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FEATURE1:これまでの20年が変えたもの、そして2050年に向けて

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FEATURE1:これまでの20年が変えたもの、そして2050年に向けて
地 球 環 境を考える
S p e c i a l Fe a t u r e
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地 球 環 境を考える
これまでの20年が変えたもの、
そして2050年に向けて
朝日新聞 編集委員
竹内 敬二
はじめに
はどう変わってきたのか。これまでの私自身の取材
経験を重ねながら検証したい。
今年 4月、日本でも京都議定書の本格運用が始
まった。これから使うガソリンや電気は日本の使用
「氷河期が来る」
量としてカウントされ、
「6 %削減」に直接結びつく。
数十年になるか、百年になるか。後戻りできない長
い長い温暖化との戦いが始まった。
日本は、まず2008 ~ 12 年の第1期約束期間に答
気候変動の議論の始まりは1970 年代にさかのぼる。
70 年代に入ると、アフリカのサヘル地方、ソ連のシ
ベリアなどで干ばつ、猛暑、寒波などの異常気象が
えを出さなければならない。2006 年度の温室効果ガス
頻発した。ここから「気候は将来、どうなるのか?」
排出は基準の1990 年より6.4%多いのでマイナス6%
の研究が一斉に始まった。
まで計12.4%を減らさなければならない。
かなり緊張感のあるスタートだが、国内の空気に
米国の中央情報局
(CIA)
がまとめた報告書「世界の
人口、食糧、気象の潜在的意味」
(1975)の結論は、
は奇妙な雑音が混じっている。
「さあやろう」とい
「気象学者は少なくとも北半球は寒冷化に向かって
う時に、
「京都議定書は外交の失敗だった」
「議定書
いるということで一致している。気候の変化はすで
は不平等条約だ」といった主張が結構あるのだ。
に始まっており、従来の温和な気候に戻るには少な
この雰囲気は、経済産業省などの政府内や産業界など、
くとも40 年、60 年、場合によっては何世紀もの年月
京都議定書をまさに担う主体の内部でも、くすぶっ
を要する」だった。日本の著名な気象学者は「氷河期
ている。
が来る」という本を書いた。たいていの研究は「寒冷
京都議定書は強力な国際条約だ。人間の生活、経済
化が来る」と結論付けた。
活動から切り離せないCO 2 の削減を各国に課して
そのころ、地球表面の気温が下がっていたことが
いる。それも努力目標でなく義務なので、国家主権
大きく影響した。1940 年から約30 年で0.5 ~ 0.6 度
をも縛る力を持つともいえる。
も下がったとされる。
世界はどのようなプロセスで議定書をつくり、世界
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もちろん、大気中のCO2 濃度が上昇中である、とは
これまでの 20 年が変えたもの、そして 2050 年に向けて
この中で科学的に決定的な役割を果たしたのは
サイクルがあって、差し引きでどちらに針が振れて
85 年のフィラハ会議だった。約50人の科学者が参
いるかは分からなかったのである。しかし、この論
加しただけだったが、得られた科学のコンセンサス
争が 80 年代の温暖化研究につながり、研究者の国
のレベルは高く、
「主要な科学者が温暖化の危機を
際会議が開かれるようになった。
確認した会議」になった。
●
79 年、世界気候会議(WMO など、ジュネーブ)
。
1
「温暖化」デビューは88 年
異常気象をどう解釈するか。明確な結論は出ず。
●
85 年、フィラハ会議(WMO など、オーストリア)
。
「温暖化」はいつ世界に認知されたのか。図表1は、
「来世紀前半における世界の気温上昇はこれまで
朝日新聞のデータベース
(地方版を除く)で「温暖化」
人類が経験したことのない大幅なものになるだ
が入った記事数を検索した結果だ。1988 年に本格
ろう」と宣言。
出現、89 ~ 92 年が多いが、92 年の地球サミットを
●
87 年、フィラハ会議、ベラジオ会議(イタリア)
。
越えると減り、97 年の京都会議でピークになった。
「中間シナリオでは 21 世紀半ばまでに1 0 年間で
