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De historia medievali in septentrioni et orienti Europa

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De historia medievali in septentrioni et orienti Europa
De historia medievali in septentrioni et orienti Europa
1. まえがき
ヨーロッパという地域はおそらく日本で多くの人々が、アメリカや他の東アジアの国々
と同じ程度世界の中でも身近に感じる地域である。そのためおおよそどの世代に関しても
ある程度この地域で何があったかを知っているものであろう。そして、高校で世界史を習っ
たもの(もっともすべての高校生にこのような共通認識を持つことはできないのは自明の
理である) にとって、中世ヨーロッパの、つまりヨーロッパのおおよそ西部の歴史という
のはもはや慣れ親しんだものと思われる。未習の方々のためにも再確認しておくと、それは
以下のとおりだろう。
かつて、イタリアを中心とした地中海世界周辺にはローマ帝国という巨大な帝国があっ
た。その帝国は次第にその社会構造を変容させ、ついには東方から押し出されてきた民族た
ちによってすっかり姿を変えられてしまった。そんな彼らにも次第にキリスト教の教えが
広まり、彼らの打ち建てた国々が変質していく過程で、カールという偉大な王が現れ、彼は
皇帝になり、ヨーロッパは彼の帝国に再編された。しかし、彼の死後数代のうちに帝国の領
土は分割され、しかも彼の子孫たちはその位を維持することができず、その結果新たにフラ
ンスにはカペー朝が、ドイツにはザクセン朝が興り、イタリアは様々な領主によって細分化
された。その後、かつてはヨーロッパへの侵入者であった彼らもまた「外側」から来た新た
な侵入者の脅威に襲われ、やがてそれら新しい勢力によってイングランドにはノルマンデ
ィーを経たノルマン朝が、ロシアにはルーシによるノヴゴロド公国、次いでキエフ公国が成
立した。もちろん、東方にはすでに聖像崇拝論争でローマとの関係はほぼ解消されつつある
ものの、かつてのローマ帝国の子孫である東ローマ、すなわちビザンツ帝国がその政権を維
持し続けていた。こうして再編されたヨーロッパは商業流通が回復していくなど次第に力
を蓄えていった結果、ついには自分たちの世界の外側に進出していくほどエネルギーに満
ちていった。そのような動きが、自分たちとは異なる宗教に属するイスラーム勢力に対する
十字軍であり、イベリア半島でのレコンキスタであり、東方への改宗運動や開拓運動である。
このような動きに反して、かつてはこれらの世界の頂点として強大な権力を放った皇帝や
教皇といった存在がどんどん地位を低下させたために、次第に権力を伸張させていった国
王たちによる政治が、これまでのキリスト教に代わる新たな動きが、東からオスマンの進出
が迫ってくる中で始まっていくのである。
とりあえず高校世界史で習う中世ヨーロッパの歴史をざっくりと説明するとこうなるの
ではないだろうか(もちろん歴史にある程度精通した者や実際に研究の世界にいる者にと
って反論の余地があることは承知の上である)。さて、ここまで叙述して気づくことが一つ
あるのではないだろうか。読んでいる方々は一度ヨーロッパの地図を思い浮かべてほしい。
ここまでの説明の中で、実は全く出てこなかった空白の地帯が多いことに気づくのではな
いだろうか。そう、東欧や北欧である。そこで今回は、ヨーロッパの中であまり知られてい
ない部分、東部および北部に焦点を当てて、中世ヨーロッパにおいてそれらの地域で何があ
ったかの簡単な概略をこれを読んでいる方々に示すことを指針とする。現在辺境とされて
いるこれらの世界であるが、中世にはまだそのような立場にはなかった。ローマ以来の世界
の中にその外側から現れ、やがてその世界秩序の中に取り込まれていきながらも、完全にそ
の世界秩序とは融合せずある程度の独自性を残しながらヨーロッパという空間秩序の内側
に位置付けられ、その中で様々な歴史を経て、次第に近代へと向かっていくこれらの世界を
少しでも知る助けになれば幸いである。
各参考文献をもとに作成
なおこれから取り扱う地域の地理的な解説を簡単にまとめておく。南部の現ハンガリー
やバルカン地域は西欧のアルプス山脈、アペニン山脈、ピレネー山脈などと同じく新期造山
帯のアルプス・ヒマラヤ造山帯に属している。そのためスターラ山脈やカルパティア山脈、
トランシルヴァニア山脈、ディナルアルプス山脈などに囲まれた山間の地域であり、ルーマ
ニア平原やドナウ川流域のハンガリー盆地などが例外的に開けた土地になっている。そこ
から少し北に行くと古期造山帯の地域となり、南部ほどの高さはないが丘陵性山地によっ
てある程度の起伏があり、山に囲まれたボヘミア盆地などが存在する。そこからさらに北に
行くと安定陸塊が広がり、ユトランド半島までに続く北ドイツ平原や、農業に適したロシア
卓状地による東ヨーロッパ平原や、準平原ではあるがかつて氷河におおわれており痩せて
いるバルト楯状地が存在する。スカンディナヴィア半島の北西部つまり現ノルウェー地域
になると再び古期造山帯になり、フィヨルドが広がるスカンディナヴィア山脈が広がる。
2. 第二次民族移動と地域の再編―10 世紀半ばまで―
2.1 この時代の概観
上述のように、この文章はヨーロッパ東部・北部の中世における歴史の概観をまとめるも
のであるが、そもそもこれらの地域が、古代から中世初期にかけてどのようなものであった
のかを具体的に記述することはできない。考古学的にその地域にどのような文化を持つ集
団が生活しているかはある程度明らかにすることができる。しかし、そのような集団が自身
のアイデンティティを創出して記録を制作し始める以前に、どのような歴史を歩んでいた
かは文明側からの記述に頼るしかない。ということで、ここでは私たちはスラヴ人やノルマ
ン人が記録の上に現れ始めたカロリング時代あたりから見ていこうと思う。
かつてのゲルマンの集団がそうであったように、この時代あるリーダーに率いられたこ
れらの集団の人々は、盛んに文明側の世界へと進出してきた。やがて、そうした集団によっ
て既存の文明の空白地帯、すなわち本来自分たちが定住していた地域、あるいはある程度の
まとまった特定の勢力がまだ存在しなかった地域に共同体が建設されていくのである。そ
してそのような共同体において、やがて王権が伸長していったために一つの国家的な枠組
み(といっても現代の国民国家のそれとはだいぶ異なるが)が形成されていくのである。
2.2 北部からの侵入者―ヴァイキングとその国家群―
例えば北部ヨーロッパでは、カロリング朝とその後継国家たちの世界にヴァイキングと
呼ばれる主にスカンディナヴィアを本拠としていた集団が、交易と略奪といった形で盛ん
にヨーロッパ世界と関わりを持つようになってきた。こうした彼らの存在はカール大帝の
在位中のデーン人の王ゴドフレズとの戦いなどが残されているが、大陸の側では次第に彼
らの進出領域が広がる中でカロリング朝の末裔に代わる、カペー朝などの新しい権力が確
立されていくのである。一方、ヴァイキングは西方ではイングランドを超え、アイスランド
に進出し、最終的には赤毛のエイリークによってグリーンランド、さらに彼の息子のレイヴ
によってアメリカ大陸にまで到達する。結果のちにイングランド王位をも得るノルマンデ
ィー公国やシチリア公国など本拠地であるスカンディナヴィアやユトランドの外側にも彼
らの後を継ぐ国が成立していく。しかし、9 世紀にはもう宣教師アンスガルがスカンディナ
ヴィアに布教活動に来るなどヴァイキング世界は次第にキリスト教圏へと取り込まれてい
く。
一方、やがてヴァイキング側でも自分たちの本拠地において次第に政治的な結合が進行
