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文 藝 - 大阪芸術大学

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文 藝 - 大阪芸術大学
文藝 14
学長賞
砂塔の残滓
高村光短編集
高村 光
学科賞
sameko
柳山慶介
三平の力こぶ
山口 陽
物語を育てる
いしいしんじ氏特別講義
大阪芸術大学文芸学科
2014年11月
年一回発行 第5号
文藝 14
物語を育てる いしいしんじ氏特別講義 ……
2
8
砂塔の残滓 高村光短編集
高村 光 ……
sameko
柳山慶介 …… 30
三平の力こぶ
山口 陽 …… 59
仏
白鳥幸輔 …… 94
物語はいつもハッピーエンドで終わらない
造酒怜子 …… 107
ちょっと自転車で旅をしてみた。
藤田江里華 …… 131
世界の名作に親しむ
【文芸の基礎】受講生の読書感想文
…… 170
2013 年度文芸学科卒業制作リスト
…… 186
東山通信 教員寸言録
…… 188
合研日誌
…… 192
カット・眉村卓
物語を育てる
平成 年
月 日
いしいしんじ氏特別講義
11
28
ゃになって帰るのが日常でした。
SAXOPHONE
で も あ る と き、 大 阪 ミ ナ ミ に あ る ジ ャ ズ ク ラ ブ で、 ソ ニ ー・ ロ
リ ン ズ と い う サ ッ ク ス 奏 者 に 出 会 い ま す。 彼 の 名 盤﹃
﹄を は じ め て 耳 に し た と き は 衝 撃 だ っ た。
﹁俺が求めてた
COLOSSUS
んはジャズだったんや!﹂と思ったんです。当時の貯金が十数万。す
ではなぜ現在の自分になったのか、ということを、よく色々な方と
お話しする機会があります。親交のある大竹伸朗さんは現代芸術の第
ぐに銀行に走って、その足でサックスを買いに行きました。
学校へ行かない代わりに、実家のそばの万代池公園に通っては練習
では、一日中音楽を聴いていました。バイトで溜めたお金でライブを
僕の高校時代といえば、学生のくせに朝から喫茶店でビールを飲ん
スは、吹き口にリードを装着せな鳴らへんで﹂
。そんなことも知らん
き、マスターに相談してみました。すると﹁そりゃいしい君、サック
週 間 経 っ て も 鳴 ら な い ん で す。 ど う し た も の か と ジ ャ ズ ク ラ ブ へ 行
に 明 け 暮 れ た。 で も ね、 な か な か 音 が 鳴 ら な い ん で す。 一 週 間、 二
観に行ったりもした。パンクバンドにはまって、ライブでぐしゃぐし
んと一緒に考えてみたいんです。
と言っていました。不思議ですね。そのことについて、今日はみなさ
一人者でありますが、彼でさえ﹁画家になろうと思ったことはない﹂
小説家になってやろう﹂なんて思ったことは一度もなかったんです。
に自分の将来を考えていたかな、と思い返してみます。実は﹁いつか
みなさんと同じ年代の頃、僕はどんな人間だったかな、どんなふう
25
文藝 14 | 2
のか、と笑われてしまいました。
それからは毎晩のようにクラブへ通い、常連のプロ奏者たちに指南
し て も ら い な が ら 練 習 に 励 み ま し た。 こ の と き 高 校 二 年 の 初 夏。 こ
の ま ま 学 校 に も 行 か ず、 自 分 は サ ッ ク ス に 熱 中 し て い れ ば い い の だ
と、そう思い込んでいました。
あるとき、とある美術展の招待券をたまたま祖母が譲ってくれたん
です。それがマルク・シャガール展だった。はじめ乗り気でなかった
のが、作品を観た瞬間に思わず凍りつきました。自分が幼い頃から漠
然と魅力に感じていたものたちの、すべてがそこに詰まっているよう
に 感 じ た ん で す。 石 が 空 を 飛 ん で い た り、 巨 大 な 鳥 が 星 空 か ら 下 界
を見下ろしていたり。滅茶苦茶に面白かった。
﹁俺の思考とまったく
同 じ や ん け! 俺 は シ ャ ガ ー ル や っ た ん や! あ と は 絵 を 描 く だ け
や!﹂そう思いました。
それからはひたすらに鉛筆デッサンをするようになった。たとえば、
水の入っているペットボトルと、入っていないペットボトル。空気の
詰まったビニール袋と、しぼんだビニール袋。これらを並べて描き分
けるのが非常に楽しかった。透明なものを描くのが好きだったんです
ね。
やがて、京都市立芸術大学の絵画コースを受験することにしました。
絵画の実技試験はとても長くて、九時間も用意されています。そのと
きの課題が﹁
﹃シルクロード﹄を題に絵を描きなさい﹂
。試験中、他の
受験者の経過を視察することができるんですが、誰も彼もありきたり
な絵ばかり描いている。なんや、こいつらつまらんな、と落胆して、
ならば他人と違うことをすればいいのだと思い至ったんです。
悩んだ末に僕は、与えられた用紙を四枚に切って、絵本にしました。
3 |物語を育てる いしいしんじ氏特別講義
制限時間をめいっぱい制作にかけて、作ることを純粋に楽しんだとい
う満足感だけ得て、会場を後にしました。
後日、試験結果を確認しに行くと、自分の受験番号だけが別枠に掲
﹁今すべてを決めなくていい。君は絵が好きだろう。音楽も好きだろ
う。小説も好きだろう。将来何をするかわからない。それまでひとつ
に絞る必要はない、好きなことを色々やればいい﹂
。
猶予期間だ。その間に、できる限り多くのことをやりなさい。ウィン
大学時代の四年間は、個人を放ったらかしにしてくれる素晴らしい
と期待していると、こう言われました。
﹁いしいさん、あなたは画材
ドウサーフィンでも、マラソンでも、関係のないかもしれないことを
示され、なぜか教務課に呼び出されたんです。もしや特待生扱いか、
違反で失格です﹂。どうやら四枚に切断したことではなく、用紙の表
何でもやればいい。ポスターひとつを作るのにも、それらをやった経
きましたね。上へ行こうとすれば、空想からは何も始まらない。やっ
そんなことを言われました。空想ではない、この言葉は僕の心に響
ではないんだ。
綺麗か汚いかではない。伝わるかどうかだ。生きるということは空想
験があるのとないのとでは十万倍ほども違う。
﹁良いもの﹂というのは、
裏を間違えていたらしい。﹁あなたの提出物は審査できません﹂
。
がっかりしました。こういう大人たちが、ピカソだ、ゴッホだと言
っているのか、と。僕はもう何も反論しませんでした。
結局、知人の紹介で、黒田征太郎さんのデザイン事務所に高卒で就
職することになります。商品やポスターのカラーデザインをしたり、
朝から晩まで働きつつ、自分の作品制作も続けていました。
京都大学への進学は、この奥村社長から勧められたことでした。当
てみるしかないのだと。
験する意志はあるのかと訊ねられます。僕ははいと答えました。社長
然また受験をしなければならなかったのですが、学力が足りず予備校
そんなある夏の盛り、事務所の奥村社長から、この先また大学を受
はこう続けます。﹁もし君がこのまま、絵を書き続ける生活を続けた
にすら入れない始末。本番では数学の答案用紙に、試験時間の短さに
からわかったことですが、京大の名物教授と呼ばれる森毅先生が、僕
な ら、 気 が 狂 っ て い つ か 野 垂 れ 死 に す る ﹂
。僕は君のような人間をこ
当時十八歳の僕は、社長の言葉を信じたわけではなかった。自分は
の回答を面白いと引き抜いてくださったみたいです。そして京都大学
ついてひたすら論じて提出しました。すると受かったんですね。あと
世の中に無二の天才だと思い込んだ若造でしたから。けれども、そん
文学部に入学しました。
れまでに何十人も見てきた、だからわかる、と言われました。
な僕の身をこれほど真剣に案じてくれる相手に出会ったのははじめて
でした。まさにかっこいい大人だと思った。彼の言うことならば受け
嬉しかった。
は那智の滝を見に行こう、というふうにつねに動き回っていました。
をしよう、先週は琵琶湖へ行ってきたから今週は奈良へ行こう、つぎ
大学時代は奥村社長の教え通り、昨日はこれをしたから今日はあれ
﹁わかりました、辞めます﹂そう答えました。同時にひとつ訊ねても
その時点でも、小説家になるという選択肢はまだ浮上していません。
入れるべきだろうと思った。彼の言葉にある本気さ、心意気が僕には
みました。これまで自分は画家であると信じやってきたが、画家でな
いとしたら、僕は一体何なのだろうか、ということを。すると社長は、 小説自体はずっと読み続けていましたけどね。
文藝 14 | 4
手に範囲を狭められる感じがして。でも文学部は、字で書いてあるも
なぜ文学部を選んだかというと、経済学部や法学部って、なにか勝
す。何をすればいいのかと聞いても、好きなことをやれと言われるば
与えられなかった。代わりに僕ひとりの部署ができあがっていたんで
いよいよ入社となった日、僕は営業部とか広報部とかいう配属先を
かり。
のであれば、経済も法律も何でも学ぶことができると思ったんです。
実際、僕は仏文科に進んで、古い生物学を学んでいました。たとえ
﹁むこうの砂漠で、羊が樹に生っているのを見た!﹂なんてことが政
内してくれる相手が欲しくて。条件は、僕と遊んだ一晩をレポートに
ましょう﹂
。まだ東京に慣れていない僕を、東京の深いスポットに案
そこでバイトを雇うことにしました。名目は﹁僕と毎晩一緒に遊び
府公認の新聞に取り上げられているんです。すごいですよね。あるい
記 し て 提 出 す れ ば 一 万 円 差 し あ げ ま す、 と し ま し た。 約 三 千 人 の 応
ば大航海時代、まだ世界中の生物の多くが把握されていない時代です。
はアリストテレスの﹃動物誌﹄にも、うなぎは虫であると記述されて
いますしね。確かにうなぎの卵が確認されたのはほんの最近のことで、 募があり、最終的に十五名まで絞りました。会社員から高校生まで、
様々な人と東京を練り歩きましたね。
僕の学生の頃からの習慣で、旅行へ出るたび書いていた絵日記があ
虫でない確証もなかったわけです。
そんな突飛な発想から、科学というものが発展していきますね。僕
ります。若干の放浪癖があって、アフリカ東海岸のコモロ島に、シー
るのは蠟燭一本のみ。つまり絵日記を書くより他にすることがなかっ
が当時の人々の思想に惹かれたのは、それが芸術と同じように、理屈
そうして四年間の研究を続けていたのですが、ある日、東京にいる
たんです。それをコピーして配るのが旅の定番のおみやげでした。現
ラカンスを釣りに行ったこともあります。行ったはいいが、準備され
先輩から飯を食わないかと誘いの連絡がきました。新幹線代さえ持っ
地の空気や時間を伝えるのに、モノを買っていくよりもずっと効率的
では切り分けられない、けれど大きなパワーがあるところでした。
てくれるというから、二つ返事で了承した。すると当日、先輩との食
だろうと思いましてね。
そして東京での仕事が五年目に突入したとき、一本の電話が入りま
事の席には、なぜだかスーツのおじさんたちが入れ替わり立ち替わり
登場するんです。そしてろくな
うのを書かれましたか、とその人は言うんです。イタズラかと思った
した。
﹁講談社の者ですが﹂。いしいさん、
﹃フランダースの犬﹄とい
その中のひとりのある企業
んですが、どうもこういうことでした。
﹁オランダへ行かれた際、絵
話もせずに去っていく。
の 社 長 に、
﹁きみは来年からア
犬﹄です﹂
﹁これは失礼を致しました! 実はそれを出版したいのです
﹁書きましたが、僕のは﹃アムステルダムの
テがあるのか﹂と聞かれました。 日記を書かれましたよね﹂
﹁決まっていないのならウチに
が﹂
。
講談社なのかどうか信じ切れなくて。でも本当でした。そうして一冊
思わず電話を切り、講談社の番号を調べ、掛け直しました。本当に
来るか﹂
。 即 答 で、 僕 の 進 路 は
決定しました。大学四回生の秋
のことでした。
5 |物語を育てる いしいしんじ氏特別講義
て楽しい生活だろうかと、思っていた矢先でした。ある日の朝目覚め
普段は会社員で、たまに旅に出ては絵日記を書き、出版する。なん
皮膚炎に冒されたり、からだがあらゆる支障をきたしはじめたんです。
と会うことができなくなりました。喘息が出たり、半身がアトピー性
ところが一九九九年の夏、精神的に参ってしまい、薬なしでは他人
て、啖呵を切って出版社を後にしたこともあります。
ると、どうもからだが動かない。何か重いものが全身に乗っかって邪
同時に、身の周りでも良くない出来事が続きました。友人のひとりは
目の書籍を出版することになりました。小説ではなく旅行記として。
魔をするんです。咄嗟にこう考えました。きっと今、どちらかひとつ
この世を去った。当時の僕の精神状態は、それらをすべて自分のせい
僕はおばあちゃん子だったので、かつて一緒に過ごした部屋、亡き
から診断が下り、急遽実家へ帰ることにしました。
生活は滞り、食事もできない。休養のため大阪へ戻りなさいと医師
た。
だと解釈してしまったんですね。そしていっそう他人に会えなくなっ
に絞るよう、選択を迫られているのだと。
結果的に、昔から続けてきた﹁書く﹂という仕事を選びました。そ
う決意した瞬間、ふっとからだが軽くなったんです。そうなるとすぐ
に会社を辞めなければいけない。百貨店へネクタイを買いに走り、締
め方もわからないものですから、店員さんに締めてもらい、辞職の意
思を伝えに行きました。
何を書くかさえ決めていなかった。それでも自分は書くのだ、という
て絵を描いては、いくつも物語を作っていたらしかった。
しみを感じましてね。母曰く僕は、昔もここでこんなふうに寝そべっ
そのときはまだ雑誌や賞に文章を投稿することもしていなかったし、 祖母の写真の下でごろごろと寝転がっていたんです。すると何か懐か
自覚だけははっきりしていました。
そのときの作品を、母は今でも保存していると言う。僕は幼い自分
僕のつづら、双子の弟たちのつづら、計四つのつづらがしまわれてい
の作品がどんなものか見てみたくなりました。物置には、兄のつづら、
いた関係者の方に、ウチでも何か書いてくれ、という誘いをいただき
た。
﹁詩﹂と書かれたひとつが僕のもので、蓋を取ってみた瞬間﹁待っ
その頃、実は会社に無許可でバーを経営していました。そこへ来て
まして。いわゆるライターとして、短いコラムや体験記を書きはじめ
てたよ﹂と言われた気がしたんです。
ました。しかし、当時四歳の自分が書いた﹁台風﹂というひとつの物
三十四歳になっていた僕は、先述のように、色んな文章を書いてき
ます。新宿二丁目の街角に立って、オカマにどんな誘われ方をするか、
とか。日本一の鳩マニアに会いに行って、三日三晩ひたすら鳩の話を
聞く、とかね。
文してきた相手の予想の一二〇パーセントを超える面白いものを書い
哲学思想、何でも書きましたし、何でも書けると思っていました。注
ものを一度もしたことがなかったんです。両者はまったく異なります。
いは読者からの注文に対する反応でしかなかった。自分の創作という
い知ることになります。それまでの僕が書いていたのは、出版社ある
語、これを超えるものは一編としてない、何もないのだと、途端に思
てやろうと意気込んでもいました。自分にはそれができると信じてい
反応はもちろん大事ですが、その根源には創作がなければ意味がない。
そのうち分野は拡がって、短篇、評論、社会時評、対談、エッセイ、
ました。一度、原稿三千枚の長編を書いたんです。それがボツになっ
文藝 14 | 6
四歳のいしい君が書いた﹁台風﹂にはまったく純粋な創作が起きてい
た。三十年ぶりに開いた物語をその日、僕は何十回と繰り返し読み耽
りました。
これは最初の長編小説﹃ぶらんこ乗り﹄
︵理論社、のち新潮社︶の冒
頭にそのまま引用していますから、ぜひ読んでみて欲しい。
数枚の画用紙とペンだけで、ここまでできることがわかった。もう
一度ここからやってみようという気になりました。幸い僕は何もかも
するはず。それを待つという選択ができるわけです。
みなさんは今、自分の年齢を一所懸命に生きているでしょう。もし
かするとみなさんにとっての﹁小説家になる!﹂というのは、僕にと
っての﹁画家になる!﹂と同じかもしれませんね。作家に免許は要り
ませんから、思い込んでしまえばなったものと同じです。僕の場合、
作家になろうとしたのではなく、気がつけば作家になっていました。
新人賞に応募したこともないんですから。
三十年間積み重ねてきたボキャブラリーや、絵、音楽、生物学の知
は作家であり続けること。書き続けることです。みなさん、昨日は何
ただし、小説を書きさえすれば作家にはなれるけれども、大事なの
識、旅の記憶、会社員の経験、こういったものを存分に利用して、気
か書きましたか? 今日は何か書きましたか? 作家は毎日書くんで
す。毎日、自分の言葉のお世話をするんです。園芸家が花に水をやる
失っていましたから、もはやこれしか残っていなかったんですね。
持ちだけは四歳のいしい君のまま文章を書く。それだけで十分だと思
ように、小説家は物語に言葉をあげる。それで小説が育つんです。
小説家も同じです。だから日々言葉を与え続けないと、物語は痩せ
は言いませんね。育てた、と言うでしょう。
ない。世話をした花が咲いたとき、園芸家は﹁僕がこれを作った﹂と
作る家と書いて﹁作家﹂と言いますが、僕はこれを正しいとは思わ
いました。ある意味、大きな諦めです。やりたいかどうかでなく、本
当にそれしか道がなかった。
かつての奥村社長の言葉をそのとき実感しました。色々なことをや
ってきてよかった、ひとつに絞らなくてよかった、と。
他者の反応を伺うやり方は、ある程度僕を社交的にした。けれど本
てしまいます。そっぽを向かれ、遠くへ行ったきり帰ってこないこと
書き続けなければならないルールはない。けれども自分が種を蒔い
来の自分の創作は、社交の中では生まれません。たとえばこの宇宙、
対し、いかに耳を澄ませるか、どう描き取るか。それが四歳のいしい
た小説に、誰が気をかけてやり、誰が目をかけてやり、誰が言葉をか
もあります。みなさんにも経験があるはずです。
君には自然にできていたということを、振り返る機会があってよかっ
けてやるのか。あなたしか居ません。そういう関係を大事にできる人
この世界の一辺に、ぽつんとひとり放り置かれるような孤独。それに
たと思いますね。
が、小説家であり続けられる人です。
文章の技量はあとからついてくるものでしょう。まずはどうか物語
を枯れさせないで、目をかけてあげてください。それは絶対にあなた
現在、僕は四十七歳。小説を書く精神で言うと、四歳から成長して、
十七歳くらいの見当です。どうしても自分の方向性を決めたがる、や
にしかできないことなんです。
︵文責・糸井桃子︶
やこしい時期ですね。でも僕はそこを既に乗り越えたから大丈夫。小
説家としてのいしい君にしかできないことが、まだまだこれから出現
7 |物語を育てる いしいしんじ氏特別講義
学長賞受賞作品
砂塔の残滓
高村光短編集
高村 光
砂海のローレライ
砂漠のうえに一切れの布がたゆたう。ゆらゆらと舞いながら妖しげ
に踊るそれは、強い風にふかれてさらに激しくステップを踏む。黄色
い宙の中、糸くずが飛び腰をくねらせる。そしてだんだんと扇情的な
踊りから叙情的にうつりかわる。頭を振りながら、淡い微笑みととも
に嵐が静かに止まっていく。夕焼けを受けてグレーのシルエットをさ
らす布はゆっくり一回転してお辞儀をした。そして、一陣の風が吹く。
布きれは砂丘をこえ、砂海と空の境界に去っていった。
﹁そもそも俺はこんな旅には反対だったんだ。砂漠になんか来ても見
るものなんかないじゃないか﹂
水筒の蓋に注がれた水をちびちびと飲みながら、北岡は愚痴をたら
す。テントの中で彼は寝袋に入り芋虫みたいに縮こまって座っていた。
﹁それが散々注意していたのにガイドの言うことも聞かず熱中症にな
った男の言うことかい﹂
目の前で細身だが筋肉質の男が諭す。
﹁ああ、それはまあ。悪かったよ、中井﹂
歯切れが悪そうに蓋に口をつけたまま上目遣いで様子を伺う。中井
と呼ばれた男は軽く鼻でため息をついた。
﹁といっても俺たちはよそ者だ。ターバンを巻こうが、巻かないでい
ようが日射病になることもあるさ。ただその分、現地人の言うことを
聞くことが大事だってことだよ﹂
外はとっぷりと暗闇に落ち込んでいて、寒さが二人をのっぺりと撫
文藝 14 | 8
ら白い月明かりとともにガイドが入ってきた。
でていた。始終かさかさとあたりの砂が鳴っている。その時入り口か
﹁ええ、爺さんから聞いているだけでした。昔の人は、時々行ってい
はないんでしょう﹂
﹁ガイドさん、遺跡はまだなんですか﹂
られていて行きにくいところだったみたいです。そこを抜けると遺跡
も気にならなかったみたいですよ。聞いた話では、それでも砂嵐で守
たみたいで。なんせ始めからラクダで移動していたので、砂の細かさ
﹁まだです。順調に行けばしばらくかかるだけで済みますが、予想以
の近くに出られると﹂
水を口から離して北岡は尋ねる。
上に砂が酷い﹂
﹁行きがけの町で聞いた話では、その遺跡には王族の残した財宝があ
北岡が寝袋の首をもたげて話に割って入った。
﹁予想以上に砂の一粒一粒が細かいんです。車の防砂対策をすり抜け
るとか﹂
﹁砂が酷い、それってどういうことです﹂
るほど小さい。このままでは、じきに動かなくなってしまう﹂
﹁ああ、それはうちの一族が流した噓ですよ。入念に準備をしなけれ
薄い笑いとともに彼は答えた。
﹁大丈夫ですか、それ。引き返さなくちゃいけない羽目になるってこ
ば死んでしまうような土地なので、盗賊よけに話を作ったのです。集
こんなに砂が細かい地域ははじめてきた、そう小声で付け加える。
とは﹂
﹁ええ。予定よりかなり早いのですが、この先は砂の影響で大抵のモ
だよ、ねぇガイドさん﹂
﹁予想外でも、この先進んで避けられないという意味では予想の範疇
﹁そういえば、あなたたちに話していなかったですね。ここいらが変
味深いよ﹂
﹁それは新しい情報だ。君たちの文化を研究する身としたら非常に興
でしょう﹂
落の近くに財宝のつまった宝箱があれば、貧しい集落なんぞ襲わない
ノが使えなくなるんだそうです。だから明日からラクダで移動します。
わりつつある今、研究して保存してくれるというのはありがたい。な
ガイドの小声に思わず問い返す。代わりに中井が答える。
あの、一緒に連れてきた彼らです。トラックはもう一人の仲間に持っ
んだか、化石として博物館に飾られる気持ちですが﹂
﹁ただの果物ですよ。あそこらは小さなオアシスでしてね。祖先たち
﹁で、財宝でなくて何があるんだい﹂
て帰ってもらいます。また迎えに来させますので﹂
そう言いながらジッパー付きの袋に通信機を落とし込んだ。
いずりながら軽くテントをめくると、幌のついた改造トラ
は珍味と喜んで採りに行っていたみたいです。命がけの珍味ですから、
寝袋を
ックと、運転席でいびきをかきながら寝ている男が見える。
更においしく感じたんでしょう。
いった者のために立てた慰霊碑に惹かれて、あそこに行こうとするあ
行かなくなりました。それで盗賊も尋ねなくなった今、先祖が死んで
だけどもただの果物。車も使えないところですから最近では採りに
﹁やっぱり驚きだな、文明の利器が使えなくなるなんて。音楽プレイ
ヤーも使えないのかい﹂
中井は軽く聞き流しつつ水を注ぎながらガイドに向き合う。
﹁やっぱり、秘境といわれるだけはありますね。あなたも行ったこと
9 |砂塔の残滓
んです﹂
会をもってして私もやっと先祖の墓参りをするのですから、薄情なも
なた方みたいな人がいるとは思いませんでしたよ。もっとも、その機
け物が人を食い、オアシスで吐き出したと言いはじめたそうです。そ
さっぱりわからない。だけれどそうしたことがあったから、彼らは化
なぜ自分たちから離れて、道なき道を通ってオアシスに着けるのか、
てあたりを見渡すと、そこにいなくなった人間の死体があるのです。
れから嵐の夜には歌う怪物が出ると言い伝えられました﹂
﹁果物か。どんな味がするんだろう﹂
中井はテントの向こう側の星空を見上げながら、風を浴びてくると
そう喋り終えると、北岡に渡された水を飲み干した。
﹁面白いな。まるでローレライ伝説じゃないか﹂
言い外に出て行った。北岡は少し目を輝かせながらガイドに向き合う。
﹁さっきの盗賊よけの話、面白かった。中井はああだが、俺は伝承の
﹁ええ、といっても何かあったかな。本当に与太話でいいのでしたら、
い﹂
という。砂海のローレライと来たな。実に愉快だ。もしかしたらその
が聞こえて来るんだ。それに魅せられた者はきまって遭難してしまう
﹁ローレライという地方だか海域でだかは忘れたが、船旅の途中で歌
何をいっているのかわからないという顔を浮かべるので続けた。
面 白 い 話 は あ り ま す。 多 少 オ カ ル ト じ み て い ま す が、 い い で し ょ う
歌声は非常に魅力的かもしれないぞ。少し気になるな﹂
方 が 好 き で ね。 よ か っ た ら 与 太 話 で も い い か ら、 変 な 話 は な い の か
か﹂
﹁これは私の部族ではなく、おそらく盗賊が言い始めたことなんです
するんですか。いいですか、ただの迷信です。きっと風の音ですよ。
﹁止めてください、止めて、縁起でもない。魔物が寄ってきたらどう
ガイドは思わずぞくっとしてかぶりを振った。
がね。今から向かうあの砂嵐、あれの中に怪物が潜んでいるらしいん
あくまで研究資料です﹂
勿論だ、と言わんばかりに頭を振ると、ゆっくりと話し始めた。
ですよ。といっても獣のようなものかどうかはわかりません。あれに
もつかぬものだそうです。凄まじい嵐の中ですから、しばらく休んで
に澄み渡っていて、それでいてどこか不気味な、泣き声とも笑い声と
なくなり、どこからともなく歌声が聞こえてくるんです。それは非常
遺跡に向かって砂嵐を歩いていると、風が強くなってラクダが動け
数 知 れ ず い ま す か ら、 仕 方 な い で し ょ う。 か ら か わ な い で く だ さ い
﹁こびりついた童心は取れないということですよ。砂漠で死ぬ人間は
おびえるじゃないか。矛盾してるぞ、堂々と構えろ﹂
興味が湧いている俺だろう。それに迷信って言っているわりにやけに
﹁いや、会ってみたいぞ。どうかな、目をつけられるとしたらそれに
寝袋の中でにたりと笑って彼をいたぶるように続ける。
その歌声が通り過ぎるのを待つ。そして止んだころに気が付くと、決
よ﹂
あって生きていたものはいないのですから。
まって一人、目をつけられた者がふらりと集団からいなくなってしま
中井が外から戻ってきて二人を見る。
﹁僕は無神論者じゃありませんが、これは信じていない﹂
﹁はは、無神論者を名乗る者が幽霊におびえるようなものか﹂
が流布し
っているのです。
ここまでなら不気味がともなった遭難話です。ですが、
た原因は、その集団が迷いかけながらやっとの思いでオアシスについ
文藝 14 | 10
﹁何を盛り上がっているんだい﹂
﹁ああ、このあたりの迷信で少しな。面白かったぞ﹂
ガイドはため息をついて付け加える。
﹁ あ く ま で 迷 信 で す よ。 た だ、 こ の 先 の 嵐 は 酷 い と い う だ け の 話 で
ほど他人が困るものはないんだ﹂
三頭のラクダはかちゃかちゃと荷物を鳴らせながらのっそりと砂漠
を渡る。砂丘の頂上の線を渡りながら、ガイドはコンパスを開いて方
角を確かめる。中井は風の吹く方向を見て感嘆する。
丘もくぼみもない、ただ砂だけの海が広がっていた。遥か向こうで
大地と青い空が境界線で混ざりあって一つになっている。そして二色
す﹂
﹁そうか、また機会があれば聞かせてもらおうかな。それより外の風
のキャンパスに真っ赤な太陽のインクが落ちていた。
の中に入った砂の味をしばらく味わったあと、舌を動かして飲みこん
両脇から反りたつように壁が生えている道でガイドは、ここを抜けれ
砂漠の丘を通りぬけて、岩肌がむき出している山道に差しかかる。
彼はその言葉を皮肉ととらえて軽く笑った。
﹁
﹃何もない﹄っていうのがあるじゃないか﹂
﹁これが私の国です。何もない﹂そうこぼしただけであった。
と見て、
思わず声をこぼしそうになりながら、息を吐く。ガイドは横目でちら
見ろよ、北岡がうながされて見てみると、目の中に荒野がうつった。
はだいぶ収まっていたぞ。今の調子を見れば北岡の具合もよさそうだ
し、明日の朝には出発できそうだ。そうだ、明日からはラクダなんだ
ったな﹂
そろそろ寝よう、そう提案して自分の寝袋をバックから引っ張りだ
し、テントの脇に置いた。ガイドは外の仲間に伝えてきますと外に出
ていった。北岡は寝袋をくねらせてテントの外に頭を出す。
だ。遥か向こうの暗がりには、いつか落ちてきそうで不安になるほど
ば例の砂嵐です、と言った。
外はすっかりと冷え切っていて、髪の毛に粒子がまとわりつく。口
星がきらめいていた。
まじい勢いで吹きぬけている。
茶色の濃淡の中を黙々と進む。風が背中から目の前にむかってすさ
ら皮肉たっぷりに北岡が愚痴を吐く。
﹁この冒険が終われば、論文が完成するのか﹂
翌朝、満面の運転手が手を振ってラクダを見送る。それを眺めなが
﹁彼の笑顔は本当に素晴らしいね。ラクダに揺られてこれから砂だら
い﹂
﹁だといいな、ああ。立派なモノになれば、それでいい。これが終わ
﹁ああ、これが達成できれば、俺たちの共著は格段によくなるぞ﹂
北岡のぼそりとしたつぶやきに横目でうなずく。
﹁そう言わないでやってくださいよ。奴は純粋なだけなんです。仕事
ったら少し休みたいな﹂
け に な る 三 人 の 前 途 を か つ て な く 讃 え て く れ て い る よ。 な ん て 心 強
が終わったから、満面の笑みなんですよ。素晴らしく本能に正直な、
いのが辛いところだ﹂
﹁だけれど出来のいいものになればなるほど、そうは言っていられな
ガイドも後ろを振り向きながら、目を細めて運転手を睨みつける。
そういって笑う。
生物として立派な男。ああはなれないから尊敬しちゃいますねえ﹂
﹁おい、君まで北岡に染められないでくれよ。皮肉屋同士の言い争い
11 |砂塔の残滓
﹁俺はちょっと疲れたよ。楽しいんだけどな﹂
北岡はため息をつく。
目の前に大きな砂の壁が立ち上っている。ここを抜けなければ目的
が闊歩する。北岡の目の前に、どこからともなく小さな布切れが飛ん
できて顔を打った。少しよろけながらも進んでいくと、地面の音が変
わっている。ざらりとした音で下をみてみると、砂地に変わっていた。
前にかぶりを振る。やはり砂の霧で閉じ込められているような世界だ。
空を見上げても何も見えない。もう何時間進んだのであろうか。横に
りつけない。後ろから吹いてくる風は、壁の中に入ってい
の地には
は中井が、斜め前にはガイドがいる。
ふと気が付くと、あたりの音が変わってきていた。人の声のような、
く。大きくうねる音の中でガイドが声を張り上げる。
﹁ここをすぎれば遺跡はすぐそこです。気をつけて進みましょう﹂
したとたんに、大きく真横からの風を受けて少しよろめく。遠くに壁
てきたのかと。だが、十数分の間、まごうことなく音が高くなってき
はじめは勘違いかと思った。風の音がうるさすぎて、聴覚が疲弊し
甲高い音。ラクダが砂に足をとられて、歩みが遅くなっている。
が見えたがすでにここから始まっていたのか、中井はあとに続いて足
ている。
ラクダの首を一撫でしたあと、歩みはじめた。岩肌から一歩踏み出
を踏み入れる。
っているのか﹂
の岩の陰で休まないか﹂
﹁なあ、砂地に足をとられてラクダが疲れているみたいだから、そこ
そのとき中井が言った。
﹁これは一年中発生しているんです。この辺一帯は地形上、空気の渦
﹁いいでしょう、少し、休みましょう﹂
﹁どのくらいの長さかはわからないが、砂が霧のようになって壁を作
が出来ているらしいです﹂
ガイドがそれに応える。北岡は少しほっとする。岩の陰を背中にし
て、三人と三頭は向かいあって座り込んだ。
﹁すごいな、絶景といったところだ﹂
﹁あなたたちが他の国の人間だからそう思うんです。この砂嵐って、
﹁それにしてもうるさい風の音だな﹂
北岡は中井のその率直な意見を聞きながら、ああ、こいつは逸話を
ときどき自分の体をちぎって他に飛ばすんですよ。本当に厭になりま
す﹂
思う。ちらとガイドを見ると、こちらを少し伺っていたみたいだが、
﹁どうあっても我々はよそ者だから。そうだ、今度日本に来るといい。 聞いていないんだっけ、俺はもう、妖怪の歌にしか聞こえんが、そう
案内するよ﹂
視線を合わそうとしないで中井のほうを向いた。
﹁私もはじめて来たのでわからないのですが、やはり音はこの砂地と
中井はにやりと笑う。ガイドもついつられて笑ってしまう。
﹁私について来てください。はぐれたら道がわからなくなってしまい
関係しているのでしょうか﹂
ぱり砂一粒がさらに軽くなっているみたいだ﹂
﹁ん、いや、わからないな。音の専門家ではないからね。ただ、やっ
ます﹂
周りの音は地響きのように鳴っていた。岩肌のような地面をラクダ
文藝 14 | 12
しれない、それだけ言った。
﹁ 不 思 議 な も の だ ね。 歌 み た い だ な ん て、 そ う 考 え る と 実 に 神 秘 的
さらりとした砂を持ち上げながら考え込む。ガイドはわざと話を科
学的にしようとしている。北岡はそう感じた。
だ﹂
パリながら中井と話し始めたみたいだ。この青年に水でもくれてやろ
ため息をつきながら下を向く。やっとガイドの硬直がとけて、テン
﹁遺跡までは、あとどのくらいだ﹂
﹁きっと、このあたりまで来るとあと一時間もしたら、つくんじゃな
いでしょうか﹂
思わず手からボトルが舞いあがる。
このあたり、やはりガイドはここを特殊な場所だと認識しているな、 うでないか。そう水筒を取りだす。しかしそのとき強い風がおこった。
そう考えながら話をそらすのに協力することにした。
った壁の向こうの岩に紐が引っかかっていた。
それは砂の中を舞って地面の上を転がった。目で追うと、黄色くな
面白くないか﹂
﹁すまない。取ってくる﹂
﹁聞いたところ、遺跡につけば衛星電話が使えるんだって。ちょっと
﹁ええ、電子機器を外に出せば、砂にやられて駄目になるっていう理
﹁ああ、それは僕も奇妙に思っていたな。理屈はわかるんだがね、ど
は普通に使えるんですよ﹂
っていた。それを摑もうと手を伸ばす。そのとき一陣の風が吹いて、
進んで水筒をとる。そのままふと横をみると、布切れが岩に引っかか
そう言われたが、思っているより風は強くなかった。少し前かがみに
二人の注意をくらう前に謝って立ち上がる。気をつけてください、
うも可笑しな話だ。文明殺しかと思えば、変なところで許してくれる
布が手をすり抜けて去っていく。ふと立ちあがると、後ろから叫び声
屈ですからね。水場の近くとか、砂があまり舞わないようなところで
もんだね﹂
のようなものが聞こえた。
急いでその方向へかけていくと、ガイドがこちらを見てはっとする。
﹁そういえば文明といえば、さっき布切れが顔に飛んできたんだよ。
珍しくないか﹂
一瞬安
のような顔色を浮かべたあと、そのまま目を泳がせるので、
﹁そりゃあ珍しい。まだ布切れなんて残っていたんですね、ここに人
なにかが起こったと認識した。辺りを見回す。
﹁わかりません、私は⋮⋮﹂
中井の姿が見えない。あせってガイドに問いかける。
﹁中井は、中井はどこだ﹂
が来なくなって久しいというのに﹂
話は逸れていって、ガイドが少しリラックスしてきた。そう思った
矢先に中井が言った。
﹁まるで歌だな。この音は﹂
おろおろと陳述するので思わずいらだって、何があったと叫ぶ。
﹁ラクダです。ラクダをみて来ると言ったのです。そのうちの一頭を
二人して思わず目を見張る。
﹁いや、周りの音がさ。なんだか歌みたいに聞こえるんだよ。そう思
触っている時に風が吹いて砂が私の目に入って、思わず閉じてしまい
ました。そして、大きな音が聞こえたあとに、そのラクダごといなく
わないか﹂
ガイドが返事を出来ないみたいだから、頭をかきながら、そうかも
13 |砂塔の残滓
なってしまったんです﹂
すから﹂
む。細かな砂が口の中に入りこむ。
横には砂嵐のノイズが映っている。その中を二つの影が黙々とすす
はぐれてしまったのだ。背筋を冷たいものが伝う。はぐれてしまって、
﹁やめてくれよ。これは遭難であって伝説じゃない﹂
要領を得ない回答だった。話の全貌を摑めはしなかったが、中井は
ああしまったで済むような土地ではない。
い﹂
﹁ ど っ ち で も 同 じ こ と で す よ。 砂 漠 は 本 来、 人 の 住 め る 場 所 じ ゃ な
その場に立ち止まって、大声で名前を呼びつづける。だけどそれは歌
﹁現地人が何をいうんだ﹂
行く手を黄色い壁が覆う。二次遭難なんて洒落にならない。二人で
声にかき消されて、大きな風の海にのみこまれていった。
白い目で前の影を見つめる。歌はまだ止んでいない。
﹁だから、ここの民は砂漠から逃げたいんです。もっと楽なところで
畜生、そう叫んで地面をけると砂が巻きあがる。そしてもう一度ガ
イドに確認した。
生きたいのです。でも逃げられない。私たちが逃げ出すよりも、ここ
一番よくわかっているでしょう﹂
の引力のほうが大きいから、逃げ切れないのです。それは、あなたが
﹁遺跡まで行けば衛星電話は使えるんだったな﹂
今からなら徒歩で二、三時間くらいだと。まだラクダの背には乗れ
﹁確かにあなたの言うとおり、ここいらで目印になる場所は遺跡しか
時間は歩いたような気もする。北岡の足は破れ砂と一体化してきた。
何時間歩いたのかわからない。まだ一時間のような気もするし、十
﹁俺が、一番わかっているって、何のことだ﹂
ありません。探索の拠点になるような場所も。我々は、進むしかない
﹁そろそろ休まないか、予想以上に疲れる﹂
ないが、引っ張ってなら十分移動できる。
ようです﹂
そう言いながらガイドは進みつづける。
胸のうちがじくじくと痛むのを感じながら、北岡は進むことを選ぶ。 ﹁今休んでも、遺跡は近くなりませんよ﹂
﹁着いてきてください﹂
﹁あいにく、私はまだ疲れていませんし、まだ一時間もたっていない
﹁君は疲れないのか、今何時間くらいたったんだ﹂
﹁本当に厭になります。さっきからあの伝説が頭にしがみついてはな
んです﹂
背中を丸め、先頭を歩き出したガイドに従って歩きはじめた。
れないんです﹂
﹁それじゃあ休むわけにはいかないな﹂
前から風が吹きつけられる。地面から沸きたつ砂のトンネルの中を
﹁不吉なことを言うな、このまま進んで、遺跡についたら死体がある
とでもいうのか﹂
はっきり見えない。手を目の前にかざしてその影に話しかける。
かきわける。嵐はどんどん酷くなって、数メートル先のガイドの姿が
﹁大体、三時間で人が死ぬものか﹂
﹁だんだん砂が嫌になってきた。君の気持ちがわかる気がする﹂
背中に強く風が当たり、よろける。
﹁わかりませんよ、あいつにあったならどうなるか想像がつかないで
文藝 14 | 14
﹁いずれ、嫌とすら感じなくなってきますよ。砂嵐が当たり前になっ
てくる﹂
もう砂を吐くのはあきらめて、ときどき砂が胃の中に落ちていく。
﹁ああ、もう嫌になる。砂漠の一部になってしまいそうだ。まだロー
す﹂
﹁きっとそうなんでしょう。自然現象、巻き込まれるのは偶然なんで
たのに。やっぱり自然現象なのか﹂
﹁それにしても、何で中井なんだ。俺のほうが逸話に興味を持ってい
﹁もし化け物なんていたのなら、獲物を食べれて喜んでいるのかもし
似ている。それだけだ。化け物は、ずいぶんとご機嫌みたいだな﹂
な。まあ、似たような伝承があるんだ。それがこの砂の化け物に話が
﹁この砂海の歌のことだよ。ローレライ地方の、あれ、なんだったか
﹁ローレライとは何のことでしょう﹂
レライは歌うのを止めないのか﹂
﹁だったら無事な可能性もあるわけだ。中井を救えたら、やっぱりゆ
れません﹂
影がゆらりとゆらいだ。
っくり休もう。あいつの言っていたことだが、君も本当に日本にきて
﹁まあ、実在しないだろうから、どうでもいいよ﹂
のようだった。
じりじりと髪の毛に温度がこもってきて、蒸し焼きになっていくか
﹁確かに﹂
すね﹂
﹁ああ、思い出しました。ずいぶんと暑いですから、頭が鈍っていま
﹁以前、話をしなかったか﹂
そこまで話して、ローレライでなにか引っかかる。
みるか﹂
﹁いえ、遠慮しておきます﹂
ゆらゆらと蜃気楼のように目の前を歩いている彼。
ふと、砂のすき間から空が見えた気がした。空は雲ひとつないほど
に青すぎる。目の前の三つの影、ラクダ二頭とガイドは、ペースが落
ちてきて自分に近づいているみたいで、少し大きくみえた。
﹁ さ っ き か ら え ら く 無 口 だ な。 や は り 君 で も 疲 労 し は じ め て い る の
か﹂
﹁そんな事はありませんよ。砂が口に入って喋りづらいんです﹂
彼の遭難を決定するかどうか、どちらにせよ中井とガイドはあせって
北岡が水筒を取りに行ってから、数時間が経過しようとしていた。
るんだろう。衛星電話を密閉していて正解だった﹂
いた。砂嵐の中で聞こえた歌は、とっくに止んでいる。北岡の失踪と
﹁本当に細かいな。この風だからだろうが、粒子が粉々に砕かれてい
﹁電話は大丈夫でしょうか﹂
共に聞こえなくなったのだ。まるで一緒に旅立ったかのように。
﹁大丈夫だ、さっき聞いたその話はいかにも非現実的だ。大丈夫、も
おろおろと戸惑うガイドをなだめながら、冷静に答える。
﹁どうしましょう、このままだと、本当に伝承みたいです﹂
﹁君が持っているんだろう﹂
砂を踏みしめる音が鳴り続ける。
﹁そうでした、やっぱり疲れているのかもしれません﹂
﹁しっかりしてくれよ﹂
15 |砂塔の残滓
しかしたら先に遺跡についているかも知れない﹂
そしてどっかりとため息を吐いて続ける。
ゃと思いましてね。これを奏でていると大概が上手くいくんですよ。
いい歌でしょう﹂
は柔らかい鼻歌と混じっていく。
北岡の周りでなっている音とそれがリズムを合わせる。甲高い高音
ぐれも気をつけてくれ。落ち着きをなくして二重遭難なんてざまは嫌
﹁確かにいい音楽だな﹂
﹁ああ、いかにも気休めだが、現地の君だけがたよりなんだよ。くれ
だからね﹂
﹁なにがだ﹂
﹁ああ、やっとわかり始めてきたみたいですね﹂
﹁でも、私は祖父から聞いたきりで⋮⋮。すいません、少し落ち着き
﹁いろんなことが、ですよ﹂
おろおろと彼は答える。
ます﹂
﹁確かに、ここにラクダをおいて消えたんだ。寒気がするのは同じだ
にも膨れ上がっている。ラクダの頭だった影が、わき腹から二つほど
揮者じみている。シルエットはだんだんと肥大化していて常人の何倍
目の前の影はリズムに乗って棒を振りはじめた。その姿はまるで指
が、ほら、この土地になれてはいないが、落ち着かなきゃ駄目だって
飛び出してゆらゆらと揺れている。北岡は、たまらなくなって一言だ
二人でラクダにゆられながら頭を抱える。
いうのはわかる﹂
﹁もしかして君は⋮⋮﹂
け発した。
を何度か撫でながら、深呼吸を繰り返して前を向く。
﹁ただのガイドですよ。案内者﹂
誰も乗っていないラクダとつながったロープを持ったガイドは、胸
﹁ええ、遭難したにしても、無事ならきっと遺跡に向かっています。
﹁中井じゃなくて俺のほうだったのか﹂
ばっさりと切り落とされて、大きくため息をつく。
この電話を持って、つながるところに行くのが先決ですね﹂
﹁そんなわざとらしいため息をついて﹂
無事でないんだったら、私たちには治療道具が足りません。とにかく
﹁それにしても、さっきの歌はなんだったんだろう。実に不気味だっ
﹁あなたが望んでいたことですよ﹂
そういって軽く笑いとばされる。
﹁私は思わず吐き気がしてましたよ。もし北岡さんがまだあの中にい
﹁俺が望んでいたことだって。面白いなそりゃ﹂
た﹂
るとしたら、果たして正気を保っていられるのでしょうか﹂
今度は北岡が笑う。
﹁まあいいさ、確かにその節もあるしな。ああ、論文を完成させられ
なかった﹂
北岡の目の前にいる黒い影は鼻歌をしはじめた。そのリズムは、嵐
の中の歌と奇妙に合わさっている。
﹁大丈夫、中井がやってくれますよ﹂
体が砂になっていくかと錯覚するほど、砂を飲んでしまっていた。
﹁なんだい。君の、その歌は﹂
﹁私の地元に伝えられている歌です。そうそう、気でも晴らさなくち
文藝 14 | 16
﹁困ったな、体が重いんだよ﹂
﹁それは困りましたね。本当に肉体というのは厄介だ。そろそろ、タ
ーニングポイントですよ。この崖の下が遺跡だ﹂
﹁ポイ捨てをしても怒られないか﹂
﹁怒られるものがいないんじゃ、怒りようもありませんよ﹂
布切れは飛んでいく。ずたぼろに千切れながら、砂海の中の砂にな
るために永遠に飛び続けるのだ。
繭爆弾
一章
銀杏並木をくだりながら、寒さに震えてコートを閉じる。骨ばった
指で丸いボタンを弄りながら前を見ると、冬の淡い暗闇に半月が浮か
ん で い た。 そ れ を 見 つ め な が ら 坂 を 下 り て 行 く。 目 の 前 か ら 喪 服 の
人々が上がってくる。すれ違い様に、顔を覆った女性に会釈をされた。
坂の上の市営霊園に行くのだ。この町には市政が作った建造物がや
たらとあり、かくいう自分も坂上の市立病院から出てきた。財政がや
たら潤っているのだろう。地名が金持ちの代名詞とされるくらいの高
級住宅街だ。だから入ってくる税金もそれなりに決まっている。商人
の町のべッドタウンだった名残らしい。そのネームバリューと海山の
風靡に誘われて、成功者は今でも移り住んでくる。だけれど、少し離
れた地域の人間に凄い所に住んでるねと言われると少し困ってしまう。
なぜなら高級なのは、海を見下ろせる坂の上だけなのだ。坂の下は土
着といっていいのか、彼らと関わりのない人間たちの町なのだから。
ある時小学校の同級生が言っていた。地元の人間というだけで、商
才に恵まれていたらどんなに楽なのか、この町は俺たちと彼らのルー
ムシェアなだけだ。別に差別意識が芽生えるほど深い話じゃないけど、
別種なんだよ、と。それを聞いて思わず苦い顔をした。僕はこの町の
土着家庭の生まれだったが、途中で親が成功してしまって、坂の上と
繫がりができたからだ。彼とは長い付き合いだから悪意がなかったの
はわかる。実際、困ったような顔つきを浮かべたから。だけども一瞬、
17 |砂塔の残滓
それには皮肉も含まれていただろうかと邪推をしてしまった僕もいた
のだ。
石材屋の角を曲がって別の坂に入ると、今度はでこぼこに隆起した
地形に小さな屋根がたくさん見える。元は山村集落だったのだろうか、
今も癲癇を疑われたのであろう。
もっとも、今の大家は優しくしてくれて、僕のことをことあるごと
に気遣ってくれている。理解があり、書留の代理人としても信用でき
る。このアパートを借りていてよかったと思っている。
だけどいかにも同情げな顔を浮かべながら尋ねるので、強引に封筒
そう言いながら先ほど病院でもらった手紙を差し出す。大家は、は
今は木々の代わりに家がある。この先のビルに隠れた薬屋の上が、僕
アパートの階段を昇る前に薬屋から声が聞こえた。中に入ると茶髪
い、ちょっと待ってねとかそんなことを言いながら、奥に引っ込み紙
ごと手をポケットにねじ込みながら、できる限り爽やかに大丈夫です、
の太い中年女性がレジで手招きをしている。たぷりと腹が揺れた。こ
袋を持ってきた。待つ必要もなかったのはきっと、僕に処方する薬は
の住んでいるアパートだ。坂を下りて、ほかの坂をまた上がって。公
の人はたとえ不倫の末に妊娠しても、その贅肉がゆえに胎児の存在が
推測して用意していたからだろう。ふと、紙袋の下に一枚の紙がある
と返事をした。
ばれないのだろう。そんなことを考えてしまったが、もちろん自室の
のに気付いた。
園の柳の横を真っ直ぐ歩いて、十字路を左に曲がる。
真下で大家夫妻のそんな騒動なんて勘弁してほしい。犬も食わない。
﹁それね、この前たまたま手に入れたミュージシャンのチケットなの
﹁大家さん、処方箋があるのですが﹂
けど、どこかでわずかに面白いかもと思ってしまう。犬は玉ねぎを食
よ。私いらないから宗一君にどうかなって思って。興味があったら行
﹁瀬戸さん﹂
べられないし、人間のほうが悪食かも知れない。
ってちょうだい。押し付けるようでアレだけど、もし要らないなら捨
先ほど握りつぶした封筒を見る。僕は半ば勘当されている身である
を上げて口を閉じる。
音が聞こえる。鉄製のシャッターが嫌な金属音をたて寒空の中に悲鳴
薬屋を出て横の冷えた鉄階段を上がっていると、後ろで店じまいの
て礼を述べた。
もし大家さんが要らないのであれば、宜しければ頂きます、そう言っ
一枚買ったことがあった程度で、とくに追いかけてもいなかったが、
見てみると、日本のアーティストのチケットであった。CDを昔、
し﹂
て て お い て 構 わ な い か ら。 お ば ち ゃ ん 持 っ て て も 捨 て ち ゃ う だ け だ
﹁荷物が届いているよ、親御さんからだねえ﹂
にこやかに笑いながら封筒を差しだされる。現金書留であった。
﹁お電話も頂いてね。宗一君の調子を聞かれたよ。やっぱりご心配な
されてるんだねえ。今度いらっしゃるのも直接伺いました、近くだか
ら突然でも全然構わないのに﹂
大家の作り笑いを流して、封筒を裏返して住所を眺める。確かに近
い。本来なら部屋を借りる手間すらいらない。それをしばらく眺めて
いると、大丈夫かい、そう声をかけられた。
てんかん
僕は、ある時から軽度の癲癇を患っている。脳の真ん中に腫瘍があ
って、ことあるごとに意識が飛んでしまう。千切れている映画のフィ
ルムが上映されているように、僕の世界はぶつ切りなのだ。おそらく
文藝 14 | 18
に僕をやった。自分の動きを信じられない僕は事実、さっき封筒を眺
関ですらときに乗り過ごす。親は、愛のある建前で病院の近い坂の下
だが自分が癲癇持ちなので車は運転できない。迂闊をせずとも交通機
と立ち上がって様子を見に行く。三十匹くらいの蚕たちは、繭や、蛾
げない、絹の材料である。飼育箱の中でこちらを見ていた。ゆっくり
で僕に飼われているものが動いた。蚕の芋虫である。 がなくても逃
部屋の真ん中に寝そべって白色燈の中の濃淡を見ていると、目の端
驚いている誰かだった。
めている時にも、意識が飛んでいた可能性がある。だから、大家にと
になっている。成長度合いに照らし合わせて箱を分けている。芋虫は
のだ。実家はバス停すら遠く、自家用車が大前提のところに移った。
っては近くでも、僕の世界ではそうではない。
ハ ン ガ ー に コ ー ト を か け る。 机 に 置 か れ た ノ ー ト パ ソ コ ン の 上 の 本
クルを見続けている。だが、それは切れたサイクルであった。なぜな
卵から芋虫になって、繭にくるまれ蛾として生まれでる、そのサイ
一番端っこで、成虫は窓の下に近づいていくという寸法だ。
は、﹁療法の真義﹂という。振り向いて部屋着を取りに行く。服を脱
る。挑戦してはいるが、やはり駄目であった。サイクルを完成させる
部屋に入って、封筒を机の引き出しの中に入れる。畳の上を通って
と書かれたポスター下のオ
ぎ、籠に入れる。 Video killed the radio star
ーディオの電源を入れた。細い腕にパジャマを通しボタンの前を閉め
のは、卵を補充するという所作で成り立っていた。
けないのだ。時々、列からはぐれてしまう僕。そのたびに駆け寄るけ
ていく。世界中の人々はそれに追従して動いていく。だけどついてい
中でアポトーシスをおこし、変化している蚕蛾を見ながら思ってしま
だろう。自らを溶かし、再生するために。僕の変わらない毎日。繭の
繭の前に腰かける。さなぎの中ではどろどろの液体が蠢いているの
ら僕に彼らを繁殖させる術などなく、成虫になればそこで終わりであ
ながら、自分の部屋の壁掛け時計を見つめる。長針がせわしなく動い
ど、追いつけてなんかいないだろう。目の端が熱くなっていった。僕
う。やっぱり、僕は蚕を飼うべきではなかったのだ。虫ながら社会に
おいて大いなる役割を担ってきた彼ら。野生では生きられないという
は駄目なのだ。もう、駄目なのだ。
大学生であった。馬鹿学生であった。幸せな時間を安穏と過ごして
単位の取り方を模索し、授業が終われば酒を飲んでいた。その日は映
いけないのだ。ああ、なんと浅ましいのだろう。僕だって彼らだって、
だけれどこの蚕たちは、僕に依存している。僕がいなくては生きて
ことこそ、人間たちの中に立場を持っている証明に他ならない。
画を観ていた。酔っ払いながら白黒映画を眺めているとつまみが切れ
蝶のように空を泳いで去っていったらいいのだ。気付いたら一つの繭
いた。授業の時間まで寝て、生物学を学んでいるという建前の元に、
たのでコンビニまで歩く。
チキンを買って、可愛らしい店員にホクホクとしていた酔っ払いは、 をなでていた。できるかぎり優しく、できるかぎり浅ましく。
かりにいった。その時のことを、今でもはっきりと思い出すことがで
手すりをつかもうと空の中でもがいたが、成功あたわず、地面にぶつ
何が起きたのかわからないように、たった一つで、ころころと転がっ
飛ばしていた。発作が起きたのだ。慌てて空き箱の中に繭を入れる。
気がついたら、繭が一つ床に転がっていた。時計の針が時間を吹き
部屋の階段を昇りきることができずに、階段の下に転げ落ちていく。
きる。だけどその記憶の中で、僕はなぜか目の前で人が落ちたことに
19 |砂塔の残滓
ている繭。
繊細な変化の途中に、幾ばくかの絶望が巻き起こっているだろう。
その絶望は、きっと僕と同じものなのだ。
二章
玄関のドアの前で、足をかかえて座り込んだ。冬の寒空には木枯ら
しが舞っている。パジャマの中に冷たさが入り込み、僕の細胞の中に
潜りこんで一緒に座り始めたあたりで、やっと現実と向き合ってみる
気になった。
いで奇声をあげていたら寺に行
ひんやりとしたドアノブを握り、前かがみにドアの隙間に頭を近づ
ける。もし中で白髪の老婆が四つん
布団の向こう側に、頭蓋骨大の白い球が光っていた。日光に溶けそ
こう。そう心に決めながらゆっくりと前足ごと踏み込んだ。
る。脳みそがまどろんでいるのだ。これは目覚めねばいかんと思い、
うなほどに輪郭を危うくして、寝ている時に頭から幻想が抜け落ちた
朝、目が覚めると、頭にもやがかかっていた。視界が白く霞んでい
髪の毛を全体、後ろに搔き上げてみる。するとそのもやはあっけなく
ような、その残滓のように枕の奥に鎮座している。
おもわず口を開けてほぉ、と息を吐いた。リアリズムの欠如、現実
消え去った。視界も良好に窓の外の朝の光がまばゆく見える。
何かがおかしい。朝の目覚めに対抗するのはどう足搔いても時間と
への致命傷。その存在は、僕の部屋に似つかわしくなかった。いや、
ズタボロになった現実をひきずって近づいてみる。すると小さな糸
意識であるべきであって、このような物理的な行動は徒労に終わるは
を見てみる。白い糸の束が指に巻きついていた。思わず、まとわりつ
が飛び出ているみたいで、それらが太陽光をうけてほんのりと光って
世界のどこにも似つかわしくなんてないだろう。
いているそれを払い飛ばして、布団から起き上がる。するとまた視界
いたのだ。近づいて目を凝らすと、全体が糸で構成されていた。僕は
ずだった。ましてや痛みももたないこんな緩い動作。狼狽しながら手
が白く染まった。やっと合点がいく。自分の頭にこの白い糸束が絡み
信じられない、だけど現実として判断するのなら、その黄金みを帯び
れて転んだ。手を前に出して頭を守る。こんな瞬間的な痛みは久しぶ
団から飛び出した。そして玄関に駆け出す途中に、なにかに足を取ら
かの髪の毛ではないか、おそらく白髪の老婆。軽く悲鳴を上げて、布
醒すると同時に、ようやく恐怖と混乱が追いついてきた。これは、誰
やっぱり自分の頭にはもやがかかっていたみたいだ。寝ぼけ頭が覚
量るのなら答えは違ってくる。自分は蚕を飼っていて、そいつがいた
たなにものかである。だが、自分の中の想像力と推理力でそれを推し
翅目なんていない。だから大学時代の知識では、これは繭に非常に似
大学で生物学を学んでいた。そこで学んだ事柄では、こんな巨大な鱗
認めるわけにはいかない。理解なんかできないだろう。休学する前は、
ずっと見ている気がする。繭の前に座って僕は、非現実を見ている。
た白い塊は、巨大な蚕の繭であった。
付いているのだ。
頭に乗っている糸を搔き集めてみると、それなりの量であって、ど
りであった。足を取ったそいつを見てみると、やっぱり白い糸であっ
場所は昨日落ちた繭を置きなおした場所だ。自分の部屋に荒らされた
こから湧いてでたのか想像もつかない。
た。
文藝 14 | 20
一本を手にとったら絹であった。
経緯などはないのだから、泥棒の落とし物である可能性も低い。糸の
﹁俺はたくさんの人々を切り捨ててきたんだ。自分が切り捨てられな
を言っていた。
いようにね。足を取られてはいけないから、冷徹になった。現実って
いうのは本当に厳しいものなんだ。霞を食んで生きれるならそうして
取りあえず、蚕として判断する。ならば中身はどうなっているのだ。
繭はさなぎを守るための防護策である。中身があると判断して、その
る。だけど、飯を食うってのには金が要るんだ。欲望を満たすために
はそれが必要なんだ﹂
はらにそっと耳を押し当ててみる。
音が聞こえる。轟くような、何かが動く音。まるで波のようである。
ある。小さすぎるから繭の音など聞いたことがないのだ。ならばいっ
沈んでいく。結論として、よくわからない。少し考えれば当たり前で
音がした。崖沿いで砕けた波の音もする。水は渦巻いて、こぽこぽと
る。僕が死んでいないか確認するのであろう。切り捨てる父でも息子
その父は、時々ここに様子を見に来る。そして部屋で飯を食べて帰
ら引っ越すことを示唆したら、あっという間にここが探し当てられた。
が家にいる時間が少なくなっていった。稼業は
僕はその後、癲癇になった。家族の態度は段々と硬直してきて、父
そのこと繭をほどいて中身を取り出してみるか。ふとそんなことを考
は切りづらいというのか。それが嬉しくて悲しい。どうせなら僕がい
胎動して、ぶつかりあって、弾けあう。海の底で気泡が割れたような
える。このまま孵化でもして、巨大な蛾が現れるくらいならいっそ、
なくなっているかを確認してほしい。それとも、もう切り捨てられて
いるのだろうか。携帯に今から来るとメールが入った。
かり続け、僕の方か
そう思った。
だが僕はそれをしなかった。自分で分からない以上、大学に連絡を
巨大な繭がある。それだけでなにか救われたような気がしてくる。
あごひげがちらりと生えた父がやってきた。押し入れの向こうには
る、なんてことではなかった。理由なんてわかりはしない。そもそも
﹁久しぶりだな。元気か﹂
取ってみるという手もあるが、したくはなかった。生命の偉大さを守
がこの理屈外の存在と触れ合ったから、それが感染したのかもしれな
﹁ああ、元気でやっているよ﹂
社交辞令で返す。話題などない。僕は今の状態を話すことなんてし
い。とにかく、この存在を擁護し、隠蔽したくなったのだ。
未知への渇望からか、それともこれを独占するということが、自分
時間を見ると、午後に近くなっていた。今日は父が来訪する予定で
ちが関わらぬ話こそが楽しいのだ。今日はこんなことが起きて、俺の
りを広げて飯にする。話題は自然と、世界の話になっていく。自分た
ないし、父も家のことなんか話さない。父が持ってきた中華の持ち帰
ある。こいつを隠すと決めた以上、父に引き合わせるのは避けた方が
見解はこうだ。お前はその事件を知っているか。とか、最近こんな社
の何かを満たすと思っているからかも知れない。
いい。押し入れに入ってもらうことにする。持ち上げてみたら、周り
会現象が取り沙汰されているが、お前はどう思う。そんな感じに中華
しばらくの間、沈黙を埋めるだけの会話が過ぎ去ったあと、父が言
を口に入れる。
と繫がっている糸はあっけなく剝がれた。
父はリアリストである。サラリー稼業から独立し、それなりの活動
をして小金持ちになった。昔、一緒に酒を飲んでいた時、こんなこと
21 |砂塔の残滓
ってきた。
自分に取り込んでいるのかもしれない。だからあの巨大さであって、
と糸になって垂れ下がっている。あの繭は周りのモノを絹に変えて、
今も増殖しているのか。
﹁お前の育てている、蚕はどんな具合だ﹂
父にとっては少し近い世間話なのであろう。だが、押し入れに巨大
﹁いい感じだよ。成長の具合が凄まじい奴もいてね。蚕農家の才能、
繭のことがばれてしまうと。
内心は焦っていた。このままいくと押し入れの扉が絹になって、あの
戻ると父が大丈夫かと聞いてきた。僕は大丈夫以外しか言わないが、
あるかも﹂
﹁蚕農家のこと、本気で考えるんだったら応援してやるぞ﹂
な蚕を隠している今は戸惑ってしまう。
﹁農家か、それはいい。ゆったりと暮らせるな。俺も最近忙しくて困
ゆったりと暮らせるとは、僕が癲癇をおこしても生きていけること
養をして、良くなって稼業にしたいと思うなら。勿論今どき厳しいと
﹁いつか、その癲癇が多少収まるまでの辛抱だとは思うがな。今は療
不意に話をふられて戸惑ってしまう。
を示唆しているような気がする。僕はきっと引退を求められているの
は思うが、癲癇について色んな申請をしたら生きていけるだろう﹂
る﹂
だ。
頭の中で色んなことがごちゃ混ぜになってくる。色んな申請、それは
僕はしばらく黙っていた。そうかもしれない、生きていけるかも。
ったが、一晩であれだけの成長をこなす蚕だ。こうやって中華を食べ
政府から援助をもらうということだ。今と何も変わらない。その慰め
蚕の繭は今どうなっているのだろう。そうだ、僕は気付いていなか
ている間にも、どんどんと成長しているかもしれない。押し入れの中
に蚕たちと生きるのか。僕は今年で二十一歳だ。
ふとみると押し入れの扉がゆるみはじめている。不安は的中したの
を占領していって、取り出せなくなっているかも知れない。もしかす
ると、扉をけやぶり、ここに転がってくるかも。いや、そもそも繭は
父の座っている場所に扉が倒れてくる。軽い扉だから、それはそれで
だ。蚕は押し入れの中で何らかの変化をおこそうとしている。このま
だったらどうやって、あれは産まれたのだろう。転がっていった繭
見てみたい気もするが。しんみりと僕の進展について考えをめぐらし
成長しないものだ。幼虫のころに吐きだした、さなぎのベッドである
というのは僕の勘違いで、一匹の幼虫が朝までに仕立てあげたものな
ている後ろでゆらゆらと押し入れの扉がゆれる。
までは、父にことが露見してしまうではないか。それだけではない。
のか。ふと後ろの蚕たちを確認する。その時あることに気づく。昨日
﹁まあ、考えてみるよ。僕は大学に戻りたいけどね﹂
から繭自体に成長の要素などないはず。
繭を入れた箱がなくなっているのである。父が訝しげにこっちを見て
焦っている最中だから、ふと本音が出てしまった。
﹁まあ、ゆっくり考えるよ。ご馳走様﹂
父が押し黙ってしまう。このままでは中々帰らないだろう。
﹁そうか、そうか﹂
いるだろうが、反応はできない。父の後ろに積み上げた枕のそばに木
の板があった。おそらくあの箱の破片かも知れない。トイレに行くと
いって、途中でそれを引っ摑んだ。
木の板が途中で、絹に変質していた。木目の流れがそのままだらり
文藝 14 | 22
に作ることができれば成功すら夢ではないのかも。そんなことを考え
わからないが、これはかなりいい具合なのではないか。こいつを大量
する。
ながらTVをつける。
この空気を逆手にとるしか道はなく、父に対して申し訳ないことを
﹁そうだな、ゆっくり考えるといい。療養しながらな。また来るよ﹂
笑っている。そういえば、TVの中で泣き顔なんてドラマくらいでし
画面の中では人々が笑っていた。どのチャンネルに切り替えても、
を終えて、玄関に送り出す。帽子をかぶりながら聞いてきた。
か見た覚えがない。世界の色んな所で人々が笑っている。チャンネル
立ち上がる父。いよいよ押入れがぐらつき始めている。簡単な挨拶
﹁下宿で大丈夫か。もしも、やっていけないようなら言うんだぞ﹂
シマウマがライオンに追われていた。必死に駆けながらカーブを切
を切り替えると動物の生涯というものをやっていた。
が閉まる。門扉は鈍い音を立てながら閉まっていき、父の姿が見えな
る。草が黄色の日光の中に舞い上がる。何を見ているのかわからない
今更、そんなことを聞くな。そっちがさがる必要なんてない。ドア
くなる。僕はこの部屋に残っている。後ろで、扉の倒れる音が聞こえ
黒い眼をゆっくりと映す。アナウンサーのわざとらしく興奮した声。
だろう。大きくなったそれを持ち出して、山積みにした雑誌の上に置
がライオンのかたわらに落ちている。何が起こったのか一瞬わからな
気が付くと、ライオンが肉をまずそうに食っていた。シマウマの皮
んどんと失速して、シマウマは遥か彼方に駆けていく。
シマウマが急激に曲がった。ライオンがコースをそれて失速する。ど
た。
押し入れの扉の後ろが絹状に変質していた。そして繭の方はだいぶ
いてみる。こうしておけば下の土台を侵食しても取り換えが効く。神
かった。この編集は、どうなんだと。しかし、自身の癲癇であること
大きくなっている。これはやはりあたりを絹にして取り込んでいるの
棚みたいにも見えて、本当にお蚕様じみてきた。問題は大きくなって
後ろで音がなる。振り向くと雑誌の束が崩れていた。固定が不十分
に気づいてしまう。TVではアナウンサーが番組の終わりを告げてい
つまり﹁繭﹂が成長しているのであって中の﹁さなぎ﹂は増大をしな
だったのだ。雑誌の一部が絹に変わっている。僕は繭を手に持った。
いくという点である。それについては考えがある。これは成長する繭
いのではないか。だったら、その分厚い外殻をわずかに削っても問題
丸く小さなその塊は、手の中で胎動している。その胎動を感じて、ナ
た。
はないのかもしれない。ナイフを持ち出して外をなぞってみる。がり
イフで死ななかったことに安
である。
がりとした抵抗はあったが、削れていく。随分して頭蓋骨大くらいに
いた。始めに見つけた所である。イグサの代わりに絹が糸を
わせて
した。床では畳の一部が絹に変わって
はなった。
えている。かわりにささくれのような傷ができていた。ふと考える。
いる。持っている手に痛みが走る。自分の中指の先から一本の糸が生
ぎる。かき集めて木箱の中に入れてみるとそれなりの量であった。絹
もしかすると、こいつは思った以上に危険なのではないか。
床には、大量の絹糸が散らばっていて、蚕農家という言葉が頭をよ
糸の相場も何もわかってはいないし、どこと取引をすればいいのかも
23 |砂塔の残滓
その時、看護師が遠慮がちにドアを開けた。
﹁おお、もう準備ができたみたいだ。それでは瀬戸さん、行きましょ
を変質させうることができる力、それに恐怖の半分を割いていると思
最近は雑誌を大量に買い込んでは、絹に変えている。この繭の辺り
足で通っていく。寝ているのは二十代くらいの男。呼吸器をつけてい
担架が勢いをつけてやってくる。その後ろから慣れたように医者が早
そして一緒に白い廊下を通る。慣れた検査の手順だ。前から医療用
う﹂
う。そしてもう半分の恐怖は、こいつの羽化だ。一体何が生まれるの
るので顔が見えない。通り過ぎる時、足が痙攣してパタッと跳ねた。
三章
であろう。こいつは羽化してほしくない。繭のままでいる恐怖は確か
思わず見送っていると、医者が声をかけてきた。
﹁どうかしましたか﹂
にある。けれどもっと恐怖しているのは、こいつが羽ばたいていって
しまうことだ。蚕は社会でしか生きられないのは知っている。だけれ
﹁いえ、懐かしいな、そう思って﹂
ら、皮肉ってやる。医者は何も言わず歩き続けた。
僕が誰を見ても勝手であろう。実際自分の事故を思い出したのだか
どこいつは何か、空に旅立てるような気がするのだ。ただの空想であ
るが、それが恐ろしくて仕方がない。僕をここにおいてどこに行く気
だ。この繭は、繭のままでいなくてはならない。決して羽化してはい
前ですっころんだ。父親らしき若い人間が慌てて抱きかかえる。そし
市立病院で順番を待っていると、子供が横を駆けていき観葉植物の
の 検 査 は 受 動 的 な も の が 多 い。 つ ぎ に M R I を 受 け る。 白 い 筒 の 中
り 慣 れ て し ま っ た。 こ の ま ま 数 十 分、 身 動 き せ ず に い る だ け だ。 僕
を受けた時はまるでエクソシストのようだと思ったが、今ではすっか
髪の毛の上からたくさんの電極がつけられていく。始めにこの検査
て子供は、転んだことをごまかすように笑ってみせた。あんな頃が僕
で、工場のような轟音が鳴り響く。聞こえてくる音をなぞっていると、
けないのだ。
にもあったのだろうか、そしていずれあんな頃を作り出せるのであろ
段々世界が崩れていくような気がする。そして僕は静かに目を閉じた。
﹁瀬戸さん、最近の調子はどうです﹂
た。
にかざして見ている。そして少し息を吐いてからこっちに向かい合っ
壁に自分の脳みその写真が貼られている横で、医者はその写真を光
うか。顔をうつむけていると、アナウンスが聞こえた。
﹁瀬戸宗一さん、二番室までお越しください﹂
病室に行って初老の医者の前に座る。
﹁近頃はどうですか。めっきり冷えてきたでしょう﹂
こんなものは人間の体感温度で答えが変わる質問だ。だがくだらな
﹁冷えてきましたね。家に帰るまでが辛いですよ﹂
﹁腫瘍も大きくなっていませんよ。安心してください。このまま落ち
た。
大丈夫です、そう答えるのが躊躇われて、変わりありませんと答え
﹁ え え、 私 は も う 年 で す か ら ね。 や っ ぱ り 冬 の 寒 さ は 身 に 沁 み ま す
着くまでの我慢です﹂
い、そう言えば挑発になるから普通に答える。
よ﹂
文藝 14 | 24
を終える前に医者が言った。
の女が嬉しそうに跳ね上がって叫び返した。僕も立ち上がってアーテ
きた。第一声に歌手は喜びの顔で、みんなに会いたかったと叫ぶ。横
演奏を始めるためにギターソロが始まると、アーティストが入って
﹁もしも精神が乱れて困っているというのなら、いいカウンセラーを
ィストの顔を見る。立ち上がらないと見られなかったのだ。
聞き飽きたセリフだ。落ち着く可能性もあるってだけなのに。診察
紹介しますよ﹂
ると、人々が一斉に流れていく。駅近くのチェーン展開している喫茶
が携帯をいじっている。誰もが干渉しないで乗っている。電車を降り
のは久しぶりだ。学生達が我が物顔で騒いでいて、赤いマフラーの男
ライブに行く前に電車に乗ったが、目の前に赤の他人が座っている
でいる。体を横にゆらす者、頭を縦にゆらす者。僕は目を閉じて歌に
随分と楽しめる。辺りをちらりと見ると、皆が皆、思うように楽しん
かったらホールなんて借りられはしないだろう。久々に曲を聞いたが、
トは意外と熱心なファンに支えられているみたいだ。いや、そうでな
そしてほぼ全員が立ち上がると同時に歌が始まった。このアーティス
軽快にドラムを叩きだして、それと同時にピアノが鳴りはじめる。
店に入った。座りながらトレイの上にあるコーヒーを飲んでいると、
聞き入った。
終盤に近づいたあたりだと思う。メインの一つの曲を聞いていると、
不思議に高揚してきた。このシステマチックな雰囲気は素晴らしい。
誰もが世界と干渉しないですむこの密度の高さ。他では味わえない異
流れていく。その中で﹁相談無料で聞きます﹂という看板の下、座っ
合わせスポットに行った。変わることなく銅像が立っていた。人々が
時間があるので、街を散歩し始める。昔よく行ったことのある待ち
気まずくなって、手を振り上げて口パクをした。どうせ僕の歌など聞
こちらを見てくる。隣の人間が歌わないのに違和感があるのか。僕は
分からなかった。だから当然黙っているしかないのだが、横の女性が
くれという。だけどCDを一つ買っているだけの素人の僕には歌詞が
アーティストが客席にマイクを差し出してきた。そして一緒に歌って
ている若い女性がいた。誰も気に留めないで過ぎ去っていく。人はイ
いちゃいないのはわかっているが、隣の女性のために、アーティスト
常な世界。
ヤフォンをしながら、携帯をいじっている。ぼんやりとしていたサラ
のために。
りの少ないところだったが、まばらに人がいる。ホームレスがベンチ
ライブを終えて雑踏から解放された後、夜の街を歩いていた。人通
リーマンが休憩を終えてオフィスビルの中に入っていく。空に掲げら
れた看板には今日観にいくアーティストが、炭酸飲料水の宣伝をして
いた。そして画面が切り替わり、近くの店の宣伝が流れ始めた。
ら、僕が見られることのないアーティストの舞台が開幕するのだ。座
どこかの誰かが受付をしていたので、チケットを渡し入り込む。今か
そして警官が近づいて行って注意が始まった。ライブ帰りの人間が、
よく通って、酔っ払いの家族の名前が聞こえてきた。よしこ、さち、
酔っ払いが一人いるだけであった。大きな音で電話をしている。声が
で寝ている横を通り過ぎて、昼に通った待ち合わせスポットを過ぎる。
席は思ったより前の方で、熱心なファンが辺りには見かけられて、熱
なにが起こったのか確認しに近づく。彼らの足元には、昼の﹁相談無
ライブ会場につく。刷られたポスターが壁に貼りたくられている。
気が満ちはじめていた。僕は名前も知らない女の横に座った。
25 |砂塔の残滓
料で聞きます﹂の看板が落ちていた。いや、捨てられていたのか。
駅について電車を待っていると、ライブで隣に座っていた女性が近
くの乗り場で並んでいた。
家に帰って繭を見た。依然と不気味な胎動をしている。なんだかこ
いつを放ってライブを見にいったことが不思議に思えてきた。ライブ
なんかよりもよっぽど奇妙ではないか。繭を触っていると少し笑えて
きた。この赤ん坊大のなりをして、こいつは辺りを飲み込んで膨張し
ていく繭の化け物。奇妙な破壊者なのだ。もしかするとどの兵器より
も危険かも知れぬ。
ふとこいつを、ライブ会場においてきたら、どんなに愉快だっただ
ろうかと考えた。電子機器を絹に変えて、最終的にはライブステージ
が一つの大きな繭になってしまうのだ。逃げ惑う人々、取り込まれる
アーティスト。そしてそうなっても、手を上げ続け熱狂し応援してい
るファン。こいつは爆弾なのだ。社会性の蚕の中から変異した、反社
会性の揺り籠。僕は嬉しくなってきて、ささくれのような痛みが腕に
走るのにも構わなかった。
たとえば、さっきの妄想だったら僕はどこにいるのだろう。絶望に
塗りたぐられて逃げ惑っているのか? ファンと一緒に腕を振り上げ
ているのか? それともアーティストと一緒に始めに取り込まれてい
るのか?
