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林訳『巴黎茶花女遺事』の語りと文体(上)

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林訳『巴黎茶花女遺事』の語りと文体(上)
東北大学中国語学文学論集 第 16 号 (2011 年 11 月 30 日)
林訳『巴黎茶花女遺事』の語りと文体(上)
――「風景」/「内面」の発見と語りの形式――
中里見 敬
疑似直接話法(引用者注:自由間接話法に相当するロシア語の話法)に表現を見いだしている本質的
にあたらしい他者の言葉の受けとめ方が成立するためには、社会的・言語的交通の内部や発話
の相互定位にかんしてなんらかの変動、変革が生じなければならなかった。
――ミハイル・バフチン1
本稿では、曉齋主人(王寿昌)口述・冷紅生(林紓)筆記『巴黎茶花女遺事』(1899)の
読み――とりわけその語りの形式、および作中人物の発話の引用形式(話法)の分析――
をとおして、中国近代の小説言語にバフチンのいう「著者のことばと他者のことばのあい
だのまったくあたらしい相互関係」が誕生する現場を見ていきたい2。
一、林訳『巴黎茶花女遺事』の全般的特徴
林紓訳『巴黎茶花女遺事』の文体および翻訳の基本的特徴を理解するために、まず冒頭
部分から読み始めることにしよう。最初に林紓訳を引用し3、次に対比の参考のために【 】
内に王振孫による現代中国語訳を引く4。本来ならフランス語原文と林訳を直接対照すべき
ところ、本稿では忠実な逐語訳と見なしてさしつかえない王振孫訳『茶花女』
(1980)を
便宜的に引用し、フランス語原文は注に掲げることとする5。林訳で省略された部分は王訳
の該当箇所に下線を付し、
逆に原文に対応する箇所のない林訳には波線を施す
(以下同じ)
。
紙幅の都合により、王訳の改行はスラッシュ「/」で代用する。
(1)小仲馬曰:凡成一書,必詳審本人性情,描畫始肖;猶之欲成一國之書,必先習其
‧‧
國語也。(2)今余所記書中人之事,爲時未久,特先以筆墨渲染,使人人均悉事係紀實,
雖書中最關係之人,不幸殀死,而餘人咸在,可資以證。此事始在巴黎,觀書者試問巴
黎之人,匪無不知,(3)然非余亦不能盡舉其纖悉之事;葢余有所受而然也。(4)余當一
109
マ
マ
ママ
千八百四十年三月十三日在拉非德見黃榜署拍賣日期,(5)爲屋主人身故,身後無人,
故貨其器物,榜中亦不署主人爲誰。(6)准以十六日十二點至五點止,在恩談街第九號
屋中拍賣。(7)又預計十三十四二日,可以先往第九號屋中省識其當意者。(8)余素好事,
意殊不在購物,惟必欲一觀之。(9)越明日,余至恩談街,
(1 葉 a 面/140 頁)
【(1)我认为只有在深入地研究了人以后,才能创造人物,就像要讲一种语言就得先认
真学习这种语言一样。/既然我还没到能够创造的年龄,那就只好满足于平铺直叙了。
/(2)因此,我请读者相信这个故事的真实性,故事中所有的人物,除女主人公以外,
至今尚在人世。/此外,我搜集在这里的大部分材料,在巴黎还有一些人证;如果我的
证据还不够的话,他们可以为我作证。(3)由于一种特殊的机缘,只有我才能把这个故
事写出来,因为惟独我洞悉这件事情的始末,否则是不可能写出一篇完整、动人的故事
来的。/下面就来讲讲我是怎样知道这些详情细节的。/(4)一八四七年三月十二日,
我在拉菲特街看到一张黄色的巨幅广告,广告宣称将拍卖家具和大量珍玩。(5)这次拍
卖是在物主死后举行的。广告上没有提到死者的姓名,(6)只是说拍卖将于十六日中午
十二点到下午五点在昂坦街九号举行。/(7)广告上还附带通知,大家可以在十三日和
十四日两天参观住宅和家具。/(8)我向来是个珍玩爱好者,决不能坐失良机,即使不
卖,也要去看看。/(9)第二天,我就到昂坦街九号去了。
(1 頁)
】6
「凡そ……」と始まる冒頭の一文(1)は、あたかも論の作者が一般的な真理を説き起こすか
のようである。原文では、
「人間というものをじっくり研究してからでなければ、小説の登
場人物を作りだすことなどできない」にもかかわらず、
「わたし自身はまだ何かを発明でき
るほどの年齢にはなっていないので、ありのままに語るだけで満足することにしよう」
(朝
比奈訳 7 頁)7と続くのであるが、その後半は省略されている。次に、(2)「いま」
「わたし」
が書き記すことの真実性を保証する理由として、一人を除いて登場人物がみな生きている
こと、パリの人々は誰でもこの事件を知っていることを挙げる。さらに、(3)「わたし」し
か知りえない事情があることによって、他人ではなく「わたし」がこの物語を語らねばな
らない必然性が宣言される。こうして語りの機制が作動し始めるのである。なお、林訳の
冒頭に付加された「小仲馬曰」は、伝統的な中国の史伝・小説において作者の評語を導く
標識であり(例えば『史記』の「太史公曰」
)
、以下の語り手「余」が小仲馬であることを
示す。
「小仲馬曰」の四字を加えることによって、三人称による語りが圧倒的であった中国
の小説に、デュマ・フィス自身による一人称の語りがすんなりと受け入れられることが可
能となったわけである8。
続いて、(4)ラフィット通りで競売の公示を見たこと、(5)その競売は所有者の死去による
ものだが、所有者の氏名は明示されていないこと、(6)競売の日時と場所、(7)競売の前に下
110
見ができること、(8)骨董好きの「わたし」が下見に行く決心をしたこと、(9)そしていよい
よ翌日、アンタン通りへ下見に出かけたことが、加除のない訳文で示される。
以上、冒頭の約 300 字を見たところ、下線部のように省略される箇所がないわけではな
いものの、基本的に原文から大きく逸れることのない正確な翻訳であることが理解できる
だろう。引き続き、競売の下見に出かける場面を見てみよう。二重下線は林訳と王訳とが
大きくずれる部分である(以下同じ)
。
(1)爲時尚早,士女雜沓,車馬已紛集其門;(2)眾人週閱之下,旣羨精緻,咸有駭歎之
狀。(3)余前後流覽,乃知爲勾欄中人住宅也。(4)是時閨秀來者尤多,皆頻頻注目。(5)
‧
‧
‧
葢良窳判別,平時不相酬答。而彼人華妝外炫,閨秀咸已見之,唯祕藏之處,不可得窺。
‧
‧
‧
‧
故此來尤蓄意欲覘其所有,亦婦人之常態也。(6)彼勾欄人生時,閨秀無從至其家。今
‧‧
其人旣死,閨秀以拍賣來,亦復無碍。(7)爾時眾心甚疑,器物華貴如是,生時何以弗
‧‧
‧
售,必待死時始行拍賣,議論籍籍,余亦弗載。
(1 葉 a-b 面/140-141 頁)
