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正倉院正倉整備工事の報告
正倉院正倉整備工事の報告 公益財団法人文化財建造物保存技術協会 春 日 井 道 彦 1.整備工事の概要と本報告について 正倉院正倉整備工事は、宮内庁の直轄工事とし、平成23年(2011)8月から平成26年(2014) 10月までの4箇年39箇月で行われた。総工事費は801,951,900円で、すべて宮内庁予算として 事業が行われた。 正倉は、創建以来これまでに幾度となく維持修理がなされてきたが、明治期に宮内庁(当時 は宮内省)による管理が始まり、大正2年(1913)には記録上最初の解体修理が行われた。さ らに大正10年(1921)にも屋根瓦を差し替える工事が行われたが、その後は大きな修理もなく 現在に至っていた(注1)。 正倉の整備工事前の状況として最も顕著な破損は、屋根瓦の経年による葺足の乱れや苔など の発生であった。小屋組は、大正期に和小屋から当時最先端の技術であったクイーンポストト はねぎ ラスに変更されていたが、そのトラスが不完全であることや大正期に入れた桔木が十分に働い ていないことが事前の調査でわかった。これらを踏まえて、整備工事の修理方針は屋根葺替と 部分修理とし、特に軒の垂下を現状より進行させないような補強措置をとることとした。瓦は 全面的に葺き替え、土居葺も破損している部分を取り替えた(挿図1)。小屋組は金物で補強し、 トラスや桔木を正しく働かせることで、軒先の垂下が進行しないよう対処した。防災設備とし て、避雷針は取り替え、炎感知器の設置を行った。 挿図1 竣工した正倉(東北より) (7) 解体に伴う調査の結果、屋根瓦には約800枚に及ぶ天平期の平瓦が残されており、その中に おけまき は桶巻作りの瓦が多かったという事実が認められた。内部に設置されていた明治14年(1881) 製のガラス戸付陳列棚も一旦解体し、中倉から南倉北壁及び北倉南壁の校木外側の様子を観察 することもできた。 整備工事期間中には、5回にわたる現場公開を行い、広く一般市民に向けて正倉を見てもら うことができ、修理の様子を工事の進捗に合わせて伝えることができた。 この整備工事では、正倉のほか宝庫西門や周辺土塀の修理(屋根葺替・部分修理)並びに杉 本神社の修理(屋根葺替・塗装工事)及び正倉周辺の消火栓配管の取替工事も行った。 以上の事業を記録して後世に伝えるために、工事の内容や事業期間中に行った各種調査の結 果を編集し、図面や写真及び過去の工事資料を併載した『正倉院正倉整備記録』(以下、『整備 記録』という)が宮内庁により事業完了後の平成27年3月に刊行された(挿図2)。『整備記録』 は、300冊作成し、普及活用の適正化をはかるため、 国会図書館や各都道府県立図書館などに配布され ている。 『整備記録』は、三分冊にわたる膨大な 刊行物となったため、工事内容や調査事項をまと めたものがこの報告(以下、本報告という)であ る。なお、 『整備記録』は、 「本文編」 「図版写真編」 「図面編」に分かれ、「図版写真編」はコロタイプ 印刷(注2)にて印刷した。 挿図2 『正倉院正倉整備記録』 2.正倉院正倉の概要と沿革 2−1 正倉院と正倉の概要 正倉院正倉は、桁行九間、梁間三間、高床校倉の本瓦葺、寄棟造の建造物である。東大寺大 仏殿の西北、知足院山の西麓の平地に位置し、もとは東大寺の正倉であったが、現在は宮内庁 の所管となり、内部に襲蔵されていた宝物とともに厳重に管理されている。 (注3)などと呼ばれていた。古代の大寺には、 正倉院は、古くは「庁院」「御倉町」 「正蔵院」 正倉と呼ばれた重要な物品を納める倉がそれぞれ存在していたことが記録からわかっている。 正倉のある、垣で囲まれた建物群の一郭を当時は一般的に正倉院と呼んでいたが、現在ではそ の大半が亡び、この正倉院正倉を残すのみとなっている。 正倉は、床下に直径約60cmの円柱を自然石の礎石の上に立てて、巨大な校倉の本屋を支えて いる。内部は三室からなり、北から順に北倉、中倉、南倉と呼ばれる。北倉と南倉は、二等辺 あぜき 三角形の角部を切り落とした断面形を持った校木を井桁に組み上げた校倉造で、中倉は、北倉 の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁とし、東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造であ る。また各倉とも東側の中央に扉口があり、内部は二階建となっている。北倉は主として光明 皇后奉献の品を納めた倉で、その開扉には勅許(天皇の許可)を必要としたので勅封倉と呼ば (8) れ、室町時代以後は天皇親署の御封が施されていた。中倉・南倉はそれ以外の東大寺に関わる 品々を納めた倉で、中倉は平安時代後期までには北倉に准じて勅封倉として扱われ、南倉は諸 寺を監督する僧綱の封(後には東大寺別当の封)を施して管理されたが、明治期以後は南倉も 勅封倉となった(注4)。 (注5)と呼ばれていた。北倉と南倉がそれぞれ校倉造で、中倉 正倉は、奈良時代には「双倉」 が板倉造である状況と相まって、もとは中倉には東西面の板壁がなく、北倉と南倉を屋根で繋 いだ構造だったのではないかと考える説などもあり(注6)、専門家の間でも長年議論されてきた。 近年では、使用されている建築用材の年輪年代法に基づく科学的調査によって、中倉にも宝物 献納と相前後する時期に伐採された木材が使われていることがわかり、当初から現在見るよう な姿であったとする説が有力となっている(注7)。 鎌倉時代からは「三蔵(みつぐら) 」とも呼ばれていることが記録されている。江戸時代の 絵図や文書にはもっぱら「三倉」と見え、延宝6年(1678)に出版されたいわゆる奈良の観光 案内書である『奈良名所八重桜』では「密蔵」という字が当てられている。 正倉院宝物が現在もなお極めて良好な状態で、しかも多数のものがまとまって残されている のは、一つには勅封制度によってみだりに開封することがなく、手厚く保護されてきたことに 負うところが大きい。また正倉がやや小高い場所に、巨大な檜材を用いて建てられ、床下の高 い高床式の構造であることが、宝物の湿損や虫害を防ぐのに効果があったものと思われる。そ の上、宝物はこの庫内で唐櫃に納められて伝来したが、唐櫃は櫃内の湿度の高低差を緩和し、 外光や汚染外気を遮断するなど、宝物の保存に大きな役割を果たした。現在は、正倉のほかに 西宝庫・東宝庫(注8)が建設され、宝物はこの両宝庫に分納して保存されている。 現在の正倉院は、宮内庁により管理されていることは前述したが、現地には正倉院事務所が 置かれ、正倉院の現地管理や宝物の調査・研究を行っている。 現在の正倉院としての管理地は、大仏池の周辺及び大仏池の北側の周囲を柵や土塀で囲んだ 東西270m、南北360mの区画である(挿図3)。この敷地内には、正倉以外にも歴史的な建造 物が数棟残っている。 南面ほぼ中央、敷地がクランク状になる位置に正門がある。正門は、勅使門であり、正倉の むなかど 開封・閉封の際、勅許を携えた勅使を迎え入れる門である。棟門、切妻造、本瓦葺で、南面し くぐりど て建つ。両脇に脇塀を伴い、向かって左側の脇塀には潜戸を設ける。創建は詳らかではないが、 江戸時代の絵図には現位置に門はない。明治19年(1886)の敷地図には「表門」とあり、この 頃には現位置に門を構え、周囲を土塀で囲んだ現在の正倉院の区画の基礎ができあがっていた ことが確認できる。 正門の東北には、聖語蔵と呼ばれる校倉造の倉がある。鎌倉時代に建立された倉(注9)で桁行 三間、梁間二間、校倉、寄棟造、本瓦葺で、北面して建つ。もとは東大寺塔頭尊勝院のもので、 経典が納められており、明治27年に経典類が帝室に献納されたのに伴って、現位置に移築され た。 (9) 正門の西北には、持仏堂と呼ば れる三間堂がある。桁行三間、梁 ほうぎょうづくり 間三間、向拝一間、宝形造、本瓦 葺で、南面して建つ。江戸時代の 建立で、もとは東大寺塔頭四聖坊 の本堂である。 正倉の北には、杉本神社がある。 正倉の鬼門の位置に建てられた鎮 守社で、その歴史は古い。現在の 社は、天保7年(1836)の建立で 正倉修理に伴って造替された。一 間社、春日造、本瓦葺になる(注10)。 正倉を取り囲むように土塀が巡 らされている。記録からは、明治 19年以降の図面に見ることができ、 その後規模の変更などの改修があ ることが分かる。 挿図3 正倉院の配置図 2-2 正倉の創建と修理に関する履歴 正倉の創建年代については、それを直接記した史料はないが、聖武天皇が崩御され、光明皇 后が聖武天皇の遺愛の品を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に献納した天平勝宝8歳(756)に は現在の地にあったものと考えられている。 天平勝宝8歳6月21日、聖武天皇の七七日の忌日にあたり、光明皇后は天皇の御冥福を祈念 して、御遺愛品など六百数十点と薬物60種を東大寺の大仏に奉献された。これらが正倉の北倉 に納められるに及び、正倉院宝物の歴史が始まった。皇后による奉献は前後5回におよんでい る。そして、大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に用いられた仏具などの品々や造東大寺 司の関係品、平安時代中頃の天暦4年(950)に東大寺羂索院の倉庫朽損によって南倉に移さ れた什器類などが加わり、光明皇后奉献の品々と併せて、厳重に保管されることとなった。正 倉院の宝物は、このようにいくつかの系統より成り立っている。 創建以降の正倉に関する記録は、開封の様子や宝物の出し入れについてなど、さまざまな文 書に残されている。また、特に修理の記録やその可能性を示す出来事だけでも、二十数回認め られる。以下に、おもな修理記録を記す。 現在確認できる創建後の最初の修理についての記録は、天禄年間(970 ~ 972)のものであ る(注11)。建立後200年あまりを経ており、この記録によれば、かなり破損が進行していたもの と思われるが、別の様々な堂舎の修理についても併せ書かれており、正倉そのものがどれほど (10) 傷んでいたかは定かでない。 はっきりした修理記録としては、長元4年(1031)の勅封倉風損の記録が最初であり、開封 して修理したことが見える。 天喜5年(1057)には、東大寺の建造物に対する総合的な修理が行われ、正倉では、南倉の 修理を正月に11日間行っている。この中では、瓦が5,150枚使われたという記録があり、その 他の木工事の記録と合わせてこの工事がかなりの規模であったことがわかる。特に平瓦は4,700 枚を要しており、これは現状で考えると全体の二割に及ぶ。同年8月には、勅封倉で一間あま りの瓦棟の積み直しが一日で行われている。 承暦3年(1079) 、康和2年(1100)には、共に勅封倉の修理記録がある。同倉の修理は、 康治2年(1143)頃にも行われたようである。このほか、大治5年(1130)5月、文治5年(1189) 3月には、湿損の可能性から勅封倉を開封し、点検が行われたが、史料に修理の記録はない。 この間、治承4年(1180)には、平重衡による南都焼打ちがあり、東大寺の堂舎の大半は灰 燼に帰したが、正倉はその難を逃れた。 鎌倉時代には、かなり大がかりな修理の記録がいくつか残っている。 建久4年(1193)には、5月の点検で雨漏りが発見され、その結果、同年8月から翌5年3 月までの間に修理が行われた。その際、宝物は綱封倉へ移している。 寛喜2年(1230)には、7月に北勅封倉、南綱封倉の一部が破損したため、北倉の宝物を中 倉に、南倉の宝物を上司倉にそれぞれへ移して修理を行っている。 さらに、寛元元年(1243)、勅封倉で雨漏りが著しいとして修理を行っている。この時も宝 物は上司倉へ移されている。修理の完了は同4年9月であり、かなり長丁場の作業であった。 建長6年(1254)7月には、北倉の扉に落雷があり、火の手が上がったが、扉を切り放って 何とか鎮火に成功し、大事には至らなかったという顛末が史料に残されている。この時、中倉・ 北倉の扉4枚や束柱6本を取り替えたことが記録されており、現在も北倉の壁に焼けた痕跡が 見られる(挿図4)。 弘安5年(1282)11月から正応元年(弘安11年)12月(1288)までの7年間にも、東大寺内 でかなり大規模な修理や造営が行われ、弘安11年には正倉も瓦葺を主とした修理が行われたよ うである(注12)。 