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イラクの国内動向
三田祭論文集 2002 イラクの国内動向 ∼フセイン政権の対米姿勢及び反フセイン体制派と米国との関連∼ 杉森 目次 序章 序章 第1章 第2章 第3章 終章 蘭 イラク問題とは フセイン政権 反フセイン体制派の現状と歴史 ブッシュ政権の動向 ブッシュ政権の可能性 イラク問題とは ブッシュ大統領の「悪の枢軸」発言から約 9 か月が過ぎ、アメリカ議会ではイラク攻 撃容認決議が賛成多数で採択されるなど、アメリカ国内では対イラク武力行使が現実 味をおびてきている。このような中でブッシュ政権とイラクの反フセイン体制派との 結びつきも強化されている。アフガニスタンでは北部同盟との連動でタリバン政権を 崩壊させることに成功したアメリカはイラクでも同じ行動を取るねらいがあるのだろ うか。はたしてイラク国内の動きはそのねらいを可能にするのだろうか。 本論文ではアメリカの対イラク攻撃を考える上で、イラク国内の動きを分析する。 フセイン政権の実情、反フセイン体制各派の動き、そして現ブッシュ政権のこれまで の反体制派との関わりについて触れ、ブッシュ政権のねらいは成功するのか、またブ ッシュ政権の取るべき行動について検証する。 第 1 章 フセイン政権 第 1 節 フセイン大統領の独裁体制 2002 年 4 月 28 日、イラクのサダム・フセイン大統領は 65 歳の誕生日を迎えた。独 裁者として知られている彼の誕生日は例年盛大に祝われている。アメリカによるイラ ク攻撃がただの噂ではなく真実味を増してきている今年、例年と比較すれば盛大な方 ではないが、それでもバグダッドでは 100 万人もの市民が集まって大統領の誕生日を 祝った。 イラクでは 1968 年以来バアス党が国の認める唯一の政党である。イラクの統治機構 はバアス党が政権を奪取した同年に設置された革命指導評議会(RCC)が最大の権力 を持つ形になっている。RCC はバアス党の最高機関である地域指導部(RC)の構成 員から選出される。RCC は法律と同じ効力を持つ RCC 令を制定することが可能であ り、他に様々な政治的権力を持つ。RCC 議長は大統領と軍最高司令官を兼ねるが、RCC メンバーの任期や改選時期については定められていない。現在では 1979 年以来、サダ ム・フセインが大統領、軍最高指令官、また首相も兼務しておりイラクにおける全権 を握っている。また、フセイン大統領の次男のクサイが 2001 年 5 月に RC メンバーに 任命され、同時に党軍事局副局長という軍最高司令官としてフセイン大統領に次ぐ 2 番目の地位が与えられた。 このようにフセイン大統領の独裁体制であるバアス党の特徴のひとつとして過剰な までの秘密警察機関の設置が挙げられる。この機関は日常生活の中に組み込まれてお 170 [イラク] り「物理的暴力という側面以上に心理的な強制力」1となっている。治安・諜報組織も幾 種類もの機関からなっており各機関が独自に諜報・治安活動を行っている。 10 月 15 日に行われた大統領信任国民投票ではイラク国会が満場一致で承認した 候補者であるフセイン大統領が国民投票で 100%という支持率で信任され、さらに 7 年の任期を得ることに成功した。 第 2 節 フセイン政権の対米強硬姿勢 既に述べたように独裁政権に支配された国家であるイラクの“独裁者”であるフセ イン大統領がアメリカに対して、また国連や国際社会に対して強硬な姿勢を取りつづ けていることは国際社会でもよく知られていることである。 もともとバアス党はそれまでの新英政権に対する不満と反発から、反西欧、反帝国、 反米強硬派として成立した。バアス党は成立当初から新ソというスタンスを取り、社 会主義型経済の導入と強烈な反イスラエル政策を打ち出した。これが欧米諸国の中で 反米強硬派としてのイラクが定着した始まりである。 湾岸戦争を経た現在では、イラクが大量破壊兵器を保持しているのではないかとい うことが懸念され続けているわけだが、1998 年 12 月から国連大量破壊兵器査察は中 断されている。今年に入り、3 月 7 日にアナン国連事務総長とイラクのサブリ外相が ニューヨークの国連本部で 1 年ぶりの協議を行った。