2001 年は米国の京都議定書離脱、05 年は議定書発
0 . 3 度上昇」など、温暖化の規模に関する詳細な
効というニュースを反映している。
まとめ。
●
8 8 年、トロント会議。
「先進国は 2 0 0 5 年までに
CO 2 の排出を20%削減を」
●
88 年、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)
第1回会議(ジュネーブ)
、90 年に第1次報告書。
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知られていたが、同時に寒冷化を招く要因、自然の
「温暖化」という言葉のデビュー年となった88 年、
いろいろなことがあった。米国の中西部は厳しい干
ばつに襲われ、米航空宇宙局(NASA)のハンセン
博士は議会で「温暖化と関係しているのは99%確
かだ」という、有名な「99%証言」をした。
ノルウエーのスバールバル諸島。北東島にある氷床の末端では、至るところで滝のように水が落ちていた。 朝日新聞社提供
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大きな影響を与えたのは6月、
「変貌する大気、地域
帝国」と呼んだのは1983 年。しかし、87年には米国
安全保障との関係」をテーマに開かれたトロント会
とソ連は中距離核戦略全廃条約を締結。89年12月、
議だろう。主催者はちょっとした工夫をした。その
地中海のマルタ島でブッシュ米大統領とゴルバチョフ
年のG7サミットはトロントで開かれたが、閉幕直後、
書記長が会談し、
「冷戦の終結」を宣言した。
同じホテルで「トロント会議」をスタートさせたので
冷戦の終焉に並行して、世界共通の危機は地球
ある。四十数カ国から330 人が参加したが、それを
規模の環境問題だという考えが大きくなっていった。
上回る400 人の記者がいた。というより居残ってい
87年、国連のブルントラント委員会(環境と開発に関
たのである。
する世界委員会)
が「われら共有の未来」を発表した。
会議の最後に「世界のCO 2 の排出半減を世界目
報告書のテーマは「持続可能な開発」であり、この考
標にしよう。最初の目標として、先進国は88 年を基
えを主テーマにした92年の地球サミット
(リオデジャネ
準にして05 年までに20%削減しよう」という政策提
イロ)
に続く。
言を採択した。何のことか分からない記者も多かっ
たろうが、世界に報道された。
88 年 11月、国連で当時のシェワルナゼ・ソ連外
相が転換期を象徴する演説をした。
「われわれは、
この提言を見て驚くのは、現在の議論と同じ内容
われわれの環境への脅威という圧倒的な現実に直面
であることだ。20 年前に少数の科学者が抱いてい
している。軍事的な防衛手段に第一義的に基づいた
た温暖化の危機感に、世界はやっと近づいているの
国家の安全保障という従来の伝統的な考えは、今や
かも知れない。
全く時代遅れで修正されなければならない。バイオ
スフィア(生物圏)
からは東西ブロックとか、同盟とか、
冷戦から地球環境へ
制度など、世界を分けている区切りは全く認識でき
ないものだ。すべての人たちが同一の気候システム
ちょうど冷戦が終わろうとしていた。レーガン米大
統領が戦略防衛構想(SDI)を発表し、ソ連を「悪の
図表1「温暖化」が出てくる記事数
出所: 朝日新聞のデータベース
(地方版を除く)
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を共有している。自分たちだけの孤立し、独立した
環境的防衛ラインを構築することはできない」
これまでの 20 年が変えたもの、そして 2050 年に向けて
れた会議だった。
「安全保障の再定義」という論文の中で、
「核兵器が
米国は大統領選挙の真っただ中で、若いクリントン
軍事的、地政学的、心理学的にも世界を支配する力
候補が人気を集めていた。リオに来た米国のNGO
になったように、今後数十年間は、気候異変が世界
の手には、サミット直後に副大統領候補になったゴア
を動かす力になるだろう」と書いた。
上院議員の新著「アース・イン・ザ・バランス」があった。
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米国の歴史学者、ジェシカ・マシューズは89 年、
厚さ5センチほどの環境専門書を書く副大統領候補
「90 年基準」はいつ決まった?
