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7巻 9号 (1975年12月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

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7巻 9号 (1975年12月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部
東
京
大
学
理
学
部
― -7巻 9号
―
日
召不口50年 12月
目
次
小 倉
物 理 学 教 室 に お世 話 に な っ て
Cambridge大 学 に 滞 在
(2)
(3)
(4)
……・ (9)
謙 ……
江 橋 節 郎 ……
上 村
洸 ・… …
植 物 園 の 大 イチ ョウ
して
終戦 の ころ
出 口重 次 郎
私 の読 ん だ 本 (25)
「 生 命現 象 を探 るJ
一 生化 学 の 創 始者 た ち一
渡 辺 正 勝 … … (12)
(14-16)
く学 部 消 虐、
〉
三葉虫は絶滅 した生物の中では最 も有名なものの一つ
で,ゾ ウ リのような格好 をした化石 を思 い出す人は多い
だろう。 しか し日本にもその三葉 虫の化石 力ヽすっこう出
ることは案外知 られていない ようである。写真は宮崎県
五ケ瀬村で発見されたシルル紀申期の三葉虫の頭部 (左
上 )と 尾部 (左 下 )で,全 体の復 元図 (右 )と 比べ てみ
て頂 きたい。一見貧弱な破片にす ぎないが,実 はこの化
石はこれまでに発見された 日本最古の化石で,今 か ら約
4億 年ほど前の ものである。 これ より古 い化石 を含む地
層は 日本列島か らはみつか っていない。
三葉虫は古生代前期 に 多く,シ ルル紀ごろか ら衰退 し
たが,そ れで も日本列島だけで80種 ほども知 られている。
海底付近にすみ,活 発に活動 しなが ら,植 食・ 泥食など
さまざまな生態的地位に適応 して いた と考 えられている。
Coronocephalus hobagashii Hamada
(
(鎮 西清高 ・地質 )
x1.4)
-1-
植物 園 の大 イチ ョウ
/1ヽ
倉
謙
(植 物 ・ 名誉教 授 )
話 は少 し前 の こ とだが, イ ン ドで編 集 され てい る
植物 形態 学専門雑誌 か ら, イチ ョウ と ソテ ツの精子
発 見 のい きさつ を書 い て くれ との依 頼 が あつたが
この件 に ついて はい ろい ろの雑誌 に も書 い て一 応 の
,
予備智識 が あつた ので,そ の 申出 に応 じてそ の梗概
を書 い た (Phyto mOrphology,Vol.17,1967)。
イ
チ ョウ と ソテツの精子 が二 人 の 日本人 に よつて発 見
せ られた こ とは内外 の専 門書 には もち ろん , 日本 で
は中学 や高 校 の教科書 や参 考 書 に も載 せ られ て周知
の ことでは あるが ,イ チ ョウの精子 が理学 部付属植
物 園 (通 称小石川植物 園 )に ある木 か ら発 見 せ られ
た の で,東 京大学 百年 史 の 1資 料 に もとづ き,こ こ
にそ の当時 の事情 を述 べ て見 たい (以 下尊称 を略 ナ)。
東京大学創立 の ころ ,植 物 学 は じめ理 学 部 の各教
室 (当 時教場 とい つた )が 神 田錦町 に あ り明治18年
(1885年 )に 本郷 元富士町 の医学部 内外 の と ころに
移 り,や が て構 内 の北側 に移 つた が,植 物 学 教室 だ
けが植物 園 に移 され (明 治30年 ,1877り , 本 郷 の理
学部 二 号 館 に移 るまで(昭 和 9年 ,193■→ , 永 い 間
ここに居 を構 え ,植 物 の実験 や研 究 に利 す る ことが
多 か つた。 問題 の イチ ョウは教室 の近 くに あ り,学
生 は毎 日 これ を眺 め ていたが ,精 子発 見 は教 室 が こ
植物園の大イチ ヨウ
こに移 る少 し前 の こ とで あ った。
195647(り │1上 )
画工 と して雇 われた平瀬 作五 郎 は植物 の画 な どを
描 く傍 ら,や が て助手 とな つて研 究 に も携 わ り,こ
の イチ ョウの雌 花 の胚殊 の受粉 か ら授精 にい た る経
月始 め に,授 精 が 9月 末 か ら10月 半 ば に行 れ るこ と
過 を知 るため胚珠 の薄 片 を切 つて内 部 の微細構造 を
この イチ ョウの精子発 見 に連 関 す る話題 と してす
観察 してい る うちに,花 粉管 内 に楕 円体 状 の ものの
1側 に螺旋 状 の帯 rc細 い織毛 の生 え てい る のに気付
ぐノテ ツの精子 発 見 の こ とが想 い起 こされ る。 植 物
学科 を卒 業 した池野成一 郎 は農科 大 学 に赴 任 してや
き, これ を精子 (当 時精虫 とい つた )と 考 え ,そ の
が て助教 授 とな り,平 瀬 の イチ ョウ調査 に前後 して
(18%年 )4月 25日 東 京植物 学 会例 会
ソ テツの胚珠 の発 育経過 を観 察す るた め多数 の薄 片
で発表 した。 これ に力 を得 てそ の年 の秋 に生 まの 薄
を切 つた もの の 中に,花 粉 管 の 中 に球 状 の ものの一
片 の 中に繊毛 を動 か してい る精子 を確認 し′9月 26
日に同会 711会 で講 演 し,植 物 学雑 誌 10月 号 に これ を
方 に太 い 螺旋 状 の帯 rc繊 毛 が生 え てい るの を認 めて
精子 と考 えた。 これは奇 しくも平 瀬 の イチ ョウ精子
掲載 した。 この年 こそ イチ ョウ精子 発 見 の時 に当礼
彼 は さらに研究 を続 け て受粉 か ら授精 にい た る過程
発 見 と同年 の春 で, これ を同年11月 号 の植物 学雑 誌
に載 せ ,さ らに研 究 を続 け て詳細 を理 科 大 学 紀 要
をつ きとめ て,そ れを理 科大学紀要 に記載 した(1895,
(1898)そ の他 に記 載 した。 ソテツは東京付近 で花
旨 を明治29年
1898)。
そ の間 彼 の先 輩 や 同輩 は 心 よ く彼 の仕事 を
援 け,ま た相次 い で生 きた精子 を確認 した (三 好
池野,藤 井 ,三 宅 )。 東京 では受粉 が 4月 末 か ら 5
,
-2-
が明 らか にされた。
を付 け るこ とが あ るが研究 資料 と して不充分 であ る
ため,彼 の資料 は鹿 児 島市 の興 学 館 (現 在 の県 立 博
物 館 )か らの もので生 きた精 子 を見 る機 が なか つた
が,の ち同輩 に よってそれ が確認 せ られた (三 宅 )。
イチ ョウは17世 紀 の ころか ら ヨー ロ ッパ各地 に育
存 してい るの も喜 ば しい。
成 せ られ ,花 や胚珠 の発 達過程 もあ る程 度解 つてい
植物 園 は徳川 幕府 の御薬 園 の跡 で,往 時 を しのぶ
もの は ,わ ず か に薬 草 を乾 した石 台 ,養 成所 の井 戸
たが ,ま だ不備 な点 を追及 しようと した平 瀬 の 努 力
な どが残 り,貝 塚 の跡 (本 誌 7巻 4号 渡辺教授記事
が精子発 見 の機 会 とな つた。 これ に反 して ソテツの
参照 )や 青木 昆陽 の甘 藷試作地 の 跡 もな く,た だ後
者 は石 碑 に よ つてそ の跡 が しのばれ る。 また正 面
仲 間は ア メ リカ各地 に 多産 し,そ れら の胚 珠発達 も
数 多 く行 われ なが ら精子 の存在 は認 め られず ,池 野
の発 見 に 驚 い た人 々は改 めて観 察 して ソテツ類 の各
種 に精子 を認 めて池野 の 業績 が裏 付 けられた(Webbeち
Chamberiain,CaldweH)。
,
集会所 ,吾
大名屋敷 の庭 園 はそ の形 が残 つてい る ものの ,松 な
々の学ん だ教 室 も今 は な くな った。 一方
ど木 々が枯 れて淋 しくな つて行 く時 で も,大 イチ ョ
ウが健 在 な の は心 強 く,晩 秋 には毎 日黄色 の種子 が
徳川時代 には動 植 鉱物 に関す る本草 学 が相当深 く
行 われたが ,鎖 国政 策 の ため欧米 の新 しい智識 の導
落 ち て くる。 この イチ ョウの 由来 を書 い た標 札 が こ
入 が遅 れ ,東 京大学 創立 に よって漸 くこれ が 開 かれ
て19年 後 に,裸 子植 物 に精子 が 存在 しない とい う当
度 とな く立 て換 え られたが,私 が ここの 園長 を兼 ね
てい て定年 退職 の とき,あ の偉 業 か らの還暦 に因 ん
時 の定説 を切 崩 した こ とは確 かに植物 学史上 に残 る
で記 念碑 が建 て られた (昭 和31年 ,1956つ の が , 私
画期 的 の こ とであ り,そ の資料 を供 したイチ ョウが
と して も好 い思 い 出 とな つた。
の 根本 に立 て られ たが,腐 った り,損 れた り して幾
今 なか植 物園 に聟 え てい る し,鹿 児島 の ソテツ も現
物理 学教 室 にお世 話 にな って
江
一昨年 の元 日,久 保 先生 のお 宅 で,初 めて小堀先
橋
節
郎
(物 理
)
つた。 先 生 が 何 か い われ る の か ,い われ な いか に
,
生 にか 目にか ヽる機会 を得 た。 お屠蘇 が効 い て,我
今度 は必 ず書 きま す とい い 切 つて しま つた。 そ して
なが ら舌が滑 らか にな った とい うところ まで は覚 え
出来 上 つた のが , この拙 文 で あ る。 尤 も,心 に は決
てい る。 数 日す る と,小 堀 先生 か らか電話 が あって
めて も,締 切 の ギ リギ リま で,小 堀 先 生 に御 心 配 を
あ の時 の話 は面 白か つたか ら,理 学 部広報 に書 け と
お か け した こ とは い うまで も ない 。
,
の こと。 成程 ,日 は 災 い の も とと改 めて感心 しなが
も う 5年 近 く前 の こ とに な る。 教 室 (医 )に
,今
ら,そ れ で も粘 りに粘 って,お 断 り申 し上 げ た こ と
井 先生 と久 保 先 生 が 相 つい で 見 え られ た。 生 物 物 理
