Comments
Description
Transcript
木下韡村伝関連史料の紹介
272 社学研論集 Vol. 23 2014年3月 研究ノート 木下韡村伝関連史料の紹介 片 岡 浩 毅* かりは少ないからである。 一,解題 しかし,平成24年10月に木下韡村の子孫であ 幕末期の熊本藩儒,木下韡村は藩校時習館の る木下ヨネ子氏が熊本県立図書館に「木下家文 教官ならびに私塾の塾主として,井上毅や竹添 書」を寄贈されたことによって,木下韡村研究 進一郎など多くの門弟を育てた。加えて,安井 も行いやすくなった。早稲田大学島善高氏は 息軒や塩谷宕陰ら当代の儒学者と交流し,学問 「木下韡村日記」の翻刻(5)を開始され,筆者も をよくした。また弟の真弘や助之,子の広次ら その翻刻作業に従事している。 も後の明治期に主要な役職や地位に就くことと 本稿では,木下韡村の詳細な伝記がこれまで なる。ところで木下は,伴読や藩主世子(細川 解明されていないことに鑑み,「木下家文書」 (1) 慶前)の侍読,訓導役等を歴任したとされる 中の関連史料をここに翻刻することにした。そ ものの,その全体像は必ずしも明白ではない。 の史料とは,次の4種である。 木下韡村に関する先行研究としては,まず, 書簡の検討から儒者の交流史を論じた黒江一郎 (2) 「木下犀潭宛宕陰書簡について」 が端緒であ ①「韡村亡先生建碑 門生中」 ②「御奉公之覚 木下真太郎」 ③「似星木下家譜年表」 ろう。次に,木下塾の門人とその構成を明らか ④「似星木下家譜」 にした木野主計「木下韡村書屋門生名籍 木下 右4種はそれぞれ韡村没後に編纂されたもの (3) 犀潭塾門人帖について」 が挙げられる。また, 木下の学問について解析した高橋智「塩谷宕 (4) 陰・木下犀譚批評安井息軒初稿「読書余適」」 で,恐らく韡村の三男で家督相続者の木下重三 (信十郎)によって編まれたものと思われる。 ①「韡村亡先生建碑 門生中」は,表紙に も木下研究と捉えてよいだろう。これらの研究 「為韡村先生建碑 門生中」とあり,本文冒頭 は原史料を踏まえ論をすすめながらも,木下個 にも「御石碑志」と記されているように,韡村 人の生涯に迫った研究とは言い難い。というの の顕彰碑を建てるため寄付金を募ったもので も,現在までのところ木下についての全集や伝 あって,石碑料総額三貫三百九拾三匁と,その 記についてはなく,その実態や詳細を知る手が 寄付者全30人の名が記されている。井上多久馬 *早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程3年(指導教員 島 善高) 木下韡村伝関連史料の紹介 273 (後の毅),竹添進一郎,木村弦雄,古庄嘉門の 一、百目 ○友枝栄之助 韡村書屋の四天王以外に,木下韡村と同じ時習 一、百目 ○馬場伍助 館訓導や韡村の私塾で塾頭を務めた栃原助之進 一、弐百目 坂井儀七郎 (号,東皐),時習館句読師や訓導助勤を歴任し 一、百目 柚原橘之允 た兼坂諄次郎(号,止水)らの名も見える。木 一、百目 ○古庄嘉門 下と親交のあった藩校教官や木下塾門下生がそ 一、百目 ○木村弦雄 の多くを占めている。 