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がいるということに驚いた記憶がある。
会議の目玉のイベントは気候変動枠組み条約と生
温暖化を防ぐ条約づくりのスタートは、1990年秋
物多様性条約の調印式だった。しかし、地球環境を
にジュネーブで開かれた第2回世界気候会議だった。
いう先進国に対し、途上国は「貧困こそが問題」と
IPCC はその年、
「21世紀末までに気温は約3度上
訴え、南北のギャップも浮き彫りにされた。
昇する」という第1次報告書を発表していた。
「それ
当時、南北共通の大問題は人口爆発だった。会場
は大変。防ぐ条約をつくろう」と宣言をするのが会
でフランスの海洋学者ジャック・クストー氏は「世界
議の目的だった。
人口は私が生まれたときの3倍になっている」と危機
私もこの会議を取材したが、
「2000 年までにCO 2
を訴えた。会場の隅には「世界人口推計時計」があ
を何%削減しよう」という各国の提案競争になった。
り、1秒間に3人ずつ増えていた。そのときの取材メ
この会議中に使われた「今から」が、後の「90年基準」
モには54 億6,680 万人(92年6月)
とある。今は66 億
になった。ちなみに、日本はこの会議の直前に「日本
6,600 万人だ。
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をおおむね90年レベル
は2000 年にCO(1人当たり)
サミットでは、地球再生の行動計画「アジェンダ21」
に戻す」という目標を決めており、それを発表した。
が採択された。40章もある大文書だ。第33章「資金」
結局、会議の宣言には「何年に何%」という数字
では、大もめの末、
「先進国はODA をGNP の0.7%
は盛り込まれなかったが、
「90 年基準」の考えがほぼ
とする国連目標の達成に向けての約束を再確認する」
定着した。
という表現で、当時はGNP比0.33 %だったODA の
翌91年から気候変動枠組み条約の作成交渉が始
倍増を書き込んだ。
まり、92 年 5月に採択された。条約には「先進国は
すべてがうまくいったわけではないが、地球サミッ
2000 年に温室効果ガスを90 年レベルに戻す努力目
トは、南北協調で地球環境問題と戦う時代に向け、
標を持つ」が入った。
制度的、資金的、理論的な態勢を準備する歴史的な
会議だった。この一連の流れが欧州主導で進められ
地球サミット ― 新時代の始まり
たのは確かだ。日本は速すぎる展開に面食らいなが
らついていく感じだった。
条約の採択で、一気に地球環境の時代に入った。
忘れてならないのは、この時期、私たち日本人の環
盛り上がりを象徴するのが地球サミットだ。交渉ご
境への考え方も大きく揺さぶられたことだ。新しい
とのほとんどない環境の会議に約180カ国が参加し、
概念と言葉が一気に西欧から輸入されたのである。
100 カ国以上から元首が来たのである。冷戦が終
「持続可能な開発」も「生物多様性」も日本には
わった安堵感と、新しい時代に向かう開放感にあふ
ない概念だった。
「共通だが差異ある責任」も日本
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人の言語感覚にはない。それまで日本の環境問題は、
カーブが正確に再現できれば、将来予測もまた信
「公害反対」
「開発優先主義反対」
「自然を守る」と
頼できることになる。第1次報告書のころは、全く
いった言葉で表されてきた。それが「バイオダイバー
うまく行かなかったが、その後、大気の汚れである
シティー」などのカタカナと付き合うことになった。
エーロゾルの気温低下効果をうまく取り入れること
日本では森林や動物の保護というと、手を付けずに
でモデルがかなり精巧になった。
守るというイメージが強いが、西欧では「人間が
うまく管理する」というニュアンスが強い。
「自然を
「6%、7%、8%」は エイヤッと決められた
守る」型の日本的な思考と、西欧的な「合理的に管理
気候変動枠組み条約が 94 年に発効した後、COP
する」型の思考がぶつかったり、融合したりする時
代になった。環境 NGOという言葉が広まったのも、
が交渉の場になった。
このころである。
●
IPCCも並走
COP1
(95 年、ベルリン)
ベルリンマンデートの採択。
「先進国は2000 年に
90 年レベルに戻す」という条約の努力目標の進み
温暖化の議論は、条約の締結国会議(COP)での
具合が悪いので、
「2005 年、2010 年、2020 年といっ
国際政治交渉と、IPCC を舞台にした科学の進展の
た時間枠の中で数量化された抑制および削減を含
二人三脚で進んだ。
む議定書または他の法的文書の採択をCOP3 で目
IPCC の役割は温暖化の科学の最前線をまとめ、
指す」という内容。
政治交渉に反映させることだ。近年、地球の温度が
上昇していることは間違いないが、これは自然変動
なのか人間の活動によるものなのか。IPCC は4回
●
COP2(96 年、ジュネーブ)