が ある。
の研 究 室 を も う一 つ 作 りた い の で,協 力 して 貰 え な
この10月 末 ,約 10日 間 の米 国 出張 を 終 え て 自 室
(医 )に 辿 りつ くと,山 積み の書類 の一 番上 に理 学
い か との こ とで あ る。 祗 は大 い に とま ど つた。 小 谷
部広報 が載 せ て ある。 扉 を開 くと「 今年 もまた さわ
やか なニ ュース 」とい うタ イ トル,つ いで私 自身 の
に も立 派 に根 づ い て ,和 田 ・ 池上 の 両 研 究 室 が 堂 々
名 が 目rC入 った。 しか し何 の事 か よ く判 らない。 椅
東 大 物 理 教 室 は ,い わ ゆ る生 物 ブ ー ム に 惑 わ され る
子 に坐 り, もう一 度読 み直す。 ど うや ら,植 村学 部
こ とな く, し つか り した物 理 の基 盤 の上 に生 物 物 理
長 が,巻 頭 とい う大 事 な場 所 で,私 の文化勲章 の受
章 のか祝 を述 べ て下 さ つてい るの ら しい。 どうして
を築 くべ きだ とい う基 本 方 針 を も つて か られ るか に
聞 い て いた。 そ れ が 何 で ,選 りに選 つて,私 の 様 に
私 の様 な もの の個人 的 な こ とrC。 それに私 は医学 部
泥 臭 い 仕 事 を して い る者 を指 名 され た の だ ろ うか。
に本籍 をお く,い わば よそ者 では ない か。今度 は じ
私 が 最 終 的 に お 引 受 けす る こ とを決 意 した の は
つ くりと読 崚 して頂 い た。 胸 に ジーン と来 る ものが
「 今 後 の物 理 学 は ,生 物 そ の もの を も対 象 と して行
あ つた。近 頃 の私 には ,絶 え てない感激 で あ った。
か なけれ ば な らな い 」 とい う久保 先 生 の 名 言 に よ つ
(植 村先生 !本 当 に有難 うございま した )
て で あ つた。 で は ,私 は何 を した ら よい の か。 「 生
それか ら二 ,三 日 して,小 堀先生 か らお電話 が あ
-3-
先 生 に よ つ て 育 まれ た 日本 の 生 物 物 理 は ,東 大 物 理
とや ってか られ るで は ない か 。 そ れ に,折 日正 しい
,
物 物 理 学 とは,物 理 学 者 が や りた い と思 う生物 学 の
こ とで あ る 」 とい う明 快 な定 義 を下 した 人 が あ る。
を勉 強 させ て頂 こう とい う殊 勝 な意 図 は,い つ しか
それ な らば ,生 き物 とは何 か とい うこ とを物 理 の 先
完 全 に 消え去 つた。 前 に,教 室 (医 )の 若 い人 た ち
生 方 に 考 え て 頂 く機 会 を で き るだ け 多 く作 る こ とも
と,ポ ツポ ツや つてい た勉強 の方 も,何 とな く気恥
私 の 役 目 の一 つ で あ ろ う。 そ れ に は ,第 一 級 の , し
ずか し くて止 めて しま つた ので, こち らの方 向 は学
か も個 性 の 強 い 若 い 生 物 研 究 者 が 教 室 に入 る こ と も
力低 下 の一 途 を辿 るのみ で あ る。
,
一 つの 道 に違 い ない。 こ う して ,堀 田 ・ 若 林 の 両 君
それ で も人 間 は不思議 な もの で,物 理 学 教室 に籍
が 加 わ る こ とに な り,最 も正 統 的 な東 大 物 理 学 教 室
をか い てい ると,い つ しか 自分 が ,本 ものの生物物
の教 官 約80名 の 中 に ,医 師 が 3名 も い る と い う様 な
理 学者 だ とい う気 に な って くる。 今年 の生 物物 理 学
異 常 事態 が 出現 す るこ と とな った の で あ る。
こ うい つた 次第 で ,最 初 ,教 室 の 会 食 に 出 席 した
会 の年 会 では,生 物 研究 に も深 い 関 わ り合 いの あ る
フ ォ トン・ フ ァク ト リー計 画 の シ ンポ ジ ウムが あっ
頃 は ,実 は 大 い に肩 肘 い か らせ て い た もの で あ る。
たが,何 と私 は「 フォ トン・ フ ァク トリー と生物物
しか し,そ うい った 緊張 も, あ つ と い う間 に 消 え て
理 」とい う大 演題 を図 々 しく も引 き受 けた もの で あ
しま った。 それ は何 よ り も教 室 の 皆 様 方 が ,植 村 先
る。
生 の か 言 葉 に よ く顕 われ て い る様 に暖 か く,別 け隔
て な く迎 え て 下 さ つたか らで あ る。 今 で は金 曜 日 の
「 今 まで の生物学 者 は行 き当 りば つた りの研 究 を
や って来 て,む しろそれ を得 意 とす る気 配 が あ った
教 室 会 食 は私 には一 つ の 楽 しみ とな ってい る。 真 面
が (そ れは ,正 に私 自身 の こ とに他 な らないのだが)
目な物 理 の 先生 方 の 水 準 か ら見 れ ば 問題 に な らな い
これか らの大 型機器 時代 には,物 理学 者 を納得 させ
か も知 れ な い が,私 と して は異 例 の 高 出席 率 な の で
る計 画性 が必要 で ある 」な どとぶ ってい る うちに
あ る。
何 の こ とは ない ,無 責任 な政 治 家 と同 じ こ とを 自分
,
物 理 に 伺 う様 に な ってか ら,私 に大 き な進 歩 が 一
が 今 や ってい ることに気 が付 いた。 冷汗 を拭 き乍 ら
つ あ る。 そ れ は ,臨 床 医 学 に強 くな った こ と で あ れ
演壇 を下 りる と,親 友 では あ るが ,な か なか に 厳 し
肝 臓 が 右 か左 か を間違 え る様 なな で も, ここ では レ
い B教 授 がか待 ちかね の様子 で「 勲章 を貰 う様 な偉
ッキ と した医 師。 非 常 に 聡 明 な人 で も,馬 鹿 な医 者
い人 は ,流 石 に違 います なあ 」 とず ば リー言 。 散 々
のい う事 を 疑 わ ない ものだ そ うで ,真 剣 な御 質 問 に
の体 た ら くで あ った。
そ ういい 加 減 な返 事 もで きず ,30年 来 触 った こ と も
ない 内科 書 な どを引 つ張 り出 して の俄 か 勉 強 とい う
最後 に,私 が この様 に楽 しく過 せ る様 お 心遺 い頂
いてい る理 学 部 ,殊 に,物 理 学教 室 の 諸先生方 に
始末 で あ る。 そ れ に 引 きか え ,雑 学 /Ti度 にで も物 理
心 か らか札 を 申 し上 げた い。
,
Cambridge大 学 に 滞在 して
上
,光
(物 理
)
い がす る。
は じめ に
ケ ン プ リップ の 町 を静 か に流 れ る カ ム川 (RIver
Cam),夏
村
私 が Professor Mottの 招 きに よ り,こ のKing′ s
に な る とパ ン ト (Punt)と よば れ る舟 遊
Collegeを は じめ長 い歴史 を もつ 多 くの カ レ ッデか
びで賑 や か に な る。 ケ ン プ リ ッデ を訪 れ る学 者 の 便
らな る学都 ケ ンプ リッデに家族 と もど も参 つたのは
宜 の た め の 施 設 Ulliversity Centre fOr Visiting
昨年 10月 初 め,1974-75 ④ academic yearが 始 ま る
直前 で あ った。 以来 今年 の 8月 崚 でケ ン プ リッデ大
Scholarsの 建 物 の 前 か ら この カ ムリ││に 沿 つ て下 る
と,や がて有名なKinゴ s Collegeの チャベルが見え
,
て くる。 ベン リー 8世 の時代 に完 成 した と云 われ る
学物 理 学教室 ,通 称 Cavendish研 究所 に滞 在 して
ProfessOr MOttを は じめ固体 物 理のグループとともに共
この ゴシ ック風 の建物 を,鮮 やか な緑 の芝生 で敷 き
同研究 を行 い,大 変 有意義 な実 り多 い 研究生活 を過
つめ た美 しい カレ ッヂ の裏 庭
(BackS)を
通 して カ
,
す こ とがで きた。
ム川 か ら眺 め る風 景 は, ケ ン プ リッデ滞 在 中 いつ 見
帰 国早 々小堀 先生 よリケ ン プ リッデでの印象記 を
て も誠 に 印象 深 く,今 もつて 限 の あた りに浮 かぶ思
書 〈よ う御依 頼 を うけ,一 年 間不在 の罪 滅 しに一 筆
た い と思 う。 と云 つて もケ ンプ リッデ大学 の教 育制
書 か され る羽 目となつた。
ここでは Cavendish研 究所 や私 の属 していたGon―
度 は大変 複雑 で ,私 の よ うな短期間 の滞 在 者 には 誠
ville and Oaius CoHege で の 日常生 活 を通 して
私 が 見聞 し経験 した ことを もとに,ケ ンプ リッデ大
解 が不確 か で 間違 って い るこ とが あるか も しれ ない
学 の もつ ア カデ ミ ック な雰 囲気 の一 部 を紹 介 してみ
ので,そ の点 をは じめ にお断 り してお きた い。
晋
::臨 PttiliigtheChapd
に理 解 し難 く,ま た見聞 した事実 に つい て も私 の理
The old Cavendish Laboratories
and
The new Cavendish Laboratories (Mott nultaing)
Cavendish研
究所 とは
私 が 研究所 の客員 メ ンパ ー となった1974年 は ,研
究所創立 100年 にあた り,研 究所 に とつて大変意義
の ある年 で あ つた。 私 自身 ,ど うゆ う経緯 でケ ン プ
Heffers書 房 を通 して この書 を買求 め,ケ ン プ リッ
デ にかけ る 100年 間 の物理 学 の発 展 の歴 史 を遡 って
みた。
ケ ンプ リッデ大 学 は,Ne‖ on以 来物理 学 に関 し
リッデ大 学 に物理 学教室 が で きたか に少 か らず興 味
て伝統 を誇 っていたが,ま だ1874年 以 前 は物 理 学 は
を もつて いた ので,丁 度創立 10o年 を記 念 して,J.