していき、スウェーデンでエーリク勝利王、デンマークでハーラル青歯王、ノルウェーでハ
ーラル美髪王といったのちの国家的枠組みの最初の起源とされる勢力が発生していくので
ある。スウェーデンでは、
『サガ』や『ベオウルフ』に名が残るエーリク勝利王の家系であ
るユングリング家がしばらく統治していき、ウーロヴ・シェートコヌングによって中部のス
ヴェーアランドと南部のイェートランドが初めて統一された。またスウェーデンでは確か
にそれ以降も異教信仰が続いていくものの、1000 年頃には王家は完全にキリスト教徒にな
った。この王朝が途絶えた後ステンキル家がこれを継ぐも、スウェーデンはまだ文明圏とは
言えなかった東方への進出が主だったためこの時代はほとんど史料が残されていないため
に詳細は不明である。ノルウェーは、ハーラル美髪王によって沿岸部が統一され、その後も
ホーコン善王、ヤール・ホーコン1、オーラヴ 1 世らの手によって断続的に統一を繰り返し
た。アイスランドは、870 年頃にノルウェー人たちによって発見された後次第に移住が進み、
930 年頃になるとアルシングと呼ばれる独自の政治体制をとっていたが、これも 1000 年前
後にノルウェー王オーラヴ 1 世に迫られたためにこの集会で決をとってキリスト教に改宗
することとなった。北欧世界の中で特筆すべきはデンマークで、まずハーラル青歯王が、大
陸側の皇帝によるキリスト教の勢力拡大政策の流れで 960 年頃にキリスト教に初めて改宗
し、デンマークに統一的な権力を成立させた。その息子のスヴェン・ハーラルソン双叉髭王
はデーン人の虐殺の報復からイングランドのエゼルレッド 2 世を亡命させて 1013 年にイ
ングランド王となり、さらにその息子のクヌーズ大王が(イングランド史におけるクヌート)
イングランド、加えて 1028 年にノルウェーのオーラヴ 2 世を追い出したことでノルウェー
王位も兼ね、ヨーロッパの北部に広がる巨大な北海帝国を作り上げた。
2.3 文明の中間地点―東欧世界の出現―
ローマやドイツの帝国を中心とした西側世界と、東に位置する東ローマ帝国、いわゆるビ
ザンツ帝国との間には二つの文明圏の中間的な空白地帯が存在した。その世界に存在した
のが、ヨーロッパに暮らす多数の人々と同じ印欧語族のスラヴ人(どこから来たかという問
題にはいまだなお解決の兆しが見られない)である。スラヴ人についてはギリシャ・ローマ
の古典時代にプリニウスらによって多数の記録が作られている。しかし、彼らが文明の側に
目立った形で表れ始めるのは、それまでビザンツに侵攻を繰り返していたゴート人がビザ
ンツ皇帝によって西側世界へと向かわされたあとに、それに代わって新たに侵攻してきた
ウラル・アルタイ系のアヴァール人やブルガール人に伴ってである。さらに、スラヴ人は次
第に自分たちだけでも南下を繰り返し、結果本来大陸ヨーロッパの北東~中部に広がって
いたスラヴ人は、南東部のバルカン半島あたりにまで広がることになった。
一方、本来中心地だった東部ヨーロッパの中域においては、メロヴィングからカロリング
時代には遊牧民族であるアヴァール人が強い権力を持っていた。スラヴ人は、こちらでもま
た彼ら遊牧民族に従う存在であり、時折それに対抗してフランク人商人サモによって支配
1
豪族のヤール家の出身だがデンマークのハーラル青歯王の代官でもあった
されたいわゆるサモの国などを形成したものの、この時代においては国家的存在に統合さ
れることはなかった。しかし、やがてさまざまな民族が入り乱れる中で、こうした西と東の
ローマ文明の中間にあたるこの空白地帯にもこれら両方向からの影響によって、バルカン
地帯はビザンツと時には争いながらも次第に彼らの秩序の中に、一方北東~中部には 10 世
紀になると西欧のカトリック的国際秩序に組み込まれた 3 つの国家が成立する。
アヴァールがカールによって解体され、ブルガールはビザンツの敗北によってついにブ
ルガリアとして国家的存在となる中、スラヴ人も 820 年代にはモラヴィア南部でモイミー
ルがモラヴィア公国を建国するに至る。彼はすでに西のローマ側に属する人間であったが、
息子であるロスティラフはブルガリアと結んでフランクに対抗し、東のビザンツに接近し
ていった。その過程でロスティラフの嘆願によってモラヴィア公国にビザンツから派遣さ
れたのがキュリロスとメトディオスの兄弟で、彼らによってスラヴ人の言葉を表すグラゴ
ール文字が作成され、モラヴィアでの布教に活用されたのである。兄弟は自分たちの活動を
ローマに認めさせるものの、ローマでは教皇が替わり、さらにフランクがロスティラフの甥
のスヴァトプルクと手を結んでロスティラフを失脚させて国自体の陣営が再び替わってし
まったのである。そのため、兄弟の死後彼らの弟子たちの一部は、同じく親フランク陣営で
あったもののビザンツの侵攻によってキリスト教に改宗したブルガリアのボリス 1 世のも
とに向かった。ボリスとその息子のシメオンのもとでキリスト教は独自の教会が形成され
るほどの発展を迎え2、彼ら弟子たちもそこで行った活動の中でキリル文字を発明したので
ある。
モラヴィア公国のもとで統治が行われていたドナウ流域にはスヴァトプルクの死後、ア
ールパードが率いるウラル・アルタイ系のマジャール人が侵入してモラヴィアを滅ぼし、東
フランクの東部のマルクをも次々と攻略していった。これに対応した東フランクは上手く
退けられないままカロリング王統が途絶え、一時王妃の生家であるコンラート 1 世が治め
ていたものの、919 年にリウドルフィング家であるザクセン大公のハインリヒ 1 世が後継
することになった。彼は伝統的な分割相続に代わり王位単独相続制を導入して自分の家の
地固めを行い、リアデの戦いで勝利するなどかつてのアルヌルフ帝などのカロリング王時
代末期から全く対応できていなかった東方からの脅威に対して初めて実際に成果をあげた。
936 年に息子のオットー1 世が後を継ぎ、彼は東方政策を始めて東方のキリスト教化を進め
ていく一方で、955 年のレヒフェルトの戦いでマジャール人との戦いに決着をつけたのであ
る。この敗戦からマジャールは国家的統合をはじめ、アールパードのひ孫であるゲーザがキ
リスト教の導入を依頼し、さらに彼の息子であるヴァイク、つまりイシュトヴァーン 1 世
は皇帝と教皇の同意のもと 1000 年に戴冠したことで、ついにハンガリー王国が誕生するの
である。しかし、彼の死後ハンガリーはしばらくの間混乱が続いていった。
同時に、スラヴ人たちの国家建設も進んでいく。ボヘミアではプシェミスル家がそれまで
2
ただしボリスの息子、シメオンの兄であるヴラディミルのもと一度異教信仰が復活して
いる。
の豪族支配を解体させ、ボジヴォイ 1 世の代にはフランクに結びつき、その孫である聖ヴ
ァーツラフの代にはハインリヒ 1 世の支配下に入ることを認めたのである3。ボレスラフ 2
世のころにはプラハに司教座を設置し、スラヴニク家を滅ぼし豪族勢力を一掃して国家的
統合を強めていった。彼は「喧嘩屋」とまで言われたバイエルン公ハインリヒの反乱に加わ
り皇帝と対立したが、11 世紀頃にはプシェミスル家は完全に皇帝の臣下へとなった。この
プシェミスル家はボヘミアの統一にとどまらず、モラヴィアをも支配した。また、北側の東
欧平原では、10 世紀後半に農夫のピアストを祖とするとされるミェシュコ 1 世によって東
西ポモージュ、シロンスク、マウォポルスカが併合され、のちにポーランドとなる国家の本
格的な統合が進んだ。彼もまたカトリックを受け入れ皇帝のオットー1 世と結びつき4、後
継したボレスワフ 1 世もオットー3 世と協力し自国に独自の教会組織を設置することまで
認めさせた。しかし、オットーの死後ボレスワフは 3 度にわたり帝国と戦いながら 1025 年
に戴冠して一つの独立したポーランド王国が誕生した。しかし、後継者のミェシュコ 2 世
