...

Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

by user

on
Category: Documents
21

views

Report

Comments

Transcript

Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
前期エルサレム王国の構造 - ブルジョワ・騎士修道会・
高位聖職者( Abstract_要旨 )
櫻井, 康人
Kyoto University (京都大学)
2002-03-25
http://hdl.handle.net/2433/149613
Right
Type
Textversion
Thesis or Dissertation
none
Kyoto University
【1
5】
さ くら
い
やす
と
名
横
井
康
人
学 位 の 種 類
博
士
学 位 記 番 号
文
学位授与の 日付
平 成 1
4 年 3 月 25 日
学位授与の要件
学 位 規 則 第 4 条 第 1項 該 当
研 究 科 ・専 攻
文 学 研 究 科 歴 史 文 化 学 専 攻
学位 論 文題 目
前期 エルサ レム王 国の構造
氏
-
博
(
文
学)
第 201 号
ブルジ ョワ ・騎士修道会 ・高位聖職者-
(
主 査)
論文調査委員
教 授 服 部 良 久
論
文
内
教 授 谷 川
容
の
要
稔
教 授 南 川 高 志
旨
1
9世紀か ら20世紀初頭 にかけての十字軍関連史料 の編纂作業は,学問 としての十字軍史研究の発展 に大 きな貢献 をなした。
その結果,十字軍理念史研究 と十字軍国家史研究 (
主 にエルサ レム王国史研究) とい う二つの潮流が,十字軍史研究分野の
中に生 まれることとなった。 しか し近年の状況 を見 ると,前者が,十字軍説教研究 ・後期十字軍研究 ・十字軍士家系研究 と
いった多角面か らの考察 により, ます ます充実 しているのに対 し,後者 は1
9
80年代 を最後 に議論が停滞 しているのである。
その原 因は,西欧封建制 との比較史的観点か ら発 した従来のエルサ レム王国史研究が,国王 ・貴族関係 を軸 とした国利史に
対象 を限定 し,封建主従関係 には含 まれない要素,即 ち封建外要素 を十分 に考慮 してこなかったことにある。 しか し,慢性
的臨戦態勢 ・恒常的人力不足 ・極端 な都市立脚塑社会 とい うエルサ レム王国が持つ特殊性 を念頭 に置 くと,西欧封建制 との
比較 に基づ く国王 ・貴族関係 のみの考察か らでは,王国構造の実態 を明 らかにす るには不十分であると考 えられる。 何故 な
らば,王国は,確かに封建主従関係 を主幹 とする 「
封建王国」であったが,同時 に圧倒的多数の異教徒 に囲まれた状況で,
全 てのキ リス ト教徒 を含めた 「
聖地防衛国家」 とい う側面 も兼ね備 えていたか らである。 本論文 は 「
封建王国」 と 「
聖地防
衛国家」 とい う王国の持つ二面性 に留意 しつつ,従来の研究では看過 されて きたブルジ ョワ ・騎士修道会 ・高位聖職者 とい
う封建外要素 を王国構造の中に位置づけることによって,王国の全体構造 を明 らかにしてい くことを目的 とす る。 なお本論
文 は,エルサ レムをは じめ とす る王国領土のほとんどが失われる契機 となったハ ツティーンの戦い (
11
87年)までの,いわ
ゆる前期エルサ レム王国期 に考察時期 を限定 した。
第 1部では,王領都市エルサ レムにおける非貴族キリス ト教徒 の総称であるブルジ ョワを考察対象 とする。 従来の研究 は,
ブルジ ョワに関する問題 を管轄す る機関 としてのクール ・デ ・ブルジ ョワの像 を,1
3
世紀の法書か ら導 き出 していた。そこ
には, クール ・デ ・ブルジ ョワが ゴ ドフロワ ・ド ・ブイ ヨンによって創設 されたことと,その構成員が 「
副伯 と1
2人の陪
審」であったことが記 されていた。証書史料 をもふ まえた J・プラワ-は, クール ・デ ・ブルジ ョワの成立期 を再検討 し,
その萌芽 を1
1
20年代,完成 を11
