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絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 ーゼッケンドルフの政治的

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絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 ーゼッケンドルフの政治的
73
葉
徳
夫
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
ゼッケンドルフの政治的著作を中心としてー
目 次
一 ゼッケンドルフの生涯と作品
はじめに
ω おいたちと学問形成
② ゴータの役人時代
四 モイゼルヴィッツでの学究生活
㈲実践と学問の間に立って
ニ ゼッケンドルフの著作に見る小国の理念
口P 小国の国家観
② 平和国家
偶 教育・福祉国家
四学識の国
おわりに
㈲ 立憲国家
付録 ゼッケンドルフ文献目録
千
律
74
ロ冊
は じ め に
ドイツの領邦国家とは何か、それはドイツの歴史においていかなる意味をもつのか。これは、古くて新しい問題で
ある。また、一九世紀に成立した近代的国民国家の観点からすれぽ、理解しにくい問題でもある。しかし最近ドイツ
においては、歴史家の見方が大きく変化し、現代と一九世紀以前の時代との構造的近親性が注目されている。その一
つとして、一九世紀初頭まで領邦分立を支えていた神聖ローマ帝国の国制に研究者の関心が集中し、現在、目をみは
神史の高峰を渉り歩くといったやり方﹂ではなく、﹁旧来の政治学の伝統のひろびうとした底辺、平均、普通の水準に
ぽドイツについて知るところは、ほとんど皆無である。そこで彼は、政治学の巨匠のいないドイッにおいては、﹁精
テスキューあるいはホッブスやロックといった西欧の思想家についてはかなり良く知らされてきたが、それに比べれ
完全な忘却の淵から救い出す﹂ことからはじめなけれぽならないと述べている。なるほど、我々は、ボダンとかモン
む論文の中で、それを研究しようとする者は、﹁まず蔵書の埃を払い、それが陥っていた、不当ではあるがほとんど
︵1︶
国家論をヨーロッパの国家思想史の全体のなかに位置づけ、その固有の貢献を探ろうという意欲的で、大変示唆に富
ところで、現代ドイツにおける国家思想史の最良の識者の一人であるH・マイアーは、一六−一八世紀の旧ドイツ
テスタント系小領邦の思想家が発掘され、評価されている。
思想史の分野においては、従来ほとんど知られなかったか、あるいは全く省みられることがなかった、主としてプロ
から一八世紀前半の宗派時代における領邦国家のポジティヴな側面が明らかにされつつある。そして国家ないし政治
るぽかりに、続々とその成果が発表されている。また、これまで暗い、退行のイメージで描かれてきた一六世紀後半
叢一
曇ム
法
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念一
75
依拠すべき﹂であるとし、その代表的人物としてファイト・ルートヴィヒ・フォソ・ゼッケンドルフ︵<Φ津い巳≦茜
︵2︶
ポリツアイ
<oロω①爵魯αo籏︶とその行政学︵℃o一一N2三゜・°。①pω。訂津︶を取り上げたのであった。
ゼッケンドルフば、いわゆる大学人ではなく、後に見るように、テユーリンゲンの小国ゴータ侯国とナウムブルク
ーツァイッ侯国の宰相を勤めた政治家であり、また敬度主義的傾向を強く帯びた熱心なルター派キリスト教徒であっ
たが、その主著﹃ドイツ君主国﹄︵日Φ葺ω。げ臼閃自房8⇒。■8↓︶は、ピュッターが一七七六年当時それを現在なお有益な
書物であると評価したように、またシュティンツィングがゼッケソドルフとモーザー親子︵J・J・モーザー、F・
︵3︶
C・v・モーザi︶との近親性を指摘しているように、少なくとも一八〇〇年頃まで大学やギムナジウムにおける政
︵4︶
治学の基本的文献であった。その後、ゼッケンドルフの名前とその著作は︸般の意識からだんだん薄れてはいったも
のの、決して忘れ去られるようなことはなかった。例えば、一八五三年デュイスブルクのギムナジウムにおいて﹃ド
イッ君主国﹄をテーマとした講演が行なわれ、政治の倫理の問題に関連して、その現代的意義︵当時の︶が強調され
︵5︶ ︵6︶
ている。つづいてロッシャーが国民経済学の観点からゼッケンドルフを学問的に改めて取り上げたのを皮切りに、マ
︵7︶
ルシェは彼を近代行政学の創始者と評価し、またツィーレソツィガーは、ドイッ重商主義の問題の脈絡において、行
カメラ ルヴイツセンシヤフト
︵8︶
政学、経済学、財政学を含む包括的な実践的国家学である官 房 学︵囚鋤白嘆巴註゜■ω①口ω。冨h酔︶の中に位置づけ
た。さらに彼は、教育と宗教の分野でも取り上げられ、また彼をテーマとした学位論文は、私が確認できた限りで、
︵9︶
一〇本にのぼる。のみならずゼッケソドルフは、ドイッの代表的な政治家、学者として伝記が書かれ、一般読者を対
︵10︶
象とした新聞や雑誌の記事、小冊子なども折に触れて発表されてきた。
ゼッケンドルフの学問活動は多方面にわたるが、今日の学問的評価からすれば、彼は行政学に大きな功績を残した
政治学者あるいは国家思想家であるということができるであろう。しかし彼の著作は、机上の理論から生まれたもの
律
ではない。彼は、自らの実践に基づき国家とその活動をまさに鏡に映しだすごとくに叙述しているのである。そこで
本稿では、﹃ドイツ君主国﹄と﹃キリスト教徒国﹄を中心とした彼の著作をいわば﹁国家鑑﹂に見たてて、それによ
︵11︶
って一七世紀のドイツの小国を大づかみに考察し、その基本的理念を得たいと思う。
なお、本稿には二つの余計な部分が付け加えられていることを、あらかじめお断りしておかなけれぽならない。伝
記的研究は、人物の思想を理解する上で不可欠であることは改めて言うまでもないが、私はゼッケンドルフの研究に
おいてこれを身に染みて痛感させられた。彼の人生は決して物語性に富むものではないが、貴族に生まれ、高級官僚
として生身で国家を担い、また第一等の学識者として活躍したその生涯は、国制史的観点からしてもおもしろい。次
に、文献目録は出す以上、完壁を期したつもりであるが、若干の遺漏は致し方ない。しかし、これは、今のところゼ
ッケンドルフについての最も完全な文献目録であると思う。ゼッケンドルフに関心をもつ研究者の方々に少しでもお
役に立てばと念ずる次第である。
O①三ωo置睾辞ω゜卜σ○。○。ゐα○。齢
︵6︶幻8。冨さN≦①剛ω餌。訂一■−。冨ω富⇔房鼠幕冨H①剛\§旨︾ω.ω刈①ゐOご匹⑦︻㎝二〇①ω。匡昏話号門Z銭。口巴αぎ巳巨犀冒
︵5︶↓窪①すN霞O﹃冨宥①ユ゜・ユ犀号。。↓①三ω9窪閃自H舞①β。・臼異Φ゜。讐ω゜ω占9︿σqrげ①ω陰ω゜H㎝゜
い①弓獣σqH°。り゜。︵り4帥Oぴ伍﹃信O犀岡 ﹀帥一①口 戸O¶○◎︶uω畳。。卜⊃心℃ψおN
︵4︶”°<。昌ω試三N冒σq8匹即訂巳ωσ①曇○①ω島尊gα①﹃自①艮ω9窪寄。窪゜・乱ωω2ω。冨罫>9ω\H噸ζ雪。ず8¢巳
Hり①㎝︶℃ω。B①’
︵3︶鵠8§乙゜ωこζ8﹁pε門α霧目①葺゜・。ゲ9ω冨鉾。・﹁①。ζωし゜↓げ巴”○αε昌σq①口嵩お︵Zp。臣コ。r甲⇔算2耳P客
︵2︶ マイアー︵石部雅亮訳︶﹁旧ドイツの国家論と西欧の政治的伝統﹂、一五一頁。
︵1︶ マイアー︵石部雅亮訳︶﹁旧ドイツの国家論と西欧の政治的伝統﹂、一四八頁。
注
76
叢
論
法
一
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
︵8︶ N一Φ一窪N一σq①炉U冨①犀窪匹Φ三m筈窪穴。ヨ臼巴酵①PQD°G。ω早ωコ゜これは、ほとんど﹃ドイッ君主国﹄と﹃キリスト教徒
︵7︶ζ費3①rQ。ε巳8自①吋象①国艮註。匡§σq匹9<①H毛巴言おω﹃芹9ω゜マ置゜
︵9︶ ゼッケンドルフ文献目録、関連文献︵1︶、︵2︶、︵4︶、︵13︶、︵14︶、︵23︶、︵30︶、︵31︶、︵41︶、︵58︶︵筆者未見︶、︵71︶。
国﹄の抜粋によって占められている。
このうち、︵13︶︵30︶︵31︶︵41︶︵71︶は学位論文として上出来であり、役に立つ。
︵10︶ 例えば、関連文献︵18︶、︵24︶、︵37︶、︵44︶、︵49︶、︵50︶、︵70︶など。︵70︶は大変優れた作品であり、ゼッケンドルフ
︵11︶ 同じような意図で書かれた論文としては、関連文献︵30︶、︵33︶および︵48︶がある。︵30︶のクレマーの研究は、優れた
人、作品の概略をつかむ上で有益である。
研究であるが、制度史に偏り過ぎているきらいがある。これに対し︵33︶のリュトケの研究は、包括的な理念史的研究であ
的に強調されている。また、︵21︶、︵22︶も同じように傾向的研究である。︵48︶のシュメルツアイゼンの研究は、文字通り、
る。しかし、時代を反映し、全体主義的な観点から、ゼッケンドルフの宗教と国家の一致に基づく有機的国家論などが一面
ばしば引用させてもらった。
﹃ドイツ君主国﹄の憲法見取り図であるが、その整理の仕方は参考になった。︵64︶のシュトライスの論文は示唆に富み、し
︵1︶
ゼッケンドルフの生涯と作品
ω おいたちと学問形成
リヒ・フォソ・ゼッヶンドルフという名前が証人として記載されている。=二世紀になるとゼッヶソドルフ家は一
る人物がザクセンのハレで開催された馬上槍試合に参加したことが知られ、また一一五四年のある文書にはハイソ
ラバに生まれた。その家系は相当古い時代に遡る。すでに一〇四二年、ベルソハルト・フォン・ゼッケソドルフな
ゼッケソドルフは一六二六年一二月二〇日、中部フランケソ地方エアランゲン近郊の小都市ヘルツォーゲンアウ
「
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叢
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論
律
一もの家系に分かれた。そのうちグーテント︵09①⇔儀︶、へールフ︵=曾口h︶およびアバダー︵︾げΦ冠霞︶は今日
なお存続する。ファイト・ルートヴィヒはグーテソトの系列に連なるが、この家系は一五四三年ルター派の信仰を受
け入れた。またアバダー家のハソス・フォソ・ゼッケソドルフは一五三〇年、ホーエソツォレルン家のブラソデンブ
︵2︶
ルク”アンスバハ辺境伯に、その筆頭家臣として随行し、アウグスブルクの信仰告白に立ち合ったことが知られる。
ゼッケンドルフ家は、フランケンにおいていちはやくルター派に改宗した家柄でもあったのである。また同家は、
︵3︶
流血裁判権をも含む所領を経営しながら、いずれの家系も、その政治的活動の場をホーエンツォレルン家やヴェッテ
ィン家の世俗諸侯、あるいはパンベルクなどの教会諸侯の宮廷に求めていたが、やがて官僚や軍人として帝国にも勤
務することになった。とりわけ、ファイト・ルートヴィヒの甥で、その相続人となったフリードリヒ・ハインリヒ・
フォン・ゼッケンドルフ︵一六七三−一七六三︶は一八世紀ドイツの最も著名な政治家・軍人のひとりであり、一七
一九年グラーフの称号を受け、帝国の将軍として活躍した。このようにゼッケンドルフ家は、帝国の中心部に位置
しながら、テユーリンゲンやシュヴァーベン地方と同様、小国分立の故に王権と緊密な相互依存関係にあった、いわ
︵4︶
りながら、スウェーデン国王グスタフ・アドルフの軍隊に加わった。このとき彼が大佐として勤務したその軍団を指
時は三十年戦争の時代である。父ヨアヒム・ルートヴィヒはバンベルク司教の封臣であり、その国の地方長官であ
いう。
フは、シュマルカルデン戦争においてプロテスタントの側にたって活躍したこの曽祖父がことのほか自慢であったと
れるかのシェルトリソ・フォン・ブルテンバハ︵ωOげ①同汁一一]P ︿O昌 田WにM一Φ]口び帥Oぴ H蔭㊤①IHα刈刈︶であった。ゼッケンドル
ッケンドルフの母方の始祖はアウグスブルクの市民の出で、一六世紀における最も重要な傭兵隊長のひとりと評価さ
ゆる﹁親国王的地方﹂︵ざ巳σqω器冨い・巳ω。訂︷什︶たるフランケソの典型的な下級貴族であったのである。一方、ゼ
一法
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
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揮していたのは、ヴェッティン・エルネスト家のザクセン大公エルンスト敬度公︵一六〇一−一六七五︶であった。
一六四〇年以降ザクセン・ゴータ侯国の君主として模範的な小国を築き上げ、クロムウエルによってヨーロッパの三
︵5︶
明君の一人と讃えられたこの人物は、当時︵一六三ニー三年︶、三十年戦争の英雄である弟のベルンハルト︵一六〇四
−一六三九︶に代わってフランケンの占領地の総督を勤めていたのであった。きわめて短い期間ではあったが、フラ
ンケンはエルンスト敬度公にとっていわば統治の実験場であり、その経験は後にゴータ侯国のためにおおいに生かさ
︵6︶
れたという。
戦争は、幼年時代のゼッケンドルフの生活にも大きな影響を及ぼした。軍人の父は留守がちであり、教育はもっぱ
ら母マリア・アンナによった。彼のきわめて信心深い気質は、母から受け継いだといわれる。また、ゼッケンドルフ
は、フランケンの戦火を逃れるために、プロテスタント勢力圏のテユーリンゲンに移り、コーブルクから、ミュールハ
ウゼンそしてエアフルトへと各地を転々とせざるをえなかった。しかし、幸いにも、彼は十分な基礎教育を受け、早
︵7︶
くから自己の才能を伸ぽすことができた。自ら語るところによれぽ、五歳でラテン語の読み・書きを習い、エアフル
トではギムナジウムでラテン語の他に、ギリシア語、ヘブライ語およびフランス語、それに数学を学んだという。
﹁その頭脳の才はすべての人の驚嘆の的となり、当時ヴァイマルにいたエルソスト敬度公の目にもとまった。﹂ 一六三
九年、=二歳の神童は、かつて父が軍人として仕えたこの英明な君主に見いだされ、小姓としてその庇護下に入るこ
とになったのである。彼はまずコーブルクにおいて近侍の義務を特別に課せられることなく、当時エルンスト敬度公
の養育に委ねられていたヴュルテンブルク侯国の二人の公子の学友として個人教授を受け、ついで翌年主人に従って
ゴータに移り住んだ。
エルンスト敬震公のゴータ侯国は、人口わずか七万ほどの、きわめて小さな国であった。しかし小国なればこそ、
律
80
彼は、隅々までいきとどいた念入りな内政を展開することができ、ここに当時としてはたぐいまれなる教育・福祉国
家を実現した。ここでゼッケンドルフはギムナジウムに学んだが、その校長アンドレアス・ライアー︵﹀ご晋Φβ。ω
菊o望ゲ霞H8H山①刈ω︶は教育政策の立案担当者として、ヨーロッパが生んだ一七世紀の二人の偉大な教育学者ラトケ
︵≦° 因⇔け一︵① H㎝刈H−H①ωO︶とコメニウスQ°﹀°Ooヨ①巳口ωH$卜。山①刈O︶の実践的教育理念に基づぎ、ドイツ語学校
︵8︶
︵義務教育初等学校︶とギムナジウム︵高等学校︶についての、きわめてモダーンな学校モデルを作り上げたのであ
った。ゼッケンドルフは、著作のなかでしぼしば学校教育と官吏養成および君主の子弟教育のために様々な提言を行
っているが、その基本的理念はこのゴータのモデルによっていることが明らかである。また彼は、少年時代ゴータに
一六四二年二月ゼッケンドルフは父を失う不幸に見舞われた。ヨアヒム・ル!トヴィヒは皇帝派との密通の廉で軍
とを、深い感謝の念をこめて回想し、この両老を﹁精神の父﹂と呼んでいる。
切8昌筈o屋叶H①O蔭山①2︶という、敬度主義的傾向を色濃く帯びた二人のすぐれた神学者から信仰の教えを受けたこ
おいて総監督ザロモン・グラス︵Qっ巴oヨo昌O冨じQH$ω山①㎝①︶と宮廷説教師クリストフ・プロソホルスト︵O年冨↓o噂げ
叢一
論
リプシウスの思想をボイッに広める上で大変功績のあったマティアス・ベルネッガー︵ζ鋤#三窃ゆ興幕σQαq窪嵩。。卜。1
︵10︶
H①HH山①謡︶であった。彼は、新ストア主義の創始者でグロティウスと並ぶネーデルラントの偉大な学者ユストゥス・
学、歴史学および法律学を研究したが、その際、彼の学問形成にきわめて大きな影響を及ぼしたのは、当時学問の上
︵9︶
でもヨーロッパの先端を行くネーデルラントと緊密な関係にあったヨーハン・ハイソリヒ・べークラー︵旨鵠゜bdα匹興
重んじ、当時ドイッにおいてもっとも人気のあったこの大学で彼は、一六四二年一〇月から二年あまり主として哲
のスウェーデソ軍将校であり、その支援のおかげでシュトラースブルク大学に入学したという。学問の実践的価値を
法会議で処刑されたのであった。ゼッケソドルフ自らが語るところによれぽ、この時彼と母を支えたのは、父の親友
一法
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
81
H①お︶に学び、その師と同様、リプシウスとグロティウスに精通し、またタキトゥス研究に秀でた古典文献学者であ
り、さらに歴史学者でもあった。彼は、 六三八年弁論術の教授に就任したのち、女王クリスティーナの招聴を受け
て一時スゥェーデンの宮廷史料編纂官として活躍したが、一六五二年今度は歴史学の教授としてシュトラースブルク
大学に復帰した。教育者としても大変人気があり、自分の家に私塾を開き、多数の学生を集め、その活動から数多く
の著作を残したのであった。ゼッケソドルフは、この一七世紀に典型的な博学者から、当時流行の実用学科であった
ポリヒスト ル
文献学と歴史学、新ストア哲学と政治学、自然法、それに、ようやくローマ法による解釈から離れ、固有の実定法的帝
国国制とその歴史的形成を解明せんとする新たな学科である神聖ローマ帝国公法学を学んだのである。のみならず、
その後も交流を続け、ギムナジウム用の教会史の作成に際して助言と協力を仰いだりしている。ゼッケンドルフは、
このシュトラースブルクの学生時代に、古典古代の文献の言語の解釈よりも事実の解釈を重視し、それに歴史的・政
治的洞察を加え、現実の生のための教訓を得ようとする後期人文主義の文献学的教養を養い、その際とりわけゲルマ
ン的自由の賛美に示されるような反絶対主義的タキトゥス主義の傾向を培い、そして学問の実証主義的作法を身につ
︵11︶
けたと考えられる。M・シュトライスによれば、ゼッケンドルフのネーデルラントに対する終生変わらぬ高い評価、
後に﹁結実協会﹂への入会となって現われる彼の文献学的傾向と愛国主義、彼の歴史、政治学および帝国法上の豊か
な知識は、シュトラースブルクにその源があり、また彼の主著﹃ドイッ君主国﹄に見られる領邦の統計学的把握は、
︵12︶
師べークラーに教わったリプシウスの模範によっているという。
②ゴータの役人時代
シュトラースブルク大学での勉学を終えた後、一六四六年ゼッケソドルフは侍従としてゴータの宮廷に迎えられ
82
た。しかし主君エルンスト敬度公は、当初この俊才青年に近侍や護衛など廷臣としての通常の職務を免除し、その代
わり図書館で蔵書を整理・分類し、また重要な著作の研究報告を作成して、それを進講することを仕事として課し
た。それは、彼にとって大変有益な期間であった。
﹁私は最初の五年間侍従として︹エルンスト敬度公のもとで︺仕えたが、この時会議や裁判を傍聴する最良の機
会を得た。しかしその代わり私は、この時期、大部分の時間を研究にあてていたので、読んだり、観察したもの
のなかから私の考えを︹エルンスト敬度公に︺発表しなけれぽならなかった。それは旅行中や、馬車に乗ってい
︵13︶
る間や、仕事が終わった夜に、暇なときに行なわれた。﹂
しろその一環であった。この時期彼は、いわぽ学者として神学・教会史関係の論著を書いたほか、ギムナジウムのた
ゼッケンドルフは早くから著述活動にも従事していたが、それは役人としての仕事とは無関係では決してなく、む
にしてついにゴータにおける最高の地位をきわめたのであった。
五七年︶を歴任し、一六六三年には宗務局長官、財務局長官、尚書長官および枢密参議会議長の官職を帯び、三七歳
ルの話し方・書き方を習得していたのである。その後ゼッケンドルフは、財務官︵一六五五年︶や宮廷裁判官︵一六
︵14︶
デソ語を完全にマスターしており、上司の尚書長官フランケ︵08㎏σq即き。ぎH㎝O腿山9り︶の直伝により官房スタイ
︵15︶
結果であった。この時彼はすでに、英語を除きフランス語、イタリア語、スペイン語、デンマーク語そしてスウェi
しかし、この異例ともいえる昇進は、主君の個人的な愛顧によるものではなく、政庁参議会の面前での正規の試験の
ある行政の仕事につけていった。そして一六五一年、若干二五歳の彼は司法参議として政庁の高級役人に就任した。
は、一六四七年彼をスウェーデンとの外交交渉の任に当たらせ、ついで翌年には侍従長に任命しながら、徐々に責任
ゴータは家父長制的な小国のこととて、いまだ宮廷と政庁とは厳密に区別されてはいなかった。エルンスト敬度公
叢一
論
律
法
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
83
めに詩を創作し、エルンスト敬度公の命令でラテン語教科書を作り、また教育に関する意見書を提出した。そして一
六五六年彼は、いわば行政官として主著﹃ドイッ君主国﹄目①暮ω畠霞閃臼゜。審霧8什を著したのである。
近世のドイツでは、臣民の公私の生活を細々と規制する、ラント条令と呼ぼれる大変大きな法典がどの領邦でも制
︵16︶
定されたが、ゴータではその準備のために一六五二年、領邦内の裁判所の総巡察が行われ、ゼッケソドルフも司法参
議としてそれに参画した。その際彼は、エルンスト敬度公によって領邦の地誌を作成すること、しかも﹁他の領邦に
も利用されるように、公刊できるような﹂ものを作成することを特別な任務として課せられた。これが、﹃ドイツ君
主国﹄作成の契機である。それは、まさに、領邦の統治の実践のなかで、その必要から生まれたものであった。した
︵17︶
がってそれはまた、叙述スタイルにおいて、彼のその他の著作と、のみならず当時の統治・行政論の著作とはなはだ
違った、きわめて斬新なものとなった。すなわち、そこでは、彼自ら述べているように、﹁いにしえの歴史家や著述
家の著作からの引用﹂が一切省略され、領邦の現実の状態と、それに基づく領邦統治の仕組みが実に具体的かつ体系
的に描かれているのである。この統治・行政論の名著は、エルンスト敬度公の統治の模写として、一七世紀のドイツ