C.CrOwther著 の `
講 義 を通 して のみ教 授 さ れ るだ け で ,組織 化 され た
The Cavendish LabOratOry
1874-1974"が Mた Millan社 か ら出版 された機 会 に
,
-5-
実験物理学 の施設 とい う もの が なか った。 そ こで実
験 物 理 学 を主 と した研究所 を ケ ン プ リッデ大 学 につ
くりた い とい う要 望 が ,物 翠 学 者 の 間 に当 時 か な り
元 気 に 研 究 を楽 しん でか られ ,Mottビ ル の Mbttセ
強 くあ った。 当 時 の ケ ン プ リッデ大 学 の総 長 で あり
ミナ ー室 で しば しば御 自分 の ア イ デ ィア に つ い て セ
Devonshireの 第 7代 公 爵 で あ つたWilliam Ca―
ミナ ー を開 か れ る。
,
vendi sh(静 電 気 に か け る逆 二 乗 則 を発 見 したHen―
ry Cavendishと は遠 い 親 戚 に あた る )は ,こ の 要
望 の 必 然 性 を 充 分 理 解 し,財 政 面 に お い て 並 々
学部学生 の教育
ケ ン プ リ ッデ大 学 の 学 部 学 生 は
1学 年 凡 そ 3000人
にク ン プ リ ッ
入 学 後 3年 間 で 卒 業 す る。 後 に述 べ る よ うに ,大 学
デ大 学 に Department of Physicsを 創設 した。 これ
へ の 入 学 に 対 して は カ レ ッデが 全 面 的 に責 任 を 負 う
が 今 日の Cavendis h研 究 所 で あ る。
てい るが ,入 学 後 の教 育,学 位 の 授 与 等 に 関 して は
な らぬ尽 力 をす る こ とに よ り,1874年
1874年 ,Cavendish研 究 所 の 初代 所 長 である Caven―
dish Professor of Experimental Physicsに 就 任
した のが ,電 磁 場 の理 論 で 有 名 な James
,Lord Rayleigh,Sirエ
Lord Rutherford,
NeviH Mottと
エ
Thomson,
Sir Lawrence Bragg,
学 部 が 中心 に な つて行 つて い る。
東 大 の理 学 部 志 望 に相 当 す る学 生 は ,数 学 志 望 な
C lerk
Ma郷 ve Hで あ った。 MaweH以 後 Cavendish Pro―
fessorは
大 学 が 責 任 を もち ,カ リキ ュ ラム の 編 成 は 主 と して
Sir
らヽ強thematical Tripos,そ の他 の 自然 科 学 志望 な
ら Natural
Science Triposと い う コー ス の講 義 を
履 修 す る こ とに な る。
受 け継 が れ ,現 在 の所 長 Sir Brian
Pipp ard が 第 7代 目に あた る。
Natural Science Triposの コ ー ス が大 学 に 設 け
られた の は1850年 頃 と伺 つて い るが , こ こ で は この
私 が 学 部 学生 の 時 に講義 で 名 前 を伺 つた 物 理 学 の
コ ー ス が どの よ うな内容 の カ リキ ュ ラ ム を も つてい
偉 大 な先駆 者 た ち の 肖像 あ るい は 肖像 画 を 眼 の あた
るか に つ い て ,そ の概 要 を説 明 して み よ う 。 こ の
りに して 身 の ひ さ しま る思 い が した の も記 憶 に 新 し
Triposは Part IA,Part IB, Part Ⅱ の 3つ に
分 れ ,通 常 第 1学 年 で Part IA,第 2学 年 で Part
へ。
し
この歴 史 が示 す よ うに ,ケ ン プ リッデ大 学 で は
IB,
,
Department of Physicsの Physicsは Experi me―
ntal Physicsを 意 味 し (オ ックス フ ォ ー ド大 学 の
最 終 の第
3学 年 で Part Iの カ リキ ュ ラム を履
修 す る こ とに な る。
第
1年 次 の Part IAで は
,
Clarendon研 究 所 も同 じ事 情 で 創 設 さ れ た よ うに伺
Blology of Cells
つてい る
Biology of Organisms
),Cavend ish研 究 所 では 伝統 的 に実 験 物
理 学 を主 と して 教 授 ,研 究 を行 つて きたが,Professor
Chemistry
Geology
Physics
Ph37sio logy
Mottが 所 長 の 時 に 固 体 物 理 の理 論 グ ル ー プ を新 た
に設 け ,現 在 の物 理 学 教 室 は Theory of Cёndensed
の 7つ の実 験 学 の科 目か ら3つ を選んで 講 義 を聴 き試 験
Matter,
rCパ ス しなければな らない。ま た 第 4の 科 目 と して数 学
Physics and Chemistry in Solids,Ipw
Crystallinc Materials
Temperature Physics,MetaI Physics, RadiO
Astronomy,High Energy Physics等 の 研 究 室 か ら
も よい。 私 が Supervislon Classで 教 え た 物 理 志 望
な つてい る。
の学 生 は ,
理 論物 理 の グ ル ー プは Department of Applied
と も Physics,Chernistry,Crysta―
第 2年 次の Part IBで は,次 の 8つ の グ ル ー プから
,
,
素粒子 論 ,流 体 力 学等 は この 教 室 に含 まれ る。 ca―
vendish研 究所 は 2年 前 ま で は ク ン プ リ ッデ の 町 の
中心 近 くに あ った が ,物 理 学 の発 展 に伴 って各 グ ル
ープ と も大 き くな り,1973年 に ケ ン プ リ ッデ の西 の
の名 称 のつ い た
2人
1line Materials,Mat腱 maticsを 履 修 して い た 。
Mathematics ard Theoretical Physicsに 属 し
町 は ず れ に移 転 した。
も し くは生 物 学 者 に対 す る数 学 を選 択 と して 選 ん で
RutheifOrd,Bragg,Mott
2乃 至 3題 目を 選 ん で ,そ の題 目に属 す る講 義 を履
修 す る こ とが要 求 され る。 た だ しそ の 際 同 じグ ル ー
プか ら 2つ の題 目を選 ん では な ら な い。
Part IB
(1)Chemistry;Advanced Chemistry
3つ の ビル か らな る大 変 モ ダ ン な研
究所 で,場 所 は町 は ず れ で や や 不便 に な った が ,研
究室 の スペ ー ス は大 き くな り,設 備 は充 実 して ス タ
ッフー 同 は非常 に 満 足 してい る よ うで あ った 。Pro―
fessor Mottは 停 年 後 も n/rottDレ にある研究 室 で大変
-6-
(1)Pathology; Physics: Advanced Physics
(ull Animal Blology;MetaHurgy and Material
Sclence
′
m crystalline State;Geodynamics;Physi∝
logy
物 質 ,天 体 物 理 , プ ラ ズマ 物理 ,化 学 物 理 , シス テ
lVI Biochemistry;Geological Materials
(Ⅶ
側
ム,
Fluid Mechanics
な過 程 等 の細 分 化 され た トピ ック に つ い て 履 修 す る
Envi10mental BiOlogy;Mathematics;
こ とに な り,
Pharmaco10gy
鰤
Easter学 期 で は よ り advancё dな トピ
ッタに つ い て も勉 学 す る こ とに な る。
学 年 末 試 験 に つ い て大 変 興 味 深 く思 つた の は,物
History and Philosophy of Science
最 終 学 年 の Part
Advancedな
量 子 力学 ,統 計 力 学 , stochastic
Plant BiOlogy; Experimental Psychology;
Iで
は ,以 下 の 題 目 の う ち の 一
つ を 専 攻 科 目 と して 選 び ,そ の 専 攻 科 目 の カ リキ ュ
理 学 の 場 合 出題 委 員 ,採 点 委 員 に講 義 を した教 官 が
入 つて い ない こ とで あ った。 試 験 も Part
lに つ い
て 云 え ば力 学 ,電 磁気等 の 科 目毎 に は分 れ てい ず
ラ ム を履 修 す る こ とが 要 求 さ れ る。
例 え ば 物 理 学 を選 ぶ こ とは ,東 大 で 云 え ば 物 理 学
科 に 進 学 して 授 業 を うけ る こ とを想 像 す れ ば よい 。
物理 学 (1)∼
,
0の 表 題 の もとにそ れ ぞ れ 3時 間 ,合 計
18時 間 に わ た る試 験 が 大 体 4日 に分 け て行 わ れ る。
Part I
ノー ト,教 科 書 の持 ち込 み は許 され て い ない か ら
AnatOny
学生 諸 君 に とっ て は,そ れ以 前 の 試 験 勉 強 の期 間 も
Applied Biology
含 め て 4月
,
, 5月 は 相 当 き つい 毎 日の よ うで あ っれ
5月 末 に 試 験 が 終 る と,各 カレ ッデ毎 にMay Ball,
B iochemistry
Botany
May Concert(実 際 には 6月
Chemistry
