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Page 1 Page 2 、 「社団法人設立許可」 (大正3年3月 6 日付) 文部省
【巻頭のことば】 国民精神の発揚のために…・…………………………………………・・小野健知 特集道徳教育への提言 企業Iノ1人│川教育の一例…………・-………・伊藤克巳今、現場数i'SI)の眼すべき役>Aは("1か.…・・石渡敬 柔血と人│川形成……………………………酉藤喜門脂導若の熱怠にlりl荷する…………………林田武雄 天・地・人の隙>f>……………・…・………古川清彦志を立てる……・………・…………………・平山秀樹 辿徳教育は社会全体のWtt-……・………山本哲生遊徳教育に想う……………………………郡司勝美 先ずJ1唱木的生活料仙を.……………………安達伸次郷ニヒにおける弘遊粘神の瓜‘泌識…………渡遇宏 ささやかな提言…………・……..…………内田楽,舟校における礼法脂導・・……・……………黒川邦保 父母のためのノ,§礎的迩碓教育の手引き…菅原正三世inしは刀 人の1rfで……………………高橋修 この頃思う邪……・………..………………浅井和泉向立をはぐくむ数行を……………………立井信也 地域社会における数行〃のl''I場を………柴田徳二学校における迦弛教育……………………中村二郎 花の州り物…………・・……………………田中経郎地域に根ざした迦徳数両の捌巡…………小林千代美 平成6年3∼4月号 東 京 日 本 弘 道 会 平成六年四月三十日発行 第百二巻第九百六十九号 平成六年四月三十日発行 第969号 一 −0︲凸■■B■日日■UO7 UIl●.。 園守叱圃一■U幻■■画け 粕 一■■■■■■■■■Ⅱ■9●■&■甲●U凸■■。a■■■1● JJ吻賜田も⋮;顔甑霊 : 〃 l︲I で●q▲■■■▼、■■!■6DB■■■■■且■マーCooⅡ︲1■10■Illg−I・巳■■q、。!・g0ie。。。“官■■■守り一■0 ●︸■■■■■goO■■90,口。■■■剖珊CO■貝gh2画■■0日尾P℃UL−UUl6、11hm眼 I力 ■■■ ■■卜0 I ソ 11 Qp ﹁︾電閏 ’' 鷺 雪 '9 ぐ IN h 汽 1 ●凸 冷黙夢= テーーー − − 抑‘肢 , ▼ − − 縄 「社団法人設立許可書」(大正3年3月6日付) 文部省所蔵の「写」をコピーしたもの 一日本弘道会綱領︵昭五一・一○・三○︶ 会祖西村茂樹先生小伝 日本弘道会の会祖・西村 礼・福沢諭吉・西周・加藤 茂樹先生は、明治六年森有 弘之・中村正直らと相図り ︺甲号︵個人道徳︶:乙揚巨万︵社会道徳︶ ,人類の将来をおもんぱかること .︾、るこ,と 涯教育の先駆的役割を果たされました。 脚して社会道徳の高揚に一身を捧げ、今日の生 除くすべての官職を辞して野に下り、全国を行 家でもあります。明治二十六年、宮中顧問官を 道徳学者であり、同時に偉大な国民道徳の実践 西村茂樹先生は、明治時代における卓越した 批判し、日本道徳の確立を訴えました。 始していた社会の風潮と政治の在り方を厳しく 論﹄を公にして、当時、西欧の模倣と追随に終 創設しました。これが現在の﹁日本弘道会﹂ の前身であります。明治十九年には﹃日本道徳 めの道徳教化団体として、﹁東京修身学社﹂を 目指し、さらに国家社会の基礎を強固にするた その後明治九年三月には、国民の道義向上を 動を精力的に展開いたしましたO 誌﹄を発行して、開化思想、自由思想の啓蒙運 ﹁明六社﹂を設立。﹃明六雑 ︾皇室を敬愛すること、国法を守世界の形勢を察すること、国家 信教は自由なること、迷信は排 “除すること 一﹄思考を合理的にするごと、情操政治の道義性を高揚すること、 .