【(1)时间还早,可是房子里已经有参观的人了,甚至还有女人。虽然这些女宾穿的是
天鹅绒服装,披的是开司米披肩,大门口还有华丽的四轮轿式马车在恭候,(2)却都带
着惊讶、甚至赞赏的眼神注视着展现在她们眼前的豪华陈设。/不久,我就懂得了她们
赞赏和惊讶的原因了。因为(3)在我也跟着仔细打量了一番以后,不难看出我正处身在
一个高级妓女的房间里。(4)然而上流社会的女人――这里正有一些上流社会的女
人――想看看的也就是这种女人的闺房。(5)这种女人的穿着打扮往往使这些贵妇人相
形见绌;这种女人在大歌剧院和意大利歌剧院里,也像她们一样,拥有自己的包厢,并
且就和她们并肩而坐;这种女人恬不知耻地在巴黎街头卖弄她们的姿色,炫耀她们的珠
宝,传扬她们的“风流韵事”
。/(6)这个住宅里的妓女已经死了,因此现在连最最贞洁
的女人都可以进入她的卧室。死亡已经净化了这个富丽而淫秽的场所的臭气。再说,如
果有必要,她们可以推说是为了拍卖才来的,根本不知道这是什么人的家。她们看到了
广告,想来见识一下广告上介绍的东西,预先挑选一番,没有比这更平常的事了;而这
并不妨碍她们从这一切精致的陈设里面去探索这个妓女的生活痕迹。她们一定听到过一
些有关妓女的非常离奇的故事。
(1-2 頁)
】9
ここではかなり大幅な省略や改変が見てとれる。まず(1)では「ビロードの服」と「カシミ
アのショール」という具体的な服装の描写が省かれ、(2)では因果関係によって前後の文章
を結びつける脈絡が削られる。こうした省略にもまして注目すべきは、(5)や(6)のような一
見すると意訳のようでありながら、実は文言文の論理構成ないし対偶表現に基づいた文章
である。(5)は「蓋……,而……,唯……,故……,亦……」という接続詞の畳用によって
、、
、
緊密な文言文の流れが作られる(
「実は善悪の分別により平素付き合いなどないのだが、そ
111
、、、、、、
、、
うはいっても貴婦人たちはみな娼婦のきらびやかな外見を知っている。ただプライベート
、、
、、、、
な部分だけは窺い知ることができないでいた。それゆえわざわざその所有物を覗いてみた
、、、、、
いと思うのは、またそれも婦人の常態なのだ」
)
。一方、(6)は「彼勾欄人生時……,今其人
、、、、、
既死……」という対比的な構成に訳文を整えている(
「娼婦の生前、貴婦人たちはその家に
、、、、、、、、、、
行くことはできなかったが、いま彼女が死んだので、貴婦人たちは競売を理由に来て、何
の不都合もなかった」
)
。このように(5)や(6)は原文の冗長さを嫌って直訳を避け、緊密なあ
るいは対比的な文言文へと置きかえたものとみることができよう。最後の(7)「そのとき
人々はこんなに豪華な品々を、どうして生きているときに売らずに、わざわざ死んでから
競売にかけるのだろうと考え、あれこれ議論していたが、私はそれについてここでは記さ
ない」は原文になく林紓による創作であるが、
「生時……,死時……」という対比表現から
「議論籍籍,余亦弗載」とつなぎ、貴婦人たちの描写から語り手「余」による物語行為へ
と語りの位相を転換する流れはきわめて自然である。
多くの論者が指摘するように、林紓は原文を部分的に削除することがある。このことに
対しては、逐語訳が確立する以前の、大幅な省略や改変をともなう編訳が一般的であった
当時の翻訳状況に照らして考えるという観点が必要であろう。
二、林訳『巴黎茶花女遺事』における「風景」/「内面」の発見
だが林訳小説をもっぱら原作との対応という観点から見ただけでは、林紓の翻訳が中国
近代文学と小説文体に対して有した巨大な意義を覆い隠してしまうことになりかねない。
本章では、柄谷行人「風景の発見」――いま我々が自明視している「文学」が、明治期の
日本における認識論的な転換によって成立したことの歴史性を抉り出した批評――を参照
しながら、
『巴黎茶花女遺事』における風景に注目してみたい10。
(1)馬克在巴克尼時,故家眷屬咸集,有一公爵女公子,年與馬克埒,眉目衣飾與馬克
ママ
畢肖毫髮。(2)無何女公子死,公爵啣哀,不可以狀。(3)一日間行隄上,柳陰濃翳中,
見馬克微步苔際,倩影亭亭,酷肖其殤女,大驚,因與馬克執手道姓氏,自言殤女神情
與馬克肖,請自今移所以愛女者愛馬克。(4)馬克許之。
(2 葉 b 面/142 頁)11
【(1)在巴涅尔的病人中间,有一位公爵的女儿,她不仅害着跟玛格丽特同样的病,而
且长得跟玛格丽特一模一样,别人甚至会把她们看做是姐妹俩。(2)不过公爵小姐的肺
病已经到了第三期,玛格丽特来巴涅尔没几天,她就离开了人间。/就像有些人不愿意
离开埋葬着亲人的地方一样,公爵在女儿去世后仍旧留在巴涅尔。(3)一天早上,公爵
在一条小路的拐角处遇见了玛格丽特。/他仿佛看到他女儿的影子在眼前掠过,便上前
112
拉住了她的手,老泪纵横地搂着她,甚至也不问问清楚她究竟是谁,就恳求她允许他去
探望她,允许他像爱自己去世的女儿的替身那样爱她。/(4)和玛格丽特一起到巴涅尔
来的只有她的侍女,再说她也不怕名声会受到什么损害,就同意了公爵的请求。
(10 頁)
】
これはマルグリットがパトロンとなる老公爵と出会う場面である。(1)と(2)の林訳は、冗長
な原文を削除・改変して簡潔な文言文に直したものと見なせる。ところが、(3)で公爵が初
、、、、、、
そぞ
めてマルグリットと「道の曲がり角」で遭遇する場面は、
「一日閒ろ隄の上を行くに、柳陰
ひそ
きわ
の濃翳たる中に、馬克の微かに苔の際を歩くを見る」と、さながら中国の伝統小説で才子
、、、、、
と佳人が偶然に出会う場としてふさわしい「湖畔の柳陰」へと改変されている。ここでの
風景は、所与の既視感を有したいわば「山水画」としてのそれであって、中国文学の因襲
に従った表現にすぎず、まさに翻訳にあたって依拠すべき原文すら必要としない類のもの
だといえる。男女の出会いの場としてはあまりに殺風景な「道の曲がり角」を、林紓は「山
水画」的風景へと置き換えているのである。
次に、作品の中盤でマルグリットとアルマンがパリを離れ、田舎で幸せな生活を満喫す
る場面での風景を見てみよう。ここでは田舎ののびやかな景観と二人の高揚する気分とが
あいまって、上に見た「山水画」とはまったく異なる新たな「風景」が発見されている。
(1)車行一點半始至,憩一村店。店據小崗,而門下臨蒼碧小畦,中間以穠花。左望長
橋横亘,直出林表;右望則蒼山如屏,葱翠欲滴。山下長河一道,直駛橋外,水平無波,
瑩潔作玉色。背望則斜陽反迫,村舍紅瓦,鱗鱗咸閃異光。遠望而巴黎城郭,在半雲半
‧‧‧
