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情報インフラ・就労など 患者支援活動を進める がんと生きる 101 大久保淳一 さん (外資系証券会社勤務) 89 7 30 91 ・195キロ ん 薬 治 療 に よ り 克 服。 退 院 後、 に冒されながらも、手術と抗が そんななか、ステージⅢB期 という最終ステージの精巣腫瘍 はないという。 のレースで完走するのは容易で 豊富なランナーでも、この究極 ならない。どんなに健康で経験 のフルマラソンとは比べものに その苛酷さは、 「100キロマラソン」だ。だが、 トラマラソン〟の異名を持つ 世はマラソン・ブーム。その 最 高 峰 と も い え る の が、〝 ウ ル 2007年 3月 マラソントレーニング中の怪我による入院中、右睾丸 の委縮を感じる エコー・血液検査の結果、精巣腫瘍と診断。右睾丸の 摘出手術を受ける 術後の病理検査で、 セミノーマ・胎児性がん・卵巣嚢 腫瘍の混同した精巣腫瘍 (ⅢB2期) 、腹部・肺・リンパ 節 (首) への転移もあると言われる 4月 BEP療法開始。高熱・吐き気・耳鳴りに悩まされるも腫 瘍マーカーは陰性化 7月 間質性肺炎を併発、治療開始。 セカンドオピニオンをとり、再発予防のためのリンパ節 郭清術を受ける 9月 職場復帰も、間質性肺炎増悪 11月末 退院、 自宅療養 2009年 夏 職場復帰 現在 経過観察終了 42 精巣腫瘍は日本人男性 万人に1~2人が罹患するといわれている。 この希少がんのステージⅢB2と診断され、 さらに間質性肺炎を併発しながらも克服。 趣味のウルトラマラソンを走り切り、 今、 がん患者さんの支援活動を始めるため準備を進めている。 取材・文●吉田燿子 おおくぼ じゅんいち 1964年長野県生まれ。 年名古屋大学工学部卒業、 年同大学院 工 学 研 究 科 修 了。大 手 石 油 会 社 で 年 間 勤 務 し た 後、シカ ゴ大 学 ビジ ネススクールに留学。 年にM B Aを取得し、大手外資系証券会社に入 社。これまでに完走したフルマラソンは 回以上。サロマ湖100キロ ウルトラマラソンは 回完走している 99 5 精巣腫瘍ⅢB2、間質性肺炎からの復活 10 大久保さんの経過 102 の外資系証券マン・大久保淳一 活を遂げた人がいる。東京在住 マラソン」を完走し、奇跡の復 「サロマ湖100キロウルトラ 「 日 々、 ハ イ プ レ ッ シ ャ ー の 中 ことの魅力にとりつかれていく。 これを機に、大久保さんは走る 年 に ホ ノ ル ル マ ラ ソ ン を 完 走。 大久保さんは、公私ともに、充 キ ロ ウ ル ト ラ マ ラ ソ ン を 完 走。 来、4回連続でサロマ湖100 とのない至福感に包まれた。以 瞬間、大久保さんは経験したこ 言った。 通 り 終 え る と、 担 当 医 は こ う 査、レントゲン検査などをひと 尿器科に直行。エコーや血液検 翌日、インターンに話すと、泌 歳)だ。 で仕事をしているせいか、走っ さん( 「 が ん の 疑 い が あ り ま す。 精 巣 腫瘍です。1週間後に睾丸の摘 実の時を迎えていた。 んです。走れば走るほどタイム 出手術を行います」 矢継ぎ早に質問を繰り返した。 足の怪我で入院中 精巣腫瘍を発見 ていると嫌なことを忘れられる 取引先とのし が ら み で マラソンを始 め る もよくなり、成長が実感できる 「先生、『がんの疑いがある』っ 上に新しい友人もできる。それ 大久保さんの精巣にがんが見 つかったのは、右足の大怪我で 「 私 は マ ラ ソ ン ラ ン ナ ー で す。 突然の告知に、大久保さんは す っ か り 仰 天。 動 揺 の あ ま り、 入院中のことである。 