釈然と来ない。自分はこの繭に、一体どの段階で殺されたいのだ。
窓の外に山が見える。壁のようにそそり立つ坂の上、そして繫がるこ
こ。誰も、僕がこんな繭を持っていることなんか知らない。坂の上も、
坂の下も。
そうだ、僕は一番始めだ。アーティストなんかよりももっと先に、
この蚕の中にいるのだ。きっとそれがいいのだ。その時に世界は壊れ
てしまうのだから。
ささくれのような痛みが、腕中に走っていく。脳みその腫瘍が泥の
ように、繭の中の液体と呼応し始める。お互いがとろけあって、一匹
の蛾として生まれかわる、そんな夢を見る。
窓の外を見ると冬の月が静かに僕をあざ笑っていた。
文藝 14 | 26
ってはじけちった。入口から冷たい風が飛びだし庭を満たし、泥が波
打ち波紋を作る。肺の中にその空気が入ってきて上から落ちてきた空
彼は部屋に戻り準備を始めた。リュックを広げて雑多なものを入れ
親愛なるバベルに
気だとわかった。透きとおったうまい味がする。地上では食えないも
塔が立っていた。泥の中から涌きでるように、曇り空の中、高く長
ていく。まずは水、それに食料とコーヒー、そして赤のボールペン。
のはこんなにも美味いものか。上を見上げると気分が良くなった。
く伸びている。乳白色の壁は日光を取り込みながらぬめり、丸い正門
だったら登ってやらなければ可哀想だ。一日で帰る予定で物をいれて
塔に登ることにしたのだ。登られることがあれの意義であろうし、
彼はそれをぼんやり眺めていたが、建っている意味がわからなかっ
いく。幸い自分の保有する敷地内にあるのだし、規律というのは行動
は痴呆のようにぽっかりと口を開けていた。
た。電波塔というにはあまりにも生物的で、アートというにはずいぶ
の後から遅れてやってくるものだと相場が決まっている。
いった。
ライターを摑んで外に出る。泥水の上を歩いて入り口に吸い込まれて
ある程度つめおわると、彼はドアの近くにおいてあったタバコ用の
んと質素すぎる。今にも倒れそうなほどに空へと細く伸びている塔は、
朝起きると大雨がやんで泥だらけになった庭に生えていたのだ。
入り口に近づいていって恐るおそる首を突っ込むと、少し冷えた風
が吹き出してきた。螺旋階段が上へと繫がっているだけで部屋も何も
この塔には窓が少ないのであろう、真っ暗な世界に足を踏み出す。
地面は鈍く鳴り、一歩目の振動が上に舞いあがっていく。円を描きな
ない。もっともまともな階段をとり付けるだけでその空間を使い切っ
てしまうほどの細さなので、なんの期待もしていなかったのだが。だ
に又跳ねる。スーパーボールのようにバウンドしながら転がり落ちて
がら彼が十数歩目の音を出しているころに落ちてきて、別の音と一緒
とりあえず食事をとりに部屋に戻る。空は濁っている。延々と伸び
いく音の群れ。彼らは自らを阻害するものはどこにもいなかったと告
からこの塔は、上へと繫がる回廊なのだと、そう判断した。
続ける雲の下で、灰色の光は世界を優しくつつみこむ。ウィンナーを
階段を上がっていくと音が変化してきた。わずかな変調であるが、
げて去っていく。
るためにやかんを沸かしながらふと、雲海の向こうで光の線が降りて
だんだんと自分のいるところが空に近づいているのだと知らされる。
齧りきりながら窓向こうの塔を眺めていた。少し後、コーヒーを入れ
いることに気付いた。きっとなめまかしく動きながら自分には決して
あたりの空気が明るくなってきた。
窓を見つけた。何かがぶつかってできたような不正確な円の形の窓
与えることのない美しい光のラインを誰かに与えている、そう考える
と無性に切なくなっていた。
だ。腰を掛けて水筒をあける。水を飲みながら、遠くに海を見つけた。
だ。外を見てみると、庭が小さく見えた。だいぶ上がってきたみたい
ら耳を近づけていると、中からうなり声が聞こえてきた。驚いて後ろ
そこに先ほどの光の線がいた。雲をこじあけて少し大きくなっていた。
コーヒーを入れて庭にでて、塔に寄りかかりながら雲を見つめなが
にさがると塔の中を、大きい音の玉が地上に落ちてきて、地面に当た
27 |砂塔の残滓
いるように感じる。それを確定的にせしめたのは、三つ目に到達した
らなければならなかったが、その次までの感覚はおそらく短くなって
もあるが、地上からは見つけられない高さにあった。だから暫く上が
から、割り合い早い時間に二つ目を見つけた。初めのは小さかったの
い込んでしまったかのような錯覚を受ける。一つ目の窓を通りすぎて
に鉄階段になっていたのか。地面を撫でると、転落防止の粒らしき感
はないのかと疑いを持つ。この予感が本当なら自分が登っているうち
音であった。この変化は明らかに材質によるもの。もしかすると鉄で
た。靴を地面に叩きつけると、高い音がするのだ。登りはじめは鈍い
ヒーを飲みながら、先ほどから覚えていた違和感を確かめることにし
階段に腰掛けて夕飯を食べる。窓の出現間隔は安定してきた。コー
四角だった。
ときであった。何分くらいかかったのか体感で考えるとだいぶ短い。
触があった。ありきたりな既製品の匂いに戸惑う。ライターで灯りを
さらに上がっていく。螺旋を回るうちに目が回ってきた。永遠に迷
とりあえず四つ目に到達したら昼に近くなっているかもしれないから
つければ確実にわかることだが、やめておいた。
外を見ると世界は徐々に夜の闇につつまれていっていた。
昼食をとることにする。そこまで考えてから彼は、なぜ腕時計を忘れ
たのか後悔した。
時間の計り方は体内時計に一任することにする。しかし初めよりも少
彼は心に決めた。もう、後一、二時間も登ったら一眠りして戻ろう。
は外見から考えても休息所などないのに、無鉄砲にやってきたのだ。
しは精度の高い自信があった。意図していなかったら難しいだろうが、
昼食をとっている時、少し自分が愚かであったと反芻する。この塔
窓のふちを撫でていると、丸ではなく四角に近づいていることに気づ
そして彼の中で二時間がすぎた。最後であると決めた窓を見て絶句
自分の煙草への中毒性を分析して、吸う本数によって決めるのだ。
線と言えなくなっている。だんだんと眠りから覚めていくように、自
した。ガラスがはまっていたのだ。開閉用の鍵のついている普通の窓
いた。外で光の中にカモメが飛んでいる。あの光は雲を割りすぎて光
分を取り戻しつつある。とりあえずどこまで登ろうか。悩みどころだ
であった。なぜこんな不可解な塔で、こんなものがある。既製品の鉄
る。頭の働かぬ状況よりそちらの方が遥かにいい。
階段といいわけがわからなくなったが、彼はとりあえず寝ることにす
が、まだ時間はあるので登ることに決めた。
螺旋状に上がっていくのを感じながら、例えば今の自分を何に例え
たらいいのであろうと考えてみた。窓の間隔はやはり短くなっていて
夢を見ていた。
光と闇のグラデーションを歩いている状況。おそらくはと時計のはと
に近いのかもしれない。厳密には違うが、一定のスパンで外に顔をみ
荒野という言葉では表せないほど荒れてはいなく、砂漠のように生
や死が介在してもいない、ただただ虚無な大地に立っていた。隆起も
せる無機物。彼はため息をついた。
だが、歩いている最中考える。このまま成果を得られなかったらど
の塔を登りました。で、何もなかったのです、疲れました。愚かな
がない。過去も未来もそこには存在していなく、現在だけに直立して
まで延々と広がる世界。何も思い出せない。そもそも記憶というもの
うなるのであろうか、酷く惨めではないか。土日の余暇の過ごし方は、 なく、岩もなく、粒子がまとわりつくだけの、凪の海のように地平線
休息だ。そもそも登らなければよかったのに。ふと窓をみる、完璧な
文藝 14 | 28
いる。ただただ地面に絡みつく砂が、彼の足にもしがみついているだ
けだった。
起きてみるとまだ夜であった。帰らなきゃいけないと下を見つめる
とぞっとするほど暗い。寝る前までは来た道であったが、今からこの
窓の外の遥かに雲が見える。夜明けが近いみたいで段々と明るくな
っていく。
夜があけて、あの光とやっと出会うのだ。心の中から暖かくなるよ
うな嬉しさがあった。だが一方で途方にくれるような理不尽も感じた。
上は閉鎖されているような色合いだ。もしかすると、もしかするんじ
く闇があった。だが色が違う。下は自然が作り出したほの暗さだが、
歩だったようで、影だけを少しの間、泥に写して、次の風が吹くころ
されたそれは、至って当たり前に影を作った。しかし、それだけが譲
塔にまばゆい朝の光が差し込む。暗がりの中から表へと引きずり出
自然と顔が歪んでいった。
ゃないか。気付いていないだけで終わりが近いのかもしれないと思っ
には世界から友人はいなくなっていた。
闇は行く道である。おぞましさに耐えかねて上を何気なく見た。同じ
た。壁に触りながら鉄階段を上っていく。
最後の窓があった。それは天窓であった。ようやく行き止まりに
り着いたのだ。ガラスを開けて頂上に顔を出そうとする。だが錠前は
こちら側にあるのに、開けられない。立て付けが悪いのかもしれない
と、淡い闇の中で粘る。
の塔で、
り着けない。座り込んで考える。もう帰ったほうがいいので
数十分試行錯誤して精神的に疲れてきた。すぐ目の前に終わりがあ
るのに
はないか、窓を開けることに固執する意味などない。この
警察より研究者よりも先に一定の成果を上げられたことが重要なのだ。
ボールペンを取り出した。自分の名前を書こうとしたのだ。惨めな
意識に苛まれた愚かな所作であった。窓枠に、ペンの先を当てる。
瞬間、うなり声が聞こえた。下から振動が聞こえる。それは段々と
あたりに伝染していく。そして地鳴りのような叫びと共に、勢いよく
上に向けて風が吹きぬけていく。閉じたまぶたをこじあけるほどの力
をくらい、ボールペンが手からはじけ飛ぶ。そのまま風は、閉じたガ
ラス窓を通りぬけて空へと戻っていった。
29 |砂塔の残滓
学科賞受賞作品
sameko
柳山慶介
誕生
産声。二、三の崩れたテトラポットが、よく見ると妹だ。淡水の海
は、うつむいている。蜘蛛の巣を。ここで止まれ。にらみ合うための
止まれ。より多い方が深緑。不在。すでにポリゴン、手中に粉のよう
な妹だ。握りしめると爪が青い。今はまだ鳥じゃない。一切の立ち上
がりが、むしろ推奨される。人。そろそろ土が終わり、裸足が終わり、
弾まれる。ただし触れることを極端に嫌う。あらゆる動作には丘が必
要だ。隠す。陽当りのよい場所は、間違いなく妹だ。殴打の季節を発
見した。秘めやかなショウリョウバッタ。この頃はへその緒を思い出
す。葉に嚙まれることに驚く。人。あわよくば踏み固める。梟に雌が
いることを知る。この闇は思考するべく漂っている。月を。木々が細
く、細く、細く。背負うものはすべてがざらついた、見ず知らずの妹
だ。ここで本を手に取る。絹が何であるかが問題だ。ああ、僕とは。
妹とは。シロツメクサの乾燥。黒い煙。使用されたかされていないか
は重要ではない、積み上げられている。知識を与えてくれるもの、可
哀想だと笑う妹だ。君たちが薄っぺらだと馬鹿にするものの上でしか、
おしゃべりできないことと同じだ。初夏には垂直に。どうも僕が溶け
ている。一本の糸をつくるためのまな板たち。ヒョウモントカゲモド
キが秘密にしている。剝げる大河。フィクションの勝利を憎む。砂場
の集合方法が優れていそうだ。人。平等な風が改行を妨げる。冬が啼
く。放っておけば僕が遠くへ出かけてしまう。少しばかりの妹だ。や
や難解にタンポポの咲き。右曲がりのスピーカーが、不意にへりくだ
ってきた。苦い傘はよく飛ぶ。受け取り。太陽が裏切るとしたら。僕
より先に、僕になろうとしたヤモリがいる。教えてもくれない妹だ。
かしましい紅。明滅の昇降の静動のあれは岩、じゃない。人。人。誤
文藝 14 | 30
前頭葉。
植と呼ぶ不真実。触れられないはずの妹だ。地名を挙げるとするなら、
拾え!
傷をつけようとも拾え
苔全て死滅せしとも拾え、拾え!
人、拾え!
小石拾えよ、コスモスのふもとで
拾え、小石拾え、無我夢中に拾え、たゆたうとき拾え、
紅色の
苔生した
磨かれた
いる
花弁を揺らして
コスモスが
途方もなく大きな
頭上では
空から降ってくる
小石が
苔生した
磨かれた
綺麗に
花弁を揺らして
コスモスが
すべからく拾え、人恋し
もしかしたら拾え、お母さん小石拾え、
早急に拾え、用心棒小石拾え、
年中無休拾え、あばずれ小石拾え、
小石拾えよ、コスモスのふもとで
摩訶不思議拾え、弘法も拾え、土地柄に似合わず拾え、
慌てふためき拾え、あわよくば拾え、満員御礼にて拾え、
またしても拾え、食い気味に拾え、しかしながら拾え、
臓物まみれて拾え、新旧問わず拾え、西南西を見て拾え、
闇雲に拾え、迷わずに拾え、訝しげに拾え、
血みどろ小石拾え、ガス充満小石拾え、
緑の小石拾え、焦げた小石拾え、
まんざらでもなく拾え、小石の上にも三年拾え、
碧色の
いる
飛来する小石、秋桜より、応答せよ人間
小石が降ってくる
さあ拾え
浅知恵のふところへ
拾え、小石拾え!
伸びすぎた爪が
31 | sameko
さみしい街
僕の
カフェインが遠くへ
出掛けて
みんなの
蛙が一斉に
鳴き出した
鋭くて痛い
ものはないし
意味ありげな
粥
建設反対である!
街には
さみしい
三丁目の夜に
鈴鳴りません
レンドルミンを服用する、とてもシンプルな方法だ、瞬間、とまで
正直者を爆破する
雨が
凶暴だ
食べたがったよ
河童も
いないなんて!
たはずが、夏虫に食われた痒みが、腕から、足から、腕が、足が、剝
は言わないが、確かに自分から離れていくのを感じる、汗をかいてい
食堂の女王に
離されていく、それは、飛散していくような、いや、爆散していくよ
ぼろきれが風雨になびき胞子を散布させるような、根深い悪事を抱え
うな、ただの分離とは異なる、悲惨とも無残とも思えぬ、使い古しの
苦しめられる
星ほど
文藝 14 | 32
て、なおかつ忘却を伴い、ディスプレイの光こそ自分を奮い立たせる
ら、たまには迎え入れる勇気も必要だ。
しれないが、いずれにせよ僕の部屋には、頻繁にごぁも訪れるのだか
このに、君がいないからなのか。
でいたあいつらは、相変わらず下手くそだ。
した僕の目には、痛々しいしか見えないし、かつてとぅきゅんと呼ん
君が機嫌を悪くして、どこかへ行ってしまってから、まぶたをなく
嬉しそうに歌ってもくれた。
くぉっに触れた。くぉっに何度も何度も。君は優しくしてくれたし、
い隠す。
言う。僕は黙っている。君にまぶたを捧げる。君は僕の目をそっと覆
なぜ目をつむらないのか、と君は言う。ぶばぼおぃおうぶのように
最もな要因だと、深夜が女のためにあるなら、男でいい、だがこのま
ま女を受け入れるように、男を享受せねばならぬのだ、無音の新月が
人差し指をもぎ取っていき、歓声の中へ放り込むと、屍がむくり起き
上がり、
これが果たして最短のルートか、いつでも確認せねばならない事情
は、そのうち続く語が、お汲み取りくださいとて、舞い戻る汗臭さが
ベゴニアに似て、めりこんだ海馬に、吸い物を与えよう、卑怯な真似
はしないから、せめても安らかな眠りをば、
その、
ミミズクばかりが、
僕にこだまする
かくれんぼ
のまま午前三時の僕から去ってしまった。特に、夜のくぁくぃっはよ
途端に僕は
ホームに放り出されると
多弁な幽霊ども
く響くから、ぬぎゃなああもを逆撫でしないようにするのは大変だし、
肉塊だ
窓の向こうから急にやってきたぼあああううに君は飛び乗って、そ
君が、詩人の呼吸を嫌うことにもうなずける。とぅきゅんたちが電線
を支配する。今朝はなかなかどうして下手くそだ。
本日はご来店まことにありがとうございこの電車は播州赤穂行き終
っております安いよ安いよ信号が青に七月十五日は大変混み合ってお
っとぁに時折惑わされる。玄関先で待ち構えているような気がする。 日禁煙となっており皆様のご協力スペシャルプライスでのご提供とな
もしかしたら二年前に新聞の勧誘に来たっとぁすと間違えているかも
33 | sameko
家屋に侵入した蠅を捕食するのだ。本能に従った行動。
︵人間は、彼らが素早く蠅を捕まえる姿を鷹に例え、彼らを︽座敷
りますので足元に注意して滑りやすくなっております献血に五パーセ
ントオフ車が通りますで買おうタイムセール中ですので是非ご覧にな
鷹︾とも呼んだ。互いに持ち寄った座敷鷹に、羽をもいだ虫を与え狩
った。
︶
僕の部屋から、
アダンソンハエトリが
そっととび降りた。
捨てたいもの
雨が降る。
さえずりに身を起こせば
それは傘の軋みで、
なおも強くなる雨足に、
ただ
わたしの手によって
どれもこれも、
為すすべもなく
打たれていた。
わたしだらけの街に
い目を楽しませる遊戯となって広まり、そしてすぐさま忘れられてい
は高値で取引される。いつしか彼らの名は、人間のたった二つしかな
りをさせ、先に捕食した方が勝ちという遊びが流行する。強い座敷鷹
って
ぱーんぽーん
次は西明石、西明石です
今すぐ君を抱きしめたい
座敷鷹、向こうへとんでった
︵アダンソンハエトリの物語である。
︶
彼は窓の隙間から部屋へと入ってきた。
何食わぬ顔して、何か食うために
人家の壁を縦横無尽に
い回り、
静かな寄生を始める。
︵ し か し、 寄 生 と は 宿 主 が 一 定 期 間 は っ き り し た 不 利 益 を 被 る と い
う点を定義に含むということを知れば、人間は︶
おおよそ身勝手な生き物である。その身勝手さたるや
︵益虫と分類しながら一方で不快害虫と呼ぶ。彼は文句も言わずに︶
文藝 14 | 34
け
開かれている、
びだらけの
わたし。
わたし。
恋
わ
わたし。
何も産まない手 わたし。
わたし。
たし。
わた
し。
わたし。
偏頭痛
わたし。
生殖器 わたし。
わたし。
毛
わたし。 わたし。
わたし。
巻き爪 わたし。
わたし。
わたし。
非協力的な脚 わたし。
わたし。
わたし。
※
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
近眼
わたし。
わたし。
眠れない夜
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
明日
わたし。
わたし。 情
35 | sameko
わたし
わた
わ
。
し。
たし。 先天性と推測されるもの
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
肩腕手 腿膝脛足
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。 明
るい部屋
顔首胸胴腰股 肩腕手 腿膝脛足
つまずき
立ち尽くし
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
身の程知らず
︵わたし︶
好きなこと
ぜんぶ
嫌い
わたし。
わたし。
文藝 14 | 36
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
どこまでも続いている道 わたし。
わたし。
わた
し。
わ
たし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし
わた
わ
今
。
し。
たし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
37 | sameko
わたし。
時を止める方法を
夜の散歩
君は知っているという
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
わたし。
ど、小さな影を植えてみる。そうすると空腹が滑り降りてくる。我が
時間は横たえている。正午はとっくに帰宅を始めていたので、七つほ
洗顔し、着替え、靴を履き、ドアを開け放つ、を三度、少なくとも五
きむしった。背伸びをしたのが噓のようで、まことしやかに歯を磨き、
めが通り過ぎると、脆さに打ちひしがれながら十二秒は確かに頭をか
それは七時五十四分に起床した日のことだった。あからさまに目覚
わたし。
わたし。
わたし。
物顔だ。胸を貫通し西へと流れていくから、涙。昔から変わらないの
わたし。
わたし。
なぜなら
決して行為しないだろう
時を止める方法を
そして君は
は、奇跡がわざと一日を終えて、意識に蓋をしてしまうこと。
わたしからこぼれる
わたしからこぼれるものみんな
わたしからこぼれるものみん
なまとめて
愛
さなければ
いいのに
静かに微笑むのだ
その名を囁きながら
文藝 14 | 38
心配する
息を潜めて
スピーカーの振動
迫害
どうやら言語がちがうので
よりも劣悪な
呪う
反抗的な世界は
取られてしまうかもしれない
最も近い心拍に気を
不確かな
視認しようとする時に
電磁の波を
ぼくはくびをかしげられ
形而上の浴槽︵仮︶
︵ ︶
自分が犬に
なってしまった時のことを
︵ ︶
けれど
いつものように
心配する
犬になってしまったら
まっすぐに見ている
九月二十一日に
ピエロさん讃歌
湯船に眼鏡を落とした時に
潜って口で
拾わなければならない
取りこぼしてしまうかもしれない
水の中で安らかに
膝を抱えて
蟬が
たゆたうこともできない
眠ることもできない
鳴き始めるよ
いつか
ピエロさんも
うようよ
犬になってしまったら
︵
︶
自分が居なく
なってしまう時のことを
39 | sameko
苦手だし
お手玉も
僕は
なりたいね
ように
うようよの
鳴くのだろうよ
ピエロさん
するよ
丸裸に
僕を
度に
崩れますの
プラスチックが
森が
持っていないし
僕は
バイオテクノロジーも
うねうねの
たかるようね
蠅も
恋の歌い方を
十二月の歩き方や
まだ知らない
僕が
君は
朝の霧に溶けた
底冷えのするキスを残して
君想えば
徒党を
組もうよ
うようよで
平らな
ピエロさんの
非生産的な
教えてもくれないで
唇に
僕は
する
わらっている
夕陽の前で
倍々ゲームを
資格が
ないようだよ
うようよの
文藝 14 | 40
rでもgでもbでもなく
まるでyのようです
座標だけを死守している
代入されることを怖れて
選ばなければならないのですが
青か赤かを
穴へ転げ落ちる雑多な僕は
爪弾かれ
君に会いたいです
踏み損ねた十四歳を取り返すべく
王様が怒ります
カロムには不要なので
夜の焦燥を内包する黄色信号は
煙ふかしながら
刃物突き立てます
もちろん慰み者にもなれないので
お股開き遊ばせ
低俗極まりないわと逃げうって
そうしてご婦人方は
高麗人参はいかがでしょうか
皆々様カメラのご用意を
通用しませんから
腹切りのハートフルが
心臓捧げよの文化で
刃物投げつけます
立食パーティーでは
エンターテイナーになれないので
フェイク
垢まみれのyです
べろんべろんでございますを宣言
カロムナイト
一やⅣや9が
※
悲しいね
お腰振り遊ばせ
騙されはしませんわと
かこーんと
夜の焦燥が
ぴぎゃあぴぎゃあと頭叩きつけます
憤る雌豚の群れが
気持ちの良い音が鳴る頃
王様を穴に突き落とします
門限はとうに過ぎたか
帰る家がありませんのよに
41 | sameko
糞食らいやがりませの
ミミズ腫れ施して
高級マットレスがぼろぼろになるまで
お尻突き出し遊ばせ
こんな夜は
一時停止しとこ
知らん間に煙ふかしてるし
荒れた胃へ雪崩れ込んだん
カーテンが大きく膨らんで
きょうび、ときたら
らしいんで
﹁否定的なニュアンスを伴う場合も多いです﹂
ようわからんからググって
辞書ひいて
パトランプ点灯しますし
鍵返して
雌豚お帰り遊ばせ
乏しいね
そして嘔吐す
なんて言お
考えてたら
ちょっとわくわくする
言うてる間に雨降るし
鼻先をくすぐったん
カーテンが大きく膨らんで
それでも足らんのか
三度も書かんといかんのか
破綻しているよ
破綻しているよ
破綻しているよ
エレキギター買いに行こ
発語が容易くなって
今日日、⋮⋮僕なんか死ね
こんな日は
人間を演じながら
人間を演じながら
今日日、人間ですか
人間ですか
それとも
発話の困難なこと
二度も書かなければ
解消されないほどに
文藝 14 | 42
再生ボタン押す
離脱したいし
水溜りに溶けた犬の糞が
あったとしても
だったら
キャストは僕だけだ
ずぶ濡れギターを
なんやねん
みんな踏んでたし
つないだらアンプもイカれたし
より多くの音を求めて
ので
ぶっ飛んでいる︵ふりをしている︶
今日日、息してんの
しっくりくる
のが懐かしいくらいに
わくわくしてた
演者は初めから
六弦ぜんぶ鳴らします
アホくさ
誤インポート、語エクスポート
苦しめます
カーテンが大きく膨らんで
黒目がきゅっと小さなる
和音なんかあるわけないし
書き終えてから
TPOをわきまえる
青ざめるから見ず知らず
らしいと
﹁転﹂を忘れていた
やる気なくすこともある
︶スピーディーに
べく︵ error404
認めて!正面出入り口へ
雨ん中ギター担いで
家路︵仮︶に土砂降り
︶共有して
駆け込んだら︵ #running
恐怖の生存者、二万二千人が行き交う!
︶ふたたび走れば
を激写︵ sending...
鋭く滑り込むよ
の
みんな笑ってたし
人間鮨詰めの箱箱箱箱箱箱箱箱の八両編成の
ど真ん中で
僕は早よ
43 | sameko
ロックスター︵
アルミニウムより
︶がかき鳴らす
good!
パレットワールド
僕が白れたとき、
そのうち熱を帯びた白の赤、
貧乏ゆすりが気になって
︶
︵ not found
ポケットに湿った
やがて瑞々しい黒と溶けて消えそうな黄が、
爽快な青、
紙片を入れていたの
見ていた。
その頃は薄紅れるように、
︶素早く
loading...
抜けるの
僕は深い緑と記憶している。
やっぱり︵
ぬるい風あてられている!
売買における基本交渉術がモヒートで
︶
振動す︵ you've got a mail.
なんにしましょうか及び
いつも橙る場所はそのうち冷たくなっていく。
僕は生臭い赤と白と黒の間、
気付いた時には、
紙片なきポケット
︶びれましたが
待ちくた︵ !important
うなだれています似ている?
僕の住む漠然とした黒はおとなしい。
暫定、緋。
とかく身体を震わせる紺に悶えた。
皆が紫しい。
斜度も許容範囲内です
タップタップフリックフリックタップを
暫定、緋の僕がいる。
ものねランダムで避けるゲーム
碁盤の目︵!︶になっている都会︵?︶で
︶の電源切れ
new!
歩行しているのです︵ ︶
lolを
常時コンピューティング出来ないし
スマホ︵↑
ハローの末路
二歳のときに
彦根城へ家族で出かけた
文藝 14 | 44
孤独なハローを救えない
無知なハッピーボーイは
天守閣で宙ぶらりん
不幸せなハローが
耳にすることはなくて
僕は一度も
はずだったのに
ハローを知っている
誰も彼もが
ハッピーボーイはハローを知った
何年か経って
そこにハローはいなかった
と言った
オー、ケイチャン、ハッピーボーイ
外国人観光客がいて
けいちゃん、と母が僕を呼んだ
歌をうたっていた
僕は大きな声で
い、ことを、知って。しまっ
合えな
。溶け、
コールの海に飛び込んで
、しまうのですか。アル
消えて
こから。音になって
君はど
る。
首を傾げ続け
。
るのです
廃棄しそうに。なってい
出して、
り
ず
き
ら。引
たのです。慰めて。欲し
くて
、
頭を振
。
ろ
そろそ
り続ける
惨め、を押し殺して。何とな
うた
。僕をそこか
45 | sameko
喉を通
。苦い木の実は。
く口に運ぶ
ここにいる者はすべて、
子供も老人も、
男も女も
収容されている
それだけでなく、
野暮ったい服を着せられている。
麻でできたような
焦げ茶色の
らない。
終わらない、歌を聴き続ける。
聞き続ける。
みな一様に
のろまになってしまって、
緩慢な歩みは
気に牧草を食む
高い天井とケルト音楽が
矢印で進む方向を案内している。
歩く。看板があり
板張りの冷たい床を
よく磨かれた
ワックスがけされ
紛れもない事実であった。
アイデンティティーであることは
ただひとつ僕の
機械的に割り振られた番号が、
手首にタグをつけられた。
移動を始める。僕だけが
粗末な布切れだけを持って
男ばかりだ。嬉々として裸になって
入っていない。見回すと
同じ番号のロッカーには、何も
自分に割り振られたのと
おぞましい。
ぼんやり見つめている瞳も
真白い壁を
大部屋に入っていく姿も、
ぞろぞろと
矢印に従って
家畜を彷彿とさせる。
意識の底を
取り残され、新たに
真昼のサナトリウムで
ほころばせようとする。
文藝 14 | 46
誰も見ていないうちに袖を通し、腰の紐を締め、
むしり取るように、ロッカーから焦げ茶色の衣服をつかみ、
もと来た順路を引き返した。ぬめる床を足早に戻る。
僕は
どこかへと誘っている。
矢印はまた別の
湿り気を拭っていく。
開く。外気が滑り込んできて、肌の
近づいて、ゆっくり
横切る。扉がある。恐る恐る
子供らが僕の前を
体を起こす。ぺたぺたと
中年の男が沈めていた
ざばあと
体毛を逆立たせる。むくりと
においが僕の
床の上、ざらつく
ようにむせ返る水蒸気の中、ぬるりとした
心臓がきゅっと詰まる
脱いだ。
身につけていたものをすべて
思えてきて、僕は
脅迫されているように
そうしなければいけないと
怪訝な面持ちで睨まれる。まるで
やってきた男らに
白い
ぞろぞろと入っていく。眺めていると途端、
隣の薄暗い部屋へ
大部屋にいた者が各々、
甘んじて受け入れている。
機械的なアイデンティティーを
薄ら笑いを浮かべながら、アラビア数字の
裸にさせられ、喜ぶわけでもなく、
衣服を着せられ、催眠のように
患者らは同じ
僕だけだ。のろまな
気づいているのは
管理されている。それに
手にしている。僕らは
タグの情報を読み取る端末を
つけられていて、三角巾の女は
ビニールのタグが手首に
手渡している。老人にもやはり
女が、老人に缶ビールを
仕切られた向こう側では、三角巾をした
そこに集められている。ガラス戸で
のろのろとした動きで
寝転がっている者、本を読む者、相変わらず
涼しい大部屋にたどり着く。
一面に畳の敷かれた
裸足のまま、躍り出るような格好になって、
47 | sameko
手に腕を
つかまれて引っ張られる。
落下する妹
時、再び僕の
逃げ出そうとした
ならないのだろうか。立ち上がって
場所にいなくては
どうしてこんな
じっと待っている。ああ、
蒸し焼きにされるのを
身じろぎもせずに佇んで、
いく。患者らは
水分を失って
瞳が焦げるように
においで、
やはりざらつく
きかける刹那またしても妹の変身は失敗して歪なリアス式海岸の妹は
んで見守っている最中かなり疲労が溜まってきている妹に再び息を吹
のを止めなければ妹が肥大化してしまうよと全世界の人々が固唾を
らインターネットが妹の支配下におかれていて次々に吸収されていく
思のもと妹退治に出かけたらベッドがきしみながら追いかけてくるか
で千枚通しでピアスをあけちゃうのでここは慌てふためこうという意
識だし生前葬が一般化したら妹の親知らずをくださいと頭を下げた先
ずれ結ばれることを夢見ているのだとしても遊んであげないのは非常
み砕き耳の穴かっぽじっても聞かないような妹がそこそこの男前とい
上を歩いているのでいつか女々しいと言われた日を思い出して氷を嚙
る風呂場でなお小便をする人がいた気がするのにやっぱり妹は電線の
生の小競り合いみたいに不毛な背伸びも妹に似ていて糞が転がってい
マを燃やしたあとの少し切ない感覚にほど近く視力検査を控えた小学
の足の裏を舐めたりするときにそれはもう妹ではなく着古したパジャ
髪の毛を主食としてもぞもぞとは動かないがたまにうねっている妹
腕をつかむ
先天性のアルコール中毒かもしれないらしくその旨を公にすると関東
熱を帯びた空気は
白い
平野は緊急招集された妹で埋め尽くされ一時は平穏だった妹事情はタ
膠着状態が続くのでキックオフ直後はもちろん妹だらけのスタジアム
ンスにしまわれた制服が虫に食われていると知ってまさに妹まみれで
手があった。
僕は汗をかく。
に舞い上がる星の綺麗なことこの上なく財布から妹そしてエコバッグ
から妹を出すとポイントがつきますから是非ご利用くださいとのチラ
シが妹の手で配られるとき久しぶりの外食がとても美味しいのはそこ
に妹の指があって踵があって妹三昧で若鶏と妹のグリルがイチオシと
いうレストラン側の経営戦術は妹に見透かされて雨に溶ける妹かすか
文藝 14 | 48
モニクスは光の速さで妹へ直撃する妹が石頭である理由もウェブで公
しさに感服しひれ伏し蹄鉄はめた妹のセンター抜擢とピッキングハー
一位の妹から投げかけられると火星人までもが目玉をひん剝いて妹ら
に息をする妹そのための妹をどこから調達しますかという質問が世界
て飛び降りたのだ
ども当の妹はそれはさておいて妹はどこにもいないのですと言い残し
認識しすべての宇宙は妹が回しているのだよと兄はふんぞり返るけれ
ないのでがっかりしつつ螺旋状の妹にとってはちっぽけな問題だと再
で形成された軍隊の恐ろしさを知るとしてもそのための妹は名乗り出
脳が流れ出す
刺
目
尾
根
不在
痛
開中ならすぐさま遥かな宇宙への旅も怖くない妹へエールを送るため
には数珠つなぎの妹が好ましいとは地上波初登場の妹によるコメント
が反響を呼びサーバーダウンするほど妹が れ返るこの街では信号す
ら瞬きをやめるので妹が処方されると星降る夜には隣に妹を雪降る冬
には湯たんぽを用意するようになって妹棚田ができあがったご時世に
猫の額も雀の涙も妹によってもたらされすべて唐揚げになる頃の六角
形な妹が振り回す三節棍はあらゆる塔を倒壊させ七〇〇系妹が時速
三〇〇キロメートルを超えるまで射出され続けるタイムパラドックス
は人類の絶対数を減少させ妹だけの王国をつくり上げるとともに希少
な妹が絶滅してしまうのを防ぐためには乾燥した妹の切れ端が必ずと
言っていいほど余ることは誰も望んでいないので生存競争を繰り広げ
た妹の貞操観念が危ぶまれた紀元前は読ませる気がない書物ばかりが
積み上げられては崩される妹輪廻は断ち切れないと知って背もたれの
折れた椅子に座する妹が足をぷらぷらさせるのは柿の種をほおばる無
邪気さで立ち居振る舞いに定評のある妹ですら回避できない大文字焼
に包まれ山を越え海を越え妹を越え全米まで届き感動の嵐
きが開催されると暗雲立ち込める空にひとすじの妹が射し込み会場中
が拍手喝
つく妹を巻き込みきらめく流星群になって妹らしからぬ前
が妹となって地上を離れ大気を駆け抜け地球から飛び出し衛星を巻き
込み月で
髪ぱっつんが想像を搔き立てるという事実は覆しがたくおもむろに発
せられた妹によるラジオ放送が国家間の争いを招いても慌てることな
い妹が草花のように笑いかけただけで平和になることを思うと妹のみ
49 | sameko
射
目
汗
肩
血
轢かれ干からび光らせヤモリだ
帰り道は住宅街の真ん中を通る、ほぼ経験済みの白い塀とアスファ
ルトに転がる犬の糞が、真夏に焦がされていたので、僕はどうやら半
袖を着ている。
一方通行を示す道路標識、根元が少しひしゃげて、ところどころに
茶色い筋が模様をつくっているのは、背中に感じるぬるい風が、ちょ
っと待って、耳の痛むような棘で搔き回されるような
足先から、わたしがなくなっていく
僕は残り湯の垢を掬うたびに、目の前が明滅し、
胃袋が口から飛び出した
根っこをつかんで射出させた
違った小学生らが、自転車が、買い物袋をぶら下げた女が、足元も見
ルトに転がる犬の糞、糞、糞、真夏に焦がされろ。たかるな蠅、すれ
帰り道は住宅街の真ん中を通る、ほぼ経験済みの白い塀とアスファ
汗ばむ夜に
ず。焦げろ焦げろ焦げろ、そこにある、アスファルトにこびりつく、
充血した目が刺されたように痛むのは
君の尾がするりと逃げ出したことを
白い、雨が降ればきっと流れてしまう、君らがゴミクズと呼称するそ
ろ、生えろ角! カスカスのヤモリがこちらを見ている。許すな、許
すな、お前らの罪を決して許すな。焦げ、焦げろ!
糞よ焦げろ、生えろ角! 光、光の塀、飛び越えろ、飛べ! 生え
れを見ろ。生えろ角! 轢かれ干からび、伸びきってそれっぽい形を
残しながら、鳥にすら見失われた哀れなヤモリだ!
思い出したから
涙
文藝 14 | 50
人が撥ねられた。若い男だ。
冷めた胃袋で、僕は見ていた。
のわけを
夢の中で既視感
のわけを
布団の中が生ぬるい
のわけを
オカアサンというメスが、ムスコというオスを産みます
のわけを
夢に君が現れたよ
こちらを見つめる目がふたつほど
のわけを
先生、バナナはおやつに入りますか
のわけを
無難に木工用ボンド
のわけを
酒が入るとよくしゃべる
のわけを
うちの猫は頭がいいんですよ
のわけを
咀嚼を繰り返す
のわけを
今日の夕食が他人丼
のわけを
x=解なし
のわけを
人類の起源は何万年も前にさかのぼります
のわけを
手紙
のわけを
真昼間からへべれけ
のわけを
こちらの窓口ではお取引できません
のわけを
東京特許許可局なんてないんだよ
のわけを
頭ふろうぜ
のわけを
カイピリーニャで
のわけを
自然治癒能力が備わっています
のわけを
のわけを
射精
かいなしのかい
あそこの倉庫は潰れてしまった
51 | sameko
のわけを
道路交通法違反の疑いで逮捕
のわけを
誰も知らないくせに
しあわせのメソッド
三足歩行の幸福
を
右目
眠りを妨げるのは、いつでも自分自身だ。
詩が迫る
右手
薄暗い独房にわたしを閉じ込める。筆を取らせる。紙がない。虚空
に吐き出された言葉がとぐろを巻いている。わたしを飲み込もうと隙
を窺っている。
詩が迫る
紫の海を見て、にやりと笑う。
左足
そして三足歩行が
完成する
海馬
満ちる
泡立っている。
肺
等間隔に設置された、コンクリート製の柱は見上げるほど背が高く、
黒いビニールの太い線を何本も張り巡らせ、空を捕縛している。意思
もなく風に揺られている。弾けるように縦に横にたわんでいる様子を
眺めていると、本当は空ではなくわたしを捕まえているのだと気付く。
戦慄する、その瞬間にも
左
左目
文藝 14 | 52
手
詩が迫る
胃
右耳
遺書
君が生まれたとき、
いろんなものを取り繕いながら僕は
手を振った。
そのことを悔やまずには
いられまい、なぜなら
いずれ君と出会う時、僕は確かに
僕が
そして草原が
三足歩行は思ったよりも
快適で愉快で
風によって、風が
僕によって、僕が
君によって、君が
海によって、海が
よだれが出るほどに
右目、右手、左足がわたしを運んでゆく。
死が迫る
気付けば
農道は切れ切れに、もう少しで
孤独にたどり着いたというのに、
充足感を得る
詩によって
やはり僕は
迦陵頻伽、それか
とじる
死の間際になって歩みを止める。
間違いなく目薬の
馬上の
こうもり傘が僕を許さない。それだけで
君の姿が見え隠れする、
53 | sameko
叶わないというのに。
抱きしめることも
運んでくる。生きるための呼吸は
脆さの象徴となったビル群から、刺々しい綿毛を
吹き荒ぶ風が、
思い出す。この冬が終われば、また
タンポポが咲いていた、春を
歩行は踵を砕く。人知れず
鼻や喉を焼いていく。進むための
それでも僕が
能動を断ち切った時、
君は微笑んでくれますか。
咲くだろうか。
暫く歩いて、坂を
登り切って、その
向こうには畑が広がっている。刃ばかりの
正面から吹きつける。眼鏡を
世界を廻していた。冷たい風が
覆われた空が、ゆっくりと
外に出ると、薄い雲で
斜に伸びている。長く
部位は、十二月の曇り空に向かって
刀身、ブレード、切り刻むための構造を持つ
しっかりと植わっていて、
手に持つための部位は地面に
畑だ。柄、ハンドル、つまり人が
外して真っ二つに
手入れされていない畑は、
君に逢いに行く
折った。すべて灰色の
東へと流れていく。
傷つける。十二月十四日の風は
舞い上がる粉塵が瞳を
一歩踏み出す度に
判断するのに、時間は
うねる様を探す。見つからないと
腕があって、冷たい息を吐く。カナヘビの尻尾が
搔きわける度に削げていく
びっしりと蔓延っている。
びながらも確かに成長を続け、農道に
抗うように西へ
かからない。一気に刃物畑を
世界だ。歩き出す。
行く。
抜け出ていく。
文藝 14 | 54
酸性の雨は山を
十二月はとうに過ぎてしまっている。暗雲と海面との間に
濃硫酸の海だ。いつの間にか
想定する。生物の還るべき
削りながら下りながら蛇行しながら川になって、かつての
あるのは、君に
現す。白、灰、黒、紫、青の
足も
腕も
希望だ。
いに行くための最後の
国道を裂いていた。ごうごうと
唸ればコンクリートは崩れ去り、しなるように
たわむようにびたりびたりと、この地を う
蛇が渦状に
背も
蛇が際限なく姿を
一斉に目の前に現れては流れて
腹も
鼻も
消えていく。渡らなければ。他の種と
訣別するための脚が
眼も
首も
つかまれる。粘り気のある泥が
その表皮がさんざめく。水底に足首を
逃がすまいと
君に
頭も
耳も
まとわりつく釘が打ち込まれる。汚水を
飲み込む消化器は忠実な反応を
示すなおかつ寒水が抗うための気管を
凍りつかせる。赤い蛇が迷い込み
すうっと濁流に
うのに何一つとして
吐き出す。暗い空しか
生臭い黒いものを
うずめて眠る、ような
溶けていく小腸に顔を
ことはない。
吸い込まれていく。
見当たらない、重くもあり軽くもある現在地を
ことすら不必要だ。
役に立つ
海と
55 | sameko
虚構に生き埋めにされた
芸術家たちの
君に
いたくて、君に
醜い手足を
鮫子
どうしてわかったふりをするの
独り歩きするノスタルジーを
のに
故郷などない
もう誰にも
はずだったのに
愛してくれる
いに行く。
ノスタルジーの不在
ノスタルジーが見つからない
あちこち探してみるけれど
画家の集いは
さほど悲しくないので息が詰まる
余計に惨めだし
オーケストラが奏でる
本物の音は完璧すぎて楽しいし
僕に言葉が生えた。
詩人を名乗ってみることが
僕の目はまだ開いていなくて、
いくつかは隠されてしまった。
頭を抱えるよ
何の解決にもならないなんて
耳は柔らかく、
いくつかはむしり取られて、
生まれたことを呪うしかないよ
だってノスタルジーが
足で立つことを覚えて、
手は持て余していた。
口はものを食べるだけの器官で、
追いかけてこない
文藝 14 | 56
大人たちが時々、刈り取った。
みるみる大きくなる言葉を
生えた言葉を手に入れた。
僕は僕が生まれたときのことを知っている鮫子のことを知っている
知っているのだろう。
どうして鮫子は僕が生まれたときのことを知らない僕のことを
事実として鮫子が、
驚き、慄き、刈り取ろうとしたとき、
が生えた。
鮫子
さざ波が砂をさらっていく浜辺で
と思っていた頃に、
僕だ。
歪な言葉が
ちぎって、足してを繰り返した
自由だった。なんでもできた。
有限の言葉の中で、いつでも
ひとり遊びが得意な僕は、
なかった。
新しく生えてくる言葉は
けれどもう
心臓を震わせた。
常温で凍る言葉は
いちいち脳を焦がした。
可燃性の言葉は
接ぎ木のように施す者もいた。
べたつく。西陽の射す
伸びた髭が潮風で
街が遠ざかる。腹が減る。
僕から
鮫子のような気がして
と願う。それが
抱いていたい
大地のうねりをずっと
砂をさらっていくときのしなやかな
海を尊いと思う。さざ波が
鮫子を知って、海を尊いと思う。見たこともない
実は他の誰かにも生えているのではと思って星を見る。
見たこともない鮫子が
食べ過ぎた胃袋の蠕動が骨に響くように
鮫子として形をなしているような気がして海を見る。
会ったこともない鮫子が
ちりちりと頭が痛むときのように、
僕はますます鮫子にのめり込んだ。
また充足させるなんて。
僕をこれだけ不安にさせ
そもそも鮫子とは何なのか、
けれど、
僕が生まれたときのことを知っている
浜辺からうみねこが飛び立つ。
捨てられるそばから拾い上げては、
のに気付いた。
57 | sameko
髪を切りに
整備された道を行く。
鮫子はそこに立っていた。
今日、鮫子
に会った
よ
、と、
鮫子
に言った
。鮫子
は、
何も言わな
かった。
僕はその
とき、自由
を失ったので
ある。
文藝 14 | 58
学科賞受賞作品
三平の力こぶ
山口 陽
三平には物心ついた時から心の中に持ち歩いている風景がある。
何百という軍勢を前にして、ただひとり立ち向かう豪傑。刀を水平
に構え、足を肩幅まで広げて、鋭く敵を見据える。たいていは命懸け
だ。男の戦いとはそういうものであると三平は信じている。そして、
正義は絶対に負けない。兜の下にはいつも、頰のふっくらした自分自
身の顔がある。
五十九、
六十。
汗が目に滴り落ちる。
三平は人よりよく汗をかく。夏場は傍から見ても暑苦しいが、暑苦
しさは当人が一番感じているので勘弁してやってほしい。人より少し
ではなく、哀しきかな生まれつきのもので
ばかり脂肪が多いのだ。どうして人より脂肪が多いのかと言うと、そ
│
れは日々の怠惰の象徴
ある。脂が身につきやすい。
就寝前の腕立て伏せ、百回。毎日欠かさず行っている日課である。
腕を曲げる。ついでに顔を枕に押し付け汗を拭う。合理的な振る舞
いと三平はその一連の動きを推しているが、拭き取ったところで次か
ら次へと汗が垂れるのであまり意味はない。そんな時、頭の中で大勢
の小人が桶を片手にせっせと走り回っているようすを想像してみたり
する。そんなに水を飲んだ覚えはありませんよと呼びかけてみるが、
小人は聞く耳を持たず白々しく桶を運ぶ。
今度は身体を持ち上げる。
注意していることがある。口を不用意に開けないことだ。喘ぎ声と
いうものを、三平はなんだか卑猥なものだと考えている。寝静まった
徒弟達がごろごろしている徒弟部屋で夜な夜なそんな声を出して、変
59 |三平の力こぶ
1
な誤解をされてはたまらない。そのせいかこの何年かで三平の鼻の穴
せる、そうして初めて彼女は優しく手招きする。
声を聞こうと空想し姿かたちをでっちあげ、躍起になって想像を働か
えているのだ。
あの頃と、性根は何も変わっていないのではなかろうか、未だ己に甘
だからその度ひどく落ち込むことになる。泣きの三平と 笑われた
は、人より少し大きくなった。
七十三、七十四、七十⋮⋮
﹁坊ちゃん﹂
おっといけない。
思われる。粉を塗ったこの世のものと思えぬ肌色の美女が、こっちへ
諭すようで、吉原辺りの美人女将はきっとこんな話し方なのだろうと
本人はいたって真面目だった。羽目を外しすぎて徒弟仲間︵特に茂吉
る。夜中にバタバタと小うるさくなんだか腹の立つ動きでもあったが、
悔恨とともに日課を終えるとき、三平は拳を構え拳闘の真似事をす
百。
おいでと指をひらひらさせている。
だ︶に怒鳴られることもあるけれど、ひとしきり空気を成敗すると満
この辺りになると頭の中から声が聞こえてくることがある。優しく
声はそのうちはっきりしてくる。
その分だけ昨日や一昨日よりも余分な体力を使っているということに
浮かせた姿は芋虫が身体を寄せ上げるのに、非常によく似ているので
最後に力の限り突きを放って、敷布団の上に倒れ込んだ。腰を少し
足した。弱い自分を殴り飛ばした気になるのかもしれない。
なります。お労しいかぎり。この辺りでご中断なさることの、いった
あった。
﹁三平坊ちゃん、あなたは今日早起きでしたね。三十分ほど。ならば
い何がいけませんか。まあ、なんとお暑いお身体でしょう。中津の蒸
﹂
し菓子のようにねっとり汗もおかきになって。ほらほら、坊ちゃん、
│
もうおやすみ
大黒屋の朝は早い。三平の奉公している団子屋である。
突然何かが乗り移ったかのように首を振る。脂でてかった汗が飛び
散る。隣で寝ている茂吉が起きていれば何してんだ汚ねえなあとたし
出来れば両方、最低一つ、なければないで花見もなしとそんな具合だ
団子と云えば今や行楽の主役といっても過言ではない。酒と団子は
りに就いている。鬼も寝ていりゃ怖くないと心の中でほくそ笑んだが、
競争も激しい。皆が皆毎日馬車馬のように走り回らされる。年々創意
った。江戸の中でも大黒屋と云えばそれなりに名の通った屋号である。
女将はすでに消えていた。
徒弟仲間数人で行い、米通しやせいろうなどの器具を用意する。それ
一日はまず早朝の雑務をこなすところから始まる。一通りの掃除を
で現れる始末だった。
工夫が加えられ、近頃では串に刺さない団子というけったいな代物ま
らばそれは、三平が率先して起こしているにほかならないのである。
この手の妄想はそもそも自然に起こることなどない。起こったのな
将を退散させるためだ。
汗を撒き散らしたのは何も茂吉への嫌がらせという訳ではない。女
それが面には決して出ないところはやはり情けない。
なめの言葉が飛んでくるところであったろうが、今は厳めしい顔で眠
2
文藝 14 | 60
からうるち米、もち米、砂糖にきな粉、その他もろもろ
をこねるの
こかに行っているうちにこっそりと手を伸ばす。
つまんでやろうという魂胆である。
だがいざ触れそうになる時、いつも折りよく大旦那が帰ってくる。
える。そこでようやく一段落がつく。
続いては本格的な仕込みに移るのだが、ここで三平ら下っ端徒弟は
慌てて手を引っ込める。わざとらしく鼻唄を歌ったりもする。
﹁黙っ
に必要なものを取り
一旦退散する。手伝えることなど何もなく許されてもいないからだ。
てこねろ!﹂とどっちみち怒られる。しかしこれまで幸か不幸か一度
あくせくと動いているうちに早朝の仕込みが終わる。三平に任され
のであった。
もつまみ食いに成功したことはなく、邪念が明るみに出たこともない
をこねる修行を
代わりに大事な時間が始まる。大旦那の指示の元、
行うのである。
すでに﹁できる﹂徒弟の何人かは幾らかの作業の一端を担っている。
それを尻目になにくそと躍起になった時期もあったが、気合いが空回
た本業はここから始まる。
大黒屋は向島の隅田川の界隈にある。向島とは江戸の向こう側とい
り大量の米粉をひっくり返してしまった。その日大旦那の頭に角のよ
うなものが見えたことをよく覚えている。鋭くはない、丸みを帯びた
う意味である。桜や梅の名所であり、江戸の中心から最も近い郊外の
ろに店を構えたはいいが些か辺鄙な土地故に、方々に手が回らない。
硬そうな角だった。貴重な体験だった。やる気と杜撰さは違い、まず
下っ端徒弟の面々には修行用に少量の米粉が与えられている。ごく
そこで三平の出番である。徒弟の幾人かで行商を行うのだ。人手が少
行楽地としても知られている。地代も安価で立地もいい。そんなとこ
僅か、一つ作るのがやっとという加減である。徒弟ごときの修行に使
ないため一年ほど前に下っ端たちも駆り出されることとなった。記念
はできることをするということを習った。
える余分な米粉はそれぐらいしかない。
とは、それほどおかし
して石碑でも建てたいくらい、三平にとって喜ばしい勤めであった。
天秤棒を担ぎ日本橋へと歩を向ける。
始めてそれなりに日が経つがまだまだ手には馴染まない。いつも何
かが不満なのだろう、掌を広げると些細な反発が見て取れる。形、硬
江戸の朝は鶏と行商人の一声から始まる
な表現ではない。特に行商の中心地日本橋界隈は格別である。長屋に
│
さ、表面の粗、かわいくないやつらである。何度目かに一度、大旦那
たちを見せてみろと脅迫する。なぜか決まって出来の悪い時
沿って入り乱れ行商人が行き来する。野菜や魚はもちろん、納豆、貝、
はその
にお声がかかるのだ。深い皺の刻まれた堅い目は
卵に果ては扇の紙に至るまで、あらゆる品が流れ行く。回る長屋の順
の主張を絶対に見
逃さない。てめえの気持ちが出てるんだと岩みたいなごつい胸を叩く。
路や時間帯は大まかに決まっており、商人たちはそれを暗黙のうちに
も初めはそんな取り決めなど知る由もなくのけものにされ涙を飲んだ
その度いつも律儀に考えるようにしている。いったい何が出ているの
下っ端徒弟は他にはあと二人しかいない。先を越されていく悶々と
が、今となってはいい思い出である。そういう訳で魚売りが来ると九
守っている。だから新参者はしばしば敬遠され爪弾きにされる。三平
した苛立ちは、まな板の上でお澄まし顔で並ぶ団子たちに向けられた
時ごろだなというふうに、時計の役割を果たしていたりもした。
だろう。そしていつも分からない。
りもした。おめえらもかわいくねえ。大旦那が徒弟に檄を飛ばしてど
61 |三平の力こぶ
こで仕方なく農業を営む両親の古馴染みの、今の大旦那の元へやって
来た。
長屋の立ち並ぶ路の入口に立つ。荒々しいお江戸節が飛び交ってい
る。一日の初めはいつもその語勢にひるんでしまう。強弱をつけて押
﹁へい、お姉さん、団子いらねえかい﹂
今日一番目のお客はよく見る顔馴染みのおばさんだった。三平はこ
﹁おばさん毎度あり﹂
﹁じゃあ三ちゃん、一つ貰おうか﹂
ではない。
て伏せをしている理由は何も職人や、それに準ずる力仕事をするため
見せた無礼な態度が元であり、奉公先に執着はなかったからだ。腕立
る。そもそも不平不満の種は自分の身体に対して方々の人がしきりに
そんな紆余曲折も今となってはまあいいかと軽い気持ちで水に流せ
し寄せる江戸っ子の心意気は、あたかも波のようであった。小さな三
平も果敢に渦の中で櫂を振るう。
﹁へい、団子はいらねえかい﹂
扉の隙間から中に向けて声をかける。大概は沈黙かはたまた気怠げ
な返事が返ってくる。いずれも無用という意である。
めげずに進む。
まれ
これは大旦那が日頃から口にする文句
揺られる小舟のようだった幼い頃の時分とは違う。今は波に
│
る側でなく起こす側なのだ
であった。女の子ようによく通る声を懸命に張り上げる。
ままだったからだ。変化というものがなかった。一向に背は伸びぬ腹
に!そう疑いたくもなる。なぜならいたって三平はただの田舎小僧の
が 家 は 遥 か 彼 方 に 淡 く 浮 か ん で い る だ け で あ る。 い っ た い い つ の 間
いつも一瞬だった。昔を思い出そうとしてみても、田舎の懐かしい我
がるだけで何の意味もない。おばさんも気を悪くしてしまうだろう。
いが、悪意のないおばさんにそんなことを言っても
り、気恥かしさも多分に覚えるのである。舐めるんじゃねえと言いた
親しみというものは小僧ッ子として見られているとの証明手形でもあ
その裏をお目付よろしく勘ぐっている自分もいる。つまりおばさんの
の手の人々には気に入られやすい。それが素直に嬉しくもあったが、
は萎まぬ、田んぼの空気は身体中に産毛みたいに纏わりついて離れな
しかし田舎者の常として、粋な江戸っ子口調を使いこなし着流しで町
下総の田舎から奉公に出て四年が経った。振り返ると時が経つのは
い。三角形の坊主頭がやはりどうにも田舎臭い。もちろん客筋もおぼ
娘にちやほやされる光景が、思い描く理想の姿なのだった。
に繰り出した。朝から天秤を担がずに町に出るのは清々しいものだ。
身支度を終え大旦那に一言、ついでに茂吉にも一言添えて江戸の町
その日は実に十五日振りの非番だった。
大黒屋には休日が徒弟の間を巡り巡って何日かに一度やってくる。
の売り上げが下
つかず形よく膨らんだ腹を指して﹁こっちはいくらだい?﹂とからか
う輩も現れる始末だった。売れるものならお売りしたい。
大旦那には口が裂けても云えぬが三平とて好き好んで団子屋の暖簾
をくぐった訳ではない。本来ならば大工の職人へ弟子入りでもして、
それこそ団子をこねるように鍛錬と月日をこねくり回した力こぶを、
え、単身出向
思いのままに振るいたかったものなのだ。しかし世間はそう甘くなか
った。両親はおめえにゃ無理だと哀しそうな顔で口を
いた大工の親方には小僧はいらねえと 笑混じりにあしらわれた。そ
3
文藝 14 | 62
空は雲一つなく夏だというのにやけに涼しい。なんと良い日和であろ
気に見える。これぞ平和、この世に
うか。往来に人がいなければ小躍りでもしてしまいそうだった。通り
過ぎる人の顔もどこか朗らかで
悪事など起こったためしはないのではないか。
そこまで考えていや、これは違った、三平は少し気が滅入った。気
を取り直して鼻唄を歌う。
を伏せている。
目を凝らして立ち止まる。一歩音のする方へ足を向ける。むくむく
と入道雲のような感情がみぞおちの辺から手足の先まで膨らんでいく。
都に上って気付いたもう一つのこと、江戸には喧嘩が絶えない。
喧嘩には必ずやったやられたの関係が生ずる。平たく云えば勝ち負
けである。しかしこういった裏手の道でひっそりと行われる喧嘩は、
得てして数や力が対等でない場合が多い。つまりは私刑、一方的な暴
力へと転ずるのである。そういうものには関わり合いにならぬのが身
道順は昨日の夜のうちに大方決めていた。北から浅草、上野、牛込、
市ヶ谷と渦を巻き、昼頃には日本橋の辺りに り着ければという按配
のためだ。
うことか、あい分かりました、とはならなかった。
ただ、三平は違った。そんな大人の世界の事情を知っても、そうい
である。実に計画的な余暇の過ごし方だと今度は誰に気兼ねなくほく
そ笑む。休日はだいたいにおいて町中を散策することに終始する。な
にせ無給の身である。奉公先などと同様なにかと選べない世の中なの
ん。普通の喧嘩じゃあこうはならない。一方的に誰かが誰かを殴って
打撲音が聞こえてくる。一定の間隔で続いている。どん、どん、ど
歩いていると商人の放つ色良い香りに惹かれることもあったが、羨
いる。加えて音が重なる時もある。どごん。つまりは複数、タチの悪
だ。
むぐらいならと鼻を摘んだ。はやし立てる声があちこちから聞こえて
全身を満たした入道雲はいろいろな形をとった。様々な暴力を描き
い私刑だ。
いるみたいに聞こえた。だから三平はしばらく小屋の前に立っては口
それに立ち向かう己の姿を浮かばせた。戦闘準備。拳を固める。二の
くる。見世物小屋の呼び込みの浮ついた声は金のない自分を挑発して
上を聞き、吟味する振りをして、ふいに興味が失せたように立ち去る
腕に力を入れる。動悸が逸る。
合い輪郭が鮮明になるにつれ胸が締め付けられていく。小さな身体、
ごろつきどもに向けた視線は次第に足元に合わさっていく。焦点が
な輩だ。
見たところ町奴である。江戸に巣食う喧嘩や博打に明け暮れる不良
もあるかのようだった。
休みなく。まるでそれが一生涯極め続けなければならない一大事でで
た場所があった。三人の男が小さな塊を踏みつけている。力いっぱい
長屋の裏手の道を入って二つ目の角を曲がったところに、少し開け
という小芝居を何度も打った。生意気な小僧である。
だが賑わう江戸を歩いて己の貧困振りに卑屈になるため、三平は貴
重な余暇を過ごしているわけではない。
散歩のついでに人を探しているのだ。江戸に来て出会ったある少年
である。
昼間なのに薄暗い長屋の裏でそれは行われていた。ひっそりとしか
し大胆に。隠れても潜んでも分かるものは分かるのだ。棒杭が何本か
った足並み。みな一様に肩をそびやかし瞼
倒れる音。襖一枚隔てた向こうで交わされるような遠い声。そそくさ
と去っていく人々の妙に
63 |三平の力こぶ
細い手足、浅黒い肌に、結っていないざんばらの髪。子供である。三
平の知っている少年によく似ていた。
﹁おめえら何やってるだ!﹂
仕方ないやるだけやろう。正義はどう考えてもこちらにあるのだ。
﹁卑怯もんめ、成敗してやる﹂
ひょろ長男は三平の面に現れた引きつり気味の微笑を認め、それを
平の鼻つらを突くように蹴った。瞳に瞬く間に涙が溜まる。なあ小人
何倍もあくどく誇張させた悪人面でにやりと笑った。そして一飛び三
する。
さん、また呼びかけてみる。どうしてそんなに仕事が早いんだい。
土煙を上げて町奴たちの前に躍り出る。囲っている輪の中心へ突進
﹁おめえら馬鹿か、こんな小せえ子供を寄って集って﹂
うずくまる少年に声をかける。うう、と一つ小さな呻きが聞こえた。
声を聞いて確信を得る。三太郎だ。
れば経験則でそのくらいは分かる。倒された勢いを利用し一回転して
た。蹴られたのだろう、角度と硬さですねだと分かった。三平ともな
たわっていた。口の端が鋭く痛い。頭を動かそうとしたが鈍痛のあま
のよく分からない場所で、山から降りてきた小熊のようにぐったり横
気が付くと空がもう紫色に染まっていた。三平はやはり長屋の裏手
続けて大丈夫かと云いかけて、後ろから固い一撃を二の腕にもらっ
立ち上がる。
り断念せざるを得なかった。
﹁兄ちゃん大丈夫か﹂
渡の島まで飛んでいくのではないかと思われた。背が高いので余計に
のだ。こら、そんなに動かすんじゃない。三平は人形のごとく身体中
善意でやっているということは分かっているのだが、痛いものは痛い
三太郎だった。傍らに膝をついて身体を起こそうとしてくれている。
そう見える。こいつなら大丈夫かもしれないぞと、またも内心ほくそ
の力を頑なに抜き続け、少年は汗だくになってぐうたらな恩人の背中
めえかと答えた。
を支え続けた。ようやっと狸寝入りを終了すると、白々しくああ、お
かれた。金剛力士像のような二の腕が くられた袖から覗いていたか
﹁兄ちゃん怪我してんぞ。本当に大丈夫なのか﹂
まあな、軽く手を上げる。
﹁おめえと違って、おらあ鍛えてっからな﹂
先のことを思い、少し肩の荷が降りる。そして、三対一かあ、とぼん
である。心配いらねえ、力強く鼻をすすりながら流し目で云ってやっ
立った時には役者のようにしなをつける。短い背丈には中々の離れ業
おらよっと、揺れ柳を意識してゆらゆら時間をかけて立ち上がる。
やり考えた。一人はものすごい二の腕をお持ちだ。
背後を盗み見てすでに三太郎がこの場から脱出しているのを認める。
みたいな筋肉だった。
の脂肪混じりのものとは違って、ぼこぼこと血管の浮かんだ肉食動物
らだ。どんな鍛え方をすればそんなことになるのかと聞きたい。三平
しかし、後ろにいた男が前に出てきて、淡い予感は木っ端微塵に砕
笑む。例によって顔には出さない。
えているのかと云いたい。まるで鍛錬がなっていない。風が吹けば佐
目の前のひょろ長いごぼうのような男が吠えた。ちゃんと筋肉を鍛
﹁なんだあでぶ、下がってろよ﹂
4
文藝 14 | 64
た。鼻がとても痛かった。
三太郎はそれを訝しげな目でしばらく眺めていたが、やがて﹁兄ち
ゃん、いつもすまねえな﹂伏し目がちに云った。
思えたからだ。
だが行って何になるのだろうとも考えた。はたして自分に喧嘩を止
められるのか? 身体が大きくもなく強面でもない田舎小僧に免じて、
いったい誰が腹の虫を抑えてくれるだろう。寺子屋の悪ガキでも聞き
入れてくれまい。ならばと鍛えた二の腕を持って実力行使に打って出
﹁まあ気にすんじゃねえよ。おめえは悪くねえ﹂
満足げに云って、ようやく三平は普通に笑った。
るという考えも模索したが、多勢に無勢、いかんせん分が悪かろう。
ただ何もできずとも自分が通りかかることで、場が白けてお開きにな
三太郎に出会ったのは一年と半ほど前のことだ。つまりは奉公に上
がってようやく非番を許されるようになった頃から、ということにな
るということも有り得るのではないかと他力本願におそるおそる歩を
きの心持ちに、その歩みはなんとなく似ていた。
進めた。出来心でしてしまった悪戯を白状しようかすまいかと煩うと
る。
江戸に諍いや争いが多いことは知っていた。大きな通りで荒い声が
消えていくのを見てもいたし聞いてもいた。だがその時初めて目の前
散策にと迷い込んだ長屋の裏だった。荒い声がした。初めは怖くな
った気がした。情けないことに急いで身を隠ししゃがみこんだ。何を
男達に私刑にあっている図であった。見てはいけないものを見てしま
ついにたどり着いた先で見たものは、小さな少年が一方的に数人の
って逃げてしまおうと思った。道は一本道であったから、振り返って
やっているのだともう一度現実を直視しようと立ち上がり、またがく
で、それを目撃したのであった。
元来た道を戻ればよかった。ものの数秒、振り返らずとも後ろ足で何
りとうな垂れた。やはりもう逃げ帰ってしまおうと思った。
その時、周囲の音や物の一切が消えた。
ある。幼い頃から思い描いたあの風景が、今目の前に広がっているの
あの風景で
度か行けばすぐ出口である。
しかしそれができなかった。一本道の間を何度も行ったり来たりし
│
大通りでの喧嘩は大勢で行う祭りのようなものであったから、傍観
ではあるまいか。甲冑に身を包み、刀を水平に構え、足を肩幅まで広
おやと三平は顔を上げる。前方に向かうは敵の軍勢
するのも自然の成り行き、罪の意識など感じる余地もなかった。しか
げる。兜の下は誰の顔なのだ。戦いはいつも命懸け、そして正義は絶
た。
しである。この先で起こっている争いははたして傍観者などが存在す
対に
女将の声がする。
る類のものなのか。そのうち奉行所の人間が駆けつけて事がおさまる
﹁迷わずお行きなさい、坊ちゃん﹂
少年を傷だらけで見捨てるよりも、自分も傷だらけになってしまった
その時の決断に後悔はしていない。楽になれる方を選んだからだ。
﹁おめえら!﹂
決心がついた。三平は丹田に目一杯力を入れた。
│
ようなものなのか。双方たいした被害になるまでもなく、なんとなく
始まってなんとなく幕が降りるものなのか。
答えは明確に否であった。
思案する間にもずるずると足を進めていたが、考え出すと余計に戻
るのが億劫になった。引き返すことがどうにもとても格好悪いことに
65 |三平の力こぶ
きな関心事の一つであった。
方が寝覚めがよい気がした。三平にとって寝覚めの良さは、人生の大
てくれる。
﹁おいおいどんどん減ってくべ、ガマの油は三ちゃんのた
三平がまた人の喧嘩に顔を出してきたのだと察するとすぐに手当をし
る。そして非人の中でもさらに低俗な生業だ。それが原因でよく町奴
﹁服はもうすぐ乾くから、見つからねえうちに取り込んどけ﹂
る。これももちろんいつもと同じ。
めにあるんじゃねえぞ﹂お決まりの台詞である。すまねえと平謝りす
たちに絡まれるのだそうだ。少年はいつもぼろぼろの服を着て、髪は
﹁いつもわりい﹂
三太郎は雪駄直しの子だった。雪駄直しとは謂わば非人の商いであ
乱れ、やせ細った身体をしていた。目は誰も信じぬ野良猫のような光
﹁謝んなら、まずはその蛮勇を改めるべ﹂
ある。そうではないと説明すると、心配しなくても黙っててやるべ、
そうでない同輩が、どこかで何かやらかしてきたのだと思ったわけで
見かけに寄らず度胸あるべ﹂と感心した様子を見せた。どう見ても強
初めて三平がぼろぼろのていで帰ってきた時、茂吉は﹁三ちゃん、
を宿していた。両親がどこで商いをしているかは知らぬ。共にいると
ころを見たこともないし、本人に面と向かって聞いたこともない。た
だ云えることは、少年はいつでもひとりだったということだけだ。
三平がさらに腕立て伏せに精を出し始めたのは、もっぱらその日か
らである。
そう快活な笑みを浮かべた。
誤解が解けたのはひょんなことからで、一方的に私刑にされる三平
を店の徒弟の一人が目撃したためであった。事が大黒屋に明らかに露
見したのはその時一度きりだったが、誤解を解くには十分だった。そ
して誤解は解けたら解けたで、少々厄介な諍いを生んだ。
当時茂吉は怪訝そうな顔をして詰め寄った。竹を割ったような気性
子屋にしてはたいそう広い間取りを持つ大黒屋には、やはりそれなり
﹁てめえの喧嘩ならいざ知らず、人の喧嘩に顔出して、しかもやられ
ん頭おかしいんじゃねえか、苛立ちを隠さず切り出される。
は同輩の理解不能な行動を追求せずにはいられなかったのだ。三ちゃ
に広い部屋が徒弟達にも与えられている。九人の徒弟が入れ替わり立
て帰ってくるって、おめえいったい何がしてえんだ﹂
﹁きっとなんかの病気だべ、こりゃあ。何が楽しくて喧嘩の仲裁なん
とじゃねえ﹂
﹁分かってるよ。人助けしてたんだべ。でも、別に三ちゃんがするこ
三平は黙りこくって沈思した。
か。しかも毎回やられて帰ってきやがる。ん、顔は思ったより腫れて
﹁誰もしなくていいんだよ、放っときゃいい﹂
﹁じゃあいったい誰がすることなんだ?﹂
ほらよと軟膏が手渡される。悪態を吐きながらも、非番から帰った
ねえな﹂
ており、その隣りが三平だった。
ち代りここで寝食を共にしている。部屋の隅の一角に茂吉が居を構え
云いながら部屋の隅にある木の箱を開けて中をいじくり回す。一団
﹁三ちゃんまたか﹂
を歪めた。
大黒屋に帰り着くと、傷付いた身体を見て茂吉はいつものように顔
5
文藝 14 | 66
を添えた。
いうのが三平の持論である。弾みを付けられれば後がいくらか楽だ。
は些か狂気じみてはいるが、序盤は勢いで丸め込んでやるのがいいと
深呼吸して始める。一気呵成に腕を上下させる。発作的なその動き
﹁どうしても人助けしてえ理由でもあんべか﹂
そして事実三十を数えるまでは、狂気が果てることはない。
また黙り込む。やれやれといった調子で首を振って、それともと口
﹁理由なんかねえ。したいからしてるだけだ﹂
翳りが見え始めるのは五十、六十を越えたあたりからだ。ふうーと
大きく息を吐き猫が威嚇するような態勢をとることが多くなってくる。
ふん、いろいろな感情の詰まった鼻息を茂吉はひとつ漏らした。そ
して云った。
腕を交互に浮かせる。調子如何によってはここから幻聴がやってくる。
おやと三平は思う。今日の女将はいつもと違うことを云ってきた。
﹁正義の味方のつもりですか?﹂
﹁正義の味方のつもりべか﹂
その言葉には反応せずに、結局狸寝入りを決め込んだのを記憶して
いる。
正義の味方とな?