COP3 でつくる議定書の内容について「2005 年、
の報告書を出したが、この問いへの回答はだんだん
2010 年、2020 年といった時間枠の中で排出抑制お
と進歩してきた。
(図表 2)
よび相当量の削減についての法的拘束力ある目標を
温暖化の科学の信頼性は、過去の温度変化を再現
つくる」とする閣僚宣言に多数が賛成した。核心は
するモデルができるかどうかにかかっている。気温や
「法的拘束力」
。つまり削減は努力目標ではなく義務
CO 2 の排出記録が残る過去 150 年間の複雑な気温
にするということ。
図表2 IPCC の報告書と温暖化の不確実性に関する記述
報告書
6
温暖化の不確実性に関する記述
第1次報告書(1990)
「観測された温度上昇は大部分は自然変動によることもあり得る」
第2次報告書(1995)
「証拠を比較検討した結果は、識別可能な人為的影響が気候に表れていることを示唆している」
第3次報告書(2001)
「最近 50 年間に観測された温暖化のほとんどが人為的活動によるものであるという、新たな、
より強力な証拠が得られた」
第4次報告書(2007)
「過去半世紀の気温上昇のほとんどが人為的温室効果ガスの増加による可能性が非常に高い」
(「非常に高い」は確率 90%以上)
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これまでの 20 年が変えたもの、そして 2050 年に向けて
1997 年 12 月に開催された京都会議。
京都議定書の採択を喜ぶエストラーダ議長(アルゼンチン)
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閣僚宣言をつくる過程で、日本の通商産業省はカ
ナダとオーストラリアと一緒に「法的拘束力」を入
れないように画策したが、政府代表団長だった岩垂
寿喜男環境庁長官が、
「COP3 の議長国として多く
の国が賛成する宣言に反対することはできない」と、
法的拘束力についても賛成することを決めた。
1
●
COP3(97 年、京都)
京都議定書を採択。
「先進国のみ義務の削減目標
を持つ」という内容だ。日本、米国、EUは3者で折衝
う暗黙の想定の中で決められた。数十年続く温暖化
を繰り返し、それぞれ90年比で6 %削減、7%削減、
との戦いをスタートさせる、その先頭に日米欧が立
8 % 削減を自分たちで決めた。ほかの先進国は、
つという政治的なメッセージが強い合意だった。
エストラーダ議長が示した案を丸のみする形で決
まった。
今度は「外交の勝利」か
最も難しいのは最後の「どの国は何%減らせば公
議定書は採択後にもドラマが待っていた。2001 年
平なのか」だ。京都会議までに削減数字を各国で変
春、米国ブッシュ政権が「京都議定書には致命的な
える「差異化」の試みがあったが、
「寒い国だ」
「人口
欠陥がある」として離脱した。米国は最大の排出国
が伸びている」
「国土が広い」など各国が自分の都合
であり、国際社会における存在の大きさから、
「これで
のいい要素を主張するので全くまとまらず、何の用
議定書は死んだ」と言われた。日本国内では「こん
意もなく京都会議という1回のガチンコ勝負で決め
な議定書、批准をやめよう」という声が経済産業省
るという異例の展開になった。
などの中からすぐに出て来た。
先進国全体では「5%削減」という相場観があった。
当時、議定書の運用ルールの細部が未決定で、まだ
日米欧については激しい秘密折衝が行われた。削減
交渉が進んでいた。米国に続いて日本が背を向けれ
のしやすさは何となくEU、米国、日本の順番と見ら
ば、議定書は発効要件を満たさず、本当に死んでし
れていたが、数字を決めるだけのデータはない。何日
まう。日本がキャスチングボートを持つ形になった。
も徹夜が続いて数字が踊ったが、結局、EUは「米国
ここで日本は、ごねた。
「二酸化炭素の森林吸収
よりも1%以上離れるのは嫌だ」と言い、米国は「日本
分について、もっと多くの枠がもらえないならば、議定
より1%以上離れるのは嫌だ」と言ったため、8 % 、
書を完成させない」という態度をとったのである。
7 % 、6 % に落ち着いた。この数字について、
「日本
森林吸収をあまり多くカウントすると、肝心の化石
には不利だ。外交の敗北だ」という不満が日本には
燃料の削減が進まないので、抑制的にカウントするこ
ある。
とになっていた。当時、日本の温室効果ガス排出の
当然ながら、それぞれの1%の差に科学性はない。
「0.6%」を上限として算入する案が出ていた。01年
最後には「エイヤッ」と決めたものだ。これが永久
7月、ボンで開かれたCOP6 の再開会合で、ぎりぎり
に続く数字でもなく、2013 年以降で調整されるとい
の交渉をし、最後は「3.8%」をもぎ取ったのである。
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これを「日本外交の大勝利」と見るのかどうか。
基準にしろ」という声はなかった。