を美しくすること 経済の倫理性を強調すること・ 学問を勉めること、職務を励む 貼粕宮ア﹂・咋〆﹂・や、.﹄・ 教養を豊かにすること、見識を⋮:自然の美と恩沢を尊重するこ ︾︽養うこと とへ資源の保存と開発を図るこ 雲一財物を貧らないこと、金銭に清:と 廉なること 家庭の訓育を重んずること、近 ︾親相親しむこと ;教育の適正を期すること、道義 ザニ善一徳を積むこと、非理非行:の一般的関心を促すこと 一一に屈しないこ︲と︾ 書︾健康に留意すること、︾天寿を期︽ 計一、すること︲・ 報道言論の公正を求めること、 信義を以て交わること、誠を以社会悪に対し世論を高めること ︾王て身を貫くこと$ (1) ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ( 4 ) 倒勧鰯倒⑫⑳⑲⑰⑯⑭⑬⑪(9) 第九六九号︵平成六年三・四月号︶ ● ● ● 目次 ● ● ● ︿泊翁先生訓﹀ ● ● ● 表紙裏﹁社団法人設立認可書﹂ ● ● ● 或る問十五条その二﹁天爵と人爵の別﹂ ● ● ● 野健知⋮⋮㈲ ● ● ● ︻巻頭のことば︼ ● ● 国民精神の発揚のために.⋮⋮.:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮.:⋮..⋮小 ● l***l 樹雄敬郎二泉三柴次生彦門巳 特集道徳教育への提言 柔道と人間形成⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮::⋮・⋮・⋮⋮.:⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・・脅 (2) 企業内人間教育の一例⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮:⋮⋮⋮伊 天・地・人の尊重⋮⋮⋮・⋮:⋮・⋮⋮.:⋮⋮:⋮⋮・⋮・⋮⋮::⋮古 道徳教育は社会全体の責任⋮・⋮.:.:⋮⋮⋮:::⋮:⋮⋮⋮⋮⋮山 先ず基本的生活習慣を⋮:⋮:⋮⋮・⋮⋮⋮:.⋮:⋮・⋮⋮:..⋮⋮安 ささやかな提言⋮⋮・⋮・⋮・⋮⋮・⋮⋮.:⋮⋮⋮..⋮..⋮:..⋮⋮⋮内 父母のための基礎的道徳教育の手引き⋮⋮⋮:⋮:⋮⋮.:⋮:⋮菅 この頃思う事⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮..⋮⋮:.:..⋮⋮⋮⋮浅 地域社会における教育力の高揚を⋮⋮⋮⋮・⋮:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮柴 伸哲清喜克 経徳和正 秀武 花の贈り物⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮:::⋮⋮:.:.⋮・⋮::⋮::田 指導者の熱意に期待する⋮:::⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮:.::⋮:⋮・⋮林 今、現場教師の果すべき役割は何か⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮:⋮・⋮石 志を立てる⋮⋮⋮:.⋮⋮⋮・⋮・⋮・⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮平 山田渡中田井原田達本川藤藤 ● 道徳教育に想う⋮:。⋮⋮:.⋮⋮::・・:::⋮⋮⋮⋮・・:・・⋮・⋮・⋮・郡 郷土における弘道精神の再認識と三シ児の魂の愛育⋮⋮⋮:⋮・渡 世直しは万人の君子で..:.::⋮⋮⋮..:.:.⋮:.⋮⋮:.:.⋮:.::高 高校における礼法指導⋮⋮..:.