40年代 としたが,法書 に示 された像その ものを否定することはなかった。 これに対 し本論文
は,証書史料 を網羅的に分析することにより,法書か ら離れてクール ・デ ・ブルジ ョワとその構成員の実態 を明らかにしよ
う・
とし,以下の点 を確認 した。第一 に, クール ・デ ・ブルジ ョワの議長 は副伯ではなかったことである。 確かに11
30年代 ま
では副伯 の存在が認め られるものの,それ以降の都市行政 に関す る証書 には副伯 の存在 を確認することがで きなかった。第
二 に,都市行政の中核が陪審 に限定 されなかったこと,そのかわ りに都市行政は経済的富裕者 (
主 に金細工師)や国王 ・エ
ルサ レム総大司教 の家政役人 を核 とす る 「ブルジ ョワ ・エ リー ト」 とも呼ぶべ き,有力 な非貴族的都市住民 によって蓮営 さ
れていたことである。 彼等の一部 は,決 して騎士化することはなかった ものの,国王の側近的存在 としてその活動領域 を都
市外 に広 げていたことも確認 される。
以上 よりエルサ レム王国では,都市行政や国王側近 としてブルジ ョワが社会的に上昇 し易かった とも考 えられるが, この
ことの背景 として,王国には恒常的な人力不足 とい う現実があったことを考慮 しなければならない。騎士階級である副伯 は
- 60 -
戦士 として国王 に従 軍せ ね ばな らず,慢性 的 な臨戦態勢下 にあ る王 国で は副伯 に よる都市行 政 は効率 的で はなか ったのであ
る。 む しろ,従軍せず に都市 内 に留 まるが ゆえに,都 市 防衛 とい う重要 な役 割 を担 うブルジ ョワこそが都 市行 政 の 中心 とな
る ことが,現実 的 な都市統 治 のあ りかたであ った と考 え られ る。エ ルサ レム王 国で は西欧諸 国 と異 な り, ブル ジ ョワは,市
外へ従軍 して実際 に異教徒 と戦 う戦士貴族 であ る騎士 階級 か らは明確 に区別 され, 国王家政役 人 と化 した上層 ブル ジ ョワ も
騎士 階級 になる こ とはなか った。 この意 味 で, ブル ジ ョワに よる都 市 ・王 国行 政 は, 「
聖地 防衛 国家」 と しての王 国が生 み
出 した現実へ の対応 策 だ ったのであ る。
第 2部 では騎士修道会 を考察対象 とす る。 まず従 来研 究上 の争点 となって きた聖 ヨハ ネ騎士修 道会 の成立,す なわち修 道
会 の騎士修道会化 の要 因 とその時期 を証書史料 に よって明 らか に し,聖 ヨハ ネ騎士修道会 がいか に して国王軍 に編入 され て
い ったのか を解 明す る。 聖 ヨハ ネ騎士修道会 はいわゆる三大騎士修 道会 の一 つ と して一般 に認識 されてい るが,教 皇 に よる
その承認 はあ くまで も Ⅹe
nodoc
hi
um (病 院 ・宿坊 ) と してであ り, 「
騎士修 道会」 としての承認 を示 す史料 は現存 しない。
s
pi
t
a
l
l
iと表記 され る こ とが多 く, それ は 「
修 道会」 を示 す のか 「
騎士修 道会」 を示 す のかが不 明で あ るた
また,史料上 Ho
め,従 来 の研 究者達 は聖 ヨハ ネ修道会 の 「
騎士修道会化」 を一 つの焦点 として諸説 を展 開 して きた。彼等 の問題 関心 は,主
に 「
騎士修道会化」 の原 因 と時期 に二分 され る。 前者 に関 しては, テ ンプル騎士修 道会 の影響 ,スペ イ ンでの実戦経験 の影
響 や慈善活動 の延長等 の見解 が提示 され てい る。 後者 に関 して は, コネ タブルの登 場 す る1
1
2
0年代 半 ば, 「
騎士 で あ り聖 ヨ
l
e
se
tf
r
a
t
e
rhos
pi
t
a
l
i
sとい う表現 が史料 中 に確認 され る1
1
40年代 後半 ,或 い は南部重 要拠 点 ベ トジブ ラ ン
ハ ネ修 道士」 mi
1
3
0年代 半 ば を, その時期 とみ なす見解等 が提示 されてい る。
が 同修 道会 に譲渡 され る1
本論文 では従 来 の諸見解 の関連づ け を試 みつつ,聖 ヨハ ネ修 道会 の 「