﹁三平坊ちゃん、あなたが人を助けるのは正義の味方を気取るためな
その一件以来茂吉とそうした問答をすることはない。ただ悪態を吐
きただただ謝って、翌日にはまた行商に出る。なるべく大旦那にはバ
のですかと聞いているのです。どうなのですか答えなさい﹂
では駄目なのだろう。だからなぜという部分を、茂
吉は仏頂面で問うたのだ。沁々と考え込む。
したいから
│
﹁ではなぜあなたはそんなことをするのですか﹂
それはそうです、心の中で念じる。
しいはず﹂
れは誰もが嫌がること。あなただって例外ではないはず。痛いはず苦
﹁痛いはず苦しいはず。どうして火の中に飛び込んでいくのです。そ
した口調であり、優しい上っ張りが余計に恐ろしい。
せようとする以外で口を開くのは珍しいことだった。いつになく切迫
茂吉のことを考えていたからだろうか、女将が腕立て伏せを中断さ
レぬよう事を計らってくれたりもする。何も云わぬが納得してはいな
いだろう。そうして初めてぶっきらぼうな言葉で気持ちの敷居を大股
で割って入ってくる印象があった同輩の、違った一面を捉えた。
そうは云っても時折遣る瀬無い顔を茂吉が見せることを、三平は気
付いてもいるのだった。
鈴虫が鳴いている。夏も終わりが近いのだろう。今宵は団子みたい
においしそうな月だった。
静かに布団から立ち上がる。夜行性動物さながらに目を見開いて周
寝静まった後からだと決めている。三平が日々腕立て伏せに精を出し
﹁そうしないとすっきりしないからだべ。おらは別に、辛くなんかね
いた。三平は深い夜に耳を澄ませる。
女将はいつまでも待ちますとでもいうふうに顎を引いて目を閉じて
ているのは屋根の下にいる誰もが承知の事実であり、隠す必要などど
え﹂
囲を窺う。日課を始めるのは皆が仕事を終えて徒弟部屋に集まる前か、
こにもないのではあるが、やはり堂々とお見せするものではない。
67 |三平の力こぶ
6
素直に云った。女将はしばらく目を閉じた後、花のように笑った。
気が付くととうに数は百を超えていた。三平は柔らかな布団に吸い込
まれるように、快く眠りに就いた。
せたりもする。暇を持て余しているのだろう。
三平は素知らぬ顔で周囲に目を向ける。なんとなく客が団子を避け
てはいまいか。気のせいではあるまい。
三太郎がやってくるのは大いに構わないのではあるが、いかんせん
日本橋のような目立つ界隈では少し複雑な感情を覚える。話す声もな
んだかこもりがちになる。だが、強くは云えない。
なぜならば少年はいつもひとりぼっちだったからだ。追い返すのは
ひどく酷なことのように思えて、三平の良心はきりきり鳴くのである。
﹁夕方ぐれえならよ、ちょっとは暇だべ﹂
そうしてやんわりと促すことしかできないのが常であった。
﹁そうか、なら夕方にまた来るよ﹂
三太郎について、いくつか気にかかる事があった。一つはこれであ
はないかと三平は先程までの考えを申し訳なく思い反省する。そして
のようなわらい顔だった。途端に居たいなら居させてあげればよいで
こちらの思惑やなんやかやを意に介さず曇りなく笑う。金色の満月
る。妙に羽振りの良い時がある。雪駄直しという生業や非人の子とい
去り際に手を挙げた時、少年の手首から肘にかけて三寸ほどのかさ
おう待ってっぞと、何かを挽回するように大きな声で呼びかけるので
これからも聞く気はない。どこかにいる父親なり母親なりから頂戴し
ぶたが見えた。思わずちらと目を伏せる。見てはいけない気がした。
う生き方がどういったものかは知らない。それに興味を抱くのは無粋
たものなのだろうと思うことにしている。しかしおそらく貧乏なこの
笑顔で去っていく少年の腕には、そんなものはひどく歪で不釣合いな
あった。
少年が、四文銭をこうも惜しみなく投げ出しているのを見ると、どこ
ものに見えた。
﹁兄ちゃん今忙しいのか?﹂
﹁見りゃあ分かるべ、商いの真っ最中だ﹂
ついていない時の少年は、威勢の良い朗らかな小僧だった。両手を頭
やしたがなんとか無事だった。三太郎は時折こうして姿を見せる。傷
いう差別でしか己の優越を感じられない下賤な輩はいる。奉行所も三
ある。なにせ非人の子であり何かと苦労は絶えないに違いなく、そう
いささか喧嘩に巻き込まれる数が多すぎやしないか、ということで
一つはこれだった。
の後ろに組んで器用に口笛を吹く。手持ち無沙汰に片足をぶらぶらさ
云って天秤棒を揺らせてみる。やってみて団子が落ちないか冷や冷
三太郎はよく私刑に合う。誰かに殴られる。気にかかることのもう
かちぐはぐな印象を持ったりもするのである。
であろう。だから気になるそばから逐一を尋ねたことはなかったし、
﹁毎度あり﹂
気付くか気付かないかのうちに受け取った。
三平はしばらく沈黙した。手の中の四文銭を眺める。少年がそれに
載っかかっている。
振り返ると三太郎がいた。昼下がりの午後である。手には四文銭が
﹁一本くれよ兄ちゃん﹂
7
文藝 14 | 68
なのだ。何の罪もない人々が謂われ無い暴力に苦しむのは、哀しいが
太郎のような身分のものが被害者である事件の対処はひどくぞんざい
い気持ちの良いものへ変わっていく。最後には何も起こらなかった一
そんな夢想に浸っていると、鉛を背負ったような疲れがほぐされて甘
そうは見えなかったが、三平はその時稲穂以外の何者でもなかった。
三平は今、同じ橙を眺めている。
日が、とても幸福だったように感じられる。そして帰って、飯を食う。
実際に起こっていることである。
それにしてもだ。非人の子はそれ以外にも大勢いる。抱え非人の小
屋には似かよった境遇のものがたくさんいるのだろうし、非人小屋は
こぼ
感傷に浸りきってそう した。一旦冷静になると、その台詞はなん
﹁夕日はいいべ﹂
という個人が、こうも多く私刑にあう謂われがないのである。これま
だかとてもキザったらしく聞こえた。早く何かすっとぼけたことを云
江戸の各地にある。ただ非人の中でも身分が低いからといって三太郎
で他人の喧嘩に割って入った幾度かのうち、一年と半で五度は傷付い
わねばと思ったが﹁俺も分かる﹂と同意の声が返ってきたので、なに
夕日は徐々に沈みつつあった。追いかけるように紫が続く。
﹁安心するんだ。やっと一日が終わる﹂
くわぬ顔で空の向こうを見続けた。
た少年を目にしている。知らぬ間に新たな傷を拵えていることもある。
いつか聞こう聞こうと思ってはいるが、中々きっかけが摑めない。
繊細な問題であった。三平の蛮勇はそんなところでは晴天の日のかた
つむりみたく、臆病に顔を出さなかった。
やっと一日が終わる。
の少年とは含んだ意味合いが根本的に違うことがはっきりと分かった。
三平もきつい畑仕事を終える度、空を眺めてそう思った。だが、隣
太郎が小石を蹴りながら歩いている。それは少年の気に入っているも
声にはどこか暗い響きがこだましていたからだ。三平はなにくわぬ顔
橙色の道を江戸の中心からうずを巻いて向島に向かう。少し前を三
のらしく、一度見せてもらったことがあった。小石らしからぬ重みが
をし続ける。
仕事の最中であろうと霞む夕日を延々眺めることがあった。じいっと、
﹁おめえが弱えからだ。おらは弱いもんいじめは嫌いなんだ﹂
いつも夕日に彩られている。
田んぼの隅、紫色の夕空、泣いている自分。三平の思い出はなぜか、
笑ったではないか。頭をひねるうちに過去の情景が浮かんでくる。
今度は少し考えてみる気になった。いくらか前の晩、女将はにこりと
胃のもたれる思いがした。この問いはもう何度目だろうか。しかし
﹁なんで兄ちゃんは俺を助けてくれるんだ?﹂
ちょっと聞いていいか、三太郎は云った。
あり片方の先端は鋭く尖っていた。勾玉に似ていた。形が粋らしい。
気持ちは分からなくもない。
しばらく歩いてから、隅田川沿いにあるざらついた黒い大岩に並ん
で腰掛けた。
夕日が目に染みる。この時刻が訪れると、田舎の田園風景がどこか
らともなく浮かんでくる。奉公に出る前の短い期間三平は両親の畑仕
だる
無心で。軽い夏風が頰を掠めていき、汗が涼しく感じられる。自分も
﹁でもみんながみんな、兄ちゃんみたいじゃない﹂
事を手伝っていたことがある。重労働で疲れ果て一歩動くのも怠い時、
揺れる稲穂の一つのように風に揺られる。大きく寸胴な身体はとても
69 |三平の力こぶ
茂吉の気難しげな仏頂面が浮かぶ。そんなことに貴重な暇を注ぎ込
目を閉じて、頭の上で両手を振った。降参するようなしぐさだった。
こちらも真似て手を振る。
を練れと厳しく云う。茂吉はもう﹁で
むくらいならば休みの日でも
﹁無理には聞かねえべ。で、何を教えてほしいんだ?﹂
﹁まず根本から違ってんだ。おめえは何のために腕立て伏せをやって
三平は少年の真向かいに立った。三太郎は居住まいを正す。
﹁そいつはいい問いだ﹂
﹁だからさ、続ける上でのコツとかをさ、教えて欲しいんだよ﹂
少年は気を取り直して快活に笑った。
きる﹂徒弟の仲間入りを果たしていた。
少しだけ分からなくなった。
夕日は何も云わない。女将もこんな時には現れない。
﹁だったらおめえは、おらが間違ってると思うか?﹂
そんなわけねえさ、三太郎は深々と首を振った。
﹁兄ちゃんは俺が知ってる人の中で、一番格好いいぜ﹂
んだ?﹂
﹁強くなるためだ﹂
顔がじゃねえよ、云って照れ隠しのように笑う。三平はそうかとひ
とつ頷いた。
﹁なんで腕立て伏せをすれば強くなるんだ﹂
そこだ、云って三平は拳を握り込む。
﹁力持ちになる﹂
﹁そうだ、教えてほしいことがあったんだ﹂
三太郎は腰掛けていた岩から反動をつけて軽やかに飛んだ。一回転
って力こぶを叩きながら、
﹁腕
﹁そこがおめえとおれじゃあ違うんだ。腕立て伏せってのはなあ、実
し て こ ち ら を 振 り 返 る。 そ し て 袖 を
立て伏せ﹂と云った。
は﹂
りが洪水みたいに流れ込んでくる。続かねえんじゃねえ、
おめえが勝手に止めるんだ。おめえの気持ちが出てるんだと、知った
過去のお
三平は調子に乗った。
出しがちの少年の心にその言葉は稲妻の如く深く刺さったのである。
三太郎は青天の霹靂のような顔で恩人の三角形の頭を仰いだ。逃げ
﹁ここを、鍛えてんだよ﹂
大旦那のいつかの言葉を思い出す。拳で胸を力強く打つ。
﹁何回かやってみたんだけど、いつだって続かねえんだ。兄ちゃんは
いつからやってんだ?﹂
﹁小せえ時からだ。畑仕事になんやかや。理由はまあいろいろだ﹂
またよくない方の夕空が浮かぶ。あの頃のいつからか、誰に云われ
るともなく腕立て伏せを始めたのだ。
﹁その前におらからも聞いていいか?﹂
記憶に蓋をして、気になっていたことに焦点を向けた。
﹁おめえはどうして喧嘩によく巻き込まれてんだ﹂
ろしいものを感じさせる。しかし三平はひるまない。
目つきがだんだん鋭くなる。三太郎の猫じみた三白眼は中々に末恐
﹁全部気持ちなんだ、へこたれてんじゃあねえべ﹂
二の腕をさすっていた手が止まった。三太郎はこちらを見つめ返す。 ふうなことをほたえた。気持ち気持ちとしつこく続ける。
目は虚ろだった。ここにない事柄を考えている目だ。実は先ほどの三
平も、同じ目をして夕日を眺めていたのであった。
﹁また今度でいいか﹂
文藝 14 | 70
ほう、怒ったのか。少しだけ大旦那の気持ちが分かった。向かって
くる奴はおもしれえんだといつか云っていたことがある。
こちらも上目遣いで応ずる。
﹁どうした、おめえの気持ちってのは、黙って睨んでることなのか﹂
辺りはとっくに夜の帳が落ちていた。
その場で地面に膝をつき手をついて、少年は黙々と腕立て伏せを始
いたいにおいて三平は日本橋界隈をうろうろしているので、二人が顔
ていった。時刻によっては両国や八丁堀なんかにいたりもするが、だ
それから三太郎は頻繁に三平の元へやって来た。数は日に日に増し
めた。三十を数えたところで例の猫の威嚇の態勢をとってなあ、と声
を合わせるのは容易だった。少年は夕方あたりにやってくると
﹁うるさいな、見てろよ﹂
を上げる。
れ具合を見て一度去り、調度良い時刻に戻ってきた。腕立て伏せはあ
の売
﹁兄ちゃんはいつも何回やってんだよ﹂
れから毎日しているようで、会う度二の腕を披露した。
﹁全然変わんねえや﹂そう云って笑った。
﹁おらは毎日百回やってる﹂
ふんとひとつ鼻を鳴らして、地面にもう一度向き直る。
かなる幽鬼の如き怒りを巧みに使い分ける大旦那の技の数々などのい
下総の田舎のこと、大黒屋のこと、 のこと、鬼みたいな激怒や静
口をぴったり閉じてもはや言葉は発しない。頭の真下の地面は大量の
ろいろを、三平は面白おかしく語った。特に大旦那の顔を真似ると三
六十を越えたあたりから一回を数えるのに随分と時間がかかった。
汗で黒く染まっていた。
きんと折れてしまうのではないかとも思われた。七十で一度こういっ
姿勢で休む時間が一分どころでなくなった。震える腕はしまいにはぽ
ように下から風が吹く、夕日がよく見える場所だった。目下には田ん
ある。雑司が谷の奥の林の上にある小さな丘である。身体を浮かせる
いつかの休みに少年のお気に入りだという場所に連れられたことが
太郎は地面に頰をすり付けて転げ回った。
た場面はあった。その時は気迫でなんとか持ち直したものの、二度目
ぼが延々と続いていて、遠くに江戸の賑わいが見渡せた。
もう限界であると感じたのは八十を越えた辺りからであった。猫の
はあるまい。三平は特殊な舞でも踊るように止めに入る隙を窺ってい
﹁ここは誰にも教えてねえんだ。他言無用だ﹂
少年は朗らかに笑う。
た。
﹁おい三太郎﹂
三太郎とのそうした日々を思うと微笑ましい気持ちになった。同時
に不安定な気持ちにもなった。もちろんこのままの生活が続くのなら
少年は声と同時にとっさに深く腕を曲げたが、持ち上げる途中、つ
いに糸が切れるように地面に突っ伏した。
ば三平自身望むところである。しかし、きっとそれは難しい。考える
三太郎はどういう理由かは知らぬがあまり抱え非人の小屋にいたく
度胸の辺りがやんわり痛む。
﹁今日はもう帰るべ﹂
汗だくの頭を撫でてやった。三太郎は悔しそうに息を切らしながら
くそ、と短く云った。全身に清々しい汗が流れていた。
71 |三平の力こぶ
8
ない。笑って済まされることではなかろう。もし帰っていないのなら
ないようだった。もしかするとほとんど帰ってすらいないのかもしれ
﹁おらと付き合うのも、ほどほどにしとかねえと﹂
次第に表情は長いざんばら髪で見えなくなる。
な表情をしていた。目を細めて、口は薄らと開いている。風が吹いて、
した。髪の毛の間で三太郎が笑ったからだ。
﹁なんだ、兄ちゃんは俺と一緒にいるのが迷惑なのか﹂
喋りながら、ふいに安
ば捕えられて寄場送りか金山送りだ。子供の場合がどうなるのかは分
からぬけれど、似かよった処分が待ち受けているに違いない。
三平がずっと行商を続けていくとも限らない。いつか店で手伝いを
頭の後ろに手を組んでまた歩き始めた。声は明るい。三平はきょと
んとしてその場に立ち尽くしていたけれど、いやいやこれはまずいと
任されることもあろうし、なければそれはそれでとても悲しい。だが、
そうなると三太郎はまたひとりだ。抱え非人の小屋には同じ境遇の友
お気に入りの小石を拾って少年はそのまま歩き続ける。想像してい
思いすぐに後を追った。
知る由もない。しかし、そこにある問題から逃げていてはいけないの
た光景とえらく違って助けを求めるように天を仰いだが、からすが怪
達が数多くいるのだろうし、どうしていつもひとりきりでいるのかは
ではないかと、三平自身いつか誰かに云われたようにしんみりと思う
しい声で鳴くだけだった。追いかけるしかあるまい。それはいささか
﹁別に云ってくれれば良かったのに。そういうのには慣れてんだ﹂
良からぬことが起こってしまう気がする。空はもう真っ暗だった。
歩いている間にどんどんいたたまれなくなった。しかし何をしても
る三平。
奇妙な図であった。笑いながら歩く少年と、深刻な面持ちで後をつけ
のである。
夕空を思い浮かべる。ひとりぼっちは寂しいものだ。それはようく
知っている。なんとかするなら今しかない。三平はどうにもならなか
った。田舎に友達は最後までできなかった。後悔はしていないが、三
太郎に同じ思いはさせたくない。
夏下がりの大きな入道雲は、そうしてむくむくと膨らんでいった。
く。
やっと三太郎が喋った。藁に飛びつくように三平はすかさず口を開
ても、おらはやる。そしてある時切り出した。
﹁おい三太郎、そう云う意味じゃねえべ。ちゃんと聞くべ﹂
三平の胸はいつかの大旦那のように角を生やした。どんなに対立し
﹁おめえ、おらとこんなに一緒にいていいのか﹂
け加えて、少年は漆のような闇の中に消えたのだった。
もういいんだよ、後ろ手に手を振って足を早める。それにと一言付
蹴っていた小石がうねりながら転がって、やがて止まった。
﹁どうせ長くは続かねえんだ﹂
三太郎は少し前を行っていたが、足を止めてこちらを振り向いた。
﹁なんで?﹂
﹁おめえには、おめえの場所があるんじゃねえのか﹂
夕日が溶けていく。からすが妖怪のような怪しげな声で飛んでいっ
た。
少年は黙って聞いていた。こちらを見つめる顔は思いのほか穏やか
9
文藝 14 | 72
が広まり始めたのは、それから少し後のことだっ
一番初めに襲われたのは安宿で働く飯盛女だったらしい。買い出し
の途中だったそうだ。報せを出したのはまた別の女だった。友人だっ
その町奴集団の
た。
みという意味が、そこまで聞いてようやくちゃんと分かった。
みぞおちに一撃もらったように三平は肩をそびやかせた。鬼畜の極
たらしい。報復にあったのはその女だ。
を耳にしたこ
﹁鬼畜の極みだぜ、あいつら﹂
茂吉は苦虫を嚙み潰したような顔で云った。そんな
とはあったが詳しく聞くのは初めてである。
その町奴たちの鬼畜の所業とは、詰まるところたかりだ。集団で寄
って集って金品を巻き上げる。だがたかりをする集団などは江戸では
いくらでもいる。どうして茂吉が恋人を寝取られたような不機嫌な面
おばさんもあまり見かけなくなった。江戸のうねりの中に女子供の数
近頃団子の売り上げが落ちたのはそれが原因に違いない。よく見る
﹁何が極まってるべ?﹂
が大きく減っている。食物の仕入れも近頃は男衆が行っているようで
をせねばならぬのか、いまひとつ分からない。
﹁やり方だ﹂
ある。
﹁おめえ﹂
三太郎だった。笑顔を見せながら四文銭を弾く。
﹁一本もらうぜ﹂
﹁団子はいらねえかい﹂
町は静かに、殺伐さを増しているように思われた。
﹁やり方?﹂
﹁あいつら、弱い奴だけを狙う﹂
弱い奴だけを狙う。三平の身体がぴくりと動く。どんな具合だべと
続けて問う。
﹁女子供、婆さんや爺さんを決まって襲う。大家には絶対に手は出さ
ねえし、はした金でも構いやしない。そこだけは徹底してやがる﹂
まう。旗本の奴や相撲崩れなんかもいやがるからタチが悪い﹂
﹁端から見てりゃこっちに危害が及ばない分、皆だんまり決め込んじ
れたい。結局のところあの問答の決着をどこに見たのか、よく分かっ
思い悩んだ時もあったが、いざ来られるとちょっと待ったと泣きを入
とを考えない日はなく、もう出会うことはないのではと黄昏に浸って
顔を合わせるのはあの日から初めてのことだった。無論三太郎のこ
﹁お奉行さんは何してるべ﹂
ていなかったからである。少年が何を考えているのかはさっぱりなま
﹁なんだそりゃ、誰も止めねえべか﹂
﹁奉行所も静観してるぜ。なぜって初めの一件以来、報せも何もねえ
本目をすぐに平らげ二本目に移った。それもすぐに飲み込んで空っぽ
云うに困って団子をもう一本渡す。少年は驚く表情を見せたが、一
﹁ちゃんと飯は食えてんのか﹂
まだ。三平は喜びとも困惑ともとれる抽象画のような顔をした。
になるほど大っぴらにやってんだろう﹂
んだからな﹂
﹁なんでだべ。
えげつねえからだよ。茂吉は声を潜めて云った。
﹁報復が﹂
73 |三平の力こぶ
10
の口を開く。
いと聞く。
人や無宿人たちが上がるではないか。はした金でも奴らは構いやしな
﹁兄ちゃん優しいから、あいつらのことどう思うか知んねえけど﹂
三太郎は口元だけを緩めた。
は握った拳を眺めていた。
丸っこい拳を握り締める。この世の終わりのような顔をして、三平
﹁あれ、知ってるか?﹂
三平は片側の眉だけを器用に上げる。疑問の意だ。
﹁髪長狩りだよ﹂
巷ではそう呼ばれているらしい。報せがあった公にはただ一人の被
害者である飯盛女からとってこう名付けられた。その時は奴らの中か
止めとけよ、人差し指をこちらの鼻つらに向ける。また険しい顔に
なる。
ら一人だけがお縄になったが、それから一切捕らえられた者はいない。
﹁兄ちゃん、見たことあるか﹂
﹁そういうのは、そういう人たちに任せときゃいいんだ﹂
て、思わねえよ、そう云った。
三太郎は真剣な顔でこちらを見据えていたが、やがてふと頰を緩め
﹁おめえは、おらが間違ってると思うか﹂
一度深く息をついて、云った。
分からない。
三平は少年の目を真っ直ぐ覗いた。強い目をしていた。今度は何も
﹁あいにくまだねえべ﹂
そうか俺もねえ、云って考え込む素振りをする。日本橋にはまだ来
てねえのかと続けてぼやく。
﹁そんなこと聞いてどうすんだ﹂
いや別に、何でもなさそうに呟くが、三平はそんな分かりやすい変
化を見逃さない。目を見て云えと云いたい。
﹁おい三太郎﹂
してまた、からすのように闇に混ざって消えた。
少年はひとつ鼻をすすった。しぐさはなかなか様になっていた。そ
こちらに顔を向ける。厳しい顔をしている。らしくないではないか。 ﹁兄ちゃんは格好いい、自信持てよな﹂
﹁おらはおめえの考えはだいたい分かるんだ﹂
﹁なんだよ﹂
﹁そいつらになんかしようって思ってんじゃねえのか﹂
思ってねえよ、含みはないというふうに両手を振る。
﹁だけど兄ちゃん、あいつらがどういう人から金取ってるか知ってる
か﹂
一週間が経った。三太郎とは会わぬままだ。同時に江戸界隈に髪長
もあまり聞かなくなった。奴らは江戸を出ていっただの、ど
狩りの
んでは沈んでいった。事実近頃は女子供は長屋に引きこもり奉行所も
﹁ああ、
思いもよらず天を仰いだ。そんな当たり前のことに気が付かなかっ
少しずつ動き始めた故、ともすると本当に食いっぱぐれて消滅してし
こかに身を潜めているのだだのと数々の流言飛語が流れては消え浮か
たことが我ながら情けなくなった。弱い者と云うならば、真っ先に非
﹁俺たちだって、例外じゃねえんだ﹂
で聞くぐらいには﹂
11
文藝 14 | 74
まったのかと期待する声も方々から上がっていた。無論三平も小さな
声を上げた一人である。
去り際に見た少年の瞳を思い出す。思いつめた目をしていた。暗い
二人はともに幼少時代を下総の片田舎で育った。当時近所の悪ガキ
として幅を利かせていた幼馴染との関係は、決して良いとは云えぬも
のだった。やったやられたの関係である。
て数をかぞえる素振りをしつつ、そういやあ、と勿体ぶったふうに頰
一通り満足したのかようやく巾着を開いて銭を掌に転がす。そうし
る。
を搔く。
何かが頭をもたげるのを感じてすぐさま団子を売ることだけに集中す
﹁だんごお、だんごお、おいしいだんご﹂
﹁おめえまだあれ続けてんのか﹂
お得意の上目遣いで疑りぶかげに相手を見つめる。あまりに漠然と
﹁一本くれよ﹂
その底意地の悪そうな声が背中から聞こえたのは、そんな折だった。
たが、やがて耳をほじくりながらどうでもよさそうに云った。
した問いである。弥次郎は上から目線で景色のどこかしらを眺めてい
声を上げた。不意を突かれたということもあるが、声そのものにも十
﹁人助け﹂
三平は憧れる達者な売り子にあるまじきこと﹁うわあ﹂と情けない
分驚いた。三太郎でないことはすぐに分かった。誰であるかが分かっ
三平は黙って手を伸ばした。銭を受け取るためである。弥次郎は巾
着をすでに懐にしまい、銭を掌でじゃらじゃら転がしながらこちらの
たからだ。彼の幼少時代の記憶の中で、その少年はとても深く印象に
残っていた。
顔を探るように眺めていた。
﹁ははあ、やってんだな﹂
でもいわんばかりだった。そしてどうやらそれは現れてしまうらしい。
まるでそうしていれば表情の中に、胸の内が絵か文字かで現れると
じいっと。
﹁一本﹂
弥次郎であった。目つきの釣り上がった細面、縦長で痩せっぽちの
まさに化けギツネが化けたようなその面影は、成長してからもまった
く変わっていなかった。
三平は言葉を失っていたが極力口を小さくすぼめ﹁四銭﹂と云った。
から素早く巾着を取り出す。
狡賢い弥次郎のような男には何もかもがお見通しなのだと謂れのない
り傷を発見したためであった。だがそんなこと知る由もない三平は、
無論そう判断を下したのは、贅肉に埋もれかけた口の端に小さな切
﹁いやあたまの休みに江戸まで遊びに来てみりゃ、懐かしい顔に会っ
恐怖を感じて狼狽えてしまう。
﹁なんだって?﹂弥次郎は眉をへの字に曲げ腹の立つ顔をしたが、懐
たもんだ。団子売りとはぴったりじゃねえか、なあ三平。でかい団子
﹁物好きだなあおめえは。まあ昔から変わんねえっちゃあ変わんねえ
ら、天秤棒の盆の上に重なった団子の串を一本取り上げる。そして食
伸ばした手にやっと銭が握らされる。醬油でいいかなどと云いなが
んだが﹂
が頰と腹に、合わせて三つもありやがる﹂
そう云って身体をくの字にしてけらけらと笑った。小童の妖怪みた
いな笑い方だった。変わらぬ意地の悪さを感じさせる。そういう意味
では、懐かしいという心持ちの沸かぬわけでもなかった。
75 |三平の力こぶ
いざま、一言垂れ流すように云った。
うあれこれを話すと予想外にすんなり納得してくれた。あんまり簡単
った。初めは吉原を遊歩したいと駄々を捏ねた茂吉だったが、そうい
えてしまったくらいである。また印象を改める。ただし厳しい顔をし
に意見をひっくり返すものだから何か企んでいるのではないかと身構
﹁まあ気をつけろよ。近頃物騒だからなあ﹂
馴れ馴れしく肩を叩いて去っていく。三平の手の中には、一文銭の
みが握られていた。
て、こう付け加えた。
﹁正義の味方にゃ付き合わねえぞ﹂
そんなこんなで浅草である。そこから渦を巻くように江戸を回ろう
巣鴨や雑司が谷の方まで足を伸ばしてみようと考えた。雑司が谷、三
を聞かぬので、
た。三平はそれを今か今かと待ちわびていたがようやっと願いが叶う
平はそこに一縷の望みをかける。三太郎の案内してくれた唯一の場所、
という魂胆である。昨今江戸の中心では髪長狩りの
運びとなった。そしてそれには思わぬおまけが付いてきた。茂吉にも
夕日の見える丘がある。
浅草界隈は向島からもほど近く、よく見知った土地であった。今戸
から掘田原を下る。
で、同時に二人以上の徒弟に休暇が与えられることがあるのだ。無論
年に一度あるかないか、行楽の状況、店の仕入れ、大旦那の腹具合
ものなど誰も相手にしてくれない。文無しが入れる場所は寺ぐらいし
類が違えど昼どきの日本橋とも相違ない。だが庶民の遊び場は無銭の
行き着く先もない興奮が身体の内をわんぱくに巡った。賑わう声は種
たいそうな繁華街である。出会い茶屋や見世物小屋を通り過ぎる度、
その中には準備期間という意味合いも含まれており、次の行楽を終え
かなかった。
が、寺はたいそう立派なものだった。正面に構える風神雷神は生意気
しようがないので浅草寺を参拝した。ことのついでと云ったていだ
何はともあれ喜ばしいことだった。その日二人は共に浅草にいた。
空のように心変わりして、手を合わせ深々と一礼したほどである。茂
な小僧どもの居住まいを正させるには十分な迫力があった。三平は秋
しかしいつも訪ねられる側だった三平は、少年の居そうな場所などに
﹁こら茂吉、挨拶しねえか﹂
に控える金剛力士にも礼をした。隣りでは今度も睨めっこである。
商店並ぶ仲見世を抜け宝蔵門へ至る。分け隔てては悪いと思い両脇
吉は二つの像と張り合うかの如き仏頂面で腕を組んでいた。
ぬだろうということで、散歩しながら捜索も兼ねようということにな
そうは云っても分からぬものは分からぬ。闇雲に探しても埒もあか
あれほど一緒に居たのに住んでいる非人小屋も知らぬとは。
は見当もつかぬことに思い当たった。狐に抓まれたような気がした。
待ちわびた休みの目的とはもちろん、三太郎の行方の捜索であった。
る。
るまで休みはない覚悟しておけという無言の圧も込められていたりす
が、それが希に起こる。
だから、二つないものを一つに重ねるのは土台不可能な話なのだ。
徒弟の休日が重なることは希である。なにせ順繰りに回っているの
同様に暇が告げられたのである。
弥次郎と出会った日から数えて二日後、久方ぶりの非番が設けられ
12
文藝 14 | 76
﹁なんだよ、ただの石じゃねえか。頭下げても仕方ねえべ﹂
罰当たっても知らねえぞ、云って三平はすたこら歩いた。一緒に歩
いていると自分まで罰当たりと思われるかもしれない。茂吉は軽くそ
の尻を蹴って、後に続いた。
本堂もまた荘厳であった。五重塔に二天門、梵天に帝釈天、裏観音
様子見がてらそんなことばかり何十回も云っていると﹁それはいい
がな三ちゃんよ﹂重い口が開かれた。上野の辺を過ぎた時であった。
とうとう来た。説教くさい臭いがする。
﹁見つけて、そんで、どうすんだ﹂
﹁どうするって﹂
間抜けな顔で茂吉を見る。そんなことをずっと思案していたのだろ
うか。
に加えて不動明王に愛染明王と、頭を下げねばならぬ神仏は山ほどあ
った。四方八方からくるもはや脅迫的なまでの畏敬の念は、ついに茂
﹁心配じゃねえか﹂
﹁やっぱりはっきりさせておいた方がいいべ。見つけて、どうするん
それは分かるというふうに首を縦に振る。だがなと付け加える。
吉の腰をも折ったほどである。三平は心の中でほくそ笑む。ただ下げ
る頭はいくらでもあったが参る金は一切ない。降り注ぐ像達の厳しい
眼差しに後ろめたさを感じながら、二人は寺を跡にした。
﹁おらはやっぱ雑司が谷辺りがくせえと思うべ﹂
なことは絶対にしないけれど。いちおう考えてみるがすぐに結論が出
だからなんなんだその問いかけはと叫び出したい気分だった。そん
だ?﹂
そう提案してみた。心当たりはそこしかない。
る。
寄り道が過ぎた。
茂吉は頷いたが、考え込んでいる時によく見せる思案顔だった。三
心配だから探す、これで終いだ。
﹁そうか、三ちゃんのわがままなんだな﹂さりげなく呟かれたその言
平は静かに身構える。この顔の後には心臓を鷲摑みにして揺するよう
な、核心を突いた台詞がよく口に出される。
葉は三平の胸にはちくちくと突き刺さった。
﹁きっと会いたくねえかもしれねえ﹂
最後の日に見た思わしげな瞳を思い出す。
ていた。茂吉はいつも難しいことばかりを尋ねる。
ううんと黙りこくる。ただ心配だから探してやらねばとばかり考え
えかもしんねえべ?﹂
﹁なら、そいつは三ちゃんと会いたいと思ってんのかな、会いたくね
﹁まあ、とりあえず行くか﹂
さらりと云って、何でもなさそうに歩き出した。思案するだけ思案
してなんとも思わせぶりな態度である。まあとはなんだ。しかし一旦
は胸を撫で下ろし先を行く。
まずは駒込に足を向けた。外からぐるりと くって行こうという算
段である。物陰に目を光らせる。茂吉は時折景色について一言述べた
りするものの、たいていは仏頂面を保っていた。浅草で何かがとり憑
てきた。考えなしに連れ回した説教でもされるのかと戦々恐々してい
少し重苦しい無言が続いた後、そうか、案外あっさりした声が返っ
で止めた。
たため少々肩透かしをくらう。
いたのかとからかってみようかとも思ったが、本当に怒られそうなの
﹁ここもやっぱいなさそうだべ﹂
77 |三平の力こぶ
﹁そこまで分かってんならいいべ。あとは見つかってからだ﹂
係ねえ﹂
﹁三平のお友達か? おいらはちょっと野暮用でなあ、おめえにゃ関
ある。
あ、弥次郎が口を開いた。これはまた白々しい、取ってつけた口調で
云って固まる三平の手を引いて歩きだそうとした時、ああそういや
﹁ああ関係ねえ。行くぞ三ちゃん﹂
﹁もういいべか﹂
身構えていると、茂吉は眉をひそめて怪訝そうな顔をした。
﹁何そんなにびびってんだ。三ちゃんはいつも考えなしだからな、ち
ょっと確かめてみただけだ。したいようにしてんならそれでいい﹂
あんまりお人好しだと人生損するべ、そう云って少し笑った。いま
だったなあ。大勢でぼっこぼこだ﹂
いち訳の分からぬままに、茂吉が笑っているので三平も一緒に笑った。 ﹁向こうで喧嘩、してたぜ。ひ弱そうなあんちゃんが、ありゃ一方的
下谷根岸と駒込の境、長屋の並ぶ通りでのことだった。ろくろ首の
馬鹿にした笑みを浮かべている。黙りこくる三平の肩に、茂吉は軽く
おお怖い怖い、両腕を抱え肩をそびやかす。そのくせ顔には人を小
気付かれる前に目を逸らそうとしたが、ずい分遅く、それはどうにも
手を添えた。
ように首を伸ばして物陰を覗いていた時である。見知った顔が窺えた。
白々しい態度になった。
﹁あんちゃんって云ったな﹂
進まない。
ひ弱そうなあんちゃんが、一方的に、大勢で
│
。
行くぞとそのまま肩を引かれる。振り返りはしたが、どうにも足が
﹁なら髪長狩りでも三太郎でもねえ。おらたちには関係ねえべ﹂
弥次郎は頷く。
﹁おお、三平じゃねえか﹂
弥次郎だ。獲物を見つけた時の狩人みたいな笑みを浮かべ近づいて
来る。弥次郎の放ついやらしい気配になんとなく感付いたのか、茂吉
は身をすっと斜めに構えた。
﹁こんなところで何してんだ﹂
﹁散歩だべ﹂
か答えなかった。ちゃんと喋るべと注意されても如何せん口がうまく
﹁いいのか三平よお。あっちで喧嘩だって云ってんだぜ。しかも私刑
げさな身振りで割って入る。
何してんだ、茂吉が少し声を荒げると、おいおいおいと弥次郎が大
動かない。
だ、ありゃ放っておいたら命に関わるぜい﹂
三ちゃん知り合いか、小声で尋ねてくる声が聞こえるが、曖昧にし
﹁散歩でこんな物騒なとこ来んじゃねえよ、てめえなんかが来たんじ
﹁お前、どういうつもりべか﹂
低い声だった。ものすごい剣幕である。が、弥次郎は一反木綿のよ
ゃあ、虐めてくださいと頼みに来るようなもんぜ三平﹂
﹁なんだおめえ﹂
﹁ 別 に。 こ い つ が 知 り た そ う だ か ら、 教 え て や っ て る だ け じ ゃ ね え
うにぬらりくらり、素知らぬ顔でそっぽを向いている。
の身体は仏像のように固まる。
か﹂
今の態度で火が付いたのか茂吉が食ってかかった。肝が冷えて三平
﹁そういうおめえはこんなところで何してんだ﹂
文藝 14 | 78
茂吉は小さく首を振る。
﹁いや、行く必要なんかねえべ。喧嘩や私刑なんか、おめえがいねえ
ところで毎日山ほどやってんだ﹂
鈍い頭に数々の言葉が流れては消えていく。関係ねえ、一方的に、
毎日山ほど、命に関わる。頭が回る。ぐるぐるぐるりと、渦を巻く。
吐き捨てるように云って、弥次郎は長屋の陰に消えた。
私刑を見つけるのは簡単だった。次第に荒い息遣いが如実に聞こえ
始めたからだ。血反吐を吐くような呻きも聞こえてくる。
いけない、これはいけない。三平は力いっぱい走る。
聞こえる音はまだあった。大木を棒で打つような乾いた弾力のある
音だ。地面を駆ける足音も聞こえる。じゃりっと砂を嚙む音に続いて
び付いた水車が突然の豪雨で無理な回転を強いられるのに
よく似ていた。水車のたがはいずれ外れて、自然の濁流に流される。
威勢のいいどら声が続く。助走をつけて蹴り飛ばされているに違いな
まるで
三平にとってのそれは詰まるところ、思考の停止であった。
い。あれは痛いのだ。
遠くからでもよく分かる。相当に荒れている。舞い上がる粉塵の中
えた。
三つ目ほどの角を曲がったとき、土煙舞う中に数人の人だかりが見
﹁放っておけん﹂
指 差す方 へ 走り 出す。 手を 伸ば し﹁ おい﹂
、 と 一 言 漏 ら し た 後、 茂
吉はもう何も云わなかった。ただ時折覗かせる虚空を睨むようなむな
しさが浮かんでいただけである。
る。囲む者たちの相貌肢体は頑強で、血の気多く見えた。近頃の鬱屈
で、分厚い身体の間で振り回される死に体の男の姿がちらちらと見え
小僧妖怪のような笑い方だった。
とした空気で溜まった憂さを、発散させる場所を求めていたのだろう。
あー、行っちまったなあ、弥次郎は頭の後ろに手を組んで笑った。
﹁おめえ、昔の三ちゃんを知ってんだろ﹂
女や老人、子供の居ない男だけの世界は、異様なものが生まれるのを
許す臭いがあった。それは原始の臭いである。悲しい夕日が照ってい
静かな声音で茂吉が問う。表面的には落ち着いた調子に聞こえた。
﹁ああ?﹂弥次郎は気怠げに振り返る。
る少年の頃を思い出す。
潜んでいるのだ。意地の悪そうな声で呼んでいるのだ。ほら、ほら、
聞こえないように耳を塞ぐ。そいつはきっといつだって頭の片隅に
声が聞こえる。頭の中からだ。
あつい熱が顔にかかる。暴力だけがそこにあった。
﹁ な ん で 三 ち ゃ ん は あ ん な ふ う に な っ た ん だ。 お め え が 何 か し た の
か﹂
三ちゃん三ちゃんうるせえよ、鬱陶しそうに耳の穴を小指でほじる。
先っちょをふっと吹いて、云った。
﹁あいつは昔からああだ﹂
こっちに来いよ、こっちは全然痛くない、一度来ちまえばきっとおめ
えも慣れてくもんさ、みんないずれはそうなるんだ、おめえはなんに
なんも変わってねえ、ガキの頃からああなんだよ、ぶつぶつと呟く。
垂れ流される言葉は先程までの人を食った態度を取る小僧とは、また
も悪くない
小僧っ子の妖怪のようなそいつは、卑屈な笑みを浮か
どこか違って見えた。
べ手招きする。
│
﹁変わらねえからむかつくんだ。偽善でぶ野郎が﹂
79 |三平の力こぶ
少しの間立ち止まっていた。頰を少し強く叩く。そして両腕の力こ
ぶに目一杯力を入れ、大便を気張るように踏ん張って丹田に力を入れ
た。
いけないことはいけないのだ。
三平は荒ぶる暴力の嵐に向けて、勇猛果敢に飛び込んでいった。
った。
﹁そしたらもう帰るべ。もう終いだ﹂
終いだ、子守唄のように同じ言葉を繰り返した。雨は次第に強くな
り、景色は細い線で埋め尽くされていった。
大黒屋に帰り着いたのは空が闇夜に染まった後だった。大旦那にな
んと説明しようか茂吉は道々頭を捻ったが、良い言い訳は思いつかな
かった。結局山で崖から落っこちたと猿でも見破りそうな大噓をつい
二人はそれ以上何も云わず、静かに徒弟部屋に戻った。
た。大旦那は黙ってひとつ頷いただけで、ゆっくり休めと一言云った。
空を染める時間は短い。すぐに後から紫色が追いかけてくる。もう日
﹁起きてるか?﹂
夜の帳も落ちきって皆の寝息が音を立てて久しい頃、茂吉が小さく
云った。
しばらく間を置いて、やはり答えねばと思い小さく頷いた。長く声
﹁傷は痛むか?﹂
を出さなかったため動物じみた呻き声が出た。
った。いつもよりずっとひどい。骨も折れているかもしれない。見え
﹁いつものことだべ﹂
そうかいつものことか、呟いてしばし黙る。空気の粒ひとつひとつ
も後ろを絶対に振り向かないと、三平は居直るように決めていた。
に重りが乗っかかったような沈黙である。しかし何時間それが続いて
思いつきもなかったので、茂吉はしばらく傍でじっとしていた。下手
﹁ガキの頃とは違うんだ。喧嘩すりゃ大怪我すんだ﹂
分かんねえ、茂吉は力なく云った。
﹁助けたかっただけだ﹂
く。声はこもって聞き取りづらかった。
太ったあざらしみたいに布団にくるまりながら、おらはと小さく呟
﹁何が云いてえか分かってるよな﹂
茂吉は静かに語りかける。ぽつりと一つ、雨粒がつむじ辺りに当た
﹁ちょっと休むべ﹂
む。
暫くしておもむろに身体を起こしたが、すぐに弱々しくしゃがみ込
地面に引かれた大小の線は、難解な図形のようだった。
に動かしてはいけない気がしたからだ。空は灰色でどんよりと暗い。
三平は小さく瞬きはするものの一向に動かない。町医者に行く金も
できないだろう。
る部分だけでも相当に痛々しい。今回ばかりは大旦那をごまかす事は
長く傷を手当してきた茂吉には今回のそれが尋常でないことが分か
こすように小さく呟いた。﹁立てるか?﹂ついで手を貸す。
茂吉は土にまみれて地面に横たわる三平に向けて、寝ている猫を起
﹁三ちゃん﹂
が暮れる。
辺りはもう静かだった。夕日がどっぷりと沈む。一日のうちで橙が
13
文藝 14 | 80
途端に身体中の傷が頷くようにびくりと痛んだ。意地でも振り向か
ったのは三日目の夜だった。
く癪に障ったからだ。ずっと閉じこもっていて気分が落ち着かなかっ
真夜中に中庭に出た。茂吉の隣りで腕立て伏せをするのがなんとな
﹁そんなだからあの弥次郎ってやつにいつまでたってもつけこまれん
たということもある。
ない。
じゃねえのか﹂
月が出ていた。笑っているような上弦の月だった。笑うんじゃねえ、
小石を一つ拾い上げ、夜空に軽く放り投げる。思いのほかそれは遠く
おいちゃんと聞けよ、と少し大きな声がする。拳を叩きつける音。
二つ隣ほどの布団で誰かがほえと間抜けな声を出すのが聞こえた。茂
まで飛んだ。
地面にしゃがみ込む。片膝と片腕をついて体重を乗せた途端、身体
吉が渋々布団に潜り込むのも音で分かる。
﹁なんで助けちゃいけねえんだ﹂
しに云う。
響いた。乾いた地面は畳や布団に比べて冷たく堅く、擦り切れた手の
ていたことをすっかり忘れていたのである。痛みは波紋して身体中に
中が悲鳴を上げた。あううと情けない声を出してうずくまる。傷つい
﹁弱い人を助けるのが、そんなにいけねえのか﹂
ひらに熱い痛みを感じさせた。
久しぶりに布団から顔を出した。今度はちゃんと声が出る。背中越
﹁おめえも弱えじゃねえか﹂
をつい
落ち着いた頃に気を取り直してもう一度地面を睨む。そして力のな
くなった竹とんぼがゆっくりと落ちていくように、慎重に尻
ぴしゃりと声が返ってくる。聞き分けのない小僧が先生に定規で打
たれて静まるように、三平は口を閉じる。云い合いでは勝ち目がない
た。
これはできねえ。
と見て、また頭を沈める。
﹁正義の味方ってのはなあ、弱い奴がやっちゃいけねえんだ。そうい
こんな痛みで腕立て伏せをしようなどとは正気の沙汰ではない。な
にせいつもより傷がひどいのだ。いくら日課といえできないものはで
うのは本当に強い奴に任せるべ。痛々しくて見てられねえ﹂
﹁おらはただ、助けてえだけだ﹂
かけてしまう。それは何よりいけない。
きない。無理をして腕がどうにかなったら、大旦那にも多大な迷惑を
背を向けたことが分かった。
﹁それでいいのですか?﹂
拗ねた子供のようにぶつぶつと繰り返す。寝返りを打つ音で茂吉が
﹁歪んでるぜ、自分はいいのか﹂
女将の幻影が現れる。しかしなんと云ったのだろう。よく聞こえな
かったので三平は口ごもって黙り込む。
﹁聞こえないふりはおやめなさい三平坊ちゃん。あなたの声があなた
に聞こえぬはずはないでしょう。本当にそれでいいのですかと云って
いるのです﹂
81 |三平の力こぶ
頭の中で、小僧がけらけらと笑った。
しばらくの間三平は床を出ることができなかった。動けるようにな
14
﹁それでいいとは?﹂
少々刺のある剣幕に圧され下手に出てみる。女将は笑いながら怒る
三度に渡ってまた、深く息をついた。
これはできねえ。
仕方がない。どれほど屈強な大男でもこんなぼろ雑巾のような身体
で腕立て伏せなどできるわけがない。もっと身体が痛んで終いだ。今
のだ。
﹁あなたはきっと腕立て伏せをすることができます。傷は痛むでしょ
日は安静にしよう。明日倍の二百やればいい。
弱い奴は。
三平は小さく首を振って、また寝床に戻った。
│
にした言葉が、淡い匂いのようにふわりと浮かんだ。
よろよろと立ち上がる。徒弟部屋に戻ろうとして茂吉が三日前に口
うし体力も残っていないでしょう。しかし腕立て伏せをすることはで
きます。云っている意味が分かりますか?﹂
﹁分かりません﹂
即答する。茂吉のこともありかような説教が鼻についた。意地にな
って云い返す。茂吉と違って女将には直接ぶん殴られたりするおそれ
はない。
﹁本当にできませんか?﹂
同じ問いだ。今度はいじけた小僧のように口ごもる。地面をじっと
た暇で未だ置物のように布団に丸まっていた時だった。休憩中の徒弟
髪長狩りがまた現れたという報が届いたのは、三平が怪我でもらっ
顔をした。
こだよ﹂
﹁確か、駒込﹂
﹁でも、なんで今になって?﹂
﹁どうやらどっかに潜んでたらしい﹂
﹁ど
ることがいくつもある。
そこで一度下品な笑いが起こる。下賤な会話である。しかし気にな
れてくれなくなるぜ﹂
んだおめえ、羨ましいのか﹂
﹁仏を弄り回すのが﹂
﹁馬鹿云え、誰も触
か怪しいや﹂
﹁いや、あいつら選ばなきゃそれなりに稼ぎやがる﹂
﹁な
たんまり拵えてたんだと﹂
﹁瓦版だろう、俺も読んだぜ。本当かどう
えらくチビで、よくガキと間違われてた爺さ﹂
﹁なんでもあぶく銭を
だったそうじゃねえか﹂
﹁最近は特にだ﹂
﹁ 見 た こ と あ る 奴 だ っ た ぜ。
﹁知ってるよ﹂
﹁やられたのはあっちの身分のやつ
﹁また出たってな﹂
たちの何人かが目と鼻の先で声を隠さず始めた。
云って影は次第に薄くなっていった。消える時は無表情だった。ひ
それが余計に印象に残った。
体を真っ直ぐに保ち、つま先で支える。身体が牢として固まる。
もう一度地面に片膝片手をついて態勢を整えた。両腕を伸ばし、上
が見つかった。
場所を何度となく手をついて探ってみる。しばらくして調度いい場所
立ち上がって庭をうろつく。石の少ない場所、平らで柔らかそうな
照らされ、ひどく冷たい表情をした地面をじっと見つめる。
夜空にため息をひとつ、悟りを開いた仙人のように吐いた。月夜に
やけに耳につく。
三平は口を開け、その場にだらしなく座り込んでいた。鈴虫の声が
どく冷たい目
│
﹁分かりました﹂
見つめて憎たらしくだんまりを決め込む。女将は、ひどく哀しそうな
15
文藝 14 | 82
駒込?思わず口を開きそうになった。そこは最近茂吉とともに訪れ
た場所である。そこで弥次郎と出会い、三平はこうなった。
をも漏らさず救済しようとする大旦那の慈悲の大きさを評して﹁千手
観音の怒り﹂とも呼ばれており、やはり恐れられていた。
った。顔の腫れもかなり引いた。あとは身体の器官の一部になったよ
傷はまだそこいら中に残っていたが服を着ればそれほど目立たなか
﹁博打だよ。あそこにゃごろつき長屋がごまんとあんだろう。そこで
うな鈍い痛みがあるだけだ。
﹁あいつらそんなとこで何やってたんだ﹂
昼夜構わず博打三昧、本当にどうしようもねえ奴らさ﹂
﹁どこの馬の骨とも知れねえ野非人や無宿人相手のたかりなんざ、奉
なんという体たらく、大旦那のせっかくの心意気に申し訳が立たない、
いるような声が出た。もう一度叫ぶと今度は恨みがましい声になった。
団子はいらねえかい、陽気に声を出そうとしたが失敗する。怒って
行所も根詰めて取締はしねえんじゃねえか﹂﹁そうなりゃ世も末だ﹂﹁ま
行商失格だと留まるところ知らず落ち込む。悪いことは津波のように
しかしいいとこに目をつけたなあ、一人が感心したように口を開く。
あおめえの云いたいことも分かるがな。ただでさえ幕府はそれどころ
小さな物事をややこしくこねくり回して続く。
全く覇気のない三平のしょぼくれっぷりが公に露呈し非難されること
芳しくないが、他の徒弟にしてもそれは同じだった。よって近頃より
警戒するよそよそしいものに戻りつつあった。無論団子の売れ行きは
ようやっと見え始めていた江戸の活気は、小動物さながらに周囲を
﹁団子はいらねえかい﹂
なかった。
もほど近かった。狙われたのはまたも野非人であったが、三太郎では
おととい髪長狩りが再び出たらしい。場所は両国の辺りで日本橋と
じ ゃ ね え だ ろ う。 い ろ ん な と こ ろ で 米 俵 が ぶ っ 壊 さ れ て ん だ か ら よ ﹂
﹁それに、髪長の奴らがそれで満足してくれれば、こっちにゃ被害は
及ばねえ﹂
﹁天下泰平ってか﹂
﹁気の毒なもんだが﹂
今度は物陰で口の端を歪めるようないやらしい感じの笑いであった。
音を立てぬよう注意して布団に潜り込む。
﹁まあ、確かに気の毒なもんだぜ。なんたってその野非人の爺はもう
ほとんど﹂
息をしてなかったらしいからな、その言葉と共に彼らは部屋を出て
いった。三平はしかし、布団の中でしばらく目を開けていた。
いのはある理由も手伝っている。本営である大黒屋の方に近頃客がわ
もなかった。大旦那が行商の売れ行きについてそれほど檄を飛ばさな
一週間と少しして三平は行商に復帰した。大旦那が何も云わず送り
しかし、と思う。
んさと沸いているらしい。片田舎に軒を構えているために、危険なご
文句は云えまい。しかし、大旦那はこういう時何も云わない。全てを
しんとした日本橋に足を向けるたびいつも異様な気を感じる。こん
出してくれたのは有難かった。非番の日に町で諍いを起こし今回は何
岩のような堅い目で見透かし頷くだけだ。内心はものすごく怒ってい
なに殺伐とした江戸は奉公に出てきて以来初めてだった。奉行所は一
ろつきが現れる心配がないためであった。
るのかもしれないが決して面には表さない。分からないからとにかく
体何をしているのだろう、これほどまでに渡世が乱れているというの
日も勤めに穴を空けたのだ。本来ならば即座に徒弟の契を切られても
全身全霊で忠を尽くすしかない。徒弟たちの間でそれは、どんな徒弟
83 |三平の力こぶ
に。それも目に見えてである。奉行所だけではない、町の人間にもそ
﹁今日は、そのお、なんかあんのけい?﹂
らしさと呼ぶのだろうと、思わず感心してしまったほどだ。
頭上に目を向けながら、しかめっ面で云
突然声を荒げた小僧に飛脚はうおいと驚いて見せたが、頭を搔いて
﹁お奉行さんは何やってるだ!﹂
こんな感じだ、流れる人並みに視線を逸らせる。
﹁騒ぎって云うよりかは、まあ﹂
﹁そんなに騒ぎになってるだか﹂
三平は目に見えて肩を震わせる。
った。
髪長狩りって云ったか
│
﹁向こうで喧嘩だ。例の、なんだ﹂
えと飛脚は笑い飛ばした。そして不満そうに鼻をすすった。
思い切って同じ江戸っ子節で問いかけてみる。変な話し方だなおめ
れは云えることであった。弱き者が虐げられているというのにどうし
て皆声を上げないのか。自分がやられなければいいのか。
憤っているうちふと考えが止まる。
﹁自分がやられなければいいのか﹂
不穏な響きがあった。
いけないことをした小僧がそれを必死で隠そうと小細工を弄するよ
うに、三平は声を荒げた。
﹁だんごお、だんごお、おいしいだんごはいらねえかあ﹂
人目がない時三平はこの歌を歌う。それじゃあ意味がないだろうと
かつて茂吉に笑われたが、初めからこんな歌で客を寄せようとは思っ
ていない。気が紛れればそれでいい。鼻唄で間奏を埋めながら、つま
先でとんとんと地面を打つ。
続けた。
﹁おめえ知らねえのか。髪長狩りにゃ関わらねえ方がいいんだ。誰も
それにしても人がいない。いるのは同じ行商か、手ぶらで歩く男衆、
はたまた昨日今日来たばかりの遊山者ぐらいである。行商はこぞって
報せなんかするかよ。あいつら人でなしでえ。おらあ報復にあった娘
あっちだ、やけに早口で話した飛脚は親指で後ろを指して、そのま
なら今の内でえ﹂
﹁って云ってもこんなに騒ぎゃあ奉行所だって勘付くさ。見に行くん
ひでえもんだった、もう一度重ねて云った。
えもんだった。別嬪だったんだがなあ﹂
の親父さんとはちょっとした知り合いだったんだが、そらあもうひで
彼らに擦り寄っていくしかない。
三平も習って一人の遊山者に近付いて行こうとした時、奇妙なこと
に気が付いた。さっきから人が同じ方向からしか流れてこない。そそ
くさと引き返してくる者などもいた。
どうにも様子がおかしい。
﹁あのお﹂
向こうからやってくる飛脚に手を振る。荒々しい動きでか小僧の声
歩を止めた。なんでえ、と粗野な江戸っ子口調で問われる。その話し
りを見せていたが、すぐに戻ってくると云い張ると渋々納得した。恩
三平は近くの茶屋の店主に天秤棒を預けた。店主は初め嫌がる素振
ま振り返らずに駆けていった。
ぶりは荒さと親しみとを同時に込めることに成功しており、ずいぶん
に着るだ、云うが早いか先ほどの飛脚のように一目散に走り出す。
など吹き飛ばして通り過ぎるかに思われた飛脚は、足踏みをしながら
と様になっていた。こういった過不足なく繫がったしぐさを総じて漢
文藝 14 | 84
│
もしかしたら。
嵐の一歩手前、己を
咤するように声を荒げた。小僧は立ちどころ
ひとつ息をつく。二の腕に力を込める。いつも描いていた風景があ
に消えてしまった。
長狩りに何か思うところがあるようだった。報復はひどいと聞く。三
る。心の中で繰り返し呟く。前方に向かうは敵の軍勢、刀を水平に構
悪い予感が止まらない。今度はもしやと思えてならない。少年は髪
太郎は帳面にも名前の載っていない非人の子である。殺すこととて奴
え、足を肩幅まで広げて。
三平は駆け出した。
らにとっては造作ないかもしれぬのだ。
そして最近になって狙われたのは、いずれも非人たちばかりだった。
なんだあ、というドスの聞いた声で一人がこちらを振り返る。そい
つともうひとりの隙間に身体をねじ込んで向こう側に
人の流れる逆へ逆へと走るうち、長屋の続く通りの裏手に奇妙な気
配を感じた。棒杭が倒れ桶が通りまで飛び出している。人が飛び出し
こにいたのは傷だらけの六、七歳ほどの少年だった。三太郎ではなか
裏道の入口に立つ。
ている。おそらく巾着が抱えられているのだろう。
った。見るともう土にまみれ、丸くなって腹を隠すようにうずくまっ
りついた。そ
てきたような跡だ。
そ の 時、 頭 の 片 隅 に 小 僧 の 姿 が 見 え た。
﹁ ほ ん と に 行 く の か?﹂そ
く行くと数人の人の群れが見えた。何かを足蹴にしている。私刑だ。
﹁何云ってるだ、行くに決まってるべ﹂そのまま足を進める。しばら
が、動く素振りは見せなかった。怖くて立ち上がれぬのだろう。痛く
けて、早く行けと小さく云った。少年は涙を流しながら微かに呻いた
一番先頭にいた背の高い男が云う。三平はそちらを見ずに子供に向
﹁なんだおまえ﹂
駆けていこうとした足が止まる。あそこにもう一度飛び込むのだ。
て仕方がないのだろう。話さなくても分かる。三平には分かるのだ。
っと囁く。
小僧はけらけらと笑う。
びじゃねえ、本当にヤバい奴らの本当にやべえ暴力なんだ。こないだ
何してんだと一人がぼやいていた。
後ろにいた者も合わせて八人ほどであった。八対一。見張りのやつあ
﹁無理すんなって。本当は怖いんだろう? 知らなかったんだよなあ、 この子はおらが守り抜くんだ。
敵の方へと目を向けた。人だかりで遠目からは分からなかったが、
しょうがねえじゃねえか。でも前の時に分かったろう。こいつはお遊
なんかの比じゃあねえかもしれねえぜ。中途半端に喧嘩の仲裁なんか
﹁もうやめてくれねえか。これ以上すると死んじまうだ﹂
手下を大量に引き連れて歩く。
旗本の奴なのではと当たりを付けた。あいつらは紋付きの着流しで
が親分格らしい。
一同からもやけに大きな馬鹿笑いが漏れる。どうやらこのひょろい男
おお正義の味方か、目の前の背の高い切れ長の目をした男が笑った。
したって痛てえだけだろ。何が変わるんだ? やられんのがおめえに
なるだけだ。でけえ視点で見てみりゃあ、結局はてめえの自己満足で
しかねえんだよ﹂
やめにしようぜ、頭の横で手を振ってみせる。悟ったふうにため息
をつく。
﹁うるさい﹂
85 |三平の力こぶ
﹁じきにお奉行さんが来るだ。おめえらも早く行っちまえ﹂
体が横に吹っ飛んだ。
くりと一歩歩み寄り
│
﹁誰に指図してんだ、正義の味方君よ﹂
右腕を振りかぶった。三平の頰がへこみ、身
一斉に野卑な声が飛んだ。赤黒い血が鼻から垂れる。
﹁正義の味方、成敗してやる﹂
る。
続いて中でも大きな身体をした相撲崩れらしき男に腹を踏みつけに
旗本奴はへらへらして云った。一歩近づき三平と腕一本の距離に迫
﹁おめえたちに云ってんだ﹂
され、あまりの痛みに一瞬意識を失った。象のように重く大きな足だ
った。その足を払い除け立ち上がろうとしたが、途端に新たに出てき
ごろつきたちの表情が微かに強ばった。先程まで緩んでいた口元は
厳しく閉じられて、眼は刃物のように鋭利になる。
た男に着物の襟を手荒く摑まれ引っ張られる。そのまま膝が頰に飛ん
らんでいく。
できた。右目の半分ほどが塞がった。頰に明らかな異物感と痛みが膨
﹁おい、もういっぺん云ってみろよ﹂
声は低く身体の奥を震わせる重低音だった。触れらてもいないのに
押されているように感じる。
それからは暴れ牛が柵を乗り越え迫ってくるように、膨大な熱が身
三平はもう、立ち上がろうともしなかった。
上目遣いで相手を見据える。恐怖は身体中を舐め回している。鈍い
体中を叩いていった。荒い轟音と痛みの風が舞っている。うずくまり
﹁おめえたちに云ったんだ!﹂
痛みがやめろやめろと警句を発している。それでも仁王立ちして胸を
必死になってそれを耐えた。ただ耐えることしかできなかった。
意識が遠のいて、最後にはそのどれもが消えた。
張り続けた。後ろには傷付いた少年がいたからだ。
無理すんなって、小僧の声をかき消して、三平は声を張り上げた。
暗闇の中、遠くの方で泣き声がひとつ聞こえた。
町奴たちの跡に残ったのは、うつ伏せに横たわった三平と、懐を開い
奉行所の人間が駆けつけたのは少ししてからだった。散っていった
﹁おめえらはひどいやつだべ。弱えもん痛ぶってへらへら笑ってる。
みんな迷惑してるだ。みんなおめえらなんか大嫌いなんだ。怖くて云
えねえだけなんだ。だからおらがはっきり云ってやる。おめえらは悪
もんだ、格好悪いだ!﹂
に唱え続けた。まるでそうしていると誰にも触れられぬ岩壁が自分を
れ込んでくる。手も足も何も感じぬため本当に健在なのかも疑わしい。
感覚が全くなかった。目は上手く開かず口の端から苦く酸い汁が流
て倒れている少年だけだった。
守ってくれるのだとでも云わんばかりであった。口を閉じると震える
ちぎれてどこかに投げ飛ばされたのかもしれない。痛みを感じること
おらは間違ってねえこいつらが間違ってんだ、心の中で念仏のよう
顎が落っこちてしまいそうだった。しかしほんの少しの開放感が、小
が出来るのは背中の漠然とした辺りと頰骨だけだった。
は二週間の暇を出された。
茂吉が迎えに来てくれて大黒屋に帰り着くことができた。大旦那に
さな身体を満たしていた。
﹁もうじきお奉行さんが来るだ。だから早く行っちまえ﹂
無表情で親分格の旗本奴はしばらく黙って聞いていた。そしてゆっ
文藝 14 | 86
本来ならばこの度の余暇はこんなものではなかっただろう。二週と
云わず永遠に野原に放り出されていたかもしれない。だが今回は少し
話が違った。髪長狩り、大旦那は茂吉がそう云ったのを聞いて考えを
保留するように口を開いたのであった。
三平が両拳を振り上げ率先して喧嘩を起こすなどということがあり
えないとは、皆一様に慮っていることだった。一方的なものだろう、
はなかった。髪長狩りの話も大黒屋では一切聞かれなくなった。三平
の手前、それは禁句のように扱われた。
重い身体を久しぶりに起こす。時間をかけて中庭に出る。外の空気
を吸いたくなった。ずっと閉じこもっていても考えることはいつも同
じだったからだ。まるで出口のない袋小路である。おまけに後から後
から息の荒い町奴どもが追いかけてくる。
だが現実として、誰ひとり優しい言葉をかける者はいなかった。皆
門の方へと導かれていった。今日も本営は繁盛している。行商など必
忙しく動き回る徒弟や女中を見ているうち、尻をつつかれるように
行き着くところは寄る辺ない倦怠と緩やかな眠気であった。
腫れ物に触るみたいに遠巻きに寝込む三平を窺った。唯一聞いたのは
要なのだろうかと卑屈になってそのまま外に出た。そんなことをして
被害者なのだろう、そんなことは皆分かっていたのだ。
茂吉の声だけだ。
もいずれは戻らなければならぬというのに、ただ居たたまれずぐいぐ
い足は進んだ。歩き始めると痛みはあまり気にならなくなった。
﹁いつか死ぬぞ﹂
いつか死ぬ、また一度繰り返して、もうそれだけだった。
向島から江戸の町に通じている橋を渡る。向こうには田んぼで稲を
刈る百姓の姿が見える。広がる風景はひどく疎遠に映った。もう秋か、
それでも大黒屋に居着くことができたのは、両親の懇意と茂吉の必
死の懇願からであったと後から聞いた。海の底で静かに唸る怪物のよ
そう他人事のように考える。
浮き足立って歩調を早めた時、三平は派手に転んだ。桶に躓いたの
丘だ。
く。あの場所に行ってみよう。三太郎に教えてもらった夕日の見える
に行きたい。誰も自分を知らない場所に。そうしてそうだ、と思いつ
気の向くまま足の向くまま、江戸の隙間を練り歩く。知らない場所
はつまり殺伐としているということである。
江戸の町並みはいつもと変わらぬものだった。いつもと変わらぬと
うな厳かな怒りを燻らせていた大旦那が一度鳴りを潜めたのも、そう
いったあらゆる事情が加味された上のことだった。ただ一言明確に示
唆された事柄は、次はねえぞという手短なお達しだけだった。
十日が経った。いちおうは追い出されることもなく、肩身の狭い思
いで三平は座敷わらしのように徒弟部屋に住み着いていた。
にとり憑いた怨霊のような鈍痛もあれば、笑っても泣いても裂けるよ
て深呼吸した。ようやく立ち上がって辺りを見回すと、よく分からな
あまりの痛さにもはや叫ぶこともせず、仏のように静かに目を閉じ
だ。
うな痛みが口の端に走った。緩慢で無表情な日々が続いた。空が青か
い場所に出ていたことに気が付いた。歩いた方向から考えると下谷の
あれからも依然として傷は痛み、歩くことにも苦痛を伴った。骨身
ろうが曇りだろうが何も感じない。茂吉ともあれからろくに話すこと
87 |三平の力こぶ
16
辺らしかった。
うらぶれた場所である。灰色の墨をそこらじゅうにまぶしたような
煤けた藁などが転がっている。また厭な予感がする。物が散乱してい
るのにも拘わらず人が住んでいる気がしないのである。
ところどころ生活感はあるのだけれど、肝心の人の気配が感じられ
ない。それはつまり潜んでいるということではあるまいか。やはりこ
景色だ。
厭な予感がする。こんな雰囲気を知っている。
の気配には心当たりがあった。
遠くで荒々しい声が聞こえたのはその時だ。
行く先も定まらぬまま歩を早めた。一転して知っている眺めが恋し
くなる。
自分の周囲で何が起こっているのかを僅かながら理解した。知らぬ
同時に確信する。似た場所を知っている。駒込、ごろつき長屋だ。
少年のことを考えると何故だか胸が苦しくなった。どうしてだろうな
うちにごろつき長屋に迷い込み、そうして近くで何らかの争いが始ま
ふと三太郎のことが頭をよぎる。最後に顔を合わせてもう随分経つ。
ぜだろうと自問してみるが一向に答えは出ない。ただ今出会ったとし
りつつある。
またつまずいた。今度は足でなく頭の方だ。
しない。
きたいところに道はなかった。しかし依然として声は近づきも離れも
長屋は妙に入り組んでいた。曲がりたい時に道はなく、真っ直ぐ行
べき道は全く見えない。とにかく声から離れようと努めた。
れるのはごめんである。しかしどこをどう来たのかもおぼろげで進む
らはおさらばしなければいけない。単なる悪党同士の喧嘩に巻き込ま
きょろきょろと辺りを見回し出口を探した。急いでこんなところか
て、どんな顔をしていいのか分からない。中庭で膝を折ったあの日か
ら、腕立て伏せはしていない。
﹁正義は貫いたんだろう、何をそんなに気後れしてやがる﹂
小僧が現れる。頭の後ろに両手を重ね、脚を緩く交差させている。
顔にはいつもの軽い笑みが見える。
﹁腕立て伏せもやんねえでよお﹂
三平には分かる。こいつは自分を小馬鹿にしている。そっぽを向い
て進む。
﹁無視はいけません﹂
いくら思うように進めぬと云っても、はっきりと離れようと努めて
いるのにどうして声が遠くにいかない。こんな真昼間のうらぶれた長
小僧は唐突に消え、今度は女将が現れた。いつもの諭す口調だ。知
らずぺこりと頭を下げる。
屋の影で、怪現象などちゃんちゃらおかしい。
いったい誰を追っているのだろう。
かを追っている。声はどんどん数を増していくようだった。
合点がいった。拳で手の平を打つ。移動しているのだ。おそらく誰
﹁おい、そっちに行ったぞ!﹂
疑問の答えは突如として輪郭を増した声で明らかとなった。
﹁何か思うところがあるのでしょう。目を背けてはいけません﹂
女将は泳ぎ回る三平の目を真っ直ぐ見据えて、消えた。女武将のよ
うな精悍さだった。女将はいつも肝心な事は何も云わない。
進むうちそこが細長い長屋の裏道であることに気が付いた。何棟続
いているのかは知らないが、えらく長かった。
人が誰もいなかった。ところどころにささくれだった棒切れだとか、
文藝 14 | 88
胸がざわつく。関係ない、早くこんなところから抜け出さなければ。
して残り少ない体
物音がしなくなった。心臓は妙に冷えていく気がする。弥次郎のよ
く動く表情の変化だけがやけに分かる。
﹁まあ非人頭四人全員に聞いても知らねえの一点張りだったみてえだ
一本道の途中、横に抜ける細い道が見えた。安
力をさらに振り絞って走る。たどり着いて膝頭に手を付いて一息つい
から、偽名なのかもしれねえが﹂
﹁前はてんで失敗ばかりで、出てくりゃいい憂さ晴らしの種になって
おめえと似てるんじゃねえか、愉快そうに笑う。
だからねずみ小僧ならぬいたち小僧だ。格好いいこって﹂
﹁こいつがまたおもしれえガキでな。なんでも町奴だけを狙うんだよ。
する。
おいどうした聞いてねえのか、鼻の前に鬱陶しく手が何度も行き来
た。走ったのと焦ったのとで動悸が異常にはやっている。俯いた三角
頭から汗が止めどなく垂れ流れる。
そして、三平はそれを視界に捕らえた。勾玉のような形をした、尖
った小石であった。
背筋の毛が一斉に逆立つ。飛びつくように拾い上げてすぐに後ろ手
に隠した。ちらと左右を盗み見る。
なんだこれは。どうしてこんなものがこんなところに転がっている
たそうだが、近頃めっきり姿を見ねえ。そう思ったら、知らねえ間に
巾着がねえって奴がごろごろいてなあ。さてはあのくそガキの仕業に
のだ。
その時である。横から声がかけられる。
﹁おう三平じゃねえか﹂
違いねえってことになった﹂
﹁なんでそいつだって分かるだ﹂
弥次郎だった。おめえはいつも物騒なところにいやがるな、何でも
ないのに愉しそうに笑う。おうそうだ、いいこと教えてやるぜ、嬉々
﹁三太郎の野郎が近頃被害にあった町奴の巾着を持ってんのを見たっ
それが分かるんだなあ、腕を組んで得意げに云った。
﹁いい見世もんがあるんだよ。特別だ金は取らねえ。おめえにゃガキ
て報があったのさ。こいつは決まりだ。今までは黙ってやってたが、
とした表情で抜け道の向こうを指差して云う。
の頃から散々迷惑かけたんだしなあ。実はよ、さっき向こうでスリの
こうなるともうかわいくねえ。皆で情報出し合って人相書き拵えて、
ひどく不快だった。
ている。
今度は自分の首を絞めて苦しそうな顔をした。ぐうと呻き声も上げ
思ったのかは知らねえが﹂
なんでまだこの江戸にいて、よりにもよっておいらたちから切れると
﹁ようやく捕まえた。まあ向こうからのこのこ出向いてきたんだがな。
で、そこで言葉を区切って細い横道を指差した。
いたち一匹逃がさねえ、ってな﹂
ガキを捕まえてな﹂
襟首を摑む真似をする。
﹁こいつはとんだ命知らずでよお、天下の髪長狩りさまの巾着を、尖
った小石で盗もうとしやがった﹂
足元にあった小石を拾って、今度は巾着の紐を切る動きをする。三
平は指の隙間からも見えぬように、手の中の石を強く握り締める。
﹁最近ちいっとこっちの世界じゃ悪目立ちしてるガキでなあ。名前は
確か﹂
いたち小僧の三太郎、弥次郎はそう云った。
89 |三平の力こぶ
﹁あいつひでえことになるぜ。なんせあっちの身分なんだろ。おれた
ちゃ向かってくる奴には容赦しねえんだ。もう始まるんじゃねえか﹂
大きな身振りで両方の耳に手を添える。ほら聞こえるだろ。それは
三平にも聞こえた。
荒いけもののような声と、細いうめき声だった。それが三太郎の声
なのかどうかはよく分からない。
三平は拳を握り締める。腹に力を入れると身体中が痛んだ。ああそ
れとなあ、隣でまた口が開かれる。
気な遊山者を狙ってりゃあ良かったのによ。
﹁町奴だけを狙うようになったのは、ここ最近の一年かそこいらのこ
とらしいぜ。今まで通り
ほんといったい、誰に似たんだかなあ﹂
おいらはここで待ってるからよ、そう云って弥次郎は背中を強く押
した。
だんだんと声に近づいてい
ゆっくりと足音を立てず一歩を踏み出す。前方に向かうは敵の軍勢、
│
えてえげつないひどいものだと云った。
刀を水平に構え、足を肩幅まで広げて
くのが分かる。
それを話すとき皆は口を
別嬪だった女の顔はもう戻らないらしい。打ちのめされた野非人の爺
はどうなったのか分からない。死んでいるかもしれない。自分は、い
ったいどうなるのだろう。
怒声と、硬い布と布を打ち合わせるような音で三平は我に返った。
もう始まっている。すぐそこだ。
角から向こうへとそっと顔を覗かせた。そこには数人の人だかりと、
拳闘の姿勢をして立ち向かう少年がいた。懸命に相手を見据え、瞳は
目にあっという間に雫が溜まる。塀の角を握りつぶさんばかりに手
を押し付ける。
どうしておめえがここにいるんだ。捕まっているんだ。ああ、駄目
だ、もう止めろ、立たなくていい。うずくまって耐えてるだけでいい
んだ。そうすりゃ相手も許してくれる。反抗すると面白がるだけなん
。
命?