⋮⋮⋮⋮::⋮:::⋮⋮⋮⋮::・・黒 自立をはぐくむ教育を⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮:⋮⋮:⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮立 学校における道徳教育⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮:⋮..⋮⋮..:⋮・⋮・中 地域に根ざした道徳教育の推進⋮:⋮⋮⋮。:⋮⋮・⋮⋮⋮..⋮⋮・4、 ︻随想︼ 美郎也修保宏美 哲史・・・⋮㈹ 代二信邦勝 鰯⑨倒勧⑮⑬帥 明治十五年七月一日より七月四日まで。明治 十六年十月廿四日より十一月三十日まで。 泊翁日記︵二十五︶⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮:.⋮⋮:⋮⋮・・解説・唇注 ︻泊翁百話︼ 哲史⋮⋮⑲ 手の震え ︵ 五 十 五 ︶ ⋮ ・ ⋮ . . ⋮ : : . ・ ・ ・ ⋮ : ⋮ ・ ⋮ : ⋮ ⋮ ⋮ : ⋮ : . ⋮ ⋮ 杉 浦 昌 也 ⋮ ⋮ ㈹ ︿熟年からの健康﹀ 教育が李登輝総統を作る⋮・⋮⋮⋮.:⋮..⋮⋮⋮・⋮:⋮:⋮::⋮津英武⋮⋮㈲ ︿北斗星﹀ 西村泊翁先生肖像画の作者・⋮.::::⋮⋮⋮⋮.::⋮::⋮⋮⋮:古 千 支会だより︵千葉県安房支会︶⋮⋮・⋮・⋮⋮⋮::⋮⋮:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮:⋮⋮御 事務局往来⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮:⋮⋮..⋮..:⋮⋮⋮.:⋮⋮..⋮:::“ 会告︷批鴎謝渚貨雛洲恥細鵠寄縦賭舗郎謝柵一・・⋮⋮⋮::.:.⋮⋮⋮・⋮⋮:⋮・⋮・⋮㈹ 言葉のひろぱ︵狩野冨吉、磯畑宗之、岩崎晶︶⋮::.:⋮⋮⋮・⋮⋮..⋮⋮⋮:⋮⋮⋮⋮⋮御 編集後記 (3) 林村井橋川這司 川 川 弘道歌壇⋮:⋮:.⋮⋮・⋮⋮⋮::.:⋮⋮⋮:⋮⋮⋮古川哲史編⋮⋮⑬ 古 幸や ご︲争 、00Wゆり●●▲▼ へ︲●● 差或問十五条 ﹄。●●“今◆。 ;その二;天爵と人爵の別 98 ep 旬“6● ● 、 ととの おさ n台●■●夕’ たいら ロ●。卓●ヴ。 誠なり。意誠にして而して后に心正し。心正しうして而して后に身惰まる。身惰まって而して后に おさ むに及んで、大きな疑問が起こった。大学に﹁物格って而して后に知至る。知至って而して后に意 いたしかのち・ 式.あり、韓文公も文章の博士であるに過ぎないから、無視してよいと思った。ところがのち大学を読 める目的は公卿大夫の位を得るに在るようなことが出ていた。しかし、柳屯田は一個の風流才子で 或人が問うた。私は若いとき古文真宝を読んだが、柳屯田の勧学文、韓文公の詩に、学問をおさ -● ば、天下が平かにならなくては道徳の極度に達したことにならず。学問をする者は天下が平かにな るのを目的としなくてはならぬように見える。果たしてその通りなら、私のような卑賎の者はどれ ほど勉強しても、学問の極処に到達することはできないわけであるが、どうであろうか。 拙者は答えた。柳屯田、韓文公の二人は学問の趣意を誤解しているのである。大学という書はほ ●夕 んらい政治学の書であって、一般向けの修身学の書ではない。それを修徳の書と同一視するなら、 (4) O U I . . :一家斉う。家斉って而して后に国治まる。国治まって而して后に天下平かなり﹂とある。これによれ 訓 先 生 ¥酉 e ■ ﹃q0U 色々4 一 ■も■ 混乱が生ずる。