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モデル事業で家庭復帰実現 高齢者ケアとしての「介護」を切り開く

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モデル事業で家庭復帰実現 高齢者ケアとしての「介護」を切り開く
特集
December Vol.25 No.9
モデル事業で家庭復帰実現
高齢者ケアとしての「介護」を切り開く
平山登志夫
全老健顧問、介護老人保健施設晴山苑理事長
全老健創設満 25 周年∼老健施設と介護保険制度∼
[モデル 7 施設]
○老人保健施設晴山苑(千葉県千葉市)
○佐久総合病院老人保健施設
)
(長野県南佐久郡臼田町(現:佐久市)
○小山田老人保健施設(三重県四日市市)
○老人保健施設希望ヶ丘(大阪府貝塚市)
○中町赤十字老人保健施設
)
(兵庫県多可郡中町(現:多可町中区)
○老人保健施設青海荘(山口県下関市)
○老人保健施設伸寿苑(福岡県北九州市)
老健施設制度のモデル事業
7 施設からスタート
(施設名は昭和 62 年当時)
味と、医療(治療)機能をもつ病院と福祉(生
活)機能をもつ特養との間の中間的な施設という、
ふたつの意味をもっていると思います。しかし、
老健施設という施設体系を構築しようとした大き
な背景は、医療費削減であったのは明白でした。
連絡協議会でフォーラム開催
平成元年全老健設立へ
当時まず実践したことは、モデル施設同士で情
報交換を行おうということで、昭和 62 年 2 月に
モデル老人保健施設 7 か所の指定を受けた後、同
年 6 月 6 日に第 1 回老人保健施設連絡協議会を開
昭和 62 年に、厚生省(現:厚生労働省)が老
特養で家庭に帰した経験から
モデル事業に手を挙げた
人保健施設制度のモデル事業として、全国 7 か所
を選んでスタートさせてから 26 年が経ちます。
催しました。 1 年間のモデル事業を受けて、老人
保健施設フォーラムを数回開催しながら、全国老
人保健施設研究会を設立し、平成元年 11 月に社
当時は老健施設といった形も組織もないところか
私が千葉市の花見川団地に外科診療所を開設し
団法人全国老人保健施設協会設立総会の日を迎え
らの立ち上げでしたが、現在、老健施設数は約
たのが、昭和 43 年です。その後昭和 46 年に 23
ることになります。ただし、定款づくりには苦労
3,900 か所までになりました。
床の小さな病院を開設することになります。ベッ
しました。平成元年の 9 月に社団法人全国老人保
私の施設が第 1 号ですが、モデル事業立ち上げ
ドも少ないので、やっと退院してもらったおばあ
健施設協会設立準備会が設置され、厚生省からは
の経緯などそれまでのことを知っていて、現役で
さんの家に往診したとき、家に入ってみるとおば
年内に団体の設立をとの厳しい要請があり、11
やっているのは私くらいではないでしょうか。私
あさんが押入れのなかで寝ていたんです。団地の
は老人保健施設ができてきて、全国老人保健施設
間取りは核家族向けで、寝たきりのお年寄りが寝
協会が立ち上がったときの経緯を記録として残し
る場所がないのが現実だったわけです。あの光景
ておいた方がいいと常々思っていました。
は本当にショックでした。
老人保健施設の草創期は、枠組として病院でも
病院は治療する場、回復した人までの面倒をみ
ない、福祉施設でもない新しいモデル事業をしよ
る余裕もない。当時すでに、特別養護老人ホーム
うというものでした。社会的入院といわれ、長期
法人立で、ある程度の都市型でした。長野の若月
の制度はありましたが、千葉市では 1 件しかない
入院を続ける人を家庭に復帰させるための新しい
健一先生は総合病院、大阪の河﨑茂先生は精神科、
状態でした。これでは寝たきりの人がどうにもな
施設として国が計画し、その運営や建物の構造等
三重の川村耕造先生は認知症の専門施設をつくっ
らないということで、昭和 52 年に千葉市で 2 番
の基準づくりに向けての事業だったわけです。
た病院の会長、兵庫の志賀周郎先生は日赤病院、
目の、民間初の特養を開設しました。病気があっ
しかし、当時の反応は、本当にそんなものがで
山口の頴原健先生は老人病院で、福岡の全老健初
ても入れる介護施設は私の特養が国内初でした。
きるのかというものでした。病院よりも医師の人
代会長の矢内伸夫先生の所は精神科という、バラ
社会福祉事業は看護師である妻がずいぶん手伝っ
数が少ない、看護師も少ない新しい施設で、病院