協議後にサブリ外相は「建設的な スタートだった」というコメントを残した。また、9 月 4 日にもアジズ副相がヨハネス ブルクでアナン事務総長と会談を行い会談後には「包括的に問題解決にあたる策があ るなら、国連と協調する用意がある」と述べている。そしてついにはイラクが 9 月 16 日に国連査察の無条件受け入れを表明した。しかし、イラクのこのような一連の動き は目前にせまっているのかもしれないアメリカによるイラク攻撃を回避するための政 治的道具にとどまるにすぎないと見られる。 アジズ副相は同じくヨハネスブルクで 9 月 1 日にはブッシュ政権の指摘する大量破 壊兵器の貯蔵や 8 月 20 にラムズフェルド国防長官が「イラクのフセイン政権がアルカ イダの居場所や活動について承知していないという見方はばかげている」と述べたよ うなテロ組織アルカイダとの関係を全面的に否定し、「イラクを攻撃するための口実に 過ぎず、 根拠は全くない」とアメリカ CNN テレビのインタビューでコメントしている。 また、フセイン大統領自身は 3 月に「他国に大量破壊兵器の廃棄を迫る前に自国がまず 廃棄すべきだ」とアメリカに対して発言している。 フセイン大統領にとって、世界唯一の超大国と言われるアメリカと協調し妥協を 受け入れつつ国際社会の一員となることよりも、アラブ社会での自分のイメージを保 つ為にアメリカを出し抜くことが重要なのであり、今後も態度が軟化することは考え にくい。 第 2 章 反フセイン体制派の現状と歴史 第 1 節 現状∼ワシントン会議∼ 2002 年 8 月 9 日、ワシントンで米政府高官がイラク反体制派と会談を行った。この 日、アメリカ側からはグロスマン国務次官、ファイス国防次官が出席し、イラク側か らはイラク国民会議(INC) 、INC 傘下の立憲君主運動(CMM)、イラク国民合意(INA) 、 イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI) 、クルド民主党(KDP) 、とクルド愛国同 盟(PUK)の指導者達が出席した。 171 三田祭論文集 2002 この会談はブッシュ政権がフセイン政権の転覆という目標のためにイラクの反体制 各派との関係を強化する目的で各派の指導者達を招待したもので、アメリカ側も各派 も、パウエル国務長官が述べた通りの「イラクの人達を解放するという同じ目標を共有 している」という意識はあるものの各派は決して一枚岩ではない。各派同士の足の引っ 張りあいをやめさせ、 “フセイン後”のイラクをアフガニスタンのようにしたいアメリ カは団結の必要性を強調するが、タリバン崩壊の際の北部同盟のような動きはまだ期 待できる状況ではない。 INC の軍事顧問も経験したダウニングは「反体制派に武器を与えてイラク攻撃を する」という提案をして「危険すぎる」という反対におされて政権を去った。SCIRI と KDP、 それに PUK も武装兵力を有しているものの、 バーガー前大統領補佐官の示す「イ ラク反体制派はアフガンの北部同盟より弱く、イラクはタリバンより強い」という見解 が政権内でも強い。また、ホア元中央軍司令官は今回の会談で「パウエル長官は私達を 勇気付けた」と語った INC 代表のアハマド・チャラビ氏のことを「亡命先の豪華なホテ ルからファックスを送っているだけのチャラビ INC 議長には安心して任せられない」 と厳しい見解を示しているし、SCIRI 内でも「チャラビ首班では、新体制は立ち行かな い」と言われている。 第 2 節 反体制派の歴史 元々イラクの反体制派運動はワシントンでの会議に召集された上で述べたような組 織が始めたものではない。イラク国民が初めてフセイン政権に反乱を起こした事件は 湾岸戦争地上戦終了後の 2 日後に起こった“3 月暴動”である。この事件は湾岸戦争 において捨て駒とされてクウェイトや南部イラクに配備されていた軍人が起こし一般 のイラク国民にまで広がったものである。イラク南部最大の街であるバスラから始ま った 3 月暴動は 1 週間で南部の 8 県にまで広がり、 その後もシーア派聖地のナジャフ、 首都バグダッド、そしてクルド人地域にまで広がった。この反乱はあらゆる社会層、 年齢層の国民を含んだだけでなく与党バアス党員も加わった建国以来の大規模な反乱、 大暴動であった。 