が生んだ小国の政治的文化遺産である。それは、一七・八世紀において最も評判の高い統治・行政の手引書であり、
また大学の教科書としても利用され、一六五六年の初版以来一二版を数えた。それは、今日、近代的な行政学を切り
開いた名著として改めて高い評価を受けている。またそれは、その記述スタイルと内容からして、成立しつつある近
代国家の内部構造を解明したいと思う歴史家にとっては、第一等の史料的価値を持つ著作でもあるのである。本書の
構成は、おおよそ次の通りである。
まず第一部は、領邦の状態︵領邦の名称・起源・立地条件、領邦の構成部分、土地の性状、住民構成︶を扱う。領
︵18︶
邦の歴史地理的把握、統計的把握に立脚してはじめて、有効な統治が可能となるというわけである。第二部において
律
84
叢
論
は、まず領邦最高権力の定義・目的、その行使を制約する憲法的枠組みが扱われ、ついで領邦最高権力の対内的およ
び対外的な保持の仕方︵君主身分の維持と身の処し方を含む︶、役人の登用と官庁組織、公共の福祉のための立法活
動すなわち行政、司法、最高権力の保持と行政・司法の強制手段としての軍制、そして宗教的統治︵学校制度を含
む︶がそれぞれ順に詳細かつ包括的に論じられている。﹃ドイツ君主国﹄の中心をなす部分である。最後の第三部は、
財政、および宮廷の組織とその管理の仕方に当てられている。家父長制的統治のもとで家政と財政は区別されていた
わけではない。倹約を旨とする家政11財政が説かれている。
⑧ 実践と学問の間に立って
︵19︶
ゼッケソドルフのゴータ宰相としての仕事は、相当の激務であったようである。一六六〇年の枢密参議会条令に
は、任務領域が二九項目にわたって事細かに定められているが、それによれぽ枢密参議会議長・尚書長官としての彼
は、まず授封や特権の授与、裁判、苦情・請願の処理、領邦議会の開催と運営、租税の徴収、官吏の登用などの内務
た。しかし彼は、この旅行を一切の役職から退く機会とした。ゴータの最高の国家的官職を得てからわずか一年、ゼ
彼は、翌一六六四年八月、シュトラースブルク大学入学を目的としたフリードリヒの遊学に同行しなけれぽならなかっ
にフリードリヒのところに行き、その週の勉強について質問し、課した宿題を調べるべきものとされている。さらに
ヒの教育については、一六六三年特別に指令が交付されている。それによれぽゼッケソドルフは毎週火曜日と金曜日
︵20︶
て指導・監督するほかに、公子の教育を担当しなけれぽならなかった。とりわけエルソスト敬度公の長子フリードリ
築と維持、外国の賓客の接待などを含む宮廷の管理・運営に至るまで領邦の統治・行政のありとあらゆる問題におい
行政にはじまり、ついで帝国の用件を含む外交の処理や防衛問題、教会・学校行政、財政とつづき、そして建物の建
一法
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
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ッケンドルフのこの突然の辞任の理由は、耐えがたい激務とそれによる学問的研究活動の阻害、そしてエルンスト敬
度公に対する反感であったことが明らかである。ゼッケンドルフは﹁私が宮廷から退いた理由﹂と上書した文書を自
ら認めているが、それはエルンスト敬度公の性格とその宮廷の様子を知る上で、また誠実なる学識官僚としてのゼッ
︵21︶
ケソドルフの心意気を示すものとしても大変興味深い。要約すれぽ、次の通りである。
まず、宮廷勤務においては怒りとか欺隔とか、キリストの教えに反する悪徳に導かれやすく、自らを教化する機会
が得られず、また心身の状態は、日常の過度の仕事にもはや耐えられないと述べ、そして自分のように学問に従事し
ているものは、国家の枢要な官職には向かないとしている。ついでエルンスト敬度公について、第一に、その気忙し
い性格は職務の遂行を阻害し、それによって多くの役人は仕事に嫌気をさしていること、第二に、官職をたくさん設
けているにもかかわらず、きわめて吝薔であり、それは参議官の給与においても大変きびしく感じられているこ
と、そして第三に、公の独断は、公子の教育を妨げていることを挙げ、﹁このような性格の君主とその宮廷に留まれ
ぽ哀れにも打ちひしがれ﹂、いずれ健康を害し、命を失うことになる、としている。
ゼッケンドルフは、この文書を秘密書類として保管した。しかし、そこに示された批判点は、一六六四年の﹃ドイ
ツ君主国﹄第三版から付せられた補遺︵﹀α儀一辞一〇︼口Φoo︶に生かされていることが明らかである。二〇〇頁以上の優に一
冊の本に匹敵するこの部分において特に注目されることは、彼が専制政治に対し自由︵ゲルマン的自由︶と身分制的
国制の擁護を鮮明に打ち出し、またそれとの関連で、家父長制的君主の丹念ではあるが、口やかましい統治の行き過
ぎを批判し、有能な官吏の主体性を主張しているということである。
しかし、﹃ドイツ君主国﹄で一躍有名となったこの人物をほうっておくものはいなかった。一六六五年一月、彼は、
ヴェッティン・アルベルト家のザクセンーナウムブルクーツァイッ大公モーリッツの招請を受け、ゴータと全く同じ
86
官職に登用された。だが幸いなことに、ゴータ侯国よりもさらに規模が小さく、しかもザクセン選帝侯国のいわぽ次
子相続分として選帝侯の上級支配の下に置かれていたこの国において、ゼッケンドルフの仕事は以前と比べて、それ
ほど厳しいものではなかった。彼はモーリッツに=二年間仕えたが、その間この学問好きの君主にパスカルの﹃パン
ルヴィッツに騎士領を購入したということである。これによって彼は、当時戸数一四〇、人口三六〇人の小集落にお
セ﹄を講じた。これが一つのきっかけとなって彼は、後に、﹃ドイツ君主国﹄と並ぶ名著﹃キリスト教徒国﹄︵O年一ω−
︵22︶
8霧富酔︶を著すことになるのである。またこの時代の重要な出来事は、ツァイッから東に一四キロほど離れたモイゼ
︵23︶
いて下級裁判権を行使する領主となり、またモイゼルヴィッツがゴータ侯国のアルテンブルク管区にあったことか
一六八︸年主君モーリヅツの死とともにツァイッの宮廷から退いた後、ようやくゼッケンドルフは、長年の夢がかな
ω モイゼルヴィッツでの学究生活
出された。かくして彼は、一方の領邦で宰相を勤めながら、他方の領邦の等族の代表となったのである。
ら、アルテンブルク領邦議会に議席を獲得し、のみならず同時にその議長に、後には租税微収委員会の委員長にも選
叢一
論
律
法
毛①δ︵H①誤−刈︶、O冨一ω8唱ゲ寓①一づN一〇ゲ﹀一9憐一︵H①謡山①Q◎①︶、O﹃ユ゜。二ΦロωΦ一ユ巴︵H①○。①︶、およびOげほωけ冨”ピ①o
た。ゼッケソドルフのもとでのモイゼルヴィッツにおいて︵一六七六−九二年︶、裁判を司ったのは、一〇げ9。昌ロ○Φ自σq①
していたとはいえ、それは、この時代の中部ドイツにおいては、すでに領邦の地方行政機構のなかに組み込まれてい
関係の項目はない。言うまでもなく彼は、ホーベルクのような﹁家父の書﹂を残してはいない。また下級裁判権を所有
い、モイゼルヴィッツに隠棲することができた。しかし、五五歳の彼は、所領経営のうちに安楽な余生を送ろうなどと
︵囮︶
いう気持ちは毛頭なかった。彼の残した文書類の分類には、アルテソブルク領邦議会関係の項目はあっても、所領経営
「
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
87
@oQ①lH﹃O㊤︶の四名であるが、いずれもここでの勤務をサイドビジネスとした専門的な裁判書記︵O嘆8年゜。①。ε霞ごω︶
モイゼルヴィッツで書かれた主要な著作について見るならぽ、まず上記の﹃キリスト教徒国﹄はライプニツによっ
顕の人士をもてなすに十分立派なものであった。
破壊され、現在は庭園とオラソジェリーを残すのみであるが、少なくとも帝国自由貴族の城にふさわしい、遠来の貴
フェンドルフなど当代一流の学者と頻繁な文通・交際を行った。また、﹁あらゆる学者や高貴なる宮廷人は彼に注目
︵%︶
し、この偉大な人物に面会するためにモイゼルヴィッツに詣でた﹂という。彼が建てた城は第二次世界大戦の空襲で
ゼッケソドルフは、ドイツ敬震主義の父シュペーナーとその弟子フランケや、ライプニッツ、トーマジウス、プー
成功したことを隣人の教化のために文字に書き留め、そのことにわずかな余命を捧げるということであった。﹂
︵25︶
福を思慮することの他に、私が青年時代に学問したこと、重要な役職について体験したこと、神のご加護によって
良いと考え、また敬度で英明な友人との熟慮の末にそう確信したことは、信仰心を熱心に修練するなかで魂の幸
わなかった。また私は、私にとってなじみのない娯楽によって暇をつぶすこともできなかった。そこで私が最も
﹁私は、神の特別な恩寵によって賜ったこの休息を怠惰のうち、あるいは単に家政を司ることに費やそうとは思
に捧げることであったことが明らかである。
氏⑦涛oヨヨら︶としたことくらいである。ゼッケンドルフのモイゼルヴィッツの目的は、余生をあげて著作・学究活動
の開催許可を得るために尽力したこと、そして騎士領の拡大・充実をはかり、これを一族全体の家族世襲財産︵男7
の許可をとりなし、領邦内外から募金を集め、自らも一〇〇〇グルデンの寄付を行なったこと、年市の再開と週市
ために、領邦君主︵かつて勉強を教えたことがあるエルンスト敬度公の長子フリードリヒ︶に森林の伐採とその運搬
であった。モイゼルヴィッツに関する彼の活動について現在我々に知られていることといえば、当地の教会の修復の
(H
律
叢
88
論
法
て本にすることを勧められ、また草案の推敲ではシュペナーの協力を得て、一六八五年に公刊された。無神論に対す
る護教の書であり、キリスト教的自然法理論に基づいた政治・社会論である本書は、﹃ドイツ君主国﹄と対照的な作
︵四︶
品とみなされがちであるが、基本的理念において両書は変わりはない。ただ後者においては行政官ゼッケンドルフが
君主の統治を論じ、前者においてはキリスト老ゼッケンドルフが君主への勤務から離れて、より自由な立場から発言
している。いずれも、彼の国家思想を理解する上で不可欠の最重要の書物である。
また彼は、教会史家として、﹃ルター主義あるいは宗教改革に関する歴史および弁護の書﹄︵Ooヨヨ①葺霞ご゜。ゲ確
8ユ窪゜・卑昌巳oσqΦ臨。¢ω山①ピβ象①鑓巳ωヨPωぞ①αΦ器hoHヨ帥二〇旨①器紫αq一〇⇔一゜。︶という、政治的著作に劣らぬ業績
を後世に残した。一五一七年から一五四六年までの宗教改革の歴史をテーマとする本書は、イエズス会の反ルター主
義宣教活動に対抗する目的で著された護教の書であるが、そこでは徹底した実証主義が貫かれている。彼は、フォリ
オ版で三〇〇〇頁にも及ぶこのラテン語の大著を書くために、アイゼナハ、エアフルト、ゴータ、ヴァイマルなど各
地の文書館を渉猟し、特別に運送人を雇い、ヴァイマルからだけでも四二〇包み以上もの古文書を取り寄せ、丹念
に調べ、用が済み次第ただちに返却したという。さらにブラウンシュヴァイク、アンハルト、ブランデンブルクから
︵28︶
も五〇〇巻にのぼる著作を取り寄せ、丹念に読み、抄録を作成したという。彼の性格に本来的に備わり、教育と経験
によって一層培われた寛容の精神、および﹁真実の完全な歴史﹂をあくこなく追求するこのような彼の学者としての
︵29︶
良心は、この大著をしてカルヴァン派によってても受け入れられるものとし、カトリックには批判を封じた。例え
ぽ、フランスにおけるカルヴァン派哲学者にして啓蒙主義者のベール︵℃°ゆp鳳①H①ミ山刈O①︶は、本書を宗教改革史
の最高の研究と評価した上で、次のように述べている。
﹁本書は、著者がいろいろなアルヒーブから集めたたくさんの文書の故に興味深い。しかしその長さには、うん
︵30︶
ざりである。﹂
また今日ツェーデソは、ゼッケンドルフがライプニッツと緊密な関係を保っていたこともあって、宗教的不寛容の
︵31︶
克服と教会再統﹂の思想が作品のなかに認められると主張している。いずれにせよこの著作は、宗教改革史研究にと
って今日なお変わらぬ価値を持つ偉大な作品とされているのである。
モイゼルヴィッツでの生活は、ゼッケンドルフの著作活動にとっては実り多いものであった。しかしアルテンブル
初の学術雑誌﹀。富寓巳一8議目に二〇〇以上もの小論文を投稿した。
ころである。この他ゼヅケンドルフは、0・メンケによって一六八二年ライプツィヒにおいて創刊されたドイツで最
ツ語の作詩上の意義もさることながら、カエサルに対して共和主義者ポソペイウスを讃える題材の選択が興味深いと
と歴史叙事詩ファルサリアについての政治・道徳的論説﹄︵℃o目ユ゜。oずo蝿ロ伍ζo雷=ω筈①∪勝窪房Φ︶を著した。ドイ
︵ 3 2 ︶
ら、政治・道徳上の有益な教訓を引き出すことができるように﹂注釈を加えた書物﹃ルカヌスの三〇〇の教訓的格言
さらに彼は、ドイツ語の作詩の教材としてローマの詩人ルカヌスの叙事詩﹃ファルサリア﹄を翻訳し、また﹁そこか
として年賀や領邦議会の折りに行った演説をまとめたものであり、彼の政治思想を理解する上でも大変参考になる。
菊巴Φづ︶なるものを公刊している。それは、モイゼルヴィッツに隠棲する以前から彼がツァイッの宰相や等族の代表
ω。﹃β。津︶と呼ばれる、貴族や学識者を中心とした団体に所属していたが、一六八六年﹃ドイツ語演説集﹄︵↓Φ三ω島Φ
は、正しいドイッ語の普及とドイツの健全な風俗・習慣の育成のための﹁結実協会﹂︵閃鐸。窪げH言σqΦロ畠① O①゜。①一一・
った著作﹃ローマ・ゲルマン人の公法﹄︵円ρωを三一。にヨ因oヨ゜。コo−O霞ヨ⇔三2日︶において明らかである。また彼
民族意識、および神聖ローマ帝国に寄せる信頼が結びついていた。このことは、帝国の歴史・地理と、その国制を扱
歴史と地理に対する強い学問的関心はゼッケンドルフの大きな特徴であるが、それにはルター主義の立場と並んで
一
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
89
90
クの領邦議会議長の職は別として、一切の公職から退いてみれば、実践的活動に対する思いも断ち切れるものではな
かった。一六九一年、六五歳の彼は、新興・躍進の国ブランデンブルクの君主、選帝侯フリードリヒ三世の招請を受
け、その枢密参議に迎えられ、翌九二年には、トマジウスが学長をつとめる新設のハレ大学の事務局長に任命され
た。その際彼に委ねられた主要な任務は、ルター派正統主義と敬度主義の紛争を調停することであった。しかしこの
仕事は、当時としては老齢で、病弱な身体をひどく蝕んだ。同年=一月一八日午前七時、彼はハレで死んだ。死因は、
持病の結石であった。葬儀はモイゼルヴィッツで行われ、ハレ大学神学部教授ブライトハウプト︵旨いbdH蝕島pロ冥
H①0。。1嵩認︶が追悼説教を、そしてトマジウスが追悼演説を行った。
りのない賢明な宮廷人であった。見苦しいところが微塵もない立派な老紳士であった。学者のたのもしい擁護者であ
ち、きわめて古い昔に遡り、八〇〇年もの間名声をはせた高級貴族の血筋の誉れをもった貴族であった。うそいつわ
もったゼッケソドルフが死んだのだ! 彼は、偉大な神によって諸侯に匹敵する徳を賜った貴族であった。すなわ
﹁ゼッケンドルフが死んだ。ああ、なんと惜しいことか。貴顕の人で、学問と徳を備え、のみならず深い信仰を
叢一
論
律
<①評ピ民鼠σq︿o昌ω①。ぎ巳o噌頃﹂畳勾①巴睾受匹8践四①︷母℃Ho8°。富暮一゜。。冨↓冨oδσqδ毒匹室H島①輝目Nゆ伍二ω.二〒
Zp。°・①ヨきp<。謬い民鼠σq︿。昌oり①。冨ao無︾ω゜卜。㎝甲鳶⋮評ぎ①びく。凶δピ巳乱﹃qく。昌o。①。冨巳o黙”Qり゜①ゐα脚区9餌ρ
︵1︶ ゼッケンドルフの伝記については、 Qりoげ器げ①が頃凶ωε﹃冨く謬⇔Φ⇔oヨ①﹁諜oHq日⋮<三U‘山〇三9PQっ①o犀①ロ氏o層中⋮
注
楽と戦う人であった。みっともない追従を嫌う人であった。そして罰当りな無神論の断固たる追撃者であった。﹂
れた人であった。誠実な人であった。利己的な欲張りの敵であった。下らぬおごりを抑える人であった。有害な快
︵33︶
々の庇護者であった。従属下層民の保護老であった。選帝侯領からも、諸侯領からも、すべての領邦から請い求めら
り、同時にまたその最も高貴なる第一人者でもあった。愛情に満ちた夫であった。孤児の父であった。虐げられし人
一法
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
91
介ピo訂ρ<①詳ごα乱σq<o昌ω①鮮①邑霞鵠二朝αげρ<。津ピ巳≦幡く8ω①爵①巳霞中が比較的詳しい。<ぴ自ピp信。ヶω。訂α守
σq①5pロヨoゲ゜階︵目①卜⊃①ード①O卜σ︶、ω゜HO①1⑩甲菊αu。°。♂び国ぎ山①9ωoゲ興ω冨p畠①﹁Nδゲ①きく①津ピ犀匹毛蒔くo昌ωoo犀①コ匹oH罫 ω゜卜σ卜⊃①i
犀7<o搾ぴqα≦一σq<oコのoo犀①ロ匹o﹁鵠矯oD°卜δoQ㎝1ωOO一国oh目助コP<①二い¢α≦一σq<o旨Qり①o犀①コ価oH中噸①凶口σqHoζQ①目ωoぴ昌
ω①旧ωε=①グ<①謬い民惹σqくo昌ω8犀。巳。﹁塗oり゜置。。鳥゜以下本章では、煩雑を避けるため、文献の利用・引用箇所の註記
をできる限り省略する。なおゼッケンドルフの思想形成と著作の成立の問題をめぐる研究は、これまでほとんど日の目を見
ることなく旧東ドイツのアルテンブルクの文書館に保管されてきた、彼の膨大な書簡類を中心とする原史料︵これについて
フの伝記的研究の不備については、<σQピゆポ鼠口ご。℃U2h益P露。・。ゲ①国匹①一日⇔目く①津日民惹αq<o口QQ①゜犀①巳o﹁中”ω゜°。譲゜
は、<碕卜卜o言9勢.鋤゜Oこω゜甲①゜︶が再度利用されるようになれぽ、書き改められる可能性がある。戦後のゼッケンドル
︵2︶<ぴq戸bU①蕎似σQ①N9巴盆゜。辞①昌O①ω。寓。窪①号ωマぎ匹ω99Φ巳窪Ω①q・。三Φ。穿ω氏興甲①チ①ほ窪く8ωΦ。冨p亀。臨=﹃
︵3︶ ホフマンは、そのすぐれた教授資格取得論文において、近代国家形成の道からとりのこされたフランケンの伝統的世界を
一〇βロ巴<oロロ昌匹h自同閃﹁9昌犀oPQO°bJ匹゜①゜閏ω︷計Z的目旨げo㎏σqド刈ΦざoD°㊦刈①欺゜
象徴する出来事として、一七五三年九月、オーバーツェンの領主クリストフ・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ︵ア
絞首台の建設などの法象徴的儀礼を感銘深く描いている。=o︷日⇔昌P国゜国こ﹀匹Φ一蒔①工①同閉。ぽp津ロ巳ωoβ︿Φ感口Φ﹁ω雷餌ゴ
バダー系︶に対するブランデンブルクーアンスバハ辺境伯の流血裁判権の授封と、それに伴って行われた当地の臣民による
︵4︶ <σqピζo目⇔婁矯勺二国同⇔口脚①p凶﹃犀α巳σqω昌o﹃①ピ⇔ロ山ωoげQhρ一昌”ゆ辰け8H︷O同α①ロ房oゲ①い塑旨畠①ωσq①ωoげ8げ8HH卜⊃噸Hり刈ρω゜
ζ自昌Oず①口HりONω゜献OQlα゜
旨ωlHω゜。°またレスラーは、領邦の分立主義とその絶対主義に反対し、帝国と法を擁護する、自立の気風に満ちた保守的フ
︵5︶OΦぎ吋ρ臼出こ=臼N。σQ国ヨ゜。けα⑦掃国邑ρσqω審毒&2甲。日ヨ①b尻ζ①冨。﹃二巳菊①σq①昌け゜康口①三ω樽9°。畠①留曇亀琶σq
ランク貴族の精神がゼッケソドルフの著作の中に認められると主張している。菊α゜・°。﹃びP⇔°O二ω゜悼ωρ
帥¢o励>08旨q嵩魁ぴΦ類似ゲ隣⑦富∪円口o犀ωoげN篤8嵩σqΦNo西Φ口¢嵩島臼諦o陶昌Φ臼d触犀自瓢亀o鵠げ鶴oげΦ嘘ωbd匙①゜”Ooけヶ山μcoμO旧bコ①oぎ
国H昌゜・け伍①︻閏︻oヨ日ρ =o同NoσqNロω螢oげ゜・①昌門Oo峠﹃潜自口鳥﹀岸①昌げロ尉σq°国一昌切①同茸四σqN醒目Ω①゜。o濡oゲ冨α①゜。ド刈゜一⇔,H,ロ昌山①二ρ
︵6︶ エルソスト敬度公のフランケン総督時代の統治については、<σQ一゜O①一穿ρP°。.O二ω゜ら。。よ9しu①。ぎPPOこω゜。。〒
邸↓①一一ρ≦①一ヨ碧H。。①9この二っの著作は、今なおエルンスト敬崖公研究の決定版である。
目宝゜また最近の研究として、U①冒臼ゴOぼこ︼︶δω畠≦①象。・°ずΦ国冒o鼻①冒宰窪犀op︿8目①ωHI同①ω9℃ゴP9°。ω.≦箭Nぴ自贔噂
律
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叢
論
一法
︵7︶ ゼッケソドルフは自叙伝︵勺臼.■08一一欝・。o霞。・①一び・。θ話︷Φ葺Φご一貸O①島筈け巳。。ωロ巳ピ①一序①母①ユ①PσqΦ酔ロ。ぎH$ωぎ
HO①9がある。<σqドぴ霧ω゜H①G。山゜。㎝゜
︵8︶ エルンスト敬虜公の学校・教育政策の一端については、拙稿﹁一七世紀ゴータ侯国のお上︵○びユσq犀①蹄︶と教育ー絶対
N①津N︶を残しているが、筆老は未見である。<αq門≦α﹃ρp。°鉾○二ω゜ρω゜NS
︵9︶ べ⋮クラーの人物・作品・思想については、<σqピ冒同σq⇔r固矯臼o冨目出9昌ユ。﹃じdα匹2︵一①目〒冨お︶剛凶﹃ζ葺巴琶σq①ロ
主義時代におけるドイツ小領邦の一断面ー﹂、法律論叢六三巻四・五号、三八七頁以下参照。
︵10︶ 山内進﹃新ストア主義の国家思想ーユストウス・リプシウスと初期近代ヨーロッパー﹄を参照。本書は、我が国にお
儀①゜。○ω8霞Φ8ぼ゜。o冨昌ぎ゜・二けβ富︷貯○Φ゜。〇三〇露゜・︷o円゜・oゲロ鵠σQ”駆9ゆ仙こHOO。鮒ω゜G。トの㌣ω○。腿。
︵11︶ ドイツにおけるタキトゥスの二つの方向を異にする継受と伝播︵民主的・旧身分制的解釈と絶対主義的解釈︶について
けるリプシウス研究の最良の書である。
は、<σqド署≡o≦Φ団fUこくoコ鎚①︻巴8”伍①q富oゲo昌哨﹃虫ゲo罫Nβ﹃︿①臨帥゜。。。¢Pσq.■σq窪oゲ8ゲニ8ゴ①昌ゆΦ血①q什q口σq勉o﹁↓帥o搾島−
︵12︶ω8まグζこご冨冒ω1菊①N①冥δ 言ユ霞噂島二゜。。7冒肝二゜。。ゲ8=8鑓汁自匹①ω§旨幹言∪2什ω゜三餌巳﹂貸U震ω雷障
国ΦN①℃二〇pぎ”国零く°国①賓Φp︵ゲ窃αq°ソ<o昌口o同目p氏く①口甫帥昌ユ9餓Φ゜。勺o=鉱゜。oゲ①PH①o。企ψH刈ムト⊃°
NgHり。。メQQ’隠゜なお、一岸σq巴 は、﹃ドイツ君主国﹄における叙述のスタイルの雛型を提供したのはべークラーの帝国公法
ω①㌍Qo°ω o ◎ O °
学であり、またゼッケンドルフの宗教改革史研究のきっかけを与えたのも彼であったと主張している。旨茜斜PPO二〇D°
︵14︶ この尚書長官の息子は、シュペナーとともにハレで活躍した著名な敬度主義者﹀自σq島θ工賃ヨ窪コ閃冨琴犀Φρ①①ω1嵩卜⊃①︶
︵13︶ oo①o訂 山o同鱒目①三゜。o冨菊巴ΦPω゜零.
