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「幕末へのいざない」(第1部)(PDF)

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「幕末へのいざない」(第1部)(PDF)
平成 28 年 7 月 7 日(木)~9 月 30 日(金)
於:外務省外交史料館別館展示室
第1部
黒船・開国・激動の幕末
目次
はじめに
第1章
~「通信全覧」とは~
ペリー来航と開国
1853
1-1
ペリー来航の情報
1-2
黒船来航
1-3
米国大統領の国書
1-4
『ペリー提督日本遠征記』
第2章
欧米への使節団派遣
-1-2-
1858~1862
2-1
万延元年の遣米使節:派遣まで
2-2
万延元年の遣米使節:咸臨丸・ポーハタン号の出帆
2-3
万延元年の遣米使節:航海
2-4
文久元年の遣欧使節
~トピック
幕末の海外留学~
第3章
攘夷の嵐のなかで
3-1
ヒュースケンの遭難
3-2
東禅寺事件
3-3
生麦事件
3-4
薩英戦争
第4章
4-1
大政奉還
4-2
王政復古の大号令
4-3
各国に対する徳川慶喜の宣言
4-4
新政府による外交の開始
おわりに
展示史料の出典一覧
主要参考文献
-14-
1861~1863
大政奉還から明治新政府へ
-8-
1867~1868
-16-
-21-
-26-
はじめに ~「通信全覧」とは~
「通信全覧」と「続通信全覧」は、幕末期における諸外国との往
復書翰や会談記録、各種の草案などの文書を、独自の分類方法で再
整理して清書しなおしたものです。その目的は執務の参考として利
用することにあり、各国別の編年文書(日付順に綴ったもの)と個別事
件・事項ごとに整理したものから構成されています。
「通信全覧」は、1859(安政 6)年と 1860(万延元)年の外交文書を
徳川幕府が編集したもので、全部で 320 巻あります。
「続通信全覧」は「通信全覧」の後をうけて、1861(文久元)年か
ら 1868(慶応 4)年までの編年文書に、修好・貿易などの事項別部門
を加えて外務省が編集・分類したものです。1871(明治 4)年に一時
着手し、本格的には明治 7 年から約 10 年をかけて完成させ、現在
1784 巻が残っています。
本特別展示は、外交史料館の所蔵する幕末期の外交文書集「通信
全覧」
「続通信全覧」が国の重要文化財に指定されたことを記念する
ものです。
その第 1 部として、平成 28 年 7 月 7 日から 9 月 30 日まで、
「黒船・
開国・激動の幕末」と題し、ペリー来航から大政奉還に至る幕末の
政治・社会の動きを「通信全覧」と「続通信全覧」によって紹介し、
ペリー来航の情報がどのように伝えられたのか、攘夷に揺れる日本
はどのように外国と向き合ったのかを探っていきます。
-1-
第1章
ペリー来航と開国
1853
徳川幕府の時代、鎖国政策によって、日本はオランダ以外の西洋
諸国との通商関係がありませんでした。この鎖国政策を転換させた
のはアメリカでした。
郵船航路が整備されて海上交通が活発になるなかで、米国内では
清国との貿易のための太平洋航路開設への要請が高まり、その中継
地点として日本の重要性が増しました。そこで米国政府内で日本へ
の使節派遣が検討された結果、ペリーが日本を開国させるための交
渉に向かうこととなりました。
徳川幕府はオランダ風説書を通じてペリー来航に関する情報を事
前に把握していました。当時の幕府は、鎖国政策を維持しつつ、西
洋列強に対抗するため国防力の強化や 1825(文政 8)年に出された異
国船打払令の復活を考えていました。しかし、いずれも十分な対策
がとられないまま、ペリーの来航を迎えることになりました。
本章では、幕府がペリー来航の情報を入手してからフィルモア米
国大統領の国書を受け取るまでの場面を紹介します。
【パネル】ポーハタン号での正宴の絵
『ペリー提督日本遠征記』
第 1 巻所収。
-2-
1-1
ペリー来航の情報
オランダ風説書とは、オランダ船が長崎の出島に来航する度に、
オランダ商館長より幕府に提出された海外情報をまとめた書物です。
鎖国体制下の当時においては、風説書は海外の情勢を知る貴重な情
報源でした。
展示史料は 1852(嘉永 5)年のオランダ風説書の写しです。これに
は、アメリカが日本へ軍艦を派遣した目的として、日本国帝に大統
領の国書を渡し、漂流民の保護と日本の港を貿易のために開くこと
を求め、都合の良い港に石炭貯蔵場を設けるよう要請しようとして
いたことなどが具体的に記されています。
れ
ん
事
を
請
は
ん
と
欲
す
…
…
に
供
給
す
る
石
炭
置
場
を
便
宜
の
港
中
の
地
に
備
へ
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カ
リ
ホ
ル
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地 ア
メ
リ
名 カ
よ
り
支
那
へ
往
来
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る
水
蒸
気
船
送
し
兼
て
日
本
の
港
澳
を
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易
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為
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く
事
を
乞
ひ
且
シ
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書
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且
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を