ンスのとれた選定だと思いました。他の施設の方
てくれ、元気になって家庭に帰ることができる人
に長期入院している方を家庭復帰させられるのか
と初めて会ってみての感想は、モデル施設の皆さ
もいたんです。そのような経験があったものです
という声が大きかったですね。
んは、いわゆる医師会だとか、看護協会だとかの
から、老健施設モデル事業に手を挙げたわけです。
全国で選ばれたモデル 7 施設は次の施設でした。
ひも付きの所ではなく、非常にやる気がある方た
「中間施設」といわれていましたが、病院と在
老人保健施設晴山苑(千葉県千葉市)は社会福祉
ちだというものでした。
宅(家庭)との間の中間的な施設であるという意
8 ●老健 2014.12
008-011特集_平山氏(八)1113.indd
[フォーラム活動]
○昭和 63 年 3 月
第 1 回老人保健施設フォーラム
「モデル老人保健施設からの報告」
○昭和 63 年 6 月
第 2 回老人保健施設フォーラム
「施設整備の現状と基本的考え方」
○昭和 63 年 9 月
第 3 回老人保健施設フォーラム
「入所者処遇の実際と運営収支」
○平成元年 6 月
第 4 回老人保健施設フォーラム
「老人保健施設の将来-そのクオリティー
の追求」
○平成 元年 11 月
第 5 回老人保健施設フォーラム
「老人保健施設のケア-そのめざすもの」
老健 2014.12 ● 9
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2014/11/13
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特集
December Vol.25 No.9
全老健創設満 25 周年∼老健施設と介護保険制度∼
月に設立総会を開き、12 月に新宿区百人町に事
の状態の人が数か月で家庭に復帰できることを実
なぜ、ひっ迫してきたかということを考えると、
いくことが求められると思います。さらに、家庭
務所を構え、翌年 1 月の仕事始めに社団法人設立
際に示しました。成功の要因は、医療ではなくケ
老健施設が誕生して 25 年が経過していますが、
に帰ってからの家族に対する制度上の思いやりも
登記は完了したという思い出があります。
アが充実したことだと思います。高齢者のケアに
この間の「高齢化社会」
、
「高齢社会」
、
「超高齢社
ないと思います。例えば、家族が自分の仕事を辞
医療とは別の介護という分野を切り開いたといえ
会」へと向かう社会環境の変貌があまりにも早す
めて介護を行う際の補償がないことなどを、単に
るのではないでしょうか。
ぎたのではないかと思っています。
介護給付をいくらにするということだけではなく
病院はなぜ家庭に帰せないかというと、病院の
また、介護保険導入の一つの狙いは、家族の負
て、少子化・超高齢社会に合わせて、制度として
老健施設の構想に対しては、かなり大きな反響
リハビリは決まった時間に決まった内容を行うだ
担を軽減するため介護を社会で担うことにあった
老健施設も変わっていくべきだと思います。
があったのは確かです。
けだったからです。筋力をつける、関節の可動域
わけです。現在ではこの点が障害になり、親の世
社会環境をもっと分析する必要もありますし、
全国老人福祉施設協議会は、老健施設では自分
を広げるなど、本人にかなり負担がかかるもの
話を全面的に拒否する風潮があるような感じがし
老健施設だけではできないと思いますが、介護報
たちがもっていない医療もできるし、
「措置制度」
だったといえます。家庭で生活できる人というの
ています。
酬に関する議論とは別の「社会」や、
「組織」に
が崩れるのではないかというかなり強い危機感を
は、自分でトイレに行ける人です。つまり、目的
残念なことですが「考え方」が変わってきてい
ついて見直すべきだと思います。
抱いていたと思います。
をもったリハビリや生活訓練が必要だということ
るのも現状としてあると思います。
医師会では、執行部(上層部)の方は理解を示
になります。寝たきりの人が座れるようになり、
介護報酬上で、老健施設への影響が厳しいもの
されていましたが、現場では我々はずいぶん苦労
トイレに一人で行けるようになるという、目的に
があるのも事実でしょう。別の視点からいうなら
したのは正直なところです。老健施設という施設
向かった順序があるのです。それがまさしくケア
ば、老健施設が家庭に帰せなくなってきたという
介護職をもっと独立させるべきです。独立とは、
形態が、あまり理解されていないなか、医療機関
