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イエスよ、私は主の名を呼ぶ
松田謙次郎 / イエスよ、私は主の名を呼ぶ イエスよ、私は主の名を呼ぶ 神 様 のことを何 と呼 びましょうか。いえいえ、のっけから宗 教 の話 をしようと言 うんじゃないんですよ。そ もそもそれほどの知 識 を持 っている人 間 でもありませんし、ましてや私 は単 なる英 語 と社 会 言 語 学 の 教 師 ですから。でもせっかく松 蔭 へ来 たのであれば、少 しぐらいおつきあいしてもいいじゃありませんか。 いえいえ、勧 誘 というわけでもないんですよ、第 一 私 は洗 礼 も受 けていませんし。あ、そりゃこんな不 信 心 な私 でも毎 年 の誕 生 日 礼 拝 には欠 かさず行 くことにしていますよ、写 真 も撮 って下 さるし、チャペ ルで聖 歌 隊 の合 唱 も聴 けるわ、チャプレンさんのありがたいお話 もお聞 きすることもできるわけですか らね。でもだからといって私 は聖 公 会 の信 者 じゃないんですよ。なぜかって、そりゃそういう巡 り合 わせ にまだなっていない、ってことなんでしょうねぇ。ま、いいじゃありませんか、私 なんぞのことは。お話 した かったのは本 当 にただ、どこのどなた様 でもよろしいんですけれど、神 様 のことを何 と呼 ぶんでしょうか、 ということなんですよ。神 様 は神 様 だ、あ、そりゃそうですね。でも目 の前 にその神 様 がいたとして、そ れでずっと神 様 神 様 っていうのもねぇ。え、「あなた様 」?何 かちょっと古 風 だけど、はあ、そうですか。 あなた様 。じゃなかったら「あなた」?ふうん、目 の前 に神 様 がいたとして「あなた様 」とか「あなた」って 呼 ぶんですか。こないだ学 生 にメールで「あなた」って言 われ、目 の前 で「けんちゃん」って呼 ばれた時 にゃさすがの私 もむっとしましたよ、ええ。それなりの説 明 はしましたけどね、皆 使 ってますって笑 って たけど、やっぱし本 人 の思 い違 いだろうねぇ。まぁ、何 てったって学 生 が「松 田 、超 むかつく∼」なんて 言 う時 勢 だから、驚 くこともないのかねぇ、それにそもそも私 が神 様 ってわけじゃないからね、エヘへへ へヘ。ああ、いけない、つい愚 痴 っ ぽくなってる、そんな話 じゃなかった、神 様 だったっけ。ま、だから 「あなた」や「あなた様 」はちょっとねぇ。でも「あんた」や「君 」だとまさに神 をも恐 れぬなんとかで、罰 で も当 たらなければいいけどね。そすっと「名 前 +様 」で、神 様 、 仏 様 、 イエス様 、あ、断 っときますけど 順 不 同 で敬 称 ありですよ、これは。で、やっぱしそのあとも敬 語 でしょ?神 様 神 様 、どうかお助 けにな って下 さいまし、ってね。ま、日 本 だったらそうなるわねぇ。 ところがね、これがどこでもそうってわけじゃないんですよ。バッハっていう作 曲 家 がいたでしょ?あのお 方 の作 品 に「イエスよ、私 は主 の名 を呼 ぶ」っていうオルガン曲 があってね、あっという間 に終 わっちま うあっけない奴 なんですけどね、これを使 った映 画 があったんですよ、それも昔 ソビエトって国 があって ね、そこの有 名 な映 画 監 督 、タルコさん、じゃなかった、タルコフスキーか、そのお方 が撮 った映 画 だ ったんですよ。「惑 星 ソラリス」っていったかな、わ、臭 え?んー、あ、ソラリスであります、なんちゃって、 だはははは。ええ、高 校 ん時 だかに学 校 の帰 りに友 達 と見 に行 ってね。最 初 はわっけわからなくって ねぇ。そのあと2,3回 見 てもやっぱり難 解 で。何 回 見 ても難 解 ?