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基督教研究
第67巻
第1号
高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
The Social Role of the Church in an Aging Society:
A case study of a Japanese church in the United States
西 村
篤
Atsushi Nishimura
キーワード
二世、新一世、高齢化社会、高齢社会、日本語を母国語とする高齢者、日語部、スピ
リチャル・ケアー
KEY WORDS
Nisei, Shin-Issei, Aging Society, Aged Society, Aging people whose primary language is
Japanese, Japanese-language congregation, Spiritual Care
要旨
この小論は教会が高齢社会において如何なる社会的役割を担うことができるかを
察するものである。ここでは現在高齢化を迎えているサンフランシスコ日系社会と、
その中にある一日系教会の実際の試みを通して、教会の担うべき役割を具体的に明ら
かにする。中でも日本語を母国語とする高齢者に焦点を当てることによって、これら
決定的少数者の高齢者たちが如何なる問題を抱え、教会が具体的にどのような牧会的
配慮および宣教活動を通してこの問題に立ち向かうことができるのかを明確にし、高
齢社会における教会の社会的役割の必要性と可能性を示すものである。
SUMMARY
This analysis is an attempt to see what social responsibility a church is able to carry
in an aging society. The case presented is of a Japanese-language congregation in San
Francisco and its attempt to reach people, whose primary language is Japanese, in their
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
aging process. There are definite problems unique to these minority people and their
specific needs for spiritual care and pastoral service. The mission of the Church as a
serving body and the task of Christians to provide effective services to the aged are
discussed.
1
1−1.問題提起:サンフランシスコ・ベイエリアにおける日本語を母国語とする高
齢者の実態
米国において日本語を母国語とする 高齢者の過酷な現状はあまり知られていない。
しかし、米国の日系教会にあって日本語牧師という職務に従事するならば、その過酷
な現実を見過ごすことはできない。ある日本語を母国語とする独居高齢者は手術後に
体調を急変させ、英語での限られた意思疎通しかできずに孤独死に陥った。またある
高齢者は身体的な痛みの中にあって母国語である日本語での訴えが家族にすら理解さ
れず、死の際まで孤独と戦っていた。また米国に親族や身寄りがなく、日々老化して
いく体と病の不安におののきながら、細々と過ごす日本語を母国語とする独居高齢者
がいる。高齢の故に英語の言語能力が衰え、身体の変調を感じながらも病院に行くこ
とを躊躇し、病気を我慢してしまう高齢者がいる。設備の整った大きな高齢者施設に
入ったにもかかわらず、提供されるアメリカンスタイルの食事がどうしても口に合わ
ず、毎晩お
菜を日本料理店で買い込み、一人で部屋の中で食す高齢者がいる。家族
の薦めで入った高齢者施設だったが、入居者の中で日本語を母国語とするのは自
だ
けで、多くのヘルパーがなんとか意思疎通を試みたが、日に日に部屋に閉じこもり外
界との接触を避けるようになった高齢者がいる。
以上の様な米国サンフランシスコにあって日本語を母国語とする高齢者らの厳しい
現実は、ある特定の珍しい事例では決してない。この背景には高齢化している日系社
会とその中で決定的少数者となっている日本語を母国語とする高齢者の現状がある。
1990年の米国国勢調査(1990 Census of Population, CP-1-1, Bureau of the Census,
U.S. Department of Commerce)によって明らかとなった米国内に在住するアジア諸
国(中華人民共和国・日本・フィリピン共和国・大韓民国・インドネシア共和国・ベ
トナム社会主義共和国・カンボジア王国・タイ王国・パキスタン・イスラム共和国・
ラオス人民共和国)の人種別の人口調査によれば、日系社会がこの12カ国の中で55歳
以上および65歳以上の人口比率がいずれとも、最も高い数値を示していることが目に
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つく。日本に次いで二番目に高い数値を示した中国系アメリカ人ですら55歳以上の人
口比率が15.7%で65歳以上が8.1%なのに対し、日系アメリカ人は55歳以上が24.9%
で、65歳以上が12.5%である。これはアフリカ系アメリカ人の15%と8.4%に比べて
も、ヒスパニック系の10.5%と5.2%に比べても、きわめて高い数値を示しているこ
とがわかる。これは米国社会の中で日系社会が極端な高齢化を迎えていることを示し
ている。
これに加えて1996年に U.S. National Institute of Aging が発表した「21世紀への世
界的高齢化」(Global Aging into the 21st Century)によれば1996年時点で全米の60歳
以上の人口比率が16.5%なのに対し2025年には24.6%にまで上昇し、1996年から2025
年までの60歳以上人口の上昇率(Percent increase in 60 and over population, 1996 to
2025)は88%になるという。この全米の推移を
慮し日系社会を
えると、日系社
会は移民の減少も伴い確実に超高齢社会にむかっていることが明確となってくる。
さて、この高齢化社会である日系社会の構成員である日本語を母国語とする人々に
関しては National Asian Pacific Center on Aging のジェフリー・ヤング(Jeffry J.
Young)とワシントン州立大学のニン・グ(Ning Gu)によって編集された「アジア
系および太平洋諸国系アメリカ人高齢者の人口統計学と社会経済的特徴」(Demographic and Socio-economic Characteristics of Elderly Asian and Pacific Island Americans)が大変興味深い資料を提供している。1990年における65歳以上の外国生まれ
のアジア系太平洋系アメリカ人の比率(Percent of Asian/Pacific Foreign Born 65
Years and Older, 1990)によれば65歳以上の日本生まれの高齢者は日系社会で17.2%
と目を引く。これは上記の12カ国の中で、中華人民共和国83.5%、フィリピン共和国
94.6%、大韓民国91.7%、インドネシア共和国97.2%、ベトナム社会主義共和国97.4
%、カンボジア王国97.8%、タイ王国97.2%、パキスタン・イスラム共和国95.9%、
ラオス人民共和国97.8%と日本以外の11カ国のほとんどが90%台を示すのに対して、
日本生まれの高齢者は日系社会の中ですら17.2%と少数であることを示している。
これらのデータから、米国社会の中で少数者である日系社会はアジア諸国系と比較
しても極端に高齢化した社会であり、その中でも日本語を母国語とする高齢者は日系
コミュニティーの中ですら少数であることがわかる。
つまり米国に在住する日本語を母国語とする多くの高齢者が先のような過酷さに直
面せざるえない背景には、現在の米国社会の中で日本語を母国語とする高齢者が決定
的少数で特異な存在である為に、これらの高齢者への十
な理解と配慮が提供できて
いないという社会の現状が浮き彫りにされるのである。
このように米国と日本の両国の狭間に存在するかのような決定的少数者としての日
本語を母国語とする米国在住者、加えて日系社会の中ですら少数者である高齢者は如
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何なる特異な痛みを抱えているのであろうか。その痛みに対して教会とその牧会者は
如何なる配慮を行うことが可能であろうか。先ずは対象となる高齢者の一般的な問題
を明らかにしながら明確にしてみたい。
1−2.高齢者の抱える一般的な問題
日本基督教団宣教研究所は1992年に4年半にわたる研究の結果として「老い・病・
死」と題しその成果を発表した。岸本和世氏はライフサイクルの最終段階としての老
いをどのように理解し位置づけるかを
察する中で、引用を用いて一般的な高齢者の
特徴を5点で示し、その5点中4点までが一般的な社会的価値としては「マイナス」
「負の体験」として捉えられることに高齢者の過酷さがあり、この価値評価だけが一
人歩きすると人生経験の豊かさという点さえプラス評価されないと述べた 。以下が
その5点である。
1)相対的に低所得。
2)相対的に有病者が多く、絶えず病気の心配がある。
3)定年退職後であり、配偶者、友人、知人が亡くなり孤独感が強い。
4)死に近づいており、死に至る病への恐怖感がある。
5)人生経験が豊富である。
