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新潟大学人文学部 日本文化(言語文化系)履修コース 2005年度 卒業

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新潟大学人文学部 日本文化(言語文化系)履修コース 2005年度 卒業
卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
新潟大学人文学部
日本文化(言語文化系)履修コース
2005年 度
卒業論文概要
―清少納言が描いた「美」― ..........................................2
高橋
直子
『枕草子』の研究
角谷
恵理奈
『源氏物語』の研究
徳田
佳那子
『更級日記』研究
山崎
雅恵
『建礼門院右京大夫集』の研究
―光源氏との兄弟関係に見る朱雀院の姿― .................4
―物語幻想と自己認識―..................................................6
―「夢」そして「生きる」意義を求めて―7
横倉純一郎
「死首の咲顔」をめぐる一考察 .....................................................................9
和田
『椿説弓張月』考
浩子
―八町礫紀平治について― ............................................10
LEE MI SUK
「蓼喰ふ虫」について.................................................................................12
今井
伊東静雄における〈歩行〉について ............................................................14
政之
2005年度卒業生
卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
高橋
直子
『枕草子』の研究
―清少納言が描いた「美」―
『枕草子』は、三百あまりの長短様々な章段からなり、その内容も、定子サロンの様子を描く
ものや、自然を描写するもの、物の名を列挙するものなど、多岐にわたる。本稿では、それらの
記述の中から、自然描写、人間描写の部分を抽出し、分析することで、清少納言の美意識、つま
り、清少納言はいかなるものに美を感じたかということを考えた。さらに、そのような美を発見
し、描いていった清少納言の、「美」に対する姿勢についても検討した。
第一章
自然の描き方
清少納言の自然の描き方については、様々な切り口から、多くの指摘がなされている。そのた
め、まず第一節では、『枕草子』の自然描写についての先行研究をまとめた。その際、風巻景次
郎氏による、『枕草子』の叙景は「諸種の条件がある一定の事情のもとに結合されたる短少なる
時間の截断面」であるとする指摘をもとにして、そこからさらに発展させている論をいくつか紹
介した。風巻氏の指摘からもわかるように、先行研究では、『枕草子』の自然描写の特徴として、
描写される対象が静態で捉えられ、描かれていることがあげられる。また、それに加えて、清少
納言の色彩感覚が鋭いことや、「短少なる時間の截断面」とは、動きの中の「一瞬の停止の相」
であることが指摘されていた。
これら先行研究における指摘をふまえ、続く第二節では、「色彩の対比」という視点から、第
三節では「時間の推移」という視点から、『枕草子』の自然描写の特徴をみた。
まず、自然描写における色彩の対比の特徴として、緑系統の色と、赤系統の色との組み合わせ
が多いことがあげられる。さらに、この色の組み合わせで描かれた対象は、宮廷貴族の生活圏外
にあるものばかりだということが確認できる。このことから、清少納言は、宮廷生活の中でよく
目にするものだけでなく、普通はあまり貴族の目に留まらないものにも、色彩の対照的な美しさ
を見いだしていることがわかった。また、和歌において、色彩という視点ではあまり表現されな
い対象でも、その色に注目して美しさを述べている部分がある。ここからも、清少納言が、きび
しい目で対象を見つめ、色彩の対比をもって、対象の美しさを表現しているということがいえる。
一方、「時間の推移」という視点からいくつかの章段を分析してみると、時間の変化につれて