は兄弟のベスブリムが皇帝やキエフと手を結んだために王位を退く羽目になり、跡を継い
だカジミェシュ 1 世の代においてもしばらくは混乱が続いたが、彼は国家の再統合に成功
しポーランドの枠組みは維持されていた。
東方では、伝承によれば前述したノルマン人とスラヴ人の連合集団とされるルーシが 862
年にノヴゴロドを占領し、リューリク兄弟によってノヴゴロド公国の統治が始められた。こ
の下でさらにオレーグがキエフを占領してキエフ公国を 882 年に建国した。オレーグの後
を継いだイーゴリは税の徴収に行ったところでドレヴリャーネ族に殺されたものの、彼の
妻のオリガが息子のスヴャトスラフの成長までに摂政として統治を行って、巧みな内政と
外交政策で国家が維持された。やがて、スヴャトスラフが親征を開始した後はビザンツによ
るブルガリア帝国壊滅5への協力などバルカンに、またハザールを攻撃してハザールが保有
していた商業ルートを確保するなど積極的に軍事遠征を行うも、最後に彼はペチュネグ族
に殺された。その息子であるウラジーミル聖公は、兄弟間の争いを経て 980 年頃キエフ大
公になったのち、ビザンツ皇帝バシレイオス 2 世の妹である皇女アンナを娶るという条件
でギリシア正教を国教にすることになった。彼の死後再度公位争いがあったものの、アンナ
の系統とは別のヤロスラフ賢公が、ポーランドのボレスワフ 1 世の支援の下による義兄の
スヴャトポルクの侵攻もついに退けて継承した。こうして彼のもとでついにキエフは一体
化を成し遂げ、主教座の設置や成文法の制定など、内政・国際関係においてキエフ公国は頂
点を極めた。一方、このころになるとキエフは西方への進出も行うようになり、ヤロスラフ
とポーランドのカジミェシュ 1 世の親族の二重婚姻をはじめ、スウェーデンのウーロヴ、
なお彼はドイツ支配をよしとしない弟のボレスラフ 1 世に暗殺されており、現在チェコ
の守護聖人となっている
4 しかし、彼はオットーが進めていた司教座の設置をやめ、ローマ主導で新たな司教座を
設置した
5 西部は独立を維持したが、ビザンツ皇帝バシレイオス 2 世の活躍などで最終的に 1018
年に滅びる
3
フランスのアンリ 1 世、ハンガリーのアンドラーシュ 1 世、ノルウェーのハーラル 3 世や
デンマークのスヴェン 2 世とヨーロッパに広がる婚姻ネットワークが形成された。加えて、
緊張関係にあったビザンツ帝国とも彼の息子とコンスタンティノス 9 世モノコマスの娘と
の婚姻が決まったのだった。
3. 諸国家の発展―11~12 世紀―
3.1 帝国での叙任権闘争
後世神聖ローマと呼ばれる帝国において当時、ザリエル朝は教皇の即位を積極的に支援
するなど教皇庁と穏健的な関係を結んでいたが、幼いうちに即位したザリエル朝のハイン
リヒ 4 世のもとで次第に交流が絶えて緊張関係になっていった。加えて、強大な権力を持
つ外様の大公や伯たちに対抗するために、各皇帝が司教などの宗教的領主に自身の一門や
譜代を送り込んで権力基盤を形成させることを目的として行ってきた領邦教会制が、当時
クリュニー修道院に代表される教会組織の改革のさなかにあって改革派閥が中心的存在と
なった教皇庁によって非難されるようになったのである。さらに、当時南ドイツに勢力を持
っていたシュヴァーヴェンなどの大公が皇帝に対して反抗的な態度をとるようになってい
たために、ハインリヒはこのような教皇庁の態度を決して受け入れるわけにはいかなかっ
たのである。そのため、改革派のヒルデブラントことグレゴリウス 7 世に 1076 年に破門さ
れ自らの帝位が各領邦の君主に認められない可能性が高まると、彼は翌年有名な「カノッサ
の屈辱」を行って破門を解かなければならない状況下に陥ったのである。しかし、結局教皇
派は要求を曲げなかったために彼をふたたび破門し、ハインリヒが対立国王であるルード
ルフやグレゴリウス 7 世を退けてもなお皇帝と教会の妥協は成立しなかった。この結果、
数十年にわたって皇帝と教皇が対立する叙任権闘争が展開されるのである。闘争自体は父
親であるハインリヒを倒したハインリヒ 5 世が、教皇パスカリス 2 世、次いでカリストゥ
ス 2 世と交渉を重ねて 1122 年のヴォルムスの協約で和解に至った。しかし、帝国と強いつ
ながりを持つここで取り扱ってきたこれらの国々の一部は、この闘争に様々に関わってい
ったのである6。
3.2 東欧国家群の進展
まず、ハンガリーでは 1077 年にラースロー1 世が即位しここまでの混乱を収束させた。
彼は自分がイシュトヴァーンの名跡を継いだことを広く知らしめ、またトミスラヴやペタ
ル・クレシミル 4 世とズヴォニミル親子といった有力者の死後以来統一的な権力が形成さ
れていなかったクロアチアに介入した。その結果、彼の路線を引き継いだ甥のカールマーン
によってハンガリー王はクロアチア・ダルマチアの王も兼ねることとなった。そのためラー
6
この叙任権闘争でハインリヒを助けたロタールはその功でザクセン大公となるが、のち
にハインリヒに背いて彼の死後ついにはロタール 3 世として即位してしまいザリエル朝は
途絶える
スローはダルマチアを狙うヴェネツィアなどの勢力との戦いを繰り広げていった。しかし、
12 世紀のハンガリーについては史料的な制約から不明なことが多い。ただし、ベーラ 3 世
による 1182 年のセルビア7とボスニア8の征服や、ペータル、イヴァン、カロヤンらアセン
兄弟によって再建された第二次ブルガリア帝国9との戦争など南方のバルカンに積極的な進
出を続けていたことがわかっている。
ボヘミアは 10 世紀初頭に一時的な内紛が起き、ポーランドのボレスワフ 1 世の介入を招
くなどの混乱があったが、
1034 年即位したプジェチスラフ 1 世によって支配は強化された。
前述の叙任権闘争においてボヘミア大公であるヴラチスラフ 2 世は皇帝の支持に回り、オ
ーストリア大公位を差し出される寸前にまで至るほどの皇帝からの信頼を得て一代限り王
位を名乗ることを許された。やがて、12 世紀初頭にはプシェミスル家内で大公位継承戦争
が起こり、新たな貴族層が台頭していった。ヴラジスラフ 2 世10は、こうした貴族勢力に対
抗するために改革派修道院を招く、司教座にイムニテートを与えるなどをし、皇帝のイタリ
ア政策の支持から再び王位の呼称を認められたのである。
ポーランドはボレスワフ 2 世が教会制度の再建とともに叙任権闘争において教皇側に立
ち、ミェシュコ 2 世以来のポーランド王位についた。しかし、彼はその改革運動のさなか対
抗するクラクフ司教スタニスワフの処刑を非難され、わずか 3 年で王位を捨てハンガリー
に亡命することになったのであった。その弟であるヴワディスワフ 1 世ヘルマンは帝国の
支配を受け入れ、内政では専制的な政治を行おうとしたものの貴族層の反対で頓挫し、ポー
ランドは彼の息子によって分割された。兄弟の対立の中で兄であるズビグニェフが皇帝に
接近したのに対し、彼を撃破した弟のボレスワフ 3 世は 1116 年からかつて失ったポモージ
ェの再征服を開始して無事これに成功したが、その結果周辺諸国の介入を招き、1135 年の
メルセブルクの集会でポーランドが帝国の封土であると認めることになったのである。ボ
レスワフは 5 人の息子に相続権をきちんと残したが、やがてそれぞれが自立化して、長男
のヴワディスワフ 2 世のドイツへの追放、3 男のミェシュコ 3 世老公と 5 男のカジミェシ
ュ 5 世公正公の後継争いなどを経て、最終的にヴワディスワフの家系のシロンスク公家、
ミェシュコの家系のヴィエルコポルスカ公家、カジミェシュの長男の家系のクラクフ公家
と次男の家系のマゾフシェ・クヤーヴィ公家、そして在地の領主が自立した東ポモージュ公
家へとポーランドは分割されたのである。
キエフではヤロスラフが領土を分割して相続させ、イジャスラフのキエフ大公、スヴァャ
しかし 1168 年にラシュカ地方のステファン・ネマニャが大ジュパンを名乗り、90 年ご