上記の4点の高齢者の特徴に関し、Association of Professional Chaplains の元会長
でもあるハロルド・ネルソン(Harold R. Nelson)は「喪失体験」として5点の喪失
点をあげて説明している。
1)「関係の喪失」(Relational Losses)
2)「身体機能の喪失」(Physical Losses)
3)「精神の喪失」(Mental Losses)
4)「物理的な喪失」(Material Losses)
5)「スピリチャルな喪失」 (Spiritual Losses)
この高齢者の一般的な特徴として示された5点中の4点と、高齢期の喪失体験とし
て示された5点中の4点を重ね合わせることができる。確かに高齢期は加齢に加え、
病や怪我で身体的機能を非可逆的に喪失していく体験(Physical Losses)を避けては
通れないであろう。また退職し年金生活者となり収入が減額することもある意味では
喪失体験(Material Losses)と言えるし、高齢期には友人や知人また時には人生の大
半を一緒に伴走した配偶者を失うという、決定的な喪失体験(Relational Losses)も
あるだろう。そしてこれらすべての喪失体験を避けて通ることができない老化とその
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先にある死への恐怖(Mental Losses)が高齢期にはある。このように「高齢期」は
「喪失体験期」なのである。これらいずれかの喪失体験に起因して、ネルソンが定義
している「スピリチャルな喪失体験」(Spiritual Losses)が生じるのである。このス
ピリチャルな喪失体験は「意味の喪失」(Loss of Meaning) によって誘発されると
ころに高齢期の過酷さがある。人は誰しもかけがえない存在を喪失するとき、またそ
れが不条理であればあるほど、その喪失は深い痛みとなり、「意味の危機」(Crisis of
Meaning) を起こさせる。この危機をスピリチャルな喪失と定義したネルソンによれ
ば、これは「生きる意味の喪失」であり「希望を見いだせない状態」であり「愛を感
じられない」「何も信じられなく孤独な状態」で「自己尊厳をも失う」状況と説明し
ている。このような激しい痛みが高齢期の一般的問題なのである。この「意味の危
機」からの解放は、「グリーフ・ワーク」(Grief work)などの作業を通して、この喪
失体験を含めた「新たな意味の構築」によって行われるという。米国セントポールの
ルター神学
教授のキンブル(Melvin A Kimble)は「この作業を行うことこそが、
まさに牧会的配慮(Pastoral Care)なのである」という 。例えば高齢になり、かけ
がえない友人を失ったとしよう。この友人を失った体験は、友情が深ければ深いほど
またその死が不条理であればあるほど大きな喪失体験となり、激しい悲しみと痛みを
生じさせる。そしてその喪失は同時に意味の喪失の痛みを誘発するのである。不条理
な出来事の中で悲しみと同時に怒りがわき上がり「なぜ彼が死ななければならないの
か」という言葉が出てくる。この「なぜ」がスピリチャル・ペインの言葉なのであ
る 。この「なぜ」という問い自体が哲学的また宗教的問いであるから、それに対し
て科学的な原因の説明はここでは解答として満足を与えない。これが意味の危機であ
る。この意味の危機に介入するのが牧会的配慮(Pastoral Care)であり、スピリチャ
ル・ケアーのはじまりである。さて、ここで改めて確認すべきことは、これらの問題
が高齢者の一般的問題、つまり通常誰もが通過しなくてはならない体験であり、その
実態はかくも厳しい「喪失体験」であるということである。
1−3.サンフランシスコの日本語を母国語とする高齢者の抱える問題
以上のような高齢者の一般的な特徴とその問題をサンフランシスコ・ベイエリアに
在住する日本語を母国語とする高齢者に当てはめてみると、どのようになるであろう
か。そこからこれら高齢者の抱える問題の特異性が見えてくるであろう。先ずサンフ
ランシスコ市内の高齢者の状況をアジア太平洋高齢化研究センター(National Asian
Pacific Center on Aging)の国勢調査情報センター (Census Information Center)が提
供する2000年調査資料を用いて全体的に見ると、サンフランシスコ市内の日系社会の
中で65歳以上の人口比率が18.76%を示している 。これは国際連合が提示している高
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齢化率が7%を越えた社会である高齢化社会(Aging Society)と14%を越えた社会で
ある高齢社会(Aged Society)という定義に従えば、明らかに高齢社会に属している
ことになる。また全米の日系社会の65歳以上の人口比率が14.78%で、サンフランシ
スコ市内の高齢比率が4%近くこれを上回っている。これらのことから如何にサンフ
ランシスコ市内の日系社会が著しく高齢化しているかがわかる。
さてこのような日系社会の中にいる日本語を母国語とする高齢者たちにとって一般
的な高齢者の特徴はどのように関係してくるだろうか。
第一に相対的に低所得という点においては、サンフランシスコの日本語を母国語と
する高齢者の場合、特に全米でも上位を占める賃貸料高騰と物価高が直接的に高齢者
の生活にも打撃を与えていることを、サンフランシスコ日系新聞「日米タイムス」の
和田尚氏は指摘している。彼の報告によればサンフランシスコ市内のスキルド・ナー
シング・ファシリティーに入るには月額六千ドルから八千ドル必要で、サンフランシ
スコ・ベイエリアの高齢者施設の問題の一つは高額な費用だという 。これは年金生
活者である高齢者にとっては大きな不安材料となっている。
第二に「相対的に有病者が多く、絶えず病気の心配がある」という点はサンフラン
シスコの日本語を母国語とする高齢者にも共通して言えるが、2004年に行ったソーシ
ャルワーカーたちへのインタビューを通して明らかにされたことは、米国の保険制度
による医療費の高騰という理由に加え、日本語を母国語とする高齢者たちには、その
病状を十
に第二外国語である英語で説明できないという不安から、体調の変調を感
じながらも医療施設に行くことを躊躇してしまう傾向があるということである。これ
は「病気の心配」がこの環境において
に増幅されているという現実を明らかにして
いる。
第三に「配偶者、友人、知人が亡くなり孤独感が強い」という点では、母国語を日
本語とする高齢者は
に深い孤独感を味わっている。先のデータによれば、これらの
高齢者が住んでいる社会は、同じ日系人社会でありながら日本語を話せる者が10人中
に1人もしくは2人いるかいないかの社会である。そのごく少数の中で共有してきた
苦労や喜びを かち合える同胞がいなくなる体験は、時として自己を支えてきた支柱
を失うような大きな喪失体験となるのである。またその喪失体験は同時に、今まで気
兼ねなく許された数少ない母国語での会話の機会も奪われることを意味する。これら
の理由から日本語を母国語とするこれらの高齢者らは
に深い喪失を体験していると
言える。
第四に「死に近づいており、死に至る病への恐怖感がある」という点は、サンフラ
ンシスコに在住する日本語を母国語とする高齢者にも適用されよう。ハイムズ、ホー
ガン、エッジビーン(C. L. Himes, D. P. Hogan & D. J. Eggebeen)が1996年に示し
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た米国在住のアジア諸国の家族構成のデータによれば 日系社会は、中国、韓国、南
アジア諸国などと比べても60歳以上で一人暮らしをしている、いわゆる独居の人口比
率が16.8%とアジア人の中では一番高くなっている。確かに日系教会の日語部の現状
を見ても日本語を母国語とする独居高齢者が多く、中には米国に身寄りがいない高齢
者も少なからずいる。これらの高齢者にはこの恐怖感が増しているように思う。それ
は痴呆への恐怖であり、また病への恐怖でもあり、身体が不自由になることへの恐怖
であり、そして死後の葬儀から墓地の問題まで、不安は尽きないのである。身寄りの
ない者にとって高齢期はかくも厳しいものである。
以上の様にサンフランシスコ・ベイエリアに在住の日本語を母国語とする高齢者は、
一般的な高齢者の痛みに加えて、この環境に特有な孤独と痛みが加わり
に過酷な高
齢期をすごしている。著者はこれら日本語を母国語とする高齢者の抱えている痛みを、
一般的な問題に加えてこの環境から生じる二つの痛みを負っている点で「痛みの二重
性」と呼びたい。高齢者の一般的な問題に加えて、この特異な環境から生まれる痛み
の二重性はこれら日本語を母国語とする高齢者に多かれ少なかれ共通するものである
ことを牧会の現場を通して痛感しているのである。
次に、民族的少数者として米国サンフランシスコに在住する日本語を母国語とする
高齢者の抱えるこの二重性の痛みの根元を探り、問題点を明確にし、その問題にどの
ように対処していくことができるかについて、日系の高齢者施設でのインタビュー調
査を通して明確にしてみたい。そこから最終的には日系高齢社会にある教会の担うべ
き役割を明確にしたいのである。
2
2−1.高齢者施設を通しての具体的検証
言語的問題とその対応
「私から日本語を取ったら何も残らないのです。ここでは日本語でみんなと話しが
できて、日本のテレビが見られて、本当に有り難いです。このホームから一歩外にで
たら、もう私なんて大変ですから」
「ここはみんな日本語を話してくれます。本当に助かります。そして日本語の本も
日本語の新聞も日本語のテレビもあります。助かります」
「わたしはここの老人ホームが三つ目なんですが、ここは天国です。前のホームは
大きな老人ホームでしたが、日本語を話すのは私しかいませんでした。何十人も人が
いるのに日本語を話すのは私だけでした。大変でした。施設の人は話しかけてくれる