睾丸が1つなくなったら、バラ 修士号(MBA)を取得し、大 手 外 資 系 証 券 会 社 に 転 職 し た。 入社後はヘッジファンドの運営 が楽しくて、どんどんのめりこ 年2月、厳寒の軽井沢でト レーニング中、崖下に転落して ンスが崩れて走りにくくなりま 大手石油会社の営業とし7年 間活躍し、シカゴ大学ビジネス 東京慈恵会医大附属病院の救急 すよね。睾丸の代わりに入れる、 年6月、サロマ湖100キロ 次第に、普通のマラソンでは 物足りなくなり、 歳を迎えた んでいったんです」 外来に担ぎ込まれた。右足の外 年に経営学 ウルトラマラソンに初挑戦。北 くるぶしを骨折し、足首の靭帯 39 スクールに留学。 を支援する業務を担当。金融は 海道の大自然の中でゴールした てどういうことですか?」 未経験ということもあって、1 日でも早くキャッチアップしよ 「 大 久 保 さ ん、 事 は 一 刻 を 争 う 必死に抵抗を試みる大久保さ んに、担当医はこう告げた。 れるようになった。 んです。精巣腫瘍は進行の速い がんです」 ランス・アームストロング を支えに だが、告知をされても、大久 保さんは事実をなかなか受け入 の種のように萎縮して硬くなっ ていた。 康オタク〟でスポーツマンの自 れ る こ と が で き な か っ た。〝 健 中で起こっている) ( 何 か 大 変 な こ と が、 俺 の 体 の 違う。右の睾丸が、まるで梅干 と、睾丸の大きさが左右で全く そう思い、下腹部を触ってみる ら、バイ菌でも入ったかな) (オペ中に入れた尿チューブか 院間際になって、発熱に悩まさ のってあるんでしょうか」 義眼ならぬ〝義玉〟みたいなも 及ぶボルト接合手術を実施。 を断裂する大怪我で、5時間に 07 カ月間リハビリを続けたが、退 1 うと、早朝から深夜まで無我夢 中で働いた。 ある機関投資家まで営業に出 かけたときのことだ。 「 何 で も や り ま す の で、 よ ろ し くお願いします!」 元気よく挨拶すると、担当者 は意外なことを言った。 取引してやってもいいよ」 「 君 が フ ル マ ラ ソ ン を や る な ら、 マラソンは大嫌いだが、それ で取引が成立するなら話は別だ。 大久保さんは快諾し、半年間の 世界を舞台にバリバリと仕事をこなしていた罹患前、社内パーティーで 03 99 トレーニングを経て、2000 103 49 分 が、 が ん に な る は ず は な い。 たとえなったとしても、必ず治 るはずだと信じて疑わなかった。 「 当 時、 私 が 一 番 恐 れ て い た の 腹部・肺・首に転移 診断は「ステージⅢB」 行われた。病理検査の結果、セ 整形外科の退院から 週間後、 3月 日に右精巣の摘出手術が と、マラソンができなくなるこ ミノーマと胎児性がん、卵黄嚢 は、休職期間が長期化すること 歳をピークとして るのが、何より怖かった。一日 的弱者』として生きることにな 人 生 が 下 り 坂 に 向 か い、 『社会 転移も見つかった。 腹部と肺、首のリンパ節からは く い が ん と 判 明 し た。 さ ら に、 腫瘍の三種が混合した、治りに とでした。 も早く、会社とマラソンに復帰 いでした」 初の告知のときとは比べものに 担当医の言葉に、大久保さん は愕然とした。その衝撃は、最 テージのステージⅢBです」 「 大 久 保 さ ん の が ん は、 最 終 ス そんな大久保さんの支えと なったのが、担当医から教えら な ら な い ほ ど 強 か っ た。 だ が、 し た い ―― そ の 思 い で い っ ぱ れた、 米国の自転車選手ランス・ 病を克服して自転車競技に復帰。 一 時 は 再 起 不 能 と い わ れ た が、 気 な ど に 負 け て は い ら れ な い。 