︵15︶ ωΦ爵①巳o集剛PPOこω゜$°
である。当時彼は、ゴータのギムナジウムの生徒であった。
︵16︶ ラント条令は翌一六五三年に公布され、その後一六六六年、一六九六年、および一七四〇年に改定・増補された。<σq磨
刈刈ーδ刈゜
空o窪①ぴO二Uδ①;Φ゜・け一巳ωoゴ①昌い餌pαΦ゜・oa昌信”σqΦ昌q昌侮跨器くo昌観諏①﹁<oβド豊①ロロ氏=○。卜⊇”国α断6①♪ω゜卜⊃り山心噂ω゜
︵17︶ω①。ぎ巳o集剛↓①三゜。。ゲ2閏自﹃°・8霧富びω゜﹀島二くoqaρρω①閂8目餌三巷騨
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
93
︵18︶ 因に、ゴータではエルンスト敬度公の治世に文書館と図書館が整備され、以後、文書館員によっで優れた歴史書、地誌
が生みだされたQ例えば、.ρωpひq葺費ごω仁巳≦.中↓①口No一”震雪oH冨Ooチ①ロP口窪讐8置H刈OO”ω¢℃且。日①昌鼠H刈O学
嵩H①い頃゜即β島oな三”OoチpU壱δ日p臨09。oq興﹀器旨げ同団oゲ①臣ω汁oユωoゲo切Φ゜・oず器ぴ仁ロσq山①・。閏麟同・。言三¢日onωp。oゲ。。①昌100
甲一く讐H§αiH刈置い90.しd三〇犀口①ひωpヨヨξ昌αq︿霞゜・o臣Φ氏①昌臼Z簿o﹃ユo窪①ロN¢忽ロ霞しd①ωoげ器ぴβ口σq匹窃区マoゲ⑦腎自昌匹
顕①罠oσqεヨωOo酔⇔旧じσ阜甲9H刈おーH﹃o。㌍HoQ卜⊃㎝⋮一゜=.○巴げ犀ρ図冒oゲ①コ・口づ侮oりoゲ三①口く①眺p°・°・窪昌αQ<o昌Oo渉Pbu鮮ドーG。︾
ω07巳①昌ωB讐①の一ヨ=o嵩oσq昏ロ日Oo臣P↓①同一Hl目押H﹃OωーH刈①QQ甲いO°﹀°O巴﹃辞二噂Ooωo露o誓①ロ昌匙じdoωoゲ器皆信口σq儀
Hδ〒嵩Oρなどがこれである。これは、ドイツの地域史の伝統を考える上でも興味深い。<αQ一゜固p。。r署二国巨惹。匡巨σq讐
0卜⊃℃HOα 9 ω ゜ り ︹ 了 H 心 一 噂 げ Φ ロ 。 ° ω ゜ り ㎝ 中
ω3ロ匹op山︾三σqpげ①ロ山①N一pコ畠o°。αq①ωo窪oぴこ同oゲ①昌閏o話oずq口σq冒↓ぴ体ユロσQ①7一昌鱒じσ辰簿曾ま目匙o暮。。oげoピo昌山①ωσq①゜。〇三〇
︵19︶ <σqPOΦぎパρ国吋ロ。nけ山①﹁国屋什ρ同H剛ω゜HOQ甲①甲ゆΦoぎ国﹁う。nけ山①H閃8ヨ日ρ炉ω゜ω○。O塗
︵20︶ ℃鋤 ﹃ 昌 ① ♪ P P O こ ω ゜ H 心 ゜
︵21︶ い。言ρp°PO二ω’H°。山P>ロヨ゜ω9 なお、ゼッケンドルフの辞任にもかかわらず、エルンスト敬度公との関係は基本
れて助言を求めている。
的には損なわれなかったようである。彼は辞任の許可状を交付しているし︵一げ箆︶、その後もゼッケンドルフに対し折りに触
︵22︶ ωΦo犀①旨山o同速Oゴユω8昌ω笹びくO霞⑦山ρO。ωΦ蹄①ロN叫暖仁昌αQ’
︵23︶ 騎士領モイゼルヴィッツは、本来、プライセンラントの古い在地貴族ビュウナウ家︵ω⇔爵ロoH︶の所領であり、それは一
二世紀から確認される。しかし三〇〇年以上も続いたビュウナウ家のこの所領は一五七一年人手に渡り、さらに一五七七
年、モイゼルヴィッツにおいて手工業と商業を営む特権を有していたライプツィヒの豪商ハインリヒ・フォン・クラウシュ
プルフロ①一目一島く§Ω碧゜・冒ロ畠の手に帰した。ゼッケソドルフは、この商人の末喬から一六七六年、この騎士領を総額
国①o犀Φび︼≦.国’O二Z帥oゲ同一〇ゲ9嵩︿O昌匹①日菊詳9窃諄N①ロ昌鳥H≦p同犀け山①o犀①昌H≦⑦ロω巴≦搾N剛Nロ目﹀づ匹①昌犀①p窪①屋マαゲ鵠07①昌
二万一〇〇〇グルデンで購入したのであった。なお騎士領および集落モイゼルヴィッツとゼヅケンドルフについては、<σqド
い①ぢ風σqH刈幽H⋮H≦①嘱①び匡二﹀βω住①同OΦωo窪oげ盆くo口H≦①‘°。Φ一ミ詳N騙H≦①自ω鮎話坤NH⑩鳴膳゜
ぐ誤①匹①同犀口5津ωH°頃oOゲσq①げoぴH昌⑦口国×o①=oロN唱出国カカZ閃二⑦亀ユoぴ国①﹃ユoザo。噂山①ω山゜凋゜殉.OH臥①コ︿o昌ω①o犀o口匹o門篤
︵24︶ ゼッケンドルフの残した文書類は、二二の項目に分類・整理されている。<σqピピo言ρPPO二Q自゜㎝中
94
叢一
9A
員冊
律
法
「
︵26︶ U器矯ゲp¢雲℃﹀¢ωま町甥oゲ①象且oヨ⇔江.■oゴ①露.■8臨ωoゲΦ切①ωoゲ話ぴ¢ロσq山①゜。ω餌⇔甲臼①鴇゜・①9出⇔=①嵩㎝P吋゜ゆ匙こω゜①牢
︵25︶Q。①。ぎ巳。鼻o匿゜・叶魯器び<。HHaρ。°ω警2鼠三きαq°
︵27︶ マイアーは﹃ドイツ君主国﹄と﹃キリスト教徒国﹄の違いを強調し、それを、ゼッケンドルフのうちにある新旧の社会
︵N津冨二くO口鱒ぐ刈αゲρP餌゜○こω゜Q◎°︶
観、すなわち身分制的秩序と国家の矛盾.緊張に由来するとする。ζ゜。δびω富⇔冤琶ユ<Φ同≦帥7§σq匹①訂Pω.置O°これに
彼の自然法に対する立場、宗教的立場の論述からはじめている。ζp3﹃①ρooε巳①口⇔げ霞岳o国葺三゜匹暮σq恥2<①H婁⇔〒
対してマルシェは、ゼッケンドルフの行政論の深い宗教性・倫理性に注目し、主として﹃キリスト教徒国﹄に依りながら、
︵28︶ ゼッケンドルフのこの著作の成立事情については、<σqド≦o拝∪冨震㎝8目ごσq尻⇔喝ぽΦ<°搾ピ巳三σq°・<8ω①゜パ①巳oN典
什口口αq臨①ゲHρω齢α卑くσQピω什O=O﹃︾ω①O犀⑦昌匙OH頴℃ω幽一①㎝゜
︵29︶ 薯o=矯勲POこoD°①O中゜
Qっ゜H甲G。G。°なお、この未刊行の博士論文は、現在なお、本著作についての最良の研究である。
︵30︶ ωoぴH①げ①炉僧帥゜Oこω゜富゜。°また、イギリスのソルズベリー大主教は、ゼッケンドルフに対し祝辞を送っている。<σq﹁
♂<O開︾P帥゜○二ω.ωα゜
︵31︶ N①o自①P国.芝こ∪①同oΦ犀qヨ①巳ωoゲ①O①像⇔旨犀①一昌く①潔い口良≦戯くo⇔ω①o瞠①ロ窪o蹴ω=誘叶oユ餌いロけゲ①茜づ一臨ヨい ⇔げ①H岳Φ
H匹①①①一昌①﹁H①財αqぴonΦロdげ①H毛一ロα口”σq恥①ω一づ梓9①同pコ8ロスo旨︷Oωωδコ⇔=o。日ロω一ヨ゜。勺野①ロH刈゜︸ゲニ一昌軸﹁①ω冨oゲユ坤︷¢同Ω゜
空#①さ↓ま冒ぴq自一8ρQo’卜。㎝早卜。謬゜しかしこの見解に対してブラウフースは批判的である。<σQピゆ﹃自ロζ。噂U霞津ぎ匠ω。げ⑦
ては、<σQド窪oげω8﹃ヨ卑N燭ζ二Upωζ⇔茸N①H窪匡く8]≦°いロチ2獣ω閃ユ①砕8げ国旨σq①す切臼=口[lO°・畠HΦ謡”ω゜卜。○。い
国山Φ一ヨき昌くΦ詳い巳鼠σq︿8ωo。犀①巳o円h炉Qo陰゜。H中また、この著作に見られるゼッケンドルフの宗派的立場の解釈につい
︵33︶ ]コゲOヨPロn一βo■℃↓目P¢ω円同①α①pΩ自︷α①コ国①旨昌くO口QQ⑦O犀ΦロロO篤゜Qり゜α戯O中゜
︵32︶ <αQドOロロユ巴︷ぎσq①﹁QD①o犀Φ昌伍o目中曜−門目o⇔Pω噸ωー一心゜
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
95
@ゼッケンドルフの著作に見る小国の理念
為政者の人格から独立した客観的組織体として理論的に把握する思想をゼッケンドルフは知らなかったわけではな
いし行政それ自体、あるいはそれによって形成される政治的秩序の状態といったほどの意味である。国家を、観念上
冨ω℃仁三冒pないしそれと同じ意味でのポリツァイを用いているのである。したがって彼にとって国家とは、統治な
﹁行政﹂℃O一凶N臨を、あるいは﹁領邦﹂ピ窪匹、﹁諸 侯 領﹂閃臼ω8序β目の語を、そして稀にレース・プブリカ
ポリツアイ ラソト フユルステソトウ ム へ
︵2︶ レギメソト
なけれぽならなかった。実は彼はこのことぽをきわめて稀にしか利用せず、本文ではもっぱら﹁統治﹂ヵ①αq一ヨ①葺や
︵同鋤け一︵響 ω↓鋤けqω︶とか、人がそれによって免責しようとしている破廉恥な事柄を考えたからではないと、わざわざ断ら
当時ドイッにおいて悪い意味で用いられていたことを考慮に入れて、このことぽを表題に用いたのは、﹁国家理性﹂
人的状態を指すものとして、あるいは日常的意味において用いられている﹂からである。一方彼は、﹁国家﹂ω$舞が
ュタントの語を用いなかったのは、彼自らが﹃ドイツ君主国﹄の序文において語るところによれば、それが普通は﹁個
家長、聖職者というこの世の三つの基本的身分において各人がキリスト教徒としてはたすべき職務を説いている。シ
﹁職務﹂という意味をも持つに至ったドイッ語のシュタソト︵Qo冨口α︶と同じことぽであった。ゼッケソドルフはそれ
オロブリヒカイト
をこの本来の用語法に従って用い、前者では君主の職務としての統治・行政を論じ、後者ではお 上 ︵○げ艮ひq犀9け︶、
る外来語は、本来、﹁状態﹂を原義とし、﹁境遇﹂とか﹁身分﹂、﹁地位﹂といった語義を派生させ、さらにそこから
︵1︶
ソユタドト
﹃ドイッ君主国﹄および﹃キリスト教徒国﹄が表題に冠する﹁国家﹂ω鼠9■梓という、ラテン語のω酔讐器に由来す
ω小国の国家観
■一
法
96
い。その影響を受けなかったわけでもない。しかしそれは、実務家ゼッケソドルフにとっては無縁であり、それどこ
ろか彼のルター派の宗教的立場からすれば有害ですらあった。
さて彼によれぽ、君主の統治とは、領邦の等族︵領邦議会に出席資格を持つ諸身分︶と臣民に対し、領土とその付属
物に対して行使される、領邦内においては君主以外の誰にも帰属しない領邦の最高権力︵oび興゜■8びo叶白似ζ。茜犀①富︶︵以
皇帝の授封、および誓約式︵]円円げず自一α一σq口昌αq︶における臣民の君主に対する臣従の誓いである。しかし、この二つの根
︵3︶
下、本稿では領邦主権と呼ぶ︶である、と定義される。またこの領邦主権の根拠は、実定法的に見れば、神聖ローマ
︵4︶
である。また大公や辺境伯、伯などの帝国の高級官職保有者は貨幣給与を受けず、集落や貢租︵レンテ︶を割り
神聖ローマ帝国には、もともと領邦国家などというものは存在しなかった。皇帝が全国を直接支配していたから
ぽ、それは、領邦国家というものが歴史的に形成された個別具体的な生命体であったからにほかならない。一七世紀
︵7︶
のW・シュレジソガーは、﹁ラソデスヘルシャフトの形成﹂をおおよそ次のように説明する。
自由貴族がいれば、また臣民の中には、明示的な授与によって、あるいは古来からの慣習にしたがっていろいろな免
︵6︶
除特権を持つ臣民もいる。個々の臣民の法的地位は、実に多様なのである。なぜこのような事態になったかといえ
邦君主の封臣であるのみならず、臣民としての忠誠の誓約をなしていながら、皇帝の面前に裁判籍をもつグラーフや
のである。さらに皇帝の授封状は古ければ古いほど、記載が不完全である。次に誓約式について見れぽ、例えぽ、領
︵5︶
ーエン関係だけでは領邦主権を生み出さない﹂︵自紆日︷①巳巴津薯Φヨぎ昌↓ユ窪霞①ωξ器臼β日甘ω↓①H葺oユ巴①︶
ンも含まれている場合が多くある。ビーヒリソグの註記に引用された一六七〇年の帝国議会の判定意見にいわく、﹁レ
ーエンだけが領邦支配の実体をなしているわけではなく、そこには皇帝以外からの、とりわけ教会諸侯からのレーエ
拠から、領邦のあらゆる場所、すべての人に対する君主の一般的な支配権を引き出すことはできないという。帝国レ
[
叢
論
律
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
97
当てられ、一つの地方において城、町、村を分有していたが、相互に競合していたので、その地方全体に及ぶ支
配権を獲得することはなかった。しかしこれら高級官職保有者は、様々な理由から自己の官職を世襲化するよう
コ ル ブ ス
になり、のみならず、そのうちのさらに少数の者が戦争やフェーデ、婚姻や契約、皇帝の恩恵などによって一層
強力になり、かくしてだんだんと領邦主権が出来上がっていき、諸地域は一つの組織体に統合されていったので
ある。
領邦主権は、領邦君主の手中に獲得された諸々の支配権の単なる束ではもうなかったけれども、このような歴史的
実情に照らしてみれぽ、その実態がきわめて多様であったとしても、なんら不思議ではない。領邦は様々な特権︵自
由権︶の存在を許すきわめて不均質な構成体であり、のみならず場合によっては、領邦主権にまったく服さない人や
土地によって風穴をあけられているように、領域的完結性に欠けていた。しかもそれは、相続や契約など法律行為に
よって所有権類似のものとして処分されうるものであったのである。したがって、かかる領邦を統治するためには、
古文書と歴史によって領邦主権の起源を解明すること、および領邦の地誌・統計がぜひとも必要なのである。しかし
ゼッケソドルフによれぽ、それは、領邦君主が彼らの祖先によって獲得された支配権に満足して保持するためであ
り、隣の領邦君主に先んじるとか、自己の支配に完全に服従していないもの達から、彼らの残されたわずかばかりの
︵8︶
自由を奪ったりするためではない。ゼッケンドルフの統治論には、確かにリプシウスの思想の継受の面が認められ
る。しかし同時に、支配権をいわぽ獲得財産として扱い、管理するという、中世以来の伝統的な統治の継承の面も濃
︵9︶
厚に残っているのである。彼が雛型として示した領邦財産の一覧表や被課税財産一覧表は、例えば、=二七八年相続
分割のために作成されたヴェッティン家の財産総目録や、一六世紀に作成された課税台帳ときわめて類似している。
︵10︶ ︵11︶
ドイツでは近世においても、支配の家産的観念は克服されなかった。領邦の相続分割がしぽしば行われ、それは小
98
叢
論
律
国分立の主要な原因であった。ゼッケンドルフは相続の問題を統治の技術上の問題として論じている。その場合、長
︵12︶
子相続制、分割相続制、共同統治のいずれか一つを特別は擁護しているわけではなく、立場は中立的である。これに
対し主君のエルソスト敬度公は、一六五四年に作成した政治的遺言のなかで、領邦の均等相続分割の利点を次のよう
に述べている。
﹁︹長兄のみならず︺弟も、領邦の立地や状態に、また領邦で行われる様々な仕事に精通し、かくして怠惰や、
︵13︶
その他無益な行動から引き離されることを余は有益かつ良いことと考える。﹂
② 平和国家
﹃ドイッ君主国﹄の第一部で領邦国家の外面的特質を述べた後、ゼッケンドルフは第二部および第三部において統
治論を展開する。その最大の特色は、きわめて強い宗教性と徹底した目的合理性に求められるが、同時にそこでは権
力政治的観点がきわめて希薄であるということも挙げられるべきであろう。まず、この点からはじめる。
レギメソト
からの侵害に対しては裁判によって、あるいは軍事的手段によってすみやかに、しかるべく対処すべきこと、これら
や反抗的な臣民を処罰すべきこと、国境を防備し、国境紛争の解決にあって君主の名誉も守るべきこと、外国や隣邦
において、論じられているのは権力の保持というよりは、むしろその行使の制限である。君主に敬意を払わない臣民
持﹂︵国昏巴↓ロロσq鎚霞ピ①コ伍Φの日閃貯ω二ざゲΦ昌=①護ω。プβ。hけ一一〇ゲΦロζ蓉聞β昌価=oゲΦ凶↓︶を扱った二部第七章の前半部
︵15︶
極的には﹁神の栄光﹂であると主張する。しかし、彼が統治の第一の任務とした﹁領邦君主の支配権力と主権の保
実現される正義と平和、および福祉と繁栄の主要目的は﹁国家ないし統治の威信、力、主権の健全な保持﹂であり、究
︵14︶
ポリノアイ ゼッケンドルフは、権力の保持の重要性をまったく無視しているというのではもちろんない。彼は、立法によって
一法
絶対主義時代のドイソにおける小国の理念一
99
は当たり前のことである。しかしゼッヶンドルフは、同時に、権力の行使にあたっては皇帝の尊厳と帝国法に配慮
し、領邦の分割や相続、統治を規定した契約を遵守し、臣民の自由と権利を尊重すべきことを説き、これにほぼ半分
もの頁を割いているのである。さらに、この点で、この七章前半部に付された補遺は大変示唆的である。そこでは、
対外的関係における権力の保持のための提言が、おおよそ次のように語られている。力の必要性を認めながらも、権
︵16︶
力志向を抑制せざるを得ない小国の立場がそこに示されている。
国家間の紛争解決は、和解が最善の方法である。しかるに今日、重大な利害や権利は、大きな力によって援護さ
れ、保持されなけれぽ、法それ自体ではなんら役には立たない。したがって、自己の力を保持し、増強する者の
みが国家を最も良く守るのである。しかしすべての者が同じことをすることは不可能であるので、中小の領邦君
主は、いかにして力を獲得し、隣人や敵対者の餌食とならないようにすべきかを考えねぽならない。というの
も、あまりに自分の力を振りかざすことにことに専念し、ために没落してしまうということもあるからである。
彼らは、常備軍よりも、巧みな方法、巧みなことば、金銭によって成果を上げたほうが賢明である。彼らにとっ
て常備軍は金がかかりすぎ、国を滅ぼす。したがって、常備軍の代わりに、防衛能力を持つ臣民すなわち民兵を
︵17︶
擁し、お金を貯えるということほど必要で、称賛に値することはない。
ゼッケソドルフは、つづいて倹約による貯蓄を説くのであるが、別のところで、ネーデルラントの自身の見聞に基
つく人口・産業振興政策の提言も行なっている。彼が重商主義者あるいはカメラリストとされるゆえんである。一方
︵18︶
彼は、軍制について、民兵制をキリスト教徒の良心の上からも是認されるものとして擁護し、当時一般的であった傭
兵制を拒否する。なぜなら後者において、隊長であれ、その募集に応じた兵士であれ、その軍隊は戦争を行なう正当
︵19︶
な理由も権利もないのに戦場におもむくからである。とりわけ、単なる功名心や金銭、同盟関係のためにだけ戦争を
100
行うことは、絶対に許されない。確かに、自己の領邦や帝国の防衛のためであれぽ傭兵制は許され、臣民も人殺しに
ついて良心を餐められることなく、それに応ずることができる。しかしその場合でも、兵士は、別のなすべき職務を
蔑ろにして、悪しき目的のために、放蕩な生活のために兵役に志願したのではないかどうか、自ら反省しなけれぽな
らない事情が依然として残るのである。ゼッケソドルフによれば、心の幸福についで大事なこの世の宝は、平和であ
る。お上は平和の維持のために作られたものであるか、そうでなくともそれを最も重要な職務とする。人間を殺害す
る戦争は、いかなる理由があろうとも、国土防衛に限定されなければならない。しかも正当防衛の理由がある場合で
にのみ許され、臣民の義務として遂行されなけれぽならないものなのである。
兵制にともなう社会的弊害を避けるという意味でも、より確実で理にかなった軍隊でもある。戦争は国土防衛のため
ば専守防衛の軍隊であるが故に、道義にかなっている。のみならずそれは、兵士とりわけ退役兵士の乱暴狼籍など傭
あるとさえ主張される。このような意味において、ドイソの古来の民兵制こそは、国外の戦場に動員されない、いわ
も、お上は大きな危険や害を招くことなく、それを行う必要があり、さもなければ恥辱や不法を忍んだほうがましで
叢一
論
律
⑧ 教育・福祉国家
小国は、権力政治を展開し得ないが故に、
その傘下にある限り、その支配の正当性は、
内政に精力を集中する。また、神聖ローマ帝国がなおも存続し、小国が
︵21︶
必要な内的秩序をうちたてるという使命の中に求められたのである。宗
い原則である。この原則からして、各人は武器を取り扱うことができるということを卑しいことと考えてはなら
︵20︶
ず、弁論や読み書きと同じように高く評価し、必要なこととみなさなけれぽならない。﹂
﹁すべての者が自己の肉体、財産、血と同様、自己のお上と祖国を防衛する義務を持つということは否定し得な
一法