ろにはビザンツの弱体化に乗じてほぼ全域を統一してネマニャ朝を打ち立てた
8 この後前述したセルビアの快進撃によってハンガリーの支配は北部のみに後退した
9 イヴァンの息子であるイヴァン・アセン 2 世の代に栄えるも、その後振るわずにモンゴ
ルの攻撃などで荒廃し、クマン族出身の貴族によるテルテル朝、ヴィディン地方の領主に
よるシシマン朝と王朝交代を繰り返す
10 ややこしいようだがヴラチスラフは Vratislav、ヴラジスラフは Vladislav と全く別の
王名である
7
トスラフのチェルニゴフ公、フセヴォロドのペレヤスラヴリ公、ヴァチスラフのスモレンス
ク、イーゴリのヴォルィニといった諸公国からなる国家がキエフ大公のもとで統合される
という体制へと変容していった。このキエフ大公位も次第に一族の中で年長者が継承する
というものから自身の長子に相続させようとする動きが各公国に広まって後継争いが起き
る要素となり、また境界領域にはキエフにまだなお服属していないスラヴ人たちがいたの
である。そして 1072 年ついに、スヴャトスラフとフセヴォロドがキエフ大公イジャスラフ
に反抗して大公位をめぐる争いが始まり、彼らの代が途絶えたのちキエフのイジャスラフ
の長男スヴャトポルク、チェルニゴフのフセヴォロドの長男ウラジーミル、トムタラカニの
スヴャトスラフの息子オレーグの 3 グループが形成された。大公位は一応は年長のスヴャ
トポルクのもとに収まったものの、1097 年に全キエフの公が自身の継承した土地が固有の
ものとして確保されることに同意して政治的分裂がついに決定的となった。スヴャトポル
クの没後大公位はオレーグの弟で母系がビザンツ皇女のウラジーミル・モノマフのもとに
移り、彼によって内政や外征が行われてある程度の単一性が維持されたものの、その死後つ
いに分裂は決定的となりウラジーミル・スーズダリ公国、スモレンスク公国、リャザン公国、
ペレヤスラヴリ公国、キエフ公国、ガーリチ・ヴォルイニ公国、トゥーロフ・ピンスク公国、
ポロツク公国、そして特定の公家が置かれないノヴゴロドへと分かれた。
3.3 北欧世界の進展
北欧では、デンマークでクヌーズの息子ハーデクヌーズの死後王統が断絶し、今度は逆に
デンマーク王位をノルウェーのマグヌス 1 世善王が兼ねることになり、それに対抗する形
でデンマーク王家の女系のスヴェン 2 世エストリズセンが即位し、デンマーク内では対立
が生じた。その結果、例えばシュレスヴィヒ公などはデンマーク王家の一族でありながら皇
帝に接近するなど対立に乗じた各勢力の勢力伸長によって内乱状態に陥るのである。その
ような中、王権の回復を進めようとしていったのが 1157 年に即位したヴァルデマー1 世で
あり、彼は司教アブサロンと協力してデンマーク王権の拡大を行った。さらに彼の息子であ
るヴァルデマー2 世は北方十字軍の流れで、1219 年にエストニアを占領するも、彼自身が
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン方面への進出のために対立していたドイツ諸侯に誘拐さ
れてしまい、それまでに得た領地のほとんどを失ってしまうのである。その結果、デンマー
クでは再び各貴族の力が増し混乱に陥っていく。一方、ノルウェーはマグヌスの息子ハーラ
ル 2 世によってついに統一が行われるも、1134 年以降王位をめぐる内乱が生じた。またス
ウェーデンは史料不足で実情は分からないがステンキル家が断絶し、フィンランドに十字
軍を送り支配下に置いたエーリク聖王の家系とスヴォルケルの家系が交互に王位を継ぐこ
とになっていった。
4. 衰退と新たなる再生―13~14 世紀―
4.1 ヨーロッパ世界の変調
まず、13 世紀と言えば中世になるに至って一旦衰えたヨーロッパが成長と発展、拡大を
進めていき、その頂点となった時代である。農業技術の革新や三圃制によって農業生産の拡
大が進み、人口が格段に増加していった。また、その結果起きた集村化によって農村共同体
が形成されて、それらを支配する領主が次第に領域的な支配権を行使するようになってい
き、こうした領主間の封建関係を結ぶ契約がピラミッド型の構造となった、すなわち封建社
会が形成されていく中で一族アイデンティティを持つ家門が形成されていった。一方、こう
した人口の増大は都市の形成と発展につながり、商業ネットワークが形成されていったの
である。しかし、それも 14 世紀になると一変してしまう。気候の寒冷化によって競作・飢
饉が続き、それに加えて黒死病(ペスト)の流行と戦争の多発も重なって人口が激減してし
まうのである。11こうした人口の激減によって農村・都市共に変質していった。これと同時
にヨーロッパ全体において政治権力もまた変質していったのである。
一方、北や東といった地域では 13 世紀以降になると、ここまで歴史を追ってきた各王統
は再編されていく。これに十字軍や植民で東方へと勢力を拡大させようとするドイツ諸侯
も関連していく。もともと、ザクセン朝の時点で皇帝たちは東方への勢力拡大を企てていた
が、第 2 回十字軍の際に皇帝に対抗するために北東部に勢力固めをもくろんだヴェルフェ
ン家のハインリヒ獅子公などによるスラヴ世界に侵攻するヴェンド十字軍を皮切りに、バ
ルト地域12へとドイツ人が進出していった。その結果、クールラントなどを治めるリヴォニ
ア帯剣騎士団、さらにそれが各勢力の攻撃によって弱体化した後はそれを吸収したプロイ
センを中心としたドイツ騎士団が異教のバルト地域13やギリシア正教のルーシのみならず、
同じカトリック陣営のポーランドなどにも攻撃を仕掛けていったのである。もちろん、ドイ
ツ人の進出はハンガリーなどの南部においても行われ、東方地域は次第に三圃制等の進ん
だ農業技術や「ドイツ法」などの精度が導入されていった。加えて、これらの地域では都市
建設も進められていき、西欧的な体制が形成されていく。しかし、こうした国土開発は莫大
な利益をもたらしたが、一方で貴族の勢力が強まって次第に結束していった。こうした貴族
らによって、やがて王冠や聖人と言った君主の象徴が王から切り離されて国家に属し、これ
らが属する国家は王と自分たち貴族が共同で担わなければならないという思想が共有され
て、やがて東欧の国々が身分制国家へと変質する端緒となった。
4.2 東欧世界の転換―生まれ行く新王朝―
まず、ボヘミアはヴラジスラフの死後再び大公位継承戦争が起こり、加えてフリードリヒ
11
12
13 世紀レベルの人口まで回復するのは 17 世紀までかかった
東バルト系によって建てられた一部の公国を除いて統一的な権力が形成されていなかっ
た
13
リトアニア地域は 13 世紀半ばにミンダウガスによって統合された
1 世14の介入を招いてしまう。しかし、フリードリヒが第三回十字軍で川を渡っている最中
に溺死した後に皇帝位をめぐるシュタウフェン家とヴェルフェン家の対立が激化すると15、
ボヘミアはシュタウフェン家のフリードリヒ 2 世の側に立った。フリードリヒが最終的に
勝利したことで、プシェミスル・オタカル 1 世は 1212 年「シチリアの金印勅書」によって
王に選ばれるのである。ハンガリーではアンドラーシュ 2 世は貴族からの収入を基盤にし
ようとしたものの外国人優遇政策で反発を招き、1222 年貴族層に金印勅書で譲歩をせざる
を得なかった。そのため、息子のベーラ 4 世16はこのような政策から軌道修正をしようとし
たが、貴族層などの援助を得られなかったので、押し寄せてきたモンゴル人に 1241 年モヒ
の戦いで大敗して逃亡し、以降国力回復のため貴族やクマン人に歩み寄っていった。
そのようなさなか、それまでオーストリア・シュタイアーマルク大公を受け継いできたバ
ーベンベルク家が断絶したためにボヘミア・ハンガリー両家がこれに介入した。最終的に、
1251 年ボヘミアのヴァーツラフ 1 世の息子プシェミスル・オタカル 2 世がオーストリアを、