表情を変えていく自然の姿が描かれているということがわかった。清少納言は、周囲の環境の変
化に合わせ、感覚を敏感に使い、移ろいゆく自然、移ろいゆく時を感じている。先行研究では、
『枕草子』の叙景は、一瞬の静止の姿であると特徴付けられていたが、動きのない一瞬の相を描
いただけでは表現し得ない、刻々と移り行く自然の表情を描き出している部分もあることが指摘
できた。
第二章
人間の描き方
第一節では、最も美しい人間として描かれている、中宮定子の描写を分析し、いかにして、そ
の美が表現されているかを確認した。衣裳を中心とした色彩の美しさや、和歌や漢詩の高い教養
がその美質の中心であるが、ただ肯定的な評語で定子の美を表現するのではなく、絵画や物語と
いう現実ならぬものを引き合いに出し、言葉においてはもちろん、想像でさえ表現しえないもの
として、定子の美を位置づけている。
2005年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
第二節では、「すぎにたる事わすれぬ人」つまり、以前の会話の内容を忘れずにいる人物に注
目した。清少納言がそのような人物を高く評価し、魅力を感じたのはなぜかということを、『枕
草子』執筆中に清少納言のおかれていた状況をふまえ、検討することを通して、清少納言の深層
の意識を考えた。
以上の視点からみた「美」の描写を通して、清少納言が描こうとした「美」は、どのような意
識に裏打ちされていたものなのかということを私なりに検討した。
2005年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
角谷
恵理奈
『源氏物語』の研究
―光源氏との兄弟関係に見る朱雀
院の姿―
本稿では、『源氏物語』に登場する多くの登場人物の中から、朱雀院に焦点を当てた。朱雀院
は光源氏の腹違いの兄であり、右大臣の娘・弘徽殿大后を母に持ち、政治的には臣下に下された
光源氏よりもはるかに上位にいる。だが、その性格は、祖父右大臣や母弘徽殿大后に対して弱々
しく自己主張できず、また、弟であり臣下でもある光源氏に対しては、自分の妻である朧月夜と
の関係を知りながらも容認するという態度を見せる。朱雀院のこのような性格や態度はいったい
どこからくるものであろうか。それを明らかにするため、光源氏、朧月夜との関係にと注目しな
がら考察を行った。
第一章では、光源氏との兄弟関係を見ていくことで、そこに見えてくる朱雀院の姿を明らかに
していった。朱雀院と光源氏は子どものころから二つの決定的な違いを与えられていた。一つは、
政治的な立場における春宮と臣下として違い。もう一つは、父桐壺院から強い愛情を受けていた
光源氏に対し、朱雀院は桐壺院から光源氏ほどの愛情を受けることがないということである。し
かし、このような違いを与えられながらも、二人の関係は互いに心の内を語り合い、美しい月を
眺めながらしみじみと、同じ時間を、そして父への想いを共感できる関係である。朧月夜との関
係を容認した背後には、弟光源氏のすばらしさを心から認め、見守る優しい兄の姿が浮かび上がっ
てきた。そんな二人の共感の想いは、朱雀院の母弘徽殿大后の存在のよって、一時邪魔をされる
が、母の朱雀院への愛情が政治的な立場へのこだわりだけからくるものであった為、朱雀院の心
は徐々に母から離れ、朱雀院の自己主張が表れてくるのである。
第二章では、朱雀院と光源氏の様子を朧月夜との関係に注目しながら考察していった。朧月夜
は光源氏の須磨退去の前と後で、その光源氏への気持ちに大きな変化が起こっている。感情のま
まに光源氏への愛だけに生きていたのが、光源氏への思いを断ち切り朱雀院のそばで尚侍として
の立場に背くことなく生きていくようになるのである。その変化は、朱雀院によってもたらされ
たものであった。朱雀院の存在は、朧月夜を社会的な立場をわきまえた大人の女性へと変化、そ
して成長させたのである。そこから見える朱雀院の姿は、光源氏のように、その輝くばかりの魅
力で人の心を動かしたりすることはできないが、時間をかけてゆっくりと朧月夜を変化させるこ
とのできる人物である。これが朱雀院のもつ人間性であり、光源氏の超人性とは違う魅力である
と思われる。しかし、このような朧月夜の変化は、実は表面上のものであったということが、光
源氏との再会によって明らかになる。朧月夜の変化は、朧月夜自身の変わらなくてはいけない、
という強い思いによって被われた、外面的な変化であったと考える。