教的・倫理的色彩を色濃く帯びたゼッケンドルフの統治論によれぽ、君主の統治は、神によって地上の代理人として
強化されねばならない。また、農民の土地の取り引きが、不必要な争いを未然に防止するために制限されたり、建物
る悪徳行為が広まり、帝国法に規定された刑罰の威嚇ではとても防止効果が期待できない場合、条令によって刑罰が
さらに、領邦で用いられている現行法律の中には、ラント条令において特別に触れられるものがある。例えば、あ
れ、彼らの行なう裁判が当該裁判権の所有者によって不当に制限されたり、阻害されたりしないよう、またそこにお
︵即︶
いて規定の法律以外のものが用いられないよう、監督権を行使するのである。
組み込まれることになるのである。例えぽ、領邦君主はこれらの裁判所に対し、法律専門家が裁判官として配置さ
︵%︶
されていたが、しかしそれらは行政的配慮によって自立的な支配権としては骨抜きにされ、領邦の裁判機構のなかに
はじめとする諸領邦においては、裁判権、とりわけ下級裁判権は貴族や、都市および村落の自治体の手に広範に分有
法律を司る法律専門家が立法によって特別に配慮されねばならないとされる。当時、中部ドイッのヴェッティン家を
フによれば、これらの法律の知識は大変むつかしく、またきわめて広範囲に及ぶので、裁判所組織と手続き、および
その第一目的は、正義であるが、それはさらに三つある。そのうちの二つは、アリストテレスの整正と配分の正義
︵25︶
からとられた法律的正義であり、慣習法や都市法、ラント法、帝国法などの現行法を補うものである。ゼッケンドル
︵24︶
︵ラソト条令︶によって実現され、それは三つの目的を持つという。
祉︶とその実現のための行政という二重の意味に理解される。そして、この行政という意味でのポリツァイは立法
される。この場合ポリツァイとは、臣民のキリスト教信仰にかなった良く秩序づけられた幸福な共同生活︵公共の福
︵23︶
栄光の実現を目的とするのであって、その主たる活動領域は﹁正しく良く整備されたポリツァイのうちにある﹂と
︵22︶
任命されたお上の職務である。したがってそれは、物心両面にわたる臣民の共通の利益と福祉を、究極的には神の
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念一
101
102
︵28︶
の建築が、防火や保健衛生の観点から規制されたりする場合があるのである。
しかし正義は、このような物的、外面的な側面に尽きるものではない。ゼッケンドルフは、立法の第一目的を論じ
ボリッアイ
た箇所で、﹁キリスト教的行政﹂︵Oげ一゜。島。匡Φ℃o一一8矯︶における正義は、規律ある立派な心とおこないという、本来
︵29︶
教会や学校、家庭における教育の用件とされるものをも含むべきことを主張している。
教育・学校の重視は、ゼッケンドルフに限らず、ルター派の国家思想家に共通したきわめて重要な特徴である。学
ポリツアイ
校は、キリスト教の真の教えを植え付け、共同生活とって有為の人材を育成するための﹁国家の苗床﹂である、など
科医の任命、ペストその他の流行病の予防、健康に有害な火酒・タバコなどの禁止ないし制限、路地や庭の美化など
このために規律ある日常生活と正しい結婚生活が宗教・世俗の両行政によって定められ、さらに産婆や、医師・外
の臣民がいることほど良い宝はない。﹂
﹁すべての人にとって心の幸せの次に、健康ほど貴重なものはなく、また統治においても身体と心が健全な多数
法の第二目的︶は言うにおよぼず、臣民の健康と暮らし︵立法の第三目的︶にも配慮しなけれぽならない。
︵32︶ ︵33︶
臣民の心と身体の幸せをはかるのが行政の任務であるとするならば、それは正義の実現のほかに、さらに平和︵立
理論的、体系的解説である。
ポリツアイ
には家庭教育一般にも言及しているが、それは、後に模範的な教育国家と賞賛されたエルソスト敬度公の教育政策の
︵30︶ ︵31︶
ナジウム︶および大学の組織・制度、教育内容と教育方法を論じ、また官吏の養成と君主や貴族の子女の教育、さら
治、理科・算術などの、いわゆる﹁実科﹂︵菊$=①p︶が重んじられた。ゼッケソドルフは、小学校、高等学校︵ギム
おいては教義よりも倫理・道徳が、またドイッ語の読み・書きや、社会生活のために直接役に立つ歴史・地理・政
といわれる。その際、敬度主義的傾向を帯びた一七世紀の思想家においては、教育の実践的価値が、すなわち宗教に
叢一
論
律
一法
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
103
によるきれいな水・空気の維持、良品質の食料の調達、粗悪な食料の排除、さらに困窮者の扶養など、包括的な行政
︵鈎︶
ゼッケンドルフが開陳する政策提言は、きわめて包括的である。この点において彼を重商主義者とみなし、また彼の
措置が講ぜられる。のみならず行政は臣民の暮らしの保全、産業の育成、国富の増大にも配慮しなけれぽならない。
︵35︶
発言のなかに国民経済の萌芽を認めることもできるであろう。しかし彼は、真の意味での重商主義主義者ではない。
︵36︶
彼にとっては、富や力自体が行政の目的ではあってはならない。それは、ルターが語ったごとく、神の賜物であり、
神の御心にかなった思慮深い節度ある生活の果実である。したがって、怠惰や浪費を戒め、勤勉・倹約・協調・恭順
などの徳目を育む青少年の倫理・道徳教育、冠婚葬祭における奢修の制限、衣服の規制、高利貸し・ペテン師・賭博
師・乞食・放蕩者などの有害な人物の取締といった、いわぽ社会的規律化が中心に据えられ、経済政策はその一環と
︵ 7 3 ︶
されているのである。
大略以上のようなゼッケンドルフの行政論は、伝統的な身分的秩序の回復・維持を目的とする。しかしその徹底し
た合目的性、すみずみまで目のいきとどいた配慮と計画性において、近代的行政の開始を告げるものである。ところ
で、こうした行政を現実に遂行するためには人的および物的な諸条件が整えられていなけれぽならないことは言うま
︵38︶
でもないが、この点についても彼は詳細な考察を与えている。まず、財政について見よう。
カメラリスト、ゼッケソドルフは、財政を統治活動の基礎とみなす。
﹁お金や適度の収入に欠如したり、収入以上に消費がなされたりする場合、統治のいかなる部分も立派に、うま
︵39︶
くやっていくことができない。﹂
レガじリエソ
この場合彼は、財源を君主個人の私有財産︵所領︶と、君主が君主たる故に所有する高権︵鉱山、貨幣、護送・
関税、レーエン、狩猟・漁猟、河川森林、租税、国庫収益権︵例えば、罰金、相続人のいない遺産の没収など︶、公
104
叢
論
律
的夫役、郵便など︶とに分けるが、支出面においては公私を区別せず、①家庭の生活費、②人件費︵廷臣、中央およ
び地方の役人の給与︶、③領邦君主の地位︵威信︶および支配権を維持するための費用、④公共事業費︵城や役所な
どの建築物、防備施設、道路、橋などの建築と維持管理のための費用︶、⑤教会および学校の助成、貧者の扶養およ
び功労者の褒賞などからなるキリスト教徒としての﹁慈善事業﹂︵ζ臨匹① ωPO﹃Φ︶費、⑥君主の娯楽費、以上の六項
目を単に列挙しているだけである。また租税を限定された状況下において微収されるべき臨時収入とみなす限り、彼
︵40︶ ︵41︶
の財政は基本的に直轄領経済である。彼は、これをキリスト教の倫理・道徳的な観点に立って私人の家政のアナロジ
ーでとらえている。お上の財政を扱った﹃キリスト教徒国﹄二部=一章によれば、君主が避けるべき悪徳は、華美や虚
栄、快楽のためにする浪費と、取り交わした約束に違反して臣民から不法に、暴力的に金を取り立てる金銭欲である。
﹁私人が不正と暴力によって富を獲得し、それを自堕落に消費する場合、人はこれを許さず、キリスト教に反す
ることとみなし、説教や告解において取り締まる︵O①昌の一同Φ昌︶のであるが、このことは、高い身分の者や官職に
︵42︶
ついている者に対し劣らずなされなけれぽならない。﹂
︵43︶
ゼッケンドルフの見解には、間接税︵アクツィーゼ︶擁護説が示すように、経済政策との脈絡において財政をとら
高権とは、個々人が行使できないもの、あるいは個々人がそれを引き受けるには、あまりに大きな力と費用を必要と
る君主の特別な私有財産とはせずに、公共の福祉という行政の観点から捉えていることは注目に値する。すなわち、
いう古来の考えを基本的に支持するのである。しかしこのような伝統的な財政思想のもとにあって彼が高権を単な
レガロリテン
る奢修と廷臣や軍人の人数が削減されなけれぽならないとする。こうして結局彼は、倹約と家政上手を旨とすべしと
︵44︶
入の増加をはかることは今日、困難であるので﹂、支出が、とりわけ宮廷費が、なかでも君主の威信表示のためにす
える視点が見られないわけではない。しかしながら、﹁不正をともなわず、また臣民の負担を加重することなしに収
一法
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105
︵ 4 5 ︶
する権利なのである。例えぽ、狩猟高権は次のように説明される。
動物に対する支配は、本来、自然法と神法によって人類に与えられた権利であった。しかし長年の間に、この権
利は君主にのみ帰属するようになった。それは君主の娯楽のためであり、また彼らのみが狩猟を行う力と手段を
持つからである。このことはまた、平民を彼らの日常の仕事に留まらせ、彼らが狩猟に必要な武器を手にするこ
とによって強盗の悪に染まることがないようにするためにも、有益である。一方、君主は有害な野生動物を駆除
︵46︶
し、その害を防ぎ、また農耕に害を及ぼすほど野生動物が繁殖することがないよう配慮しなけれぽならない。
④学識の国
国家実務を担う人材は、物的基盤に劣らず重要である。ゼッケンドルフは、﹃ドイツ君主国﹄のなかで君主のお上
としての職務とそのあるべき姿について、君主の親政、役人の適格性とその養成、職務内容、登用・給与・昇格方
︵47︶
︵48︶
法、および官庁組織と規律について、実に詳細かつ包括的に論じている。その凡その輪郭を示すことだけでも私の手
︵49︶
に余るので、ここでは官僚、しかも尚書長官や参議官などの高級官僚の適格性の問題に焦点を絞って考察する。
近世において参議官の職は、中世のそれとは根本的に違い、きわめて困難な仕事となっていた。ゼッケンドルフ
は、一五〇年ほど前まで参議官、とりわけ貴族出自の参議官は宮廷よりも自己の所領において多くの時間を過ごし、
そのわずかばかりの仕事を遂行するためには週に一日か二日もあれぽ十分であったとした上で、彼の時代の参議官の
仕事を次のように述べている。
﹁今日では、人は︹参議会において︺文書を作成したり、伝達したり、討論したり、説明したり、反論したりす
ることに︵ωoゴ器ぴ①Poo日日β巳o蹄⑦戸ooロ#鋤象oマoPら①αβoマ①P冨h信二冨昌︶、また情報を交換し、それを分析
律
叢
106
論
したりすることに︵8講①昌op島器P℃Φ郎雲同博①⇒︶、さらにそれに劣らず仲裁や話し合いなど、︹個々の参議官に
委任される︺用務に︵。o目巨゜。°。凶opΦP一葺臼唱oω三。pΦP8⇒︷⑦器自Φ影︶忙殺され、上の者も下の者も日夜休ま
︵50︶
るところを知らず、役人は疲労困備心し、健康を害し、命を縮める。L
それ故、参議官には十分な給与を支給しなければならないというのが彼の意見であるが、それではこのような仕事
に必要な適格性はどのようなものであろうか。彼は貴族の出自や、貴族の宮廷風の教養だけではもはや十分でないと
して、専門的な知識を挙げている。
﹁貴族であること、語学ができること、武道ができること、宮廷のしきたりや慣習を知っていること、誠実な心を
持っていること、これらは褒むべき良いことである。しかしそれだけでは、参議会において指揮をとったり、顕
職に就任するためには十分でない。そのためにはさらに多くのこと、とりわけ公法・私法の知識、仕事の取り扱
︵51︶
い、また文書作成にも精通することが必要である。﹂
ルター派領邦において教育がことのほか重視された背景には、その職業聖召観によって出生身分が否定され、社会
幸であると思うものは、全く思慮を欠く。﹂役人には適格性のみならず、礼儀、謙虚、節度、敬度、品行方正、ある
︵国︶
も尊敬もされないと考え、あるいは自分と自分の家族が高価な衣装を身につけ、贅沢な食物をとるのでなければ不
﹁卑しい身分から名誉ある地位に上昇しながら、節度を守らず、もしありあまるほどの称号で飾られなければ、注目
ども、学問によって身を立てようとする人々に手出ししたり、その幸運を妨げることはできないのである。しかし、
の身分的秩序を機能的にとらえる思想が生みだされたということがある。この場合、産業のさしたる発展を見なかっ
︵52︶
たドイツ小領邦において、学識官僚身分がきわめて重視されることになる。ルターによれば、学問による地位の上昇
︵53︶
は﹁弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げる﹂神の業である。したがって、誰も、貴族といえ
一法
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
107
いは誠実、忠誠心などの諸徳性が備わっていなければならないのである。
ところで、このような高級官僚の適格性と官職倫理の強調は、統治・行政の実務における君主親政の意味の相対的
低下と表裏の関係にある。たしかに﹃ドイツ君主国﹄において国家活動の中心に据えられているのは、他でもない、
君主であり、そこでは君主が親政においてなすべきこと、官吏の登用と扱い方、君主の備えるべき諸要件、君主の子
弟の教育について、それこそ微に入り細にわたって論じている。しかし他面でゼッケンドルフは、君主の仕事のしす
ぎを戒めていることが注目される。
︵55︶
まず彼は、君主にとって臣下は是非とも必要であるという。第一に、君主は、その職務を神から委ねられてはいる
が、過ちを犯しうる人間であるからである。それ故に、無益で有害な考えや過ちを諫めてくれる、良き友と呼べるよ
決して反逆でもなけれぽ不忠でもない。避けるべきは、媚びへつらう廷臣である。第二に、いかに英明なる君主とい
うな忠実なる臣下・参議官が必要なのである。この場合彼らが法と良心に照らして率直に発言し、助言することは、
︵56>
えども、統治の全責任を独りで背負いこむ必要はないからである。それは、大変危険なことである。ゲルマン的自
由から生まれた良き統治は、君主が参議官と等族の助言に耳を傾けるということである。これに対し統治の弊害は、
︵57︶
君主の怠惰や快楽癖、暗愚から、のみならず君主の仕事のしすぎからも生まれる。それは、頭脳明晰なる君主にしば
しぼ見られる現象である。しかし、過度の倹約家にして、几帳面かつ仕事熱心であり、忠実で有能な参議官をも信頼
できず、あらゆる事柄にいちいち口を出さざるをえないような君主は、仕事に対する役人の意欲を削ぎ、彼らの、ひ
いては臣民の不満と憎しみを買い、結局自己の君主としての威信を失うことになるのである。つづいてゼッケンドル
フは、旧約のソロモソ王を引き合いにだし、君主が騎兵や馬車を備え、立派な家を作り、美しい貴婦人と結婚し、美
味しいものを飲食し、すぐれた学者、芸術家と交際することは立派なことであるとする。のみならず、苛酷な君主の
108
デイヴエルテイスマン
︵ 認 ︶
職務の見返りとして、また君主の威信のために神がお許しになったこのような﹁喜遊の機会﹂を拒否することは罪で
あると彼が主張するとぎ、そこには、君主を統治の実務から遠ざげ、威信表示のための贅沢の領域に追いやろうとす
る意図すら感じられないでもないのである。ゼッケンドルフの官僚︵じdΦpヨ件①︶ は、まだ君主の臣下、下僕である。
しかしながら我々は、以上のような彼の論述のなかに確かに、﹁一八〇〇年頃に上からの革命を成し遂げることがで
︵59︶
きた自覚的な指導者層の形成の始まり﹂を認めることができる。
︵60︶
しかしゼッケンドルフは、官職を増やし、官庁を含む広い意味での宮廷の規模を拡大することには反対する。もと
彼は、威信表示の必要性を説くと同時に、偲傲、尊大、過度の贅沢、功名心、自惚れを厳しく戒めるのである。また
能を認めているわけではない。このような議論をゼッケソドルフのような人に求めること自体、ナンセンスである。
宮廷、立派な衣食、豊かな贈り物、慈善のための基金の創設などは偉大な君主、為政者にふさわしく、他の誰にもで
︵61︶
きないことであり、高い名声と威信を呼び起こすものであると述べている。しかし彼は、宮廷に特別な権力政治的機
より威信表示の場としての宮廷の意味を認めないわけではない。彼は、上述の箇所以外のところでも、立派な建物と
叢一
論
律
族のフラストレーションであるのか、あるいはまた、はたしてそこに権力政治的モーメントを認めることができるの
数も著しく増加する。それはフランスの影響であるのか、あるいは政治の実務からだんだん疎外されていく君主と貴
︵62︶
廷において指導的地位についていたのである。しかしここでも一八世紀になると、宮廷規模が顕著に拡大し、貴族の
∼五人である。ゴータでは、あたかも﹁知恵ある者が天空を支配する﹂ように、学識者が官庁を含む広い意味での宮
宮廷師範︵寓O︷5PΦ一ω仲①層︶や式部卿︵鵠ohヨ霞ω島ρ。εなどの重要な宮廷官職についた貴族は、彼の治世中、わずか四
ぽ、エルンスト敬度公の宮廷は規模が小さいだけでなく、貴族の数がきわめて少なく、しかも各官庁の長官、および
彼の著作が対象とする領邦の宮廷は、そもそも、そこに権力政治的機能を期待できるようなものではなかった。例え
一法
一絶対主i義時代のドイツにおける小国の理念
109
か、興味深い問題である。
⑥ 立憲国家
以上、ゼッケンドルフの国家論は統治・行政論であり、国家がその活動の面においてとらえられていることが明ら
かである。しかしだからといって、彼を、臣民のあらゆる生活領域に介入する無制限の行政の権化とみなしたり、彼
︵63︶
には憲法論的視点が欠如していると考えてはならない。というのは、彼は、他面で、君主の統治・行政を制約する、
神法と自然法、および歴史的に形成された実定的な法秩序に基礎を置く領邦の憲法的枠組みをも論じているからであ
る。ゼッケソドルフは、立憲国家論の先駆者といえなくもない。
︿1> まず第一に、領邦君主は、神聖ローマ皇帝と帝国に対する義務によって制約される。ゼッケンドルフが帝国を
いかに重視していたかは、自らそれについて特別に一書を著したということからも容易に推測される。しかし彼は、
そこにおいて﹁四帝国理論﹂を受け継いではいるが、三十年戦争前の公法学者のようには帝国の政体に関する理論的考
ライプニッツのように改革のための意見を提起しているわけでもない。﹃ローマ・ゲルマン人の公法﹄の目的は、そ
察をもはや行ってはおらず、また帝国の様々な弊害を認識していなかったわけではないけれども、プーフェンドルフや
︵64︶
の長い副題が示すように、歴史的に生成した、現にあるがままの神聖ローマ帝国の状態の叙述である。帝国公法学者ゼ
ッケソドルフにしてみれば帝国が君主政体であるとか混合政体であるとか、あるいは君主主権であるとか議会主権で
あるとか、政体論はもはや意味がない。帝国の国制的現実それ自体が、領邦の存立の前提として受け入れられなけれ
ぽならないのである。すなわち、領邦君主が帝国と皇帝に対して義務を有するのは、領邦が帝国内に存する国であ
り、領邦君主が帝国の最高の長たる皇帝によって国とその支配権を授封された帝国諸侯であるからに他ならない。具
律
110
体的には、領邦君主は皇帝の権威・名誉・支配権を尊重し、帝国の法律や条令を遵守し、帝室裁判所や帝国宮廷裁判