しかし、この全国的な大暴動がフセイン政権を崩壊させることができなかったのは 実はアメリカの“裏切り行為”によるものであった。シーア派からの多国籍軍への援 助要求に対してサウジ駐留の米軍司令官の出した答は「アメリカはシーア派を支援し ない」という暴動に対する不介入の意志であった。それを見たフセイン大統領は暴動の 鎮圧に乗り出し、結果湾岸戦争での死者数を上回るとも予測される 10 万人以上が犠牲 となったのである。 この当時の主な反体制勢力は 4 つに分かれていた。北部のクルド勢力、イラク共産 党、ダアワ党などを中心としたイスラム勢力、そして軍人勢力である。もちろんこれ らの組織は一致団結してフセイン政権転覆を図っていたわけではなく、また独裁体制 の中で弾圧され続けてもいた。しかし 90 年の 12 月には共同行動委員会(JAC)が設 立されここにイスラム各派と共に共産党勢力が合同で参加した。3 月暴動発生後はすぐ に反体制派の一斉結集大会が開かれ各反体制派はここで初めて打倒フセイン政権とい う目標の下に一致団結することができたのである。 そしてアメリカ政府もフセイン政権崩壊を目指して反体制派組織と接触を図るよう になるが、ここで“過ち”を犯すことになる。アメリカの過ちとは、イラク国内に支 持ネットワークと活動拠点を持つ最大勢力の共産党勢力とイスラム勢力を“反体制派” の中に含まなかったことであった。アメリカは冷戦時代の敵である共産党とテロ組織 172 [イラク] のイスラム原理主義者らと同類に見えるイスラム勢力と協調、支援することを拒んだ のである。結果、アメリカが俄仕立てで作った反体制派はアメリカから資金援助を受 け、中央情報局(CIA)から情報を与えられるだけのイラク国内から見れば“反体制 派ビジネス”を行うにすぎない集団となってしまった。 その後 INC が対米接触の窓口として結成されアメリカの選んだ親米派チャラビ氏 が代表の座に就くと 92 年ウイーンでの反体制合同会議にはイスラム勢力や共産党勢 力も加わり初めてフセイン体制に替わる暫定政権確立を目指す動きが始まった。 元々イラクの反体制派運動はワシントンでの会議に召集された上で述べたような組 織が始めたものではない。イラク国民が初めてフセイン政権に反乱を起こした事件は 湾岸戦争地上戦終了後の 2 日後に起こった“3 月暴動”である。この事件は湾岸戦争 において捨て駒とされてクウェイトや南部イラクに配備されていた軍人が起こし一般 のイラク国民にまで広がったものである。イラク南部最大の街であるバスラから始ま った 3 月暴動は 1 週間で南部の 8 県にまで広がり、 その後もシーア派聖地のナジャフ、 首都バグダッド、そしてクルド人地域にまで広がった。この反乱はあらゆる社会層、 年齢層の国民を含んだだけでなく与党バアス党員も加わった建国以来の大規模な反乱、 大暴動であった。しかし、この全国的な大暴動がフセイン政権を崩壊させることがで きなかったのは実はアメリカの“裏切り行為”によるものであった。シーア派からの 多国籍軍への援助要求に対してサウジ駐留の米軍司令官の出した答は「アメリカはシ ーア派を支援しない」という暴動に対する不介入の意志であった。それを見たフセイン 大統領は暴動の鎮圧に乗り出し、結果湾岸戦争での死者数を上回るとも予測される 10 万人以上が犠牲となったのである。 この当時の主な反体制勢力は 4 つに分かれていた。北部のクルド勢力、イラク共産 党、ダアワ党などを中心としたイスラム勢力、そして軍人勢力である。もちろんこれ らの組織は一致団結してフセイン政権転覆を図っていたわけではなく、また独裁体制 の中で弾圧され続けてもいた。しかし 90 年の 12 月には共同行動委員会(JAC)が設 立されここにイスラム各派と共に共産党勢力が合同で参加した。3 月暴動発生後はすぐ に反体制派の一斉結集大会が開かれ各反体制派はここで初めて打倒フセイン政権とい う目標の下に一致団結することができたのである。 そしてアメリカ政府もフセイン政権崩壊を目指して反体制派組織と接触を図るよう になるが、ここで“過ち”を犯すことになる。アメリカの過ちとは、最大であり、イ ラク国内に支持ネットワークと活動拠点を持つ共産党勢力とイスラム勢力を“反体制 派”の中に含まなかったことであった。