ベーラの息子のイシュトヴァーン 5 世がシュタイアーマルクを後継した。オタカルは王位
を継ぐとプロイセン十字軍への参加など積極的に帝国内で自分の勢力拡大を行い、結局ハ
ンガリーに反抗したシュタイアーマルクやシュパンハイム家のケルンテンとクラインなど
も獲得した。しかし、帝国がフリードリヒ 2 世の後を継いだコンラート 4 世が早世し大空
位時代になる中17、このようなオタカルの勢力拡大は反発を招き、選帝侯たちはオタカルを
除外してハプスブルク伯ルドルフ 4 世をドイツ王18に選出した。ルドルフはオタカルに旧バ
ーベンベルク家領を帝国追放と引き換えに放棄させようとしたが、完全な撤退を拒否した
ため 1278 年にマルヒフェルトの戦いでオタカルを戦死させ、オタカルの野望はついえた。
結果、ハプスブルク家はオーストリア公の地位につき勢力拡大に努めて、さらに大貴族が
分立して混乱の中にあるハンガリー王位にも介入する構想まであったほどだが、今度は逆
にそれが危険視され、次のドイツ王にはナッサウ伯ルドルフが選ばれた。この時期の神聖ロ
ーマ帝国は強力な王権の出現を選帝侯が警戒し、これ以降もしばらくの間度々王朝が交代19
する「跳躍選挙」が続くのである。ボヘミアがオタカルの死後もヴァーツラフ 2 世のもとで
前述したロタール 3 世の死後、彼のライバルであったシュヴァーヴェン公コンラート 3
世がドイツ王に選ばれてホーエンシュタウフェン朝へと移り、それを継承した(なお母方
はヴェルフェン家)
15 即位したフリードリヒの息子のハインリヒ 6 世は、イングランドに支援されて再帰した
ハインリヒ獅子公に対してオーストリア大公によるリチャード 1 世の誘拐という形で決着
をつけるも早世し、本来後継する幼少のフリードリヒ 2 世とその間の補佐を行った叔父の
フィリップに対し、獅子公の息子のオットー4 世が教皇の支持のもと戴冠してしまった
16 ただし、自国の内紛に介入してきたセルビアのウロシュ 1 世を捕らえ、解放した後も彼
の息子のドラグティンを支援して王位を交代させるなどの成果はあげている
17 諸侯たちの選挙で選出された国王はドイツ内に入ることができなかった時代が続いた
18 誤解されていることも多いがドイツの国王は教皇によって戴冠されて初めて、皇帝にな
るのである
19 ハプスブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ルクセンブルク家などで、こうした王たちも
また自分たちの領邦のみを基盤にした「家産王権」であった
14
ある程度安定した統治を維持できていたのに対し、ハンガリーはクマン人に権力基盤を置
いたラースロー4 世は孤立し暗殺され、1301 年アンドラーシュ 3 世の死亡でついにアール
パード家は断絶し後継者の争奪戦が始まっていった。ポーランドは、依然分裂した状態にあ
り、途中モンゴルの侵入による 1241 年のワールシュタットの戦いといった混乱があったも
のの、それぞれの公が統一を目指したものの失敗に終わるということが繰り返されていた。
その一人であるヴィエルコポルスカ公のプシェミスウ 2 世は統一を目指すも有力貴族とブ
ランデンブルクの協力によって暗殺され、なんと 1300 年ポーランド王をボヘミアのヴァー
ツラフ 2 世が兼ねるということになったのである。ヴァーツラフはまた断絶したアールパ
ード朝の後継に息子のヴァーツラフ 3 世をつけるなどの勢力拡大政策を行ったものの、彼
の死後 3 世は暗殺されてしまってこちらもまた断絶を迎えるのである。
こうしてプシェミスル朝も断絶した結果、オーストリアでは王位につけなかったルドル
フの息子のアルブレヒトが着々と地固めを行い、ついにアドルフに代わって王位につきハ
プスブルク家の支配体制が形成されつつある中、それぞれの国で新たな王を設ける必要が
あった。ハンガリーではいったんヴィッテルスバハ家のオットーが継いだが間もなく帰国
し、イシュトヴァーン 5 世の娘の孫にあたるアンジュー家のカーロイ 1 世ローベルト20が
1308 年に、ボヘミアではヴァーツラフ 2 世の娘婿でありアルブレヒトの暗殺後にドイツ王
であったハインリヒ 7 世の息子であるルクセンブルク家のヨハンが 1310 年に王位につい
た。ポーランドではマゾフシェ公の家系であるヴワディスワフ・ウォキャテクが様々な敵対
勢力と戦いながら 1320 年クラクフで戴冠し王位が復活した。ヴワディスワフとヨハンはそ
の後もハンガリー王位を争って戦い続け、さらにこれにドイツ騎士団も深く関わっていく。
一方、ポーランドは彼の息子のカジミェシュ 3 世の代で一気に国土を 3 倍に増加させるの
である。カジミェシュはルーシのハリチ公国やヴォイン公国の後継争いに介入していくな
ど、西方だけでなく東方にも勢力を伸張させることを試み、さらに国内においては様々な諸
改革を行っていった。しかし、そんなカジミェシュも男児を残さずに亡くなってピアスト朝
は断絶し、姉がカーロイ 1 世に嫁いでいたことから彼の息子であるハンガリー王ラヨシュ
1 世21がルドヴィク 1 世として即位したのである。
ボヘミアではヨハンが百年戦争に参加しクレシーの戦いで戦死した後、息子のカレル 1 世
が 1346 年王として即位したが、彼はさらに 1355 年神聖ローマ皇帝カール 4 世となったの
である。彼は「金印勅書」で自身のボヘミア王も含めた七選帝侯を制定し、ボヘミアの権勢
は頂点を極めた。カール 4 世はラヨシュとも良好な関係を結び、彼の次男のジギスムント
とラヨシュの娘のマーリアの婚姻が成立した。ラヨシュはハンガリー王と同時にポーラン
ド王位もまた娘であるマーリアに継がせることを考えたが、実際はポーランドでは彼の意
に反しまだ幼い娘のヤドヴィガが 1384 年これを後継した。またハンガリーも、ラヨシュの
20
21
る
なお、1330 年にバサラブが彼を破ったことによってワラキア公国が成立した
なお、1359 年にボグダンが彼を破ったことによってモルドヴァ公国が成立したとされ
叉従兄弟のナポリ王カルロ 3 世がカーロイ 2 世として王を称したこともあったが、最終的
に 1387 年マーリアの婿のジギスムントが王位についた。ポーランドのヤドヴィガのもとに
は当時西部のドイツ騎士団と東部のルーシの両方への対応を迫られていた隣国リトアニア
大公国のヤギェウォ22が 1386 年嫁いできてヴワディスワフ 2 世として即位し、ここに新た
な王朝ヤギェウォ朝が誕生した。
リトアニアは当時まだ異教の国であったもののこの機会に改宗し、それでもなお自分た
ちに攻撃を仕掛けてくるドイツ騎士団に対していとこのヴィータウタス23とともにタンネ
ンベルク(グルンヴァルト)の戦いでこれに大勝したのである。そしてこれ以降も、ポーラ
ンド王位はヤギェウォが、リトアニア大公位にはヴィータウタスがついて完全に同じ国家
にはならなかったものの両国の連合関係は維持されていった。
バルカンをはじめとした南方では当時、セルビアのステファン・ドゥシャン(ウロシュ 4
世)の死後ネマニャ朝24が崩壊して統一的な権力の現れておらずオスマン帝国が次第に勢力
範囲を広げ、分裂したセルビアの公国のうち一つの支配者であるラザル公とボスニア王25ス
チェパン・トヴルトコ 1 世率いるバルカン諸勢力が 1389 年にコソヴォの戦いでかろうじて
スルタンのムラト 1 世を戦死させるも大敗した。こうした状況下でボヘミアはジギスムン
トがバルカンと接するハンガリー王位も兼ねていたために、このオスマンの侵攻に対抗す
る必要があった。ジギスムントは 1396 年にニコポリスの戦い26でバヤジット 1 世に敗北し
危機的状況になったものの、1402 年のアンカラの戦いでオスマン軍がティムールに敗れた
ことでこの脅威を間一髪逃れ、1410 年には皇帝位についたのである。
キエフには、前述した分裂状況下で 1237 年東方から大挙してきたモンゴルのバトゥ率い
