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その季節 - タテ書き小説ネット
その季節 あかあかや タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ その季節 ︻Nコード︼ N2974BX ︻作者名︼ あかあかや ︻あらすじ︼ 地震や疫病、異常気象などによって崩壊していく人間社会。そ れを観測し記録している小柄な坊主が1人いた。彼は観測を続けな がら、他の平行世界からの客人たちの用事にもつき合うのだった。 その1年弱の間の徒然なお話。 1 軌道エレベータの基部港 3月のインド洋のガン島沖は、まだ季節風の影響が強くて大荒れ の状態だった。波の高さは数mはあろうか。それらが無数に重なり 合い、生き物の肌のように連動して見事な模様を描いている。上空 高くから見下ろすと、青い大沙漠の砂丘の紋様にも見えるだろう。 その海域を数隻の巨大なタンカーや作業船が波を派手に砕きながら 行き交っている。 このガン島は、インドの南海上にあるモルディブを構成するサン ゴ礁の島で、ちょうど赤道直下に位置しており、周辺には島がない 絶海の孤島である。インド洋の海流をさえぎる島が他にないので、 ガン島周辺の海流はかなり激しい。 その海上を波の高さに合わせて滑るかのように、2人の人影が空 中に浮かんで、南の方角へ飛行している。グライダーのような飛行 器具は一切使っていない。あまりにも低空の飛行なので、2つの人 影は高い波に隠れてしまい、なかなか見つけることができない。 ﹁ナン、このくらいの高度の飛行でいいのかい?もっと低く飛んで も構わないよ。障壁を使えば、波を突き抜けて真っ直ぐに飛ぶこと もできるし﹂ 2人のうちの1人が、口を開いた。背丈は150センチ程度だろ うか。筋肉質な体格で顔も四角く彫が深い。長年フィールドワーク をしてきたのだろう。汚れが目立ち擦り切れている部分も目立つ武 骨なジャケットに、これまた年季の入った丈夫そうなズボンをはい ている。癖のある茶髪はメチャクチャに風にかき回されてすごいこ とになっているが、本人は全く気にしていないようだ。40歳くら いの見た目だが、その割に赤い瞳には無邪気さが色濃く残っている のが分かる。しかし、よく見ると、この世界の人間の顔ではない。 2 そして、その武骨な男にナンと呼びかけられた、もう一方の男が、 飛行しながら振り向いた。 ﹁まあ、ウィザード幻導術の認識阻害の魔法を使えば良いのだけど ね。せっかくの魔法禁止世界だ、この不自由さを体験するのも、ま た一興だと思ってくれ、クー博士﹂ そういった顔もまた、この世界の人間のものではなかった。彼の 身長はさらに低く、130センチ程度しかない。ひょろりとした姿 で、ジャージにサンダル履きの、何とも気楽な服装である。年齢も 50歳前半のように見え、坊主頭がよく似合っている。その細い目 が微笑んだ。 ﹁今年は、嵐になる日が多くてね。海面温度も例年になく高めだよ。 そのくせ上空の冷気も、これも例年になく強力になってきている。 だから、ほら。積乱雲だらけだ﹂ ナンが、そう言って話を続けるが、クー博士は天気の話には関心 がなさそうだ。しばらくの間、南の方角を見て波乗りをするように 飛行していたが、急にその赤い瞳が輝いた。 ﹁お?あれがそうかい?﹂ ナンがうなずく。その顔から微笑みが消えた。 ﹁ああ、そうだな。あれだよ﹂ 波高5mの水平線の向こうに、不自然な1本の柱が立っているの が見えてきた。柱の上端は雲に隠れて見えないが、相当に高くて巨 大な構造物なのは一目で分かる。タンカーや作業船も、どうやらそ の柱を目指し、そして出立する航路をとっているようだ。 次第に大きくはっきりと見えてくるその柱を、興味深い顔でじっ くりと観察しながら、クー博士が感心したような声をあげた。 ﹁なるほど。これが地球と宇宙を結ぶ、軌道エレベータかい。さす がに巨大だな、ナン﹂ 坊主頭のナンも同じように見上げた。しかし、表情からは感情が 複雑に交差している様子が伺える。 3 ﹁まだまだ、コスト高で産業誘致には苦労しているそうだよ、クー 博士。しかし、この世界の人間文明初の宇宙への架け橋ではあるな。 稼動して1年経ったけれど、それなりに人工衛星や企業コロニーも 増えたし、最近では月面やラグランジュ点での大規模開発も始まっ たようだよ﹂ クー博士が、ナンの感情を読み取ったのか、冷静な表情に戻った。 ﹁そうかい。我々の世界では、このようなものがなくても気軽に転 移術で宇宙まで行けるが、この世界では、ようやく初期段階か﹂ そう言って、ナンの顔をじっと見る。しかし、その赤い瞳の好奇 心の輝きはいささかも衰えていないようだ。 ﹁どうだい、ナン。間に合いそうかい?彼らが地球から避難する道 としては﹂ ナンの表情がさらに複雑さを増して、細い目がさらに細くなった。 ﹁さあ、どうだろう。それもあって今日、クー博士が採集に来ると 聞いたので同行したんだよ。さあ、ついたよ﹂ 2人が着地したのは、巨大な軌道エレベータの基部だった。幾重 にも並んだ防波堤と消波ブロックが、このインド洋外海の荒波を見 事に鎮めているので、港の中では波打ち際もいたって静かである。 その静かな水面上に、数隻の巨大なタンカーが横付けされていて、 物資の搬入と搬出が盛んに行われているのが見える。おかげで相当 に騒がしい。 ガン島とは直接接してはいないようで、この巨大なエレベータは インド洋の海面に浮かんでいるようだ。巨大な浮島といったところ だろうか。しかし、この激しいインド洋の海流に流されていないと ころを見ると、ガン島の海中部分にアンカーなどが渡されているの だろう。 ナンとクー博士がてくてくと歩いているタンカー用の桟橋は外海 の激しさとはうって変わって静かな波面を見せている。見上げると、 数十階建てもある巨大なサイロや倉庫がそびえ立ち、その奥には企 4 業群が収まっている摩天楼がいくつも見える。それは軌道エレベー タという大樹を取り囲むアリの巣のような印象を与える。アリの巣 と異なるのは、明かりがまばゆく灯り、資材搬入の轟音が延々と鳴 り渡っている点だろうか。 と、普通の人であれば思うのかもしれないが、クー博士は全くそ れらには関心を示さず、ナンの後ろについて歩いている。彼の顔の 前の空間には、ぼんやりとした球体のディスプレーが浮かび上がっ ており、それが示す情報に意識を集中しているようだ。前を歩くナ ンも、あまり軌道エレベータの施設には関心がないようであるが、 とりあえずクー博士に説明しようと思ったのか、口を開いた。 ﹁この世界の幸運だった所は、この軌道エレベータのあるこの場所 に、ガン島という島があったことだね。おかげで、大きな構造物を いくつも建てる事ができている﹂ ナンが、てくてくと護岸を歩きながらクー博士に説明する。 ﹁恐らくは、この世界で最も重要な場所になるだろうからね。政治 的な駆け引きが長く続いたらしいよ﹂ 上の階層には、空港があるのだろう。数分おきに巨大な貨物機が 轟音を上げながら空へ飛び出していくので、ナンの声がよく聞こえ ない。しかし、クー博士もナンの話を適当に聞いているのだろう、 意に介していない様子である。 やがて、1隻の巨大なタンカーの甲板上に2人が進み出た。作業 員は、数名のインド系の人達しか見当たらないので、資材の搬入と 搬出は、全て自動化されているようだ。直径3mもある巨大なパイ プが、何本もタンカーの船体に取り付けられて轟音を響かせている ことから、大量の物資が流れているのが分かる。 その騒がしい中を、散歩でもするような足取りで2人が進んでい く。不思議と作業員も気づかない様子だ。そして、不意に坊主のナ ンが立ち止まった。 ﹁この下のバラスト槽だよ、クー博士﹂ 5 クー博士も、そうかとうなずく。 ﹁では、見てみようか﹂ そういった途端に、2人をぼんやりとした光が包んで、エレベー タの箱のような形になり、2人をその中に乗せたまま、そのまま金 属でできた巨大タンカーの甲板の下へ音もなく沈み込んでいった。 何らかの魔法による空間移動術だろう。そのまま適度な加速度をつ けながら、2人を包んだ光の玉が、巨大タンカー内のいくつもの階 層を通り抜けて下へ降りていく。 ﹁ほう、確かに巨大な船だな。この世界でも、これだけの大きさの 輸送船が運航していたのか﹂ クー博士が、頑丈そうなジャケットの内ポケットから、大きなつ ば付き帽子を取り出して、頭にかぶりながら、感心した様子で周辺 を見やった。ぐしゃぐしゃな髪はそのままである。 ﹁南インドの港湾都市へ向かう定期便だそうだよ。今や、熱波と洪 水で世界中が食料不足だからね。宇宙産の食料もようやく注目され るようになってきたというところかな。まだ単価の高い魚介類と鳥 肉類が主だけどね﹂ ナン坊主が、クー博士の視線を追いながら説明すると、クー博士 が少し考えるような仕草をした。 ﹁そうか。その定期船のバラスト槽で見つかったということは、そ のインドとやらでも発生しているかもしれないなあ﹂ ﹁そうだね、クー博士﹂ そう2人が話している間に、光のエレベータは、無事に目的地で ある船底に到着した。バラスト槽なので照明機器は設置されておら ず、普段は真っ暗なのだろうが、今は光るエレベータが発する明か りで隅々までがよく照らし出されていた。そこには、奥行き1キロ はありそうな巨大なバラスト槽の壁一面に、真っ黒い藻がべったり と張り付いている様子がはっきりと見える。その風景に顔をしかめ る博士と坊主。 6 ﹁これは、また。大量に発生しているな﹂ 博士がエレベータからひょいと降りて、そのまま空中を浮遊して 黒い壁に近寄る。博士の周辺の空間がピリピリと青く輝きだした。 ﹁ほう。相当な毒性を持つ胞子を放出しているようだ﹂ そのまま、博士がジャケットの中から、大きな雑巾状の布を取り 出して、壁の黒い藻をごっそりと無造作に拭い取った。よくやって いることなのだろう、手馴れた手つきである。 雑巾には、どうやら測定機能もついているようで、すぐに藻の正 体を暴き出し、その情報を博士に伝えた。鼻音が多く、聞き慣れな い言葉である。まるで雑巾が話しかけているような気にもさせる。 次いで、空間に3次元ディスプレーが浮かび上がった。これにも詳 細な観測生データが洪水のように表示され、それらがグループ化し ていき、グラフと分子構造式、遺伝子情報だろうか螺旋状の立体図 が表示された。そこに記述されている文字も不可解な形をしている。 その文字は、細かい幾何学模様のバネのような図形が寄せ集まった 形で、それが時間の経過と共に互いの位置を変えて全体の姿を絶え ず微妙に変化させている。その集合図形のような文字周辺には衛星 のような無数の細かい粒子が雲のリングのようになって取り囲み、 層を成している。これが一つの文字で、それらが文章を成してつな がっている。何となくたんぱく質や酵素の分子模型を想起させるよ うな、ぐしゃぐしゃしているが秩序立っている立体的な文章である。 その3次元ディスプレーの情報を一目で理解したのだろう、クー 博士がナン坊主の方を振り返る。 ﹁君の予想通りだね。確かに発生を確認したよ。何年ぶりになるか な?ナン﹂ それを聞いてナンの表情が落胆に変わった。 ﹁そうだね。この世界の標準時間で12,961年ぶりかな、クー 博士﹂ クー博士が、それを聞いて、すぐに彼の故郷の異世界の時間に変 7 換して、少し昔を振り返るような感じで記憶を呼び覚ました。空中 の3次元ディスプレーも彼の思考に連動しているのだろう、サーチ してその当時のデータを呼び出している。そして、ものの数秒で、 その当時の藻のデータとの照合が完了して、近似値が算出された。 彼の赤い瞳に強い光が灯る。 ﹁ああ、あの時か。確かにあの時の藻の仲間だね。かなり遺伝的な 変異を遂げているなあ。細胞膜の受容体の分子構造なんか別物だよ﹂ 武骨な風体でも、やはり博士と呼ばれるだけありそうな知的なふ るまいをする。しかし、雑巾をジャケットの中に無造作に突っ込む 仕草は、再び博士のイメージを壊すのに十分だった。 ﹁こいつは、滅多に出てこない希少種だからね。採集できて良かっ たよ﹂ そう言って、クー博士がにこやかな顔で笑った。赤い瞳が無邪気 に輝く。 一方のナンの表情は相変わらず落胆したままだ。 ﹁クー博士。あの時のように世界中に蔓延しそうかい?﹂ クー博士は、当然とでも言いたげな表情をして、壁から離れた。 博士を包んでいた青い光が消える。 ﹁だろうな。最近誕生した植物は、こいつに対する免疫を持ってい ないはずだよ。何せ13,000年近くの間一度も姿を見せずに隠 れていたんだから。まさしく、イチコロだろうね。氷河期を体験し た植物以外は全滅かもな﹂ ﹁そうか。ということは、この世界の人間の食料作物も標的になり そうだね﹂ ナンがそうつぶやくと、クー博士がうなずいた。 ﹁この藻を食べて繁殖を抑えていた、海中生物が何かのはずみで絶 滅したんだろうね。これは海の藻だから、直接陸上の作物を侵食す ることはないだろうけど、これを餌として増えるカビがいるはずだ よ。それが問題だな。毒素がカビの中で濃縮されることになる。濃 縮された毒素のおかげで、そのカビは他の微生物の餌にならなくな 8 るから海岸で大発生して、世界中に毒の塊の胞子をばら撒くだろう。 その後は、この間の出来事の通りだな﹂ ﹁うむむ。またあのカビの登場かね。今回は黒カビか。世界がまた 煙たくなるなぁ。まあ、ダニの大発生よりはマシだけど﹂ ナン坊主が、辟易した様子で壁の黒い藻を見る。それだけで、視 線の先の藻が消滅して下地の金属の壁が現れた。それを見てクー博 士が苦笑する。 ﹁おいおい、ナン。ここは魔法禁止の世界じゃなかったかい?﹂ ﹁はは。うっかり気を抜いてしまった。大丈夫、この程度なら、因 果律崩壊までには至らないよ﹂ ナンも苦笑して、すい、と手を振る。すると壁が元通りに黒い藻 で覆われてしまった。そして、思い出したかのように懐から古風な 懐中時計を取り出して、ふたを開けた。 ﹁ああ、そうだな。嵐が起こる時期に差しかかっているなあ﹂ 落胆した声でつぶやくナン。 クー博士が興味深い顔をしてナンの懐中時計をのぞき込んで感心 する。 ﹁へえ。時計かい?それ。全然そうは見えないけど﹂ ナンが落胆したままの表情でクー博士を見上げてうなずいた。 ﹁時刻を正確に刻むという点では時計としては失格だけどね。非線 形な事象の周期を測るには最適だよ﹂ クー博士が、懐中時計に顔を近づけて、降参したような声を上げ た。 ﹁うう。文字やプログラムが解読できないなあ。エンシャント系か い?﹂ ナンが懐中時計をクー博士から遠ざけてうなずいた。 ﹁そうだね。ウィザード魔法使いが認識できる範囲では、これはハ イエンシャントのプログラムで動いていることになるのかな。あま り不用意に近づかない方が身のためだよ、クー博士。君たちにとっ ては呪いのアイテムに属するからね﹂ 9 博士が苦笑する。 ﹁それはそうと、ナン。このことは他のウィザードには見せたのか い?魔法世界もたくさんあるし、エルフやノームらの世界の精霊使 いの動きは全く分からないんだよ。研究発表しても先を越されると 時間と金と労力の無駄になってしまうからね﹂ ナンも苦笑して質問に答えた。 ﹁そうだね。私の知る限りでは、クー博士が最初の発見者だと思う よ。不正規の空間転移ゲートを使用する人までは分からないけれど﹂ クー博士が満足気な顔をした。 ﹁ナンがそういうなら、まず私が一番乗りだな。私のようなウィザ ードは正規のゲートを使用しないと論文の査読を受けられないし、 ソーサラーどもは不正規のゲートを使いこなすだけの術式をまだ開 発していないからね。精霊使いが気がかりだったけど、まだ来てい ないなら勝ったな﹂ ははは、と笑うクー博士。あきれた視線を博士に送るナン。 どうやら、他に多くの平行世界が存在していて、その多くはクー 博士のような魔法使いが住む世界らしい。他にはエルフやノームと いった種族が住む世界があるようで、世界間の交流は空間転移ゲー ト魔法の制約のせいであまり盛んではないようだ。ただ、学術研究 の世界では互いの世界はライバル関係にあるのだろう。一方、この 世界はなぜか魔法禁止になっている。 魔法使いには大きく分けて2種類あって、クー博士のようなウィ ザードと、ソーサラーとに分けられるらしい。博士の口ぶりではソ ーサラーはウィザードほど魔法に長けてはいないようである。真偽 のほどは部外者には分からないが。 轟音がバラスト槽の壁を揺るがした。巨大タンカーのエンジンが 始動したようだ。どうやら出航するらしい。 ﹁ナン、では戻ってくれ。帰ろう﹂ 10 それを聞いてナンがうなずく。 光のエレベータが、今度は水平に動いて、黒い藻で覆われたバラ スト槽の壁をすい、と突き抜けて巨大タンカーの外に出た。そこは 海中だったが、エレベータの中には浸水してこないようだ。そのま ま、エレベータが上昇して海上に出る。 ﹁今回の文明は、結構良い線までたどり着いたが﹂ ナン坊主が残念そうな顔でつぶやいた。再び頭上を4発ジェット の巨大な輸送機が離陸していく。 クー博士は、早くも論文の作成に取りかかったようで、顔の前に 出現させた3次元ホログラフを凝視している。あまりナンの話を聞 いていないようだ。 ナンは少し感慨深そうな様子だったが、思い出したかのようにク ー博士に訊ねた。 ﹁そうだ、クー博士。他に採集に行きたい場所はあるかい?﹂ ﹁いや、もういいよ。この世界で大発生している赤潮、青潮、黒潮 の藻類は、この前スリランカとかいう島で採集したしね。あれも、 なかなかの毒性を発揮するよ﹂ そう言って、手をプラプラと振るクー博士。神経毒なのだろう。 ﹁その3種類の藻類も、恐らく今回の黒い藻と同様に、毒性の強い カビ発生の下地になるだろうな。そうすると、今回は4種類のカビ が発生することになるかもね﹂ ほとんど他人事のような口調で淡々と話すクー博士に耳を傾ける ナン。 ﹁さて、採集は以上だな。帰るとするよ、ナン﹂ ナンがうなずいた。ようやく微笑みが戻る。 ﹁ああ、同行して良かったよ。そうだクー博士、この時計によると、 そろそろ森が消える頃になりそうだ。関連しそうな世界の連中に伝 えてもらえないかな?﹂ ﹁ああ、いいよ。そうだな、森の住人あたりが興味を持つかもしれ 11 ないな。チャンネルはかなり細いけれど当たってみるよ。しかし、 いいのかい?ナンの本業は正規ゲートの管理だろう?﹂ ナンが微笑んで片手を適当に振った。 ﹁それは大丈夫だよ、クー博士。きちんと休暇の枠内で収まるよう に調整しているから﹂ ﹁それならいいか。ま、ナンの趣味にあれこれ口は出さないよ。大 変助かるし。ではまた﹂ そう、挨拶を交わして、かき消されるように、クー博士の姿がフ イとなくなった。 足元に浮かぶ巨大タンカーも出航し始めて、護岸からゆっくりと 離れていく。南インドの港湾都市へ向かうのだろう。そのゆっくり した動きを眺めながら、ナンがつぶやいた。 ﹁そうか。もう、嵐の季節か﹂ 12 旧アマゾン流域 3月下旬の南米、アマゾン流域だった地域では、まだまだ暑い季 節の最中である。沖合いの大西洋では、スーパーセルとも形容され る複数の巨大な積乱雲が差し渡し1000キロメートルに達するよ うな塊になって集まり、空を真っ黒にさせて無数の稲妻を走らせて いる。以前は北米だけに発生していたハリケーンも、このスーパー セルが居座るようになってからは、南米でも当たり前のように毎年 発生するようになっていた。しかし、なぜが南米のハリケーンは海 上だけを進んで、南米大陸には上陸してこない進路ばかりを取って いるようである。それほどアマゾンだった地域からの高気圧の風が 強くて近づけないのだろう。それも無理のない事で、アマゾンと呼 ばれた広大な熱帯雨林は、そっくりそのまま沙漠へと変貌していた。 気流が変わり、ほとんど全ての雨が大西洋上でしか降らなくなり、 南米大陸には雨雲が寄り付かなくなったせいである。 その大西洋上に延々と広がる巨大な積乱雲群の中から、岩を抱い た高さ6mほどの巨木が10本ほど姿を現した。言葉は話すことが できないようだが、念話と一般に呼ばれるテレパシー感応術を使っ て、互いに情報を交換し合っている。その巨木の群れの中にナンが いて、共に空中を飛行している。稲妻と暴風が激しい中ではあるが、 巨木群と坊主の周辺だけは影響が及んでいないようだ。 ︵すまないね、御坊。無理を聞いてもらって︶ 巨木群のリーダーと目される、一際巨大な木が、ナンに念話を使 って話しかけてきた。 ナンが微笑んで念話で答える。 ︵いえ、珍しい客は大歓迎ですよ。この世界の雨はどうでしたか?︶ 巨木が抱いている大岩が緑色に薄く輝いて、根元に小さな妖精が 13 出現した。恐らく、この木がつくり出したのだろう。編み笠タケの ような姿で薄いベールをまとい、着生ランの茎のような突起物がキ ノコ体のほうぼうから突き出ている。動物のような目や口などは見 当たらない。その妖精が1体姿を現すと、それを合図にしたように、 他の巨木の根元や枝にも同じような小さな妖精が出現した。しかし、 まるで人形そのもののような動きをしている。この辺りは植物と動 物の感覚の差なのだろう。その妖精達が一斉に同じ動きをして、口 が見当たらないのに返事を返した。声が重層的に響きあう。 ﹁﹁驚いたよ。まるで毒水だな。障壁で弾かれていなければ、ひど く不快な気分になっただろう﹂﹂ それを聞いてナンも念話を止めて、通常の話し言葉に戻す。 ﹁それは良かったです。稲妻は当たっていませんか?静電気が発生 して、不快な思いをされていませんか?オーロラも次第に強くなっ てきましたし﹂ 妖精達が一斉に首をふった。見事に寸分違わずに一致した動きに なっている。 ﹁﹁大丈夫だ。静電気も発生しておらぬよ。大した魔法障壁だな。 しかし、この世界では魔法は使えないのではなかったのかね?﹂﹂ ナンが微笑んで、展開している障壁に触った。かなり巨大で、1 0本もの巨木をすっぽりと包んでいるのが稲妻の輝きに映し出され た。 ﹁そうですね。普通でしたら、これだけ大きな障壁を作ると、この 世界の因果律にぶつかりますが、世界に気づかれない工夫をしてい ますので、大丈夫ですよ。ただ、精霊魔法場の濃度が少し高めなの ですが、気分が悪くなってはいませんか?﹂ ﹁﹁それは、全く問題ないよ。至極快適だ。それに、空を飛ぶとい う感覚も面白いものだな﹂﹂ また妖精達が一斉に重層的な声をあげた。このまま歌うとフーガ 音楽にでもなりそうだ。 ナンがそれを聞いて笑った。 14 ﹁さて、そろそろ上陸しますよ﹂ 海岸は真っ黒な藻で一面覆いつくされていて、まるで石油流出事 故の現場のような印象を受ける。そして、その藻は、陸上で枯れて、 黒カビの餌になっていた。海岸から内陸1キロの距離までが黒カビ でびっしりと覆われている。そこには生きて動くものや植物も何も 見当たらない。その黒い景色の上空を数秒で通り抜けると、一面の 沙漠が広がり出した。 妖精たちには顔がないので表情というものが最初からないのだが、 それでも無言で、恐らくは盛んに念話でやりとりをしているのだろ う。目がないのにじっと沙漠を眺めていると思える様子は、どこと なく痛々しさを感じる。 ナンが穏やかな声で抑揚を抑えながら説明を始めた。 ﹁沖合いではあの通り、雨なのですが、陸上には降らなくなったの で、ついには沙漠になったのです。つい200年前までは、ここは。 。﹂ ﹁﹁分かるよ、御坊。素晴らしい森だったようだ﹂﹂ ナンの説明をさえぎって、妖精達が一斉にささやいた。ナンも口 を閉じる。やや間を置いてから、妖精達が話を続けた。 ﹁﹁恐らくは、地面まで光が届かないくらいの深い森だったはずだ﹂ ﹂ ナンがそれを聞いて妖精たちの視線を追う。 ﹁分かりますか﹂ 妖精達が一斉に口を機械的に開いて答えた。 ﹁﹁ああ。木の遺骸だらけだ。砂のように見えるが、砂は実際には 半分くらいしかない。残り全ては植物の体の破片だ。これほど恐ろ しい景色は見たことがないよ﹂﹂ 広大な砂漠のあちこちが煙っている。砂嵐が起きているのだろう。 内陸部へ進むにつれて、砂はさらに細かくなり、空気に混ざって視 15 界が悪くなってくる。時々、砂にうずもれた町や村の廃墟が見える が、もはや誰も住んでいないようだ。やがて、アンデス山脈と呼ば れる巨大な岩の壁が聳え立っているのが、砂の霞の向こうに見えて きた。空気中の湿度が若干上がり始め、視界が回復して地面には砂 以外に潅木が見られるようになってきた。それを確認して、ナンが 巨木たちに合図を出す。 ﹁ここに降りてみましょうか。ここでしたら、多少は砂まみれにな る具合が減るでしょうから﹂ ナンが障壁を解除すると、大岩を抱いた10本の巨木群が、そろ そろと砂まみれの大地に降り立った。しかし、よく見ると、地面か らわずかに浮いている。