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イカロスの翼 畠山 拓 私には秘密の恋人がいる。秘密のわけはふたりとも
イカロスの翼 畠山 私には秘密の恋人がいる。秘密のわけはふたりとも既婚者だからだ。 拓 一人の友人にだけには二人の関係を言っている。恋人、麻子の離婚裁判のこ とも少し話している。麻子は誰にも漏らしていない。本当なら、凄いことだ。 秘密は言いたくなるものだから。 麻子が嫌がるので、私は友人の佐竹にも詳しくは話していない。 佐竹は口が堅いか、わらない。小説家は自由でお喋りだ。佐竹は常識を気に しないところがある。 裁判中なので二人の関係は殊更、秘密である。麻子の夫が興信所を使うかも しれない。一緒のところを発見されたらひとたまりも無い。 佐竹とは二十年以上の付き合いである。文学仲間だ。職場も近く、昼食を取 りながら。佐竹を認めるようになったのは、人柄や能力もあったが、小説の創 作に向う情熱が人一倍だったからだ。私と同じように多くの作品を忙しいサラ リーマン生活の中で生み出していた。本物である。 佐竹と小説の話をしていると時間を忘れた。文学の話以外はしなかった。そ れでも、付き合いが永くなると、互いの日常を知ることになる。 最初は六本木のレストランが多かった。互いのオヒィスが変わり今は赤坂の 喫茶店である。 「喫茶店・フロリダ」の雰囲気を気に入っている。入り口にバーカウンター があり、ホッピーの赤提灯。奥の調理場でランチを作る。中国人を含め中年女 が二三人と、禿げ上がった初老の主人がいる。 店には数台のテレビが置かれ、壁には扇風機や絵やダーツが飾られている。 裸女の絵の前に丸焼きの豚の人形がぶら下がっている。古びて雑然とした店の カウンターに年中酔っ払っている男が張り付いている。 店のカウンターで、ゆで卵や、大福、ドーナツが売られている。甘党の友は 大福を買う。以前は六本木のレストランでは豪華な昼食をふたりで食べていた。 今は年金暮らしで貧しい。麻子にも金がかかる。 付き合い始めて、一二年たつと警戒心が緩んでくる。佐竹が主催するパーテ ィーがあった。パーティーを盛大にするために、参加者を大勢にしたい。私は 麻子を誘った。パーティーに私たちが遭ってはならない人物が参加するかもし れない。私は佐竹に確認した。参加はないらしい。 私は安心して麻子を誘った。 ホテルの会場で会いたくない男と出会ってしまった。私は腹をくくったが、 麻子は上気した顔をしていた。男は麻子の大学時代の教授なのだった。パーテ ィー会場ではなるべく近付かないようにしていた。 不都合な人間に二人一緒のところを目撃されたものだ。勿論、特別な関係を 知られたわけではない。 「喫茶店・フロリダ」で私は佐竹に麻子との関係を話した。二年も過ぎていた し、麻子との結婚も決心していた。男同士の女遊びの自慢話とは違う。 男と女は出会い、心を通じ合わせ、やがて特別な仲になる。心や体を通じ合 わせ、結び合わせる。肉体的に大抵は男と女が結び付く。同性同士の結び付き もある。私には未体験なことだ。私と佐竹は特別な関係だと感じている。文学 の同志だ。 「君の作品とはまるで違う。彼は君と違うタイプの作家だ」と、先輩の作家に 指摘されたことがあった。先輩の言葉に納得した。 私と佐竹の作風は違う。作風というあいまいな言い方は好きではない。友は 革新的でラディカルだ。私はもともと、耽美的なものにひかれた。現実と幻想。 違いはある。違いはない。 私と佐竹の共通項は貪欲だということと、才能があるということだ。 過去のことから語るのは普通だけれど、過去から話していては埒が明かない 場合がある。過去は造型されたものだ。私の好みである。現在時間は未造型だ。 私は私小説家でない。私小説を書く事は私には負担である。何をどう書いてい いのかまるで分らない。 先日、「小説」という同人雑誌の合評会があった。私も佐竹も同人である。 佐竹は「溝落」というすぐれた作品を発表していた。 人は誰でも、感動する言葉がそれぞれに違う。感動というのか他人以上に感 性を衝かれる言葉だ。敏感に反応してしまうことば。私には「堕ちる」 「落ちる」 「墜ちる」という言葉だ。