一、百目 ○村上重次郎 ②「御奉公之覚 木下真太郎」は,文政9年 一、百目 ○近野 (1826)4月から慶応3年(1867)5月までに 一、百目 ○竹添進一郎 わたる,韡村の熊本藩士としての経歴を記録し 乄壹乄目 て藩の学校方奉行中に届け出たものである。日 一、五拾目 ○尾崎和平次 付は慶応3年5月であるから,没後ただちに書 一、三拾目 ○ □ 宮 貞松 かれたものである。 一、弐拾目 ○野田順蔵 ③「似星木下家譜年表」と④「似星木下家譜」 〔判読不能〕 乄百目 とは内容がほぼ完全に重複している。記録の体 一、弐拾目 ○藤井市右衛門 裁及び内容から,④は恐らく③の草稿であろ 一、弐拾目 ○合志助次郎 う。よって本稿では③「似星木下家譜年表」を 一、弐拾目 ○山内才蔵 翻刻し,適宜④「似星木下家譜」も参考とした。 乄六拾目 なお,③は元亀3年(1572)から明治40年 (1907)までの木下家関係の記事を収集したも のである。また,翻刻に当っては,適宜括弧を 一、弐百目 友塾 一、百五十目 ○兼坂諄次郎 一、五百五拾三匁 兼坂氏ゟ届向ニ相成 塾中餘銭 付して西暦などを補った。 ① 「韡村亡先生建碑」 御石碑志 一、三拾目 永田弥次郎 一、弐百目 ○下山群太 一、五拾目 ○園田文之丞 一、弐百目 ○犬塚孫一郎 惣合三貫三百九拾三匁 一、弐百目 ○徳永半兵衛 内五百目 手附として石工吉次郎へ渡 一、弐百五拾目 ○櫔原助之進 同壱貫三百目 七月十一日同人江渡 ○石光敬助 一、弐拾五匁 ○古川雄次 一、百目 ○草野豹蔵 一、弐拾五匁 ○小山熊彦 一、百目 ○岩間駒雄 一、弐拾五匁 ○関應左衛門 一、百目 ○井上多久馬 一、百目 ○戸田熊蔵 乄壹乄五拾目 ② 「御奉公之覚 木下真太郎」 当卯(慶応三年)五月六十三歳ニ而病死仕候 274 木下真太郎御奉公之覚 一、文政九年(1826)四月,学問心懸能致出精 候ニ付,御郡代直触被仰付候 一、同十年(1827)九月,時習館居寮被仰付, 天保五年迄留学被仰付候 一、天保三年(1832)三月,学問詩文章出精格 別相達候旨ニ而,毎歳金子三百疋宛被下置候 一、同四年(1833)六月,学問詩文章格別相進 候旨ニ而,為御心附八木拾俵宛五ケ年限被下 置候 一、同六年(1835)四月,御留守居中小姓列被 仰付,御切米拾石三人扶持并弐人扶持之御 付,為御心附毎歳銀五枚完被下置候 一、同年(1849)十月,時習館訓導助勤当分被 仰付,講堂居寮詩文世話之儀,是迄之通被 仰付候 一、同四年(1851)三月,訓導本役被仰付,御 足給拾石并御役料銀並之通被下置候 一、同六年(1853)二月,助教を助,両助教家 塾生世話仕候様被 仰付候 一、安政元年(1854)六月,若殿様(細川慶順), 寬五郎様(細川護明)御會讀等申上候様被仰 付候 一、同六年(1859)十一月,多年出精相勤候ニ 足被下置,御次ニ被召加,御近習御次組脇之 付,御擬作高百石被下置,御知行取格被仰付, 支配被召加,座席御留守居御中小姓列之上座 御役料米並之通被下置,教授局江も相詰,助 被附置候 教之助をも相勤候様被仰付候 一、同九年(1838)九月,御次御用之透ニ時習 館江も罷出,弥以学問研究仕候様被仰付候 