第三章では、まとめとして第一章、第二章の内容を踏まえ、今一度朱雀院の姿を捉えなおした。
それによって、朱雀院は人間の真の価値を見抜く目を持っていたという結論に至った。春宮や帝
という政治上の立場の高さは、朱雀院にとって何の意味も持っていなかった。朱雀院は、もっと
個人的なところで、人間の価値を判断していたのである。光源氏の素晴らしさを認め、心から理
解し合えたことも、弘徽殿大后から離れていったことも、更には朧月夜に与えた変化も、すべて
この朱雀院の人間の真の価値を見抜く目からきていると考えるとつじつまが合うように思われる。
朱雀院という人物は、光源氏と比較されて、光源氏の引き立て役として光源氏に到底敵わない兄
2005年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
として描かれ、祖父や母に対しては全く自己主張の出来ない無能な弱い帝としての姿ばかりがい
われてきた。だが、朱雀院はそのままの姿で終わらなかった。自らの力で母に打ち勝ち、その後
の人生は自己主張できる人物として生きていく。そのような朱雀院の姿は、高く評価できよう。
2005年度卒業生
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新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
徳田
佳那子
『更級日記』研究
―物語幻想と自己認識―
作者の物語への憧憬に始まり、晩年に作者がその人生を見つめなおすまでの過程を丁寧に辿っ
てゆく。作者・菅原孝標女が十三の年からおよそ四十年に及ぶ自分の人生を回想的に追って綴ら
れた『更級日記』は四百字詰め原稿用紙に換算しておよそ九十枚程度の非常に短い作品である。
それだけに、そこに記述されているいくつかのまとまった事柄、例えば「『源氏物語』憧憬」や
「夢」といったキーワードは諸説にもあるようにどれもこの日記を論ずるうえで重要なものであ
る。
まず、作者の物語憧憬がどういうものであったのか、ということを本文から具体的にいくつか
の事柄を取り出して検討していった。ひとつは、『源氏物語』への憧憬、とりわけその登場人物・
浮舟に対する憧憬についてである。
作者と出身を同じとする浮舟に彼女は強い憧れを抱いていた。
そしてこの浮舟憧憬はその生涯消えることはなかった。また、作者を取り巻くいくつかの死別の
記事についても検討した。これはその別れの場面に、作者が憧憬していた物語世界が存在してい
たか否かで作者は記事を選択したのだと結論づけた。
次に「夢」の記事である。日記中全十一の夢の記事の表現にはあるところから変化が見られる。
その変化は先行研究をふまえたうえで、作者の日常認識の段階と相即的に結びついていると結論
づけた。では、作者は日常認識から物語と訣別したのかというところが最後に論ずるところであ
る。
彼女が日記執筆時の視点からその生涯を回想している記述がいくつかある。それらは、作者の
晩年の自己認識、そして『更級日記』の主題を模索するうえでは欠かせないものとなっており、
この回想の記述から諸家が様々な『更級日記』の主題を導いている。それらに共通するのは作者
の晩年の自己認識ではその生涯は若かりし頃の物語憧憬に対する「悔恨」に満ちたものである、
という結論である。そしてその悔恨がこの日記の主題や執筆の契機となったものであるとされて
いるようである。しかし、私は作者が晩年その人生を振り返ったときに不幸であったと諸家が捉
えていることには同意するが、はたしてそれが必ずしも「悔恨」に結びつくものではない、と思
うのである。少なくとも悔恨からくる決定的な改心や来世への誓いはみられない。作者は自分の
物語世界を憧憬し続けたその前半生を、そして不幸であったと認識した後半生に対して決して悔
恨の念で統一しようとはしていないのである。自分の人生をそこでいったん捉えなおすという作
業を通してその後、作者は出家しない。『夜半の寝覚』や『浜松中納言物語』という作品を後世
にまで残す「物語」作者になっていったのである。
浮舟の話に戻る。浮舟という存在を自己に投影させるという行為は日記冒頭の自己規定におさ
まらない。日記終末部分の「久しうおとづれぬ人」とのやりとりは浮舟が出家を僧に請う場面と、
また作者が『後の頼みとしける」という阿弥陀仏来迎への期待の記述も、浮舟が阿弥陀仏に思い
を紛らわしていた場面と通じるものがある。少女の頃にあこがれの対象となった「浮舟」という