霧中矣。配唐曰:“對此景象,令人欲飽。”余私計馬克在巴黎,余幾不能專享其美,
今日屏跡郊坰,麗質相對,一生爲不負矣。余此時視馬克,已非鶯花中人,以爲至貞至
潔一好女子。
(26 葉 a-b 面/178-179 頁)12
(2)是時三人乃沿水而行,至一處,見小樓兩楹,矗然水際,樓陰入水,作幽碧之色,
鐵闌一道,闌内細草如氈,樓外雜樹蒙密,老翠交簷,景物閒蒨可玩,蒼藤蔓生,沿堦
‧‧
及壁。余知此中幽閴無人,請馬克移家居此,日行林際,倦憩草上,人間之樂當無逾此。
(26 葉 b 面/179 頁)13
(1)でアルマンは「村店」からの眺望を、自身の視点を中心に据えた遠近法的配置のもとに
とらえている。まず近景の「門の外には青々とした畑の畝が広がり、中ほどには花が咲き
ほこっている」から始まり、ついで「左を眺めると、長い橋がまっすぐ林の外まで連なり、
右を望めば、青々とした山が聳え立ち、滴らんばかりの緑である。山麓を流れる長々とし
た川は橋のかなたまで続き、波もない平らかな水面は、きらきらと玉のように輝く」と左
右へ視線を広げ、さらに「背後を見れば、斜陽に照らされた村の家々の赤瓦がぎらぎらと
光り、遠くを望むと、パリの町が雲と霞の中に見え隠れしている」と背景や遠景を描き出
113
す。風景に触発されたアルマンの語りは、プリュダンスのセリフをはさみ、一転して内面
の思いへと続く。
「私がひそかに思うに、マルグリットがパリにいたとき、私は彼女の美し
さを独り占めすることはできなかった。
だがこうして郊外に隠棲して、
美人と向き合えば、
一生、彼女と離れまいと思う。いま私がマルグリットを見ると、もはや娼婦ではなく、貞
潔な美しい女性に思えるのだ」というアルマンの内面描写は、実は林紓による大幅な縮約
をともなう凝縮された文章であった。原文の「プリュダンスが言ったとおり、これこそ本
物の田舎でした。そしてぜひとも言っておかねばなりませんが、これこそ本物の昼食でし
た」
、
「プージヴァルというところは、名前こそ味気ないものの、想像しうるかぎりもっと
も美しい土地のひとつなのです。ずいぶん旅行をしてもっと立派な景色もたくさん見てき
たものですが、丘に守られてその麓に楽しげに横たわる、この小さな村ほど気持ちのいい
場所は、ほかに見たことがありません」
(朝比奈訳 242-243 頁)といったどちらかという
と凡庸な原文をばっさりと削っている。こうした措置を考えるには、翻訳の当否といった
問題を超えて、林紓のテクストが「風景」の発見、さらにそれに連なる「内面」の発見と
いう、
中国の文学における認識論的転換に直面していたことを看過するわけにはいかない。
先の「湖畔の柳陰」が過去の遺産のうえに繰り返し描かれた形而上的な概念にすぎないの
に対して、ここでの「風景」はアルマンという「固定的な視点を持つ一人の人間から、統
一的に把握される」14対象へと変貌している。記号論的に言い換えるなら、
「湖畔の柳陰」
シ
ニ
フ
ィ
エ
シ
ニ
フ
ィ
ア
ン
が所与の意味される概念であるのに対して、アルマンの目に映った意味するものとしての
シ
ニ
フ
ィ
エ
「風景」は、意味されるものとしての自らの「内面」と切り離せないものなのである。
同様に、プリュダンスを加えた三人が舟遊びをする次の一段(2)でも、
「小さな家が川の
ほとりに立ち、家の陰を流れる川は紺碧の色をしている。鉄の柵がめぐらしてあり、柵の
中はビロードのような芝生が広がり、家の外は木々が生い茂り、濃い緑が軒に接して、そ
の景色の静けさは味わい深い。藤の蔦が階段に沿って壁をおおっている」と河畔にたたず
む瀟洒な家屋が描写される。そして、アルマンの内面が「私はこの家のひっそりとして住
む人もいないことがわかったので、マルグリットにここへ転居するよう頼み、毎日林を散
策して、疲れたら草の上で休む、そんな暮らしができたら世の中の楽しみはこれ以上のも
のはないように思われた」と続く。この一段を隠遁にふさわしい形而上的な「山水画」的
な描写に置き換えることもできたはずなのに、
林紓はそうはしないでアルマンの視点で
「小
楼」の「風景」
、そして「内面」を描いているのだ。
当時の読者は、また林紓自身も『巴黎茶花女遺事』を才子佳人小説ないし狭邪小説とし
て読み始め、訳し始めたのであったかもしれないが、ここに至ってそれとはまったく異な
る「文学」――「風景」/「内面」の発見にともなう新たな認識論的布置のもとで創出さ
114
れた「文学」――が獲得される瞬間に立ち会っていることを感知したにちがいない。林紓
が格闘したのはたんなる翻訳ではなくて、こうした認識論的転換をともなう個人の内面の
問題であり、
「文学」と文体の問題であったのだ。そのことを理解するなら、文学革命以降
の作家たちが林紓を執拗に排撃した理由もおのずから明らかになる15。彼らは林紓に遅れ
ることわずか二、三十年であるにもかかわらず、
「文学」や文体が歴史的に獲得された制度
であることを忘却し、白話文による新文学を自明なものとする地点から、林紓の後進性を
非難できたのである。柄谷行人が二葉亭四迷について述べる次の一節は、まさに林紓が乗
り越えつつあった苦闘を照らし出しているように思う(林紓自身は二葉亭と違って、外国
語を解さなかったのだが)
。
彼(二葉亭四迷)はロシア語で書くかぎり「内部」や「風景」をもつのに、いざ日本
語で書こうとすれば、たちまち人情本や馬琴の文体にとりこまれ流されてしまう。彼
の苦痛は、すでに「風景」をみいだしていながら、それを日本語においてみいだしえ
なかったところにある。16
かりに林紓が白話文で翻訳を始めていたとしたら、
「説話人」が「看官」に語る白話章回小
説の旧套に陥って、
『巴黎茶花女遺事』はまったく別物になっていたか、頓挫してしまった
ことだろう――二葉亭が「たちまち人情本や馬琴の文体にとりこまれ流されて」
『浮雲』を
放棄せざるをえなかったように――17。それに対して、文言文は史伝のほかにも、作者自
身の経験を書き記す「記」といったジャンルを有するように、文体としての多様性・柔軟
性を具備していた。中国近代において「文学」が獲得されるためには、明治日本が森鴎外
、、、、、、
や北村透谷を必要としたように、文言文による『巴黎茶花女遺事』が必要だったのである。
三、林訳『巴黎茶花女遺事』における語りの形式
マルグリットとアルマンの田舎での幸福な生活の様子を、もう少し読んでみよう。
(1)情好日深,交游盡息,言語漸形莊重,用度歸于撙節,時時冠草冠,著素衣,偕余
同行水邊林下,意態蕭閑,人豈知於十餘日前身在巴黎花天酒地中絕代出塵之馬克耶!
