛教大学社会学部論集
第 53 号(2011 年 9 月)
⑺ 「脳死(brain death)」という呼称は,1960 年代では,「脳(機能)不全」の患者の状態を指す医
者同士のスラングであった。「脳死」は「脳不全」自体に「死」のイメージを付与する効果があっ
たと思われる。元来,「死」という言葉は,個体(人間)の死に付与されるものであった。今でも,
それが死につながるとしても,腎不全を「腎死」
,肝不全を「肝死」
,心不全を「心死」などとは呼
ばないのは,そのためである。ちなみに,「心臓死」というのは,三徴候死(呼吸停止,心停止,
瞳孔散大・固定・対光反射消失)を心停止で代表させたものだが,実際は,「脳死=人の死」を喧
伝する推進者たちによって「脳死」の後に発案された言葉である。
⑻
北米,英国,スペインなど臓器移植が盛んな国を臓器移植先進国といい,日本は後進国だといった
論調がなされることがある。こういう言い方をするなら,一方,こうした国は脳死や植物状態の意
識障害ある患者の治療では日本より「遅れている」ことになろう。医療技術には,このように不均
等に発展する側面がある。実地臨床上,移植外科における臓器資源の確保と,意識障害の医学にお
ける脳蘇生術の発展は,いわば反比例の関係にある。「脳死・臓器移植」が遅れたと喧伝される日
本では,「脳低温療法」が開発されて以降,「脳死寸前」という意識障害者が助かり社会復帰してい
る例も出てきた。つまり,日本なら助かるはずの脳卒中の患者が,英米では,依然,「死者にされ
て」ドナー化されてしまう危険性が続いている。
⑼
PVS[植物状態]の患者は,長期間十分な栄養,運動がとれずに病床に臥しているのが常なので,
臓器移植のドナーとしては,果たして,死の定義を改変してまでドナー化した「脳死状態」の患者
から得られるほど「新鮮な臓器」の提供者となりうるかという移植上からも疑問がある。まさに,
臓器不足ゆえのなりふり構わずという感が強い。一方,日本では,PVS の患者を死者と見なす傾
向はまれで,医学的には治療の対象であり,基本的に,その意識回復・コミュニケーションの回復
を目指す治療方針がとられることが多いし,回復例も少なくない。
⑽
メディカル・ファッションとは,医学・医療における思想や存在様式全般(パラダイムや原理,診
断法,治療装置,施設,治療結果の評価基準など)に見られる様々な流行や一般的風習・慣習をさ
す概念である(村岡
潔,1991 : 42−55)
。「脳死・臓器移植」のファッション化は,たとえば,エ
ネルギー政策において,「二酸化炭素」による「地球温暖化」に抗するには「クリーンな原子力エ
ネルギー」しかないと喧伝され,低炭素社会を目指す世界的ファッションに乗って原発を支持する
構図に酷似している。周知のように代替となる自然エネルギーは複数存在しているし,実際は温室
効果に寄与する最大のガスは二酸化炭素ではなく,水蒸気である(地球温暖化でさえ不均等で地球
深部では寒冷化を伴っているという見方もある)
。
⑾
飛岡によれば(飛岡健,1989 : 49−52)
,「人間を含めて生物はバイオ(生物)であると同時にケミ
カル(化学)でありメカトロニクス(機械+電子)
」だから「バイオケミトロニクスとしての生物」
と言い,人間や生物やすべての構造単位は物理的化学的特性を反映した形でできており,その行動
は物理化学的な要因によって行動する。神経系は電子,生命は情報で動く機械である。これは 20
世紀以降の人間機械論の新たな形態である。
⑿
筆者が傍聴した 2010 年の第 46 回日本移植学会総会の発表演題全体(日本移植学会,2010)を見
る限りでは,移植医・外科医以外の看護スタッフ,移植コーディネーター,内科医師ら医療者も改
定「臓器移植法」施行直後だとしても「移植一色」という論調であった。
⒀
本稿で割愛した,脳移植や,脳科学と BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)および,近
未来医療と人間のサイボーグ化の問題,等々については稿を改めて論考したい。
〔引用・参考文献〕
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― 49 ―
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本稿は 2009 年度佛教大学教育職員研修の成果の一部である。
(むらおか
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きよし 社会福祉学科)
2011 年 4 月 30 日受理
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