ムストロングだった。自分も病 い立たせたのは、ランス・アー 絶望に沈む大久保さんの心を奮 その後、ツール・ド・フランス 全 力 で 病 気 と 闘 っ て や る ―― 歳 で 精 巣 腫 瘍 を 発 症 し、 アームストロングの存在だった。 7連覇という偉業を成し遂げた 大久保さんは全身に闘志をたぎ 彼は 人物である。 さんは、深く心に期するものが を 上 っ て い き た い ―― 大 久 保 変わらず、死生観とは無縁だっ に直面しても、大久保さんは相 精巣腫瘍ステージⅢBの5年 生存率は %。その厳しい現実 らせた。 あった。以後、ランス・アーム た。がんが完治することを信じ 自分も彼のように、がんを治 して、さらなる成長のステップ ストロングは、輝けるロールモ て疑わず、抗がん薬治療で3~ ることが求められる。 は働いて、短期的に成果を挙げ 証券会社。日系企業の3~4倍 なにしろ、勤務先は「生き馬 の目を抜く」といわれる外資系 を思い悩んだ。 でいるような気持ちになってし きれなかった。生きながら死ん 坂に転じたのかと思うと、やり がんの転移によって人生が下り ていたのです。にもかかわらず、 ることに、人生の価値を見出し ら。仕事でもマラソンでも子育 てでも、人間として成長し続け い。復職しても、自分の居場所 「会社を解雇になるかもしれな まったんです」 れるのではないか」 剤併用によるBEP療法がス 4 月 日、 ブ レ オ マ イ シ ン、 エトポシド、シスプラチンの3 そんな不安に加えて、大久保 さ ん を 苦 し め た の は、「 転 移 と 人生が確実に下り坂に入ってし タート。初回の治療では いうイベントによって、自分の まった」という寂しさだった。 い高熱が出て、強烈な吐き気や 度近 続けたい、と思っていましたか 「 そ れ ま で は、 常 に 階 段 を 登 り BEP療法を開始、 そして間質性肺炎を併発 がなくなって、閑職に追いやら *セミノーマ=精巣腫瘍は、生殖細胞由来の胚細胞腫瘍と、性腺基質由来・その他からなる非胚細胞腫瘍からなる。胚細胞腫瘍には造精細胞形成の要素が 分化して腫瘍化したセミノーマ(精上皮腫)と、胎児形成や胎盤形成の要素が分化して腫瘍化した胎児性がん、卵黄嚢腫瘍、奇形腫、絨毛 がんなどの非セミノーマの2つに分けられる。セミノーマと非セミノーマの混合腫瘍は非セミノーマとして治療される 耳鳴りに苦しめられた。弱音を 吐きそうな大久保さんの携帯に、 妻からの電話がかかってきたの は、2日目の夜のことだ。 「抗がん薬を敵だと思っている で し ょ う。 抗 が ん 薬 は が ん を やっつけてくれる最大の味方な のに、怖がっているからいけな いのよ。明日から、治療のとき は手を合わせて『お願いします』 と言ってごらん!」 妻 の 勧 め に 従 い、 翌 日 か ら、 抗がん薬を点滴するときは手を 合わせて拝むようになった。す 104 *ブレオマイシン=商品名ブレオ *エトポシド=商品名ラステット *シスプラチン=商品名ブリプラチン/ランダ 1 デルとして、大久保さんの闘病 40 16 6カ月の入院を強いられること 49 10 42 生活を照らすこととなる。 治療中は、 自らを奮い立たせ全力で闘った 25 もあるんですから、焦らないで」 聞いたこともありません。転移 「 第 1 ク ー ル で 陰 性 化 な ん て、 させてみせますよ」 類の腫瘍マーカーを全部正常化 「 先 生、 俺、 第 1 ク ー ル で 3 種 甦ってきた。 が 和 ら ぎ、 病 気 と 闘 う 気 力 が ると、不思議と副作用の苦しみ 的な言葉を書いた紙で埋め尽く な る 」 ―― 病 室 の 壁 は、 積 極 ず う ま く い く 」「 す べ て 昔 話 に ロマで自己新を出してやる」「必 し み は 一 瞬、 喜 び は 一 生 」「 サ も目を通した。