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聞
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に
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節
を
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本
え
差
遣
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一 嘉
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メ 子
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カ 津
合 阿
衆 蘭
国 陀
よ 船
り 風
日 説
本 書
へ
軍
艦
を
発
す
る
展示史料 1-1
1852(嘉永 5)年の阿蘭陀船風説書(翻刻)
阿蘭陀=オランダ
-3-
1-2
黒船来航
1853 年 7 月 8 日(嘉永 6 年 6 月 3 日)、米国のペリー東インド艦隊司
令長官が軍艦 4 隻(サスケハナ号、ミシシッピ号、プリマス号、 サラトガ号)
を率いて浦賀沖に来航しました。
ペリーの態度は強硬で、国書の受理を要求し、幕府が対応に苦慮
する間に江戸湾に進入して測量を行ったため、日本側の人心を動揺
させました。
【一之三】嘉永六年六月九日付のミラード・フィルモア米国大統領の親書
拡大図
展示史料 1-2
黒船来航の図
-4-
1-3
米国大統領の国書
1853 年 7 月 14 日(嘉永 6 年 6 月 9 日)、久里浜(現在の神奈川県横須賀
市)でペリーは浦賀奉行に国書を渡しました。
ペリーが持参したフィルモア米国大統領の国書の内容は、アメリ
カ合衆国と日本が国交を結ぶことを提案するために使節を派遣する
というものでした。国書は「世界中時勢の変換」にともない「改革
乃新政」が行われるなかで、もし日本が旧律を改め交易を承認すれ
ば「両国の利益極めて大なる事疑ひなし」として、日本の開国を求
めていました。
展示史料 1-3
フィルモア大統領の国書
-5-
1-4
『ペリー提督日本遠征記』
『ペリー提督日本遠征記』は、ペリー自身の日記、公文書や艦隊
乗組員の日記・報告書などをもとに作成され、ペリー自らが監修し
ました。全 3 巻からなり、第 1 巻には航海や交渉の様子が記されて
います。第 2 巻では各地の農業、魚類、植物の調査や小笠原・琉球
の踏査報告が、第 3 巻では、各地の天体観測図などが収録されてい
ます。
ちなみに、正式名称の和訳は、
『米政府の命による米海軍 M.C.ペ
リー提督指揮下の 1852、1853、1854 年における米艦隊の中国海域お
よび日本遠征記』です。本書の挿絵は、ペリー艦隊に随行した絵師
ヴィルヘルム・ハイネにより描かれました。
※『ペリー提督日本遠征記』は川上昌明氏(故川上健三元外務省参与の
長男)より寄贈されたものです。
展示史料 1-4『ペリー提督日本遠征記』第 1 巻より
久里浜への初上陸
-6-
浦賀奉行にアメリカ大統領の国書を手交
横浜におけるペリーと林大学頭との会談
-7-
第2章
欧米への使節団派遣
1858~1862
翌 1854 年、ペリーは軍艦 7 隻を率いて再び来航し、3 月 31 日(嘉
永 7 年 3 月 3 日)に日米和親条約が、さらに 6 月 17 日(5 月 22 日)には
日米和親条約附録が結ばれました。
こうして開国への第一歩を踏み出すこととなった幕府は、1858 年
7 月 29 日(安政 5 年 6 月 19 日)に日米修好通商条約を締結し、これを
皮切りにオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも次々に修好通
商条約を結びました(安政の五カ国条約)。
こうして長く続いた鎖国は終わり、外国貿易が始まりました。ま
た、幕府は条約を履行するための様々な対応に追われることになり、
中でも、条約の批准や実施延期を交渉するため欧米へ使節団を派遣
したことは、開国後、最初の公式訪問という点で特筆すべき出来事
でした。
【参考】
「日米修好通商条約」
日本側全権井上清直、岩瀬忠震と
ハリス米国総領事との間で調印
-8-
2-1
万延元年の遣米使節:派遣まで
日米修好通商条約の交渉過程で、幕府は条約批准書の交換を行う
ために日本からワシントンへの使節派遣を提案し、アメリカの同意
を得ました。使節の派遣を主唱したのは、外国奉行の岩瀬忠震(ただ
なり)、水野忠徳(ただのり) です。彼らは批准書の交換だけでなく、
この機会に外国の事情を視察したいと考えていました。
展示史料は 1859(安政 6)年 7 月に水野忠徳らが遣米使節団の派遣
について幕閣に提出した意見書です。幕府にとって初めての遠方航
海であることや、以前からアメリカが大船による送迎を提案してい
たことが記されています。水野らは開港期限や送迎船の都合もある
ため手続きを早急に行う必要があると具申しました。
その後、正使に新見正興(まさおき)、副使に村垣範正(のりまさ)(2
人はともに外国奉行兼神奈川奉行)が選ばれ、総勢 77 名の使節団が派遣
されることになりました。
も
可
有
之
段
申
聞
候
…
…
相
成
不
申
候
て
は
追
々
御
開
港
之
時
限
差
迫
御
不
都
合
よ
り
遅
く
も
十
一
月
頃
迄
に
は
御
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国
出
帆
之
手
続
に
被
仰
下
候
様
仕
度
趣
猶
又
其
節
申
出
有
之
尤
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月
下
旬
申
遣
候
ニ
付
先
月
十
九
日
よ
り
三
十
日
之
間
に
下
田
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判
之
砌