鎌倉時代末から桃山時代にかけては、足利将軍や織田信長による宝物拝観とそれに伴う開封 の記録は残されているが、修理に関する記録は見られない。永禄10年(1567)、東大寺は、松 永久秀と三好三人衆の争いの際の兵火により、大仏殿ほかの炎上という災厄に見舞われたが、 正倉はこの難からも逃れている。 慶長7年(1602)、天下統一を果たした徳川家康は、6月に東大寺に奉行を派遣して正倉(三 蔵)の修理事前調査を実施し、翌8年2月に開封して修理を行っている。修理の間、宝物は上 司倉(注13)に移されている。なお、この修理に際して、家康は新調の長持32個(いわゆる慶長櫃) を寄進している。 (11) この後、江戸時代末期に至るまでには、たった3回しか開封の記録がない。それぞれがすべ て点検及び修理を伴ったものである。 1回目は、寛文3年(1663)に東大寺から開封と点検の要望が出されたことによるもので、 同6年に庫内点検が行われ、中倉で規模の小さな修理が行われた。 2回目は、東大寺からの正倉修理の要望を受け、元禄3年(1690)に奈良奉行所により破損 検分書が作成された。元禄3年9月1日付の見分差図という古文書が存在したようで、この見 分差図を以て奈良奉行所へ届出がなされ、同6年の開封・修理へと繋がる。修理は、同6年6 月15日に始め、7月13日まで行われ、正倉を開封し、宝物は油倉へ移されたことがわかる。古 たが 文書の中には修理絵図もあったようで、台輪先の銅板巻きや束柱の箍(胴輪)が、この時に付 けられたことがわかる。箍については現状では20箇所、23個で古文書の記載とは箇所数こそ違 うが、束柱1本に上下2個取り付けているものがあるため、数は現状と合致した。その他に取 り付けた痕跡はない。台輪先の銅板巻きは、24箇所とやはり現状と記録で数は合致する。また、 どうざし 現在桁行方向東面の台輪の下4箇所に胴差(指物)が入っているが、これもこの元禄期の修理 で挿入されたことがわかる(注14)。 3回目は、文政13年(1830)、屋根が大破したため、東大寺・奈良奉行所の願い出により開 封が認められる。翌天保2年(1831)に東大寺は、奈良奉行所に正倉屋根葺替修理の口上書を 提出している。その後、同4年に開封されたものの、なかなか修理の着手には至らず、漸く同 6年に実施の運びとなり、同7年にかけてやや規模の大きな修理が行われた。 この天保期の修理内容は、天保7年9月の『南都東大寺正倉院御修覆鎮守社新造共仕様請切 代銀請取帳』という文書にも詳しく記されているが、現在原本の所在は不明である。この文書 によると、この工事での正倉の銀高は25貫150匁5分7厘、鎮守社の銀高1貫532匁3分4厘を 加えて、総工費は26貫682匁9分1厘とある。今回、杉本神社の修理中に発見された木片にも 同じ年号と同じ大工名、所用の銀高が記されていた。それには、天保7年2月15日の日付で大 工善助の名があり、銀高36貫850目とある。鎮守社は1貫700目とあり、およそ近い数字である が、総工費には大きな開きがある。この文書の原本を確かめる必要を感じたところである。 また、中井家文書のなかにも天保期の修理記録が確認され、小屋組や校木の補修にまで及ぶ はぎき その内容がわかる。その修理内容の概要は、桔木の挿入、畦羽目(校木)の矧木・埋木、内部 挿図4 北倉の建長6年火災跡 挿図5 壬申調査頃の正倉 (12) 柱の取り替え、棟桁類の取り替え、屋根瓦の葺き替え、台輪先銅板包みの補修である。 明治時代に入ると、明治5年(1872)にいわゆる壬申調査が行われ(挿図5)、正倉が開封 され、宝物の写真が初めて撮影された。 正倉院正倉は、千有余年の間、朝廷の監督の下、東大寺によって管理されてきたが、明治政 府のもとでは宮内省がその開閉を掌った。宝物・正倉の保存・管理については、明治8年(1875) に内務省、同14年に農商務省の所管となるが、同17年には正倉院全体を宮内省が専管すること となり、戦後は宮内庁の管理するところとなった。 明治期には、8年、10年(避雷針等設置)、12年(避雷針改修)、13 ~ 14年(ガラス戸付陳 列棚設置)、15年(軒支柱設置)、17年(瓦に年号あり)、19年、22年(瓦に年号あり)、33年(陳 列棚の拡張)など数回にわたり修理が施された。明治期の修理は、時代が明治と変わって、管 理も東大寺から国に移ったことにより、すべては宝物をいかに良い環境で保存していくかを第 一に考えた結果であったことが感じられる。 正倉では、明治8年頃から宝物の公開が行われるようになった。その公開による宝物の移動 が宝物に悪影響を及ぼすことへの懸念から、明治12年に、正倉内部に陳列棚を設ける建議が当 時内務卿だった伊藤博文から出され、翌13年から14年にかけて設置作業が行われている。ガラ ス戸付陳列棚の設置については、これまでも知られていたところであるが、その拡張が明治33 年になされていたことは、今回修理時の解体により明らかとなった(注15)。 大正2年(1913)には、おそらく正倉創建以来初めてと思われる全解体修理が行われた(挿 図6・7)。この時の解体修理は、内匠寮の『工事録』の「正倉院宝庫修繕工事報告」(宮内庁 宮内公文書館所蔵)にその修理内容がわずかながら残されている。この文書に記載された修理 の内容は、現在概ね現物において確認することができる。 大正修理で撤去された「敷盤木端受仮支柱」については、大梁下端や隅木下端を確認したと ころ、わずかではあるが風蝕差が認められ、その痕跡を確認できた。先の工事録によると、大 正修理はその要点を軒支柱の撤去に置いていたことがわかり、興味深い。大梁筋の校木際に内 部柱を補足し、校木に架かる力をその柱へ負担させようとしたのも、この大正修理であった。 ひきどっこ 校木はこの内部柱に引独鈷で繋がれたと記録にあるのは、大正修理の写真からも確認すること ができる。 修理前の小屋組はすべてクイーンポストトラスになっていたが、その変更がこの大正修理で 行われたことが記録されている。 力垂木を採用し、桔木を補足した。東南の隅木を取り替えていることも記載されている。 屋根については、野地を二重にし、二重目の野地を鎧葺にしたことや土居葺を採用したこと、 隅棟や大棟の稜線上を銅板で覆ったことも大正修理の施工内容である。また、これらの行為が 「今回の修繕に於いて完全に雨漏りを防がんため」に行ったと記されており、なみなみならぬ 意思を感じることができる。その意思は現実に反映されており、この大正修理から今回の修理 に至る百年の間、正倉内への雨漏りは一切発生していなかった。 (13) 屋根瓦は、古瓦を用いて葺いたことが記されているが、「一々その位置に葺き立て」という のは、平瓦や丸瓦が大正修理前の位置のままとは思えないので、どのような状況を示したのか 分からない。大正修理時の写真や現状において、西面や北面に大正修理時の瓦がまとまって葺 かれていた状況からも大正2年の修理の前後で瓦位置が変わっているのは明らかなので、これ は、同じ仕様で葺いた、と理解するのが妥当かと考える。また、大正修理時の補足瓦が黒色を 呈しているのが、「古色に擬ひ」行われたことが記されている。そして、軒瓦の文様が「創立 当時の古瓦原型に基き」作られていたことも記されていることは興味深い。しかし、軒瓦を東 大寺式と興福寺式で組み合わせるなどまだまだ研究が進んでおらず、発掘品も多くなかった状 況の中での選択であったことが窺える。 床下は、大正修理前は叩きであったことが記されている。それを大正修理で現在見る洗い出 しに変更している。また、雨落溝もこのとき作られたことが記録されている。 なお、工事の経過も記されているが、驚くのはその工期の短いことである。工事予算の決裁 が下りて宝物の仮庫などの準備から数えても10箇月、正倉だけのことを考えると、6月に足場 を立て、12月に引き渡すまでわずかに7箇月で全解体修理を行うという早さは、今からでは想 像がつかない。 この修理後の同10年に、瓦の破損を理由に瓦の一部葺き替えが行われた。これまで、大正2 年の解体修理以降、正倉においてはほとんど修理を行っていないものと思われていた。今回の 修理において解体された瓦の多くから「大正十年修補」の刻印や篦書が発見されたが、大正2 年の修理からわずか8年での瓦の修理は不自然に思われたため、改めて宮内庁に残る記録を調 査したところ、その経緯が明らかとなった。 この修理は、宮内省の技師が正倉の屋根を検し、破損瓦が多く見られたことを上申したこと に端を発する。瓦107個が破損しており、そのほか小破においては数百枚にも及び、これを慢 然と見過ごせば雨漏りを生じ、中の宝物を害すとしたものである。そして、古瓦が使われてい ることを悪しとしてすべて新瓦にて葺き替えるべき、としている。大正2年の解体修理からわ ずか6年後のことである。これに対して、内匠寮の技手安田孝雄が現地へ赴き、実見の上で意 見を具申している。この意見は今の文化財建造物の修理に通じるものがあり、興味深い。その 挿図6 大正修理解体中の写真 挿図7 大正修理前実測図 北倉梁間断面図 (14) 内容は、瓦の傷みは107個というが、よく見れば北面に集中したもので、さらに大正2年の補 足瓦にも及んでおり、瓦の新旧によるものではなく、日当たりによるものと考えられると判じ ている。また、小破は経年によるもので特に不自然なものではないとも述べている。さらに外 観を注意深く見ていれば、傷んだところは分かるので、その際に差し替えれば完全に保全でき る、といっている。また、古瓦を生かして修理されてきたことを正倉の価値と評価し、土居葺 もしっかりしているので、今回は破損瓦の差し替えで十分である、と結論づけている。この意 見により、全面葺替は免れたが、とはいえ、部分的な修理は実施せざるを得ず、大正10年製の 瓦が葺かれることになったものである。 その後、昭和28年(1953)に東宝庫が、同37年には西宝庫が建設され、同38年に宝物は西宝 庫へ移され、正倉内部にはかつて宝物を収納していた唐櫃が残され、現在に至っている。 2-3 文化財の指定 平成9年(1997)5月19日の官報告示(文部省告示第93号・第94号)により国宝に指定され た。また正倉周辺の敷地は、同日の官報告示(文部省告示第92号)により史跡東大寺旧境内(昭 和7年文部省告示台191号)の追加指定として、史跡にも指定された。 2-4 正倉の規模 桁 行 桁行両端束柱真々 33.142m 桁行校木最下段両端内々 32.942m 梁 間 梁間両端束柱真々 9.393m 梁間校木最下段両端内々 9.271m 軒の出 校木最上部内面より茅負外下角まで (東西)3.774m(南)3.416m(北)3.394m 軒 高 柱礎石上端より茅負外下角まで (妻側)8.090m(平側)8.076m 棟 高 柱礎石上端より棟頂上まで 13.722m 平面積 校木内側面積(一階・二階) 610.370㎡ 軒面積 茅負外下角内側面積 668.589㎡ 屋根面積 平葺面積 844.109㎡ 3.破損状況と工事の概要 3-1 修理前の破損状況 1 基 礎 礎石は、大正修理時にモルタルで割れを補修したものも見られたが、概ね健全であった。大 正修理時にモルタル小砂利で洗い出しに施工されていた床下の叩きは、所々小さな割れや剥離 (15) が見られた程度で、こちらも概ね健全であった。 2 軸部・校木 束柱は、多少傾斜があり、礎石石口との接点にめくれ上がるような割れが入っている箇所が あった。束柱がわずかに動いた可能性も考えられるが、構造的には問題ない。また、束柱に大 きな干割れが入っているものも見られ、元禄期に部材の割裂を防ぐため鉄製の箍が巻かれてい たが、箍は、錆による腐蝕が進行し、箍そのものが切れてしまい、その効果を失っている箇所 が見受けられた。とはいえ、束柱の割れが進行していることもなく、こちらも問題はなかった。 建物の不陸を束柱上の台輪下端で計測したところ、南倉では東側が高く、中倉では中央が低 く、北倉では中倉境より全体的に低いという傾向が見られた。 柱傾斜は、大正期の内部柱と各倉二階四天柱の傾斜を計測した。一階・二階の内部柱は最大 5㎜程度の傾斜で、大きな傾斜ではなかった。二階各倉の四天柱の二階床から柱頭までの傾斜 の最大値は、南倉西北で西南に50㎜、中倉東南の柱で東北に37㎜、北倉西南の柱で西北に67㎜ の傾斜が見られ、傾斜する方向はまちまちで顕著な傾向はみられなかった。 校木外部は、経年による風蝕が進んでおり、南倉南側に大きな割れが入っている箇所も見ら れたものの概ね健全であった。大正修理時に取り替えられた校木際の内部柱の効果により校木 自体の乱れは少なかった。