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
けど『アイラブユー』しかわかりませんでした。寂しかったです。ここは人数が少な
いし、施設長夫婦も日本語で話してくれます。お手伝いさんも日本語です。ここは天
国です」
これは日本語を母国語とする高齢者を受け入れるためにサンフランシスコ日本人町
に1983年に設立された「気持ちホーム」(入居者の90%以上は日本語を母国語とす
る )、および1995年よりサンフランシスコ・ベイエリアのマウンテンビューに設立
された「シャロームホーム」(入所者全員が日本語を母国語とする )において、
2004年、日本語を母国語とする高齢者に行ったインタビューでの言葉である。
「この
施設の中で日本語が
えることはあなたにとってどのような意味がありますか」とい
う質問に対し、すべての返答が「日本語が
えることは大変有り難い」というもので
あった。このことからも母国語での生活環境が、これら日本語を母国語とする高齢者
にとってどれだけ必要とされているかがわかる。
これらの理由から日本語を母国語とする高齢者の抱えるこの二重の痛みの根元の一
つを言語の問題に定め、この問題にどのように対処していくことができるかについて
サンフランシスコ・ベイエリアの日系高齢者施設の試みを
析し、これらの高齢者の
為に必要とされる教会の役割を見いだしていきたいと思う。
1990年の米国国勢調査を元にして制作された「アジア太平洋諸国系における65歳以
上の英語能力」(English-Speaking Ability of Asian/Pacific Persons 65 Years And
Older)によれば 、日系アメリカ人の中で英語をうまく話せない人が35.6%、英語
を全く話せない人(Linguistic Isolation)が18.5%となっている。これは中国、タイ、
韓国などのアジア諸国系と比べると低い数値であるが、米国全体でみると英語をうま
く話せない65歳以上の高齢者は5.8%、英語を全く話せない人が3.2%となっているの
で依然として圧倒的に高い数値である。この資料から、日本語を母国語とする高齢者
で日本語しか話せない人は米国社会でもまたアジア人社会でも日系社会でも決定的少
数であることがわかる。このことは例えば中国系アメリカ人社会と日系アメリカ人社
会を比較するとよくわかる。中国系アメリカ人社会には中国語しか話せない多数者の
ために教育施設(中国語のプリスクール)、医療施設(中国語の医者、中国語の施設)、
高齢者施設(中国語および中国文化を中心とした施設)などに母国語での対応が整え
られているのに対し、日系社会は日本語しか話せない人が絶対的少数であるため、こ
れらの人々への対処が十
に整えられていない。この結果としてこれら日本語しか話
せない高齢者は孤立しやすいのである。
さて、言語能力と加齢の関係でいえば、加齢による言語能力の低下が指摘できよう。
2004年、日系高齢者施設で日本語を母国語とする高齢者と共に10年以上働いているケ
アギバーへのインタビューによれば、日本語を母国語としながら第二外国語での生活
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に何の支障もきたさなかった語学力の持ち主(Bilingual)も、ほとんど確実に加齢と
共に母国語のみ(Monolingual)になっていくという。そこには二つの理由が見てと
れるという。一つには物忘れがひどくなったり、理解力が落ちたり、新しい単語を覚
えるのが困難になるといった「加齢による身体機能の老化現象」があげられる。しか
し実はそれ以上にこれらの高齢者の言語能力の低下理由には、加齢による行動範囲の
狭まりがあるという。例えば、英語のみで仕事をしていた人も退職後は英語の
用
度が減る。また米国人と結婚し日常会話を英語で行っていた者も配偶者を失うことに
よって英語の 用
度が減る。この英語の
用 度の減少によって第二言語能力が低
下するというのである。そしてこの第二外国語の能力の低下によってまた社会との接
点が減り孤独が深まっていくという悪循環を生み出してしまっているというのである。
この点では「シャロームホーム」の試みは興味深い。このホームでは職員も入居者
もこの施設に関わる者全員が日本語を用いる 。入居者6名のグループホームとも呼
べるこの施設では入居者全員が母国語で会話をする。入居者全員が集うダイニングル
ームでは日本語の衛星放送が放映され、さながら一つの日本語家族を構成している。
元牧師であり、これらの高齢者と共に一つ屋根の下で生活している施設長によれば、
このような疑似家族を構成する上でもっとも大きな役割を果たしているのがこの日本
語だという。つまりこの施設の共通語が日本語であることで、入居者たちは今までと
同じ生活が保証されるのである。夫婦間で、また家
内で日本語を
ってきた高齢者
にとって、日本語環境こそが「家」なのである。ここでいう家とは自
まま」でいることができる場所であり、安心でき、自
自身「ありの
を守ってくれる場所という意
味である。この「シャロームホーム」では時として夕食後に入居者どうしが日本語で
自
の思い出話を語り出し団欒がはじまるという。共通語としての母国語において初
めて語ることができる思いがあり、同じ言葉によって理解されているとの安心感が生
じているのではないかと職員は
析している。
この調査を通して日本語を母国語とする高齢者の抱えるこの二重の痛みの根元の一
部が明確となり、その社会のただ中にたつ教会の担うべき役割とそこでの配慮に大き
な示唆が与えられた。少なくともこれら高齢者への配慮を
えるときにこの母国語環
境が欠かせぬ重要点であることは明確となった。
2−2.高齢者施設を通しての具体的検証
文化的問題とその対応
サンフランシスコに本社を置く日系新聞「日米タイムス」の和田尚氏がサンフラン
シスコの高齢者施設のニーズを「ニッケイ新聞」の中で描いている。
米国の高齢者施設事情の中で日系人特有の問題は言葉と食事と言われる。サイプレスホ
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
ーム のプログラムディレクター、福泉正博さんによると、同施設を含めた日系の高齢者
施設の特徴は日本語と日本食ではないかという。サイプレスホームの入居者の中には、米
国人の運営する施設で、食事が合わなかった人や米国人とうまくコミュニケーションをす
ることができずに施設を移った人も少なくないという。(中略)日系コミュニティーでの
高齢者施設では自身の文化的背景を大切にした施策も取られており、最後まで自 らしく
生きようとする人たちと、決して暮らしにくくない生活がそこにはあった 。
上記の記事に従えば日系高齢者施設の重要な要素は日本食と日本語ということにな
るが、確かにサンフランシスコ・ベイエリアの日系高齢者施設でこの日本語環境と日
本食という日本文化を無視した施設は一つもない。如何にこの二つが日本語を母国語
とする高齢者にとって必要とされているものであるかがわかる。
著者は日本文化の代表として日常生活に直結している高齢者の食文化について2004
年にサンフランシスコ・ベイエリアの二つの日系高齢者施設と日本にある二つのキリ
スト教主義の高齢者施設においてインタビュー調査を行った。
この調査を通して興味深かった点の一つは、食文化を用いた配慮というものを目の
当たりにしたことである。サンフランシスコ「気持ちホーム」では入居者の体調が優
れないと個々の注文に応じて病中食を提供することになっている。その際、日本食を
好みとする日本語を母国語とする高齢者には「お粥」が多く求められ、米国生まれ米
国育ちの二世には「チキンスープ」が多く求められ、提供するという。著者はこのチ
キンスープとお粥という病中食の中に食文化における高齢者への配慮の要点が隠され
ていると
えるのである。文化的配慮を
慮した食事は痛んだ身体や、また疲労した
身体にはもちろんだが、同様に不安や孤独などの痛みを回復するための栄養となるの
である。日本語を母国語とする人たちが和食を「魂の食事(Soul Food)」と呼ぶのは、
この意味でまさにその通りなのである。本来、食事という営みは栄養摂取ということ
だけでなく、深く精神的、文化的な営みなのである。特に高齢者のように決して多く
の量を必要とするのではない場合、食事はその内容、または摂取方法の方が時に重要
であることが少なくない 。このように食事にも文化的配慮が与えられないと、これ
らの高齢者に入居前と入居後の生活に激しい亀裂を起こさせ、今までの自己に戻ろう
と不適応が生じることは容易に想像できるし、それは時に食事の拒否という異常事態
を招き、生命に関わる問題にすら発展してしまうかもしれない。文化を無視すると栄
養価の高い食事も孤独感を抱かせてしまうのである。サンフランシスコの「気持ちホ
ーム」、およびマウンテンビューの「シャロームホーム」ではこのような配慮から基
本的に和食を中心とした献立作りとなっていたし、日米両方の高齢者施設とも今まで
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の生活に極度な変化を与えないように、また何より栄養的にも熟
され配慮された食
事が提供されていた。
次に日本語を母国語とする高齢者にとって日本文化そのものがどのように関与して
いるかもインタビューによって調査を行った。「気持ちホーム」ではその
築物を見
てもすぐにわかるが、正面玄関には彼らの母国の言葉である日本語で「気持ちホー
ム」という看板が掲げられ、その入り口と中
しや灯篭などが設置されている。また
には「日本
園」が作られ、ししおど
には日本の草花が美しく植えられ、四季の変
化を感じられるように配慮されている。アメリカ文化圏においては奇妙にうつるこの
園も、日本文化によって育まれた日本語を母国語とする高齢者らにとっては極めて
身近なものであり、原風景であるのだろう。故郷の原風景に身を置いて暮らすことは、
これらの高齢者にとって安心感と落ち着きを与えていることがインタビュー調査を通
しても多数語られた。これは異文化の中での孤独感からの解放であり、入居者に有効