(2)嗟夫!情濃分短,余此時身享豓福,如在夢中。(3)兩月以後,余二人足迹不至巴黎,
巴黎遊客亦無至者。唯配唐與于斯里著巴二人時時見顧。
(28 葉 a 面/181 頁)
【(1)她断绝了朋友来往,改变了过去的习惯,她谈吐变了样,也不像过去那样挥金如
土了。人们看到我们从屋里出来,坐上我买的那只精巧的小船去泛舟游河,谁也不会想
到这个穿着白色长裙,头戴大草帽,臂上搭着一件普通的用来抵御河上寒气的丝质外衣
的女人就是玛格丽特・戈蒂埃。就是她,四个月以前曾因奢侈糜烂而名噪一时。/(2)
115
天哪!我们忙不迭地享乐,仿佛已经料到我们的好日子是长不了的。/(3)我们甚至有
两个月没有到巴黎去了。除了普律当丝和我跟你提到的那个朱利・迪普拉,也没有人来
看我们。我现在讲的这个动人的故事的记录就是玛格丽特后来交给朱利的。
(130 頁)
】18
マルグリットはパリでの高級娼婦としての浮ついた生活と縁を切り、二人は誰の目も気に
することなく、自然に囲まれた田園生活を楽しんでいる。ところが、王振孫訳(2)と(3)の下
線部
(
「この幸福が長くつづくものではないことを、
すでに見抜いていたかのように」
「ジュ
、
リー・デュプラのことは前にお話ししましたが、
ここにあるこの痛ましい日記をマルグリッ
トが後で託すことになる女性です」朝比奈訳 257 頁)のように、幸福の絶頂を回想するア
ルマンの語りは、同時にその後の不幸な悲劇をも示唆せずにはおかないのである。林訳で
省略された下線部分は、過去の物語内容ではなく、聴き手デュマ・フィスに対して語るア
ルマンの物語行為に関わっている。本章では、そうした語りの問題を考察する。
ここで原作のデュマ・フィス『椿姫』の語りの形式を確認しておこう。冒頭では作者自
身が登場して読者に直接語りかけ、ついで物語の主要部分は作中人物アルマンがデュマ・
フィスに語るという形式を採り、マルグリットの最期に至る結末部分は彼女がアルマンに
残した日記で語る体裁となっている19。デュマ・フィス、アルマン、マルグリットはいず
れも第一人称「余」で語る語り手となり、しかも物語世界に作中人物として登場する。こ
のように物語世界内の語り手が順次交代する複雑な語りの形式は、林訳『巴黎茶花女遺事』
でもそのままの形で再現されており、冒頭のデュマ・フィスがアルマンと知り合うまでの
やや冗長に感じられる部分についても随意な省略は行われていない20。こうした語りの形
式を受容できたのは林紓が文言文で訳したからであり、
「説話人」が「看官」に対して語る
形式が固定化している白話小説ではとうてい実現できないものであった。林訳『巴黎茶花
女遺事』が原作の語りの形式を正しく翻訳したことは、伝統的な史伝や白話小説の形式―
―歴史家や「説話人」の高説を拝聴するほかない語りの形式――を打ち破って、作中人物
自身の真実の声に耳を傾けることのできる一人称の語りや日記・書簡体の形式をもたらし、
中国の文学に「本質的にあたらしい他者の言葉の受けとめ方」(バフチン)をもたらした
といえよう。
ではまず、デュマ・フィス=作者の語り(第一次物語言説)から、アルマンの語り(第
二次物語言説)へと切り替わる場面を見てみよう。
(1)亞猛四顧歎曰:“吾當日卽以此時識馬克耳。”(2)余未及答,亞猛忽顧余曰:“吾
與馬克軼事有足紀者,吾言之,君編而成帙,雖不足傳,亦足以明吾兩人夙心也。”(3)
余曰:“君新愈氣促,且緩言之。”(4)亞猛曰:“吾已夕餐,精神健足,可以從容爲
君言馬克事。”(5)余曰:“諾。”(6)亞猛曰:“吾敘馬克事以年月出之。君文人,可
116
爲潤色則潤色之。”(7)余傾聽至終,或愕或歎,歸遂編次成書,不爲增損,葢紀實也。
.
[以下均亞猛語](引用者注:[ ]内の六字は原テクストでは小字双行の割注)(8)亞猛曰:余
‧
‧
一日在巴黎。同友人家實瞠赴戲園,半齣旣終,余起,旋因間行甬道間,有麗人過余側,
‧
家君頷之。余曰:“誰也?”家君言:“此馬克也。”(8 葉 a 面/151 頁)
【(1)“差不多就像
”阿尔芒对我说。他
..这么个季节,这么个傍晚
.....,我认识了马格丽特。
陷入了假想,我对他说话他是听不见的。/(2)我什么也没有回答。/于是,他转过头
来对我说:/“我总得把这个故事讲给你听;你可以把它写成一本书,别人未必相信,
但这本书写起来也许会很有趣的。
”/(3)“过几天你再给我讲吧,我的朋友。
”我对他
说,
“你身体还没有完全复原呢。
”/(4)“今天晚上很暖和,鸡脯子我也吃过了,
”他微
笑着对我说,
“我不发烧了,我们也没有什么事要干,我把这个故事原原本本地讲给你
听吧。
”/(5)“既然你一定要讲,那我就洗耳恭听。
”/(6)“这是一个十分简单的故事,
”
于是他接着说,
“我按事情发生的先后顺序给你讲,如果你以后要用这个故事写点什么
东西,随你怎么写都可以。
”/(7)下面就是他跟我讲话的内容,这个故事非常生动,我
几乎没有作什么改动。/(8)是啊,——阿尔芒把头靠在椅背上,接着说道,——是啊,
.........
就是这样的一个傍晚!我跟我的朋友 R・加斯东在乡下玩了一天,傍晚我们回到巴黎,
因为闲得无聊,我们就去瓦丽爱丹歌剧院看戏。/在一次幕间休息时,我们到走廊里休
息,看见一个身材颀长的女人走过,我朋友向她打了个招呼。/“你在跟谁打招呼?”
我问他。/“玛格丽特・戈蒂埃。
”他对我说。
(42-43 頁)
】21
(1)から(7)まで、下線部「アルマンはわたしのことばよりも、自分自身の思いに耳をかたむ
けながら言った」
(朝比奈訳 82 頁)を省略したり、(4)の「鸡脯子」
(若鶏のささ身)を「夕
餐」に改めたりするなど些細な改変はあるものの、おおむね原文との対応に忠実な翻訳と
いえる。ただし、原文ではセリフの話者を導く伝達部を後置したり(1)、挿入句で被伝達部
の間に挟み込む(3)(4)(6)のに対して、林訳では「余曰」
「亞猛曰」はすべてセリフの前に置
かれている――伝達部の後置や挿入といった欧化語法はのちの現代小説に至って一般化す
る――22。
さて、(1)で「ちょうどこんな季節の、こんな日の夕方のことでした、マルグリットと知
り合ったのは」と語るアルマンのことばは、いまだ語り手デュマ・フィスによって引用さ
れる被引用者のセリフにすぎないのに対して、語りの位相が転換した(8)で、
「
『そうです』
とアルマンは、肘かけ椅子の背に頭をもたせかけて言った。
『そうです、ちょうど今日のよ
うな晩のことでした! わたしは友達のガストン・R といっしょに、……』
(朝比奈訳 83
頁)と語るアルマンは、もはやデュマ・フィスによる第一次の語りの審級を不要として、
自らが自らの物語を語る主体的な語り手へと変貌している。このように(1)~(7)までと(8)
117
、、、、
、、、、
とでは語りの位相が変化しているにもかかわらず、(1)「ちょうどこんな季節の、こんな日
、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、
の夕方のことでした」と(8)「そうです、ちょうど今日のような晩のことでした」のように
ことばを重ね合わせることによって、また(3)(4)(6)と同じく伝達部を挿入句で挟み込む表
現(8)「――阿尔芒把头靠在椅背上,接着说道,――」
(アルマンは、肘かけ椅子の背に頭
をもたせかけて言った)によって、デュマ・フィスの第一次物語言説からアルマンの第二
次物語言説へとシフトする瞬間が、原文(およびその逐語訳)では技巧を意識させないき
わめて自然な流れに仕立てあげられている。一方、林紓はこの語りの位相の転換を小字双
行の割注「以下均亞猛語」というぎこちないやり方で処理するのであるが、それによって
当時の読者にとってそれまでなじみのなかった語りの転換が誤解なく受け入れられたこと
もまた確かであろう。その結果、(8)の「亞猛曰」以下に現れる「余」が、それまでのデュ
マ・フィスではなく、アルマンを指すことに誤解の余地は生じないのである。
こうしていよいよ作中人物アルマンによる入れ子の語り(額縁構造)が開始される。実
はフランス語原文では、アルマンの語りが始まってもしばらくはなお(そしてクライマッ
クスに至る後半部においてもまた)
、アルマンがデュマ・フィスに語る物語行為の場面が浮
上してくるなど、テクストはデュマ・フィスによる第一次物語言説とアルマンによる第二
次物語言説の間をゆれ動いている。例えば、王訳から引用すれば次のような箇所である。
【(1)这些话,我记忆犹新,就像我昨天听到的一样。
(43 頁)
】
[わたしはこのことばを、ま
るで昨日のことのようにはっきりと覚えています。
]
(朝比奈訳 84 頁)23
【(2)可是,——阿尔芒歇了一会儿又接着说,——一方面我明白我仍然爱着玛格丽特,
一方面又觉得我比以前要坚强些了,