だ。躍起になって虐め抜いてくるんだ。いいからもう止めろ、早く止
│
めちまえ、じゃねえとおめえ
﹁死んじまうぞ、ってか﹂
小僧が口の端を歪めながら現れる。
﹁じゃあなんでおめえは早く行ってやらねえんだよ﹂
へへ、そう意味もなく笑う。
尖った石を握り締める。
│
大丈夫だ、今行ってやる。正義の旗の下、命を賭けて。
弾みをつけようと膝を曲げるが、萎みかけの鞠のように力なく脱力
してしまう。自分の身体ではなくなってしまったようだった。
ない頭を必死で捻らせる。どうして足が動かない。そうしてあるこ
とに気が付いた。いつもなら内からむくりと湧き上がってくるあの感
情がない。まったくないのだ。
その間も痛々しい声は聞こえていた。湿った生音も聞こえた。何か
が壊れる音だった。
﹁だからてめえはなんで行ってやらねえんだって。てめえを慕ってる
ガキが今にも虫の息だってときによお﹂
小僧は拍車をかけてくる。おらおらおらと足の指をぴんと張ってこ
ちらをつつく動作をしてみせる。三平はじりじりと汗の滲んだ上目遣
﹁おらは﹂
一切の光を失っていなかった。身体にはすでに数多の傷が付いている。 いで小僧を見据えた。
三太郎だった。
文藝 14 | 90
もむなしかったことは、三平自身もそれを分かっていてなお、しがみ
つくように滑稽な芝居をしばらく続けていたことだった。
弱々しくまた視線を落として二の句を継ぐ。
﹁痛感しちまった。おらは弱え。身体も満足に動かねえままだし、ま
﹁あなたの心はもう、過去の正義にはないのですね﹂
ずくまり地面に額を押し付ける。嗚咽を堪えることは最低限の危機感
三平は頰を両の手で押さえた。涙がとめどなく流れる。その場にう
そんな顔だった。
女将は今度は目を細め口元を緩めた。優しいような哀しいような、
たなんにも出来ねえで終わっちまう。そりゃああんまり、あんまり﹂
うんたらかんたら、最後は纏まりきらずこんにゃくみたいな言葉を
吐いた。ふーんと小僧は偉そうに頷いて、薄くなっていった。
﹁だから助けにいかないのですか?﹂今度は女将の番だ。
﹁助けにいかねえんじゃねえ。助けられねえんだ﹂
が忘れなかった。入り乱れた感情の間で最も強く感じていたことは、
皮肉なことに他ならぬ恐怖であった。
いえ、と強く首を振る。
﹁あなたは助けることができますよ。身体は痛むかもしれない、先の
﹁もういいじゃねえか﹂
嵐が吹き荒れる。痛みと熱と寂しい夜。何度
誰も助けてくれなかったんだから﹂
﹁嫌になったんだろう。分かるぜ、報われねえやな。おめえのことは、
女将の隣から声が聞こえる。小僧はいつになく優しげだった。
二の舞になるかもしれない。しかしあなたは、それができます。云っ
ている意味が分かりますか﹂
答えなかった。代わりに先手を取って即座に﹁そ﹂と一言呻く。
﹁そ
れに﹂
│
荒い声。乾いた音
も何度も通り過ぎた静かな夜。そこには誰もいなかった。暗い闇の中
女将はゆっくり深く頷いて次の言葉を待っている。急かされてでも
いるように三平は話し始める。
で、三平はひとりだった。声が聞こえるだけだった。
影が浮かび上がる。
隣あった二つの影は緩やかに混ざり合っていった。やがてひとつの
﹁今までよく頑張りました﹂
﹁満足したろ﹂
﹁あいつの心意気が、自分ひとりの力でやってやると﹂
云いながら、ちらと相手の顔色を窺った。冷たい、能面みたいな表
情が浮かんでいた。
﹁噓はおやめなさい﹂
ぴしゃりと云った。優しき声音は衣を脱ぎ去って、厳かな中身が覗
三角頭で腹のまん丸と出っ張ったその影はうずくまっていた。夕日
に照らされた田んぼの陰。ずっと俯き泣いている。次第に日は落ちて、
いていた。
﹁おらは、おらは﹂
周囲は闇に満たされる。正義の旗の下で少年はずっとひとりぼっちだ
三平は初めて彼に手を差し伸べた。
った。
﹁分かっています﹂
手から何かがすり抜けていった気がした。どんどん、止めどなく、
心から、肩から、二の腕から、何かが溶けてなくなっていく。それが
分かって急いで手を丸めてみたが、なんの足しにもならなかった。最
91 |三平の力こぶ
し逡巡したのも間違いない。角に手を当てて顔を近づけたことも間違
あるだけだった。反射的に角の向こうを覗こうとして、止めた。しば
く気にならない。今日は待ちに待った日なのだ。おらにはそれを丹念
は早くしろとでも云いたげにこちらを見ているがそんなものはまった
必要以上に壁にかかってある品書きを睨んでは吟味する。店の親爺
ませていた。
いない。しかし結局そうはしなかった。元来た道を引き返し、途中で
に味わう権利がある。
我に返り辺りを見回しても、世界が知らんぷりするような静けさが
そっと拾った石を元に戻した。
がまだ腹の中に残っているようであまり空腹
は感じなかった。どうしたものか。迷っていると小鳥がちんちん鳴く
しかし昨日つまんだ
して無傷の三平を探るようにまじまじと見て、云った。
声が耳についた。なんとものどかな休日である。迷ったふりをして一
細道を戻ると﹁おお、帰ってきたのか﹂と弥次郎が手を挙げた。そ
﹁そうかそうか。これでおめえもおいら達の仲間入りだ﹂
日中ここに腰を落ち着けてやろうかとも考えたが、それは流石にまず
遠くで荒い声がする。皆が白々しく同じ方へ流れていく。後に続く。
わず忙しなく茶屋を出る。
途端に三平はいそいそと茶を飲み干し、すぐさま歩き出す。何も云
ふいにどこかで大きな物音がした。何かを叫ぶ声も聞こえる。
は、いまは虚空を睨んでいる。
軒の向こうに見える空をぼんやりと眺める。ぼんやりと。三平の目
別だった。
一つの生命を宿したみたいな温かみが広がる。金を払って飲む茶は格
丸くなった腕でずずずと茶をすする。とても旨い。お腹に何かもう
んだ。
い。そろそろ親爺も一言云ってきそうだったので安い抹茶をひとつ頼
頭の後ろに手を組んで、小僧は実に清々しく笑った。
だんだん空しい気分になって、足早に橋を渡った。
一切振り返らない。腕を組んで目を伏せて、肩をそびやかし去ってい
く。寒いからっ風が背中を追いかけてくる。もはや関係のないことだ。
江戸の町は賑わっていた。髪長狩りはどこに行ったのか
聞かなくなった。殺伐としていた江戸は次第に息を吹き返し、何もな
転ばぬように気を付けることだけだ。
それだけ考えて、もう考えることはしなかった。注意することは、
きぬのだ。
理由はいくらでもある。いくらでもあるけれど、とにかく自分にはで
だった。三平はこの幸運をいたく喜び、いつ使ってやろうかと胸を弾
に四文銭が備えられていた。一週間ほど前店の裏で偶然見つけたもの
日本橋の茶屋で少し休憩を取ることにする。何を隠そうこの日は懐
かったようにまた元の賑わいを見せた。
もあまり
装いになる。寒そうだなあと思わず同情を寄せてしまう。見ていると
隅田川を跨ぐ橋を渡る。この時期の田畑は刈り入れが終わり涼しい
んでいた。
空は晴れ渡り雲ひとつなくどこまでも続いていた。空気は透明に澄
息は真っ白に染まった。
外には冬の風が吹いている。三平は腹の底から温めた息を吐いてみた。
それから数日経ったある日のこと。非番をもらって町に出た。もう
17
文藝 14 | 92
三平はもう腕立て伏せをやめたのだ。
93 |三平の力こぶ
研究室賞受賞作品
仏
白鳥幸輔
ヒーローとしての仏像との出会い
小さな頃、ヒーローに強い憧れを持ってい
た。男の子であれば一度は通る道だろう。弱
上、わりと詳しく仏像や仏教のネタを入れて
くるのでお話全体があまり華やかには見えな
い。打ち切りという結末も仕方ないとすら思
った。
息子にせがまれてそれを買い与えた両親も不
し か し、 私 は こ の 漫 画 を 甚 く 気 に 入 っ た。
手に男としてのかっこいい生き方を見た気が
思議に思うくらい何度も読み返していた。ペ
きを助け、悪を挫く。無償で差し伸べるその
した。
し む 目 で﹁ 面 白 い?﹂と 聞 い て く る。 私 は 満
って流し読みした母が訝
あ る 漫 画 が き っ か け で あ っ た。
﹁仏ゾーン﹂
面の笑みで﹁うん﹂と答えたのだが、親とし
ージをぺらぺらと
というド直球なタイトル。有名な少年漫画誌
ては複雑だったかもしれない。
私の仏像との出会いは小学三年生の頃。と
に連載されていたそれは、主人公が仏像とい
仏像との出会いはそんな軽いものだった。
なんだって最初はあっけないものである。私
う異色のものである。その漫画の第一巻の帯
に書いてあった作者、武井宏之氏の言葉を私
は仏像の中にヒーロー像を見ていた。
知ったのはこの漫画だった。三巻の巻末で作
る。思えば﹁打ち切り﹂という言葉を初めて
を手に取っていた。この漫画は全三巻で終わ
し か し﹁ ヒ ー ロ ー﹂の 文 字 に 惹 か れ て、 そ れ
で、昼間なのに随分と世界は暗く見えた。車
だった。二月に入ったばかりのその日も大雪
の地元・長野県は例年に比べても雪の多い年
き。いまでも思い出すことができる。その年
最初に仏像と出会ったのは小学六年生のと
仏像との出会い
はいまでも覚えている。
﹁仏像は世界最古のヒーローだ﹂
もう仮面を付けてバイクに跨る正義の味方
者は恨めしそうに﹁打ち切り﹂の文字を書き
で移動することも躊躇うような雪道を歩いて
も、光の巨人も卒業していた幼き日の私は、
連ねていた。どうやら漫画業界というものも
そのお寺は夏休み中に子供たちを招いて座
行った先が、地元の小さなお寺だった。
だ。確かにメインターゲットである小中学生
禅や般若心経を教えてくれている。強制では
楽ではないらしい、と幼いながらに思ったの
男子には仏像は受け入れづらいだろう。その
文藝 14 | 94
心経を覚えているのがかっこいいと思ってい
私と周りの友人たちは毎年通っていた。般若
ないのでわざわざ行く子供は少なかったが、
こうと言う。めったに見られないものだから
と駄々をこねた。母は少しだけ秘仏を見て行
と 終 わ り を 迎 え、 私 た ち 兄 弟 は 早 く 帰 ろ う
人で終わり時間は逆算し始める始末だ。やっ
るようになった。最初は図書館で仏像の本を
それ以来仏像に興味を示し、自分でも調べ
仏像を知る
た。少しずれた少年たちである。
当然だ。だがそんなことは子供には関係ない。 片っ端から紐解いていく。しかし、本に映る
仏像にあの日見た十一面観音像ほどの魅力は
そんな経緯もあって私にとっては馴染みの
さっさと見て帰ればいい。渋る私たちを母は
秘仏は本堂の中にある。この本堂も普段は
深いお寺だった。私の家族がお寺へと向かっ
仰上の理由により非公開とされ、厨子などの
中に入ることが許されておらず、そういった
仏像は調べれば調べるほど驚きや発見が見
感じなかった。やはり実物の迫力には勝てな
扉が閉じられたまま祀られる仏像を指す。年
場所ということもあり、外の光はほとんど入
つかる。手垢に塗れたことでも、それを初め
そう言って説得させた。
に一回、または数日だけ一般にも御開帳され
ってこない暗闇だった。その中で、蠟燭の灯
て知る少年にとっては関係のないことだった。
たその日は秘仏の公開日だった。秘仏とは信
る。他にも月に一回と、高頻度で御開帳され
りに照らされている秘仏だけが浮かび上がっ
中学生の頃の担任が﹁三大欲求と呼ばれる食
へと向かった。仏像に興味のない家族にとっ
ので、その獅子舞を見るために私たちはお寺
父がその獅子舞の保存委員会の一人だった
それを兼ねて特別に御開帳となった。
地元の伝統文化の獅子舞がお祝いの年を迎え、
まで開くことはなかった。しかし、その年は
ばその年の御開帳の予定はなく、二〇三二年
つの像であるはずなのにまったく別の顔を見
それによって生まれる影の部分。陰と陽。一
うにも見える。蠟燭に照らされている部分と
するためにこちらを捕まえようとしているよ
るために手を差し伸べているようにも、断罪
を述べた。そう、たしかに怖いのだ。救済す
隣にいた弟はそれを見て﹁怖い﹂という感想
ようになっていく。
まま派生するように戦国時代や幕末を調べる
のあるものを調べることに嵌った私は、その
い。調べるほど知りたいことが増える。歴史
べ上げていたのだ。調べてもまだ底が見えな
との楽しさに憑りつかれて、仏像のことを調
が、いまなら分かる。私は知識欲を満たすこ
と語った。当時はあまりよく分からなかった
とは何かを一切知らない少年でも理解できる。 欲、睡眠欲、性欲に匹敵するのが知識欲﹂だ
ずにいた。
いのだろうか。そのときはまだ原因を分から
る秘仏もある。
て見えた。とても幻想的な空間だった。芸術
て、秘仏は父が舞う獅子舞のついででしかな
せる。それが私にはとても美しいと思った。
そのお寺の秘仏は六十年に一回。本来なら
い。その頃の私もそこまで仏像に興味はなか
秘仏、十一面観音像。それが私と仏像の最
父の獅子舞を見ているときも心ここに非ず。
でしかなく、早く帰って炬燵に入りたかった。 初の出会いだった。
なる。後にここで得た知識で就職活動を乗り
かず、いわゆる無駄知識が増えていくことと
トの点数を上げるような知識はあまり身につ
満たされていく知識欲。しかし学校のテス
った。こんな大雪の日に外出することが苦痛
獅子舞の内容も全て把握しているので弟と二
95 |仏
切るのだが、それはまた別のお話である。
る。 東 大 寺 と 言 え ば 大 仏 様。
﹁東大寺盧舎那
っているのだと思ってとりあえず近づいてお
必要だな、と思ったが私がいくらお辞儀をし
仏像﹂が正式な名前だが、大仏様で通じるし、 辞儀をする。こういう姿勢が現代日本人にも
何より東大寺盧舎那仏像と言ったほうが伝わ
大仏様は聖武天皇が自分の権威を誇るため
当に可愛かった。すぐに
たところで恵んでもらえることはないだろう。
中学三年生。運の良いことに私の学校の修
に作らせたという説が濃厚だ。国中の銅を集
辞儀する鹿に﹁もうないよー﹂と言いながら
らない。
学旅行先は京都と奈良だった。思春期の学生
め、大量の人員を割き、完成した大仏様はた
手をひらひらとする。すると、そのお辞儀の
京都、奈良へ
は同じ関西なら大阪に行きたいと文句を垂れ
しかに他の者を圧倒する大きさである。
行き先も三十三間堂や東寺、広隆寺等々。さ
を見ることのできるチャンスだ。全体行動の
と言っても古都、歴史の宝庫。数多くの仏像
像好きのSくんも俄然盛り上がっていた。何
じにくいと思って、心のどこかで冷めてしま
んだかこれだけ大きいと逆にありがたみを感
私も初めて目にする大仏様に興奮したが、な
口 々 に﹁ 大 き い ﹂と 叫 ん で は 興 奮 し て い た。
実 際、 仏 像 に 興 味 の な い 班 員 の み ん な も
う生き物は悪魔である。閑話休題。
っていく。フンを撒きながら。やはり鹿とい
た私たちを見て満足したのか、踵を返して去
姿勢のままこちらへ突進。思わず悲鳴を上げ
の底も尽き、お
を渡すたびに美味しそうに食べる姿は本
るものだが、私は目を輝かせていた。同じ仏
らに初日の奈良の自由行動の行き先も、半ば
っているところがあった。
の誰かが雨男、雨女なのだろう。無事に着い
私個人は晴れ男の自信があるので、この学級
中に突っ込んできたりする︵しかも鹿本人は
に慣れた鹿というのは珍しかった。車の運転
鹿自体はあまり珍しいものではないが、人間
うに見るし、車との衝突事故が絶えないので
鹿と遭遇する。長野県でも鹿は当たり前のよ
次の新薬師寺へ向かう途中、有名な奈良の
う な 迫 力 が あ っ た。 憤 怒 の 表 情 を 浮 か べ る
いわけではない。しかしこちらを威嚇するよ
れた。圧倒された。大仏様のように特別大き
れると、ずらりと並ぶ十二神将像が迎えてく
が上にも期待が膨らむ。本堂へと足を踏み入
神将像は最古最大のものと言われており、弥
十二の武将・十二神将像だ。新薬師寺の十二
薬 師 如 来 坐 像 と そ の 周 り、 方 角 を 守 護 す る
新薬師寺でのお目当てはもちろん、本堂の
班員を強引に説得する形で東大寺や新薬師寺
た奈良も残念ながら雨空。しかし、しとしと
ぴんぴんとしていてそのまま自然へと帰っ
を入れてもらった。出発前日は楽しみであま
と降る雨はむしろ古都の景観をより味わい深
ていく︶ので悪魔だなんだと言われているが、 十二神将。その真ん中で慈愛の微笑みを浮か
着いて早速自由行動が始まる。普通は自由
え る。 旅 行 と い う も の は 財 布 の 紐 を 緩 め る
こうも愛らしく近づいてくると天使に見間違
救済と断罪を表す空間となっている。薬師如
べる薬師如来。新薬師寺の本堂、それ自体が
いざ出発日。残念ながら雨の出発であった。
り寝られなかった。
いものにしていた。
行動は二日目に回すんじゃないかと思った
来像を囲むという配置も素晴らしい。ぐるり
らしく、近くに売っていた鹿
を買い与え
が、その年の修学旅行は少し異例だったらし
と回ることで十二神将像一体一体の細部を見
ていた。奈良の鹿は人を見つけたら
を持
い。私の班が最初に向かったのは東大寺であ
文藝 14 | 96
できる。一周した後に確信した。仏像を安置
通ではなかなか見られない角度で見ることが
て取れることができ、薬師如来像の光背も普
だろう。
そ、本に写る仏像には魅力を感じなかったの
置されればやはり少し見劣りする。だからこ
か。どんなに魅力的な仏像でも一般家屋に安
だった。
んだ。ほぼ奈良との県境に住めたことも幸運
進学してからは何回も京都、奈良に足を運
二つの顔を見せる十一面観音像。ずらりと並
のが仏像という芸術なのだ。火の揺らめきで
ものは少ない。十二神将も本来は弥勒菩薩や
に素晴らしい。仏は姿を一つに固定している
また、蠟燭の火の揺らめきとの親和性は特
大阪、しかも大阪芸術大学から目と鼻の先
・葛井寺「千手観音坐像」
そこで、五つほど私が見て感動した仏像を
する場所、空間も含めて魅せることができる
ぶ武神に、中央を統べる医王如来。私を惹き
地蔵菩薩、大威徳明王といった姿を持ってい
紹介したいと思う。
つけるのはこの空間なのだと分かった。
れてしまう。三十三間堂に並ぶ千手観音立像
ートルというお堂の長さのインパクトすら忘
千体も並ぶ千手観音立像は圧巻で、百二十メ
EDライトでくっきりと照らされるのだが、
て、文化財では蠟燭の使用を禁止される。L
は蠟燭の灯りが仏像の劣化の原因となるとし
揺らめきはもっとも適しているのだ。最近で
を除いて、四十本の手を持つ。一つの手につ
いのである。千手観音像は合掌する二本の手
思うかもしれないが、実は千手観音は千手な
手﹂ある。千手観音なのだから当たり前、と
秘 仏 で も あ る﹁ 千 手 観 音 坐 像 ﹂は 実 際 に﹁ 千
井寺。ここの本尊であり、
は、その中に必ず自分と同じ顔をした一体が
どうにも無粋に見える。仏像のことを考えれ
き二十五の世界を救うと言われており、四十
の藤井寺にある
存在すると言う。千体の千手観音立像を飽き
ばこそのLEDライトだが、複雑な気持ちに
二日目、京都の三十三間堂も私を魅了した。 る。こういった流転性を表現するのに蠟燭の
る事なく見ることができる。また、お堂の両
実際文字に起こすと大差ないのでは、と思
手観音像は極めて珍しい。
音と言われる。本当に﹁千手﹂で作られる千
二十五で千の世界を救えることから千手観
なる。
近畿地方への進学、出会った仏像
端に風神・雷神が安置されており、長くなり
すぎて纏まり辛い空間に一体感を与えている。
中央に坐する千手観音坐像の大きさは大仏を
連想させたが、周囲に並ぶ千手観音立像と合
京都・奈良修学旅行は私の仏像への見方を
千手観音立像。芸術的で視覚に訴える空間だ。
という建築の特殊性、その三十三間を埋める
しろ有難味が増すというものだ。三十三間堂
良き雰囲気を残している。京都や奈良と近い
都会でありながら、京都とはまた違った古き
のは一人だけだったらしい。大阪という街は
その年、私の高校から近畿地方へと進学した
長野県から大阪府へ進学する生徒は少ない。
も感動を覚えることができるはずだ。
強いので、仏像をあまり見たことがない人で
わず感嘆してしまう。見た目のインパクトが
小さく眼が彫られている。その緻密さには思
千眼観音像﹂と言う。一本一本の細かな掌に、
手は圧巻だ。また、この像は真の名を﹁千手
時は過ぎ、私は大阪芸術大学へと入学した。 われるかもしれないが実際目にすると千本の
変える大きな転機となった。空間も含めた芸
というのも魅力的だ。
わせて見ることで大きさの違和感もない。む
術。それが仏像の魅力の一つではないだろう
97 |仏
日本国内でも代表的な作品らしかった。年に
で調べてみると奈良の西大寺の愛染明王像が
け有名なものがいいと思い始めていた。そこ
なると逆に初めて見る愛染明王像はできるだ
際の愛染明王像を見たことがなかった。こう
私は愛染明王が好きなのだが、いままで実
・西大寺「愛染明王像」
のも嬉しい。
十八日とわりと高頻度なので時期を選ばない
運 ぶ べ き だ ろ う。 秘 仏 だ が、 御 開 帳 は 毎 月
っている生徒は、通っている間に一回は足を
一つなので、四駅しか離れていない芸大に通
ったりする。どんなに口で説いても分からぬ
本来仏教で禁止とされる暴力のようなものだ
た違った方法で人間を導く。それは例えば、
明王という位は特殊で、彼らは慈愛とはま
く、明王らしい憤怒の表情を浮かべている。
する。造形もこの大きさに対してとても細か
の彩色が残っており、保存状態の良さを実感
る。有名な仏像でこの大きさは珍しい。当時
大きさは四十センチあるかないかくらいであ
じではない。ここの愛染明王像は小像であり、
ると、愛染明王がすぐにお出迎え、という感
に閉ざされていることを窺わせる。堂内に入
踏み入れる。入口は小さく、普段ここが厳重
愛染明王像が安置されている愛染堂に足を
っと奥深くにいるのではないかとすら思えて
は実に幻想的だ。小像であるその姿は実はも
憤怒の表情が暗がりから揺らめいて浮かぶ姿
りだ。その中でうっすらと浮かぶ愛染明王。
微かに外から漏れる光だけがこの堂内の明か
堂内は秘仏が置いてある場所のため暗い。
仰を得られるといいのだが。
る。日本のキューピッドとしてより多くの信
し実際、多くの愛染明王像は弓矢を持ってい
在だ。それにしては荒々しく男らしい。しか
うところのエロスやキューピッドのような存
して若者からの信仰が根強い。他の神話でい
に惹かれている節がある。現在も良縁の神と
煩悩を説くというこの自己矛盾のような存在
る仏として人気も高い。私も仏でありながら
煩悩か。危うげな教えであるが、愛を信仰す
一回の公開日、私はその時もう卒業を控える
者には力の行使も致し方ないという、俗な言
くる。
いと思った。
大学四回生だった。この最後のチャンスを逃
い方をすれば仏様の中の武闘派集団なのだ。
国宝にも指定されている価値のある仏像の
さないために、丸一日暇な日を作り、電車に
面白い。ここの愛染明王像が持つ矢を題材に
一緒に飾られている﹁矢の根﹂絵馬も実に
そのため、その表情は一般的には憤怒を浮か
べている。
揺られて奈良へと向かった。
西大寺は最寄駅から歩いてすぐ、町に溶け
だろうかと不思議に思っていると、どうやら
が聞こえた。遠足か何かで来た子供たちの声
境内へ一歩踏み入れると元気な子供たちの声
の煩悩の一つである。しかし、愛染明王はそ
説く仏だ。本来仏教では愛欲は忌むべき百八
愛を説いて人々を悟りへと導くという教えを
面白い絵である。
目はどうだったのだろうか。歴史的にとても
代目はいろいろとお騒がせな人物だが、二代
二代目市川海老蔵とのことらしい。現代の九
しかし愛染明王は力の行使を行うのではなく、 絵にしたもので、描かれている歌舞伎役者は
愛染明王も同じく憤怒の顔を浮かべている。 した歌舞伎﹁矢の根﹂を舞ったときのことを
境内に幼稚園があるらしい。普段は境内は静
の愛の果てにこそ悟りがあるという教えを説
込むように自然な出で立ちでそこにあった。
粛であるべきだと考えている私も、こうやっ
くのだ。悟りへと開く道か、それともただの
こちらの愛染堂の御開帳は年に一回、十月
て元気な声の響き渡る境内も明るくて悪くな
文藝 14 | 98
だけではない。こちらも国宝に指定されてお
三十三間堂で有名なのは、何も千手観音像
・三十三間堂「二十八部衆」
多くないが、是非見てほしい。
から十一月頃に一般に開かれる。機会はそう
などの災害を防ぐ仏なので信仰は増えていい
どうにもそうはいかないらしい。実際、台風
張られるように信仰が増えればいいのだが、
目を見張るものがある。その不動明王に引っ
あるとされている。近年、不動明王の人気は
楼羅天が吐いた炎、もしくは迦楼羅天自身で
迦楼羅炎としても有名だ。迦楼羅炎はこの迦
たという説もある。上杉家のみなさんは信仰
ていたため、甲冑に﹁愛﹂という文字を付け
の臣下であった直江兼続は愛染明王を信仰し
はより馴染み深い仏である。また、上杉謙信
仰をしていた。戦国時代も好きな私にとって
﹁ 自 分 は 毘 沙 門 天 の 化 身 で あ る ﹂と 言 っ て 信
守護神としての信仰が篤く、かの上杉謙信も
千手院のある信貴山はそういった戦国時代
り、人気も高い。二十八部衆は千手観音の眷
鳥頭に人間の体、という姿はどうにも天狗
との繫がりも深い。戦国時代の三大梟雄の一
の篤い方々だったことが窺える。
ぶ姿は壮観だ。しかし後ろに並ぶ千体の千手
を思わせる。それもそのはず、天狗は迦楼羅
人である松永久秀が焼き払ったのがここ、信
と思う。
観音立像を見ると二十八部衆はいらないんじ
天が変化したものと言われているのだ。京都
貴山なのである。私は戦国武将の中でも特に
属とされており、千手観音の下にずらりと並
ゃないかな、と思えてくる。
には天狗で有名な鞍馬山もあるので合わせて
松永久秀が好きで、その縁で千手院にも訪れ
二十八部衆内で特に人気なのは阿修羅王像。
行ってみてはどうだろうか。
そうに聞こえるが、仏教では毒蛇は煩悩の象
食らうとだけ書くと、なんだかずいぶん残念
る仏だ。蛇を食らう仏と言われている。蛇を
頭に人身の神で、インドのガルダを前身とす
し か し 私 が 注 目 し た の は﹁ 迦 楼 羅 天 ﹂
。鳥
は涙を誘う悲しいストーリーも存在する。
している。また、阿修羅王のバックボーンに
立ち、所謂イケメンのため女性の人気も獲得
四年間で三十三間堂には四回足を運んだ。私
う程に素晴らしい、仏像の宝庫である。この
と、三十三間堂はその長さを忘れさせてしま
のもポイントが高い。千手観音に二十八部衆
れ特徴があるので見ていて飽きることがない
惚れること間違いなし。二十八部衆はそれぞ
まうかもしれないが、実際目の前にすると見
うに有名な仏像に比べると多少見劣りしてし
造形自体も単純に格好良い。阿修羅王のよ
仏像巡りはいつも新しい発見の連続だ。
わったりするのも面白い。そういう意味では
い。仏像は同じ仏でも仏師によって大きく変
毘沙門天のそれであり、違和感はほとんどな
はずいぶん違うので驚いた。しかしその姿は
ろうか。普段他の場所でもよく見かける顔と
いくらか薄味だ。しょうゆ顔、と言った風だ
︵ も し く は 多 聞 天 ︶と は 少 し 趣 が 違 い、 顔 が
千手院の毘沙門天は他でよく見る毘沙門天
武神として男性人気も高く、また中性的な顔
徴とされるため人々の煩悩を食らう霊鳥とし
の仏像巡りでも最多の回数である。
たのだ。
て広く信仰されているのだ。また、同時に毒
松永久秀がここを焼き払ったことを思いな
・千手院「毘沙門天像」
蛇は雨風を起こす悪しき存在とされるため、
大雨洪水暴風を防ぐ仏としても崇められる。
世間にも毘沙門天の名は有名だろう。武神、 護されることを願った。
がら、これ以後は毘沙門天の加護でここが守
また、迦楼羅という名前は不動明王が背負う
99 |仏
・瀧谷不動明王寺「不動明王像」
こちらも喜志駅から河内長野方面へ四駅先
夜ということもあり、灯りはここまでの道
にあったのと同じ乳白色の外灯だけだ。その
あの不思議な体験をしてみてもらいたい。
もちろんこのような形でなくても、こちら
が あ る ら し い。﹁ 滝 行 場・ 滝 不 動 堂 ﹂だ。 あ
やら境内の中にはこの時間帯でも行ける場所
明るいうちに来ようと思った。しかし、どう
不動明王を本尊とする寺院、また別の機会に
ん寺院の中に入ることはできない。せっかく
イブをしていた時に訪れたのである。もちろ
時間ではなかった。夜中、大学の先輩とドラ
この場所へ行ったのは、実はちゃんとした
から時折聞こえる車の走行音だけ。あの世の
聞こえる音も水の流れる音と、ずいぶん遠く
いない。だからこそ生まれた神秘的な空間だ。
な時間に人が来ることを想定されて作られて
されていることが多い。しかし、ここはこん
じることはない。外にあってもライトアップ
しく、また屋内であればあまり夜の暗さを感
公開時間の関係で夜の間に見られる仏像は珍
かに暗かった。でもそれは夜の闇ではない。
仏師は仏像の修復もする。いまの時代に仏像
中にまだ仏師がいるとは考えもしなかった。
実は私はこの漫画を読むまで、いまの世の
私の仏師との出会いだった。
これまたド直球なネーミングである。それが
した漫画である。タイトルは﹁ブッシメン﹂
。
屋 で 見 掛 け た 漫 画。 現 代 の 仏 師 を 主 人 公 に
進学してからしばらく経ったあるとき、本
の寺院には他にもたくさんの不動明王像があ
まり大きくない滝があり、そのすぐ近くに小
果てで不動明王に出会い、罰せられてしまう
が残っているのは仏師が修復を続けたからだ。
灯りがうっすらと照らす不動明王像は、この
さなお堂がある。ここはどうやら夜も開いて
光景が思い浮かぶ。静粛な地獄。それまで多
それを踏まえれば、仏師は過去にしかいない
の滝谷不動駅近くにある寺院だ。日本三不動
いるようで、石像の不動明王が安置されてい
少騒がしかった私たちは、その元気が噓のよ
職人であるはずがないのに。この漫画を通し
る。こういった特殊な環境下でなくても十分
るらしい。私たちは夜の暗い道を外灯の薄明
うに静かになっていた。仏像をあまり見ない
て現代の仏師というものに触れた気がした。
世のものとは思えなかった。怒りの表情が薄
かりを頼りに歩いた。水が流れ落ちる音が聞
先 輩 や 友 人 で す ら も た だ 一 言、
﹁すごいな﹂
この物語の主人公、奈良崎玄造は仏師であ
ということだが、調べてもそういった記述は
こえてくる。辺りには民家はなく、夜に訪れ
とだけ口にして黙っている。石像、という冷
った父を幼少期に火事で失う。大きな父の背
楽しめるので、大変オススメだ。
る人もいないため、まるで世界から切り取ら
たさを感じさせるそれも雰囲気に合っていた。
中を追って仏師としての道を歩み、一人前の
明かりによってぼんやりと浮かぶ。お堂の中
れたかのように静かだった。その道の先に小
イレギュラーな形での選出となるが、この
仏師へと成長した。そんな彼のもとにフィギ
出てこないので宣伝でそういうことにしてい
さな、滝と呼ぶのも憚れるようなそれがあっ
体験はとても不思議で、強く記憶に残るもの
ュア会社社員、三蔵法子がフィギュア制作を
は暗い。私がいままで出向いたところもたし
た。そしてその隣、石像を安置するだけのこ
となった。おそらくいまも変わらず、夜の世
依頼することから物語は始まる。物語は仏像
るのだろう。
れまた小さなお堂があった。その中に不動明
界を見ているだろう。もし機会があるのなら、
仏師との出会い
王は立っている。
文藝 14 | 100
語の肝は﹁仏像制作、または修復の依頼をし
姿を丁寧に描いている。しかし、途中から物
奈良崎の仏像に対する考え方が変わっていく
お話もあり、仏像を彫るだけであればそれほ
にも一般の人に向けた仏彫教室を開くという
い と い う 夢 も あ っ た。
﹁ ブ ッ シ メ ン ﹂の 作 中
憧れてもいたし、仏像を自分の手で彫りた
材を無償で貰えることとなった。大きさも希
し、今回は齋部先生のご厚意で学校にある木
のだが、それでも五千円はくだらない。しか
回の仏彫では三十センチ台を目安にしていた
は五十センチ台で五万円以上したりする。今
木材の値段自体もピンきりで、場合によって
てきた人とその真意﹂という点に変わる。物
ど特別なことではないのだろう。しかしどう
になった。
語が面白くなってくるのはここからだ。
望通りの三十センチ台。感謝してもしきれな
とフィギュアの相違点、または共通点を知り、
仏像の現代日本での立ち位置も描いており、 にも重い腰を上げるきっかけがなく、おそら
さを説く本作は、どこか説教臭くもあるが仏
しかし、それを踏まえた上で仏像の素晴らし
だぞ﹂と言われたが自分が一番自覚している。 ﹁木をしっかりと見て何がいるか見極めなさ
く夢が叶うかもしれない。周りからは﹁大変
て い た。 今 回 こ う い っ た 形 で 予 想 よ り も 早
い。
像好きには嬉しい作品だ。説教臭いのも仏像
それでも彫ってみたい、という気持ちが勝り、 い﹂というものだった。その日帰ってからず
それはときにとてもネガティブな内容に映る。 く老後になって、やっと叶う夢だろうと思っ
を扱っているから、と思えばそうでもないの
その言葉に乗っかることとなった。
っと木と睨めっこをした。最初は大好きな仏
そ の 木 を 渡 さ れ、 最 初 に 言 わ れ た こ と が
ではないだろうか。
を彫ろう。そんなささやかな夢が生まれた瞬
私は仏師に憧れた。いつか自分の手で仏像
にご教示していただけることとなった。齋部
さんの人を伝い、彫刻コースの齋部哲夫先生
芸術大学で、彫刻コースがあることだ。たく
らこそ得することが一つ。それはここが総合
何より、大阪芸術大学に在学中のいまだか
っとの力では動くことのない木の中には仁王
仁王にしか見えない。どっしりと構えてちょ
し、その木の力強さを見ているとどうしても
持できるだろうという目論見もあった。しか
実際好きな仏像であればモチベーションも維
像でもある愛染明王を彫ろうと思っていた。
間だった。
先生には彫像の方法、道具は何を使えばいい
がいるはずだ。そして多くを語らないその姿
そして仏彫へ
のか等を教えていただくこととなった
大学四回生、私は雑誌の出版編集を専攻す
乾いている木が彫像には向いているので、必
形を彫ることを決意した。何より仁王はその
答えだと言われているようだ。私は仁王の吽
勢、まさしく吽形のそれである。無言こそが
ゼミで、企画を考える段階から始める。企画
然的に古い木を使う方が良い像が彫れる。も
造形からも分かる通り男性的な仏像である。
最初は材料となる木材の調達から始める。
会議中、何度も仏像について語っていると、
ちろん、他にも節が少ないか、木目の流れが
今 年 の ゼ ミ の 特 集 は﹁ 男 子 力 ﹂
。男子力を探
るゼミに入っていた。実際に雑誌作りを行う
こんな声が上がった。
いいか等も関係してくるが、まだ彫像の経験
のない私にはとりあえずは関係のない部分だ。 るのにうってつけの仏像だ。
﹁そんなに仏像が好きなら自分で彫れよ﹂
その一言を皮切りに、私は仏像を彫ること
101 |仏
道具を知る
最初に道具について学ぶこととなった。私
はずぶの素人だ。もちろん木彫についての知
識はゼロに近い。知っていることだって漫画
などで得たにわか知識程度だ。最初に道具の
本が渡され、それを一通り読んでから実際の
道具を触ることとなる。とりあえず今回使う
で購入した。
はお借りすることとなった。
ノミもたくさん種類があるのだが、こちら
、彫刻刀
の四つだ。その中でも彫刻刀は用途によって
は背叩きノミというもの。刃とは逆の背の部
道具は大雑把に言うと鋸、ノミ、
様々な種類を使い分ける。今回使用した道具
分を
るものなので、整備は行き届いており切りや
ない。彫刻コースの生徒が実際に使用してい
ことだったので自分では購入、所持をしてい
なければなかなか進まないということらしい。
うに言われた。途中までは大きいものでやら
彫刻刀は刃の大きい物と小さい物を買うよ
・彫刻刀
に利用される。
らいため、大きな彫り出し、大まかな形作り
で叩いて彫るのだ。細かい作業はしづ
を紹介していこう。
・鋸
い。鋸も刃によって用途が大きく異なるらし
こちらの大きい刃の物がなかなか見つからず、
鋸は彫刻コースのものを使ってもいいとの
く、私はそれを学ぶ段階だった
て以来なのでなんとも懐かしい気分になった。
大きく木を彫り出す重要な道具だ。これを
・ノミ、槌
てもらうと、これがどれだけ高いか分かって
トで二千円いかなかったことを踏まえて考え
の計六千円である。小さい刃の物はこのセッ
てない。中学の頃の美術の成績は五段階評価
しかし私は文芸学科だ。デッサンの経験なん
デッサンを描いてくるように指示を受けた。
次はどのように彫り出すかを決めるため、
仏彫、始まる
買うために近所のホームセンターを探し回っ
もらえるだろう。彫刻刀は小学生の頃に触れ
難波まで出てやっと見つかった。一本三千円
たのだがついに見つからず、結局ネット注文
文藝 14 | 102
いだろうか。私は図書館に籠ってデッサンの
てこそ、この仏彫企画の意味があるのではな
振りたかったが、最初から最後までやり遂げ
選択した男である。正直﹁無理です﹂と首を
美 術・ 音 楽・ 書 道 の 中 か ら 消 去 法 で 書 道 を
中、まさかの二を取り、高校の選択教科でも
ムーズに切れて、作業のスピードは増した。
くなってるはずなのにさっきよりもずっとス
言われたとおりにやってみるとスピードは遅
り焦らず、引く瞬間に一番力を入れること。
鋸を引くスピードが速いらしい。鋸はゆっく
た齋部先生がやって来て指導があった。私の
思ったその時、鋸の音を隣の教室で聞いてい
く仏彫風景として見る。まさに仏彫、という
いたノミを で叩いて彫っていく。これはよ
た彫り出しになる。十一センチもある刃が付
が私にとっての一番課題に感じられた。
剣に取り組めるようになるのだろうか。それ
抜き続けた。今回のこの企画で昔のように真
鋸での切り出しが終わると次はノミを使っ
本を読み続けた。しかし残念ながら読んでも
ンの勉強までしていたら一年間で彫り終わる
になったと思って悲しくなる。だが、デッサ
をして合わせた。自分はずいぶん狡賢い人間
て丸写しをした。大きさも引き伸ばしコピー
そこには吽形のデッサン図がある。私は黙っ
流されないようなずっしりとした構え、それ
の力強さを見たときもそうだ。何者が来ても
うして自分と向き合えることは多かった。木
に自分のことを映す鏡だ。仏彫をする中でこ
が続いていた矢先のことだったからだ。まさ
せられた。焦り過ぎて失敗する、そんなこと
な頃育った、自然の多い長野県で学んだそれ
自然の流れに逆らってはいけない。私が小さ
流れにそらなければ変に木が取れてしまう。
また、木は自然のものだ。削るにしても木の
用な私にとってはそれだけで難しい作業だ。
ここである程度細かく彫り出すのだが、不器
す る。 が、 こ れ が と て も 大 変 な 作 業 だ っ た。
作業にそれだけで仏彫している気持ちが増幅
とは到底思えない。仕方のない選択だったの
がいまの私に足りないと言われる部分なのだ
だった。向きを変え、姿勢を変え、考えては
意味が分からない。なので仏彫の本を開いた。 ﹁ゆっくり焦らず﹂
。私はこの言葉にハッとさ
だ。
ろう。
中で私の鋸を引く音だけが響き渡る。これな
顔を見せない時間らしくやけに静かだ。その
火曜の二限、彫刻コースの人もまだあまり
室を借りて作業させていただいた。
七年ぶりだ。この頃の作業は彫刻コースの教
触れたのは中学の頃以来かもしれない。実に
は彫刻コースの物を貸していただいた。鋸に
く切り出す作業に入る。前述したとおり、鋸
を探すことに労力を使い、やることには手を
を見つけることに必死になっていた。逃げ道
癖を治すこともできず、どこかにある妥協点
来かもしれない。いつの頃からかついた諦め
に真剣に取り組むのは、高校の頃の部活動以
少なくなかった。思えばこうやって何か一つ
いかなければいけない時間だと気付くことも
に彫刻コースの生徒がやって来て、もう出て
ためか、時間を忘れることが多かった。教室
仏像に向かい合っている間は集中している
長野まで持って帰ったのだが、研修は彫る暇
彫ればいいじゃないか、と思って重いそれを
の長野県で過ごすこととなる。持っていって
の研修が入り、短い夏休みの半分以上を地元
る。ここだ、と思っていたのだが就職予定先
夏休みと言えば時間がいくらでも れてい
みに入った。
作業を行っているうちに七月は終わり、夏休
ここから作業スピードは劇的に落ちた。この
手を止め、確認をしながら彫る作業となる。
デッサンが完成したらそれを元に鋸で大き
ら早い段階で悟りを開けるかもしれない、と
103 |仏
だった。焦りが頭を占めるせいで考えている
もしれない。
それが上手くいくと途端に爽快な気分になる。
細かい部分に入るとストレスが溜まったが、
葉が邪魔をする。仏像の進行具合を見せるた
自給自足のようにストレス、発散を繰り返す。
間も﹁間に合わない、どうしよう﹂という言
びに周りからの苦言やプレッシャーも増して
それは自己満足を多分に含んではいたのだが。
気持ちがまた顔を覗かせ始めていた。焦らな
ず、仏像も進めることができないことで焦る
期間中、研修で求められる課題も上手くいか
像に一彫り二彫りしただけで終わった。この
だって億劫である。結局長野県にいる間は仏
食べて風呂に入るだけの生活。正直その二つ
がないぐらい忙しかった。家に帰るとご飯を
いも消える。そこに気付くと作業スピードは
刀で削ることで目安を付けやすい。線への迷
丸刀ばかり使っていたが、まず彫る線を三角
因だと分かった。どうしても使いやすそうな
刻刀の三角刀。これを使わなかったことが原
ことが一つ。私があまり使っていなかった彫
考えるだけの時間を作った。そこで気付いた
って仏彫の本を開いた。一回彫る手を止め、
この停滞をどうにかするために図書館に行
ろ、﹁二、三ミリくらいなら全然気にすること
従事者の母に連絡を取って聞いてみたとこ
い。 何 よ り 縫 う の は 怖 い。 と り あ え ず 医 療
しいまはバイトの給料日前であまりお金もな
縫ったほうがいいかもしれない。いや、しか
が流れ出てくる。これは流石に病院へ行って
く流れる血が止まらない。絆創膏をしても血
く刺さったりはしたが、今回は傷が深いらし
いの外深く刺さる事件が起こった。何回か軽
そんな矢先、彫刻刀が左手の人差し指に思
仏像は凹まず、自分が凹む
いった。それに対して怒りのような感情が湧
い た り、
﹁ な ら 自 分 で も 彫 っ て み ろ よ ﹂と 思
い始めている時期だった。いま思えば男子力
いことを学んだはずがどうしても抜けきって
上がった。焦りが消えたわけではないが、進
ない﹂とのこと。五ミリ以上は刺さっている
とは真逆の感情が渦巻いていたと思う。
はいなかったらしい。
んでいるということを実感できる分、いくら
のだが。﹁五ミリくらいだったらどうする?﹂
大阪に戻ってきて、やっとノミでの作業は
かマシになった。
終わった。ここからは彫刻刀を使った細かい
の か 分 か ら な い。﹁ 夢 十 夜 ﹂の 運 慶 の よ う に
た。何より、どのように彫れば腕が出てくる
彫刻刀を入れる瞬間になると冷静な気持ちに
をぶつけて彫ってやる、と思うのだが、いざ
仏像に対する苦言が上がるたびにこの怒り
母が教えてくれた医療用フィルムというもの
が怖くなったのだ。しばらく傷が痛んだが、
私は噓を吐いて病院に行かなかった。病院
と聞いてみると心配されたので答えた。
はいかない。何度も頭を捻らせ、少し手を入
なる。負の感情は何かに真剣に取り組もうと
を使って傷を塞いでいるとわりと早く傷が塞
造形の作業になる。より細かい作業に苦労し
れては考えるの繰り返り。この頃には手を動
するその姿勢の前にはちっぽけなものなのか
﹁ううん、二、
三ミリだよ﹂
かす時間より考える時間が増えた。もう九月
文藝 14 | 104
がった。
人間である私が吐いた弱音は珍しかったらし
分からなくなっていた。そんな折、アルバイ
か出てこない。何のために彫っているのか、
像を彫っているのだろう。周りからは文句し
腐った。なんでこんな痛い思いをしてまで仏
しかしこの怪我をした時はこの企画中一番
れてしまうようだ。
れるようになった。痛みを伴った教訓でも忘
った。しかし日が経つにつれ、前のように彫
り、あまり力を込めて彫ることができなくな
だろう。彫り進める手を曇らせたのは、他人
この仏彫にいったいどれだけの意味があるの
像には期待していない、と直接言われたわけ
反応は冷ややかなものが多い。お前のその仏
が私には驚きだった。教室で仏像を見せても
楽しみにしてくれている人もいるのか。それ
し て る ぞ。 諦 め る な ﹂と い う も の。 そ う か、
しかし、そんな私に対する反応は﹁楽しみに
で、まだまだ未完成な仁王像。これは私なの
っていた。どうせ楽しみにしていないのなら、 て、それが一つの形になる。ずいぶん不恰好
ではないがそう思っているだろうことは分か
だ。これが私なのだ。鏡ではなく、もうそれ
や 一 彫 り 一 彫 り 進 ん で き た。 道 を 削 ぎ 落 し
関係でもあった。その中を私は一歩一歩、い
制作に関係することであったし、ときに人間
思えば、仏彫は迷いの連続だ。それはときに
なモチベーションになる。
ト先の本屋で私の仏像の話題になった。彫像
の目を気にする私の心の弱さだった。そして、 は自分の分身となっていた。
く、その場にいたものは目を丸くしていた。
をしていることについてはアルバイト先の人
そこから立ち直らせてくれたのは本当の他人
この事件があってしばらく彫刻刀が怖くな
は全員知っており、何度も進行具合を聞かれ
の目だった。私が自分で考えるほど、周りは
私が大阪芸術大学へと進学し、大阪で過ご
仏像と出会って
彫り進める手からまた一つ迷いが消える。
自分を見る
ていた。私は腐った気持ちになっていたその
敵ではないのだ。
楽しみにしている人がいるというのは大き
時、﹁ 完 成 は 無 理 か も し れ な い ﹂と い う 弱 音
を吐いた。普段ひょうきん者で、楽観主義な
した四年間はたくさんのことを学び、たくさ
んのものを見た、濃密な時間だった。他の大
学へ行っていたら手に入れることのできなか
ったであろう経験も数多い。その最たるもの
が、この仏彫の経験だったと思う。
最初の三年間は京都や奈良へ足繁く通った。
交通費、参拝費も馬鹿にならなかったが、こ
こで得たものは一生の財産になることは間違
いないだろう。仏像を見て感じたことは自分
105 |仏
の糧となり、就職活動の荒波を乗り切るきっ
納得のいく完成は来ないのかもしれない。こ
ない。これからも一彫り一彫り、未来へと繫
れは私なのだ。まだ完成と呼ぶわけにはいか
戻ることとなり、京都や奈良から離れること
いでいこうと思う。
かけとなった。就職の関係で地元の長野県へ
は非常に残念だが、今後は様々な地方の仏像
を見ていきたい。有名な仏像は何も京都、奈
良だけではない。むしろそれは一部でしかな
い。そういう意味で私にはまだまだ知識欲を
埋める空白がある。それが私には嬉しい。
仏彫の経験は、大阪芸大という環境だから
こそこんなにも早期に夢が叶った。自分で彫
ってみてはどうかという提案をしていただき、
また彫刻コースの齋部先生へと繫がる紹介を
していただいた長谷川郁夫先生には、感謝し
てもしきれない。こういった繫がりを経て仏
彫は始まり、そしてたくさんの人の支えを受
けて制作された。私の人生の集大成がこの仏
像となったのかもしれない。作る間は一人の
作業だった。孤独を感じる中で一人、 を振
り続けた。しかし孤独を感じるからこそ、私
は誰かと繫がっていることを実感する。一人
ではないことを知ることが出来る。家の中、
自分の世界に籠る間も外の世界は聞こえてき
た。どんなに切り離そうとも自分と世界は切
り離すことはできない。
周りに何度も言われたとおり、いままだこ
の仏像は完成していない。どこまで続けても
文藝 14 | 106
研究室賞受賞作品
物語はいつも
ハッピーエンドで
終わらない
造酒怜子
蹴る。抵抗できず逃げることも叶わないのに、
蹴り、泣き出した母を壁に叩きつけて、また
最初は口論から始まる。そこから父が殴り、
母 は、 父 に い つ も 暴 力 を 振 る わ れ て い た。
私が早く結婚したかったこともあるが、夫も
は晴れて結婚するほど相性のいい相手だった。
ったけれど、交際半年で同居、その一年後に
会いは友人の紹介というありきたりなものだ
夫と結婚してから四年の月日が流れた。出
*
追い打ちをかけるように何度も何度も痛めつ
深く愛してくれていて、初めてデートした場
荷物
け、母のお気に入りの服に赤い染みができた
所でプロポーズしてくれたときのことは今で
けれど、これでやっと幸せになれるんだと嬉
ところで父は家を飛び出し、やっと終わるの
その間私は部屋の隅で縮こまり、自分の存
しさのあまり号泣してしまい、涙で化粧が落
も鮮明に覚えている。辛いことも沢山あった
在を消す。私はこの世にいてはいけないの。
ち切ってしまったこともはっきりと思い出せ
だ。
だって、二人の喧嘩の原因はたいてい私だ
たはずなのにすっかり憎み合う関係になり、
のことを蒸し返し、喧嘩する。愛し合ってい
ず、お金のことで揉め、浮気を責め合い、昔
ない。私からはよく話しかけるし、夫もちゃ
きってしまった。会話がないというわけでは
たが、四年も経てば跡形もなくすっかり冷め
しかし結婚当初は仲が良かった私たちだっ
るくらいだ。
愛なんてもう欠片も存在していない。互いを
んと返事をしてくれる。ただ、夫はいつも私
から。私がいるから二人はなかなか離婚でき
憎めば憎むほどその間に生まれた私への憎し
に怒るのだ。
いったい何の話をしているのかわからない
ほど言ったのに!﹂
﹁どうしてまた鍵を取り付けたんだ! あれ
だいまを言う代わりに怒鳴りつける。
帰ってきてすぐに夫は物置部屋に入り、た
みも増して、どちらに話しかけたって無視を
されるばかりだった。お腹が空いて、視界が
揺らぐ。
私は二人の荷物。二人が抱えてしまった荷
物。捨てられない、燃やせない、処分できな
い、荷物。
し、どうして怒られているのかもわからない。
107 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
怒鳴られる度に、口を閉ざすしかなかった。
なかった。私はいつも夫のことを考えて行動
話を聞いてもらえれば少しは落ち着くし、一
うのは申し訳ないけれど、今のままでは夫と
緒に理由を考えてくれるはずだ。頼ってしま
かりのようだ。でも最近は何を言っているの
の生活に耐え切れなくなってしまいそうだか
しているけれど、夫には気に食わないことば
まったら、夫の怒りはもっと跳ね上がるだろ
か理解できないし、少し様子がおかしい気が
もし下手に謝って見当違いなことを言ってし
う。私は夫を愛しているし、彼に嫌われたく
ら。
に入ると、二人は既に席に着いており、入り
期待と不安を胸に待ち合わせ場所のカフェ
する。また私が黙っていると、彼は部屋へ行
た。これもいつものこと。
き、服を着替えてから家を出て行ってしまっ
はない。だから黙るのだ。
暫くそうしていれば彼は落ち着きを取り戻
し、優しい声で私を慰めてくれる。
を振ってくれた。ここに来る前に買い物でも
口できょろきょろする私を見つけて笑顔で手
冷める前に、せめて自分の分だけでも食べて
行っていたのか、二人とも大きな荷物を抱え
私は悲しみに暮れながら、椅子に腰かける。
ああ、よかった。いつもの夫だわ。
しまわないと。夫の分は明日のお弁当にでも
﹁大声を出してごめんな。もう大丈夫﹂
夫が風呂場へ行ったので、食事の用意をし
ている。
﹁理沙は││預けてきたの?﹂
詰めればいい。
始める。私と夫の二人暮らしだから量は少な
取り残された夫の分の食事と向き合って、
私は首を傾げる。何を預けてきたというの
いし、その分いつも腕によりをかけて料理が
できた。昔は夫も私の料理を褒めてくれたが、 一人夕食を取る。きちんといつも通り作った
だろうか。荷物だろうか。それならここに来
る前に買い物はしていないし、預けるも何も、
のに、今日も何故か少し、しょっぱかった。
今は違う。
夫が風呂から上がったので、テーブルに食
今日は彼の好きなものばかりだから、きっ
んだろう。私に何か至らないところがあるの
に愛しているのに、どうして夫は私を怒鳴る
大きくなったね、元気そうだね、と二人が
元々荷物はないのだが。
と喜んでくれるはず。もしかしたら久しぶり
だろうか。自分なりに一生懸命家事をしてい
笑っている。なんだろう、成長する荷物って。
毎日が辛くて辛くて堪らなかった。こんな
に褒めてくれるかもしれない。そう思ったの
るつもりなのだけれど。それとも、他に女が
動物を二人して飼った、というのは聞いてい
事を並べた。夫と私、二人分の夕食を。
に。
⋮⋮。
みようと思い立ち、早速学生時代にいつも一
考えても埒が明かないので友人に相談して
を育てたことがないので観葉植物を置こうと
はマンションだから庭はないし、あまり植物
ないし、植物だろうか。言われてみればうち
の荷物を見せ合っていた。
困惑する私を尻目に、二人は買ったばかり
﹁なんでまたこれだけしか作らないんだ!﹂
足りなかったのだろうか。でもこれ以上作る
緒にいた友人二人と連絡を取った。彼女たち
夫がまた怒鳴る。いつもの量を作ったのに、
と余ってしまうだろうし、健康に気を使うな
いう考えすら湧かなかった。
私も何か育ててみようかな、と思いながら、
は既婚者だし、きっと何かいいアドバイスを
くれるはず。アドバイスをもらえなくたって、
らば食べすぎるのはよくない。
反論したいけれど、後が怖いので何も言え
文藝 14 | 108
振ってくれた。私は頷き、近頃の夫の態度と
植物の話に没頭していた二人が、漸く話を
って?﹂
﹁あ、そういえば理沙、何か悩みがあるんだ
笑顔で二人の話を聞き流す。
い訳にすぎず、本当の理由は別にあるのだ。
ことが殆どだった。だからこれは表向きの言
だときは頻繁に行っていたし、彼から求める
だろうか。結婚してすぐにこの家に移り住ん
とは言い切れない。しかし過剰すぎではない
ないので、絶対隣の家に音や声が聞こえない
舞っておいた。
ならないよう、いつものように物置部屋に仕
荷物が置いてあったので、夕食作りの邪魔に
帰宅し、夕食を作り始める。足元に大きな
食材を包丁で刻んでいると、呼び鈴の軽快
結婚当初の幸せな時間を思い出して、感極ま
の夫の態度を話すことができた。
着くまで時間を置く。暫くしてやっと、近頃
できなかった。飲み物を口に入れて少し落ち
うにも喉が震えてしまい、うまく話すことが
二人はとても心配してくれて、説明をしよ
の人はこんなふうに冷たくなってしまうもの
るわけではないと信じたい。結婚をすれば男
ちの離婚を考えているだとか、浮気をしてい
日はめたままにしてくれているので、近いう
てくれることもない。結婚指輪はきちんと毎
体を重ねることもなければ、愛の言葉を囁い
奥様は不躾に家の中を覗き見た。
いけれど⋮⋮。不安になりつつ扉を開けると、
でもしただろうか、特に思い当たることはな
画面にはお隣の奥様が映っていた。何か粗相
立てながらインターフォンを確認してみると、
と夫が鍵を忘れてしまったのだろうと憶測を
いし、この時間帯に勧誘は来ないはず。きっ
な音が鳴り響く。通信販売を頼んだ覚えはな
﹁酷いねー、何も怒鳴らなくていいのに﹂
なのだろうと思っていたが、友人の話を聞く
﹁ちょっと、お宅大丈夫なの?﹂
もう気持ちが離れてしまったのだろうか。
﹁いや、わかるよ。私も結婚するまで会社勤
限りでは、ここまで劇的に変わるのは珍しい
って泣き出してしまった。
めだったし、やっぱ働いたらストレス溜まる
そうだ。
くのは耐えられない。怖いけれど、勇気を振
まま夫に冷たくされ、怒鳴られて暮らしてい
やっぱり私に至らない点があるのだ。この
よ﹂
けど、いつも聞こえてくるから心配してるの
﹁私もねえ、こんなことは言いたくないんだ
はさも不愉快そうに眉間に皺を寄せていた。
言葉の意図がわからず、首を傾げる。奥様
んだって﹂
私は首を横に振る。毎晩というわけではな
り絞って話し合ってみるしかない。場合によ
﹁家事はちゃんとしてるんだよね。じゃあセ
いが、自分から夫を求めることはあった。夫
っては離婚も視野に入れておかねばならない
惑と心配をおかけしてしまったようで、私は
それでも夫に愛されたいため恥を忍んで誘う
育てていくのは相当な覚悟がいるよ﹂と真剣
その旨を二人に伝えると、二人は﹁一人で
うか。ご近所にまで心配されてしまうとなれ
いつも聞こえてくる⋮⋮夫の怒鳴り声だろ
ックスしてないとか?﹂
が何もしてくれないので自分から誘うしかな
だろう。
いったいなんのことだかわからないが、迷
いのだ。最初の方は恥ずかしかったけれど、
のだが、彼は決まっていつも首を横に振った。
な面持ちで言った。なんのことかはわからな
ば、益々解決せねばなるまい。ご近所との付
感謝と謝罪の言葉を述べて扉を閉めた。
﹁隣に聞こえたらどうするんだ﹂
かったので、私はただ黙っていた。
確かに防音設備などがされているわけでは
109 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
き合いが深いわけではないが、このまま迷惑
か。私に何か悪いところがあって直してほし
し健康なのだから、治るも何もないじゃない
いというのならはっきり言ってくれたらいい
をかけ続けるのはよくない。考えるだけで精
神的に疲れ、ぐったりと肩を落としながら深
のに、どうして悪いところを言ってもくれな
いのに直せだなんて言うのだろう。横暴だ、
い溜め息をついた。
それから暫くして、夫が帰ってきた。彼は
し、今日はいつもと違って怒鳴らなかった。
私は怒鳴られると思い、身を固くした。しか
と足を運ぶ。リビングへとやってきた彼に、
いた。
何も話すことができなくて、先に夫が口を開
抗議しようと唇を震わせた。けれどやっぱり
締まる喉から言葉を絞り出して、どうにか
こんなの。
ただ荷物を抱えながら、悲しい顔をしてこち
﹁治るまで、別居しよう。治らないなら離婚
いつものごとく帰ってきてすぐに物置部屋へ
らを見つめている。
から何度も説得したのに、お前は黙り込んで
きっと元に戻ってくれると思ってたんだ。だ
るかもしれないとは頭の隅で考えていたはず
れた言葉に、目の前が真っ暗になる。こうな
殆ど死刑宣告のようなものだった。告げら
のためにも﹂
も考えている。
話を聞いているのかさえわからないし、まる
だったけれど、想像と実際とではまるで違う。
│
﹁⋮⋮理沙、俺はお前を信じてた。お前なら
で治らなかったな。理由だって何も話してく
涙腺が壊れてしまったかのように大量の涙が
が震え、立っていられなかった。
れ、頰を伝う。鼻の奥がつんと痛くて、体
れないし、とぼけてばかりだ﹂
冷ややかな声が、いつも以上に彼が憤りを
感じていることを現していた。何か言わない
ない。
がりたかったけれど、口から出てくるのは嗚
答えは見つからない。夫に問い詰めて泣きす
ど う し て。 い く ら 自 分 で 理 由 を 考 え て も、
﹁悩んだが、一度距離を置いてみた方がいい
咽ばかり。押し寄せる悲しみが私に救済を求
と、と思っても、喉の奥が締まって声が出せ
のかもしれないな。とりあえずお前を明日病
泣き崩れる私を置いて、夫は荷物を抱えた
めることすら許してはくれない。
彼はいったい何を言っているのだろう。病
まま玄関へと歩いていく。冷たい鉄の扉が閉
院に連れて行くよ﹂
院だなんて、私は何も病気にかかっていない
まる寸前、ママ、という空耳が聞こえた。
文藝 14 | 110
束縛
私は昔から、恋人を束縛してしまう女だっ
た。
今付き合っている以上に魅力的でランクが上
ど れ ほ ど 尽 く し て も、 ど れ ほ ど 愛 し て も、
ことでは落ちない。じっくり時間をかけて、
の男性を見つけたとき、あっさりと見限るの
せるけれど、私が理想とする男性は並大抵の
長期戦で挑まないと逃げられるだけだ。そん
も私の流儀だ。だってもっと魅力的な人がい
るのに、それよりも劣る人と付き合うメリッ
な愚行は犯さない。
骨の髄まで惚れさせて、漸く結ばれてハッ
だって不安じゃない、こんなにも素敵な人
トなんてないでしょう。私は船を渡って、も
っといい船に乗って旅をするの。今乗ってい
が他の女に取られてしまうかもしれないって。 ピーエンド、なんてこともならない。映画や
ドラマの世界ならそうかもしれないけれど、
他の女なんて乗せてやるものですか。
乗り換えたって、当然舵を握るのはこの私。
っちに乗り換えるに決まっている。
背が高くて、端正な顔立ちをしていて、頭が
付き合うまでよりも、他の女に取られない
る船よりももっと豪華な船があるのなら、そ
りのある、常識的な人間。誰もが理想とする
ようにするのが大変だ。男という生き物は恋
現実はそこからが問題だ。
人、誰もが羨む人。そんな完璧な人間に、い
人を愛していたって目先の欲にふらふらして
よくて、言葉遣いが丁寧で、優しくて思いや
つも心奪われていた。
いから。肌のためにきちんと適切な時間の睡
い、デートもセックスも飽きさせないよう毎
毎日美味しいご飯を作って外で食べさせな
性だ。家柄もよく博識で、優しくて笑顔が素
就職を果たした、将来性のある容姿端麗な男
は有名な一流大学を卒業し、有名な大企業に
そうして幾人もの男性を渡り歩いて、やっ
眠を取って、バランスのいい食事をし、水分
回新鮮味を持たせる、鞄の中や服のポケット
敵な人。大学時代にサッカーで鍛えた体はた
しまうのだから、私がしっかり手綱を握って
を多く取り、適度な運動を一日も欠かさず続
まで調べて物的証拠を探し、携帯電話やパソ
く ま し く て 頼 り が い が あ る し、 私 の 束 縛 も
理想が高いと言われたことはない。だって
け、肌に合った美容液をつけ、余分なものを
コンのチェックだって欠かさない。少しでも
﹁君は本当に俺を愛してくれているんだね﹂
と今付き合っている男性にたどり着いた。彼
取らず、勉強を怠らず、新聞を読んで世の中
不審なものを見つけたら即座にコピーして手
過ちを犯さないようにしないといけない。
を知り、美しく知性ある女性となるべく毎日
元に保存し、確信が持てたら話し合いの場を
望むものを手に入れるための努力は惜しまな
積み重ねてきた。私は誰よりも美しい、誰よ
設けて一層彼の行動を制限する。
が今付き合っている人以上の人を見つけたと
も絶対に首を縦に振らない。別れるときは私
別れるなんて言わせてやらない、言われて
全てが完璧だ。ずっと夢見ていたおとぎ話に
しらの欠点があるに違いない。でもこの人は
いているとか実は性格に難があるとか、何か
男性なんていないし、もしいたとしても年老
なんて素敵な人なんだろう。この人以上の
と笑顔で受け止めてくれる。
りも賢い、誰よりも優しく振る舞うことがで
この人と決めたらまずは焦らずゆっくり距
き以外あり得ない。それ以外の理由で別れる
でてくるような王子様。いつか私にきらきら
きる。努力を怠らない人間に神様がご褒美を
離を縮めていって、自分がいかに素晴らしい
ことなんて絶対にしてやらない。
くれないはずがない。
かをアピールする。大抵の男なら簡単に落と
111 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
の間に念入りにチェックしておかなければ。
てしまうけれど、彼の方が忙しい人なので随
彼は浮気なんて一切しない。会社の付き合
鍵を回してエントランスのセキュリティを
込みをしていたけれど、誰も彼の家を訪れる
ラスの靴を履かせてくれるに違いない。毎日
いで飲みに行ったってちゃんと定期的に連絡
解除し、ポストのダイヤルを回して中身を回
光るティアラを被せて、きらびやかなひらひ
美味しいものを食べて、毎日愛し愛されて、
を入れて私を安心させてくれるし、通帳やカ
収し、エレベーターの中でチェックする。新
分遅くに帰ってくることもしばしばある。そ
誰もが羨むほどの完璧な幸せを手に入れる。
ード明細、レシートを見せて何を買ったかち
聞と、保険や不動産の広告だ、特別変なもの
ことはなかった。
そのためにも彼を決して他の女に取られる
ゃんと報告してくれた。
らのドレスを着せて、世界に一つしかないガ
わけにはいかない。彼は私を幸せにすべきな
は混ざっていない。部屋に入るときは音を立
音で気付いて隠れられないようそっと中に入
﹁お前が安心するならなんだってするよ。や
目を細めて頭を優しく撫でてくれる。ぎゅ
る。玄関に置いてある靴は少しもずれていな
のであって、他の女になんて見向きもしなく
だから毎日彼の家に行ってご飯を作り、毎
っと抱きしめてもらえば、私が使う洗剤や柔
いし、靴箱の中身も何も変わっていない。家
てず、万が一浮気相手が中にいたとしても、
日掃除と洗濯をし、携帯電話とパソコンをチ
軟剤の匂いと、私が選んだボディソープやシ
に入ってまずすることは全ての部屋のチェッ
ましいことなんて何もないからね﹂
ェックした。別の女が上り込んでご飯を作る
ャンプーの匂いがほのかに鼻を掠めて心が安
ていいのだ。
ことがないよう、食器は一人分しか置かせて
イレやお風呂場、ベランダだって全て見て回
クだ。ドアを開け、クローゼットを開け、ト
私はきっとこのまま何事もなく幸せになれ
る。換気のためにも窓を開けつつ、部屋に誰
らいだ。
排水溝まで念入りに掃除し、髪の毛の一本一
るんだ。彼と結婚して、子供を産んで、誰も
か連れ込んでいないかを念入りに調べ上げた。
いない。掃除をするときは部屋の隅っこから
本を調べて、私と彼以外の髪が落ちていない
が羨むきらきらのお姫様になれるんだ。
何もなければまずは洗濯をして、高いとこ
か調べていった。ごみ箱の中身もちゃんと確
彼の腕の中で幸せに浸りながら目を閉じる。
瞼の裏に映るガラスの靴を履いて踊る自分が、 ろの埃を落とし、掃除機をかけていく。数日
認してから一つにまとめるし、携帯電話とパ
ソコンは隠しフォルダがないかまできっちり
前の新聞紙を広げて掃除機の中に溜まったご
幸せそうに笑っていた。
みを出し、私と彼のものではない髪の毛が混
今日も日課の部屋の掃除をしていた。合鍵
は一切考えず、長さと指先の感触で判断して
れるとか汚いものを触りたくないなんてこと
ざっていないか入念にわけていった。手が汚
をもらっているので、彼がいなくたって自由
いく。次に水回りを掃除し、排水溝の髪の毛
*
しかしここまでしても彼が浮気をしている
に家の中に入ることができる。私も仕事をし
も同じようにわけていった。何もなければそ
調べさせてもらう。実は仕事が休みのくせに
出勤するふりをして他の女のところへ行くか
もしれないから、時間のあるときは時折行き
証拠は一つも見つからなかった。私が帰った
ているから来られるのは大抵夕方以降になっ
と帰りを尾行した。
後だって家に行かない日だってちゃんと張り
文藝 14 | 112
れでよし。
掃除を終えると手早く夕食の準備をして、
煮込み料理であるならばその間にクローゼッ
私の、指輪だ。
なり薬指へと収まった。
うなんて、あの人には随分失望させられた。
いいえ、まだ、まだ違うわ。きっと私と同
ない。私に何か隠し事をしようと考えてしま
これは裏切りだ。
きっと⋮⋮ああもう、疑わなくていいじゃな
じ指のサイズの浮気相手なんだわ、きっと、
漸く引き出しを全て開く。引っ掛かっていた
い。
憤 慨 し、 が た が た 棚 を 揺 れ 動 か し な が ら、
いものが入っているわけでもないし、昨日と
のは白い箱だったが、乱暴に引いたために上
トや机の中をチェックしていった。特に新し
変わっているものは何もない。
靴下などが詰め込まれており、そっちも中を
倒したらあっさり出すことができたかもしれ
少し縦に細長いから、一度手を入れて箱を
浮気していると決めつけてしまった。あの人
んて馬鹿なんだろう、一瞬でも彼の愛を疑い、
指輪をした左手をぎゅっと抱きしめて、に
漁って何か隠していないかしっかり確認して
ないがそんなものは後の祭りだ。ふう、ふう、
はずっと私を愛して、行き過ぎた束縛にだっ
半分が無残にも潰れている。
いった。ごそごそ奥まで手を入れてかき回し
と獣のように荒い息を吐きながら、可愛らし
て文句言わず言うとおりにしてくれていたの
クローゼットの中にある棚の中には下着や
ていると、引き出しからぽろりと靴下が落ち
いピンクのリボンを引きちぎって箱の中を覗
に。
片づけるのだから構わないだろう。落として
へのプレゼントに違いない。私は浮気されて
中身は紺色の小さな箱だ。きっと浮気相手
世でたった一人。あの人以外にあり得ない。
もうあの人しかいない。私の王子様はこの
じみ出る涙が零れないよう上を向く。私はな
てしまう。
き込む。
しまった靴下を拾って棚の上に置き、引き出
いたんだわ。
随分搔き乱してしまったけれど、ちゃんと
しの一つ一つを調べていく。すると、一番下
﹁こんなもの!﹂
怒りで目の前が真っ赤に染まって、力任せ
こんなものは昨日までなかった。
までしか引くことができなかった。
を描くプラチナリングにはまっている。夢に
ドがぴかぴかに磨かれ、一点の歪みもない弧
に目が眩んだ。上品に輝く小さなダイヤモン
小さな箱を開けると、中にある銀色の輝き
上に置いていたはずの靴下がないな、と思い
してしまった棚の中を片づける。そういえば
目尻ににじんだ涙を拭い、ぐちゃぐちゃに
として隠していたのだろう指輪を見つけてし
早く夕食の準備をして、きっとサプライズ
の引き出しに何かが引っ掛かっていて、半分
にこじ開けようと乱暴に引いては押す。がた
まで見たガラスの靴そのものだ。
﹁開きなさいよ! いったい何を隠している
に落ちてしまったけれどおかまいなしだ。
されて赤く燃え上がっている。おもむろに左
た。愛を誓う小さな証は真っ赤な夕日に照ら
はっと息を飲んで、指先でそっと撮んでみ
下を取る。
から、仕方なく重い棚を少しずつずらして靴
のを見つけた。手を伸ばしても届かなそうだ
探してみると、壁と棚の間に落ちてしまった
方をずっと愛しますと誓わないと。
まったことを謝らないと。それから、私も貴
がた棚が揺れて、上に置いた靴下が壁との間
の!﹂
手の薬指へと差し入れてみれば、指輪はすん
もうこんな棚なんて壊れてしまっても構わ
113 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
﹁よいしょ、と⋮⋮あれ﹂
棚に隠れていた壁に、何やら不自然な線が
ある。物をぶつけてひび割れてしまったにし
出せなくなった。
足を引きずりながら後ずさり、口を押える。
﹁どうしたの﹂
後ずさる私を受け止め、優しい声をかける。
弾かれるように飛び退き慌てて振り向いてみ
ては綺麗な一直線だし、なぞってみると人が
通れるくらいの長方形をしていた。どう見た
れば、いつの間に帰ってきていたのか彼の姿
があった。青ざめる私の顔と開いた壁を見て
って人工的に作られたものだ。
クローゼットにかかる邪魔な洋服を全て床
﹁浮気じゃないよ。彼女とは付き合ってると
に放って、そっと壁に触れてみる。こんこん、 ﹁ああ﹂と大したことでもないように呟く。
とノックしてみると、薄い壁を叩く軽い音が
かそういうのじゃないし、キスもセックスも
らないからね﹂
驚かせるつもり
した。きっと向こう側は空洞になっている。
て、長方形の壁が外れた。中は真っ暗だ。け
﹁え、あ、ぁ⋮⋮﹂
したことがないどころかお互いのこと何も知
れど、つんと鼻につく異臭に、私は顔をしか
﹁指輪も見つけちゃった?