シナの唐宋以後の学士には誤まった者が多く、わが国の教育家にもその誤りを襲う 者があるから、その点の解明が必要であろう。 ︲シナの学士に功名富貴を学問の究極とし、目的としたのは天爵と人爵の区別を知らないための誤 りである。孟子は﹁爵位には、天から授けられる天爵と、人君が与える人爵がある。仁義忠信を重 んじ、楽しんで善を行ってあきないのは、天爵であり、公卿大夫という地位は、人爵である。﹂と 言ったが、仁義忠信だけでなく、およそ智徳のわが身に備わるのは皆天爵であるp学問をおさめる 目的は、もっぱら天爵を求めるに在る。すでに天爵を得たときは、学問の業は成ったのである。そ の上に人爵が来たならば、これを受けてもよい、受けなくてもよい。ただ道理によって、どちらか を選べばよい。天爵の貴いことは帝王といえどもこれを与奪することができず、強国もこれを取捨 することができない。真にわが身に備わった至貴至尊の栄爵というべきものである。 他方、人爵は、公卿大夫の栄位といえども、人君が一言の下に与えたり奪ったりすることができ るもので、一旦これを奪われるときは、昨日の公卿大夫も今日はいやしい身分となり、その栄枯盛 衰の常ないことは、浮雲のすゑやかな変化と同じである。また、公卿大夫の如き高位も、天爵が伴 っていないと、その賎しいことは塵土とひとしい。李林甫、秦桧などは、人爵の上ではこの上なく 尊貴であ︲っ牝が、全く天爵を失ったので、いやしい身分の者も同席することを恥じとした。厳子陵、 陶淵明などは、人爵の上では卑賎の極であったが、天爵に富んでいたので、王侯大人が肩をならべ ようと願っても叶わなかった。天爵と人爵の尊卑は、これによって知られるであろう。 (5) 翁 泊 『 ー一 、_ F 二 一 ∼ 一 ■ グ ー ■ ー _ 一 一 マ ー L 戸 一 一 『 三二、昼、。"= ︻巻頭のことば︼ 国民精神の発揚のために 野健知 f劃︶ 新しい社会の到来に備えて各人が覚悟を新たにしなければならない。生涯学習の時代となる と、教育の場は、学校教育ばかりでなく、家庭教育や社会教育の場でも、活用できるものは何 でも利用せねばならない。特に道徳教育は生涯学習に連動するものであり、決して学校教育で 完結するものではない。学校教育は、生涯教育の基礎・基本を教える場所である。 二十一世紀は高齢化社会で、年金、保護、保障、介護等施設制度をどうするかが、逼迫した 課題となることは否めない。しかし、何よりも高齢者自身の自助努力が肝要である。たとえば、 洗顔、着衣、排便等の基礎的習慣は、自分で行うように幼い時から身につけることである。 ﹁徳は得なり、身に得るなり﹂というが、自立とは、肉体的にも、精神的にも、経済的にも、 他人様に甘えたり、世話にならぬように努力することである。学校で習得したものが、そのま ま高齢者になった時でもあてはまる生活習慣で、道徳教育がこの基礎をなす。 (6) 小 自由・平等・博愛が調われるようになってからでも久しい。しかし、前二者は耳にタコがで きるほど聞かされてきたのに、何故か博愛の精神だけは取り残されているように思う。二十一 世紀は、これを前面に押し出して道徳教育を実施せねばなるまい。来たるべき社会は、競争社 会ではないし、適者生存や優勝劣敗の思想が通用する社会でもない。これからは、思いやりと 協調の思想を中心にすえ、生活が展開される社会になるであろう。また、独立自尊や個人の独 立は民主主義の原理であり、大切なことである。しかし、同時に、人間の社会は他者との共存 (7) 共栄、共生の原理という二重構造より成立っていることに気づかねばなるまい。この両者の調 和した思想を徹底する道徳教育が展開されて欲しいものである。 文部省の調査によると、道徳授業の実施状況は決してよいものではない。道徳を小学校で毎 週一時間とすると年間で三十五時間、六年間で一二○時間になる。