校木内部は、一階下段校木に雨染みが見られたが、常に雨漏りして いるわけでなく、台風等の風雨の強い状況が長時間続いた時に吹込んだものと考えられる。二 階校木にはほとんど雨染みは見られなかった。また、各倉とも校木間に隙間が見られた。中倉 板倉と南倉、北倉の校木との取合いにも隙間が生じ、光が漏れていた。 3 軒廻り が 軒廻りは、南面と東面北端で軒の通りに乱れが見られた。軒廻りに関してレベルの計測を丸 ぎょう かやおい 桁下端、茅負下角、隅木は茅負の口脇で行ったところ、隅にいくに従い垂下が大きくなる傾向 が見られた。 軒廻りの部材は、切裏甲の一部に軒平瓦の割れに伴う雨漏りによる腐朽があったものの、大 きな破損は見られなかった。 4 小屋組 大正修理時に入れられた敷桁は、校木への掛りがわずかしかなかったため、桔木の支点とな る敷桁が内側に回転変形していた。さらに桔木尻を押える胴差中央部も上方にたわんでいる状 況で、桔木があまり効いておらず、軒の垂下に繋がっていた。 トラスは、大正修理時に入れた金物のボルトに緩んでいるものや割裂しているものがあった が、木材や金物そのものは健全な状態であった。 ふなひじき 丸桁は、舟肘木を介して大梁で受けているが、この大梁は仕口部分で割れが見られ、大梁が (16) 垂下している状況であった。但し、この仕口部分の割れは、大正修理以前から生じていたもの かすがい で、大正修理前すでに鎹で補強されていた。 上から三段の校木は鼻先を延ばして大梁同様に丸桁を受けている(この鼻先を延ばした校木 を以下、三段校木、という)が、この三段校木も屋根荷重により垂下し、大正修理で飼物がさ れている状況が確認できた。 5 屋 根 大正10年の修理後、90年近くが経過し、正倉内部への雨漏りは生じていないものの、全面に 経年による瓦葺の乱れや瓦の破損が生じていた。 瓦に関しては、西面に大正修理時の取替瓦が多く葺かれていた。丸瓦及び平瓦には凍て割れ を生じているもの(挿図8)が多く、東面が顕著であった。また、北面は雨水が乾燥しにくい ようで、瓦の表面に苔が発生していた。 瓦葺は、各時代の寸法の異なる瓦で葺かれていたため、隙間が多く、雨水が浸入しやすい状 況であった。そのため、葺土が流失し、瓦の並びにずれを生じていた。 わ り の し 大棟は大正瓦で積まれていたが、割熨斗瓦の勾配が緩く、雨水が浸入しやすい状況であった。 また、棟全体が西に傾いていた。隅棟の割熨斗瓦は、平瓦を半裁したもので積まれており、隙 間が多く、凍て割れにより破損しているものも見られた。 土居葺は、瓦が割れて雨水が浸入した部分に腐朽が見られたのは当然のことであるが、むし ろ土居葺の腐朽が大きかったのは、瓦に破損がなかった西面の大正瓦で葺かれた部分であった (挿図9)。大正瓦は、平瓦の寸法が均一で他に比べると隙間が少なく、雨水の浸入も少ないは ずである。しかし、土居葺の腐朽箇所は、他の面に比べて非常に多かった。これは、平瓦がき ちっと葺かれていたことが通気性を悪くしており、台風などの大雨で浸入し葺土に浸み込んだ 雨水が乾きにくかったため、土居葺に蒸れ腐れを生じさせたと考えられる。大正瓦の品質の問 題も指摘されたが、瓦の検査結果を比較して見ると、含水率は約15%と江戸時代の瓦とは差が なく、透水試験の結果も丸瓦、平瓦共に雨漏りとなるような水滴や雨染みは認められなかった ことから、この蒸れ腐れは、瓦の品質の問題ではないと考えられる。 挿図8 平瓦の凍て割れ 挿図9 土居葺の破損状況(西面) (17) 3-2 実施した工事の概要 1 仮設工事 正倉には鉄骨造の素屋根を設けた(挿図10)。素屋根の基礎は、鉄筋コンクリート製の置基 礎とし、屋根はガルバリウム折板で明かり取りのため一部FRP板とした。壁は風通しを考慮 して敢えて設けず、人が通る階の周囲には金網を取り付けシート張りとした。また、素屋根内 の東面に木造にて仮倉庫を設置し、正倉内の唐櫃及びガラス戸付陳列棚の解体部材等を保管し た。素屋根建設に支障となる宝庫西門等は、先行で解体格納した。素屋根は、天候によらず工 事を円滑に進めるという目的のほか、唐櫃保管のための保管場所の確保という目的もあった。 また、工事中の現場公開も素屋根設置の目的のひとつであり、階段は公開を意識して一般の人 にも優しい設計とし、エレベーターも設置した。また、素屋根脇にはトイレも常設した。 素屋根の基礎の解体は、振動や騒音、防塵を考慮し、ワイヤーソーにて現地で切断し(挿図 11) 、構外に持ち出してから破砕し、分別の上、適切に処理した。 工事用の出入口は、敷地西面中央の鼓阪門とし、重機が進入するため道路上には敷鉄板を敷 き込んだ。また、宝庫西門西側は階段になっていたため、一旦土嚢で埋め、敷鉄板によりスロ ープとし、工事車両が進入できるようにした。 敷地の西北の空き地を仮設地とし、保存小屋・瓦保管庫・便所・休憩所・監理事務所の各仮 設物を建設した。 工事完了後は、すべて旧状を回復した。 2 解体工事 本瓦葺は瓦・葺土のすべてを取り解いた。土居葺および野地板は、破損部分及び補強工事に 支障となる部分についてのみ解体した。 各倉内のガラス戸付陳列棚をすべて解体した。 挿図10 正倉を覆った素屋根(東面) 挿図11 素屋根基礎の解体 (18) 小屋組の構造補強に伴い、補強金物の取り替えのために軒天井板を部分的に解体した。また、 補強金物のうち、隅合掌の金物は取り替えのために取り外した。 解体した瓦は、表面を簡単に清掃し、時代別に分類して指定の場所に保管した。その後、形 状、破損度、耐久性を考慮し、音響調査などによる詳細な調査を行い、再用・不再用を選別し た。再用する瓦は、水洗いなどを行い、再用の準備をした。不再用の瓦は、監督員の指示に従 い、重要なものは指定の場所に保管した。その他、不再用材と判断された瓦は一定の場所に集 積したのち、自走式破砕機にて粉砕し、監督員の指示により処分した。 土居葺の板は、再用・不再用を調査し、再用材は清掃の上保管し、不再用材は一定の場所に 集積し、監督員の指示により処分した。 3 木工事─木部修繕の一般事項 従来の技法・工法は尊重し、新規材料においてもこれらに倣うこと、痕跡・墨書等の歴史資 料は尊重し保存すること、天平古材には手を付けないことを原則とした。原則を変更する場合 には、監督員・設計監理者の承諾を得た。 新規・取替の木材は、すべて在来と同じ材種とし、見え隠れ部分に修理年度の焼印を押した。 4 屋根工事─計画と実施(挿図12 ~ 15) イ 再用瓦の使用箇所 各面での屋根荷重のバランスが悪くならないように再用瓦や瓦下地の工法を選定し、屋根荷 重の差は一割程度に収まるようにすることを目指した。 解体調査の結果、想定より多くの古瓦が残せることとなった。 最も環境状態が良いと考えられる南面に古い瓦を集めることとし、平瓦・丸瓦とも天平期か ら鎌倉時代の瓦を南面に葺いた。東面には、室町時代から大正期の瓦を中心から振り分けて葺 き、その両脇を伝統製法(注16)による補足瓦で葺いた。東面を葺く際、中心から両脇に行くに従 って新しい瓦を使うように考えたが、慶長期の瓦がほかの時代の瓦より大きかったことから、 屋根の自然な反りに対応させるため、慶長期の瓦を大正期の瓦の脇に使うこととした。軒丸瓦・ 軒平瓦も南面と東面は再用瓦を用いて葺いた。西面・北面は現代製法により補足瓦を製作し、 葺き上げた。補足瓦には布目・縄目を付けることとし、平瓦は桶巻作り、軒平瓦は一枚作りの 工法に倣うこととした。 瓦下地の工法は、再用瓦を用いる東面と南面は土葺、補足瓦のみで葺く西面と北面は空葺を 計画したが、実際に屋根に載っていた葺土や瓦の重量を計測し、計画したように瓦を葺いたと きの屋根荷重を精査したところ、現代工法で復原した平瓦の葺足が、想定より長くなったこと や現代製法と伝統製法で思ったより平瓦の重量に差が見られなかったことから、東面の屋根荷 重が西面に比べて重くなることになった。そこで東面の丸桁から先を空葺とし、屋根全体の荷 重は西面の屋根荷重に近づけるようにした。またこの際、東面中央に葺かれる再用瓦には空葺 (19) とするために釘穴を新たに空けることになるが、それはやむを得ないと判断した。 ロ 大正瓦の再用について 大正瓦については、整備懇談会の始まった当初からあまり状態が良くないことが指摘されて いた。この大正瓦をどのようにしたら再用できるかの検討の過程で、「焼直しする」という案 が提案された。実際に屋根に載っていた大正瓦を一部解体して、焼き直しを試している。その 結果、耐久性は上がり、いぶしもよくかかったが、大きさが縮んでしまうという、もっともな 結果になった。その結果を受け、懇談会で検討を繰り返したところ、大正瓦の焼き直しはしな いことを原則とし、解体して調査する中で大正瓦の再用の可否を慎重に行い、大正瓦の再用率 をできるだけ確保するよう努めることとした。それでも再用率が著しく低い場合の次善策とし て、改めて焼き直しによる再用率の向上を検討する、ということとして修理工事の実施に移っ た。 解体した状況を見る限り、西面に葺かれた大正瓦の土居葺に限って蒸れ腐れが著しかったこ とが確認できた。透水率などを計測したところ、江戸時代の瓦と大差はなかった。それにもか かわらず土居葺の状況がまったく違ったことから雨漏りの危険性を考え、大正期の平瓦は再用 しないこととした。「焼き直し」については、焼き直しにより大きさが変わるなど、本当の意 味で当時のままの大正瓦ではなくなるため、焼き直しはしない方がよい、とした懇談会の方針 に則り、実施は見送った。そのかわり、軒平瓦・軒丸瓦・丸瓦に大正瓦をなるべく残して施工 した。また、大正期の瓦には大正2年の瓦のほか、大正10年の刻印がされた瓦が多数見つかっ た。これらも大正瓦として再用した。 ハ 瓦の取替・補足について ①軒平瓦と軒丸瓦の補足瓦のサンプルは東大寺式の軒平瓦6732F、軒丸瓦6235Gとし、現代製 法で製作することとした(挿図14・15)。その検討経過は以下の通りで、下記Ⅰ~Ⅴの条件で 候補を絞り込み、「軒瓦」の選定を行った。なお、瓦の番号は奈良文化財研究所分類整理型式 番号である。 Ⅰ 『正倉院宝庫屋根瓦拓本』によると、大正2年修理時の新規製作瓦は奈良時代の軒瓦を模 倣して使用した。 ・東大寺式軒丸瓦(6235系) ・興福寺式軒平瓦(6671系カ) しかし、正倉院正倉の創建瓦として興福寺式はふさわしくないので、今回は東大寺式軒瓦 の組合せのなかから候補を絞るべきである。 Ⅱ 「東大寺式」と呼ばれる軒瓦は多種多様で、出土地点も東大寺だけでなく平城宮や西大寺 など京内寺院から恭仁宮にまで及び、東大寺で出土しない「東大寺式軒瓦」も少なくない。 Ⅲ 正倉整備に使用する「東大寺式軒瓦」を多種多様な中から選定するならば、次の二つの 条件をクリアする必要がある。 A 確実な東大寺所用瓦で正倉の創建年代に近い年代が与えられること。 B 正倉院付近で使用したと判断できること。 (20) 西南一の鳥衾瓦 取替 西南二の鳥衾瓦 取替 大棟南 鳥衾取替 西 面 北 面 南 面 東南一の鳥衾瓦 取替 凡例 東 面 東南二の鳥衾瓦 取替 東北二の鬼瓦 取替 天平再用瓦 鎌倉再用瓦 室町再用瓦 慶長再用瓦 江戸(寳刻印)再用瓦 明治再用瓦 大正再用瓦 伝統製法瓦 東北二の鳥衾瓦 取替 江戸(元禄)再用瓦 江戸(天保)再用瓦 着色のない箇所はすべて現代製法瓦 挿図12 瓦の再用配置図 天平時代 南面原寸図 平瓦 葺足 4 寸 天平平瓦 254枚 挿図13 瓦葺の現寸図 南面天平瓦施工部分 挿図14 復原のサンプルとした軒瓦 軒丸瓦:6235G(東大寺所蔵) 軒平瓦:6732F(奈良文化財研究所所蔵) 挿図15 復原した軒瓦 (21) Ⅳ 正倉の中倉は天平宝字5年には確実に存在しており(『双倉北雑物出用帳』)、光明皇后が 聖武天皇遺愛の品を献納した天平勝宝8歳には存在したともいう。そこから考えると、毛 利光・花谷および山崎が提示した東大寺所用「東大寺式軒瓦」の変遷観(注17)のなかで古段 階とされたもののなかから選ぶのがよい。 Ⅴ 正倉院周辺では1990年代に発掘調査が実施されているが、まとまった瓦の出土は報告さ れていない。むしろ、正倉院事務所が所蔵する採集資料のなかで数多く採集されている軒 瓦のなかから候補を捜すべきである。 ②古代の軒平瓦にはアゴがあるため敷平瓦は必要ない。また再用する軒平瓦も、現在は敷平瓦 なしで納まっているため、敷平瓦は整備しない。 の し がんぶり めんど ③隅丸瓦、隅平瓦、熨斗瓦、雁振瓦、面戸瓦の補足瓦は現代製法で製作した。