な配慮になっているようである。また他にも文化的な試みとして日本の花札や書道な
どのプログラムが毎週用意され、入居者から喜ばれていた。決定的少数者であるが故
に異文化の中で自
の文化を保ち続けることは甚だ難しい。しかしこのような日本文
化という米国社会にとってはユニークな文化をないがしろにすることなく、その文化
を認め、享受できる環境を提供するとき、これら日本語を母国語とし日本文化を馴染
みとする高齢者たちは自
の居場所を発見したような安心感を抱くことができるので
ある。「気持ちホーム」の試みはまさにそのような狙いをもって行われているのであ
る。
最後に日本文化の一環としての日本の音楽を用いた高齢者への配慮についても短く
言及しておきたい。音楽療法という言葉が最近身近な言葉になってきたが、これは元
来米国のミシガン州立大学が1949年に音楽療法学科を設立して始まったもので、現在
米国では米国音楽療法協会(American Music Therapy Association) などが活動の場
を広げている。音楽療法は「音楽を身体的、精神的、それに社会的にも
復増進などの治療目的のために
康の維持回
うこと」と定義され 、日本でも1996年に全日本音
楽療法連盟が設立され、その有益さが社会に認知されるようになってきた。さて、日
本語を母国語とする高齢者にとって自
の母国語で「歌う」という体験は一定のニー
ズに応じた有効なプログラムといえる。事実、日系施設のインタビュー調査によれば
サンフランシスコ・ベイエリアのいくつかの日系高齢者施設では、この音楽プログラ
ムが実践されおり、サンフランシスコ「気持ちホーム」では月に5回から6回用意さ
れ、多くの高齢者が喜んで参加している。この音楽プログラムは歌を聴くだけの受動
的なプログラムではなく、基本的に入居者が日本で生活していた頃に馴染みのある曲、
童謡や民謡などが中心に選曲され、歌にまつわる自
の体験などを話し、対話の中で
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
進められていく全員参加型のプログラムになるように配慮されている。日頃日本の歌
を聞く機会が皆無の米国社会にあって、この活動は日本の歌という日本文化の提供を
通して、記憶を活性化させ、また時には音楽を通して安らぎや慰めを与えるプログラ
ムとして有効に活用されている。
以上のような高齢者施設の提供するサービスを
析するときに、これら日本語を母
国語とする高齢者の抱える「二重の痛み」の根元が明確になった。米国社会で、また
アジア人社会で、そして日系社会ですら決定的な少数者であるが故に、彼らが言語的
にもまた食文化を中心とする文化的にも社会から孤立していることがこの痛みの根元
なのである。現在この食文化という点では寿司などが米国社会に定着し変化を見るこ
とができるにせよ、日本独特の精神性などは相変わらず米国社会で、また同じアジア
人社会の中でも、そして三世が中心となっていく日系社会の中ですら理解されない状
況である。これら高齢者にとって地域社会において絶対的少数者であるが故に生じる
言語的、文化的孤立が、高齢期において自
らしく過ごすことができない大きな痛み
となっているのである。
それではこのような高齢者によって構成される社会のただ中に存在する教会は如何
に教会の社会的役割を見いだし、これらのニーズに対して如何に具体的な配慮を行う
ことができるであろうか。教会の実際の試みを通して、高齢社会に存在する教会の高
齢者への配慮と宣教の可能性を明確にしてみたい。
3.牧会と宣教における一日系教会の高齢者への配慮と
社会的役割
はじめに
サンフランシスコのパイン合同メソジスト教会が1986年に編集した100周年記念文
集には下記のような文章がある。
全米日本人メソジスト教会の母体であるパインメソジスト教会は、正式には1886年に
立されました。しかしその起源は1870年代にさかのぼり、日本から米国に渡ってきた、向
学・求道の念に燃える青年を中心として聖書の研究、英語の勉強、また彼らのあらゆる意
味での集会所であった日本人福音会に端を発し、その後幾多の軋轢と 裂を経て日本人基
督教会が次々と生まれました。この最初のワシントンとストックトンストリートの中国人
伝道所の地下室を借用した福音会時代を 蔵時代と私たちの先輩は呼び、そこに一歩を歩
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基督教研究
第67巻
第1号
み出したのです 。
1886年に全米でもっとも古く日系人メソジスト教会として設立されたパイン合同メ
ソジスト教会はこの文章にもあるように設立当初から日本人が必要とした集会所とい
う社会的役割を持つ教会として
立された。1942年から1945年までの強制収容の3年
間、教会が閉鎖された期間があったが、
立120年を迎えようとする今日もサンフラ
ンシスコ日系社会のただ中にたち続けている 。教会員は二世を中心とする英語の会
衆と、新一世 および帰米二世 を中心とする日本語の会衆とに
けられ、日本語と
英語のフルタイム牧師がいる。それぞれに70歳以上の会員が中心で、高齢者への牧会
は牧師の中心的職務となっている。
また日本語を母国語とする日語部には身寄りが米国にいない単身者や未亡人、また
心身の不自由を訴える病床者などが少なからずいるが、各々の状況は様々で必要とさ
れる牧会も多岐に及ぶ。このスピリチャル・ケアーのニーズの多様性という点におい
てはモバーグ(David O. Moberg)はアレンとフィッシュ(Shelly Judith Allen and
Sharon Fish)の「すべてのスピリチャル・ニーズは『意味と目的』『愛と関係』『赦
し』の三
野に
けることができる」という説に、七つの具体的なニーズを加え、必
要とされるケアーは多岐に及ぶ点を指摘した 。この指摘は日本語を母国語とする高
齢者の現状を通しても正しく、各々の背景からこのニーズは多岐に及ぶことがわかる。
日本語を母国語とする高齢者に共通する日本語牧会とは先の日系高齢者へのインタ
ビュー調査を通した
析からも明らかなように、先ず母国語で表現できる環境を十
に保障し、各々が母国語で語る個人
を傾聴し受容することからはじまる。高齢者は
この保障された環境と関係性の中から初めて孤独の痛みや、寂しさ、不安といった本
音を語り出すことができるのである。すべての年代に対する牧会カウンセリングがそ
うであるように、先ずはこの痛みに心と耳を傾け傾聴し、丁寧に聞き取ることが最初
の課題となる 。そして牧会者はこの傾聴を通して如何にこの痛みに共感することが
できるかが問われてくる。なぜならば、この共感の有無に応じて信頼関係ができるか
できないかが決まってくるからである。もしこの信頼関係が崩れるならば、これらの
高齢者は本音を語ることをやめ、
に心を閉ざすことになるかもしれない。この共感
の必要要素として多民族社会のサンフランシスコでの牧会を通して明らかにされるこ
とがある。それはこれら高齢者への牧会的配慮を行う際に、牧会者もまた同じ文化を
共有している方が有効だということである。たとえば「恥」や「見栄」、
「遠慮」や
「我慢」などの日本文化独特の精神性を理解するにも、同じ文化を共有する牧者には
理解しやすいという利点がある 。このような深い信頼関係による対話の中から、高
齢期に起こる喪失体験に伴う「意味の喪失(Loss of Meaning)」と「スピリチャル・
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
ペイン(Spiritual Pain)」に対して、福音に根ざした「新たな意味の構築」へと導く
のがこれら高齢者のためのスピリチャル・ケアーなのである。これはまさにキンブル
が言う「洗練されたテクニックや円滑なプログラムによるのではなく、深い洞察力と
神の恵みに根ざした意味をさぐるべく対話をもってこれら高齢者の命の営みの中に有
効的に入り込む」ことによって行われるのである 。
さて、このようないわゆるスピリチャル・ケアーを担う牧会者がこれらの高齢者と
同じ母国語を用い文化を共有するだけでなく、これらの高齢者が抱える疎外感や孤独
という痛みや苦悩と共通する体験を持っているとするならばどうであろうか。それは
間違いなく大変有益に働くに違いない。なぜならば同じ体験は深い共感となって働き、
対話を深化させ、
に深い信頼関係が築かれ、スピリチャル・ケアーの基盤となるか
らである。この社会地域にある高齢者たちと同じ痛みを持つという点において、この
日本語を母国語とする会衆の社会的役割が見えてくる 。米国において日本語を母国
語とする高齢者の痛みは何も教会内だけのことではない。否、むしろそれ以上に教会
の外には
に多くの日本語を母国語とし、痛みを抱いている高齢者がいる。そして日
本語を母国語とする会衆は日本語を母国語とするが故の孤独感や疎外感という体験を
多かれ少なかれ持っている。この共通の痛みや不安を通して、この会衆にしかできな
い、この地域社会での高齢者に対してのケアーが可能となるのである。元来イエス・
キリストが十字架上の痛みを通して示された人類への大きな愛は、パウロが語った
「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」 共感への呼びかけであったし、イエ
スは痛みを通してその大きな愛を人類に示されたのである。それは隣人の痛みを共に
痛むことによって示される神の愛なのである。
ある日本語を母国語とする高齢者はこう語った。
「自
は母国を離れ米国という異文化の地にあって孤独に震える中で教会と出会っ
た。教会にいた日語部の方々が自
たちもそうだったと、優しく暖かく受け入れてく
ださった。私はその人たちを通して神の愛を知ったのです」
これは日本語を母国語とするが故に避けられなかった痛みや苦悩、いわゆる「負の
体験」が、神から与えられた恵みとして認識され、宣教に用いられた例である。同じ
痛みを持つ者への共感から彼らは神の愛を共同体として地域に証したのである。そし
てこの高齢者が語るように、同じ痛みを持つ教会共同体との出会いを通して、彼は神