ぐっと壁を押してみると、がこっと音がし
めた。
だったのに﹂
しょうがないなあ、と笑って、左手の薬指
﹁うっ、臭い⋮⋮なんの匂いかしら。よく今
まで部屋に匂いがしてこなかったわね⋮⋮﹂
てうやうやしく手の甲に唇を落とした。
を手に取り、まるで王子様みたいに膝をつい
いや、
鼻を押さえながら、よく目を凝らして中を
︱
確認する。そして、中にあったもの
﹁愛しているよ、俺と結婚しよう﹂
いつものようにとろけるような顔をして微
中にいたものに、私は言葉を失った。
私の声に気付いてぱちりと二つの球がこち
全部全部理想だ、この人となら絶対に幸せ
笑む彼。美しい顔、優しい声、頼りがいのあ
小さな隠し倉庫で身を丸めて震えていた。髪
になれる、絵に描いたような完璧な人。だけ
らを見た。がりがりにやせ細り、衰弱しきっ
は伸びて、手足を縛られていて、口も縛られ
ど私は、その手を振り払って悲鳴を上げなが
るたくましい体、身に纏う高いスーツ。
ている。そして、ちらりと見えた喉の大きな
ら家を飛び出した。全部全部捨てて、ガラス
て起き上がることもできない生き物は、この
傷跡。私は喉の奥がきゅっと締まり、声すら
の靴なんて履かぬまま、裸足で駆けていった。
文藝 14 | 114
対応してくれたし、友達も多く、在籍してい
りが良くて、サインや握手を強請れば喜んで
た長い足と、高い身長。性格は明るく人当た
と過ごし、恋人をおざなりにしがちだったら
彼は仕事や部活で滅多にない貴重な休日を妹
にとっては何よりも大切な妹がいるようだ。
詳しいことはわからないけれど、広崎くん
ないの﹂
勇気を振り絞って、真っ赤な顔を俯かせな
たバスケ部の先輩からは生意気な後輩として
しい。その話を聞く度に、私は広崎くんが家
のような美しい肌、顔は小さく、すらっとし
がら胸に秘めた想いを明かした。振られるこ
可愛がられ、後輩からは憧れの存在として懐
族を大切にする人なんだと好感を持った。そ
首輪
となんてわかっている、きっと彼はこの手の
かれていた。
﹁広崎くんのこと、好きなの﹂
告白を数えきれないほど受けているだろうか
しゃぎ、元気いっぱいに笑っていて、写真以
うに見えるけれど、学校では子供みたいには
雑誌などに載る写真ではまるで作り物のよ
付き合っていけただろうにと⋮⋮。
かったろうにと。私だったなら、彼とずっと
して私だったなら、そんな不満は一切抱かな
ら、迷惑ではあろうがいつものように軽く断
たかが高校が同じだっただけの私が、今や
上に魅力的な彼に女の子たちは随分心躍らせ
るのだろう。
俳優としても活躍する人気モデルの広崎遊馬
たものだ。
により、倍率が天を
その年、ある高校へ現役学生モデルの広崎
子と二人きりでは絶対に遊ばなかったし、告
派な人ではなかった。恋人がいるときは女の
だれた芸能人のイメージとは違い、意外と軟
誰とでも気さくに話すけれど、華やかでた
恋人がいない時期を虎視眈々と狙っていたの
うのだから、付き合ってくれる可能性のある、
がいるときに告白しても確実に振られてしま
なか想いを告げることはできなかった。恋人
にも彼は恋人が尽きない人だったから、なか
とは妄想でしかなかったけれど、告白しよう
実際に付き合っていないのだからそんなこ
に告白するなんてこと自体がおこがましいだ
遊馬が入学するという
白されてもちゃんと断って、恋人を大切にし
だ。結局告白できないまま卒業することにな
ろうけれど、せめて記念として、彼に想いを
突き抜けるほどにぐんと上がった。かくいう
ていた。とは言っても彼の中の優先順位は、
告げておきたかった。
私も広崎くんが入学すると聞いてわざわざ志
一緒に入学しようと言っていた友人を蹴落と
てしまうので、付き合う人は皆、不満を漏ら
ど。それを不満に思う女の子はすぐに振られ
だ。特別な理由が何かあったわけではない。
しに自分の学び舎であった高校へと足を運ん
でも今日、私は社会人になって、なんとな
ってしまったけれど。
して、反対する親を説得して⋮⋮血の滲むよ
さないよう我慢しなければならなかった。
望校を変えた人間の一人だ。必死に勉強して、 仕事、部活、恋人、友達、のようだったけれ
うな努力と運によりどうにか入学することの
ただ今日が休みで、なんの予定もなく、テレ
出し、彼と三年間通った校舎を見て回りたい
ただ、彼には全ての優先順位の頂点に、妹
できた学校で、私は初めてメディアを通して
う言っていた。
と思っただけだ。本当にたまたま、今日見に
ビに映った広崎くんを見て高校のことを思い
﹁どうして恋人より妹を優先されなきゃいけ
ではなく、生の広崎くんを見ることができた。 がいた。彼女になれた女の子たちは口々にこ
きらきら輝く艶やかな茶色い髪、すっと通
った鼻梁と、長い睫毛、薄い桃色の唇、陶器
115 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
行くことにしたのだ。
逃したら、もう二度と二人きりで話せること
今しかない。この機会を逃せば、きっと一
﹁ああ、仕事で近くまできたから、ついでに
てもう何年も経つのに部員の子たち俺が卒業
生関われるチャンスなんてこないだろうから。
なんてないのだろうと思った。
っていると、バスケ部が練習している体育館
生だって知ってくれてたみたいで、軽く参加
バスケ部でも覗いていこうかなって。卒業し
からすらりと美しい肢体を持つ男性が出てき
させてもらっちゃった。大分鈍ってたけどや
卒業してから数年。懐かしい校舎を見て回
た。彼は携帯電話を手にしながら、こちらへ
っぱ楽しいなあ﹂
﹁あの、広崎くん。聞いてほしいことがある
私は意を決し、顔を上げた。
歩いてくる。
になっていたけれど、バスケのことを話して
﹁えっと⋮⋮私、実は高校生のときからずっ
﹁うん、なに?﹂
んだけど﹂
で追い続けていたあの人を。
いる広崎くんはまるでかつての彼のように子
と、広崎くんのことが好きなの﹂
高校時代とは変わって随分大人びた顔立ち
﹁広崎くん!﹂
供っぽく笑うものだから、思わず心臓がどき
﹁⋮⋮﹂
見間違えるはずもない。三年間、ずっと目
﹁⋮⋮ん?﹂
りと高鳴った。少年から青年へと変わり、一
太陽にきらめく髪を揺らしながら、広崎く
彼 は 黙 っ て ゆ っ く り と、 私 の 方 を 向 い た。
層色気を増して端正な顔立ちとなっていたが、
いていたけれど、告白なんてされ慣れている
んが顔を上げる。駆け寄ってきた私に、彼は
大学を卒業して、モデルを熟しつつ俳優と
はずの彼があっさりと振ることもせず黙って
見開かれた彼の飴玉のような美しい瞳が、真
しても活躍し、随分多忙な毎日を送っていた
いるものだから、ちらりと目の前の整った顔
中身はやっぱりバスケが好きなままの少年だ
﹁噓っ、覚えててくれたの?﹂
ことだろう。職業が職業なだけにきっと色々
を盗み見た。
何やら唸ったあと、はっとした顔をした。
﹁勿論﹂
と苦労してきたに違いない。それでも中身は
すう、と細められた目が、獲物を狙う獰猛
っ直ぐに見つめてくる。恥ずかしくなって俯
広崎くんは私に向かってにっこりと微笑ん
変わらないままバスケ好きで、少年のように
な獣のように見えた気がした。しかしそれは
ったのだ。
でくれた。今彼の笑顔は私だけのために、私
笑っていて、かつて彼に秘めたる想いを抱い
一瞬のことで、広崎くんはまたにっこりと綺
﹁もしかして大北さん? 一年のとき同じク
だけに向けられた、この世でたった一つしか
ていた私が、再び彼を好きだと思うことはご
ラスだったよね﹂
ない特別な笑顔だ。その上大して話したこと
麗な顔で微笑んだ。
﹁ね、料理得意? 家事好き?﹂
く自然なことだった。
この人はなんて輝いている人なのだろう。
もなかったのに名前まで覚えていてくれたな
んて、まるで夢のようだ。
くらりと眩暈さえした。
られなくて、そしてこの奇跡のような瞬間を
今そんな人が自分の目の前にいることが信じ
き合ってる人いるから﹂とありきたりな言葉
い き な り な ん の 話 だ ろ う。
﹁ ご め ん、 今 付
たったそれだけで天にも昇る気持ちになり、 きらきらしていて、格好良くて、皆の憧れで。 ﹁え?﹂
﹁で、でも広崎くん、どうしてここに?﹂
文藝 14 | 116
であっさり振られてしまうものだとばかり思
いか、という言葉ではないのだろうか。
結婚を前提としたお付き合いと、同棲をしな
セキュリティがしっかりしており、美しい装
いてくれた。都内にある大きなマンションは
いのエントランスが私たちを出迎えてくれる。
っていた私には、質問の意図が読めなかった。
もしかすると家庭的な人が好きで、今恋人
ように微笑む。
﹁お、お邪魔します﹂
を運び、ドアの鍵を開けて中に入った。
一緒にエレベーターに乗って、上の階へと足
﹁駄目かな?﹂
﹁どうぞ﹂
あの広崎くんが、私に? 啞然とする私の手を取って、彼は王子様の
﹁ え、 だ、 駄 目 だ な ん て、 そ ん な ⋮⋮ で も、
がいないから私とのことを前向きに検討して
﹁昔から料理が好きでよく作ってたし、得意
いきなりすぎて⋮⋮﹂
夢にも思わなかった。しかもここに自分も住
いるのではないだろうか。
だと思う。家事は好きだよ﹂
﹁⋮⋮俺がどうして大北さんの名前、覚えて
むことになるなんて、考えが浮かぶことすら
きなり仕事を辞めてほしいなんて言い出した
突然の言葉に、思わず目を瞠った。何故い
は殆ど会話をしたことがない人間のことを覚
てしたことがなかった。なのに、どうして彼
ではあったけれど、殆ど会話らしい会話なん
だ、私は広崎くんと一年生のとき同じクラス
広崎くんの目がじっと私を見つめる。そう
り以上も小さいそれを見て、私は首を傾げる。
の違う靴が混ざっていた。他のものより一回
いたけれど、その中に、彼のものとはサイズ
いうべきか玄関にはお洒落な靴が沢山並んで
アを潜り抜け、玄関へと入る。流石モデルと
なかったのに。恐る恐る開けてくれているド
淡い期待を抱きながら、こくりと頷く。
﹁今仕事してる?﹂
たと思う?﹂
のだろうか。戸惑いながら見上げていると、
えていてくれたのだろう。もしかして、私の
あの広崎くんの家に入れる日が来るなんて
﹁うん、してるよ﹂
広崎くんは笑顔を絶やさないまま、信じられ
ことが気になっていたの?
﹁そっか、じゃあ、仕事辞めてくれない?﹂
ないようなことを言った。
﹁え?﹂
﹁一緒に暮らそうよ﹂
のことを好きでいてくれたの? 嬉しさのあまり耳まで真っ赤にして、目を
きょとんとして、ドアを閉め、鍵をかけて
任せたいから﹂
で忙しい俺の代わりに、その人のことも君に
これから一緒に暮らしていくわけだし、仕事
﹁今日はその人を紹介しておこうと思ってね。
﹁え? ああ、違うよ。それは同居人の﹂
﹁同居人?﹂
﹁お客さんでも来てるの?﹂
一緒に暮らそうよ。その言葉が、何度も頭
滲ませる。こんな夢のような、運命的な話が
いる広崎くんの顔を見た。彼は嬉しそうに頷
もしかして、私
の中で繰り返される。耳を疑う言葉だったけ
あ る だ ろ う か。 広 崎 く ん が 手 の 甲 に 唇 を 落
れど、広崎くんはそんな私をにこにこしなが
としたのと同時に、夢心地のまま﹁⋮⋮うん、 いている。
広崎くんはその日のうちに早速自宅へと招
彼は口角を上げて、笑っていた。
わかった﹂と頷いていた。
ら見下ろしていた。
料理が好きか、家事が好きか、仕事を辞め
てくれないか、一緒に暮らさないか。それは
つまり、結婚しよう、と取ってもいいのでは
ないだろうか。結婚とまではいかないけれど、
117 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
か。それならば広崎くんのためにも、広崎く
﹁あれ、お客さん?﹂
が異様に、目立っていた。
首輪があった。アクセサリーだろうか。それ
儚い雰囲気のある彼女の首には、細い黒革の
日高い美容液を使って手入れをしている私の
見つめた。私と一歳差であるはずなのに、毎
﹁え! じゃあ私とも一歳差なんだ⋮⋮﹂
ぎょっとして、食い入るように彼女の顔を
ませんが﹂
﹁任せるって⋮⋮﹂
んにいいように見られるためにも、必死にお
﹁あ、うん。俺の恋人﹂
しくなり、ほんのり顔を赤らめた。広崎くん
恋人。そう紹介してくれただけでとても嬉
なんて、信じられないような話だった。だっ
で、若々しい。何よりもう二十代後半である
肌よりも彼女の方がずっときめ細かく滑らか
もしかして介護の必要な父親、とかだろう
世話してあげたいと思った。
家事は好きかとか聞いたんだ。きっと彼にと
はやっと彼女から腕を離して、体を起こす。
そ う か、 だ か ら 仕 事 を 辞 め て ほ し い と か、
ってとても大切な存在なのだろう。私は慌て
て彼女は大学生くらいにしか見えない。
まで私たちのやり取りを見守っていた広崎く
驚きのあまり固まってしまっていると、今
﹁一緒に住むことになったんだ。ね﹂
ます﹂
﹁う、うん。初めまして、大北あやなと申し
て前髪を直した。
リビングへと進んでいく背中を追う。する
と、広崎くんはある人物を見つけた途端、見
ァーに座ったままぺこりと礼を返してくれる。
られちゃうもんね﹂
﹁あはは、そうだよ。花は可愛いから若く見
んがふっと笑みを漏らす。
地味で化粧もしておらず、特別可愛らしいと
﹁⋮⋮べたべたしないで﹂
腰を曲げて軽く頭を下げると、彼女はソフ
人へと駆け寄っていった。
いうわけではないのだけれど、彼女がふわり
たこともないようなとろけた表情をしてその
﹁花ー! ただいまー!﹂
﹁⋮⋮わっ﹂
不機嫌そうにぶすっと唇を尖らせる彼女の
なんと可愛らしいことか。広崎くんも同じよ
と微笑むとなんだか心が安らぐ気がした。
﹁私は広崎花です。座ったままですみません、
うに思ったのか、だらしのない顔をして、再
本に集中していた彼女は突然後ろから抱き
しめられ、驚いた声を出す。広崎くんはそん
片足が満足に動かせないものですから﹂
広崎くんの彼女だった人たちから聞いた、彼
そ こ で ふ と 思 い 出 す。 そ う だ、 高 校 時 代、
び頰ずりをしていた。
なことにも構わず嬉しそうにぐりぐりと頰を
見せる。露わになった左足には足首から膝に
彼女は長いスカートの裾を上げて、左足を
てっきり同居人は彼の父親かと思っていた
かけての大きな傷があり、手術痕があった。
摺り寄せていた。
けれど、そうではなかった。ソファーに腰を
つつも笑っている彼女は、リビングの入り口
真っ白な肌の少女だったのだ。困った顔をし
ことは、もしかして妹さん?﹂
﹁いえ、気にしないで。えっと⋮⋮広崎って
訳なくなって、ふるふる首を振った。
は驚きの方が強いから何も感じないけれど、
のは仕方のないことだろうな、と思った。今
度を見せられると花ちゃんに嫉妬してしまう
のことだったのだ。なら、確かに彼のこの態
の優先順位の最たる人物。その妹は花ちゃん
に立っていた私に気付き、真ん丸なガラス玉
﹁はい、そうです。遊馬とは一歳しか変わり
埋めていたのは、さらさらな長い黒髪をした、 本当に足が不自由なのだろう。なんだか申し
のような瞳をこちらに向ける。幼い顔立ちと
文藝 14 | 118
に、花ちゃんがとうとう腕で顔を引き離す。
でれでれしながら頰を摺り寄せる広崎くん
なんだか兄妹というには少し違和感が⋮⋮。
の中にいて過ごしている。
怪我のせいで満足に動けず、日々の殆どを家
で暮らしているのだとか。花ちゃんは片足の
面倒を見ると決めているらしく、彼女もここ
た。とにかく急いでトイレに連れて行って、
度も呼んでくれていましたか﹂と謝ってくれ
に返って﹁⋮⋮すみません、もしかして、何
慌てて花ちゃんの肩を揺さぶるとやっと我
して食べさせた。
お水を飲ませ、冷めてしまった夕食を温め直
として食べていけるようになりたいらしい。
﹁本当にすみません⋮⋮お昼も呼んでくれて
そして驚いたことに、原稿に集中している
﹁いえ、貴方のせいじゃ⋮⋮。一度集中する
今はこのマンションで籠って毎日毎日お話を
そんな彼女には夢があって、将来は小説家
﹁あんまり引っ付かないで。彼女が戸惑って
るでしょ﹂
﹁はーい。花はほんと照れ屋さんだなぁ﹂
漸く広崎くんが離れ、花ちゃんはほっとし
それから、私と恋人の遊馬くんと、花ちゃ
とき、花ちゃんは一切食べ物も飲み物も口に
と完成するまでああなってしまうんです。遊
いたのですね﹂
んの三人での生活が始まった。私には部屋が
しないのだ。朝遊馬くんと一緒に起きてきて
馬にそれがばれてしまって、なるべく面倒を
書いて、色んな出版社へ原稿を送っているん
一つ与えられ、住んでいた家から運ばれてき
朝ご飯を食べた後、彼を見送ってから部屋に
見てくれていたのですが、何分忙しい人です
たように肩の力を抜いた。
た荷物もそこへ運び込まれ、あちらは引き払
籠ったきり夜まで出てこないものだからとて
から⋮⋮﹂
﹁ううん、いいの。お昼の時点で無理矢理食
われてしまった。遊馬くんと花ちゃんは一つ
も驚いた。遊馬くん曰く膀胱炎にも何度もな
だとか。
の部屋で寝ており、その部屋は花ちゃんの自
り、栄養失調で倒れたこともしばしばあるの
それで遊馬くんは自分の代わりに面倒を見
べさせるべきだったね、ごめんね⋮⋮﹂
室にもなっている。
と思っていたけれど、事実だったのだから酷
なれるに違いない。きっと花ちゃんからの印
ていたのだろう。私は彼の理想通りの恋人に
だとか。最初に聞かされた時はそんな馬鹿な、 てくれるようなよくできた優しい恋人を探し
いのだけれど、遊馬くんから言い渡されてい
く驚いたものだ。
家事は全て私に一任された。それは構わな
た、俺の代わりにお世話してほしい、という
おらず、実家は別にあるらしい。どうして兄
この家には遊馬くんと花ちゃんしか住んで
になって部屋に押し入ったのだ。すると彼女
んでも出てこないものだから、とうとう心配
思いそのままにしておいた。けれど夕食に呼
から、きっと原稿に集中しているのだろうと
お昼ご飯のときに何度呼んでも出てこない
かった。
れる。そう考えるだけでどきどきして堪らな
てくれる。私を選んでよかったって思ってく
を好きになってくれる。素敵な恋人だと褒め
象をよくすれば、遊馬くんはもっと私のこと
ことの意味を、私は一日目にして理解するこ
妹二人で離れて暮らしているのか聞いてみる
は私の声に一切反応しないまま、ずっと原稿
ととなった。
と、こっちのマンションは遊馬くんの職場に
と向き合っていた。
可哀想なものを見る目で私を見ていた。
にこにこ笑う私に対し、花ちゃんは何故か、
近いからで、そして、遊馬くんは花ちゃんの
119 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
除の続きをして、洗濯物をたたんで、買い物
って花ちゃんに食べさせ、食器を片づけ、掃
﹁う、ん﹂
てくるからね﹂
き着く。彼は私の体をしっかり抱き留め、優
褒められたことが嬉しくて堪らず、強く抱
﹁遊馬くん⋮⋮!﹂
きた恋人だね﹂
ことをちゃんと守ってくれるなんて、よくで
て仕事にいけるよ。可愛いうえに俺の言った
﹁ありがとうあやな。君のお蔭で俺は安心し
褒めてくれた。
暮らしているのだからこれから先きっとそう
はない。だけど毎日褒めてくれるし、一緒に
くだとか、キスやセックスもなく、未だ進展
わらない毎日だった。遊馬くんとデートへ行
自分の買い物に行ったりするけれど、殆ど変
折テレビを見たり、友人とカフェへ行ったり
後にお風呂に入って、自分の部屋で寝る。時
帰ってきた遊馬くんにも振る舞って、二人の
に出かけ、夕食を作って花ちゃんに食べさせ、
てきたのは、次の日の朝だった。
二人は出かけていってしまった。二人が帰っ
ことがない遊馬の助手席に花ちゃんは座り、
な二人を見送る。私は一度も乗せてもらった
もやもやした思いを抱えながら、楽しそう
でも⋮⋮。
う。確かに花ちゃんを一人にはできないけど、
⋮⋮普通は花ちゃんを置いていくべきでしょ
うのだけれど、どうして置いていくんだろう
遊馬くんが帰ってくると、案の定彼は私を
しく頭を撫でてくれた。
いう機会があるはず。期待を胸に、ずっと我
日帰り温泉⋮⋮私だって行ってもいいと思
﹁これからも俺を喜ばせてね﹂
変だと思ったのはそれだけではない。どう
して恋人の私は別の部屋で寝て、遊馬くんと
慢していた。
けれど、
耳元で囁かれた甘い言葉に、私ははしたな
くも強請るような目で彼を見つめた。けれど
んがお風呂に入るときだって、彼女に何かあ
花ちゃんが一緒に寝ているんだろう。花ちゃ
朝起きると、二人が何故か出かける準備を
ったら心配だと脱衣所に座って楽しそうに話
﹁⋮⋮あれ?﹂
していた。何も聞かされていない私は目を丸
遊馬くんは﹁今日は仕事で疲れてるから﹂と
言って、そそくさとお風呂場へと行ってしま
った。
﹁おはようございます﹂
乾かしてあげるけれど、恋人の私はしてもら
がると彼女の髪にドライヤーをかけて綺麗に
くして、既に朝食を取っている二人を見やる。 しながら上がるのを待つのだ。お風呂から上
っと一緒に暮らしていくんだから。私は自分
﹁お、おはよう⋮⋮二人とも出かけるの?﹂
そうだわ、別に慌てなくても、これからず
にそう言い聞かせ、振り向くことなくお風呂
ったことがない。
けてしまうし、出かけなくとも、遊馬くんは
遊馬くんが休みの日には必ず二人して出か
﹁はい。今日は遊馬が一日オフなので、日帰
んでしたか?﹂
り温泉に行こうと⋮⋮遊馬から聞いていませ
場へ向かう背中を見送った。
*
﹁あ、ごめんごめん、言うの忘れてた。まあ
って断られるばかり。その上唐突に﹁今日夕
ようと言っても﹁仕事で疲れてるから﹂と言
花ちゃんに一日中べったりだ。私がデートし
朝食を作って、遊馬くんを見送って、洗濯を
今日は一日ゆっくりしててよ。お土産も買っ
毎日同じことの繰り返しだった。朝起きて、 ﹁うん⋮⋮﹂
して、食器を片づけ、掃除をして、昼食を作
文藝 14 | 120
食食べてくるからいらないよ﹂と言って二人
﹁え⋮⋮﹂
なかったのだろう。驚きに目を瞠って、黒い
よ﹂
くれる人が他にいなかったんでしょ? これ
からは自分の足で生活していけるようになる
﹁どうして謝るの? 大丈夫だよ、注意して
瞳を揺らしている。
﹁いえ、そうではなくて⋮⋮﹂
まさかそんなことを言われるとは思ってい
﹁だって私と遊馬くんは恋人同士で、同棲し
で出ていってしまう。なんだか離婚間際の夫
けが流れていく。流石の私も不満が溜まって
てるのよ? そこに貴方がいるって、おかし
恋人らしいことを一切しないまま、月日だ
婦みたいだ。
いく一方で、けれど高校時代に聞いていた話
くない?﹂
﹁それこそ花ちゃんもお世話してくれるお婿
せて下さい⋮⋮すみません、本当に⋮⋮﹂
﹁貴方を利用している遊馬の代わりに、謝ら
を上げた。
づらそうだったけれど、彼女は意を決し、顔
俯き、目を泳がせている。何かとても言い
を思い出すと、文句を言うことはできなかっ
仕事だって辞めてしまったし、住んでいたア
た。文句を言えばきっと、捨てられてしまう。 ﹁それは⋮⋮﹂
パートも引き払ってしまった。もし遊馬くん
さんを見つけたらいいんじゃない? そうし
たら遊馬くんだって心配しなくて済むし。な
に振られてしまえば、私は行くところがない
だけど、おかしい、こんなの。遊馬くんは
そうしようよ。いつまでもお兄さんとその恋
んなら、いい人紹介するよ? きっと花ちゃ
んを好きになってくれる人いると思うし。ね、
﹁何、急に﹂
す﹂
﹁ 愛、 で す か。 私 は そ れ が と て も 怖 い ん で
﹁利用⋮⋮? 何を言ってるの? 遊馬くん
は私のこと愛してるんだよ﹂
私のことが好きだから恋人にしてくれたんじ
人のお世話になるとか、おかしいよ﹂
のだ。
ゃないのだろうか。一緒に住もうって言って
﹁⋮⋮﹂
れている花ちゃんの存在が忌々しくて堪らな
堪らず、そして、自分以上に遊馬くんに愛さ
あくまでも、そう、彼女の今後のために言っ
もうひと押しだ、と、思わず口角が上がった。
もいけないことだとはわかっているのだろう。
花ちゃんは悲しげに俯いてしまう。自分で
ています﹂
﹁この首輪外れないんです。鍵は遊馬が持っ
い手に乗るものかと、きつく彼女を睨んだ。
うにするつもりではないだろうか。そんな甘
て話をすり替えて、ここから出ていかないよ
この子は何を言い出すんだろう。もしかし
くれたんじゃないのだろうか。もやもやして
かった。
てあげていることなのだから、私は何も悪く
﹁どうでもいい話はやめてよ。うざったい﹂
私の作った食事を美味しいと言って頰張っ
らないの。
どうして私がこの子の面倒を見なければな
ない。一般的にみれば私の考えが正しいのだ
﹁盗聴器付きなんであまり滅多なことは言わ
﹁は? 何それ。ふざけてるの? そんなも
の妹につけるわけないでしょ﹂
ない方がいいですよ﹂
から。
ている彼女を見ながら、テーブルの上にフォ
自分の黒革の首輪に触れた。
け れ ど 花 ち ゃ ん は、 悲 し げ に 俯 い た ま ま、
﹁⋮⋮ねえ、花ちゃんはいつまで遊馬くんと
﹁⋮⋮すみません﹂
ークを置いた。
暮らすつもりなの﹂
121 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
﹁でも現に、ほら。外れませんし﹂
って鍵穴がついていて、本当に外れないよう
かに首輪は外れない。金具も普通のものと違
婦代わりにし始めたんです。だから自分に好
て、自分への好意を利用して住み込みの家政
めに花の面倒も見てくれるんだって﹄と言っ
物で切り付けたという事実を隠しているだけ
怪我の原因が、遊馬が私を逃がさないよう刃
﹁私は遊馬の告白を断っています。いくら血
話でもするみたいに、ごく自然体だった。
昼食を再び口に入れて咀嚼する。まるで世間
噓に決まってる、作り話だ。なのに手が震え
て行ってくれるのもありがたいですし、色ん
すから。小説のネタになりそうな場所へ連れ
そう言って、彼女は黒革の首輪を撫でた。
パスタを皿の上に落とした。
だった。啞然としながら引きちぎろうとして
意を寄せていた人間のことをきちんと覚えて
うのは嫌だと言うと、次の日女の子を連れて
気に﹁あ、あとGPSもつ
﹁次はどんな女性が来るんでしょうね﹂
み る も、 彼 女 は
います、いつでも利用できるように、と。で
きて﹃俺の恋人が、俺に気に入られたいがた
いてます﹂なんて言っていた。
も皆、怒って出ていってしまいましたが﹂
ぐっと乱暴に引っ張って見せるけれど、確
﹁私の片足の怪我のせいで一緒に暮らしてい
で﹂
が繫がっていないとはいえ戸籍上は兄妹です
花ちゃんは他人事のように説明しながら、
﹁な、何言って⋮⋮﹂
しね。けど彼は私の気持ちなんておかまいな
ると言いましたよね。ある意味合っています。
﹁私たち、本当の兄妹じゃないんです。親が
くるくるフォークを回して、パスタを巻き
しに、ここに閉じ込めてしまいました﹂
最初から遊馬が私を妹として見ていないこと
つけていく。絡まったパスタを感情の読めな
再婚して兄妹になった義理の兄妹です。私は
に気付いていました。放っておいたらこの有
﹁でも別にいいんです。ここなら自分のやり
そして青ざめる私を見て、ふわりと微笑む。
様ですよ。もう逃げられない。足を切られて、 い目で眺めながら、花ちゃんは話していた。
脅されて、通り魔に襲われたと口裏を合わせ
られて、遊馬は私をここへ連れ込んだ﹂
て、うまく声が出せない。
な人と住んでみるのも、キャラクター作りに
非現実的だ、それに、何一つ信憑性がない。 たいことができますし、何だって手に入りま
﹁私が最初に原稿に没頭するあまり倒れ、遊
は最適なんです﹂
ふふ、と笑って、花ちゃんは絡まっていた
馬は心配だからと家政婦を雇おうと言いまし
た。でも私のためにお金を払って家政婦を雇
文藝 14 | 122
選択権
怖に襲われる。私を探しているかのように蠢
いている冷たい何か。あれに捕まれば、きっ
どうして。
嫌 だ、 逃 げ な い と、 早 く。 怖 い。 な ん で、
ゆうら、ゆうら、優しい波が寄せては返す、 と。
心地よいぬるま湯の中にいるようだった。全
身が水の中に浸かっているので息ができない
得体の知れぬ怪物から。しかしこの狭い空間
私は小さな体を動かして必死に逃げ回った。
だ。口と鼻で呼吸していないのに大丈夫だな
の中で逃げる場所などなく、呆気なく引きず
はずなのだが、苦しくもないし大丈夫みたい
んて、いったいどこで呼吸しているというの
り出され、そして、何も知らぬまま息絶えた。
ち上がった。大丈夫だ、ちゃんと立てる。
最近同じ夢ばかり見ている。最初は仕事の
ストレスのせいかと思った。息ができないと
か、身動きができないとか、よくわからない
恐怖に襲われるとか、いかにもそれらしい。
しかしこうも毎日同じ夢を見るほど仕事にス
トレスを感じているわけでもない。
入社してもう何年も経ち、仕事にも随分慣
れてきたし、今は忙しい時期でもない。それ
に同じ部署に恋人がいて、彼女ともそろそろ
はっと急激に酸素が肺の中に入り込み、意
いし、ストレスを感じるようなことがないか
僚や上司、部下との関係だってそれなりに良
どうして、どうして。
だろう。
それよりここはどこなんだ。上手く方向感
になっている状態なのだと思う。狭くて身動
識を無理矢理引き起こされ、驚いた全身の筋
考えたって、何も思いつかないくらいだ。
結婚しようかと考えるほど関係は良好だ。同
きも取れないこの場所にいるのは本来ならば
肉が収縮した。浅い呼吸を繰り返しながら額
覚が摑めないが、頭が重いので恐らく逆さま
恐怖すべきなのだろうが、何故だか妙に落ち
人ぼっちだった。何も見えない暗闇の中、何
波の音以外聞こえないこの空間で、私は一
頰を伝って枕を濡らした。何故泣いているの
瞬きをすれば目尻に溜まっていた涙が零れ、
ったなんの変哲もない白い天井を見つめる。
なかった。
原因を考えていたが、答えは一向に見つから
ならば他に理由があるのだろうか。いつも
をするでもなく、ただひたすら夢を見続けて
かはわからない。怖かったのだろうか。何が
着いていた。むしろ安らぎを感じるくらいだ。 に滲む汗の冷たさを感じつつ、見慣れてしま
いる。早く出たいな、この外にはどんな世界
怖いのかもわからないが。
なのに。
めに風呂場へと向かおうと重い体を起こす。
ることを確認し、寝汗で湿った体を清めるた
うだ。枕元の時計を見てまだ時間に余裕があ
外はまだ暗く、朝を迎えたわけではないよ
じている。もしかしてこの通勤が嫌であんな
に車輪が規則正しく音を立て、人の体温を感
まるで夢の中の空間のようだ。波の音のよう
は で き な い。 息 が で き ず、 身 動 き が で き ず、
しい空間に気分が落ちていくのを止めること
毎日同じことを繰り返していても、この息苦
欠伸をしつつ朝の通勤ラッシュに揉まれる。
が広がっているのだろう。胸は期待で膨らみ、
見知らぬ何かがこの静かな空間に割り込ん
夢のせいか、自由に手足が動くことに多少の
夢を見るのだろうかとも思ったが、あの得体
我慢できず腕や足を動かす。外に出たらこの
できた。それが何なのかもわからないのに、
違和感を覚えつつ、ぐっと床に足をつけて立
腕や足を存分に動かしてやるんだ。
それが入り込んできた瞬間、とてつもない恐
123 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
の知れないものに引きずり出されるまではあ
危ないところに子供がいるというのに。なん
って半年くらいで初めて体の関係を持った。
生になってようやくできた彼女とは、付き合
性交渉の快楽を知ったあとは、彼女と二人で
て薄情な人間ばかりの世の中になってしまっ
たんだ。
の空間を心地良いと感じていたため、それは
違うと思う。
た。それまでも何か特別な経験をしたことは
会う度に行為に没頭した。
を押しのけた。
なく、まるで絵に描いたような普通の人間。
私は子供に近づくべく、慌てて前にいる人
揉み解しながら駅を出る。階段を下りた先に
﹁おい、危ないぞ! そこでじっとしていな
会社の最寄り駅に着き、凝り固まった肩を
ある交差点で信号が変わるのを待っている間、
さい!﹂
典型的な思春期真っ盛りの男子高校生だっ
最近運動してないなあ、なんてことを考えて
が、私の人生において異色なのは、思い出し
特別な経験というべきなのかはわからない
男の子だろうか。色白の少年は私を見て、ま
たくもない唯一犯した罪と、最近毎日同じ夢
声を張り上げると子供がこちらを向いた。
見ていると、昔は自分も外で遊ぶのが好きな
るで宝物を見つけたみたいにきらきらした笑
いた。道路であんなにはしゃいでいる子供を
活発な子供だったことを思い出す。今となっ
ばかり見ることだろう。
最初に感じたのは頭の痛みだった。じわじ
本当に、なんだっていうんだ。
恐怖。
い 狭 い 部 屋。 無 呼 吸。 得 体 の 知 れ な い 怪 物。
ざざあ、ざざあ、波の音。身動きの取れな
顔で車の前に飛び出した。
高校時代、私はどこにでもいる普通の少年
走り出した。
私は駆け寄ってくる子供に向かって全力で
﹁こ、こら、来ちゃ駄目だ!﹂
噓だろ、おい。
てはビール腹が気になる程筋力が衰えてしま
ったが。
ふと私は自分の考えに違和感を覚え、首を
もう一度よく目を凝らして目の前の道路を
子供が、道路ではしゃいでいる、だって?
傾げた。
わと意識を引きずり出され、痛みに顔をしか
る。十歳くらいの子供は両腕を広げ、ふらふ
平均台に見立てて遊んでいる子供が確かにい
たこともなく、大きな怪我を負ったこともな
良くもなく悪くもない。大きな病気にかかっ
成績は中の中、身長は平均、体育の成績は
はない。微かに消毒液の匂いがして、ここが
し出された白い天井は、よく見知ったもので
ゆっくりと輪郭を明確にさせていく視界に映
だった。
らと白線をなぞるように歩いていた。
い。両親、兄弟も健在。交友関係が広いわけ
病院であることに気づいた。
見た。とめどなく行き交う車の間で、白線を
眼前の光景に目を疑い、自分が幻覚を見て
ではないがよくつるむ友達が何人かいて、け
﹁あ、気が付いた?﹂
めながら目を開けば、視界がぼやけている。
いるのかそれともまだ寝ぼけているのかを疑
れど親友と呼べる人間は一人もいなかった。
私は重い体を起こしたが、頭が痛くてすぐに
恋人である真由美が顔を覗き込んでくる。
ってごしごし目を擦ってみた。しかし何度見
たので、何かに打ち込んだことはない。三年
たって結果は同じ、道路で子供が遊んでいる。 アルバイトで小遣いを稼ぐために帰宅部だっ
どうして誰も反応しないんだろうか、あんな
文藝 14 | 124
痛むところを押さえた。掌に伝わる布の感触
から、包帯が巻かれていることに気付く。
﹁貴方、車道に飛び出して頭を強く打ったん
もしれないって﹂
彼女の言葉にぞっと血の気が引いた。いっ
たいどういうことなのだろう。
ではあれは幻だったとでもいうのだろうか。
いや、やっぱりあそこにはちゃんと子供がい
たんじゃないだろうか。何か理由があって、
交通量だ、咄嗟のことだったので何も考えて
考えれば考えるほど混乱するばかりだ、とに
首 を 左 右 に 振 っ て、 考 え る こ と を や め た。
それで⋮⋮。
はいなかったが、本来なら轢かれて死んでい
かくさっさとここを出て、会社に行こう。
私は子供を助けに車道へ飛び出した。あの
腕時計を見ると、まだ昼過ぎだった。どう
てもなんらおかしくはなかっただろう。けれ
会社へ向かおうとすると真由美にとても心
ですって。それで病院に運ばれたって﹂
やら彼女は自分の休憩を犠牲にして見舞いに
ど私は死なず、しかももし飛び出していなか
配されて引き留められてしまったけれど、同
﹁ああ、一応、覚えているよ﹂
来てくれたようだ。
ったらトラックに轢かれて死んでいたのかも
じ職場で働く者同士ある程度理解しているだ
布団をめくって確認してみたが、頭に包帯
しれない。こんな偶然があるだろうか。
を巻かれている以外は特に外傷はなくほっと
なんと運のいい。これならば昼から出社も可
い目にあったのだ。声をかけずに真ん中でじ
私があの子に声をかけたせいであの子も危な
うがないわねと呆れながらも承諾してくれた。
で、仕事を手伝ってくれるよう頼めば、しょ
は言え私も調子が悪いことには変わりないの
ろうから、強くは休めと言われなかった。と
能だろう。このまま休んでしまいたいのはや
っとしていれば、信号が赤になって車が止ま
優しい恋人の手を握ると、じんわりと体温
そこでふと、あの子供の存在を思い出した。
まやまだが、今日中に片づけないといけない
ったときにでも抜け出せば安全だったろうに。
胸を撫で下ろした。道路に飛び出しておいて
ものがいくつか残っている。
ろうか。とても心配になった。
がたん、ごとん。規則正しく揺れる電車に
が掌に伝わって、心まで温かくなった。
安
﹁その、私と一緒に子供も運ばれていなかっ
私が無事だったのだから彼も無傷で済んだだ
﹁それにしても幸運だったわね。話、聞いた
ないためにもどうにか睡魔に抵抗していた。
私が正常に受け答えできると知り、彼女も
わよ﹂
たか? 小学生くらいの男の子なんだが﹂
﹁子供? あの時間、あの駅前に子供なんて
いるわけないじゃない。あそこはオフィス街
の表情を浮かべて微笑んだ。
﹁貴方が飛び出した後にあの交差点で事故が
なんだから﹂
に終わらせなければならない仕事を急いでや
今日は本当に疲れた。事故のせいで今日中
識を半分持っていかれてはいるが、寝過ごさ
合わせるように船を漕ぐ。心地よい微睡に意
起きてね。信号待ちをしていた人たちのとこ
﹁そう、だよな﹂
﹁幸運?﹂
ろに、トラックが居眠り運転で突っ込んだん
周りからは怪我の心配や事故の説明を要求さ
らねばならなかったし、打った頭は痛むし、
入社して数年経つが、一度も通勤時にあの駅
れるし、心身ともに疲れ果ててしまった。手
私 は 俯 く。 言 わ れ て み れ ば 確 か に そ う だ。
﹁⋮⋮え?﹂
前で子供を見かけたことはない。
ですって。物凄い騒ぎだったのよ﹂
﹁もし飛び出していなかったら、死んでたか
125 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
伝ってくれた真由美と同僚、後輩たちには本
らでもしっかりと子供の顔が目に映る。
すぐ傍で
話をしている女子高生の制服が
母校の女子制服とよく似ていて、思わず目を
子供の顔を認識した瞬間眠気など即座に吹
﹁あ!﹂
半分寝ている状態の耳に最早聞きなれてし
っ飛び、慌てて立ち上がって、子供を追いか
当に頭が上がらない。
まった車掌の声が入ってくる。私が降りるべ
けるように後ろの車両へ走った。ドアが開き、 あった。
疲れていたので、今日は珍しく一番前の車
っているのが見え、後を追いかけ、全力で走
電車から飛び出す。南出口側の階段を駆け上
た。頭を打った人が翌日に冷たくなっている
休日、私は朝から病院に行って検査を受け
高校時代には、思い出したくない出来事が
逸らした。
きはその次だ。
両に乗った。この時間この路線で一番前の車
った。追いかけてどうするかなど考えてはい
に精密検査を受けておかないと取り返しのつ
両を利用する人は殆どいないことを知ってい
階段を駆け上り周りを見回すと、子供は既
かないことになりかねない。少々怯えながら
なんてことがあるくらいだ、脳のことは早め
ゆっくりしたかった。現にこの車両に乗って
に姿を消していた。さして距離はなかったは
検査を受けたが特に異常はなく、包帯も取れ、
ない。
いるのは私ともう一人、深くフードを被った
ずなのだが、うまく人混みに紛れて逃げられ
午後からは同じく午前中に用事があると言っ
たからだ。疲れているし空いた椅子に座って
男しかいない。
てしまったのだろうか。狐につままれた気分
ていた恋人と落ち合って街をぶらついた。
とにかく眠い。あと一駅分くらい寝てしま
だ。
誘惑に負けてしまった私は、完全に寝入るた
している私を一瞥し、通り過ぎていく。冷静
すれ違う人々が息を切らしながら立ち尽く
﹁そう、よかった。まあ、そうね。⋮⋮もし
﹁ああ﹂
おうか。多分寝過ごす前に起きられるだろう。
め自ら目を閉じようとした。電車が停車すべ
になると自分のしていることが馬鹿らしくな
ものことがあっても大丈夫だけど﹂
﹁ん? 何?﹂
﹁ううん、なんでもない﹂
﹁頭、大丈夫だったんだ?﹂
くゆっくりと速度を緩めていき、窓からは駅
って、深くため息をついた。
帰ろう。
のホームの柱が通り過ぎていくのが見える。
フードを被った男が立ち上がり、こちら側の
次の電車を待つべく再びホームへ降りる。
﹁そうか﹂
が、そう感じたのはこれが初めてだった。視
彼女の様子に首を傾げる。
線を漂わせているし、言葉の歯切れも悪い。
ががくがく震えていた。これは明日筋肉痛に
疲労と年甲斐にもなく全力で走ったせいで足
ドアから降りようと歩いていた。
なんだ、変だな。この人私の方に歩いてき
ているような⋮⋮。
﹁ねえ知ってる? 最近この辺りの駅で出る
変だ。彼女とはもう四年近く交際している
こえる。速度を落としたために窓の外の景色
通り魔の話﹂
何かを隠しているような気がする。例えば、
なってしまうかもしれないな。
が目で追えるようになり、見えたホームに子
﹁えー、何それ怖ーい﹂
ききい、ブレーキの甲高い音が断続的に聞
供が立っているのが見えた。重い瞼の隙間か
文藝 14 | 126
だ。ここで下手に問い詰めると傷つけてしま
まで待つ方がいいのではないかと思ったから
でおこうと決めた。彼女自身が話してくれる
ても心配になったが、今はまだ何も問わない
何か深刻なことがあったのではないかとと
咲かせていた。過去の失敗を笑い話にして酒
話すことが増え、今回も高校時代の話に花を
に昔の友人と会うとどうしたって昔話ばかり
を通っていくのがよくわかる。不思議なこと
たビールがするする喉を滑り落ちていき、胃
ちと酒を呷っていた。頭が痛くなるほど冷え
有名チェーン店の居酒屋で高校時代の友人た
いので、今どうしているかは人伝いに耳にし
く。彼女とは高校を卒業して以来会っていな
掌に汗が滲み、さあっと血の気が引いてい
佐山が、精神科に。
﹁⋮⋮なんだって?﹂
神科から出てきたとこ!﹂
﹁実はさ、この間俺見たんだよ! 佐山が精
そう、病気だとか。
うことだって十分あり得る。いつ話してくれ
めたいことがあるから、当然のことなのだが。
たこと以外何も知らない。別れた以上に後ろ
いえば、と話題を変える。
てもいいようにある程度の出来事を想定して、 の肴にしていると、不意に友人の一人がそう
腹をくくっておけばいいだけのことだ。
彼女のことが心配で、前にこっそり を聞
き回ったことはある。話によると佐山は高校
﹁お前さ、高校ん時佐山と付き合ってたじゃ
ん?﹂
話を変えたかったのか、彼女はちらりと腕
時計を見た。
を卒業してから働き始め、三年後結婚したと
しく、これでもう彼女のことは心配ないと思
聞いている。結婚相手は年上のしっかり者ら
﹁え﹂
まった。
佐山の名前を聞き、思わず体が固まってし
﹁今日友達と会うんでしょ? そろそろ行く
時間じゃない?﹂
﹁ あ あ、 そ う だ な。 明 日 は 予 定 あ る ん だ っ
﹁ええ。実家に顔出ししようと思って﹂
周りにはお似合いだと
されるほど仲の良い
私の初体験の相手という特別な存在だった。
ョッキが空になる。底にわずかに残る白い泡
いっと残りを一気に飲み干してしまえば、ジ
急に喉の渇きを覚え、ビールを飲んだ。ぐ
っていたのだが。
﹁そうか。何か手土産渡しておいた方がいい
関係に見えていて、確かに実際もそうであっ
が一つ、弾けた。
佐山とは、高校で初めてできた彼女であり、
かな?﹂
た。卒業間際のあのときまでは。
け?﹂
﹁⋮⋮ううん。明日はいいわ。とりあえず﹂
﹁どう、したんだろうな﹂
られていないはずだ。しかしもう卒業してか
だった。
そんな彼女と別れてしまう原因は誰にも知
駅で別れ、線路を隔てたホームで向かい合
ら何年も経ち、私たちは大人になってしまっ
﹁わかんねえけど、すっげえ顔青かったぜ。
﹁わかった﹂
って手を振る。一瞬彼女の隣にあの子供が立
た。こういう酒の場でどこかから話が伝わっ
かろうじて搾り出せたのはたった一言だけ
っていたような気がしたが、丁度電車が来て
やけにきょろきょろしててさ、旦那と揉めて
﹁おいやめろって。飯田の元カノなんだぞ。
た。あれはやばいね﹂
てしまった可能性もある。
﹁ああ、うん⋮⋮それが、どうかしたか?﹂
最悪の事態を予想し、青ざめた。
しまったので確認することはできなかった。
土曜日の夜という一番騒がしい時間帯に、
127 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
そんな話題気分良くねえだろ。なあ?﹂
はないかと心配になるくらい、手が汗で濡れ
もる。滑って携帯電話を落としてしまうので
てしまっていた。
﹁あ、ああ﹂
視線を落として俯き、あまりに喉が渇くの
﹁子供?﹂
その言葉に思わず反応する。佐山は
﹁うん﹂
と頷いた。
しかし中身は既に飲み干していたので、舌に
と思考が巡ったが、深く息を吐き、力を抜い
出られないような状況にあるのか。ぐるぐる
に殺されそうになったのは怖かったんだけど、
は済んだの。私凄く怖くて。ああ、勿論誰か
れたから、奥の方まで飛んでね、轢かれずに
づいていないのか、気づいていて出ないのか、 の。私、線路に落ちて⋮⋮でも勢い良く押さ
﹁電車を待っていたら、急に誰かに押された
数滴雫が落ちるのみだった。
てからメッセージを残すべく口を開いた。
それよりも、私を押した手が、凄く小さかっ
数コールしてから留守電に切り替わる。気
とすれば、それは私の可能性が高い。もう何
﹁⋮⋮佐山、私だ。飯田だ。私の声なんて聞
たし⋮⋮電車が通り過ぎて見てみたら、私が
で再びビールを飲もうとジョッキを傾けた。
年も経っているから絶対にそれが理由だとは
きたくもないだろうが、その﹂
佐山が精神科に通うような理由が何かある
言い切れないが、もしかすると、あの時に後
立っていたところに男の子がいて⋮⋮。その
後も、夜道で男の子にバッグを盗まれて、慌
﹁飯田くん!﹂
言葉の途中で、突然電話が繫がった。まさ
てて追いかけたら、二人乗りのバイクとぶつ
﹁ああ、ごめんなさい。ちょっと、夫と喧嘩
﹁どうしたんだ、佐山﹂
かに嗚咽が聞こえてくる。
電話の向こう側で泣いているようだった。微
⋮⋮﹂
れ て い る ん だ っ て、 病 院 に 連 れ て 行 か れ て
も 夫 は 子 供 な ん て い な い っ て 言 っ て ⋮⋮ 疲
⋮⋮。それからも街中で何度か見かけて、で
こ ろ に 置 い て あ っ て、 子 供 な ん て い な く て
てほしいと願いつつ、重い体を奮い立たせて
して⋮⋮私、おかしいのかしら﹂
の話を聞いて、私は不思議な気分だった。自
切羽詰った声で私の名前を呼んだ佐山は、
るとは思わず、驚きのあまり体を強張らせる。 かりかけて⋮⋮気づいたらバッグは電柱のと
か留守番電話に話している途中で本人と繫が
遺症が残っていて、彼女を追い詰めてしまっ
ているのかもしれない。
考えれば考えるほど不安になり、震える手
で携帯電話を開いた。電話帳には何かあった
ときのために佐山の番号がまだ残っている。
席を外した。
﹁あ、その⋮⋮実は今日、友達から
分の身に起こったこととまるで同じだったの
番号が変わっていなければ繫がるだろう。
﹁すまない。ちょっと﹂
に⋮⋮精神科に通っているって聞いて⋮⋮そ
もあるが、ずっと考えていたのだ、もしかし
杞憂であればそれでいい。寧ろ杞憂であっ
﹁ん? おお﹂
携帯電話を見せ、電話をかけてくる、と言
れで電話したんだ。旦那さんと喧嘩したとい
てあの子供に逆に助けられていたのではない
車道に跳び出さなければ死んでいたと聞い
佐山が電話口で泣きじゃくる。けれど佐山
葉もなく示す。店の中は騒がしいし、他人に
うのも、それと関係がある、とかか?﹂
で病院
聞かれると困る話になると予想されるので、
かと。
見かけるの﹂
騒がしい店内を出てから通話ボタンを押した。 ﹁ う ん ⋮⋮ な ん て い う か、 最 近、 子 供 を ね、
心拍数が上昇し、携帯電話を握る手に力がこ
文藝 14 | 128
落されたこともきっとそうに違いない。バッ
いたのではないだろうか。佐山の線路に突き
そのまま乗っていたら何か危険な目に遭って
ときは、いつもは降りない駅で降りた。もし
したらと思っていた。例えばこの間見かけた
たときから、確信はなかったけれど、もしか
﹁ああ﹂
う﹂
﹁ 飯 田 く ん、 水 の 中 に い る 夢、 見 る で し ょ
び彼女は言葉を紡いだ。
え、嗚咽混じりながらもはっきりした声で再
ようだった。電話口から鼻をすする音が聞こ
だろうか、反論はせず、何か考え込んでいる
いるのかは大人になった今でもわからない。
ったのかを。何が正しいのか、何が間違って
悔し続けている。あれは本当に正しいことだ
だ。そうして出した答えを、今でもずっと後
のかわからなかった。
てしまう。この感情をどう言葉にすればいい
上手く言葉を紡げなくなって、口を閉ざし
ただ、もしあの時違う選択をしていたら。そ
あの時、私たちは沢山悩んだ。沢山苦しん
グを盗まれた後に二人乗りのバイクとぶつか
﹁私も見るの。あれって、まるで﹂
佐山はそれ以上何も言わなかった。私も確
りかけたのも怪しい。きっとあの子は私たち
を守ってくれているんだ。その理由がなんと
う思わない日はない。
そのままの場所にいたら、死んでいたかもし
﹁小学生くらいの男の子だろう? 私も彼の
せいで車道に飛び出したんだ。でもな、もし
﹁⋮⋮飯田くん、も?﹂
んだ﹂
﹁佐山、実は私もつい最近同じことがあった
し始めた。
佐山が少し落ち着くのを待ってから、再び話
繫がっていくのを感じて、すっきりした顔で
した元彼女。ばらばらになっていたピースが
身動きの取れない夢、子供、久しぶりに話
﹁⋮⋮そうなんだろうな﹂
きっと授かっているわ﹂
と。だから多分、貴方の恋人も、新しい命を
を見ること。子供を見かけるようになったこ
﹁本当か! それは、よかった﹂
﹁私は、それから始まったの。ずっと同じ夢
ね、最近、やっと授かったの﹂
んじゃないかって、ずっと不安だった。でも
しかしたらもう産めない体になってしまった
年も経つのに、なかなか授かれなくて⋮⋮も
で、子供が産みづらくなったの。結婚して何
﹁あのね、飯田くん。私、高校のときの手術
人から電話が入っているらしい。
ら離し、訝しげに画面を見る。どうやら別の
﹁なあ、佐山
ちは懸命に生きていくしかないのだろう。
が間違いであったことにしないために、私た
に拭って、はあ、と息を吐いた。
ているせいだろうか。袖でごしごし涙を乱暴
気づけば、私の頰に涙が流れていた。酔っ
たのか、もう永遠にわからない。
あの子が本当に選びたかったのはどっちだっ
認しなかった。
れないって聞かされたんだ。それからずっと
﹁どんな理由があったのかはわからないわ。
﹁すまない、電話が入ったみたいだ。後でか
なくわかり始めていた。
考えてた。本当は命の危険から助けてくれて
でもね、私、あの子のことを忘れないわ。絶
け直していいか?﹂
だ っ て、 あ の 子 に も 選 択 権 が あ っ た の に。
いたんじゃないかって。勿論確証はないんだ
対に﹂
﹁ええ。⋮⋮あら、私も夫が帰ってきたみた
﹂
ぴ、ぴ、と変な音がして、携帯電話を耳か
︱
決して正しいことではなかった。でも全て
けどな﹂
﹁そうだな。私もだ。私も⋮⋮﹂
暫く沈黙が続く。思い当たる節でもあるん
129 |物語はいつもハッピーエンドで終わらない
い。また後でね﹂
し出すまで待っているか迷ったけれど、話し
のか、それとも緊張しているのだろうか。話
いた。くるくる回って、鈴が鳴るようにころ
とは正反対に、喜びに頰を赤く染めて笑って
そんなわけないだろう、だってあの子が現
きっともう二度と、選択権は取り返せない。
と、罰に。
馬鹿な私はやっと気づいた。奪われた選択権
ぬか喜びしていた頭に冷水を浴びせられて、
ころ笑う。
﹁ああ﹂
尋ねた。
や す く な れ ば と 優 し い 声 で﹁ ど う し た?﹂と
う。ぴ、機械音が鳴る。ボタンを押して、今
﹁⋮⋮あ、あのね﹂
恐らくほぼ同時に互いの通話を切っただろ
電話をかけてきている恋人の名前を認識した
しなくたって、私がうんと喜ぶことはお前が
声が随分震え、掠れている。そんなに緊張
きっと真由美が私に話す気になってくれた
よくわかっているだろうにと思いながら、続
後、耳に当てた。
んだろうと思い、顔が綻ぶ。彼女とは結婚を
く言葉を待った。
決め込む。やったなとか、何日目なんだとか、
はっと息を吐いて、ぐっとガッツポーズを
﹁私⋮⋮子供ができてたの﹂
とても喜ばしい言葉を待った。
真剣に考えていた、いや、結婚するならもう
この人しかいないと思っていたのだ。こうい
うことが結婚のきっかけになるのはよくある
話だが、まさか自分も仲間入りするとは思わ
なかったな。
聞こえる声は沈み、嗚咽が混じっていた。
沢山聞いてやろうと思ったのに、電話口から
なかった。でも今は違う。きちんと仕事をし
﹁でも⋮⋮流れ、ちゃった⋮⋮﹂
人の親になることに、あの時は自信が持て
て、それなりに家族を養える収入と器を手に
﹁えっ⋮⋮﹂
頭が言葉を吸収できなくて、耳の中でぐるぐ
いったい何を言っているのだろう。うまく
入れたつもりだ。きっと今度こそ幸せになれ
る。あの時あの子が選択できなかった方を、
今度こそ︱︱。
と声を発した。今から話すことがばれている
れたのは、現れた理由は、そうじゃないはず
る同じ音が巡る。
と知ったら驚くだろうから、なるべく声だけ
だろう。
電話を耳に当て、喜びを押さえつつ﹁はい﹂
はいつも通りを装う。でも嬉しさのあまり顔
を聞きながら、立ち尽くす。気付くと目の前
呆然と聞こえてくる彼女の泣きじゃくる声
しかし、いつまで経っても電話口から何も
にあの男の子が立っていて、真っ白な私の顔
がにやけるのだけは押さえられなかった。
聞こえてこない。やはり話すのを迷っている
文藝 14 | 130
研究室賞受賞作品
ちょっと自転車で
旅をしてみた。
藤田江里華
序章 六甲山にて
予定のない休日の昼下がり、私はいつも自
転車で六甲山に登る。雪の残る小春日和や、
先の学習塾の授業のシミュレーションを行う
ことだってある。
移り行く季節の中に、変わらない景色があ
って、人間に媚びることのない自然が、ここ
引き波を立てて走る船や空港から飛び出す
には広がっている。
に、紅葉の深まる秋、小雨が降るときでさえ、
飛行機、そして海に沿ってまっすぐに伸びる
緑の芽吹く春、照りつける太陽が眩しい真夏
私は独り、ペダルを踏みつけ、九十九折を繰
道路を見て、私は自分の過去を振り返る。
号線をひたすら走り、九州
り返す。
自転車で国道
まで行った2011年の夏。飛行機に無理や
六甲の山頂から数十メートル下ったところ
の道路の脇、更にそこから砂利道を抜けて覆
り分解した自転車を積み込み沖縄を一周、そ
過酷な一人旅で鍛えられた根性、心境の変
い茂った草を搔き分けた先に、雨風に曝され
めったに人の来ない秘密基地のような場所。
化。大腿二頭筋は少し成長しすぎたけれど、
れから四国を一周した2012年の冬。
私はいつも、ここに来るために汗を流して山
強くなった精神力、そしてたくさんの経験は
て木材の腐りかかったベンチが置かれてある。
を登るのだ。もちろん眺めは良い。少し下っ
日午前 時
一 全ての始まり
第一章 自分を変えた旅
たとはいえ、ここはほぼ六甲山の山頂なのだ。 私の宝物だ。
規則正しく並んだ住宅街、そしてその先に広
がる大阪湾。天気の良い日は、明石海峡大橋
から関西空港まで、はっきりと肉眼で見るこ
とができる。
そんな景色を目の前にして、今にも壊れそ
うなベンチにそっと腰を下ろし、私は独りの
2011年 月
兵庫県尼崎市と西宮市の境目である武庫川
時間を自由に使う。考えごとをするときもあ
れば、下手な文章を書いてみることもある。
9
大橋の真ん中に、たくさんの荷物を括りつけ
16
大学の課題をするときもあるし、アルバイト
131 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
2
8
格。 人 と 比 べ る こ と で し か 自 分 の 価 値 を 測
れない一人暮らしと、それをやりくりするた
辺だけの付き合い。甘えられる人もいない。
た黒い自転車を止める。この場所から私の旅
璧〟を追い求めていた。もちろんこの世界に
講義に出て単位は取るものの、ここには自分
めのアルバイト。大学で出来た友だちとは上
行き先は、九州。理由はなんとなく夏っぽ
〝 完 璧 〟な ん て モ ノ は 存 在 し な い。 そ れ で も
より優れた人がごまんといる。自信を無くし、
れず、他人よりも上位につくため、常に〝完
いから。九州のどこに行くかはまだ決めてい
私は見えない敵と無意味な戦を繰り広げてい
が始まるのだ。
ない。〝夏という季節を肌で感じたところが
自分で自分を認められなくなる。
大学二年生の夏ごろから、夜に眠ることが
た。自分の中で作った敵。戦えば戦うほど敵
りつくまでその敵
も折り合いが悪い中、中学の先生に進められ
中学生のときに母親を亡くし、他の家族と
すことができた。こんな生活をしばらく続け
三日目の夜には目を瞑っただけで意識を手放
だけ寝ればいい。三日連続で起きていると、
できなくなった。寝ようとすればするほど、
た高校に進学した。自分の意思ではない人生
る。今度は起きることができなくなった。目
に勝つことはできない。自分の中に劣等感が
自転車で旅をするときに必要なモノなんて全
の選択。高校生になっても家族の心はバラバ
が覚めても立ち上がれないのだ。大学は丁度、
頭が冴えるのだ。ならば本当に眠れるときに
くわからない。だから家にあるモノで、何と
ラ の ま ま。
﹁ 何 で も 人 一 倍 頑 張 っ て、 一 番 に
春休み。アルバイトも極限まで減らし、一日
募る。
も 強 く な る。
〝 完 璧 〟に
ゴール〟ということにした。
荷物の中身は二日分の衣類と、シャンプー、
リンス、衣類用洗剤、旅路を記録する手帳と
なく旅で使いそうなモノを選別してカバンに
なれ﹂という生前の母親の言葉が、私の中で
中ベッドで眠り続けた。四月になっても起き
カメラに、暇なときに読むための本を数冊。
詰めた。
大きくなる。
地図と自転車の整備用工具は家に無かった
がないと思い、高校生活の後半は学業を半ば
った。一番になれないのなら頑張っても意味
っていたけれど、一番になることはできなか
にいう新型うつ病か⋮⋮と自分を りながら、
普通に生活ができるようになった。これが俗
上がれなかったので、とりあえず大学は休学
別に外国に行くわけではないのだ。日本には
放棄。思春期も相まって、いよいよ家族との
楽しみも目標もなにもない毎日を過ごした。
高校に入ったころはそれなりに勉強も頑張
整備された道路がある。とりあえず西に進め
関わりを拒絶した。性格の捻くれてしまった
大学に行かなくなった分、アルバイトを増
ので﹁まあいいか﹂と思い、準備はしなかった。
ば九州に着くし、自転車屋さんだって全国各
私に構ってくれるのは高校の先生だけ。その
やす。最低限の生活費以外にお金を使うこと
旅を始めた2011年。当時 歳。私は大
学を休学していた。
る。人生ってなんてつまらないものなのだろ
大学という競争の場から開放された途端、
することにした。
地に点在しているだろう。
先生に甘えながら、なんとか高校を卒業。そ
もないので、貯金通帳の数字がどんどん増え
負けず嫌いの完璧主義という遊びのない性
大学へは自分の意思で進学したものの、慣
れと同時に実家を出た。
20
文藝 14 | 132
う、と思った。
なんの縛りもない生活を送っていたある日、
㎞強。
もらった自転車は持って帰らなければなら
ない。実家から一人暮らしの私の家は
﹁もしかして筋肉痛?﹂
自転車をもらって一週間後に旅を始めたの
だ。実際に長距離を走るのはこのときが初め
線路の横を自転車で走る。汗ばむ身体にあ
ないか。息もそこまで上がらない。なのに何
疲れる。でも自転車はペダルを漕ぐだけじゃ
面倒くさいと思いながらも、私は自転車に跨
要領の悪い姉を見て育ったからか、弟は世
たる心地良い風。眩しい太陽に、鳥のさえず
故こんなに疲れるのか。実際に走ってみるこ
数年ぶりに弟から連絡があった。﹁自転車を
渡りが上手い。私が意味のない日々を送って
り。数分置きに通る電車の音と、電車が通る
とで、私は初めて自転車を漕ぐことがスポー
てであった。マラソンで長距離を走れば足は
いるなか、弟はたくさんの人と交流して趣味
度に激しく揺れる線路脇の向日葵。私は久し
ツに値する行為だということに気がついた。
って自分の家に向けて走り出した。
を増やしていた。モノ作りも趣味のなかの一
ぶりに楽しい気持ちになった。このままどこ
自作したから見にこないか﹂と。
つで、ゴミ捨て場にあった廃材と、近所の車
に行ってやろう。
一週間後、荷物を括りつけた自転車と共に、
私は武庫川大橋の上に立っていた。
さあ、旅にでよう。
思考回路は恐ろしい。失うものが無い人間は、
一度人生のレールを外れてしまった人間の
ればないで、朝まで走り続けよう。
けばネットカフェくらいはあるだろう。無け
の宿も決めなければならないな。姫路まで行
ゃないか。後で薬局に寄ろう。そろそろ今日
筋肉痛になるならば、湿布を貼ればいいじ
だという認識はなかった。
十キロも自転車で移動することが異常な行為
がたくさん咲いた私の頭の中には、一日で数
不幸か幸いか、鈍りきった思考のせいでお花
まででも走っていけそうだ。
だから頂
そうだ、自転車で旅をしよう。本当に遠く
屋さんから貰ってきたパーツを組み合わせて、
自転車を作りあげたらしい。楽しそうに生き
る弟と、楽しくない生活を送る私。なんだか
悔しくなって、私はこの自転車を奪ってやろ
うと思った。
﹁とにかくそれを寄越せ﹂と迫る私に、弟は
嫌な顔をしながらも﹁何か目的があって使う
のならあげる﹂と優しい言葉をかけてくれた。
﹁ こ れ に 乗 っ て 日 本 を 旅 す る!
