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山本(新島)八重と日本赤十字社

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山本(新島)八重と日本赤十字社
山本八重(新島八重)
と
日本赤十字社
篤志看護婦制服の八重 ︵同志社大学提供︶
福島県支部
Our world. Your move.
山本八重(新島八重)と
日本赤十字社
山本八重(新島八重)は「幕末のジャンヌ・ダルク」
「ハンサムウーマン」
「日本のナイチンゲール」といわ
れる女性です。
八重は、会津藩の精神である「ならぬことは、ならぬ
ものです」を心の支えに、戊辰戦争で銃を持って戦い、
そして日清・日露戦争で は篤 志 看 護 婦として 活 躍 、
どんな苦境にあってもあきらめず、生き抜いた人で
した。
赤十字看護衣姿の八重
(同志社大学提供)
1
山本八重(新島八重)
の生涯
1845[ 弘化2年 ] 11月3日会津藩の山本家に誕生する
1868[ 明治元年 ] 戊辰戦争
1871[ 明治4年 ] 兄、山本覚馬を頼って、母、姪とともに京都へ
1876[ 明治9年 ] 新島襄と結婚
1890[ 明治23年 ] 新島襄と死別
八重、日本赤十字社の正社員となる
1894[ 明治27年 ] 日清戦争開戦
八重、日本赤十字社京都支部救護班の看護婦取締として、広島陸軍予備
病院分院で4ヵ月間救護活動にあたる
1904[ 明治37年 ] 日露戦争
1928[ 昭和3年 ]
1932[ 昭和7年 ]
篤志看護婦人会京都支会の副監督として大阪陸軍予備病院で2ヵ月間
救護活動にあたる
昭和天皇即位大礼の時に、戦時救護の功績により銀杯(勲二等)を受章
女性への銀杯は、皇族以外で初めての受章であった
87歳で死去
2
と
山本八重
(新島八重)
日本赤十字社
2
会津時代の八重
八重は1845年(弘化2年)、会津藩の砲術師範を代々勤める山本家に誕生しました。男勝りの
八重は、
12歳の頃には60㎏もある米俵を4回も上げ下げするほどの力持ちであったそうです。
尊敬する兄覚馬の影響を受け、女性でありながら銃や砲術に興味を持って育ちました。
会津藩には日新館という藩校あり、有名な白虎隊の隊士達も、この日新館で学びました。会津
武士(上士)の男子は10歳になると入学が義務付けられており、ここで礼法、書学、武術などを
じゅう
学びました。また、日新館入学前の6歳∼9歳までの男の子は、地域ごとに「什」と呼ばれる組を
作り、お互いに武士としての心構えを学びました。
この「什の掟」は会津藩士の子どもとしての心構えを定めたものです。
什の掟 (写真提供:會津藩校日新館)
【一】 年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
【二】 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
【三】 虚言を言ふ事はなりませぬ
【四】 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
【五】 弱い者をいぢめてはなりませぬ
【六】 戸外で物を食べてはなりませぬ
【七】 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
このような武士の子供の心構えを八重もしっかりと身につけていました。
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3
戊辰戦争と八重
1868(明治元)年、戊辰戦争が勃発
し、八 重も鶴ヶ城に籠 城し戦 いました。
髪を切り男装をして、兄に教わった鉄砲を
持って戦ったほか、負傷者の救護や鉄砲玉
の 製 造 を 行 い まし た 。そ の 姿 が の ちに
「幕末のジャンヌダルク」
「会津の巴御前」と
言われた所以だそうです。
しかし、八重らの奮闘もむなしく、会津
藩は降伏することとなります。
この戦争で八重は父、弟を失いました。
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戊辰戦争後の鶴ヶ城
男装の新島八重
(国立公文書館所蔵)
(同志社大学提供)
京都での新しい生活と八重の夫、新島襄
にょこうば
戊辰戦争後、兄の覚馬を頼って八重は母、姪とともに京都へ向かいました。八重は、女紅場
(日本初の女学校)で舎監兼教導試補として働きました。
八重の夫新島襄は、
1864
(明治元)年アメリカに
密航し、
1874
(明治7)年に帰国、西洋文明とそれを
築いたキリスト教の教えを日本に伝えるため、学校の
設立に奔走し、
1875
(明治8)年同志社英学校を
設立しました。
二人は京都で初めてキリスト教式の結婚式を行い
ました。背が高く洋装の夫襄と和服に帽子をかぶり
ハイヒー ル で 歩く妻 八 重 。そ れ だ け で なく、夫 を
「ジョー」と呼びレディファーストを貫く2人の姿は
当時の人々を驚かせました。
しかし、
2人は世間にはどう映ろうが毅然と肩を
並べて歩む夫婦でした。
また、洋装に挑戦したり英語を学んだりと新しい
ことに挑戦し続けました。襄はそのような八重の姿を
見て「生き方がハンサム」と言いました。
新島襄と八重の写真
(同志社大学提供)
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と
山本八重
(新島八重)
日本赤十字社
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八重と日本赤十字社とのかかわり
夫、新島襄は1890
(明治23)年47歳で永遠の眠りにつきました。八重と襄との結婚生活はわず