熨斗瓦はできる ち ご む ね だけ再用に努める方針だったが、工事中に稚児棟の中から天平期のものと考えられる熨斗瓦が 見つかったことと修理前に葺いてあった熨斗瓦が天平期の平瓦を半裁したもの及び大正期の熨 斗瓦だったことから再用するのは止めて、すべてを取り替え、補足瓦は天平期の熨斗瓦に倣っ て製作することとした。 ④補足瓦は伝統製法・現代製法にかかわらず、すべていぶしを焼き飛ばす工法とする。 またぐ ⑤股刳りのない東北の二の鬼瓦は、割れも生じており再用に耐えられないと判断したため取り 替えた。補足瓦は、東北一の鬼瓦を二の鬼瓦として復原した形状とし、デザインについては髭 へら の形状に物足りなさがあったので、篦使いを若干調整し、力強さを出した。 とりぶすま 鳥衾瓦は、瓦当の文字が溶けたように剥がれているものがあり、慶長8年(1603)の篦書を 持つ鳥衾瓦はその篦書が消えかけていると判断できたので、史料確保のために再用を見送り、 同じ形状で復することを原則として補足瓦を製作した。裏には、その旨を篦書し、後世に託し た。 5 構造補強工事 イ 小屋組補強構造解析 整備懇談会で進められてきた検討では、軒の変形は予想された通りであり、今回行う屋根葺 替工事程度では元に戻すのは困難であると思われるので、これ以上変形が進まないような手立 てを講じること、という方向性が示された。その際、小屋組のトラスは変形も少なくしっかり しており、これを維持することが賢明であること、隅部はなにがしかの補強を講じる必要があ ること、補強は古材をできるだけ傷付けないように行うこと、という指導がなされた。 これに基づき当初の設計では、軒の垂下をできるだけ進行させないようにするため、小屋組 すみがっ 内に丸桁桔木を追加するという構造補強を行う計画とした。また、隅の補強については、隅合 しょう 掌の尻を東西方向及び南北方向に繋ぐ計画とした。さらに、既存の桔木については、桔木枕を 受ける敷桁の直下に校木が来ておらず、敷桁が撓んでいる可能性があったので、敷桁下に受け 材を挿入して敷桁を補強し、既存の桔木を効かせることを考えた。この際、敷桁受け材のサポ (22) 挿図16 小屋組平部の金物補強 挿図17 小屋組隅部の金物補強 ートとして、大正期に入れられた内部柱の脇に支持柱を付加することとした。 以上の計画により強度は確保されると思うが、ほかに悪影響が出ないかについて確認するこ と、という整備懇談会での指摘があったので、施工の実施に先立ち、設計に基づいた補強後の 安定性について応力解析を行い、その効果を確認した。 解析の結果、軒先に桔木を追加することは、軒の垂下を防止するにはあまり効果的ではなく、 ろくばり それよりもトラスの陸梁側面に鉄骨材を添わせ、帯状金物などで丸桁と舟肘木を吊り上げる方 が効果的であることがわかったため、実施設計を見直し、鉄骨材を主とする補強に変更した(挿 図16) 。隅部については、隅合掌尻を東西方向及び南北方向に繋ぐことのほか、隅合掌と隅陸 梁の振れを飼い物によって是正し、接合部に取り付けられていた大正期の金物をV字型の金物 に交換することで一体化させることとした(挿図17)。 ロ 耐震解析 正倉については、平成16年(2004)度に実施した第一回詳細調査業務において耐震性の調査 が行われていたが、その後、平成18年(2006)に中央防災会議で奈良盆地東縁断層帯を震源と する大地震(マグニチュード7.4)発生の可能性が発表された。そこで新たに、奈良盆地東縁 断層を震源とする模擬地震波(工学的基盤)を生成し、正倉の耐震性を解析した。 なお今回の解析においては、修理前の正倉における束柱の傾斜を考慮したものとして解析を 行うことを前提とした。 解析の結果、奈良盆地東縁断層帯を震源とする大地震時にも特に対処する必要はない、と判 断した。これらの構造設計に関する詳しい解析については『整備記録』を参照願いたい。 6 雑工事 その他の工事として、束柱箍の補足、礎石及び土間の補修、修理銘板の製作などを行った。 7 設備工事 設備に関することとして、避雷針の取り外し及び復旧と炎感知器の設置を行った。 (23) 4.形式と技法 4-1 構造形式の概要 桁行九間、梁間三間、一重、高床倉庫、寄棟造、本瓦葺。 4-2 平面計画(挿図18・19) 束柱の柱間で、桁行九間、梁間三間、南からそれぞれ桁行三間分を三分割して南倉、中倉、 北倉の三倉からなる。各倉の東面中央に扉口を設ける。内部は高床の一階、二階、小屋裏に床 を張り、二階は東寄りの中央、小屋裏は四天柱で囲まれた中央間を開け、それぞれに階段が付 く。各倉の一階、二階にはガラス戸付陳列棚が扉のある東面を除く三方にコの字型に設置され ている。 今回の整備工事では部材を解体しないため、真墨等を確認することはほぼできなかったので、 校木内々と台輪真々の寸法を実測し、大正期の実測図の値と今回計測した値と比較の上、校木 と台輪真すなわち束柱真との関係及び校木と垂木割の関係を考察した。また、天平尺の1尺= 北 倉 2,145 2,336 2,136 3,060 中 倉 333 61 南 倉 3,151 9,272 9,393 3,060 333 61 296㎜と仮定して実測寸法を換算し、奈良時代の平面の計画寸法を考察してみた。 333 111 3,408 3,570 10,386 10,605 3,408 333 107 226 3,778 3,957 11,480 11,932 33,142 3,745 333 226 107 3,439 3,530 10,408 10,605 3,439 333 89 3,121 333 挿図18 正倉一階平面図(竣工) 北 倉 333 3,121 3,151 9,393 中 倉 南 倉 333 3,519 3,570 10,605 3,516 333 4,004 3,957 11,932 33,142 挿図19 正倉二階平面図(竣工) (24) 3,971 333 3,547 3,530 10,605 3,528 333 39,751 1,326 1,218 1,333 1,266 1,018 3,530 3,530 3,988 3,957 4,019 3,570 3,501 1,018 1,266 1,218 1,333 1,326 667 南 面 5,924 5,975 5,924 5,972 5,977 3,305 北 面 3,528 3,624 3,530 10,605 3,547 3,971 3,957 11,932 33,142 4,004 南 倉 3,516 453 426 108 426 中 倉 2,729 401 108 424 北 倉 2,727 397 397 2,722 89 111 2,756 909 197 2,756 430 8,961 8,090 13,722 871 281 3,594 4,761 1,167 667 3,570 10,605 3,519 3,734 棟木 棟束 591 281 3,594 母屋 合掌〔上〕 二重梁 対束 合掌〔下〕 方杖 小屋束 陸梁 4,761 1,167 挿図20 正倉桁行断面図(竣工) 482 197 197 2,727 2,756 61 1,167 挿図21 正倉中倉梁間断面図(竣工) 大梁 4,761 地垂木 桔木 敷桁 3,594 天井板 丸桁 軒天井板 束柱 430 197 頭貫 61 2,756 2,722 床板 挿図22 正倉北倉梁間断面図(竣工) (25) 舟肘木 台輪 212 2,197 5,972 397 61 197 2,756 430 2,756 5,924 5,972 3,775 受け材支持柱 切裏甲 飛檐垂木 四天柱 3,242 5,924 校木 8,961 8,370 敷桁受け材 3,677 482 5,924 13,722 591 281 木負 茅負 8,370 8,961 453 424 303 2,176 3,100 5,924 5,977 3,801 3,677 校木内々寸法は、今回実測した寸法と大正期の実測図の寸法に大きな違いはなかった。 梁間方向は、南倉で実測値平均9.264m、天平尺換算で31.30尺であった。北倉では実測値平 均9. 267m、天平尺換算で31.31尺、中倉は実測値平均9.265m、天平尺換算で31.30尺であった。 これから中倉は板倉ではあるが、その内々寸法は北倉・南倉の校木内々寸法と大きな差がなく、 校木内面と壁板内面がほぼ揃うということがわかった。 桁行方向は、南倉で実測値平均10. 366m、天平尺換算で35. 02尺、北倉では実測値平均10. 392 m、天平尺換算で35.11尺、中倉は南倉及び北倉の校木の外側の寸法となるが、実測値平均で 11. 481m、天平尺換算で38.89尺であった。 校木真と台輪真すなわち束柱真との関係は、梁間方向で南倉では88㎜、北倉では30㎜、中倉 では64㎜、外側にずれがあった。桁行方向でも、南倉で139㎜、北倉で209㎜外側にずれがあり、 梁間方向に比べ桁行方向は、ずれが大きいという傾向が見られた(注18)。 以上から、創建当時の計画寸法を探ることは難しい。しかし、垂木がどこを基準に配られて いるかという視点で現状を実測値により作図してみると、校木内面に垂木内面がおおよそ揃う ことがわかった。また、ばらつきがあるものの垂木幅はおおよそ105 ~ 120㎜であり、校木上 下の平らな部分も若干のばらつきはあるものの90 ~ 120㎜で垂木幅とほぼ同じ寸法である。こ のことから垂木は、垂木真と校木上下の平らな部分の真が一致するように計画されたと考える ことができる(注19)。 校倉平面を計画する上で重要なことが校木の長さである。古代の建築においては、調達でき る木材の長さが建物の大きさを決定付けることは村田健一の研究で指摘されている(注20)。南倉、 北倉の梁間方向上部の三段校木が約13m、桁行方向上部の三段校木で最長14mある。その他の 校木も梁間方向で11m、桁行方向で約12mの木材が必要となる。校木は、継いであるものが数 本見られるものの、基本的に一材で組まれている。校木を組上げ、構造体を形成している。校 倉の場合、継手を設けることにより建物の強度が低下する。このように当時調達できる10m内 いかだ 外の木材の長さから建物規模が決められたと考えられる。校木には伐採した木材を筏に組んで め と あ な 川に流して運搬した時の目途穴が残るものも見られた。 4-3 基 礎 束柱礎石は、三笠山安山岩の自然石で、束柱の据わる天端はほとんど加工されておらず、非 常に凹凸の大きな石ですべて当初材である。軒内の土間はモルタル洗出しとし、四周には自然 石の縁石を並べ雨落溝を設けるが、これらは大正2年の施工になる。 4-4 木 部(挿図20 〜 22) 1 束柱・頭貫 束柱は檜の円柱で、礎石上にひかり付けて立ち、梁間方向に頭貫を入れ、台輪を載せている。 建長6年(1254)の落雷で束柱6本は取り替えられたと記録にある。それ以外は当初材と見ら (26) れる。大正2年実測図には束柱の直径2.2尺(現行尺換算値667㎜)で描かれているが、現状の 束柱は特に外側に風蝕が進み、実測すると寸法に大きなばらつきがあり、真円ではない。 2 台 輪 台輪は、まず束柱上梁間方向の各筋に載せ、その上に桁行方向は側通りにのみ載せ、台輪上 は だ に校木を組む。梁間・桁行の両方向とも台輪の先端を束柱筋より大きく桔ね出している。すべ て当初材と思われる。寸法にはばらつきがあり、外部に面する部分の風蝕が著しい。中倉中央 間の二本は、南倉、北倉に比べて成が大きい。 外廻り台輪の上端外角と外部桔ね出し部分の上端両角に面幅約80㎜の大きな面をとっている。 水切りと考えられるが、現存する東大寺境内の校倉を見ると、桁行の側通り束柱上にはへの字 に加工された〝ねずみ返し〟が載せられている。正倉台輪上の面は、これに通じるものと考え ることもできる。しかしどちらにしても、その用途とは関係のない北倉南端の南面、南倉北端 の北面にもこの面取りがあり、大正修理時の工事写真からも、面取りは室内側に付いているこ とも確認できることから、規格材として加工されていたことも考えられる。 台輪の桔ね出し寸法は、東側が約1.9mとほかの面の桔ね出し寸法の1.5 ~ 1.6mより大きい ことが実測により確認できた。 3 校木・壁板 南倉と北倉は桁行三間、梁間三間の校倉造、中倉は南北を南倉の北壁と北倉の南壁を利用し 東西に板壁を入れた桁行三間、梁間三間の板倉といった構成となる。軸部は校倉の南倉と北倉 の間に、その間を埋めるように中倉の板倉が組まれる。 校木は台輪上に梁間方向、桁行方向の順に成を半分ずらしながら交互に20段組み上げ、上か ら3段は鼻先を延ばす。梁間方向上部には校木成半分の高さの面戸状の飼物が入る。