立ち尽くしている、といった表現が適当だ ろうか。それでも、妖精達が機械的な動きで盛んに何事かを話し込 んでいるようだ。声というものではなく、音と言ったほうが良いだ ろう。耳障りではなく、どことなく心地よさをもたらす音で妖精達 が互いに話している。恐らくは樹木の精霊語だろう。ナンは、その 話を理解できているようだが、あえて静かにして邪魔にならないよ うに少し離れた場所に立っている。しかし、あまりに気配を抑える ので、影のようになってしまっているが。 遠くの山脈方面のかなたに、山羊の群れが動いているのが見えた。 この先の山中では、まだ人間が住んでいるのだろう。 やがて、妖精達の作り出す音が止んで静かになった。静寂が訪れ て、風が潅木の乾いた枝をすり抜ける音と、その風で細かい砂が地 面をこすって流れていく音しか聞こえなくなる。 そのまま、10分ほどが経過しただろうか。ナンが静かに静かに 自身の気配を生き物のそれに戻して、ゆっくりと口を開いた。 ﹁ご希望に沿うように場所を選んでみましたが、いかがでしたか? 気分を害されてはいませんか?﹂ 妖精達が一斉にナンの方に振り返った。 16 ﹁﹁いや、いや、良い場所を選んでくれたよ。ありがとう。いい経 験ができたよ。我らの世界を保つ努力をしなくてはな。元世界がこ うなると判ってはいたが、実際に訪問しないといけないものだな。 知り合いにも話してみるよ﹂﹂ ナンがそれを聞いて、複雑な表情で微笑んだ。 ﹁恐縮です﹂ そして、それぞれの巨木から妖精の姿が消えた。同時に、抱いて いる大岩がほのかに輝きだして、念話モードに戻った。 ︵さて、帰ろう。ソツクナングさん、案内してくれて礼を言うよ︶ ナンも念話モードに移行して返事を返す。 ︵いえいえ。お客様ですから。生命の樹の皆様をご案内できて私も 恐悦です︶ そう、念話で挨拶を交わすと、巨木群がかき消されるように、そ の大きな姿を消した。 1人残されたナンが、しばらく砂にまみれた潅木が茂る大地に立 っていたが、やがてうなずいた。 ﹁うん、無事に帰り着かれたようだ。さて、私も帰るか。ここも砂 に埋もれそうだ﹂ そう言って、地平線を眺めた。赤いモヤのような砂嵐が、地響き を立てながら、地平線一杯に広がってこちらへ向かってきていた。 17 日本列島の太平洋沿岸 極東アジアの日本列島と呼ばれる島嶼には、4月から台風が来襲 するようになって久しくなっていたが、今回の台風は例年に増して、 勢力が強いものだった。中心気圧860hPaで直径600キロの 暴風圏を持つ破壊的な台風が、春雨前線に向かっていた。日本列島 の太平洋岸では、春雨前線がそのまま梅雨前線になり、少しの晴れ 間の後に秋雨前線に覆われて、ほぼ年間を通じて雨模様の天気とい うのが定着していた。 さて、今回の台風の進路予想では、名古屋に上陸する可能性が高 いようだ。これほどの強さの台風は過去になかったので、日本は厳 重な警戒態勢をひいていたが、既に高齢化と人口の急激な減少が進 み、一方で大量の移民が水を求めて移住した結果、言葉が通じない 人口が激増したため法治機能が麻痺し、治安が悪化して産業の空洞 化が顕著になった国力では、大した対策が打てるはずもなかった。 道路などのインフラが崩壊して陸の孤島となった日本海沿岸や瀬戸 内海では、海賊が跋扈して独自の国すらつくっている状況である。 その静岡の沖合いの上空200mの暴風の中に、ナンとクー博士 が障壁をそれぞれ展開して浮遊していた。下の海面は既に高さ10 mもの大波になって荒れ狂っている。気圧が低いので海面が4,5 メートルほど盛り上がっており、その上に大波が荒れ狂っている。 風は秒速100mに達しているので、大波は瞬く間に風で分解され てしぶきの塊に成り果てている。そんな状況にも関わらず、ナンた ちの障壁は風に翻弄されることもなく、安定して浮かんでいた。し かし、周辺の視界は時間の経過と共に悪くなる一方で、凶悪な暗黒 の世界と化してきていた。 18 ﹁うん。いい風だな。採集する価値があるよ﹂ クー博士が、広いつばのついた年季物の帽子を被ったままで、こ れまた年季の入ったジャケットの中から小瓶を取り出した。相変わ らず、赤い瞳には爛々とした好奇心の光が灯されている。 ナンも何の気負いもない穏やかな声でクー博士に訊ねた。 ﹁じゃあ、採集空間を10キロ立米で設定するよ。それでいいかい ?クー博士﹂ まるで裏山へのピクニックの途中のような気楽さである。 ﹁うん、それだけあれば十分だよ。風の精霊場が高密度に圧縮され るから、加工した際に、かなりの高出力精霊魔法になるだろうな。 もしかしたら音速を数倍超えるかもね﹂ クー博士も、小瓶を両手の中で転がしながら、気楽な調子で答え た。その時、クー博士とナンの浮遊する場所に太い落雷が落ちた。 空気を切り裂く独特の轟音が暗黒の嵐の中に響き渡り、2人の障壁 がまぶしく光った。 その雷を障壁の中から見ていたクー博士が、赤い瞳を輝かせた。 ﹁おお、これも採集したいな。ナン﹂ それを聞いたナンが苦笑して、制止した。 ﹁クー博士、雷は風の系統だけど、別々の採集が無難だよ﹂ 博士が、少しすねたような顔をした。 ﹁細かいなナンは。了解、後で採集するよ。始めてくれ﹂ ナンが、すっと右手を上げた。 ﹁因果律回避2秒、空間捕縛、開始﹂ 同時にクー博士が小瓶を開ける。 ﹁風の精霊場を吸引、開始﹂ 呪文らしき言葉も発していないが、採集作業がこの命令を合図に して自動的に始まった。10キロ立方メートルもの広大な空間に充 満している強力な風の精霊場が、一気に小瓶に入る。その反動で、 辺りが無風になった。暗黒の凶悪な形相をしていた分厚い雲すらも 消えてしまい、突然台風の目の中に入ったような、きれいな澄んだ 19 夜空が上空に広がる。荒れ狂っていた暴風は全て、この小瓶に入っ てしまったようだ。赤いオーロラが北の方の空に広がっているのが 見える。しかし、下の荒波だけは相変わらずで、不自然な対比を見 せている。 ﹁上々だ。良いサンプルになるだろう﹂ クー博士が、満足そうな顔をして小瓶のふたを閉めた。澄んだ夜 空もたちまち幻のように消えて、また分厚く暗い嵐に包まれていく。 暴風も雷も戻ってきた。 気がつくと、2人はいつの間にか沿岸まで、風に流されていた。 沿岸にそびえる巨大都市も、ブロック区画ごとに電線が断線したり しているのだろうか、パッチワーク状に灯りがついている地区と、 真っ暗になっている地区とに分かれている。そして、次第に真っ暗 になっている地区の数が増えてきていた。ポツポツと自家発電を稼 動させている場所の明かりが目立ってくる。その様子をあまり関心 なさそうな顔で上空から見下ろしているクー博士がナンに話しかけ た。ちょっとヒマになったらしい。 ﹁ナン。この文明都市は、これまでこれほどの嵐を経験していない そうだね﹂ ナン坊主が、クー博士の視線の先を追って答えた。 ﹁ああ、600年余りしか経っていないからね、博士﹂ それを聞いて、何の感慨も感情もない声で、クー博士が告げた。 ﹁であれば、この風には耐えられまい。うむ、ざっと見ても、20 0万人は居るかな。この内1万人は死傷するだろうね。あ、魔法が 使えないからもっとか﹂ その時、ナンの細い目がピクリと動いた。今までの気楽な雰囲気 が消えた。 ﹁クー博士、まだ小瓶はあるかい﹂ ﹁予備で1つあるが、どうしたんだい?ナン。これから雷系の精霊 場を採集しようと思うのだが﹂ 20 訊ねるクー博士にナンが目をさらに細めて告げた。 ﹁地震だよ。この地下40キロで起こる﹂ クー博士の赤い瞳が、好奇心の光を宿した。 ﹁うむ、それは珍しいな。採取してみるか。精霊魔法は専門外だけ ど、興味があってね。ええと、地震エネルギーは地の系統だな。雷 とは別か。むう、もう一つ持ってくればよかったよ﹂ 残念がる博士の横で、ナンが採集の準備を始めた。海面を見下ろ しているが、恐らくはその下の、地殻の中までも見透しているのだ ろう。 ﹁因果律回避0.5秒、遠隔空間捕縛﹂ 同時にクー博士が持っている小瓶が消える。 ﹁転送よし、地震エネルギー吸引、範囲10キロ立米、完了、戻れ﹂ 瞬く間に、クー博士の手の中に小瓶が戻った。かなり熱くなって いるようで、両手でお手玉をして、小瓶を冷やしているクー博士。 しかし、その顔には満足げな表情が溢れている。 ﹁おお、容量一杯だ、これは相当な地震だったな。この都市は運が 良かったぞ、我々がエネルギーを吸引しておらねば、崩れ去ってお ったろ。。。お?﹂ お手玉の手を休めずに、クー博士が驚いたような顔をした。海面 を見下ろす目に鋭さが宿る。その横に浮かんでいるナンも同様な顔 で驚いているようだ。 ﹁ああ。同時に起きた。3発。。か?海底の堆積層がエビのように 跳ねたよ。3ヵ所で差し渡し50mほど一気に水平方向にずれたか。 垂直方向には最大で10mほどかな﹂ そう言って、ナンが西の海を見る。嵐の暗闇の中なので、どこを 見ているのかは、分からないが。しかし、クー博士も、同様の結論 に達したようだ。同じように西の海を見る。太鼓をめちゃくちゃに 叩いたような不気味なうなり音が、秒速100mの暴風の中でも響 いてきた。 ﹁さて、採集ビンも容量が満杯だし、帰るよ。今回も良い採集がで 21 きたよ。この嵐に地震か。ナン、ここは終わったな﹂ クー博士が、他人事のような口調で肩をすくめる横で、ナンも顔 を曇らせた。 ﹁ああ、誰も助けに来れないだろうね﹂ 22 台北の岸辺 1000キロに渡る日本の太平洋岸とハワイや太平洋島嶼国が、 数時間に渡って高さ20mの津波の波状攻撃を受けて壊滅してから、 5日後の巨大都市台北。ここは相変わらずの活況を誇っていた。明 るい夜空にも関わらず、緑色のオーロラが空一面にたなびいている のが街の中からでも分かる。しかし、沿岸は赤潮で覆われて、さら に最近では猛毒の藻類の大発生が加わり、沖合いにもクラゲが大発 生したせいで、漁獲量が皆無になり、漁船の姿は見えなくなってい た。それ以外の作業船や輸送船の従業員も、風で舞い上がる猛毒の 藻類の破片を吸い込んで中毒症状になって倒れる者が相次ぎ、動い ている船舶は非常に少なくなっていた。沿岸は、真っ黒い藻類でび っしりと覆われて、それが急速に黒カビにとって変わっていく。ク ー博士の言が正しければ、この黒いカビは1種類ではなくて、4種 類ほどのカビの複合体であるわけだが、見た目は一様に黒いので見 分けがつかない。 当然ではあるが、沿岸に住む人はいなくなっていた。ビーチも閉 鎖されたままである。人気の海鮮料理レストランは食材の確保に苦 労しているようで、閉店している店も見受けられる。それでも、陸 上養殖と、最近では宇宙養殖が盛んになっているので、品数は減っ ているが何とかやりくりできているようだ。この台北は、外洋に近 い島嶼なので、環境汚染の度合いは、まだ中国大陸の沿岸都市に比 べるとマシのようである。 繁華街のあちこちに設置されている、見上げるように巨大な画面 のテレビは、もっぱら音楽番組を延々と流しているが、中にはニュ ース番組を映しているものもあった。時々、画面にノイズが走る。 そこには、日本の名古屋の高級住宅街が竜巻で削り取られて崩壊し 23 ている風景が、繰り返し映し出されていた。まるで何かの映画のシ ーンのようだ。その周辺に広がるスラム街では、火災はまだ収まら ず、被害の程度もいまだに判明していないようである。恐らくは、 水も食料も尽きているだろう。先日の台風は、猛烈な雨ももたらし たようで、洪水も起きているようである。高潮と相まって暴風によ って洪水の勢いが強まったのか、木造家屋や耐久性が低い鉄筋コン クリートの建物はほとんど全て洗い流されて瓦礫の山と化している。 3,4階建ての建物も基礎が洪水で破壊されたのか横倒しにされて いる。 ここ台北の街を道行く人達は、当初はその非現実的な風景に驚い ていたが、今は新たな余震で台北までくるかもしれない津波に対し て敏感になっているようだった。日本での地震はやはり3ヶ所でほ ぼ同時に発生しており、それぞれがM8クラスという情報だけが何 度もテロップで流れている。この値は日本の地震観測網が機能して おらず、遠いアメリカなどでの観測値が適用されているので、実際 には誤差があるかもしれない。ただ、救いだったのは、衛星網のお かげでアメリカ大陸の太平洋沿岸には、津波警報が出されてから、 実際の到着までに1日程度の時間があったことで、被害がある程度 は抑えられたということだろうか。しかし、海抜10m以下の国土 しかない太平洋島嶼国では、多くの島が津波に洗い流された模様で ある。これも、その後の情報は入ってきていない。 その巨大な画面のある大通りの大衆レストランに、ナンの姿が見 える。2人の美人を案内しているようだ。もう夜になり、派手なネ オンがきらめく大通りは、大勢の行きかう人でごった返している。 その人ごみをすぐそばで観賞しながら、美人達がプラスチック製の 安い丸テーブルに運ばれてくる、様々な料理をおいしそうに食べて いる。顔が似ているので、姉妹なのだろう。顔立ちは南欧系だが、 箸使いもうまくこなしている。2人ともに背丈は170センチを少 し上回るくらいで、漆黒の髪は軽くウェーブがかかり、彫りのやや 24 深い顔に嫌味でない程度に絡まっている。姉らしき女性の方は少し 背が高く、髪もロングでスレンダーな体型をしている。もう一方の 妹とおぼしき女性はセミロングで姉よりも強めのウェーブが全体に かかっている。こちらは姉よりも人懐っこい雰囲気を持っているせ いか、スレンダーではあるが何となく丸みが感じられる。姉妹とも に深海の青さをたたえた瞳をしており、尋常ではない気品と威厳が 備わっている。もちろん、それは人間のもつものではない。 しかし、彼女達の座っているすぐ横に控えている、巨大なクモは 一体何だろうか。何かしらの認識阻害魔法を使っているのだろう、 道行く人達やレストランの客には見えていないようであり、近づく 者もいない。おかげで、そのクモのいる周辺だけは人ごみに埋まっ ておらず、適度な空間をナンや姉妹に提供していた。 しかし、美人姉妹は、大いに注目を引いているようである。服装 は周辺の中国人に合わせた、さっぱりとした洋服なのであるが。男 女年齢を問わず、あまりに注目を浴びているので、姉妹が苦笑して いる。 ﹁魔法は使っていないわよ。体質ね。あ、このクエの香草蒸し、お いしい﹂ そう言って、出てきた海鮮料理を次々に平らげる姉妹。手元には、 紹興酒や白酒だろうか、数種類の酒類がグラスに注がれている。一 方のナンは、中国茶だけをすすって、姉妹の食べっぷりを感心した 様子で眺めている。やがて、一皿をきれいに食べ終えた姉妹が、ナ ンの視線に気がついた。 ﹁こんなに美味しいのに。アンデッドってバカよねぇ﹂ ﹁すいません、イプシロンの女王様。至らないところばかりです﹂ ナンが恐縮した顔で頭を下げる。何となくバツが悪そうな感じだ。 茶をすするスピードが上がった。それを見て、姉妹が笑った。 ﹁あ、ごめんね、悪気があったわけじゃないのよ。だって、普通の 亜人じゃ魔力に差がありすぎて、すごく気を使うし、アンデッドは 趣味が悪いしさ。魔法使い達は勘違いしてるのが多いから面倒なの 25 よねー﹂ そう一方の美人が言うと、横の美人もうなずいた。それだけで、 このドブの臭いすら漂ってくる繁華街の空気が、バラの芳香を持つ 空気に変わって浄化された。夜でも元気に飛び回っていたハエが、 瞬時に消滅したのに気づいた人がいただろうか。 ﹁そうよね、連中の教科書じゃ悪役ですものね、私達。魔法を使え るのは誰のおかげなのか理解できているのかしらね。お坊さんぐら いしかいないのよ。気を使わなくていい人って。あ、きたきた﹂ もう何皿目になったのか、感心した様子で次の大皿を運んでくる レストランの人を、いち早く確認する美人姉妹。今度の皿は上海蟹 の山盛りだった。殻を叩き壊すためのステンレス製ハンマーと、ナ プキンも付いてくる。そのハンマーを浮き浮きした顔で受け取って、 早速茹で上がったばかりの蟹を叩き壊し始める。 ﹁机ごと壊さないで下さいよ。その机は弱い素材でできていますか ら﹂ ナンが、工事現場と化したテーブル上を、見つめながら告げる。 見る見る蟹ガラの残骸が机上に山積みになっていく中、嬉々とした 表情で、ハンマーを振るいながら蟹を食べている姉妹が、頬をふく らませた。 ﹁分かってるわよ。この微妙な力加減が、スリルがあって楽しいん じゃないの。机とハンマーを傷めないようにしながら、蟹ガラだけ を壊すのって難しいんだからね﹂ ﹁あと、このお店もね。姉さん、次はマテ貝の炒め物よ﹂ 早くも次の皿の話を始めた姉妹に、あきれたような顔をするナン。 それから、2時間弱経って、ようやく箸を置いた姉妹が、発酵薬 草茶をすすって一息ついた。 ﹁あー、おいしかった。ねえ、お代は大丈夫よね﹂ ナンが苦笑する。 ﹁はい。それは大丈夫ですよ。結構な金額になっていますけれど、 26 女王様の予想範囲内です﹂ ﹁あら。だったら、遠慮せずに、ツバメの巣をもう1回頼もうかし ら﹂ ﹁まだ食べるんですか?﹂ さすがに驚くナンに、クスクスと笑いあう姉妹。 ﹁冗談よ。食べる順番というものがあるでしょ。それを外したら、 美味しさは半減するものよ。じゃあ、次はバーに行きましょうか﹂ 会計をナンが現金で済ましている間、姉妹が大通りに出て、時計 やネックレスを売る屋台を物色して冷やかしていると、すぐに大勢 の男たちが言い寄って来た。しかし、大グモに阻まれているせいも あるが、彼女たちに近づくことができないでいるので不思議がって いるようだ。そのうちに、何か背筋を走るものがあったのだろう、 そそくさと退散していった。そんな連中を横目で見て、姉妹が目配 せして微笑み合う。 やがて、ナンが姉妹のいる場所にやって来ると、屋台の冷やかし を止めて、そのままレストランから大通り沿いに歩いてすぐの、ア イリッシュバーに入っていった。 カウンターはすでに満席だったが、姉妹が店に入った瞬間に、3 名の客が急用を思い出したかのような勢いでカウンター席から立ち 上がって、会計をし始めた。その空いたばかりのカウンター席に座 る姉妹とナン。早速、シングルモルトウイスキーの銘柄を物色し始 める。カクテル派ではないようである。店内は薄暗いのだが、たち まち銘柄を指定して、楽しげに姉妹で話し合っている。ナンは適当 にタリスカーを頼んだようだ。 当然、温暖化が進んでいるこの世界では、アイルランドも例外で はなく、泥炭層が気温の上昇で消化されて変質してしまっているの で、実際はさらに北のフィンランドやロシア産になっているものも 多い。 27 混雑している店内だが、数分もすると3名にそれぞれのグラスが 差し出された。それに早速口をつける姉妹。ナンは口をつけずに香 りだけを楽しんでいるようだ。たちまち、ショットグラスの半分ほ どを飲んだ姉妹の姉と呼ばれた方が、ナンの顔を流し目で見ながら 話しかけてきた。 ﹁良いわよねー、この無効化世界。私達に触れても何ともないのよ。 調整するのに苦労したでしょ﹂ ﹁はぁ﹂ ナンが適当にうなずくと、妹がため息をついた。 ﹁姉さん。私たちが改変した世界でしょ。あのままでは魔法場汚染 がひどすぎて廃棄しないといけないほどだったんだからね。ソツク ナングさんはただの管理人よ﹂ ナンが頭をかいて謝った。 ﹁すいません。管理がうまくいかず、このような有様になってしま いました﹂ 姉が微笑んでナンの謝罪を抑えた。 ﹁いいえ。基本的に私たちは世界の基盤しか創れませんから、どう してもバグが発生してしまうのですよ。ソツクナングさんのせいで はありません。むしろ、あんな状態だった世界を、よくぞここまで 生命あふれる環境に回復したものだと感心しますよ﹂ ナンがさらに体を縮めて恐縮する。 ﹁もったいないお言葉です﹂ 妹も同じ言葉を口にした。 ﹁もったいないなぁ﹂ もちろん、ナンの言葉とは別の意味だろう。 その時、カウンターの向こうで男女数名が騒ぎ出した。罵りあい の大声が聞こえてくる。どうやら金銭を巡るトラブルのようだ。 ﹁うるさいなぁ﹂ 姉妹がそろって、一瞥した。たったそれだけなのに、いきなり数 28 名の男女が凍ったように固まって、動かなくなった。当然、罵りあ いの大声も出なくなる。そんなことになっているのに、他の客は気 づいていないようだ。しかし、さすがにナンがすぐに凍結状態を解 除してやる。元の生命ある状態に戻って、きょとんとしている男女。 何が起きたのか理解できていないようだ。そしてバーから逃げるよ うに出て行った。ナンだけが、それを見送る。姉妹は2杯目のシン グルモルトを注文していた。 ﹁女王様、気をつけて下さいね。この無効化世界の設定にも限度が ありますから﹂ ナンが、あえて声を潜めて姉妹にささやいた。別にそうしなくて も構わないのだが。しかし、それなりの効果はあったようで、姉妹 の口がへの字に曲がった。それでも美貌には何ら影響は出ていない。 ﹁うー、もっと強く設定できなかったの?﹂ 姉の方が、まず口を開いた。もう2杯目のシングルモルトもほと んど無くなっている。 ﹁あなたほどの魔力の持ち主を基準にすると、私や、この世界の住 人は皆、窒息してしまいます﹂ アンデッドということだから、別に窒息も何も関係はないのだが、 ナンがそう言うと、姉妹が苦笑した。 ﹁もう、根性ないわね﹂ それから2時間余り、シングルモルトウイスキーを次々に楽しん で、最後にアルマニャックで締めた姉妹が、カウンター席を立った。 無言で付き添っている大グモも、読んでいた魔法書を文字通り消去 して、姉妹の後をついていく。食事も酒も取っていないようだが、 何ともないようだ。 ﹁これも想定内の値段だったかしら?﹂ 姉がナンに訊ねると、ナンが微笑んだ。 ﹁さすがに、予知能力が冴えていますね、女王様。予算ピッタリで したよ﹂ 29 妹の方が、クスリと笑った。 ﹁あらら。ピッタリなの?じゃあ、予知は外れたわね、姉さん。最 後の饅頭屋台の分を残しておかないと﹂ ﹁うー、そうね。本当にピッタリだったの?﹂ 姉が残念がると、ナンがニコリと微笑んだ。 ﹁そうだと思いまして、饅頭2個分程度のお金を浮かせるように、 ここの会計と交渉しておきましたよ。はい、女王様。饅頭代です﹂ そう言って、ナンが硬貨数枚を姉妹に渡した。一瞬、きょとんと した顔をした姉妹だったが、すぐに笑い出した。特に妹には受けた ようだ。バラの花吹雪がバーの中で舞いだした。さすがにどよめく 客達だが、次の瞬間には何事もなかったかのように穏やかな雰囲気 に戻った。そのバラの花が舞う雰囲気の中を姉妹が悠然と歩いてバ ーを出る。その後ろについたナンがバラの山で埋まったバーの床を 元の状態に戻していった。 大通りには多くの屋台が軒を連ねていて、姉妹がその中の饅頭屋 台を色々と物色して回っている。あれだけ食べて飲んでいるのだが、 足取りも軽く、きゃあきゃあと騒ぎながら、どの饅頭にしようかウ ロウロしている。その姿は、どうみても女王の品格ではない。ナン も大グモもそれを手持ち無沙汰気味で眺めている。 十数分かけて選んだ饅頭を1個ずつ買った姉妹が、それを早速口 にほうばりながら、海岸の公園へ向かって歩いていく。立ち入り禁 止の札とバリケードがあったが、姉妹が近づくと勝手に壊れて消え てしまった。そのまま、散歩するような足取りで海岸へ向かう姉妹。 大グモとナンも後をついていく。 海岸の公園には、誰もいなかった。真っ黒い藻とカビがびっしり とはびこっている上、観葉植物や芝さえも枯れてしまっている。猛 毒なはずなのだが、姉妹一行には関係ないようで、あまり気にもし ていない様子である。 30 公園のすぐ隣は夜の海面が広がっており、対岸の高層ビル群の夜 景を水面に映して壮大な絵巻を見せていた。沖合いの海は、薄くぼ んやりと光っているようだ。恐らくはクラゲが発光しているのだろ う。腐敗臭もかなりしていたのだが、姉妹が近づくと、なぜか消え 去って清らかな空気になっていった。同時に姉妹の歩く先にはびこ っていたカビや藻、枯れ草さえも、自動的に消え去って、姉妹のた めの清潔な歩道が出来あがっていく。 その上を姉妹が、饅頭をほうばりながら気楽な足取りで進み、海 岸まで出て、そこから広がる見事な夜景に目を細めた。 ﹁今までたくさんの文明を見てきたけど、この文明はキラキラして いてお気に入りだったのよ。エルフたちや魔法使いは環境が悪くな ったとか騒いでいるし、この世界でも欧州では思い切り悪者にされ ていたけどね﹂ ナンが、それを聞いて微笑んだ。 ﹁蛇の女王ですからね﹂ 姉妹が頬をふくらませる。もう饅頭は食べてしまったらしい。指 についた饅頭の皮をなめている。 ﹁ほんとよね、失礼しちゃうわ。ま、でも美味しいお料理もお酒も 楽しめたし、こうして最後の夜景も見ることができた。お坊さん、 ありがとうね﹂ そう言って、微笑んだ姉妹の顔は、やはり女王と呼ぶにふさわし い気品と美しさに満ちたものだった。 ﹁いえいえ。お楽しみ下されたようで、私も安堵しました﹂ ナンも片膝を軽く曲げて礼をする。言葉使いがいま一つだが、仕 方がないというところか。 姉妹も、微笑んでうなずいた。 その時、夜空を覆っていた緑色のオーロラが、突然発光を強めて、 さらにピンク色に光りだした。それが夜空をピンク色に染めていく。 と、同時に街の電気が一斉に消えた。非常灯だけが点々と灯ってい るだけだ。悲鳴があがって騒然となる。近くの窓を閉め切ったレス 31 トランの席についていた若いカップルも暗くなったのに驚き、さら に携帯電話も通信ができなくなっているのに驚いている。 姉妹が残念そうな表情になった。﹁始まったわね﹂ ナンもうなずく。﹁はい﹂ そのやり取りを横で控えて見ていた大グモが、8つあるつぶらな 目をキラリと光らせて、初めて声を出した。 ﹁コクヤングティ第1女王陛下、パロンガウホヤ第2女王陛下、発 生します﹂ 姉妹が、ため息をつく。 ﹁そう。じゃ、帰るわね﹂ ﹁はい女王様、道中お気をつけて﹂ ナンがそう言うと、姉妹がクスクスと笑みをこぼした。 ﹁ふふ、転ばないように気をつけましょう。もう1回くらい来れそ うかしら?﹂ ナンが時計を取り出して、ふたを開けて時間を確認する。 ﹁そうですね、もう少し時間は残っています﹂ 姉妹がうなずく。それは、ナンの能力の程度を確認したというこ とであろう。及第点は出してくれたようだ。 が、妹の方がいたずらっぽい笑顔を見せて、 ﹁それ、後で調整をしなさいね。私たちが来たせいで30ほど係数 や勾配が変化してるわよ﹂ ナンがまじめな顔でうなずいた。 ﹁はい。プログラムの修正は必ず﹂ 姉がそのやりとりを聞いて微笑んだ。 ﹁うん、じゃあね、お坊さん。そこに隠れている魔法使いさんにも よろしく﹂ そう言い残して、姉妹とクモの姿がパッと消えた。 ふぅ、と息をつく坊主に、公園入り口のほうにあったバリケード の外にいた、クー博士がマントを脱いで姿を現わし、ナンのいる海 32 岸までテクテクと歩いてきた。こちらに歩いてくるクー博士のさら に背後には数十名の武装した半透明の人影も見える。 ﹁お前さんでも疲れるかい?ナン﹂ ﹁そりゃね博士。ご不興になったら世界が大混乱になる。下手すれ ば世界ごと消滅してしまうからね﹂ そう言って、ナンが首や肩を回した。アンデッドでも肩凝りがす るのだろうか。クー博士が、キラリと赤い瞳を輝かせて肩をすくめ た。 ﹁その代わり、次の瞬間、女王達も因果律崩壊でこの世界から弾き 出されて、しばらく迷子になるけどな﹂ 不意に、ズシンと地面が大きく揺れた。縦ゆれだ。 クー博士が、東の海を見る。もう仕事をする顔になっている。 ﹁来たか。女王の予想通り、沖縄舟形海盆が震源だな。しかし、あ の姉さん達、異世界の未来まで分かるのかね﹂ ナンも東の海を眺めた。 ﹁イプシロンだからね。神と呼んでも差し支えないくらいだよ。う む、先日の同時地震が引き金になったのだね。恐らくは、あの同行 していた大グモ殿の予知能力だろう、あの種類のクモは大地と1億 年余りに及ぶ深い縁があるし、力もある。あのイプシロンの女王の そばにいて何ともない程だからね。何よりも、あのクモ殿もこの最 後の夜景を見たがっていたし。ああ、今、海盆に近い島が崩れて沈 んだ。﹂ それから30分もすると、海が急速に沖に向かって引いていく。 ようやく、都市にも警報が出たようだ。にわかに街の方角から騒ぎ が巻き上がって、大きくなってきた。 クー博士が、ごついジャケットに両手を突っ込んで、引いていく 海を興味深げに観察しながら、ナンに訊ねた。 ﹁さて、そろそろ来るな。どのくらいだと思うかい?ナン﹂ ナンの顔に険しさがのぞいた。相当遠くまで見ることができるよ うだ。 33 ﹁あの高層ビルと同じくらいの高さになるだろう。そのくらいの水 の精霊場を感じる﹂ クー博士の顔からも、緊張感が表れる。しかし赤い瞳の輝きは増 すばかりだ。 ﹁そうだね。では、もう一仕事頼むよ、ナン﹂ ナンがうなずく。 ﹁ああ、空間捕縛設定、2キロ平米、因果律回避3秒。いいよ、始 めてくれ﹂ クー博士が小瓶を開けて投げる。と、瞬時に消えた。テレポート したのだろう。 暗闇の向こうから巨大な津波が壁となって迫ってきていた。大量 のクラゲが発生しているのだろう、津波自体がぼんやりと光ってい る。 34 沖縄本島 最大50mの高さに達した巨大津波で東シナ海沿岸が壊滅し、1 億人が死亡した大惨事から1週間が経った。立て続けに起きた大災 害のために、日本の被害状況もいまだに判明していない。その日本 には再び巨大台風が襲来していた。経済大国の中国も、この南部沿 岸全域を壊滅させた巨大津波の影響で、物流が大混乱を期していた。 ナンは、岩盤がむき出しになり、植物も生えていない荒れ果てた 沖縄本島の丘に立っていた。津波の直撃を受けて、海抜100m以 下の全ての建物は、ことごとく洗い流されて消え去り、鉄筋の高層 ビルも外壁がほとんど全て引き剥がされて、鉄骨だけになっている。 それよりも標高の高い場所では、建物も残っていたが、大量の潮を 浴びているので、あらゆる植物が茶色く変色して潮焼けし、枯れて いた。水も電気も供給されなくなり、救援の手も差し伸べられてい ないように見える。沖縄は食料のほとんどを県外に依存しているの で、食糧や飲料水の不足はかなり深刻になるだろう。生き残った少 数の人達が暖をとるための焚き火の煙が、狼煙のように点々と丘の 上から立ち昇っている。そろそろ夕暮れが深まってきており、沖縄 独特の鮮烈な夕焼け空が空いっぱいに広がり始めていた。沖縄本島 から生じる上昇気流の気まぐれなのか、天頂方向に南北に細長い蛇 のような雲が2本発生し、真っ赤に染まる夕焼け空の中で互いに絡 まっている。 その儚げに立ち昇る煙の数を数え終わると、ナンが、手に持った 大量の手紙を読み始めた。時々、新たな手紙が空から現れて彼の手 に渡っていく。手に取った瞬間に手紙の内容がおおよそ分かるよう で、苦笑しているナン。 35 ﹁いつもは忘れ去られているが、さすがにこの段階まで来ると注目 されるようになるものだな。しかし、元世界を守ろうという依頼は 皆無か﹂ 手紙の総数が100通を超えたので、結合させて1枚の手紙に変 換し、それを縮小させる。 ﹁ほぼ毎週発生している、巨大台風の風の精霊場採集の依頼が多い な。これは津波の水の精霊場採集の問い合わせか﹂ ナンが、岩盤がむき出しになった地面を見る。そのまま地下の地 殻の状態を調べているようだ。しかし、首を振った。 ﹁確かに、これほどの風と水の精霊場であれば、かなり強力な魔法 に加工できるだろうな。残念だが本震は終了して、残るは余震ばか りだが。しかし﹂ そうつぶやいて、ナンが海面を見下ろした。今は穏やかな波を立 てている。泥色ではあるが。 ﹁これほど強力だと分かっていれば良いのだが。でなければ、30 0万年前と同じだな。しかも﹂ と、目を転じると、避難していた人達が死んでいるのが丘の上に 見られた。その数、数百人を超えるだろうか。突然の呼吸困難が原 因のようだ。 ﹁今度の疫病の変異体は強力そうだ﹂ そこへ依頼が空からまた現れて、坊主の手に落ちる。 ﹁この疫病サンプルが欲しい、か。やれやれ﹂ いつの間にか、ナンの周辺に10名の魔法使い達が現れていた。 博士の服装と異なり、軍服のようにも見えるが、全身黒づくめでフ ードをかぶって顔を隠し、大きなマントで体全体も隠している。当 然顔の表情も見えず、体型すらもマントのせいで分からない。さら に体の周辺に魔法障壁を展開しているので、体の輪郭すらにじんで はっきりと見えない。太陽を背にしている者はうっすらと透けてす らいる。何かの人形の影がそのまま立体化しているような印象であ 36 る。これには訳があり、個人情報を極力見せないことで敵の魔法の 効果を削ぐためである。つまり、ナンを味方とは認識していないと いうことでもあった。ただ、現状では敵でもない。 その部隊の隊長らしき魔法使いが1歩進み出て、合掌し礼をした。 ナンを仏教徒とでも勘違いしているのだろうか。一方のナンも別に 気にしていない風である。 ﹁御坊、依頼は後回しにしてくれ。ちょっとした騒動が対岸で起こ った﹂ 部隊長の声は加工が施されていて、器械合成のような響きである。 ナンがため息をついた。 ﹁世俗の依頼かね。気が進まないな﹂ 37 南中国沿岸 夕暮れの中国の津波被災地は、腐臭と瓦礫、枯れた森林だけで構 成されていた。テレポートで沖縄本島から中国大陸沿岸に転移して きたナンと魔法使い達が、早速状況確認を行う。魔法使いの部隊長 の説明によると、何と、オークの大群が発生しているとのことだっ た。その数は10万にも達するらしい。オークといえば、死者では ないが死者の世界の住人というイメージがあり、今回の場合も、ど うやらそうらしい。しかし、オーク自体は高度な魔法を使いこなせ ないので、バンパイア貴族らが秘密裏に作り出した世界間移動ゲー ト魔法が誤作動した、というのが表向きの原因のようだ。しかし、 10万ものオークが一斉に空間転移してきたとなると、貴族の関与 があったと考えるのが自然だろう。 ﹁世界間移動ゲート魔法は、本来はローエンシャント魔法の部類に 入るのだけどね。300万年も経つと、ウィザード魔法でも動作で きるようにステップダウンされてしまうものだね﹂ ナンが苦笑混じりの顔で部隊長の説明を聞いている。 ﹁ええ。今や様々な魔法言語で動作できるまでになっていますから ね。今でも研究は盛んですよ。そのうち、ソーサラー魔術でも動作 できるようになるかもしれません﹂ 部隊長も苦笑しているのだろう、器械音声でも伝わってくる。 ﹁そうなったら、大旅行時代の到来だなあ。それなりに楽しいかも しれないけどね﹂ ナンがまんざらでもなさそうな顔で、沈み行く夕日を見る。 ﹁さて、部隊長としては、どうするつもりかな?﹂ ﹁はい。広大な地域に魔法をかけなくてはなりません。そうすると、 この世界の因果律の制約に引っかかります。大規模な魔法を使うこ 38 となく、大面積に散らばる10万のオークを消滅させる方法はない か検討中です﹂ 部隊長が神妙な合成音声でナンの質問に答えた。ほとんど答えに なっていないし、そんな都合の良い魔法があるものだろうか疑問で ある。しかし、ナンも真面目に聞いているところを見ると、意外と 無茶な検討なのではなく、何か方法があるのかもしれない。10名 の魔法使い達が集まって、現場の情報を元に話し合い始めた。当然 声は一切漏れてこず、彼らの使用するクチャクチャに絡んだ酵素の 分子模型のような文章の断片が時々見える程度である。 そこへ、闇が立ち込めた。一気に夕暮れが1時間程度進んだよう に暗くなる。ナンの顔が少し険しくなった。 ﹁やあ、魔法使いの諸君。このような僻地まで遠路ご苦労。我らの 世界のオーク共が悪さをしているようだな。許してくれたまえよ﹂ そういって尊大な態度でテレポートして現れたのは、死者の世界 の支配者である、バンパイア貴族だった。古代中東風の礼服の上下 に、高級そうな黒いマントを肩にかけ、腰までの長さの長い杖を持 っている。見た目の歳は40台というところだろうか。頭には、こ れも古代中東風のバンダナを巻いている。彼もナンと同じくアンデ ッドなのであるが、やはり太陽に当たっても平気なようだ。彼の登 場に魔法使い達の合成音声もトーンが一変した。警戒モードに移行 したようだ。 しかし、そんな反応にはお構いなく、バンパイア貴族がゆったり とした鷹揚な動きのままで話を続ける。 ﹁この世界で言う、オーストラリア大陸にある我が王国に、オーク 共の蛮族国が攻め込んできたのだよ。敵の数が多くてね、50万匹 ほど殺したが、うっかり空間転移ゲートを奪われてしまった。蛮族 共の狙いはこれだったようだな﹂ 貴族が手をゆっくりと振ると、破壊されて骨組みだけになったド アのようなものが忽然と現れた。これが世界間移動ゲートなのだろ 39 う。かなり大きくて、扉を全開にすれば20トン積載のトラックが 楽に通過できそうなサイズである。 ﹁この通り、ゲートは回収して破壊した。これでオーク共はどこへ も逃げることは適わぬ﹂ そう言った貴族の灰白色の瞳が鈍く輝いた。 ﹁さて、魔法使いの諸君の対応策は何かね?﹂ 部隊長が事務的な調子の器械音声で話し始めた。相当に疑ってい るようだ。 ﹁真祖のロード。我々部隊員の影を無限に作成して、それを放ち消 去処分することにします。オークは、この世界の人間ともかなりの 確率で交雑することができるので、被害に遭った人間も同時に消去 処分します。よろしいですかな﹂ 別に貴族の同意を求めている訳でもないだろうに、そのような言 い回しをする部隊長。恐らくは、邪魔をするなという言外の意味を 込めたのだろう。真祖のロードと呼ばれた貴族も、うっすらと口を ほころばせる。ロードということは、相当に地位の高い貴族なのか もしれない。 ﹁私は別に異存はないがね。ただ、10万ものオークを殺処分する のは下策ではないかね?我らに任せてもらえれば、家畜化して回収 するのだが﹂ ロードが、そう不満を口にしたが、部隊長は無視して、ロードが 話し終わらないうちに魔法の発動を部下に命じた。呪文の詠唱もな く、10名の魔法使い達の長い影が、倍々に分裂して増えていく。 そして、地平線に沈みつつある太陽の光の向きに関係なく、影が四 方八方に際限なく伸びて地平線の向こうへ走っていった。 そして、20分後。10万のオークと、被害に遭った3万の人間 たちが全て処分された。 ロードが感心したような声をあげた。やや芝居がかった仕草では あるが。 40 ﹁ほう。影に触れた瞬間に塩化かね。なるほど、石化や砂化であれ ば、多少の痕跡は残るが、これであれば再生も不可能だな。さすが は高名な魔法使い達であるな﹂ 部隊長が、少々見下したような視線をロードに返して、その感想 に答えた。顔が完全にフードに隠れている上に輪郭がぼやけている ので、ただロードを見ただけなのかもしれないが。 ﹁正確には少々異なりますがね。生体細胞を全て破裂させてから、 樹脂に変換して、それを粉末化する術です。微生物分解性の樹脂な ので、数日後には自然に還ります。影自体が2次元の存在ですので、 この3次元空間の世界の因果律にも触れない方法です。それに、石 や砂にしてしまうと、生体分子を土類へ元素変換しなくてはならな くなるので、反対に危険ですよ﹂ 簡単に説明しているが、ウィザード魔法でも相当高等な部類の魔 法であることは確かである。ちなみに石化を引き起こすような魔法 は、どちらかというとソーサラー魔術が得意とする分野である。 その説明を聞き流したロードが、空中にディスプレーを発生させ た。それには、この世界のテレビ放送が流れていて、何やらオーク らしい怪物の姿が映し出されている。しかし、次の瞬間には塩にな って崩壊してしまった。その塩も瞬く間に空気中の湿気を吸い込ん で溶けてドロドロになっていく。その映像が繰り返し流されていて、 チャンネルによって解説者達が福建語や広東語で色々と騒いでいる のが見える。 ﹁この世界のいくつかのメディアではオークの姿が映されたようだ な。大丈夫かね?﹂ ロードが心配そうな顔をつくって、部隊長に聞く。目は笑ってい るが。 ﹁証拠は消滅しましたから、すぐに忘れ去られるでしょう。ご心配 なく﹂ 部隊長も、丁寧な物腰で返事を返す。フードに隠された目は笑っ 41 ていないのであろう。 そうこうするうちに、日が沈みきって、夜になった。それを待っ ていたかのように、魔法使い達が張り巡らせている広域警戒網に大 量の反応が現れた。夜空に大きなディスプレーが発生し、急速にそ の数を増やしていく点を表示し始めた。その色の数も赤、青、黄色、 緑などなどと、増えていくようだ。魔法使い達の器械音声に、険し さがさらに色濃く現れ、一斉にフードに隠された顔を一斉にロード へ向けた。 ﹁おやおや。今度はゾンビやグール、悪霊、低級バンパイアなどが 大発生したようだな。オーク共の置き土産であろう。最近は連中も 死霊術を使うようになってね。いやはや、不届き者が多くて失礼﹂ ロードが少しおどけたような口調で言い、自分で発生させたディ スプレーと魔法使い達が発生させたそれとを見比べた。解像度や情 報処理能力は、魔法使いのものが遥かに質が良さそうだ。 ﹁さて、もう夜になったから、影は使えまい。どうだね、ここは私 に任せてはくれまいか。このままでは、明日の朝までには、ゾンビ 共は数百万に膨れ上がるよ﹂ 余裕たっぷりの顔で、ロードが魔法使い達に提案した。確かに、 光の点の数は、倍々で増えているようだ。魔法使い達も困惑した様 子で顔を互いに見合わせる。 その様子を見て、これまで黙ってみていたナンが、ようやく口を 開いた。見え透いた茶番劇に、いいかげん飽き飽きした様子である。 ﹁で、君の国の飛び地領土でも作るのかい?﹂ ロードがナンの姿を初めて確認した様子で振り向いた。少々驚い た様子である。恐らくは、ナンがロードに対して認識阻害の魔法を かけていたのだろう。すぐにロードも察した様子で、ナンを灰白色 42 の瞳で睨んだ。 ﹁何だね、君は﹂ その一言で、魔法使い達が硬直して動けなくなった。空間自体が 痙攣したかのようだ。しかし、ナンだけは平気で、つまらなさそう に首を数回振った。それを見てさらに驚くロード。やがて口元にう っすらと笑みが浮かび、ロードが次の術を発動させようとした瞬間、 ナンがぶっきらぼうに話しかけてきた。 ﹁もっと、簡単な方法がありますよ、ロード﹂ そう言って、ナンがポケットからオモチャの破魔矢を1本取り出 した。まるで魔力を感じないそれに、興味を引かれたのか、ロード から発して急速に高まっていた闇魔法場の波動出力が止まった。そ んなことには、全くお構いなく、ナンが話を続ける。 ﹁先日、この大陸の対岸にある極東の島の神社で買いましてね。原 始的な魔法武器です。以前、中央アジアの戦争で使われた方法を使 いましょうか﹂ 矢がナンの手から離れて、空中に浮かんだ。それでもまだ、さほ どの魔力は感じられない。 ﹁あの時は、弓を使いましたけれど、まぁ、無くても構いません﹂ そうナンがつぶやいたと同時に、矢がまぶしく輝き出した。急速 に魔力場が発生して高まっていく。ロードが感心した様子で口を開 いた。 ﹁ほう。クレリック法術かね。確かにアンデッド浄化には最適だな。 しかし﹂ ロードの話を途中で遮って、ナンが面倒臭そうな顔をしながら説 明を続けた。 ﹁ソーサラー魔術使いがよく使う、マジックミサイルのシャーマン 妖術版です。クレリック法術ではありませんよ、ロード。これを無 限増殖させて、対アンデッドやオーク向けの妖術呪文を乗せるんで す。目標は地上地下、全てのアンデッドとオーク。さて、では発射、 43 と﹂ 面倒がる口調とは裏腹に、1本の光り輝く破魔矢が、空に飛び出 たかと思うと、たちまち無数に増殖し、それが夜空に大きく広がっ て流れ星のような弧を描いて、地平線の向こうへ飛び去っていった。 魔法障壁が失われて、体の輪郭がはっきりとなったが硬直している 魔法使い達も、目だけは動くようで、大きく見開いているのが分か る。ロードも感心した様子で、無数の流れ星を見送った。 ﹁1次元の流れ星になった矢ですから、因果律には触れません。あ とは自動追尾します。これで2分以内に全て燃え尽きますよ﹂ かなり高等な魔法なのだろうが、ナンはどうでもいいとでも言わ んばかりの様子のままだ。しかし、ロードの灰白色の瞳が鋭さを増 すには十分すぎる魔法だったようである。それでも鷹揚な笑みを崩 さないままでロードがうなずいた。 ﹁これは大した魔法だな、坊主のシャーマン﹂ ﹁そうですか?簡単な原理ですよ、ロード﹂ その、つっけんどんな返事に気分を害した様子のロードが、改め てナンを見据えた。やはり硬直しない。 ﹁見た目はただのクレリック坊主のようだが、違うな。リッチーか ね﹂ ロードが、そう言い放つと、ナンの表情が無関心から無表情に変 わった。 ﹁ええ。君の世界のリッチー協会には加盟していないけどね﹂ ロードが、凶悪な笑みをこぼし始めた。 ﹁妖術呪文が乗った魔法の矢を無限発受けたら、肉体あるものはた まらぬ、な。しかし、幾分やりすぎたぞ、坊主﹂ ロードが、そう言い終わるや、100体ほどの華麗な古代中東風 の鎧をまとったゾンビや幽霊が闇の中から湧き上がった。ロードの 兵士のようだ。ロードが戦闘準備完了の笑みをこぼした。 ﹁私にも面子があってね﹂ 44 そのセリフを聞いて、ナンが苦笑する。 ﹁簡易結界で待機させていたのですか、苦しかったでしょうに。初 めからこうすれば面倒なことをしなくてすみましたよ﹂ ロードは、にやにやしたまま、このナンのアドバイスを聞き流し た。 ﹁そのようだな。やれ﹂ 一斉に雄叫びを上げて、50体のゾンビ兵が、20mほどを一気 に跳躍し、手槍を連ねてナンに襲い掛かった。動きに無駄がなく、 しっかりと訓練されているようだ。残る50体の幽霊も高速で接近 してくる。 ﹁闇魔法強化ゾンビと、高エネルギーの幽鬼ですか。ここまで成長 するのに、相当な時間がかかったでしょうに﹂ ナンが、哀れな目をしてつぶやく。 それだけで、襲い掛かってきたゾンビ隊が一瞬でかき消された。 驚く幽霊隊も、一呼吸後に後を追うように消滅してしまった。それ を見て、ロードが不敵に笑い出した。 ﹁なかなかやるな、坊主。しかし、我が配下の者には、そのような 浄化術は効かぬぞ﹂ ロードの周辺に黒い霧が立ち込めて、実体化し、10名のバンパ イアの騎士の姿になった。皆、精悍な顔つきをして、2mもの長さ の豪剣や、3mを超える長さの槍を構えている。鎧や兜、足ごしら えは、やはり古代中東風であるが、先ほどのものよりも明らかに装 飾が細かくて美麗である。しかも闇魔法がかけられているのだろう か、光を吸い込むように闇を発散させていて、輪郭がはっきりとつ かめない。 しかし、それを見て、さらに落胆の表情になるナンであった。ロ ードが自慢げな顔で配下を紹介する。 ﹁皆、真祖と一般に呼ばれる貴族階級だ。これまでの輩とは違うぞ﹂ 45 ナンが首を振った。相当馬鹿にした態度をとって、口を開く。 ﹁やれやれ。剣と槍に、階級ですか。変わっていませんね、この3, 700年﹂ ロードの笑みが凶悪さを顕わにした。 ﹁私は、もう少し長く生きているよ。やれ﹂ 一斉に10名のバンパイア騎士達が黒い霧状になって、ナンに殺 到していく。先ほどの鎧ゾンビの10倍は速い。しかし、ナンは表 情を全く変えずに、またポケットから破魔矢を取り出した。霧と化 した騎士達が笑う。 ﹁ばかめ、我らにそのような技が届くと思うのか﹂ しかし、ナンは、幼稚園児に諭すような調子で、霧に向かって話 しかけた。 ﹁届かせればいいんですよ。このようにね﹂ 分裂増殖した無数の破魔矢が霧に降り注ぎ、霧の中で消えた。騎 士達が驚いたような声を上げる。 ﹁ま、まさか﹂ ナンが、面倒臭そうに告げた。 ﹁だから、届くんですよ。言ったでしょう﹂ 次の瞬間、絶叫と共に騎士達の霧が蒸発した。後には何も残らな い。露さえも。絶叫の残響を聞き終わってから、ため息をこぼすナ ン。 ロードが感心する。もはや感動していると言っても良いほどだ。 ﹁おお、本体まで空間跳躍する無限の魔法の矢か。これでは、騎士 と言えども完全に消滅するしかないな﹂ ﹁お褒め戴いて光栄です、ロード﹂ 言葉だけは丁寧な返事を返したナンの体を、黒い霧が包み出した。 ロード自身が発動させたのだろう、ナンが展開している魔法障壁を 次々に解読して突破していく。ナンは、相変わらずヤル気の全くな 46 いような表情を変えていないが、ロードは勝利を確信したようだ。 高笑いがロードの口からこぼれる。 ﹁古代ヒッタイト語魔術だ。研究は怠っておらぬのでな。これはキ ャンセルできまい﹂ ﹁そうですか﹂ ナンが、さらに気落ちした表情で答えると、霧が消えてしまった。 これには、さすがにロードも驚愕した表情になった。 ﹁な、何をした。術式は暗号化された古代ヒッタイト語だぞ、解読 できるわけが。。﹂ ナンが、うんざりした表情になって、ロードに説明を始めた。 ﹁もう少し、真面目に研究してほしいものですね、ロード。古代ヒ ッタイト語でも、術式記述語は、ハッティ語か、シュメール語の方 言の言い回しを使うんですよ。君達が5900年前にシュメールで 遊びがてらに騒ぎを起こした際に、現地の人間に教えた魔術が、2, 000年の間に結界の中で独自の進化を遂げた魔法ですよ。もう忘 れてしまったのですか?水系と闇系の精霊魔法が独自の組み合わせ で発動するタイプです。 それと、どうでもいいことですが、ロード。術式記述語にはアッ カド語からの引用単語も多く含まれているのですよ。その声門閉鎖 音、喉頭閉鎖音、強調子音の発音ができていませんね。ハッティ語 の喉音も中途半端な発音です。また、文法上も誤りが多いですね。 