アメリカは冷戦時代の敵である共産党とテロ 組織のイスラム原理主義者らと同類に見えるイスラム勢力と協調、支援することを拒 んだのである。結果、アメリカが俄仕立てで作った反体制派はアメリカから資金援助 を受け、中央情報局(CIA)から情報を与えられるだけのイラク国内から見れば“反 体制派ビジネス”を行うにすぎない集団となってしまった。 その後 INC が対米接触の窓口として結成されアメリカの選んだ親米派チャラビ氏が 代表の座に就くと 1992 年ウイーンでの反体制合同会議にはイスラム勢力や共産党勢 力も加わり初めてフセイン体制に替わる暫定政権確立を目指す動きが始まった。 第 2 節 反体制派の歴史 元々イラクの反体制派運動はワシントンでの会議に召集された上で述べたような組 織が始めたものではない。イラク国民が初めてフセイン政権に反乱を起こした事件は 湾岸戦争地上戦終了後の 2 日後に起こった“3 月暴動”である。この事件は湾岸戦争 173 三田祭論文集 2002 において捨て駒とされてクウェイトや南部イラクに配備されていた軍人が起こし一般 のイラク国民にまで広がったものである。イラク南部最大の街であるバスラから始ま った 3 月暴動は 1 週間で南部の 8 県にまで広がり、 その後もシーア派聖地のナジャフ、 首都バグダッド、そしてクルド人地域にまで広がった。この反乱はあらゆる社会層、 年齢層の国民を含んだだけでなく与党バアス党員も加わった建国以来の大規模な反乱、 大暴動であった。 しかし、この全国的な大暴動がフセイン政権を崩壊させることができなかったのは 実はアメリカの“裏切り行為”によるものであった。シーア派からの多国籍軍への援 助要求に対してサウジ駐留の米軍司令官の出した答は「アメリカはシーア派を支援し ない」という暴動に対する不介入の意志であった。それを見たフセイン大統領は暴動の 鎮圧に乗り出し、結果湾岸戦争での死者数を上回るとも予測される 10 万人以上が犠牲 となったのである。 この当時の主な反体制勢力は 4 つに分かれていた。北部のクルド勢力、イラク共産 党、ダアワ党などを中心としたイスラム勢力、そして軍人勢力である。もちろんこれ らの組織は一致団結してフセイン政権転覆を図っていたわけではなく、また独裁体制 の中で弾圧され続けてもいた。しかし 90 年の 12 月には共同行動委員会(JAC)が設 立されここにイスラム各派と共に共産党勢力が合同で参加した。3 月暴動発生後はすぐ に反体制派の一斉結集大会が開かれ各反体制派はここで初めて打倒フセイン政権とい う目標の下に一致団結することができたのである。 そしてアメリカ政府もフセイン政権崩壊を目指して反体制派組織と接触を図るよう になるが、ここで“過ち”を犯すことになる。アメリカの過ちとは、イラク国内に支 持ネットワークと活動拠点を持つ最大勢力の共産党勢力とイスラム勢力を“反体制派” の中に含まなかったことであった。アメリカは冷戦時代の敵である共産党とテロ組織 のイスラム原理主義者らと同類に見えるイスラム勢力と協調、支援することを拒んだ のである。結果、アメリカが俄仕立てで作った反体制派はアメリカから資金援助を受 け、中央情報局(CIA)から情報を与えられるだけのイラク国内から見れば“反体制 派ビジネス”を行うにすぎない集団となってしまった。 その後 INC が対米接触の窓口として結成されアメリカの選んだ親米派チャラビ氏が 代表の座に就くと 92 年ウイーンでの反体制合同会議にはイスラム勢力や共産党勢力 も加わり初めてフセイン体制に替わる暫定政権確立を目指す動きが始まった。 第 3 節 最大組織 INC INC は最大の反体制派団体であり、アメリカは資金援助も行っている。例えば 2001 年 2 月 1 日にアメリカ政府は INC に国内活動費として 400 万ドルを支出することを承 認した。また、2002 年 6 月 10 日にはブッシュ政権は INC との交渉の中で 800 万ドル の追加支援も提示している。しかし、資金は事務所の貸借料や事務機器類に使われて いるにすぎず、フセイン政権打倒につながるものではないと見られており、米国務省 や CIA は「INC は援助資金の使い方が不明朗だ」と批判している。