る遠征軍がやってきた。モンゴル自体はワールシュタットの戦いの後 1242 年に急に兵を引
き返したものの、旧キエフの地域はジュチ・ウルス、すなわちキプチャク・ハン国の支配下
にはいった。ジュチ・ウルスはキエフの支配に関しては間接統治を行いアレクサンドル・ネ
フスキー27など各公はモンゴルと折り合いをつけながらも、彼らをうまく利用し自身の権勢
を高めていった。こうした中、ルーシの中心は大公位とともにキエフからウラジーミルに移
ったが、ここも荒廃して大公ですら自分の領国で統治を行うようになって 14 もの公国に分
22
ゲディミナスの息子のうち東方を担当したアルギルダスの息子
ゲディミナスの息子のうち西方を担当したケーストゥティスの息子であり騎士団側につ
くこともしばしばあった
24 ウロシュ 1 世以降、ステファン・デチャンスキ(ウロシュ 3 世)が 1330 年にブルガリ
アのシシマン朝の初代皇帝であるミハイル・シシマンを敗死させるなど次第に力を増し、
ドゥシャンの代でビザンツにもようやく対抗を、というところであった
25 ハンガリーは併合後実質的な支配ができず、1322 年にスチェパン・コトロマニッチが
バンに選出されてコトロマニア朝が成立し、その甥で王を称したスチェパン・トヴルトコ
1 世の代にはまさに絶頂期であった
26 ちなみに第二次ブルガリア帝国最後の皇帝イヴァン・シシマンはこの戦いで戦死してい
る
27 エイゼンシュタインによる映画がある
23
領していった。ネフスキーの息子のドミートリ―とアンドレイのモンゴルを利用した後継
争いによって大公国は自壊していき、14 世紀には各公国の中でトヴェーリとモスクワが台
頭した。そして両公国によって大公位が争われた結果 1331 年にモスクワのイヴァン 1 世カ
リターが大公になり、以降モスクワが大公位を世襲することになる。1375 年にドミートリ
―・ドンスコイのもとでついにモスクワの優位が確定し、さらに 1380 年にクリコヴォの戦
いでママイ28率いるモンゴルに勝利した。1382 年に再度ハン国の支配権が回復するも 1389
年に大公国がモスクワの世襲地であるとしてドミートリ―が息子のヴァシーリー1 世に後
継させた。モスクワはいまだモンゴルの支配体制は崩せなかったものの、情勢は確実に変化
しつつあった。
4.3 北欧世界の転換―統合される世界―
北欧ではここまでの歴史の中で強化された王権が、それぞれ王朝連合を成立させる時代
になっていた。デンマークはヴァルデマー一門が次々に跡を継いでいったものの各領主の
自立化の波には逆らえず、ヴァルデマー4 世が 1340 年に即位した際にはもはやほとんど王
領は残っていなかった。ノルウェーでは統一を目指す内乱の中、マグヌス 3 世裸足王の自
称息子であるハーラル・ギッレの孫、スヴェッレが勝利を重ね、さらにその孫のホーコン 4
世ホーコンソンが 1217 年即位し統一に成功した。マグヌス 6 世ホーコンソンの代には北欧
の中で初の確固とした王位継承法が確立29したが、ホーコン 5 世には男子がおらず娘の子で
あるスウェーデンのマグヌス・エーリクソンが 1319 年に即位することになった。
スウェーデンではエーリック・エーリックソンの死によって前述した両家が断絶し、代わ
って将軍のビルイェル・ヤールの息子で母系がエーリク聖王系のヴァルデマールが 1266 年
に即位しフォルクング朝が建設された。しかし、このフォルクング家も内乱を続け、ヴァル
デマールの弟マグヌス・ラデュロースは兄王を追い出し中央王権の発展化をめざした。さら
にこの後マグヌスの長男ビルイェルが王位を継ぐもノルウェー王女と結婚したエーリクが
これに対立し、結果ビルイェルは弟たちを殺すことになり、結果反感を招いてエーリクの息
子、つまり前述のマグヌス・エーリクソンが同じく 1319 年にスウェーデン王位も兼ねるこ
とになったのである。
マグヌスがスコーネ地方を買い上げるなど勢力拡大を行っていった一方で、デンマーク
のヴァルデマーのもとにはほとんど領地が残っていなかったのは前述したとおりであり、
彼は積極的に王領回復を行っていった。スウェーデン・ノルウェーにおいてマグヌスはノル
ウェー王位に関しては息子のホーコン 6 世に譲った一方でスウェーデン王は様々な経緯の
1360 年代に西部に現れた軍事指導者で、東部のハンと対立しジョチ・ウルスを二分し
た(この後一時的な統一もあったもののティムールの躍進もあり分裂は決定的になり、大
オルダ、クリム、カザン、アストラハン・ハン国などに分裂した)
29 読者諸君は、王位は王の子孫が継いでいくものと思われるかもしれないがもともとはそ
のようなルールが確立していない王権も各地で見られるのである
28
末廃位されてしまい30、これに代わってメクレンブルク家のアルブレクトが新たに王となっ
た。デンマークもヴァルデマー4 世の死後男子がなく、メクレンブルク公に嫁いだ娘インゲ
ボーの子アルプレヒト 4 世と、マルグレーテ31とノルウェー王ホーコン 6 世の子オーロフが
争い最終的にオーロフ 3 世が 1375 年に即位した。さらにホーコン 6 世の死後オーロフはノ
ルウェーにおいてもオーラヴ 4 世として 1380 年即位し、今度はデンマークとノルウェー王
位が一つにまとまったのである。スウェーデンにおいて外様であるメクレンブルク家は在
地貴族からの反発が強く、そのような人々はマルグレーテに接近していくのであるが、ここ
でオーロフが急死し両王位をメクレンブルク家が再び主張し始めた。すかさずデンマーク
参事会がこれに反応してマルグレーテに王位継承権を与え、彼女はポンメルン公家のエー
リク・ア・ポンメルンを王につけた。スウェーデンとノルウェーの参事会もマルグレーテの
権限を承認し、さらにマルグレーテ派はアルブレクトに軍事的にも勝利し、ここにマルグレ
ーテによって選ばれたエーリク・ア・ポンメルンが 1397 年に三国すべての王となり、カル
マル同盟が成立したのである。しかし、これは名目上は三国の連合であったものの、実際に
はデンマークの覇権を意味していた。
(なおアイスランドは 1262 にホーコン 4 世、1264 年
にマグヌス 6 世に服属貢納を誓いノルウェーのもとに入った。フィンランドにおいてはス
ウェーデンの東方への侵攻自体は 1240 年にアレクサンドル・ネフスキーに撃退され停止す
るも、そこまでに確保した領地は完全に支配下にはいった。
)
5. そして近世へ―15 世紀頃―
5.1 フス戦争と東欧世界
皇帝に即位したジギスムントがまず片付けなければならない問題は教会大分裂とフス派
の流行であった。しかし、1414 年に開かれたコンスタンツ公会議で教会大分裂に決着をつ
けたものの、彼の努力にもかかわらずついにフスは処刑されてしまった。この結果、ボヘミ
アでは 1419 年第一回プラハ窓外投擲事件が起き、ジギスムントの兄ボヘミア国王のヴァー
ツラフ 4 世(旧ドイツ王ヴェンツェル)もそのショックで急死してしまった。フス派の要求
に対しジギスムントは王位につくことを拒否し、1420 年教皇がついにフス派に対する十字
軍を決めフス戦争が起きるのである。フス派はヤン・ジシュカ32などの指導者のもとで急進
的なターボル派や兄弟団は十字軍に対し勝利を重ねるも、1434 年にはバーゼル公会議が和
解交渉を呼びかけ、リパニの戦いで急進派が敗北したこともあり 1436 年にはカトリックと
フス派の穏健なプラハ派が和解し、ついにジギスムントがボヘミア王となった。しかし、そ
んなジギスムントの栄光もつかの間、彼は翌年後継者を残さず亡くなった。その結果、娘婿
のハプスブルク家のアルブレヒトがドイツ王位とハンガリー、ボヘミア王位をそれぞれ継
30
マグヌスは一度息子のエーリクを推す勢力に王位を追われ、彼の死によって再度スウェ
ーデン王位に戻ったが再び廃位されてしまった
31 おそらく高校世界史を履修した人々が唯一記憶しているであろうデンマーク人の名前
32 乙女戦争!