生命の有無による名詞の区別も8ヶ所間違っていましたし、その﹁ 壊す﹂という動詞の活用形は、古代ヒッタイト語では使われていま せんよ。それでは精霊起動率が50%以下に落ちてしまいます。 もう1つ、どうでもいいことですが、その暗号化技術は、何十世 代前のものかご存知ですか?これでは及第点はあげられませんね﹂ すらすらと、ナンがロードに説いて聞かせると、さすがにロード の顔に明らかな怒気が湧き上がってくるのが見えてきた。 ﹁ふ、ふふふ。さすがはリッチーだな。理屈をこねるのが上手いも 47 のだ。理屈ついでに1つ教えてもらいたいのだが、私の部下をどの ような魔法を使って葬ったのかね?﹂ ロードが、自身の闇魔法場の密度を急速に上げながらナンに訊ね た。しかし、ナンはやはり、ヤル気ゼロのままで、無造作に答えた だけだった。 ﹁滅ぼしただけですよ、単純に﹂ ﹁呪文詠唱なしでか﹂ ナンが無感情な声のままで、驚くロードと硬直したままの魔法使 い達に顔を向けた。 ﹁私は本来、呪文の詠唱などは、行う必要がないのですよ﹂ そう言ったナンの横の空間が、突然火花を上げて爆発した。それ をきっかけにして、あちこちの空間が連鎖的に爆発を始める。それ を興味もなく見つめながら、ナンが付け加えた。 ﹁このように、この世界の因果律を崩壊させてしまうので、いつも は使わないだけです﹂ ロードが高笑いをした。呪文詠唱の影響でひどく耳障りな共鳴音 になっている。 ﹁なるほど、ゲートの管理を任されるだけのことはある。感服した よ。そこまでくると、魔神並みだな﹂ 魔法使い達も、硬直したままでロードのセリフに同意している。 しかし、ナンは、無表情のままで口を開いた。 ﹁恐縮ですが、時間稼ぎは無意味ですよ、ロード。因果律崩壊で発 生する衝撃波は、いくらでも到着を遅らせることができますので﹂ ロードの顔色が変わった。しかし、悪意に満ちた笑みは凄みを増 すばかりだ。 ﹁しかし、私にはどうかな?﹂ その挑発に、ナンが暗く笑って反応した。思わずぞっとするよう な雰囲気を持つ笑みである。 ﹁アンデッドは、ゾンビも貴族も同じ仕組みで動いているのですよ。 それに気づかないようではいけませんね﹂ 48 ﹁ア?何と言った?今﹂ 怒るロード。ゾンビと同列にされたことに、さすがにカチンとき たらしい。しかし、ナンはロードの反応には、全く構わずに、無造 作にロードの方へ歩み寄っていく。 ロードが、待っていたとばかりに、時限発動と遅延発動呪文を起 動させた。ナンとロードの距離に応じて起動するようにセットされ た自動トラップ魔法が、数十も一斉に発動して、強力な爆発や光線、 闇結界がナンを襲う。はずだったが、なぜか何も起きない。ナンは 面倒くさそうな顔のままで、スタスタとロードの手前1mまで歩み 寄ってしまった。慌てたロードが、霧になって瞬時に100m程度 離れた場所にテレポートする。 ﹁お、お前っ、一体何をした﹂ ナンは、もう説明する気もなくしたようだ。ロードを見ようとも せず、硬直した魔法使い達のいる場所へ歩き出した。 ﹁落第生には、もう何も言うことはありませんよ。授業料として、 私が犯した因果律崩壊の罪をかぶってもらいますね。さようなら、 アングウシ・パラシバ国王サマ﹂ 驚愕するロード。 ﹁な、なぜ私の本名を知っている﹂ ﹁なぜって、これだけ長い時間居たら、そりゃ分かりますよ﹂ 何か叫んだようだったが、次の瞬間、ロードの姿がかき消された。 ナンは、それにはもう、全く関心を払わずに、硬直した魔法使い達 を手でなでて、魔法を解除させていく。魔法使い達は、言葉もなく 地面にへたり込んでしまった。息も荒い。それを見ながら、ナンが 苦笑した。 ﹁君達も、勉強をもっとすることだね。この程度の暗号化された闇 系精霊魔法にかかっていては、普通のリッチーのいたずらには手も 足も出ないよ﹂ 隊長が、ようやく息を整えながら、驚きの表情でナンを見上げて 49 いる。さすがに魔法障壁などを展開する余力がないようで、フード の中の顔が良く見える。何のことはない普通の彫りの深い顔の人間 ではないオッサンだった。ほとんど理解の範疇を超えているようだ。 それにも、特別な補足説明をせずに、輝き出した下弦の月を見上げ るナン。 ﹁さて、どこまで弾かれたものやら﹂ 闇魔法が消えて見通しがよくなり、月明かりに照らされて、辺り の視界が開けてきた。一面の荒野と黒カビの世界である。それを見 ながら、ナンが悲しそうにつぶやいた。 ﹁あのロードも、この風景を見たら、気が変わったかもしれないな﹂ 50 北インドの街パトナ近郊 北インドは、熱波が立て続けに襲うために灼熱の大地と化してい た。空気も乾燥して、細かい粉塵が漂い埃っぽい。雲1つ見当たら ない空も粉塵のせいでやや黄色がかっている。この時期には、建物 の壁一面にコブのように設置されたエアコンの室外機が熱風を吐き 出しつつファンを回しているはずなのだが、停電のせいで稼動して いない。しかし、まだ幸いなことに湿度が低いので、日陰に居たり、 夜間になると少しはマシになる。湿度が極端に低いので、喉の渇き や目の乾きには悩まされるが。大通りは相変わらずの大混雑であっ たが、特に大小の病院の前は、相当な人ごみになっていた。猛烈な 陽射しの直撃を受けているために、倒れる人が続出して、騒ぎをさ らに大きくしているようだ。 涼しければ道路上で反芻している白い牛たちも、この暑さではさ すがに見かけない。自動車やバイクも、このところの経済危機で燃 料が入手できなくなってきているので、いつもより半数以下にまで その数を減らしていた。クラクションをけたたましく鳴らすのは変 わらないが。その中を人ごみにもみくちゃにされながら、ナンと博 士が小瓶を持って、空気採集を行っていた。 ﹁こんなものかね博士﹂ 小瓶に大量の空気が流れ込んでいくのを確認しながら、ナンがク ー博士に訊ねた。 ﹁うむ、これだけサンプルが入手できれば十分だよ。ありがとうナ ン﹂ クー博士が礼を言って笑った。やはり、フィールドワークがよく 似合っている。しかし、ごついジャケットに大きなリュックを担ぎ、 直射日光に曝されているのに、彼らは全く何ともないようだ。汗も 51 かいていない。周辺の通路いっぱいに満ちて歩いている数百人は下 らないであろう人間たちにも、ナンと博士の異様な服装は注目され ていないようだ。 ナンがうなずいて、小瓶のふたを閉めた。中身を確認する。 ﹁魔法微生物兵器でも作るのかい?クー博士﹂ クー博士が乾いた笑いを返した。 ﹁それもいいが、ワクチンなどの薬の材料となるだろうな。戦乱の 世界も多いからね、魔法生物兵器なんかを開発するよりも、風土病 を流行らせて、その予防薬や治療薬を売りつけるのが安くて安全で 儲かるそうなんだよ。これもどこかの世界で風土病になるかもね﹂ ﹁なるほどね。そう言えば、この世界の人間も必死でワクチンを作 っているようだよ﹂ ナンのそのセリフには、ふうん、と無関心のままで採集した微生 物かウイルスの分析作業を続けるクー博士。しかし、少し心に引っ かかる点があったのだろうか、小瓶のラベルに情報を書き込む作業 の手を休めないままナンに話しかけた。 ﹁魔法が使えない文明では、大変だろうな﹂ ナンがつぶやくように口を開いた。 ﹁300万年前のような魔法微生物兵器を作るような人はいないが ね﹂ ここで、クー博士の赤い瞳が少し輝いた。でも、作業の手は休ま せていない。4つ目の小瓶のふたに保護シールのような封印魔法を かけた。小瓶の輪郭がぼやけて半透明になった。 ﹁そうか、ナンは見たのだったね。もはや君だけだろうな﹂ ナンが昔を思い出しながら、新たな小瓶の中に空気を誘導させる。 ガラスのような小瓶なのだが、空気ろ過フィルター機能でも備わっ ているのか、小瓶の底から空気が勢い良く噴出している。狙った微 生物かウイルス株だけを入ってきた空気から選択的にろ過して小瓶 の中に留める仕組みのようだ。 ﹁あれはやっかいだったよ博士。微生物のくせに3枚の障壁を持ち、 52 分身魔法を使いこなした﹂ ﹁おお﹂ ここでようやく、クー博士の手が止まって、ナンを見た。しかし、 ナンの回想はここまでだったようだ。 ﹁しかし、博士。この世界もあの津波で経済が崩壊し始めているか ら、ワクチン製造も大変だろうな﹂ クー博士が、少々がっかりしたような顔をして、ナンから最後の 小瓶を受け取って、さっきまで続けていた封印作業もせずにジャケ ットの中に突っ込んだ。この世界の津波も経済も関心がないらしい。 ﹁さて、ナン。私は戻るよ﹂ ﹁ああ﹂ 自分の世界へ転移するための、ゲート魔法を発動させながら、そ の待ち時間の暇つぶしをしていたクー博士が、何かを思い出したよ うだ。ナンの顔を見る。 ﹁あ、そうそう。ナンの予想通りだったよ。あの地震で海底の固形 メタンが海面近くに浮上しているな。気化して大気中に噴出してい る。止まる気配はまだないな﹂ ナンの顔が曇った。 ﹁そうか。スイッチが入ったようだね﹂ ﹁ああ。メタン濃度は、多分20%増しになるだろうね。今後は障 壁プログラムを少し修正する必要がありそうだよ﹂ そう言い残して、クー博士の姿が消えた。 病院の周辺道路にはチベット系や中華系のボロボロの難民がぎっ しりと詰まっていた。病院の中に入れずに溢れたのだろう。自国民 の治療を優先するための、仕方のない措置らしい。炎天下の直射日 光に曝されている大勢の難民達を見ると、新型インフルエンザに感 染して重態の人だらけである。ウイルス性の肺炎のようだ。ナンと 博士はどうやらこの病原体を採集していたらしい。瓶がいくつも必 53 要だったことから、数種類ほど同時に流行しているのかもしれない。 ナンが、そのまま彼らの間をふらふらと歩き回って様子を見てい ると、ある難民の群れから読経が聞こえてきた。チベット系難民だ ろうか。周辺には他にも同族系の難民があちらこちらに固まって集 団で座り込んでいるのが見える。その読経を聞いていたナンが、穏 やかながらも悲しい表情になった。 ﹁今のうちに赤道へ逃げなさい。その程度の読経では誰も助けには こないよ﹂ そうつぶやいたナンに、読経を続けていたその難民が驚きの顔を ナンに向けた。周辺の他のチベット系難民には反応がないことから、 どうやらナンがつぶやいたのはその難民の支族の言葉だったのだろ う。もちろんナンはその支族出身ではないし、面識もない。期せず して彼の魔法が発動してしまったのだと思える。 その支族数十名が一斉にナンに話しかけてくる。しかし、ナンは それを受け流して、道路を横断して人ごみの中に消えていってしま った。なおもナンに向かって何か叫んでいる難民達であったが、も のの数秒で忘れてしまったようだ。再び輪になって座り、読経を先 ほどと同じように皆で唱えはじめた。 その時、彼らの持っているラジオからヒンディー語の定時ニュー スが流れてきた。中国やその沿岸諸国から1億人余りの津波被災難 民が東南アジアやインドへ押し寄せて社会問題となっているという ニュースだった。一瞬、それが聞こえたのかナンが立ち止まったが、 やがてごった返す人ごみの中に消えていった。 54 オーストラリア東南の畑 オーストラリアの穀倉地帯だった地域では、気温40度の猛暑が 続いていた。つい最近までは、ここは広大な小麦畑だったのだが、 地平線の向こうまで全て立ち枯れて黒いカビで覆われている。その 胞子が風に乗って、黒いもやになり、それが立ち込めていて陽射し すら遮っているようだ。もう、農家も政府も対策が尽き果てたよう で、残る方策はこれ以上の黒カビの蔓延を防ぐために焼き払うこと しか残されていないのだが、このところの経済崩壊の混乱で何もす ることができないでいるようである。恐らく農家も破産したのだろ う、農道には新しいわだちが見当たらない。小麦価格は天井知らず に上昇を続けているので、今ならばカビだらけの小麦でもかなりの 高値で売りさばくことができるのだが。この黒カビの菌糸や胞子は 毒性を持っているので、小麦泥棒すら近寄らないで、ただ放置され ていた。そういえば鳥や虫さえも姿を消している。 その小麦畑の一角で大騒ぎしてはしゃいでいる十数名の小人達と、 それを見るナンの姿があった。小人は背丈が90センチ以下しかな いが、きちんとしたスーツ姿で革靴も履き、ネクタイを締め、それ なりに品性のある服装をしている。しかし、性格はやや違うようだ。 目の前に延々と広がる黒カビまみれの小麦畑に興奮して、畑の中に 飛び込んで転げまわって遊んでいる。おかげで、ただでさえ空気が 黒っぽく煙っているのに、その一角は、まるで火事場の煙が立ち込 めているような状態になってしまっている。黒カビの毒は彼ら小人 達には効かないようだが、さすがに鼻がムズムズするのか、くしゃ みを連発させていた。自業自得である。 その小人達には引率がいるようで、きっちりとしたスーツに身を 55 包んだ1人のやや小太りな婦人が、遊び狂う連中を怒っていた。で も、ほとんど効果はないようだ。やがて、はー、と大きなため息を ついて、横で微笑んでいるナンに謝った。 ﹁すいません。お坊様。このような光景見たことがないもので﹂ ナンが微笑んだままで、引率の婦人に手を軽く振った。 ﹁いやいや教授。生徒達の学業のためになりますよ。草原の民にと っては驚きの光景でしょうからね﹂ それを聞いて、教授と呼ばれた引率の婦人が、まじめな顔でうな ずいた。 ﹁はい。しかし、これでこの世界の食料は﹂ ﹁いや、そこまで深刻にはならんでしょう。この世界の人間は何で も食べますから。あなた達セマンのように、1日6食ということは ないですけれどね﹂ ナンがそう言って、教授の心配を和らげたが、それでも、この世 界の人間が飢餓になるのは確実だろう。アンデッドなので、そうい ったことには詳しくないのかもしれない。教授も、そのあたりのこ とを考えたのか、苦笑しただけだった。 ﹁原因は、いったい何でしょうか?お坊様﹂ ﹁そうですな、恐らく、カビを抑え込む何かが絶滅したのでしょう。 そして生態網のシステムが崩壊したので。。﹂ ナンが、これまでの推移を説明して推測を述べていた途中に、学 生の投げた黒カビ団子爆弾が引率の教授に命中してしまった。教授 が黒カビまみれになる。盛大なくしゃみを数発した教授が、不意に 笑い出した。 ﹁ふ、ふふふ。やったわね﹂ これで教授も切れて、黒カビ団子合戦に参戦し、小麦畑に飛び込 んでいった。さすがに教授だけあって、魔法で作り出す黒カビ団子 爆弾は、その数も質も生徒達が作成したそれを軽く凌駕している。 それでも、因果律崩壊を起こさない程度だが。瞬く間に、黒い煙が 56 大量に立ち込めて、小人達の姿が見えなくなってしまった。歓声だ けが良く聞こえる。 ナンは障壁を展開しているのだろう、真っ黒い煙が立ち込める中、 彼のいる場所だけは何ともない。たまに黒カビ爆弾の流れ弾が障壁 に命中して黒い煙になって炸裂するが、それも障壁の中から微笑し ながら見ている。で、どこから取り出したのか、お茶をすすり始め、 合戦の様子を観察し始めた。 ﹁ほう。さすがにセマン独自の魔法だ。黒カビ煙幕の中で、よくも まあ正確に団子を命中させるものだ。占道術のレベルはなかなかの ものだね。おう、教授が分身術を使い始めた。ステルス処理も堂に 入っている。お、生徒達は幻導術を発動させてロックオンされにく くしたか。本格的になってきたね﹂ 確かに教授が十数名に増えている。見た目はもう、教授と生徒の 1対1の戦いになっている。ステルス処理というのは、その分身そ れぞれがやや透明になっていることを指しているのだろうか。一方 の生徒らは、小麦に見間違うような擬態を自身に施している。ナン がいうからには、恐らく、探知魔法や機器への対処もある程度なさ れているのだろう。 そして夕方になった。大気に充満する黒い胞子のせいで、夕日の 色も映えないものになっている。さすがに疲れたようで、団子投げ 合戦がようやく終了した。もちろん、全員黒カビまみれである。引 率の教授も言うまでもない。やっと我に返った教授が、慌てて時計 とナンを見て平謝りする。 ﹁す、すいません。お坊様。ひゃあ、もう戻る時間だわっ﹂ ナンはニコニコしたままで、軽く手を振った。 ﹁いやいや、良い経験をしたと生徒さん達に伝えて下さい﹂ 教授や生徒たちのスーツも、大暴れしたおかげですっかりヨレヨ レになり、黒くすすけて汚れている。 教授が恥ずかしそうに自分のスーツをはたいて、カビ汚れを落と 57 そうとするが、もはや無理だと自覚してため息をついた。 ﹁はあ。せっかく仕立てたスーツが台無しだわ﹂ ナンが微笑みながらうなずいた。 ﹁そうですね。しかし、どうしてスーツで来られたのですかな?本 来の服装ではないでしょう﹂ 教授がナンの方を見て意外そうな顔をした。 ﹁あら。郷に入れば郷に従うのは当然だと思いましたが﹂ しかし、彼らを取りまく広大な畑には、この世界の人間は誰もい ないことに気がついたようだ。 ﹁ああ、そうですわね。畑を見るのにスーツは必要ありませんでし たわね。農作業服の方が良かったかしら﹂ ナンがうなずく。 ﹁そうですね。もうこの辺りには、この世界の人間はいませんから、 気楽な服装で構いませんよ。次回お越しになる際には案内する場所 の情報もお知らせしましょう﹂ そして、チラとセマン達を見て、苦笑した。 ﹁このままでは向こうの世界に黒カビを持ち込んでしまいますな。 私が転送魔法をかけましょう。体内の胞子や菌体は区別して、この 世界に残しますからご心配なく﹂ そう言って、生徒を見る。それだけで突然パッと消える生徒。黒 い煙だけが残った。おー、と歓声がセマン達から上がる。まったく、 何でも楽しんでしまう性分のようだ。ナンは、そのまま次々に生徒 達を転送させていく。生徒たちは駆け出したりジャンプしたりして 何とか逃れてみようとするが、そのたびに黒い煙が立ち昇る。そし て、最後の生徒を黒カビ煙に変えた後で、ナンが教授に笑いかけた。 ﹁思ったよりも多く入り込んでいましたね。しかし、さすがに毒へ の耐性は折り紙つきですね。他の種族でしたら、とっくに泡を吹い て気絶するか死んでいますよ。トロル並みですかね?﹂ 教授が照れて、顔を赤らめた。 ﹁まあ。不死のお坊様にそう言ってもらえるとは。でも、そうです 58 わね。トロル並みの生命力と神がかり的な予知能力、気配を消す能 力などが備わっていなかったら、私達セマンは1時間後には滅び去 っていることでしょうね。それだけ無茶しますもの。平均寿命も1 00歳ちょっとと、ドワーフの10分の1以下ですし﹂ そして、最後に教授の番になった。 ﹁また、伺ってもよろしいですか?お坊様﹂ ナンが微笑んでうなずいた。こういった連中には、彼は相当に好 意を持っているようである。 ﹁ええ、いつでも連絡してください﹂ 教授が、それを聞いて安堵した表情を浮かべた。ナンの機嫌を気 にしていたようだ。 ﹁後日、レポートのコピーを差し上げますね。帰ったら学生達を怒 らなくちゃ﹂ ﹁はい、楽しみにしていますよ、では﹂ ナンが手を軽く振ると、教授の姿が消えた。と、同時に一際大き な黒い煙が立つ。それを見てナンが苦笑した。 ﹁教授が、一番煙の量が多いな﹂ 夕日が地平線の下へ沈んでいくにつれて、血のように赤い色に変 わっていく。黒カビ胞子で充満した下層大気を太陽の光が通過する が、錯乱されたり吸収されたりして、赤い波長の光しかここまで届 かないためだろう。東の地平線の上にはいつの間にか巨大な積乱雲 がいくつも聳え立ち、激しい稲光を雲の中と地面に向けて盛んに走 らせている。風の向きが変わってきた。黒く染まった大気が風に流 されて動き始める。胞子密度に差があるので、まるで薄い煙がたな びいているように見える。 ナンがその動きを目で見送りながらつぶやいた。 ﹁1万年以上も潜んでいたカビか。何がこのカビや藻が増えるのを 抑えていたのか、大いに興味があるけど、この魔法無効化世界では 探索も満足にできない。自然の摂理というものは本当に不思議なも 59 のだな﹂ 60 南インドの港町 南インドでは、5月に入っても豪雨が続いて雨季のようであった が、気温は依然高いままで、かえって蒸し暑い不快な気候になって いた。一方、北インドでは気温40度を超える、雨季直前の蒸し暑 い快晴の日々が続いていた。 しかし、この世界の人々は、もう既に気温のことを話題にするヒ マはなさそうだった。崩壊した東アジア諸国の沿岸部で発生した新 型インフルエンザが世界中に広まってしまったからである。昔はイ ンフルエンザといえば冬の乾燥期の流行というイメージだったよう だが、この時代ではもはやそれは通用しない状態になっていた。 今回も渡り鳥の間で流行していた強毒型が、人間にも感染するタ イプに変異したようで、これまでと同様、強毒性のまま空気感染に よる人での流行が始まった。しかし、今回は発展途上国を中心とし て事前のワクチン接種や備蓄が進んでいなかったために、大流行を 抑えることができないでいるようである。先進国では、かろうじて 経済崩壊の中でもワクチンの備蓄がある程度は進んでいたようであ るが。加えて、被災地からの1億人を超える難民のインドや東南ア ジアなどへの流入による混乱で、ウイルスの拡散に拍車をかけてい ると、タミル語のニュースが盛んに伝えている。 ここの町でも、新型インフルエンザが猛威をふるっているために、 町の通りは人通りもまばらで閑散としていた。感染率は2人に1人、 人工呼吸器や治療薬の不足で、死亡率は30%にも達していた。さ らに、助かっても脳障害を残す患者が多いようである。ワクチンを 接種している欧州や米国などでは、死亡率は200人に1人以下に 抑えられているようであるが、それが新たな国際対立や国境封鎖の 要因ともなっていた。経済基盤の弱い太平洋島嶼国の中には、津波 の被害も加わって音信が途絶えた国すらも現れ始めたと、ニュース 61 のキャスターが興奮気味な顔で伝えている。その中には、かつての 先進国だった日本も含まれていた。世界中で全人口70億人のうち 30億人が発病し、これまでに9億人が病死した可能性があるとい う試算も紹介されていた。一方で、世界各地で大発生している黒カ ビによる、作物の立ち枯れ病が、深刻さを増して、食糧不足が本格 化しそうだと、次のニュースでキャスターが伝えている。そのため に、これまでコスト高で不振だった宇宙産の作物が注目されてきて いるらしい。元々、この作物は、畜産や養殖コロニーでの餌自給の ために導入されていたのだったが、今や、人間の食料になりつつあ った。 そのため、軌道エレベータに近い南インドでは、にわかに食料品 や薬品への注文が殺到して、景気に沸いていた。労働者は新型イン フルエンザからの生還者ばかりである。死にかけたはずなのだが、 もうそんなことは忘れたとばかりに忙しく食事を手でかき込んで、 電気トラックやトレーラーに乗り込んで出発していくのを、ナンが 泡立てられたミルクコーヒーをすすりながら感心した表情で見てい る。ちなみにこのミルクも宇宙産である。天井から4,5つぶら下 がった扇風機が回転して穏やかな風を行き渡らせている店内には長 机とそれに沿う長イスが適度な間隔で配置されており、そこにぎっ しりとトラック運転手や近くの工場の労働者らが座り、飯を食べた りチャイ、コーヒーを飲んでいる。南インドの食事なので、北イン ドとは雰囲気が異なるのがナンには興味深いようである。ナンの肌 の色はどちらかというと白いので、周りのインド人からは浮いて見 えるが、そこはいつもの認識阻害魔法を使っているのだろう、何ら 違和感なく一緒に長イスに座って、泡立てたミルクコーヒーをすす りながら、備え付けのテレビのニュースを見ている。 閑散とした町で唯一活気に湧いているこの食堂からも、道端に倒 れて腐敗している、かつて人だったものがチラホラ見えて、体にま とわりつくような独特な悪臭を放っているが、誰ももう、関心を払 っていないようだ。結構肥え太った野犬やカラスなどが興味を示す 62 程度である。その横を、大型モーター音を立てて、30トン積みト レーラーが雨で泥だらけになった道を爆走していった。 ニュースは、ようやく天気関連の話に移った。しかし、大して関 心はないようで、欧州の気温が40度を超えたと、さらりと告げて CMになった。それを合図にして、さらに大勢の労働者達が席を立 って仕事に戻っていく。ナンも一緒に席を立って、食堂の外に出た。 巨大なトレーラーが次々と始動して、動き出すのを興味深そうに見 ている。その時、ナンのポケットからチリリンと鈴の音がした。 ﹁う﹂ ナンが、苦笑して鈴をポケットから取り出した。 ﹁やれやれ、坊主をご指名ですか。女王様﹂ 63 パリ 炎天下の灼熱のパリは、気温が40度を超えているので、さすが に街には活気がなかったが、新型インフルエンザへの対策は万全だ ったようで、インドのように道端で腐っている物は見当たらない。 しかし、やはり通りには人影が少ない。