一、萬延元年(1860)二月,教授局詰之儀御断 之及御意置候處,被遊御免候 一、同年(1838)十月,泰厳院様(細川斉護) 一、文久三年(1863)三月従,公義御用有之, 御在國之節,栃原五郎助(漆潭)差添,時習 被召呼候間,用意済次第早々出府被仰付候 館諸生之詩文章致世話候様被仰付候 處,病氣ニ付出府御断之御意申上置候末,於 一、同十一年(1840)七月,白金詰として被差 京都御内意被仰立,無餘儀次第ニ付出府ニ不 越候ニ付,別段を以御中小姓被仰付,御足給 及旨,水野和泉守様ゟ御差図有之候段,御達 五石被増下,御近習御次支配頭之支配被 召 ニ相成申候 加候 一、同年(1863)同月,病氣罷成,御役御断申 〔 付 箋 〕 一、同十三年(1842)三月,白金詰引続被仰付, 上度段奉願候處,願之通御役被遊(大欠字), 新御屋形御近習御次支配頭之支配被 仰付候 尤御留守居御番方被仰付,松山権兵衛組被召 一、嘉永元年(1848)九月,数年出精相勤候ニ 付,御役附御上下一具,白銀三枚被下置,御 足之内弐人扶持其侭被下置,御留守居御中小 姓被仰付候 一、同年(1848)十月,講堂并居寮江日々罷出, 詩文且會讀をも相誘候様被仰付候 一、同二年(1849)三月,講堂居寮江 も日々出 席仕,詩文世話會讀等誘候様被仰付置候ニ 加候 〔 付 箋 〕 一、同年(1863)七月,講釈又ハ(欠字以下同断) 罷出候様被仰付候 一、同年(1863)八月,若殿様(長岡護久), 良之助様(長岡護美)御會讀等之節ニ宮内江 罷出候様被仰付候 一、慶應元年(1865)六月時習館訓導被仰付, 御役料米並之通被下置,御會讀等之儀是迄之 木下韡村伝関連史料の紹介 〔 付 箋 〕 通被(御會讀)仰付候 一、同年九月両助教家塾之儀,以前通世話仕候 275 ニ付,座席御物頭列被仰付候 一、泰厳院様(細川斉護)御次勤六年,泰澍院 様被仰付候 様(細川慶前)御次勤九年,訓導当分三年, 一、同二年(1866)三月,心懸能格別出精相勤, 且近年分外之旅詰をも被仰付,彼是致辛労候 訓導本役十六年都合當念迄三十二年,御奉公 相勤候中,御品御銀等追々拝領仕候 ③似星木下家譜年表 表1.似星木下家譜年表(括弧内は筆者注であり,適宜句点を施している) 和暦(西暦) 内 容 元亀三年(1572) 此比,木下右京亮正國,伊倉ニ在,伊倉木下祖,生卒年月不明 寛永九年(1632) 此比,木下左兵衛尉,今村ニ在,今村木下祖,生卒年月不明 明暦二年(1656) 甚之允君,生ル 寛文六年(1666) 與助入道浄心君,生ル 元禄三年(1690) 四月十八日,木下徳蔵妻妙専,没 享保二年(1717) 五月廿九日,宗心君,没 同四年(1719) 六月廿日,宗心君室,妙須君没ス 同十五年(1730) 四月十八日,浄心君,没ス,歳六十五 同十七年(1732) 美智君生ル 元文五年(1740) 四月七日,宗真君没ス,八十四歳 宝暦二年(1752) 二月廿八日,甚四郎君妻,没 同三年(1753) 宗真君継室,妙清君没ス,十二月十一日 同七年(1757) 覚遊君生ル 明和二年(1765) 善智君室,妙壽君没ス,六月十六日 安永四年(1775) 教真君,没 天明元年(1781) 覚遊君,娶平山氏 同三年(1783) 