「今はボトム」「苦 並べ、米国の医学雑誌の論文に には専門的な医学書をズラリと く発揮した。病室(個室)の棚 保さんは闘病生活でもいかんな の手術であって、治療のためで だが、大久保さんは納得がい かなかった。これは確認のため とを勧められた。 で、今後の治療方針を決めるこ 取り除き、病理検査を行った上 らは、手術で腹部のリンパ節を がつかない。そこで、主治医か えられたが、画像だけでは判別 がんが壊死している可能性も考 さんはうれし涙にくれた。 ソ ン を 再 開 で き る ―― 大 久 保 やく退院して会社に戻り、マラ ていたことが判明。これでよう 年9月、半年以上の休職期間 晴れて退院の日を迎えたのは、 手術から1カ月後のことだ。 間質性肺炎の悪化で 死の淵をさまよう 「 じ ゃ あ、 俺 が そ の 最 初 の 症 例 大久保さんは意気軒昂だった。 徹底的に、納得するまでベスト になってみせますよ」 だが、喜びもつかの間、思わぬ 瘍マーカーの値がすべて陰性化。 幸い、抗がん薬治療が効果を 示し、なんと第1クールで、腫 生まれていった。 伝わり、よい意味での緊張感が された。その闘志は医師団にも 門 病 院 を 訪 問。 医 師 の 意 見 は 研有明病院など、4件のがん専 て国立がん研究センターやがん で、セカンドオピニオンを求め てもぬぐえなかったのだ。そこ い か ―― そ ん な 思 い が ど う し いたら、開腹するだけ損ではな はない。もし、がんが壊死して て自宅療養に切り替えたが、乾 んは無理を重ねた。風邪をひい 時間を取り戻そうと、大久保さ 医師たちからそう警告されて いたにもかかわらず、失われた ませんよ」 せん。絶対に無理をしてはいけ 「間質性肺炎をなめてはいけま を経て、1度は職場に復帰。 して鍛えた仕事の流儀を、大久 を 尽 く す ―― ビ ジ ネ ス マ ン と 伏兵が待ち受けていた。 真っ二つに分かれたが、ある医 も言ったじゃないですか!」 「 無 理 し ち ゃ ダ メ だ っ て、 何 回 悪が起こった。 恐れていた間質性肺炎の急性増 に は 真 っ 白 な 肺 が 映 っ て い た。 急きょ検査が行われたが、CT め ら れ た よ う な 苦 し さ だ っ た。 ラップを顔に巻かれて、海に沈 込めなくなる。まるで、サラン ると、肺が空気中の酸素を取り いた咳がでるようになり呼吸が ブレオマイシンの薬害による 間質性肺炎を併発したのだ。7 し か し 今、 手 術 を し て お け ば 再発の恐怖に怯えることになる。 る と、 体 調 が 悪 く な る た び に、 師のひと言が背中を押した。 07 苦しくなった。間質性肺炎にな *間質性肺炎=肺胞と毛細血管を取り囲む間質組織が炎症する疾患 「もし手術を受けなかったとす 月、副腎皮質ホルモン薬・プレ ドニンによる間質性肺炎の治療 がスタート。この合併症の恐ろ しさを、大久保さんはまだ知る スッキリとした気分で生きてい くことができますよ。あなたは、 どちらを選びますか?」 大久保淳一さん がんと生きる 由もなかった。 セカンドオピニオンで 腹部のリンパ節を郭清 大久保さんは手術を決断。8 月上旬、腹部リンパ節を郭清す る手術が行われた。幸い、腹部 リンパ節のがんはすべて壊死し 105 腫瘍マーカーの値は下がり続 けていたものの、CT画像には、 腹 部 に が ん の 影 が 残 っ て い た。 お子さんたちと 呼吸器科の医師は嘆くように 年 再開した。まずは近所の公園へ よって生かされ、役割を与えら き て い る の か。 