所の帝国裁判所を、彼が裁判籍を有する法廷、あるいは上訴審となし、外敵に対して帝国を防衛し、国内の平和を維持
︵65︶
する義務を負い、この限りにおいて彼の統治・行政が制約される。この場合とりわけ注目されることは、彼が領邦君
主による臣民の自由と特権の侵害に関し、あるいは逆に領邦君主の権威と地位の保持にかかわる事件に関し、いわぽ
法の番人としての帝国の機能を重視しているということである。また﹃ドイッ君主国﹄の注釈者ビーヒリングは、領
︵66︶
邦君主は等族と臣民の権利を保障した帝国の基本法を遵守する義務を負うとした上で、帝国と領邦の相関的関係を次
のように述べている。
うとしたのに対し、彼はこれを断固拒否した。
フリーデンシュタイン城に招いたときのことである。晩餐において選帝侯がフランス国王の健康を祝して杯をあげよ
敬度公は皇帝レオポルド一世によって仲裁の任務を委任されたが、マインツ選帝侯ヨーハソ・フィリップをゴータの
じ、前者はフランス軍の助けを借りて軍事的圧力によって領邦主権の承認を強制しようとした。この時、エルンスト
一六六〇年、教会選帝侯国マイソツと、テユーリソゲンにおけるその飛び地エアフルトの市民との問に紛争が生
れるが、次のような有名なエピソードがある。
︵69︶
は、ヴェストファーレン条約に基づく帝国体制の維持のためにきわめて積極的な活動を活動を展開したことでも知ら
者によって擁護され、のみならず領邦君主によっても現実に実践された。ゼッケンドルフの主人エルソスト敬度公
︵ 6 8 ︶
帝国および皇帝に対する忠誠は、独力では存立し得ない小国の特徴である。それは、多くのプロテスタントの法学
﹁強力な皇帝が領邦君主の主権を不当な恣意的な統治によって侵害しようとするとき、それは重大な訴訟事件と
︵67︶
なるように、領邦等族も︹君主の不当な統治があった場合︺訴えるべき正当な理由を持つ。﹂
叢一
論
@
一一
絶対主i義時代のドイツにおける小国の理念
111
︵70︶
﹁違います。我々にもっと関係の深い皇帝の健康が先です。﹂
三十年戦争後のヨーロッパ大陸においては、政治的にも文化的にもフランスのヘゲモニーが強まっていくが、エル
ンスト敬度公やゼッケンドルフにはそれに対する強い危機意識と愛国心が感じとられる。
︵71︶
次に、領邦君主は、祖先の指示や、相続に関する契約などに制約される。一七世紀のテユーリソゲンの小国分立の
世界においては、長子単独相続制、分割相続、共同統治のいずれを取るかという問題は、変更可能な実定法上の問題
であり、ゼッケンドルフはこれを多分に統治技術上の問題として扱っている。しかしそれなればこそ、遺言の形で良
き統治を子孫に伝えんとする祖先の意思は、統治体制の安定的継続を確保するという意味において、今日の憲法にも
︵72︶
匹敵する、きわめて重要な意味を持ったのである。一六五四年のエルンスト敬度公の政治的遺言は、一六・七世紀に
︵73︶
おける最も典型的かつ模範的なものである。七人の主だった廷臣と参議官によって署名・捺印され、城の会議室に集
まった等族の代表の面前で読み上げられたこの遺言は、神への祈りにはじまり、ルター派の信仰の堅持、教育・学
︵74︶
校、福祉の重視、近隣の諸侯との平和共存、領邦の問題とりわけ租税問題における領邦議会の開催、公明正大な裁
判、役人の選抜、処遇、身分保障、さらに宮廷の規律、奢修について規定しており、その内容と精神はゼッケソドル
フの﹃ドイツ君主国﹄および﹃キリスト教徒国﹄とほとんど一致する。奢移の戒めなどは一層厳格ですらある。
﹁君主の職務は華美や外面的な催物ではなく、統治の堅実な遂行と勤勉で適切な監督のうちにあり、国のどこで
も教会の仕事も世俗の仕事も正しくとり行なわれ、神の栄光が促進され、誰にも等しく公平な法が与えられ、保
護が与えられ、善が報われ、悪が罰せられ、約束事が立派に遂行されるようにすることである。このことを心に
︵75︶
留めておくならぽ、君主の威信や権威は生まれないはずがない。﹂
そして第三に、領邦君主は臣民との関係において、彼らのいわぽ﹁人身の自由﹂、﹁所有の自由﹂、﹁裁判の自由﹂お
律
112
︵76︶
よび﹁宗教の自由﹂を保障しなけれぽならない。
﹁領邦の臣民は奴隷、つまり身体と財産とともに所有物として主人に服属するものではなく、合法的政府の下
に、肉体と精神の幸福のために集まった、自由に生まれついた人間として統治され、神法と自然法と帝国法によ
︵77︶
って定められたお上によって保護されるべきものである。﹂
したがって臣民は、自己の身体と財産に関し法的な保護を、つまり公正な裁判を君主に求める権利を有し、もしそ
れがかなえられなけれぽ、苦情を申し立て、場合によっては帝国の裁判所に上訴することができる。一方、君主は臣
ない。
おいてである。彼は司法事項︵言ω臨N器。げΦ︶とポリツァイ事項︵℃o評①冨⇔oゴ①︶という問題の立て方で議論してはい
だ身分制的な自由権なのである。またこの場合、この自由権が問題とされているのは、主として租税問題との関連に
︵78︶
﹁古くからの慣習による﹂︵くo口①=Φ日げ①時oヨヨΦ昌︶﹁特権﹂︵①×①日導島℃げ鉱器︽ロロoq鴇津Φ矯ゴΦ一け︶であって、いま
個別・具体的な既得権であり、﹁明示的な授与﹂︵磐ω鐸庁匹圃。ゴΦげΦαq口巴一σq口昌σq二巳くΦ二Φ嘱‘口σq︶による、あるいは
間の使用と所有によって正当に持ち来った﹂︵ユ霞。ゴ゜■o﹃畠窪σqΦ年窪。ぴ¢民びΦ゜・冨H①筈§似。■ω蒔げΦ茜。ぴ同β。。窪︶
﹁自由権﹂と訳すが、いうまでもなく、近代的な意味での基本人権を構成するようなものではない。それは、﹁長い
まず、ゼッケンドルフの著作にしぽしぽ出てくるh器旨①一8昌信民げ①漆σq託ωω①という用語は、これを私は一応
領邦議会の組織と手続きがかなり詳細に叙述されているが、これは省略する。基本的な問題のみを取り上げる。
議会を召集し、その意見を聞き、また請願を受け付けることは、ほむべき良き慣習とされているのである。つづいて
た契約や領邦議会の決議を変更する場合も同様である。のみならずこれ以外にも君主が領邦の統治問題のために領邦
民の財産権との関連において、租税を徴収する場合、領邦議会の同意を得なけれぽならない。これは、等族と交わし
叢一
論
一法
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
113
次にゼッケンドルフは明らかに、領邦議会を自由権を守る機関とみなし、こうした自由な国制をゲルマン以来の古
き良き自由の伝統として擁護している。彼によれぽ、﹁我々の祖国﹂は﹁たくさんの自由があり、自由の本拠地とし
︵79︶
て、詩人たちによって﹃ゲルマン人およびスキタイ人の善﹄と呼ばれた所である。﹂確かに彼は、ある領邦において
領邦議会が欠如しているからといって、専制的支配が行われているとはいえないと語る。しかし、領邦議会を持つ統
︵80︶
治形態は、それを欠如した統治形態より﹁我々の自由な祖先の古き方法により合致している﹂と考えるのである。さ
らにこの場合、ゼッケンドルフの描く領邦身分−議会制︵ピ9民ωけぎ臼ω。冨くΦほ霧窪口ひq︶は、近代的代議制への移行
段階にあることを如実に示しているように見える。この点をもう少し詳しく見よう。彼は、﹃ドイツ君主国﹄の補遺
の中で領邦支配権︵︼じ餌]Pユ①ω7Φ目HoロOゴPh辞︶と家産的支配権︵即げぴ①旨。・。訂津︶を区別しなけれぽならないとして、次の
ようなおもしろ議論を展開している。
なぜなら、我々の太古の祖先においてしばしぼ見いだされ、また今日でもいくつかの地方においてそうであるよ
うに、自己に直接従属する臣民を持たず、裁判権を世襲的に所有する等族だけしか従えない者でも、したがって
単純な裁判と家政︵︸由口βωぴロ一梓︶のために任命される役人︵︾ヨニΦ信畠︶を持たなくても、領邦君主たりうるから
である。国家︵菊ΦσQ一ヨ①巨︶が新たに樹立されるとき、為政老は直接従属する臣民とアムトによって国家を運営
すべきか、あるいは公的収入・租税によって運営すべきかという問題が生ずる。この場合、前者の方法が取られ
るべきであるというのはもっともであるが、次の二つのことが留意されなけれぽならない。すなわち、第一に、
為政者は劣悪な家政によって、および悪徳の役人によって負債を抱え込み、高級で大きな仕事︵げo﹃①ロ昌α$眉や
︷臼Φ。。p。ゴ①︶を蔑ろにするようなことがあってはならないこと、第二に、自己に直接従属する臣民および役人と
︵81︶
等族との問に生ずる争いに関与せず、すべての臣民に対して公平たるべきであるということである。
律
114
かつて、その集積によって領邦支配権を生み出した荘園支配権と領主裁判権は、今や、統治・行政権力としての領
邦支配権の本質的構成要素ではなくなり、その財政的価値が認められるにすぎない。ということは等族が所有するこ
うした領主的支配権は、自立的な政治支配の性格を失い、私的所有権に近づいていった、ということである。実際、
中部ドイツにおいては、騎士領や下級裁判権は自由に相続され売買された。それ故に、家産的支配権なのである。
それでは、このように支配者としての地位を奪われつつあった等族には、どのような役割が期待されたのであろう
ポリツアイ
か。まず彼らは、在地における下級オーブリヒカイトである。もとよりその地位は、先に見たごとく、行政によって
む、領邦の全臣民の、真の意味での代表ではない。そもそも臣民は、意思表示の権能を制度的にまだ与えられてはい
の自由のために﹂領邦君主に直接従属する臣民をも拘束する。しかし等族は、自己の領民と領邦君主の直属臣民を含
︵83︶
とほとんど同列に扱っていることが注目される。また領邦議会議決は等族およびその領民のみならず、﹁平等と共通
︵82︶
の他の領邦問題について諮問に応じた。この場合ゼッケンドルフは、彼らを君主の助言者という意味において参議官
領邦の行政機構のなかに組み込まれていた。つぎに等族は、領邦議会に出席し、租税問題を審議し、同意を与え、そ
叢一
論
︿2> ﹁宗教の自由﹂については、少し詳しい説明が必要である。
の各領邦で立憲制を生み出した精神と同じものである。
ゼッケンドルフが熱心に説く、このような等族および参議官による君主と臣民の調和は、一九世紀初頭中部ドイツ
﹁領邦議会における諮問や議決によって領邦君主は臣民の心を獲得し、臣民に対する自己の良き意図、理由を一
︵83a︶
層明確に知らしめ、彼らをそれだけ自発的に服従へと義務づける。﹂
づけられていることが明らかである。
ない。領邦議会は、基本的に上意下達の機関である。しかしそれが、すなわち等族が君主と臣民の媒介者として位置
一法
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
115
宗教改革以来、プロテスタント領邦において国家と教会の関係はきわめて重要な、否それどころか少なくとも啓蒙
主義の時代まで最も中心的な問題であったといえる。この場合神学者や法学者が苦心したことは、領邦君主の教会統
︵84︶
治権を法的に根拠づけると同時に、いかにしてそれを制限するかということであった。こうして、旧約および新約聖
書、教父の著作、宗教改革者の著作はいうに及ぽず、古典古代の文献、ローマ法、カノン法、ビザンツの教会法、
さらには同時代のフランスおよびスペインの国家教会理論、そしてアウグスブルクの宗教和議をはじめとする様々
な帝国法など、それこそありとあらゆるものを総動員して、司教権委譲理論︵国且降8巴一゜。日房︶や領邦教会理論
︵日①旨置〇二巴一゜。日qω︶、三身分論︵U器一ω感ロα①一。冨①︶といった理論が生み出され、それらはやがてイェ!ナ大学神学
︵85︶
部教授ゲアハルト︵一〇プβ◎昌昌 OΦH﹃p﹃匹 H㎝OQ卜31H①QQ刈︶によって正統理論に集大成されることになる。ゼッケソドルフも
依って立つその初期領邦教会理論は、旧約の諸王の神権政治およびギリシア・ローマの国家宗教の理念などを根拠と
しつつ、領邦支配権から教会統治権を導きだすものである。なお、プロテスタントの領邦君主の教会統治権は実定法
︵86︶
的に見れば、一五五五年のアウグスブルクの宗教和議に基づているのであって、この限りで初期領邦教会理論は司教
オ ブリヒカイト
権委譲理論を排除しない。しかし、いずれにせよこのように教会統治権︵2轟HΦ=σqδ巳ω︶を認められたキリスト教
徒のお 上 ︵O畔一ω昌⇔づロωヨ鋤σQ一ω旨β。↓房︶たる領邦君主はそれを無制限に行使してよいというものでは決してな
い。また、﹁宗教は人間社会の基礎である﹂というキケロから取られた国家教会の理念は、それ自体、信仰によって
のみ義とするルターの教えと相容れるものではない。そこでゲアハルトは、お上は職務上︵同帥汁一6▼ 6響融O一一︶世俗・宗
教両統治権︵2ω↓o蝕。三ユ臣ρ口①欝げロ一゜。Φ︶を神から委ねられた存在であるが、人間としては︵冨臨ob賃ωou9Φ︶キ
リスト教の信徒︵ヨ①ヨげ窓日箕ロΦ。甘ββヨ①8一①ω冨Φ︶であるとする。職務の上から見れぽ、異教徒のお上も自然法
によって両統治権を持つ。しかし人間としての資格の上から見れば、キリスト教を信仰するお上のみがそれを行使し
116
うるのである。したがってまたお上は、信徒の第一人者としてキリスト教の教えにかなった生活をしなければならな
いのはもとよりのこと、お上と聖職者と人民の三つの身分が相互に均衡を取りつつ形作るその共同体の原則、すなわ
︵78︶
ちドイツにおける権力分立理論の先駆と評価される三身分理論の原則に従って統治権力を行使する義務を負う。そし
て、こうした義務を正しく遂行することによって彼は、同時に、国家の秩序の形成に多大な貢献をなすことにもなる
のである。この場合、キリスト教信仰は、まさに国家の宗教として、お上と臣民をつなぐ精神的絆となる。こうし
︵88︶
て、国家の利害と宗教が一致する﹁キリスト教徒国﹂が形作られることになるというのである。ゼッケソドルフの教
︵89︶
る。また信仰を司る聖職者は神の召使であり、その職務において人間の支配には服さない。さらに、アウグスブルク
︵92︶ ︵93︶
作る権利ではなく、公の宗教を維持する義務である。実際それは、検閲制度とほとんど変わらないものとなってい
︵ 9 1 ︶
御言葉であるからである。ひとたび信仰告白をしてのち、領邦君主の宗教決定権︵冒゜。冨︷o同日⇔昌象︶は、新たな宗教を
と秘蹟に関して変更を加えたり、命令や禁令を下すことはできない。なぜなら、それはまさに、解釈の余地のない神の
ち、良き秩序と規律を含む真の教えを促進することをお上としての自己の職務とするが、しかし信仰箇条、および説教
まず第一に、領邦君主は自らが信仰告白した宗教を領邦の公の宗教とし、それについての法律を制定する権限を持
とき、それは二重の意味に理解される。
︵90︶
さてゼッケンドルフが、領邦君主は﹁宗教和議によって許された信仰に反して臣民を苦しめてはならない﹂という
通念を知る上で重要である。
し、これまでともすれぽ誤解されがちであったルター派領邦の教会制度、および教会と国家の関係についての当時の
インキング︵bδδ鼠警勾①一⇒猷昌σQ呂OO山①爵︶の論に依拠しており、それ自体なんら独創的なものではない。しか
会統治論は、教会の現実の状態を加味しつつ、おおよそ以上のようなゲアハルトの論、あるいはヘッセンの法学者ラ
叢一
論
律
法
の宗教和議によってプロテスタソトの諸侯は宗教の外面的・形式的面において司教となったのであり︵①且゜。。o℃ロ゜。
︵94︶
ぎ①×8導冨︶、司牧権︵ご鑓①嘗路o℃巴冨︶は監督︵ω弓⑦昌昌8ロ儀Φ三︶に委ねられた。したがって聖職者は臣民のみ
ならず領邦君主に対しても戒めの権限を持ち、また説教において公に彼を批判することもできるのである。しかし、
その場合十分な慎重さが必要である。この箇所においてゼッケンドルフが明らかに依拠していると思われるラインキ
︵95︶
ングの﹃聖書に基づくポリツァイ﹄の公理第三六には次のようにある。
﹁聖職者や説教師は、世俗のお上を戒める際には、臣民の間においてその権威が損なわれることがないよう、ま
︵%︶
た反乱のきっかけとならないよう、慎重に行わなけれぽならない。﹂
お上は、信仰の支配者であってはならない。したがってまたゼッケンドルフによれぽ、領邦君主が領邦の公認の宗
教とは別の宗教に属し、またその宗派の人々、あるいはその他の宗派の人々に公的な礼拝を許可することができない
︵97︶
ほどまでに、﹁宗教の自由﹂において制限されるか否かは、個人が判断する問題ではないという。それは、まさに﹁憲
法﹂にかかわる問題なのである。
第二は、宗教的寛容の問題である。ルター正統派は、新約聖書︵コリントの信徒への手紙二、一〇・四、ルカによ
る福音書九・五四、五五︶から導きだされた、宗教のためには暴力を用いてはならないとする神学的立場に立ち、そ
して多分に政治的配慮から条件付の宗教的寛容の立場をとる。すなわち、ただ一つの真の宗教はお上と臣民の結束を
︵98︶
強め、領邦の繁栄をもたらすが、すべてのものの一致︵信ロ一く鋤ω⇔一⑦ω OOづooΦ︼ρω口Q駐︶を得ることはこの世ではほとんど期
秩序を危険にさらすことにもなる。したがって、国家宗教の原則を維持しつつ、いわぽ政治的にやむをえない措置と
教えに反するのみならず、こうした暴力は政治状況が定まっておらず、様々な宗派が並立している場合には、国家的
待できない。かといって、カトリックやカルヴァソ派のように火と剣によって異端者を迫害することは、キリストの
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念一
117
118
して、他宗派を大目に見なけれぽならないというのである。それは領邦の公の宗教と対等の宗教として承認すること
ではないから、個人的な信仰は許されても、その公の礼拝の遂行は国家的秩序を侵害するものとして禁止される。
のみならず、お上は、他宗派をまちがった信仰として公に反駁しなければならないのである。ゼッケンドルフの立場
も、これと基本的には変わらない。彼はアウグスブルクの宗教和議やヴェストファーレン条約などの帝国法の趣旨に
照らし領邦君主は、正しい信仰を臣民の間に広める義務はあるが、それを暴力によって強制してはならない、とりわ
け領邦の公の宗教とは別の信仰の臣民を、単にそのことの故に迫害したり、刑罰を加えてはならず、彼らを一定限度
︵99︶
︵OOー︶
き、臣民の良心を拘束するようなことを表明してはならない。なぜなら臣民は、︹信仰において︺神以外の誰に
良心に照らして真実であると思われることを信ずべきである。しかしこの点において彼は、お上の権力に基づ
﹁︹領邦君主は︺信徒のなかでいちぽん位が高く、高貴なる老として、神の御言葉を十分に教え込まれた自己の
させているように思われる。
内において容認しなけれぽならないと言う。しかし、﹃キリスト教徒国﹄においては、宗教的寛容をさらに一歩前進
叢一
論
律
ところでゼッケソドルフは、エルンスト敬度公の求めに応じ、グロティウスをモデルとした自然法のスケッチを行
あった。それ故宗教は、国家に関わる重要問題である。
家はあくまで神の救済の施設であり、自然法と神法は究極的に同じもので、ともに直接的な法的拘束力を持つもので
理性によって合理的に解釈する自然法論に反対し、信仰に基づくキリスト教的自然法論の立場に立つ彼にとって、国
強く主張した。しかしこのことは、国家と宗教の分離、国家と法の世俗化を必ずしも結果しなかった。法をもっばら
︿3> 晩年のゼッケンドルフは、敬度主義に傾斜していくなかで、このような第二の意味での﹁宗教の自由﹂を一層
も服さないからである。﹂
一法
一絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
119