私は高所恐怖症だ。 「おちる」のが怖い。あらゆる死 に方で、「おちる」は一番怖く、また「快楽」でもある。 内田百閒は雷が怖かったという。私は嵐や雷は美しいほどのものだ。 友人の作品、 「溝落」が合評された。評価は高かった。作者と等身大の一人の 男が真夜中、帰宅途中に溝に転落して身動きが取れなくなった。折悪しく雨に なる。溝の中の水位が上がる。このままでは溺死だ。 ベケットの不条理劇を思わせる内容である。一種の心境小説といってもよい。 物語は全編饒舌な男の告白で構成されている。地口としゃれのオンパレードだ。 ある種の熱気と冷たさ、高揚と沈滞が感じられる。 私は恋に落ちた。 「溝落」と同じである。なぜ落ちたのか分からない。友の作 品の主人公と同じではないか。男は溝の底にくぎ付けにされてしまう。足が挟 まったらしい。怪我をしてしまった。 「文学」という小冊子にいつか私は「落ちる」をテーマに掌編を書いている。 恋に落ちた心境を書いたものだ。女遊びには長けているが、私は恋が苦手だと 思っていた。恋は厄介だ。何故って、当人の事情はお構いなしなのだ。私の恋 の場合でも言える。六十歳を過ぎている。家庭がある。麻子は四十女だけれど 私よりはだいぶ若い。夫がいる。子供も一人前にはなっていない。結婚の条件 には難問が多い。 勢いがある。情熱があると考えているのは、当人だけかもしれない。佐竹は 最初にいった。「あんたは破滅型だね」 破滅型の佐竹からお墨付きをもらった。私には怒る父もいないし、泣く母も いない。子供たちは成人している。何も困るようなことはない。 「小説」の合評会で何年か前、医者の同人が言った。年を取ってから若い女と 結婚するものではない。心臓病で死亡する恐れが大だ。脳溢血なども心配。 医者は若い女とのセックスを念頭に置いてのことだろう。なんだか嫌な気が した。老人の色ボケである。谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」に見るまでもなく、 老人の性欲は滑稽なものとして語られる。人生、五十年の時代は五十歳が立派 な老人だ。「五十男の恋は怖い」という言葉を聞いたこともある。「最後の恋だ から・・・執着する」と、いう事なのだろう。 老人の恋は哀れ、滑稽、とみなされる。相思相愛だったりすれば、なおさら だ。 「嫉妬」の対象になるからだ。軽い随筆風の著書で心理学者の岸田秀も言っ ているが、嫉妬とは「憧れ」の「未達成に」よる「反動」である「憎しみ」だ から。だとすれば、老人は青年より恋にあこがれているのだ。あこがれは必ず しも行動には結び付かない。行動に結び付くのなら、 「目標」ということになる。 「イカロスの翼」は随筆でも私小説でもないのだ。ドラマチックに仕上げなけ ればならない。どうしたらそうなるのか。皆目見当もつかない。わたしの佐竹 には優れた「私小説論」がある。私は小説の勉強を何十年もしているが、私小 説はよく分からない。皆目分からない。私は自分のことを書く気がしない。自 分や、自分の人生は詰らないと思ってきた。 私が小説を書くきっかけは、病身の私から逃げ出したかったからだ。空想で 幸せな自分を作った。幼いころの病院のベッドが私の文学の母だ。私の文学と 呼べるのならの話だけれど。空想癖が強くて現実と空想がいつも入り混じって いた。私にとって空想も現実も同じものだった。非常に幼児的な性格だったの だろう。老年になってからもこの体たらくだ。気質は変わっていない。 老年の恋は金が必要だ。恋は空想だが、金は現実だ。私は老年になるまで考 えたこともなかった。恋や金は非常に複雑なものだ。現実、非現実と言ったと ころで、本質をとらえたことにはならない事は感じている。 友人が「貴方は破滅型だね」と、言った意味は、金の苦労も知らない、お人 好しだね、ということだったのか。麻子との新しい生活には金がいる。私は「哀 れな年金生活者だ」。酔って書いているので、見苦しくなってきた。 涙の話が金の話になりそうだ。 「酒は涙か溜息か」ではなく「金は涙か溜息か」 になりそうである。友人小説のひとつのパターンに成りそうだ。しかたがない。 麻子は夫に絶縁を申し出たやり方は、絶妙だった。