の愛に触れたのである。これはまさに痛みを基盤とし、この痛みへのケアーを中心と
する宣教、「牧会的宣教」と呼べる。逆に、このような痛みを受けたことのない者に
とって、痛みを基盤とする宣教は理解されないことがある。これは日系教会内にも時
として見ることができる齟齬である。二世の中には日本語を母国語とするが故の一世
の親の痛みを直接的にまた間接的に知っているものが多く、概してこれら二世の人々
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基督教研究
第67巻
第1号
は同じ痛みを抱える者、つまり新一世に対して深く共感的態度で、教会をそれらの
人々の砦として用いることを歓迎する傾向がある。しかし他方、このような背景を全
く持たない、日本と直接的にも間接的にも関係を持たない米国生まれの米国育ちの会
衆の中には、この宣教がなかなか理解できない場合がある。
さて、このように「孤独の痛みへの配慮としての宣教」という点において、米国に
おいて日系教会、中でも特に日本語を母国語とする会衆にしかできない宣教が明確に
なる。圧倒的少数者であるが故に用いられ担うことのできる社会的役割としての宣教
がここに明らかにされる。これが現在、高齢日系社会のただ中にある教会の必要とさ
れている宣教の可能性なのである。事実パイン合同メソジスト教会日語部では二つの
プログラムを高齢社会の中で展開している。このプロジェクトは同じ日本語を話す高
齢者施設に出向き、これらの高齢者の話を聞きながら一緒に昔懐かしい日本の歌を歌
うというものである。これらの会衆と牧者が教会内だけの配慮にとどまらず、高齢社
会のただ中に出向くときに、同じ痛みをもった人々に出会い、またそこで深い共感を
もって神の愛を受肉させる宣教を担っていくのである。実際7年間の歴
の中で高齢
者の一定のニーズに応え、このプログラムは確実に地域に定着し、同じ日本語を母国
語とする他教派のキリスト者たちも集まって発展している。
このプログラムを通して確信するのは、痛みを同じくする者たちに課せられた牧会
的配慮は同時に同じ境遇にたつ者にしかできない宣教となるという点である。この宣
教の御業への参与の可能性を確信するときに、日本語を母国語とする高齢者らは宣教
に派遣されるのである。
このような神学的理解にたって、先ずは日本語を母国語とする高齢者への牧会的配
慮の実際をあげてみたいと思う。
3−1.教会 築物などの検証
先ずは日本語を母国語とするしないにかかわらず、また高齢者への配慮だけに限ら
ず、教会
築物が誰にとっても
いやすいものとなっているかどうかの検証が常に必
要とされる。具体的には、入場および移動に長い階段を
用しなくても良い構造とな
っているだろうか。また車椅子で入場、移動が容易にでき、トイレも車椅子で
用で
きるようになっているだろうか。加齢によって身体が不自由となった者が教会
築物
の不備を理由に礼拝出席をためらうとすれば、それは教会の大きな問題である。また
物理的に高齢者がためらうことなく教会に来られるように送迎の配慮も必要になるだ
ろう。こうして教会が実際的に高齢者に扉を開いていることは教会の大切な宣教姿勢
となる。
またこれに付随して、サンフランシスコ・ベイエリアの日語部を持つメソジスト系
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高齢社会における教会の社会的役割
日系教会の多くに共通して、教会内に日本
一日系人教会の試みを通して
園があり、日本人にとって極めて馴染み
の深い桜などの木が植えられていることは、教会とアイデンティティーを
興味深い 。この日系教会の教会
築をめぐる共通性は、自己のアイデンティティー
と故郷を思う教会員の想いがこのような教会
教会
える上で
築に影響したと思われる。このような
築物の特徴がその教会全体をシンボルとして良く表し、日本語を母国語とする
高齢者の心に誇りを与え、郷愁にも応えているようである。そのような観点に立てば、
これもまた一つの教会
築物にまつわる高齢者への配慮なのである。
3−2.高齢者の為の礼拝の検証
教会における聖日礼拝で、高齢者の為だけの特別な礼拝というものが存在するかど
うかは定かではないが、礼拝ごとに高齢者への配慮を
慮した礼拝作りというのは必
要な視点だと思われる。米国ペンシルベニアで高齢者へのチャプレン教育のディレク
ターであるデール・フリードマン(Dayle A. Friedman)は宗教儀式というものが如
何に高齢期の意味の喪失に対して新たな意味の再構築と発見に有効なものであるかを
強調し、その中で留意すべき8点を示している 。
1)時間設定、プログラムの流れ(Timing/rhythm)
時間は長いよりも短く、意味深い式にすること。開会から閉会へ、プログラ
ムの流れに注意すること。
2)特に会衆から認識されるべき高齢者(Involve key people)
儀式の中で特に憶えられるべき高齢者が的確に用いられているかに気を配る。
3)会衆全体に敏感でいるか(Be sensitive to the communitys role)
儀式を行う人にだけではなく、それに参加し影響を受ける人々全員に注意を
払うこと。
4)演出(Drama)
照明、服装、花などの装飾を含めた会場全体の設定に気を配ること。
5)礼拝音楽(Music)
一人びとりに影響を与える音楽をどのように用いるか。
6)礼拝を形作るリーダーを用いる(Facilitator/leader)
儀式の中のある部
の責任を持つリーダーを用いること。
7)安全であること(Safety)
8)評価(Evaluate)
儀式が終わった後、何がうまくいかなかったか、またどのような要望があっ
たかなどを反省すること。
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基督教研究
第67巻
第1号
以上の8点はどれも丁寧に高齢者のニーズを聞き、如何に礼拝を高齢者への配慮と
して有効に用いることができるかを多方面から 察している。確かに、高齢者への礼
拝を
えるとき、このような視点から具体的に一つ一つを再
することは、高齢者へ
の配慮に新たな発見を見いだすことになるであろう。
高齢者への意味ある礼拝は、礼拝の準備段階からはじまる。先ずは礼拝環境として
マイクのセッティング、およびプログラムへの工夫などが
えられる。補聴器
用者
など耳の不自由な高齢者にとってマイクの不調はその礼拝出席の意味を激減させるだ
ろうし、また目の不自由な人にとって礼拝プログラムの字が小さくて読みにくいとす
れば、これらの高齢者はその礼拝を通して疎外感と孤立感を感じてしまうかもしれな
い。この様に礼拝を行うためのセッティングは高齢者を
慮した配慮として重要であ
る。
また高齢者の礼拝に臨む姿勢の一つとして「高齢者の礼拝に寄せる思いというのは
若年者のそれに比べて一回性が重んじられるのではないか」という興味深い
察があ
る 。もしこれが真実であるならば、牧会者および会衆はそのような礼拝の一回性を
念頭において最良を目指して準備しなくてはならないのではないだろうか。ここでは
特に日本語を母国語とする高齢者との礼拝という観点から高齢者の為の礼拝を
察し
てみたい。
3−2−1.高齢者のための礼拝の検証
説教
日本語を母国語とする高齢者にとっての礼拝でもっとも大きなニーズは母国語での
礼拝である。彼らのほとんどが英語を解せないわけではない。しかし、特に魂と直結
する宗教的営みにおいて、第一言語は大変重要である。高齢者が母国の言葉で讃美の
声を上げ、母国の言葉で聖書を読み、母国の言葉で祈りを捧げるとき、彼らはそのこ
と自体が何よりの恵みと感じているようである。つまり、神との関係という最重要関
係において「あるがままの自
」でいることが許されることが、何よりの恵みなので
ある。言い換えるならば借りてきた言葉、または理解できる言葉というのではなく、
自
の言葉、それは時に涙ながらの言葉、いわゆる魂から発せられる言葉を用いて、
あるがままの姿で神に向かい合い祈ることができることが、宗教的営みにとって絶対
不可欠なのである。これら高齢者に母国語での礼拝を整えることは、彼らのニーズに
応えることであり、同時に彼らの信仰の成熟を促す上でも欠かせない一要素となるの
である。
それでは具体的に礼拝の中で日本語を母国語とする高齢者への配慮として母国語を
用いることにどのような注意が必要であろうか。
先ずは礼拝の中心ともいえる母国語での説教について
えてみたい。日本語を母国
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
語とする高齢者の説教へのニーズは決して一言で言い表せるようなものではないが、
著者は体験的に概してこれら高齢者の求める説教というのは、いわゆる神学的知識を
増すなどの知的欲求を満たすことを目的とする説教ではないように思っている。
加藤常昭氏の「対話としての説教」の以下の一文は一般的な説教の一面を言い当て
ていると思われる。
日本の多くの牧師達は、説教は聖書の講解であると理解している。そのような教育、訓
練を受けてきたし、そのような先輩達の説教を聴いてきたのである。そこで誠実に注解書
に従って聖書の言葉を調べ、その勉学の成果を表す様な説教の言葉を語る。しかし、それ
は、しばしばまことに退屈なものとなる。(中略)そうなってしまうのは説教が、結局は、
教師が教室で教えるのと同じように単なる<教え>としての説教になっているからであ
る 。
これは日本語を母国語とする高齢者への説教にも同様のことが言える。つまり、多
くの高齢者にとって母国語ですら馴染みの薄いキリスト教専門用語を連発することは
折角の母国語での説教をも理解できないものとしてしまうのである。それはかえって、
これらの高齢者の孤独感を深めることになるかもしれない。このようなことから説教
はできるかぎりわかりやすい言葉で、わかりやすい内容であることが望まれていると
思われる。これらの高齢者のほとんどが求めていることは、神学的知識が増すことに
もまして、米国において高齢期を迎えた故の寂しさや、孤独、それに伴う「自己の存