騎士修道会化」 を段 階的移行 の 中で捉 え直 し,併 せ
1
25
年 まで に
てその 「
騎士修道会化」 が王 国 に とって もつ意味 を明 らか に した。 そ して主 に証書史料 を用 い た分析 の結 果, 1
は同修 道会 内 に芽生 えてい た 「
騎士修 道会意識」 は, 1
1
3
0年代 にラテ ン ・シ リアの社会 に根 づ いてい った こ と, 11
40年代 以
降 テ ンプル騎士修 道会 と共 に 「
騎士修 道会層」 を形成 してい った こ と, 同修 道会 を対外 的 な攻撃兵力 として国王軍 に導入 し
たのはアモー リー 1世 であ った ことを明 らか に した。 また この最後 の点 につ いて は, アモ ー リー 1世 はその即位 に際 して多
くの諸侯 か ら反対 されていた こ とか ら, 同王 の封建家 臣軍召集 が困難 に直面 した こ と, この危機- の対応策 の一つが 「リジ
ェ-ス法」 の導入 であ り, もう一つが聖 ヨハ ネ修 道会 の国王軍- の編入 であ った こ とを指摘 した。
しか し騎士修道会 関係者 が国王宮廷 会議 に参加 していたのは,1
1
5
0年代 と国王 ギー ・ド ・リュジニ ヤン統治期 に限 られて
い た こ とが,証書 史料 の分析 よ り明 らか となる。
したが って騎 士修 道会 と国王 との関係 は,一般 には 「
聖地 防衛 国家」 の側 面 (
軍事 ) におい てのみ密 であ り, 「
封建 王 国」
の側面 (
宮廷 会議 参加 な どに よる国政へ の関与 ) において は租 であ った とも考 え られ る。 た しか に聖 ヨハ ネ修 道化 の場合 は,
そ うであ った。 しか しテ ンプル騎士修 道会 の場合 は, と くに1
1
40年代 以 降,総長 となる者 の大半が 国王家 政役 人 の出 自であ
った ことか ら, 同騎士修道会 と国王 の関係 か らは 「
封建王 国」 と 「
聖地 防衛 国家」 の相互 関連性 が確認 され るので あ る。 ま
た聖 ヨハ ネ騎士修 道会 も, 「
封建 王 国」 か ら全 く分 離 されてい たわけで はな く, テ ンプル騎士修 道会 と共 に国王選 出 に際 し
て重要 な影響力 を もちえた こ とは, ギー ・ド ・リュジこ ヤンの即位 時 の状 況 が示す ところであ る。
第 3部 で は教 会 と王権 の関係 につい て検討 す る。 従 来 の研 究 で は, G ・ドデ ュが展 開 した国王戴冠 と司教任命 に よる王権
と教 会 の相互抑制作用 や,教会 の政治権力 の有無 につ いての議論 に集 中 し,積極 的 に教 会 を王 国構造 の中 に位 置づ け よう と
す る試 みが な され る こ とはほ とん どなか った。 また,議論 の出発 点 となる ドデ ュの見解 自体 ,史料 的根拠 が十分 で はな く,
時期 的 な変化 を考慮 に入 れてはい ない。本論文 で は まず王 国の教 会形成 と王権 の関与 について検討 し,続 い て従 来 の研 究者
が検討 して きた国王戴冠 ,司教任命 や教 会 の政治権力 について再検 討 した上 で,教 会 を王 国の統治構造 の中 に位 置づ け よう
と試 み る。
先ず王 国の教会形成 については,通説 で は王権 の イニ シアテ ィブの下 に行 われた とされて き√
たが,考察 の結 果, 1
11
0年代
半 ばか ら1
1
3
0年代 にかけて教会形成 に対 す る国王 の積極 的 な関与 は見 られ な くな る こ とが確認 された。 そ して,一般 に国王
が持 つ とされて きた司教任命権 に関 して も, 国王が司教任命 に関与 したの はエ ルサ レム総大 司教 とテ ィール大 司教 にほぼ限
定 され, また時代 的 に もメ リザ ン ド以 降 に見 られ る もの に過 ぎない こ とが史料 よ り明 らか となる。他 方, 国王戴冠 について
も教 会 は これ を,王権 を抑 制す る手段 としたので は な く,む しろそれに よって王位継承 を正 当化 し,反対 す る諸侯 に対 して
- 6
1-