実は、アメリカ政 府は 2002 年 1 月には援助金が有効に使用されていないし、INC は反体制活動を実行 する意思がないとして資金援助を停止する決定までしている。この資金援助に関して はブッシュ発言により復活しているが、INC 代表のアハマド・チャラビ氏は反体制ビ ジネスで私腹を肥やしてきたとも言われており、彼は「ユーフラテス川沿いでより、 (ワシントンの)ポトマック川沿いでの方が人気がある」とも言われている。 米政府内でも反体制各派に対する見方は統一されておらず、INC にとどまらない幅 174 [イラク] 広い関係を築きたいと考える国務省は北部のクルド人、中部のスンニ派、南部のシー ア派を想定した連邦制について会議で話し合い、国防総省やチェイニー副大統領は INC を中心として援助すべきだとしている。 また、今年 7 月 12 日から 15 日の 3 日間にかけてロンドンでもイラクの反フセイン 体制派の会議が開催された。この会議には元大統領警護隊のナシブ・アルサリ元陸軍 少佐らイラク国外に逃れている元イラク軍幹部らが 200 人と、アメリカ、イギリスの 外交官も出席している。また、ヨルダンのハッサン前皇太子も出席しており、イラク 国民の将来のために大同団結するよう呼びかけた。しかし INC のチャラビ議長が裏で 指揮をとったとされるこの会議には SCIRI には参加の声がかからず、INA と KDP も 参加しなかった。 2001 年 6 月には SCIRI、INA、KDP、PUK の 4 派でフセイン政権を倒して新体 制を目指すことが合意されたがこの 4 派は INC とチャラビ氏を反体制派の中心から外 そうという動きを見せている。 第 4 節 イラク人ではないクルド人 イラク北部のクルド人にはイラク人とは違う見解もある。現在クルド人居住地域は 欧米からの援助を受け、飛行禁止空域の設定で米英軍機に守られ、イラク人にはない 自由を享受できる解放区になっている。クルド人は湾岸戦争後にイラク軍から大規模 な攻撃を受けており、91 年に当時のブッシュ大統領の提案で蜂起した時にはフセイン 政権に弾圧された経験を持つ。 KDP の指導者であるバルザニ氏は「結果が明らかにならない限り、どんなリスクも 冒す用意はない」と述べており、クルド人指導者達はアメリカのイラク攻撃には消極的 である。更に、内部抗争の絶えないクルド人勢力の中には時にはフセインと手を組む 者もいるのである。実際のところ KDP と PUK による権力争いが行われる中、トルコ にもイランにも支援を求めたことがあるし、混乱の中で KDP はイラク中央政権とも手 を組んだ過去がある。 クルド人にとって最も大切なことはクルド地域においてより多くの自治の獲得であ り、目的達成のために手を組む相手は親米新政権でも現フセイン政権でもかまわない というのが本音である。 このような中で 8 月 1 日にはフセイン大統領の次男クサイ氏が反体制派組織のメ ンバーから暗殺未遂で腕を銃撃されるという事件も起きている。ドイツではこれらの 反体制派組織とは関係ないとされる反フセイン体制者が行動を起こしておりアメリカ や国際社会の懸念を増加させる原因となっている。イラク側はワシントンで行われた 会議に対しイラクにとって取るに足らないものであり、会議はアメリカの意向で開か れたことを強調している。そして反体制派組織について「粗悪な米国製品だ」として強 気な態度を示している。 第 3 章 ブッシュ政権の動向 第 1 節 まとまらない政権内 ブッシュ政権がフセイン政権の転覆を本気で視野に入れていることがそれまでの反 体制派と距離を置いてきた政策を転換したことからもうかがえる。2002 年 1 月 29 日 にブッシュ大統領が一般教書演説でイラクを北朝鮮、イランと並ぶ「悪の枢軸」と表現 したことに始まり、8 月 15 日に国防総省が公表した国防報告でイラクのフセイン政権 175 三田祭論文集 2002 を念頭に置いていると見られるテロ支援国家に対し先制攻撃も辞さない方針を打ち出 し、8 月 26 日にはチェイニー副大統領が「行動しないことの危険は、行動にともなう 危険より、はるかに大きい」としイラクが核武装をする前にアメリカが軍事行動を起こ すべきだと断言した。