れ の カ レ ンデの 学 生 の主 催 で 開 か れ ,May
初 め に あ る )が そ れ ぞ
Ballの
9時 頃 か ら翌 朝 朝 食 事 ま で踊 りま くつて
Crystalline State
時 な どは 夜
Genetics
過去 1年 の 気 持 の整 理 を して い る よ うで あ った 。 私
Geology
も私 自身 の カ レ ッヂ の May COncertに 家 内 と出 席 し
Geology with Mineralogy and Petrology
たが (私 の カ レ ッデで は ,大 入 同伴 が 許 され る パ ー
Material Sience
テ ィは年 に数 え るほ ど しか ない ),Mり Concertは カ
,
Mctall trgy
レ ッデ の学 生 , fe llclwの 組 織 す る オ ークス トラの
Minご ra10gy and Petrology
演奏 を聞 き乍 ら, fe H Ow及 びそ の 夫 人 ,学 生 の懇 親
Path。 logy
を 目的 と した もの で,毎 年 春 に植 物 園 で 開 か れ る理
Pharmaco10gy
学 部 の 懇親 会 と同 じ趣 旨 の も の で あ った。 ただ 学 生
Physics and TheoreticaI Physics
fel10wと も dinner jacket(タ キシー ド)着 用 でか な
Physiology
リ フ ォ ー マル な雰 囲 気 で あ った 。
さ て最 終 学 年 の Part
Physiology with Psychology
Psychology
Iの
学 生 の 場 合 ,学 年 末 試
験 (優 等 学位 の 試 験 とよぶ )に 合 格 す れば,Bache―
Zoology
lor of arts witll hOnollrsの 学 位 を取 得 して め て た く
と こ ろで これ らの 専 攻 科 目 を 選 ぶ 際 ,例 え ば 物 理
6月 20日 ,21日
Houseで 行 わ れ た。 学位 を
卒 業 と な る。 今 年 の学 位 授 与 式 は ,
学 専 攻 の 場 合 に は,
Part IBで Advanced Ph ysics
の 2日 間 大 学 の SenatO
を 履 修 して 試 験
ス して い る こ とが 必 要 で ,第 3
授与 され る学 生 が カ レ ッデ 毎 lrc senate Houseに 参
1/Cパ
学 年 で ど の専 攻 科 目 を 選 ぶ か に つ い て は ,大 体 第
りVice Chancellorか らそ れ ぞ れ学 位 の授 与 を うけ
1
学 年 の 終 り頃 に 進 路 を決 め て お く こ とが 必 要 で あ る。
大学 は
3学 期 制 で 各 学 期 は 8週 間 か らな る。 ケ ン
プ リ ッデ 大 学 で は ,10月 か ら12月 の 学期 をMichael―
mas,1月
,
るわ け だが ,学 位 を授 与 され る学 生 の総数 は3000人
に近 い の で,全 員 が 学位 を うけ終 る ま で に 1日 半 か
か る こ とlrcな る。 学 士 号 に相 当 す る学位 授 与 者 は
,
か ら 3月 の 学 期 を Lent,4月 か ら 6月 の
そ れ ぞ れ の カ レ ッヂ の ガ ウ ン の上 に 白兎 の furを つ
学 期 を Easterと いう よ うに特 有 な 名 称 で よん でお り
け た服 装 で 授 与 式 に 出席 す る。 授 与 式 の行 わ れ る 2
Easter学 期 の 終 り に 学 年 末 試 験 が あ る 。
日間 は ,式 に 出席 す るた め に ケ ン ブ リッヂ にや って
,
Part Iで
物 理 学 を専 攻 に 選 ん だ 学 生 は ,実 験
理 論 ,実 理 混 合 の
3つ
,
の コ ー ス の い ず れ か に分れ る。
Michaelmas学 期 で は 講 義 は大 体 共 通
で あ るが
Lent学 期 に な る と素 粒 子 ,原 子 核 ,固 体 電 子 論
きた 学 生 の 両 親 ,兄 弟 ,婚 約 者 等 とそ れ らに 囲 まれ
た上 記 服 装 の 学 生 で ケ ン プ リ ッデ の 町 は盗 れ ,町 全
,
体 が 明 る く華 や か な雰 囲 気 で 包 ま れ る の も,学 都 に
,
ふ さわ しく極 め て 印象 的 で あ つた 。
大学 とカ レ ッヂ
よ うな科 目を履 修 した ら よいか を ア ドバ イス す るの
既 に しば しば カ レ ッデ とい う言葉 を用 いて きたが
ケ ンプ リッデに さて我 々が とま どうの は,恐 ら くま
ず第一 に大 学 とカ レ ンデの関係 で あろ う。 カ レ ッデ
,
が TutOrの 役 目で ある。 ま た 各 講 義 に つ い て 演 習 の
役 目を果 す supervision classを 学 生 に 害り あて る
の も TutOrの 仕 事 で あ る。 ク ラス と云 つて も学 生 は
は,そ もそ もは学 者 が起 居 を ともに して勉学 ,研 鑽
1人 乃 至 2人 ,多 くて 3人 で 個 人 教 授 の よ うな もの
を積 む場 と して設 け られ たが ,長 い 年 月 の間 にそれ
で あ る。
らの カレ ッデが集 って一 つ の教 育 の場 で あ る大 学 を
私 も TutOrの 依 頼 で,あ る カレッデ の物 理 志 望 の
構 成 す るよ うに発展 して きた。 従 って曾 ては大学 の
年 生 2名 につ い て物 理 数 学 の supervislon classを
構 成員 になるの に, カレ ッヂの構 成 員 で あ るこ とが
週 1回 も つた が ,学 生 に と って は大 変 良 い 制度 の よ
必要 条件 で あった。 この伝統 が今 日で も守 られ てお
うに思 え た。 た だ この 制 度 は ケ ン ブ リッデ の ように
り,ケ
各 カ レ ンデが
ン プ リッデ大 学 に入学 す る学 生 を選 ぶ らは
,
1
,
1学 年 凡 そ 100名 か ら 150名 程 度 の 学
今 日で も カレ ッヂの役 目で あ り,入 学 後学生 は カレ
生 を もつ よ うな 小 人数 教 育 の規 模 で な い と実 際 に運
ッヂ に属 す る。
用 す る こ とが 非 常 に難 しい よ うに思 う。
ケ ン プ リソデには現 在23の カレ ッデが あ るが,そ
の うち 3校 は女子 の カ レ ッデ,他 の約半数 は男子学
い て一 言述 べ て お こ う。 大 学 の 教 官 も大 体 い ず れか
TutOrの 話 しが で た つ い で lrcカ レ ッデ の運 営 に つ
生 のみ,残 りの約半数 は時代 の趨勢 に したが って少
数 の女子 学生 を うけ入 れ てい る。 入学 試験 1/C際 して
の カ レ ッデの fe1lowと して カ レ ッデに 属 してお り
は,女 子 のカレ ッデは 1つ のグルー プに,楼 た残 り
る。 カ レ ップ の 長 で あ る Master,前 述 の Tutor等
の カレ ッデは 3つ の カ レ ッデ群 に分 れ る。 例 えば男
は これ ら fe H owか ら選 ば れ る。 Masterは カ レ ッ
子 の受験生 は後 者 の 3つ のグル ープのいず れか 1つ
デ 内 の Master
,
カ レ ッデ の運 営 は これ らの fe H owに よ って 行 わ れ
の カレ ッデ群 をえ らんで入 学 試験 を うけ,合 格 すれ
Lodgeに ,独 身 の fe Howも 概 ね カ
レ ンデ 内 の feHow buildingに 居 住 してい る。 私 も
ば成績 に応 じて第一 ,第 二等 志望 した カ レ ッデのい
Cavendish研 究所 の先 生 方 の はか らい で ,は か らず
も PrOfessor
ずれか に入 学 が許可 され るこ とに な る。
イ ギ リス では高等 学校 を終 え て大学 に入 る のに
,
国家 試験
(9月 1日
格 が あるの で,
に 16才 に なっ た 学 生が受 験資
16+Examinationと
Mottが 以 前 に 学 長 を して か ら れ た
Gonville and Caius C01legeの member of cOm―
mOn rOOmに
推 薦 され たが ,Caved
ish研
け る研 究 教 育生 活 以 外 に , カ レ ッデ で の
よば れ る )
究所 に お
feH owと
を うけ て General Certificate of Education(略
の お 付 き合 い を通 じて College
して00E)と よばれ る証 明書 を もらわ なけれ ば なら
こ とが で きて 大 変 有益 で あ った。 特 に昼 食 時 に 他 の
ない 。 言
式験 は Ordinary(O level)と Advanced(A
学 問 分野 の fe H owと 話 しを す る こ とに よ って,英
level)の 2通 りに分 れてい るが,ケ ンプ リッデ大
学 (オ ッタス フ ォ ー ドも同 じ )に 入 るには, この O
levelと A levelの 試験 を優 秀 な成績 で パ ス した上
ぶ こ とが で きて 得 る処 が 大 きか った。
に,更 に前述 の カレ ッデの入学試験 を パ ス しなけれ
デ で,い ま も つて 長 い 伝統 に基 づ く慣 習 が 生 きて お
ば な らない ので,ケ ン プ リッデ,オ ックス フ ォー ド
り,英 国 人 の コモ ン セ ン ス,教 養 と云 つた もの が こ
大学 に入 学 す ることは,受 験 生 に とって なか なか容
の よ うな カ レ ンデで の
易 な ことではない ようだ。
い る こ とを強 く感 じた。
