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人権保障における憲法と民法の役割
明治大学法科大学院
Ⅰ
高橋和之
個人と社会
我々は、通常、多くの他者と社会を形成して生きる。それは、一人では手に入れがたい
様々な便益(生きるための必需品をも含めて)を社会が提供してくれるからである。その
代わり、便益と引き替えに、社会が要求する一定の責務を引き受けなければならない。し
たがって、社会がその構成員に対しいかなる便益を約束し、その見返りにいかなる義務を
課すかは、構成員にとって重大な関心事となる。
社会と構成員の関係をどのように構成するかを考える場合、いろいろな観点がありうる
が、私が最も重要と考えているのは、社会の基本構造を個人主義と全体主義のいずれに基
づいて構成するかという観点である。ここで個人主義とは、社会の目的を構成員個々人の
自律的な生き方を平等に保障することに求める考え方である。個々人の自律的生の平等な
保障こそが目的であり、社会はそのための手段と観念される。これに対し、全体主義はそ
の反対で、社会の持続・発展こそが最高位の目的であり、構成員はこの目的に貢献するこ
とを最優先の義務とし、義務を果たしたことに対する報酬として社会による一定の便益を
享受するのである。
個人主義と全体主義は、このように社会のあり方について対極的な理念型を描くが、実
際の社会がこのいずれか一方のみを基礎に維持・運営されているということではない。社
会(全体)と構成員個々人(部分)の関係をどのように構成するかは、あらゆる社会が直
面する普遍的問題であるが、個々人が社会を形成して生きるということを前提とするかぎ
り、両者の共存が必要であるから、いずれかを一方的に優先させるということはできない。
両極の中間のどこかで線引きをする以外にないのである。その線が個人をより有利に扱う
側に近づくか、社会を重視する側に近づくかは、抽象的に言えば、個人が生きていく上で
社会を必要とする度合いに依存するであろう。対外的安全や生活必需品の獲得等に社会的
協働が必要であればあるほど、社会からの構成員に対する要求は強くなり、全体主義的理
念の通用する程度が高まろう。逆に、個々人の自由に委ねても最低限必要な社会的協働が
確保できる状況が存在すれば、個人に対する社会からの要求は緩くなり、個人主義的理念
の妥当する程度が高まることになる。近代憲法が個人主義を理念として成立したというこ
とは、近代において個人主義を可能とする客観的状況が広範に成立したということにほか
ならない。
Ⅱ
立憲主義における憲法の観念
法源に「社会あるところに法あり」と言われるが、法は社会において取り結ばれる人間
関係を規律する機能を担っている。ゆえに、実定法秩序には、当然、社会と構成員の関係
の規律の仕方が組み込まれている。ヨーロッパにおいて成立する近代社会は、その基本構
造を個人主義の原理で編成した。ゆえに、そこで形成された法秩序には、個人主義の原理
が反映されている。近代社会の法秩序は、自生的な法を基礎にしつつも、複雑化する社会
関係の効果的な規律をめざして制定法秩序に優位を与えるようになる。そのような法秩序
を管理するために、近代社会は国家を生み出した。近代国家は、法的観点から見れば、近
- 231 -
代社会が必要とする制定法秩序を管理・運営するための機構なのである。ここで重要なの
は、この近代国家の法秩序がどのような構造をもつものとして形成されたのかである。
近代国家とその法秩序を弁証した社会契約の「物語」によれば、人々は自然状態におい
て有する自然権をより確実に保障するために政治社会(国家)を設立する。あらゆる政治
社会の設立目的は、自然権の保全にある(フランス1789年人権宣言2条参照)。政治
社会の設立により政治権力(国家権力)が創設されるが、その権力の行使の態様を定める
のが憲法である。憲法制定権力は、社会の設立に参加した人々(人民あるいは国民)に属
し、彼らあるいはその代表者が制定した憲法において、政治権力を行使するに際して従う
べきルールが定められる。そのルールが憲法の名に値するためには、権利の保障と権力の
分立が規定されていなければならない(前掲人権宣言16条参照)というのが、近代立憲
主義の思想であったことは周知のところであろう。この立憲主義思想は、基本的には現代
憲法にも継承されていて、今日我々は、憲法が権利保障を規定する部分と権力分立に基づ
く統治の機構を規定する部分から成るものと観念している。ここで権力分立というのは、