戴﹂
自転車はスポーツ
堕落した生活を続け、思考の鈍っていた私
当時、自分を守ろうという考えのなかった
は、自転車を漕ぎ続ける行為が〝運動〟だと
私は、自分の身体を気遣いもせず、明日は明
二
旅する。この一言によって、私は自転車を手
㎏の荷物を積
無意識に口から出た言葉。自転車で日本を
に入れた。もちろんそのときは、旅をする気
いうことを失念していた。約
25
いくらでも無茶ができるのだ。
なんてなかった。自転車をもらってもせいぜ
んだ自転車を漕ぐ。スタート地点から
時には姫路市に到着。予想通り駅前には
で、なんていうことを本気で考えていた。
日の風が吹く、野垂れ死んだら人生はそこま
い近所のスーパーにいくくらいだろう。弟の
ど進んだ場所、明石海峡大橋辺りで足に違和
㎞ほ
好意を踏みにじるようなことを、当時の私は
感を覚えた。
133 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
8
平気で考えていた。
18
10
ネットカフェがあった。近くに銭湯もあった
のでお風呂はここで入ることにした。お風呂
上がりに薬局に寄って湿布を買い、ネットカ
フェに入った私は、それをふくらはぎに貼っ
てあっさりと眠りについた。
走行距離は ㎞。
私、今、人間っぽく生きている! 何度か寝ようとしたけれど、なかなか寝付
しようなんていう素っ頓狂な考えを実行させ
たのだと思う。
今日は岡山市まで行けたらいいかな。
そんなことを考えながら、早朝の国道 号
線を走る。夏とはいえ、太陽もまだ低く、蟬
けなかった。周りからカチャカチャと聞こえ
るキーボードの音や、漫画や雑誌をめくる音。
の鳴き声も聴こえないこの街は、爽やかな空
気と暗い沈黙を保っていた。姫路市を過ぎた
誰かのいびきに、不良少年たちの笑い声。ネ
初めて長距離を走ったにしたら、上出来だ。 ットカフェという場所は、酷く荒んだところ
号線は山道に入った。
自転車の旅、初めての宿は姫路市のネット
にした。初日と同じ要領で荷物を自転車に括
時にもなっていなかったけれど出発すること
ゴロゴロするのは時間の無駄なので、まだ四
どうせここに居たって眠れない。このまま
に驚いた。そしてここで初めて、自分が今走
と信じて疑わなかった私は、このクネクネ道
真っ直ぐのトンネルが用意されているものだ
よ う に、 国 道 と い う 大 き な 道 路 に も、 当 然、
電車がトンネルの中を通って山を突っ切る
あたりで、国道
カフェ。梅雨の季節に閉め切ったままにして
りつけて、走り始める。少し身体は痛いけれ
であった。
いたときのカビ臭い部屋、夜のネットカフェ
っている道と、これから先、九州へ行くため
使わない筋肉を使ったせいで私の身体は火照
三時。ネットカフェ内の湿度とは別に、普段
た。蒸し暑さで、目が覚めた。時間は深夜の
たことはあったものの、高校生になってから
い。子どものころにスポーツ系の習い事をし
やら私は普通の人よりも基礎体力があるらし
このときは気がつかなかったけれど、どう
らなかったのに! 当然である。そのときは
山の中に真っ直ぐ引かれた高速道路を走って
車で岡山に行ったときは、こんな山道は通
よくよく考えればアルバイトのとき以外は
精神は弱いのに、肉体は強
いや、私は何も知らないまま、調べないまま
い、旅に出てから気がつくことが多すぎる。
いたのだから。筋肉痛といい、道路状況とい
慄を覚えた。
っていた。湿布のお陰で酷い筋肉痛にはなっ
は体育の授業以外でスポーツに触れていない。
れないのだな。ゲームの世界では、電源を落
家に籠っているような人間が、いきなり自転
。
として、次に再起動したら、主人公の体力は
車で
り前のことを大発見かのように感じる自分が
このアンバランスさが、突然自転車で旅を
繊細な精神と鈍感な肉体。
たまま生活していた私は、本物のバカになっ
大学を休学してからの約半年、思考を止め
㎞を走ることだっておかしな話なのだ。 に旅に出たのだ。
100パーセントに回復しているのに。当た
可笑しかった。
8
現実の世界は、ゲームみたいにリセットさ
ていなかったけれど、明らかに足が重い。
に自分が通らなければならない道の実態に戦
ど、許容範囲内だ。
三 自転車は軽車両
2
はそんな臭いと、むっとした熱気を纏ってい
2
83
文藝 14 | 134
である。考えるという行為を放棄したとき、
ろは、私が時折ミスをするということくらい
ように同じ行動を繰り返す。機械と違うとこ
自分の意思も感情も目的もなく、ただ機械の
ドルを切ったのだ。そしてハンドルを切った
ックが急に出てきたダンプカーに驚いてハン
吹っ飛ばされた。私の後ろを走っていたトラ
いで何かがぶつかり、私はその衝撃によって
ていた。与えられることだけを淡々とこなし、 てきたと思ったら、自転車の後輪に物凄い勢
としながら車道を走っていた私も悪い。
車だって車両のなかのひとつなのだ。ボーッ
だ。この運転手さんは加害者だ。でも、自転
確かに私を跳ね飛ばしたのはこのトラック
変なことをしてしまったんだな﹂と思った。
本来ならば、人身事故を起こしたときには、
トラックに撥ねられて身体が宙に浮いてい
とき、無知な私は事故に合ったときの正しい
をしてもらわなければならない。しかしその
怪我の有無に関わらず警察を呼んで事故処理
る間、目に見える景色はスローモーション、
私は一刻も早く旅を再開させたい。トラッ
対処方法を知らなかった。
た自分の部屋の映像が鮮明に映し出されてい
頭の中には綺麗に片付けないまま出てしまっ
れた。
それが人間の終わりなのだと思った。そして、 先に丁度私がいたのだ。こうして私は撥ねら
今までの私は終わった人間だったのだという
ことを知った。
よし、今、生まれ変わろう! せっかく弟にもらった自転車だけど、この
クの運転手さんは仕事柄、事故を起こしたら
小学生のころ、私は柔道を習っていた。そ
自転車のままでは先に進めそうにない。でも
た。
地図もない、携帯の電波もほとんど届かな
ったのだ。このままこの道を進むしかない。
のときに散々教え込まれた受身の体勢。そし
旅を始めてたった二日で家に帰るなんてこと
ややこしいことになる。そこで、示談をする
もしここで死んでも、誰かが見つけてくれる
て身体を打ったときに痛みを分散させる方法。
はしたくない。弟には申し訳ないと思いつつ
﹁ドスっ﹂という鈍い音が鳴ってすぐに、世
だろう。家で孤独死でもしてみろ。腐るまで
事故現場で、無意識のうちに私はそれを実践
も、結局、大破した自転車は修理に出すとし
い、そんな世間と遮断された世界で私は生ま
誰も気が付いてくれないぞ。
していた。背中から地面に落ち、落ちた瞬間
て、運転手さんには新しい自転車を買っても
ことになった。
気持ちを入れ替えて、早朝の山を走る。た
に身体を転がす。そして身体を転がした勢い
らうということになり、示談は成立した。
界が正常に動き出した。
つの市に入る。揖保川という標識を見つける。
で立ち上がる。
れ変わる決心をした。もう山道に入ってしま
地図帳でしか見たことのない土地を、私は今、
私はトラックに撥ねられた。
相生市に入ってすぐの山道、右カーブ。
運転手さんを見てから初めて﹁ああ、私は大
ほど深くお辞儀をして謝罪してきた。そんな
てから、頭が地面に付くんじゃないかと思う
ンピンしている私を見て安
の表情を浮かべ
トラックから降りてきた運転手さんは、ピ
の仕事についていくことにした。今なら思う。
ラックの助手席に乗り、このまま運転手さん
けにはいかない。少し迷ったけれど、私はト
もこのままここで運転手さんの帰りを待つわ
とはいえ、運転手さんはこれから仕事。私
自転車で走っているのだ。
対向車線のカーブから突然ダンプカーが出
135 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
いくら相手が仕事中の人間だからといって、
岡山市で荷物を下ろせば、お兄さんの今日
ことを口にするとお兄さんに﹁だから事故る
私はこのとき初めて知ったのだけど、そんな
んだ﹂なんてことを言われかねないので黙っ
の仕事は終わり。そのまま自転車屋さんに行
って、新しい自転車を買ってもらった。
知らない人の車に乗るなんて正気の沙汰では
ないと。でも当時の私は、正気ではなかった
幸い、運転手さんはいい人だった。トラッ
も軽くて走りやすい設計になっている中距離
いう種類のもので、俗にいうママチャリより
転車が、また、ただの廃材となって家に届け
する手続きを取った。廃材から作り上げた自
大破した自転車は、分解して弟の家に郵送
ておいた。
クの中で運転手さんの話に耳を傾ける。 歳
用自転車だ。ギアも前輪と後輪の両方に付い
られるという弟の心情を思うと、居たたまれ
買ってもらった自転車は、クロスバイクと
という割には幼い顔立ちで、おじさんと言う
ていて、山道でも細かく重さを調節しながら
ない気持ちになった。元凶はまぎれもない私
のだ。
のは何となく申し訳なく感じたので、運転手
走れるらしい。
兄さんは十代のころからずっとトラックに乗
ヘルメットも買ってくれた。小学生が使うも
この自転車に加えて、お兄さんはライトと
四
見えない敵
嘆いた。
なのに、私はそれを棚に上げて、弟の不幸を
さんのことはお兄さんと呼ぶことにした。お
っているらしく、なんの縛りもなく自由に生
の以外に自転車用のヘルメットがあるなんて、
私で、しっかりと自分の意思で生きているお
兄さんの強さが羨ましいと口にした。
クは勾配のきつい坂道をいとも簡単に通り抜
日、一日かけて行くはずだった岡山。トラッ
勢になるので、足に力を入れなくてもペダル
イヤのサイズ。自転車に跨ると自然と前傾姿
自分の身長に合ったフレームに、程よいタ
新しい自転車は、驚くほど走りやすかった。
ける。地方の美味しい食べものの話や、夜に
を漕ぐことができる。これがお金の力か。モ
お兄さんの今日の仕事先は岡山市。私が今
トラックで走っていたときに体験した心霊現
このクロスバイクの値段は 万円程度だっ
る一方で、暗い影が私の心に落ちる。
しっかりと計算された自転車に感動を覚え
いようにできているのだ。
やっぱりそれなりに値が張るものは使いやす
ノは高ければいいというわけではないけれど、
と会話をしていなかったなあ。久しぶりに大
笑いをすると、頰っぺたの筋肉がピクピクっ
と
痙攣した。
たけれど、自転車屋さんには、これよりも高
3
そういえば、この半年、私はまともに他人
象などを、お兄さんは楽しそうに話した。
新しい自転車
きている私のことが羨ましいと言った。私は
37
文藝 14 | 136
﹁さっき食べ過ぎてしもうたんじゃ﹂
ードバイクと言われるものがある。ロードバ
なかった当時の私は、姿の見えない誰かに勝
他人と比べることでしか自分の価値を計れ
しっかりと携帯電話が握られている。特に困
たのかはわからないけれど、この人の手には
おじいさんがどうやってここまで登ってき
めるために、私の肉体はどれほど努力しなけ
イクとなると、値段は 万円から100万円
手な対抗意識を燃やし、実体が無いのだから
っていたわけではなかったのだ。岡山県の方
価なクロスバイクがまだ何台も並んでいた。
以上と、車が買えるような金額になってくる。
永遠に勝つことのできない、そんな相手を敵
言 と は い え、 お 年 寄 り が 語 尾 に﹁∼ じ ゃ﹂を
と笑顔で話すおじいさんをみて安心する。
もちろん高価な自転車であればあるほど、道
視して、一人で神経をすり減らしていた。ア
つけると、漫画なんかで見る典型的な老人の
ればいけないのだろう⋮⋮。
路は走りやすい。私が 万円の自転車で必死
イデンティティを確立できないまま成長する
話し方っぽくて笑ってしまう。
クロスバイクよりも走りやすい自転車で、ロ
になって九州に行ったところで、100万円
と、私のような大人が出来上がるのだ。
たところで、道の脇でうなだれているおじい
何とか気持ちを落ち着けつつ坂を上りきっ
はそれを有り難く戴き、山を下った。
ぎりを私の自転車の前かごにねじ込んだ。私
からあげる﹂とアルミホイルに包まれたおに
おじいさんが困っていないのなら私も早く
く走行できればそれでよかったので、トラッ
さんを発見した。こんな山の中に、たった一
人と会話をすると、気持ちが晴れる。おじ
見えない敵を意識し始めると、途端に身体
クの運転手さんに高価な自転車をねだること
人で座り込むおじいさん。ただ休憩している
いさんを心配して自分から話かけたわけだけ
先に進もうと思い、おじいさんに別れを告げ
はしなかったが、実際に自転車に乗ってみて、
だけなのか、登山の途中で道に迷ったのか、
ど、誰かの声を聞くことによって自分の中に
が重くなる。岡山市から広島県に向かう山道
の自転車に乗っている人は、私と同じ時間を
走れば、軽々ともっと遠くまで行くことがで
きるのだ。
値段による性能の違いに愕然とした。
それとも姥捨て山の昔話よろしく捨てられた
ある暗い気持ちも少し和らぐ。上り坂で噴き
る。するとおじいさんは﹁もう食べられない
ないのだから、本当は他の人がどんな自転車
のか。様々な疑惑が浮かぶ。おじいさんの体
出た汗を、下り坂で受ける風が飛ばしてくれ
で、私のメンタルは崩壊寸前だった。
に乗っていようが関係ないのだけど、日常生
勢から察するに、これはあまり良くない事態
る。心地がよかった。
私はこのクロスバイクを選ぶとき、とにか
活ですら見えない敵を作って勝手に戦ってい
だと感じた。
別に自転車で誰かと競争しているわけでは
た私である。もしこの日本で自分と同じよう
ときこそ人とのコミュニケーションが大切だ
私だってメンタルがやられている身。辛い
座り、おじいさんにもらったおにぎりを勢い
広島県に入ってから、休憩を取る。日陰に
に自転車で旅をしている人がいたとして、そ
の人が自分より良い自転車に乗っていたら、
よく頰張る。
感じる。私は慌てておにぎりを口から出した。
おにぎりを口に入れた途端、悪臭と酸味を
と思い、意を決しておじいさんに声を掛けた。
想像以上に元気な声を発したおじいさん。
﹁ちょっと休憩しているだけじゃ﹂
私はその人に負けてしまうではないか。
自分の脚力だけではどうしようもない、自
転車というモノのレベルの差。モノの差を埋
137 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
10
3
そう、おにぎりは腐っていたのだ。
一気にいろんな考えが脳裏に浮かぶ。もし
番大事なんだ。私利私欲の固まりなんだ。こ
自転車乗りだらけなのだろう。
にねじ込んだのか。いや、おじいさんは腐っ
ているとわかっていながらこれを私の自転車
たから座り込んでいたのか。それなら、腐っ
てしまえば思考を止めることができるから。
もだったらベッドに潜って眠ってしまう。寝
出せなくなってしまう。こういうとき、いつ
人間は生きてるの? 一度思考の深みにハマると、そこから抜け
型バイクでも走ることができるのだ。
だけど、その高速道路の横の道は自転車や小
いだ道のことである。この道は高速道路なの
間の海に浮かぶ小さな島々を橋で一直線に繫
しまなみ海道とは、四国と本州、またその
尾道駅の案内板を見てはっと気がつく。こ
ていることにすら気づいていなかったのかも
でも私は今、広島県の山の麓にいる。こんな
全国的に見ても自転車で走れる高速道路な
んな汚い世の中なんて嫌いだ。そもそも何で
しれない。だから気分が悪くなって座ってい
ところで寝るわけにはいかないのだ。残った
んてここしかない、それに島と島を繫ぐ道は
に、全国から自転車乗りがこの尾道市に集ま
の土地はしまなみ海道の入口なのだ。
たのか。それとも私が前カゴにおにぎりを入
おにぎりを土の中に埋めてから、自転車に跨
景色がいい。そんなしまなみ海道を渡るため
かしておじいさんは、腐ったおにぎりを食べ
れたままにしていたから、アルミホイルに光
る。
尾道市で足を止める。本当はもっと都会ま
が集まって腐ってしまったのか。
結局、真相はわからない。
ってくるのだ。
走ることができない。
一泊割引が効かなくなるので、時間調節のた
で行きたかったけれど、こんな精神状態では
つめながら、酷い虚無感に襲われた。世の中
﹁尾道駅から徒歩三分﹂と書かれたネットカ
めに、私もしまなみ海道の入口に行ってみる
けれど私は、地面に吐き出したご飯粒を見
は敵だらけだ。人もモノも、いつ私を裏切る
フェの看板を見つけ、今日の宿をここに決め
ことにした。
あまり早い時間からネットカフェに入ると、
かわからない。自分自身だって信用できない。
た。
ットを被り、サングラスを掛け、身体のライ
この辺にいる自転車乗りは、みんなヘルメ
世界中の人々は何に希望を見出して生きてい
るのだろう。何に縋って生きているのだろう。
あの優しそうなおじいさんにもらったモノ
って、他人にモノ、まして食べ物なんかをも
高価な自転車に乗った人がたくさんいたので
尾道駅に着いて驚いた。この駅の周辺には
い。一方、私の格好といえば、ただの半袖シ
こういう服装が自転車に乗るときの基本らし
下も自転車専用のものを使っているようだ。
ンにピチッと沿った服を着ていた。手袋や靴
らってはいけない。トラックのお兄さんだっ
ある。兵庫県からこの街まで、普通の自転車
ャツに下はジャージである。靴は登山用のト
自転車乗りの聖地
てそうだ。良い自転車を買ってくれたのだっ
に乗った人は数え切れないほど見かけたけれ
レッキングシューズだし、手袋なんて持って
て、自分の免許や保険に傷がつくのが嫌だっ
ど、クロスバイクやロードバイクに乗った人
いない。他の人と自分を比べると、みっとも
五
たからだ。私だって、自分の都合だけで生き
は数人しか見なかった。どうしてこの街は、
が腐っていた。いくら良い人そうだからとい
ている。この世界では、皆、自分のことが一
文藝 14 | 138
休憩していると、高級そうな自転車に乗った
しまなみ海道入口の真横に自転車を止めて
えていない。今まで心の中に押しとどめてい
する前だって、最後にいつ泣いたかなんて覚
旅を始めてから、初めて泣いた。いや、旅を
えた嬉しさに、私の目からは涙が
﹁他人と比べてしまうのは、自分に自信がな
た。
るだけではないのか。向井さんはこうも言っ
て環境のせいにするのは、自分から逃げてい
ったことには違いない。でも自分の欠点を全
れ出た。
お兄さんに声をかけられた。サングラス焼け
た感情が、涙という物体になって、ボロボロ
なさすぎて泣きたい気持ちになった。
した顔に、頼りなく垂れた目。彼は、いかに
友達と自分を比べ、社会人になってからは、
ィティが無くて、自分の物差しを持っていな
そうか。私には芯が無いんだ。アイデンテ
いとも簡単に教えてくれた。
あるらしく、私の探していた悩みの答えを、
向井さんも同じようなことで悩んだ経験が
分を計ろうとするんだ﹂
しての芯がないから、人の物差しを借りて自
いからだよ。自分の中の基準、つまり人間と
向井さんは雑巾のように薄汚れたハンカチ
とこぼれ落ちた。
富山県から沖縄県までを自転車で旅している
を、少し恥ずかしそうに私に渡してからポツ
も〝善人〟という顔をしていた。お兄さんは
らしく、独りで大荷物を積んだ自転車に跨っ
リポツリと語り始めた。
﹁俺もずっと自分と人とを比べて生きてきた。
ている私が気になって声をかけたそうだ。
お兄さんの名前は向井さん。会社を辞めて
さっきのおにぎり事件ですっかり精神が衰弱
業績を同僚と比べながら生きてきた﹂
突発的に旅に出たそうな。昨日の事故の話や、 子どものころは兄貴と自分を比べ、大学では
していた私は、人の善さそうな向井さんに、
情を聞いてくれそうな人は、この人しかいな
んが悪い人だとしても構わない。今の私の心
自分の容姿も頭の容量も、生まれたときから
﹁この世に平等なんて存在しないんだ。親も
とに疲れて会社を辞めたらしい。
いんだ。だから高価な自転車に嫉妬するんだ。
いつまでたっても満足感を得ることができな
の人の物差しに自分を合わせようとするから、
は私の基準で世界を見ればいいのに、世界中
いから、こんなに苦しい想いをするんだ。私
いのだから。
みんな違うんだ。子どもはそれを選べない。
かんかんと地球を照らし続けていた太陽が
向井さんは営業職で、同僚と仕事を競うこ
向井さんは、私が旅に出た理由、そして旅
だから人間は、生まれたときに与えられたカ
ポロポロと心の中を打ち明けた。もし向井さ
に出てからの様々な感情を﹁うん、うん﹂と
水平線に沈む。橙色に染まった空に、黒い闇
が覆い被さる。逸ることなく、サボることな
ードで勝負するしかないんだ﹂
言われてみれば、その通りだ。この世に全
く、太陽は、太陽の基準で、この尾道という
を打ちながら聞いてくれた。
何を話しても否定することなく、話の途中で
く同じモノなんて存在しない。たしかに私は
ひとつひとつ相
持論を挟むわけでもなく、真っ黒な瞳を私か
一 通 り 話 を 終 え た 後 で、 向 井 さ ん は 一 言
ないか。それを親のせいにしているのは自分
そんな家庭なんてこの世にごまんとあるじゃ
ぎりだって偶然腐ってしまったのだ。世の中
じいさんは、きっと、悪い人ではない。おに
ふと、さっきのおじいさんを思い出す。お
街を去る。
両親が
﹁ 今 ま で 独 り で 頑 張 っ て き た ん だ ね ﹂と つ ぶ
自身だ。自分の生きてきた環境が最善でなか
っていないし、家族仲も悪い。でも
ら離さずに、ただ静かに話を聴いてくれた。
やいた。その優しい言葉と、他人に同意を貰
139 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
し い 道 路 で あ っ た。 真 っ 青 に 晴 れ た 空、 白
り、そして時折走る電車の規則的な音が、私
そこで眠るらしい。私はネットカフェに行く。
旅が終わったほうから、メールを送ろうと約
の五感を刺激する。地球はなんて美しい場所
には完璧な善人もいないし、完璧な悪人だっ
れば、その光で心を焦がしてしまうことだっ
束する。旅をしている最中は、メールとはい
なのだろう。この景色、匂い、音を感じられ
い 雲、 優 し く 吹 く 潮 風 に、 乾 燥 し た 土 の 香
てある。人間だって同じだ。盲目的に他人を
え知っている人を身近に感じたくない。私は
お互いに紙に書いたメールアドレスを交換し、
信用すると、その気持ちの重さで自分が傷つ
る私は、なんて幸せ者なのだろう。久しぶり
ていない。太陽は人の心に光を灯すこともあ
いてしまう。だから自分の基準を持った上で、 その紙をお金を入れている巾着袋に大切に仕
﹁自分の芯を築くためには、まずは自分に自
や向こうの島から漏れる街灯が、まるで蛍の
すっかり暗くなった空。黒い海面には、船
舞い込んだ。それから向井さんとお別れした。
や手のひらのマメでさえ愛おしく思えてくる。
て温かいんだなあ。幸せを感じると、筋肉痛
に〝幸せ〟という感情を思い出した。幸せっ
他人と接すればいいのだ。
信を持たないとね。どんなことだっていい。
この痛みが、私の生きている証なのだ。
を含んだ服はぐんと重くなり、私の身体にへ
髪の毛がお風呂あがりのような艶を出す。汗
とめどなく流れる汗を拭いもせずに走る。
ようにゆらゆらと揺れていた。
六 幸せを思い出す
自分で決めた目標を自分で達成することがで
きたら、それが揺るぎの無い自信につながる
んだ
そう向井さんは言った。
﹁たとえば、自転車で日本のどこからどこま
目標を決めなければならない。
できない。もっと具体的に、身の丈に合った
った。そんな目標ではいつまでたっても達成
〝 一 番 に な る こ と 〟と い う 漠 然 と し た も の だ
けてくれたのだ。テーピングには正しい巻き
んが、半ば呆れながら自分のテーピングを分
けしてボロボロになった私の手を見た向井さ
メだらけになっていた。昨日、真っ黒に日焼
車のハンドルを握り続けていた私の手は、マ
にグルグルと巻く。旅に出てからずっと自転
海に潜り、小さな魚を追いかける。砂浜に
った。
った私には、水浴びという行為自体が快感だ
想像以上に温かかったけど、体温の上昇しき
に飛び込んだ。太陽に照らされ続けた海水は、
私は砂浜に自転車を止めて、服を着たまま海
で汗をかいてしまったら、もうどうでもいい。
ばりつく。道の先に砂浜を見つける。ここま
でを旅する。これだって立派な目標じゃない
方があるはずなのだけど、よくわからなかっ
座り込んでお城を作る。貝殻をたくさんかき
向井さんにもらったテーピングを手のひら
か。ただ、目標だから絶対に達成しなきゃと
たので、私はテープを適当に手のひらと手首
集め、その中でも綺麗な色や形の貝を、大事
自 分 で 決 め た 目 標。 私 の 今 ま で の 目 標 は、
思ってはいけないよ。そうじゃないと、貴女
に巻きつけた。
街道と呼ばれ、右手にはJRの線路、左手に
もう二度と忘れないようにと、当時と同じよ
少期の楽しい記憶。私は記憶を思い出しては、
にポケットに仕舞う。すっかり忘れていた幼
は穏やかな瀬戸内海が望めるという素晴ら
尾道市と三原市を結ぶ海岸沿いの道は芸南
はまた事故に合うし、いつかは命を落として
しまう。自分を大切にしながら、自分の目標
と向き合うんだ﹂
向井さんは、近くの公園でテントを張って
文藝 14 | 140
大和ミュージアムなんかを見学してから、呉
刷り込ませた。
うに遊ぶことによって、それを自分の脳内に
し遅ければ、私は何も知らずにのうのうと台
ていなかった。もし雷の音が鳴るのがもう少
ったので、台風が来ているなんて想像すらし
中はテレビもネットも新聞も全く見ていなか
山口県を通過しているところだったのだ。旅
て事の大きさに気がつく。まさに今、台風が
な景観にはまだ出会っていない。当初はこの
い 景 色 は た く さ ん 見 て き た け れ ど、 人 工 的
奪われた。今まで旅をしてきて、自然の美し
で宣伝したものがあり、私はその写真に目を
つに長崎県の有名な夜景スポットを写真付き
広告が、壁中に貼られてあった。その中の一
岩国駅には﹁電車で行く夏旅﹂なんていう
翌日は呉市から広島市を経由して、山口県
竹 原 市、 三 原 市 を 通 過 し て、 呉 市 に 到 着。
市のネットカフェで就寝。
風の目に自転車で突っ込んでいくところだっ
旅の目的地を〝九州〟とだけ設定していたが、
九州に入ってからは、長崎県を目指そうと決
普通のホテル並の料金を取られてしまう。そ
告が貼られてあった。青春 きっぷというも
夜景の広告の隣に、青春 きっぷの宣伝広
めた。
れならば、走れるところまで走って、走行不
とはいえ、ネットカフェに一日以上留まれば、
こんな天気の日は、室内に居るのが一番だ。
たのだ。
の岩国市へ。岩国駅近くのネットカフェで一
泊した。
七 あきらめるということ
の宿を探せばいい。とりあえず私は荷物をま
可能になった時点で休憩場所、もしくは今日
この値段ならば、ネットカフェに一日滞在す
という、JRのイベントきっぷのことである。
のは、一日2310円で鈍行電車に乗り放題
分。雷の音で目が覚
める。ネットカフェの中に居ながらでも聴こ
とめて、念のために持参していたカッパを着
るよりも安い。私は、電車に乗ることで、こ
岩国市にて。朝 時
えるほどの轟音。どうやら、外は嵐らしい。
用してからネットカフェを出た。
18 18
機管理能力がないと言われればそれまでの話
や交通情報を確認することはしなかった。危
れまでインターネットで自分の行く先の天気
日ネットカフェに泊まっていながら、私はこ
立っているだけでも辛いこの天候、私は自転
そして強風で自転車が真っ直ぐに漕げない。
私は足を止めた。これはダメだ! 大粒の雨
が四方八方からぶつかり、前が全く見えない。
自転車のペダルを四回ほど回した時点で、
車で旅をしたということにはならないからだ。
あった。電車で移動をしてしまったら、自転
回の旅。電車を使うことにはもちろん抵抗が
なのだ。今日、台風が山口県を通過したとし
でも今は違う。自分の身の安全が一番大切
突っ切っていただろう。
思い浮かびもせず、この台風の中を自転車で
自転車で九州を目指すことが目標だった今
の台風を切り抜けることにした。
だけれど、このころの私はすっかり松尾芭蕉
数日前の私ならば、電車に乗るなんて発想は
ずぶ濡れのまま、再びネットカフェに戻る
車での走行は絶対に無理だと判断した。
自分の肌で感じろ。未来の情報なんていらな
ば、雨宿りくらいはできるだろう。
ゆっくり押しながら岩国駅に向かう。駅なら
のもためらわれたので、とりあえず自転車を
気で考えていた。
い。きまぐれ道中万歳なんていうことを、本
か弥次郎兵衛になりきっていて、天気なんて
インターネットで今日の天気を調べる。毎
30
インターネットで天気図を見てから、初め
141 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
5
限らない。地図もない、道の情報も手に入り
ても、台風の爪跡が山道に残っていないとは
である。外せそうなネジをクルクルと回す。
自転車を分解する。もちろん初めての作業
宇部市に入った辺りで、車掌さんが車内放
送で、電車が台風の中心を通過したこと知ら
はならないが、一度くらいはこういう経験が
たしかに電車を使うと完全な自転車走破に
屋さんに持っていくことができるのだ。なん
にさえ戻ってくれていれば、どこかの自転車
に戻らなくなっても、とりあえず自転車の形
ラに収める。もし分解した自転車が完全に元
自転車で走行することはとても危険なことだ。 一つの作業を進める度に自転車の状態をカメ
ることができた。
業は意外と簡単で、数分で自転車を作り上げ
車での旅を再開させる。自転車の組み立て作
ら少し行ったところの下関市で下車し、自転
せる。もうここまで来たら安心だ。宇部市か
あってもいいではないか。目標が完璧に達成
とか自転車の前輪と後輪を外し、前カゴと後
本州の端である山口県と九州の端の福岡県
分解してから再構築できなくなると困るので、
できなくても、ほぼ達成できたらそれでいい
ろの荷台もとっぱらう。これらを無理やり袋
は、関門橋という橋で繫がっている。しかし、
にくい今の状況で、雨で緩くなった土の上を
だろう。向井さんの顔を思い出しながら、私
に詰めて、荷物の完成である。前カゴだけは
そこは高速道路なので、車やバイクしか通行
有り得ないという自分のダメな性格、完璧主
義が崩壊した瞬間である。
過ぎ。今日中に九州入りができそうだ。
ダで電車に乗せることができるのだ。世の中
詰めて、荷物という扱いにしてしまえば、タ
自転車を分解して袋に詰める。自転車は袋に
人の目線が気になったが、どうせ知り合いは
サックを背負い、改札口を通過した。周囲の
私は、大きな荷物と前カゴ、そしてリュック
長時間の分解作業ですっかり身体が乾いた
車の方、早く出てください﹂と放送で注意さ
と福岡県の県境の白線で遊んでいたら﹁自転
抜けるのだ。トンネルの丁度真ん中、山口県
ルという、海底を通るトンネルを使って海を
転車は、関門橋とは別の関門海峡人道トンネ
できない。歩行者や、自転車、原動機付き自
には自転車の輪行バッグなるものが出回って
一人もいないので気にしない。このときは他
号線に変わる。
る。ついに私は九州という土地に自転車で到
トンネルを抜け、エレベーターで地上に昇
いたようだ。
いるが、私はそんなモノを持ち合わせていな
入れているという高揚感で胸がいっぱいであ
れてしまった。どうやらカメラで監視されて
私は持っていた。もし旅の途中で気分が変わ
電車に乗り込み、車掌室の手前の比較的邪
った。
フェリーや飛行機にすぐに乗れるようにと思
号線から
全ての道を自転車で走行したわけではないけ
達 し た。 国 道 が
動き出す。自分の足を使っていないのに、ぐ
れど、私は今、自転車に跨って福岡県に立っ
魔にならないスペースに荷物を置く。電車が
移動にこの袋を使うことになるとは思ってい
んぐん進んでいく電車。あれ、電車ってこん
い、事前に準備していたのだ。まさかただの
なかったけれど、結果的にこの袋が必要な荷
物になったので良しとした。
ているのだ。
3
なに速かったっけ。
2
り、四国や他の離島に行きたくなったとき、
い。でもその代わりになるような大きな袋を、 人の目よりも、自分が未知の世界に足を踏み
早速みどりの窓口で青春 きっぷを購入し、 とにした。
関門海峡人道トンネルを目指す。時間は昼
は自分で自分を納得させる。 か100しか
袋に収まらなかったので、手で持っておくこ
0
18
文藝 14 | 142
本当に九州に来たんだ! 言葉で言い表せ
ないほどの感動と強い達成感。人間は本気を
自分の行動を認めてもらえる幸せを、私は思
をしていれば、あまり関わることのない年代
り、ちょっとした宴になった。普通に大学生
をすることによって変化した自分の心。少し
自分自身を守りながらここまで来たんだ。旅
れど、私は、あきらめるということ、つまり
るという当初の目標とは違った形になったけ
けることができたのだ。自転車だけで旅をす
んと生きている。生きて、この土地に足を着
の言葉に甘え、私は彼女の家でお世話になる
いけ、と優しい返事を返してくれたのだ。そ
取ってみたら、彼女は、どうせなら泊まって
たらいいなあくらいの気持ちで友人に連絡を
九州まで自転車で行くと決めたときに、会え
は博多市に住む友人の家に泊めてもらうのだ。
小倉市から博多市まで自転車を漕ぐ。今日
高校を卒業して構ってくれる人が居なくなっ
を当たり前のように享受し、満たされていた。
高校の先生。当時の私は、先生のその優しさ
と、どんなときでも話し相手になってくれた
生のとき以来だ。私が職員室のドアを開ける
こんなに他人に構ってもらえたのは、高校
│
う存分嚙み締めていた
だけ自分に自信がついた。
ことになった。忙しい社会人の身であるにも
てから、私の精神は狂ってしまったのだ。数
の人とお酒を飲む。谷さんとおじさんたちは、
小倉市まで走って、小倉駅前のネットカフ
かかわらず、いつ到着するかもわからない私
年ぶりに他人に構われるという快感を味わう。
出せば何だってできるんだ。それに私はちゃ
ェで就寝。ネットカフェ生活も慣れれば平気。
を温かく迎えてくれる、そんな彼女の優しさ
った私は、こんな自分を客観視することがで
それからしきりに褒めてくれた。
私の自転車の旅話を面白そうに聞いてくれ、
毎日、設備も形態も寝心地も違うネットカフ
そして、高校生のころより少しだけ大人にな
号線をひたすら走り、博多市に到着
が嬉しかった。
国道
ェ。でも、一日中外にいて、人の目に晒され
続けた私の身体は、誰の視線も感じない個室
きるようになっていた。
由は、人に褒められたかったからだ。もちろ
する。無事に友人である谷さんと合流し、夜
ど年上だ。谷さんは優柔不断な私に代わって、
ん最初から褒められようという魂胆があって
という場所だけで安らぐのだ。周囲の物音も
てきぱきとお店を検索し、博多といえばもつ
旅を始めたわけではない。でも、心のどこか
私が自転車で旅をしようと決めた本当の理
鍋だろう、ということで、地元でも美味しい
に、他のみんなと違うことをやれば、誰かが
ご飯を食べに行く。谷さんは私よりも十歳ほ
と評判のお店に連れて行ってくれた。お店は
褒めてくれるかもしれない、構ってくれるか
気にせずに今日もぐっすりと眠った。
ほぼ満席で、私たちの隣の席には既に酔っ払
もしれない、そして私のことを認めてくれる
八 人に褒められたい。構ってもらいた
││博多市でもつ鍋を食べながら、私は悦
った大工のおじさんたちが楽しそうに談笑し
い。
に入る。一緒に食事をしている友人、そして、
かもしれない、そんな気持ちが隠れていたの
勉強で一番になれない。アルバイト先でも
だ。
ていた。
と、いつの間にかおじさんたちも会話に加わ
私が谷さんに今までの珍道中を話している
隣の席に座っていたおじさん集団に、自転車
でここまで来たことを褒めてもらえたからだ。
自分が話の中心にいることの喜びと、他人に
143 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
3
一番仕事ができる人にはなれない。習ってい
高級な自転車に乗っている人への嫉妬心、
ない。でも、自分で自分を苦しめることはも
母親の﹁一番になれ﹂という言葉。私はその
苦労をして、誰よりも頑張っていなければい
他人に褒めてもらうためには、自分が人一倍
ティティを確立させていこう。
これからは自分の物差しを作って、アイデン
ない人間が、人に認めてもらえるはずがない。
これも今ならはっきりと客観視できる。私は、 うやめよう。自分を本当の意味で大切にでき
言葉を〝一番にならなければ生きている価値
けないと思っていた。一番にならなければい
たピアノや柔道でも一番になれない。生前の
がない〟という風に捉えていた。だから、ま
けないのだ。辛い思いだって、一番しなけれ
身体にべっとりと張り付くような湿り気を帯
いことには変わりないけれど、九州の空気は
空気がカラッとしているような気がした。暑
同じ日本の同じ夏でも、九州は本州よりも
次の目標地は、長崎県である。
晴れ晴れとした気持ちで福岡県を出発する。
九 夏の九州
うになるのをぐっと堪えた。
締めのうどんを食べながら、私は涙が出そ
い続けてくれた。
谷さんとおじさんたちは、最後まで私に構
だ私の周りの人がやっていない自転車で旅を
するという行動で、一番になろうとしたのだ。 ばならない。
息も絶え絶え九州まで
私が苦しい思いをして野を越え山を越え、
ちを前に、私は今まで感じ続けていた生き辛
な自転車に乗っている人は私よりも楽に九州
もつ鍋屋で、私のことを褒めてくれる人た
さと、人に自分という存在を認めてもらえる
まで走ってしまう。すると、その人から見れ
りついたのに、高級
ことの幸せを同時に嚙み締めた。
ば、兵庫から九州に行った程度では、苦しい
思いにはならないのだ。他人の物差しでしか
自分を図ることのできない馬鹿な自分。私は
常に、人の物差し上の一番を目指していたの
だ。
愛情に飢えた思春期を過ごした結果、私は
分で作り出そうとしていた。こんな考え方を
うために、誰よりも頑張っている自分を、自
なっていた。一応日焼け止めクリームを塗っ
の身体は、市販のカレーのルーのような色に
真夏に一日中太陽の光を浴び続けていた私
びていなかった。
していたら、精神を病んでしまうのも仕方が
てはいたものの、これだけ大量に汗をかけば
他人の無条件の愛もしくは慈悲を与えてもら
ない。私は今までなんて生きにくい世界で生
の黒さに女として悲しみを覚えるが、この日
そんなものは使い物にならない。あまりの肌
このことに気がついたところで、他人から
焼けこそが自分の歩んだ道のりなのだと思う
きてきたのだろう。
無条件の愛をもらいたいという気持ちは消え
文藝 14 | 144
と、この汚い肌も愛しく思えた。
した。
地図を開いて一番に熊本県の人吉市が目に
おばあさんは受話器を置くと、満足そうに
案内所を出て、 度に曲がった身体のために
作られたのかと思うほどハンドルのグイっと
肌の色の変化と同時に、肉体にも変化が表
れた。腕と足に筋肉の筋が見えはじめたのだ。 入ったので、そこへ行くことにした。
人吉市は想像以上に田舎だった。辺りを山
しかし、そんなおばあさんの取り計らいで、
風のようなおばあさんだ。
ほどの速度を出して去っていった。まるで台
上がった自転車に乗って、老人とは思えない
がる。肘辺りの筋肉も発達し、ハンドルを強
く握る度に、そこの筋肉がピクピク動くのが
肉眼で確認できる。
いざやり始めてしまえば、それなりの肉体や
強い繫がりが、この人吉という場所にはあっ
住民同士の挨拶の多さ。都会には無い人との
ではあるけれど、別に準備なんてしなくとも、 の人間は全員が知り合いなのかと思うほどの
て大荷物を抱えた私に何の突っ込みも入れず
私を迎えてくれた。おばさんは自転車に乗っ
のドアを開けると、 代くらいのおばさんが
﹁さっきの電話の子かい。よく来たね﹂民宿
私の宿選びは一瞬で完了した。
精神はついてくるのだ。自転車で走りながら
た。
に囲まれた閉塞感と、それと裏腹に、この街
にして、明日に向けての体力作りを行う。正
﹁泊まるならあそこの宿がええ﹂
人吉駅の観光案内所で安い宿を探していた
度に曲がりきったおばあさんが
﹁家の息子が入る前にさっさとお風呂に入り
なさい﹂と私を脱衣所に案内した。
民宿というか、これはただの家だな。お湯
に浸かりながら、私はそう思った。普通の家
私がまだ一言も喋っていないのに、おばあ
風呂場の端っこには小さい子ども用の椅子や
話しかけてきた。
独りで見られるものもあれば、隣に誰かが存
さんは一人でペラペラと喋る。JRの職員で
おもちゃが乱雑に置かれてあった。
を見ることになんとなく恥ずかしさを感じた
在することで本当の美しさを感じられるもの
あろう観光案内所のお姉さんは苦笑していた
私が今日寝る部屋は、家の一番奥にある六
庭よりも少し大きめのお風呂場、しかしそこ
もある。長崎の夜景は、いつか、誰かと一緒
が、これが田舎のコミュニティというものな
畳一間。一応襖で仕切られてはいるものの、
﹁あの宿はうちの孫の友だちの嫁さんの実家
に見に行こうと思った。
のだろう。おばあさんは案内所の固定電話を
鍵はついていない。他に客人は居ないようだ
ので、山に上るのはやめた。あれだけ私の心
長崎市から雲仙市を通り、島原から船で熊
半ば強引に奪い、その宿に電話をかけた。
けれど、あまりにも無防備というか無用心な
にはシャンプーリンスの他に、ひげ剃りのク
本県に渡る。熊本県の次はどこに向かおうか
﹁今からお嬢さんが一人で一泊しにいくから
民宿だ。これが田舎というものか。
リームやら足の角質取りやらが並んでいて、
と迷ったので、コンビニで道路地図を立ち読
の。ようしたってよ﹂
だけん、ようしてもらえるわ﹂
私に、腰が
30
を虜にした夜景。美しい景色というものは、
を目的にここまで来たのだけど、独りで夜景
佐賀県で一泊し、翌日長崎県に入る。夜景
に自転車操業である。
人間は何かを始めるとき、準備万端が理想
十 押し付けられる愛情
力を入れると太ももの外側がモコっと盛り上
90
みして、最初に目に入った土地に行くことに
145 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
90
客さんが、お部屋で自殺未遂をしちゃったの
たいなんだけど、私たちはそれに気がつくこ
泊まった客が悪巧みを考えたら、どうするの
のにしているのかもしれない⋮⋮。非日常な
とができなかったの。一人旅のお客さんだか
部屋で荷物の整理をしていると、夜ご飯に
私は、久々の手作りご飯を有り難く思いつつ
日常に私は困惑し、警戒した。
らあまり話しかけないほうがいいだろうと思
よ。そのお客さんは自殺目的での旅だったみ
も、宿の料金が気になって仕方がなかった。
﹁お嬢ちゃんは成人しとるだろう。まあ飲め
ってたんだけど、後になってどうして話かけ
だろうか。いや、逆にこの家族が客を喰いも
おばあさんは﹁ようしてくれる﹂と言ってい
や﹂旦那さんが一升瓶を私の目の前に置いた。
てあげなかったんだろう、どうしてご飯を一
呼ばれた。てっきり素泊まりだと思っていた
たけれど、一体ここの宿の宿泊料金はいくら
私、 も し か し て 毒 を 盛 ら れ よ う と し て い
なのだろうか⋮⋮。
緒に食べてあげられなかったんだろう、って
夜ご飯は、この家の家族のご飯と全く同じ
ていたようなものだから、その後すぐに看板
とっても後悔したの。元々民宿は趣味でやっ
る? それとも酔わせて身ぐるみを剝がすつ
も り か? 様 々 な 疑 惑 が 浮 か ん で は 消 え る。
私は思い切っておばさんに訪ねてみた。
さん︵案内所にいたおばあさん︶が時々寂し
もので、私はこの一家に混ざって食事を取る
﹁どうして私の素性を聞かないんですか? おばさんたちの生活空間に見ず知らずの私が
そうにしている一人旅の旅人を家へ寄越すの。
那さん、小学生ほどの子どもが二人と、おば
こととなった。さっきのおばさんに、その旦
さんのご両親、私を含めて計七人での食事で
入り込んで、もし私が深夜にこの家を物色し
自殺しかけたお客さんにできなかったもてな
を下ろしたんだけど、事情を知っている倉田
ある。
たらどうするんですか?﹂
この宿では宿泊客とご飯を共にするのは日
しを、他の人にやってあげてくれってね﹂
言った。
遇を受けていたのか。おばさんたちは子ども
おばさんは少し困った顔をしてから、こう
た様子で私に話かけてくる。おばさんのご両
﹁いや、実はね、家はもう民宿をやっていな
がご飯を食べ終えてから、私と腹を割って話
常茶飯事らしく、小学生の子どもたちも慣れ
親も、昔から私のことを知っているかのよう
いのよ﹂と。
であるというところには誰一人突っ込むこと
ギよりも間抜けな顔になっていたであろう。
この発言を聞いたときの私は、ウマズラハ
さんが死にかけた部屋ではないから﹂
﹁あ、心配しないで。貴女の寝る部屋はお客
だから私は素性を聞かれないままこんな待
な話しぶりである。ただ、私が女の一人旅人
はせず、みんな其々に今日あった出来事や最
意味がわからない。何故民宿をやっていない
すつもりだったらしい。
近の関心事を話し合った。
じる疎外感。そして違和感。自分たちの生活
がらせた後で、状況をつかめない私に向かっ
ご飯を食べ終わった子どもたちを二階に上
のは怖い。けれど、私はそれよりも、死にか
たしかに自殺未遂の起こった部屋に泊まる
た私に、おばさんが急いでそう付け加えた。
間抜けな顔から一変、難しい顔つきになっ
空間に見ず知らずの人を入れて、しかもその
て、おばさんはゆっくりと話し出した。
けたお客さんに対する自分たちの罪の意識を、
のに、今、私はここに座っているのだ。
人の素性を聞かないなんて、この家族は一体
﹁実はね、昔、ウチの宿に一人で宿泊したお
一見和気藹々としているが、なんとなく感
どういう考えを持っているのだろうか。もし
文藝 14 | 146
私という人間を使って償っているということ
に恐怖を覚えた。
上げ、自分の寝床に潜り込んだ。
が掛かっているのが見えた。あんな所にも道
があるんだなあ。遠くの山のほぼ山頂にどっ
が死んでいないか確認に来られたら嫌だなあ。 人工物は美しい。この風景を写真に収めてか
こんな話を聞いてしまったら、まともに眠
ら、私はまた自転車を押して山道を登った。
しりと身を構える大きな橋。自然の中にある
自分たちの行為を旅人への〝優しさ〟だと思
私は一晩中、人の気配に怯えながら、あれだ
自転車を押し続けて一時間が経過したころ
れない。部屋には鍵がついていないのだ。私
っている。たしかにこういう行為は優しさか
け欲していた愛情が時には凶器になることへ
案内所で会ったおばあさんも、この家族も、
ら発生する。ただ、私は今、自殺なんて考え
の混乱と絶望を味わった。
に、ひとつの看板を見つける。
ていないし、特に寂しい思いもしていない。
﹁宮崎県はこちら。ループ橋まで後 ㎞﹂
眠 れ な か っ た。
﹁ 5 0 0 0 円 で い い よ ﹂と 言
この橋を通らなければ、宮崎県には行けない
山の向こう側に見えたループ橋。どうやら
い出る。全く
屈なのだろう。それに、これは本当の優しさ
われ、民宿にしては安いけれど、私の基準か
らしい⋮⋮。
朝日が登ると共に布団から
ではない。自分たちを守る手段の一つとして
らすれば高いお金を支払い、私はまた自転車
押し付けられる愛情というものは、なんて窮
優しさを使っているだけだ。優しさの蓋を開
このペースで歩いていたら、宮崎県に着く
に跨った。
頃には日が暮れてしまうだろう。それに長時
間太陽の日差しをまともに浴び続けていたら、
まう。どれだけ急勾配だろうが、私は自転車
ループ橋に着くまでに飲み物が無くなってし
寝不足状態で自転車を漕ぐ。最初は人吉市
を漕いで、一刻も早く、山の頂上、つまりあ
自分のペース
から鹿児島県に下るつもりだったけれど、道
のループ橋まで行かなければならなくなった。
もちろん私は、この家族に自分の感情は伝
を間違えてしまったので、行き先を宮崎県に
意を決して自転車に跨る。それから重いペ
十一
けると、その中には自衛と自愛がぎっしりと
詰まっている。
無意識に行われる罪の浄化。拭き残しのよ
うな人間の薄汚さを見てしまい、私は気分が
えなかった。人には人のモノの見方、捉え方
変更する。気軽に予定変更ができるところが
悪くなった。
があるのだ。思考の深さや感じ方だってそう
一人旅の良いところである。
旦那さんに勧められたお酒を少しだけ戴い
が回らなくなる。仕方がないので自転車から
で走る。途中から勾配がきつくなり、ペダル
注ぐ太陽。車も滅多に通らない山道を自転車
雲ひとつない青空に、容赦なく地上に降り
なければ意味がないという考えを持っていた。
私は、勉強でもスポーツでも、一番になら
えれば増えるほど、息が切れ、足が重くなる。
容赦なく流れる時間に対する焦り。雑念が増
くループ橋に行きたいと逸る気持ち、そして
ダルに足をかけ、力いっぱい踏みつける。早
だ。私は良い意味でも悪い意味でも、繊細な
て、私は極力、馬鹿っぽく、鈍感な人間に見
降り、手で押しながら山を歩く。ふと左側の
実際には並外れた実力を持っているわけでも
精神を持っている。だからこの家族の行動を
えるように振る舞った。そして適当に話を合
景色を見ると、山の向こうに巨大なループ橋
異様に思うのだ。
わせてから、キリのいいところで会話を切り
147 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
6
私は、私の物差しで測った目標を、自らの力
山登り。ループ橋を見た時点で宮崎県入りを
ら自転車を漕ぐ。しっかり前を見据えて、小
で達成させたのだ。
見ない。見たところでスピードアップできる
今、あのループ橋という目標地点に到達す
石や地面のひび割れに注意しながら走る。後
橋を渡りきってしまうと、後は下り坂。自
ないのに、目標だけは天上だった。理想とプ
るために、私は一生懸命、自転車を漕いでい
ろは振り返らない。今は自分の上ってきた道
転車に乗っているだけで宮崎県に入れる。長
諦めるという選択だってあったはずだ。でも
る。どれだけ早くあそこに到達したいと頭で
を見るときではないのだから。足を止めるこ
い長い下り坂を、爽快に駆け下りる。旅を始
わけではないのだから。無心になってひたす
考えていても、自分の足を動かさなければあ
ともしない。坂道の途中で一度でも足を止め
める前の私が、今の自分を見たらどう思うだ
ライドだけが高かった。
の場所に行くことはできない。
てしまうと、漕ぎ出すのに余計な体力を使っ
自転車を漕いで、汗水を垂らしながら、ふ
宮崎市のネットカフェにチェックインする。
くなった。
ろう。私はこの数週間で大きく成長した。強
情を胸に、でもその感情を爆発させることな
いよいよループ橋に差し掛かる。喜びの感
てしまうのだ。休憩は山頂で取ればいい。
と気がつく。高い理想を持っていても、それ
を現実化させるのは自分自身の努力なのだ、
と。
ぎると、理想を現実化する体力と精神力が続
自分の地道な努力が必要なのだ。理想が高す
でも、実際に目標地点に到達するためには、
は、この橋からは綺麗な景色が望めるだろう。
山の麓からこの橋が見えていたということ
私はひたすらペダルを回すことに集中する。
翌日、宮崎県の日南街道を経由して、鹿児
配を持っている。ここで止まってはいけない。 〝よし、家に帰ろう〟と思った。
個室のソファに腰を下ろしてからふと、
かない。まずは自分の限界を知る。そして身
ループ橋終点の勾配の無くなった道で、初め
島県の志布志港に向かう。志布志港からは、
く、淡々と橋を渡る。この橋だって微妙な勾
の丈にあった目標を立て、着実にそれに向か
て地面に足をつける。大きな達成感と心地よ
大阪府の南港行きのフェリーが出ているのだ。
高い目標を持つことは悪いことではない。
って努力する、それが大切なのだ。
い疲労感。橋の上から景色を眺める。遠くの
私はあの場所からここまで、自分の力で上っ
乾燥した土の匂い。海岸に沿ってクネクネと
天 気 は 快 晴、 気 温 は
十二 旅、最後の日
私は今、あのループ橋に到達するための努
ほうに、数時間前に歩いていた道が見えた。
度。 蟬 の 鳴 き 声 に、
力をしている。焦ったところで、自分の脚力
が伸びるわけではない。ならば、焦るという
曲がる日南街道の道路脇には、椰子の木が均
日焼けした肌に、汗の筋が通る。それをTシ
てきたのだ。やればできるじゃないか。充実
ああ、自分に自信を持つって、こういうこ
ャツの裾でスっと拭い、私は港へ向かった。
気持ちは捨てて、今、自分が出せる精一杯の
逸りと焦りの気持ちを捨ててから、体感時
となのだな。他人から見れば、何馬鹿なこと
等に並んでいた。ああ、夏だなあ。真っ黒に
間が変化する。呼吸と筋肉を調和させて、ゆ
をやっているんだと思われるであろう、この
感と共に、揺ぎのない自信が湧いてきた。
っくりと、でも確実にペダルを回す。時計は
力を出せばいいのだ。
35
文藝 14 | 148
長崎県めがね橋
兵庫県明石海峡大橋
宮崎県の海岸
広島県竹原市の蓮畑
宮崎県青島
スタートとは違う自転車でゴール
149 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
宮崎県日南街道
初めて一人で乗る船に心が踊る。船の名前
はサンフラワー。旅の最後に相応しい大型船
だ。余った旅資金を贅沢につぎ込み、二等席
を取る。部屋に着いてから一息つく。来年か
らはしっかり学校に行こう。自分のペースで
日常生活を楽しもう。長い旅を終えて心が穏
やかになった私は、もう一度、日常生活を頑
第二章 他人を理解することで、
自分を知る旅
一 終わりの始まり
旅を終えてからの私は、人が変わったかの
季節は如月。流石に雪深い道を自転車で走
行するのは困難だ。雪の降らない土地へ行こ
う。とはいえ、暖かい九州地方へは、夏に旅
をしてしまった。ならばもっと暖かいところ
に行けばいいではないか。
そうだ、沖縄県を一周しよう。
渡り鳥のように暖かい土地を求めて、私は
てみると、あちらこちらにほつれができてい
旅中、ずっと履いていたジャージ。よく見
ったからだ。以前みたいに、眠れぬ夜を過ご
なく、仲間として見ることができるようにな
しくなった。周囲の人を競争相手としてでは
宿には、髪に良いとは思えないが、一応は洗
リンス、こんなものは必要がない。銭湯や民
前回の旅の際は持参していたシャンプーや
旅の支度を始めた。
た。そんなボロ布を丁寧に畳みながら、よく
すこともない。寝付けない夜は、旅で鍛えら
髪できる液体が置かれてあるのだ。もしもの
ように明るくなった。そして他人に対して優
頑張った、と自分で自分を褒めてあげる。私
れた筋肉を使って運動をする。汗をかくこと
張ってみようと思った。
の初めての一人旅、自転車で九州に行こう計
によってストレスが発散さ
れ、心地よい疲労感と睡魔
画は、無事に達成され、今、幕を下ろす。
ジャージを畳んだとき、いつか拾った貝殻
を得ることができるのだ。
大学に復学するまで後二
が、ポケットの中でカラカラと優しい音を立
てた。
ヶ月。折角の長期休暇なの
だから、もう一度、自転車
に乗って遠くに行ってみよ
うと思った。自分の生き方
を変えた自転車の旅。もう
一度、同じように旅をして、
今度は、積極的に人と関わ
りながら自分という人間を
大きくしよう。
荷物の増えた自転車 スタート地点はやっぱり武庫川大橋
の上
文藝 14 | 150
き 様 を 見 よ う。 旅 の 目 標 を〝 人 と の 関 わ り 〟
日、私は飛行機
ときのために固形石鹸を一つ持っていれば十
月
に設定し、2012年
二 沖縄県民の心の故郷
で沖縄県に飛んだ。
分だろう。読書なんてしている余裕はないか
ら、文庫本もいらない。代わりに地図を持っ
ていこう。
逆にあったらいいなと思ったモノは、ハン
ガーと洗濯ばさみ。風呂場で手洗いする衣服
沖縄に上陸して、まず感じたことは、異国
言葉に衝撃を受けた。それはなんの偏見でも
なく、差別でもなく、ただ、国同士の争いに
巻き込まれたこの島には、本土の人間にはわ
からない悩みがあって、考え方があるのだな、
と、驚いた。
﹁もちろん普通の観光客にこんな話はしない
よ。ただ、貴女が一人旅に沖縄を選んでくれ
たから、この土地にはこんな考え方の人間も
ったのだ。他に必要だと感じたものは、延長
の服を着て自転車に乗ることが幾度となくあ
洗濯物を干す場所に困った挙句、湿ったまま
迷彩服の外国人に、何を喋っているかわから
壁一面に原色のペンキで書かれた英語の文字。
と生えている。なんとなく埃っぽい道路に、
海外番組でしか見たことのない木がぎっしり
た。村の風習もしきたりも段々と薄れてきて
﹁最近は自分のルーツを考えない若者が増え
ーキそば︶を食べながら話を聞く。
いるってことを伝えたかったのよ﹂
コード。携帯電話の充電とカメラの充電、そ
ないおばあちゃん。なんだかとんでもないと
いる。自分が何者かを考えない人間は、先祖
おばさんの作ってくれたアンマーそば︵ソ
れから自転車のライトの充電。ネットカフェ
ころに来てしまった気がした。
を忘れてしまう。それが悪いことだとは言わ
沖縄は中国と共に発展したリューチュークク
ないけれど、おばさんは悲しいと思うのよ。
は、穏やかな声でそう話した。
︵琉球國︶なのだから﹂
首里城近くのソーキそば屋さんのおばさん
の衣服を
﹁今の沖縄は、日本のものだ、アメリカのも
えることはできなかったけれど、
マラソン用の筋肉補強タイツとスノーボード
おばさんは沖縄の方言は中国からきている、
よ﹂
﹁中国ではお母さんのことをマーマというの
さん〟という意味らしい。
ア ン マ ー と い う の は 沖 縄 の 方 言 で、
〝お母
のだ、なんて言っているけれど、ずっとこの
田舎のおばあちゃんが着るような割烹着を
だと思っているよ﹂
カバンでは全ての荷物を収めることはできな
着て、丁寧な標準語を話すこのおばさんは、
私は﹁アメリカではお母さんのことをマミ
い。弟の家を物色した結果、荷台に取り付け
生まれたときから沖縄県は日本の土地で、
ーというし、日本だって、昔は、ご飯の〝ま
と、言いたいようだ。
戦争なんて昔の話だと思っていた私は、この
静かに、でも強い意思を持ってこう言った。
冬の衣類はかさばるため、前回使っていた
ン、自分のできる範囲で旅の衣類を準備した。 土地に住んでいた人は、帰るべき場所は中国
用の厚手の手袋、速乾シャツに防寒用のダウ
今回は服装にも気を配る。流石に自転車用
いところが多く、充電関係で苦労をしたのだ。 ﹁琉球人の魂は中国にある﹂
や民宿には、コンセントの穴がひとつしかな
りと干しておかねばならない。前回の旅では、 感である。同じ日本なのに、空の色が鮮やか。
は、洗濯機のように脱水できないのでしっか
17
られる自転車専用の大きなカバンを発見した
ので、ごねにごねて、そのカバンを拝借した。
たくさんの人と出会おう。いろんな人の生
151 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
2
んま〟をお母さんという意味で使ったりして
めて知った。
宿はない。最悪の場合は宿を飛び出してコン
ビ ニ で 夜 明 け を 待 っ て も い い か、 と、 思 い、
日本国内で大きなカルチャーショックを受
ったので言うのはやめた。
ったが、おばさんに上手く伝わる気がしなか
ツはみんな一緒なのですね、と、口にしたか
たような呼び方があるってことは、結局ルー
違えられて断られることがあるからだ。それ
るし、突然の女一人の予約は自殺志願者と間
天候や事故によってたどり着けないことがあ
今日の宿でも決めようかと、携帯電話を取り
した。この村にゲストハウスがある。ホーム
日が暮れ始めたころ、読谷という村に到着
に備えて、唐辛子スプレーを購入しておいた。
昼過ぎに探し出す。前もって予約しておくと、 す方だったので、すこし安心したが、万が一
出す。旅中の宿泊先は、基本的にその日のお
ページに載っていた地図を頼りに宿を探す。
自転車で走り始めて半日が経ち、そろそろ
けるとは思ってもみなかった。やはり私はと
に当日予約のほうが値段が安いことが多い。
宿と言っても、元は一般民家である。全く見
いましたね﹂と、返した。たくさんの国に似
んでもないところに来てしまったようだ。
楽天トラベルやじゃらんなど、信用のでき
つからない。辺りが暗闇に包まれ、人の声も
意を決して宿泊の予約をした。
﹁たくさんの人と出会いなさい﹂というおば
る宿泊検索サイトを漁るが、さすがリゾート
車の音も聞こえなくなる。ああ、もうだめだ
た。やっと見つけたこの家が、今日の宿であ
と思ったとき、斜め前に小さな看板を発見し
よみたん
予約の電話に出た女性はのんびり丁寧に話
さんに別れを告げ、那覇市を脱するべく、全
地、どこも宿泊料金がバカ高い。那覇市以外
時間営業のお店もなく、
速力で自転車を漕いだ。
だと、ネット喫茶や
私は早速、途方に暮れてしまった。
存在する。もちろん日本の本土にもあるが、
世界中にはゲストハウスと呼ばれる安宿が
易なホームページで、宿主のブログは更新が
いう宿を発見した。ゲストハウスである。簡
今日の目的地近くに、素泊まり1000円と
ウスがあると思うのか。昼間の警戒心と緊張
民家であった。誰がこんなところにゲストハ
置いてある以外は、本土でも見慣れたただの
看板の先の建物は、シーサーがちょこんと
る。
この沖縄という土地には、本土と比べ物にな
止まったまま。ドミトリーやゆんたくスペー
インターネットで細かく検索していくと、
らない数のゲストハウスが点在している。
は完全に無くなり、脱力しながら扉を開ける。
ゲストハウスは民家の一部を旅人に貸出し
家の中に入って更に力が抜ける。部屋に誰
もいないのである。しかも手紙で不在を知ら
時を過ぎたら静かに
ね﹂なんて怪しさマックスである。もちろん
せている。仮にも家だ、見ず知らずの旅人が
ているケースが多く、台所やシャワー、それ
に洗濯機は基本的に使い放題、布団と大部屋
大手の宿泊検索サイトには載っておらず、ネ
﹁いらっしゃいませ! 自転車おつかれさま
以下手紙文。
を与えられて、旅人は情報交換を楽しみなが
さすがに危ないのではないか。自己防衛本
部屋を漁ったらどうするつもりなのだろう。
ホステルの個人経営バージョンだ。私は、こ
能が働いたが、ここ以外に安く泊まれそうな
ットの口コミなんかも全くない。
のゲストハウスという宿の存在を、沖縄で初
ら就寝する。ゲストハウスは、いわばユース
﹁ご飯自由、酒自由、
スなんていう聞いたこともない単語が並び
三 沖縄の宿
24
23
文藝 14 | 152
お電話よろしくお願いします。ちいさなにじ
思ったことを、息をするのも惜しんで話続け
おおいさやか﹂⋮⋮ご不明な点だらけである。 た。
別に見たい番組があるわけではないが、この
少し腹が立ったが、彼は表情を変えず、私の
無邪気な笑顔で刺のある言葉を投げる彼に
﹁君は何も調べずにここにきたんだね﹂
不思議な空間で、何の音もなくオーナーとや
疑問をゆっくりと解説してくれた。
とりあえず部屋に入ってテレビをつける。
らの帰りを待つのは耐えられない。テレビの
ま ず、 ゲ ス ト ハ ウ ス と い う も の は、 個 人
経営で趣味を兼ねてやっている人が多いの
音量を少し大きくして、テレビの前にある大
きなコタツに無造作に足を入れる。
と。しかし、同じ県のゲストハウス同士、あ
で、ネットで情報は手に入りにくいというこ
足裏にドスっと鈍い感覚が走ってからすぐ
る程度の情報交換は行い、また、地域に開か
﹁ぎゃあ﹂
に、コタツの中から人の声が聞こえた。寝起
また、疎外感に関しては、昔から沖縄に住ん
れた宿として運営しているところがほとんど
外国人? ホームレス? コタツの中からひょっこり顔を出したのは、
でいる人たちは、戦争や領土争いの歴史から
きのお父さんのような鈍い声。いったい誰が
寝起きで顔が真っ赤になっている青年であっ
身内同士の団結が強く、排他的な人が多いが、
なので、犯罪や悪いことが起こる確率は極め
た。幼い顔立ちだが、服装から察するに大学
それは仕方のないことなので、傷つくくらい
らをご利用ください。