存在が日記の冒頭から終末まで、そして執筆時の作者の意識にまで生き続けているのである。こ
れを考えるとき、その後も物語作者としての人生を歩んでいくことからも、作者は決して過去の
物語憧憬に明け暮れた人生に対して悔恨の念を日記に綴ろうとしたのではない。人生の一区切り
としてそれまでの人生を静かに見つめなおすという作業をしたのである。
2005年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
山崎 雅恵
『建礼門院右京大夫集』の研究 ―「夢」そして「生きる」
意義を求めて―
本稿は、『建礼門院右京大夫集』の中で表現される「夢」という言葉に注目して考察を進めて
いった。家集の背景に『平家物語』が存在していること念頭に置く。右京大夫は源平の動乱の世
を、まさに変革期の真っ只中を生き抜いた女性なのである。しかし、右京大夫は『平家物語』に
名を連ねる女性たちとは異なっている。小宰相のように、夫の最期を聞くにつけ西の山の端を西
方浄土と思い海中に身を投じたり、建礼門院(徳子)のように、仏に仕える身となる出家の道を。
選ぶことはなかった右京大夫は「一人生きる道」を選んだのであった。
では、右京大夫の「生きる」意義とは何であったのか。右京大夫が目にした平家の栄華から滅
亡まで、そして絶望を経験してきた彼女はどのような「夢」を見たのであろうか。家集に登場す
る「夢」は17箇所である。その分類から「夢」を手がかりとして、意味の上で関連性を持つで
あろう言葉を探し出し、最終的に右京大夫にとって「夢」とは何か、そして「生きる」意義にま
で考察を行った。
序章では、身分や血筋、性格といった面から「建礼門院右京大夫」という女性について言及し
ている。また、作品の成立・構成、史実と回想、右京大夫を取り巻く人々についても簡単ではあ
るが述べている。
第一章では「夢」について、小野小町の「思ひつつ寝ればや人のみえつらむ夢としりせばさめ
ざらましを」の歌を参考に取り上げるなどして、現代語の持つ意味と古語の意味の違いを調べて
「夢」という語を正確に捉えることを目的とした。
第二章から第四章では17回登場する「夢」を分類して、それぞれの立場で比較して考察を行っ
た。右京大夫が愛した藤原隆信と平資盛、そして平家滅亡を表現することにそれぞれ「夢」とい
う言葉が使われている。とりわけ愛について詠んだ歌が大半を占めているので、必然的に「愛の
対象」への歌は多くなる。しかし、明確に異なっているものがあった。それは右京大夫の「想い
の深さ」とでも言うべきであろう。隆信との歌の贈答よりも、はるかに資盛との贈答は少ない。
それでも「夢」という言葉が伝える「資盛への愛」は確かに深いものであったということを論じ
ている。
そして第五章では資盛の「面影」について、今までの章を振り返りながら「夢」との関連性を
述べている。ここでは参考資料として『篁物語』を挙げ、「面影」の意味を辿り、右京大夫にとっ
て資盛の存在がいかに大きなものであったかを検証していく。
第六章では「さめやらぬ夢」という表現について考察し、まとめに入る。同じ「夢」でも資盛
を感じさせる要素を含む「夢」には、隆信との贈答には見ることのできない強い愛情と、誰しも
経験したことがない悲しみが溢れんばかりに込められていた。つまり、右京大夫にとって「さめ
やらぬ夢」とは生涯愛することになった資盛であった。彼の面影は身に添い、ありありと右京大
夫のもとへ現れる。
まとめにかえて…右京大夫にとって生きる支えとなったもの、それは資盛の死を受け入れるこ
と。見返りを求めない直向な愛、そして最後まで彼の死を悲しみぬくことであった。そして右京
大夫が資盛を弔う唯一の人であったから。資盛という一つの命が生き、そしてはかなく散っていっ
たことを後世に残すために右京大夫は生きたのである。
2005年度卒業生
7
卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
自分を愛し、愛しきることなく亡き人となってしまった資盛。資盛に愛されそして、はかなく
終わりを迎えてしまった。そんな資盛を愛しきることができなかった自分の命。その二人命の証
を残すために右京大夫は生き、そして筆を執った。最終的にこのような結論に達した。
卒業論文で「右京大夫」という一人の女性に出会い、そして心で向き合うことができたことを
私は嬉しく思う。
2005年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