王権 を支 えていた と考 えられる。即 ち,国王戴冠 と司教任命か ら明 らか となるのは, とくに王家内部の対立が激化す る1
1
3
0
年代以降において,教会が政治闘争の舞台に上が り,王権 を支えるとい う関係が形成 されたことであった。
この関連 に置いて国王宮廷会議 に着 目すると,次の二点が明 らか となる。 先ず一点は,1
1
40年代以降,国王の拠点がエル
サ レムか らアツコンに移動することである。 その結果,エルサ レム総大司教 をは じめ とす る,エルサ レム近郊 に位置する高
位聖職者達が,国王宮廷会議か ら脱落 し,入れ替 わる形でティール大司教が国王宮廷会議への参加頻度 を高 くしてい く。 し
40年代以降,全体的に見 ると高位聖職者は国王宮廷会議への参加の頻度 を低 くしていったことも看過
か し二点 目として,11
で きない。但 し,ペソレヘム司教等,王国初期 に形成 された一部の教会の聖職者達 は,国王宮廷会議 に参加 し続 けた。 また,
11
40年代以降は,彼等の活動 はむ しろ軍事 ・使節活動 とい う,いわば王国外政の側面で活発化 してい く。 即 ち,11
40年代 を
境 に,特定の高位聖職者達 は王国内政か ら王国外政- とその活躍の場 を転換 したのである。 とくに使節活動の点 において,
使節 となった俗人 を調査すると,彼等が国王 と密接 な関係 にあった者達であることが明 らか となる。同 じように特定の聖職
者 は国政面 において,「
封建王国」 か ら 「
聖地防衛国家」へ と関係 を移 しなが らも,国王 と密接 に結び付 いていたのである。
この ように教会は,権力闘争の場では国王 を強力 に支持 し,国政面で も王権 を支 えていたのであるが,その背景 には,国王
を統率者 とする 「
聖地防衛国家」 の秩序 を維持 しようとする教会の明確 な志向性があった。そ もそ も聖地防衛 を目的 として
形成 され,臨戦態勢 におかれたエルサ レム王国には,内部秩序の維持 は存亡 に関わる問題であったが,総大司教 を頂点 とし
た教会 は,内的統治 において王権 との相互 自立性 を明確 にしつつ も,常 に国王 を長 とする王国の秩序 を支 える重要な存在で
あった。
11
0年代
以上の ように,建国当初 には聖 ・俗 にわたる全 ての権限が,唯一の権力 ・権威であった王権 に集中 していたが,1
1
30年代 にかけては教会の権威が確立 し, 11
3
0年代半ばには都市行政の中核が 「ブルジ ョワ ・エ リー ト」 に移行 し,
半ばか ら1
11
40年代 には 「
騎士修道会層」がその形 を明確 に していった。それに伴い王権 はその権力 を分散 させ,その影響力の範囲を
狭めていったように見 える。 しか し内政的には,王権 は各社会層上層の一部の者達 との直接的な,パーソナルな繋が りを維
持 していた。「
聖地防衛国家」 の軍事統率者 としての王権の役割が,王権 を主柱 とす る秩序維持作用 をもっていたことを併
せて考 える と,「
封建王国」が直面す る権力分散作用 を 「
聖地防衛国家」 としての統合作用が凌駕 していた と言えるのであ
る。 したがって王国における権力分散 と見 えるものは,王国が直面する現実 に対応するための役割分担であった とも表現で
きるのである。
論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨
十字軍は欧米ではきわめて研究の盛 んなテーマであるが, 日本の専門研究者 は一,二 を数 えるに留 まる。 なかで も十字軍
が建てた聖地国家,エルサ レム王国を研究対象 としているのは, 日本では論者のみである。 近年,十字軍遠征 についてはヨ
ーロッパ社会 に重点 を置いた多様 な研究が,新 しい成果 を生み出 しつつあるのにたい し,エルサ レム王国研究は停滞気味で
ある。 論者 によれば,その主たる原因は,従来のエルサ レム王国研究が,同時期 の ヨーロッパ社会 をモデル とした 「
純粋封
建制」論 によって,国王 と貴族の関係 を中心 とした国利史研究 を主眼 として きたか らであ り, この点は 「
純粋封建制」 を否