立法権・執行権・裁判権の三権分立を中核とするものであり、分立の態様には様々なヴァ
リエーションがあるものの、これに基づく統治機構は、法律を制定し、執行し、法的紛争
を裁定していくプロセスを誰が担当し、いかなる手続で行うかを定めることを内容として
いる。したがって、その規定の名宛人がこれら権力の担当者、行使者であることは明白で
あり、そこで、これらの権力担当者・行使者を「国家」と総称しながら、その国家を憲法
規定の名宛人と捉えているのである。問題は、他方の権利保障規定(人権規定、基本権規
定)の性格をどう捉えるかである。この点で二つの見解の対立が現れてきたのが、今日の
人権論の大きな特徴となっている。
憲法が諸権力を組織し、その行使のあり方を規定することを使命とすることを考えれば、
その憲法に置かれた権利保障規定が国家を名宛人としていることに、ほとんど異論はない。
「ほとんど」と述べたのは、まったく異論がないわけではなく、基本権は今日では国家の
みならず私人をも直接の名宛人としているという見解もないわけではないからである。し
かし、伝統的な人権観、憲法観を大きく変更することをめざすこの考えは、今のところご
く少数説にすぎず、大半は伝統的人権観を堅持している。それによれば、憲法上の人権あ
るいは基本権は、第一次的には国家に対してその尊重を請求しうる権利であり、ドイツ憲
法学の言葉を使えば、国家に対する「防御権」なのである。この理解においては、憲法に
規定された人権、基本権は、国家が活動する場合に遵守すべきルールであり、その点で統
治機構に関するルールと違いがあるわけではない。国家は、その活動に際して、統治機構
のルールに拘束されるのみならず、人権規定にも拘束されるのである。ここでは、国家が
何を目標に活動を行うかは問題ではない。いかなる目標をめざそうと、その活動が服さね
ばならないルールを定めたのが憲法なのである。したがって、憲法上の人権規定は、国家
の目標を定めたものではない。憲法は、国家が活動する場合に採るべき「法のプロセス」
を定めたものにすぎないのである。国家の目標は、憲法以前の問題である。社会契約論に
よれば、国家は自然権をより良く保障するために設立された。ゆえに、自然権の保障は国
家の目標である。憲法は、その目標の実現をめざして国家が活動する場合の「法のプロセ
ス」を定めたのである。つまり、憲法に規定された人権は、国家の目標としてそこに規定
されたのではなく、憲法以前の目標(自然権保障)を実現する際に国家が守るべきルール
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の一部として規定されたのである。
かかる伝統的理解は、この限りでは、争いのないところと言えるであろう。問題は、憲
法が保障する権利の意義は、今日でも以上に尽きるものと考えるべきか、それとも国家に
対する「尊重請求」、あるいは防御権を超える意義をもつに至っていると考えるべきかで
ある。この点で、ドイツの憲法判例・学説が提起した国家の基本権保護義務という考えは、
憲法の名宛人を国家に限定する近代的な憲法観に修正をせまる重大な問題を含むものであ
った。
Ⅲ
国家の基本権保護義務
国家の基本権保護義務論によれば、憲法の定める各基本権条項は当該基本権を保護する
法的義務を国家に課すものである。この理解においても、基本権の名宛人は国家とされて
おり、その限りでは伝統的憲法観と違いはない。しかし、
国家に対して「尊重」が義務
づけられる基本権と「保護」が義務づけられる基本権とは、同一の条文で保障された権利
であるにもかかわらず、微妙に意味内容を異にする。「尊重」の場合、基本権侵害の主体
として想定されているのは、言うまでもなく国家である。だからこそ、国家に対し基本権
の尊重を義務づけているのである。では、「保護」の場合、基本権侵害の主体と想定され
ているのは誰か。もしそこでも国家が想定されているなら、保護義務が要求しているのは、
国家が尊重義務に違反しないことを確保するための制度と違反した場合に救済を与えるた
めの制度を設計・実施することであり、尊重義務と保護義務が対象としている基本権は同
一内容のはずである。もちろんドイツ起源の保護義務論は、国家による尊重義務違反の場
合も想定に含めているとは思われるが、しかし、この保護義務論が想定している基本権侵
害は、実は国家による場合だけではなく、「第三者」(私人)による場合も含んでいる。