部材の寸 法にはばらつきがあり、上部で計測すると成・幅共約300㎜で、300㎜角の材の上端と下端と外 側に90 ~ 105㎜程の平らな面を残して不等辺六角形に加工している。下段は風蝕が著しい。校 木は基本的に一材であるが、今回目視で継手の位置を確認したところ、継手のある校木は南倉 で南面の最下段と下から17段目と18段目の3本、東面は下から17段と19段目の2本、北面は19 挿図23 中倉内部南面校木の加工痕(槍鉋) 挿図24 北倉内部北面校木の加工痕(釿) (27) 段目の1本の計6本、北倉は、北面の下から4段目と18段目の計2本で合計8本に継手があっ たが、その他はすべて一材であった。 時代別は、目視だけではなかなか判断し難いが、北倉北側下から1段目の校木は大正材であ るほかは大半の部材は当初材と見られ、所々埋木や矧木が施されている。中倉内部から見ると、 やりがんな はまぐりば ちょうな 南倉北側、北倉南側の校木に槍鉋の加工痕がよく残っている(挿図23)。校木内面は蛤刃の釿 すぐは によると見られる丸刃の痕跡(挿図24)と、やはり釿であるが斜めに直刃の加工痕が見られた (注21) 。 だ ぼ 校木間は太枘を入れて組み上げていると見られ、大正期の断面図にも描かれている。今回の 調査で校木の隙間から60㎜×20㎜程度の太枘が入っていることを確認した。 各倉内部校木の柱間中央に幅90 ~ 105㎜の天井板まで連続する埋木痕跡が南倉一階東面、中 倉一・二階の東西面、北倉一階東面に見られた。また北倉一階北面、西面の内部柱間のほぼ中 央に縦に幅120㎜で墨が残されていた。また内部柱間のほぼ中央に、釘彫りと角釘穴の痕跡が 見られ、左右交互に縦300 ~ 600㎜間隔で天井付近まで連続していた。このことから大正修理 前にも内部に90 ~ 120㎜程の細い柱が立っていたと見られる。天保期の絵図(注22)に描かれてい る内部柱が、これらの痕跡のものと思われる。 ごひら 中倉は、桁行台輪上に五平の柱を立て、南倉、北倉の桔ね出した校木の木口際に定規柱を立 いたじゃく て、柱の板决り溝に壁板を嵌め込む。壁板の幅は253 ~ 296㎜で、柱頂部に成235 ~ 240㎜の頭 かたぶた だいと 貫を入れ、外部は片蓋で大斗と肘木を組んだ上に桁を受け、内部は桁まで柱が延びる。壁板厚 は計測できないが、大正実測図には4. 3寸の記入がある。外部は風蝕が大きく、特に西面では 60㎜以上風蝕している。 4 四天柱・内部柱・添柱 各倉中央間の柱通りに4本、円柱の四天柱を立てる。柱径は各倉ともばらつきはあるものの、 一階で計測すると340㎜前後、二階柱頂部で300㎜前後と先細りに造る。槍鉋の加工痕が残され ていて、すべて檜で当初材と見られる。また各倉の一階四天柱東・西面と、中倉南・北面四天 柱通りに約180㎜の添柱を、長さ約360㎜の横木を飼い込み床板上に立て、二階床梁を受けてい る。添柱も檜で当初材と見られ、槍鉋の加工痕がある。四天柱南・北面には、繰型を付けた板 掛けを大釘止めし、床板を受ける。 大正修理の時、各倉校木内側の束柱通りに内部柱を入れている。隅は180㎜角、その他は210 ㎜角で、檜の台鉋仕上げとする。背面は、引独鈷により校木を引いている様子が、大正期の工 事写真に見られる。この写真からは校木全数を引くように加工しているが、今回隙間から確認 したところ、全数ではないようであった。 5 大梁・妻梁 大梁は、成390 ~ 415㎜、幅272 ~ 308㎜を下から19段目の桁行方向校木及び四天柱上の大斗 (28) の上に載せ、先端を持ち出し、丸桁下の舟肘木を受ける。桁行方向20段目の校木の上端と大梁 天端が揃い、軒天井板及び小屋裏床板を載せる。桁行方向の20段目の校木は大梁によって分断 される。 妻梁は、成377 ~ 388㎜、幅260 ~ 300㎜を梁間方向20段目の校木上に載せ、外部は先端を持 ち出し丸桁下の舟肘木を受け、内部は大梁に横枘差鼻栓止めとする。南倉の北側、北倉の南側 も同様に中倉内部に妻梁先端を持ち出す。中倉内部東南側の南倉妻梁と西北側の北倉妻梁に風 蝕らしい跡が見られたが、中倉内に張り出す妻梁の先には、舟肘木を載せたような仕口の痕跡 は見られない。大梁、妻梁いずれも槍鉋の加工痕が残り、すべて檜で当初材と見られる。 今回の調査で大梁の内々寸法を軒天井位置で計測すると、東側はほぼ等間隔であるのに対し、 西側南の間で119㎜、北の間で131㎜、南にずれており、南の間が狭く、北の間が広いことが判 明した。大正修理時のトラス陸梁は、西側の大梁位置に合わせ入れていて、東側で大梁の位置 と陸梁の位置にずれが生じている。 6 丸 桁(挿図25) 丸桁はすべて檜材で、南面に2丁、東面に5丁、北面は1丁、西面は5丁からなっている。 舟肘木を介して大梁や三段校木に載る。断面形状は円形ではなく、建物外側になる上下は丸面 を取るように加工し、正面は曲率が小さい。建物内側の下端は軒天井板下端と揃うため角のま まとし、小屋裏になる上端はやはり丸面は取らず角のままとなっていた。舟肘木に載る部分は 下端の丸面を取らず、舟肘木の形状(長さ方向)を造り出していた。 寸法は、幅を226 ~ 245㎜程、成は230 ~ 280㎜程、一部舟肘木を高さ方向にも造り出す部分 があり、その部分は315㎜あるものもあった。長さもまちまちであるが、最も長いもので、北 面の一丁ものは13.2m程あった。 北面の丸桁は、表面全面が柔らかな風蝕痕になっており、いかにも天平期の材料であるよう に感じられた。しかし、堅い風蝕痕の材も多く、北面のそれとはだいぶ違う印象を受けた。特に 西面と東面の南寄りの材にその傾向が強かった。ただ、舟肘木との関係や小屋裏側での調査で もその丸桁が後補である根拠は見当たらなかったことから、後世に削り直された可能性もある。 挿図25 丸桁に残る鑿打ち痕跡と舟肘木との 取り合い (29) 挿図26 丸桁下舟肘木の形状(北面西から2番目、全長1,823㎜、造出含む全成228㎜) またなかには、軒天井側の下端に丸面を付けている材料があった。中古に前後を入れ替えて 使用したものかと思われたが、小屋裏は仕上げられた形状にはなっておらず、単純に誤って加 工されたものと判断できる。 調査当初は、すべて奈良時代の材料と考えたが、継手の位置や状況、風蝕の差や小屋裏の加 工痕などから合わせて考えると、中古材も混ざっている可能性もある。その判断は未解体のた め難しい。少なくとも、北側の材料は当初材ということができる。 7 舟肘木(挿図26) 舟肘木は28本あり、すべて檜材で、奈良時代当初の材料と思われる。幅は235㎜内外、成は 部材としては150㎜内外であるが、形状そのものは上に載る丸桁を造り出し、215㎜内外となる が、場所によってばらつきが多い。長さは、1.7m内外、隅は2.7m前後であった。 舟肘木は、大梁を中心に左右対称になるはずの部材であるが、現状は左右で長さが違うもの が散見され、中古に舟肘木を切り縮めるような改造を受けたのではないかと思われる。その根 のみ のこび 拠として、丸桁の下端に元の長さを示すと思われる鑿打ちの跡や鋸挽きの跡(挿図25)があり、 その間隔を計測すると、今より長い左右対称の舟肘木が想定できることが挙げられる。しかし、 このような改造がいつなされたのかは、痕跡からも、史料からも特定することはできない。 あいかき わたりあご 舟肘木は、大梁には相欠、三段校木には渡腮で組まれるが、なかには大梁位置にも渡腮の痕 跡を残す部材があった。下端には、風蝕差の痕跡のある部材もあり、これらは舟肘木の移動な どの改造を思わせるものである。 舟肘木の風蝕は、北面の部材を中心に、ビロードのような状態で、天平期の材料であること を思わせる。しかし、東面や西面の舟肘木には、内側はいかにも天平期の風蝕があるにもかか わらず、下端や外側は堅い風蝕痕となっていた。同じ部材で風蝕がこれほど異なる状況から見 ると、削り直しが行われたことが考えられる。 8 軒天井板 軒天井は、校木の上端、大梁上に載せ、丸桁下端と軒天井下端が揃う。長さは各大梁の間が いたそば 1枚の長さとなり、幅は約300 ~ 589㎜とばらつきがある。厚さは約75 ~ 80㎜である。板傍に やといざね 雇実を入れる。 (30) 9 小屋組・トラス ついづか 小屋組は、大正2年の修理時に西洋の架構技術を取り入れたクイーンポストトラス(対束小 屋組)構造に改められた。部材には多くの古材が転用されていた。大正期の補足材はすべて檜 材で、台鉋仕上げであった。 桔木は、大正修理時に妻側も含め各陸梁間に1本ずつ、計16本、各隅に4本ずつ計16本、合 計32本を入れている。敷桁上に桔木枕を入れて支点とし、桔木先端を丸桁に扇枘差しとし、丸 桁を桔ねる。対束筋の桁行方向に胴差を入れ、桔木尻を押える。桔木尻にはずれ止めに太枘を つなぎばり はさみばり 仕込んでいる。さらに対束梁間方向に繋梁を入れ、対束に枘差込栓打、桁行方向に挟梁で対束 を東西から挟込み、ボルトで固定する。 トラスの各接点は、金物を用いて固定されていたが、金物はすべて鉄に焼漆塗装が施されて たんせつ いた。今回取り外したボルトはすべて鍛接で継いで必要な長さに造られていたが、うまく接合 されず接合面が取れているものが見られた。また座金の破断した断面を見ると層状になってお り、ナットも個々に寸法が異なっていて、一つ一つ鍛造されていると見られる。ボルトになぜ 継がれたものが使われたかについては、明治期の修理で使用したボルトを再利用したとも考え られるが定かではない。 10 軒廻り しげだるき じ だ る き ひえんだるき 二軒繁垂木、地垂木・飛檐垂木とも角垂木とする。丸桁上に、地垂木を載せる。地垂木先端 きおい すみぎうけお に木負を載せ、飛檐垂木を組む。飛檐垂木先端に茅負を載せ、切裏甲を載せる。隅は隅木受尾 だるき 垂木を入れ、地隅木、飛檐隅木を組む。 11 地垂木 今回目視で時代別を判断したところ、およそ6期(当初、中世、慶長期、天保期、明治期、 ひきわ 大正期)に分けられる。当初と見られるものは、成約130㎜、幅約105㎜で、曳割りによる割肌 まさかり がそのまま残るものや、上端及び下端は槍鉋で仕上げられ、側面には鉞や丸刃の釿の加工痕が 残る。当初と見られる部材はほぼ直材であった。大正修理時には、地垂木の3本毎に力垂木を 挿入し、軒を補強している。成240 ~ 300㎜、幅約120㎜、檜で台鉋仕上げをしている。 時代分類の結果、中世の鎌倉時代の部材が多く残されていて、瓦の時代別残存状況と一致す る結果となった。しかし、当初材と中世材の判断が目視だけでは難しく、中世と判断したもの が当初材の可能性もあり、もう少し当初材が多くなる可能性もある。 12 飛檐垂木(挿図27・28) 時代別は4期(当初、中世、慶長期、天保期)に分けられるが何れも檜とみられる。当初と 見られるものは木負位置で成約120㎜、幅約105㎜、木口成約110㎜、幅約90㎜であった。何れ も下端で15㎜程反りを付ける。 (31) 挿図27 当初飛檐垂木の鼻先 挿図28 鼻先を切られた当初飛檐垂木 時代別については、当初材が半数近く残されている結果となったが、地垂木同様、当初材の 数が変わる可能性がある。また、当初材でも鼻先が切られているものも多く見られた(挿図 28) 。当初における飛檐垂木の茅負からの出は、60㎜内外を測ることができ、奈良時代の例か らするとやや長めである。 ろんじだるき また、現在は論止垂木が納まるように配されているが、当然奈良時代当初、論止垂木はない。 隅木は後述のように4箇所中3箇所は当初材と見られるが、各側面には埋木があり、現在の垂 木が付け直されていることが明らかである。 13 隅木・隅木受尾垂木 隅は、隅木受尾垂木を真隅に納め、舟肘木と丸桁を組み、その上に地隅木、飛檐隅木を架け る。地垂木の勾配が平で6寸勾配、妻で7.2寸勾配と異なるため、勾配が急な妻側に隅木を振 って納めている。東南隅の隅木は大正修理で取り替えられており、地隅木と飛檐隅木を檜の一 木で造っている。その他の地隅木・飛檐垂木は当初材で、地隅木には大正期の修理で天端から 鉄材を挿入して補強されていた。 地隅木受尾垂木側面には、今回補強で取り付けた帯状金物と同じような形状の削り跡と釘跡 があった。これは、明治期にやはり隅木を吊るために付けられた金物の跡である。同じような 発想があったことがわかり、興味深い。 14 野 地 堅固な二重野地で、大正修理時に雨漏り防止の策として作られた。 こまい 地垂木上に木舞を配す。力垂木側面には大入とし、その上に化粧裏板を流れの方向に張る。 化粧裏板は、天保期が杉で、大正期が檜である。 