在の意味の弱体化」という痛みを含む高齢期の「喪失体験」に、説教を通して福音に
ふれ、神の愛から切り取られる者でないことを憶え、隠された恵みを見いだし、自己
の存在の新たな意味を発見し統合する契機を得ることなのである。だとすれば、説教
者は如何にこの恵みをこれら高齢者に損なうことなく運び、神の愛と祝福を余すこと
なく現実味をもって理解できる言葉として語ることができるかが問われる。これがこ
れらの高齢者への説教の中心的課題となる。
また一方、
「だんだん年寄りになって、年老いてくると死のことを
えなくてはと
思って礼拝に参加しています」というメンバーも多くいる。確かに多くの高齢者が死
の問題を身近に感じはじめ、避けて通ることができない問題として直面しているよう
である。このようなニーズに対して、時に説教者は宗教者の責務として、この死につ
いても言及し、キリスト教における死の教育を行わなくてはならない。なぜならば、
それは同時に「高齢者となった今を如何に生きるか」「与えられている命の意味を再
統合させる契機」となるからである。
また説教内容と同等に説教者はこれらの高齢者が聞き取りやすいように早口になら
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基督教研究
第67巻
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ないことを心にとめなくてはならないだろうし、流行語やカタカナ表記される外来語
などこれらの高齢者には馴染みの薄い言葉を
う場合には、丁寧な説明をする必要が
ある。母国語を日本語としている高齢者に、英語だと信じて
っている外来語が全く
通じないとか、特に最近の若い世代の日本の言葉がわからないということは、思いの
外多くある。高齢者にこのようなことで孤独感を感じさせる必要がないように、説教
者は注意をしなくてはならない。
最後にこれらの高齢者への説教の一つの可能性として、文化を共有する故に
用で
きる言葉があるのではないかと思っている。たとえるならばそれは同じ文化に生きる
者にとって見事なまでに言いたいことを伝達する俳句のようなものかもしれない。限
られた字数でも、同じ文化を背景にするときに見事なまでに情景を描いてみせる俳句。
日系社会の日本語を母国語とする高齢者と「同じ物語」
「コンテキスト」を深く
か
ち合うときに、そのような説教者と聴衆の響き合いとも言える説教が可能になるので
はないだろうか。つまり、この日系文化ともよべるコンテキストの共有によって、説
教は
に身近で豊かなものになっていくのである。それには先ずこの会衆のユニーク
なコンテキストを丁寧に認識し、聴衆である会衆の個人
を熟知しておく日常の牧会
活動が欠かせないものとなってくるのである。
3−2−2.高齢者のための礼拝の検証
讃美歌
次に礼拝の中の音楽に関してもこれら米国に在住する日本語を母国語とする高齢者
への独特な配慮があるように思う。礼拝における讃美歌の選曲は説教の聖書箇所との
関連、また教会歴との関連が重視されなければならないが、それに加えてこれらの高
齢者への配慮という点において、馴染み深い曲を選曲するということを
えても良い
であろう。幼いときから歌い続けている「馴染みの讃美歌」を母国語で歌うときに、
それは思いの外、大きな慰めと喜びを与える。日常的に母国語の歌に囲まれて生活し
ている環境にないこれらの高齢者にとって、自 の言葉で馴染みある讃美歌を会衆と
共に歌えることは、大変貴重な機会であり大きな恵みなのである。童謡や唱歌などに
個人的な思い入れや物語がまつわるように、時に讃美歌にもそのような個人の思い入
れや物語がある。礼拝を通してそのような記憶が蘇り、また気持ちを新たにすること
は礼拝の重要な役割の一つであろう。牧者がこれら高齢者の愛唱讃美歌を知っておき、
愛唱讃美歌の背景にある個人の物語を聞き取っておくことも、礼拝での大切な高齢者
への牧会的配慮となる。また、前奏、後奏、間奏曲などに日本の童謡や唱歌を入れる
可能性も
えられると思う。実際に礼拝の間奏曲に「上を向いて歩こう 」という曲
をアレンジして用いたことがあるが、聖書箇所や説教との関連も深くあったため、ま
たこの曲が全米でも良く知られている日本の曲であったことも手伝って、これら日本
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
語を母国語とする高齢者には大変印象深い礼拝となったようである。このように時に
讃美歌のように唱歌や童謡が日本文化という共通性の中で礼拝に有効に働くときがあ
る。サンフランシスコという季節感のない街で、日本の四季にまつわる曲を礼拝の中
で奏でることは不可能ではないであろう。日本文化に育まれたキリスト者にとってそ
のような歌を通して一年の経緯を思い感謝する一時となるであろう。
3−3.愛
如何に母国語で会話ができる場所を保証するか
中牧弘允氏は「民族教会としてのキリスト教会」という題名でカルフォルニア州サ
クラメントの日系教会を調査し、サクラメントの日系教会は元々日本人のために設立
された民族教会であると定め、その民族教会の特徴を下記のように記述している。
民族教会の心理的利点は気安さ・気楽さにあるようだ。教会は日系人のみが集まる数少
ない場所であり、家に帰った時のように安心できるというのである。日本的文化、教養、
生活様式などを共有し、自尊心や安心感なども確保できるという。また民族教会は外のコ
ミュニティーから移ってくる日系人にとっても何かと都合がよい。意見の相違によって他
の教会に移った日系人でも、特別の機会には戻って来るというような心理的な連帯感がみ
られる。
この
析は日本語を母国語とする高齢者にも一面妥当性を持っていると思われる。
例えば日本語を母国語とする高齢者へのユニークな配慮として、礼拝と同等に礼拝後
の愛
の時間があげられる。礼拝が神との関係の確認であるとすれば、礼拝後の愛
会は会員同士の関係の確認とも言えるが、この愛
が日本語を母国語とする高齢者に
とって特別な恵みの時として用いられるのは、日本語環境が用意されているからであ
る。帰宅すれば既に家族が英語で話している高齢者も、また日常生活において英語の
会話を強いられている高齢者も、この愛
会では母国語で会話を楽しむことができる
のである。まさに教会が「家なる教会」となる瞬間であり、ありのままの姿でいるこ
とができる場所としての教会になる時なのである。ここに愛
の大きな働きがある。
パイン合同メソジスト教会の場合、通常一時間の礼拝があり、礼拝が終わってから愛
にまた一時間用いられる。ここに日本語を母国語とする高齢者を中心とする会員が
この時間を如何に大切にし、その中に意義を見いだしているかが良くわかる。時にこ
の愛
の席で悩みを吐露する高齢者がいるし、境遇を同じくする者がその悩みを受容
しながら互いに親身になって相談にのっている風景がある。つまりこの愛
の一時は、
時として単なるお茶会以上に、母国の言葉で会話を許され互いに配慮し合う貴重な空
間なのである。牧者はこの愛
の一時をこれら高齢者がリラックスして、安心できる
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基督教研究
第67巻
第1号
ように提供しなくてはならない。何も牧師が話の中心になる必要はなく、各々が十
に会話を楽しめる
囲気をつくることこそが、日本語を母国語とする高齢者への大切
な牧会的配慮の一つといえる。
3−4.教会でふるさとの味を楽しむ
中牧氏の言葉を
日本文化を取り入れた行事の可能性
えば、
「民族教会」として存在する日系教会の中で、日本の伝統
行事を憶えることも一面において、これら日本語を母国語とする高齢者への配慮とな
るであろう。例えばパイン合同メソジスト教会日語部では毎年年末礼拝の愛
「年越し蕎麦」を食す。これは日本で大
会で
日に蕎麦を食べる風習を用いたもので、蕎
麦を日常的には食べないこの地の生活スタイルの中で、本来身近であった習慣を教会
が提供することは意義深い。なぜならば、会衆がこの食事を通して一年間を振り返り、
共に一年間礼拝を守れたことを喜び合う一時となり、また来る一年も共に礼拝を守る
ことができるようにとの励ましの食事となるからである。このように日系教会ならで
はの、日本の伝統的行事を用いたユニークな牧会的配慮も可能なのである。私たちは
日本文化の基盤を見据え、キリスト教徒であっても有益に用いることができるものは
用いるべきだと思う。なぜならそのような文化もこれらの高齢者を育んできた大切な
文化の一部だから、不必要に無視したり、切り取るべきではない。特にキリスト教徒
が決して大多数ではない日本を背景とした日本語を母国語とする高齢者への配慮を
えるときに、これらの文化を必要以上に排除するのではなく、馴染みのある文化を慎
重な検討を重ねながら有効に牧会に取り入れる可能性を
える必要があると思われる。
3−5.日本語を母国語とする高齢者のための病床訪問
キンブル(Melvin A. Kimble)は「サクラメントを含めた礼拝は多くの高齢者にと
って心と身体と魂と精神の
しを体験する手助けになる」とのべ、高齢者への配慮に
あたってサクラメント施行の有効性を強調するが、これは牧会訪問という場において
に有効であると思われる 。聖
は様々な理由で教会に来ることができなくなった
高齢者に対して、教会に来られなくても決して神の愛から切り離されはしないことを
体現することであり、このことは日本語を母国語とする高齢者には
に重要であると
思われる。これらの高齢者は施設の中で母国語を日本語とするが故に、円滑なコミュ
ニケーションができずに孤独の中にいるかもしれない。また社会から切り取られる孤
独の痛みに加え、
に文化的、言語的要因によって二重の孤独の痛みを味わっている
かもしれない。このような高齢者に対して、牧会者や会衆による母国語での祈り、聖
書朗読、また讃美歌は、神の愛から決して切り取られてはいないことを有効的にのべ
つたえ、また教会の共同体が決して忘れ去ってはいないことを告げ知らせるのである。