です。当時は、医療か福祉かということだけで、
ことがあります。この点は、老健施設としてもっ
介護職として自立させていくべきだということで
によく似た施設ができることに対する反発があり、
このようなケアは浸透していませんでした。
と真剣に考えるべきです。
す。昭和 62 年当時は、介護という名称すらあり
あまり協力的であったとはいえない状況でした。
一番の成果は、寝たきりの状態の人でも数か月
老健施設がスタートした昭和 62 年頃には、入
ませんでした。
「介護」が広辞苑に収載されたの
また、福祉は医療の世界とは違うというのが当
の期間で家庭に復帰できることを実際に示したこ
所者の多くは年齢が 70 歳代後半から 80 歳代前半
は昭和 58 年です。身内の家族の世話をすること
時の理解でした。心配してくれる医師仲間はいま
とです。ただ帰すだけではなく、リハビリが生活
でしたが、現在では 90 歳を超える入所者が多く
を介護といっていました。
したが、
「そんなことはできはしない」とか、
「国
に結びついたものであることを示しました。さら
なっており、老健施設のケアやリハビリの内容も
老健施設を立ち上げたときには、医療でも福祉
がずっと面倒をみてくれることはない」とか、
に、退所後の生活をきちんと管理することの重要
変えていかなければならないのは自明の理です。
でもない、介護という世界が別にあるということ
医療と福祉の世界は違う
家庭復帰という構想に反響
「やっても金にならない」といわれました。
性を示した点が成果だと思っています。
老健のリノベーションが必要
介護報酬とは別の見直しを
介護には技術と知識が必要
職制として確立すべく努力すべき
を確信していました。介護というのはただお世話
をするということではなく、それだけの技術と知
当時は、マスコミもよく取り上げてくれました。
病院では、入院患者は病院との個人契約になり、
しかし、退院が困難な高齢者を数か月の期間で家
患者同士で何かするということはありません。利
庭に復帰させることが、病院よりも医師や看護師
用者が自宅に帰りたいというモチベーションを
現執行部へ期待するところですが、老健施設を
きだと思います。介護に関する指導・教育ができ
の少ない老健施設で、果たしてできるのかという、
もって一人でがんばるのはなかなか難しいですが、
リノベーションすることが必要ではないかと思っ
た結果、介護保険制度もできたし、老健施設も順
好意的というよりは不可能なことに挑戦するいさ
利用者同士みんなで取り組むことのできる老健施
ています。我々はいろいろと苦労しながら、老健
調に発展してきたわけです。
さか無鉄砲な連中として「七人の侍」とか「七人
設の特性が発揮できたと思います。
施設という仕組みをつくり、全国老人保健施設協
日本には、医学、看護学はありますが、介護学
会という組織もつくりましたが、家庭に帰すこと
は未だ存在していません。その意味で将来、老健
を家族が受け止めてくれていたのが、現在は家族
施設としては、介護職を技術的にも知識的にも職
の受け止め方は大きく変化しています。受け止め
制として確立できるよう努力するべきだと思いま
現状の社会保障制度は、ある意味破綻している
る家族もかなりの高齢になっています。したがっ
す。保健医療分野と社会サービス分野の共通の資
との見方もできるのではないでしょうか。そのた
て、社会の変化に適応するために老健施設の構
格である北欧の「ラヒホイタヤ」のような仕組み
め消費税が引き上げられたわけです。そのような
造・形を変化させていかなくてはなりません。
を日本で定着させるような制度設計に努力するこ
面でみると、社会保障制度は財政的にひっ迫して
老健施設内での医療には制限があったり、医療
とも重要だと思います。婉曲的には社会保障費の
いるといえるかもしれません。
保険の使用も制限されている点も制度的に変えて
抑制にも寄与するのではないでしょうか。
の特攻隊」といわれたものです。
正直なところ、厚生省もそう期待していたわけ
ではないと思います。成功させる気ならば、大規
模な病院を選んでいたのではないかとも感じます。
高齢者のケアに介護を
目的をもった生活訓練が必要
モデル事業の結果として、晴山苑で、寝たきり
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老人の概念が変わってきた
ケアやリハビリも変えていく
識が必要です。そのことをもっと世間に伝えるべ
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