横倉純一郎
「死首の咲顔」をめぐる一考察
目次
はじめに
第1章:先行研究のまとめ
第2章:「ますらを物語」との比較
第3章:考察
上田秋成の読本『春雨物語』中の一編「死首の咲顔」は、いわゆる源太騒動を元に描かれてい
るが、先行して描かれた「ますらを物語」とはその趣を異にしている。「ますらを物語」が源太
一家の「ますらをぶり」を描くことに主眼が置かれていたことはおよそ確からしいと言える。し
かし、「死首の咲顔」についての見解はさまざまであり、今日に至るまではっきりとした答えは
出ていない。また、「首斬り」の場面を中心とした後半部分においては一部では未推敲と言われ
ているように不可解な印象を読者に抱かせるものとなっている。
そこで本稿においては、第一章で、「死首の咲顔」の主題について先行研究でいわれる諸説を
まとめた。第二章ではこれまでの先行研究を踏まえたうえで、「ますらを物語」・「死首の咲顔」
を比較し、変更点や強調されている点を明らかにした。第三章では第二章で挙げた変更点や強調
されている点の中でも、特に結末部分(首を切り落とす場面)に注目し、その構成の手法と、それに
よってもたらされる効果について考察し、秋成が「死首の咲顔」という作品の中で表現しようと
したものを明らかにした。
2005年度卒業生
9
卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
和田
浩子
『椿説弓張月』考
―八町礫紀平治について―
曲亭馬琴作の『椿説弓張月』(以下『弓張月』)は二十八巻二十九冊(初版本)から成る読本
で、挿絵は葛飾北斎が描き、文化四年(一八〇七)から文化八年(一八一一)にかけて刊行され
た。角書に「鎮西八郎為朝外伝」とあり、前編、後編、続編、拾遺、残編の五編を通して源為朝
の遍歴と活躍、そしてその息子の舜天丸が琉球王になるまでを史実に沿いながら虚構を織り交ぜ
て描き、『南総里見八犬伝』や『開巻驚奇侠客伝』等に先立つ馬琴の長編読本の初作である。か
つ、歴史上報われることなく散ってしまった人物を虚構をもって活躍させる史伝物の最初の作品
でもある。『弓張月』は後期読本というジャンルにおいても、また馬琴という読本作者において
も重要な契機となった作品として認識されている。
『弓張月』は『保元物語』の枠組みに拠ってはいるが、『保元物語』に見られた為朝の傍若無
人さや悪行を緩和したり正当性を持たせて、為朝をその強さだけでなく人格的にも誰もが認める
真の英雄として理想化し確立させている。
その理想的な英雄である為朝に仕える者たち、忠臣たちは多く登場するが、その中でも最も重
要な家臣は「八町礫紀平治」であり、この人物は自身が家族関係において琉球と深く関わってお
り、『弓張月』を構成する日本と琉球という二つの舞台を結びつける役割を持つ。しかし、この
点以外にも紀平治には他の忠臣たちとは違う特殊性があり、重要な役割を担っていると考えられ
る。
その一つとして、為朝だけでなくその妻子(白縫・舜天丸)にも深く関わっていることが挙げ
られる。為朝の不在中に白縫、舜天丸にそれぞれ仕えて助けとなっており、紀平治は為朝が活躍
したり本懐を遂げるためにその空いた穴を埋める「為朝の代わり」という面を持っていると考え
られる。日本で為朝に仕えていた他の者たちは為朝のために惜しむことなく命を捨て、その死に
よって彼等の忠を示している。それとは対照的に、阿公との秘められた関係を後に琉球で明らか
にする必要があることや為朝親子を日本から琉球へと舞台を移させるためなどの役割から、死ぬ
ことではなく生き続けることが「為朝の代わり」としての紀平治の忠の形であった。
また、仙境・姑巴嶋での舜天丸との生活によって紀平治自身も福禄寿仙や為朝に通じるような
仙の要素を帯びることになった。役割の点においても、福禄寿仙と紀平治は日本から琉球へと繋
がる道を作っていることや舜天王の御世を見守り続けるなどの点が共通する。為朝は神的なもの
に守られ最後には自身が昇天して神に等しい存在となるが、為朝の代わりとしての役割を担う紀
平治にも同じように超越的な要素が付与され、為朝に通じる一面を持っていることを窺うことが
でき、この点においても他の家臣とは一線を画している。一方で、紀平治は「礫」という要素が
暗示するように、非凡な力を持ちながらも主とは成りえない従としての立場でこそ力を発揮する
人物として存在している。為朝が理想的な曇りない英雄として伝説を生み出したり活躍して輝く