右
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合
之
儀
此
程
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来
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蒸
気
船
を
以
本
国
え
可
仕
旨
兼
て
申
立
候
儀
に
御
座
候
処
先
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条
約
調
は
初
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遠
方
航
海
之
事
故
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国
よ
り
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送
迎
条
約
為
取
替
之
た
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亜
米
利
加
国
え
使
節
被
差
遣
候
節
送
迎
船
之
儀
ニ
付
申
上
候
書
付
亜
米
利
加
国
本
条
約
為
取
替
之
節
午
七
月
十
六
日
備
後
守
殿
え
上
ル
類
輯
巻
之
二
亜
国
之
部
元
本
条
約
交
換
展示史料 2-1
遣米使節団派遣に関する水野忠徳らの意見書
-9-
2-2
万延元年の遣米使節:咸臨丸・ポーハタン号の出帆
展示史料は、新見正興らが 1859 年 10 月(安政 6 年 9 月)、使節をア
メリカだけでなく、修好通商条約を結んだ他の 4 か国へも派遣する
か否かを伺った文書です。新見らはアメリカだけに使節を派遣すれ
ば、他の 4 か国から理由を問われたときに困ると述べましたが、結
局この時はアメリカのみの派遣となりました。
また幕府は、アメリカから来航した軍艦ポーハタン号に加え、護
衛艦として軍艦咸臨丸をサンフランシスコまで航海させることにし
ました。咸臨丸には軍艦奉行の木村芥舟(かいしゅう)、艦長の勝麟太
郎(海舟)、福沢諭吉らが搭乗し、1860 年 2 月 10 日(万延元年 1 月 19
日)
、アメリカに向けて浦賀を出発しました。次いで 2 月 13 日に新
見正興ら遣米使節が米艦ポーハタン号に搭乗し横浜を出発しました。
【参考】
「日米修好通商条約批准書交換証書」の署名部分
正使新見正興(豊前守)、副使村垣範正(淡路守)、目付小栗忠
順(豊後守)の署名があります。
- 10 -
2-3
万延元年の遣米使節:航海
展示史料は軍艦奉行の木村芥舟が咸臨丸の出帆から帰国までの状
況を詳細に記した報告書です。
咸臨丸の船旅は、暴風や波浪によって連日時化が続くなど困難に
見舞われましたが、1860 年 3 月 18 日(安政 6 年 2 月 26 日)、サンフラ
ンシスコに到着しました。遣米使節団が乗船したポーハタン号はそ
の 12 日後に到着しました。使節団一行は、損傷の激しい咸臨丸を同
地に残し、
パナマを経由して 5 月 15 日にワシントンに到着しました。
翌 16 日にキャス国務長官を訪問し、17 日にはブキャナン大統領に
謁見し、批准書を交換しました。
一行はワシントンに 25 日間滞在し、スミソニアン博物館、国会議
事堂、海軍工廠、海軍天文台などを訪れました。そして 6 月 5 日、
再び大統領に謁見し、その後キャス国務長官から使節 3 人に金メダ
ル、随員に銀メダル、従者に銅メダルが贈られました。
修理を終えた咸臨丸は、3 月にサンフランシスコを出発し、6 月 23
日に浦賀に戻ってきました。一方、遣米使節は米艦ナイヤガラ号に
乗船し、6 月 29 日にニューヨークを出発しアフリカ、ジャカルタ、
香港を経由して 11 月 9 日に帰国しました。
【参考】「咸臨丸風波ノ図」
本図はアメリカから帰国した 1 年半後に小笠原島探索に向
かう咸臨丸です。第 2 部で原本を展示します。
- 11 -
2-4
文久元年の遣欧使節
安政の修好通商条約では、兵庫・新潟の開港と江戸・大坂の開市
(外国人の居留を許可すること)を定めていましたが(新潟 1860 年、江戸
1862 年、兵庫・大坂 1863 年の各 1 月 1 日に開港・開市を実施)
、幕府は国内
の政治・経済状況が安定するまで、これらの開港・開市を延期する
よう各国に求めました。
これに対しオールコック駐日イギリス公使は、
1860 年 8 月 27 日(万
延元年 7 月 11 日)の会談で、開港・開市の延期は条約の目的に反する
としながらも、幕府がイギリスをはじめとする各締約国へ全権使節
団を派遣し、直接交渉することを提案しました。
弁
論
す
れ
ば
よ
ろ
し
い
と
考
え
ま
す
。
国
政
府
へ
報
告
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ま
す
。
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節
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派
遣
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害
得
失
を
書
簡
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延
期
を
申
し
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ば
私
か
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自
身
の
見
解
を
本
オ
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ル
コ
ッ
ク
遣
し