もし、集中講義の形式で一 日六時間づつの授業を実施すればなんと三十五日間、一ヶ月半道徳だけの授業ができる。実施 したのと実施しないのでは、効果面で大いなる差異が生じることは否めない。 二十一世紀は不確定の時代といわれる。それ故にこそ、教師にも、親にも、子供にも、自分 たちで﹁社会を調整する機能﹂といわれる﹁倫理﹂が要請されるのである。 ︵特別会員・日本道徳教育学会理事長・日本大学教授︶ 一 巳平ら 一℃ 一一 ■ 早や ︽今 一権 一も 、﹄ ■一 ﹃r9 特集道徳教育への提言 0曲鷺〃員臥冒月圃oAF晶風I 11 人格形成期における青少年に対しては、あらゆる 場を通して人間としての在り方、生き方を基本とす る道徳教育を施すことが如何に重要であるかは、今 教育はもちろんのこと、とくに、家庭、地域社会、 更申し上げるまでもありません。学校における道徳 或いは職場においての、族、道徳指導、人間教育は ﹁道義国家の建設﹂及び第七代会長野口明先生の唱 如何にあるべきか、現下の情況に対する認識を踏ま え、また、会祖西村茂樹先生の提唱し続けられた 導せられた﹁君子万人の時代﹂の理念を中心に据え て、道徳教育の問題を考えてぷたいと思います。今 回は、支会会員の方灸を中心に﹁道徳教育﹂につい した。 て日頃考えておられるご意見。ご提言をいただきま F■ 己▲ グ︲﹄ (8) 伊藤克巳 り弛張興廃スルコトァルヘシト雛荷モ浮利 企業内人間教育の一例 乍いささか私には面映ゆい命題を頂いたのだが、執筆をお 二趨リ軽進スヘカラス 訳ではないが、明治初期の制定と言い条、今の世に堂々と 身びいきかもしれないが、又バブルが崩壊したからと言う ﹁之ヲ取ルー道アリ﹂と戒めていることがご理解頂けよう。 積極果敢な営業活動を唱え﹁君子財ヲ愛ス﹂のはよいが、 断りする勇気も無いままに、住友商事という一企業で人間 教育に大切な役割を果していると思われる二つの事柄を述 べさせて頂くこととした。 一、伝統 受ける。殆んどの新入生はここで始めて、営業の要旨と称 は、単に知っていると言うだけでなく、これを当然と受け でも外国語に翻訳され掲げられている。従い当社の全社員 この社則は折目節目に幹部により引用され、又海外店所 自己主張出来る壮大な内容と思えるのである。 される社則の洗礼を受ける。これは住友の伝統の精神にの 容れ、行動の規範としている。換言すれば当然と受け留め 住友商事では入社時に、住友の歴史、精神につき訓話を っとり明治初期に制定された住友の家法に、一部字句の修 る。 はこれ以上ない倫理教育になっているようにも思うのであ る企業風土なり伝統なりが出来あがっており、住友マンに 正が加えられたもの。まず紹介させて頂きたい。 営業ノ要旨 以テ其ノ蓋固隆盛ヲ期スヘシ 第一条我住友ノ営業︿信用ヲ重ンシ確実を旨トシ 第二条我住友ノ営業︿時勢ノ変遷理財ノ得失ヲ計 (9) 二、グループ研修 社員が主任とか部課長とかに昇進した時に、職責を自覚 ねばならないことなど、役付者としての職責を自覚し、明 日に向ってのヤル気を奮い起こすことにはなるのである。 のは、OJTと称される、職場で日常の職務を通じて、一 以上特徴的なことを述べたが、これらにも増して重要な 三、OJT 出させ、職場を活性化させるために行われる。ここでは社 せしめる為、又本部、部とかの組織の中で各自にヤル気を 員が課長代理という役付者に初めて昇進した際に行われる 修もOJTをサポートする役目と言ってもよい。 人対一人の関係で行われる教育である。社則もグループ研 人事部よりオリエンテーションとして、管理職とは何か、 研修を例に述べてふたい。 討論し成果を発表する、といった手法がとられる。