(52 頁)
】
[
「しかし」とアルマンは少し間を置いてから、
ことばをつづけた。
「わたしは自分がまだ恋していることに気づきながらも、それと同時に、前より
も強い人間になったと感じていました。
」
]
(朝比奈訳 98 頁)24
【(3)把这些琐事都讲出来似乎有些孩子气,但是与这个姑娘有关的一切事情我都记得
清清楚楚,因此,今天我还是禁不住一一地想起来了。
(55 頁)
】
[こんな細かいことまでく
どくど話すのは、自分でもまるで子供のようだと思います。でもこの女に関わることはすべてがわた
しの記憶のなかで生きているので、今でもその思い出を呼び起こさずにはいられないのです。
]
(朝比
奈訳 103-104 頁)25
【(4)你得承认,她这一招可真厉害! (61 頁)
】
[これは残酷です。あなたもそう思うでしょ
う。
]
(朝比奈訳 117 頁)26
【(5)我看到玛格丽特时心里所产生的感觉,不知道在你
.的一生中是否感受过,或者在
将来是否感受到。
(176 頁)
】
[わたしがそのときマルグリットを見つめながら感じたような気持
ちを、あなたもこれまでに経験されたことがあるでしょうか。いや、これから先も経験されることが
118
果してあるでしょうか。
]
(朝比奈訳 352 頁)27
.
【(6)你知道在我那嫉妒得发狂的一刹那间我干了什么?这一刹那就足够我做出一件可
.
耻的事,你知道我干了什么?(180 頁)
】
[それからわたしがなにをしたか、おわかりでしょう
か? 嫉妬に狂ったその瞬間には、そんな恥ずべき行為も犯すことができたわけですが、そうした錯
乱の瞬間に、わたしがなにをしでかしたかおわかりでしょうか?]
(朝比奈訳 360 頁)28
【(7)不用跟你
(180 頁)
】
[その翌日、どれほど
.说第二天我是在怎样激动的心情下度过的。
の不安と動揺のなかで一日を過ごしたかは、言わなくてもおわかりでしょう。
]
(朝比奈訳 361 頁)29
アルマンの語りの最中に挿入句でデュマ・フィスの語りが顔をのぞかせたり(2)、アルマン
が物語世界の外にいる聴き手デュマ・フィスに語りかけたりして(4)、語りの位相を読者に
確認させる仕掛けがほどこされているのである。とりわけ物語がマルグリットの死へと向
かうクライマックスにおいては、(5)(6)(7)のように語り手アルマンが聴き手デュマ・フィ
スに対して同意を求めるように、二人称で呼びかける場面が多くなる。ところが林紓は上
の例をすべて削除しており、アルマンがデュマ・フィスに語る物語行為の場面には無関心
のようである。
もう一箇所、語りの位相の転換が明瞭に認められる部分を見てみよう。引用に際して、
行頭一字分の空格を□で示す(以下同じ)
。もともと本文と注釈を区別するための小字双行
や行頭空格という木版版面の技術が、一時的に語り手がアルマンからデュマ・フィスに変
わることを視覚的に明示するのに利用されていることは興味深い30。
□(1)小仲馬曰:亞猛言至此,虛怯若不勝者。(2)時天氣微寒,余問亞猛惡寒乎?請下
□風牕。(3)亞猛時以首枕軟櫈上,默然不答。(4)余曰:“君情愫甚緜遠,請以來日言
□之。今理枕且息。”(5)亞猛遂去外衣,歎曰:“我病中得申馬克事,樂甚。君若以
□爲絮者,則請勿言。”(6)余曰:“我固樂聞馬克事者,君苟足自勝,則請再竟其說。”
□(7)亞蒙言曰;
余是時别家實瞠歸,沿途追念馬克言語,一一入於腦際,無一能遺忘者;思深腦動,遂
輾轉不復能睡。(8)自思馬克絕世麗姝,豈區區立談坐議之間,爲人所動?乃爽然若疑
夢寐中所接之馬克。
(15 葉 b 面/162 頁)
【(1)故事讲到这里,阿尔芒停下来了。(2)“请你把窗关上好吗?”他对我说,
“我有
点儿冷,该我睡觉的时候了。
”我关上窗户。(3)阿尔芒身体十分虚弱,他脱掉晨衣,躺
在床上,把头靠在枕头上歇了一会儿,神气好像是一个经过长途赛跑而精疲力竭的旅客,
由像是一个被痛苦的往事纠缠心烦意乱的人。(4)“你大概话讲多了,
”我对他说,
“我
还是告辞,让你睡觉吧,好不好?改天你再把故事给我讲完吧。
”(5)“是不是你觉得这
个故事无聊?”(6)“正好相反。
”
“那我还是继续讲,如果你让我一个人留下,我也睡
119
不着。
”/(7)当我回到家里的时候,——他接着就讲,不用多加思索,因为所有详情细
节都深深地印在他的脑海里,——我没有睡觉,(8)我开始回忆这一天发生的事:和玛
格丽特的相遇、介绍、她私下给我的诺言。这一切发生得那么迅速和意外,我有时还以
为是在做梦呢。
(78 頁)
】31
アルマンの長い語りがいったん中断し、物語内容から物語行為のレベルへと移行する場面
で、林訳(1)は冒頭部分と同じ「小仲馬曰」を補い、しかも行頭に空格を設けて本文と区別
することによって、アルマンによる第二次物語言説からデュマ・フィスによる第一次物語
言説への回帰を明示している。ところで、(1)の後半から(2)(3)の部分で、林訳は原文とい
ささか齟齬を生じている。林訳(1)「虛怯若不勝者」は王訳(3)「阿尔芒身体十分虚弱」を先
取りしているようだし、(2)は原文ではアルマンが寒いので窓を閉めるよう頼むのに対して、
林訳では「余」すなわちデュマ・フィスの方から寒くないかと尋ねている。また王訳の(3)
「他脱掉晨衣」に相当する箇所は、林訳では(5)に挿入され、
「外衣」に変更されている。
さらに原文(3)の後半にあるアルマンの憔悴ぶりを喩える二句の直喩が省略されている。こ
うした原文との細かな異同はあるものの、アルマンがデュマ・フィスに対して自らの物語
を語って聞かせる物語行為の現場がきちんと再現されていることには変わりない。
続いて(7)以下では再び、アルマンがマルグリットとのなれそめを語る物語内容の位相が
回復されることになるのだが(林訳では「亞蒙言曰」を補い、文字の頭下げをやめる)
、二
つのレベルを往還するテクストのゆらぎによって、物語内容を語るアルマンの様子の描写
(二重下線部「アルマンはことばをつづけた。細かいところまですべてありありと頭に浮
かんでいるので、思い出すまでもないといった様子だった」朝比奈訳 150 頁)が物語行為
の言説として挿入される。この挿入句を林紓は物語内容のレベルとして「沿途追念馬克言
語,一一入於腦際,無一能遺忘者」
(帰り道でマルグリットのことばを思い出すと、すべて
記憶にとどめ、忘れてもよいことはなにひとつなかった)と訳している。ここでも語りの
レベルのゆらぎを嫌い、物語行為を軽視する林紓の姿勢を見てとることができる。
マルグリットの最期に至る結末部は、彼女がアルマンのためにジュリー・デュプラに託
した日記の引用によって語られる。アルマンの語りからマルグリットの日記による語りへ
と転換する境目に、林訳では三度目の「小仲馬曰」が行頭低一格で現れる。
□(1)小仲馬曰:“亞猛語旣竟,以馬克日記授余,或掩淚,或凝思,意態悲涼,倦而
□欲睡。(2)已而聞亞猛微鼾,知亞猛沈睡矣,乃展馬克日記讀之。日記曰:
(3)今日爲十二月十五日,余已病三四日矣。侵晨不能起坐。昨天氣陰慘,余又不適,
‧‧
四顧無一人在側,余甚思亞猛也。
(42 葉 a 面/202-203 頁)
【(1)阿尔芒的这个长篇叙述,经常因为流泪而中断。他讲得很累,把玛格丽特亲手写
120
的几页日记交给我以后,他就双手捂着额头,闭上了眼睛,可能是在凝思,也可能是想
睡一会儿。(2)过了一会儿,听到他发出了一阵比较急促的呼吸声,说明阿尔芒已经睡
着了,但是睡得不那么熟,一点轻微的声音就会把他惊醒的。下面就是我看到的内容,
我一字不改地抄录了下来:/(3)今天是十二月十五日,我已经并了三四天了。今天早
晨我躺在床上,天色阴沉,我心情忧郁;我身边一个人也没有,我在想你,阿尔芒。
(181
頁)
】32
書簡の冒頭では、林紓は第二人称を「亞猛」と固有名詞で訳しているが、やがてマルグリッ
トがアルマンに呼びかける呼称は「君」や「子」へと変わっていく。
‧
[明日もあなたに書
余未知明日尚能作日記與君否,此時尚未之知。
(46 葉 a-b 面/209 頁)
くことができるかどうか、それさえわからないのですもの]
(朝比奈訳 388 頁)33
.
然余未死之前,亞猛竟不歸乎?卽此爲永訣乎?子倘歸,余尚可生;雖然生何益也!(46
葉 b 面/209 頁)
[やっぱりもう、あなたは、わたしが死ぬ前に来てくれないのでしょうか?それで
はもう、わたしたちの仲は、永遠に終わってしまったのでしょうか? あなたが来てくれたなら、病
気がなおるような気がします。でも、なおっても何になるの?]
(朝比奈訳 389 頁)34
臨終の床から直接アルマンに訴えるマルグリットの声は、こうして日記という体裁を借り
ることによって、林紓の読者に届けられることになったのである。
「余」の内心を誰の媒介