四月十八日,覚遊君長子,宇三郎君,生ル,改名瀬兵衛,再改伝左衛門,法号,真覚 同五年(1785) 覚遊君第一女,也伊君生ル 同八年(1788) 覚遊君弟,甚四郎君ト産ヲ分ス 寛政四年(1792) 三月十八日,覚遊君二女,弥楚生ル 同八年(1796) 八月朔日,覚遊君三女,勢伊生ル 同九年(1797) 覚遊君,地士進席 享和二年(1802) 伝左衛門君,宗善十郎三女,米子ヲ娶ル 文化二年(1805) 八月五日,伝左衛門(瀬兵衛)君長子,宇太郎(韡村)君生ル 同四年(1807) 覚遊君一女,迫貞兵衛ニ嫁ス 同六年(1809) 二月朔日,善智君没,七十八歳 ○瀬兵衛君一女,春子生ル 同十年(1813) 十月十八日,伝左衛門君二女,寿栄生ル 同十一年(1814) 宇太郎君,桑満(伯順)門ニ入ル 同十二年(1815) 覚遊君三女,川口英左衛門ニ嫁ス 276 和暦(西暦) 内 容 同十四年(1817) 九月十二日,伝左衛門二子,熊太郎君生ル,後改,丑三郎 文政六年(1823) 二月十四日,伝左衛門君三子,小太郎生ル ○宇太郎,大木(大城霞萍)門ニ入ル 同八年(1825) 十一月十五日,伝左衛門君四子,徳太郎君生ル 同九年(1826) 四月廿一日,宇太郎君,別班御郡代直トナル ○二月,春女,宗吉十郎ニ嫁ス 同十年(1827) 九月八日,宇太郎君,居寮(時習館居寮生) 同十一年(1828) 正月十八日,覚遊君,入道剃髪 同十二年(1829) 十二月廿一日,伝左衛門君,貧民取救ニヨリ班地士 天保二年(1831) 九月,宇太郎君,再留学 同三年(1832) 三月,宇太郎君,毎歳金三百疋ヲ賜フ,九月,宇太郎君,三留学 ○十一月,寿栄女,徳永 礼八ニ嫁ス 同四年(1833) 六月,宇太郎君,毎年米十苞ヲ賜フ,九月,四留学 同六年(1835) 四月,宇太郎君,中小姓十石五人扶持,御次江戸詰,四月廿二日発足 ○十一月,覚遊君没, 七十九歳 同七年(1836) 宇太郎君,御供下着,於内坪井,屋敷ヲ賜フ,高橋弥四郎長女ヲ娶ル,名伊津,歳二十三 同八年(1837) 宇太郎君,江戸御供 ○六月十日,宇太郎長子,一太郎君生ル ○八月六日,宗吉十郎没後, 春女離別 同九年(1838) 宇太郎君,下着,五月十五日,一太郎君夭ス 同十年(1839) 宇太郎君,江戸御供,五月,宇太郎君二子,謙次郎君生ル,四月,伝左衛門君隠居,二男丑 三郎君家ヲ継ク,伝左衛門君,改名,衛門 同十一年(1840) 宇太郎君,御供下着,七月廿八日白金詰,足給五石ヲ賜フ 同十二年(1841) 正月,春女,再,隈部徳七ニ嫁ス,三月二日,宇太郎君二子,謙次郎夭ス 同十三年(1842) 九月十六日,覚遊君室,平山氏没ス,八十一,法名信仰 同十四年(1843) 三月三日,宇太郎君三子,宇十郎君生ル,後改,信十郎,再改,重三 弘化元年(1844) 六月四日,宇太郎世子(細川慶前)御供下着,外坪井上林ニテ屋敷ヲ賜フ 同二年(1845) 三月十二日,宇太郎一女,光子生ル ○八月,宇太郎君世子,御供出府 同三年(1846) 五月十四日,衛門君,行止方正ヲ以テ,銀五両ヲ賜フ ○五月十八日,光子夭ス 同四年(1847) 正月晦日,真覚君没,六十五 ○六月,宇太郎君二女,冨士生ル ○宇太郎君配,高橋氏没 ス,三十四 ○宇太郎君二女,冨士夭ス 嘉永元年(1848) 四月十四日,世子捐館,八月,宇太郎君下着,吉村氏ヲ娶トル,禄席,元ノ如シ,講堂居寮 詩文世話,徳太郎君,養子行 同二年(1849) 小太郎(真弘)君,安達氏ヲ娶ル,五月,宇太郎君三女,津留(鶴)生ル,宇太郎,訓導助勤 同四年(1851) 正月,宇太郎四男,小吉郎君生ル ○三月,宇太郎君,時習館訓導,御足給十石 ○十二月, 宇十郎君改名,信十郎 同五年(1852) 二月,宇太郎改名,真太郎 ○三月,丑三郎君妻,隈部氏ヲ去ル,継テ坂本氏ヲ娶 ○四月 廿日,宗氏没ス ○十二月廿八日,哲三郎君生ル 同六年(1853) 六月,真太郎へ教授家塾世話被命,隣宅地ヲ賜フ 安政元年(1854) 六月,真太郎君,御連枝様会読出席 同三年(1856) 六月十四日,真太郎君四女,辰子生ル 同四年(1857) 五月,真太郎君ヘ京町屋敷賜フ ○信十郎君,十五歳元服 同六年(1859) 十一月,真太郎君,御擬作,教授局詰被命 万延元年(1860) 二月,真太郎君,依願教授局詰ヲ辞ス,七月十七日,信子生ル 木下韡村伝関連史料の紹介 和暦(西暦) 277 内 容 文久元年 (1861) 四月,真太郎君,面事件ニ係リ病気ニテ引入 同二年 (1862) 十一月,真太郎君,良之助(長岡護美)御供上京,信十郎君,随行上京 同三年 (1863) 真太郎君,病気帰国,公義召,辞退,訓導役辞退,信十郎君上京 ○鶴女,田上へ縁約ス 元治元年 (1864) 信十郎君,宮内御広敷,四月,御供帰国 ○十一月,真太郎君,小倉出張,信十郎君, 随行上京 慶應元年 (1865) 六月,真太郎君,被命訓導,四月,鶴子,安藤ニ嫁ス,十月,信十郎君,講御用,十一月, 信十郎君婚儀,木下初太郎孫男子 慶応二年 (1866) 三月,真太郎君,座席御物頭ニ班ス 慶応三年 (1867) 五月六日,真太郎君没,信十郎君,父勤功ニより家督相続,御番方被命 ○京都詰被命, 上京 ○十二月廿六日,信十郎長君長男,真三郎君生ル 明治元年 (1868) 討幕師起ル,東海道出張,小吉郎君,桑名ニ而追付,名古屋ニ而立代,帰京ス,又関東 出兵ノ命アリ下坂ス,其中交代期ニ付帰国ス ○七月,薩州行,九月,御小姓役,上京 同二年 (1869) 二月,下国被命,改革ニ付,職勢ヲ免ス ○七月,長崎ニ而哲三郎君,病気ニ付省疵之為, 信十郎君,出崎ス 同三年 (1870) 五月四日,信十郎君,時習館句読師被命,十一月,小吉郎君,真弘君ノ養子トナル 同四年 (1871) 二月三日,信十郎君洋学校教導被命,お辰,梶田家ニ嫁ス ○信十郎君改名,重三 同六年 (1873) 十二月三日,改暦一月一日也 ○十二月八日,重三君,十二番中学区取締被命 同七年 (1874) 六月七日,重三君,十六番中学区取締ニ転ス ○九月六日,新屋敷移転ス○十一月十七 日,依願辞職ス 同八年 (1875) 五月十七日,東京上リ,七月廿三日帰国ス 同九年 (1876) 十月廿四日,神風党ノ変アリ 同十年 (1877) 二月,十年の役起ル,家属一同玉名郡ニ避ル,四月廿九日,本籍ニ帰ル,八月,当横嶌行, 七月,外平地所ヲ宮村ヨリ譲受 同十一年 (1878) 四月五日,外平作事,九月,全家移転,安藤家属一同引受,本年十一月,横嶌村新地地 主定,会議決定,有吉平吉地主トシ,村民永小作人トス 同十四年 (1879) 十二月廿八日熊本へ引出,高橋長屋寓居,外平家ハ加藤に譲リ,地所ハ同人ニ借宅 同十五年 (1880) 三月,母堂吉村氏上京,広次君室,常子同道 同十六年 (1881) 十一月十八日,信子,武田寧ニ嫁ス 同十七年 (1882) 七月,重三君,熊本縣御判任御用係被命,勧業課勤務 同十九年 (1884) 八月,重三,熊本縣属ニ任シ,判任官九等ニ叙ス 同二十年 (1885) 四月四日,妙体寺町清原地所を買取,家居新築 同二十一年(1886) 四月三十日,重三君非職 同二十六年(1891) 真三郎君,千葉学校ニテ病気ニ付,十月十三日ヨリ重三君,看病之為千葉行,政子君追 懸千葉行,十一月,真三郎君病気快復,重三君,政子君帰縣 同二十七年(1892) 六月廿五日,真三郎君,中嶋氏ヲ娶ル 同二十八年(1893) 四月九日,真三郎君室,中嶋氏没 同二十九年(1894) 三月三十日,哲三郎君別戸 ○三月三十一日,重三君隠居,真三郎君家督相続 ○五月, 真三郎,吉田氏ヲ娶 同三十年 (1895) 四月七日,真三郎君薬学得業士称号認可,十二月廿一日,真弘君於東京没ス,染井ニ葬ル 同三十一年(1896) 一月十三日,真三郎君長男,勤一君生ル,母ハ吉田氏,六月廿二日,真三郎君,第五高 等学校授業嘱託被命 278 和暦(西暦) 内 容 同三十七年(1902) 六月十二日,真三郎君一女ツナ子生ル,十一月,真三郎君第五高等学校ニテ所扱教授ニ 準シ,年俸四百円 同三十九年(1904) 八月三日,真三郎君,任第五高等学校教授,叙高等官八等,年俸五百円,十一月十日, 叙正八位 同四十年 (1905) 七月三十日,哲三郎君,東京牛込区若宮町邸ニテ没ス,八月廿四日,真太郎君継室吉村氏, 若宮町邸ニ没ス,火葬,遺骨熊本縣立田山先企ノ域ニ埋葬ス 注:木下家旧蔵,熊本県立図書館所蔵「似星木下家譜年表」から作成 〔投稿受理日2013. 12. 21 /掲載決定日2014. 1. 23〕 参考文献 木野主計『井上毅研究』続群書類従完成会,1995年 3月 角田政治『肥後人名辞書』後地歴叢書刊行会,1936 年9月 安 藤 英 男 校 注『塵 壷 河 井 継 之 助 日 記 』 平 凡 社, 1974年8月 (乾・坤)奎文 木下韡村,竹添進一郎編『韡村遺稿』 堂,1884年1月 熊本市編『肥後文教と其城府の教育』熊本市教育委 員会,1956年2月 脚注 ⑴ 竹添進一郎撰『韡村先生遺稿』所収,安井息軒 撰「木下士勤墓碑銘」における木下の略歴を参照。 ⑵ 黒江一郎「木下犀潭宛宕陰書簡について」『宮崎 大学学芸学部紀要』12号,1961年10月 ⑶ 木野主計「木下韡村書屋門生名籍─木下犀潭塾 門 人 帖 に つ い て 」(1)-(5)『神 道 学 』107,108, 110,111,113号,1980-82年 ⑷ 高橋智「塩谷宕陰・木下犀譚批評安井息軒初稿 「読書余適」」『斯道文庫論集』33号,1999年2月 ⑸ 島善高「木下韡村日記」(『早稲田大学社会科 学総合研究』2013年以降)。