アメリカによるイラクへの軍事行動の計画が噂にとどまらず真 実味を帯びてくる中でブッシュ政権は反フセイン体制派と関わりを増してきていると 言えるが、反フセイン体制派が一枚岩でないようにアメリカ側も考え方にばらつきが みられる。 第 2 節 ニザル・ハズラジという人物 2002 年 2 月には米タイム誌やアラビア語紙などがイラク国民同盟という亡命軍人中 心の組織の代表者であるニザル・ハズラジ元陸軍参謀総長を「米政権がフセイン後の新 たな指導者として期待している人物」と報道した。軍内部からのクーデターを狙いとし、 軍の中で人望が高くバース党と軍とのつなぎ役としてアメリカ側は期待していると思 われる。ただし、ハズラジ氏は参謀総長在任中の 1988 年にイラク北部のクルド人虐殺 事件において化学兵器を用いた責任者であるとされている。デンマーク在住のハズラ ジ氏の亡命をデンマーク政府は拒否していることからもブッシュ政権がハズラジ氏を 一致団結して「フセイン後」の最有力者に推すことは考えにくいと言える。更に、ハズ ラジ氏が 1996 年に亡命した後、フセイン大統領の次男であるクサイ氏を中心としてイ ラク軍は大規模な組織改編を行っている為ハズラジ氏の力がどこまで及ぶのかが疑問 として残る。 第 3 節 最大組織 INC をめぐる論争 INC はチャラビ氏の影響もあり、既に述べたように他の反体制派から支持を受けて いるとは言えないが、やはりアメリカ側には INC に期待する声が聞かれる。クリント ン政権でゴア副大統領の国家安全保障問題担当補佐官を務めたレオン・ファース氏は INC が有力な反政府勢力に成長するかもしれないと討論会で述べている。ただし、ク リントン政権では INC が十分な力を持つような支援は行われなかった。それはブッシ ュ政権の最初の 1 年間も同じである。アメリカは 2000 年から INC に対して資金援助 を行っているが、それだけだは十分な支援とは言えず、必要なのは「彼らに政治的支 援を与え、基本的な軍事訓練を施すこと」と、レーガン政権で国防次官補を務めてい たリチャード・パール氏は述べている。パール氏はそうすることでブッシュ政権がイ ラク攻撃(=サダム・フセインの追放)を決定した時にアメリカは現地に同盟勢力を 持つことができると言う。しかし先に述べたファース氏は INC が今までフセイン政権 に対して軍事作戦を実行することに関しては全く見こみがなかったことを強調し、軍 事訓練には長期を有することを指摘している。 実際、ファース氏のような見解は他の有識者からも聞かれる。INC は 92 年から 96 年の間にイラク北部から軍事作戦を実行できる状態にあったのにもかかわらず、 200~300 人の兵士を集めるのがやっとであったとされる。アフガニスタンの北部同盟 と比べてもかなり弱い勢力であることは事実である。そのような苦しい状況の中で AP 通信によると米国のホワイトハウスと国防総省は、INC を中心として反体制派約1万 人を対象に軍事訓練を検討しており、近いうちに議会に承認を求めるものと考えられ る。 また、アフガニスタンでの対アルカイダ戦でも使われた特殊作戦部隊の一部を一 時的に CIA の指揮下に置いており、北部のクルド人自治区などの反体制派との協力関 176 [イラク] 係を目指しているところでもある。ただし先に述べたようにイラク国内の反体制派は 決して団結しておらず、特に北部のクルド人と協力関係を築くことは想像以上に難し いと考えられる。 第 4 節 イラク国内への期待 反体制派の中にはアメリカは実際に戦争を起こさなくても大規模な兵力を投入する などアメリカの断固とした決意を示すことでイラク国内で反体制運動を高めることが でき、兵士の離反が広まり、フセイン政権を崩壊させることができると考えるグルー プもある。ブッシュ政権内部はこの考えを支持する者とそうでない者とで分かれてお り、ラムズフェルド国防長官、ウォルフォウィッツ国防副長官などがこの考えを支持 しているが、テネット CIA 長官、パウエル国務長官、アーミテージ国務副長官などは 反対している。こうした政権内部の分裂がアメリカの同盟国を戸惑わせるなどの悪影 響を及ぼしていることは確実である。 イラクの反体制派がフセイン政権を打倒するのはかなり難しいとされている中でも アメリカ側はやはりアフガニスタンと同じスタイルがイラクでも通用する事を願って いるに違いない。