否、おそらくは私人による場合こそが中心的なものと想定されている。つまり、ある私人
Aの「基本権」を他の私人Bによる侵害から保護することこそ、国家の保護義務の中心的
内容と考えられているのである。したがって、同じ基本権という言葉が用いられているが、
尊重義務の対象たる基本権と保護義務の対象たる基本権は内容を異にする。このことを、
私人Aの行為に即して観察すれば、次のようになる。Aは、たとえば表現の自由を行使し
ようとする。このとき国家は、これを尊重し、制限等の介入をしてはならない(尊重義務)。
ところが、このAの意図が、国家ではなくBに起因する何らかの理由により妨げられたと
する。このとき国家は、Aがその意図を実現しうるよう「保護」する義務を負い、Bに対
して妨害をやめるよう命じることになる。この場合、Aが国家に対して尊重を要求しうる
表現の自由の範囲・程度と、保護を要求しうる範囲・程度は当然異なりうるであろう。範
囲・程度を画定するに際して考慮すべき要素が異なりうるからである。たとえば、保護の
場合、Bによる「妨害」は契約に起因しているかもしれないし、事実行為に起因している
かもしれない。しかも、それらの原因はB自身のたとえば経済的自由の行使の結果かもし
れないのである。とすれば、同一条文が保障する同一の基本権の問題とは言えず、同一条
文により異なる基本権を保障しようとしているのではないのかとの疑問を払拭できない。
だからこそ、基本権の「多次元的機能」を認めようという議論になっているのではないか
と思われる。
もっとも、同一の権利がコンテクストの違いに応じて異なる機能を果たすということは
- 233 -
珍しいことではなく、尊重と保護とはまさにコンテクストの違いにすぎないという説明も
ありうるかもしれないので、この点にはこれ以上深入りしないでおこう。私にとって気に
なるもう一つの点は、保護義務論が基本権の名宛人を国家に限定していると言いつつも、
実は基本権の効力を第三者関係にまでこっそり及ぼしているのではないかという疑問であ
る。先に述べたように、保護義務論において基本権侵害の主体と想定されているのは、私
人Bである。しかし、基本権の名宛人は国家であるから、Aは基本権をBに対しては主張
しえない。つまり、AはBに対し「私の基本権を侵害するな」と主張し、その侵害の救済
を国家に求めるということはできないのである。にもかかわらず、AはBに対し何らかの
「法益」侵害を主張し、その救済を国家に求め、そこにおいて国家が救済を与えなければ
基本権保護義務違反となると主張するのである。では、その「法益」は、基本権を根拠に
しえないとすれば、何を根拠に主張しうるのであろうか。それを根拠づける法律が存在す
れば、AとBの争いはその法律の解釈適用により解決される。その際、法律の内容がAあ
るいはBの基本権を侵害するようなものであるなら、法律の違憲審査がなされることにな
る。他方、法律が存在しなければ、Aの請求は法的根拠を欠くから棄却となるはずである。
ところが、ここでAは、「請求を棄却すれば、国家は保護義務違反となるから、請求を認
容しなければならないはずである」と主張するのである。AはBに対しては利益侵害の法
的根拠を欠くから、そこで生じている事態はAの事実上の「利益」の事実上の「侵害」とい
うことにすぎないが、国家との関係ではその事実上の利益侵害が基本権保護義務の対象と
いうことになる。本来なら、国家はこの保護義務を果たすために、必要な法律を制定して
おくべきであった。しかし、立法府がそれを怠ったからといって、国家権力の一部をなす
裁判所が国家の基本権保護義務を免除されることにはならない。そこで、この義務を果た
すために、遅ればせながら法律に代わる法定立を裁判を通じて行おうというのである。こ
れは、Bにとっては、完全な事後法である。法律による制約がないかぎり自由と思っていた
のに、突如制約が裁判所により法定立され、事後的に適用されるのである。しかも、Bの行
為が基本権として国家に対し尊重請求しうるようなものである場合には、その行為を裁判
所が法律によらずに規制することを意味し、法律の留保に反する事態となる。Bがこのよう
な不意打ちを食らうことになったのは、もとはと言えば、国家が法律を制定するという通
常の手続により保護義務を果たさなかったからであり、第一次的な責任は国家にある。し
たがって、本来、AはBではなく国家に対して立法不作為による責任を追及すべきであった。
にもかかわらず、Bに対する請求が認容されるとすれば、それはBがAに対し何らかの法的