定す る研究者 も同様であった。 この点 に鑑み,封建関係 に入 らない都市のブルジ ョワ,豊かな所領 を持 ち,軍事的にも重要
な役割 を果たすテンプル, ヨハネの両騎士修道会,そ してエルサ レム, アンテイオキア両総大司教 を中心 とする高位聖職者
の三つの集団 と王権の関係 を考察対象 としたのは,論者の胴眼である。それによってエルサ レム王国の,「
封建王国」 お よ
び 「
聖地防衛国家」 とい う二重の構造モデルを設定 し,ハ ツティンの戦い (
11
87年)以前の前期エルサ レム王国に関する新
しい像 を提示 し得 た点 に,本論文の独創性が認め られる。今 ひとつ特筆すべ きは,従来か ら多用 されて きた年代記や書簡 に
くわえ,国王,諸侯,教会の発給する証書 を網羅的に分析す ることにより,王国の統治構造 を人間の 日常的な活動形態か ら
明 らかに しようとする点である。 証書 を中心 とした研究はすでに S・ティブルが王権 と貴族の封主 ・封 臣関係 について行 っ
ているが,論者 は新たに上記の三つのグループに関連するあ らゆる証書 を渉猟する
。
その成果は,膨大 な表 に整理 され,今
後の同王国研究 にとって,それ 自体貴重 な貢献 をなす ものであるといえる
。
エルサ レム王国は圧倒 的に都市立脚型国家であ り,キリス ト教徒 は騎士 ・貴族 もエルサ レムをは じめ とする都市 に居住 し
た。 さらに1
1
20年以後,史料でブルジ ョワと総称 される貴族以外 の様 々なキリス ト教徒が都市 に定住 し,法書 にはその独 自
- 6
2-
の会議組織 としてクール ・デ ・ブルジ ョワが登場す る。 第一部では論者は,1
3世紀の法書 に 「
副伯 と1
2人の陪審」 よ りなる
と記 された, このクール ・デ ・ブルジ ョワを1
2世紀の現実 と捉 える従来の研究 を批判 し,やは り証書 に副署人 (
証人) とし
て記名 されるブルジ ョワを網羅的に把握する。 そこか ら,有力 ブルジ ョワ (「ブルジ ョワ ・エ リー ト」)が,副伯や陪審 とか
かわ りな く,国王やエルサ レム総大司教 の家政役人 として,都市行政 を担 っていたことを明 らかに した上で,論者 はその背
景 として,慢性 的な臨戟態勢 に置かれ,かつキ リス ト教徒戦十の常 に不足するエルサ レム王国では, とくに騎士層が頻繁 に
軍事行動のために都市 を不在 にすることか ら,ブルジ ョワが不可避的に都市行政 を担い,騎士不在時の都市防衛 をも担 った
のだ と考 える。 この ように圧倒的多数の異教徒住民 をかかえ,臨戦態勢 にある国家であるがゆえに,キリス ト教徒社会の最
下層であるブルジ ョワが国家 (
都市)統治の重要な役割 を担 ったこと, また戦士たる騎士貴族 とは区別 されるものの,一部
上層 ブルジ ョワは国王の側近 として都市 を越 える活動範囲を示 したこと,などを赦密 な証書分析 によって明 らかに し,エル
サ レム王国におけるブルジ ョワを,王国統治 を支 える不可欠の非封建的ファクターの一つ として明確 に位置づけたことは,
論者の功績である。
第二部では聖地防衛 に不可欠の存在 となる騎士修道会 について, とりわけ史料 の豊かなヨハ ネ騎士修道会の成立時期 とそ
の要因を,同様 に精赦 な証書分析 を通 じて明 らかにす る。 テンプル騎士修道会 を含めた従来の研究は,両騎士修道会が諸侯
領の獲得 によって所領 を拡大 しつつ も,教皇直属の 自立的組織 として国王 との封建関係 をもたなかったことか ら, これ らを
王国の政治構造の中に位置づけようと試みることはなかった。 この点 を批判 しつつ論者 は,一方で聖 ヨハネ騎士修道会関係
者が,少 な くとも一定時期 には国王宮廷会議 に参加 し, またその兵力が国王軍 に加 えられていた こと,テンプル騎士修道会
の総長 は1
1
40年代以後,その大半が国王家政役人の出 自であることか ら,両騎士修道会 ともに, 「
封建王国」「
聖地防衛 国
家」 の両面 においてエルサ レム王国 と結 びついていた とし, ブルジ ョワと同様 に非封建的 ファクター としての騎士修道会 を