lifeの 一 端 を知 る
国文 化 ,英 国 人 の もの の 見 方 等 を僅 か なが らで も学
Caius Co H egeは 1384年 に創 立 され た 古 い カ レ ッ
3年 間 の 学生 生 活 で 育 まれ て
めてた くいずれかの カレ ッデ に入 学 を許可 され る
伝 統 と慣 習 を尊 重 しつ つ 新 しい もの を 取 り 入 れ
と,大 学 の studentに なる。 最初 の学年 は全 寮制 で
各 カ レ ッデで伝統 ある慣 習 と規 則 の もとで,起 居 を
て変 革 して い く態 度 に は見 習 うべ き ものが あ り,同
時 に ポ テ ンシ ャ リテ ィの 深 さ と云 つた もの を しみ じ
ともに しなが ら勉 学 し,
み感 じ た 次第 で あ る。
,
2, 3年 は 寮 を出て下 宿 を
しなが ら大 学 に通 うこ とにな る。 前 に述 べた ように
,
講義 に関す るカ リキ ュラムは学 部 の責任 で編成 す る
が, カ レ ップの もつ独得 な教 育 と しては Tutorの 制
おわ りに
度 が ある。 自分 の カレ ッデの学生 が どの専攻 に適 し
てい るか,そ のため には 前述 の カ リキ ュラムで どの
垣 間 見 た ア カデ ミ ック ライ フ の一 端 を紹 介 す る こ と
-8-
この拙 稿 で,短 か い ケ ン プ リッデ ④滞 在 を通 じて
に努 め た が ,私 の 素養 の 貧 しさが 現 れ て い て気 恥 か
しい思 いが切 にす る。筆 をお くにあた り,Poof es sor
く研究生活 を過 した こ と,毎 日 4時 のお茶 の時間 に
Mottを は じめ Cavendish研 究所 の メンパ ーの方々
そ の 日に得 られ た実験 データをめ ぐって活激 な議論
の 誠 に′
い暖 ま る hospitrlityの もとで,実 に気持 よ
を展 開 した こ とな どが懐 し く思 い 出 され る。
終
戦
,
ろ
の
出
去 る 8月 22日
口
重 次 郎
(臨 海OB)
,臨 海実験所 に,前 職 員 出口重 次郎氏 をお訪 ね し,東 大
百年史 の一只 料 もかね て,理 学部史 の一 駒 を,話 して頂 い た。 そ の話 の
テ ープを もとに,編 輯 部 の木下先生 (動 物 )が ま とめて下 さったのが
下記 の座 談 会 で ある。 関 係者 の御尽力 1/C厚 く感 謝 いた したい。 (小 堀
小堀 「 戦争 中の こ と,終 戦 の ときの様子 な どか ら
うかがい ま しようか。」
,
)
臨海実験 所にて
出 口 「 あれ は昭和20年 3月 頃 だ った で しょうか,
臨海実験所 が軍 に接収 されたのはQ横 須賀 潜水艦基
地 とい うこ とにな ったわ け です。 え ヽ海軍 ですね。
ら,兵 隊 は何 も知 らない ものだか ら,パ ッと刀 を も
特殊 潜航 艇 です か, あの小 さい,体 当 夕特 攻 隊 の 潜
つて とんで きて,誰 の許 可 を得 て こん な も のをか け
水艦 が24は い もあ りま した。 構 内 には入れ ないわけ
るか, とい うん です。 誰 の許可 で もない,大 学 の も
ですが,時 々用事 が あるか らこい とい うので来 てみ
のだか ら,岡 田先生 か らかね て言 われ てい るの だか
る と,水 を揚 げ るボ ンプが故障 して るんですね。 水
が揚 が らな くっちゃ困 るか ら私 をた のみ に くるん で
そ の時 の臨時実験所長 は 岡 田要 先生 だ つたの ですが
すが,こ ゝに入 って くるに も衛兵 の前 をだ ま ってす
そ の方 が 実験所 を軍 に接収 され て こ ゝを引上 げ る と
つと通 る と『 貴様 どこへ行 く 』 と叡 鳴 られ る。 私 は
きに, こう言 つてゆかれた こ とが あるん です。 戦争
軍隊生活 を した ことが ないん で解 らなか ったん です
を じきに終 るか ら, もし終戦 に な って こ ゝに誰 もい
らとい うことで解 つて もら った こ とが あ りま した。
,
が ,姓 名 を名乗 つて,用 事 を言 わ な きゃい けない。
なか った ら,お 前 が行 つて 自分 の家 のつ もりでいろ
これが三 ケ所 あるん です。 実験所 の屋上 に も軍艦旗
いろ とりしきつてや って くれ。 後 の設備 が大 切 なん
が た って ま した。 この あた りは士官 の食堂 にな って
だか ら。 とにか くす ぐに行 つて実験所 の状態 に もど
ま したね。」
して おい て くれ。 そ うでない と占領機 関 に な って し
小 「 す る と研究 は… … 。
よ 「 せ つた くで きません で した。 実験所 の装置 な
ま うか らってい うわけ。 それ でや って きた ら兵 隊 が
どは全部 水族 館 の建物 に入 れて封 印 しま してね。 え
ゝ,魚 なん か もうとうにい な くな ってま した。 こ ゝ
たゎ け です。 しば ら くは 日本軍 の保 安 隊 とい うのが
い ま したが, これ が保安隊 じゃ な くて もう 《不安隊 "
が接収 され て私 共 は行 く所 が ない とい って,軍 で小
だ ったです が,え ゝ もう何 に もな らなか つた。」
│
網代 に小 さな小屋 を建 てて くれたん ですが,菊 地先
生 と助手 と私 の三人 の生 活 で した。 そ の引越 しの と
き,車 も何 もない し,先 生 は重 い荷物 を持 たれて
・…・。」
胸 をお されて倒 れて しまわれたん です が・
(*編 集者註 : 菊地健三助教授 )
,
上 「 やがて終戦 ですね。」
出 「終戦 の勅 語 の放送 が あった ときには私一人 で
まだ10人 位 は残 つて いてさ つ き の よ うなこ とが あっ
(*十
編集者護 : 岡田要教授 )
ア
つ
上 「 メ リカ兵 はい や つて きたん ですか。」
出 「 終戦 が 8月 15日 。 二 ,三 日た つ と相‐
模湾 一 ば
い に軍 艦 が きま したね。 そ のす こ し前 に も う陸 か ら
進駐軍 がや って来 ま したね。 日本軍 は こ ゝに残 つて
い る と捕 虜 に な るか ら,み ん な山 づ たい に逃 げ ま し
したが,ま ず家 に もつて帰 って大事 に しま ってあ っ
た。 大体 ,ア メ リカ軍 は,い や連 合軍 ですか ね,は
じめは こ ゝを実験 所 とは思 つて いなか つた ら しい て
た東 京帝 国大学 の看板 を もちだ して きて表 にか けた
す よ。 それ でまた我 々は 出入 りす る こ とを きつ く止
め られ て しまい ま した。 私 一 人 で 誰 に 相談 す る こ と
陛下の ことなど
もで きなか った もの だか ら,長 井 ま で 自転 車 で行 つ
変 「 陛下 は毎年 こ ゝにい ら してた のです か。」
出 「 いえ,私 が40年 ばか りい る うちにお 寄 りに な
て,団 さん に こ う い うわ け で 困 る と言 つて た の み に
行 った ん です よ。 そ の時 分 ,団 さん は長 井 に住 ん で
った のは 3回 ですか。 そ のほ か に葉 山 や荒 崎 の御採
お られ た もの です か ら。 そ うです ね ,こ ゝか ら 自転
集 場所 に こ ち らか ら出向 い てい ってお 手伝 い した こ
車で
1時 間 以 上 か か ります よ。 そ の 頃 は私 も若 か っ
とや,戦 後 に な ってか ら城 ケ 島へ 採集 に御 自分 の船
でい ら した の に富山所長 とか伴 した ことが あります。
陛下 はハ イ ドロ ゾアの専 門家 でい ら っ しゃい ます
た か らね。 団先 生 は奥 様 が ア メ リカの 方 だ し, じゃ
困 るだ ろ うか ら と進 駐 軍 へ か け合 つて 来 て くれ た ん
で す 。 も らって きた手 紙 を 門 の とこ ろ で差 し出す と
OK。
(*… 編集者註 : 団勝磨前東京都立大学学長 ,大 人は
団 ジーンお茶の水女子大学教授。か二 方とも生物学者。
長井は三崎と葉山の丁度中間 くらいにある。)
わね。 こ ヽへ来 られた ときの ことです が ,小 網代 を
ず つと採集 して こ られ てか な りお そ くな った。 か 附
きの方 が『 お上 ,時 間 ですか ら 』 って 申 し上 げ るん
ですが ,だ ま った ま ヽ日を きかず にか られ る。 また
「兵 隊 は何 人 くらいい るん ですか。」
しば ら くして『 お上 ,時 間 で す 』。 それ で もまだそ
こに じ っ として採 集 してい ら っ しゃ る。 丁度 ,ホ ン
上
よ 「 い や ,一 度 にはそん なに 多 くな くて 5, 6人
位 ですね。 接収 してい るつ もりなん だか ら見 廻 りに
い ものが 一 ぱい ひ つつ い てい る もの だか ら,返 事 を
くるん です よ。武器 な ど持 出 した り しないか って。
なさ らないん です 。 4回 位 す ぎた で しょうか。 また
ダ ワラの長 い の を引 つば り上 げてみ た ところで面 白
現 に この 2階 に も地 雷 とい うのが 3個 あ りま した よ。
しば ら くして時 間 で すと 申 し上 げ る と,あ ゝそ う
そ れ知 らないか ら,掃 除 のた びに あ っちへ ころが し
とわ っ しゃ って,大 急 ぎで こ ゝまで帰 って こ られて
こっちへ ころが し。 あ とで地 雷 だ と言 われ ま してね。
舟 か らあの高 い 桟橋 へ とび上 られ ま した よ。 い き も
海 へ うっち ゃろ う とした ら,危 険 だか らって持 って
の はほん とうにかわ いが ってか られ ま した。 い らな
い って くれ ま した。 団 さん か らもらった手紙 は いつ
い ものが とれた ら, これ は もうあ るか ら逃 が しなさ