も経ることなく伝達できる日記がもたらす効果については、
もはや贅言を要さないだろう。
中国古典の風景とは異なる、新たな「風景」――「文学」の立ち上がる瞬間を林訳『巴
黎茶花女遺事』に見てきた。こうした認識論的転換は逆説的にも、文言文によってはじめ
て成し遂げられたのであり、ここからバフチンのいう「著者のことばと他者のことばのあ
いだのまったくあたらしい相互関係」が生まれることになる。本稿では語りの問題までし
か取り上げることができなかったが、もう一つの「あたらしい相互関係」である作中人物
の発話の伝達モード、すなわち話法の問題については、稿を改めて論じることとしたい。
ミハイル・バフチン、桑野隆訳『マルクス主義と言語哲学(改訳版)
』
(東京:未来社, 1989)226 頁。
同上書 225 頁。
3 テクストは小仲馬原著、冷紅生輯『巴黎茶花女遺事』
(玉情瑶怨館, 1901, 佛教大学図書館蔵)により、
葉数・表裏を記した。施蟄存主編『中国近代文学大系』第 11 集第 26 巻・翻訳文学集 1(上海:上海書店,
1990)所収『巴黎茶花女遺事』の頁数も付した。原テクストに標点符号はないので、大系本により補った。
4 小仲馬著、王振孫訳『茶花女』
(北京:人民文学出版社, 1980)
。引用は 2010 年第 3 次印刷版による。
5 フランス語原文は、
Alexandre Dumas fils; introduction et commentaires d'Henri Béhar, La Dame aux
camélias (Paris: Pocket, 1998) による。引用に際し、原文の改行箇所はスラッシュ「/」で代替した。
6 Mon avis est qu'on ne peut créer des personnages que lorsque l'on a beaucoup étudié les hommes,
1
2
121
comme on ne peut parler une langue qu'à la condition de l'avoir sérieusement apprise./N'ayant pas
encore l'âge où l'on invente, je me contente de raconter./J'engage donc le lecteur à être convaincu de
la réalité de cette histoire dont tous les personnages, à l'exception de l'héroïne, vivent encore./
D'ailleurs, il y a à Paris des témoins de la plupart des faits que je recueille ici, et qui pourraient les
confirmer, si mon témoignage ne suffisait pas. Par une circonstance particulière, seul je pouvais les
écrire, car seul j'ai été le confident des derniers détails sans lesquels il eût été impossible de faire un
récit intéressant et complet./Or, voici comment ces détails sont parvenus à ma connaissance. — Le
12 du mois de mars 1847, je lus, dans la rue Laffitte, une grande affiche jaune annonçant une vente de
meubles et de riches objets de curiosité. Cette vente avait lieu après décès. L'affiche ne nommait pas la
personne morte, mais la vente devait se faire rue d'Antin, nº 9, le 16, de midi à cinq heures./L'affiche
portait en outre que l'on pourrait, le 13 et le 14, visiter l'appartement et les meubles./J'ai toujours été
amateur de curiosités. Je me promis de ne pas manquer cette occasion, sinon d'en acheter, du moins
d'en voir./Le lendemain, je me rendis rue d'Antin, nº 9. (I, pp. 25-26)
7 日本語訳は、アレクサンドル・デュマ・フィス、朝比奈弘治訳『椿姫』
(東京:新書館, 1998)による。
8 林訳小説に先立つ 1896 年、
『時務報』に掲載された二作目のホームズ作品『記傴者復讐事』は、冒頭「滑
震又記竭洛克之事云」と始まるが、ワトソンは一人称代名詞「余」ではなく「滑」と名前で自称する。語
り手ワトソンが「余」と自称するのは第三作目の翻訳『呵爾唔斯輯案被戕』からであった。孔慧怡「還以背
景,還以公道:論清末民初英語偵探小説中訳」
(王宏志編『翻訳与創作:中国近代翻訳小説論』
(北京:北
京大学出版社, 2000)99-100 頁参照。
9 Il était de bonne heure, et cependant il y avait déjà dans l'appartement des visiteurs et même des
visiteuses, qui, quoique vêtues de velours, couvertes de cachemires et attendues à la porte par leurs
élégants coupés, regardaient avec étonnement, avec admiration même, le luxe qui s'étalait sous leurs
yeux./Plus tard je compris cette admiration et cet étonnement, car m'étant mis aussi à examiner, je
reconnus aisément que j'étais dans l'appartement d'une femme entretenue. Or, s'il y a une chose que
les femmes du monde désirent voir, et il y avait là des femmes du monde, c'est l'intérieur de ces
femmes, dont les équipages éclaboussent chaque jour le leur, qui ont, comme elles et à côté d'elles, leur
loge à l'Opéra et aux Italiens, et qui étalent, à Paris, l'insolente opulence de leur beauté, de leurs
bijoux et de leurs scandales./Celle chez qui je me trouvais était morte : les femmes les plus
vertueuses pouvaient donc pénétrer jusque dans sa chambre. La mort avait purifié l'air de ce cloaque
splendide, et d'ailleurs elles avaient pour excuse, s'il en était besoin, qu'elles venaient à une vente sans
savoir chez qui elles venaient. Elles avaient lu des affiches, elles voulaient visiter ce que ces affiches
promettaient et faire leur choix à l'avance ; rien de plus simple ; ce qui ne les empêchait pas de