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も
無
益
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は
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い
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う
か
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な 本 現
た 側 代
語
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訳
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】
一
御
弁
論
有
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候
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可
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儀
と
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人
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に
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節
被
差
遣
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之
儀
候 ニ
付
利
害
得
失
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延
期
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不
同
意
で
は
使
節
を
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の
存
寄
を
認
メ
本
国
政
府
へ
可
申
遣
候
併
夫
よ
り
ハ
御
書
翰
ニ
て
延
期
之
事
被
仰
遣
候
ハ
ヽ
私
よ
り
ハ
私
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一 【
翻
其 刻
許 】
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同
意
之
上
ハ
政
府
へ
使
節
差
遣
候
も
無
益
之
事
展示史料 2-4
老中脇坂安宅・安藤信正とオールコックの会談
1862 年 1 月 21 日(文久元年 12 月 22 日)、竹内保徳を正使、松平康
直を副使、京極高朗を目付(監察使)とする全 36 名(のちに 2 名加わる)
の幕府使節団が、イギリス軍艦オーディン号に乗って欧州の締約国
(フランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと向かいました。
使節団に与えられた主な役割は、開港・開市の延期を確約させるこ
と、西洋事情を視察すること、ロシアとの間に樺太の境界を定める
ことでした。
- 12 -
使節団は最初にフランスを訪れたのちイギリスに渡り、1862 年 6
月 6 日(文久 2 年 5 月 9 日)にロンドンで開港・開市を 1868 年 1 月 1
日まで延期する覚書を結びました(その代わりに貿易に関する日本側の制
限や干渉を撤廃すると約束)
。このロンドン覚書を皮切りに、オランダ、
プロシア、ロシア、フランス、ポルトガルとも同様の覚書を取り交
わし、約 1 年間に及ぶ旅程を終え、1863 年 1 月に帰国しました。
ちなみに、この使節団の随員のなかには、福沢諭吉(慶應義塾の創
設者)、福地源一郎(桜痴、ジャーナリスト、衆議院議員)、松木弘安(寺
島宗則、外務卿)
、箕作秋坪(啓蒙思想家)など、洋行の見聞を生かして
後に活躍した人物がいました。
【ヨーロッパで撮影された文久使節団の写真】
上段左から竹内保徳(下野守)
、松平康直(岩見守)
、京極髙朗(能登守)。
下段左から福沢諭吉、福地源一郎。
- 13 -
トピック 幕末の海外留学
18 世紀以降、書物を通じて、日本でも間接的に西洋文明に触れる
機会がありました。自然科学や技術の先進性、優越性にふれた人々
は、海外へのイメージを大きく膨らませ、世界の「現実」を知らな
ければならないと考えるようになりました。
本トピックでは、幕末の海外留学についてとりあげます。
【1】1866 年 1 月 7 日付水野忠精らよりパークス駐日イギリス公使宛書翰
之
裨
益
少
な
か
ら
さ
る
…
…
国
隆
盛
之
制
度
も
見
習
旁
以
我
国
ハ
ヽ
生
徒
学
術
之
成
熟
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勿
論
貴
き
学
科
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相
頼
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存
候
左
候
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政
事
兵
制
其
他
士
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之
心
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士
官
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右
之
も
の
共
生
徒
三
四
拾
名
人
物