っている。その前半部は神法と自然法の同一性の証明、およびそれと実定法の関係の説明にあてられ、そこでは自然
︵且01︶
法の内容は十戒に即して、①礼拝、②目上のもの︵お上︶に対する義務、③身体と生命の保護、④夫婦間の秩序・
掟、⑤財産・所有権、⑥裁判秩序の六つに分けられている。ついで後半部はそれらを個別に論ずるが、①だけで終わ
っている。シュトライスによれぽ、この未完の論文は、アルベルティ︵<巴㊦三写≧σ興e、べークラー、ツィーグ
︵ 2 0 1 ︶
ラー︵O霧唱霞N冨αq一興︶に依拠しているといい、それ自体必ずしも独創的なものではない。また彼の自然法論におい
ては、これらの学者の他に、言うまでもなく、先のゲアハルトやラインキングの影響も認められる。そこでこれらル
ター派の法神学を含め、我々の問題関心から重要であると思わる点をいくつか拾って、以下、簡単に考察しょう。
まず、ルタi派のキリスト教的自然法論は、西欧の自然法論との対決から生まれたとされるが、対決の中でその影
響を徐々に受けていった。例えぽ、ゲアハルトはボダソの主権論を継承したのみらず、ホッブスの社会契約論さえ取
り入れている。ゼヅケンドルフもまた社会契約ないし支配契約を否定しているわけではない。しかしゲアハルトが言
︵301︶ ︵姻︶
うように、人間の合意によってのみ国家︵O一く一一㊦ ooOO圃O梓印ω︶と主権︵一日℃①ユ⊆ヨ︶の秩序が樹立されたわけでも、維持
されるわけでもない。すべてを人間の欲望から説明するホッブスの考えは正しくなく、また自然法は人間の頭脳のな
︵501︶
かに潜んでいるのではない。そのように考えるのは、人間の傲慢さ以外のなにものでもなく、現実の社会生活のため
︵501︶
に役に立つことでもないのである。キリスト教的自然法論においては、社会契約ないし支配契約や国家の諸形態は個
︵期︶
別歴史的事実とみなされ、その意義は相対化される。重要なのは、あくまでも神の意志である。信仰が前提とされる
限り、それは当然のことである。ゼッケソドルフは、おおよそ次のように語っている。
キリスト教徒のお上の身分は、選挙や授封といった人間的手段によって獲得され、また為政老はその職務の遂行
方法を啓示や聖書からではなく理性の光によって学ぶのではあるけども、神に由来する。したがって、﹁神の恩寵﹂
120
︵<o昌○○↓目国ωOロ巴①旨︶は無意味な称号ではない。それは、神の代理人としてのお上の至高の地位︵出oげ鉱斤︶
︵呂01︶
を意味し、臣民の反乱思想を排除する。同時にそれは、神法と自然法にしたがって臣民の福祉を促進し、約束を
守ることをお上に義務づける。
ルター派のキリスト教的自然法論は、そしてまたその多くの神学や法学上の著作も、反マキャヴェリ的な君主鑑の性
︵90!︶
格を強く帯びる。一方で臣民の抵抗権を否定し、他方で君主に倫理的要求を突き付けることによってその権力行使を
制限しようとするその考えのナイーヴさ、あるいは﹁神の法とその遵守は、最高の国家理性、国家の保障である﹂と
いう言葉の単純さを人は笑うかもしれない。しかし何人もその真面目さを嘲笑うことはできない。しかしさらに、キ
れに対し後者が私的仕事︵嶺ぞp畠o融。一︶に満足して生活する義務を負うという点に存する﹂とした上で、臣民を純
ゲアハルトは、﹁お上と臣民の違いは、前者が公共の福祉︵げ。巨ω。凶三。日宮臣窪ω︶を配慮する義務を負い、こ
リスト教的自然法論はそれだけに尽きず、実は場合によっては、臣民の抵抗権をも認めるのである。ゲアハルトとラ
︵Oll︶
イソキソグは、信徒共同体である教会の基本原則としての三身分論を社会学説としても展開しているが、我々の問題
︵m︶
関心にとってより興味深いのは、前者による臣民の法的地位についての説明である。
叢一
論
律
@
領邦の現実の身分制的秩序の定式化であることも明らかである。それ故に、それは、ほとんどそのままライソ
うカ
︵“、︶、
ば、ゲアハルトのこの区別はボダンのシトワヤソ︵o津o矯①5︶とブルジョア︵ぴo霞αq①o冨︶の区別から継承されたとい
をなんらかの形で制限する、のみならず彼らには暴君に対する抵抗権が帰属するというのである。エッカートによれ
目①ロ一巴ぴq°。”︿Φ一賃冨。↓o婚く2。o窃ロ。ε象昌①︶権力を持ち、かつまた上級のお上︵ωξ①二〇N日⇔σq一ω#舞ロω︶の権力
者の権力に単純に服従する。これに対し後者は基本法や契約、あるいは慣習によって︵︿。一Φ×一①σqぴロω診巳㌣
粋臣民︵日霞Φ゜。ρげ島εu。︶と混合臣民︵巨×εω゜。βげ島εg。︶の二つに区別する。前者は権力に全くタッチせず、上位
一一
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念一
121
キングとアルベルティによって、そしてゼッケンドルフによっても受け入れられることになるのである。
︵311︶ ︵用︶
﹁お上によって誤った宗教に駆り立てられた臣民は、その誤りに気が付き、請願や謝絶をしても効果がなかった
︵”︶
場合、それを受け入れてお上に服従してはならない。⋮⋮彼らは逃亡できなかった場合、お上が加える刑罰を堪
え忍ぽなけれぽならない。抵抗することはできない。﹂
﹁しかし、国王や諸侯が、すなわちお上が絶対的な最高権力を持ってはおらず、人民のうちの貴顕の人士の、あ
るいは全人民の助言と同意に拘束され、あるいは特定の条件のもとで権力が制限されている場合、お上がこの制
限を越えたときには、かのもの達は⋮⋮それについて審議権を持つ。否、こうしたお上の企てを限定された手段
︵611︶
をもって阻止することは彼らの法的な責務であろう。﹂
最後に、ゼッケンドルフは、このような等族の抵抗権の可能性を認めるだけではない。彼は、これまでしぽしぽ述
べたように、国家形態論を二次的問題として扱っているのではあるけれども、公共の福祉という目的論的立場から、
︵τ11︶
﹁多数の誠実なる人々および臣下の筋の通った助言によって適度に制限された君主政﹂を、すなわち立憲君主政を最
善の国制と考えるのである。ダニエル書の巨像の例にならった彼の国家身体論によれぽ、お上は頭で、徳と知恵とい
う黄金でできており、農民と都市民は胴体と脚部で、生産技術という銅と鉄から成っている。等族と君主の参議は銀
でできた胸と腕であり、理性と勇気を特性とする。そしてそれは、
︵911︶
﹁頭の次に、身体のもっとも重要な部分である。なぜなら、この部分によって頭と肉体は一つに結びつけられる
からである。﹂
︵1︶ ﹁国家﹂のことばの歴史については、A・0・マイアー︵平城照介訳︶﹁Qo欝讐︹国家︺という言葉の歴史に寄せて﹂、F・
シュタ ト
注
ハルトゥング、R・フィーアハウス他著、成瀬治編訳﹃伝統社会と近代国家﹄所収、二七−五〇頁参照。
︵2︶ ゼッケンドルフは、﹃ドイツ君主国﹄と﹃キリスト教徒国﹄の双方の序文︵<。旨巴①︶において﹁国家﹂ の語の使用につい
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闇自H㎝辞①置ω件ロゴ
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一炉 H矯㈲゜トつーω℃ω゜ωω゜
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﹀鎚伍搾゜PO噂 Qo°HO㎝゜
ω①O犀O口鳥O同頃−男像﹁ω件①昌ω樽㊤ゴ
て説明あるいは弁解しているが、いずれの序文も頁が記されていない。
109876543
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れ
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それは冷静な政治的判断と周到
な 法
学 的 配
の も
行 わ
た の
り 、国家形成に必ずしもマイナスとはならなかった
G ⑳ ー ω゜㎝〒㎝⋮︾注罫卜⊃倉ω﹂Hα1①゜なお、ヴェッティン家の相続分割については、
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゜目
ω鴇
︵2ヱ︶ ωOO犀 O 旨 自 O 同 中
法
律
論
叢 中
て
﹂、
五 八巻四・五合併号所収、六四七−六八八頁参照。
五四二年の租税を
心 と し
課 税
、 拙稿コ六世紀ヴェッティン・エルネスト家の領邦一般直接税 一
台
帳
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い
て
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︵11︶ 一六世紀のヴ ェッティン家の 餌
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1514
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︵13︶ 寓O同NOσqω国同昌⑭斤]りOω樽曽ヨ①口帥
閃 ユ ① 伍 O 口 ω 侍 ① 一ロ
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なおこの点については、くσqド⇔¢oゲ囚冨①ヨΦさ︼︶巽ユ①口房070匿o冒■.8碧ω℃
ω①O犀O旨氏ON頴層喝儲﹃もゆ叶Φ爵o謄什鋤計 H押 8 吻゜心ー 9 QD° μ鱒1一QQ一゜
ω①O犀①昌畠O同中℃ 男体﹃oロθ①昌oo酔Pゴ 一炉 oQ噛㈱゜トつ℃ω゜卜⇒O伊
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叢
律
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16
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122
論
法
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
一
123
︵17︶ ωΦoぎ包o集矯閏貯゜。8口雪鋤ゴ﹀ま霊ω8ω﹂刈゜。1一Q。ω゜
︵18︶ ω①o犀魯儀o﹃鼻殉貯゜。3暴訂什矯︾飢集ρ藤卜∂▽ω゜鱒に1漣O°
︵19︶ <σqピω①舞①巳o集℃Oげ一曾。ロω3ゴ戸Hρω.ω一甲ω。。9ゼッケンドルフは、﹃キリスト教徒国﹄のこの章において戦争につ
改革の意見書が収められている︵一げ乙二ω゜ω①ドーω刈①︶。因に、この意見書は、彼自ら語るところによれば、等族の賛同は得た
いて最も詳細に論じている。また、ここには、彼がプロイセンの領邦議会の求めに応じて提出した、民兵制に基づく軍制
一世の治世に常備軍創設が試みられるが、等族の反対により挫折し、民兵制の軍隊が維持された。<σq﹁閏⇔9島”閃二Qoけ欝ρ
けれども、官僚と軍人には省みられず、採用されなかった。一方ゴータ侯国では、エルンスト敬度公の息子のフリードリヒ
<o目≦巴ε口σqロ註≦三゜・o冨︷θぎoD=−。冨撃”Ooけ訂旨8﹃=臼Noαq男ユ巴ユ。げF︵H①OH山認卜⊃yω゜G。9
︵21︶ ζ!■冨び=二一︶臼しU畔σロ2一ヨ○びユσQ冨剛房ω冨讐噂ぎ”○°・冨隣Φ8三゜・島①No詳ω島﹁罵けh貯α鵠窪島o冨ω菊①oゲ樽置︾ド8合ω゜刈ω゜
︵20︶ ω①o冨旨飢o同タO芹酵8旨i■欝叶讐QD°ω①Q。°
︵22︶ QD①o訂巳o無℃閏自ω富器辞pr目℃Hu伽゜9ω゜ω刈1°。°
︵24︶ QDooぎロ匹o同跨切貯゜・酔Φ鵠8齢”戸θQ矯蝉Nω゜8ら19
︵23︶ Qo①o寄巳o窪”閃自ω8霧富け讐戸鮒伽齢トっ矯ω゜ω゜。°
︵25︶ ω①o寄巳o集嫡切ξ゜。冨鵠$け.戸゜。”吻゜9ω.卜08ゐ=°
︵26︶ この点に関連して、ポリツァイは本来、既存の身分制的秩序の回復・維持を目的としたが、絶えず活動領域を広げてい
く葭毛臣εロσq°・﹃ゲお℃Qoり嵩O°司法制度については、<σqドω①o犀①鼠o集”聞自屋8口。・8ゴ戸O”ω’Nω㌣卜⊃零゜
くなかで、それを骨抜きにし、国家権力の拡大に奉仕したとするマイアーの指摘は重要である。<σqド竃蝕①びω欝舞゜・−§魁
︵27︶ ω①o寄巳o集、国茸゜・冨自什餌計戸9ω゜漂ω’
︵28︶ ω①o犀魯匹o︻鱒男侍。・3諺雷び戸Q。噸ω゜卜⊃H︷Y卜oお゜
︵29︶ ω①o犀①口匹oH塗司自屋8霧3ごHいo。噸伽゜幽吻ω゜卜∂O守S この点に関連して、ゼッケンドルフの﹁キリスト教的ポリツァイ﹂は
見解も参照されるべきである。ゆH偉゜げロ臼”Qり冨母ω乱。・°。①β゜・°ず畦冨P開帥ヨ①旨一一ωヨ¢ω§侮Z⇔ε羅①゜窪矯ω゜卜⊃ら。°
倫理・道徳をも行政活動のなかに取り込むものであり、その範囲は本来のポリツァイを越えているとするブリュックナーの
︵30︶ ω゜°寄巳o集、閃自降魯臼ρ一炉H♪Q自゜°。h⊃OIG。お︵学校教育︶甲一炉9ゆ蝉ω゜陽ーω゜﹀傷象けωトω﹂鵠ら︵官吏の養成︶脚
昌S伽.ミ山9ω゜嵩O山。。9>注罫G。O”ω゜H。。O山りト。︵君主、貴族の子女の教育︶旧Oぼ一。。8霧鼠8戸ω噛伽.9QO°N卜。刈−悼ω鮒
律
124
叢一
論
法
︾口巳∼ω゜卜。ド゜。1り︵家庭教育︶。
︵31︶ 差し当たり、拙稿﹁一七世紀ゴータ侯国におけるお上と教育﹂を参照。
︵33︶ QりΦo冨昌ユo集剛男貯巽8°・欝ゴH押o。”吻゜下HρoD°卜⊃H甲卜。認甲﹀島巳辞.お”ω゜卜⊃置山ら゜
︵32︶ ω①o冨巳o臨”男自゜。酔①霧δρ戸Q。”㈱゜9ω゜曽膳IO°
︵34︶ oD①oぎp儒o誌’国曾ω汁9ω3び戸○。”㈱゜メω.卜⊃H甲N
︵36︶ ︿σqドω①爵①民o黙輸Oゲユω8う。・δび﹀ま一斤こω゜卜⊃①伊QD°悼①G。.
︵35︶ ω①o冨巳o﹁タ閃曾ω8島3r口噂゜。矯㈱゜○。山Pω.悼ミ山G。卜。一﹀ま罫誌゜
︵37︶ このような公共生活の秩序、およびそのための倫理・道徳の重視は、お上と産業を扱った﹃キリスト教徒国﹄二部=二章
︵38︶ ω①爵①巳o験.国自゜。8霧$酔讐HH炉ω゜G。零1α゜。①゜また、池田浩太郎・大川政三共著﹃近世財政思想の生成﹄、四五ー六九頁に
︵Oゲユω富富B8同朗Hω噂吻゜7G。旧ω゜らωω1念o。甲﹀αα詳゜℃ω.卜。①甲Q。︶において一層明瞭に認められる。
︵39︶ ω8冨p匹o層タ男貯ω3冨富r>山巳け.心9ω曾蹟゜。.
おいてゼッケンドルフの財政思想が詳細に論じられている。
︵41︶ 租税については、<σqドωΦo犀①⇒自o集り閃貯.■8口ω鐙ρ霞讐G。uω①oe8しり゜戯゜。OI窃OO。°
︵40︶ ω①oぎ巳o集矯舅貯゜・冨諺鼠け”H戸ど伽゜ω1♪ω゜G。①Hム゜
︵42︶ ωΦ o 訂 巳 o 験 田 O 腎 馨 ① 諺 訂 ρ ω . 心 O A °
︵43︶ ︿σqドω①o犀窪儀○ま噛閃曾゜。9件ω8什矯﹀亀霊お矯Q∩°b⊃21卜◎刈ρ
︵44︶ ω①o犀①コ侮o同篤切貯ω冨自梓9ρ﹀亀岳梓゜心早8ω.謡9・卜⊃①P
︵45︶ この点の指摘は、マルシェによる。ζp目ゲΦ計ωε象①ロ⇔げ9象Φ国葺乱。E巨σq氏雪く露≦巴ε鵠σQ°・一Φ町ρψ0ピまた彼
Ooけ臨oびく8臼島二H詰㌣H刈コ︶に受け継がれ、財政は理論的に行政のなかに位置づけられることになった。一玄α二QD°αメこ
によれば、このようなゼッケンドルフの考えは、やがて、一八世紀の代表的なカメラリストのユスティOo冨目国Φ冒ユ。甥
の点に関しては、海老原明夫﹁カメラールヴィッセソシャフトにおける﹃家﹄﹂⇔、三九ー四〇頁をも参照。
︵46︶ ω①爵窪島o臨噛﹁貯ω8冨8ご目H℃Q。剛ooΦoけ゜伊ω゜お宇o。°
︵47︶ oo①o冨民o窪矯男貯゜。斤o霧鼠び困炉メω﹂一㌣6°。°
︵48︶ ω①oざ巳o黙︾男貯ω8器雷け噂戸α19ω゜♂山O刈゜
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
「
125
︵49︶ このテーマについては、次の二つの論文が参考になる。O母ぴ①びN霞ω冨ε゜・犀。爵自目魯N<。昌︾自巴ロ巳αq巴停H冨p
切辞αq①Hε日噸言n国O︷口揖匙O舘O=mO訂津言匹O︻いぱ①﹁舞霞側①゜。HN冒二G6°一H甲H心ω恥ω3一一〇昼]≦二〇旨昌αN口σq①臣魯
切。帥ヨ冨器チ時︵嵩㎝Q山①㎝Oy冒“9。国亀①伍賃一ξ一。・8ロげ9餌霞国匿゜。8ぴ琶σq島①ωBo臥①ヨ窪ω冨p冨9町゜。中<o昌戸
︵50︶ ω⑦o犀⑦p儀o同拝司貯゜。8諺鼠け讐﹀瓢象けωトっ唱ω゜H凸゜
ωoゲロ霞りゆ露一ぎ這co炉ω゜卜Q刈㌣G。O卜○°
︵51︶ oD⑦爵① 山霞跨岡貯ω冨口除忠旧﹀α岳ケω9ω.H爵゜<αq一.窪゜ず閏俸ω8霧Bρ目矯9吻゜卜。糟ω゜鎗1ω゜なお、学問的知識といっ
︵52︶ <σqピ]≦臨①びゆ葺αq霞一日○耳一σq犀Φ一盆。・β母”ω゜謡゜なお、註︵49︶に挙げたガルバーの論文はマルクス主義の階級均衡論に
ても、君主主権論とか人民主権論とかの大学の講壇政治哲学は、好ましくないとされる。閃費ω冨ロω欝ρ﹀山岳ρ亀”Qo°b。O刈。
︵53︶ M・ルター︵徳善義和訳︶﹁人々は子供たちを学校へやるべきであるという説教﹂、﹃ルター著作集﹄第一集第九巻所収、
依りつつ、ゼッケンドルフの著作のなかに官職をめぐる貴族と市民の競合関係の例証を見ようとする。
︵54︶ ω①o吋⑦昌餌oH鉾岡貯ω峠窪ωけ⇔∬﹀山象け○。Nω゜置9
二二七頁。<σqピ⇔ロ畠Qり①o犀①民o集”O年一ω冨霧3び︾q象傍こω゜卜。㎝9
︵55︶ ω①oパ2匹o﹃塗閏貯ω梓①鵠冨什℃﹀山象けH甲メω齢○。心IOω゜
︵57︶ ωωo犀①昌餌oNm噂殉貯゜。3ロωS辞”﹀ユ岳けG。㌣H”ω゜H卜⊃駆1おω゜
︵56︶ ωωo冨コ側o集矯周締ω8霧け⇔計﹀亀臼酋゜ω卜⊃”ω゜ドミ゜
︵58︶ ω①爵撃窪。同罫閃費゜。冨5簿讐唱﹀畿霊ωポω.Hω㌣い因に、この箇所でゼッケンドルフは、君主が自分のすべきことと臣下
の仕事をしっかり区別すれば、一日一∼二時間で政務を立派にやり遂げることが出来ると主張している。
︵59︶ ω8=⑦すω。爵Φ巳o同鱒堕嵩①゜またスメントは、ドイツの官僚のエトスはルター派の職業思想・倫理がその推進力であ
り、プロテスタントの国家創造的な功績であったとしている。ωヨ①ロ倉即︾牢08霧富昌二ωヨ⊆昭■琶仙UΦヨoξp二ρ冒“∪醇鉾℃
置c◎°
9き冨器。ゲ島。冨﹀げ訂コ色琶σQ①pN︾亀一こゆ①二一昌巳O。。矯ω﹄O。。°<ぴqピき。げ]≦臨①ひQo$舞。・−口a<臼毒巴εロσq匹①ぼρω9
︵60︶ ゼッケンドルフは、政庁、宗務局、財務局などの官庁を含む一般的意味での宮廷と、本来の狭い意味での宮廷とを区別し、
﹃ドイツ君主国﹄第三部・第五章︵五八六i六五八頁︶で後老︵君主の家族の衣食住、身の回りの世話、そのための廷臣の
任命、宮廷内の規律など︶を詳しく論じている。なお、宮廷問題に関する最近のドイツの研究動向については、拙稿﹁絶対
律
法
126
叢一
論
主義時代のドイツにおける宮廷の政治的機能をめぐる諸問題﹂、法律論叢六四巻二号、一頁以下を参照されたい。
︵61︶ oゆ①o断Φロ匹o﹁界岡辞ω汁o鵠酔⇔び目”メ仰卜orω゜嵩卜⊃1継゜
︵62︶ 例えば、ゼッケンドルフは次のように述べている。﹁すべては、国境の向こうからやってくる。華美の模範は人々を誘惑
できるQ﹂ω①o犀①口山oH塗Oゲユω冨コ。・け舞’戸N吻゜目卜⊃嫡Qっ゜卜δ誌゜
し、人々はこれを熱心にまねた。それ故、外国人は我々を嘲笑い、我々の欲望と弱点を彼らの利益のために利用することが
︵63︶ マルシェ︵ζ⇔零げ①rω言岳①旨¢げ臼象①国昌暑8巨虞昌αq匹臼く2≦巴け毎αq°・8町ρQり゜$°︶とマイアー︵竃巴①びω8舞曽
えない。<ゆqピじd三〇犀昌①さω3讐ω≦冨。。①コωoゲ駄8P閑国日臼巴♂3ロω¢巳Zpε旨①o窪℃ω曾ωO.