ために紀平治は不可欠な「為朝の代わり」であり為朝に通じる要素をも帯びていながら、それを
生かした臣下としての立場でこそ紀平治の力は効力を持つことになる。
大高洋司氏は、馬琴が前編執筆段階では琉球王(舜天王)は為朝だと考えていたのが、文献に
おいて息子が琉球王とあるのに気づき、以後構想を変更したと指摘している。そのように初めは
王となる予定だった為朝から実際に王になる息子へと王としての要素あるいは資格というものが
構想の変更に伴ってどこかで移譲されなければならないが、舜天丸は仙という超次元の要素を体
2005年度卒業生
10
卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
得することでそれを実現する。王としての資格を為朝から舜天丸へと移すため、舜天丸は為朝と
別れて姑巴嶋での生活をする必要があり、そこで代わりに舜天丸を養育するのが紀平治だった。
構想の変更から必要となった転換点を無理なく処理するために紀平治という人物の存在が有効に
機能していると考えられる。
為朝が日本及び琉球において理想的英雄であるためには紀平治という理想的忠臣が不可欠であ
り、また『弓張月』という作品が成り立つためにも単に日本と琉球を結ぶということだけではな
い、為朝が光であるならその影として紀平治は重要な役割を担っているのである。
2005年度卒業生
11
卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
LEE MI SUK
「蓼喰ふ虫」について
坂上博一(「『蓼喰ふ虫』をめぐって」
『日本近代文学』
昭五〇・一〇)の指摘どおり、
昭和三年に発表された「蓼喰ふ虫」は、谷崎潤一郎をして一流の大作家たらしめた後期谷崎文学
の幕明きの作品であり、言い換えれば、谷崎文学の後期の作品を研究する上で「蓼喰ふ虫」は最
も重要な位置を占めていると言えよう。
しかし、先行研究を分析してみると、ほとんどが古典回帰や〈千代夫人譲渡事件〉に重点をお
きながら考察していることがわかる。筆者も谷崎の関西移住をきっかけとする古典趣味や千代夫
人をめぐる佐藤春夫と谷崎の関係を説いた論に納得はいくものの、現在までの先行研究はこれら
の問題に焦点が当てられすぎているため、後期作品に見られる「老人性」についてはあまり言及
されておらず、この点について考察する余地があるのではないかと考えた。
「蓼喰ふ虫」は、要夫婦の危機的生活と老人とお久ののどかな生活、そして要とルイズとを中
心とするモダニズム的異国情趣といった三つの要素からなる。
まず、要夫婦の生活を見ると、夫婦は互いの思考、性格を認め、理解しているものの、性的不
一致から世間を欺くだけの生活をしている。それに対し、義父である老人は、お久という妾を持
ち、古典芸術の世界に親しんでいる。
松本清張は、「『潤一郎と春夫』抄
八」(『昭和史発掘3』文芸春秋
昭四〇・一二)で、
要夫婦が直面している「離婚」問題と谷崎の実生活とを関連付け、「事実、この時期の谷崎の胸
中には、千代と離婚したい希望が再び強まってきていて、その実行方法を苦慮している様子が反
映し」た「私小説」」だ、と断定している。実生活が作品を追いかけるように佐藤春夫への〈千
代夫人譲渡事件〉が起こり、そのような作品と実生活との一致が私生活の方面に作品を解釈する
ようにうながしたことによるところが大きい、結果論的な性格が強いため、「私小説」という見
解はいささか無理がある。
そして、坂上博一の指摘通り、「蓼喰ふ虫」の意義が、谷崎の関西移住をきっかけとする西洋
趣味から東洋的古典趣味への移り代わりという「作家としての内面形成史の転換に立つという点」
(「『蓼喰ふ虫』をめぐって」
『日本近代文学』
昭五〇・一〇)にあるとすれば、「東洋的
古典趣味」を持つ老人についてなんら考察すべきではないかと思った。
第一章においては、老人の名前がないことに着目し、主人公要が直面している現実における老
人の正体、役割、意味を考えてみた。
老人の招待から人形浄瑠璃世界と接するようになる要は、老人の道楽に憧れを覚えながら老境
に入ることは必ずしも悲しくはないと、「老境でおのづからなる楽し」さを感じ取るのである。
また、老人の妾であるお久を骨董にたとえ骨董趣味は「性欲の変形」であると、老人の変形した
性欲世界に共感を示すのである。
そして、このような共感は、老人の「一と昔前」の中から現在そっくりの主人公要を見ること
ができ、老人の中に自己投影するのである。したがって、老人の現在は要のやがてたどり着く場