chercher, au milieu de toutes ces merveilles, les traces de cette vie de courtisane dont on leur avait fait,
sans doute, de si étranges récits. (I, p. 26)
10 柄谷行人「風景の発見」
(柄谷行人『日本近代文学の起源』東京:講談社, 1980;
『定本柄谷行人集』1, 東
京:岩波書店, 2004)
。柄谷の論を援用して中国現代文学を論じたものに、梁敏児、濱田麻矢訳「風景の発
見:茅盾の小説にあらわれる描写について」
(
『興膳教授退官記念中国文学論集』東京:汲古書院, 2000)
がある。陳平原『中国小説叙事模式的転変』
(上海:上海人民出版社, 1988)119-120 頁は、清末民初の風
景描写について次のようにいう。
「辛亥革命后出现的大批文言长篇小说,大段大段地描写景物,表面上纠正
了早期“新小说”的偏差,可小说中充塞的是从古书中抄来的“宋元山水”
。山是纸山,水是墨水,全无生趣
可言,诵之不知今世何世。
(中略)这里用得着胡适对中国小说缺乏风景描写技术的解释:
“一到了写景的地
方,骈文诗词里的许多成语便自然涌上来,挤上来,摆脱也摆脱不开,赶也赶不去。
”
」 古典文学における風
景認識とその変遷に関しては多くの論考があるが、ここでは川合康三「終南山の変容」
(
『中国文学報』50,
1995。のち『終南山の変容:中唐文学論集』東京:研文出版, 1999 所収)をあげるにとどめる。
11 Là, parmi les malades, se trouvait la fille de ce duc, laquelle avait non seulement la même maladie,
mais encore le même visage que Marguerite, au point qu'on eût pu les prendre pour les deux sœurs.
Seulement la jeune duchesse était au troisième degré de la phtisie, et peu de jours après l'arrivée de
Marguerite, elle succombait./Un matin le duc, resté à Bagnères comme on reste sur le sol qui
ensevelit une partie du cœur, aperçut Marguerite au détour d'une allée./Il lui sembla voir passer
l'ombre de son enfant et, marchant vers elle, il lui prit les mains, l'embrassa en pleurant, et, sans lui
demander qui elle était, implora la permission de la voir et d'aimer en elle l'image vivante de sa fille
122
morte./Marguerite, seule à Bagnères avec sa femme de chambre, et d'ailleurs n'ayant aucune crainte
de se compromettre, accorda au duc ce qu'il lui demandait. (II, pp. 34-35)
12 Une heure et demie après nous étions chez la veuve Arnould./Vous connaissez peut-être cette
auberge, hôtel de semaine, guinguette le dimanche. Du jardin, qui est à la hauteur d'un premier étage
ordinaire, on découvre une vue magnifique. À gauche, l'aqueduc de Marly ferme l'horizon, à droite la
vue s'étend sur un infini de collines ; la rivière, presque sans courant dans cet endroit, se déroule
comme un large ruban blanc moiré, entre la plaine des Gabillons et l'île de Croissy, éternellement
bercée par le frémissement de ses hauts peupliers et le murmure de ses saules./Au fond, dans un
large rayon de soleil, s'élèvent de petites maisons blanches à toits rouges, et des manufactures qui,
perdant par la distance leur caractère dur et commercial, complètent admirablement le paysage./Au
fond, Paris dans la brume!(中略)Mon amour n'était pas un amour ordinaire ; j'étais amoureux autant
qu'une créature ordinaire peut l'être, mais de Marguerite Gautier, c'est-à-dire qu'à Paris, à chaque pas,
je pouvais coudoyer un homme qui avait été l'amant de cette femme ou qui le serait le lendemain.
Tandis qu'à la campagne, au milieu de gens que nous n'avions jamais vus et qui ne s'occupaient pas de
nous, au sein d'une nature toute parée de son printemps, ce pardon annuel, et séparée du bruit de la
ville, je pouvais cacher mon amour et aimer sans honte et sans crainte./La courtisane y disparaissait
peu à peu. J'avais auprès de moi une femme jeune, belle, que j'aimais, dont j'étais aimé et qui
s'appelait Marguerite : le passé n'avait plus de formes, l'avenir plus de nuages. (XVI, pp. 159-161)
13 Ajoutez à cela que, de l'endroit où j'étais, je voyais sur la rive une charmante petite maison à deux
étages, avec une grille en hémicycle ; à travers la grille, devant la maison, une pelouse verte, unie
comme du velours, et derrière le bâtiment un petit bois plein de mystérieuses retraites, et qui devait
effacer chaque matin sous sa mousse le sentier fait la veille./Des fleurs grimpantes cachaient le
perron de cette maison inhabitée qu'elles embrassaient jusqu'au premier étage./À force de regarder
cette maison, je finis par me convaincre qu'elle était à moi, tant elle résumait bien le rêve que je faisais.