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高齢社会における教会の社会的役割
またその中で聖
一日系人教会の試みを通して
式を用いてその恵みを体感することは、これらの高齢者の孤独を打
ち破るのにきわめて有効である。特に病院などの英語環境しかない場所にあってはこ
のニーズは
に増すであろう。
また同時にこの病床訪問では、訪問者は何よりもこれらの高齢者が母国語で語る言
葉に、心と耳を傾け聞き取る作業が重要となる。その関係の中で時に「なぜこのよう
な病気になるのか」
「このような高齢者になってもまだ生きなくてはならないのか」
「異国の地に来たことなどへの後悔」など、スピリチャル・ペインが語られることが
多々ある。牧会者は先ずは自由に自己表現できる場所を保証し、一つ一つの言葉を丁
寧に聞き取り、共に悩み、神にゆだねながら、再び神からの恵みを見いだす信仰へと
導くことがこの訪問の最大の課題となる。
以上が多岐に及ぶ日本語を母国語とする高齢者への教会内での実際的な牧会的配慮
の全体図である。この他にもこれらの高齢者へのユニークな牧会的配慮があげられる
だろうが、次にこの日本語を話す教会共同体が米国社会の中でどのような社会的役割
を担うことができるかを
察してみたい。なぜならばこれこそがこの日本語を母国語
とする教会共同体に与えられた
命であり、この社会での存在意義であり、この教会
共同体のなしえるユニークな宣教だからである。
4.高齢化社会にある教会の社会的役割
米国にあって日本語を母国語とする高齢者は何も教会内だけではなく、それ以上に
多くの日本語を母国語とする高齢者が米国社会の中で孤独に震え、過酷な高齢期を過
ごしている。教会にとっては、自己満足的共同体から脱して、如何にこの神の示す恵
みを地域社会の高齢者に伝達していくかが社会的役割となる。
教会教育者であるリン・ヒューバー(Lynn W. Huber)は教会が地域社会に対して
行える高齢者へのサービスを
析し、その
類の幾つかを紹介している 。
1)教会員の霊的関心に応ずる宗教プログラム(礼拝)を提供する
2)一対一の、または小グループに対する牧会配慮プログラムを提供する
3)外部団体主催の高齢者向けプログラムを支援する
4)社会奉仕を提供する
また一方では
1)聖
・カウンセリング・祈禱などの礼拝・牧会プログラム
2)レクレーションや家
訪問などのサービス
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基督教研究
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3)緊急時の物的・心的支援
4)料理・買物・掃除などの高齢者の日常生活支援
このような 類を通してみると、高齢社会のただ中で、教会が社会的に担うことの
できる役割が多岐におよび、その可能性が見えてくる。ここでは日本語の会衆による
日本語を母国語とする高齢者への配慮という点において、日系教会にしかできない効
果的な社会貢献であり、同時に牧会的宣教となる可能性を示したい。
現在この可能性の中でパイン合同メソジスト教会は、これら高齢者の為のプロジェ
クトを推進させている。一つは日本語を母国語とする高齢者のいる日系高齢者施設を
訪問することである。ここでは懐かしい歌を共に歌う時間を提供しながら、これらの
高齢者と
わり、そのプログラムを通して対話を生むことが目的となっている。その
対話から同じ日本語を母国語とする者の抱える痛みに共感し、その共感をもってこれ
らの高齢者の孤独を打破し、「意味の喪失」という痛みから、再び福音を通した恵み
の発見、「意味の再構築」へと導くことが最終目標とされる。これは牧者だけでなく
会衆によって行われる高齢者への配慮という宣教活動であり、日本語を母国語とする
会衆もまた自らに迫る高齢期を見る思いで、親身になってきわめて共感的で細やかな
配慮を含んだ活動を提供している。それは自らの中にもある高齢期への不安など、同
じ痛みを背負う共感の中に生まれる宣教姿勢であり、この姿勢がこの地域社会への新
たな宣教の可能性を切り開いているといえる。
ま た 他 方 で は、パ イ ン 合 同 メ ソ ジ ス ト 教 会 は 日 米 宗 教 連 盟(JARF; Japanese
American Religious Federation)に属する団体として、他の宗教団体と共に2003年に
「こころアシステッド・リビング」(Kokoro Assisted Living Facility)という日系高齢
者施設を設立した。この高齢者施設は基本的に日本語を母国語とする高齢者が孤独に
陥ることがないように言語的文化的配慮を施し、加えて毎月日米宗教連盟に所属する
宗教団体による宗教儀式が行われ、高齢者への宗教的な要求に応えられる施設として
設立されたものである。これは高齢化した日系社会のニーズに教会が応じたもので、
他教会との協力関係を保ちながら、パイン合同メソジスト教会ではそのニーズをキリ
スト教の視点から解釈し、私たちに課せられた 命として教会内外にその必要性を訴
え先導し設立に貢献したのである。
ヒューバー(Lynn W. Huber)が紹介したように、教会がこれらの日本語を母国語
とする高齢者の為になすべき社会的役割は決して一つではない。しかし、日本語を母
国語とする会衆という特異性の中で自ずとこの教会にしかできない役割というものが
認識され、それがまたこの配慮としての宣教の原動力となるのである。
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
5.まとめ 高齢社会日本の現状をふまえて
これまでの思索やそれに関わるプロジェクトは21世紀初頭の米国社会の、中でも日
系社会の日本語を母国語とする高齢者というきわめて限定された中で、これらの高齢
者たちのニーズ、霊的渇望に対応する必要性の中から生まれた。つまり社会のただ中
にたつ教会はその社会の持つ今日的なニーズと霊的渇望に丁寧に応えていく
命の中
で方向性が示されるのである。著者はこの小論を通して、高齢社会における教会の牧
会と宣教の可能性を示したが、このことが1970年に「高齢化社会」を迎え、1994年に
は24年という世界で最速の速さで「高齢社会」に達し、2025年には4人に1人、2050
年には3人に1人が65歳以上となる「超高齢社会」日本のただ中にたつ教会の宣教と
牧会の一助になればと切に思うのである。
山下勝弘氏は1995年にこの超高齢社会を迎える日本社会にたつキリスト教会が如何
に変容し形成されていくべきかを思索すべく、興味深い調査を行った。その調査によ
り、教会内の65歳以上の高齢者は1995年の時点で26.2%を示し、同時期の日本社会の
示した14.6%よりも
に高い数値を示していることを指摘し、既に日本のキリスト教
会はこの時点で超高齢社会になっていると宣言した 。この実態を通して、山下氏は
高齢化している教会での牧会の特異性、および高齢社会にある教会の社会的役割を明
確にしようと4点において、高齢社会の中にたつ教会の方向性を示した。それは「教
派連帯型教会から地域連帯型教会への重視」「各個方式単立型教会形成から複数方式
統合型教会形成への移行」「信仰理念共同体教会から信仰生活共同体教会への転換」
「閉鎖型自己完結的団体から開放型相互依存的団体への自己改革」であった 。ここ
に強調されたのは如何に教会共同体を地域社会の背景の中に位置づけるかであり、教
会の社会的役割をその教会の置かれた社会的背景から見いだそうとすることであった。
それから10年の歳月がたち、日本の教会はどうであろうか。この社会変化に対応でき
る教会として変容したであろうか。もしこの米国の日本語を母国語とする高齢者への
事例を通して、山下氏の示した方向性に書き加えることができるとすれば、それは教
会が社会的役割を担い社会の教会となるためには、
「如何に教会がこの地域に基盤を
同じくする共感的関係を結ぶことができるか」を問わなくてはならないという点であ
る。日系教会の場合、共感的関係の基盤は日本語を母国語とする故の孤独と痛みであ
った。この同じ痛みを通して教会は社会の中にいる日本語を母国語とする高齢者に深
い共感的姿勢をもって
わり、配慮することができるようになったのである。現在の
日本で教会が高齢者に深い共感を覚えることは何であろうか。そこから高齢者への配
慮を通した宣教を行う可能性が見えてくるのではないだろうか。それには先ず教会が
教会中心的思 法から脱却し、その地域の高齢者の痛みを自
の痛みとして受け止め
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る共感を持たなくてはならない。その時初めて教会は地域の中に存在する教会として、
地域からも受容され、必要とされる共同体として社会的役割を担うことができるよう
になると思われる。
今後ますます高齢化は進行し3人に1人が高齢者となる社会の中で、教会はこの高
齢者への配慮を通した教会の社会的役割の明確化と、これら高齢者への新たな宣教論
の構築がますます必要とされるであろう。
注
1
ここで言う母国語とは第一言語および母語と同義として、日本国籍者でなくとも第一言語を日本語とす
る者のことである。
2
http://www.nia.nih.gov/ アクセス日時 2004年3月1日。
3
http://www.napca.org/aboutus/aboutus/mission.aspx アクセス日時
4
岸本和世、
「第二章
生命倫理における『老い・病・死』と脳死・臓器移植」、日本基督教団宣教研究所
編 『老い・病・死
教会の現在題的課題』日本基督教団出版局、1993年、50ページ。
5
2004年3月1日。
Dayle A. Friedman, Spiritual Challenges of Nursing Home Life, Melvin A. Kimble, Susan H. McFadden,
James W. Ellor, James J. Seeber, ed, Aging, Spirituality, and Religion, Fortress Press, 1995, p.364.