所であり、要の現在は老人の一と昔前だったのである(前田久徳 「『蓼喰ふ虫』論――淡路とい
う〈空間〉」
『谷崎潤一郎
物語の生成』
洋々社
平一二・三)。
なるほど、小説の中で決して老人の名前の明かされることなく終わってしまうのは主人公要の自
画像であったからである。
2005年度卒業生
12
卒業論文概要
新潟大学人文学部日本文化(言語文化系)履修コース
第二章では、そのような現実を踏まえた上で、要の理想女性像はどう変わっていくのか、要と
三人の女性登場人物に焦点を当てて考察してみた。
まず、老人によって人形のように教育されるお久と、性的不一致から離婚問題を抱えている要
の妻美佐子、そして唯一要と肉体的関係を持ち、性的一致するものとして書かれているルイズで
ある。尾高修也は、作品の中で四十代に設定された要の年齢に注目し、「昔のことばでいう『初
老』を意識するとき、まだ十分若さを感じていながら、性的な不安があなどれないものになって
くる。」と指摘している。そして、そのような要の不安は三人の女性と密接なかかわりをもって
広げられるのである。
以上のように、本論では「蓼喰ふ虫」における主人公要の肉体的な自身と不安から、以後の作
品に見られる「老人性」への影響を明らかにした。
2005年度卒業生
13
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今井
政之
伊東静雄における〈歩行〉について
本稿は昭和初期に活躍した詩人である伊東静雄の作品における、〈歩行〉についての論考であ
る。伊東静雄には『わがひとに与ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』『反響』の4つの詩集があ
るが、それぞれの作風は大きく異なっている。その相違についてはそれぞれの特徴をもって比較
することができ、創作時期における詩人の苦悩やモチーフについては様々な見解がある。だが〈歩
行〉に関する表現に関して論じたものは管見するかぎり僅少であったと言わなければならない。
伊東の処女詩集である『わがひとに与ふる哀歌』に収録されている27作品のうち、10作品
に〈歩行〉に関する表現が確認できる。「『わがひとに与ふる哀歌』という詩集のひとつのめざ
ましい特徴は、運動、移動を示す語彙に或る特別な重みが託されていることである。この詩集が
静的な悲壮さのなかに、意外な動性を隠しているのはそこに由来している」という菅野昭正の指
摘が示すように、『わがひとに与ふる哀歌』において、〈歩行〉をはじめとする身体的な行動は、
看過できない特徴の一つである。しかし、その後の詩集『夏花』『春のいそぎ』では一転して〈歩
行〉に関する表現が認められなくなる。そして伊東の最後の詩集となった『反響』において、〈歩
行〉に関する表現は再び頻出するようになる。
このように『わがひとに与ふる哀歌』で頻出する〈歩行〉が次の二つの詩集では影を潜め、『反
響』で再びあらわれるのは何故なのか。〈歩行〉に関する表現が、詩集ごとに作風の違いとして
色濃く反映された詩人の何かに触れているとすれば、伊東静雄にとって〈歩行〉とは何であった
のか。本論では以下この点について、詩集の発刊された順に従って考察をすすめていった。
第一章では『わがひとに与ふる哀歌』における〈歩行〉を中心に考察した。第一節では『わが
ひとに与ふる哀歌』以前に発表された初期作品から『わがひとに与ふる哀歌』までの詩人の変遷
を作品中の表現に注目しながら辿っていった。第二節では詩人の〈歩行〉の終着点となる目的地
の至高性について、〈歩行〉と同様に作品中にたびたび確認される〈飛翔〉に関する表現との比
較することで論考をすすめた。第三節は、それらを踏まえた上での『わがひとに与ふる哀歌』に
おける〈歩行〉の特徴についての考察となっている。
第二章は『わがひとに与ふる哀歌』以後の詩作品についての考察である。第一節、第二節では、
『わがひとに与ふる哀歌』以後、〈歩行〉に関する表現がなぜ作品に表れなくなっていったのか
について、『わがひとに与ふる哀歌』以後、『夏花』発刊に至るまでに発表された作品と『夏花』
を中心にすえ、考察した。第三節は『春のいそぎ』についての考察である。第四節は『反響』に
おいてふたたび〈歩行〉に関する表現が認められる点について、詩人の詩精神の変遷やその背景
についての考察となっている。
2005年度卒業生
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