か14年あまりでした。襄の没後、八重は日本赤十字社の正社員となります。正社員とは、年に3円
以上を納める者であり、一時または数度に200円以上納める者のことをいいます。
また、日本赤十字社京都支部の篤志看護婦人会員となり、看護法の講義を受けたり社会奉仕に
関わったりしました。
日露戦争当時の日本赤十字社篤志看護婦人会京都支会メンバー
(2列目左から5番目が新島八重) (日本赤十字社提供)
1888
(明治21)年7月15日福島県
の磐梯山が噴火し、
500人以上の死傷者
を出しました。このときに日本赤十字社
は救護員を派遣し猪苗代町の医師らと
協力して被災者の救護活動にあたりま
した。
日本赤十字社では専門的な救護団体
として 戦 時 救 護を行って いましたが、
このときの活動が、日本赤十字社がはじ
めて行った平時災害救護活動であるとい
毘沙門沼の近くにある
『日本赤十字社平時災害救護発祥の地』の石碑
われています。
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6
篤志看護婦人会とは
1887
「篤志看護婦人会」とは、
(明治20)年に皇族、華族、上流階層の婦人を中心として、
日本赤十字社の救護事業を援助するために設立したボランティア団体であり、赤十字奉仕団の
始まりともいわれています。篤志看護婦人会の会員は、正規の看護婦ではありませんでしたが、
「看護婦養成所」の生徒募集のほか、傷病者の看護ができるよう包帯の巻き方や救急処置を
学び、赤十字活動の中心となる救護看護婦の補助の役割を担っていました。
そのほか篤志看護婦人会の活動は、災害の被災者に金品を贈ったり、衛生材料の作製・寄付を
行ったりしていました。また、その中の有志者は、軍病院で看護業務の補助を務めていました。
八重の活躍した日本赤十字社篤志看護婦人会京都支会と同様に、福島県においても明治34年
9月に日本赤十字社篤志看護婦人会福島支会が設立され、郡山、若松、平に分会がおかれました。
篤志看護婦人会 記章
日本赤十字社篤志看護婦人会会報
(日本赤十字看護大学資料室提供)
(日本赤十字看護大学資料室提供)
八重と若い赤十字の看護婦たち (同志社大学提供)
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篤志看護婦人会『看護法教程』
(日本赤十字看護大学資料室提供)
と
山本八重
(新島八重)
日本赤十字社
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日清戦争での救護班看護婦取締としての活動
1894
(明治27)年、日清戦争がはじまると八重は日本赤十字社京都支部の看護婦とともに
広島陸軍予備病院へ派遣され、看護婦取締として4ヵ月間活動しました。伝染病患者が多く収容
されていた分院での活動は困難を極めましたが、懸命に傷病者の看護にあたりました。
八重はその功績により、
1896
(明治29)年に日本赤十字社の特別社員となり、勲七等宝冠章
を受章しました。これは民間女性として最初の受章でした。
治療に立ち合う八重 (同志社大学提供)
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日清戦争従軍時の八重と傷病兵 (同志社大学提供)
日露戦争での救護班看護婦取締としての活動
1904
(明治37)年、日露戦争が勃発し、八重は再び
篤志看護婦として大阪予備病院にて2ヶ月間救護活動
にあたりました。赤十字の理念のもと、日本兵だけでな
く、ロシア兵の傷病者に対しても救護を行った日本
赤十字社の活動は高く評価されました。この日露戦争
での功績が認められ、勲六等宝冠章を受章しました。
また、
1928
(昭和3)年の昭和天皇即位大礼の際には
銀盃を授与されました。このように、日本赤十字社の
篤志看護婦として日清戦争・日露
戦争で救護活動にあたった八重
の功績をたたえ、
「日本のナイチ
ンゲール」と呼ばれています。
新島八重は、その激動の生涯
において、いかなる困難におい
ても自らの意志と力でたくまし
く生き抜いた女性なのです。
勲六等宝冠章
(同志社大学提供)
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日露戦争当時の看護婦姿の八重 (同志社大学提供)
と
山本八重
(新島八重)
日本赤十字社
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新島八重と大山捨松
新島八重とおなじ会津出身の山川(大山)捨松は1860
(万延元)年2月24日、会津藩山川
尚江重固の娘として誕生しました。捨松の人生を大きく変えた戊辰戦争が1868
(慶応4)年、
8歳のときに起こり、捨松(当時は咲)は家族とともに籠城し、戦いました。
敗戦後、明治政府が派遣する日本で最初の女子留学生として選ばれ、アメリカへ留学し、アメリ
カのバッサー大学を卒業後、看護学を学びました。
帰国後、捨松は留学により身につけた教養と語学力を活かし「鹿鳴館の華」と呼ばれました。
また、看護婦の資格を活かして八重と同じく日本赤十字社篤志看護婦人会会員として、日露
戦争で活躍しました。捨松も八重とともに戊辰戦争での悲惨な体験を忘れることなく、日本赤十
字社と大きくかかわり看護婦の地位向上に努めた女性でした。
篤志看護婦人会発起人名簿
(日本赤十字社佐賀県支部所蔵 寄託先:佐野常民記念館)
大山捨松の写真
(写真提供:会津武家屋敷)
福島県支部
〒960-1197 福島市永井川字北原田17
TEL 024-545-7997 FAX 024-545-7923
URL http://www.fukushima.jrc.or.jp/
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