いずれにせよ、一気に実質削減が緩くなった。ちな
日本の社会は不思議な社会である。外国から見れ
みにEUは「0.4%分」しか認められていない。日本
ば先進的な省エネ技術を持ち、最も温暖化に対処し
は例外的に扱われたのである。これを足し合わせれ
やすい社会に見えるだろう。国民の知識と関心の高
ば、日本の実質削減は「2.2%」
、EUは「7.6%」と
さ、温暖化対策に参加する意欲も一級である。
しかし、CO 2 を減らす大きな社会の仕組みがなく、
もいえる。
国民に「減らせ、減らせ」と求める「かけ声政策」
以上が、京都議定書成立の歴史である。
が特徴である。
①「90 年を基準に考える」は、90 年の第 2回世界気
ブラジルや米国ではエタノール100%の車も走っ
候会議のころから使われた。
ているのに、日本では「エタノールを混ぜると車に有
②「まず先進国が削減する」は、92 年の条約で決め
害だ」という主張が、車メーカーからではなく、石油
会社から出る。
られ、議定書に引き継いだ。
③「削減を義務にする」は、96年の閣僚宣言で決まった。
長らく世界一を誇っていた太陽光発電への補助を
④ 日米欧の削減率は日米欧が直接交渉して決めた。
なくしてしまい、ドイツに抜かれてしまう。風力発
電所を建設したいという会社があっても、多くの場
長い時間をかけ、百数十カ国が少しずつコンセン
サスを積み重ねてつくられた。不満があっても今さ
合、地元の電力会社が「もう風力の電気は要らない」
と送電線に電気を入れることを断る。
政府内や産業界にある議定書への冷たい態度は
ら言えない。
それなのに最近は「90 年基準にしたのはEUの陰
おそらく、離脱した米国に政治的に引きずられ過ぎ
謀だ。95年比にすればよかった」
という不満さえある。
た結果だろう。自然エネルギーなどへの冷たさは、
そうかもしれないが、みんなが言い始めるとどうな
国内の既存の業界の利益を強く反映したものだ。
るか。京都会議の時には、日本からも誰からも「95年
日本ではこうした後ろ向きの議論が幅をきかす素
図表3 世界の風力発電量の推移
単位:万キロワット
10,000
8,000
6,000
4,000
2,000
0
97
98
出所: 世界風力エネルギー協会
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ドイツでは太陽光による発電所が増えている。ライプチッヒ近郊で
筆者写す。
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地がある。しかし、この「国内的な主張や力関係」
は国際交渉の場では、それほど力を持たないことも
知っておきたい。
価値観を変えた
1
私たちが持つべき視点は、
「2050 年の視点」だろう。
2050 年には石油はどうなっているか、温暖化はどう
なっているか。ならば、どんな政策を選ぶべきか。
世界はとっくに動き出している。自然エネルギー
の導入量を地球サミットがあった92年と現在を比べ
てみる。
(図表 3)
●
風力発電は、250 万キロワット→9,380 万キロワット
(07 年、37 倍)
●
太陽光発電は、11万キロワット→570 万キロワット
(06 年、52 倍)
スの排出を半減することを真剣に検討しよう」と宣言
するに至ったのである。
私自身は90 年ごろから温暖化の国際会議を取材
してきた。気付くのは、京都議定書が指し示す価値
観や文明観を、多くの人が直感的に支持していると
いうことだ。20 世紀は人間活動が爆発的に膨張し、
エネルギー消費も15 倍になった。いつまでも続くは
92 年に、これほど増えると誰が予想できただろう。
ずはないと思っても、個人や個々の国では方向を変
そして、07年にドイツ・ハイリゲンダムで開かれたG8
えられなかった。そこで人類が話し合いで手に入れ
サミットで首脳たちは「2050 年に世界の温室効果ガ
中国の風力発電増加は急ピッチだ。北京郊外の官庁ダム湖畔には風車
が林立している。朝日新聞社提供
た最初のブレーキが京都議定書だ。
振り返れば、多くの人が「温暖化」という言葉を
知らなかった時代から、ほぼ 20 年でここまで来た。
冷戦の名残の中で国際協調を模索し、科学論争を
続け、
米国の離脱も何とか乗り越えた。ふと立ち止まっ
てみると、個人や社会の価値観の中に「温暖化」や
「大量消費への反省」がどっしりと入っている。獲得
したものの大きさを考えると、20 年は決して長い時
間ではない。
PROFILE
竹内 敬二(たけうち・けいじ)
1952 年岡山県生まれ。京都
大学工学部修士課程修了。80年、朝日新聞社に入社。和歌
山支局、東京・科学部、ロンドン特派員、論説委員などを経て、
現在は編集委員(環境、エネルギー担当)
。90 年ごろから
温暖化交渉の国際会議を取材するなど、地球環境問題を
長く担当した。また、チェルノブイリ原発事故の現地に4度
の長期取材をするなど、原子力、エネルギー問題も担当して
いる。
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