自 分 は 何 か に 肺炎の急性増悪が起こった場合 最後尾でゴールだけはしたもの 大会で、ハーフマラソンに参加。 だったが、闘病中の記憶が鮮明 大久保さんは、再びフルマラソ いで、何をあきらめているのか。 る。肺機能の一部を失ったぐら なったぐらいで意気消沈してい 自分はハーフマラソンでビリに ら に 高 み に 上 っ て い っ た の に、 ストロングは病気を克服してさ い存在ではない」と証明するこ り 切 る こ と で、「 が ん 患 者 は 弱 走が難しい苛酷なマラソンを走 保さんは感じた。健常者でも完 めの区切りができた」と、大久 「 こ れ で、 今 後 の 活 動 を 行 う た 締 め く く る 卒 業 式 で も あ っ た。 台であると同時に、闘病生活を に蘇ってきた。ランス・アーム ンに挑戦することを決めた。 とができた。それは、大久保さ に は、 つ い に サ ロ マ 湖 ている。 現在、大久保さんは、患者支 援活動を行うための準備を進め きたいと考えています」 恩返しするため時間を使ってい に大きい。これからは、社会に のより、得たものの方がはるか その意味では、病気で失ったも ら に 上 っ て い き た い と 思 っ た。 るか』と思い、成長の階段をさ とで人生、下り坂になってたま 『こんなこ 与 え て く れ ま し た。 ための強烈なモチベーションを 「 が ん は 私 に、 後 半 生 を 生 き る 作りなどを考えているという。 者をつなぐ情報提供のインフラ 保さん。具体的には、患者と患 の2つを立ち上げたい、と大久 支援をビジネス化する株式会社 まずは、働き盛りのがん患者 を支援する非営利団体と、患者 考えたのです」 は患者さんのために生きたいと ソンを完走したら、残りの人生 ……。それで、100キロマラ ぞ 』 と、 神 様 に 怒 ら れ そ う で お前を生かしたわけではない ていたら『こんなことのために たが、このまま漫然と生活をし 族の相談に乗ることも増えまし になりました。患者さんやご家 れたのではないか』と思うよう のウォーキングから始め、 現在は、次の活動の準備を進めている 言 っ た。 呼 吸 機 能 検 査 の 結 果、 の5年生存率は非常に低い。さ の、理想と現実のギャップに打 秋には八ヶ岳縄文の里マラソン しもの大久保さんも、今度ばか ちひしがれた。 %まで低下。間質性 りは死の恐怖から逃れることは 月末に退院し、自宅 だが、医師たちの懸命な治療 が効果を表し、病状は快方に向 かった。 年 夏 の こ と だ。 こ の 間、 療養の末、職場に完全復帰した のは 会社は大久保さんの復帰を待ち 続け、職場は復職に向けた全面 こうして、映画『ロッキー』の 年春のかすみ 100キロウルトラマ 「 入 院 中、 患 者 さ ん が 次 々 に 亡 次の人生は がん患者さんのために ラ ソ ン を 見 事 完 走 し た。 く な る の を 見 て、 『 な ぜ、 あ の 年6月 それは大久保さんに 人は亡くなったのに、自分は生 次 々 に 完 走。 の通過儀礼だった。 んが新たな人生に踏み出すため 年 ようなトレーニング漬け の日々が始まった。 ソ ン、 秋の諏訪湖ハーフマラ 11 と っ て、 最 高 の 晴 れ 舞 13 的サポートをした。 念願のランニングもいよいよ 見事に走り切った 「サロマ湖100キロウルトラマラソン」 退院、そして 再び100キ ロ マ ラ ソ ン へ 翌年 月、腫瘍マーカーが陽 性 化。 再 測 定 の 結 果 は「 正 常 」 肺活量は 10 できなかった。 54 11 10 がうらフルマラソンを 12 09 大久保淳一さんが自身の体験を綴っているブログ「病気を力に変える!」http://ameblo.jp/junichiokubo/ 106