J'y voyais Marguerite et moi, le jour dans le bois qui couvrait la colline, le soir assis sur la pelouse, et je
me demandais si créatures terrestres auraient jamais été aussi heureuses que nous. (XVI, p. 161)
14 柄谷行人「風景の発見」
(
『日本近代文学の起源』講談社 1980 年版 19 頁、岩波『定本』17 頁)所引、
宇佐美圭司「
「山水画」に絶望を見る」
(
『現代思想』第 5 巻第 5 号, 1977 年 5 月)
。
15 林紓への批判に関しては、樽本照雄『林紓冤罪事件簿』
(大津:清末小説研究会, 2008)
、樽本照雄『林
紓研究論集』
(大津:清末小説研究会, 2009)などに詳しい。
16 柄谷行人「風景の発見」
(
『日本近代文学の起源』講談社, 1980)43 頁。岩波『定本』にこの箇所はない。
17 白話文による翻訳の文体を論じた研究として、樽本照雄「曾孟樸の初期翻訳(上)
」
(
『清末小説』第 32
号, 2009)を参照。アレクサンドル・デュマ(大デュマ)著『王妃マルゴ』を白話訳した「馬哥王后佚史」
(
『小説林』第 11, 12 期, 1908 に連載、未完結)が論じられている。鄭振鐸「林琴南先生」
(
『小説月報』
第 15 巻第 11 号, 1924, 4 頁)は、林紓自身の創作による小説について、
「中國的『章回小說』的傳統的體
裁,實從他而始打破(中略)呆板的什麽『第一回甄士隱夢幻識通靈,賈雨村風塵懷閨秀』等回目,以及什
麽『話說』
『却說』什麽『且聽下回分解』等等的格式在他的小說裏已絕迹不見了。
」と述べている。
18 Elle avait rompu avec ses amies comme avec ses habitudes, avec son langage comme avec les
dépenses d'autrefois. Quand on nous voyait sortir de la maison pour aller faire une promenade dans
un charmant petit bateau que j'avais acheté, on n'eût jamais cru que cette femme vêtue d'une robe
blanche, couverte d'un grand chapeau de paille, et portant sur son bras la simple pelisse de soie qui
devait la garantir de la fraîcheur de l'eau, était cette Marguerite Gautier qui, quatre mois auparavant,
faisait bruit de son luxe et de ses scandales./Hélas! nous nous hâtions d'être heureux, comme si nous
avions deviné que nous ne pouvions pas l'être longtemps./Depuis deux mois nous n'étions même pas
allés à Paris. Personne n'était venu nous voir, excepté Prudence, et cette Julie Duprat dont je vous ai
parlé, et à qui Marguerite devait remettre plus tard le touchant récit que j'ai là. (XVII, p. 168)
19 郭延礼『中国近代翻訳文学概論』
(武漢:湖北教育出版社, 1998)270-271 頁も、
「小说采用三个第一人
称的叙述法。
(中略)由于小说全用第一人称叙事,既增强了故事的真实感,也显得格外亲切」という。同書
「結束語」501-508 頁にも、翻訳小説の語りの問題がまとめて論じられている。
20 袁進「試論近代翻訳小説対言情小説的影響」
(王宏志編『翻訳与創作』
)219 頁も、
「林纾翻译的《巴黎
茶花女遗事》忠实地译出了原著的书信、日记,它们在小说中起到重要的作用。
」という。
21 « C'est à peu près à cette époque de l'année et le soir d'un jour comme celui-ci que je connus
123
Marguerite », me dit Armand, écoutant ses propres pensées et non ce que je lui disais./Je ne répondis
rien./Alors, il se retourna vers moi, et me dit :/« Il faut pourtant que je vous raconte cette histoire ;
vous en ferez un livre auquel on ne croira pas, mais qui sera peut-être intéressant à faire./— Vous me
conterez cela plus tard, mon ami, lui dis-je, vous n'êtes pas encore assez bien rétabli./— La soirée est
chaude, j'ai mangé mon blanc de poulet, me dit-il en souriant ; je n'ai pas la fièvre, nous n'avons rien à
faire, je vais tout vous dire./— Puisque vous le voulez absolument, j'écoute./— C'est une bien simple
histoire, ajouta-t-il alors, et que je vous raconterai en suivant l'ordre des événements. Si vous en faites
quelque chose plus tard, libre à vous de la conter autrement. »/Voici ce qu'il me raconta, et c'est à
peine si j'ai changé quelques mots à ce touchant récit./Oui, reprit Armand, en laissant retomber sa
tête sur le dos de son fauteuil, oui, c'était par une soirée comme celle-ci ! J'avais passé ma journée à la
campagne avec un de mes amis, Gaston R... Le soir nous étions revenus à Paris, et ne sachant que
faire, nous étions entrés au théâtre des Variétés./Pendant un entracte nous sortîmes, et, dans le
corridor, nous vîmes passer une grande femme que mon ami salua./« Qui saluez-vous donc là ? lui
demandai-je./— Marguerite Gautier, me dit-il. (VII, pp. 71-72)
22 朱一凡『翻訳与現代漢語的変遷(1905-1936)』
(北京:外語教学与研究出版社, 2011)132-133 頁参照。
23 Je me rappelle ces paroles comme si elles m'avaient été dites hier. (VII, p. 72)
24 Cependant, continua Armand après une pause, tout en comprenant que j'étais encore amoureux, je
me sentais plus fort qu'autrefois, (VIII, p.80)
25 Le récit de tous ces détails ressemble à de l'enfantillage, mais tout ce qui avait rapport à cette fille
est si présent à ma mémoire, que je ne puis m'empêcher de le rappeler aujourd'hui. (VIII, p. 83)
26 C'était cruel, vous l'avouerez. (IX, p. 90)
27 Je ne sais pas si de votre vie vous avez éprouvé ou si vous éprouverez jamais ce que je ressentais à
la vue de Marguerite. (XXIV, p. 221)
28 et savez-vous ce que je fis pendant la minute de délire jaloux qui suffisait à l'action honteuse que
j'allais commettre, savez-vous ce que je fis ? (XXIV, p.225)
29 Il est inutile que je vous dise dans quelle agitation je passai la journée du lendemain. (XXIV, p.226)
30 行頭空格は 1901 年玉情瑶怨館本だけでなく、1899 年素隠書屋本、1923 年商務印書館本でも同様であ
ることが確認される。原刊本の 1899 年福州畏盧刊本(呉玉田鐫版、林氏家刻本)は筆者未見。
31 En cet endroit de son récit, Armand s'arrêta./« Voulez-vous fermer la fenêtre ? me dit-il, je
commence à avoir froid. Pendant ce temps, je vais me coucher. »/Je fermai la fenêtre. Armand, qui
était très faible encore, ôta sa robe de chambre et se mit au lit, laissant pendant quelques instants
reposer sa tête sur l'oreiller comme un homme fatigué d'une longue course ou agité de pénibles
souvenirs./« Vous avez peut-être trop parlé, lui dis-je, voulez-vous que je m'en aille et que je vous
laisse dormir ? vous me raconterez un autre jour la fin de cette histoire./— Est-ce qu'elle vous ennuie ?
/— Au contraire./— Je vais continuer alors ; si vous me laissiez seul, je ne dormirais pas. »/Quand
je rentrai chez moi, reprit-il, sans avoir besoin de se recueillir, tant tous ces détails étaient encore
présents à sa pensée, je ne me couchai pas, je me mis à réfléchir sur l'aventure de la journée. La
rencontre, la présentation, l'engagement de Marguerite vis-à-vis de moi, tout avait été si rapide, si
inespéré, qu'il y avait des moments où je croyais avoir rêvé. (XI, pp. 108)
32 Armand, fatigué de ce long récit souvent interrompu par ses larmes, posa ses deux mains sur son
front et ferma les yeux, soit pour penser, soit pour essayer de dormir, après m'avoir donné les pages
écrites de la main de Marguerite./Quelques instants après, une respiration un peu plus rapide me
prouvait qu'Armand dormait, mais de ce sommeil léger que le moindre bruit fait envoler./Voici ce que
je lus, et que je transcris sans ajouter ni retrancher aucune syllabe :/« C'est aujourd'hui le 15
décembre. Je suis souffrante depuis trois ou quatre jours. Ce matin j'ai pris le lit ; le temps est sombre,
je suis triste ; personne n'est auprès de moi, je pense à vous, Armand. (XXV, p. 227)
33 « Qui sait si je vous écrirai demain ? » (XXVI, p. 241)
34 « [……] Ne reviendrez-vous donc point avant que je meure ? Est-ce donc éternellement fini entre
nous ? Il me semble que, si vous veniez, je guérirais. À quoi bon guérir ? » (XXVI, p. 241)
(謝辞)資料の閲覧にあたり、上海師範大学教授の徐時儀先生および九州大学大学院比較社会
文化学府の裴亮氏よりご高配を賜った。記して謝意を表したい。
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