封建王国エルサ レムの統治構造内に位置づける。 この ような,聖地防衛団体 としての機能 をふ まえた うえで,教皇直属組織
とい う原則論的な性格規定ではな く,実際の国王宮廷 との人的結合や,折 々の政治状況 における国王 との関係 をも視野 にお
さめつつ,騎士修道会 を国王 を中心 とする権力構造の中に位置づけることがで きたのは,先行研究 に対する論者の功績であ
る。 また ヨハネ騎士修道会の成立過程 (
軍事化 )を解明す るために論者が行 った,城砦取得 に関す るきわめて精微 な考察 は,
ラテン ・シリアにおける城塞集落 に関す る研究 と評価 しうる貴重 な価値 をもつ ものである。
第三部では,国王戴冠 と司教任命 による教会 と王権 の相互抑制作用 を指摘す る ドデュらの研究 を批判 し,やは り証書史料
分析 により,総大司教以下の在俗教会 と王権の関係 を,時期的な段 階を設けてその変化 の中で再検討する。 そこか ら明 らか
になるのは,王国初期の教会形成期 における王権 の積極的な関与, 11
30年代以後の教会の 自立化,教皇庁の統制強化 と王権
の関与の後退,そ して とりわけ王家の男系血統が絶 え,婚姻等 によって女系 に継承 される場合 な どには,総大司教 による国
王戴冠 は,抑制ではな く諸侯 に対する王権の支持 ・強化 を意味 したこと等である。 血統 による王権の安定 と教会組織の 自立
化 は,両者の分離 を促 した ものの,聖地防衛国家 を軍事的統率者 として維持すべ き王権 を支 えるためには,教会 は王権 を積
2世紀前半の うちに高位聖職者の国王宮廷会議への出席 は稀 にな り,封建王国 とし
極的に支援 したのである。論者 によれば1
ての内政 レベルでの王権 との結合 を弱めるが,軍事行動の他,使節 としての奉仕,相互の紛争調停 などが示す ように,聖地
防衛国家の維持 とい う共通の目的のためには,教会 と王権 の結合 はなお維持 されていた。封建国家の中に教会が緊密 に統合
されていった西欧諸国 と対比 しつつ,エルサ レム王国における教会 と王権の関係 を,相互の 自立性 と協働 の両側面 において
特徴づけたのは論者の創見 といえよう。
以上のように,なお純粋封建制論の影響 を払拭 していない従来の研究が,非封建的要素であるがゆえに,王国の統治構造
に積極的には位置づ けられなかったブルジ ョワ,騎士修道会,教会の三者 を,聖地防衛国家 としての王国維持のために不可
欠な存在 として考察 し,その実態 を徹底 した証書史料の分析 によって明 らかに した本論文の功績 は きわめて大 きい といえる
。
証書研究 によって論者 は,年代記 を中心 とした事件史的な王国史叙述や,法書 にもとづ く静態的な王国像 を克服 し, この地
で活動する様 々な人間集団の具体的な日常の政治的 (
軍事的)行為 を繰 り返 し見つめ直す ことによって,従来のエルサ レム
王国像 を格段 にクリアなもの とした といえよう。西欧国家 と全 く異 なる諸条件 において構築 されたこの王国の全貌 を捉 える
には,論者 自身は未 だ本格的に論 じてはいない王権 と世俗貴族 ・諸侯の関係 について も,証書史料 の分析 を通 じて再検討 を
封建王国」 「
聖地防衛 国家」 の二元モ
行 う必要があ り, この ことは論者 自身が今後 の課題 としてい る とお りであ る。 また 「
- 6
3-
デル も, ときにはやや強引な印象 を与 え,両者の関係 については今少 し赦密 な説明が望 まれる。
なおキリス ト教世界の側の史料 にのみ依拠 したエルサ レム王国像 を,イスラム史料 をふ まえて相対化 し,再構築すること
をも含 めて,論者の研究が さらに進めば,エルサ レム王国は西欧的な意味での王国ではなかった との解釈 もあ一
り得 るであろ
う。 論者の研究成果は,その ような斬新 な再解釈 さえ予感 させ うるものである。
以上,審査 した ところにより,本論文は博士 (
文学)の学位論文 として価値 あるもの と認め られる。2
0
0
2
年 1月2
1日,調
査委員 3名が論文内容 とそれに関連 した事柄 について口頭試問を行 った結果,合格 と認めた。
- 6
4-
Fly UP