相
撰
取
締
之
今
差
向
相
頼
度
儀
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貴
国
都
府
へ
候
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右
伝
習
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之
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元
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儀
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兵
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候
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武
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振
興
い
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し
以
書
翰
申
入
候
今
般
我
政
府
に
お
【
翻
刻
】
幕府は「新に文武学政振興」のため、それ以前に依頼していたイギリ
ス人教師の招聘を見合わせ、生徒 30~40 名をイギリスへ派遣して政治
や軍事制度を勉強させたいと要望しました。この留学生のなかに、中村
正直や林董がいました。
【2】1867 年 7 月 13 日付小笠原長行よりロッシュ駐日フランス公使宛書翰
さらに幕府はフランスへも少壮の士官を派遣したいと要請しました。
幕府の外国方に勤務していた田辺太一は後に回顧して、このように幕
府がイギリス、フランス、ロシアなどに留学生を送って、軍事ばかりで
はなく様々な学科を学ばせたことは、幕府の政略が「一変」したからで
あると述べています。
一方で、薩摩藩や長州藩も 1863~64 年に欧米列国との武力衝突を経
験して、西洋文明を実感するに至り、以後、幕府のみならず雄藩もこぞ
って留学生を海外に派遣して人材の育成に努めるようになりました。
- 14 -
幕末の海外留学生とその後の活躍の一例
◎1862(文久 2)年オランダへの留学生(幕府派遣)
榎本武揚:駐ロシア公使、農商務大臣、外務大臣
赤松大三郎(則良):海軍中将、貴族院議員
西周:啓蒙思想家、明六社創立、貴族院議員
津田真道:元老院議官、初代衆議院副議長
◎1863(文久 3)年イギリスへの留学生(長州藩)
伊藤博文:内閣総理大臣
伊藤博文
井上馨:外務大臣、大蔵大臣
山尾庸三:工部卿
井上勝:鉄道庁長官
遠藤謹助:大蔵省造幣局長
◎1865(慶応元)年イギリスへの留学生(薩摩藩)
森有礼:文部大臣
鮫島尚信:駐フランス公使、外務大輔
吉田清成:駐アメリカ公使、外務大輔、農商務大輔
◎1866(慶応 2 年)イギリスへの留学生(幕府派遣)
吉田清成
中村正直:啓蒙思想家、東京大学文学部教授
外山正一:東京帝国大学教授、東京帝国大学総長
林董:駐イギリス公使、外務大臣
菊池大麓:東京帝国大学総長
◎1867(慶応 3)年フランスへの留学生(幕府派遣)
徳川昭武:水戸藩知事
保科俊太郎:陸軍省人事局長
山内文次郎:駐イタリア代理公使、宮中顧問官
林董
- 15 -
第3章
攘夷の嵐のなかで 1861~1863
鎖国政策の転換によって海外との貿易が始まると、輸出の増大や
金の流出、物価高騰により社会不安が増し、政治的、経済的な混乱
も引き起こされました。やがて攘夷論が高まり、1860 年代前半にな
ると外国人殺傷事件が頻発しました。時代はまさに攘夷の嵐が吹き
荒れました。
幕府は西洋文明の摂取を行うべく、若い人材を次々に海外に送り
見聞を広めさせました。ところが幕府の随員としての任務を終えて
1863 年 1 月に帰国した福地源一郎が、僅か一年の間に「我国の形勢
は全く一変」したと回想したように、国内では攘夷運動が急速に高
まりを見せていました。海外で多くの事を学んだ幕府の役人が帰朝
したことすら秘密にし、なるべく穏便に生活して海外の事を口外し
てはならないとの幕府の命令が出るほどでした。
一方、薩摩藩や長州藩は 1863~64(文久 3~4)年に、欧米列国と武
力衝突しました。これを機に両藩は、攘夷の無謀を悟り、欧米との
関係改善に向かっていきます。
第 3 章では、攘夷運動の激化や外国人が日本国内で活動するよう
になったことで生起した事件として、ヒュースケンの遭難、東禅寺
事件、生麦事件を取り上げます。また、生麦事件の犯人処罰と賠償
をめぐって発生した薩摩藩とイギリス艦隊との武力衝突事件(いわ
ゆる薩英戦争)にも目を向けます。
- 16 -
3-1
ヒュースケンの遭難
1858 年(安政 5 年)の安政 5 か国条約締結により、各国の公使はい
わゆる四宿寺(公使館の仮舎を寺院に設けたもの。高輪の東禅寺はイギリス、
三田の済海寺はフランス、芝の西応寺はオランダ、麻布の善福寺はアメリカの
仮公使館)に駐在するようになりました。幕府は、公使たちの護衛に
努め、四宿寺に多数の警備員を配備し、外出時にも警護にあたりま
した。幕府のこのような対応ぶりが攘夷運動の炎を煽ることになっ
たと田辺太一は指摘しています。
1861 年 1 月 15 日(万延元年 12 月 5 日)、ハリス駐日アメリカ公使の
通訳を務めていたヒュースケンは、薩摩藩士に襲撃され殺害されま
した。ヒュースケンはプロシア使節団の通訳も務めており、同使節
団が滞在する赤羽根接遇所(当時、外賓との応接のために設けられた施設)
から麻布善福寺(米国公使館)へ戻る途中で悲劇に見舞われました。
展示史料は、事件翌日に村垣範正らとハリスとの間で交わされた対
話記録です。幕府の措置に満足しない各国公使は、国旗を撤して横
浜に退きました。また、本国から兵士を呼び寄せて自衛することを