元々、寒さ対策を施した都 市であり、分厚い石やレンガ、コンクリートで固められた建物は中 の熱が逃げにくい構造になっている。なので、日中に建物や道路が 熱せられると、夜中になってもなかなか気温が下がらない。このと ころ毎年のように熱波が街を襲うようになってからは、さすがにエ アコンが普及してきたが、それでもまだ充分とは言えなかった。今 月も当たり前のように日射病や脱水による死者が続出していて、も うニュースにもならない。 そのような状況だったが、それがかえって姉妹女王にとっては楽 に歩けて都合がいいようで、スキップしてはしゃいでいる。彼女達 の周辺の空間がスパークをあげているが、お構いなしのようである。 やや大き目の薄いピンク色と黄色のストライプが入ったTシャツに は、大きく漢字で愚者と印刷されており、薄青い柔らかそうな生地 のジーンズにワンポイントがあるジョギングシューズを履いている。 日差しが強いので、これまたやや大きめの白い帽子をかぶっている。 妹の方も姉とほぼお揃いの服装だが、こちらの方はより活発そうな 印象を受ける。姉妹ともにこれだけの直射日光を浴びても、肌がま ったく赤くなっていない。少ないながらも道行く人々は、そのあま りの元気さに目を丸くして驚いている。皆、日焼け対策に大きな帽 子か日傘、それにサングラスをかけ、さらに黒カビの胞子対策のた めにマスクをし、あまり肌も露出させないようにしているので、姉 妹らの気楽な服装は逆に目立っている。 64 そのパリは、南風が次第に強まってきていて、時折、突風が吹い て、黒カビで枯れた観葉樹の枯葉を盛大に巻き上げていた。この暑 さがなければ、それなりに黒いながらも紅葉しているので、晩秋の ような美しい風景である。ただ、砂塵や粉塵が多く空中に漂ってい るので、きれいな青空というわけにはいかないが。遠くに目を向け ると建物は蜃気楼で歪み、道路には逃げ水がたたえられている。た だ、パリは元々湿気が少ない場所にあるので、東南アジアなどで見 られるような立派なものではない。 東アジアで発生して世界中に広まった経済危機による物流停滞で、 車の燃料などが不足し、そこかしこに路上駐車されて動かなくなっ た自動車が数多く放置されている。そのほとんどは、タイヤやミラ ーなどのパーツが盗まれて無くなっていた。一時、自転車が増えた が、これもタイヤの不足が起きてパンクしても修理できない状態に なってきていた。現在は歩く人がほとんどである。電気も火力発電 所が停止し始めたので、停電になる区画が増えてきていた。パリも 下町区域では停電時間が次第にのびて深刻な状態になり始めている。 さて、公園と街路樹で一通りはしゃいだ姉女王が、ニコニコした 顔をナンに向けた。 ﹁お坊様、ご苦労をかけるわね﹂ ナンが苦笑しながらも微笑んだ。そして、少し困惑した表情を浮 かべる。 ﹁いえ女王様、それよりも私は、その、ファッションというものに ついては専門外でして﹂ 姉妹がクスクスと笑いあった。妹女王がウインクする。 ﹁大丈夫よ、分かっているから。さ、時間がないわよ﹂ そう言って、専門店ではなく、一般の百貨店に入っていく姉妹女 王。 ﹁あれ?﹂ 65 ナンが不思議そうな顔をしたのを、姉が笑って見返した。 ﹁カード払いでしょ、ああいった店は﹂ ナンが、ようやく腑に落ちた顔をした。思わず両手を合わせる。 ﹁ああ。しかし、カード決済などは、もう機能麻痺しているのに、 今でも入店するには必要なのですか﹂ ﹁プライドってやつ、なのかしらね。私は専門店よりもこっちのほ うが楽しいわよ﹂ 姉女王が、少し肩をすくめて専門店を見て、すぐに百貨店にスキ ップして入っていった。慌てて後を追いかけるナン。時おり空間が 火花を上げるのを抑えて回っている。 百貨店の中は、さすがに冷房が効いていた。相変わらず人で溢れ ていて、活気に満ちている。そして一般客に混じって特売品荒らし や試着を延々と楽しむ女王姉妹を感心した様子で眺めるのは、ナン である。立派に他の買い物客と特売品を巡って争っているのが、相 当意外に見えるようだ。もう、かれこれ1時間は経過した。 ﹁こうしてみると、普通のお嬢さまですね﹂ 普通の育ちの良いお嬢様は、そのようなマネはしないのだが、ナ ンは率直に感想を述べた。姉妹も楽しそうに笑って、60名を超え るオバサン達がひしめき合っている中で、特売品のスカートを見事 な早業で分捕った。魔法は使っていないようで、これにもナンが驚 いた顔をする。姉女王が満足げな表情でナンに微笑み返した。 ﹁ふふ。こんな機会でないと、こんなことできないもの﹂ 勝ち取った特売品を大量に抱え込んで、ご満悦の姉妹女王。首を かしげているナンに妹女王が説明する。 ﹁素材は魔法っ気がないから、私たちの世界では貴重なのよ﹂ なるほど、とうなずくナン。 その仕草で思い出したのか、姉女王が指を鳴らした。 ﹁あ、そうそう。ポカンちゃんの分も、買っていかないと﹂ そう言って、妹女王と再びタッグを組んで、今回も留守番役の末 66 の妹のために更に特売品のコーナーを引っ掻き回し始めた。本当に 楽しそうである。周辺にひしめくオバサンたちの怒声や体当たりも 華麗にスルーしていて、堂に入った動きを見せている。 小物売り場でも同様のことをして、灼熱の路地のビストロで食事 休憩になった。ふた抱えはある特売品の服や小物が入った大きな袋 を、満足げに眺める姉妹女王。しばらくすると荷物運び用に召喚し た、魔族とおぼしき連中が、何とか普通の人間の姿に変化して、姉 妹女王の袋を丁寧に担いで路地裏に消えていった。 ナンが、少々あっけにとられた顔で、魔族達を見送る。 ﹁あの、女王様。彼らは、魔神クラスの魔族ではないのですか?﹂ 姉女王がクスクスと笑う。 ﹁いいのよ。たまには運動させなきゃ、糖尿病になるでしょ﹂ ﹁はあ﹂ ナンもそれ以上は追求しなかった。しかし、ハイエンシャント魔 法すら使いこなし、契約により魔法使いたちへ魔力を提供している ような魔神達を平気で召喚して荷物運びさせて、大丈夫なのだろう か?魔神に糖尿病も何もないと思えるのだが。もちろん、ナンなど 足元にも及ばないほどの強力な魔法を使う連中である。多分、クー 博士がウィザード魔法を使うために契約した魔神もいたのかもしれ ない。 ビストロでは姉妹たちは路地に張り出した、簡素なテーブル席に ついていたが、他には誰も見当たらない。40度を超える猛暑の中 では当然だろう。客は全員、空調の効いた締め切った室内で食事を している。すぐにサービス係がやってきて、空調が効いている中の 部屋へどうぞと勧めるが、姉妹は丁寧に挨拶して、平気だからと微 笑んで断った。確かに汗ひとつもかいていない。怪訝な顔をするサ ービス係だったが、客の様子を見て、大丈夫なのだろうと判断して 室内に戻っていった。 67 ﹁締め切った室内では、魔力がどうしても溜まってしまいますから ね﹂ と、ナンが苦笑する中、メニューをペラペラめくって、黒板に書 かれた料理にも顔を向けて、どれにしようかと姉妹で楽しそうに相 談している。ワインリストもパラパラとめくって笑っている。本当 に楽しそうだ。 ナンがそれを見ながら姉妹女王たちに尋ねた。 ﹁あの、女王様。ビストロではなくて星付きのレストランの方が料 理やワインが充実していると思うのですが、ここで良かったのです か﹂ それには妹が答えてくれた。 ﹁特売品を大量に手にしたまま、そんなレストランに入るのは、さ すがに気が引けるのよ、お坊様。こういった気楽な店の方がいいの﹂ 姉も同意してうなずく。 ﹁そうね。こう見えて私たちは仕事で忙しいのよ、お坊様。いくら 時空を操作できるといってもね。高級レストランでは息抜きできな いでしょう?ドレスコードがあるとリラックスできないのよ﹂ どうやら、そういうことらしい。ナンもとりあえず同意する。 5分ほどかけて料理とワインを決めて、サービス係に注文をする。 小柄な坊主と、身長はあるが華奢な体つきの姉妹が頼む量ではない。 サービス係が、さすがに確認したが、姉妹は微笑んだままで大丈夫 と念を押した。 ナンがまたですか、とでも言いたげな顔をするのを見て、姉妹が 目を輝かせた。 ﹁だって、食べ納めでしょ。悔いの残らないようにしなくちゃね﹂ やがて、次々と巨大な皿に山盛りになった料理が運ばれてきた。 まずは魚料理が数皿。中でも巨大な川カマスのグリルが圧巻である。 また、たこ焼きの焼き皿になんとなく似ている陶器の穴に、ぎっし 68 りと剥き身のエスカルゴが詰まって緑色の独特なソースがたっぷり とかけられた料理もある。同時に白ワインがボトルで出されてきた。 ナンにはよく分からないが、どうやらビストロで扱うには結構高価 なワインのようである。ソムリエがワインを開けてテイスティング を姉女王にお願いする。 ﹁うん、いいわね。このワインの適温は、今の温度かしら?ソムリ エさん﹂ めったに開けないワインを提供したせいなのもあるのか、汗だく になっているソムリエがうなずいた。 ﹁はい、そうですね。しかし、この気温ですから、氷で冷やしても すぐにぬるくなってしまいますよ﹂ 大丈夫よと、姉女王が微笑んで、礼を述べた。たちまち姉妹が持 っているグラスに霜がかかる。 ﹁あのソムリエさん、なかなか優秀ね。この手のワインはね、温度 変化で味や香りが変わってくるのよ。ソムリエさんが言う温度が適 温ね。あとはお皿に応じて温度を調節すればいいわね﹂ そう言って、妹女王がナンに微笑んだ。 ﹁さあ、いただきましょう﹂ 上品に、あくまで上品に、大皿を平らげていく姉妹。さすがにサ ービス係も驚いたようだ。あの細い胴体のどこに収まっていくのだ ろうか?今や北海産が多くなった岩牡蠣もダース単位で頼んで、ラ イムや塩をかけてパクついている。 ワインも次々に注文して、ボトルを開けていく。しかし、全く酔 った様子は見られない。 ナンは、水だけをすすりながら、姉妹の食事を見守っている。 スズキのパイ包み焼きを、パイ生地ごときれいに平らげた後、肉 料理が次々と運ばれてきた。これまた大皿ばかりである。家畜は、 この酷暑を避けて、イギリスや北欧で飼育されていたが、さすがに 野鳥は見当たらない。高級レストランでは、特別に宇宙コロニーで 69 放し飼いしている野鳥を出すところもあるようだが、こういったビ ストロでは期待できない。まだ落葉樹の森が残るロシアや北欧で木 の実を食べさせて育てた黒豚のローストに木苺やベリーのソースを 添えたものや、北海の海岸沿いの草地で育てた仔牛の肉や骨髄の煮 込みなども、しっかりと注文して嬉しそうに食べている。さすがに ナンが事前に調査して選んだ店だけあるようだ。 赤ワインも色々開けてぜいたくに楽しんでいる姉妹だったが、肉 料理が終わって、さすがビストロというべきなのかパスタ料理にな ると、ようやく一息ついたのだろう、水ばかり飲んでいるナンを妹 女王がからかい出した。 ﹁天気が落ち着いたら、また来ようかしら。ワインなどは確か地下 室に保管してあるのでしょ﹂ ナンが、あきれた顔をした。 ﹁だめですよ、女王様。盗んじゃ﹂ ﹁あら、だって、ここはもう、誰もいなくなるのよ﹂ 澄ました顔で言ってのける姉女王に、さらにあきれた顔をするナ ン。 ﹁それでも、誰もいなくなってからですよ。でないと、近隣世界に コソ泥女王ってニュースが流れてしまいますよ﹂ ﹁あら﹂ 目を点にする姉妹女王を見ながら、ナンが再び水をすする。 ﹁でも、例え後日発掘したとしても、地下室の温度もその頃には大 きく変わっていますから、ワインも変質していますね﹂ ﹁うーん、そうかー。残念っ﹂ 姉妹が口を揃えて悔しがった。でも、くすくす笑いだす。何か思 い出したようだ。ナンに妹女王がイタズラっぽい目を向けた。 ﹁近隣世界っていえば、あの吸血鬼、面白いところに飛ばされてい るわよ﹂ ﹁え?誰ですか?﹂ 70 きょとんとするナンに、姉妹が顔を見合わせて微笑む。 ﹁ほら、あなたが力任せに弾き飛ばした彼﹂ ﹁ああ﹂ ナンもようやく、先日落第の評価を下したバンパイア貴族の顔を 思い出したようだ。水のコップをテーブルに置いた。 妹女王が、両手で受け皿を作り、それを坊主の顔につけて覗かせ る。何か両手の中に画像が浮かんでいるようだ。 ﹁ほらここ。罪なことをしたものねぇ。ふふふ﹂ 無邪気に微笑む姉妹女王の横で、ナンが絶句している。相当に罪 なことをされているようだ。 ﹁安心なさいな、お坊様。もう新しいロードの統治が始まったし、 あの世界の王、ミトラ君も別にどうこう考えていないわ﹂ 姉女王がにこやかな顔で、そう言ったが、ナンは首をかしげて腕 組みをしたままである。 ﹁そうですか。彼にも酷なことをしてしまいました。思い切って滅 ぼしてしまったほうが、彼にとって良かったかもしれません﹂ 姉女王がそれを聞いて、少々驚いたような顔をした。妹女王はせ っせとパスタをフォークで突き刺したり巻きつけたりして口に運ん でいる。トマトソースを絡めたパスタのようである。 ﹁あらあら、お坊様らしくないわね。まだ、迷いというものは残る ものなのかしら﹂ 姉女王がナンの細い目をのぞきこむような仕草をして訊いた。ナ ンが素直にうなずく。 ﹁ええ、残りますよ。解脱も道半ばというところですね﹂ 姉妹が微笑んだ。姉もトマトソースのパスタが無くなりそうなの を見て、急いでフォークとスプーンを持ち直す。 ﹁ふふふ、そういうところ、好きよ。あ、そうそう、巨人やドラゴ ン達も、色めき立っているようよ。あ、こら、パロン。私の分も残 しなさいってば﹂ げんなりするナン。ため息をついて、また水をすすった。 71 ﹁楽しそうですね﹂ ﹁わかる?﹂ 姉妹がニコニコした笑顔をナンに向けた。今度はデザートを注文 している。サービス係も、よく食べてくれるので、気前よく小ジョ ッキにたっぷりと注がれたコニャックを口直しに差し出してきた。 ナンにも出されたが、彼は目を白黒させて困惑している。香りを楽 しむには量が多すぎるようだ。姉妹女王がサービス係に礼を述べて ジョッキを受け取り口をつけて、満足げな顔をする。そして、ソム リエを呼んでデザートワインやポルトワインをどれにしようかと相 談し始めた。さらに熟成チーズのリストにも身を乗り出して物色し ている。 そして、1時間が過ぎた頃、南風が突風になって吹き始めた。通 りの看板などが飛ばされ始めてうるさくなり、砂塵や枯葉が舞い上 がってきたのを、姉妹がコーヒーを味わいながら見て、残念そうな 顔をした。 ﹁もう、時間ね。うるさくなってきちゃったわ﹂ 南の空が黄色いもやに包まれてきていた。次第にこちらへ向かっ てきている。 ナンもコーヒーをすすりながら、南の空を見上げる。 ﹁そうですね、アフリカからの砂嵐ですね、あれは。気温も一気に 5度ほど上がりそうです﹂ 姉女王が、ため息をついた。 ﹁もったいないわねぇ。本当に盗んじゃおうかしらワイン﹂ ﹁もう、ご案内しませんよ、女王様。では、お会計しますね﹂ ナンが苦笑して、席を立った。会計に向かう後ろ姿を見ながら、 姉妹女王がコーヒーをすする。色々考えているようだったが、あき らめたようだ。 ﹁あーあ、本当に残念﹂ 72 中央シベリア 欧州、ロシア、カナダを猛烈な熱波が襲って、砂混じりの熱風が 南から吹きつけてきていた。すでに世界は相当に混乱していた。ラ ジオからは熱波による死者の増加と、作物を枯らしていく疫病、少 なくとも5種類現れた新型インフルエンザの同時流行の猛威のニュ ースが流れている。 ﹁アジアもすごいことになっているはずだが、もうニュースにもな らないか。ここシベリア辺りはもう、地図上から消えたような扱い だなあ﹂ ナンが、古いラジオのアンテナをたたんで電源を切った。内乱状 態になっている東アジアや東南アジアの情報は、聞こえてこなくな って久しい。 ここは中央シベリアの北極圏の森。大河の上にナンとクー博士、 それに1人の若いエルフの女性が障壁を展開して浮遊していた。そ のエルフが森を見て絶句している ︵この森、病気で腐り始めています。あ、お坊さま、また︶ 増水して濁流となっている大河の岸が溶けていくように崩れてい く。永久凍土が急速に溶けていて、ひどい泥沼に大地が変貌したた めで、上の針葉樹林がばたばたと支えを失って倒れて、増水した川 に流されていく。空には真っ黒な雲が湧き上がり、すごい速さで北 へ流れていた。広大な針葉樹の森の中から湧き上がった上昇気流が、 黒い煙状になって上空に昇っていくのが見える。空からは雷がひっ きりなしに落ちて、まるで熱帯の集中豪雨のような様相を見せる雨 と雹である。上流でも豪雨なのだろう、大河の水位が目に見えて上 昇していく。 73 その荒れる大河の上の空中に浮遊する3人は、それぞれが障壁を 展開しているので、雨や雹、雷は当たっていない。しかし、あまり の洪水と雷の轟音で声が互いに伝わらないために、仕方なく念話を 使っている。 ︵気温が下がり始めたよ、クー博士。嵐が降りてくる。記録密度を 高めよう︶ 上空を見上げていたナンが、クー博士に念話をしかけた。 ︵採集準備だね。了解︶ クー博士も念話で返信をして、相変わらず年季の入った、ごつい ジャケットの中から小瓶を取り出した。やっぱり今日も、くしゃく しゃの髪が大きな帽子に抑えられて好き勝手な方向にひん曲がって 伸びている。それでも、毎回シャツやズボンが違うのを見ると、そ れなりに服装には気を使っているのだろうか。 一方のエルフは、亜熱帯の世界の住人なので、非常に軽装である。 毛糸の帽子をかぶり、薄手のキルトのようなジャケットを一応、羽 織っているが、春用の品だろう。すらりとした体格に似合う、すっ きりとした簡素な巻きスカート姿でサンダルを履いている。素材は 革や綿麻、絹などの自然由来のものしか使用されていないようだが 精霊魔法を帯びているのだろうか、ほんのりと輝いているように見 える。染料も草木染めの延長のようなものを使用しているのだろう か、かなり地味な色合いである。ただ、毛糸の帽子からのぞく鮮や かな金髪が、その地味な服装に華やかさのワンポイントを与えてい るので、野暮ったくは見えない。そのエルフの細長い右耳が、ピク リと反応した。 ︵森がよろめいて倒れていく︶ 相当、動揺している様子が念話の思念波からも伺える。しかし、 その景色もすぐに雲が分厚くなりすぎて、真っ暗になって見えなく なり、そして、風向きが南から北向きに逆転した。ナンが上空を見 上げる。 ︵空間捕縛。因果律回避2秒。準備完了したよ、博士︶ 74 クー博士が、武骨な顔を高潮させた。 ︵来るぞ、ナン。8,000年ぶりの氷の暴風だ︶ ︵精霊場はあの時よりも大きいよ、クー博士。これはさらに前の1 2,000年前の嵐に匹敵するな︶ ナンが穏やかながらも低い声で、訂正する。彼も久しぶりの嵐に 緊張しているようだ。若いエルフは、緊張が高まってかすかに震え ている。その様子をすぐに察したナンが、エルフに向かって微笑ん だ。 ︵あなたのご先祖も、あの時、相当緊張していましたが、しっかり 記録していかれました︶ エルフが、それを聞いて驚く。エルフは平均寿命が数千年とかな り長命な種族だが、ナンの年齢はその更に上をいっているのだろう か。 ︵あなたも、あの時、ここに?︶ ナンが微笑んだままでうなずいた。 ︵ええ、肩書きも同じでした。王立図書館の司書さん︶ その時、突然大粒の雨が、雹を伴った氷の砲弾の嵐に変わった。 直径10センチ以上はある雹が、真っ黒になった上空から飽和攻撃 のように降り注いでくる。その直撃を受けた木々が砕けて、洪水の 轟音に負けないほどの破砕音を響かせる。エルフが悲鳴を上げそう な顔になった。3名の障壁も衝突して砕け散った氷の破片に覆われ て、3名の姿がよく見えない。ナンも、さすがに顔を真剣なものに して、砕けていく森の木々を観察する。 ︵ほう、これは︶ ︵成層圏からいきなり降りてきたな。すごいぞ︶ クー博士が、興奮した顔でナンに告げた。どことなく嬉しそうな 声であったので、エルフが怪訝そうな目で博士を睨んだ。 その瞬間、世界が凍結した。 75 エルフが障壁の中で息を飲むのが分かる。それを複雑そうな顔で 見たナンが手を上げた。 ︵では、術式開放︶ クー博士の小瓶に空間が流れ込んでいく。彼の障壁の外にひょっ こりと浮遊している小瓶に氷の暴風が吸い込まれていく。たちまち 容量が一杯になったのか、すぐに転送されてクー博士の手元に戻っ た。完全に凍りついているので、さすがにクー博士も素手では触れ ることができないようだ。 小瓶に吸い込まれていったんは静かになった氷の暴風は、ものの 数十秒で完全に復活して、全てを凍てつかせてしまった。鳥が凍っ て枝から落ちてそのまま砕け、その大木が凍結して砕けて嵐に吹き 上げられていく。エルフが顔を蒼くさせて、その一瞬の変化を見届 けた。 ︵森が爆発している︶ ナンが、努めて穏やかな声でエルフに話しかけた。 ︵水分が凍結すると体積が1.1倍に膨らむでしょう、この暴風に よる気化熱もあって、それが木の細胞全てで一瞬で起こると、ああ なるのですよ、司書さん︶ クー博士も感心した様子でつぶやく。 ︵上級氷結魔法を見ているようだよ、ナン。加工せずとも、そのま ま軍の兵器に使えるレベルだ︶ 凍結したトナカイ1000頭と犬や人が、砕けながら嵐の突風に 吹き飛ばされて障壁に当たった。たちまちガラスのように粉々に砕 けてしまう。クー博士が、くしゃくしゃ頭を無造作にかいた。 ︵やれやれ、どこから飛んできたんだ︶ ︵陶器の人形みたい︶ エルフも思わず、非現実的な光景を目にして口を開いた。それを 見てナンも、穏やかな声で話しかける。 ︵そうだね。上級氷結魔法が恐ろしいのは、物質の動きを遅らせて 76 しまうことだ。だから、対抗魔法も伝達速度が遅くなって間に合わ なくなる︶ その時、エルフが展開している精霊魔法障壁が2枚ほど砕けた。 エルフの顔から血の気が引いていく。 ︵司書さん、障壁維持に意識を向けなさい︶ しかし、エルフは慌ててしまい、うまく修復できないでいるうち に、他の障壁まで次々に冷気で砕かれてしまい、あっという間に自 分の最後の障壁に穴が開いてしまった。 ﹁あっ﹂ エルフが思わず小さな悲鳴を上げた瞬間、ナンがエルフを新たな 障壁で包んで助けた。結果的に二人とも同じ障壁に包まれることに なる。恐怖で蒼白な顔のエルフの肩に優しく自分の手を乗せて、ナ ンが微笑んだ。 ﹁こういう場合では、前もって準備しておいた遅延発動キーの呪文 を連続して使うといい﹂ 見ると、穴から侵入した冷気でエルフのジャケットの背中の一部 が凍っていた。それを、すぐに溶かしてやりながら、ナンが話を続 ける。 ﹁エルフの世界は温暖だからね、冷気には不慣れだろう。用心しな さい﹂ ﹁は、はい﹂ そう答えたが、エルフは、まだ動悸が止まらないようだ。息もま だ整っていない。 その様を、関心のない様子で横目で見ていたクー博士が、小瓶を 閉めた。満足げに小瓶を眺めて赤い瞳を輝かせる。 ︵うむ。いい素材が採集できたよ。マイナス90度はあるかな。1 00度台かもしれないな︶ ナンがエルフの肩に手を乗せたままで、なおも激しさを増す氷の 暴風を見つめて、クー博士の感想を補足した。障壁がなければ、こ 77 の轟音で聴覚がおかしくなっていただろう。 ︵それにこの暴風だ。普通の生物はそれこそ生気を吹き飛ばされて 凍ったようなものだね、博士︶ 暗闇の中で気がつくと、一面の氷の世界になっていた。荒れ狂う 氷の暴風は、無数の氷の砲弾で病気で腐っていた森を根こそぎ砕い てしまったようだ。洪水だった大河も今では瞬間凍結されて、暴風 に削られている。暗闇の中なので分からないが、恐らく日が差すと 何もない凍結した荒野が四方の地平線のかなたまで広がるだけの風 景になるだろう。その様子を見下ろしながらナンがつぶやいた。 ﹁前回は2ヶ月弱続いた。今回も幸運だったよ﹂ エルフがそのつぶやきを聞いて、ひどく驚く。 ﹁これが幸運ですか﹂ ナンが苦笑してエルフに細い目を向けた。エルフにとっては、今 の世界のどこを探しても幸運というサインは見当たらないだろう。 生きて動いている物は全く見かけないのだから。全て凍結して砕け てしまった。 ﹁うむ。夏に起こっただろう?嵐が過ぎ去っても、まだ冬にはなら ない。降り積もった氷雪も冬までにかなり溶けてしまう。まぁ、そ の代わり世界中が大洪水になるがね﹂ エルフが、深刻な表情に戻った。やはり幸運とは言えないらしい。 少しの間、それでも沈思していたが、やはりという顔をして、ナン に顔を向けた。 ﹁十分、不幸だと思いますが。お坊様、この嵐、このまま南下して いくのですか﹂ ナンが機械的にうなずいた。氷の暴風の風下方向に目を向ける。 ﹁そうだよ。全てを凍りつかせながらね﹂ エルフが、それを聞いてまた沈思していたが、やがて顔を上げて ナンに訊ねた。 78 ﹁私達の世界でも、これが起こりえると?﹂ ナンは、エルフとは視線を合わせずに風下を見つめたままで答え た。ナンには、この暗闇の向こうで何が起こっているのか見通すこ とができるかのようだ。 ﹁さぁ、それは分からない。でも、経験しておくことは良い事だと おもうよ、司書さん﹂ 再び、しばらく沈思してからエルフが同意した。 ﹁そうですね。これほどの森の断末の悲鳴は聞いたことがありませ んでした。動物達は一瞬で凍ってしまったので、ある意味楽でした が﹂ ナンがそれを聞いて、悲しげな顔のままでうなずいた。風下も同 じことになっているようだ。それでも、微笑みを作ってエルフに顔 を向けた。 ﹁うむ。来てくれてよかったよ。生命の樹たちによろしく﹂ ﹁はい﹂ 小瓶を全てジャケットにしまいこんだクー博士が、元気な声でナ ンに呼びかけた。 ︵さて、帰るかね。用はすんだし︶ 79 カイロ エジプトの首都カイロでは、2ヶ月ぶりに分厚い雲の切れ間から 薄日が差すようになってきていたが、まだ小雨は続いている。沙漠 の国なのに、延々と豪雨が続き、洪水がカイロの街を飲み込んで容 赦なく洗い続けていた。その嵐がようやく収まると、再び強烈な熱 波がやってきた。今度は大量の湿気を含んでいるために、まるで蒸 し風呂の中のようである。現在もナイル川の大氾濫の影響でカイロ 市街はほとんどが水没して濁流に洗い流されていた。人々はどこか へ避難してしまい、カイロの巨大な街はすっかりゴーストタウンと 化していた。むろん電気も止まっている。市内を巡る高架式の高速 道路網は支える土台が倒れたせいで崩れ、あちこちで寸断されてい て、今は1台も車の姿が見えない。建物も基礎までもが洪水でえぐ られてしまったせいか、こうしている間にも次々にアパートが横倒 しに倒れて洪水に流されていく。この普通ではない洪水から見て、 上流の巨大ダムも決壊してしまったのかもしれない。 ピラミッドがある高台は、さすがに洪水に洗われるようなことに はなっていなかったが、それでも豪雨に曝され続けたために、岩場 の高台ではあるが地すべりがあちこちで発生しており、基礎が不安 定になってきているようである。そのためにピラミッドもミシミシ と音を立ててきしんでいる。さすがに、観光客の姿は1人も見当た らない。やがて、薄日も雲に閉ざされて、再び豪雨になった。南風 が相変わらず強い。 その最も北のピラミッドの頂上に、ナンの姿があった。今回は小 人を案内しているようだ。いつものように障壁を周辺に展開してい るのだろう、この豪雨でも全く濡れていない。だが、雨音が大きい ので、大声を出さないと会話ができないようだ。念話は使わないみ 80 たいである。 小人は、身長の4分の1もある大きな三角帽子をかぶり、作業服 のような服装をしている。実際、結構汚れが目立つので作業服なの だろう。つま先が丸まったフェルトのような生地の靴が、大きな三 角帽子とあわせて目立つ。手にはこれまた身長の半分ほどもある長 さの杖を持ち、空中に様々なディスプレーを次々に表示させている。 表示されているものは、クー博士が使う魔法世界の文字とは違って、 音楽を編集する際に用いるような無数の棒状の表示があるシーケン サーで、色や形状を変えながら滑らかに伸び縮みしている。小人が そのシーケンサーを書き換えたり追加したりしているので、これが 彼らの文字なのだろう。何かを計測、分析しているようだ。生物の DNAのような図形も見える。その分析の一部が終了したのだろう、 小人が険しい顔をして頭を軽く振った。 ﹁2ヶ月間も大雨に洗われ続けたから、この三角山も基礎が危うい な﹂ それを聞いたナンが、30分ぶりに口を開いた。 ﹁崩れそうですか?ノームさん﹂ どうやら、小人はノームと呼ばれる種族のようだ。そのノームが ナンの顔を見上げて苦笑した。 ﹁ああ。もう持たないよ。リッチーともなれば、分かるだろう?﹂ ナンもうなずく。彼も予想していたようだ。しかし、判断の過程 はノームとは違うようである。ノームも、ナンの顔から視線をカイ ロの街へ戻した。 ﹁こいつを造成した連中は来ないのかい?リッチーさん﹂ ﹁ええ、打診しても反応がありませんねぇ﹂ ナンの返事を聞いて、ノームがまた首を振った。 ﹁やれやれ。人間という種族は、今のも昔のも無責任なものだな。 同じ過ちを何度も起こす。ほれ、この年表を見ろ﹂ そう言って、ノームが杖を揺らして新たな空中ディスプレーを表 81 示させた。確かに何かの年表のようだ。文字が先ほどの音楽シーケ ンサー表示なのだが、ナンには理解できるようである。その表を一 瞥したナンがノームの顔を見返した。穏やかな表情のままである。 ﹁しかし、最初に世界を変えてしまったのは私達、最初の人間です よ﹂ それを聞いたノームが、むう、と腕組みをした。そうこうする内 に、ピラミッドの軋みがひどくなってきた。大きく揺らぎ始め、ピ ラミッドから脱落した大きな石が、いくつも転げ落ちて轟音を立て て地面に衝突していく。頂上も相当に揺れているのだが、ナンとノ ームは、浮遊術を使っているのだろうか、揺れに巻き込まれていな い。その揺れと脱落する巨石群を見下ろしていたノームが、あきれ たような声を出した。 ﹁全く、もろいな。手抜き工事だな﹂ 濁流に沈んだカイロの市街でも次々に高層ビルが崩壊している。 まるでピラミッドの崩壊と連動しているかのようだ。その様子も観 察しながら、ノームが苦笑する。 ﹁人間世界の伝統か?手抜き工事は﹂ スフィンクスが、基礎を失ってずるずると流れていくのを見下ろ しながら、ノームがナンに訊ねた。 ﹁しかし、本当に世界中が大洪水のようだな、リッチーさん。対岸 の大陸はほとんど水没しておるそうじゃないか﹂ そう言って、ノームが濁流の流れていく先を大きな杖で指した。 対岸ということだから、小アジアか、欧州ということになるだろう か。ナンも同じ方向を眺めてうなずいた。 ﹁ええ、洪水で。この大陸だけではありません。しかし問題は﹂ ﹁うむ。大気中のエネルギーが、反対に上がってきておることだな﹂ ノームがナンの話を先読みして同意した。そのまま話を続ける。 ﹁この洪水で大量の水蒸気が発生しておるのだよ。簡単に言えば、 焼け石に水をまいた状態か﹂ そう言って、適当に杖でピラミッドの頂上の要石を叩いた。 82 ﹁昔に起きた洪水と違うのは、そこだ。今回は北半球の北地域だけ が洪水になっただけで、南半球を含めた他の地域は暑いままだ﹂ その話を聞いていたナンの表情が曇った。 ﹁もう一度、来そうですか?ノームさん﹂ ノームが苦笑する。既に分かりきっている事を聞くなとでも、言 いたいようだ。 ﹁もう、始まっておるよ。南風が強いだろう?これからが本番だよ。 南極も曇り始めたそうだし、ここでは、もう夏も終わる。今度は、 水では済まないな。氷になるよ﹂ 世間話をするような調子でノームが、この世界に宣告を下したの を聞いて、ナンが深いため息をついた。 ﹁やはり、ノームの判断もそうですか。リッチー協会や、エルフ、 魔法使いも同じ結論でした。太陽も休眠状態になりましたし。これ は、再び氷河期になりますね﹂ その時、一際大音響を立ててピラミッドから大量の巨石が崩れ落 ちて地面に激突した。地響きが2人のいるピラミッド頂上まで伝わ ってくる。同時にノームが持つ長い杖が光って、新しいシーケンサ ー表示が空中に表示された。一目で警報だと分かる。やれやれとい う表情で、ノームがナンに知らせた。 ﹁重石が外れた。封印が解けるぞ﹂ ﹁では術式展開を始めます﹂ ナンが、そう言ってピラミッドの基礎の辺りを見ると、見る見る 内に、立体魔法陣が次々に出現して自動的に組み上がりつつ、3つ 並んでいる巨大なピラミッドを全て包み込んでいく。やはり呪文の 詠唱はしていないようだ。その様子を、当然のように見ていたノー ムが、杖を持ち直して話しかけてきた。 ﹁まったく、魔法無効世界でこれほど巨大な魔法生物を創造してお いて、造り逃げか。まあ、気持ちは分からないでもないがね﹂ 83 ﹁ノームさん、空中に退避して下さい。動きます﹂ ナンが穏やかな声でノームに告げると、ピラミッドの基礎がガラ スのように砕けて、その地面の中から、50匹ほどの大蛇が一斉に 出てきた。同時に、今まで2人が居た、北の端のピラミッドが轟音 を立てて崩壊していく。大蛇群は、その崩壊を難なくすり抜けて、 中央のピラミッドに体当たりした。再び轟音が響いて、中央のピラ ミッドも粉々に粉砕される。基礎の崩壊は加速度を増して進み、今 度は地中から高さ十数メートルはありそうな、巨大な筋肉質の腕が 3本出てきて、最後に残っていたピラミッドも砕いてしまった。 その頃には、ナンとノームは、上空に退避していたが、その高度 までも大蛇群が地中の割れ目から背伸びして咬みつこうとしてくる。 それらは、簡単にナンやノームの障壁に弾かれたり、ぶつかって消 滅したりしていたが、その数は増え続けて、今や、崩壊した瓦礫か ら無数の大蛇が生えたようになって蠢いていた。やがて、一際大き な轟音が響いて、分厚く積み重なったピラミッドの瓦礫を空中高く 巻き上げて、地中から、化物の本体が姿を現した。魚のような姿を している。大蛇群は、この魚の頭部から背中にかけて髪の毛のよう に生えているのが分かる。腕は、腹ビレが変化したもののようだ。 それをあきれた表情で見ていたノームがつぶやいた。 ﹁キメラか。大きいな。なるほどね、これなら保存しておきたくな るな﹂ ナンが、その感想を聞いて苦笑する。 ﹁結界で包んでみたのですが、やはりここまで巨大だと無理ですね。 大規模な因果律崩壊を起こします。特に重力には逆らえないでしょ う﹂ ものすごい筋や骨の折れる音がして、キメラが崩れ始めた。ノー ムの表情が曇る。 ﹁うむ、魔法で支えなければ、この巨体は維持できまい﹂ 84 ﹁そうですね。水中生物仕様であっても、これほど巨体では支えき れません﹂ ナンも曇った表情になった。もう、魚型のキメラは崩れ果ててし まって、ピクリとも動かない。 ﹁では、残骸を処分します﹂ ナンがそう告げると、それだけでキメラの肉体が大量の魚に変換 されていく。ノームもそれを見ていたが、思いついたようにナンに 訊ねた。 ﹁骨も変換できるのかい?リッチーさん﹂ ﹁ええ。少し時間はかかりますが﹂ ナンが答えると、ノームが腕組みして考え始めた。 ﹁骨だけを第2世界にでも転送して、適当な再生術をかけて蘇生し てやれば、こいつも長生きできるかもしれないな。いや、こいつは ここで消滅した方がいいか。やれやれ、こんな場所に封印する奴の 気が知れんよ﹂ ナンもノームの考えに同意した。 ﹁そうですね。第2世界にこれほど巨大なキメラを持ち込むと、生 態系の再構築をしなければならなくなるでしょうね。この手のキメ ラは無性生殖型でしょうから、繁殖しはじめると面倒です。アンデ ッドにして死者の世界に放しても良いですが、暇な貴族連中の狩の 標的にされるだけでしょうし﹂ うむ、と、ノームもうなずいた。 ﹁世界は、思ったよりも自由ではないものなあ。そうだ、リッチー さん、この手のキメラ、まだ他にいるのかい?﹂ ﹁はい。これほど巨体ではないですが、この対岸にも1ついますよ。 魚型ではないので、洪水で活性化はしませんが﹂ ﹁やれやれ﹂ ノームが、そう言って肩をすくめた。 85 ﹁魔法使いやエルフたちの会議を盗聴してみたが、連中はこれを大 災害だと言っているな。まあ実際、この世界の文明が崩壊する程度 の災害ではあろうが、他の生物にとっては何てことはないものだよ。 特に水棲生物にとってはな﹂ ナンが興味を引かれたようだ。 ﹁その発想はありませんでした。ノームさん﹂ ノームのプライドを少しくすぐったのか、話を続ける。 ﹁うむ。洪水、熱波、寒波に疫病。こいつらは所詮は地球の表面の 変化に過ぎん。影響を及ぼす範囲は大して大きくはない。ワシらが 最初に危惧していたのは、初期に起きた大地震だよ﹂ ナンがうなずく。﹁はい。極東アジアで大きな地震と津波が起き ました。その後は、余震が続いていますが、それだけですね﹂ ノームもうなずく。 ﹁うむ。我らはそれに注目しておったんだよ。そして観測の結論と して言わせてもらうが、この世界は幸運だったと断言しよう。地球 内部の異変は観測されなかったのでな。この気候変動が収まれば、 生き残った人間がまた増えていくだろうよ﹂ ナンが感心した表情を見せた。 ﹁なるほど、さすが大地の精霊使いが多いノームならではの意見で すね。ということは、もう大地震は起きないと見てよいのでしょう か﹂ ノームがかぶりを振った。 ﹁リッチーさんには専門外だから仕方がないが、地震は大したこと ではないよ。我々が注目していたのは、その下のマントルの動きな んだ。この世界ではスーパープルームとか表現しているのかな、イ ンド亜大陸を覆う高原やシベリア高原を作ったような巨大な噴火の ことだよ。広大な大地が分厚い溶岩で覆われたら、地球環境はどう なると思うかね?﹂ ナンが意表をつかれたような顔をした。 ﹁まさか、そのような危機が起きていたのですか﹂ 86 ノームが少しいたずらっぽい目配せをナンにした。 ﹁だから幸運だったと言っただろう?あの巨大地震のエネルギーは、 地球の自転を少し遅くしたり、重力分布を少し変えたりしたけど、 巨大な溶岩台地を作り出すような大噴火を引き起こす方向へは向か わなかった。ま、少しかすってはいるから、普通の活火山の噴火く らいは、いくつか起きるだろうがね。さて、話はこの程度でよかろ う。我々が、この魔法無効化世界で調査活動できた返礼だ﹂ 気がつくと、もう、北の空は分厚い雲に覆われて真っ黒になって いた。無数の雷が絶えず発生しているが、まだ音は届いてこない。 ナンが、立体魔法陣を解除して、相変わらず濁流となっているナイ ル川の下流を眺めた。 ﹁あのキメラは無理でしたが、魚なら地中海へたどり着くでしょう。 さて、我々も帰りましょうか。嵐が来ます﹂ 87 軌道エレベータのステーション下部 インド洋に浮かぶガン島から、天空高くそびえ立つ軌道エレベー タは、この気候変動の最中にあっても、倒れることなく宇宙からの 食料品や医薬品、充電した電池などを地上へ供給し続けていた。 しかし今日は、タンカーも輸送機も全く見当たらない。巨大なエ レベータ施設には誰もおらず、電気も止められている。それだけで なく近くのガン島で働く人影も全く見えない。2つともまるで廃墟 になってしまったかのようだ。さらに、高さ50m程度の追加の防 波堤が急遽設置されて、それがガン島の沿岸をぐるりと囲んでいる。 そのいかめしい防波堤が、廃墟の印象をさらに強くさせていた。巨 大なタンカーを数隻も横付けできる港をその基部に持つ巨大な軌道 エレベータ施設自体も、いつもとは違い、ゆらゆら動いている。ま るで長周期の地震波を延々と受け続けているかのようだ。近くのガ ン島へ渡されていたアンカーが外されたせいで、エレベータ施設の 姿勢制御が失われたせいであった。 よく見ると、施設の構造上重要な区域に1つ1立米以上もある無 骨なユニットがぎっしりと詰め込まれている。近づいて見ると、タ イマーがセットされていて、既にカウントダウンが始まっていた。 その軌道エレベータの上空、高度35,800キロ弱の宇宙空間 には、このエレベータの本体であるステーションが浮かんでいる。 静止衛星軌道上に浮かぶこのステーションは、下界の港に横付けさ れていた巨大タンカーを横に3隻ほど並べたほどの巨体を誇る。と はいっても、そのほとんどは倉庫なのだが。地上側の施設は完全に 停電となって、その機能を停止して誰もいなくなっていたが、ここ ステーションは電気が今も通っていて、窓から伺える内部では多く の人が行きかっているのが分かる。 88 このステーションの重心にあたる場所から地球側に向かってエレ ベータケーブルが伸びており、反対側の宇宙側にもバランスを保つ ために同様のケーブルが伸びている。エレベータケーブルの形状は ロープ状ではなく、非常に薄いフィルム状で、幅はステーション側 が大きく、地球側が細くなっている。数は360枚あり、それらが 輪になって配置されていた。輪の中心には巨大な昇降機があり、エ レベータケーブルという、その薄いフィルムを、裏表からタイヤで 挟んでいる。つまり、360本のケーブルを昇降機の外側に配置し て動かす仕組みのエレベータのようだ。それは真上から見下ろすと ちょうど花びらをつけたタンポポの花のようにも見える。ちなみに この昇降機は1000トンの貨物を運ぶことができ、今はステーシ ョンに接続されている。明かりが全く見えないことから、現在はこ の昇降機には電気が通っていないのだろう。 そのステーションから地球側へ1000キロほど降りた地点では、 数十台の遠隔操作型の汎用作業ロボットが突貫工事でエレベータケ ーブルの切断作業をしていた。ロボットはクモのような姿の多足駆 動で、クモの糸ならぬワイヤーを四方に伸ばしてエレベータケーブ ル本体に接続し、それを伸縮させることでかなり自由に移動できて いる。ロボットが忙しく作業をしているのを、そばで見ているのは、 ナンと、宇宙服に身を包んだ樽のような姿の小人であった。小人の 宇宙服は海に潜るダイバーのような印象だが、姿勢制御システムや 空気タンク、宇宙線から身を守るための分厚い防護服に強烈な太陽 光から目を守るヘルメットなどが全くない。そのくせ水中を泳ぐよ うに自在に宇宙空間を移動できている。ナンはいつもの気楽な服装 で当然肌も宇宙空間にさらしているのだが、いつもの障壁に守られ ているせいなのか、地上を歩くように自在に移動できている。小人 の方は、障壁の展開は見られないが、代わりにオーロラのようなも のを周辺に発生させている。どちらも、忙しく作業をしているクモ 型ロボットの知覚センサーには全く反応しないようだ。 89 ロボットの作業を興味深く観察していた小人が、ナンに大声で話 しかけた。別に大声でなくても無線システムなので十分にナンに伝 わるため、この大声は彼の地声かもしれない。 ﹁ほう、これが人間世界の宇宙交易路かよ。いい素材だ。魔法なし でここまで強靭な素材を実用化できたのか。うんうん﹂ そう言って、小人がエレベータの巨大なエレベータラインをパン パン叩く。もちろん音は発生しない。何となく嬉しそうだ。で、す ぐにナンに質問をぶつけてきた。 ﹁で、なぜ切断するのかね?坊さん。この強度なら、下の嵐ではび くともせんぞ。太陽のコロナ質量放出による爆発も終わって、オー ロラも出ておらんし、電気機器への悪影響もかなり緩和されておる のだが﹂ ナンが苦笑する。技術屋は世情に疎いというのは本当のようだ。 ﹁エレベータは大丈夫でも、運用する側の人間に問題が起きたよう ですよ。もはや社会秩序は失われましたから、宇宙からの荷を地上 へ降ろして配達する仕事も無くなりました。代金の支払いが保証さ れませんから当然ですね。政府や軍も機能麻痺を起こしていますか ら、このエレベータを管理できなくなったようです。何年間も放置 することになりますから、メンテの問題も生じますし、こうして基 幹部分だけ残す決定が下された。とニュースで言っていましたよ﹂ 小人が残念そうにうなって、腕組みをした。 ﹁そうかね。まあ、確かにこの素材では宇宙線による経年劣化は避 けられないからな。何年もメンテできないとあれば仕方がないか。 劣化が進んでエレベータケーブルがちぎれたら、バランスを失って、 このステーションも宇宙へ放り出されることになるからな。100 0キロほど残すというのも、姿勢制御のバランスを維持するためだ ろうな。ちょっとずつ切り離していくことで姿勢制御ロケットなど の推進剤を使う手間を減らすことができるからな﹂ ナンはこうした機械には詳しくないのだが、とりあえずうなずい 90 た。 ﹁バランスといえばドワーフの技師さん。そのバランスを保つため に反対側も同時に切断するそうですよ。その一連の作業のために、 宇宙コロニーやら衛星やらを退避させるので大変みたいですね﹂ そんなことはもうドワーフと呼ばれた彼は知っているから、先ほ どのセリフがあった訳だが、ナンはやはり理解できていなかったよ うだ。しかし、ドワーフも別にどうとも思っていないようである。 そのままドワーフと呼ばれた小人が、宇宙の先へ伸びているエレベ ータを遠望する。1000キロ先に浮かぶステーションの向こうに 広がる漆黒の宇宙空間に、確かにいくつか点のような光る物体が見 える。 ﹁ああ、遠くに浮かんでいるあの筒か。いくつもあるな。うん、賢 明だな。これからの地球上では食料生産は難しいだろう。気候の振 れ幅が作物栽培の適応範囲を超えるからな。苗を植えても収穫前に 熱波や寒波に襲われたらおしまいだ。宇宙産が重宝される時代にな るだろうな、って、そうか、もうケーブルを切るから意味ないか﹂ ドワーフがゴーグルに装備されていたスコープを、元の位置に収 納しながらうなずいた。 ﹁で、坊さん。この世界の人間は月に避難したんだろ?ま、重力制 御ができていないようだから、苦労すると思うが﹂ ナンが首を少し傾けて月を眺めた。 ﹁そうですね、ざっと見て1万人というところですか。心理状態は かなり悪いようですね、初めてですから無理もありませんが﹂ ドワーフ技師がニヤリと笑った。 ﹁ふふん、魔法が使える連中には、オレたちのように魔法が使えな い者の気持ちは永遠に分からんよ。逆もまたしかり、だがな﹂ そして、眼下に広がる地球に視線を移した。既に地球の大部分が、 真っ白くて分厚い巨大な台風状の雲で覆われている。 ﹁坊さん、あの雲の下では、この瞬間も膨大な数の人間が死んでい 91 るのだな﹂ ﹁ええ、技師さん。そう言えば、あなた方ドワーフの世界も工業社 会ですよね﹂ ナンが訊ねると、ドワーフが大笑いを始めた。 ﹁こいつら人間と一緒にするなよ。素材は違うが、宇宙交易路は何 本もあるし、月にも届いている。火星にもあるし、今は土星衛星に も建設中だ。素材も、これより強いし自己修復機能もある﹂ そう、ひとしきり自慢してから、大きな目を輝かせてナンを見た。 ﹁宇宙開発は面白いぞ、坊さん﹂ ﹁はあ﹂ ナンの方は、あまり宇宙には関心がないようで、適当な相づちを 打つ。ドワーフ技師は、なおも自慢げに話を続けている。 ﹁エルフや魔法使いどもは、魔法に凝り固まっておるからな。地球 から出ようとは考えないだろ。この地球が不変だと信じている。元 世界が今こうなっているのを見てもな﹂ そして、急にまじめな顔になった。 ﹁坊さんよ。この人間社会も、いい線まで来ていたが、残念だった な﹂ ナンは、せっせと作業を続けているロボット達の邪魔にならない ように、位置を変えながら答えた。 ﹁今回は、トカゲの尻尾切りをして、エレベータの被害を最小限に 留めて、嵐が過ぎたら復旧するつもりでしょう﹂ ﹁しかし、この嵐が過ぎると、世界は氷に覆われていくはずだ。復 興する力があればいいが﹂ ドワーフの言葉には、ナンの考えにかなりの疑問があることが伺 える。技師なので、工業的な復興には、膨大な努力が必要だと思っ ているようだ。そしてそれは真実でもある。魔法と違って、呪文を 唱えればいいというモノではない。 ナンも、一応そのことは理解しているようで、静かにうなずいて、 92 軌道エレベータを眺めた。 ﹁しかし、そうしなければ、この社会は消滅するでしょう。最後の 望みの象徴ですよ、これは﹂ ﹁なるほど。最後の綱という訳か、文字通り﹂ そう言ってドワーフ技師もうなずいた。 エレベータケーブルの連結が爆発と共に切れた。相当強力な爆薬 を使っているのだろう、視界が何度も真っ白になる。空気がないの で、爆発音は一切聞こえないが、ナンやドワーフ技師の周辺が少し 輝いた。相当急いでいるのか、ロボットの収納もそこそこのようだ。 いくつかのロボットが爆発に巻き込まれて宇宙空間へ弾き飛ばされ ていった。 ドワーフ技師が腕組みをしてうなった。 ﹁ううむ。核分裂を使った爆弾か。まあ、この強度のケーブルを一 斉に切るには、手頃ではあるな﹂ ﹁尻尾を切りましたね﹂ ナンがつぶやく。きれいに切断された面を見せながら、自由落下 の加速度をつけて巨大なエレベータケーブルが落下していく。たち まち空気を押しつぶすことで発生する断熱圧縮による熱で、地球に 近い側のケーブルが赤く光り始めた。その、長さ35,000キロ 弱の巨大なエレベータケーブルが、インド洋に向けて明るく燃えな がら落下していくのを見ながら、ドワーフ技師が腕組みをした。 ﹁まあ、質量が大してないとはいえ、でかいからな。下の島国への 被害は相当なものになるな。エレベータケーブル自体は比重が軽い し海に浮かぶだろうから、船の航路にも大きな支障がでるだろうな。 ま、ステーションは無事に残ったから、その見返りはあるだろうが な。さて、仕事だ。浮遊している素材を採集するかね﹂ そう言って、ドワーフ技師が宇宙空間に散らばっているエレベー タケーブルや作業ロボットの破片を収拾し始めた。それを見送るナ ンがかろうじて聞こえるような声でつぶやいた。 93 ﹁見返り、か﹂ 94 ニューヨーク1 氷の暴風が続くニューヨークは、廃墟と化していた。