参加者 職として如何にあるべきか﹂といったテーマを与えられ、 など説明されたあと、研修生はグループに分かれ、﹁管理 ンによる統卒ということではないかと思う。変化が激しく らの権力的命令ではなく、人間関係なりコミニーケーショ 大半の上司が部下を統卒する際に意識しているのは、上か の権力構造によると思われがちだが、例えば住友商事で、 企業で組織が成立っているのは、人事考課を含めた上下 達は普段異なる店所、組織に散らばり疎遠だったのが、研 価値観も多様化している現世では、一方的な価値観の強制 精神衛生も含めた健康管理法、不祥事を如何に防止するか、 又同僚とは言え人様々な考えのあることに気付き、深夜ま 修を機に旧交を温め、仕事の誇り、悩象などに共感し合い、 ここで討論の結論自体は必らずしも重要ではない。然し 自覚を高め、得心する。教育の原点もこの辺りにあるので くし、辛棒強い対話を重ねることで、各自互いに啓発され、 ことも性交にして分があるのである。上も下も頭を軟らか では人は納得しない。カリスマ性も通用しない。下の言う 敢えて誇張気味に表現させて頂くと、研修参加者はかかる はなかろうか。OJTがか坐る辛棒強い対話の場となるこ で討論を重ねる。 る度量と忍耐心の必要なこと、上司に自分の言い分を理解 討論、対話を通じて、上に立つ者は下の言い分を聞いてや である。自省の念に駆られながら書かせて頂いた。 とで組織は支えられ、企業が支えられてきたように思うの ︵特別会員・住商ビルマネージメント株式会社取締役副社長︶ してもらうには、私欲のないひたむきな気持の必要なこと、 そして自分は上下のコミュニケーションのパイプ役となら (10) 酉藤喜 一勢力善用・自他共栄 この精神はどんな行為にも当てはめて間違いはなかろう。 ねない言葉であった。そのためか、今でも柔道といえばこ 柔道と人間形成 ﹃弘道﹄九五九号︵平成四年七・八月号︶でも述べたように、 は極意に通じる。今でもときどき、無駄なあがきはやめよ 柔道の技で言えば、相手の力を利用して投げ飛ばす。これ は事あるごとに言われ、昇段試験の筆記試験問題にも出か 私が柔道をやったのは昭和九年から三十年頃までの約二十 うか。 うと自己反省することがあるのは、この言葉のお陰であろ の言葉が思い出される。よほど身にしゑたものと思われる。 年間である。しかし猛烈に励んだのは、師範学校の柔道部 時代で、あとは郡内の柔道会であり生徒相手であって、そ 柔道は受け身から練習が始まる。つまり負けることから の後はほとんど柔道着を着ていない。そんな具合で、﹁柔 取りかかる。投げ飛ばされても怪我をしないように、それ 道と人間形成﹂を語るには少をおこがましいが、しかし、 その恩恵は今でも受けていることを思えば、その恩恵ぐら て勝つこと、失敗を恐れないことに通じる。私の人生にこ ばかりか痛承も感じないようにするのである。これは負け れがどれほど生きたかは知らないが、ただ受け身のお陰で いは語れないこともなかろうと思い、ペンを採った次第で 当時、武道は男子の中等学校では必修であった。単なる ある 。 ことは﹃弘道﹄九五九号︵平成四年七・八月号︶に書いたの 大きな怪我もせずに今日まで来たことは確かである。この れた。 で省くが、転んでも怪我をしないという自信は持ち続けら スポーツとは考えず、﹁道﹂として心身の鍛錬を目的にし が下げられた。入学して柔道の最初の時間に聞かされた言 たものであった。その証拠に不良行為をすると武道の成績 葉が、﹁勢力善用・自他共栄﹂というものであった。これ (11) 門 習慣である。 両手をついて先ず挨拶の礼を交わすが、この頃からついた 拶に困ることはなかったばかりか、親兄弟にも私はいつも たQだからよそにいって畳敷きの部屋での両手をついた挨 許されなかった。