化粧裏板の上には軒先と棟際に大正材の野垂木が入る。檜で、軒先部分の長さ4,500㎜、棟 際で長さ1,900㎜を斜めに加工して矢弛みを作る。約300㎜間隔に地垂木と同じ位置の化粧裏板 の上に角釘止めしていた。 二重野地は、野垂木上に板を横に張り、勾配の下手を决り、一方の板の上手と張り重ねていた。 (32) 15 造作・建具 各倉とも、一階の四天柱の東西に敷盤上に立てた角柱を添え、壁際の各大梁下に立てた内部 ね だ 柱の中段に向かって根太を架け、二階の床板を張る。二階天井は大梁上に張り、根太は最上段 校木と大梁の間あるいは大梁同士の間、また各室桁行中央間は大梁同士の間に架けた根太と平 側最上段校木の間に架ける。 へいじく いたさんど 各倉出入口は、ともに東面中央間に幣軸を廻し、内開きに板桟戸を吊り込む。 16 当初材(天平材)の調査 小屋のトラスに転用された天平材について、浅野清が行った調査(注23)の追調査を行い、当時 の調査が大変精度の高いものであったことを再確認した。 4-5 屋 根 1 屋根瓦 正倉は、これまでに何回も屋根葺替修理がなされたようで、整備工事前は創建以来の各時代 の瓦で葺かれていた。ここでは各時代の瓦の特徴や葺き方に関する報告とともに『整備報告』 では掲載できなかった大正2年及び同10年の軒瓦の実測値を示す。 (1)奈良時代(挿図29 ~ 32) 奈良時代の瓦は、平瓦・丸瓦が残っており、平瓦を半裁したものが熨斗瓦に使われていたほ か、隅棟から、もと使われていた奈良時代と思われる熨斗瓦が見つかった。 奈良時代の平瓦は、739枚(平瓦全体の3.26%)残存していた。そのうち、桶巻作りが538枚、 一枚作りが201枚であった。いずれも表には布目、裏面には縄叩き目が施されていた。正倉が 歴史上確認できる天平勝宝8歳当時の東大寺造営時には、平瓦の製瓦技術は桶巻作りから一枚 作りに移行していると考えられるが、正倉に残っていた奈良時代の平瓦は、桶巻作りが約73% で、そのほかの約27%が一枚作りである、という逆転現象が生じていた。この状況を考察する と、正倉の創建年代をもう少し古く考えることもできるであろうし、創建時期は変わらないと して創建当初に古瓦が転用された可能性も指摘できる。また、東大寺建立には膨大な瓦が必要 であったことが知られているので、実際に桶巻作りの工房がまだ存在し、そこから提供された ものかもしれない。さらには、創建当時は一枚作りの方が多かったが、桶巻作りの瓦の方が状 態が良く、修理を重ねる毎に残される一枚作りの瓦が減っていき、現状のように残存数が逆転 してしまったことも考えられよう。実際に、今回の修理で再用・不再用を選別したところ、桶 巻作りの方が残りが良く、一枚作りの方が不再用の率が高かった(再用分の割合は桶巻き:一 枚作り=4:1)。ただ、軒平瓦が存在していないことなどこの状況を決定付ける資料やデー タを揃えることはできない。いろいろと可能性は考えられるが、現況から結論に至る決め手が 得られるものではないので、一つの課題として改めて記録に留めておきたい(注24)。 桶巻作りと思われる瓦には、布の綴目、粘土の合わせ目、顕著な模骨痕等の桶巻作り特有の (33) 310 233 23 挿図29 奈良時代の熨斗瓦 挿図30 奈良時代熨斗瓦の破断面 上方に割断用の切り込み跡が見える。 273 365 267 57 175 230 234 300 挿図31 奈良時代の丸瓦 386 挿図32 奈良時代の平瓦 桶巻き作りと一枚作り(右) 痕跡が認められた。一枚作りは、その製造工程の特徴である側に布が回り込んだ痕があるもの があった。また、裏面狭端部のナデ消しはなく、裏面全面に縄叩きがあること、桶巻作りに比 べ谷が浅いこと、厚さが薄いこと等の特徴が見られた。さらに一枚作りの瓦には「東」「東大」 といった文字の刻印のあるものが発見された。 奈良時代の丸瓦は、101本(丸瓦全体の1.41%)であった。表面には縄叩き目、裏面に布目 たまぶち があった。玉縁の取り付きが浅く、玉縁が長いものが桶巻作りの平瓦に対応するものと考えら れ、およそ6種類に分類される。裏の面取は小さく、玉縁部分の面取は大きい。玉縁の取り付 きが深く、玉縁が短いものが一枚作りの平瓦に対応するものと考えられ、およそ3種類に分類 された。 熨斗瓦に使われていた奈良時代の瓦は、平瓦を半裁したものであったが、隅棟などの葺土の 中から奈良時代のものと思われる熨斗瓦が19個体分(うち5枚は完形)発見された。 見つかった熨斗瓦は、瓦の表面には布目のついた面と縄目のついた面が見られた。この熨斗 瓦は、瓦の側から25㎜程度が風蝕しており、側から45㎜ぐらいの所には葺土の痕跡が見られた。 瓦自体に曲がりはなく、全体が平らに作られていた。これらの瓦はすべて半裁されたもので、 半分に割るためあらかじめ中央に線が入れられていたことが確認できた(挿図30)。この分割 線の状況から熨斗瓦であると判断できる。 (2)平安時代 平安時代の瓦は、平瓦と丸瓦が残っていた。平安時代には数多くの修理記録があるが、残っ ていた瓦はごく少なかった。 (34) 340 243 175 66 267 341 挿図33 鎌倉時代の軒丸瓦 挿図34 鎌倉時代の軒平瓦 平瓦は、120枚(平瓦全体の0.53%)残存していた。形状や寸法から約5種類に分類される。 表面には布目、裏面には縄目が付けられており、粘土をタタラから切った時の糸切痕が残るも のも多く見られた。 丸瓦は、3本(丸瓦全体の0.04%)であった。表面には縄目、裏面には布目が見られる。厚 みが薄く大きな歪みが生じているものが多かった。 (3)鎌倉時代(挿図33・34) 修理前、大正期に次いで多く使われていたのが鎌倉時代の瓦で、当時比較的大きな屋根の修 理が行なわれたことを窺わせた。その種類は、軒平瓦・軒丸瓦・平瓦・丸瓦であった。平瓦や 丸瓦には加工痕の多様性が認められたが、それぞれは工房の違いを示すものであり、これらの 種類分だけ修理が行われたわけではないと思われる。 鎌倉時代の軒平瓦は、36枚(軒平瓦全体の9.52%)であった。瓦当文様は二種類見られたが、 そのほとんどにあたる35枚は、瓦当中央に「東」「大」「寺」の文字をそれぞれ圏線で囲み左右 に唐草文を配したもの全体を圏線で囲んだもので、裏面には菱目に「東大寺」の文字が押され ていた。 鎌倉時代の軒丸瓦は、1本(軒丸瓦全体の0.26%)だけであった。瓦当文様は、珠文数18個 の左巻三つ巴文であった。 鎌倉時代の平瓦は、5,743枚(平瓦全体25.31%)で、表面には布目が残っていて、裏面には 叩き目が残されていた。叩き目は、×字状を連続させ菱目を表現し、さらに「東大寺」の文字 を押しているものが多く見られた。 鎌倉時代の丸瓦は、1,043本(丸瓦全体の14.55%)であった。丸瓦では、鎌倉時代から裏面 つりひもあと に吊紐痕が見られ始め、吊紐痕の有無や紐の形状から分類すると、鎌倉時代前期のものと思わ れる吊紐痕のないものが2種類、紐痕のあるものが4種類見られた。表面には縄叩き痕、裏面 には布目が残る。また鎌倉時代後期のものと思われる吊紐痕のあるものが4種類見られた。表 面に僅かに縄目が残るものも見られるが、箆ナデを施して縄目が見えなくなるものが多くなる。 裏面には布目が見られ、面取は比較的大きくなる。 (4)室町時代(挿図35・36) 刻印などに最も多様な瓦が存在する。正倉の修理に関する記録は残っていない時代だが、瓦 (35) から見るとある程度の修理が施されていたことがわかる。その種類は、鎌倉時代と同様、軒平 瓦・軒丸瓦・平瓦・丸瓦であった。瓦には多くの刻印が見られるようになるが、この刻印は瓦 の生産組織による出来高を把握するために押されたものと思われる。 室町時代の軒平瓦は12枚(軒平瓦全体の3.17%)で、瓦当文様は3種類確認されたが、瓦当 ぼんじ 中央に「東」「大」「寺」の各文字を圏線で囲み、左右に梵字を配したものが9枚あった。 室町時代の軒丸瓦は、17本(軒丸瓦全体の4.45%)であった。瓦当文様は、右巻の三つ巴文 に珠文数21個のものを主に3種類見られた。 室町時代の平瓦は、670枚(平瓦全体の2.95%)であった。瓦表面に布目・叩き目はなく、 瓦狭端部の凸側に18 ~ 30㎜程度の大きな面が取ってあった。瓦の質は固く良質で、よく焼き 締まっている。瓦の木口に18種類の刻印が確認できた。 室町時代の丸瓦は、534本(丸瓦全体の7.45%)であった。裏面の吊紐痕の有無や、紐の形 状より分類すると、室町時代中期頃のものと思われるものは、吊紐痕のないもの6種類、吊紐 痕のあるもので12種類見られた。表面は、僅かに縄叩きの残るものも見られるが、箆ナデを施 している。裏面には布目が見られ、大きく面を取っている。室町時代後期頃のものと思われる ものは、吊紐痕のないものが6種類、吊紐痕のあるもので8種類見られた。表面は丁寧な箆ナ デを施している。裏面は布目が残り、大きな面を取っている。また玉縁側の木口に刻印を押し たものが多く見られ、20種類の刻印があった。この時代の瓦は焼き締まり、表面は箆ナデによ り丁寧に仕上げられ、いぶしもよく残っていて良質のものが多く見られた。 (5)慶長期(挿図37 ~ 40) 慶長8年(1603)には、徳川家康による大規模な修理が行われたことが記録からわかってい 360 61 387 280 183 310 挿図35 室町時代の軒丸瓦 378 挿図36 室町時代の軒平瓦 366 62 282 189 298 挿図37 慶長期の軒丸瓦 挿図38 慶長期の軒平瓦 (36) るが、屋根瓦にはそれを裏付ける篦書のある瓦が確認できる。修理前の棟積形式は、この慶長 期に修理された状態を伝えてきたものと考えられ、鬼瓦や鳥衾瓦の多くに慶長期のものが使わ れていた。 慶長期の軒平瓦は、46枚(軒平瓦全体の12.17%)で、瓦当文様は「東大寺」の文字のみを 配しており、文字の書体と大きさが異なる2種類が確認できた。また平瓦と同じ種類の刻印が 押されているものが見られた。 慶長期の軒丸瓦は、58本(軒丸瓦全体の15.18%)で、瓦当文様は「東大寺」の文字を三角 形に配し圏線で囲み、周囲に珠文を配した1種類で、慶長期の平瓦・丸瓦と一致する刻印が見 られた。 慶長期の平瓦は、3,279枚(平瓦全体の14.45%)であった。瓦が厚く、室町時代の瓦と同様 に木口に刻印しているものが見られ、刻印は16種類確認された。 慶長期の丸瓦は、1,023本(丸瓦全体の14.27%)であった。吊紐痕の形状により吊紐痕二段 のものが1種類、一段のものが2種類、計3種類に分類できる。いずれも表面には箆ナデを施 し、裏面には鉄線切痕が見られる。また玉縁側の木口に7種類の刻印が見られた。 慶長8年(1603)に瓦には、このほか鬼瓦と鳥衾瓦がある。 鬼瓦は、東南一の鬼瓦・二の鬼瓦(年紀篦書) 、西南二の鬼瓦(年紀篦書)、西北の一の鬼 瓦・二の鬼瓦と5個が慶長期である。西南二の鬼瓦は、左側面に「慶長八年癸卯三月二十五日」 の年紀と右側面に瓦師の在住と氏名が箆書されている。 東北一の鬼瓦は、修理前に8個あった鬼瓦のうち最も小さく(挿図39)、足下を嵩上げして 据えられていた。製作年代について篦書はなく、作りからは慶長期を遡る可能性も指摘された が特定することはできていない。少なくとも慶長期には正倉に用いられた鬼瓦である。現在こ の鬼瓦には、下端に隅丸瓦とその両脇の軒丸瓦を跨ぐよう3箇所の繰りがあり、まさに一の鬼 瓦として製作されたことがわかる。しかし、鬼面脇の珠文下がこの繰りにより切られているこ けびき とから、その辺りをよく観察してみると、繰りの罫引痕跡のほか、両端の繰りの内側に繰りと 挿図39 東北一の鬼瓦 挿図40 新規に製作した東北二の鬼瓦 (37) は異なる勾配の面があることが確認できた。前述の珠文と考え合わせると、この鬼瓦は、もと は二の鬼瓦として計画されていたものが、二の鬼瓦としての形状ができあがった後で、生型の うちに現在のような一の鬼瓦に変更されたものであると考えられた。口の形も、ほかの3箇所 では一の鬼瓦が阿形で二の鬼瓦が吽形なのに対して、ここは一の鬼瓦が吽形になっている。こ のことからも、これが二の鬼瓦であるとすれば、ほかの箇所と同じ状況になる。今回の修理に おいて、この棟の二の鬼瓦を取り替えたので、その鬼瓦の形状は、この一の鬼瓦が二の鬼瓦で あった時の形状を復して製作した(挿図40)。 西北一の鬼瓦・二の鬼瓦は、ともに鬼面下部に瓦師名「ニシノキヤウ 宗左衛門」の箆書が ある。ほかの慶長期のものとはその作りに違いがあるが、鳥衾瓦との関係から慶長期のものと 考えられる。 