申し出る有様でした。しかし、長らく日本に滞在していたハリスは
幕府の立場を理解しており、自分の属僚の死にも関わらず、善福寺
に踏み留まりました。なお、ヒュースケンの遺骸は、1 月 18 日に南
麻布の光林寺に葬られました。
… 間 残
… 町 消
役 失
人 せ
等 其
を 辺
集 之
め 家
夫 屋
々 等
取 皆
計 戸
候 を
事 〆
ニ 居
候 候
負
候
と
存
驚
き
介
抱
可
致
候
処
提
灯
は
不
付
初
て
附
添
之
者
ヒ
ユ
ー
ス
ケ
ン
手
疵
を
ユ
ー
ス
ケ
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馬
上
難
堪
私
死
ニ
候
と
申
ニ
弐
丁
程
至
り
折
悪
敷
附
添
之
馬
も
斃
れ
ヒ
故
同
人
幷
一
同
附
添
之
者
も
馬
を
為
馳
凡
…
…
ヒ
ユ
ー
ス
ケ
ン
を
打
候
様
之
音
致
候
展示史料 3-1
ヒュースケンの遭難に関する老中とハリスの対談
- 17 -
3-2
東禅寺事件
1861 年 7 月 5 日(文久元年 5 月 28 日)、水戸浪士の有賀半弥ら 14 名
が、駐日イギリス公使オールコックの居住する江戸高輪の東禅寺を
襲撃しました。浪士たちは「神州」の日本を外国人に汚されること
を傍観できないと憤激して行動を起こしました。
警備をしていた旗本や郡山藩士、西尾藩士らが応戦して浪士たち
と戦闘になり、双方に死傷者が出ました(警備兵 2 名、浪士側 3 名が死
亡)
。オールコックは危うく難を逃れましたが、書記官のオリファン
トと長崎駐在領事モリソンが負傷しました。
展示史料 3-2
攘夷を訴える有賀半弥らの連名意見書
- 18 -
3-3
生麦事件
1862 年 9 月 14 日(文久 2 年 8 月 21 日)、薩摩藩の島津久光一行の行
列は神奈川の生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)を通行中、騎馬で遊行
していたイギリス商人リチャードソンらと接触しました。これに激
昂した薩摩藩士らがリチャードソンらを殺傷したのが生麦事件です。
幕府がこの事件の犯人逮捕に努めずに放任し、そのまま帰藩させ
たことは、外国人を保護すべき幕府の責任を果たさなかったものと
して、各国の批判を浴びました。展示史料にあるように、駐日イギ
リス代理公使のニールは、幕府の警備の不備を厳しく非難しました。
幕府はイギリスの要求に応じて賠償金 10 万ポンドを支払いました
が、薩摩藩とイギリスの間では、事件解決交渉がまとまらないうち
に、1863 年 8 月 15 日(文久 3 年 7 月 2 日)、武力衝突へと発展しまし
た。
を
慥
に
守
り
給
ハ
ん
事
を
願
ふ
…
…
に
余
取
敢
ず
日
本
政
府
に
て
此
殺
害
人
を
捕
へ
て
之
れ
是
は
我
政
府
の
裁
判
所
に
て
決
定
す
る
な
ら
ん
○
是
故
刑
及
び
償
ひ
事
を
当
今
定
む
る
は
余
が
職
掌
に
あ
ら
ず
の
非
道
な
る
此
不
断
及
び
無
罸
の
悪
事
に
対
し
て
厳
処
甚
だ
悪
き
過
な
り
○
無
罪
の
不
列
顚
人
の
血
に
染
る
程
人
も
路
上
に
居
さ
る
を
も
亦
茲
に
述
ざ
る
を
得
ず
是
は
此
非
道
の
人
を
警
め
或
ハ
制
す
る
た
め
大
君
の
番
兵
一
数
多
の
人
数
の
旅
行
を
政
府
よ
り
許
し
給
へ
る
な
り
又
る
事
件
を
引
出
す
も
計
り
難
き
を
よ
く
知
り
な
か
ら
其
○
粗
暴
非
道
の
男
子
等
外
国
人
に
行
遇
ふ
時
は
如
何
な
展示史料 3-3
生麦事件について警備の不備を非難した英国側の書翰
- 19 -
3-4
薩英戦争
1863 年 8 月 11 日(文久 3 年 6 月 27 日)、7 隻の英国艦隊が鹿児島湾
に現れました。イギリス側は武力を背景に生麦事件の犯人処罰と賠
償金を要求しましたが、交渉は進まず、英国艦隊は武力行使を決意
し、8 月 15 日、薩摩藩の船舶 3 隻を拿捕しました。これに対し薩摩
藩は英国艦隊に砲撃を加え、旗艦ユーリアラス号の艦長など 13 名が
戦死しました。薩摩側も各砲台が大破し、鹿児島市街の 1 割が炎上
しました。
英国艦隊の近代兵器の威力を知った薩摩藩は、攘夷の不可能を自
覚し、幕府の仲介で和平交渉に応じ、薩摩藩が2万 5、000 ポンドを
幕府から借用して支払うことで和解が成立しました。和平交渉のな
かで薩摩藩がイギリスに軍艦購入の周旋を依頼し、一方でイギリス
も薩摩藩の善戦を評価し、以後、両者の間に親密な関係が築かれて
いくことになりました。
また、長州藩も四国艦隊による下関砲撃事件を経験し、攘夷の無
謀を認識して、欧米との関係改善に努め、下関を実質的に開港して
欧米との貿易を開始しました。
展示史料 3-4
薩摩所有の砲台及び薩摩港の図
- 20 -
第 4 章 大政奉還から明治新政府へ
1867~1868
1867 年 11 月 9 日(慶応 3 年 10 月 14 日)に、徳川慶喜は大政奉還の
上表を朝廷に提出しました。翌日、朝廷は徳川慶喜の参内を求め、
大政奉還を許す御沙汰書を渡しました。その後、王政復古が宣言さ
れました。
徳川慶喜は、大政奉還後も引き続き外交は自分たちが担うとの意
向を示していましたが、やがてそれも新政府に引き渡すこととなり、
名実ともに明治時代がはじまることとなります。
本章では、1867 年の大政奉還から王政復古が実現する過程と、そ
の後も徳川家が外交を担おうとした事実及び、明治政府による外交
が開始されるまでを紹介します。
- 21 -
4-1
大政奉還
1867 年 11 月 8 日(慶応 3 年 10 月 13 日)、幕府は在京 10 万石以上の
諸藩の重臣を二条城に集め、大政奉還の上表案について可否を問い
ました。
この会合で、多くの重臣は大政奉還についての明確な意見を示さ
ずに退出しましたが、会合後、薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象