このような礼儀作法はかなり徹底してい 足の親指を重ねてきちんと座る。道場では膝を崩すことは た。礼は座って両手をついてするのである。膝の折り方も、 分からないが、乱取稽古のときでもこれは変わりがなかっ 今日の勝敗の承を争う﹁スポーツ柔道﹂ではどうであるか 武道は﹁礼に始まって礼に終わる﹂ことが基本である。 二礼に始まって礼に終わる に寄宿舎を出て町中の武徳殿に行き、一戻れば学校での寒稽 秋田で育ったので、この寒稽古の思い出が深い。朝五時半 れを着て稽古である。大寒ともなれば寒稽古である。私は を絞れば汗がしずくとなってしたたり落ちる。翌日またそ この例に漏れなかった。八月の暑い盛りの稽古は、柔道着 の一つとして、土用稽古に寒稽古が行われる。私の柔道も 自分の心身をとことん苦しめて鍛えることを心がける。そ れは日本の文化である。そして、この﹁道﹂の修業では、 は神道・仏道など宗教に到るまで﹁道﹂の観念がある。こ 我が国には﹁道﹂のつくものが多い。芸道、武道、はて 三土用稽古に寒稽古 ことに耐えた経験からであろうか。四年生頃から毎朝五時 る。裸になって冷たい柔道衣を着るのは辛かった。こんな 半に起きて冷水摩擦を行うのが習慣になった。冬、吹雪の 古が待っている。それが終わって朝食、そして授業が始ま 敵を愛せよ﹂に通じるものでもある。人にはライバルが必 ﹁礼に始まって礼に終わる﹂ことは相手を敬うことであ 要だし、集団にはよい敵がいなければならない。ライバル ば.⋮:﹂の境地であった。 中で永を割ってする冷水摩擦はさながら﹁心頭を滅却すれ り、﹁武﹂としてはライバルを尊敬することである。﹁汝の ける。自分を顧ゑても批判者︵ラィ尋ハルの一変形︶がいたお 武道の試合は一対一で行われる。礼をすれば相手の如何 四試合 がいるから励承がつく。敵がいるから集団はまとまってい と思ったが、今は感謝の念が沸くのを覚える。年を取った 陰で今日の自分がある。そのときは、﹁こんちくしよう﹂ せいでもあろうが、﹁礼に始まって礼に終わる﹂ことの真 意がようやく分かりかけて来た。 (12) は許されなかった。精神を集中させて相手に向かっていく を問わず、一人で敢然と立ち向かって行かねばならない。 いう剣道の道場を開き、青少年の育成に励んでいる友人 道は最適ではあるまいか。校長を退職してから、凌雲館と りに心身は鍛えられるものと思う。が、青少年にとって武 武道は良いといっても、ただやればいいというものでは ︵渡辺八郎氏︶がいて、大変成果を挙げていると聞いている。 相手に技を掛けられないような卑怯とも取れる姿勢や組手 心境は、今にして思えばまことに得がたい経験であった。 できるまでは真剣に錬習に励むこと。かつその武道にある ない。やるならそれが自分にとつてどういうものかが会得 後年、学校や研究会で﹁首﹂となって事を始めていく際は いつもこんな心境であった。今もいくつかの長を引き受け 程度精通するよう勉強することである。それによって自己 ているがそれは変わりがない。柔道での試合が役立ってい るのかも知れない。 の日常のもろもろに結びつけて考えられるようになり、初 ︵特別会員・日本体育大学非常勤講師︶ めて効用が大きく感じられて来るo 清彦 の眼から見失われ勝ちであるが、文学散歩・歴史散歩の対 である。科学や交通の発達によって、時にこの要素が人間 先ず天と地は人間を形成する自然環境であり尊重すべき ら記してみる。 雑で難しいものも含んでいるが、私なりの体験を述べなが (13) 五何事もある時期集中して励む事 どんなスポーツでもそれぞれいいところがあり、それな 天。地・人の尊重 人間を巡る環境の重要なものとして種々のものが挙げら 川 要素を考えたい。