摩天楼と呼 ばれるような高層建物の窓ガラスは強化ガラスであったが、カテゴ リー3か4はありそうなハリケーン並みの暴風の中で砲弾のような 大きさの雹の雨や、看板などの飛翔物の衝突にさらされたために全 体の4割ほどが割れていた。それよりも強度が低い古い建物は天井 が押し潰されてかなり崩れ、中に雪が溜まっている。その廃墟とな った街を、厚さ30mもの雪が覆っていた。なおも続く暴雪暴風で、 その雪の重みに耐えられず崩壊する高層アパートがまた1つ、闇の 中で轟音を響かせた。あまりにも分厚い雲のせいで、夜でもないの に真っ暗である。 ほぼ止まったとはいえ、暖かい海流が沖合いを北に流れているの で、大量の水蒸気が陸側に押し寄せて、それがそのまま雪に変わっ ていく。上空にはいくつもの積乱雲が互いに結合して、スーパーセ ルとも形容される巨大な前線を形成していた。湿気を大量に含んだ 雪は重く、雪の結晶も肉眼で楽に見えるほど巨大である。それが絶 え間なく吹く横殴りの風に乗ってニューヨークの街に降り積もって いた。既に、電気やガスなどのインフラは崩壊しており、どこにも 明かりは見られず、闇に閉ざされた廃墟には人影も見られない。大 量の雪が降り続けているので、視界も極端に悪く、闇の中で暴風の 轟音が建物を震わせていた。 その中を1人、ナンがサンダル履きのシャツ姿で雪の上を歩いて いた。わずかに浮遊しているのだろう、足跡が雪の上に残らない。 大量に降り注ぐ雪も、ナンの障壁に弾かれて、まるで白い傘をさし ているように見える。そのナンが上空を見上げた。 ﹁もう冬になる。雪は氷に変わっていくだろう﹂ 95 実際、30mも積もった雪は、その自重で押しつぶされて、地面 に近い方から次第に固い氷に変化していた。 同様の事態は、ここニューヨークだけでなくカナダを含むアメリ カ東部全体に及んでいた。暖かいフロリダ半島ですら北部は例外で はなくなり、広大なオレンジ園が雪に埋もれていた。 崩壊して雪に埋もれた建物の瓦礫の向こうに、よろよろと逃げ惑 うボロボロの人々の姿が見えた。飢餓と凍傷で服からのぞくやせ細 った手足が黒くなっている。 ﹁ほう、まだ残っていたのか﹂ ナンが、哀しげな顔でつぶやいた。一行は何とか南へ向かおうと しているようだ。しかし、30mに達する雪の上では、カンジキや スキー、ソリを使っても沈み込むために、なかなか進めないようで ある。気温は零下10度にはなっているだろう、ナンには葬送行進 のようにも見えた。その行進が大雪と闇の中に消えるのを見送って から、ポケットに突っ込んでいたラジオを持って空に掲げた。電源 ランプが光り、キュイーンと音がして放送局を探すが、雑音だけし か聞こえない。 ﹁ここより北の街は全て沈黙したか。ここもそろそろだな﹂ その時、ラジオからクー博士の声が飛び込んできた。 ﹁ナン、聞こえるかね。また困った連中が来たよ﹂ ナンが、がっくりしたような顔をして、西の方角を眺めた。 ﹁やれやれ、今度は巨人かね﹂ 96 ベルリン ドイツのベルリン市街もニューヨークと同様に雪に埋もれていた が、ここは、少々異様な風景になっていた。積もった雪の重さで崩 壊寸前の建物よりも高い人型の者が数十名も暗闇の中で動いている。 身長は50m以上あるだろうか。それぞれの巨人は、これまた長大 な剣や斧を振り回して、崩壊しつつある建物を無造作に破壊してい る。時折、巨大な炎や雷撃、光線が剣や斧からほとばしって、壊し た建物をさらに粉砕している。どうやら、整地作業をしているよう だ。 その巨人の足元には、背丈10mの一つ目巨人や三つ目巨人の大 集団、さらに背丈5mのトロル、2.5mのオーガの大群が蠢いて いた。総勢60万はいるだろうか。皆、重装備である。ただ、人間 の軍隊の兵装とは根本的に異なっている。普通なら、極力肌を見せ ない兵装で、通信機器などの電子支援機器を装着し、作戦行動を支 援する人工骨格や動力サポートシステムなどを装着するものだが、 彼ら巨人たちの兵装は、見栄え最優先の印象である。優美な装飾が 施された鎧のような兵装を筋骨隆々とした体に直接装着している。 見た目は何となくインドの叙事詩で登場する英雄たちのような姿で ある。 彼らに、軍団長らしき身長50mの巨人が命令を下していた。見 た目は重装備で重そうに見えるが、軍隊はわずかに浮いて俊敏に動 いており、雪原に足跡を残していないところを見ると、何らかの魔 法を帯びていて実際は重くないのかもしれない。 それを空中から見下ろすナンとクー博士。2人ともあきれたよう な顔をしている。クー博士が、かなり馬鹿にしたような顔で、巨人 の軍団長に話しかけた。 97 ﹁やれやれ、仰々しいな。君たちは体が丈夫だから、そんな装備は 不要だろう。流行の装束なのかい?で、何をしに来たのかね﹂ 巨人の軍団長が、上空のちっぽけな2つの人の姿を認めて、これ また馬鹿にしたような顔で答えた。 ﹁ふん、他の平行世界を支配するには、この元世界を手に入れる必 要がある。全ての平行世界は、この元世界にアンカーをかけておる からな﹂ あきれるナン。気抜けしたのか、1m程度落下した。クー博士も やれやれ、と1m程度降下する。変なところで律儀である。 クー博士が降下し終わってから、やや面倒な面持ちで巨人に告げ た。 ﹁熱血だな。君たちの世界は広大だろうに﹂ それを聞いて、軍団長が笑った。ものすごい音量だ。これだけで も十分に兵器になる。実際、彼の近くに建っていた雪が積もったア パートが笑い声で粉砕されて消滅してしまった。 ﹁がはは、全ての世界の全ての種族と富は我らのものとなるのだ﹂ それを聞くや否や、クー博士が毒づくと、いきなり直径1キロの 巨大な魔方陣が空中に出現した。そのまま、無造作な口調でクー博 士が発動キーを告げてロックを解除した。 ﹁太陽フレア開放﹂ プラズマを伴った太陽フレアが魔方陣から放出される。大地が瞬 時に溶けて溶岩大地と化し、分厚く垂れ込めた暴雪雲も吹き飛ばさ れて、いきなり太陽が上空に現れた。しかし、太陽にまぶしく照ら された巨人軍団は空中に浮いて無傷のようだ。強力な障壁を展開し ているのだろう。クー博士が、首をひねった。 ﹁うむ、6000度の太陽フレアなんだがな﹂ ナンが横で微笑んだ。因果律が崩壊して空間から大量の火花が沸 きあがっているのを瞬時に消し去る。 ﹁300万年前の古典魔法だな。よく知ってたね。しかも呪文無詠 98 唱か、やるね﹂ 浮遊する巨人軍団の足元に魔方陣が出現して、溶岩大地を瞬間冷 却した。そのままの勢いで巨人達の軍勢が上空から着地した。大軍 団の一斉着地で轟音が響き渡る。おかげで1キロ以内の建物は全て 崩壊してしまった。太陽もたちまち雲に隠されてしまい、暗くなっ てしまった。軍団長が、また兵器級の笑い声を出す。さすがにもう 粉砕されるべき建物は残っていないので、代わりに冷却されたばか りの溶岩大地が大きくえぐられて、そのまま粉砕され大量の粉塵に なって巻き上がった。 ﹁がはは、我らに魔法は通用しない﹂ クー博士が感心したような声をあげた。 ﹁魔法兵器も300万年も経つと賢くなるものだな。その割には、 他の小さい連中は進化していないようだが。餌は足りているのかい ?﹂ 軍団長は、笑ったままで、クー博士の突っ込みを無視した。 ﹁がはは、無力を噛みしめながら見ているがいい。ゲート開設。ま ずはお前ら魔法使いの世界を蹂躙してくれるわ﹂ 空中に巨大な魔方陣がいくつも出現して、その魔方陣のサイズそ のままに高さ幅ともに200mに達するかというような両開きの門 が現れた。やはり過剰なまでに華美な装飾が施されている。これが ゲートなのだろう。同時に、数十万ものオーガやトロル兵の放つ魔 法銃の集中砲火が始まり、ナン達を襲った。雷、光線、火炎と様々 な攻撃魔法だ。いずれもさすがに兵器だけあって強力で、目標追尾 機能も備わっているのか、全弾が2人の張った障壁に直撃した。た まらず、クー博士の障壁があっという間に崩壊してしまった。慌て て坊主の障壁に逃げ込む。一方のナンの障壁は、びくともしていな い。さすがはリッチーと言うべきか。それでも、ナンが障壁の状態 を確認しながら感心した様子で、逃げ込んできたクー博士に告げた。 99 ﹁ほう、この魔法兵器は300万年前のバージョンではないね。進 化版でなかなかの威力だよ。クー博士よりも彼らのほうが、しっか り研究をしているようだね﹂ クー博士が苦笑する。 ﹁そうだな。我々の世界の軍隊にも忠告しておくよ﹂ そうこうする内に、ゲート前に巨人軍団が整列した。よく訓練さ れているようで、60万もの軍隊が滞りなくキビキビと動いている。 その先頭で巨人の軍団長がかっこよくキメポーズをして、ゲートを 指差した。 ﹁さあ猛者ども、進攻開始だ﹂ 60万もの軍勢の雄叫びが、一斉に上がった。これまた十分に兵 器になっている。空気が激しく振動して、心なしか豪雪も吹き飛ば されたようだ。やがて、ゲートが開き始めた。 ﹁クー博士、ここまででいいかい?﹂ ナンが、横であきれた顔をしているクー博士に訊ねた。クー博士 も、コホンと咳払いをする。 ﹁そうだな、ナン。情報は得られた。術式を開放してくれ﹂ ﹁うむ﹂ ナンがうなずくと、空間が歪んで、ゲートの上空に穴が開き始め た。大量の火花が発生して、まるで花火大会のようだ。そんな美し い風景に、驚愕の表情をする巨人の軍団長。 ﹁な、なにをした。魔法使いども﹂ ナンが苦笑した。 ﹁一夜漬けの魔法勉強では、いけませんよ。さようなら﹂ 軍団長が目を丸くして、ナンの姿を確認した。 ﹁き、貴様、リッチーか。いや、しかし、ば、ばかな。魔法は我ら の方が上。低級ローエンシャント程度の魔法しか使えぬリッチーご ときが、なぜだ﹂ 100 ナンの苦笑が哀れみを帯びてきた。 ﹁ええ。でもこの世界は魔法禁止なんですよ。私たちや君たちが使 った魔法が全てそのままカウンターで返ってくる世界なんです。3 00万年前とは違うんですよ﹂ 巨人たちは、何か叫ぼうとしたようだったが、次の瞬間、大地ご とごっそり消滅してしまった。ゲートも消滅する。ベルリンの街自 体も巻き込まれて消滅してしまった。ごっそりと半球状に削られた 地面だけしか見えない。冷却されていた溶岩も削られて消滅してい た。それらを見届けてから、クー博士がため息をついて、ナンの障 壁から外に出た。 ﹁巨人は、やはりどこかが抜けているな﹂ ナンもうなずいた。でも、クー博士のため息の理由がそれという のも彼らしいか。 ﹁ああ。半分自滅だね。凍っていた人間も数十万人程度が巨人の大 笑いで塵になって、巨人たちと一緒に飛ばされてしまったけれど﹂ しかし、クー博士は、ナンのセリフには関心が無いようで、さっ さと転移魔法を発動させた。魔法場が今もかなりの濃度で残ってい るので、術式の完成も早い。ちなみに、魔法場そのものは因果律に は影響を及ぼさない。魔法や魔術妖術に変換された際に問題になる のである。例えれば、薪のままであれば良いが、火がついて燃え出 すと煙や熱を発して問題になるのと似ている。 ﹁ご苦労様、ナン。ではまた。早く終わったから論文の校正に専念 できるよ﹂ そう言い残して、消えるクー博士。確かに、こう雑用が多いと、 本業の研究の時間が足りないのだろう。 1人残されたナンが、みるみる内に雪に覆われていく地表を見下 ろしている。氷の暴風は相変わらずである。 ﹁これくらいのクレーターならば、氷床の侵食作用で、200年く 101 らいで削られて消えるかな﹂ 102 中米コスタリカ ゲートが開いて、先日のエルフが学生を16名連れてやってきた。 やはり亜熱帯の住人なので、軽装である。素材は全てが自然由来の ものであるのは変わらないが、それらは精霊魔法を帯びていて素材 の特色を強化している。今回はシベリアではなくて熱帯なので、半 そでシャツに素朴なスラックスや巻きスカート、足元はサンダルの 服装であった。しかし、全員見事に金髪である。瞳の色は様々であ るが。その彼らをナンが出迎える。シベリア調査の時のエルフが礼 を述べた。 ﹁お坊様、無理を聞いて下さり、ありがとうございます﹂ ナンが微笑む。 ﹁いや、私は構わないよ、司書さん。それよりも、よく来たね。ア ンデッドなぞ見たくもないだろうに﹂ 確かに、エルフ司書の後ろにいる、学生エルフ達は不機嫌そうな 顔をしている。互いに ﹁アンデッドって初めて見たよ﹂ ﹁わたしも﹂ とか、何とかささやき合っている。司書が、キッと目で学生たち をたしなめ、ナンにまた謝った。しかし、ナンの方は、全く気にし ていないようだ。微笑んだままで、森の中へ歩み出した。 ﹁では、案内しよう。エルフの諸君﹂ ここは中米コスタリカの熱帯林。しかし、空は立ち込めた煙で暗 くなり、乾燥した強風が延々と吹いている。ナンとエルフ達は森の 中を進んでいるが、本来ならジメジメしてキノコやコケだらけの熱 帯湿潤森林は乾ききって、あちこちで泥炭層が燃えてくすぶってい る。地面も乾燥しきって亀裂が入りカチカチである。その様子に、 103 学生は衝撃を受けている様子だ。司書が歩きながら話し始めた。 ﹁皆さん、この世界は環境の状態変化を予測できなかった人間によ る管理の失敗が原因で、氷河期に移行しつつあります。温暖な気候 が寒冷化するとどうなるか、よく見てみましょう﹂ そう言って、司書が大木を触る。かなり巨大で、胸高直径は数m ほどあるだろうか。周辺にも同じような大木が多くそびえ立ってい る。だが、どれも樹皮はカサカサに乾いており、弾力を全く失って いた。樹皮が縮んで割れて、中の材の部分が露出している場所も多 いし、樹液も染み出てきていない。そういえば、ひらひらと舞い降 りてくる木の葉は緑色のままのものが多い。黄色などに退色する間 もなく木の枝から切り離されたようだ。 ﹁ほら、木の中の水分がほとんどなくなっているでしょう。地面も 同様ですね﹂ 学生達も触って驚いている。 ﹁雨が降らなくなっただけでは、ここまで乾燥しません。空気が乾 燥してしまって、水分が抜き取られたのです。その具体的な経緯は、 予習用に渡した資料で説明していますから、後で確認して下さいね﹂ そう言った司書の上空の空が、ますます黒くなって、森の奥から 強風が吹き始めた。枯葉や土ぼこりが大量に舞い上がる。熱く乾燥 した風だ。その熱い風にさらりとした金髪を揺らして、空中にディ スプレーを出現させ、司書が話を続ける。そこには中米の現地の地 形図が表示されていて、気圧図も高度別レイヤーに上書きされて、 それがリアルタイムで動いている。司書が話を続けた。 ﹁ここまで木々が乾燥すると、燃えやすくなります。私たちの世界 と違い、ここは細い陸橋で、南北に大陸があります。北大陸は嵐で 氷雪に埋まりつつあり、南大陸は沙漠化というのは、前の授業でや りましたね。この陸橋は熱帯にあるので、凍結はしませんが、乾燥 と強風のせいで森を維持できなくなっています﹂ 104 黒煙と強風が強くなってくる。森の奥から、大量の甲虫や羽虫の 群れが逃げ出して飛んできた。エルフには虫嫌いはいないようで、 悲鳴をあげる者はいない。学生達は昆虫の意識も理解できるようで、 そのパニック状態を読み取って、ようやくエルフ学生達の間に不安 が広がった。司書が彼らの表情の変化を確認して、話を続ける。 ﹁こういう状態で森林火災が起きるとどうなるか、実際に見てみま しょう。障壁を展開します﹂ 司書が簡易杖を服のポケットから取り出して、呪文を詠唱すると、 エルフ達全員を透明の障壁が包み込んだ。 その障壁越しに見ると、森の奥が赤く光りだし、それが急速に強 く大きくなってくるのが分かる。学生達の緊張が膨らんでいくのも 良く分かる。司書も、森の奥を眺めて杖の状態を確認し、話を続け た。 ﹁来ました。強めの障壁なので、耳鳴りがするかもしれませんが、 短時間ですので影響はありませんよ﹂ そう司書が告げると間もなく、轟音と共に森の奥から無数の太い 火炎流が噴き出た。まるで巨大な火炎放射のようで、瞬時にエルフ 達を包む障壁が炎に飲み込まれた。周辺の森も瞬く間に炎に飲み込 まれ、炎の暴風が吹き荒れる。さすがに悲鳴が学生から上がった。 エルフは炎系の精霊魔法は苦手としているので、これは怖い。しか し、司書は落ち着いた表情のままで、一瞬ナンをちらりと見てから 話を続けた。 ﹁瞬間最高温度は1000度以上あります。安易な障壁では防ぐこ とはできません﹂ ナンが微笑んでうなずいた。 ﹁うむ、適切な強度の障壁だね﹂ 司書がいたずらっぽく笑って、礼を述べた。意外とやんちゃな性 格なのかもしれない。 ﹁ありがとうございます。ちょっとヤケドさせても良かったのです 105 けどね﹂ 炭化した枝が障壁に大量にぶつかるそばで、炎の竜巻があちこち に走る。炎熱地獄とでも形容できそうだ。緊張していた学生達も、 障壁が完全に炎と熱風を防いでくれているのが分かると、すぐに好 奇心丸出しの表情になって熱心に観察し始めた。確かに、エルフ世 界ではこれほどの森林火災はなかなか見られない。その豹変ぶりを、 少々苦笑しながら司書が見ている。 ﹁皆さん、森を乾燥させないようにしましょうね﹂ ﹁はーい先生﹂ もう、元気な声になっている。なおも熱心に炎を観察する学生達 の横で、司書がナンに小声でささやいた。 ﹁森を管理する魔法がたくさんあるのです。でも、私達の世界は安 定した気候ですので、使う機会はあまりなくて、人気のない魔法な んですよ﹂ ナンがうなずいた。 ﹁なるほど、啓発授業ですか、司書さんも大変だ﹂ そう言って、ナンと司書が笑みを交わす。何も知らない人が見る と、これはこれで驚きの光景ではある。エルフとリッチーという、 両極端の魔法特性を持った種族なのだから。 1時間半もすると、炎の暴風が収まり、視界が開けてきた。強風 が相変わらず強いせいで、森の燃焼も速やかに終わり、黒い煙も吹 き飛ばされてしまった。そこに広がるのは、一面の焼け野原と燃え 続ける高木。学生達が、このわずかな時間の景色の変化に驚いてい る。 司書が障壁を解除した。熱はさすがにまだ残っているが、空中に 浮遊している彼らにとっては、大した障害にはなっていないようだ。 それよりも、まだ立ちこめる煙と灰の方がやっかいなようで、盛ん に咳き込んでいる。 106 ﹁火は炭火となって、今後何週間もくすぶり続けます。この短い間 に、多くの動物や植物が命を落としました。森を管理する意義が分 かりましたか﹂ ﹁はーい先生﹂ 元気な声で答える学生達。でも煙と灰ですぐに咳き込む。司書が ナンににっこり微笑んで礼を述べた。 ﹁お坊様ありがとうございました。いい授業になりました﹂ ナンも微笑んでうなずいた。 ﹁よい先生振りだったよ、司書さん﹂ そして、そのまま顔を学生達に向けた。 ﹁こういった現象は、あまり起きないから、いい経験になっただろ う?﹂ 学生達が、咳き込みながらもうなずく。ナンが微笑んで、司書の 方に振り返った。 ﹁で、どうするかね?風下の街を見てみるかね﹂ 司書は、しばらく考えていたが、首を振った。 ﹁いえ、あれは悪夢のような光景ですから、学生には見せられませ ん﹂ ナンも、うなずいて同意した。 ﹁うむ、そうだな。授業には向かないな。アンデッドは大喜びする だろうがね﹂ ﹁もう、お坊様ったら﹂ 学生が、首をかしげて司書とナンに訊ねると、ナンが説明した。 ﹁南北の大陸から逃げてきた2億の人間が、この狭い陸橋に集まっ た。しかし、彼らを待っていたのは飢餓と疫病とこの火災だったん だ﹂ 絶句する学生達に、ナンが話を淡々と続ける。 ﹁例えば、この風下の街では、生存率は100人当たり2、3人だ った﹂ ﹁ね、授業向けではないでしょう?﹂ 107 司書が、学生達にそう諭すと、学生達も息を飲み込んでうなずい た。ナンも、その初々しい反応を微笑んで眺めていたが、時間がき たようだ。 ﹁さて、今回の課外授業はここまでにしよう。良いレポートは出来 そうかい?﹂ 108 ニューヨーク2 ニューヨークは、50mを超える雪に埋まっていた。雪はなおも 大量に降り注いでいるので、今後は完全に雪の下に埋没するだろう。 その雪の下のデパートの倉庫にナンがいて、棚を物色して回ってい た。もはや非常灯も切れて、室内は真っ暗である。50m以上の厚 さの雪の重さでデパート自体がミシミシと音を立てている。崩壊も 時間の問題だろう。やがてナンが、商品棚に残っていた紅茶のパッ クを1つ手に取って、ため息をついた。 ﹁茶も気軽に飲めなくなるなぁ。この2000年余り楽しめたのだ けど﹂ ﹁お、万引きかね?ナン﹂ 不意にクー博士が姿を現して、ナンを冷やかした。ナンも彼が現 れることは予測済みだったようで、苦笑して博士の方を振り返った。 ﹁支払いたいのは山々なんだけどね。で、なんだいクー博士﹂ ﹁遭難事故だよ﹂ そう言って、クー博士が肩をすくめた。また雑用を任されたよう だ。 崩壊寸前の高層マンションの最上階の部屋は、破壊された窓から 暴風雪が吹き込んでいるが、雪に埋まっていない分だけ、空気が新 鮮だった。しかし、窓のすぐ下まで雪が積もっているので、ここも 時間の問題で雪に埋もれるだろう。その荒れ果てた部屋に無造作に 座って、茶をすするナン。クー博士が、ポケットからクシャクシャ に丸まっていた紙切れを取り出して読み上げる。 ﹁セマンの冒険家と、ドワーフの暴走族、ウィザード魔法使い数名、 バンパイアもいるらしい。救助要請が来ているよ﹂ ﹁ずいぶん非正規ゲートが増えたものだな。私は動かないよ﹂ 109 ナンは、そう言って外を向いたままで茶をすすっている。 クー博士がグシャグシャの髪をポリポリかく。 ﹁ナン、正規の転移ゲートを使っていない連中だから気持ちは分か るが、頼むよ。ほっておくと、連中のお仲間が救助隊を組織して、 この世界へやってくるぞ。今度は正規のゲートを使って﹂ そう言って、ほら、と空中に大きなディスプレーを出現させてナ ンに見せた。6分割された画面状には、それぞれの世界が映し出さ れていて、確かに大勢の群衆がわーわー騒いでいるのが見える。ナ ンがそれを一目見て、ため息をついた。 ﹁クー博士、この雪の下にはね、2億の人間が凍っているんだよ。 その50m上で遊んで遭難した連中を助ける気にはならないなぁ﹂ クー博士が、うなずいた。 ﹁うむ、ま、君らしい答えだな。しかし、遭難した連中がもし人間 と接触したら面倒だぞ。捜索隊も間違いなく探索呪文を乱発してく るだろうし。この魔法禁止世界でね﹂ ナンの顔が曇った。キッチンに転がっているフォークを1本浮か せて呼び寄せる。 ﹁むう。いっそ滅ぼしていいかね?今﹂ クー博士が苦笑して、さらにグシャグシャ髪をかいた。赤い瞳の 目が細くなる。 ﹁となると、私は君を捕まえるように、遭難者の出身世界の警察に 通報しないといけなくなるなぁ。研究者にこれ以上雑用させないで くれ﹂ ナンが、それを聞いて肩をすくめた。浮いていたフォークも元に 戻される。そして、窓の外を眺めた。 ﹁やれやれ、分かったよ。目標補足。召喚﹂ たちまち遭難者が全員現れる。皆、息も絶え絶えの状態で凍結し ている部屋の床に倒れ伏している。凍死寸前といったところか。彼 らを見下ろして、ナンが残念そうな顔でつぶやいた。 ﹁なんだ、まだ息をしていたか﹂ 110 クー博士が苦笑する。 ﹁死んでいたらどうする気だったんだい﹂ ﹁そりゃもう、死者の世界へまとめて転送するだけだよ。蘇生なん て面倒だし﹂ そう言ってのけるナン。冗談ではなさそうだ。クー博士も、また 頭をかいて同意した。 ﹁だろうな。だったら簡単だった﹂ 床に伏していた美女が顔を上げ、それを聞いて慌てる。 ﹁ま、まて、送り返すな﹂ しかし、あまりにも衰弱していたので声になったのかどうか。他 の者たちは声すら上げることができないようだ。 雪が吹き溜まっている部屋の床に倒れてうめいている連中を、ウ ィザード魔法で診断していたクー博士がため息をついて、ナンに頼 んだ。 ﹁まあ、生命には問題ないな。とりあえず凍傷を治してやってくれ。 セマンやドワーフは、この手の治癒魔法を知らない﹂ 診断できたくらいだから、治療もできると思えるのだが、そこは 大人の事情があるのだろう。 ナンもため息をついて、一瞥した。 ﹁これくらい勉強してから来るものだ﹂ それだけで黒くなっていた凍傷部分がめきめきと音を立てて治っ ていく。その代わり、かなり痛いようで全員、うめき声を上げての た打ち回っている。 クー博士が苦笑して、その苦悶の様を観察していたが、ナンに顔 を向けて突っ込みを入れた。 ﹁強引な組織再生魔法だな。それは痛みを感じない低級アンデッド の傷修復に使うやつだろ。グールとかゾンビとか﹂ ナンは、どうでもいいという顔。 ﹁いい薬になる。さて、送り返すぞ﹂ 111 ドワーフの連中が、ようやく痛みから解放された途端に、ナンに つっかかってきた。やはり、かなり血の気が多いようだ。確か暴走 族とかクー博士が言っていたようだが、バイクや車のような乗り物 は周辺に見当たらない。多分、ナンがドワーフだけを呼び寄せたの だろう。