だは、あんたもやるねぇ。で、そのバッ クに流 れていたのがこの曲 なんだねぇ。ええ、ええ。何 でこの曲 が関 係 するかって。この曲 の題 名 は 「イエスよ、私 は主 の名 を呼 ぶ」だけど、原 題 名 は Ich rufe zu dir, Herr Jesus Christ ってんだね。 あ、ドイツ語 はむつかしい?いや私 もね、実 は全 然 だめなんですよ、ドイツ語 の授 業 で今 でも覚 えてん のはでっかい教 室 でね、12 時 になるとすぐそばの教 会 の鐘 が鳴 ってね、うるさいのなんのって。それは それはがらんがらん、5分 は鳴 ってんだね。で、これが前 座 と本 番 があって、前 座 ががらんがらんで、そ 1 松田謙次郎 / イエスよ、私は主の名を呼ぶ れからすっこーん、すっこーんってそれこそ今 にも昇 天 しちまいそうな本 番 があってね、どうもあれは神 父 さんのストレス解 消 策 だったんじゃないかねぇ。で、むつかしいドイツ語 の授 業 の時 に、このがらがら すっこーんがまたお腹 が空 いた頃 を見 計 らって始 まるんだねぇ。がらんがらん、で、この動 詞 は分 離 動 詞 と言 われましてぇ、すっこーん、枠 構 造 というものがありますぅ、すっこーん、直 説 法 ではこうですがぁ、 すっこーん、ま、じゃ次 のイーブンゲン、やってみましょうか、すっこーん。 ああいけない、また余 計 なこと話 しちまった、曲 の話 だ。でこのドイツ語 の題 名 をよっく見 てみると、 dir ってのがあるよね。これなんですよ。これ。パンフに楽 譜 が載 ってたから見 てみたらこの原 題 名 が載 っ ててね、大 学 に 入 って ドイツ語 ちっ とやってからまた見 たらあらまぁ、で すよ。何 がって、 dir っ てのは ね、「君 に」とか「あんたに」とかに当 たるもんなんですよ、ドイツ語 では。だいたいヨーロッパの言 葉 じゃ ね、目 の前 の相 手 を指 すのが「あなた」とか「あなた様 」みたいな奴 と、「君 」「あんた」系 に別 れるんで すよ。ほらフランス語 、ロシア語 もそうだしね。英 語 ?英 語 はとっくの昔 に「君 」「あんた」系 をなくしちま って「あなた」「あなた様 」系 一 本 になってんですよ。だからね、この題 名 も正 直 に言 っちまったら「イエ スよ、私 はあんたを呼 ぶ」ってなるんですよ。でもそれもなんだかねぇ。だいたいなれなれしすぎやしな いかい。何 てったって相 手 は神 様 だよ。お偉 い方 じゃないか、それをどうして「あんた」みたいな言 い方 をするのかね、って思 いたくもなるじゃないか。ね、そうでしょ。 でもさ、このことがわかったとき、ぱぱっとこう頭 に閃 くものがあったね。何 かこう、電 気 がつながったのよ。 つまりね、西 洋 人 にとって神 様 ってのはね、ほんとはそういうもんなんじゃないかなってね。敬 語 を使 わ ずつきあう、とっても近 い相 手 なんじゃないかなってね。昔 っからの日 本 の考 えで、神 様 はともかくあり がたく頭 下 げて拝 むもんだってのとは、ちっと違 うんじゃないかね。でもね、そう思 ったら今 度 は、一 応 はわかってっと思 ってた西 洋 とかキリスト教 ってのがね、やっぱり誤 解 してたのかなって思 ってきちゃっ てね。そすっとね、次 にはいつもつきあってる西 洋 人 の知 り合 いがね、突 然 こう遠 くなったような気 にな るんだねぇ、不 思 議 なもんでね。考 え出 したらきりないけどね。でね、今 でのこのことは心 にひっかかる のよ。 学 生 時 代 に 一 応 はがらがらすっこーんの鳴 る 大 学 にいて、毎 日 神 父 さん と顔 付 き合 わせてた わけでしょ、で、それなりに語 学 も、ま、やったわけだね。でもってさ、この年 になってこのざまなわけ。 