お部屋の奥に専用のものがありますのでそち
自由にお使いください。シャワー、トイレは
沖縄で感じた疎外感、ゲストハウスというも
頼りなげなハの字眉毛に親近感を覚えた私は、
プにきているそうな。彼の素朴な雰囲気と、
生で、彼は沖縄のラジオ局にインターンシッ
申し訳なさそうに挨拶する彼はやはり大学
始末。私は黙るしかなかった。
まま﹁小さい犬ほどよく吠える﹂とのたまう
を握られる。終いには、子どもみたいな顔の
持ちかけてみたが、見事にかわされて主導権
だか負けた気になって、あれこれ難しい話を
同じ大学生なのに、この余裕と貫禄。なん
て低い。つまり、あまりビビらなくても良い。
生、もしくはそのくらいの年齢だろう。
なら受け流しておけばいい、と。
コタツの中に入っているのか。おじさん? ンが遅くなりますが、自由におくつろぎくだ
﹁は⋮⋮はじめまして﹂
でした! 大変申し訳ございませんが、オー
ナーの戻りが 時頃となります。チェックイ
さい! BEDは入口左手のドアのお部屋で
ご用意しております。キッチン、リビングご
濯機はキッチンの奥です。何がご不明な点
のにたいする疑問や不安、今日感じたこと、
彼がラジオ局に出かけていってから暫くす
がございましたらいつでも︵電話番号︶マデ
153 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
21
ドミトリー(相部屋のこと)
ゆんたくスペース(ゆんたくは沖縄の方言でおしゃべり)
ると、オーナーが帰宅した。オーナーは名古
コップになみなみと注がれた泡盛を、ぐびっ
すぐに、いけ好かないガキだ、と思い直して、
き じん
びりと走っていると、一台の車が背後からゆ
歩道のない小さな道の路側帯の内側をのん
﹁こんばんは、日本大学放送学部インターン
っくりと近づいてくるのが見えた︵安全のた
自転車で日本中を旅している女の子なんです
白いお客さんがチェックインしたんですよ。
﹁今日は僕の泊まっているゲストハウスに面
道で車にひっつかれるのはなかなかの恐怖で
る形で車が横に並んだ。車通りも少ない田舎
ないように走行していると、自転車と並走す
る︶。できるだけ隅に寄り、車の進行を妨げ
めに自転車にバックミラーを取り付けてい
けれどね、攻撃的で負けず嫌いで変わりもの
ある。
る同い年の子は見たことがない。さっきはあ
﹁でもね、あんなに意思が強くて冒険心のあ
ドをたきながら私の進行方向を塞ぐ形で停車
と、車の主はしびれをきらしたのか、ハザー
なるべく車の中の人を見ずに走り続けている
変な人が乗っていたらどうしようと思い、
まりのインパクトに度肝を抜かれてしまった
した。
降りてきたのはおじいさんの二人組であっ
た。
が頭に浮かんだ。可愛いやつだなと思ったが、 ﹁おじさんは怪しい人ではないよ﹂と、手を
ハの字眉毛を更に下げて、顔全体で笑う彼
ると思う﹂
けれど、次に話すときにはきっと仲良くなれ
オーナーが腹を抱えて笑い出す。
なんですよ﹂
初めて彼の素性を知る。
シップの釜石です﹂
夜のトークコーナーに出演できるらしい。
う地区を走っていたときのことである。
分にテレビを消してラジオを付ける。 る。その今帰仁村の端っこにある本部町とい
もと ぶ ちょう
名護市の少し向こうに今帰仁という村があ
な
四 おじいさんたちの優しさ
と一気に飲み干した。
屋弁を話す若い女性で﹁今日は面白いお客さ
んが来た﹂と、私を歓迎してくれた。冬の平
日はお客さんが少ないらしく、今日のチェッ
クインは私だけ。お酒やおつまみを戴きなが
ら、旅の話や、さっきの彼の悪口なんかをペ
ラペラ喋った。
時
50
どうやらFM読谷のインターンシップ生は深
23
文藝 14 | 154
しているの? 君は何歳? 学生? という
一通りの質問を終えたあと
﹁君はすごいなあ﹂
上に上げながら近づいてきた二人組は、何を
た。
ば屋さんに行ってみようと、自転車を走らせ
戴いてしまったものは仕方がない。せっか
金を真ん中にして話し込んでいる私たちを見
て、地元の住民が通報したらしい。
警察官は双方の話を聞くと、まず、おじい
った。親切からの行動といって
三時間ほど自転車を走らせて、やや栄えて
時に人を警戒させることになるよ、と。流石、
さんたちを
きた言葉を、今までの人たちと同じような口
いる集落に出たとき、またもや背後から近づ
警察官。仲裁にはいるのが上手である。
くだからおじいさんたちの向かったソーキそ
と、今までたくさんの知らない人に言われて
調で述べた。どうやら好奇心で近づいてきた
いてくる車が見えた。さっきのおじいさんた
おじさんたちは本部にある美味しいソー
ま す か? 美 味 し い も の は? 綺 麗 な 景 色
は?﹂と定型文の質問を返す。
私 も ま た﹁ 地 元 民 お す す め の 場 所 は あ り
それを話すと、おじいさんは﹁とりあえず返
た。まだ使っていなかったので、私は正直に
﹁ さ っ き の お 金 は 使 っ た か?﹂と 質 問 し て き
を た い て 停 車。 お じ い さ ん が 降 り て く る と
ちである。車は先ほどと同じようにハザード
号も教えるから、と。もはやカオスである。
なさい。飛行機代をあげるから。私の電話番
なら、私に相談しなさい。その前に家に帰り
をするとは何事か。家で辛いことがあったの
次に私が られた。女が大荷物を担いで旅
も、それには限度がある。度の過ぎた親切は
だけらしい。
キ そ ば を 食 べ に 行 く 途 中 だ っ た ら し く、 よ
してくれ﹂と手を出してきた。
っくり行ってみます﹂と断ると、おじいさん
然、車と自転車の速度は違うので﹁一人でゆ
しくなったのかな? の行動に恐怖心を抱
き な が ら も お 金 を お 返 し す る と、 お じ い さ
変なおじいさんである。やっぱりお金が惜
三者三様の意見を交わし、ようやく和解。
おじいさんたちはどこまでも私に親切にし
か っ た ら 一 緒 に ど う か、 と 誘 っ て き た。 当
のうちの一人がおもむろに財布を取り出し、
ん、今度は財布の中から5000円を取り出
っと知ってもらいたいからといって、私の財
の正しいと思うことを遂行している。
ない。みんなそれぞれ違った価値観で、自分
てくれるし、警察官は女の一人旅が理解でき
2000円を私の手に握らせた。
おじいさんたちは、沖縄のいいところをも
札を握らせた。
し﹁やっぱりこっちを使ってくれ﹂と私にお
旅をしている最中、幾度となくお金を差し
出されることがあったが、その気持ちだけで
きた。前年の自転車旅の途中に出会った向井
おじいさんのあまりにも親切すぎる行動に怪
闇に人の声かけに応じません、もっと危機管
番号を私の携帯電話に登録させた。私は、無
いう大金は、単純に私の二日分の旅費である。 かならず連絡すること、と交番の住所と電話
布に大金を仕舞わせた。警察官は何かあれば
さんが﹁お金をもらえるのは女子の特権﹂と
しさすら感じてしまう。暫くおじいさんたち
理能力を持って旅を続けます、と誓いの言葉
さすがにこれは貰いすぎだ。5000円と
言っていたのが妙に引っかかっていたからだ。
と緩い押し問答をしていると﹁そこの君たち
十分有難いので、私は全て丁重にお断りして
今回も気持ちだけを受け取ろうとお金を返
四人で握手を交わして一件落着である。
を述べる。
なんだかマズイことになってきた⋮⋮。お
動かないで﹂と警察官がやってきた。
したが、おじいさんはそれを頑なに拒み、最
終的には車に乗って去ってしまった。
155 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
警察官は義務だから、と、私の住所を警察
手帳に控えたが、都会の長すぎる住所に困惑
したようで、しきりに﹁この街には交番がた
くさん必要だ﹂と唸っていた。
沖縄の村民同士の団結を垣間見た。私の地
な
五 ゲストハウス結家
こ
う
り じま
今帰仁には有名な女将がいるらしい。そん
二年で本土に帰ってしまう若者は相当多いら
しく、それは私がたった数日、沖縄に滞在し
ただけで感じた疎外感から、信用できる話で
彼 女 は 強 い 孤 独 を 感 じ た と き、 橋 を 渡 り、
を古宇利島で耳に挟んだ。古宇利島とは、 あった。
沖縄本土と大きな橋で繫がれている小さな島
故が起こっても他人は見て見ぬふりをするの
のカフェで海ぶどうを食べていたとき、そこ
古宇利島の入口のいかにも若者観光客向け
しく、その経験故、旅人や移住民に安らぎを
この土地に家を建てる際、かなり苦心したら
沖縄本土の今帰仁にあるゲストハウスに身を
に、ここでは少しの揉め事ですら通報される。
の若い女性店員がちょこんと私の隣に座り、
もたらすらしい。
のことである。
今まで旅をしてきて、幸い、悪い人に引っ
話しかけてきた。シーズンオフでお店が暇な
元じゃ人が転んでも知らんぷり、軽い交通事
かかったことはないが、それは偶然であって、
のであろう。
やって旅の途中で出会った親切な人たちも裏
き込まれると、家族や友人はもちろん、こう
にしなければならない。旅の途中で事件に巻
れをしっかりと理解したうえで、隙を作らず
るつもりだったが、沖縄で成功を夢見た彼氏
阪芸術短期大学の出身とのこと。保育士にな
快なトークで盛り上がった。聞けば彼女は大
うことで、一気に打ち解け、関西人特有の軽
彼女は私の三歳年上で、出身も大阪府とい
人弱の大人と、一匹の犬と、一人の小さな男
にどっしりと身構えていた。宿の中では二十
ゲストハウス〝結家〟は今帰仁村の海の傍
ことにした。
はない。今日はこのゲストハウスに宿泊する
的には引き返すことになるが、先を急ぐ必要
今日の宿はここしかない、と思った。場所
寄せるそうだ。そこの女将もまた関西出身で、
いつどこで危険な目にあうかわからない。そ
切ることになるのだ。
に着いてきて、今ではこのカフェを切り盛り
の子がわいわいと騒いでいた。景色と風通り
一人旅をしていると、一人きりで生きてい
するやり手の経営者である。
れは違う。私は大勢の身内や知人、そして知
に 苦 労 し て い る ら し く、 移 住 民 な ら で は の
彼女もまた、沖縄の閉鎖的な村民付き合い
れ、誰かの歌声が室内に木霊する。まるで外
てたくさんの楽器。台所からは甘い香りが流
に気を配った間取りに、手作りの家具、そし
るような気持ちになることがあるけれど、そ
らない誰かに生かされているんだ。こうやっ
生々しい話をたくさん聞かされた。
国の童話の世界に迷い込んだかのような雰囲
この大きなゲストハウスは宿主一人では運
気である。
いが、沖縄の暖かい気候や綺麗な海だけを見
営できないようで、ヘルパーと呼ばれるボラ
ので、それらを無下に扱うことは決してしな
沖縄は観光客で繁栄しているような土地な
て自由に旅ができることへの感謝の気持ちは
忘れてはいけない。
沖縄で二回目のソーキそばを食べながら、
幸せだなあと思った。
て移住してきた人々に対しては、きっぱり線
を引くそうだ。実際、沖縄で生活を始めて一、 ンティアが宿泊客の世話をしていた。このヘ
文藝 14 | 156
日本にはたくさんの人がいる。みんなそれ
ぞ れ の 考 え を 持 ち、 夢 を 持 ち、 生 き て い る。
出会った人すべての似顔絵を書きたいという
知子ちゃんは、世界中のゲストハウスを転々
としながら色鉛筆を動かしている。ギターで
挫折したという裕太郎さんは、会社終わりに
那覇から結家に帰宅する。一年の半分は自衛
隊の船に乗っているというひさしさんは、休
暇の度にここで身体を休める。
普通に生活していると出会えないような人
たちが、ここに集結し、みんなそれぞれの悩
みを話し、武勇伝を話し、笑い合う。知らな
付きの待遇で、この宿を守るそうな。好奇心
ルパーは半年単位で募集され、衣食住と昼寝
ているとしか言えないようなフリーター。い
ハウスで過ごすおじさんに、もはや住み着い
して放浪中のお兄さん、仕事の休暇をゲスト
もまた、自分の主張を叫び、誰からも否定さ
いけれど、他人の思考に深入りはしない。私
な言葉。ここの人たちはみんな優しいし温か
他人になっているからこそ発せられる無責任
い人だからこそ伝えられる真実や、明日には
旺盛な若者が、名乗りをあげることが多いら
くつかのテーブルをくっつけて、様々な境遇
しい。
れない快感を味わう。
ゲストハウス内の案内が終わると、夜ご飯
まずは全員の自己紹介、これは毎日夜ご飯
触れ合うことで、本当の自分を探しているの
ぺらい言葉は大嫌いだけど、こうして他人と
私は﹁一人旅で自分探し﹂なんていう薄っ
葉を述べた。みんなに﹁女将﹂と呼ばれる彼
のときにやっているらしい。女将の結ねえさ
だなあと思う。
を作り終わったであろう宿主が私に歓迎の言
女こそが、旅人の安らぎの根源である。女将
んは、なんと大阪芸術大学の出身。居るとこ
着いて早々、夜ご飯に誘われ、他の宿泊者
学であるということで、変わり者の烙印を押
ろには居るものである。結ねえさんと同じ大
許されるならば、このゲストハウスで生活が
古宇利島で出会ったカフェのお姉さんは、
とができない、と。
したいと言っていた。島の住民とは交わるこ
できた。
された私は、すぐにこの集団に交わることが
の名前は結家︵むすびや︶という。
の名前は結子さん。だからこのゲストハウス
の始まりである。
の人々がその日限りの交流を楽しむ。大宴会
ゆい姉さんとヘルパーさん
やヘルパーと共にご飯を戴くことになった。
バイクで日本一周中の大学生、歌手を目指
157 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
結家のドミトリー
主張したのは若者である。敷かれたレールな
ルクイナの生息地であり、そんな鳥が住んで
るという地域は、絶滅危惧種で有名なヤンバ
沖縄県を綺麗に一周するためにはやんばる
島の住民だって鎖国をしているわけではない
んてくそくらえ、女だってなんでもできる。
いる森だけあって、地図で見ただけでも吐き
り、以前に増して外国の個人主義が受け入れ
し、よそ者ということだけで排除しているわ
もちろん私も自由を主張する若者のうちに入
そうになるほどの山岳地帯なのである。
私が当事者ではないから言えるだけのこと
けではないのではないか。完成されたコミュ
るのだが、やはり日本という地理的に孤立し
やんばる地方の辛さは山だけではない。そ
地方にも行かなければならない。このやんば
ニティに入るときには、まず、その集団の歴
た島国で、なんらかのコミュニティに属する
こへ到達するために通らなければならない海
られるようになった日本で、真っ先に自由を
史や習慣を知らなければならない、そしてそ
ときは、そこのしきたりに従わなければなら
かもしれないが、それは違うと思う。古宇利
れに順応していかなければならない。
うと、風である。この地域は年間を通して北
沿いの道路も、自転車乗り泣かせの大変な道
ポツポツと人が減っていき、宴もこぢんま
風が吹いているが、冬の風は特にきつく、天
ないと思う。この大宴会を通してそのことに
りとしたものに変化していく。いつもの私な
候の悪い日なんかは、歩行が困難になること
﹁自分はこう考えるから、あなたとは違うん
らば、ここで先に寝てはいけない、と意地を
すらあるらしい。私がここを通ったときも、
なのだ。何が自転車乗りを泣かせるのかとい
首里城近くのソーキそば屋さんのおばさん
張るところだが、私には私の明日がある。ま
あまり天候が良いとはいえず、自転車の進行
気がついた。
は、自分のルーツや村のしきたりを大切にし
た一日、自転車を漕ぎ続けなければならない
方向とは真逆に向かって強い風が吹いていた。
です﹂
ていた。そのとき私は﹁世界はひとつなんだ
のだ。もっとみんなと話していたかったけれ
海沿いの道とはいえ、ある程度の高低差は
そんな考えでは、集団に交わることはでき
から関係ないじゃん﹂くらいにしか思ってい
ど、自分の限界を超えないうちにベッドに身
ないのではないか。
なかった。本当の意味でおばさんと交わって
体を預けた。
がないと、自転車が止まってしまう。
押して歩くしかなく、下り坂でもペダルを漕
ある。それが上り坂だったときは、自転車を
いなかったからこその考えだ。
旅人はそれでもいい。でも実際にその場所
で生活をするならば、そこの住民たちを理解
い。その上で自分はどう思うのかを考察する。
が付いたのか、精神がタフになったのか、そ
初めて自転車旅をしたときに比べて、体力
ほどに風は強くなり、一体私は何と戦ってい
抱きつつ自転車を漕ぐ。北に向かえば向かう
左に、今にも雨が降りだしそうな空に不安を
人もいない、車も通らない。大シケの海を
同じ釜の飯を食べ、誰かの泡盛一升瓶を共
れほど自力走行が辛いと思ったことはなかっ
るのだろうと、泣きたくなる。時折道路を横
六 自転車の辛さ
有しながらも、感じる薄い壁。私の、俺の生
たのだが、沖縄県の北部を走ったときだけは、
切るカニですら、なんだか歩きにくそうにし
しなければならない。尊重しなければならな
き方に文句を言うな。
何度も心が折れそうになった。
全世界がインターネットで繫がる時代にな
文藝 14 | 158
ている。
コンビニもない、自動販売機もない、携帯
の電波だって届かない。やっぱり沖縄、とん
でもないところである。
時速十キロほどのスピードでゆっくり自転
車 を 漕 い で い る と、 後 ろ か ら﹁ ヤ ッ ホ ー﹂と
いう声が聞こえた。振り返ると、高級そうな
自転車に乗ったおじさんがこちらへ向かって
くる。本格的な自転車に乗っている人は、沖
縄に来てこの人が初めてである。
高級な自転車は前傾姿勢になるように設計
されていたり、軽い素材で車体が構成されて
が出る。おじさんは軽やかに私の隣まで来る
北端を目指した。
会話ができるように、歯を食いしばって、最
いたりで、少し漕ぐだけでも結構なスピード
と﹁ 頑 張 れ!﹂と 力 強 い 声 援 を 投 げ か け、 さ
あるけどまとまった連休を取れない社会人、
どっちも辛いねえ﹂と笑いあった。
自転車乗りは仲間を見つけても、足を止め
にいた。負荷のかけ過ぎで痙攣する足をなん
である辺戸岬に到着。やはりおじさんはここ
には何もないが、端っこまできてやったぞ、
岬と名前のつくところは、どの土地も基本的
という名前以外は本当に何もない場所である。
辺戸岬は沖縄県の最北端であるが、最北端
ることはしない。マラソンと一緒で、ペース
とか操りながら、おじさんの元へ歩いていく。
北風と戦い続けて、ついに沖縄本土の先端
が崩れると持ち直すのに無駄な体力が消耗さ
という征服感が快感であり、旅人を魅了する
まっていた。きっとこの道を通るならば、お
叶わず、おじさんは既に先の方まで行ってし
とこの風の強さを共有したかったが、それは
長い時間独りで走っていた私は、おじさん
に乗るとのこと。
っき通った道をまた引き返し、名護市から船
には帰らなければいけないということで、さ
のが趣味なのだと言っていた。しかし、明日
いたらしく、自転車で日本の先端に到達する
たり。
る。景色を撮ってみたり、自転車を撮ってみ
おじさんとは別れ、独りで最先端を満喫す
ろ今日の宿に向かおうか。
汗もひいて肌寒くなってきたので、そろそ
のであろう。
じさんは沖縄県の最北端、辺戸岬に行くだろ
﹁時間はあるけどお金がない学生と、お金は
れるからだ。
おじさんは休日を利用して愛知県から来て
っと追い越していってしまった。
おじさんに撮ってもらった一枚
う。そう確信した私は、おじさんと少しでも
159 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
辺戸岬看板前で
さすがにやんばるの山奥にゲストハウスは
なかったので、普通の民宿を予約する。辺戸
岬から民宿までは、 ㎞ほどで、その ㎞は
全て下り坂なので、簡単に行くことができる。
午前中の地獄のような向かい風もなく、ただ
練を与える神様に感謝の気持ちさえ湧き上が
ってくる。この試練を自分に課したのは神様
ではなく自分自身であるのに、それでも目に
見えない何かに縋りたくなるほど、辛く苦し
七 命の尊さ、そして卑しさ
沖縄県で初めて本格的な山道を走る。全長
時間ほどが経過する。距
い道のりであった。
走り始めてから
㎞ほどの奥深い山、やんばる地方は道路こ
そ引かれてあるものの、人の気配のない野生
やんばるの山の最高地点に到着する。この場
自転車に乗っているだけでスイスイ前に進ん
㎞ほど進んだだろうか。ようやく、
んに握ってもらったおにぎりと、目一杯注い
所は、山としてはそこまで高いものではない
離にして
山を降り始めて暫くすると、さっきのおじ
でもらった水筒の中の水。これらを体力の源
の森であった。前日に宿泊した民宿のお母さ
さんが一生懸命山を登っているのが見えた。
おじさん、道を間違えたんだ⋮⋮。
ったのだろうか。いろいろと思うことはあっ
ってしまう前に行きと景色が違うと思わなか
間に合うのだろうか。というか、ここまで下
である。でも、この場所が他の田舎と違うと
ればならない。やんばる地方はもちろん田舎
った場合、山越えという過酷な挑戦をしなけ
大通りを走るだけでいい。でもそれが田舎だ
失われた力が身体中に戻ってくる。今まで生
胃にストンと落ちる。血糖値が一気に上昇し、
を頰張る。咀嚼された物体が食道を通過し、
す。道路の横の木にもたれかかり、おにぎり
山頂で自転車から降り、足を地面に放り出
いなく今までの旅で一番キツい山だ。
たが、私がそばにいても何も手助けすること
ころは、街に出るための山が一山ではないと
今日帰らないといけないと言っていたのに、
はできない。それにこの哀れなおじさんに、
きてきた中で、私は毎日当然のように食事を
なんて声をかけたらいいの⋮⋮。
咄嗟に親切な言葉も出てこず、私は、
の母音を発しながら、おじさんの
﹁えーーーーーーーーーー﹂
という
横を颯爽と駆け抜けた。
そしてまた200mの坂道を上るという、ま
地 方 は、 2 0 0 m 上 っ て は、 1 0 0 m 下 り、
しかし、いくつもの山が連なるこのやんばる
のだ。
の動物や植物の命を戴きながら成長してきた
改めて気づかされる。私は今まで、たくさん
自分自身の身体を作っているということに、
大 切 な 命、 そ し て 作 っ て く れ た 人 の 愛 情、
るで修行のような行為の繰り返しなのだ。
急勾配を必死に上り、下り坂で少しだけ足
ないうちにこんなにもたくさんの人、モノの
人の愛情を渇望していた私だけど、私は知ら
食べ物にはたくさんの気持ちが籠っている。
坂道を上る。無酸素運動の繰り返しが
を休める。それからまた 全身に力を入れて、
ことはしない⋮⋮!
自己暗示のように同じ言葉を繰り返し、私
続く。途中からは苦しみを超越して、この試
㎞も
は静かにおじさんの旅の無事を祈った。
自転車乗りは仲間を見つけても足を止める
山を上りきれば、後は一気に下るだけである。 取っていたけれど、この食べるという行為が
ころだ。普通の山越えならば、勾配のきつい
街から街へ移動する際、都会ならば平坦な
けれど、これまでの高低差を考えると、間違
でくれるので、これがまた快感であった。
3
15
として、私はこの長く険しい山に挑んだ。
40
60
15
60
文藝 14 | 160
の足で走らなければ、街へは出られない。で
ないこの場所で、私は飲み物を失った。自分
人もいない、コンビニも自動販売機も何も
一直線に走った。そしてその川の水をよく確
間もなく自転車を放り出し、小川に向かって
小川が流れているのが見えた。私は思考する
ふと横の森を見ると、木と木の間に小さな
愛を与えてもらっていたのだ。
時間や規律に縛られる世の中で、ついつい感
も走るための水がない。絶体絶命とはまさに
かめもせずに、手で掬って口の中へ流し込ん
ら生きているけれど、そんな疑問に答えなん
探す﹂だの、人間はいろんな疑問を持ちなが
だ。﹁何のために生きる﹂だの﹁生きる価値を
んだら、死んでも死に切れない! 命の大切
さを感じた直後だからこそ、この状況を作り
は全て自己責任だ。こんなところで野たれ死
一人旅には様々な危険が伴う。そしてそれ
度も何度も小川の水を掬っては飲み込んだ。
ぬよりはマシだ。何かに感染したって、後で
だ。変な黴菌がいたって関係ない。ここで死
れ返り
情 が 鈍 く な っ て し ま う け れ ど、 生 き る と い
このことである。
てあるはずがない。食べるという行為で命を
出してしまった自分の注意力の無さに腹が立
人間関係や社会との摩擦。モノに
う こ と は、 実 は と て も 繊 細 で 尊 い も の な の
戴き、歳を重ね、やがて寿命がきて、自然に
った。
じっとしていても仕方がないので、自転車
た。無事に街までたどり着けたのである。手
い気持ちで、私は名護市の真ん中に立ってい
まだ太陽の沈みきっていない時刻、清清し
病院に行けばなんとでもなるだろう。私は何
返る。これが万物の原点なのだ。やんばるの
を漕ぎ出す。街にさえ出れば何とかなるのだ。
にはコンビニで購入した二リットルのスポー
山奥でただ独り、私はそんなことを考えた。
おにぎりを食べ終えてから、水をゴクゴク
街までは頑張って、自転車を漕ぎ続けよう。
ツ飲料と添加物だらけのお菓子、人間が開発
と飲む。スポーツ用の飲み口の大きな水筒、
山道の後半戦。
し、機械的に作り出された化合物たっぷりの
れる水にときど
少し傾けるだけでドバっと
山頂を越えてから後は下り坂だけなんてい
また上る。さっきと同じ行動を繰り返す。さ
卑しさを持っている。自然の摂理を感じた直
生きるという行為は、尊さと同じくらいの
飲食物、私はそれらを有難く戴いた。
っきと違うところは、水分補給が出来ないと
後に、コンビニエンスストアの恩恵を賜る私。
う 甘 さ は、 こ の 土 地 に は な い。 少 し 下 っ て、
き咽ながらも、走るための体力を回復させる。
次の街まで後 ㎞。一気に駆け抜けよう。
しかし、そのとき体勢を崩し、私は持ってい
いうことだけだ。でもそれが一番の痛手であ
乱雑に水筒の蓋を閉めながら立ち上がる。
た水筒を道路に落とした。
便利な世の中で生きていくためには、ある程
め、転がりながら勢い良くこぼれ出す水筒の
うなのだ。流れ落ちる汗ですら、飲んでしま
達した。喉が渇いて身体がバラバラになりそ
八 長い反抗期
ない。
度は鈍感にならなければいけないのかもしれ
る。
さっき上ってきた道にコロコロと転がって
㎞弱進んだところで、私の身体が限界に
中身。慌てて拾いに行くも、ときすでに遅し。
いたくなるほどの渇き。私は声にならない声
いく水筒。蓋がきちんと閉まっていなかたた
㎞を走りきるための源、大切な水は、アス
10
を出して、心の苦しみを外の世界に放出した。
161 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
20
ファルトにじわじわと飲み込まれてしまった。
20
ける人間は、旅人の話を聞きたいのではなく、
世の中には色んな人がいる。私は若さ故の
おじさんはもういい歳である。なのに、安定
名護市、沖縄市でそれぞれ一泊し、今日は
一人旅の人間が丁度いいのだろう。おじさん
した職業に就かず、家も持たずに、こうして
勢いで自転車旅を遂行しているけれど、この
ら南城市、糸満市を経由して、スタート地点
も例に漏れず、自分の話をしたいタイプの人
気楽に生きている。別におじさんを批判して
大抵は自分が喋りたいだけだ。話し相手には、
である那覇市に戻る。天気は快晴、風も穏や
間だった。
沖縄一周のラストスパートである。沖縄市か
かな自転車日和だ。
の裏に泊めた車の中で生活を営んでいるそう
ったのか、沖縄県に移住し、今はこの体育館
元々本土に住んでいたおじさんは、何を思
と思った。
てのけている。人の考え方は千差万別だなあ
到底できないことを、おじさんは平気でやっ
いるわけではないけれど、私だったら怖くて
南城市の知念岬に立ち寄ったときに出会っ
知念岬の少し手前の体育館、そこの入り口
だ。職業はマジシャン。近所のイベントなど
有名なキャラクターや動物が、綺麗にペイン
れないこの場所で、独りで作業に没頭するの
趣味のうちの一つ。おじさんは誰にも邪魔さ
人形が飾ってあった。誰かが作ったのだろう。 で芸を披露しているらしい。これらの置物は
とをやって生きているんだから﹂
方がない。おじさんはこうやってやりたいこ
もう十年以上会ってないわ。寂しいけど、仕
﹁おじさんには子どもが居るんだけどねえ。
たおじさんの話である。
付近に、浮き玉を使って作られたたくさんの
トされた浮き球で見事に表現されていた。
が好きだと言っていた。
岬で美しい景色を堪能してから、もと来た
道 へ 戻 る と、 体 育 館 の 裏 の 方 か ら﹁ お ー い ﹂
という声が聞こえてきた。どうやら私を呼ん
でいるらしい。
私のことを呼んだのは、作業着姿で頭にタ
オルを巻いた小柄なおじさんであった。推定
年齢、 歳。私のお父さんと同じくらいの年
齢か。
﹁この置物、全部おっちゃんが作ったの。海
から廃材を集めてきて、それに色を塗って作
ったの﹂
おじさんは、私が聞いてもいないのに、自
分のことをぺらぺらと話し出した。旅をして
いて気がついたことだけれど、旅人に声をか
おじさんが作った置物
50
おじさんとの写真
文藝 14 | 162
なっていくものだ。そう考えていた私は、お
どもは親から無条件の愛情を注がれて大人に
親が子どもを大切にするのは当たり前。子
由に生きていていいのだろうか。
だ。おじさんは人の親だ。なのにこんなに自
きた。でも、それは守るべきものが無いから
自分のやりたいことを思う存分やって生きて
けなのだ。大きくなった私は、自分の欲しい
のを欲しいだけ与えてもらえるのは、赤子だ
子どもだったのは私の方だった。欲しいも
身勝手で子どものような親だと思っていた。
勝手に親を悪者にし、恨んできた。あの人は
の欲するものが与えられないからといって、
それは立派なことなのだ。なのに私は、自分
りと仕事も持っている。一人の人間として、
罪を犯しているわけではない。それにしっか
ができた。普段の生活では気づくことのない
て確認し、自分らしい生き方を見つけること
ということで、私は自分自身の考え方を改め
の考え方を理解した。また、他人を理解する
そしてその人たちと話すことによって、彼ら
間なんてこの世には存在しないのだ。
っている。いや、自分と全く同じ考え方の人
と考え方が全く異なる人間は、どの土地にだ
やりたいことをやって生きる。私も今まで、
じさんの考え方に驚き、おじさんの子どもに
ものは自分の力で手にいれなければならない。 自分の本当の気持ち、それを私は旅先で発見
身の力で生きていこう。
擦り付けることなく、縋ることなく、自分自
ことができた負の感情。これからは人に罪を
なあ。父親を理解することによって断ち切る
したのだ。大きくなったなあ。大人になった
私はこの旅で様々な人の生き方を見てきた。
少し同情した。そして私はこの気持ちを、オ
﹁反抗期は誰にだってあるよ﹂
おじさんは、私の話を聞いて笑いながらそ
ブラートで何重にも包んで、おじさんに伝え
た。
ああ、私は反抗期だったのか。反抗期を拗
う言った。
人の人間だからねえ。父親としては失格かも
らせて、家を飛び出してしまったのか。そう
﹁おじさんは父親だけど、父親である前に一
しれないけれど、人間としては立派に生きて
思うと、なんだか今までの自分が酷く幼稚に
見え、私は過去の自分の行動を面白おかしく
沖縄県は綺麗な場所だった。けれど、沖縄の
いると思うよ﹂
おじさんの言葉には重みがあった。人間は
おじさんに話して、涙を出しながら大笑いし
ちゅら島、沖縄。日本の南国。リゾート地。
いろんな立場を持ち、その立場ごとの顔を持
人には沖縄の人独自のコミュニティがあり、
た。
して、やっぱり沖縄は綺麗な場所だなあ思っ
回、そんな人間の臭いをたくさん嗅いで、そ
沖縄県にも人間臭さが充満している。私は今
ことではない。でも、一歩足を踏み入れると、
見て素晴らしい島だと思う、それは別に悪い
生活がある。観光に来て、沖縄の表面だけを
た。
ちゅら島、沖縄
面白い人は沖縄だけに居るのではない、自分
沖 縄 に は 面 白 い 人 が た く さ ん 居 た。 で も、
以上に早いペースだ。
約一週間で沖縄県一周を完了させる。予想
九
つ。歳を重ねれば重ねるほど、顔は増え、そ
の立場には責任が付随する。おじさんはそう
いった鎧を全て捨て、自分の人生を生きてい
るだけなのだ。
私は自分の父親を恨んでいた。親のくせに
子どもを放置する悪い人間だと思っていた。
でもそれは違ったようだ。あの人は私の親だ
けれど、その前に一人の人間なのだ。別に犯
163 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
日が傾き、空が夕焼け色に染まる。どのく
らいの時間、私はここにいたのだろう。汗の
最初は沖縄を一周したら旅を終えようと思
と伸びをしてから、再び草を搔き分けて道路
そろそろ帰ろうか。重い腰を上げて、グッ
引いた私の身体に、朔風が吹き荒ぶ。
っていたけれど、半年ぶりに長距離を自転車
に出る。ダウンジャケットのファスナーを上
十 旅の終わり
で漕いで、旅の感覚が戻ってきたので、旅つ
あと少しで学生生活が終わる。来年からは
まで上げて、手袋を着用する。冬の下り坂は
旅は人の心を大きくする。強くする。自分
社会人だ。長かった学生生活。楽しい思い出
いでということで、九州縦断と四国を一周し
の内面を変えてくれた自転車旅。私は旅をす
ばかりではないけれど、どんな経験も大切な
寒いのだ。
ることによって、大きな自信と強い心を手に
思い出。楽しいことも苦しいことも、喜びも
てから家に帰った。
入れた。
悲しみも、全て、今の私を支える土台なのだ。
これから先も、物事を恐れず悲観せず、最期
もうすぐ学校が始まる。四月からは大学三
回生だ。学校に行って、勉強をして、自分の
には良い人生だったと思えるように、全力で
ヘルメットを被ってから自転車に跨り、ハ
視野をもっと広げよう。そして自分の人生を
沖縄では使うことのなかった唐辛子スプレ
ンドルをギュッと握りしめて、私は六甲山を
毎日を生きていこう。
ー。家に持って帰ってきたけれど、やっぱり
すいすいと下った。
充実させよう。
使い道がない。処分してしまおうかとも考え
たけれど、一人旅の滑稽な思い出として、ス
プレーは、最初の自転車旅の途中で拾った貝
殻の横に飾っておくことにした。
文藝 14 | 164
首里城
輪行バッグに詰めた自転車
名護市で出会った人
国道58号線起点
恩納村
沖縄県庁
ハイビスカス
沖縄市で撮影
165 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
やまなみハイフェイにて
鹿児島県庁
大分県庁
阿蘇山頂
愛媛で出会ったご家族
別府~八幡浜のフェリー上
しまなみ海道にて
宍喰市で出会った旅仲間
文藝 14 | 166
旅のスケジュール
日目 兵庫県西宮市武庫川大橋上∼姫
2011年夏の旅
●
路市/走行距離 ㎞ ● 日目 姫路市∼岡
山県岡山市/走行距離 ㎞︵途中からトラッ
ク乗車︶ ●
日目 岡山市∼広島県尾道市
/走行距離 ㎞ ● 日目 尾道市∼呉市/
走行距離 ㎞ ● 日目 呉市∼山口県岩国
市/走行距離 ㎞ ● 日目 岩国市∼福岡
県小倉市/走行距離156㎞︵岩国∼下関間
日目 那覇市∼読谷村/走行距離 ㎞ ●
日目 読谷村∼今帰仁村/走行距離103
㎞ ● 日目 今帰仁村∼国頭村/走行距離
㎞ ● 日目 国頭村∼名護市/走行距離
㎞ ●
㎞ ●
日目 名護市∼沖縄市/走行距離
日目 沖縄市∼那覇市/走行距離
㎞ ● 日目 那覇市∼鹿児島県霧島空港
∼いちき串木野市/走行距離777㎞︵飛行
機移動含む︶ ● 日目 いちき串木野市∼
熊本県水俣市/走行距離 ㎞ ● 日目 水
俣市∼熊本市/走行距離 ㎞● 日目 熊本
市∼大分県竹田市/走行距離105㎞ ●
㎞ ● 日目 徳島市∼宍喰市/走行距離
㎞ ● 日目 宍喰市∼高知県高知市/走行
距離141㎞ ● 日目 高知市∼四万十市
/走行距離108㎞ ● 日目 四万十市∼
宿毛市/走行距離106㎞ ● 日目 宿毛
市∼愛媛県大洲市/走行距離 ㎞ ● 日目
83 95
電車利用︶ ● 日目 小倉市∼福岡市/走
行距離 ㎞ ● 日目 福岡市∼佐賀県佐賀
日 目 竹 田 市 ∼ 別 府 市 / 走 行 距 離 ㎞ ●
日目 別府市∼愛媛県今治市/走行距離
12
199㎞︵フェリー移動含む︶● 日目 今
治市∼香川県坂井市/走行距離126㎞ ●
日目 坂井市∼徳島県徳島市/走行距離
63
22 21
市/走行距離 ㎞ ● 日目 佐賀市∼長崎
県長崎市/走行距離102㎞ ● 日目 長
崎市∼熊本県熊本市/走行距離100㎞︵フ
ェリー移動含む︶ ● 日目 熊本市∼人吉
市/走行距離 ㎞ ● 日目 人吉市∼宮崎
県宮崎市/走行距離101㎞ ● 日目 宮
崎市∼鹿児島県志布志市/走行距離 ㎞ ●
日目 大阪府住之江区南港∼兵庫県西宮市
/走行距離 ㎞
2
3
76 64 70 87
大洲市∼松山市/走行距離 ㎞ ● 日目
松山市∼しまなみ海道∼尾道市∼西宮市/
走行距離316㎞︵電車移動含む︶
167 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
4
5
6
7
2
85
68
10
11
14
20
56 99
10
13
86
89 76
19
5
4
6
9
12 11
9
18
7
8
8
17 16
83
71
58
99
13
3
86
78
28
● 日目 西宮市∼伊丹空港∼那覇空港/
走 行 距 離 1 4 4 6 ㎞︵ 飛 行 機 移 動 含 む ︶ ●
1
15
1
61
2012年冬の旅
14
経路 家から九州まで
経路二 沖縄一周
文藝 14 | 168
経路三 九州横断、四国一周
引用 Yahh!Japan地図 Yahho!Japanhttp://map.loco.yahoo.co.jp/
169 |ちょっと自転車で旅をしてみた。
世界の名作に親しむ
イントであった。主人公は何事にもあ
正直な返答に傷つきつつも一緒に居続
すが最初チェスやホイストについての
まり動じずにたんたんと周囲の出来事
イトルに殺人事件とあり、話の内容も
話ばかりで驚きました。その後、登場
をみているように感じた。彼の体感す
ける所が同じ女性として気になったポ
人物であるCがいかにかしこく洞察力
るものの描写はとても美しい文章で描
そういう話だと思って読み始めたので
に優れているかという話の後にようや
がCの説明を読み進めながら犯人につ
部の終わり部分で彼がアラビア人を殺
いるような気持ちであった。だが第一
字を読み、電車の窓から景色を眺めて
かれていて、第一部は流れるように文
いて自分でも推理していました。色々
害し、主人公の置かれた状況は一変す
私は普段推理小説を読まないのです
く事件が起こりました。
千通を超える感想文の中から、四回生の「文学
な人の証言があり、時折それを読み返
いても、彼の心理描写はどこか第三者
る。独房に入れられ苦しい思いをして
ローグで話が進みますが、この作品で
過去を語る物語は大抵が主人公のモノ
にそうだと思いこんでいたので古い作
ものしか読んでこず、あたり前のよう
きました。今までずっと人間が犯人の
のオランウータンという展開に凄く驚
偽らない。私は読んでいる上でそこが
ったのは、彼は本当に自分の気持ちを
シーンも印象的であった。ここでも思
的であるように感じた。司祭の質問の
文の構成です。主人公が自分の体験、
に読書感想文の提出を求めています。
と創作Ⅲ」の受講生が選んだ文章を掲載します。
で全然わからなかったのですがまさか
しつつ読んでいて、結局最後のほうま
書 く・ 書 く が モ ッ ト ー で す。 受 講 生 に は 隔 週
木曜日開講の「文芸の基礎」では、読む・読む・
【文芸の基礎】受講生の読書感想文
ウェルズ
タイム・マシン
は文全体が一つの﹁﹂でくくられてい
気 に 変 化 が 生 じ た よ う に 思 う。 彼 が
だが最後のシーンだけは彼の語る空
説の魅力の一つであるのだろう。
でいたが恐らくそこが主人公やこの小
立ち回ればいいのにと思いながら読ん
ます。この手法は今まで見たことがな
画は数多くありますが、この作品は数
◆未来世界を舞台にしたSF小説や映
︵重延千夏︶
大変面白かった。もう少しでも上手く
異邦人
カミュ
品でありながら新鮮でした。
く斬新だと思いました。
この作品は何度か映画化もしている
十年、数百年などではなく、八十万年
後という途方もない未来を舞台にして
ようなので、機会があればぜひ見てみ
︵遠藤紺︶
いるのが特徴的だと思います。もはや
私は読んでいてまるで地球ではない、
現代の人類の面影などは残っておらず、 たいです。
エドガー・アラン・ポー
﹁みな等しく罪人なのだ﹂といった言
どこか別の惑星での話のようにも感じ
◆﹃異邦人﹄は独特な空気に満ちた作
葉が強く胸に突きささった。恐らくこ
ました。主人公が未来世界で過ごした
品であった。主人公は終始無気力にみ
たのもあっただろうが、最後の数ペー
れまで彼の風体に慣れて油断をしてい
モルグ街の殺人事件
ある。マリイが何度か彼に愛の言葉を
えるが、どこか惹きつけられるものが
日々も読んでいて面白いのですが、私
るこの作品を読みました。まずこの作
ジの文句がとても衝撃的だったのを覚
◆私は前回に続き、ポーの代表作であ
求め、質問をするが主人公のあまりに
観に引き込まれました。
品については初めて読むのですが、タ
は八十万年後という、その壮大な世界
もう一つ私が面白いと思ったのが、
文藝 14 | 170
えている。
﹃ 異邦人 ﹄はもう一度ゆっ
ッテに惹かれるも彼女は、婚約者がい
舞踏会に行って感受性豊かなシャルロ
らしさや人々の素朴さに惹かれていき、 人の様々な気持ちの変化が書かれてお
サガン
悲しみよこんにちは
素晴らしいと思った。ウェルテルの周
◆この手紙のウェルテルの一人語りは
供にはそれができません。なぜなら、
ら遠慮して止めることができても、子
力の制御の仕方を知りません。大人な
ている力は同じです。しかし、子供は
︵山口啓二郎︶
り、読みごたえのある作品だった。
いと思った小説であった。 ︵塩見愛︶
ここまでは、ウェルテルは幸せであっ
りの近況報告やそれに関して感じた自
◆若さは残酷です。子供も大人も持っ
たと思うが婚約者アルベルトと対面し
身の気持ちを書くことで、彼の人格や
るにもかかわらず彼女の元に訪れる。
くりと読み返してさらに深く理解した
ゲーテ
若きウェルテルの悩み
まれるようになり、そして耐え切れな
くなって土地を去る。この場面一つで
シャルロッテに恋焦がれるウェルテル
てからは、自分の中の苦悩や 藤に苛
人への献身が美徳とされる世の中で、
も様々な内面を表現していて複雑だっ
の感情の揺れ動き、婚約者が現れてか
◆身分による社会的制約が厳しく、他
自己の欲望に真摯に向き合う青年の苦
た。
職に就くが、周りからの卑俗さなどに
第二部では、新しい土地に行き、官
ものであるから、彼自身の気持ちが深
らの嘆きはあくまでウェルテル自身の
りでうわべの付き合いを守る気持ち悪
です。子供からすれば大人は遠慮ばか
子供と大人が解りあうことは不可能
杯だからです。
藤が非常に伝わりやすかったからだ。 子供は自分自身を守ることだけで精一
悩を描いた作品だった。昔これを読ん
われたが、私にとっては、実にリアリ
だ友人から﹁全く共感できない。
﹂と言
い存在で、大人からすれば子供は思慮
この一人語りは後半まで続き、その
く伝わるこの手紙が非常に良い味を出
後は編集者の解説を踏まえながら進行
我慢できず様々な土地をさまようが最
ってくる。この場面では、少なくとも
う。自分の子供時代が馬鹿だったから
ティがあり感情移入のしやすい物語で
幸せなことはなく、苦痛しかなかった
馬鹿と決めつけているのか。自分も子
が浅く行動がよめない気持ちの悪い存
どれほど焦がれても手に入らないも
していく。この辺りはウェルテルが自
供だった事実を忘れて、子供を自分達
している。
のを心の底から求めてしまった時、ど
ロッテの元に戻るしかなかったと思う。 殺を決心してから実行に移すまでが描
と思う。その結果惹かれていたシャル
か れ て い る が、 視 点 が 変 わ る こ と に
とは違う生き物だと思っているのでし
後には、シャルロッテのいる土地に戻
んな気持ちでどんな選択をすればよい
り、ウェルテルの自殺がより深みのあ
ャルロッテへの思いを忘れられない中、 よ っ て 周 囲 の 状 況 が 伝 わ り や す く な
子供は感受性が強く、臆病です。一
あったと思う。
のか。そんな問いかけの一つの答えを
旧知の作男が、自分の主人である未亡
るものとなっていた。周囲の人から見
人ひとりに譲れないルールや世界があ
た瞬間に﹁危ない﹂や﹁汚い﹂と言って
のです。なのに、大人はそれを目にし
つぶしてしまいます。
必ず役に立つであろうものを学ぶこと
︵山崎雅矢︶
﹁若きウェルテルの悩み﹂で私は今後
ょうか。
なぜ大人は子供を軽蔑するのでしょ
在ですから。
にも悲しい。一度では受け止めきれな
自殺した人が増えたというのはあまり
人への思いから殺人を犯してしまう所
た彼の様子と彼自身の手紙による独白
たい。
持つピストルを借り自殺をして葬式の
第二部半ばからは、ウェルテルがシ
い内容であったので、何度か読み直し
で、ウェルテルの中であるきっかけと
が高いレベルで融合した結果であろう。 ります。誰もが秘密基地を持っている
導き出した話であるが、これを読んで
︵赤木愛理︶
なり、自殺を決断する。アルベルトの
◆この作品は、少なからずある人の内
テルは生涯苦悩や 藤に悩まされるも、 ができた。
面について書かれていると思いました。 模様があり、作品が終わるが、ウェル
まず第一部では、辺りの風景の素晴
171 |世界の名作に親しむ
のことをすごいとも思いました。死を
かと思えば、娘に対する愛情や妖精に
物語の最後、人間が寝静まり返った
的で特に印象に残った。三組の夫婦の
子供と大人は壊しあいます。お互い
にも片よらないことが人間らしく、感
幸せを願う歌をうたいながら踊りなが
城の中を妖精が踊り巡るシーンが幻想
って来ない僚友を生きていると信じて
情移入しやすいものだった。最終的に
らその場を去って物語が静かに終わる
優しくしたりと、悪と善のどちらの方
折れるまで。家族、親族は例外かもし
待ち続けるつらさを感じました。作者
ハッピーエンドになることも自分とし
決意して仕事をすることの大変さ、帰
れませんが、中途半端に関わってくる
自身も遭難した際、あきらめずに歩き
ては魅力の一つだと思っていたりする。 所が、夢の終わりを告げているような
の価値観をぶつけあって、どちらかが
他人はやすやすと子供の世界を壊して
続けた姿にとても勇気を感じ、とても
ちが動いている様子がとてもイメージ
白いと思いました。何故なら、妖精た
◆私は、この作品は幻想的でとても面
気がして美しく感じた。 ︵加賀真斗︶
しまいます。
︵竹内友亮︶
の要素があったといえよう。
もう一度読みたいと思わせるには十分
サン=テグジュペリの本を今まで読
感動しました。
それに対抗するために、子供は悲し
みを凶器に変えます。自分を守るため
夏の夜の夢
いが生じてしまう。その中でも特に面
精たちの歌やエピローグがより、その
劇を見ているようにも感じました。妖
︵松林里奈︶
白いエピソードが、王妃タイターニア
また、言い合いの時や、パックの台
ように感じさせたのかな、と思います。
少し浮遊感のある夢のようで、けれど
と町人ボトムのやり取りだ。
﹁ 目がさ
詞などテンポが良く喜劇らしいなと思
でき、読み易く感じたからです。また、
めてから初めて見た人を好きになる
いました。狂言に対してのシーシアス
◆二組の男女と妖精の王妃が、小さな
薬﹂を目に入れられたタイターニアが
たちの反応は特に面白かったです。パ
妖精の誤りでそれぞれの関係に食い違
品の中でも珍しいハッピーエンドにな
◆テンペストとはシェイクスピアの作
見た人間が、アセンズ公の結婚祝いに
ックやオーベロンの仕業で勘違いやす
シェイクスピア
本も読んでみたいと思いました。
に必要な武器へと。大人はそれを悔い、 んだことはなかったのですが、ほかの
食となる。だから悲しみは罪なので
す。
瑞々しい表現、感受性、残酷さ。僕
はこの作品をすべてに憧れました。そ
願うなら、大人にも子供にも、まだ
る作品である。元々、シェイクスピア
演じる劇を練習中のボトムだった。こ
れ違いが起こった時は、どうなってし
んな僕は、この作品をどの立場から見
どちらになることもできる、一番面倒
の代表作である﹁ハムレット﹂や﹁ロミ
れのどこが笑えるのかというと、練習
た。
るのだ。一番の魅力はやはり主人公の
ればどの作品にもないおもしろさがあ
構図は、端から見ればとても滑稽だが、
と、それに言い寄る美しい妖精という
て い た の だ。 文 字 通 り の 馬 面 の 人 間
全体的に幻想的で独特な雰囲気があ
ピーエンドで終わって良かったです。
まうのかとはらはらしましたが、ハッ
テンペスト
くさい立場から見ていたいと思いまし
オとジュリエット﹂のような悲劇でも
中のボトムは頭にロバの面をかぶっ
ていたのでしょう。
︵宮田悠二︶
いないものだった。しかし、読んでみ
喜劇でもないもので、あまり知られて
サン テグジュペリ
◆この物語を読んだときに、作者自身
複雑な立ち位置だろう。最初は学問に
る作品だなと思います。そして、ロマ
人間の土地
の感じた飛行家という危険さをとても
響とはいえ︶表現されている気がして、 ンチックな表現が多いなとも感じまし
その中にも﹁成就しない恋﹂が︵薬の影
た。中でも、私はキューピッドの矢の
が今は妖精や怪人を従えて島を治める
儚く切ない気分になる。
入れこみすぎて、財産身分を失なった
生きて帰ることができるか分からな
不気味な大魔術師。復讐の心を見せた
感じました。
い状況の中で飛ぶ作者をその僚友たち
文藝 14 | 172
表現が素敵だと思いました。
︵前薗優花︶
読めました。
それに妖精が出てきたりして本来、
は、ハムレットは周囲の人物に恵まれ
だったので自分の好きな世界観でした。 分が多くて読みやすかった。話す部分
◆他の読んだ本と違って、人が話す部
友ではなく王子として接している。ハ
ンクランツとギルデスターンも彼を学
る。誰も彼を理解せず、友人のローゼ
なかったのではないかということであ
が、カッコじゃなくて人物の名前で書
ムレットは学友を学友と思っているが、
ハムレット
ただ、最後はハッピーエンドですが
かれていて、誰が話をしているのかす
現実じゃありえないことが起こる物語
の作品を読まして頂きました。今作、
物語の途中で起こる出来事に読んでい
◆ 前 回 に 引 き 続 き、 シ ェ イ ク ス ピ ア
﹃夏の夜の夢﹄は以前から友人が勧め
信頼し切れていなかったのではないか
そうではなかった。ハムレット自身も
最初に死んだはずの前の国王が出て
と思われる言動があったように感じる。
ぐわかって良かった。
次に思ったのは、やはりシェイクスピ
てじれったい気持ちにもなりました。
きて、ホラーか何かだと思ったけど違
ア特有の言葉の言い回しである。一番
﹃夏の夜の夢﹄ではとても面倒な恋愛
った。前国王の息子であるハムレット
印象に残ったのは、
﹁弱きもの、お前
うと心に決めていました。
物や、様々な妖精が登場します。私も、 すらしました。もちろん何も起こらな
が今の国王に対して復讐しようとする
を女という!﹂というセリフだ。父の
てくれていた作品で、いつか必ず読も
ければ物語としてはおもしろくないも
いて、考える事がいっぱいだなと思っ
中、オフィーリアという娘に恋をして
模様になってしまったことにイライラ
ファンタジーやギリシャ神話には昔か
こしくなり過ぎだと思います。
のになると思いますが、さすがにやや
今作は、ギリシャ神話に登場する人
いる最中はついつい入り込んでしまい
ら興味を持っていたので今作を読んで
中で国王を殺そうとしたりと、まだ若
た。気が狂ったフリをしたり、劇の途
入っている。後にオフィーリアに対し
るようにハムレットは女性不信に落ち
て言ったことであるが、ここから分か
死から日の浅い内に再婚した母に対し
でも、その原因となった妖精パック
はなぜか憎めない存在でした。
いと言われているハムレットが行動し
ました。それと同時に、シェイクスピ
アがいかにギリシャ文学や神話に影響
たのは素直にすごいと思った。復讐す
妃にも気が狂っていると言われるのは、 女性に対して失望していることが分か
る為とはいえ、周りの部下や母である
る。この物語は父が死に母が叔父と再
分勝手すぎるなと思いました。自分の
ことは棚に上げて人を非難する姿は人
自分だったら嫌だと思った。オフィー
ムレットはこの絶望に苛まれていたの
婚した後から始まるので、最初からハ
﹃あらし﹄では登場人物たちが皆、自
間なら誰しもが持っているものと思え
リアが 死してしまったうえ、最後は
も更に探究していく必要があるなと実
てきて嫌になりました。
ハムレットと戦ったオフィーリアの兄
されているのかが分かりましたし、私
しかし、物語中に人の血が一切流れ
戦していきたいと考えていますが、こ
レットまでもが死んでしまったのは正
蔑む比喩や隠語を多く使用しているの
である。ハムレットのセリフに女性を
つ私は妙に納得した。
︵玉井遼︶
主体なのではないかと。似た考えを持
シェイクスピアの女性に対する批判が
もそのせいだろう。思うにこの悲劇は
◆この作品を読んで最初に思ったこと
︵佐伯愛︶
直、あっけなかったと思った。
て﹁尼寺へ行け﹂と言ったことからも
なかったので気分よく読み終えること
感しました。
のシェイクスピアの作品も、もしかし
も毒で死んでしまい、妃と国王とハム
私も、今年は俳優などの多方面で挑
たらいつか舞台で演じるかもしれませ
が出来ました。
読んで実感しました。 ︵築山ひかり︶
喜劇の方が好きだなあと、この作品を
っぱり最後はハッピーエンドで終わる
悲劇も嫌いではないですが、私はや
ん。その時、大学で学んだ事を活かせ
ていけたらなと思います。
︵山本智也︶
夏の夜の夢/あらし
◆今回読んだ作品は前回読んだ﹃マク
ベス﹄と違って喜劇だったので楽しく
173 |世界の名作に親しむ
◆自分が物語を書いていく上で、参考
はないかと推測する。そういった点で
ェリアに投影され、彼女との関係に齟
視点で描かれている印象だった。ハム
意した筋、クローディアスがハムレッ
レットがクローディアスへの復讐を決
親をハムレットに殺され精神を病んで
トを殺そうとする筋、レアーティーズ
齬をきたす。オフェリアはその後、父
げるという選択すら許されなかった点
しまう。この時彼女は父親の死とハム
賢いがゆえの悩みや迷いと対峙し、逃
を選んだ。この作品には非常に多くの
で、ハムレットの悲劇が最も深刻なも
にするべき戯曲として、
﹃ハムレット﹄
人物が登場しているにもかかわらず、
小説は一つの主観で描かれるので、人
がハムレットを倒そうとする筋など。
たのだろう。最終的に川へ身を投げて
レットの罪に、押し潰されそうになっ
話に悲劇を盛り込みつつ登場人物を
と母親︵妃︶
、そしてハムレットは個々
ない。父が殺されたと聞いて、頭がお
際にどのような人物なのかすら分から
約していかないので、ハムレットが実
戯曲の場合は一つの主観的なものに集
物の方向性が必ず示される。しかし、
に罪を犯している。叔父は王である兄
かしくなったのか、頭がおかしいふり
また結果的にハムレットの叔父
︵王︶
死んでしまう。
のに自分は感じた。
劇を持っている点で、ハムレット以外
限らずシェイクスピアという人物の凄
活かすというのは、このハムレットに
全ての人物が話の展開でそれぞれの悲
も主人公にもなれるということが、物
の人物であっても、脇役でありながら
を殺し、母はその父を裏切り、ハムレ
をしたのか。しかし、そこが戯曲の可
しようと試みる。しかし自身の内面の
に導かれ、仇である叔父と母とに復讐
やクローディアス︶は哀れな最後を遂
ハムレットの血縁者︵ガートルード
ん底に突き落とした。
ティーズやポローニアス︶を不幸のど
ができる自由な読みは、少し分かりづ
能性で、読書によって何通りもの解釈
︵冨田将先篤︶
◆シェイクスピアの﹃ハムレット﹄を
オフェリア並びに、彼女の血縁︵レア
ットはポローニアスを殺した。さらに
みだと思う。
読んだ。この物語は、デンマークの王
語の骨組がいかにしっかりしているか
ハムレットは物語の序盤に父を亡く
子ハムレットが、毒殺された父王の霊
する人物オフィーリアに対し﹁尼寺に
藤に苦しみ、彼の復讐はあらぬ方向
ということを物語っている。
悲劇に見舞われながらも、唯一の縁と
し、中盤に母をも亡くしている。その
行け﹂と言う。その言葉がたとえ表面
に転がる。そして悲劇として幕を下ろ
この作品は悲劇として描かれ、この
ティーズやポローニアスは、被害者で
る。けれども、オフェリア並びにレア
のみだったのだろうか。 ︵三栖夏未︶
したのはクローディアスに対する怒り
かされたときハムレットの感情を支配
たのだろうか。父の亡霊から真実を聞
ハムレットは復讐以外に道は無かっ
らくもおもしろいものだと思った。
の心中は穏やかではなかったであろう
上の言葉であったにせよ、ハムレット
物語の主人公は悲劇的な人物として描
る。したがって本当に悲劇的な人物は、
ありハムレットの血縁者は加害者であ
迷いを吐露する。
べきか、それが問題だ﹂という台詞で
げたが、言ってしまえば自業自得であ
フェリアは描かれているが、彼女の精
かれている。その影に隠れるようにオ
す。
しかしながら、ハムレットは復讐を
神的負担はハムレットのそれに等しい
オフェリアであり彼女の血縁者である。 ◆この物語はハムレットの復讐の話だ
と推測する。現に﹁生きるべきか死ぬ
遂げる。精神力が強かったと言い切っ
てしまうこともできるが、悲劇の中に
だけでなく、レアティーズまでも復讐
けではなく、オーフェリアを中心に話
を始めて、父も殺されたはずなのに、
︵中傳貴裕︶
◆初めて戯曲というものを読んだ。小
か、それ以上のものだろう。
というのも、ハムレットは父の亡霊
説は作者の考え方という一つの主観に
あってもそれに耐えられたのは、それ
ぞれの人物が持つ悲劇を生かすには復
れに伴い叔父を憎み母も憎む。そして
に導かれ、悲劇へと歩みを進める。そ
女性の不誠実を嘆く。その嘆きはオフ
文章が集約されるが、戯曲は複合的な
妹のオーフェリアだけのために復讐に
が進んでいるようであり、ハムレット
殺してしまうことは、ハムレット本人
讐を遂げなければならず、その悲劇を
が死ぬこと以上に辛い事柄だったので
文藝 14 | 174
燃えているように感じ、レアティーズ
そして、ハムレットが会った亡霊は
リチャード三世
﹁タイトルと主人公の名前、設定など
と違って主人公が初めから殺意を持っ
知っていたのは、対立した家の二人が
いたんだな﹂ということでした。私が
ュリエット﹄を知っている気になって
を少し知っているだけで﹃ロミオとジ
ていてどんな話になるのかと思いま
叶わない恋をしている︵らしい︶とい
◆﹃リチャード三世﹄は﹃ハムレット﹄
した。主人公のリチャードの、自分の
れ違う二人を止めることはできなかっ
うことだけ。実際はもっと悲しく、す
︵森本全紀︶
えもいわれぬ余韻を残す、非常に感慨
は重度のシスコンではないかと思った。 深い作品だった。
◆良い人は必ず救われ、悪い奴にはい
野望のためにたくさんの人を犠牲にす
ヴェニスの商人
トが亡霊に会うことがなかったら、復
ずれは必ずバチが当たるということを
る面、自分の兄であるクラレンス公ジ
本当に父だったのだろうか、ハムレッ
讐についやすこともなくしあわせにオ
教えてくれる作品でした。
で、疑心暗鬼になり、狂気を装うこと
アントーニオーは今までの行いが報わ
今まで他人の為に良い行いをしていた
などを見て、恐ろしい人物だと思いま
自分が殺した人の妻を口説いていた点
トルは知っているけど読んだことのな
他にも有名な作品、童話など、タイ
ョージを自分の手を汚さずに殺した点、 たのかと悔しく思いました。
一度は危機に立たされたとしても、
ーフェリアと暮らしていただろう。し
になってしまった。亡霊は悪魔のよう
れ、有利な立場にあったはずのシャイ
いお話に興味を持ちました。題名だけ
かし、ハムレットは亡霊に会ったこと
にささやきハムレット人生を狂わした
した。
のに、周りの人間を巧みに味方にして
の作品の中身に触れることが大切なん
で知っている気になるのではなく、そ
ってきた⋮やはりそうでなく、これと
ロックは今までの悪い行いが全部かえ
逆のエンディングなら私はこの物語に
自分の野望のために人を殺していた
うなことをするだろうか、デンマーク
のだが、本当に父なのだったらそのよ
の王の亡霊には がいっぱいである。
だと改めて感じました。 ︵杉山夏美︶
﹃ガリヴァー旅行記﹄
スウィフト
いき、王位を継ぐことができた時は、
最後は自分が殺した人の亡霊に恨ま
いました。
良い意味でも悪い意味でもすごいと思
納得出来なかったです。
良さには驚きました。ここまで友人の
︵本迫大輝︶
◆シェイクスピアの四大悲劇の一つと
為に自分を犠牲にできる人間はこの世
それにしてもアントーニオーの人の
して、今日有名になっているタイトル
◆この﹃ガリヴァー旅行記﹄は、イギ
れ、戦争に負けてリチャード王が死ん
だ場面を読んで、やっぱり自分のこと
にはいないと思います。
自分の命をかけれるほどの男だから
刺が織り込まれていると本の後ろの解
リス人の習慣や慣習に対する痛烈な風
であり、物語の主役を荷っている﹃ハ
ムレット ﹄
。はじめに、彼の父であり
くないのに、それに加えて周囲の人を
説に書いてあったけれど、私にはよく
ばかり考えて行動することだけでも良
巻き込んで犠牲にしてしまえば、味方
わかりませんでした。ただ王様との政
れるのだろうとしみじみ思いました。
がいなくなるのも当然のことだろうと
治的な対話が頻繁に出てきたり、宮廷
こそ周りの人間が彼を救おうとしてく
よく良い行いは神様が見ていると言い
︵田口由佳子︶
は王弟によるものだと知らされる。
復讐を果たすためにハムレットは狂
ますが、私は周りの人間が見ていて、
思いました。
先王の亡霊が登場し、自分の死の原因
気に身を投じる。そして、王の右腕で
その周りの人間が救いの手をさしのべ
ジ ブ リ の﹁ 天 空 の 城 ラ ピ ュ タ ﹂は、
したりしています。
や貴族、大臣たちを皮肉ったり、批判
あったポローニアスの娘、オフィーリ
◆読み終わって一番最初に思ったのが、
ロミオとジュリエット
ているのだと思いました。
︵築山ひかり︶
アとの関係や、その兄、レアティーズ
との確執などが熾烈に描かれ、最終幕
の臨場感を引き立て、読み終えた後の
175 |世界の名作に親しむ
方をしてたのでしょうか。そう考える
必要なものだと思います。彼がどこま
先を見つめる。人間が生きていく上で、
実を否定するのではなく、受け入れ、
ど素直に受け入れているのが、この物
と共感できる部分もたくさんありまし
で人間で、どこから人間ではなかった
生き方は中々強烈でした。ただ、人に
知ったオイディプスは自ら両眼を潰し
た。なんでもかんでも自分でできてし
のか。初めから、最後まで人間だった
国中を襲った疫病をきっかけに、彼の
国を出ていく。
まう人は、人に頼ることや、素直にな
のか。あるいは人間ではなかったのか。
第三部に登場する﹁空飛ぶ島ラピュー
悲劇であるが、率直な感想を言えば
ることが恥ずかしくなってしまうのか
語の魅力のひとつかなと思います。事
﹁オイディプスなにも悪くないやん!﹂
もしれません。そんな彼を改心させる
素直になれないためにあのような生き
だ。オイディプスの父、ライオスが呪
物語終盤、ずっと彼の面倒を見ていた
出生の秘密が明かされていき、全てを
いの神託を受けたのも自業自得だし、
ために動いたマーレイは生前、本当に
妹の、これをいつまでも兄さんだと思
りました。
彼が母イオカステと寝たのも何も知ら
彼のいい相棒だったんだろうなと思い