責任を負っていると暗黙のうちに認めているからではないであろうか。そして、その法的
責任とは基本権尊重義務しかないであろう。国家がAの基本権保護義務を負っていることの
いわば反射として、国家により保護されるべきAの基本権をBも尊重すべきだと考えている
のである。たしかに、Bの尊重義務に対応してAがBに対する主観的権利をもつとは言わな
い。そのかぎりでは、基本権が対国家的な権利であるという前提を保持しているかにみえ
る。しかし、私人間の尊重義務を法的義務と説明するために、客観法的義務と観念してい
るのではなかろうか。そうだとすれば、同一条文に規定された基本権が、対国家的には主
観的権利として機能し、対私人においては客観法として機能するということになる。憲法
は、客観法的にではあるにしても、国民をも名宛人としているという方向への一歩を踏み
出しているのである。
- 234 -
このドイツの議論は、私の推測では、憲法解釈として国家の基本権保護義務を承認する
ところから出発している。それを承認する限り、あとはいわば論理必然的に自己展開して
いくような性質の議論に思われる。たしかに、ドイツ基本法1条1項は「人間の尊厳は不
可侵である。これを尊重し(achten)、かつ、保護する(schützen)ことは、すべての国家権力の
義務である。」と規定しているから、解釈論として「尊重義務」と「保護義務」を挙げる
ことは自然であろう。そして、保護義務の対象を尊重義務の対象とは区別して、私人によ
る基本権侵害からの保護まで含めて解釈することも、ドイツの憲法史のなかでは、無理の
ない解釈なのかもしれない。しかし、それを日本国憲法の解釈論にまで持ち込むことにつ
いては、より慎重な検討が必要と思われる。日本国憲法は、13条で「(幸福追求権につ
いては)公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
としており、そこには尊重義務があるのみで保護義務への言及はない。99条では「天皇
又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する
義務をおふ」と規定しているが、そこでの「擁護」はドイツ憲法の「保護」とは明らかに
異なる。そもそも「憲法の擁護」であり「人権の擁護」ではなく、そこで想定されている
のは、憲法を否定、破壊しようとするような行為に対して防御する義務である。したがっ
て、日本国憲法の文言の中に人権保護義務を読み込むことのできる根拠を探すことは困難
であると思われる。にもかかわらずドイツ的な保護義務を解釈論により認めようというの
であれば、日本国憲法を支える原理論として論ずる以外にないであろう。単に、ドイツで
認めているから日本でもというわけにはいかないし、また、それを認めることのメリット
とデメリットの詳細な検討も欠かせないはずである。特に近代立憲主義の国民的な定着を
めざす日本において、憲法観を安易に変更することのデメリットへの配慮は欠かせない。
Ⅳ
日本国憲法解釈における人権保護義務の構造
保護義務論の日本への導入には慎重でなければならないことを述べたが、日本国憲法の
解釈論として、国家の人権保護義務という考えを原理論的に根拠づけることは不可能かと
いえば、必ずしもそうではない。ドイツのそれとは異なる理解の仕方においてではあるが、
近代立憲主義の人権論に即して次のように議論することは可能であろう。すなわち、社会
契約論によれば、国家は自然権としての人権をより良く保障するために設立されたのであ
るから、自然権としての人権を保護する義務を負っている。論理的な順序としては、社会
契約により国家(政治社会)が設立された後、主権者人民あるいは国民が憲法を制定する
のであるから、この人権(自然権)保護義務は、国家が前憲法的に負う義務である。しか
し、憲法を出発点とする実定法秩序は、国家が人権(自然権)を保護する任務を遂行する
に際して従うべき「法のプロセス」を定めるものである以上、自然権の保護義務はこの実
定法秩序としての「法のプロセス」にいわば内在する目的であり、その意味で実定法的効
力を有する考えるのである。この場合、保護義務の対象たる人権は、憲法の中に取り込ま
れる前の段階のものが観念されているから、社会構成員すべてを名宛人としている。その
意味で超憲法的権利=自然権なのであり、その権利を国家=実定法秩序=法のプロセスが
保護する義務を「憲法内在的義務」として負うのである。その義務を果たしていく活動に