二郎らが居残り、慶喜に対して政権返上への賛意を表する一幕もあ
りました。
慶喜は翌 14 日に大政奉還の上表文を朝廷に提出し、外国との交際
が増えるなかで、政権が一つでなければならないと論じ、政権を朝
廷に返したいと表明しました。
相
達
置
十 候
月 依
之
此
段
謹
て
奏
聞
仕
候
以
上
慶
喜
奉
存
候
乍
去
猶
見
込
之
儀
も
有
之
候
得
は
可
申
聞
旨
諸
侯
へ
す
海
外
万
国
と
可
並
立
候
臣
慶
喜
国
家
ニ
所
尽
是
に
不
過
と
し 之
旧
聖 習
断 を
を 改
仰 め
き 政
同 権
心 を
協 朝
力 廷
共 ニ
ニ 奉
皇 帰
国 広
ヲ く
保 天
護 下
仕 之
候 公
得 議
は を
必 尽
る
よ
り
愈
朝
権
一
途
ニ
出
不
申
候
て
は
綱
紀
難
立
候
間
從
来
薄
徳
之
所
致
不
堪
慙
懼
候
況
や
当
今
外
国
之
交
際
日
ニ
盛
な
刑
当
を
失
ふ
事
少
な
か
ら
す
今
日
之
形
勢
ニ
至
り
候
も
畢
竟
寵
眷
を
蒙
り
弐
百
余
年
子
孫
相
受
臣
其
職
を
奉
す
と
雖
も
政
執
り
保
平
之
乱
政
権
武
門
ニ
移
り
て
よ
り
祖
宗
ニ
至
り
更
に
皇
国
時
運
之
沿
革
を
考
候
に
昔
王
綱
紐
を
解
き
相
家
権
を
展示史料 4-1
徳川慶喜の上表文
- 22 -
臣
慶
喜
謹
て
丁
卯
十
月
十
四
日
4-2
王政復古の大号令
大政奉還は幕政を王政に吸収させ、国政を一元化する形をとって
いましたが、なお旧幕府の勢力は温存されていました。倒幕派は完
全な幕権の消滅をはかり、王政復古を実現しようと画策しました。
1868 年 1 月 2 日(慶応 3 年 12 月 8 日)、朝廷での会議の席上、薩摩
の西郷吉之助(隆盛)、大久保市蔵(利通)、土佐の後藤象次郎、福岡
藤次(孝弟)らは、制度典礼を一新し、
「国勢更張ノ良法」を立てる
ことが今日の急務であると主張しました。
会議は翌 3 日の朝まで続き、会議後その日のうちに王政復古が宣
言されました。
ベ
キ
時
機
ナ
ラ
ズ
ト
…
…
終
ニ
難
カ
ラ
ン
ヤ
是
今
日
ノ
急
務
ニ
シ
テ
瞬
間
モ
躊
躇
ス
張
ノ
良
法
ヲ
設
ケ
万
国
ト
比
立
セ
バ
愧
ル
所
無
ク
其
レ
豈
典
礼
ヲ
一
新
シ
以
テ
皇
基
ヲ
確
立
シ
皇
運
挽
回
国
勢
更
門
土
佐
ノ
臣
後
藤
象
次
郎
福
岡
藤
次
等
議
事
ニ
与
リ
制
度
…
…
薩
摩
ノ
臣
西
郷
吉
之
助
大
久
保
市
蔵
岩
下
佐
次
右
衛
展示史料 4-2
西郷隆盛らが制度典礼の一新を求めた会議の様子
- 23 -
4-3
各国に対する徳川慶喜の宣言
1868 年 1 月 10 日(慶応 3 年 12 月 16 日)、徳川慶喜はフランス、イ
ギリス、イタリア、アメリカ、プロシア、オランダ各公使と大坂城
で会見し、大政奉還の事情を説明し、各国との外交事務は引続き幕
府が行うことを宣言しました。
展示史料はその際の宣言書です。この中で慶喜は、「全国の衆論」
をもって日本の政体が定まるまでは、各国と結んだ条約を遵守し外
交関係を全うすることが自分の責任だと述べています。
諒
せ
ら
る
へ
し
ひ
始
終
の
交
際
を
全
す
る
ハ
余
か
任
に
あ
る
事
な
る
ハ
ま
て
ハ
条
約
を
履
ミ
各
国
と
約
せ
し
諸
件
を
一
々
取
行
扶
け
追
々
全
国
の
衆
論
を
以
て
我
か
国
の
政
体
を
定
る
な
れ
ハ
猶
此
上
と
も
令
誉
を
失
さ
る
様
各
国
の
利
益
を
き
を
要
す
余
既
に
条
約
の
箇
条
残
る
処
な
く
履
行
ひ
し
事
務
に
関
係
す
る
に
及
ハ
す
都
て
条
理
を
妨
く
る
事
な
…
…
余
か
国
と
和
親
之
条
約
を
結
ひ
し
各
国
ハ
国
内
の
展示史料 4-3
大政奉還後も幕府が外交事務を行うことを伝える徳川慶喜の答諭
- 24 -
4-4
新政府による外交の開始
1868 年 2 月 8 日(慶応 4 年正月 15 日)、勅使東久世通禧が各国(フラ
ンス、イギリス、オランダ、イタリア、アメリカ、プロシア)公使と兵庫で
会見し、王政復古を報じた国書(1868 年 2 月 3 日付)を交付しました(こ
れは、新政府の官員と外国人が正式に応接した最初の事例と言われています)。
幕府は「公法」による外国交際を行うと布告しました。これ以降、
外交を行うための機構が何度か改編され整備されていきます。
そうしたなかで、同年 9 月 23 日、徳川亀之助(家達)が外交は朝
廷で取扱い、徳川家は外国交際(外交)に関与しないことを各国公使
に通知しました。徳川幕府による外交は終焉を迎え、新政府による
外交が始まっていくことになります。
慶
応
四
年
戊
辰
八
月
八
日
徳
川
亀
之
助
花
押
段
為
御
承
知
申
入
候
拝
具
廷
御
取
扱
相
成
於
我
家
ハ
一
切
関
係
無
之
候
此
廷
御
布
告
相
成
候
通
以
来
外
国
交
際
之
儀
於
朝
七
拾
万
石
を
賜
り
被
命
諸
侯
之
列
候
既
に
従
朝
以
書
翰
申
入
候
我
家
既
政
権
を
朝
廷
へ
奉
還
し
戊
辰
八
月
八
日
展示史料 4-4
徳川家が外交に関与しないことを通知した徳川亀之助の書翰
- 25 -
おわりに
本展示では、
「通信全覧」
「続通信全覧」に記録された幕末日本の
激動を、主に政治面に焦点を当てて紹介しました。
当時の幕府は、日々の外交実務をうまく処理して外交交渉を優位
に進めるためには、文書を適切に記録・整理しておくことがとても
重要だと考えていました。
「通信全覧」
「続通信全覧」というこれら
約 2、000 冊の史料群が残されてきた事実は、幕府が文書整理をいか
に重視していたかを今日の我々に伝えています。