ロ巳く臼妻巴εロαQ°・8冨0ω゜H戯り︶は、ゼッケンドルフには憲法論が欠如しているとするが、それは厳密には正しいとは言
︵64︶ ゼッケンドルフは、帝国国制についてべークラーやコンリングから知識を得たと考えられる。また三十年戦争後の帝国公
法学については、<σq一゜QDけ9一9即O窃。三。窪。匹①゜。α中①ロニ8げ。ロ勾①。ゲ畠”ω.卜◎。。O中゜なお、﹁四帝国理論﹂とは、旧訳のダニ
エル書に出てくる金銀銅鉄でできた巨像の物語の暗示にしたがって、この世には四つの帝国︵ヒエロニムスの注釈に従え
ば、バビロニア帝国、メディア・ペルシア帝国、ギリシア・マケドニア帝国、およびローマ帝国︶が継起するという歴史哲
学上の理論であるが、近世においては、神聖ローマ帝国がはたして四番目の帝国口ーマ帝国の継承国であるか否かについて
ω3讐旨①o窪伍①゜・菊αヨ房。ゲーU2冨oゲ①⇒カ①8ゴ゜。噂ぎ“O①同ω田讐卜⊃ω噂H⑩o。倉ψω①OIωo。り゜ルター派ではラインキングがローマ
様々に解釈され、議論された。<σq一゜目㍉芝o一沖O二∪6ゆ巴①三ロ旨σq侮費ピ。穿Φ︿8鎚① ≦9薯①一窪①一島9︷窪山器
へ
帝国11神聖ローマ帝国連続説をとり、ボタンに反対してその君主制体を主張したことは有名である。また、﹁四帝国理論﹂
︵65︶ Q自8寄ロ匙o同糞国自屋件①器叶恥計H炉卜◎︾伽゜H19Qり。亀ふO⋮︾亀繕鮭゜8糟QD。=阜伊
を完全に否定したのは、コソリングである。
︵66︶ qo①o閃oロ匹o﹁界閃貯鴇①口゜n汁prHH”卜⊃”⑳。卜○︾ω゜ら9
︵67︶ ω①oぎ口α9管国自ω3霧3酔讐H押800°巳刈゜
︵68︶ <αqピω8=①すO①゜・。臣島什①氏㊦ωo、譲ロ島筈8菊①。げ葺ω゜H㎝03頃①爵①r]≦こω♂巴ロロ山匿門島Φ轟9山窪冒①迂窪匹臼
o︿pロσQ①諏゜noぴ①ロ一ξ冨冨昌U①耳ω〇三p旨匹゜。冒匹ΦH①Hω冨昌=巴h冨ユ①゜。ミ゜智げゲ信昌伍①障゜りりN①騨゜・oゴユ津伍霞QD⇔︿黄5︽1ω二︷ε口σq
︵69︶ この点については、<σqピ=島島パρ薯二勺oぎ剛ω。プΦO①ωoぼ゜窪①<o昂H認刈玄゜・嵩誤﹂﹃○①゜。°ゲ一゜窪Φ弓げ辞冒αq①霧”9
盆N開①oげ畠σq①ロ・o訂o鐸や国的昌o戸﹀寓こゆ価゜お”Hり$”¢μ凸中
一
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
127
切ユニH.↓①二\H矯げωσq°︿o昌寓゜℃9言①g昌匹零’ωo=①゜。冒αQoびスα﹃\≦δ昌H㊤○。卜⊃嘘Q自゜卜⊇ω①中゜
︵71︶ ω9犀o昌餌o門罫閏貯゜。8霧け螢ρ目鴇ω剛ω゜史Yメ
︵70︶ 男巳o首﹃ご09冨望巨oヨ⇔ユ畠︾H°ゆ亀こω.刈O。
︵73︶ かつてF・ハルトゥングは、一六・七世紀の領邦君主の遺言を、なん世代にもわたって政治を固定化しようとする妄想か
︵72︶ ω8冨昌鎚o﹁津男貯ω8ロ鴇⇔ゴ戸8ゆG。Pω゜Hお山Q。O°
ナ・インペリ︵統治の枢機︶の書であるルイ一四世やホーエンツォレルン家の政治的遺言と明確に区別した。<σq 国費ε昌σq”
ら生まれたものであり、そこには個性も認められなければ、権力政治的視野も欠如していると見なし、厳密な意味でアルカ
閏二U①円匹㊦¢房OゲO日①隣蹄Oユ⇔一ω8碧α窃一◎ ロ昌ユミ゜智ゲ島ロ昌α①葺ωロ缶Oぴ鵠鵠二一〇,①ロ↓O雪⇔ヨ①葺①Pぎ”O①﹁°・こくO蒔
口乱ω富葺一ロ窪巽伍①ロ房。ゲ①昌O①ω。三。腎⑦゜O窃⇔ヨヨ①一8︾げ訂ロ已毒σq①pピ①な旦σロHOAPω゜㊤心山Hド これに対し、最近ド
㌧o年冨卑①目①の3日〇三巴ω..<①臨器゜。⊆σqω9三く巴①三、、魍ぼ”U20の富讐謡℃Hりo。9ω゜①O︹Yご∪①窃︵訂ωαq°︶こ勺巳三ωoげ①
ゥフハルトは、それを一九世紀初頭に始まる近代的憲法の初期形態として据え直そうとしている。∪ロ島冨巳ρ=二U塁
↓。°・$ヨ①旨。‘巳⇔巳①お〇二①一一。口Nロヨ閏費。・8ロ雲ゲoψ畠①目︷aゲ①ロZ①ロN①ドω﹂IH幽゜彼は君主の遺言の憲法の初期形態た
る所以を次の三つの点に認めている。ω政治の安定的連続性を確保しようとする遺言の目的、②遺言が高級官僚によっで誓
約され、領邦議会において告示されるという手続き、團内容の類似性、とりわけ臣民の福祉、君主と臣民の調和、官僚の保
︵74︶ 国o旨oσqω国ヨ■■件弓①■■富ヨ8酔讐ω゜露山8匿
護、領邦議会の尊重など、である。
︵76︶ ω①oぎロ匹o同タ閏母゜。件魯ω訂什”戸倉ω゜αQ。1謡゜
︵75︶ 国①旨o σ q ° ・ 国 ヨ ゜ ・ け ↓ o 。 ・ 富 ヨ 窪 仲 ” ω ゜ 謹 ゜
︵77︶ ωΦoぎ巳o集℃閃自゜・冨自θ舞℃戸♪伽゜だoD°Oo。曾
︵78︶ この問題については、K・クレッシェル︵村上淳一訳︶﹁司法事項とポリシァイ事項﹂、K・クレッシェル著、石川武監訳
﹃ゲルマン法の虚像と実像ードイツ法史の新しい道﹄、二二九頁以下参照。
︵80︶ ωΦoぎロ匹o同鱒閃母ω8ロ■■θ帥び﹀似象汁゜9ω゜悼c。°
︵79︶ ω①oぎ5鎚o旨篤閏費ω盆霧♂梓℃﹀匹象件゜回9ω.oo①゜
︵81︶ oり①。岸①巳o同鱒閃O鵠9霧慈件℃︾ユ岳け゜99悼①lS これと同様の見解は、財政を扱った第三部第一章第一項︵三五八頁︶で
‘ も述べられている。
︵82︶ ω①o犀oロαo同跨閏口吋ロ。叶①質ω3び﹀伍9鉾HμQD°○◎駆゜
︵83︶ oo①o犀①昌匹o同津閃体冨8p°り3r目H℃QQ”ω゜㎝O斜゜
︵83a︶ ω①o閃oロ餌o同篤閃O同ω3ロω富戸目噛伽゜目卜⊃讐ω﹂卜⇒①。
︵84︶ この問題については、へ.ッケルの優れた研究が参照されるべきである。霞①舞①rω3碧巨鳥園ヰ゜ぴ①5p島α魯いo窪①ロ
傷Φ同①︿⇔ロσqΦ嵩ωoゴΦコ臼自ユω8P冒”N①搾゜。oゴユ津伍①同ω9ユσqコ︽iQo島hε昌σQま︻カΦoゲ誘σq①゜。oゲざゲけρ囚餌旨o昌゜﹀耳二ω繕刈ω︵這器︶噂
︵85︶ ゲアハルトの教会法論については、<σqピ頃o旨oo犀①が]≦二〇仁茜器=σqo巳ω]≦9σq冨#⇔εωOげユ゜°二〇巳゜ωε象①昌Nβ臼
の゜HH①ート⊃幽Sげ①白o°ω幽NOω頃二ゆ匹゜刈心︵↑O㎝刈︶”ω゜翰O卜OlQQOo◎°
囚冒oげ①旨同①Oゴけ一ヨピβ昏①肘梓βヨ自①ωHメ︸ρゲ肘ゲ信Pα①目富℃冒ωげΦ■■O口仙目Φび9一〇ゲ帥P旨.OΦHぴ餌﹁餌矯H≦ロロoゴ①昌HOOQQ. ゲアハルト
は、教会の実践的活動にも従事したことで知られる。一六一五年彼がコーブルクーゴータ大公カシミールのために作成した
︵86︶ <αqピ国Φ゜吋①r鋤゜ρOこゆα゜設℃ω゜悼83口。 ①爵①H層⇔°PO二HHO界 なお初期領邦教会理論は、聖書や歴史に論拠を
教会条令は、そのままエルンスト敬度公のゴ詔タ侯国に利用された。
求めているという点で、啓蒙主義時代の合理的な領邦教会理論と区別される。
︵87︶ <αqド国①o吋①rp°PO二ゆ匹゜刈倉ω゜卜◎ωmT悼①QQ剛げ霧.ω願卜D㎝ゲト◎⋮国oロ①o”⑦♪P勲O二ω。刈ω100GQ°
︵88︶ =o房゜ざひPPOこω﹂H甲刈゜またここで、ゲアハルトのこのような教会法理論は、必然的に君主鑑︵岡自ω9霧且。σq①一︶
の性格を帯びてくるというホーネッカーの指摘も重要である。実際、彼の主著ピ09夢①90﹃qr㊤ゆ匹ρ匂o冨H①H㌣H爵卜。°の
お上の教会統治を論じたピo。塁××H<”∪①目帥σq一ω財p什質℃oぎ一8は、君主鑑あるいは統治論と呼ばれるべき部分である。
二昌島H刈゜一pゲ同げ仁昌α臼冨噂℃げ岸O冨ロ陰゜閃同p5犀hロ簿p]≦°日Φ刈9ω’喧㊤塗
なおこれについては、<σqP国o犀臼計ゆこ∪霞ΩΦ号ロぎ氏o°・σq①日①言①昌Z¢言oロ営α臼いロ曲2δoぴ①昌ω冨舞匹⑦穿o氏窃H①゜
929190
) ) )
@o犀Φ昌亀o﹁酔閃⇔屋汁①ロ゜・3r目矯HH.㎝゜9ω゜卜◎◎◎O甲Oげユの3pu励$r目.Pω’悼O①゜
ω①o犀①昌馳o同塗閏O同゜。8昌o。富陣−H炉合㎝゜らQ鴇QD°αP
︵89︶ ω①o犀oロ山o同宍閏律話けΦ口ω持即♂口℃HH−HQQ”ω.卜⊃OoHiQQ卜◎QQ⋮O﹃ユ白・け①μω鼠ρ目り刈ーPω゜悼①o◎ーOQHO°
( ( (
ωoo犀Φ旨餌o同沖剛体嶺3昌珠蝉計目鴇Hμ伽゜ω”ω゜ω窃G9°
oo
ω①。犀①巳o同酔閏⇔屋冨ロω3↓顯戸Hω匂㈱。ゲω゜。。H。。°なお、聖職者の資格認定である按手︵O巳﹃鋤ユ8︶は領邦君主の権限で
(
93
)
128
叢一
論
律
一法
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
129
あるが、それは宗務局の試験によって行われる︵一甑匹二ω゜ωδ︶。また、ゼッケンドルフは教区牧師の選任について、教区民
選任権を行使し・ているとする。しかし、教区民には、牧師の能力や生活態度について異議権が認められている︵一ぼ匹二ω9
が行うのが神法と自然法にかなっているが、その方法は神の御言葉に定められてはいないので、実際には領邦君主や貴族が
︵%︶ ω①O犀①昌匹o同頃讐Oゲユ雪Φロonけρ9計目℃㊤℃ω゜ωOH−P
ωH①為︶。
︵96︶ 幻①団ロ置昌σqぎO二ゆひ鵠゜・oゴ①勺o鵠oo嘱\Ugo摩圃ロ。けnO①≦♂°・①Q仁むQ頃①陣ζσq①同Oα簿嵩oゲo尻ωoず二蹴酔 N口o。9ヨ日⑦昌 σqoぴ円餌oゲけΦ節
︵95︶ QQ①o犀①昌αo同融鴇○﹃臥ω8口ωδpが目矯①”ω゜悼切mT①゜
岳①αお矯出ρβ讐11ω&昌山①”﹀♂O⑦冨二ざゲ①昌\≦①#嵩oヶ①嵩\億昌匹=叫口じQ躍oゲ①昌\σqoユoゲ梓08︾邑oヨ舞2 0α①Hω〇三ロゆ話伍⑦口\
Qoo昌島①﹁鵠oゲヨ詳ゆぴ躍ωoゲ①昌ω℃同帥oゲ①ロロ昌住国×⑦日℃Φ写\餌虞oゲo昌自臼昌げΦω感言犀①仲﹀昌簿=opω薮⇒創①昌ロ⇔自鵠oヶ\象①巳8ず口昌山
が設立した教理問答講習会︵囚9けプ⑦Oげ一〇〇ヨロω一口︷O同ヨ⇔什一〇昌︶に対し、領邦の内外の牧師が異端の嫌疑を表明した事件がある。
9。口日痒匪ぴqN巳9窪”⋮閃同き甑口腎‘−°ζ゜Hま9Gり゜日゜牧師によるお上批判の有名な例として、一六四二年エルンスト敬慶公
これについては、拙稿﹁一七世紀ゴータ侯国のお上と教育﹂四〇九頁参照。
︵97︶ ω①o犀①口匹oH中り閏魯屋け①誉ωけ9ぴ﹀伍伽=°b⇔9ω゜H卜D◎lH°
︵98︶ この問題については、<σqピ=①o犀①剖ロ゜僧O二切F刈心矯ω﹄$中旧国o莞o吋oびP曽零○二ω﹂卜δH頃。
︵99︶ oo①o犀①昌島oH頃”閃◎話8口ooけo計目゜HH℃姻゜9ω゜b◎oo刈lco°
︵001︶ ω①爵Φ巳。目酔O冨一ω冨霧富梓”戸Poo°。。O①゜なお、ホーネッカーは、﹃キリスト教徒国﹄において認められるゼッケンドル
フの宗教的寛容を高く評価している。<αq 頃o昌Φo犀①び.PPOこω゜H°。幽19
︵101︶ ω①o貯Φ昌匹o︻中︾国昌件毛口H中o山①同く①話ロoゲ<oロ似①ヨ節=σqΦヨ9昌①昌oユ①同ロo梓自﹂8ゲ①口菊①oゲけ\昌餌07>⇒♂詳口昌σq亀①㎏切口oゲo同
UロHo匡゜﹀ロ匹o昌o犀①昌の\ωo山①二二8ゲ巴o。ヨ⇔σq鵠oゲ一昌g口房oゴ①同ω℃尽oゴ①︿o同詮鉱①ロ臼oゲ話づ印びNロ︷⇔ω゜ゆ①昌\帥口σq⑦hロロσq①P一ロ”
=信αQo 圃ωO﹃oけ躍ロ昌良o昌侮①冨目﹀ロ8同①P餌βhOロ餌阜、ゆoσq①ゴ器ロ↓搾゜国戸国﹃5ωけΦ旨゜・\口①這oαq①昌ωNロωooずω① ①件ρ閏口話二’
︵201︶ ω8=①一。・uω①o犀①巳oH津ω゜H①①中またゼッケンドルフの自然法論については、<σqピζ胃oげ①rPo°O二ω゜甲HO脚ωo甥口①置o
一︶①凶60二↓Oq汁ωOゴ①”①山①Pω。蔭OoOーら09
臼ロωユユpd﹁ロ一く①㎏ω国ζ㎝”oり゜卜∂αω1卜ΩO餅
︵301︶ 国o 犀 ① 円 酔 ” ⇔ ° 鋤 ゜ ○ 二 ω ゜ H O 卜 O I 心 ゜
130
【
叢
論
律
法
︵401︶ ω①爵⑦巳。臨”閃母゜。8島汁讐糟口℃°。層伽゜伊QD°卜⊃Hピ﹁人は、悪徳・有害な人々から自己の身体・名誉・財産を安全に所有す
るために、最初、神慮によって、多数の人間が一人あるいは少数の者の保護下に入り、彼らに大きな力、特権、権力を容認
︵501︶ ωΦo犀窪匹o愁”国三毛β集aΦ同く①話口07ω゜直①゜
した。﹂
︵601︶ ωooぎ巳o集”Oゲユω8島冨叶”諺亀岳汁二ω゜漣o。°
︵∬︶ ゼッケンドルフは、プーフェンドルフとアルベルティの自然法をめぐる論争に関連し、プーフェンドルフの論証方法を
批判するつもりはないけれども、自然法と神法の分離からそれほど大きな利点は引ぎ出されるとは思われないと、述べてい
︵801︶ ω①。パ窪亀o集︾O聞馨睾ω3梓”戸9¢卜。①①IS この部分は、アルベルティの言葉のほとんどそのままの繰り返しである。
る。<ひq QQ8=ユ゜。噸ω①O閃①旨伍O吋欝ψH①S
○簿ゲoユo×δ窪o:曜Hメ臼鋤ゲHげ口昌自①﹁け−印”一q円゜β昌らω雷p冨毛♂ω゜∪冨ω゜閃同Φぴ二円σqけしdぴHO①b⊃”ω゜Oピまた、ゼッケンドルフの次
<σqド○°・冨臣oヨ”国㌃∪こ躍①Zpε旨Φ。犀巴①冨①<巴Φ三冒≧げ①門けジ国冒bd①葺帥σq窪日男Φ。ゲ畠亀8犀魯窪①同ぎ浮①ユω3魯
の言葉は、彼が政治体制を事実の問題として捉えていることを良く示している。﹁自然法に従って宗教のために最高の配慮
をなすべきものは、王であれ、諸侯であれ、複数の人間であれ、あるいは人民の全体であれ、最高の統治権と公共の福祉の
︵901︶ 菊①冒吋ぎσQぎ国三房島①勺9一8ざ﹀改o日pG。Pω゜卜⊃置゜
維持の仕事を委ねられた老である。﹂ω①。犀①巳o験℃国口け毛霞中o山霞<①屋ロ゜貫ω.幽お゜
︵011︶ <σqピ=⑦o冨ごp僧○こ切F刈倉Qo°卜。巳甲匂Φ器①p出こ、、国三陣ωo冨℃oζ。昌゜、、NロヨZ⇔ε隣①。げ富窪8冨口∪凶Φ匡跨
︵111︶ <αQド国O犀①H計O°ロ゜○二QD﹂卜。︹丁卜⇒”ω゜冨①lS
菊①冒鍼口σq°。℃H目’ロ昌鳥ω8讐ω霜冨゜・°∪﹃−−°周話8目σq一゜ゆH°HO8噸ω゜o。似賠
︵211︶ 国o犀⑦同計鋤゜pO二ω゜H陣゜なお、ボタンのこの区別については、成瀬治﹁ジャン胴ボタンにおける﹁国家﹂と﹁家﹂﹂、同
﹃絶対主義国家と身分制社会﹄、五〇∼七一頁、とりわけ六四頁以下参照。
︵411︶ ○ ω 8 警 o 旨 ” p p O こ ω 。 り Q 。 °
︵311︶ 臼窃ω窪博o°pOこω﹂悼9
︵511︶ 宗教的理由からする、他領邦への逃亡ないし移住は、一五五二年のパッサウ契約およびアウグスブルクの宗教和議によつ
で領邦臣民に認められた権利︵げ①ロom。ごヨ①巨σQ鑓臨o巳。・旧冒゜・①巨αq冨巳一︶である。これについては、<σqピ=①爵①γρ。°P
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
131
O二ゆ伍゜置矯ω゜雪○。よい出o昌①o犀Φびo°印゜OこoD°HO。α゜
︵711︶ ω①。犀①昌畠o同津国鈴鵠8ロ珍⇔計﹀匹象戸心9ω﹂りO°民主政、貴族政および君主政の長所・短所を比較考察し、最善の統治形
︵611︶ ω①爵①巳o段”国葺霜ロ段&臼く臼.■ロ。﹃oD°ら゜。隼9
態を導き出そうとするゼッケンドルフのこの箇所の論述は、大変おもしろい。
︵811︶ ω①。犀①巳o臨”菊巴①\︿o同勺暮一一8江8儀o°・ω二津ω・↓。σqω﹀げω。窪Φ房N口ζo葺Nぴ霞σqき匹2巨のけ霞\山窪卜⊃①゜Zo︿⑦日げユω
↓⇔σqω﹀げ゜。。ぼa。・\﹀ロ8Hミ゜。”冒﹃09σq①紆o窪8国霞昌=①嶺oσq]≦o葺N8ωZ帥ヨ9\窪勉一①■■叶韻畠−160鼠巳P一登目①三ω90
H①謡▽冒”U臼9↓⑦ロ訂。ゲΦ勾巴ΦPQD°H胡゜また彼は、統治を建築にたとえている︵カ①山①\ぴo鴇剛信三8⇔臨oロ山⑦ωω汁一津ωロ
菊巴①炉ω゜H。。りIHり。。.︶。いずれも彼の国家観を具体的に示すものとして、重要である。
お わ り に
ゼッケンドルフは小国の世界に生まれ、育ち、活躍し、自らその国家形成の担い手となり、そしてそれについての
著作を後世に残した。それは、我々が以上に見たように、ルター派の宗教的理念に基づいた国家活動の広大なパノラ
マをきわめて体系的に描きだしたものである。この小国のスペシャリストを戦後改めて評価したH・マイアーはドイ
ツの国家思想について、次のように述べている。
﹁ドイツは、プーフェンドルフを除けぽ、iマキアヴェッリ、ボダンおよびホッブスのような 一六・七世
紀の西欧の偉大な国家論者に匹敵するような人物を出したことはなかった。国家理性の思想も近世自然法の思
想も、ここには最初安住の地を見出さなかった。しかしここでは、国家の道徳的目的、﹁公共の福祉﹂の創造お
よび﹁善きポリツァイ﹂ということが、つねに考えられてきたのである。ここに、近代の国家思想に対するドイ
132
︵1︶
ソ固有の貢献がある。﹂
ゼッケソドルフの意義、とりわけ行政学上の意義は、つとに認識されていた。ただそれは、彼について抱かれた別
のイメージ、すなわち旧套固執とか軟弱さというような小国のイメージによって、ともすれぽかき消されがちであ
った。F・ハルトゥングによれば、ゼッケンドルフの著作に描かれたような国家は、﹁愛する平和以上に、神を敬
い誉れを知って安穏に暮らす以上に高い目標を知らない﹂国家であり、﹁こうした小国的な萎縮と謙抑、国力を要求
するが同時に伸張させもする野心を一切放棄すること、これが今後長きにわたってドイツの大きな諸地域を、政治
︵2︶
的にも経済的にも麻痺させたのであった。﹂力強い国民国家の理想からすれば、このような評価は、それ自体間違い
たのである、と。プロテスタンティズムは、ドイツの小国において、文化国家・福祉国家を作り出し、良い意味での
︵3︶
か、あるいはなすことができるかの手がかりをプロイセソをも含むドイツの大きな諸地域に教え、後世の人々に伝え
う。すなわち、ゼッケンドルフは、小国のモデルによって、国家というものが国民のために何をどのようになすべき