おいて、国家は「憲法上の権利」としての人権を尊重する義務を負う。自然権はあらゆる
関係で保護されなければならないのであり、私人間のみならず、国家設立後は国家と個々
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の国民(私人)との間においても保護されなければならない。そのために、国家と私人の
関係を規律する憲法の中に自然権を取り込み、それを「尊重」する義務を国家に課したの
である。ゆえに、「憲法上の権利」は、尊重義務の対象とされており、保護義務の対象と
はされていないのである。
ドイツの憲法判例・学説が保護義務の対象を「憲法上の権利」としての基本権に求めた
のは、先述のように憲法条文に「保護」が規定されているということだけではなく、おそ
らく法実証主義的な思考の影響を受けたためでもあろう。憲法解釈の中に自然権的な思考
を持ち込むことを避けようとしたと思われるのである。法的な保護義務の対象を自然権と
するのは、法実証主義的には落ち着きが悪いという感覚があったのではなかろうか。憲法
上の保護義務の対象は、憲法上の権利でなければならない、ゆえに、個々の基本権を保護
義務の対象と捉えよう、というわけである。そのために、同一の基本権に異なる意味を賦
与することになったが、自然権に訴えるよりはそのほうが説得力のある議論だと考えられ
たのであろう。しかし、もともと自然権の保護として考えられていたものを実定的な基本
権に読み込もうというのであるから、読み込まれる限りにおいて基本権が私人間において
も効力をもつものに変化せざるを得ない。しかし、他方で、基本権は国家に対する防御権
であるという前提があるから、基本権の私人間効力を正面から認めるわけにはいかない。
そこで採用された方法が、基本権の尊重義務と保護義務を区別し、私人間効力を保護義務
論として取り込むことであった。たしかにこれにより、基本権の名宛人は国家であるとい
うことは維持しえたかにみえる。しかし、そこでは基本権に尊重義務の場合とは異なる意
味が付与され、基本権の概念が複雑・曖昧化された。のみならず、国家が保護義務を負う
基本権が実は私人との関係の問題であることが密かに前提とされており、基本権が対国家
の防御権に尽きない、私人間においても何らかの法的効力(客観法的効力)をもつもので
あるという観念に変化しているのである。
以上に、ドイツが保護義務論を構成した原因の一つに法実証主義的な思考の影響もあっ
たのではないかとの推測を述べたが、しかし、逆に、自然権論的議論をする場合、必ずし
も自然権思想にコミットしなければならないわけではない。ここでの自然権思想のポイン
トは、実定法秩序を支える前実定法的価値の存在を想定することである。それを超えて、
前実定的価値の客観的存在を承認しなければ、この議論の構造が無意味になるわけではな
い。基本価値についてのコンセンサスは必要であるが、コンセンサスという発想は客観的
真理という発想とは異なる。コンセンサスは不断の形成過程に置かれており、実定法はそ
の暫定的な着地点にすぎない。コンセンサスの形成は、自由な討議(deliberation)を通じて永
続的に展開されるのであり、憲法はそのプロセスを暫定的なコンセンサスに基づく法的ル
ールとして規定したものなのである。この法的プロセスを通じて、基本価値の具体的内容
が実定法秩序に取り込まれていくことが想定されている。
Ⅴ
段階構造の設定と法領域の分節
以上の理解を要約すると次のようになる。憲法は、国家がその役割を果たすべく活動す
る際に従うべき「法のプロセス」を定めるものであり、憲法の名宛人は国家に限定される。
ゆえに、憲法に規定された人権も国家にその尊重を義務づけた権利である。私人は「憲法
上の権利」の尊重義務を負わないのである。私人間において「自然権」が尊重されること
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を保障する役割、つまり私人間の関係が「個人の尊厳」を基礎に規律されることを保障す
る役割は、国家の役割であり、国家はその役割をは果たすために、憲法の定める「法のプ
ロセス」に従って必要な法律を制定し、執行し、争いの裁定を行っていく。ここで重要な
のは、この「法のプロセス」が法形式の段階構造を自らのうちに組み込んでいるというこ
とである。憲法は、法定立・法執行の権限機関と手続の違いに応じて「法形式」を区別し、