反体制派の会議を計画したアメリカ人のある高官は「イラクの新しい リーダーがイラク国内から人々の大きな支援と軍の支援によって現れる可能性は消し 去ることは出来ない」と言っている。また、INC は次の会議は 2001 年 12 月に行われ たアフガニスタンについてのボン会議のようになることを望んでいるという。 最大の反体制派である INC とその代表者であるチャラビ氏自身への疑惑もあり、 反体制派をひとつにまとめることは非常に困難である。ブッシュ政権内でも反体制派 とどのように関わるべきか意見は統一されておらず、アメリカ国内でも意見は大きく 分かれている。このような中で開催された反体制派会議は大きなスタートである。各 派が対話と協力し合うことが出来ることを確認し、またそれをアメリカ国内や中東の 同盟国にアピールできたことも大きな成果だと言えるだろう。 終章 ブッシュ政権の可能性 アフガニスタンのようにイラク問題を解決するのはやはり難しいと言える。イラク の反体制派が北部同盟よりも軍事的にかなり弱体であり、各派が一致団結することも 非常に困難なことは事実であるからである。しかし、ブッシュ政権は INC を始めとし て反体制派への支援を行っており、これは非常に大きな結果を生むきっかけにならな いとも言いきれない。援助を打ちきればたちまち各派は弱体するであろうし、話し合 いの場をこれ以上設けなければ対フセインでまとまることはおろか、各派の対立が深 まる可能性がある。アフガニスタンの北部同盟と同じだけの役割は期待できないし、 反体制派なり軍のクーデターなりのイラク国内の力のみでフセイン政権が打倒される ことを期待するのも間違っている。しかし、実際にアメリカが単独でイラクに攻撃を しかけてフセイン政権を打倒したとしてもフセイン後がうまく行かなければまた同じ 過ちが繰り返される。フセイン後を考えれば、今後のブッシュ政権にとって反体制派 は大きな鍵を握るのではないか。慎重にまた現実的に分析して、現段階において反体 制派が独裁政権を打倒するとは考えにくい。しかし長期的な視点に立った時、ブッシ ュ政権に必要なことは今後も会議を続け、支援を続け、反体制派の中にフセインの二 の舞にならない次のリーダーを育てるという行動である。 【註】 177 三田祭論文集 2002 1 酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書、2002 年、p.73 【参考資料】 David S. Cloud and Greg Jaffe. Wall Street Journal; New York, N.Y.; 16 August 2002. Michael R. Gordon. New York Times; New York, N.Y.; 10 August, 2002. 朝日新聞 2001 年 2 月 4 日、2002 年 1 月 30 日、3 月 22 日、6 月 12 日、7 月 9 日、7 月 14 日、7 月 16 日、8 月 10 日、8 月 11 日、8 月 13 日、8 月 15 日、8 月 17 日、8 月 27 日、9 月 30 日 酒井啓子「アメリカは本気でイラクを攻撃するのか?」『世界週報』2002.3.19 クリストファー・ディッキー、ジョン・バリー「Nest Up: Saddam」『Newsweek』 2002.1.2/9 ジョシュア・ハマー「Saddam’s Game」『Newsweek』2002.5.15 『週間東洋経済』2002 年 3 月 30 日、pp.162∼165 「サダム追放策の全貌を検証する」『論座』2002 年 4 月号 『中東研究』2001/2002 年、pp.43∼50 シンクレア・ロード「イラクの現状と将来」『中東協力センターニュース』2001 年 2/3 月 「最近のイラン・イラクと世界情勢」『日本貿易会月報』2000 年 12 月号 村上大介「アメリカに刃向い続けるサダム・フセインの思惑」『Foresight』2002 年 4 月号 酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書、2002 年 178