いでアルブレヒト 2 世として即位した。しかし、これ以降それぞれの領国では王位継承に
関わる紛争が相次ぎ、貴族の中にも有力な指導者が現れていく時代に突入する
一方、ポーランドではヴワディスワフ 2 世(ヤギェウォ)のもとで司教のオレシニツキが
権勢を伸ばし、跡を継いだ息子のヴワディスワフ 3 世が幼かったこともありその権勢は一
層強化された。
そのような中、アルブレヒトはオスマンとの戦いの陣中で疫病にかかり 1439
年にあっさり亡くなってしまってハプスブルク家のアルブレヒト系が断絶してしまった。
ドイツ王位および皇帝位はレオポルト系である又従兄弟のフリードリヒ 3 世が、オースト
リア大公領とボヘミア王は息子のまだ幼いラディスラウスがついて即位したものの、ハン
ガリー王位はヴワディスワフ 3 世がウラースロー1 世と後継することになった。ハンガリー
は当時、すでにバルカンを次々と併合して33ヨーロッパの深くまで入り込み、ビザンツ帝国
をほとんど壊滅寸前にまで追い詰めたオスマン帝国を相手しなければいけなかった。ヴワ
ディスワフのもとでハンガリー王位は選挙制となったものの、彼はフニャディ・ヤーノシュ
を取り立ててオスマン戦線を安定させていった。しかし、この功にはやったヴワディスワフ
はオスマンと結んだ和約を直ちに破棄して十字軍を起こしたが、キリスト教軍は計画通り
に動かず、1444 年ヴァルナの戦いで彼はあっさり戦死してしまった。結果、ハンガリーも
またラディスラウスがラースロー5 世として即位したものの、皇帝は彼がハンガリーにいく
ことを許さず、フニャディが摂政として内政を行った。フニャディはついに 1453 年にはビ
ザンツ帝国を滅ぼしたオスマン軍を 1456 年にほぼ独力で敗走させたものの、その後黒死病
に感染して死に至った。
ボヘミアでもラディスラウスはほとんど直接統治を行わず選挙王政が実現する中、1448
年フス派の貴族イジーが政権を掌握した。またハンガリーにおいてもラディスラウスは
1457 年フニャディの息子をだまして捕え長男のラースローを処刑したことでフニャディ派
が武装蜂起し、これに驚いた王は次男のマーチャーシュを人質にして逃走するもプラハで
17 歳の若さで急死した。その結果、議会はマーチャーシュを王位につけマーチャーシュ 1
世とし、教皇ピウス 2 世が支持に回ったためフリードリヒ 3 世はしぶしぶハンガリー王位
を 1463 年彼に返還した。マーチャーシュは 1463 年にトルコからセルビアとボスニアを奪
還した後、ピウス 2 世が 1462 年にバーゼル協約を拒否して 1466 年ついにイジーが異端認
定されたために北方のボヘミアに王位を目指して進出した。マーチャーシュはボヘミアに
侵入することはできなかったが、1471 年敵対するイジーは死んでしまったのである。
ポーランドはヴワディスワフ 3 世の死後、ヴワディスワフ 2 世の弟シヴィドリギェウォ
がルーシ系の分離を主張し、これにヴィータウタスの弟のジグムントを対抗させた。ジグム
33
すでにブルガリアは併合されていたが、コソヴォの戦い以降間接統治をとっていたセル
ビアは 1459 年に併合、スチェパン・トヴルトコ 1 世の死後衰退し 1428 年には属国とな
っていたボスニアはスチェパン・トマシェヴィチが貢納を拒否したことで攻撃されて 1463
年併合、ワラキアはミルチャ 1 世の頃には属国となっておりハンガリーの支援を受けたヴ
ラド串刺し公などの戦いも大勢を変化できず、1443 年以降アルバニアはスカンデルベグの
下オスマンに対し抵抗を続けていたが彼の死後併合され、といった状態である
ントが暗殺された後この役を継いだヴワディスワフ 3 世の弟のカジミェシュ 4 世ヤギェロ
ンチクが勝手にリトアニア側から王位につけられ、結局ポーランド側も 1447 年彼の即位を
認めた。ポーランドは彼のもとで西方のプロイセンを統合し、ポーランド王国の威信を高め
ることに成功した。そのため、カジミェシュの息子のヴワディスワフ 2 世ヤギェロンチク
がイジーの死後のボヘミア王位にヴラディスラフ 2 世として即位し、彼はフス派やハプス
ブルク家と結んでマーチャーシュに対抗した34。しかし、結局はマーチャーシュに敗北し、
1479 年にオロモウツ協定を結びモラヴィア、シレジア、ラウジッツの支配がマーチャーシ
ュ側に移った。最終的に 1485 年のクトナー・ホラの協定で再びカトリックとフス派が協力
することになった。こうしてヴワディスワフがマーチャーシュと友好関係を結ぶ一方で、マ
ーチャーシュは皇帝との対立を深めウィーンの占領まで至るも 1490 年ウィーンでこの世
を去った。その結果ハンガリー王位もまたヴワディスワフがウラースロー2 世として継ぐこ
ととなった。ここに貴族の有力者による王権確立の試みはボヘミア・ハンガリー共に短命に
終わり、ポーランド・リトアニア・ボヘミア・ハンガリーを全てヤギェウォ家が所有するこ
ととなったのである。ポーランドではカジミェシュ 4 世がオレシニツキ派との政治対立に
伴って中流貴族のシュラフタ層の取り込みを図り、彼らが政治に進出することとなった。ポ
ーランド王位は彼の次男のヤン 1 世オルブラフトが後継したが、彼もまた下院の設置など
シュラフタ層を基盤に政治を行った。
5.2 再編される世界―そして―
モスクワはヴァシーリー1 世の死後息子のヴァシーリー2 世とガーリチ公ユーリーが後継
争いをし、ヴァシーリーの後見人であるリトアニア大公のヴィータウタスがなくなるのを
見計らってユーリーが蜂起し、この試みは失敗するもののその後 1453 年までヴァシーリー
と彼の一族との争いが続くのである。しかし、最終的にモスクワがこれに勝利し、ヴァシー
リーと息子のイヴァン 3 世が各公国の統一を始めモスクワは次第にロシアと呼称されるよ
うになった35。さらにイヴァン 3 世はモンゴルに対する税の貢納も停止させ、これに対抗し
てきた大オルダのアフマト・ハン率いるモンゴル軍も戦う前に退却していきイヴァンは皇
帝位を指すツァーリを自称し始めるのである。
リトアニアはこうしたロシアへの対応に当たり、ポーランド王のヤンがオスマンに当た
る間、弟のアレクサンデルがこれを率いたがヤンがモルダヴィアでオスマンに敗北した影
響もあり 1500 年リトアニアもモスクワに敗北した。1501 年ヤンが急死すると、巻き返し
を図った大貴族のマグナートがアレクサンデルを王位につけるも、これに対抗したシュラ
なおこの対立の中モルドヴァで中央集権化を進めていったシュテファン 3 世はポーラン
ド側について 1467 年にはマーチャーシュを破り、オスマン帝国にも対抗しうる存在とな
った
35 一方旧都であるキエフは 1475 年のメングリ・ギレイ率いるクリム・ハン国の攻撃でつ
いに荒廃を極め、ウクライナとよばれるようになったこの地に移り住んできたスラヴ人が
次第にステップ地域のトルコ人と同化していきコサックとなった