法形式間に効力の上下関係を設定している。まず、ほかならぬ「法のプロセス」を定める
憲法が他のすべての法形式の授権規範であり究極的根拠として論理上当然に最高位に位置
するが、このことを憲法自体もその98条1項で「この憲法は、国の最高規範であって、
その条規に反する法律、命令、勅令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部
は、その効力を有しない」と規定し、自らを最高規範であり他の法形式に上位する形式的
効力をもつと宣言している。この最高性は、「この憲法と一体をなすもの」(96条2項)
とされる憲法改正が他の法形式の定立よりもより慎重な手続に付されていることによって
も担保されている。次いで、この憲法の下で最も重要な法形式が法律である。法律は、憲
法の定める「法のプロセス」の展開を始動させる役割を配分されている。国民を対象に行
われる国家のあらゆる活動は、法の支配の原則の下に、法の形式を纏って展開されなけれ
ばならないが、その最初に纏うべき形式が法律なのである。「法のプロセス」の次の段階
が法律の「執行」であるが、その執行は、法律の委任に基づき、あるいは、法律を補充す
る必要に基づき、多かれ少なかれ一般的な法定立が必要な場合には、命令の法形式により
行われる。そして、最後の段階として法律あるいは命令が個別具体的に執行されることに
なるのである。「法のプロセス」はこのような「憲法
→
法律
→
命令
→
個別具
体的法定立」という段階構造を基本的骨格とし、条約、条例、政令等の他の法形式が適切
な位置に配置されて存在するのである。
社会におけるあらゆる関係は、憲法自体が規律しているものを別にして、まず法律によ
り規律される。法律は規律すべき諸関係を諸領域へと分節し、各領域を独自の法則に従っ
て規律する。その際、諸領域の分類整理に利用されてきた伝統的な枠組が公法と私法の区
別であった。公法とは、国家を一方当事者とする法律関係を基本とし、私法とは私人間の
法律関係を基本とする。公法と私法の厳密な定義については議論のあるところであるが、
ここでそれに立ち入る必要はない。ここで重要なのは、民法という法律は、私法の中心と
なる法、私法の一般法という性格をもつ法律だということである。
あらゆる社会関係は「個人の尊厳」を基本価値として編成・規律されなければならない。
このことは、憲法自体が「個人の尊厳」を基本価値としていることから推認されることで
ある。憲法が定める「個人の尊厳」(24条参照)、そこから派生する「個人の尊重」原
理(13条)は、直接には国家を名宛人としているが、その基本価値がほかならぬ憲法、
実定法秩序において最高位を占める憲法、に取り込まれているということが、それが前憲
法的、前実定法秩序的な基本価値であることのコンセンサスの存在を示しているのである。
このような思考法は、法実証主義的な思考においては認めがたいかもしれないが、日本国
憲法の理解には整合的なものではなかろうか。そのことが認められるならば、すべての法
律が前実定法秩序の基礎にある「個人の尊厳」を反映したものでなければならにことにな
る。特に私法の骨格をなす民法に対しては、このことが強く要請される。この要請は、実
定法的には、憲法が立法行為を憲法上の「個人の尊厳」に服せしめていることにより、間
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接的に担保されている。しかし、憲法の「個人の尊厳」が私人間に及ぼす効果は、立法行
為がそれに服すことのいわば「反射効」にすぎない。私人間を法的効力をもって規律する
のは法律であり、特に民法である。そして、民法が行っているのは、私人関係を規律すべ
き前実定法的価値としての「個人の尊厳」を実定法規範として具体化することなのである。
だからこそ、日本の民法は第2条において「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等
を旨として、解釈しなければならない」と規定したのである。この条文により、個人の尊
厳が私人間関係を規律する基本価値として実定法に取り込まれた。他方で、法律は公法関
係も規律する。しかし、公法関係は国家を一方当事者とする関係であるから、憲法の個人
の尊厳が効力をもち、法律の上位規範として公法関係を構成する法律を直接的に規律する。
ゆえに、ここでは、法律の憲法適合的解釈(合憲解釈)が要請されることになる。かくし