情 けないって言 っちゃ、それまでだけどさ。 そりゃ私 もだてに年 は取 ってないですからね、こう言 っちゃなんですが、少 しは賢 くなりましたよ、ええ。 いいですか、「あなた」「あなた様 」系 と「君 」「あんた」系 の使 い分 けのルールってのは、これ自 体 はす っごく有 名 な話 なんですよ。私 もねぇ、一 応 社 会 言 語 学 ってなりだけは御 立 派 な看 板 掲 げてんだけど、 こういう話 ってうちなんかの縄 張 りにはいるんですよ、へへへ。業 界 の専 門 用 語 では「あなた」「あなた 様 」系 はV系 、「君 」「あんた」系 はT系 と言 うんだけど、ヨーロッパで昔 からこのT系 、V系 をどう使 われ てきたかって話 はずいぶんと研 究 されてるん ですよ。 力 関 係 から連 帯 感 を 軸 と する方 向 へ 、っていう のが大 まかな流 れなんですけどね、そりゃこれは受 売 りですよ、てへへ。ついでながら日 本 語 の敬 語 も 似 たようなもんで、相 手 との親 しさ、あ、業 界 用 語 じゃ親 疎 っていいますけどね、それに基 づいた敬 語 法 に変 わりつつあるんですよ、はい、これも受 売 り。 でもね、神 様 を何 て呼 ぶかってのは、ただT系 だV系 だの話 じゃ済 まないわけよね。やっぱし根 っこの 2 松田謙次郎 / イエスよ、私は主の名を呼ぶ ところは宗 教 の問 題 でしょ。松 蔭 ってのは便 利 なところでね、ここらの専 門 家 がごろごろいるんですよ。 ドイツ語 だフランス語 だはもちろん、確 かアーメンって言 葉 がそれだって聞 いたけどヘブライ語 とか、ギ リシャ語 ラテン語 もすらすら読 めちゃう先 生 がいるんですよ。ドイツ語 すっこーんの私 にゃおっそろしく てなかなか近 づけないんだけど、いつだったか松 蔭 前 の坂 道 をころがりながら偶 然 会 ったその専 門 家 の一 人 の方 に、決 死 の覚 悟 で尋 ねたらね、聖 書 の翻 訳 でもそういうことが問 題 になってるんだって教 えて下 さいましたよ。その時 へぇーって思 いましたよ、ええ。偉 い人 はやっぱし考 えていたんだなーって ね。 こういう翻 訳 の問 題 ってのはでも煎 じ詰 めれば、その底 にある何 て言 うのかねぇ、自 分 にとって神 様 っ て何 、ってことになるんだろうね。神 様 が一 人 でも二 人 でも、どこの神 様 であってもいいけど、最 後 はそ の神 様 と自 分 との関 係 ってことになるでしょ。これは何 を信 じようが同 じだよねぇ。で、それはとどのつま り、私 って何 って話 になっちゃうんだよ。厄 介 なもんだねぇ、神 様 の呼 び方 考 えんのに、自 分 のことか ら始 めなきゃなんないんだから。でもさ、ここがしっかりしてなきゃ始 まんないでしょ。これまでは大 学 に 入 るんで頭 がいっぱいだったかもしんないけど、むしろこれからの方 が大 変 だよ。こういうことを考 えな きゃなんないから。自 分 が何 かって他 人 様 に聞 くってのも落 語 みたいだし、え、私 は英 語 ?あんたもさ ぶいねぇ。あ、でも先 生 や友 達 と話 すのはいいんじゃない。ま、じっくり考 えるんだね。私 にゃこっから 先 はちょっとわからないけど、あんたせっかく松 蔭 へ来 たんでしょ?専 攻 は何 でもいいけどさ、大 学 に いるうちにこういうことはゆっくり考 えておいた方 がいいよ。私 の脳 細 胞 はもうどんどんお亡 くなりになっ てくだけだけどさ、あんたたちのはぴんぴんしてんだから。本 読 んでもいいし、「キリスト教 概 説 」の授 業 に身 を入 れてもいいわけでしょ。ま、そういうわけでへらへらがんばんなさいよ、あと4年 間 。それじゃあ ね、さいなら。 3