本解説のなかでも言葉を引用した田辺太一や福地源一郎も、外交
における記録作成の重要性を強調していました。福地は、記録は次
なる交渉の先例となり得るものであり、記録作成担当部局は「外交
の機軸」であると述べました。それは、記録作成部局が各事件の顛
末を整理するのみならず、外交交渉を進めるための応答要領までも
作成していたことからもうかがえます。記録を残すという仕事は、
激動の時代であるからこそ、その荒波にのみこまれないような記録
を作らなければならないという気概に支えられていたのかもしれま
せん。
本展示では、膨大な「通信全覧」
「続通信全覧」のなかからほんの
一部分を紹介したに過ぎません。これらの文書によって、外交のみ
ならず、政治、社会の様相が世界と向き合った幕末日本の姿を少し
でもお伝えできていれば幸いです。
- 26 -
展示史料の出典一覧
第1章
1-1
続通信全覧類輯之部修好門 79「米使ペルリ初テ渡来以前荷蘭国ヨリ忠告一件」
1-2
続通信全覧類輯之部修好門 81「米使ペルリ初テ渡来浦賀栗浜ニ於テ国書進呈
一件
1-3
続通信全覧類輯之部修好門 84「米使ペルリ初テ渡来浦賀栗浜ニ於テ国書進呈
一件
1-4
一」
四」
『ペリー提督日本遠征記』第 1 巻
第2章
2-1
通信全覧 65「類輯二 本条約交換
亜国之部
元」
2-2
続通信全覧類輯之部修好門 138「新見豊前守等米国渡航本条約書交換一件 一」
2-3
続通信全覧類輯之部覊旅門 800「木村摂津守米国渡航一件
2-4
通信全覧 170「英国御対話五(万延元年)
」
二」
トピック
1
続通信全覧類輯之部芸学門 1096「英国留学一件
一」
2
続通信全覧類輯之部芸学門 1100「仏国留学一件
一」
第3章
3-1
続通信全覧類輯之部暴行門 1129「米国書記官ヒュースケン遭害一件
3-2
続通信全覧類輯之部暴行門 1134「東禅寺英仮公使館兇徒襲撃一件
3-3
続通信全覧類輯之部暴行門 1164「生麦殺傷一件
一」
3-4
続通信全覧類輯之部暴行門 1181「生麦殺傷一件
附録一」
第4章
4-1
続通信全覧類輯之部雑 1258「将軍太政返上事件
一」
4-2
続通信全覧類輯之部雑 1261「将軍太政返上事件
四」
4-3
続通信全覧編年之部 419「仏国往復書翰十七(慶応三年)」
4-4
続通信全覧編年之部 466「英国往復書翰四(慶応四年)」
- 27 -
一」
二」
幕末日本の関係略年表
年(西暦)
月
日
1853
8
11
嘉永6
7
7 ペリーが浦賀に来航
1853
7
14
嘉永6
6
9
浦賀でフィルモア大統領の国書を受
け取る
1854
3
31
嘉永7
3
3
日米和親条約調印
1856
9
3
安政3
8
5
ハリス駐日米国総領事が下田の玉泉
寺に仮公使館を開設
1858
年(和暦) 月 日
安政5
出来事
安政の五か国条約
1859
6
26
安政6
5
26
オールコック駐日英国総領事の着任、
東禅寺に仮公使館を設置
1860
1860
5
1
23
15
万延元
万延元
4
12
3
5
日米修好通商条約の批准書交換
ヒュースケン遭難
1861
7
5
文久元
5
28 東禅寺襲撃事件
1862
1
21
文久元
12
22
1862
9
14
文久2
8
21 生麦事件
1863
8
15
文久3
7
2 薩英戦争
1864
9
5
元治元
8
5
1865
6
9
慶応元
5
16 新任の駐日公使パークスの来日
1867
2
15
慶応3
1
11 徳川昭武がパリ万博のため出発
1867
11
9
慶応3
10
14
徳川慶喜が大政奉還を申出る(翌日
朝廷受諾)
1868
1
3
慶応3
12
9
王政復古の大号令
1868
1
10
慶応3
12
16
徳川慶喜が政権返上後も外交は幕府
が管轄する旨を各国公使に通告
1868
1
27
慶応4
1
3
鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争始まる
1868
2
8
慶応4
1
15
新政府が外交に当る旨の国書を各国
公使に手交
1868
9
23
慶応4
8
8
徳川亀之助(家達)が徳川家は外交に
関与しない旨を各国公使に通告
1869
8
15
明治2
7
8
外国官を廃止して、外務省を設置
(初代外務卿沢宣嘉)
- 28 -
竹内保徳ら遣欧使節出発(翌年12月9
日帰朝)
英仏米蘭の連合艦隊による下関砲撃
【主要参考文献】
・M.C.ペリー監修・F.L.ホークス編『ペリー提督日本遠征記』第 1 巻、1856 年
・福地桜痴『懐往事談
附新聞紙実歴』
(民友社、1897 年)
・小鷹狩元凱編『坤山公八十八年事蹟
乾』
(林保登、1932 年)所収。
・田辺太一著・坂田精一訳・校訂『幕末外交談』第 1~2 巻(平凡社、1966 年)
・林董・由井正臣校注『林董伯自叙伝回顧録』
(平凡社、1970 年)
・田中正弘『近代日本と幕末外交文書編纂の研究』
(思文閣、1998 年)
・田中正弘著・通信全覧編集委員会編集『通信全覧惣目録・解説』
(雄松堂出版、
1989 年)
・安岡昭男『日本近代史(増補新版)
』
(芸林書房、1989 年)
・犬塚孝明『密航留学生たちの明治維新』
(日本放送出版協会、2001 年)
・犬塚孝明『独立を守った“現実外交”
』
(NHK 出版、2012 年)
・簑原俊洋・奈良岡聰智編『ハンドブック近代日本外交史』(ミネルヴァ書房、
2016 年)
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外務省外交史料館特別展示「幕末へのいざない」展示史料解説
平成 28 年 7 月 7 日
初版
※本展示解説冊子の一部を引用する場合には、必ず出典を明示してくださ
い。また、引用が一項目全体など長文にわたる場合には、事前に外交史料
館にご相談ください。
外務省外交史料館
〒106-0041
東京都港区麻布台 1 丁目 5 番 3 号
Tel 03-3585-4511
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