もふ ところ に入れてい て 自由 に 出入 り していま した。
やが て菊地 先生 も帰 ってみ え て 2人 で よ くこ ゝにい
い と言 われ てす ぐ海 へ かえ され るん です。
,
,
,
た もの です。」
上 「 そ の とき団先生 の書 かれた手紙 が ア メ リカの
ウ ッズホ ール海洋研究所 に今 も大 事 に保存 され てい
る と聞 い たん ですが・…・。」
ょ
「私 もそん な話 を聞 きま した。J
■
「 建物 は こわされ なか ったん です か。」
「建物 は こわ され ませ ん で した。 た ゝ昼 間 い ろ
ょ
いろ片付 け てお くと,翌 日また もとの通 りに ち らか
つちま つてい る。 夜 ,灯 が つい ていれ ば進駐軍 が い
る と思 って るが,暗 い と居 ない と思 つてデ ら しに く
るん です。 これには 困 りま した。毎 日そん なで した。
実験所 で使 ってい た椅子 や机 が な くな ってい て, し
らべ てみ た ら市役所 に ある。 それか ら乗 りこん で ゆ
左 より藤井 (隆 ),義 宮,出 口,本 下 (清 )の 四氏
きま した 。 は じめ文 句 を言 つてま したが備 品番号 の
動物学 教室 に常陸 宮様 が い ら っ しゃ い ま したね。
そ の頃 は義 宮様 で したが ,御 一 諸 に採集 に行 った こ
札 が つい てい るので,一 も二 もな くとって きま した。
とが あ ります 。 そ の時,員 を とったん です が差 上 げ
ホ テルに も行 きま した。 これ は軍 の医務 室 に な って
る と,何 員 だ ?っ て きかれ るか ら,ホ ラ貝 の類 です
と申 し上 げ る と,類 の次 は何 か とい われ る。ず い ぶ
いた ん です が,そ こか ら もと りかえ して きま した。
何 だ つて め ちゃ くちゃです よ。 で も,昭 和21年 の冬
の実習 は た しか ここでや った と思 い ますか ら,割 に
ん 精 しいん だ な と思 いま した。 イ トマ キポ ラの なか
はや くもとに もど つた です。」
れ るん ですね。」
まです と申 し上 げ た ら,や は り,あ ヽそ う, とい わ
- 10 -
歴
代
所
っけ ろ っ て言 う。 そ ん な ら も しほ ん とに め っ け た ら
長
,
小 「 40年 もか られ る と代 々の先生方 をずいぶん御
存知 で し ょう。」
出 「 ええ。私 は谷 津 直秀先生 が所長 の ときに ここ
へ来 たわ けです 。谷津先生 は あま り実験所 には住 ま
われ なか ったで す よ。 あの む こう岸 (諸 磯 )に 別荘
を もつてお られ て,そ こか ら通 ってか られ す した 。
先 生 ,あ れ は冗 談 だ った じ ゃ す ま され ない って 言 つ
て探 したが ,で もそん なの は なか な か め っか らな か
った ね 。 で も,そ の 頃 は この 辺 カ キの筏 が い っぱ い
あ って ,そ れ lrcぃ ろん な草 が つ く,そ れ に ゴ カ イが
つ くもの だか ら , ゴカ イを 探 す の は割 に楽 で した 。
今 じ ゃ容 易 な こっ ち ゃ ない け ど。 で,遂 に 見 つ け た
用事 の あ るときはあそ こか ら プー プー と ラ ッパ を吹
ん です 。 そ れ じゃ ,い よい よ芸 者 を か ご るか ら,三
かれ るん です。そ うす る と舟 でむか え に行 くんです。
崎 に温 泉 が あ りま してね ,そ こへ こい とい うん です。
自分 で もポ ー トを持 つてお られ て都合 のい ゝ時は 自
で も先 生 ,私 は いや だ と と う と う行 か なか った ら
分 で漕 いで来 られま した。」
こ ゝに お られ た 吉井 槍雄 さん が , い や ,そ れ じゃ僕
小 「 つ ぎが岡田先生 。」
出 「 こん な話 が あ るん です 。 ゴ カイの類 にオ ー ト
が 行 つてや る って い うん で 御馳 走 に な った ん で す け
リタス(Autolytus)甚 ぃぅ尻尾が二つか三つ附い
そ の あ と冨 山先 生 ,木 下 先 生 ,小 林 (英 )先 生 と
てい るのがい るん で す が ,こ れ が も し五 つ 附 い てい
るのを見 つ け た ら,君 に芸 者 を一晩 お ご るか らめ つ
,
どね 。
5代 の 所 長 を知 つて い るわ け です 。 (冨 山一 郎 ,木
下 治 雄 ,小 林 英 司 の 各教 授 ―― 編 ・ 註
けぅと言うんです。先生,芸 者だなんてそんな馬鹿
)
(****編 集者註 :和 名は 力きもとしり
丸
岡田先生がはじ
めて記載 された種。 この図は岡田先生の手になるもので
京大紀要 8:325(1933)
なことを と言 つたら,い やほん とだ,ほ ん とうにめ
′・
”““”
ヽヽ
磯 が 荒 れ る
小
「 あ の赤 い舟 は釣舟 ですか。」
よ 「 いや ,遊 び舟 ですね 。 この 頃 は こん なに遊 ん
で るの がい っぱ いで, ホ ラ,水 上 ス キーなん か や っ
てるで しょう。 この桟橋 の さ きには ア マモ (「 リュウ
グ ウノオ トヒメ ノモ トユ イノキ リハ ズシ 」とい う長
い名 前 もある。一 編・ 註 )と い うのがい っぱ い あ る
ん です 。 この 中に魚 も卵 を産 み つ け る し,エ ビの卵
やい ろん な卵 が あ るん ですが ,そ れ を舟 が み なス ク
リュー で切 って しま うんです 。昔 は 油壺 では珍 しい
ク ラグが 出 た ものです が, 8月 に な るとタ コクラグ
ア ン ドンタ ラグな ど,冬 の 2月 に な る とカ ミタラゲ
,
とい う足 の長 い ク ラグ とい った風 にね。それ が もう
皆 目い ないん です。 油壷 は ヨ ッ トでい っぱ いだ し海
もよごれ ます よ。それに汚 水 の処理 を してか ら流 し
て い るのは この辺 では実験所 だけ なん です か ら, と
にか くひ どい もん ですね 。
学生 実 習 の ときで も,潮 どきにそ の あた りを一 時
間 も とつて くれば ,ス ヶ ッチす るの に困 る くらいで
ね。重 さん , も うい ゝかげん に しろ よ,な ん てね も
う。今 は もの は三分 の一 ぐらい しか とれ ない し,め
った lrCと れ ない よ うな もの もす くな くな ったです よ。
学生 さん の "か た ぎ "も 変 つたね。写真 で とつちゃ
う。昔 は顕 微 鏡 で ス ケ ッチで しょ う。 この実験所 は
カキモ トシ リス
昭和 11年 です が ,そ の前 は 木造 でね。 パ ケ ツ下 げ て
- 11 -
部屋 へ 入 つてゆ こ う とす る と ,一 寸待 つ て くれ って
よ う つた つて 無 理 で す か ら,そ の 時 分 ,前 に もい つ
足 を指 さすん です よ。 今 ,顕 微 鏡 に お も しろ い も の
た 団 さん が何 とか な らな い か って い わ れ る ので ,い
が 出 た と ころだ か ら,ゆ らさ な い で くれ って ,そ ん
ろ い ろ工 大 を したわ け です 。 も う一 つ は ウ ミホ タ ル
な具 合 で した よ。
を採 集 す る の に ,今 ま で の や り方 だ と色 ん な虫 が 一
諸 に つ い て き て始 末 に こま った ん で す が ,一 寸 工 夫
谷 津 先 生 が い らっ しゃ る頃 こん な こ とが あ りま し
た 。学生 が 実験所 に来 たん で す が ,先 生 は は じめ
を しま してね 。私 の 方 法 で や る と ウ ミホ タ ル ば っか
,
よ く来 た ね ,と い ってか られ た ん です が ,今 度 は何
り入 っ て くるか らされ い な標 本 が とれ るん です 。 こ
をや る の , と聞 か れ た と きに,学 生 が ,別 rcゃ る こ
れ を乾 か してお くと 2年 た って も 3年 た って も好 き
とは ない けれ どま あ来 ま した , と答 え た と ころ ,あ
な と きに光 らせ られ るです よ。 あ の頃 は これ を 研 究
ゝそ う,そ ん な らわ 帰 りな さ い , とす ぐに帰 され ま
して い る人 が 多 か った です か ら,役 に立 つた と思 い
した よ。 そ れ で は こ ゝに お い て お け な いか ら って い
ます 。」
うわ け で す 。」
小
「 そ うい う御 苦 労 に た い して 勲 章 を い た だ い た
とい うわ け です ね。」
〃
〃
重 さ ん 自身 の こ と
出
と ころ を こ ゝで暮 した こ とに な りま す 。昭 和 36年 に
「 こ ゝは なつ か しい で し ょ うね 。」
小
「 あれ は 昭和 39年 で した。 ま あ ,人 生 一 番 い ゝ
「 え ゝ,な つ か しい です よ。 私 は家 にい る より
こ ゝにい た時 間 の 方 が 長 か つた わ け で す か らね 。 生
65才 に な つ て 退職 したん です が ,そ の後 も嘱 託 と い
れ で すか 。 明治 27年 です か ら82才 に な り ます 。 こ ゝ
今 は孫 が
出
,
へ 来 た の が昭 和
う こ とで しば ら く,42年 ま で で したか ,来 て ま し/c。
3人 に ひい 孫 もい ま す 。 で も こ うや つて用
事 が あ る って呼 ん で 下 さ れ ば ,喜 ん で 出 て きます。」
2年 で す 。 こ ゝへ 入 る と き,大 島正
「 臨 海 実 験所 の宝 の よ うな方 です か ら ,こ れ か
満先 生 が 口頭 試 験 を して ,舟 は こげ るか とか ,海 は