しかし、着用している派手な色のスーツは、確かにレーシ ング用とも見える。 ﹁この坊主、痛えじゃねえかよ﹂ ﹁さっさと帰れ﹂ ナンが、でこピンの仕草をする。それだけでドワーフ達が消えて しまった。それを見て他の者が、全員驚愕する。次いでセマンを見 るナン。彼の服装はクー博士と同じ系統で、これは冒険家と言われ ても納得できる。くしゃくしゃの髪の毛まで同じ系統だ。だが、リ ュックサックなどの荷物が1つも見当たらない。これもやはりナン のせいだろう。かなり手を抜いた召還をしたようだ。 セマンが、血相を変えて喚き出す。 ﹁ま、待て。坊主、どこに転送する気じゃ﹂ ﹁君の世界のどこかだよ﹂ ナンは、ますます面倒くさそうな表情になっている。 ﹁なっ、わしを誰だと思って。。﹂ セマンが、さらに喚くが、ナンは、 ﹁あとは向こうで探してもらいなさい﹂ びし!と、でこピンの仕草一発。何か叫んだが、あっという間に 消えるセマン。クー博士が楽しそうに笑う。 ﹁はは、これはこれで、後がやっかいだな。面白いが﹂ 救助された魔法使い達は、慌てて身だしなみを整えて杖をナンに 向けて、転移呪文を唱え出した。 ﹁わ、私達は自力で帰ります﹂ そう言ったが、呪文詠唱と術式展開に手間取っている。ナンが管 理している、この世界の正規の空間転移ゲート自体は既にナンがロ ックを解除していたので、この魔法使いたちも使用できる状態では 112 ある。しかし、ウィザード魔法にステップダウンされたとはいえ、 この転移魔法自体が元々高度なローエンシャントの魔法なので難航 している様子である。結局5秒後、ナンが面倒くさそうな顔をさら に深めて、無言で、でこピンを一発かました。悲鳴を上げて抗議す る魔法使い達だったが、その悲鳴さえ途中までしか発することがで きず、あっという間に消えてしまった。 ﹁ま、待て、坊主。。﹂ 残ったのは美女一人。かなり狼狽している様子だ。先ほどクー博 士が言っていた、バンパイアなのだろう。肌の色が異様に白い。黒 髪はややきつめにウェーブがかかっていて、優雅に背中の肩甲骨の 辺りまでふわっと覆っている。灰白色の瞳でつり目だが、はっきり と自己主張していて、彫りの深い顔立ちである。見た目は20代前 半といったところか。一方、服装はこういっては何だが、家政婦や 下女働きをしている者の作業着に近い。しかも、膝や肘のあたり、 肩のまわりを中心に擦り切れと生地の変色が見られ、全体に生地の 黄ばみも伺える。靴も一応は革であるが、水仕事で濡れてふやけた のか型が崩れてしまっており、表面のワックスもかなり剥げ落ちて いる。それでも、生まれ持った気高さはいささかも損なわれてはい ないようだ。 ナンは、穏やかな表情に戻っていた。でこピンの仕草もやめる。 ﹁読心したよ。戻ったら滅ぼされるか、呪いで隷属にされるようだ ね﹂ クー博士も、にこやかな顔で美女に話しかけた。 ﹁真祖階級にしては精神障壁が甘いよ。そんなに新しい王様は嫌い かい?元お姫様﹂ 美女は、危機がとりあえず過ぎ去ったので安心したのか、腰が抜 けてしまったのか、床にへたり込んでしまった。 ﹁母も兄も奴の召使にされ、配下も裏切った。坊主、お前のせいだ﹂ そう言ってナンを睨む。が、肩を落とす。 113 ﹁く、効かぬか。化物め﹂ クー博士が、にやにやしてアドバイスした。 ﹁咬みついて魔法をかければどうかな?しかし面白いな、仇だと、 ナン先生﹂ ナンが首をかしげた。 ﹁ふむ、障壁を全て消せば良いかね?﹂ 美女が、上目遣いでナンを睨みながら、ナンの提案を却下した。 ﹁今さら、お前を滅ぼしても何も変わらぬし、そもそも私程度のバ ンパイアではお前に傷をつけることすらできまい。それに、父上は お前と正々堂々戦い敗れたのだ。恨みはない﹂ クー博士が苦笑する。 ﹁正々堂々ね。ま、そうだな。で、どうしたいんだい﹂ 美女が一瞬息を飲んで黙ってから、おずおずと口を開いた。 ﹁読心したのなら、わかっておろう。この世界に亡命したいのだ﹂ クー博士が大げさに驚く。 ﹁ほう。ここは魔法禁止の世界だぞ﹂ 美女が、クー博士を睨みつけるが、魔力を込めたそれは簡単に博 士の障壁に弾かれてしまった。弾かれた先の床が青く炎を上げて数 秒間だけ燃えて消えた。 ﹁分かっている。真祖の力は使わない﹂ たった今使用したはずだが、ナンはこのやり取りを見て微笑んだ。 ﹁分かったよ。この世界での約束は2つだ。因果律に関わる魔法は 使わないこと、そして、この世界の歴史に関わらないこと。いいか ね﹂ クー博士が補足する。 ﹁時間と空間の制約だ。我々はこの世界の住人ではないからね﹂ 美女がうなずいた。それを確認して、ナンが目を細めた。 ﹁では、君の呼び名を決めようか﹂ クー博士が、何か思いついたようだ。 ﹁南極にいたから、ポーラでどうだい﹂ 114 かなり適当な理由と発想だが、ナンも美女も異論は無いようであ る。ナンがちょっと考えて美女に提案した。 ﹁英語名か。古ギリシャ語か、原シュメール語、もしくはラテン語 でもよいが﹂ 美女は、力なく首を振った。 ﹁亡命者だからな。英語名で十分だ﹂ それを聞いて、ナンと博士の2人がうなずいた。クー博士が、ポ ーラになった美女に微笑んで話しかける。 ﹁では、その旨を死者の国のマズドマイニュ王に伝えよう。なに、 こいつが保護者だから何も言えないよ﹂ 息を飲んで、うなずくポーラ。ナンもそれを微笑んで見ていたが、 不意に部屋の中が明るくなった。嵐の雲のすきまから日が差したよ うだ。それを見上げてナンがつぶやいた。 ﹁嵐が終わりそうだな﹂ 115 ジャカルタ インドネシアの首都、ジャカルタ市街は、嵐の被害をそれほど深 刻に受けていなかったために、人々の表情も比較的明るい。一方で 新型インフルエンザ群は猛威を振るい、6人に1人が死亡するとい う状況になったのだが、生き残った人々は、逞しくも元の日々の生 活に戻っていた。既に免疫も獲得しているので、今後はそれほど深 刻な流行にはならないだろう。 そんな人々で賑わう通りにある、オープンパーラーのインド人店 主が、客の注文に応じて、せっせと生サトウキビを、ハンドル式の 手動絞り器にかけてジュースを搾り出して、ガラスの小ジョッキに 注いでいる。結構サトウキビの繊維が混じっているが、まあ問題な いのだろう。別の客はヤシの実を注文し、店主が山刀で器用にヤシ の実をカットして、細い竹で作ったストローをさして渡している。 黒カビのせいで、野菜や米、ジャガイモに小麦、家畜の餌となる コーンなどは、この世界から姿を完全に消していたが、このサトウ キビを始め、ヤシの実や里芋の類は、その猛威から逃れていた。バ ナナはダメだったが。おかげで熱帯地方はそれほど深刻な飢餓には 陥らずに済んでいた。 通りには車の姿はなく、その代わりに大勢の人と牛車、人力車が 所狭しと行きかい、埃が強風で舞い上がっている。その道端のパー ラーにナンと姉妹女王の姿があった。パイナップルジュースを飲ん でナッツをつまんでいる。障壁が展開されているので、強風や埃の 影響はないようだ。くだんの大グモ氏もちゃっかりそばに控えてい て、相変わらず難しそうな魔法書を読んでいる。姉妹女王は地元の 習慣に従って、服装も肌の露出はなく、長袖長ズボンで頭にフード もかけている。きちんと髪の毛はフードの中に全て収めているよう 116 だ。その気品と美しさは、相変わらず道行く人々の注目を一身に浴 びている。姉女王が、雲から顔をのぞかせた太陽の光を浴びながら、 感心した様子で通りの賑わいを眺めていると、目が合った通行人は 例外なく恥ずかしそうな素振りで逃げていく。 ﹁さすがに赤道直下の国ねぇ。活気があるわぁ﹂ ナンは、両手に持って火をつけた線香の香りをかいでいたが、女 王姉妹にうなずいた。 ﹁島だったのが幸いしましたね。隣の大陸つながりの国々は、大陸 からの難民で大変ですよ。ようやく山火事も収まりましたし、これ からは、この国がこの世界の中心の一つになるでしょうね﹂ ﹁そうねえ﹂ と、姉妹がそろって北西方向を眺める。 ﹁欧州も新世界も氷の下になってしまったのね。あーあ、ワイン∼﹂ ナンが線香の煙に包まれながら、姉妹と同じ方向を眺めた。よほ どこの線香が気に入ったらしい。 ﹁この国も、ほとんどの森林が消えて草原になってしまいます。米 や芋を使った、伝統的な食事はできなくなるでしょう﹂ ﹁何よりも、お酒が飲めなくなるのはつらいわ∼﹂ 姉妹にとっては、ワインの方が大事らしい。本当に盗掘に行くか もしれない顔つきだ。ナンが苦笑して、話を続けた。 ﹁南北の氷床は年々分厚く、広くなってきますから、次第に暮らし にくくなるでしょうね。前回は洪水でしたが、それでも石器時代ま で退行してしまいました。今回はどうでしょう﹂ しかし、姉妹女王にとっては、ナンの話は少々退屈だったようだ。 視線をナンの横に移す。 ﹁それはそうと、お坊さん、このバンパイアは何?﹂ ナンの隣で、びくっと怯えるポーラ。彼女も同様にフードをかぶ り、長袖長ズボンの姿だが、生まれ持った華やかさを隠すために意 図的に地味にまとめているのが分かる。こうして見ると、普通の目 つきが悪く、青白い顔のお嬢さんである。ナンが苦笑して答えた。 117 ﹁ご存知のくせに。亡命者ですよ、イプシロンの女王様。この世界 での名前はポーラ﹂ 瞬間に、ポーラの顔色が完全に青くなった。かけているイスがガ タガタと鳴る。普段は灰白色の瞳なのだが、混乱しているせいか、 時々赤い血のような色にも変化している。 ﹁い、イプシ。。!!は、初めまして。よ、よろしくお願いします﹂ その慌てぶりが、初々しい。ポーラも薄々は、姉妹達が只者では ないと察していたようだったが、超絶の存在と知らなかったようだ。 その動転ぶりに、姉妹も目を輝かせて面白がる。 ﹁かわいー。もう、睨んじゃおうかしらー﹂ 硬直するポーラ。もう微動だに許されないと覚悟したようだ。睨 まれたら、問答無用で石か塩にされてしまうだろう。もしかしたら、 いきなり強制消滅させられるかもしれない。まるで人形のようにな って、小刻みに震えながら硬直しているポーラに、ナンが助け舟を 出した。 ﹁あまりいじめないで下さいよ、女王様﹂ 姉妹が、クスクスと笑いあう。そして、睨むのではなく、優しい 目でポーラに訊ねた。 ﹁ねぇ、やっぱり血は趣味で吸っているの?ポーラちゃん﹂ ポーラが、ぜんまい仕掛けの人形のような動きで、口を開いて答 えた。 ﹁ア、イエ。果物に口をつケるだけでス。アトは、沐浴などデ補給 していまス﹂ ポーラの正直な答えに、姉妹が目を輝かせて聞いている。まるで 子猫や子犬を見るような。 ﹁そう、まぁ、しかたがないか。でも大変よぉ、ここは。がんばり なさいね﹂ ﹁ハ、ハい﹂ 何とか、会話をこなしたポーラだったが、イスのバランスが崩れ て、そのまま後ろへ転んでしまった。 118 ﹁あ、ここにいた。探しましたよー、お坊様﹂ 通りの中から、可愛い声がして、先日のエルフ司書とセマン教授 が揃ってパーラーの中に入ってきた。彼女達もスカーフを被って、 ずん胴の足先まである長袖ワンピースを着ている。ナンが、手招き して応えた。 ﹁やあ、どうしたのかね﹂ ﹁あの、また視察旅行の件で。。。きゃあ!!﹂ セマン教授が、地面に転がっているポーラを見て腰を抜かして驚 いた。エルフ司書も、ポーラを見るなり、悲鳴をあげてとっさにセ マン教授に抱きつく。 ﹁き、吸血鬼!!﹂ ナンが、笑ってポーラを抱き起こして、紹介した。 ﹁しかも、真祖階級だよ。デイウォーカーだ。太陽も克服している﹂ ﹁きゃあああ﹂ もう、完全に腰を抜かしたようだ。手足をパタパタさせている。 ポーラが、あ然としているのを横に見て、ナンが説明を続けた。 ﹁亡命者でね、私が保護者になった﹂ ﹁!!!﹂ もはや声も出せない様子である。これ以上、何か説明したら、気 絶してしまうかもしれない。ポーラが、慌ててエルフとセマンに声 をかけた。 ﹁し、心配するな。この世界で力を使うつもりはない﹂ しかし、このセリフも効果は見込めないようだ。姉妹女王がテー ブルの向こうで、肩を震わせて笑いをこらえている。特に妹女王が ひどい。ナンも苦笑していたが、司書と教授の手を取って、起き上 がらせた。 ﹁話は聞いているよ。いつでもおいで﹂ ﹁は、はい!お願いしますっ﹂ と、合掌して駆け去るエルフとセマン。それをポーラが、あ然と 119 した顔で見送る。 ﹁驚く相手が違うでしょう、お坊様﹂ ナンが微笑んで席に戻り、また線香の香りをかいだ。 ﹁魔力差があると、反対に気づかないものなのだよ﹂ ﹁そうなのよ。こっちは苦労するけど﹂ 姉妹女王も同意する。本当に苦労しているのか、かなり怪しいも のであるが。そこへ、今度はクー博士がやってきた。相変わらずの フィールド対応の服装だ。髪もクチャクチャである。洗髪している のだろうか? ﹁というか、そういった方は、普通、こんな屋台でくつろいでいま せんよ。こんにちは、イプシロンの女王様に、伝説のリッチー様。 ご機嫌麗しゅう。そのパイナップルジュースは有機栽培ですよ。有 機認証は受けていませんが﹂ ﹁やあ、どうしたんだい?クー博士﹂ ナンが、線香の煙から顔を上げて、博士に挨拶した。姉妹も優雅 に微笑む。ポーラも軽く会釈をしたが、その目つきの悪さのせいで 博士を睨んだようにしか見えない。まあ、博士も負けず劣らず無骨 なので、全く気にしていない様子である。 ﹁うむ、またドラゴンが去ることになった。見送りに行こう、ナン﹂ ナンが、渋い顔つきになった。 ﹁むう。巨人の時もそうだったが、君たちの世界の軍や諜報部は動 かないのかい?﹂ クー博士が肩をすぼめて赤い目を輝かせた。 ﹁すまないね。公文書に残るような活動はできないきまりなんだよ。 っていうか、特殊部隊を送り込んでもポーラの父上には歯が立たな かっただろう?それ以上に魔力の強い相手には出動するだけ無駄っ てなもんだよ。バイト料金は弾むから、頼むよ﹂ それを聞いてナンが肩を落としてうなずいた。 ﹁うむ、そうか。。。すいません、お代は支払っておきますので、 ごゆっくり﹂ 120 ﹁ご苦労様って伝えておいてね﹂ 姉妹が、ジュースを一口飲んで、ナンに微笑んだ。 ﹁はい﹂ クー博士もナンの横で、赤い瞳を少し輝かせた。 ﹁だな。貴女がたとドラゴンが同じ場所にいるだけで因果律が崩壊 しかねないからね。しかし、どこまで異世界を予知できるんですか﹂ 姉妹は、ただ微笑むばかり。 ﹁仕方ないじゃない。わかっちゃうんだから。さみしくなるけど、 ポーラちゃんがいるからいいわよ﹂ そう言って、姉妹がポーラに抱きつく。え、とも、ひ、とも聞こ える悲鳴を上げて、硬直するポーラ。 クー博士が、苦笑してうなずいた。 ﹁そうだな。真祖君は、ここに残りなさい。それが安全だ﹂ ﹁そうだな﹂ と、ナンも同意して、店主に代金を支払う。 ﹁君の障壁では、少し不安がある。女王様を観光案内して差し上げ なさい﹂ ポーラは、また青くなって口をぱくぱくさせている。早くも口が 利けなくなっているらしい。 それを見て、クー博士の苦笑が大きくなった。もはや、にやけて いるといってもいい。 ﹁確かに、誕生以来の危機って顔だな。では行こうか、ナン﹂ パッと消える二人。ポーラのすがるような視線は目標を失って、 虚空をさまよい始めた。 姉妹が、涙目のポーラに抱きついて、頬ずりしてくる。本当に子 猫か子犬のように扱われている。 ﹁じゃあ、どこに行こうかしら∼、きゃーん、かわいい∼﹂ がくっと気絶するポーラ。しかし、姉妹はお構いなしに猫かわい がりしている。 ﹁だめよ∼、気絶なんか許さないんだからー﹂ 121 瞬時に、覚醒するポーラ。もう、気絶すらも許されないようであ る。 122 北米の氷原 北米大陸は、一面の氷原と化していた。遠くに白銀の山脈が見え る。空は久しぶりの晴天だが、氷河期特有の厳しい北風が吹きすさ んでいた。氷原に薄く積もった霜の層が風で吹き飛ばされて地を這 う様子は、無数の白蛇がうごめいているようだ。霜の破片は空中に もある程度舞い上がり、それが太陽の光を受けてキラキラと不規則 な輝きを見せている。氷原の上には何もない。どこまでも地平線の 向こうまで平坦な氷原が続いていて、蜃気楼の上に白銀に輝く山脈 がぼんやりと浮かんで見える。地の白と天の青の世界である。 その氷の大地の真ん中に、ナンとクー博士の姿が見える。それに、 2名の人間大のドラゴンの姿もあった。強風に翼がとられることな く、すっくと立っている。皆、障壁を展開しているようで、この北 風も何ともないようである。クー博士が、氷の大地の上を数回飛び 跳ねて、うなずいた。 ﹁ずいぶん氷の厚さが増したな、ナン﹂ ﹁ああ、年々厚くなって、いずれはあの山脈も氷の下に埋まるだろ うね。陸地の半分ほどが氷で覆われてしまったから、太陽からの赤 外線が反射されて地球が温まらなくなってしまった。降り積もった 雪は溶けずに氷に変わっていくばかりだよ﹂ ナンも遠くに霞む白銀の山々を眺めながらうなずいた。しかし、 クー博士には異論があるようだ。 ﹁ただ、今回は大気中に結構な量の温暖化ガスが残っているから、 その動向次第では意外と早く氷河期が終わるかもしれないよ。人間 もかなり生き残っているようだし、熱帯には文明が残った。数百年 後にはかなり様相が変わると思うよ、ナン﹂ ナンが意外な顔をした。博士も実は関心を持っていたらしい。考 え直してみれば、興味のない世界にここまで時間のない研究者が付 123 き合うことはないだろう。 ﹁なるほどね。ウィザードの君がそう言うなら信頼性があるな。う む、そうなることを期待しよう﹂ やがて、ドラゴンが身じろぎをして、少し背中の翼をくつろがせ た。彼らは人間と違って、動作がストップモーションのようだ。完 全な静止を繰り返しながら動いている。何となく鳥の動きに似てい る。2体のドラゴンが揃って氷原の一点を凝視し、ナンに告げた。 ﹁準備完了だ。ナン、始めてくれ﹂ ナンが、それを聞いてうなずいた。 ﹁うむ。因果律回避10秒、空間確保、4キロ立米﹂ 氷の大地が一瞬で解けて湖になり、その中から長さ600mの巨 大なドラゴンが飛び出してきた。透き通るような青い空を覆うよう に巨大な翼を羽ばたかせる。轟音と地響きが鳴り響き、暴風が吹き 荒れ、ドラゴンが持つ特有の魔法場が急速にナンが設けた結界の中 に充満していく。凍てついた空気を砕くような咆哮をして、アイス クリームを入れるコーンの形に広がる巨大な炎の息を吐き、氷原に 立つ4名を見据える。 2体の人間サイズのドラゴンが、これまた湖を波立たせるような 咆哮をして実体化した。彼らも同じくらいの巨大なドラゴンとなっ て、飛びかかり絡まりあう。たちまち炎に包まれる3頭のドラゴン。 咆哮が重なり合い、氷原の氷をその声だけで粉砕するほどのすさま じい音になっている。いつぞやの巨人の笑い声と同じだ。 クー博士が、冷や汗をかきながら、赤い瞳を鋭く光らせた。術式 展開を4つ、同時進行させている。かなり耳障りな高音の呪文詠唱 を4重奏しているので、これまた騒音を助長しているといっていい。 しかし、彼の口は1つしかないのだが、音源は4つである。 ﹁よし、抑え込んだ。転送してくれ﹂ 124 ﹁うむ﹂ ナンがうなずくと、絡み合った巨大なドラゴン達の姿がパッと消 えた。結界を設けているにも関わらず、空間のあちこちで火花が上 がった。そして、ドラゴン達が消えたのを確認してから、ナンが巨 大な結界を消去した。湖は、そのうち氷に戻るだろう。クー博士が、 汗を拭った。 ﹁ふう、疲れる仕事だよ。私は本来、研究職なんだけどなぁ。むう、 少し食らったか﹂ 彼のジャケットの一部が焼け焦げていたり、石化している。ナン がその具合を確認する。 ﹁石化効果もある火炎息か、珍しいな。でも、そのくらいで済んで よかったよ。君の障壁が全て吹き飛んだから心配した。圧縮言語で 4呪文を同時に詠唱しても、ギリギリだったね﹂ クー博士が、珍しく憤ったような声を上げた。 ﹁まったく、ドラゴンどもめ、秘密主義もいい加減にしろ。報酬は 高額だけど何の説明もしてこない﹂ そこへ人間型で見事な羽翼と鋭い角を持つドラゴンが1人、空か ら音もなく降りてきた。髪の毛は輝くばかりの白色で、それが彼の 動きに同調してサラサラと動いていて、背景の透き通るような青い 空にとてもよく映える。見事だが相当の威圧感を発する翼と立派な 角さえなければ、超絶的な美青年である。 ﹁それだけ、悪態がつければ心配ないな。坊主、ご苦労﹂ クー博士が、さらに不機嫌になった。 ﹁高見の見物とは良い身分だな、ドラゴン様。我々ウィザードに依 頼せずとも、君たちだけで対処できるはずだろう?我々が苦労して いる様を見物するための依頼かい﹂ ドラゴンが、くく、と笑って、大地に降り立った。氷の破片が優 雅に舞い上がってドラゴンを包む。先ほどのドラゴン達と異なり、 動作が非常に滑らかで優雅である。 125 ﹁そこのウィザード。口が悪いと、因果律が崩壊して飛ばされても 助けてやらんぞ。君たちに依頼するのは、我々が集まるだけでこの 世界を壊しかねないからだ。ドラゴンの魔法をこの世界で使うなど できると思うのかね。それに、君たちの力量に応じて依頼を出して いるから、問題はなかろう。服が焦げて石になったのは、君の未熟 と不注意にすぎぬ﹂ まさしく上から目線でクー博士に説明するドラゴンである。 ﹁むむむ。一介の研究者にそこまで言うかね。これだからドラゴン は﹂ が、クー博士もさすがにそれ以上は文句を言わなかった。実際そ の通りである。横にいるナンは、このやり取りを聞いて笑いをかみ 殺しているようである。 ﹁貴方が出てくるということは、相当のドラゴンだったのですね﹂ ナンが、礼をしてドラゴンに話しかけた。ナンが、﹁貴方﹂と呼 ぶくらいだから、相当な魔力を持つドラゴンなのだろう。ドラゴン が鷹揚にうなずいた。 ﹁ああ、かなり歳を経た者だよ﹂ この動きもクー博士にとっては、快い所作ではないようだ。眉間 のしわがさらに深まった。 ﹁今頃、向こうで大暴れしてないかい?ドラゴン様﹂ ドラゴンが、くく、と再び笑った。馬鹿にしているようでは、な さそうだが。 ﹁分かっていないなウィザード。さっきのは、再会を喜びあっただ けだ。長い仕事だったからな。今頃は宴会でもしているだろう﹂ ナンがうなずいた。 ﹁そうでしたか。どのような仕事なのかは聞きませんが、ご苦労様 でしたと伝えてください。あの女王様もそう伝えてくれと仰ってお りました﹂ ドラゴンが微笑んでうなずいた。 ﹁伝えよう。では解散してくれ﹂ 126 そう言うと同時に、ドラゴンの姿がパッと消えた。クー博士が毒 づく。 ﹁偉そうに。元は魔法兵器だったくせに﹂ ナンが微笑んで、博士の方を見た。 ﹁300万年前の大戦の反省から、我々は多くの平行世界を創造し て、魔法兵器を含めた全ての魔法生物や種族に割り振った﹂ クー博士が、きょとんとした顔になる。 ﹁何だよ、いったい﹂ ナンは、そのまま話を続けた。 ﹁我々の多くもエルフやセマン、バンパイアなどに変わったし、各 世界の王になった者もいた。あの姉妹や死者の国の王などのように ね﹂ ﹁知ってるよ。歴史で習うだろ﹂ ナンがうなずいて、笑った。そして、少しおどけた口調になった。 ﹁ドラゴンは巨人の世界に組み込まれたけど、誰が統治しているか 知っているかい﹂ クー博士が、きょとんとした顔のままで答える。 ﹁誰も知らないだろ。だから秘密主義だっていわれるんだ﹂ ﹁そうだね。元々、世界を変えるくらいの強力な魔法兵器だからね。 我々の誰もあの世界に行かなかった。誰もね。でも、ちゃんと統治 されているだろ﹂ クー博士の瞳が赤く輝いた。 ﹁おい、ナン。何か知っているな﹂ ナンは微笑んだままで、話を続けた。細い目がさらに細くなった ようだ。 ﹁例えば、さっきの羽翼のドラゴン、あんなタイプの魔法兵器は作 られていないんだよ﹂ 博士が驚いた声をあげた。 ﹁なに!?﹂ ナンが氷原を見渡した。 127 ﹁世界は、こうして何度も崩壊するけれど、耐え抜いて開花する文 明もある﹂ クー博士の赤い瞳がキラリと輝いた。同時に、冷や汗もかきはじ めている。 ﹁あいつ、我々の文明じゃない奴なのか?おいおい、大変だぞそれ は﹂ ナンが笑って、指をそっと自分の口に当てた。 ﹁だから、あまり悪口は言わないことだ﹂ ﹁うひゃー。でも、そんなファンタジー誰も信じないだろうな。私 がバカにされるだけか﹂ そう言って、氷の上でひっくり返っている博士を、微笑んだまま の顔で眺めていたナンが、再び氷原の彼方に視線を投げた。 ﹁願わくば、今の文明が我々の後輩になりますように。さあ、戻ろ うか。ポーラが大変なことになっているだろう﹂ 128 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n2974bx/ その季節 2016年7月7日17時21分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 129