34
フタによってシュラフタ共和制が開始されたのである。ハンガリーではヴワディスワフが
貴族を立てる政策をしていくものの、トランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュの下に反
対勢力がまとまった。ハンガリーでは、次第に東欧が農業生産地としての地位を確立してい
く中で、領主が農業生産拡大をめざし農民支配を強化したために農民反乱「ドージャの乱」
が起こったが、これを鎮圧した貴族の支配が一層強化されていたのである。しかし、そんな
さなかオスマン帝国のスレイマン 1 世はヨーロッパ攻撃を実行し、ヴワディスワフを継い
だ息子のボヘミア王ルドヴィク 1 世(ハンガリー王ラヨシュ 2 世)はモハーチでこれに対
抗するも、1526 年に誰からの援軍も来ない中壊滅し王も敗死した。当時皇帝としてハプス
ブルク家を再編していたマクシミリアン 1 世によってとられた盛んな婚姻政策のために、
これらの王位はハプスブルク家のフェルディナント 1 世が継承し、これ以降はオーストリ
ア系ハプスブルクによって皇帝位、オーストリア大公位、ハンガリー王位、ボヘミア王位の
継承が独占されていった。ただしハンガリーではこれに対抗してサポヤイ・ヤーノシュもま
た 1526 年に王に封じられて、劣勢に立たされた彼はオスマンの下に入った。さらに彼の没
後、息子のヤーノシュ・ジグモンドの即位を認めないフェルディナントが攻撃を仕掛けるも
オスマンのスレイマン 1 世の反撃にあい、この後旧サポヤイ支配地域はブダ州などのオス
マン直轄領とヤーノシュがオスマンの総主権を認めながらも支配する東ハンガリー王国
(後のトランシルヴァニア侯国)に分割されたために、ハプスブルク家の支配下にある地域
は三分割されたうちの一つとなった。一方ポーランド王位は、ジグムント 1 世36が騎士団と
の戦争のために 1515 年に皇帝マクシミリアン 1 世に断絶した場合のハプスブルク家の継
承を確約した。さらにそれを継いだジグムント 2 世は断絶の危機に対しポーランドとリト
アニアの結合を強化することで対応しようとしたがついに後継者を残さず死亡し、ヤギェ
ウォ家自体が 1572 年に断絶してしまう。しかし王の後継者は、両ジグムント王の代に権力
を成長させていったシュラフタ貴族層の反ハプスブルク感情を反映し、ハプスブルクを王
位につけようとするマグナート貴族に対抗する形で数度にわたって様々な君主 37が王位に
ついていった。
また北欧でもカルマル同盟はエーリクの統治のもとにあったが、次第に 1434 年のエンゲ
ルブレクトの乱などスウェーデンで彼の支配に対する反発が高まった。結局、エーリクは退
位させられ彼の甥のクリストファ・ア・バイエルンの下で緩やかな連合体制として再編され
た。クリストファは後継者を残さずに 1448 年に死亡し、デンマークとノルウェーはオルデ
ンブルク伯クリスチャンを選出し、彼がオレンボー朝初代のクリスチャン 1 世になった。
なお彼が攻撃を仕掛けたために、保護を求めたシュテファン 3 世の子のボグダン 3 世に
よってモルドヴァ公国がオスマンの体制下に入り、ワラキアとともに緩衝地帯として間接
統治が行われた
37 この対立はアンジュー公ヘンリク・ヴァレジィ(後のフランス王アンリ 3 世)
、トラン
シルヴァニア侯ステファン・バートリ、スウェーデン王ヨハン 3 世子息のジグムント 3 世
とその息子たちと 3 回の王位継承にわたり、その後はシュラフタ勢力自体が低調になり、
一時民族王が続いた後は列強の介入によって決められていった
36
しかし、この際スウェーデンはカール・クヌートソンを選出して争うなど独立的性格を現し
始め 1471 年ブルンケベリの戦いで勝利し、ステューレ家が実質的な支配者になった。デン
マークはクリスチャン 2 世の代に 1520 年小ステーン・ステューレを敗死させ、スウェーデ
ンを再統一し再び王位に就いた。しかし、クリスチャンは旧ステューレ派をストックホルム
の虐殺で処理し、ここで殺されたエーリック・ヴァーサの息子のグスタフ・ヴァーサが 1523
年にグスタフ 1 世として即位しカルマル同盟を離脱した。この結果、北欧は同盟を維持し
ようとするオレンボー朝が治めるデンマーク・ノルウェーと、そこから離脱し独自の権勢を
形成させようとするスウェーデンのヴァーサ朝の二勢力に再編された。
ロシアは、ヴァシーリー3 世の没後まだ幼年のイヴァン 4 世が後を継いだが、彼は 1547
年にツァーリを公式使用しさらに 1550 年代に中央集権化を強める改革に着手し、カザン・
ハン国やリヴォニアに進出していった。彼によってカザン・ハン国やアストラハン・ハン国
が併合される一方で、リヴォニアでの戦争はポーランドや、デンマーク、リトアニアの介入
によって泥沼化していった。イヴァンは改革政府にその原因を求めて政府を破壊してオプ
リーチニキ政府を設置して国王の強権化と貴族層の弾圧・処刑を行っていき、結局リヴォニ
ア戦争も失敗に終わったままイヴァンはこの世を去った。これを継いだ息子のフョードル
が死んでついにリューリク朝が断絶すると、当初は妻の兄であるボリス・ゴドゥノフがこれ
をまとめたが、自称王弟ドミートリ―を名乗る人物が何人もポーランドから侵入を繰り返
していった。それに対してシュイスキーなどロシア人も反抗する形で幾度となくツァーリ
が入れ替わり、さらにポーランド王ジグムント 3 世父子やスウェーデン王カール 9 世まで
この王位継承争いに介入したが、1612 年モスクワが解放されて翌年にはミハイル・ロマノ
フがツァーリに選ばれてロマノフ朝が成立した。
東欧においてはヤギェウォ家からハプスブルク家へと中心が移り変わり、一方ハンガリ
ー中部以南はオスマン帝国の統治下38に入った。またポーランドの支配から次第に脱しつつ
あったプロイセンや、東方で胎動してきたロシアなど新しい勢力が形成され始め近世へと
入っていく。ここまで見てきた時代、東欧は決してイギリス、フランスをはじめとした西欧
の国々とそこまで圧倒的差はなかった。しかしやがて近世になり世界が再編成されていく
中で、経済や政治体制の変化などによって次第にヨーロッパの国々に格差が生じていくの
である。
文献目録
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38
15 世紀後半にはモンゴルのクリム・ハン国も傘下に入っている
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木村靖二(編集). (2001). 『新版世界各国史 13 ドイツ史』. 山川出版社.
和田春樹(編集). (2002). 『新版世界各国史 22 ロシア史』. 山川出版社.
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