小
好 きか とか 聞 か れ てそ の ま ゝす ぐに決 ま りま した。
ら も ど うぞ 身体 を か い とい に な って 元 気 で い ら して
月給 が30円 。 は じめ は色 々覚 え る の に大 変 で した 。
下 さ い 。 今 日は 有難 うござ い ま した。J
動物 の名 前 とか ,採 集 の しか た とか 。 自分 で もず い
編集者の責任でテープからまとめました。お名前を一々
挙げませんが,動 物の名前など1/Cつ いて,御 助言をいた
だきま した方にお礼を申し上げます。 (木 下 )
ぶ ん工夫 が 要 り ま した 。 今 で も覚 え て い る の は ,一
つ は10月 ひ と月 で終 る ウ エ の産 卵 期 を12月 末 まで の
ば す方法 をみ つ け た こ とで す 。 ひ と月 で何 か 研 究 じ
私の読 ん だ本 (25)
丸
山 工
作 著
「 生 命 現 象 を 探 る 」 一 生 化 学 の 創 始 者 た ち一 (中 央公論社,自 然選書,1972)
渡
辺
正
勝
(植 物 )
象 を受 け,今 だ に憶 え て い る。
サ ッカーの神様 といわれた名選手 ,プ ラジルのペ
自然 科 学 の世 界 で も,化 学 の赤 松 秀 雄 先 生 が 講 義
レが数 年 前 に来 日 した 折 , 日本 の少年 達 に贈 った サ
ッカー上 達 のため のア ドバ イス と して,「 名 選手 の
の 中 で ,「 第 一 流 の 古 典 とい わ れ る論 文 を精 読 す る
伝記 や,逸 話 を よ く知 るこ とも大切 な こ とだ。名選
手 の伝記 や逸 話 の なか には ,サ ッカーに対 す る心構
こ とに よつ て ,学 問 の神 髄 を知 る こ とが で きま現 J
えや ,上 手 に なるため の秘密 が た くさん ある ものだ。
どの 分 野 で ,相 次 い で 古典 論 文 集 が 刊 行 され て い る
それ らを よ く理解 して,自 分 のサ ッカ ーを見 直 して
こ とが ,現 在 の学 問 の骨 組 を形 づ くる画期 的 な 業 績
み る必要 が あ る。い ままで,考 え なか つた こ とが ら
を あげ た偉 大 な先 人達 の苦 闘 の跡 を ふ りか え る こ と
の発 見 は必 ず あ るはず だ。」 と語 つた こ とに深 い 印
と勧 め てか られ た こ とや ,物 理 学 ・ 化 学 ・ 生化 学 な
の 重 要 性 を訴 え て くれ る。
12-
本書は,筋 肉 タン パ ク質 の研究 で知 られ ,江 橋 節
F.A.リ ップ マン ー 高 エ ネル ギー・ リン酸結合 の
郎先 生 とも親交 の あ る,京 大 ・ 理 ・生物物理 の丸山
工 作教授 が ,yp7場 に在職中 に,東 大闘争 に遭遇 し
概 念 を確立 し (1941),補 酵素 A(Co A)を 発見 し
(1947∼ 50), 2,4-ジ ニ トロフ ェ ノール の脱共 役作
学生 の,「 学問 とは何 か 」,「 研究者 の生 き方 とは
用 を発 見 し (1948),メ ンパ タ質合成 の翻訳段階 に
何 か 」とい う問いか けに対 す る, 自分 な りの回答 と
おけ る t―
,
して,2年 ちか くか け て雑 誌『 自然 』 に 連 載 し た
「 現代生化学 の創始者 た ち 」に加 筆訂正 した もので
ご存 じの方 も多い と思 う。
,
本書 は,20世 紀 の 前半 に輝 やか しい業績 を残 した
6人 の生化 学者 をと りあげ ,そ の た どった道 を伝 記
風 につづ り, 生 命 の 神 秘 へ 挑 戦 して何 を どの よ う
に して研究 してい ったか の悪 戦苦闘 を生 き生 きと描
い ていて,ま さに赤堀 四郎先生 が 評 され てい るとお
,
RNAの 役害」を明 らか に し (1962),ま た
そ の研究室 で ,江 橋 節郎先 生 が ,カ ル シ ウム と筋 肉
,
の弛緩 因子 が ATPの 存在 下 で結合 す るとい う画期
的 な仕 事 を なさ った (1960)。 そ して最後 lrc, 0.
H.ヮ ールカ レクー‐ガス 代謝 の測 定 に今 だに使 われ る
検 圧計 を開発 し (1910),光 合成 の研 究 に単細 胞緑
藻 ク ロレ ラを導 入 して量子収量 を測 定 し (1922),
燎
呼 吸反応 におけ る 酸素運 搬体 'と して 鉄 を 含 む
鷺 吸
呼 酵素 '(今 日のチ トク ロムオ キンダ ーゼ )を
あ り,「 若 い科学者 の経歴 で最 も大切 な こ とは,偉
提 唱 じ (1925), t中 間 酵素 "(グ ル コース ー6-リ
ン酸 デ ヒ ドロ グナー ゼ )の 発 見 (1932)を 通 じて五
大 な科学者 と個人的 に接触 す るこ とで あ る。」とい う
炭糖 リン酸経路 の解 明 に寄与 し, フ ラ ビ ン 補 酵 素
り, 6人 6色 の異 な った汗 の香 を感 ぜ じめ る書物 で
ワールプル クの言葉 の内容 と同 じ教 育 的効果 を持 っ
FAD(1938),補
てい る ように感 じられ る。
あ るだけ で な く,精 神病理 学 を専攻 して いた 2才 年
下 の若 き 日の マ イヤーホ フに実験 的研 究 ― 単 な る
そ の 6人 とは :A・ セ ン ト=ジ ェル ジ ー ビタ ミ
ン Cを 発 見 し (1928∼ 32),呼 吸 にか け るタ レプス
回路 の原型 に あたる C4 ジ カルボン酸説を唱え (1935),
酵素 NADP(1935)の 発 見者 で
仮説 の提 唱 で な く,精 密 な測 定 を通 して実 証 す るこ
と 一 の重要 性 を認識 させ て生化 学者にさせた(1909)
の をは じめ ,タ レプス,酵 素 タ ン パ ク質 のテ オ レル
筋収縮 の分子 的仕組 は アクチ ン と ミオシ ン とATP
との相互 反応 で あることを,超 沈殿 ・ アクチ ンの命
光合成 の ェマ ノン とギ ャ フ ロン の師 で もあ る巨峰。
名 ・ク リセ リン処理 筋 の導入 な どに より示 し (1942
で あ る。
∼46), さ らに電子 生物学 rc立 ちむか ってい る。
,
この ように眺 め ただけで,現 代 生化 学 の大筋 の見
F.G.ホ プ キ ンス ー トリプ トファン (1901)や グ
ル タチオ ン (1929)の 発 見者 , ビタ ミン研究 の先駆
取 図 に なって い ることは, この 6人 が まさに生 化 学
者 で あるだけで な く, セン ト=ジ ェル ジや クレプス
で あ ると同時 に,本 書 が生化 学入 門 と もな る よ うに
を支援 し,光 合成 の ヒル,比 較 生化 学 の ボール ドウ
の建設期 の 巨人 た ちで あ った こ とを如実 に示 す もの
と願 った著者 の配慮 が あ らわれ ている もので もある。
イ ンシ ュ リン研究 のサ ンガ ー をは じめ ,多 数
またそれは見事 に成 功 して い る。 実際 ,本 書 に よ 坊
の若 い研究者 を育 てて,「 ホ プキ ンス の ところ の ガ
チ ョウは ス ワンlFC変 わ った 」といわれた ,動 的生化
正統 派 の教科 書 の 中 では ,極 めて あた りまえ の こ と
学 の父。 O.F.マ イヤーホフ ー 解糖 作 用系 の研 究
に筋 肉の しぼ 夕汁系 を確立 し (1925),ヘ キ ノキナ
らか に され るた めには,ど れ ほ どの 曲折 ,労 苦 ,偶
ィン
,・
の よ うに さ りげ な く書 か れてい る 1行 の事実 が ,明
ーゼ (1929)な ど解糖 作用系 の諸 酵素 をひ とつ ひ と
然 とそ れを逃 が さない鋭敏 な観 察眼 ,周 到 な準備
しか るべ き環 境等 々が なけれ ば な らなか ったか を楽
つ た しかめ , リン酸 ④役割 を解 明 し,今 日の経路 の
屋裏 話 もま じえ て,当 時 の学問 の発展 段階 の遠近感
確立 に大 きな貢 献 をな しとげただけでな く,ATP発
の中 で知 ってか ら,教 科 書 を読 みかえ してみ る と
見 の ロー マ ン,後 述 の リップ マン,RNA合 成 酵素 の
オチ ョア ,微 生物分子 生物学 のル ボ フ,視 物 質 ロ ド
読 み方 が一段 深 ま り,ま た今 まで とは違 った意 味 で
プシンの ゥ ォル ドな どを育 てた。 D.ケ イ リン ー
呼 吸色素 チ トク ロムを (再 )発 見 し (1925),そ の
細胞呼 吸で の役割 を明 らか に し,光 合成 の アーノン
,
酵素 の作用機作 と酸化 的 リン酸化 の研究 の チヤンス
昆 虫生化 学 の レベンブ ック な どを育 て,タ ンパ ク質
,
のx線 解析 のベルー ツや ケ ン ドル ー を支援 した。
-13-
,
,
の親 しみ も覚 え る。
一人一 人 の歩 ん だ道 はそれ ぞれ 曲折 と波瀾 に富ん
でい て興味深 い 。特 にケ イ リンの歩 ん だ道 は実 に面
白 い 。寄生 バエ の生活史 を主 と した論文60篇 を発表
していた37才 の寄生 虫学 者 だ った彼 が , ウマ の 胃 に
寄生 す る ウマパ エの生活史 の観 察 中,幼 虫 に存在 す
る血色素 が成 虫 に な るとな くなる過程 を しらぺ よ う
と して,生 理 学教室 の一 門 が 開発 した分光顕微 鏡を
用い て観 察 中1/C,新 しい呼 吸色 素 チ トク ロムを発 見
現在 を歩 み つつ あ る私達 に とって,つ ね に参 考 に な
す るに至 つたい きさつ には,人 との,ま た対 象 との
何 かが ,私 達 rC迫 つて くる。生命 現 象 の一 端 の解 明
出合 い の微 妙 さ とか , 自 らの興 味 へ の忠実 さ の力 と
を こころ ざす私達 に,限 りない gutsと inspiratiOn
か ,い ろい ろ考 え させ られ て興 味深 い 。