て、前実定法的価値である「個人の尊厳」は、公法にも私法にも実定法的価値として取り
込まれているが、取り込む論理、プロセスが異なるのである。
Ⅵ
民法による人権保障
民法は、私人関係を「個人の尊厳」を基本価値として編成・規律する。しかし、憲法と
同一の人権概念を用いてそれを行っているわけではない。憲法は、個人の尊厳を基礎に、
個人を「個人として」尊重することを要求し(13条前段)、そのために「幸福追求権」
の尊重をうたい(13条後段)、そこから派生する個別人権を14条以下に規定するとい
う構成をとった。しかし、民法は、私人間における個人の尊重の実定法的な具体化・実現
を憲法とは異なる構成で行う。民法が規律するのは、原理上平等な立場にある私人間の関
係であり、公権力の行使を核にもち不平等な関係として現れる憲法関係の場合とでは、個
人の尊厳の現れ方が異なるからである。
同じ「個人の尊厳」を前実定法的な基礎・出発点に置くとしても、その実現を実定法と
して設計する場合、当該実定法が実定法秩序において占める位置、性格、課題等の違いに
応じて、個人の尊厳の法的具体化の内容、態様は異なりうる。憲法において具体化する場
合には、憲法が国家を拘束する規範であるという性格に従い、個人の尊厳は国家が尊重す
べき個別人権として表現される。それは、個人が個人として尊重されるために、すなわち
自律的生が可能であるために、国家に対して要求しうる必要不可欠の権利として構成され
る。これに対し、民法において具体化する場合には、個人の尊厳に基づく私人間関係を実
現するには、それをどのような法律関係、権利義務関係として設計するのがよいかという
観点から行われる。その一つの解答として採用されたのが、すべての国民に原則として権
利能力・行為能力を認め、契約自由を認める等々を内容とする現行民法なのである。ちな
みに、民法は私的自治を原則として採用しているが、論者のなかには、私的自治は憲法に
よっても保障されていると主張する者もいる。しかし、日本国憲法は私的自治を明示して
はいない。私的自治が私人間における原則であるとすれば、憲法がそれを規定していない
のは当然のことである。たしかに憲法は、財産権や職業の自由といった経済的自由権を保
障しており、それにより国家の妨害を受けることなく私人間で自由な経済的取引を行うこ
とができる。しかしそれは、憲法の目から見れば、事実上のことにすぎず、経済的自由権
が対国家的に保障されている「反射効」にすぎない。その反射効の枠内で私人間の自由な
交渉の実定法的な具体化を設計し保障しているのは法律(民法)なのである。「反射効の
- 238 -
枠内で」と述べたが、それは、もし私人間の法的関係を具体化した法律がその法律に把捉
される個人の対国家的(対立法権的)防御権を侵す内容であれば、憲法違反の法律となる
からである。
民法が個人の尊厳に基づく私人関係をどのように具体化しているかを詳しく検討するの
は民法学の課題であり、ここではこれ以上立ち入らない。しかし、民法の一般規定である
90条と709条が私の観点からどのような意味をもつかについては、若干のコメントを
しておく必要があろう。いわゆる人権の私人間効力論という問題に関し、通説である間接
適用説は憲法の人権価値を90条(公序良俗規定)あるいは709条(不法行為規定)に
読み込むという構成をとっている。しかし、憲法上の人権の私人間に及ぼす効果は反射的
なものにすぎず、読み込むための前提を欠く。ドイツに支配的な理論のように、憲法の基
本権価値が客観法として全方位的に効力をもつという前提をとれば、読み込むことも可能
となるが、この構成を採る場合には憲法観、人権観の変容を受け入れなければならなくな
る。それを避けて、伝統的な憲法観を維持しつつ私人間における「人権価値」の保障を実
現しようとするなら、民法自体が前実定法的な基本価値としての「個人の尊厳」を保障す
るための実定法律であると捉え、その解釈をこの基本価値に即して行うという構成をとる
のがよい。民法2条の規定は、まさにこの理解に整合的なのである。このように解した場
合、90条や709条の一般規定は、個人の尊厳を基礎にする具体化を裁判所の解釈に委
ねた意味をもつ。その限りで、民法は裁判所による法創造を承認したのである。しかし、
裁判所は、その法創造を、憲法解釈としてではなく、民法解釈として行う。したがって、
法律の留保は維持されているのである。
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