夫のプライドと社会的な 立場を人質に取った極悪な手法である。麻子は自分の手法の「極悪さと極上さ」 に気が付いていない。 麻子の夫は絶縁裁判を起こした。離婚裁判でなかったのは、ふたりは内縁の 関係だったからだ。裁判で争われたのは、財産の所有権である。ふたりが同居 を始めるにあたり、住宅が新築された。遺産相続の権利は麻子に約束された。 収入の道のない麻子に月々の生活費が夫から渡される。内縁と言うだけで、世 間の家庭とは何ら変わるところはない。 私も若いころからいくつかの裁判を経験している。裁判で必要なのは金であ る。裁判に勝つには金が大きな要素だと経験上知っている。麻子が裁判で勝っ て欲しかった。私は札束を用意した。 「私は母が嫌い。働けと言うの。娘も大学を辞めさせろというのよ」と、麻子 は号泣した。私は記憶力には自信がないので、麻子の言葉は、今では覚えてい ない。涙の量は覚えている。どうして、 「女はこんなに泣くのか」と、私は呆れ たものだった。 麻子が離婚裁判中の金の事に無頓着だったのは、思慮が足りなかったからだ ろう。馬鹿な女ほど可愛いと言うが。 「母は、貴女、働きなさい」と、言うばか り、だと言って麻子は号泣するのだ。 結局は働き口も、母親の世話で見つけるが、アルバイトだけで、大学生の二 人の子供との三人の生活を維持していくことは不可能である。 「貯金は有るの。当分生活できるだけの」と、私は聞いた。 「無いわ。一円も」 愛と金は別だと考えている。サラリーマン時代、足しげく酒場に通って、学 んだことである。愛は金の衣を着ているが、私たちは衣を愛するわけではない。 中身の愛を愛しているのだ。生身の人間も衣を着なければ、寒さを防げない。 恥ずかしさから逃れられないのだ。 「麻子のわずかな、稼ぎでは到底、親子三人はやっていけないだろう。しばら く、生活の援助をするよ」と、私もつい言ってしまった。 「君たちはどうなっているのだ」と、友人は聞く。 私は答えない。ふたりの問題は、ふたりで解決するしかない。誰かのアドバ イスは身動きが取れなくなってからだ。麻子も誰にも相談していない。 私は飛べるかどうか分からない。今まで飛んだことがあったろうか。イカロ スの物語ではない。私に羽をくれるものはなかった。私の背中から羽を生やさ なくてはならない。自分の羽で飛ぶことだ。そうでなければ、墜落してしまう。 私は麻子に金を無心されて困っていた。金はないわけではない。私と麻子の 間に金が介在することが嫌なのだ。嫌な理由は私という存在にあった。私は若 くない、仕事もしていない。年金暮らしの老人である。麻子が私の金を当てに しているとしたら、惨めである。金で済むことだからとも思う。 私はフロリダに出かける。友と会うためだ。私の気持ちは半々だ。友に麻子 とのことを相談したい。今までのように話したくない。相談というのではなく、 文学を話すように話したら、さぞかし気持ち良いだろう。友人も聞きたがって いる。女の話を聞きたくない男はいない。 友も意外だったろう。六十過ぎの男が娘程の歳の女に夢中になっているのは 滑稽でもある。滑稽というのではない。羨ましくもあるだろう。 佐竹は店の奥にもう、座っている。 「いらしてますよ」と、中国の女性が独特 の口調で言う。 「日本文学は物語と、もののあわれだよ」 「もののあわれね。そうかもしれない」 私は上の空だ。友との話題に入って行かれない。こんなことは、初めてのよ うに思う。 「ちょっと、水を・・・」と、セルフサービスの水差を取りに立ち上 がる。水差しを取り上げるとき、胸のポケットに異物感を覚える。麻子に用意 した札束が入っているからだ。 今日もパチンコに負けて佐竹のポケットには百円玉、数個だろうか。金のな い若いころは仲間と一杯のコーヒーを分けて飲んだ。そんな付き合いを、目の 前の佐竹となら出来そうだ。 麻子にすべての金を使い果たし、夕暮れの街を佐竹と二人で散歩する。ポケ ットの百円玉で飲める美味いコーヒーを探しながら。私達は話すだろう。 「晩のおかずに、コロッケを買っていくか。麻子も好きだし」 「いいね。私にも買ってくれ」 「ひとつぐらいなら、買ってもいいよ」 「ひとつで。充分」 水差しの水をコップに移して、一口飲んだ。胸の中が少し軽くなった。