6
Melvin A. Kimble, Pastoral Care, Melvin A. Kimble, Susan H.McFadden, James W. Ellor, James J. Seeber,
ed, Aging, Spirituality, and Religion, Fortress Press, 1995, p.137.
7
Dayle A. Friedman, An Anchor amidst Anomie:Ritual and Aging,
Melvin A. Kimble, Susan H. McFadden,
James W. Ellor, James J. Seeber,ed, Aging, Spirituality, and Religion, Fortress Press, 1995,p.135では The
challenge of meaninglessness in aging と題して牧会者の担うべき高齢者の意味の喪失について記述され
ているので参照されたし。
8
ウァルデマール・キッペス、『スピリチャルケア』サンパウロ出版、1999年、82−91ページを参照。
9
www.napca.org/ANGELO/NAPCA%20 resources/Census2000/NAPCA%20 Census/CA/San%20 Francisco%
20elders.doc アクセス日時
「高齢者福祉
2004年3月1日。
各国日系共同体の実状(2)=米国・サンフランシスコ=住みにくくないが高額な費用=
言葉や食事も問題」
、『ニッケイ新聞』(Jornal do Nikkey)2003年5月15日号。
11 Himes, C., Hogan, D. P., & Eggebeen, D. J. (1996). Living arrangements among minority elders, Journal
of Gerontology:Social Sciences, 51, S42-S48. The Gerontological Societyof America.
12 2004年3月1日現在。
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高齢社会における教会の社会的役割
一日系人教会の試みを通して
13 2004年3月1日現在。
14 1990 Census pg Population, CP-2-1, Bureau of the Census, U.S. Department of Commerce.
15 2004年3月時点の状況による。
16 サンフランシスコ・ベイエリアのヘイワードにある日系高齢者施設。12名の入居者を受け入れるグルー
プホーム。
17 『ニッケイ新聞』2003年5月15日号
上掲。
18 調査を行ったすべての高齢者施設において、個食によって高齢者の孤独が増すことがないように食事は
共同の営みとなっており、メニューも基本的に入居者の好みを反映させるように努力されていた。
19 http://www.musictherapy.org/ アクセス日時
20 赤星
2004年3月1日。
彦、
『高齢者・痴呆老人のための療育・音楽療法プログラム』、音楽之友社、1999年、21ページ。
21 Our First Hundred Years 1886-1986 Legacyand Vision Pine United Methodist Church. p.13.
22 正確に言えば強制収容の期間にも、教会の倉庫には教会員の荷物がおさめられていたのであるから、や
はりこの3年間も教会は人々の拠り所として機能していたといえる。
23 戦前、日本国籍者で米国に移住した移民を「一世」と呼ぶのに対し、戦後、日本国籍者で米国に移住し
た移民を「新一世」と呼ぶ。
24 日本人を両親として米国で生まれ、米国国籍でありながら日本で義務教育を受け、その後再び米国に帰
り、在住している者を「帰米二世」と呼ぶ。
25 David O. Moberg, Aging and Spirituality, The Haworth Pastoral Press, 2001, pp.161-166. ここでは具体
的に「霊的統合(The Need for Spiritual Integration)」「喪失体験への対処(The Need to Cope with
「柔軟性(The Need for FlexLosses)」「問いを発する自由(The Need for Freedom to Raise Questions)」
「死と死に
ibility)」
くことへの準備(The Need for Dying and Death)」
「役立つ存在(The Need to Be
Useful)」「感謝する存在(The Need to Be Thankful)」などがあげられている。
26 三永恭平、
「カウンセリングとは何か」
、三永恭平・斎藤友紀雄・平山正美・深田未来生監修、『現代キ
リスト教カウンセリング』
、日本基督教団出版局、2002年、25-26ページ。
27 この日本人のパーソナリティーについてはH.H.L.キタノ著、内崎以佐味訳、
『アメリカの中の日本人
―一世から三世までの生活と文化―』東洋経済新報社、1974年、7章、197-209ページにも言及されて
いる。牧会配慮との関係性から言えば American Baptist Seminary of the West の牧会学助教授である
Peter Yuichi Clarkは Revealing the Sacred in Asian and Pacific America ed by Jane Naomi Iwamura and
Paul Spickard, Routledge, 2003において Compassion among aging Nisei Japanese Americans と題して二
世の精神性について記述しているが、他にも Cross-Cultural Communication and Japanese American
Elders として1999年に日系人を理解する上で必要とされる「遠慮」「我慢」「親孝行」「甘え」「義理」
「仕方がない」
「恥」などの概念を取り上げ、これらの理解が如何に重要であるかを日系三世チャプレン
として説いた。
28 Melvin A. Kimble, op. cit., p.138.
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29 Anne E. Streaty Wimberlyは Congregational Care in the Lives of Black Older Adults の中で From a
sociotheological perspective, commitment is the consequence of the congregations adherence to a selfidentity that informs their ministry direction と述べ、アフリカ系アメリカ人社会の中で教会の役割を見
いだす際、その共同体が何に自己を同一するかによって決定することを指摘し、アフリカ系アメリカ人
社会における高齢者への配慮はもともとアフリカ文化に起源を持つことを言及している。これを日本語
を母国語とする共同体の自己同一化として
えると、同じ日本語を母国語とする高齢者への宣教という
方向性が浮き彫りにされるのではないだろうか。
30 ローマの信徒への手紙12章15節。
31 中牧弘允、
『日本宗教と日系宗教の研究』、刀水書房、1989年、359−364ページ。
32 Dayle A. Friedman, op. cit., p.142.
33 吉岡光人、
「共に神の家族として 高齢社会と礼拝」、『礼拝と音楽』 98号、日本基督教団出版局、1998
年、5ページ。
34 加藤常昭、
「説教とカウンセリング」、三永恭平・斎藤友紀雄・平山正美・深田未来生監修、
『現代キリ
スト教カウンセリング』、日本基督教団出版局、2002年、123ページ。
35 唄:坂本九
作詞:永六輔
作曲:中村八大
東芝レコード 1961年。
36 中牧弘允、上掲、361ページ。
37 Melvin A. Kimble, op. cit., p.141. また 吉岡光人、上掲、6-7ページ。この両者とも牧会訪問の中での
聖
について積極的位置づけを模索している。
38 Lynn W. Huber, The Church in the Community, Melvin A. Kimble, Susan H. McFadden, James W. Ellor,
James J. Seeber, ed, Aging, Spirituality, and Religion, Fortress Press, 1995, p.287.
39 山下勝弘、
『超高齢社会とキリスト教会
特に障害者・高齢者と共存する教会形成を
える』、キリスト
教新聞社、1997年、48ページ。
40 山下勝弘、同上、137−139ページ。
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