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新 出 の﹃伊東静雄日記﹄を 読む º

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新 出 の﹃伊東静雄日記﹄を 読む º
老のくりごと︱八十以後国文学談儀︱︵5︶
新出の
﹃伊東静雄日記﹄
を
︱ 住吉中学教員時代 ︱
読む
島津忠夫
伊東は、昭和四年四月、大阪府立住吉中学に赴任する。こ
の日記には、その翌五年六月十日までが記されている。
佐賀高校時代、京都大学時代に比して、淡々と事実が記さ
て、やはり一介の国語教師ではなかったことが知られる。
その中に、昭和四年五月十八日の条に、
京都ゆき。/藤木氏に夜十時 いる。/同夜酒井氏に泊
る。
とあるのに続いて、五月十九日の条には、
朝九時、三条で生徒百名許の一行を待ちうけて、鞍馬に
遠足す。/へとへとに疲る。三時、柳にかえる。/かえ
りに寺町に行き、府立医大に廻て青木氏を見舞う。夕方
までいる。/同夜酒井氏に泊る。/自分は酒井一家と全
という、突如驚くべき記事が目に入る。さらに、五月二十二
く他人になろう。自分達とは世界が違うのだ。
なるが、伊東の同僚の、かつて私の教わったことのある先生
と書いて送っている。住吉中学初代の校長は元田龍佐で、日
密なせんかうの結果、熱心に校長に懇望されたのです。
ったりでさあ!﹂/ゆり子を憎む。
去を嗤う。
︹二字略︺氏の卑愚を嗤う。
﹁女って似たりよ
を嗤う。おんなに関心を持ちすぎていた自分の愚かな過
したので、あとで腹立たしくなる。軽はく者、後悔する
ゆり子さんより来信。/心が例によって、うかうかし出
九月十二日の条には、
ゆり子よ、私は君を要しない。/君も私を要しない。
記には、昭和五年五月二日の条に﹁元田校長告別式あり﹂と
体の工合未だに充分 ふくせず。心が疲れている。/女
しん
ひるね。/母より慈愛にみちた手紙が来た。
︵中略︶
/身
日の条には、
昭和四年三月二十四日付け宮本新治宛書簡に、
の名前が散見していてなつかしい。
れている。私が住吉中学に入学するのは、それより十年後に
L
とある。さらに、七月十九日の条には、
私の就職は、大阪市内府立住吉中学に決定しました。厳
7
だけ記されているが、この校長が、広い識見を持った人だっ
たということは、私も当時の幾人もから直接聞いている。そ
れ以後は、住吉中学は大きく受験指導に楫を切ってゆくので
ある。伊東が、国語の教師をしながら、あいかわらずリルケ
の詩の翻訳をしたり、実に多くの内外の書物を広く読んでい
9
º
もっと根本的に失望し、もっと救い難くうちのめ
であると考えたのであるが、その所収の詩が、昭和七年より
﹁わがひと﹂は、小高根二郎氏の見解に従っ て、酒 井 百 合 子
されねば、人を愛するなんて、そんな大それた心は生れ
十年にかけての作であることより見れば、すでに、百合子と
な
て来ないものなんだぞ。愛してます、なんて何て態だい。
あなたこそ、私の第一番に送らねばならぬひとです。私
の関係が、はっきり伊東の片思いとなったところで書かれて
の詩はいろんな事実をかくして書いてをりますので、他
それより私はつるみたいと云え。/大否定/大悲観/そ
と。この一連の記事を読んで行くと、五月十九日の酒井家に
人はよみにくいと存じますが、百合子さんはよみにくく
いることを知るのである。例の昭和十年十一月二日付けの百
泊まった夜に、何か百合子との間にあったことが知られる。
ない筈です。あなたにもわからなかつたら、もう私の詩
こからのみ大往生の心が生ずる。軽々しくしたり顔して
その後、九月二十三日、十月三日には、ゆり子に手紙を書い
もおしまひです。家島のことや姫路のことや本明川のこ
合子宛の書簡に、
ており、全集書簡編には、十月十一日発信の、転宅通知のよ
肯定する勿れ。
うな封書が見え、以後も多くの書簡が存在する。
とあることや、
﹃夏花﹄を刊行した後に、
﹃わがひとに与ふる
実生活の上では、非常に危険な時期であつたやうな気が
れる。ほかに、吉田仙太郎氏の﹁編集後記﹂によれば、長女
けられていた︶があったが、今は完全に行方不明と言われて
とあることが、理解されるのである。
﹃わがひとに与ふる哀歌﹄
する。詩と同じ程度に、いつもその頃は故知らず激して
所収の、痛めつけられた抒情を、詰屈な調べに盛った詩 は、
いるとのことである。今回見出だされた日記は、昭和七年四
の日記の空白の間、とくに行方不明の﹁黒い手帳﹂の記述が
成就しなかった百合子への思いをデフォルメして作り出され
ゐて、家の中に居ても、並外れた言動をしてゐた﹂
︵
﹁コ
気がかりだが、この日記の出現からも、多くのことが知られ
月、山本花子と結婚する前に、弟の井上寿 恵 男 に、
﹁誰 に も
る。私は、
﹁抒情詩集︱わがひ と に 与 ふ る 哀 歌︱﹂
︵
﹃日 本 文
たものであったと言えよう。
ギト﹂昭和十五年五月︶
学史を読む﹄
︶に記したように、
﹃わがひとに与ふる哀歌﹄の
見せないように﹂と言って預けたものということである。そ
哀歌﹄を出した頃を回顧して、
とがどつさり歌つてある筈です。
!
まき氏が、住吉中学校教員時代の日記︵
﹁黒 い 手 帳﹂と 名 付
伊東の日記は、全集日記編に昭和十三年以後のものが見ら
!
︵しまづ ただお/大阪大学名誉教授︶
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老のくりごと
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