っているからいけないのよ、という台
タ﹂からとったということを初めて知
けの本だと思っていたけれど、風刺小
なかったからだ。そもそも、子どもの
ます。
ソポクレス
◆ソポクレスの﹁オイディプス王﹂を
責任なやり方で殺そうとしたのが全て
と思ってもなかなか行動に移せない。
当は孤独は辛い。誰かに優しくしたい
どれだけ強がって生きていても、本
ます。逆らえない運命だったのか、彼
まったのではないかと、私は考えてい
詞を境に、彼は人間ではなくなってし
︵坂元望︶
後、
﹃ ガ リ ヴ ァ ー 旅 行 記 ﹄は 子 供 向
説と言うことも初めて知りました。
踝を刺し留めて他人に預けるという無
読んだ。最初に感じたのは、この時代
の原因じゃないのか? オイディプス
やその娘たちまでつらい目にあうのは
オイディプス王
には神の存在というものが絶対だった
た時間と意味を考える必要があると思
どん良くなった事を思うと、彼の生き
が虫になってから、家族の状況がどん
思えてきます。きっかけさえあれば人
悪い人などいないのではないかとさえ
そうやって考えたら、この世に本当に
それだけ神というものが絶対的だっ
理不尽だと思う。
たということだろうか。なんにせよ、
んだなということだ。全てが神託によ
言われる預言者の言葉が外れることは
︵神納彩実︶
って決定が下され、神にも劣らないと
いました。
ヘミングウェイ
︵大口藍︶
残酷だが混じりけのない信仰心を感じ
フランツ・カフカ
老人と海
って変われるんですね。
ない。神の言葉を信じて、生まれたば
られた物語だった。
変身
◆年老いた漁師サンチャゴは、助手の
︵稲生花︶
かりの子どもを捨てたりするなんて、
◆最初から最後まで、独特の気持ち悪
少年と小さな帆掛け舟でメキシコ湾の
現代日本では考えられないことだ。
◆この本を読んで、手遅れになる前に、 さがありました。ざらざらした感情と
沖に出て、一本釣りで大型魚を捕って
託に怯える両親によって山に捨てられ
るが、羊飼いの男のおかげで生き延び
ディケンズ
いうか、どこかすっきりできないお話
オイディプス王は生まれてすぐ、神
る。生まれた国から離れたところで育
何かを行動に移すというのは凄く大切
暮らしを立てている。あるとき数ヶ月
クリスマス・カロル
てられた彼は、スフィンクスの を解
でした。
人に頼りっぱなしで生きている自分
別の船に乗ることを命じられる。一人
にわたる不漁が続き、少年は両親から
なことだなと思いました。
託どおりに父を殺し、母を妻としてい
っていて、本人がその事実を、驚くほ
主人公が朝目を覚ますと、姿が変わ
きデバイの王となる。しかし自分が神
ることに気付いていないのだった⋮⋮。 からみれば、スクルージのこれまでの
文藝 14 | 176
で沖に出たサンチャゴはカジキを仕留
物の描写は簡潔明瞭。研ぎ澄まされた
きれていないのが悔やまれる。
この本は本当に 、 になる青年が
ち女々しく綴ったり語ったりもしない。
書いたのか? というのが当初の感想
である。叙情的な表現が多く、引き込
刃のように無駄な装飾がなく、ねちね
げることができず、舟の横に獲物を縛
すぱっと言い切る爽快さ。この文体そ
まれてゆく。
めるが、獲物が大きすぎて舟に引き上
り付けて港へ戻ることにした。しかし
のものが、サンチャゴという無骨な海
芥川龍之介
河童
◆河童とは、実のところ存在するかも
分からない架空の生き物。この小説は
そんな未知の生物を題材としている。
魚の血の臭いにつられたサメの群れに
女性の身としては主人公の僕の勝手
河童を用いたのだろうか、とても不思
しかし、なぜ芥川龍之介はこの小説に
の男を最も表現しているように感じら
さに驚くばかりである。身重の状態で
追われ、必死に闘うも、カジキの体は
サンチャゴはカジキとの闘いに勝つ。 雨の中を歩き回されたらもっと憤慨し
そうなものであるが、それをしなかっ
議だ。また同時にユーモアも感じる。
しかしカジキはサメに喰われ、全てを
の体は巨大な骸骨になっていた。少年
そして、人間社会を批判するために
声はない。眠りについたサンチャゴは
た辺りマルトの愛を感じた。男性が、
老人は古新聞を敷いたベッドで眠りな
それこそ、彼の尽きぬ闘志を象徴して
夢の中で勇敢なライオンの夢を見るが、 女性に考えられない心理がきれいに表
前回のフィッツジェラルドに続き、
訪れるもの、何かを成し遂げた後に訪
いるのではないだろうか。戦った後に
れながら、最後はマルトの死という、
ながら彼女との愛に沈みゆく様が描か
こその 藤を中心に、求めながら疑い
物語であるが、僕の愛しているから
事のおかしさ、不自由さ、一見この小
河童と人間、二つの立場から見る物
観の相違に悩む主人公の姿は、まさに
の違いを痛烈に表現し、お互いの価値
同じく失われた時代の作家、言わずと
ば生きていけないし、闘うことそのも
れるものは無である。人は闘わなけれ
ンプンする男の中の男。行動的かつ武
ウェイは体育会系で汗と酒の臭いがプ
フィッツジェラルドに対し、ヘミング
ということなのだ。
︵岡村翔太︶
ない。世界は美しく、闘う価値がある
しがれることはあっても負けることは
は言っているのであろう。人はうちひ
のに意味があるのだとヘミングウェイ
期の青年が一度は通るものなのだろう
ているがこれは私にはわからない思春
に近いマルトへの想いや疑念が綴られ
された。作中、よく僕が詩的に、妄想
衝撃ではあるがあっけない最後に驚か
等さ、芥川は、それを表現したかった
ことで垣間見えてくる人間社会の不平
が、それは逆だ。河童社会を描き出す
こうとしているようにも受けとられる
説では河童の世界がどんなものかを描
歳という若さだからこそ描けた物語
16
なのかもしれない。
︵今井万智︶
考える上でとても深く関わりのある作
作と呼ばれているとともに彼の自殺を
し て い る。
﹁ 河 童 ﹂は、彼 の 晩 年 の 大
説は芥川自身の人間社会への絶望を示
か、それであるならば、ラディケが 、 のではないだろうか。つまり、この小
闘派、戦争にも積極的に参加し、それ
感じとることができた。
芥川龍之介自身を描いているようにも
傑作である。インテリな優男といった
知れたアーネスト・ヘミングウェイの
れていたようにも感じた。
好きな人がいながら浮気をするという、 人間と河童を天秤にかけ、文化や習慣
で見たライオンの夢を見ていた⋮⋮。
がら、船員だった若い頃に、アフリカ
がサンチャゴの小屋にやってきたとき、 失ってしまう。港に戻った彼に賞賛の
ようやく港に りついた時、カジキ
れる。
17
サメに食い尽くされてしまう。
16
らの経験を元に、
﹁ 武器よさらば ﹂や
ラディゲ
肉体の悪魔
◆今回、同じ本に収められていた﹁ペ
品であると言うことができるだろう。
177 |世界の名作に親しむ
﹁誰かために鐘は鳴る﹂を書き上げた。
簡潔で潔く、男らしさを讃える文章が
彼の特徴であり、この﹁老人と海﹂は
圧倒的かつ鮮明な外部描写で描かれ
リカン家の人々﹂
﹁ドニーズ﹂まで読み
まさに真骨頂と言える。
る雄大な海、自然の偉大さに対し、人
17
この小説を通して芥川が読み手に伝
があるとは限らない。
安部公房
き、一人歩きしているように感じます。
◆安部公房がシュールレアリズムを確
になりました。
(畠智哉)
立し、方向性についての指針となった
﹁ 死んだ有機物から生きてい
また、
る無機物へ!﹂という台詞を無機物か
ちゃんと自分の形をしているのか不安
他人の頭の中に存在している自分は、
一作﹃壁﹄です。この作品は﹃S・カル
われるよりも胸に響きました。あくま
ら言われることで、どんな人間から言
壁
◆先ず、この本は全六話の作品で構成
マ氏の犯罪 ﹄
﹃ バベルの塔の狸 ﹄
﹃ 赤い
河童/或阿呆の一生
を学ぶ上で、また哲学を学ぶ上で考え
されているのだが、その中でもとりわ
繭﹄の三部構成となっており、物語の
ることができたかどうかは分からない
えたかったこと、それを上手く受けと
ていかなければならないのではないか
半生﹂と﹁河童﹂である。
﹁大導寺信輔
け私の目をひいたのは﹁大導寺信輔の
が、彼が抱いた社会への喝破は、文芸
︵岩本菜桜︶
という作品はどこか暗く、狂気じみた
も不安定であり、それ故なのか、河童
この時期の芥川は精神的にも身体的に
とはないのだが、だからか、晩年に書
に仄暗く、この作品もそれに漏れるこ
のような作品だ。芥川の作品は全体的
◆芥川龍之介の晩年の作品である河童。 の半生﹂は未完の作品で、芥川の自伝
釈ですが、現実と人間の壁なのだと思
ます。この壁というのは、私なりの解
るとするなら、壁というテーマがあり
います。強いて共通している点を上げ
結合性はなく、独立したものになって
必ず意志があります。そしてそれが消
した。人間が作り出した無機物には、
かし僕はこの無機物に何度も救われま
せんが、小説や文字も無機物です。し
で多様の見方の中の一つでしかありま
と感じた。
雰囲気が漂っている。作中での河童は、 かれていることも相まって、芥川の自
人間と似たような文化をもっていなが
がここにも表れているのではないだろ
殺の原因である
﹁ぼんやりとした不安﹂
は、人間関係や理想とのギャップです。 無機物の方がよほど生きていると言え
います。私たちが普段感じる現実の壁
えてなくなることは永遠にありません。
ら人間とは違った思考をもつ非現実的
◆この小説の中の五作品は、全て幼い
︵宮田悠二︶
しかし、安部公房が説く現実の壁とは、 るのではないかと思いました。
人間社会との壁であり、この﹃壁﹄は、
◆壁とは何でしょうか。自分自身が壁
子供が主役になっていて、そんな小さ
一房の葡萄
有島武郎
うか。
そこでの生活の話だが、人間世界とは
人間への不条理の念を私たちに与えて
﹁河童﹂は人が河童の世界に迷い込み、 人間思考の根本である汚らしい本能と、
間に置き換えて読んでいた。河童を身
全く違う河童の世界を人間世界と比べ
くれるものです。
んでいくうちに、気づくと、河童を人
近でリアルなものに感じていたのだ。
ることで書き表していて、赤子が自ら
なものとして書かれている。しかし読
さらに、立てるはずのないように思え
理や無神論を通して、人間社会の不合
出産を拒否したり、刑罰の対象の不合
理を書き表しているのだと私は考える。 になるとはどういうことなのでしょう
き子達の、弱い心や孤独、不幸やエゴ
(池田秀紀)
き、人間から見た河童の世界はおかし
た河童の立場から人間を見ることもで
か。正直一度読んだだけではわかりま
イズムなど、人生を生きていく上で起
くらい、いや、それ以上におかしいの
いが、河童から見た人間の世界も同じ
せんでした。
で描いている童話である。
︵井草実弥︶
ではないかと考えるまでだ。人間的と
人は、本当に自分を表せるものを持
っているのでしょうか。生きれば生き
なくなった。もちろん、これらに答え
人生の辛さは子供の小さな肩にもの
こりうるマイナスな面を、丁寧な文体
は何なのか、何が正しいのかがわから
るほどに何もかもが自分から離れてい
文藝 14 | 178
らこそこの小説は、大人の童話にもな
人にも子供にも平等に降り注ぐ。だか
し掛かるもので、世の中は善と悪が大
る。
現場に欠如している大切な事柄でもあ
また、この先生の行いは、今の教育
見られなかった。
さに背中がひやっとして、結局見るに
えなくなるとき、そんなときの恐ろし
っかり伏線があり、しかしあるのかな
し腹が立ったがもう一度読み返すとし
んで、伏線を覚えていなかったので少
いのかわからない伏線を探す作業は甚
出来ないし、しかしそのことを乱歩に
は、江戸川乱歩は僕から逃げも隠れも
﹁泣くなよ。
﹂
それを子供に考えさせずに頭ごなしに
自意識をどこかへ飛ばしてみるこ
子供の行いが悪いことだったとき、
この小説には絶望だけが満ちている
るのではなく、何かしらの介助をし
と。それを文字にすること、その巧み
り得るのだろう。
わけではなく、救いがある。一房のブ
解決も子供自身に委ねる。全て大人が
た上で子供自身に考えさせ、その後の
さ。こんなにも文士というのは凄いの
言ったとしても、
﹁ それはわかってる
でよかった。しかし、夢遊病に関して
引き受けるのではなく、子供たちに考
って﹂と言われそうなのでその中での
でも多分、私も泣いている。
百閒の隣で、ちょっと言ってみたい。 だ苦痛ではあったが、伏線はあったの
生、高波から妹を救ってくれた若者な
ドウを膝に置いてくださった優しい先
ど、そこには有島武郎の優しさや、人
だ、と心がスッと何か落ちついた。
屋根裏の散歩者
う。
︵藤本直哉︶
この作品はやはり面白かったのだと思
えさせる手助けをする。それが本当の
︵原田あや︶
生には明るい希望も満ちているという
有島武郎の子供への深い愛情が伝わ
江戸川乱歩
教育ではなかろうか。
例えば、一房の葡萄。欲しいものを
ってくるような、素晴らしい作品でし
声が聞こえてくるようである。
親に欲しいと言えない臆病な心、物欲
た。
◆乱歩作品きっての名作とも言える
を見たのは、小学生のころに、乱歩の
﹁屋根裏の散歩者﹂
、人生で初めて今作
二癈人
えがあった。と伏線を張っておき、最
特集で流れた映画だったように記憶し
◆最初にその男の顔にはなぜか、見覚
後に顔を見て思いだす。というトリッ
ている。
︵重本明日花︶
に負けてしまった弱い心のせいでジム
の絵の具を盗ってしまった僕に、先生
先生の、良いことも悪いことも、全て
は優しく一房の葡萄を与えてくださる。 内田百閒
クと、夢遊病で冤罪の罪に問われた、
旅順入城式
◆内田百閒を初めて読んでみて、やっ
という話の内容が、どうも面白みに欠
を包み込むようなその穏やかな優しさ
が、一房の葡萄に込められているので
かいなじいさんの書く文章は、やはり
的で不確かな根拠と、夢遊病と言う、
そんな中、引っこした先の押し入れ
注ぐがそれもすぐにあきてしまい、半
物で、仕事に熱が入らず、遊びに力を
主人公の三郎はヒマをもて余した人
ある。だからこそ、その一房の葡萄は
やっかいだなあと思った。煙にまかれ、 けるような気が読んでいてした。
スッと置いていかれる。そんな風に感
どうとでもなりそうな設定にあるのだ
から、屋根裏の世界へ足を踏み入れた。
それは、顔、と言うあまりに、抽象
美しいのだ。最後にはその葡萄を、僕
善と悪全てを受け止めて、二人で分け
じた。随筆の中で人が生きている、フ
と思う。そもそも、創作の場で夢と噓
幼少期、押し入れは遊び場の一つで
とジムとで分けあう。先生の優しさを、 肩をすかされ、途中途中なにかを心に
あうのだ。それは一種の神聖な儀式で
ィルムが動いている、人々は青黒い顔
感じるからに違いないと思う。
と言う言葉に何とも言えない嫌悪感を
トの光で照らすだけで、一時間も二時
あった。あの暗い空間に、一条のライ
分死んだような生活を送っていた。
あり、また、子供の仲直りをよく表し
の活動写真とそれに軍歌をのせた動画
をしている。私は歴史が好きで、旅順
しかし、顔に関しては、最後まで読
してくれる明るい希望が、一房の葡萄
を数秒、見たことがある。人が人に見
ていると思う。弱い心を包み込み、正
にはあった。
179 |世界の名作に親しむ
◆幼い頃の夕暮れを思い出させるよう
過古
梶井基次郎
立っていると思う。外面、つまり﹁形﹂
◆人間は、内面と外面の二つから成り
形
菊池寛
はじめは読みにくいと思ってて頭で
武蔵野
国木田独歩
間も遊んだ。
押し入れだけでもテンションが上が
な小説だと思った。懐かしく切ない。
は人によって異なる。簡単に見えない
くらい読み進めていって目が慣れてく
イメージできなかった。でも5ページ
異様に思い入れがある。
そういう経験があるせいか、今作は
るのに更に屋根裏に行けるなんて、例
私は彼と同じく学校に通うため実家
から、大抵の場合、人は他人を判断す
内面と違って、形はすぐに見える。だ
がした。
短い話だったのになんか濃かった気
えるならハンバーグにエビフライが付
を出、一人暮らしを始めた。
﹁ 電報配
だ。しかし、作中での﹁形﹂は確かに
人間は中身がすべてだと考えていたの
が間違ったものだと決めつけていた。
この作品を読むまで、私はその見方
山。そんなセピア色にしても埃っぽす
に行った田舎の親戚の家、田んぼ、川、
はないに等しいなかで小さい頃夏休み
都会っ子の私が自然と触れ合う機会
ると脳内でブワッと緑が浮かんできた。
親元を離れてからというもの、父や
ぎる景色が次々に思い返されてきた。
る時に形を一番に見る。
母の偉大さや優しさ、思いやりを嫌と
新兵衛の一部を成している。しかも、
ただの自然の話なんだけど、すぐそ
帰る度、老いていく父母を見る恐怖を
いうほど感じる。実家に暮らしていた
私が大事だと思っていた内面は、形を
したリビングじゃなくて、そんな懐か
こに。私が今いるのが扇風機のつき出
がぎゅっとつかまれたように縮った。
そして三郎は、屋根裏の住人となり、 達夫が恐ろしかった﹂という一文に胸
いたようなものである。
人間の生態を観察し始めた。
一枚扉の向こうの人の行動が分かる
時に感じていた、うっとうしさやわず
他人と深く関わり合うことを前提に
らわしさはどこにいってしまったのか、 貸してしまったせいで死に至るのだ。
りたいという気持ちが加速してしまっ
そしてこの小説を読んで、実家に帰
まず出会う瞬間のことを考えると、形
すれば、形より内面が大事だ。だが、
癒されてしまったのだ。
しい場所のように感じられ、おまけに
やっぱり田舎のマイナスイオンはい
のほうに重きが置かれる。
︵坂本桃歌︶
いものだよなぁ。ああ、田舎に泊まり
その差を必要以上に広げてはならない。 たい。
内面と形に差があるのは当然だが、
まで帰る決意をしてしまいそうになる
形に対する他者の反応に気をとられ、
帰ることを決意するように、危うく私
た。彼が最後、急行に乗り両親の元に
不思議で仕方がない。
というのは、何ともゆかいな話である。 思い出したのだ。
そして三郎は、一計を案じ、住人の
一人を殺してしまう。
ここから先は明智の名推理がさえる
のだが省略させていただく。
明智の推理法といえば、シャーロッ
クホームズ流の物証ではなく、人間の
心証に重きを置く。
その推理法は、後に金田一耕助が受
けついだ。
今の子供達は、屋根裏を知っている
ほどだ。短い文章であるけれど、それ
自分自身ですら内面と形を混同してし
のだろうか。
あの暗くも妖しい魅力があふれる、
ほどの威力を孕んでいた。
︵合田温実︶
◆私は坂口安吾については名前しか
白痴/いずこへ
坂口安吾
︵澁谷航︶
あの屋根裏を。
︵増永香菜子︶
まってはならないというのが、この作
品の教訓だと思う。
聞いたことがなく、作品は読んだこと
文藝 14 | 180
ない主人公と、周りの華やかさを持っ
ながまたどっと笑った。おとう様も笑
現代でも屈辱としては十分だ。
がなかった。この度初めて
﹃いずこへ﹄
そして発狂して森の中へ姿を消す。
想像できたであろうか。そして草を隔
そこで虎になると、こんな展開、誰が
まったのでようやくほっと息をつい
てて同輩であった袁
いながら﹃おとなしくさえすればしか
た。
﹂と言う場面はとても面白い場面
そこで妻子を捨て、詩に明け暮れた自
りはしない﹄といって二階へいってし
た気分です。蠣太と小江のその後がと
だ と 思 っ た。 銀 の 匙 の 前 編 と 後 編 で
にとっては相当な苦痛なのではないだ
分を笑えと言う。プライドの高い李徴
た人との対比が鮮やかで、
﹁ やっぱり
ても気になりました。
の﹁私﹂は、ずいぶん変わっているよ
人間は容姿より人柄だな﹂と再確認し
難であった。
﹁小僧の神様﹂は、ほんの少しの認識
うに思われるが、その本質的な性格の
た通り、私の頭では理解することが困
﹃いずこへ﹄の中心人物となっている
違いで、少しイレギュラーなだけであ
を読むことになったのだが、思ってい
﹁ 私 ﹂は、いわゆる生活必需品に当た
った事が神からの恩寵になってしまう
ぼしてしまいました。主人公は、きっ
女性に対しても不必要だと考えている、 というまさかの展開に、つい笑みをこ
﹁私﹂にとって伯母さんはいつまでも、
ろは変わっていないと思った。また、
美しいものを愛し、繊細で内気なとこ
というか自業自得というか、同情し難
後遂に虎になってしまった李徴。哀れ
ていく様がハッキリと分かった。その
ている。これは李徴の心に虎が侵食し
ろうか。更に途中から一人称が変わっ
と話を交わす。
れに加え、自分によくしてくれている
る物を所有することを嫌っていた。そ
と寿司のおごり主のことを、本人のあ
在り続けるのだろうと思った。
なつかしい子供のときの思い出として
何事にも無関心な人間だと伺える。
私はこの作品が何を伝えたいのか、
出を大切にしていくのでしょう。おご
︵堀竜馬︶
ずかり知らぬ所で神格化し、その思い
り主としてはたまったものじゃないの
で初めて読んだ。さすが中国を舞台と
◆私はこの作品を中学校の国語の授業
い作品だった。
りに解釈してみると、
﹁ 私 ﹂自身の生
きる意味に疑問を感じており、模索し
でしょうが、見ていてほほえましかっ
︵福田桃子︶
表面的な部分すら分からないが、私な
てはいるものの、一向に答えが出ない
中島敦
した話とあって、漢字を多用した漢文
読み終わった後の感想は表現し難かっ
みると、改めてその独特な構成と文章
たなかったが、こうして今読み返して
読んだ時こそそれくらいの印象しか持
︵大原和︶
たです。
︵富安祐太︶
山月記
になったり当時の自分はファンタジー
たことを思い出す。人間がいきなり虎
◆高校二年で初めてこの作品を読んで、 風の文章が特徴となっている。初めて
な生活と、その中での出会いと別れを
◆この本は、中勘助の少年時代の静か
に大いに驚かされた。
銀の匙
中勘助
ことに煩悶しているということではな
いだろうか。
志賀直哉
小僧の神様/城の崎にて
◆どの話も作者独特のワールドがでて
を読む気分で読んでいた。
私は、
﹁ おとう様はおじけている私
しい内容でもあった。己の才能を過信
しかし今になって読めばなかなか悲
感じることがない。これは漢文体の文
が、この作品はそうした﹁くどさ﹂を
いう印象を持たれてしまうことがある
漢文体の文章は多用するとくどいと
綴ったようなものだと思った。
を見ていつになく笑いながら豆 を紙
人を志していたにも拘わらず詩人にな
して様々なことを恐れた。そして、詩
いて味わい深かったのですが、
﹁ 赤西
に包んでくれて、
﹃ ここにいる人のな
蠣太﹂と﹁小僧の神様﹂にはぐっときま
した。
かでだれがいちばんこわい﹄といった
らず、昔見下していた同輩の下に就く。 章 を 序 盤 の 方 に 集 中 さ せ、 そ こ か ら
が持ちやすく、話もシンプルな中に奇
から正直におとう様を指さしたらみん
﹁赤西蠣太﹂の方は、主人公に親しみ
抜さがあって引きこまれました。さえ
181 |世界の名作に親しむ
きる活力を失う。そして、取って代わ
の執筆、それだけに生を見出だした。
︵猪川恵貴︶
てについて語っているように思えた。
も李徴と同じく作品づくりに狂い我を
先人達が証明しているように、作家は
そして、完成と共に、やることは無く
段々と日本風の文体に変化させている
えているわけだが、そこに違和感を生
概して精神を病んでしまうことが多い
なったというかのように、息を引き取
◆臆病な自尊心と、尊大な羞恥心。李
この二作は全くの別の話だが、深い
根底の部分では、同様に人の内情、全
むことなく見事に調和させているとこ
のである。それを作家としての幸せと
った。
めて読んだ時からこう思わずにはいら
徴の怯えはひどく私と似ていて、はじ
失ってしまう危険性を常に秘めている。 って、精神から繫がりを感じた歴史書
ろが、この作品の大きな魅力のひとつ
する考え方もあるかも知れないが、李
れ、虎に変貌していた。友の袁 に語
﹃山月記﹄の方は、李徴が己の才に
からだと思う。二つの文体を一挙に抱
なのである。
書くことすら出来ない体になって、失
れなかった。彼は、私なのかもしれな
徴のように世間に認められず、作品を
っているように、李徴は自分の傲慢を
い、と。
そして、獣としての狂気にのまれて
意のうちに死んでいくのはさすがに望
後悔し、虎になった今を嘆き悲しんで
いく主人公・李徴の心理描写もこの作
品の魅力として考えられるだろう。人
めないだろう。精神の腐敗と創作への
ことを何よりも恐れている。不必要な
いるくせに、それを知られ、失敗する
無駄な程に自尊心を高く抱えこんで
から虎へと身も心も変わっていってし
それぞれの人が 藤し、思い悩んだ
結果、友好を選び、書くことを選び、
いた。
欲求
李徴のように獣に成り果て
まう李徴の恐怖や怒りが比較表現など
両立させていかなければならないのか
ない為には、この二つのものをうまく
孤独を選んだ。そして、壁にぶつかり、 羞恥心が邪魔をするせいで、上手く誰
かと関わることができずにいる。己の
世間をうまく渡っていくことができず
痛もこの作品を彩るひとつの要素だ。
た。そして、人の心理について触れら
なく、現代文と同様に読むことが出来
その文章には読みづらさも、違和感も
◆漢文調で、滔々と流れる文章だが、
のように、漢への忠誠心を変えず、信
い結末になる中で、李陵の旧友、蘇武
描きだしていた。そして、彼らが悲し
ついて、三者三様、違う深慮を見事に
﹃山月記﹄も﹃李陵﹄も、人間の心情に
それは選んだ結果のこと。
る、自尊心と羞恥心を。
︵森川久瑠美︶
いきたいと思う。愚かな程に私を占め
虎を飼い慣らす為に、少しずつ捨てて
つけてやまない。私の内側に存在する
共通する二つの項目が、私を彼に惹き
みていない。低くみている。それでも
︵湯浅秀美︶
運命は良くも悪くも変化した。李陵は
一人虚しく詩の世界にすがりついてい
れた。
念を貫き通した結果、文中の、
﹃ しか
山月記/李陵
も知れない。
│
り、鬼気迫る彼の心情をリアルに感じ
の修飾のない素直な文体で描かれてお
取ることができるのだ。
また、李徴の詩に狂った危うさや、
る彼の様は、まさしく一匹孤独に行動
李陵は祖国への忠誠心と新たな匈奴
との友好の間で、揺れ動いていた。そ
し、天はやはり見ていたのだ﹄という
李徴は友を作っていればと後悔するが、 るが故に。
が他の動物でなく、虎に変身してしま
する虎の姿にも重なって見える。李徴
して、間違いで家族を殺され、漢に対
ように、漢へと帰ることが叶う、そう
早くに単于を殺しておけば良かったと、 能力の露呈することを、厭いすぎてい
ったのも何となくうなずける気がして
して疑惑を持ち、結局、漢へと戻るこ
いう想いの強さによる幸せがあること
不遜な性格のせいで味わった孤独と苦
くるのである。
とが出来なかった。
李徴とは異なり、私は己の力を高く
変化していく様を、スリリングかつ哀
この作品は、詩に狂った男が獣へと
しげな文章で描いたものであるが、獣
も教えてくれた。
司馬遷は罪人の李陵を弁護したばか
りに、浅間しい身と成り果て、己の生
になることはないにしろ、我々創作者
文藝 14 | 182
中野重治
村の家
うことを選んだのである。
彼は尚物書きとしての自らの運命に従
父に見切られることを承知した上で、
て汗水を垂らして働いている父に向か
いるのだ。それなのに、自分に代わっ
が、彼は父の援助で食いぶちを繫いで
それは、創作しない人間にとって時
き流すかも非常に重要になってくる。
う取り込んでいくか、またどの程度聞
と を し て い る ん だ、 と 諭 さ れ る こ と
に馬鹿馬鹿しく滑稽なものとさえ感じ
しかし、勉次の父の考えが間違って
もあるかも知れない。そうなった時、
って﹁私利私欲﹂とは、随分な言い草
◆私はこの中野重治著の作品を読んで、
いないというのもまた事実だ。子供が
勉次の創作者としての性、そして父
我々は人生において大きな選択をしな
られるかもしれない。何を無意味なこ
文章を書くことに伴う制約のようなも
相次いで病にかかり、死んでゆき、出
の静かなぶつかり合いがこの作品の醍
の労働従事者としての理念、その二つ
だと思った。
のを漠然と感じるようになった。ただ
費はますますかさんでいく。妻は教養
ければならない。他人の価値観に準じ
がなく家事をこなすしか能がない。そ
醐味であった。お互いに最も重要だと
て生きるか、創作者としての自分の価
意外と難しい。世間への体裁や生活す
るのに必要な活動により、時間や体力、 のような状況に更に勉次の逮捕事件が
信じているものが一致しないために、
無邪気に書きたいものを書くことは、
思想に多大な制約を受けるのが現実だ。 重なった。金銭的にも精神的にも限界
とせまられてもすぐには答えられない
値観を信じるか。どちらが正解なのか
だろう。
二人はどんどん憎しみ合うようになっ
価値観が違うただそれだけで、簡単に
しかし、その答えにぐっと近づくこ
が来た彼が、家庭を省みず自分の心の
他人の人間性や経験、更にはその人の
とは、今からでもできるはずだ。この
この作品の主人公、勉次もまた家族の
考えれば、勉次は家族のことを考え農
存在をも否定したくなってしまう。そ
に、創作生活と家族どちらをとるか、
業に専念すべきなのだろうと思った。
れが至極まっとうなことのように思え
は一概には言えない。私も勉次のよう
私は、父の懸命な説得さえ振り切り
しかしながら、勉次は父のこうした
てしまう。しかしこれは、現実の世界
文章を書き続けることを選んだ勉次の
態度を﹁ 私利私欲に駆り立てられた ﹂
大阪芸術大学という学舎で、自分独自
でもよく起こり得ることだと思った。
気持ちが、痛いほどよくわかった。何
てしまう。人はどうも自分の信念を他
の価値観を確立することができればい
至極まっとうなことだ。私も現実的に
かを創り出す人間にとって、その活動
と表現している。これについては私は
人に認めてもらえなければ、不安や怒
いと思う。そして人との触れ合いの中
赴くままに行動する勉次を責めるのは
権限を奪われることは、自らの存在そ
勉次の感覚に疑問を感じる。彼は文字
りに駆られる面倒な性を持っているよ
動の停止を命令された。
のものを否定されるのと同義だ。農家
を書くように定められた人間であるけ
でそれを変遷させながら、自分の納得
不幸や家庭環境に縛られ、父に創作活
の長男として生まれた運命に従え、と
うだ。
することが幸せだと信じている人間な
続けなければならないテーマだと思う。
我々人間が生きている限り永遠に悩み
︵湯浅秀美︶
のいく作品を作り出していきたいと思
の父は金をかせぎ、人間らしい生活を
れど、彼の父はそうではないのだ。彼
よりも更に原初的な部分に根付いた定
のだ。それを認めず、自分の価値観か
人の価値観に優劣などつけられないし、 夏目漱石
ならばどうすれば良いのか。これは
書くことは、農家の息子としてのそれ
父は言っているが、勉次にとって物を
めなのである。家系ではなく人間その
らしか父を理解しようとしない勉次の
う。
ものを拘束するものなのである。しか
て容易ではない。まして我々は創作者
それをお互いに分かち合うことはけし
◆﹃三四郎﹄は読み終えて、何故か切
三四郎
らの力で生活し、行ったことに対して
考え方は、少々とさかにきた。彼が自
だ。人の意見や批評を自分の作品にど
しこれを周りの人間に納得してもらう
全ての責任を負っているなら話は別だ
ことは並み技ではないから、私は勉次
の英断に対し賞賛を送りたいと思う。
183 |世界の名作に親しむ
のは、読者たちが各々持っている青春
︵石田千奈月︶
樋口一葉
ない気持ちになった。原因を考えてみ
きな共感を呼ぶと思う。 ︵児玉幸子︶
の甘ずっぱい思い出を呼び起こし、大
たけくらべ
める視線が、どこか悲しみを帯びてい
我が輩は猫である
◆今回私は、
﹁ たけくらべ ﹂を読みま
たが、作者である漱石の三四郎を見つ
◆とにかく迷亭のキャラクターが好き
した。
︵北田理紗子︶
次回は﹁にごりえ﹂を読もうかなと思
いました。
宮沢賢治
風の又三郎
でいうと高田純次みたような具合なの
た。美登利は将来、遊女になるという
信如という少年を中心にしたものでし
の描写であろう。学校に転校してきた、
この作品で特徴的なのは、やはり風
きだ。風の又三郎という作品にも、彼
◆私は、宮沢賢治の素朴な書き方が好
郎﹄に終始一貫して感じた。特に三四
かなあなどと考えた。他の登場人物も
運命を持っていて、信如は、自分の父
校の子は風の又三郎と呼び、面白がる。
三郎という不思議な子。その子を、学
人間の書き方や、話も﹃三四郎﹄で
るからかもしれない。
一番印象に残ったのは三四郎を見つめ
っても過言でなく、その適当さは、今
だった。迷亭見たさに読み進めたとい
郎が池のほとりで今まで感じたことが
個性が強く、堅苦しい作品だという先
通っていましたが、あることがきっか
を恥じていました。二人は同じ学校に
あらすじは、美登利という少女と、
それは、冒頭近くから結末まで﹃三四
る自然が﹁悲しさ﹂を帯びていること。
ない孤独を体験する場面だったり、母
はさまれる笑いに助けられ最後まで読
入観があったが、ところどころに差し
み終わることができた。だからなのか、 けでお互い話し掛けられなくなってし
は、三郎を風そのものとして書いてい
三郎が何かをすると、風も動く。賢治
の素朴な作風が、出ていると思う。
いながらも、その日のうちに長い手紙
からの手紙を読んでバカバカしいと思
⋮⋮それも﹁東京はあまり面白いとこ
まう。というところから話が始まりま
ろではない﹂と書いたものを送ったり。 猫のいう﹁ 気と見える人々も、心の
長い作品だからメモでもとってみよ
を小説にしたものでした。恋愛関係と
大人へと変化していく少年少女の心理
吉原を背景に書いたもので、子供から
心にして、当時の子供たちの生活を、
思う。
うに書いていることからも、私はそう
るシーンを、風のように現れ、去るよ
場するシーン、そして三郎が学校を去
るのだろう。それは、三郎が初めて登
する﹂という部分が印象深く感じられ
底を叩いてみると、どこか悲しい音が
うと、いつもならばしないことに取り
いうこともあり、私にとっては読みや
この本は、美登利と信如との恋を中
す。
だったりする。
そんな場面が淡々と書かれていること
うか、途中で挫折した。単語しか書か
組んでみたのだけれど、やはりといお
こんなに多様な言葉で表せるのかと、
んでもない一つの減少を表現するにも、
うなものを感じた。
ことが、とても悲しく思いました。私
風が喜ぶという表現など、多くの面白
﹁ マイナス三分刈 ﹂
﹁パナマ責め﹂とあ
た。
また、三四郎は﹁子供の様なよし子
すかったですが、少し長く思いました。 い表現があった。風がふくという、な
孤独な青年を描く作者の﹁ 眼差し ﹂
から子供扱いにされながら、少しもわ
れておらず今読み返してみてもあま
美登利は遊女になる運命を持っている
から滲み出る、やるせない切なさのよ
が自尊心﹂が傷つかず、よし子と二人
り要領を得ないが、
﹁マイナス一分刈﹂
胸の奥に風が入り込むという表現や、
でいても、どうしても異性に近付いて
﹁ 得られる感じではない ﹂が、美禰子
感嘆させられた。
︵大石雄也︶
だったら嫌だなと自分を美登利と重ね
樋口一葉の作品はたくさんあるので、
合わせて読んでいました。
る。たぶんその箇所をおもしろいと思
出せないので、読み返す日も近そうだ。
幸せになれるような気がした。しかし、 ったのだろうが、どんなだったか思い
よりも、よし子に想いを寄せたほうが
それでも美禰子を好きになってしまう
文藝 14 | 184
とがあるという話を、何かの授業で聞
◆情と書いて、こころと読んでいたこ
友情
武者小路実篤
のデリケートな哀歓がしみじみと表さ
◆日常を坦々と描きながら、青春の日
或る少女の死まで
室生犀星
売れない貧しさの中で、出会った純
れていた。
粋そのものの女の子に、
﹁ 私 ﹂は安ら
いたことがある。友のこころとこの本
た。心が交錯している。恋や愛といっ
の題名を読みかえると、成程、と思っ
気持ちの整理がしたくて帰省している
ぎを覚え、借金取りを追い返してもら
時に、腸に病を得て亡くなってしまう。
たものが絡むと途端にうまくいかなく
友情にヒビを入れる存在であろう杉
こ の 小 説 は、
﹁ 私 ﹂が 女 の 子 の 悲 し
っていることなど、とても感謝してい
子にもまた、現代を感じて嘆息させら
い死に対して贈った、追悼の花束の様
なる友情は、数十年前も現代もかわっ
れる。自分を中心に、男二人の友情で
だ。
た。 し か し、 そ の 女 の 子 は、
﹁ 私 ﹂が
なく恋心を優先させる女の身勝手さ。
﹁私﹂が彼女と会うまで、酒の勢いで
ていない。
く、共感させて描いたこの作品は、所
人間関係の歪みを時を経ても読みやす
たことなど、辛かったことを綴り、彼
諍いに巻き込まれ、警察に捕まり、貧
女と会った以降のことの話が、大して
謂純文学の中で、私の本棚に唯一並ぶ
何度も読めば、他の考えが生まれる
貧しさは変わらないが、幸せの様に目
しいのに大金を払わないといけなかっ
だろうか。別の共感をさせてくれるだ
作品だ。
ろうか。読み終わったその時に再読を
感謝しているのかが伺える。そして、
﹁私﹂にとって、どれほどに女の子に
はじめるほどの衝動に駆られた作品に、 にはっきりと映った。
私は久しぶりに出会った。
︵森川久瑠美︶
物語の最後の悼詩に、
﹁私﹂の想いが、
︵猪川恵貴︶
単純だが深みのある言葉で、凝縮され
ていた。
185 |世界の名作に親しむ
2013 年度文芸学科
卒業制作リスト
阪井敏夫先生 石川 葵
私と北極星
島川 唯
詩人の恋
嶋本 澪
つながる物語
谷口由恵
ひみつのこい
中川六月美
邂逅サイレンサ
菱田和子
マイドキュメント
松田香織
現身
酒造怜子
小説
小説
小説
小説
短編集
橋本佳那子
作品集﹁ナナシの独白﹂
五本上直郁
パンデミック
喜多伸之
玉子焼き
出口逸平先生 川越星斗
小説
小説
シナリオ
小説
小説
太陽の死骸
小説
小説
谷崎 慎
シチューの中の魚・その他短編
小説
小説
小説
戯曲
長谷明日香
憑代貸し
大森慎也
ことばばば
柾木信太郎
小説
小説
物語はいつもハッピーエンドで
終わらない
矢野弘樹
自身の創作作品考察と文芸論
﹂
作品集﹁ first full length
大木貴生
落語集おとぎ落語
藤田江里華
論文
小説
ちょっと自転車で旅をしてみた。
エッセイ
落語集
小説
石田一樹
ただなんとなく
北 将之
横田恵美子
﹃二つの拙ない心は生る﹄
申明恵
渦
藤原 雪
縁を繋ぐ夏
福井淳哉
シナリオ
小説
小説
アニメシナリオ
小さい二杯の物語を
西岡陽子先生 池田美晴
夢蝕のオドミ
上野豪介
ヒトの逝くトコロ∼﹁死﹂とは
エッセイ
下田正博
紅い探偵さんと、山紫水明の蛟神
小説
峻天の向こう
田中雄大
小説
小説
小説
田中眞登
或いはK
山坂竜一
小説
夏休みの神さま。
長谷川郁夫先生 朝國祥史
天保山大観覧車
文芸 14 | 186
石田恵理奈
ふれたねつ
加登洋子
小説
詩集
散りゆくものと知りながら僕は
また恋をする
釘宮みのり
宮内勝典先生 騒々しく、抱いて
瀧章浩
小説
小説
小説
小幡綾子
欠落
谷ゆう子
URBANIROMACHISAYONARA
小説
山田兼士先生 岩崎優香
篠田桂子
論文
小説
私という現実の中にある空想
短編集
時の花
│歌詞から垣間見る時代│
エッセイ
回顧録
南野彩花
小説
銀細工とシュガーバター
松山美緒里
小説
樹胎
宮谷研輝
小説
小説
小説
小説
大学生の詩
須藤龍二
しるしるす
吉川直祈
キラキラするもの
柳井明子
詩集
詩集
小説
詩集
大丈夫であるように
布浦貴信
小説
詩集
詩集
小説
卒業の日に
小説
小説
sameko
長安香奈
レンズ
柳山慶介
檜原俳音
小説
遁走の先
本村沙也
論文
絵から見えてくる時代とファッ
ション
白鳥幸輔
仏
宮前祐貴
芽吹き
舛谷竜輝
カブトムシ
エッセイ
トルソーの瞳
吉本誠司
待と芽
吉川清貴
エッセイ
小説
エッセイ
泥の中の月
大森詩生
三平の力こぶ
櫻井浩平
通過儀礼
山口陽
高村 光
砂塔の残滓 高村光短編集 小説
前田彩衣
剥がす
篠原栄里
おひとりごと
石川 梓
顔
吉野かなみ
紅になりたる
化心│けしん│
髙藤陽平
187 |卒業制作リスト
る。近くの逸扇美術館とともに阪急
阪急宝塚線池田駅から歩いて十分、
静かな住宅街のなかに池田文庫があ
◉夏のある日
くり眺めていらっしゃる。向かいの
婦人は、戦前戦後の﹃歌劇﹄をゆっ
トにちょこちょこと手書き。隣の御
伎台本をパラパラめくっては、ノー
私は、擦り切れて判読しにくい歌舞
て、自分にも起きるかも﹂と心配し
﹁契約書を読まないせいで損するっ
生たちを確実にギョッとさせました。
さが痛ましいのですが、この話は学
続けている、というものです。愚か
料を含めた金額﹂を家賃として払い
しく延滞し、自覚のないまま﹁延滞
読めない﹂ばかりに、毎月、規則正
卒・共働き︶が﹁契約書をちゃんと
披露してみました。ある若夫婦︵高
そんな調子なので、今年、私は近
所の老獪な不動産屋から聞いた話を
します。
交渉にくるトンデモ学生が現れたり
惨です。そのうち受験せずに後から
てもらった。
号室はまだましだというので、試し
副手の方に相談すると、隣の506
フォーカスボタンを押してもだめ。
てしまうのだ。そして暗い。オート
うも調子が悪かった。原稿がぼやけ
く見えていい。先日、例の機械がど
て配置してあるので、学生の顔がよ
授業は 号館505号室で行って
いる。この教室の机は教壇に向かっ
は甚だ悪くなるだろう。
い。この機械がなければ授業の効率
をこれに映すと、学生もおなじ原稿
なければならないが。添削した原稿
な物を学生に見せないよう気をつけ
し出す機械を使って授業をしている。
グループ創業者小林一三ゆかりの建
大学院生とおぼしき女性は、目の前
たのです。そこで﹁試験準備なんて
いでしょうが、大阪芸大生ともなる
物で、宝塚歌劇・東宝関係はもちろ
にひろげた数冊の台本をとっかえひ
アパート賃貸契約書を読むのと大差
たしかに幾分よかった。そこで学
生に移動してもらったのだが、この
手の染みまできれいに映るから、変
ん、江戸時代の上方歌舞伎の台本・
っかえしながら、ノートパソコンに
ない。少しの時間、我慢してやるだ
と頑張る気配は希薄で採点作業は悲
番付・役者絵を大量に持つ。東京の
ひたすら入力。こうしてあっという
け﹂と畳みかけました。で、試験結
を見ているので、講評がわかりやす
早稲田大学演劇資料館や松竹大谷図
間に、一日が過ぎてゆく。
教員寸言録
書館に並ぶ、日本では珍しい演劇専
果に統計的有意な差が生じたか⋮⋮
準備不足で申し訳なく思った。
は不明です。
が、自分がどこに座ればいいのかよ
◉試験とアパート賃貸契約書
出口逸平
時点で十分は時間をロスしていて、
門の図書館だ。
資料はほとんど閉架で、事前にイ
ンターネットで蔵書検索し、電話で
私 が 担 当 す る﹁ 映 像 翻 訳 の 理 解 ﹂
は通年科目なので、前期末に試験を
◉なんという名前なのか知らないの
くわからなかった。ロの字の遠い辺
506号室はロの字に机が配置し
てある。ミーティング向きである。
なる。閲覧スペースは二十席ほどだ
課します。授業内容の簡単な復習で
だが、手元の原稿をスクリーンに映
宜野座菜央見
が、多くて五、六人。古典資料のコ
す。もちろん試験が好きな人は少な
去年もこの教室を使ったことがある
ピーや持ち出しはできない。だから
日時を予約してからうかがうことに
22
文藝 14 | 188
に座られると、顔もよく見えない。
月に一度ぐらい、文字通り、ボタン
うような意味です。私は実生活でも、
敵軍と対峙する塹壕の中で故郷から
そして大切な家族のため出征したが、
はり食道癌だった。三度目は鼻にで
後で判明した。二度目は五年前。や
そのポリープが癌化していることが
きた皮膚癌。そして今回が食道癌と
届いたのは,貧のため愛しい妹が身
売りしたという知らせ。
しい。いずれも初期に見つかり、簡
を掛け違えます。
私は大学で英文科に所属しました
が、劇文学という授業で目覚めて、
数 年 来、 ア ジ ア 各 地 に﹁ 昭 和 史 ﹂
を訪ねる旅を続けている。この夏に
しかし背に腹はかえられない。授
業を進めたのだが、なんだか505
英米の現代劇を勉強するようになり
かもしれない。また、机の配置と数
それと、実際はどうなのかわから
ないが、505号室より少し広いの
ないとでは、光の余韻がちがう。
ているのだが、それでも窓があると
のか、あるいはどうやってたたむの
広げてしまい、どうやって元に戻す
を掛け違えたまま、大きな風呂敷を
ようになりました。今現在、ボタン
いの時間をかけて映画館通いをする
いきました。枝分かれし、同じぐら
ードウェイ・ミュージカルとずれて
の小劇場、新劇以降の現代劇、ブロ
で見に出かけました。範囲が、関西
関西の小劇場を大阪、京都、神戸ま
亡き先輩記者の顔も思い出した。
材の大切さを力説してやまなかった
裡に蘇った。新聞記者時代、現場取
いた冒頭の川柳が思いもかけず、脳
校時代に覚えたが、すっかり忘れて
くられた坑道を歩いているうち、高
使うため岩盤を延々とくりぬいてつ
命を失った島だ。上陸用船艇発着に
しい戦火を交わし多数の若き兵士が
と台湾に拠る中華民国軍が何度も激
国本土を支配する中華人民共和国軍
太り出すのではないかと危惧しつつ。
ている。これではまた数年後、癌が
たせっせとエサをやり肥やしをまい
一ヶ月ほどでその禁を破り、今はま
術後、禁酒禁煙を断行した。けれど
く戒められた。その戒めに従い、手
をまいているようなもの﹂と、きつ
﹁タバ
今回の手術前、医師から、
コも酒も癌にエサをやって、肥やし
だと言える。
単な手術で済んだのが不幸中の幸い
号室にはない解放感がある。理由は
すぐにわかった。506号室は校舎
ました。読むだけでは飽き足らず、
次回から506号室で授業をする
と、副手の方に伝えた。
のおかげでもあるのだろう。
玄月
か悩み始めています。残り時間があ
胃癌。どうも癌になりやすい体質ら
例の機械を使うからカーテンを閉め
の端にあって、窓が二面あるのだ。
は台湾・金門島を初めて訪れた。中
◉広げた風呂敷をたたむ、という言
まりないので、どれもこれも中途半
に癌が見つかった。どちらもまだ初
◉六月の胃カメラの検診で食道と胃
たが、修験道の山里で美味しい水を
ました。初日は大雪に見舞われまし
フレッシュマンキャンプから始まり
◉四月の新学期は奈良県天川村への
高階杞一
葉があります。若い頃に、長い人生
端に終わる可能性が大です。それで
期だったので、何とか内視鏡での切
菅沼完夫
でしたいことの範囲をどんどん広げ
重政隆文
も楽しいから、まあいいか。
ろ手を出してきたことのまとめに入
ていき、いい年になったら、いろい
る、といったような意味です。また
◉塹壕で読む妹を売る手紙
飲んだり、芸能の神社に参ったり、
ボタンの掛け違い、という言葉もあ
味だった新入生も、徐々にお互いに
ーもいい思い出です。最初は緊張気
火おこしが大変でしたがバーベキュ
除で済むことになり、七月の半ば、
ります。最初にボタンの穴が一つず
れ、下の方まで気づかず、下まで行
手術を受けた。癌になるのはこれで
反軍思想の持ち主として逮捕され
獄死した反戦川柳作家,鶴彬︵ 1909- 四度目。一度目は十数年前。大腸ポ
︶の 作 品 だ。 お 国、 天 皇 陛 下、 リープの切除手術を受けたところ、
1938
くとボタンが一つ余っている、とい
189 |東山通信 教員寸言録
打ち解けていった様子で、履修アド
卵そうめん、金平糖も全てポルトガ
ズタルトです。長崎のカステラや鶏
ケイジャータは口当たりの軽いチー
の甘さが特徴です。プディン・フラ
たエッグタルトの原型で、優しい卵
ティス・デ・ナタは日本でも流行し
遅い夏休みにはポルトガルを訪れ、
スイーツを堪能してきました。パス
によく働いてくれました。
には休学校や廃校がかなり出るだろ
十分の一となった。おそらく十年後
や全入時代に突入して、浪人生は約
には三分の二に落ち込む。大学は今
第二次ベビーブームをピークに
十八歳人口は減少の一途で、十年後
る。
きな負担となってのことと考えられ
浪人生の減少と新課程への対応も大
いえ、三・四年早いかなと思ったが、
なった。二十数年来の既定路線とは
務縮小を発表して大きなニュースに
います。
福井慎二
るように創作的課題も与えようと思
ましたが、レトリックを使いこなせ
種類を見分ける小テストをやってき
るのも気掛かりです。レトリックの
喩を書けない学生が少し増加してい
与えていきたいと思います。また直
語り口・視点に関する実践的課題を
かを主眼にしています。今後描写・
なく、それらをどう文章で表現する
ーリー・キャラクターの作り方では
るのが目立ちます。この授業はスト
て語り口・表現をおろそかにしてい
◉これまで作家デビューしてきた何
も年のせいかも。
古江尚美
と最近思うようになりました。これ
も刺激があってなかなかおもしろい
すが、かなりずれている人と話すの
人と付き合うのは楽で、話も弾みま
いの常識が重なり合うところが多い
思っているのかもしれません。お互
相手も﹁この人常識がないなあ。
﹂と
てしまいます。そんなとき、たぶん
なこと常識でしょう?﹂などと思っ
﹁あの人は常識がない﹂とか、
﹁ そん
とですが、つい忘れて自分の基準で
ずれているのです。これは当然のこ
している人など存在しません。たと
ルからの伝来です。素朴でちょっと
う。
﹁わが母校﹂が﹁墓校﹂になって
◉最近、私が思っている﹁常識﹂と
人かの教え子たちに、いつも語って
小説の文体に変換するのを課してい
懐かしい味のケーキは、お砂糖の甘
しまう。
学生の﹁常識﹂とは、かなり異なる
いる言葉があります。
え家族でもその﹁常識﹂は少しずつ
さに慣れてくると病み付きになりま
まもなく六十周年を迎えようとす
る﹁わが大阪芸術大学﹂は、断じて
ものだということに気づかされるこ
い。ライバルなのだ﹂
﹁これからは、もう師弟関係ではな
ます。最近ストーリー作りに熱中し
す。
そ う な っ て は い け な い。 経 営 サ イ
とが増えました。というと、
﹁年を
かつて御三家と呼ばれた大手予備
校代々木ゼミナールが、大規模な業
J・K・ローリングが英語教師を
していたポルトでは、ハリー・ポッ
ド・教学・学生、全員一丸となって
取ったね﹂と一言で済まされそうで
バイスとお手伝い役の上級生も本当
ター映画の中で、魔法教科書販売店
切磋琢磨し、本学の歴史と伝統を成
ンはもっちりしたカスタードプリン、
のロケ地になったレロ書店を見学し
長発展させ、社会的使命を果さねば
ライバルである以上、わたしも書
きつづけます。まもなく長編小説の
ました。美しい螺旋階段とステンド
同じように感じることがあります。
連載が始まります。作家として総決
グラスが有名になり世界で三番目に
これは考えてみれば、何も驚くこと
算のつもりです。大阪芸術大学の教
すが、同年齢の人と話していても、
ではなく、当然のことです。人それ
え子から、未来のライバルが出現し
と、心に誓ったことでした。
◉﹁文章の様式﹂の授業の前期レポ
ぞれ環境も異なり、全く同じ経験を
林 省之介
ートで、課題文の内容を新聞記事・
美しい書店に選ばれ、木製の天井彫
団野恵美子
刻が教会の内部のようでした。
◉雑感
文藝 14 | 190
氏物語﹄ですが、
﹃源氏物語﹄を読め
授業をしています。私の専門は﹃源
代に伝えたい、という思いでいつも
◉古典文学の面白さを確かに次の世
宮内勝典
朔太郎︽宿命︾論﹄を刊行しました。
年︵二〇一四年︶七月四日には﹃萩原
野﹄も予定通り七月四日に刊行。今
れば︶
。 次 に、 私 の 第 三 詩 集﹃ 羽 曳
れていません︵近いうちに書かなけ
写真とのコラボ︶を刊行したのです
まず、昨年︵二〇一三年五月︶本
ば読むほど、紫式部という作家の人
三十年近い年月をかけて断続的に書
てくる日を楽しみにしています。卒
間観察眼の確かさを、私はますます
いてきた論考を集成した一冊です。
業してからさらに十年、本気で書き
強く信頼していきます。紫式部に限
以上、いずれも澪標刊。
誌 で 予 告 し た﹃ 高 階 杞 一 論 詩 の
未 来 へ ﹄は 予 定 通 り 六 月 一 日 に 刊
らず、清少納言、吉田兼好など、古
つづけられるどうか、そこにすべて
典文学の作家の観察眼の確かさは全
もう一つ、予告していたボードレ
ール﹃パリの憂愁﹄全訳本は未刊行
行。その高階さんはこの春、第十三
幅の信頼を寄せるに足るものです。
のままです。どうしても依頼原稿を
が懸かっています。いつか、ライバ
ぜひ学生のみなさんにも、現代人の
優先せざるを得ないので、急がない
詩 集﹃ 千 鶴 さ ん の 脚 ﹄
︵四元康祐の
人生の味わいを必ず深める古典の真
ものは後回しになる、という言い訳
ルとして再会しよう。
価を知っていただきたいと思います。
回こそ予告を実現できるように、こ
もそろそろ通用しないかな、と。今
こに書き添える次第。
山田兼士
が、 こ の 詩 集 に つ い て 拙 著 で は 触
千年間読み継がれてきた作品世界は、
藪 葉子
それは壮大です。
◉新刊近刊三冊ご報告
昨年に続き、新刊書の案内をさせ
ていただきます。
191 |東山通信 教員寸言録
月 日︵月︶
月 日︵木︶
文芸学科歓送迎会
高 階 杞 一 先 生﹃ 早 く 家 へ 帰 り た
履修制限科目の仮登録︵∼4日ま
で︶
い﹄
︵夏葉社︶発行
月 日︵水︶
長谷川郁夫先生より﹃エディター
シップ vol.2
﹄寄贈
月 日︵土︶
映像の翻訳演習で高橋澄先生が
月 日︵木︶
月 日︵日︶
創 刊 号 2 0 1 3﹄
︵深夜叢書
社︶寄贈
阪井敏夫先生より﹃ゼピュロス 6
月 日︵金︶
図 オ ー プ ン キ ャ ン パ ス 号 発
行
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル 白 地
生︶
験授業・活版印刷︵福江泰太先
第1回 オープンキャンパス 模 擬 授 業︵ 長 谷 川 郁 夫 先 生 ︶
、体
9
月 日︵火︶
月 日︵土︶
入学式
映像の翻訳演習で川又勝利先生
文芸学科新入生ガイダンスが行
日
が来校。
月 日︵水︶
われる。
月 日︵金︶
フレッシュマンキャンプ︵∼
まで︶
月 日︵土︶
来校。
月 日︵水︶
6
6
合研日誌
平成二十五年四月
∼二十六年三月
元田明子
正木優佳
文芸学科合同研究室
副手
山田七穂
暴風雨の為、午後から合研閉室。
月 日︵火︶
山田兼士先生﹃高階杞一論 詩の
未来へ﹄
︵澪標︶発行
通信教育部卒業生 岩根拓行さ
ん﹃ わ が 馬 よ、 語 れ!﹄
︵澪標︶
発行
創設者 塚本英世記念日
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル 白 地
図 月号発行
月 日︵土︶
月 日︵月︶
生が来校。
映像の翻訳演習で水谷美津夫先
6
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル 白 地
図 月号発行
月 日︵土︶
が来校。
映像の翻訳演習で川本燁子先生
月 日︵土︶
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル テ ロ
ップワークス
号発行
90
授業開始
月 日︵土︶
淡路島付近で地震発生。
映像の翻訳演習で鈴木吉昭先生
が来校。
月 日︵土︶
AO入学者の最終面談日
山田兼士先生・高階杞一先生﹃季
日ま
刊 び ー ぐ る 詩 の 海 へ ﹄
︵澪標︶発行
vol.19
月 日︵月︶
個 人 別 履 修 表 返 却 日︵∼
で︶
5
21
22
月 日︵木︶
芸術社︶寄贈
元・文芸学科教員 眉村卓先生よ
り﹃たそがれ・あやしげ﹄
︵出版
24
月 日︵火︶
健康診断
27
高 階 杞 一 先 生 よ り﹃ ガ ー ネ ッ ト
2
27
1
11
15
25
1
6
5
5
5
5
6
6
23
6
25
4
4
2
3
5
6
9
13
20
22
6
6
7
1
4
4
4
4
4
4
4
4
4
文藝 13 | 192
﹄
︵空とぶキリン社︶寄贈
Vol.70
月 日︵木︶
山田兼士先生・高階杞一先生﹃季
刊 び ー ぐ る 詩 の 海 へ ﹄
︵澪標︶発行
vol.20
月 日︵火︶
中沢けい先生より﹃法政文芸﹄寄
贈
月 日︵月︶
合研に新しい複合コピー機導入
月 日︵土︶
在校生 三浦かれんさん﹃なんち
ゃってヒーロー﹄
︵講談社︶発行
月 日︵金︶
東山だんじり︵秋祭り︶
︵∼ 日ま
月 日︵土︶
で︶
後期授業開始
月 日︵土︶
来校。
映像の翻訳演習で高橋澄先生が
月 日︵日︶
が来校。
映像の翻訳演習で川本燁子先生
19
山田兼士先生﹃詩集 羽曳野﹄
︵澪
標︶発行
月 日︵土︶
来校。
映像の翻訳演習で林完治先生が
月 日︵日︶
前期授業終了
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル 白 地
日ま
19
﹄
︵澪標︶発行
vol.21
月 日︵木︶
刊 び ー ぐ る 詩 の 海 へ 山田兼士先生・高階杞一先生﹃季
20
月 日︵月︶
第
月 日︵金︶
新聞にて記事掲載
葉山郁夫︵阪井敏夫︶先生、毎日
月 日︵木︶
擬授業︵山田兼士先生︶
回 オ ー プ ン キ ャ ン パ ス 模
月 日︵火︶
宮内勝典先生、朝日新聞にて記事
掲載
月 日︵木︶
前期末試験︵・ 日∼ 日︶
日ま
期﹀
︵∼
10
10
月 日︵木︶
﹃文藝 ﹄納品
月 日︵日︶
第 回オープンキャンパス 模
擬授業︵長谷川郁夫先生、団野
恵美子先生︶
期﹀
︵∼
図
月号発行
月 日︵日︶
A O 入 学 試 験︿
で︶
月 日︵土︶
映像の翻訳演習で水谷美津夫先
生が来校。
月 日︵火︶
創立記念日
月 日︵水︶
蔵書点検︵∼ 日まで︶
月 日︵木︶
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル 白 地
図 月号発行
月 日︵金︶
月 日︵土︶
事掲載
宮内勝典先生、北海道新聞にて記
10
PL花火芸術
月 日︵水︶
A O 入 学 試 験︿
で︶
月 日︵木︶
日ま
元・ 文 芸 学 科 教 員 眉 村 卓 先 生
﹃職場、好きですか?﹄
︵双葉社︶
発行
月 日︵火︶
お 盆 休 み︵ 合 研 閉 室 ︶
︵∼
23
月 日︵月︶
第 回オープンキャンパス 模
擬授業︵スペシャルゲスト・玄
月先生︶
月 日︵木︶
阪井敏夫先生より﹃藤枝文学舎ニ
ュース 号﹄
︵藤枝文学舎︶寄
贈
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル 白 地
で︶
月 日︵土︶
2
24
25
月 日︵土︶
が来校。
映像の翻訳演習で鈴木吉昭先生
26
月 日︵日︶
大学祭準備日
2
大学祭︵∼ 日まで︶
3
9
10
10
15
6
元・ 文 芸 学 科 教 員 眉 村 卓 先 生
﹃自殺卵﹄
︵出版芸術社︶発行
学 生 有 志 企 画 団 体 本 の 虫。
﹃ あ な た に 贈 る。 本 の 虫 ツ ア
4
図 月号発行
月 日︵土︶
映像の翻訳演習で川又勝利先生
10
29
10
11
11
4
9
9
9
3
1
19
20
22
5
15
16
17
が来校。
月 日︵月︶
193 |合研日誌
26
7
9
8
18
10
10
10
10
7
8
8
18
8
9
14
7
7
9
23
29
30
1
7
11
13
20
82
8
13
7
8
4
6
11
14
2
15
3
18
20
22
8
7
7
7
7
7
7
7
7
ー 本の虫。観光ガイド﹄発
行
月 日︵火︶
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル 白 地
図 月号発行
月 日︵木︶
卒業制作提出日︵∼ 日まで︶
月 日︵金︶
月 日︵土︶
後期授業打ち切り
年
2013
大学祭片付日
月 日︵日︶
推薦・編入学試験
月 日︵金︶
阪井敏夫先生より﹃樹林 月号﹄
︵葦書房︶寄贈
長谷川郁夫先生﹃知命と成熟 のレクイエム﹄
︵白水社︶発行
月 日︵木︶
福 江 泰 太 先 生 よ り﹃ 上 野 壮 夫 全
月 日︵土︶
映像の翻訳演習で神田直美先生
集﹄ 巻∼ 巻︵図書新聞︶寄贈
後期授業再開
月 日︵土︶
日ま
映像の翻訳演習で鈴木吉昭先生
が来校。
月 日︵土︶
で︶
大学入試センター試験︵∼
月 日︵月︶
﹁映像翻訳の理解﹂特別講義︵活
動弁士 片岡一郎さん︶
山田兼士先生・高階杞一先生﹃季
刊 び ー ぐ る 詩 の 海 へ ﹄
︵澪標︶発行
vol.22
月 日︵木︶
卒業制作グランプリ会議で各賞
受賞者が決まる。
月 日︵金︶
フ リ ー ペ ー パ ー サ ー ク ル 白 地
グラム 来校日
月 日︵金︶
卒業生 加納由将さんの詩集﹃夢
見の丘へ﹄
︵思潮社︶発行
月 日︵日︶
事掲載
奥本大三郎先生、毎日新聞にて記
月 日︵火︶
回AO入学前事前教育プロ
月 日︵木︶
される。
聞﹁詩月評﹂コーナーにて紹介
第
庫 第六集﹄納品
月 日︵金︶
玄月先生、毎日新聞にて記事掲載
月 日︵土︶
元・ 文 芸 学 科 教 員 眉 村 卓 先 生
﹃発想力獲得食﹄
︵双葉社︶発行
月 日︵火︶
福江泰太先生﹁エディトリアル演
習Ⅱ﹂の学生制作雑誌﹃芸大び
より vol.6
﹄納品
月 日︵土︶
回AO入学前事前教育プロ
第
月 日︵土︶
卒業制作作品集 納品
月 日︵木︶
いしいしんじさん特別講義
月 日︵土︶
中沢けい先生﹃動物園の王子﹄
︵新
潮社︶発行
月 日︵土︶
映像の翻訳演習で水谷美津夫先
生が来校。
月 日︵木︶
﹁文芸と創作Ⅱ﹂ガイダンス
月 日︵日︶
3
号﹄
︵澪標︶発行
山田兼士先生﹃別冊 詩の発見 謝恩会
卒業式
22
文芸学科在校生ガイダンス
月 日︵月︶
31 13
の学生制作雑誌﹃藝大我樂多文
3
22
3
14
15
18
2
月 日︵火︶
2
19
2
2
7
11
18
20
2
2
1
1
30
7
12
15
1
28
社︶発行
12
長 谷 川 郁 夫 先 生﹁ 文 芸 と 創 作 Ⅲ ﹂
月 日︵月︶
後期授業終了
グラム 来校日
月 日︵月︶
卒業生 加納由将さんの詩集﹃夢
見の丘へ﹄
︵思潮社︶が、読売新
図 月号発行
月 日︵土︶
2
3
20
が来校。
28
16
18
23
24
1
合研閉室︵∼ 月 日まで︶
月 日︵金︶
1
3
1
25
21
6
1
20
21 12
26
元・ 文 芸 学 科 教 員 眉 村 卓 先 生
﹃こんにちは、花子さん﹄
︵ 双葉
月 日︵日︶
3
1
27
12
1
1
19
12
12
27
1
3
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1
!!
5
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11
11
11
11
11
11
11
12
12
12
文藝 13 | 194
﹂をお届けします。刊行
版・編集について学ぶゼミがある大
阪芸術大学文芸学科の強味であると、
﹁文藝
が大幅に遅延して、関係者各位にご
あらためて認識させられました。
学科前年度一年間の活動の一端を報
本誌は学科内機関誌として、文芸
れました。掲載を快諾くださったい
深い話に、多くの学生が惹きつけら
講義は、新しい時代の表現者の興味
巻頭のいしいしんじ氏による特別
告するものです。制作にあたっては、
︵長谷川︶
しい氏に御礼を申し上げます。
協 力 を 得 る こ と が で き ま し た。 出
学生、ことに三、四回生のゼミ生の
申し上げます。
迷惑をおかけしました。深くお詫び
14
文藝14 (年一回発行・第 4 号)
2014 年 11 月 30 日発行
発行 大阪芸術大学文芸学科
〒 585-8555
大阪府南河内郡河南町東山 469
TEL: 0721-93-3781
編集・制作 長谷川郁夫
印刷・製本 (有)あつみ印刷所
196
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