であるとは必ずしも言いきれない。しかしそれに対し我々は今、少なくとも次のように主張することができるであろ
叢一
論
律
家を客観的な組織体として把握する意識は育ちにくい。ここでは、国家は機能的に統治と観念される。だから、統治
し、それぞれの領土が閉ざされてはおらず、開放的な小国分立の世界においては、各侯国の臣民の共属意識とか、国
ゲソのように、ゼッケンドルフが生きていた時代の一時期︵一六九〇年頃︶二七もの領邦がひしめきあうように並立
そこにはもろもろの国家活動を規範づける一般政治学が欠如していると批判し、ドイッにおける権威主義的な国家
︵4︶
観と消極的市民の発生の責任の一端を負わせているが、この見解には承服しがたいところがある。まず、テユーリン
ところでH・マイアーは、ゼッケンドルフを高く評価する一方で、彼の国家論は統治と行政の純粋な記述であり、
官僚の倫理を生み出したのである。
一法
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
133
が悪けれぽ、臣民はこれに抵抗してはならないが、逃ることはできるという発想が生まれるのも自然である。またゼ
ッケンドルフの愛国心は、彼の所属する侯国ではなく、神聖ローマ帝国において抱かれたということも想起された
い。ドイツの小国は国家というよりは、政権である。一九七九年二月五日号の﹃シュピーゲル﹄誌に掲載された大変
シ ユ タ ロ ト
レギじルング
興味深い世論調査によれば、﹁国家﹂という言葉によって何を思い浮べるかという質問に対し、多くの西ドイッ国民
は﹁政府﹂と答え、これに対しフランスにおける同趣旨の質問の回答は﹁国民の共同体﹂︵い、Φ昌゜・Φ日甑Φ島窃98望・
︵5︶
①昌ω︶であったという。私は、この調査結果からただちに、フランスの民主主義的国家理解に対するドイツの権威主
義的・反動的国家観を結論づけることができるとは思わない。それは、ドイツの小国の伝統的意識ではなかろうか。
次に、ゼッケンドルフは確かに国家を、その活動に即して考察している。しかし彼の著作には、権力に対し批判的
に対峙する姿勢が随所に認められるのである。シュトライスは、ドイツ君主国の忠実な理論家とか、ルター派保守主
義の小国行政の実務家といったゼッケンドルフの周知の評価は、彼がのちに﹃ドイツ君主国﹄の補遺や﹃キリスト教
︵6︶
徒国﹄において統治に対して批判的に距離を置いたという事実によって限定が加えられると述べている。その場合こ
の距離は彼の保守的改革者としての、および学者としての姿勢であるというが、私には、それに加えて、彼が生きた
小国の世界における貴族のエートスに由来する姿勢があるように思われてならない。そして実際彼は、世俗法、教会
法および神法目自然法の各分野において君主の権力を制約する憲法的枠組みをも論じているのである。またこの場
合、彼が擁護する領邦議会には、たしかに旧套固執の面が認められないわけではない。しかしそれは、明らかに、近
代的代議制への移行形態を示している。小国分立の世界テユーリンゲソの優れた地域史研究家皿・クラインは、その
名も﹁近代国制史および行政史のためのヴェッティン家の功績﹂と題する論文の中で中・近世のテユーリンゲンの基
本構造の特徴として、人身的に自由で、農地の所有権を保障された農民と無制限の処分権を行使しえない領主、権力
叢
律
ユ34
論
法
分割に基づいた君主と等族の政治的均衡を挙げ、この基本構造がその時々の政治状況と作用しあうなかで、ここでは
︵7︶
国家が身分制国家から絶対主義国家を経て初期立憲主義国家へと、プロイセンのようにラディカルな変革や事件を伴
わずに、しかもすみやかに推移していった、と述べている。我々は、この過程をまさにゼッケソドルフの著作のうち
に確認することができるのである。ドイツ近世における小国とはどのようなもので、それがドイッの国家史において
いかなる意味を持っていたのか、ゼッケンドルフの著作を通して多少なりとも明らかにしえたとすれぽ、それで本稿
の目的は達成されたことになる。 、
︵8︶
︵1︶ マイアi︵石部訳︶﹁旧ドイツ国家論と西欧の政治的伝統﹂、一六六頁。
注
︵2︶ F・ハルトゥング著、成瀬治・坂井栄八郎訳﹃ドイツ国制史﹄、一二七−八頁。また、ゼッケンドルフについての同様の
理解は、F・マイネッケ著、菊盛英夫・生松敬三訳﹃近代史における国家理性の理念﹄、一八〇頁にも見出される。
︵3︶<σqピ即⇔。ざ①び鉾POこω゜。。ド
︵5︶<σqピζ言。7℃こ=窪ω巨匹国①σq冒①ロ﹃⊂ぴ巴①σQ巨σq魯Nβ日蛋島島α霞婆①霞8籔ω3窪○ざ口。巨⑦窪h島Φ塗H。・島。冨
︵4︶ マイアー︵石部訳︶﹁旧ドイツ国家論と西欧の政治的伝統﹂、一六三−四頁。
菊①αqδ霊昌αqωチ8艮〇二 島−胃p×一゜・芝聾H窪山庫霞︷三ゲ①昌Z2N9ゴ一﹃︾°ゆ5ぎO陰囚窪中日ppゆ゜目゜ω冨訂信コ山O°
今後の課題である。
︵8︶ 私は本稿において小国の特徴を意識的にかなりポジティヴに描いたが、ここに提示された諸側面を個別に検証することは
偶興Ooぴ口お角い働旨匙①゜。。。鉱︷ε口αqωどH㊤Q。◎ω゜ω竃゜
︵7︶昏①旦目ゲこ9①冨鼓弓σq餌葭芝聲冒①=費象①器島。三8冨く。臨p器巷σq﹃自巳くΦ暑葺ロ護゜。σq窃。臣。冥ρ巨臼p。げ門ゴ島
︵6︶ω8=⑦す ω ① 。 冨 民 。 層 塗 ω ﹂ ① 。 。 °
芝冨伍①日⇔昌p国弩o冨一ωoゲ①口o節巳けξ一日δ゜ロ 畠ミ゜︸餌訂げ員昌匙臼rPゆ伍こ国pヨげ霞σQHOO。一矯ω゜b⊃8°
一
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
135
付録
ゼッケンドルフ文献目録
︵1︶目①三。・島臼閏畔ω8匿け3写碧謀qコ琶伍目Φ号N一σq屋㎝①゜﹀ま三8①ω四げ臨①同ω゜﹀島゜H①①9
著 作
Zp。臣窪。﹃θS>島こ︿巽げ①ωωΦコ自け>5ヨ①時巨σq①pωロヨヨ9二魯ロ巳殉①σQ房酔9<①屋①冨口︿。口﹀巳お器o。巨ω8
切冨。巳冒σq”冒器HおS>帥一魯Hり鳶︵序文を除き、本稿ではもっぱらこの版を用いた。︶旧⑲G。°﹀島二中き霞¢二Pζ゜
︵2︶ω序。訂匿ユ巳榮幽ω巴80冨ヨ︿①昏。謹ヨ雲8酔三p日H。凄日8日冨鑓巳鋤日ロω巳℃p巴pσq。αq言。冒含畠ε○。け冨き
H①①9ζ諦⑦ぢ①日く。暑。二く。ロ日゜閃①三σq℃9霧まけ8昌一目↓。巨蕊Hミ①゜
︵3︶冒゜。昏冨冒。8。二。昌厨冒。三榮⑦国篤霞梓8°・写5︵H①①ω︶る巳昌日Φ円゜・。三①器pζ鉱自H①①ト
餌゜8日09$①二$ごω゜。oω①いUま貯ω霞こ国ヨ①゜。二”Oo梓げ⇔H①8°
︵4︶菊8。葺・卑器。8ω。吋冨窪。︷。量。甘゜・什器胃。沖①。ぎ巳゜。露ρ︵52︶る8昌目2°・。臣9①p竃巴嵩H①①ト
︵5︶⊂巨①二ま巳σq°。け①゜。ざHNΦ゜。しu巴①爵8窪Φ﹃自9<。ロH汀。9霞︷貯巴゜∪霞鼻一窪。窯巨同魯乱①。ぎ①ぎ什Φ口ま 甫①σq窪
磐ま。窪目σq①冒霧O。=①ぴqご旨自三ω︵〇三き窪①5︷自勺£Nσqヨ︷寄二い巳≦軽H①袋ソσQ巴旨。尊一﹃N①訂。ぼ俸鵠﹃
︵6︶O。ヨ冨民ご日ぼ゜・8ユ曽・①8寓巨8帥①℃山①臼①什。ω゜①ヨ。ω芦o。巽゜9ぎ口。・qヨO気ヨ8ω鵠Oo仲ゲ゜8ヨ℃。の同εβ09訂
象①○①゜・。三。年①牙ω○ぴ角円冨冒゜。”卜。°田゜︵H°。㎝Hソωのド念ふO°
︵7︶=臼3<①詳い巳五ひqω︿8Q。①爵。巳。ま9駐8霧§鴇言砕Φ矯ゆぎ冨同。びσq①チ鉱一①ρぎ①曇窪三aく○昌αΦヨ
H①㊦OIH①①斜゜
9勢3三巨ヨ碧゜・言ずω①一げω叶\員巳自窃の①口ω3き冥信ロσq\鼠山臼象①匿冨韓窪¢巳鎚①軋臨。ゲ窪ピ28⋮凶B9・巳①ヨ<8
山2<①昏⑦ωω①H巨σq匹①ω幕三同島①ミ自巳巨象g昌ユ$σq霧島。ゲ窪Q。g民①ω\冨9牙日N≦①。犀号ωO臣゜。8巨ピ暴
︵8︶↓①三゜。。冨菊巴①Pき山①門N聾一設禽仁巳ユ①邑σq糟ω帥巨①一 霞β。鵠︷爵島99<。隣①鎚①︿8島①同﹀二巨山Z葺N冨同犀①津
σq①訂巳。貫い①甘風αqま。。切゜
8﹃冨同図巴①pい①号N蒔H①。。①.
︵9︶U誘①蕾ま三鴇巳$①梓里■℃9。σQ巴S冒○α。。民ロ餌U°冒臣9山。巳ωωP訂ωσq°︿89ω冨同oo⇔αq冨ユロω乙窪9H①゜。①.
㊤Q衛H
(9) Defensio relationis de Antonia Bur玉gnonia adversus anonymi famosas chartas, sub tltulo moniti necessarii
publicatas etc., Leipzig 1686.
(:) Ius publicum Romano−Germanicum, das ist:Beschreibung des H. R6m. Reichs Teutscher Nation, worinnen
nicht nur von dem Zustande desselben ins gemein und denen Inwohnern, sondern auch von der VerfaB−und
Regierung in Geist−und Weltlichen Sachen,三ngIeichen von dem Vorzuge, Regaiien, Praeceminentien, Einklinfften
und Beschaffenheit des Kaiserlichen Hoffs gehandelt wird. Nebst angef茸geter zeithero gebrauchten Reichs−MatricuI
etcり Frankfurt und Le玉pzig 1686.
(NH) Capita doctrinae et praxis christanae insignia insignia ex LIX illusribus novi testamenti dicitis deducta et
Euangeliis dominicalibus, in concionibus, an.1677 Fracof. ad Moen. habitis applicata a PhiL Jacobo Spenero, D.
et Seniore euangeli三皿inisterii Francofurtensisユ689.
譲腔隠
(fiR) Divi Pauli Apostoli epistolae ad Romanos et Corinthios(Vorrede von Spener v.27. August 1690),1691.
(E) Commentarius hlstoricus et apologeticus de Lutheranismo, slve de reformatione religionis, ductu D. Martini
Lutheri in magna Germaniae parte aliisque regionibus, et speciatlm in Saxonia recepta et stabilita etc。 Frankfurt
und Leipzig 1692.
Ubersetzungen:①Wilhelm Ernst Tenzels, Historischer Bericht vom Anfang und ersten Fortgang der Reformation
Lutheri zur Erlauterung des Herrn von Seckendorff Historie des Lutherthums mit Grossem FleiB erstattet und
numehro in diesem andern Evangelischen Jubel−Jahr nebst einer besonderen Vorrede, auch niltzlichen noch
niemahls publicirten Urkunden/und n6tigen Registern mitgeteilt von D. Ernst Salomon Cyprian/Consistoria1−und
Kirchenrat zu Gotha, Gotha 1717;②Herrn Veit Ludwigs von$eckendorff Ausf廿hr!iche Historie des Luthertums
und der heilsamen Reformation etc_aus dem Lateinischen ins Deutsche mit allem FleiB tibersetzt_von Elias
Frick, Leipzig 1714;③Chr量stian Friedrich Junii Compedium Seckendor丘anum oder Kurz gefasste Reformationsge−
schichte aus des Herm Veit Ludwig von Seckendorff Historia Lutheranismi zur allgemeinen Erbauung zusammen−
gezogen mit einem Anhange vom Jahre 1546 bis zum Religionsfriedenユ555 vermehrt und mit einer Vorrede heraus−
gegeben von Benjamin Lindnern,3Bde., Frankfurt und Leipzig,1755,
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念
137
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Jahrbuch f{ir die fr巨nkische Landesforschung 36,1976, S.81−91.
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Q圖ノマゆ赴嶋り心脈ヤ仏Q
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①◎うH
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OΣ
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Q置!でゆ愈論9抵ヤ﹂Qど盤編相
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142
法律論叢
︵64︶o。8=°す竃こく①=い民≦一σq<8ω①。冨匿。H齢冒“U臼ω.︵ぼωσq°︶輸ω冨碧゜。匹Φ艮霞巨ミ゜‘巳同゜。°冒訂ぎ巳①罫
︵65︶o①門。・こO①ω。三。ぼ①餌Φ㎝α中魯二8冨ロ男①。窪ω貯02け゜・。三⇔民し゜田幽図⑦8ず■■℃信げ=N剛。・爵ロ&団集8署一゜・ω8ω。訂津H①o㌣
園①8訂窟窪N鼓蔚℃。臣侍繭ぎZ舞ロ畦⑦筈計P諺島二牢碧ζ¢ほPζ゜お。。メQり゜H歳゜。i嵩H’
︵66︶o。8ぽ び臼ひq”即い二〇①。・。三島8自臼匹①三㎝昆魯O崖署惹ω吻窪。・。訂津︵ω。N一9。σqε巳什げ⑦ω。巳霞葭ゆ$9ε品凶ぼ①ω
H°。Oρζ体ま冨ロちc。°。°
︵67︶日三①すN霞9碧凶ζΦ二吻爵﹄$↓。三.■。冨昌田邑①房§霧く8<りいく°ω①爵①巳。集=﹃冒訂①ωげ巴。巨ま曾9。■
甫o詳゜。。冨言①ω矯じu阜H℃ピ①一冒同σqHOωメ
︵68︶↓二・日睾P出゜u<°r<8ω。。訂巳。罫ぢ“>H。露く凄﹁勾①︷。§。二。房σq①ω。臣。窪Φ幽ρHり参Q。°卜。OO幽邸O°
ま巳σ。ドO︽ヨ8ωε日ロ巳鎚同①寄募。げ巳⑦Nロ∪巳。。げ目σqH°。αω噂ω゜ω山①゜
︵69︶↓ぎヨ鼠量9﹃二↓Hき①吋目a。き︷α9山旨゜︿自ωこ一﹃∪①ヌ”≧ζ匿民げお冨同冨宴9門密巴①冒①ω。穿弾①PP
︵70︶≦爵ρ閑こく①=ピ巳惹σq<8ω①。寄巳。鼻国冒Q。審塞日帥目自匹O⑦﹃年8H号゜・HN冒穿ぎ巳①器︵11N①冨①H国①巨鉾
︾島こ=p=①ミO刈゜
︵71︶芝。拝﹀こ9①震゜。8H陣。σq同昌三。<畳H’︿°QD①。冨巳。験゜・器昏ω①一器ヨ9目①三巴話匹ω8同一。話Φけ﹀噂9。αq巴2ω山。
ω゜巳①葺①坤囚巳ε円り︶”。’O°9一゜ρ8Σ︶°
︵72︶N①&①p国゜芝二〇窪゜①゜毒Φ巳。・。冨o⑦号爵一p<①岸い銭三σq︿8ω①゜犀9ロ゜まω匹。・ざ匿冒跨興き一ω巳゜⇔げ゜門島δ
冒臣①轟三ω日po巨゜9ωω゜い①首暗αq巳卜。㎝︵H≦ω゜︶°
団①①①冒2邑卿σQ酵①ロ¢げΦ暑冒含£山①ω葺9Φヨ昌8口区。三①゜・ωδロ巴冨日口ω一日。・冨仲魯H刈゜冒げ匿a2けコ﹃閃①。。§冨津
︵73︶N芭。口臨σQ①び囚こ︼︶δρ。一叶窪α①三゜。9窪蜜旨①邑冨侍①pHり其裳p。臣旨。ぎ宰。時津葺p。’ζ゜Hり①①゜
h葺O°空蓉。ご↓ま冒﹃q①ロH8Pω﹄α①山刈卜。°
︵1︶ 海老原明夫﹁カメラールヴィッセンシャフトにおける﹃家﹄ J・H・G・フォン・ユスティの思想を中心として ﹂
邦語関連文献
照。
ω∼四、国家学会雑誌九四巻七・八号、九・一〇号、九五巻七・八号、一一・一二号、特に②九四巻九・一〇号二頁以下参
絶対主義時代のドイツにおける小国の理念一
「
143
︵2︶ 池田浩太郎・大川政三﹃近世財政思想の生成−重商主義と官房学ー﹄
︵4︶川又祐﹁ゼッケンドルフと官吏登用原則﹂、稲田俊信編﹃政治学をめぐる諸問題ー鵜澤義行博士古稀記念論文集﹄︵日
︵3︶ 川又 祐﹁ゼッケンドルフと﹃準絶対主義﹄﹂、法学紀要三一巻所収
本大学法学部︶所収
︵6︶ H・マイアー︵石部雅亮訳︶﹁旧ドイツ国家論と西欧の政治的伝統﹂、F・ハルトゥング、R・フィーアハウス他著、成瀬
︵5︶川又祐﹁ゼッケンドルフにおけるラント王侯高権の意義﹂、政経研究二八巻一号所収
治編訳﹃ 伝 統 社 会 と 近 代 国 家 ﹄ 所 収
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