慶長期の篦書を持つ鬼瓦のうち、西南の二の鬼瓦は他の3箇所の二の鬼瓦と比べて3割ほど 大きい。また、これとセットになる一の鬼瓦も大きく、この棟だけほかとは異なっていた。前 述の通り西南二の鳥衾瓦には、慶長期の篦書があることからこの鬼瓦が慶長期に製作されて用 いられたと考えるのが妥当であるとは思うが、その大きさの違いと一の鬼瓦がそれ以降に取り 替えられた鬼瓦ではないかという観点からすると、もしかするとこの二の鬼瓦もそのときにど こからか転用されてきたものである可能性も捨てきれない。さらに、この二の鬼瓦の珠文は後 世に接着されたものであり、もとは竹管による円形の陰刻であったこともわかっているので、 一の鬼瓦とセットで使う際に現状のように揃えられた可能性も指摘できる。また、この二の鬼 瓦にある篦書によると、その製作者は飾東郡(現在の姫路)の瓦師であり、ほかの慶長8年の 瓦が奈良近辺で製作されていることも、そのように考えられるひとつの要因である。 慶長期の鳥衾瓦は、東南二の鳥衾瓦、西南一の鳥衾瓦(年紀篦書)・二の鳥衾瓦(年紀篦書)、 西北二の鳥衾瓦、東北二の鳥衾瓦の5本あり、瓦当文様は微妙な違いではあるが珠文の大きさ と文字の大きさの違いで2種類あった。 (6)元禄期(挿図41 ~ 43) 元禄6年には、比較的大がかりな修理が行われており、瓦も多くが取り替えられたようで、 各種の瓦にこの年紀を記した刻印を見ることができる。 元禄期の軒平瓦は、11枚(軒平瓦全体の2.91%)で、瓦当文様は1種類、「東」「大」「寺」 の各文字を圏線で囲み瓦当中央に置き、左右に唐草文を配したもので、鎌倉時代の文様を模し ていたところに特徴がある(挿図41) 。瓦当面における文様の幅は鎌倉時代のものよりも狭く なり、その部分には江戸時代の特徴が出ている。 元禄期の軒丸瓦は、35本(軒丸瓦全体の9.16%)で、瓦当文様は圏線で囲んだ「東」「大」 「寺」の各文字を三角形状に配し、さらに全部を一括に圏線で囲んだものである。 元禄期の平瓦は、1,227枚(平瓦全体の5.41%)であった。 元禄期の丸瓦は、351本(丸瓦全体の4.90%)残存していた。ほぼ全数に元禄6年の年紀と 瓦師名の刻印が裏面にされている。吊紐痕があるものと吊紐痕のないものに分類でき、それぞ (38) 267 301 挿図41 軒平瓦の瓦当の比較 右が鎌倉時代、左が元禄6年。瓦当文様は似せているが、瓦の形状は一緒にしていない。 373 340 50 270 181 301 挿図42 元禄期の軒丸瓦 挿図43 元禄期の軒平瓦 345 340 61 288 183 301 挿図44 天保期の軒丸瓦 挿図45 天保期の軒平瓦 れ刻印の押し方に違いが見られる。 このほか元禄期の瓦としては、隅丸瓦が1本あった。瓦当文様は軒丸瓦と同じで、これにも 年紀と瓦師名の刻印が裏面に押されていた。 (7)天保期(挿図44・45) 天保6~7年(1835 ~ 1836)にかけて大がかりな修理が行われた。各種瓦には、年紀と瓦 師名の刻印を見ることができる。瓦に残された年紀は、篆書体で「天保六年乙未九月日造」、 あるいは楷書体で「天保六乙未年」。瓦師名は楷書体で、篆書体の紀年瓦銘には「瓦工平城住 人三島三郎兵衛冨明」、楷書体の紀年瓦銘には「瓦師三郎兵衛」とある。 天保期の軒平瓦は、78枚(軒平瓦全体の20.63%)。瓦当文様は1種類で、「東大寺正倉院」 の文字を配している。 天保期の軒丸瓦は、69本(軒丸瓦全体の18.02%)で、瓦当文様は「東大寺正倉院」の文字 を二列に配し、文字の両脇には線刻で昇龍を描いている。 天保期の平瓦は、1,692枚(平瓦全体の7.46%)、丸瓦は、1,036本(丸瓦全体の14.45%)で、 (39) 共に刻印は、表面あるいは裏面に押してあり、また年紀の書体も楷書体のものと篆書体のもの が見られた。 年紀はないが、瓦の様子から西南一の鬼瓦も天保6年(1835)に取り替えられたと思われる。 このほか天保期の瓦としては、西北一の鳥衾瓦および隅丸瓦が3本あった。共に軒丸瓦と同様 の瓦当文様を持ち、篆書体による年紀と楷書体による瓦師名が刻印されているものがあった。 (8)その他の江戸時代 元禄期、天保期以外に、江戸時代のものと思われる瓦がいくつか見られた。瓦からは江戸時 代中後期と見られるが、江戸時代には寛文期・元禄期・天保期以外に開封・修理の記録はない。 軒瓦は、大がかりな修理をしなくとも取り替えられるため、記録に残らない維持管理において 修理されたものの可能性もあろう。 瓦の種類としては、唐草文の軒平瓦、軒丸瓦には元禄期の文様に倣ったものや「法華堂」の 文字瓦、単弁蓮華文も見られた。平瓦、丸瓦は、表に篆書体の「寳」の文字を圏円で囲んだ刻 印が見られた。 (9)明治期(挿図46・47) 明治期に入ると、修理も頻繁に行われたことが記録からわかるが、瓦はおもに明治22年 (1889)の修理に伴うもので、瓦には修理年号と瓦師名が刻印されており、篆書体で「明治弐拾 弐年修補」 、楷書体で「瓦工奈良住人 早川義平造」とある。どの瓦も、表面は丁寧に箆ナデ を施し、裏面も叩き痕や、布目をナデ消している。なかには、明治32年の刻印のある瓦もあった。 軒平瓦、軒丸瓦、平瓦、丸瓦のほか、東南一の鳥衾瓦・東北一の鳥衾瓦には明治22年の刻印 があり、東北二の鬼瓦もいぶしの具合などから明治22年の取り替えと思われる。 (10)大正期(挿図48 ~ 53) 大正期には、大正2年(1913)に正倉の解体修理が行われており、それに伴い多くの瓦が取 り替えられた。その種類は、軒平瓦(隅を含む)・軒丸瓦・平瓦・丸瓦・熨斗瓦・雁振瓦・鳥 衾瓦と多岐に及ぶ。 その8年後、大正10年(1921)にも屋根修理が行われたことが今回の修理及び修理に伴う史 料調査で明らかとなったが、瓦葺の状況から見ると、棟積が積み替えられたことがわかった。 各種瓦には、裏面に年紀と瓦師名が刻印されていた。大正2年も10年も共に同じ瓦師で、 「京 351 329 31 285 190 (300) 挿図46 明治22年の軒丸瓦 挿図47 明治22年の軒平瓦 (割れのため、瓦当の寸法は推定値) (40) 都瓦師西村彦右衛門」とある。また、大正2年製も大正10年製も各種の瓦すべてに、表に布目、 裏面に縄目を再現していたが、大正10年製の瓦の裏面は、大正2年製に比べると縄目が粗かっ たりまたはなかったりするものがあり、刻印も篦書でなされているなど大正2年製に比べると 幾分省略される傾向が認められた。 大正期の軒平瓦はすべて大正2年製で、172枚(軒平瓦全体の45.50%)あった。瓦当文様は 天平期の興福寺式(6771系カ)の文様を復していた。 大正期の軒平瓦は、124本(軒丸瓦全体の32.46%)であった。瓦当文様は、天平期の東大寺 式の複弁蓮華文(6235系)を復原していた。軒丸瓦には大正2年製のもののほか大正10年製の ものも見られた。 大正期の平瓦は、8,726枚(平瓦全体の38.45%)であった。大正2年製のほか、大正10年製 のものが1,184枚見られた。大正10年にも比較的広範囲に修理していることが判明した。 大正期の丸瓦は、2,698本(丸瓦全体の37.65%)であった。大正2年製のほか、大正10年製 のものが356本あった。 大棟の熨斗瓦は、すべて大正修理時のものであった。このうち台熨斗瓦は151枚中すべて、 割熨斗瓦は1,667枚中471枚(28.25%)が大正10年製であった。 雁振瓦は、大棟の69本すべて、隅棟も142本中130本(91.55%)が大正期の瓦であった。さ らにその中でも、大棟の69本中49本(71.01%)と降棟のすべてが大正10年製の瓦であった。 挿図48 大正2年(右)と大正10年の軒丸瓦 挿図49 大正2年(右)と大正10年の軒平瓦 (41) φ15 185 180 15 φ9 50 18 21 35 10 376 380 192 192 31 35 挿図50 大正2年の軒丸瓦の寸法 358 300 挿図51 大正10年の軒丸瓦の寸法 282 53 340 24 297 43 17 60 68 55 挿図52 大正2年の軒平瓦の寸法 286 57 挿図53 大正10年の軒平瓦の寸法 丸瓦より寸法的にはひと回り大きな丸雁振瓦であった。 大棟の鳥衾瓦はともに大正期に取り替えられたもので、瓦当は大正期丸瓦同様の複弁蓮華文 である。南には大正2年の年紀と瓦師名の刻印が見られる。丸瓦同様、表面に布目、裏面に縄 目が施されている。北は、大正10年の年紀と瓦師名の刻印が見られ、また「宝庫大棟」と箆書 されている。 (11)昭和期・平成期 昭和期・平成期にはほとんど修理が行われておらず、修理前に使われていた瓦もごく少ない。 2 土居葺(挿図54) 修理前になされていた土居葺は、大正2年(1913)修理時に導入されたものであることが宮 内庁の『工事録』(宮内庁宮内公文書館所蔵)からわかっており、大正2年以前は、なされて いなかったことが確認できる。大棟や隅棟には、土居葺の上に銅板が被されており、雨漏りを 防止するという並々ならぬ意思を見て取ることができた。 3 本瓦葺 修理前の本瓦葺の仕様は、鬼瓦や鳥衾瓦の年紀から慶長期のものが踏襲され、部分的に大正 期の仕様が採用されたと考えられる(挿図55)。平葺は、筋置きによる土葺で、銅線等での止 付けはなかった(挿図56)。葺足は105㎜内外(現行尺換算3寸5分)で、長さ360㎜程度の平 瓦とすると4枚重ねになるぐらい密に葺かれていた。このなかで筋置きは大正期の仕様である が、それ以外は古い仕様を踏襲したものと思われる。丸瓦も土置きであったが、5本に1本の 割合で銅釘にて止められていた。丸瓦に空けられた釘穴は焼成前から空けられたものもあり、 (42) 挿図54 瓦解体後の土居葺の様子(東南より) 挿図55 整備工事前の本瓦葺(東南より) 挿図56 平瓦葺の解体中の状況(天平の平瓦) 挿図57 修理前の熨斗瓦を並べたところ 釘止めが計画されていたことがわかる。軒丸瓦にも釘穴があり、鎌倉時代の軒丸瓦から釘止め であったことがわかる。軒丸瓦には、玉縁にも穴が開いているものがあったが、修理前には使 われていなかった。玉縁の穴は、現在のように銅線を通すような小さなものではなく、釘止め できるような径9㎜程度のものであった。 軒平瓦は尻を銅釘にて止められていた。焼成前から空けられていたものもあり、それは鎌倉 時代の軒平瓦から見ることができた。釘穴は、丸も角も見ることができた。共に9㎜程度の大 きさであった。銅釘は大正期のものであったが、仕様そのものは古い仕様が踏襲されていると 考えられる。 (1)古代の瓦葺について 残存していた瓦などからわかる正倉の古代の瓦葺は、その葺足ぐらいである。天平期の平瓦 から当時の葺足は、4寸5分程度であったことがわかった。 (2)中世の瓦葺について 中世には、現在確認できる史料からは5回ほどの修理があったことがわかるが、すべて鎌倉 時代中期までで、鎌倉時代末から桃山時代にかけては、開封の記録はあるものの修理の記録は 伴っていない。正倉には、室町時代と判断できる瓦もわずか数パーセントではあるが葺かれて いた。現状の枚数にして数百枚であり、その造りも多岐に亘ることから、小規模ではあるが、 屋根の小修理が何回か行われていたことが推測できる。 (3)慶長期の瓦葺について 慶長8年(1603)の修理は、鬼瓦や鳥衾瓦に残された篦書から、その瓦師や瓦土を作った職 (43) 人までがわかる。また、鬼瓦や鳥衾瓦の多くが慶長期のものであることから、屋根の形式が現 在のような稚児棟を伴う形式になったのが慶長期であることもわかる。おそらくそれ以前は、 奈良時代の形式が踏襲されていたと推測できる。そして、大正期に至るまでは、棟の熨斗瓦も 奈良時代のものが残っており、おそらく大正10年の修理に至ってすべて破棄され、わずかに棟 の葺土に混ぜて現在に伝えられたものと思われる。 瓦葺そのものの仕様は、修理前こそ銅製の瓦釘が使われていたが、鉄製の瓦釘も1本だけ残 されており、軒丸瓦と丸瓦の5本に1本を瓦釘で止めるという仕様がある程度古くまで遡るこ とを示している。 (4)棟 積 大棟は、割熨斗瓦10段、肌熨斗瓦1段積、丸雁振瓦を伏せ、両端は鳥衾瓦で納める。隅降棟 は、すべて稚児棟を伴い、割熨斗瓦8段、肌熨斗瓦1段積、丸雁振瓦を伏せ、鬼瓦と鳥衾瓦で 納める。 修理前の面戸瓦は、すべて丸瓦を打ち欠いて加工したものであった。大棟の熨斗瓦は大正期 のものであったが、隅降棟は天平期の平瓦を半裁したもので積まれていた(挿図57)。 (5)鳥衾瓦の移動の可能性について 今回の調査で、東南二の鳥衾瓦及び西北二の鳥衾瓦は、瓦当の下の鬼瓦に載る部分の欠き込 みの形状が、それぞれ西北一の鬼瓦及び西北二の鬼瓦の頭頂部分と非常に良く馴染むことがわ かったことから、現状の鳥衾瓦の位置が元の位置から移されている可能性のあることが考えら れた。修理前に載っていた10個の鳥衾瓦のうち、これらの鳥衾瓦だけ篦書や刻印がないが、瓦 当文様が慶長期と考えている軒丸瓦と合うことから、慶長期のものであると考えられる。 また、東北二の鳥衾瓦を観察すると、瓦当下の鬼瓦頭頂部に載る部分の中心に突起があり、 その両側がやや円弧状を帯びていることがわかった。この形状から、もとはここに雁振瓦が当 たっていたものと考えることができ、この鳥衾瓦が大棟用であったことが推測できた。この鳥 衾瓦上端には篦書があるが、肝心の年号が消えている。瓦当文様からは慶長8年製と思われる。 また、宮内庁正倉院事務所所蔵の『正倉院宝庫屋根瓦拓本』には、現在確認できない鳥衾瓦 の篦書の拓本が2枚残っている。このうち1枚は、西南一の鳥衾瓦と同じ職人名があり、もう 1枚には、西南二の鳥衾瓦と同じ職人名が記されている。このことから、同じ瓦銘をもつ各々 が組を成していた可能性も十分に考えることができる。 (6)瓦葺の重量について 今回の工事においては、屋根解体の前に、各面で1㎡に相当する瓦及び葺土の重量を計測し た。また、屋根葺時の各種材料の重量も計測し、屋根全体の重量の推定を行った。その結果、 南面と北面ではほぼ同じ重さとなるが、東面と西面で1割以上東面が重くなることがわかった。 そこで実施においては、東面は丸桁から先を空葺とし、屋根荷重のバランスを取るようにした。 (かすがい みちひこ 公益財団法人文化財建造物保存技術協会) (44) 注 (1) 今回の修理に至る経緯については、杉本所長のまえがきのとおりである。 (2) コロタイプ印刷とは、インキの濃淡のみによって、写真の連続的な諧調の再現ができる印刷方 法。美術品や木簡の写真、重要文化財建造物の修理報告書図版などで使われており、昔は絵葉 書にもよく用いられた。 延暦12年(793) 『曝涼帳』に「庁院」、『東大寺要録』巻三に引く貞観3年(861)供養記に「御 (3) 倉町」 、要録巻四に引く永観2年(984)分付帳、『東南院文書』一櫃二巻所収の天延2年(974) 5月21日太政官牒に「正蔵院」などとある。 (4) 北倉は当初から勅封倉であった。中倉も平安時代後期までには勅封倉になったが、その時期は 明確ではない。 東大寺における双倉の語は、天平勝宝8歳10月3日から延暦3年(784)3月29日に亘って宝 (5) 物の出入りを記した『双倉北雑物出用帳』の表題に見える。東大寺以外では、天平19年(747) 成立の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』や『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に既に見られる。 正倉の創建時の形態については、大きく分けて三つの説がある。二棟説、一棟三室説、それと (6) 一棟二室説である。中倉は、 『双倉北雑物出用帳』天平宝字5年(761)3月29日の記載に「双 倉中間」として見られるのが最初で、少なくともこの頃には現在見られるような形態であった ものと思われる。 光谷拓実「年輪年代法による正倉院正倉の建築部材の調査」( (7) 『正倉院紀要』第25号・第28号、 2003・2006年) 。 正倉の西南と東南に建っている宝庫で、西宝庫は昭和37年(1962)に、東宝庫は昭和28年 (8) (1953) にそれぞれ建設された。西宝庫は鉄骨鉄筋コンクリート造、東宝庫は鉄筋コンクリート造であ る。現在は、空気調和装置が完備されている。西宝庫は、正倉に代わって整理済の宝物を収蔵 している勅封倉で、毎年秋季に開封され、宝物の点検、調査などが行われる。東宝庫には現在、 染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵経巻が収納されている。 (9) 聖語蔵には、その建立を平安時代とする意見もある。 詳細は、 『正倉院紀要』本号の「正倉の鎮守について」を参照されたい。 (10) (11) 以下根拠史料は、 『整備記録』に詳しいのでそちらを参照されたい。 東大寺修理新造等注文案( 『大日本古文書』家わけ十八 東大寺文書之六、129 〜 135頁)。『整 (12) 備記録』刊行後に確認された史料である。飯田剛彦「正倉院宝庫修理の歴史と自然災害」 『正 倉院紀要』第38号、2016年参照。 (13) 上司倉は、上政所の倉で、正倉修理の際は専らこの倉に宝物を移すのが慣例のようである。江 戸時代の史料ではこの倉を「油倉」あるいは「二倉」などと称している。 中倉の西面にも2箇所挿入されているが、こちらは部材も新しく断面形状も材種も元禄期のそ (14) れとはまったく異なる。大正修理前の図面にはあることから、西面の部材は天保期から明治期 の修理と思われるが、はっきりとはわからない。 この拡張工事のときの「日記」 (東京国立博物館、館史資料1374)が残されていた。「日記」に (15) は、開扉及び閉扉の時間から作業の開始と竣成などが記載されている。その工事は6月13日に 始まり21日までには終わったようである。その工期は9日間と短い。部材の状況から見るとほ ぼ全解体で行った拡張であり、作業時間も朝8時から晩の7時までと現在より少し長い程度で 大した違いはないにもかかわらず、これだけの日数で工事が完了する早さには目を見張るもの (45) がある。元々の部材は見え隠れ面まで斉一に台鉋がけされていたが、拡張に使われた部材の見 え隠れ面は鋸挽きのままで、部材で仕上げの差が歴然としていた。なお、北倉一階については、 絵図も残されていた。北倉一階は、もともと校木壁面に近い位置に棚の奥の壁面があり、拡張 は北面及び南面を前に出す、という形で行われたことがわかる。しかし、「日記」には、この 北倉一階の拡張のみ竣成の記載がない。この「日記」が北倉一階の棚の竣成を書き漏らしたか、 あるいは工事完了まで記されていない可能性が考えられる。 ここでいう伝統製法とは、大正期の土練機を用いて練った土を使った製法であり、現代製法は、 (16) 現在使用されている真空土練機によって練った土を使った製法である。 東大寺所用の東大寺式軒瓦の年代に関しては、毛利光俊彦・花谷浩による三段階変遷説(奈良 (17) 国立文化財研究所『平城宮跡発掘調査報告ⅩⅢ─内裏の調査Ⅱ─』学報第50冊、1991年)と、 山崎信二の軒丸瓦四段階、軒平瓦二段階変遷説(山崎「東大寺式軒瓦について」『論集東大寺 の歴史と教学』ザ・グレイトブッダ・シンポジウム論集第1号、2003年)とがある。 校木と束柱(台輪)の関係について、東大寺や唐招提寺に残る校倉を見てみると以下のように (18) なり、束柱真と校木については、その計画に2通りの考え方があったように思われるが、特に 時代や場所に因るものではないようである。 ◎束柱真々と校木内面が一致する 重要文化財東大寺法華堂経庫(旧東大寺地蔵院庫蔵。平安時代前期建立、元禄期移築。) 国宝東大寺本坊経庫 (旧東大寺油倉。奈良時代建立。正徳4年(1714)移築。) 国宝唐招提寺宝蔵 (奈良時代建立。) 国宝唐招提寺経蔵 (奈良時代建立。) ◎束柱真々と校木内面が一致しない 重要文化財東大寺勧進所経庫 (旧東大寺地蔵院庫蔵。平安時代前期建立。貞享3年(1686)移 築。 ) 重要文化財手向山神社宝庫 (旧東大寺油倉。奈良時代建立。文化13年(1816)移築。) 正倉院聖語蔵 (旧東大寺尊勝院。鎌倉時代建立。明治移築。) (19) ほかの校倉はどうなっているか図面で比較したが、一様に判断するのは困難であった。正倉で は、丸桁内々の垂木の配置は、奈良時代から概ね変わっていないものと思われるが、丸桁から 外は論止垂木を設けるなど変更が著しい。 村田健一「古代建築における建物規模・構造と部材長」 ( 『奈良国立文化財研究所年報1999-Ⅰ』 (20) 所収、1999年、奈良国立文化財研究所) 釿の加工痕については、植村昌子「斧の刃痕の分析─飛鳥時代から鎌倉時代の建築部材刃痕に (21) 関する調査報告 その1─」 ( 『竹中大工道具館研究紀要24号』所収、2013年、公益財団法人竹 中大工道具館)を参考にした。 (22) 『南都東大寺正倉院絵図』中井家文書、京都府総合資料館所蔵。 (23) 浅野清「正倉院校倉屋根内部構造の原形について」(『奈良時代建築の研究』所収、1969年、中 央公論美術出版) これについては『整備記録』の中に、正倉院正倉整備懇談会会員であった上原真人氏が「正倉 (24) 院正倉屋根に残された奈良時代の平瓦について」(177 ~ 178頁)を、『正倉院紀要』本号に岩 永省三氏が「正倉院正倉の奈良時代平瓦をめぐる諸問題」を記されているので参照されたい。 (46) 表 正倉院正倉修理に関する年表 奈良時代 平安時代 鎌倉時代 室町時代 桃山時代 和 暦 天平勝宝8 西 暦 756 開 封 な ど 光明皇后が聖武天皇遺愛の品を東大寺大仏に奉献 正 倉 修 理 天暦4 950 天禄2 972 長元4 長暦3 天喜5 1031 1039 1057 承暦3 1079 勅封蔵修理 康和2 1100 勅封蔵修理 大治5 康治2 1130 1143 治承4 文治5 建久4 1180 1189 1193 寛喜2 嘉禎3 寛元元~4 建長6 正嘉2 文応2 弘安11 1230 1237 1243 1254 1258 1261 1288 嘉暦3 1328 元中 1385 開封(足利義満) 永享元 1429 開封(足利義教) 寛正6 1465 開封、将軍義政御香召上 永禄10 天正2 1567 1574 開封(織田信長) 慶長8 慶長17 1603 1612 寛文3 杉本神社造替 東大寺羂索院倉庫の什器を南倉に移す 「正蔵院」で修理の記録 開封 勅封蔵焼損(宝物盗難) 5月勅封蔵開封 3月勅封蔵開封 雨漏り点検開封、宝物は綱封蔵へ移す 勅封蔵風損 1月南倉の瓦11日間修理、8月勅封蔵棟積み直し 勅封蔵修理 平重衡南都焼き討ち 8月~3月雨漏修理 開封、北勅封蔵は中倉へ、南綱封蔵は上司倉へ移す 10月中倉の扉を破り宝物盗難 開封し、宝物の検知する 延応元(1239) ・仁治3(1242)と開封重なる 開封、宝物は上司倉へ移す 造替 7月北勅封蔵、南綱封蔵修理 勅封蔵で雨漏り修理 落雷のため、北倉・中倉を修理 造替 三倉瓦差し替え 造替 開封、宝物は上司倉(油倉)へ移動 同7年開封 盗難処理のため開封(同15年北倉が盗難に遭う) 全面修理(解体ではない) 造替 1663 開封 小修理 元禄6 1693 開封 全倉にわたり屋根葺替を中心とした修理 造替 天保4 1833 開封 同6~7年全倉にわたり修理 造替 明治5 明治14 1872 1883 開封(壬申調査) 開封 ガラス戸付陳列棚設置 大正2 大正4 1913 1915 開封 全解体修理 平成24 2012 開封(藤原兼経) 開封(後嵯峨上皇) 開封(後深草上皇、正応元) 宝物盗難 松永久秀東大寺を焼く 江戸時代 明治 大正 小修理 昭和 平成 750 760 770 780 790 800 810 820 830 840 850 860 870 880 890 900 910 920 930 940 950 960 970 980 990 1000 1010 1020 1030 1040 1050 1060 1070 1080 1090 1100 1110 1120 1130 1140 1150 1160 1170 1180 1190 1200 1210 1220 1230 1240 1250 1260 1270 1280 1290 1300 1310 1320 1330 1340 1350 1360 1370 1380 1390 1400 1410 1420 1430 1440 1450 1460 1470 1480 1490 1500 1510 1520 1530 1540 1550 1560 1570 1580 1590 1600 1610 1620 1630 1640 1650 1660 1670 1680 1690 1700 1710 1720 1730 1740 1750 1760 1770 1780 1790 1800 1810 1820 1830 1840 1850 1860 1870 1880 1890 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010 2020 屋根葺替・部分修理 (47) 屋根葺替・塗装