る。いかに して新 しい道 を き りひ ら くか に関 す る
,
を伝え て くれ るこの労作 は,東 大 闘争 の数 あ る目」
産
まさ lFC著 者が い うょうに ,先 駆 者 の た ど った道は,
物 の うちで も,最 上 級 品 の 1つ といえ よう。
得部消息〉
11月
11月 理学部会合 日誌
教授会 メモ
19日 は)定 例
教授会
理学部 4号 館 1320
11月 10日
″
″
(月
)
″
理 系 委 員 会
将来計 画 委 員会
″ 12日 (水 )
″ ″ ″
教 務 委 員 会
″
将来計 画委 員 会
″
″
″ 19日 (水 )
″26日 (水 )
人 事 委 員 会
教
授
会
会 計 委 員 会
200∼ 430
300∼ 6.00
130∼ 330
130∼ 300
10.00∼ 1.00
230∼ 500
1.30∼ 440
教授 会 に先 だ ち田丸 謙 二 教授 の「 中国旅行談 」 と
題 す る講 演 が あった。
1
2
3
4
5
6
7
8
前 回議 事録 の承認
人 事異動等報告
人事 委員会報 告 (末 元
)
将 来計 画 委 員会報 告 (黒 田 )
学 内環境 問題 に ついて の報告 (藤 原
)
東大百年記念事 業 につ い ての募金 に つい て (田
丸
)
ャン パ ス移転 問題 につい ての報 告 (学 部長
・
動
異
事
)
放 射線管 理 委 員会報告 (斉 藤
9.キ
人
)
教務 委 員会報告 (鈴 木秀
手 〕
〔助
教室
鉱
物
官職
動
物
動
物
地
質
助
地
質
助
助
手
名
氏
発今年月 日
工
藤
康
弘
山
本
雅
道
佐
藤
真
彦
手
岩
崎
泰
頴
手
池
谷
仙
之
5011 1
5012.1
5012 1
51.216
51 41
異
動
内
容
備
考
容
備
考
助手 に採 用
岡山大学 助教授 rc昇 任
助手 rc採 用
熊 本大学助教授 の昇任
静 岡大学助教授 に昇任
〔講師以上 〕
教室
官職
名
氏
発今年月 日
異
動
内
物
理
講
師
矢
崎
紘
- 5010.1
教 育職02等 級 (東 京大学 助教 授理 学
部 )に 昇任 させ る
物
理
講
師
小
林
俊
- 50.10 1
教 育職02等 級 (東 京大学助教 授理学
部 )に 昇任 させ る
- 14 -
)
外 国 人 客 員 研 究 員
教室
国
氏
籍
名
現
化
学
オ ランダ
地
物
ア メ リカ
Frans O.Mij lhoff
Harold S。 lom on
森
理
日
物
理
イ メ リア Francesco Cannata
永
究
期
間
昭5011 9-lE5111 8
彦
晴
研
昭5148-lE51.78・
ミュ ンヘ ンエ科大 学教授
物
本
職
ライデ ン大 学準教授
昭50.121へ 招 51.5.31
B。 10gna大 学研 究員
昭51 2 1-lE51. 3. 1
11月 海 外 渡 航 者
所属
官職
氏
名
渡航先国
渡航期間
渡
航
目
的
地
球
教
授
浅 田
敏
ア メ リカ合 衆 国
1115∼ 1123
リソス フ ィア ー ア セ ノス フ ィア境 界 に
関 す るベ ン ロー ズ 会 議 出席
物
理
教
授
飯 田 修 一
フ ラ ン ス
オ ラ ン ダ
ア メ リカ合 衆 国
連 合 王 国
1129∼ 1221
第 21回 磁 気 及 び磁性 物 質 年 会 議 出席 及 び
研究連絡
物
理
教
授
久 保 亮 五
ブ
ル
1130∼ 12.14
物 理 学 に 関 す る研 究 連 絡
物
理
助教授
堀 田 凱 樹
ドイツ連邦共和国
115∼ 11.23
行 動 の個体 発 生 と行 動 遺 伝 学 に 関 す る国
ス
ジ
ラ
イ
ス
際研 究集 会 出席及 び研 究連絡
理 学 博 士 学 位 授 与 者
昭 和 50年 10月 13日 付授 与 者
専 門課 程
化
学
第
位
3条
名
氏
学
中 村 隆 博
則
2項 該 当
大 津 仁 助
規
文
論
題
目
電 荷 移 動 と化 学 反 応
中緯 度 にお け る超 低 周 波 数 の 電 磁 波 動 現 象 に関 す る研 究
Study on 10w― and
middle― latitude VLF radio wave phenomena
昭和 50年 11月 10日 付 授与 者
専 門課 程
理
物
生
物
化
氏
論
名
学
佐林
晃 史
学
田 代 朋 子
Fe3 Ptイ
文
題
目
ン パ ー合金 の 磁性
A contribution of nonhistone proteins to the conformation of
chromation
非 ヒス トン タ ン パ ク質 と,そ の ク ロマ チ ン構 造 に対 す る寄 与 に つ い て
一 ニ ュー ロン・ ク ロマ チ ン を 中心 に 一
岡 部 敬■郎
同
学
第
Effects of oxygen on carbon dioxide fixat10n in algac(藻 類 の
炭 酸 固 定 に及 ぼ す 酸 素 の 影 響
)
遠 山 紘 司
ポ リペ プ チ ド液 品 の 磁性
同
徳 田 尚 之
コ ー ナ ー を過 ぎ る三 次 元 粘 性 流 の 研 究
同
川 口
同
榎 本 彦 衛
位
規
則
3条 2項 該 当
湊
THE FLYING IMAGE DIGITIZER(飛
]蹟
像方 式数化 測 定装置
ey group G2(q),q=3f(有
じ鴇 糧 :そ :;:° t壁 争 ∵ ∫ 鰭
- 15 -
ゞ
)
限シ
戦 な どは最 後 の一 打 まで力 の こ もる 白熱戦 で あ つた 。
また,優 勝 した向山研 チ ームは第 1回 戦 で敗 れ たの
山崎敏光教授 の 受賞
ち,敗 者復 活戦 で 浮び あが り, あ とは ねば り強 く勝
山 崎敏 光教 授 (物 理 )は , この度「 核磁 気能 率 に
お け る中間子 効果 の発 見 Jに よ り,仁 科 記念 賞 を授
ち抜 い て きた もので正 に驚異 的 で あった。
賞 され ま した。心 か らか 慶 ぴ 申 しあげ ます。
を期待 す る とと もに,多 忙 な なか に あ つて 運営 に努
最 後に この大 会が 明年 も亦盛大 に行 なわ れ る こ と
力 され た実 行委 員各位 の 労 を多 とす る もの で あ る。
(吉 野 記
外 国人留学生、研 究員 と
)
本学部教職 員 との懇 談会
標 .E懇 談会 が,外 国人学生委 員斉藤 信 房教授 の 招
待 で,12月 10日 (水 )午 后 4時 30分 頃 か ら 4号 館物理
会議 室 で 開催 され た。
この会 は学 部長,評 議員 .協 議 員 な らび に関係 学
科 ,専 門課程 の教 官が ホス ト側 とな り,事 務 部 か ら
も多数 が参 加 した。
斉 藤委 員 の挨拶 につ い で学 部 長 が乾 杯 の音 頭 を と
り, た の しいふん い 気 の も とに歓談 が つ ゞけ られ た
12月 13日 パ レー大会優勝
が時間 の都 合 もあ り午后 6時 30分 頃 次 回 を約 して一
化学 向山チーム
応散会 した。
な お,11月 末現在 で在 籍 され てい る外国 人 の方 々
3名 ,外 国
2名 ,客 員研究員 9名 ,外 国人
受託 研修員 2名 の計38名 で あるが,そ の うち20名
の方 が 当 日出席 され,教 官 の 出席 者 は斉藤 委員 の 外
植村 ,田 丸,村 井 ,山 口,堀 田,末 元 ,海 野 ,吉 田
岸保 ,荻 野 ,朽 津 ,木 下,木 村 ,湊,小 堀 の諸 先生
応 援 に よ り,滞 りな く広 報 を発 行 す るこ とがで きま
で あ つ た。
した。 厚 く御礼 申 しあげ ます。 昭和 51年 も,理 学 部
は,大 学 院留学生 22名 ,学 部留学生
*恭 ***黎 篠*米 **恭 *恭*米 来****寒****米 恭*
人 招 へ い 研 究者
,
(吉 野 記
)
編
集
後1 記
いつ の ま にか師走 をむかえ,本 号 が お手許 に とど
〈頃 は,ク リスマスで しょうか。 本 年 も多 くの寄 稿者 の
の す べ て の人 々 に幸せ な一 年 であ ります よ うに。
第 4回 事 務 長 盃 争 奪
全理 学部 バ レTボ ール 大会
訂正)近 号 で,人 名 に 関 す る誤 りが若干 あ りま し
た。 関係 者 にお詫 びの上 ,訂 正 させ て頂 きます 。
標 記大会 も回 をか さね て第 4回 をむかえ た。 本年
も昨年 同様41チ ームが参 加 ,途 中交 通 ス トのため数
「 7巻 7号 」の13頁「 海外 渡航 者 」中 植物 泰忠
は植村 泰 忠 に,「 7巻 8号 」の 2頁 右段 か ら10行 日
日間休止 され た とは い え,す こぶ る盛況 か つ楽 しい
「 渡 辺,久 野,高 井 ,岩 井 ,岩 生 Jの うち, 岩 井 は
けず り,同 号12頁 右段 上 か ら10行 日の人 名 中
「 ……
雰囲気 の も とに終始 した。
12月 13日 (⊃ 午 後 1時 頃 か ら中庭 コ ー トで 決勝戦
を化学 向山 研 と物 理 バ ンク ンズ とで行 ないそ の結果
,
2:1で 化学 向山研 が優 勝 した。 3位 は 中央事務 M.
M.K.4位 は化学稲本 研 で あ った。 試合終 了 後 そ の
場 においてそ れぞ れ に賞 状 な らび に賞 品が, また優
悔 永,渡 辺 ,持 井 …… 」 は「 ・…・ 漁永 , 渡辺,藤 井
・」 とな る。
・
…・
**寒 黎黎*黎篠******来 ***来 *****黎 ***来
編集
:
勝 チ ーム には賞盃 が ,準 優勝 チ ー ムには楯が 授与 さ
れ た。
本年 は昨年 よ リー 段 と技術が 向上 し,と くに決勝
静
│を f与
豪
[│][│]i][li[]l[::│:│
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