勿論この三要素に対する理解と認識は複 れるが、道徳教育の資料・素材として私は天・地・人の三 古 象として注目すべきであろう。私が国立の国文学研究資料 存在する意義が私には貴重に思われる。それは神田の古書 と国際性の発展も併行すべきで、日本弘道会が東京神田に れぞれに受ける感銘一入である。私個人としても戦時下に 館に勤務した頃、隣室に居られたドナルド・キーン氏など 学んだ本郷の学生生活や、太平洋戦争時代の軍隊生活時代 である。また皇居や靖国神社も近距離に仰がれるので人そ 色紙などの執筆を願うと即座に自作の和歌・俳句を筆で書 の戦友︵例えば山県有信・北沢竜太郎君などの故人︶も偲べて感 展街が近所にあるので、日本文化の歴史資料の入手に便利 かれるので仰天して、﹁キーン先生は日本人が化けて居る 慨深い。いずれにしても日本弘道会の国際平和裡における は日本中の名産は何かとその地名まで諸記されているのに のですか。﹂などと私に質問する者もいたが、種灸の角度 は感心した。資料館の女子勤務員が転勤の際、キーン氏に から、日本の歴史・文化の尊重を国民が再検討する必要が 使命と発展が祈念される次第である。 ︵特別会員・国立国文学研究資料館名誉教授︶ あると思われる次第である。それによって我国の歴史の進 歩が意味付けられることにもなろう。その際、伝統の尊重 主・自律を重んじて道徳的価値を判断し実践することが良 を口にするだけで強制だとか押し着せだと批判され、自 隆斗 今日のように、人間的価値がさまざまであったり、個人 全峰呼の圭貝丘 の自由を基本にしている社会では、道徳教育をどうすすめ い社会では結果を出すのは簡単なことではない。最も頼り 識とされるが、自主・自律の伝統や人間環境が熟していな にされる学校で、道徳的価値として例えば﹁礼儀の意義を て効果を最大限あげていくかの問題は、きわめて難問であ 社会ならば、道徳教育のすすめ方もきちっと定まってくる 理解する﹂、﹁正義を重んずる﹂、﹁他の人に感謝と思いやり る。戦前のように、中核となる道徳の大本が定まっている が、戦前の反省にたった戦後の社会は、道徳や道義の言葉 (14) てやっていても、現実に起きているのは、暴力、非行、い させ、なお不十分なところは特別に﹁道徳の時間﹂を設け どスローガンはあってもただ賑やかさだけが取り得で、人 はきわめて教育機能が弱体化し、街おこしや地域おこしな 力は非常に大きいものがある。昔は大きかった。しかし今 いま一つ社会はどうだろう。人間形成に地域社会の教育 父母は子どもの成長を願うなら道徳的基礎をしっかりつけ じめなどの多発である。学校側はいまの道徳教育の方針を の心をもつ﹂、﹁自然を愛し美しいものに感動する﹂をあげ、 妥当とし、時間の経過を待てば結果は出るとするが、現実 間同士のつき合いやマナーなど無頓着であり、表面だけで るよう自省しなければならない。 は秩序のない憂うべき人間関係が露出して、道徳教育の効 学校生活のなかで子どもの自主性・自発性を尊重して実践 果が容易に出ていない、難かしさを思わせる。子どもの道 いずれにしても道徳教育の機能社会全体に問題がある。 人間の心を結ぶ深さに欠けている。 いまこそ、学校、家庭、社会の三者が協力し取り組むべき 徳性は、生活環境と人間関係に支えられて育てられ発達す るから一律に学校教育の責任の云灸は出来ないが、現実に るも、教育何程普きも、圃中に一二の俊才あるも、園民全 凡そ園の政治・法律何程完全なるも、海陸軍備何程狸な ︵特別会員・日本大学商学部教授︶ 時ではないか。 とも云える。子どもに日常生活のなかで道徳性に対する知 学校が荒れ、子どもが荒れていては責められて致し方ない 先生は子どもの心理と発達と社会生活の有様と変化に注意 的な判断と統制能力を磨き、望ましい行動を期待するなら、 深いまなざしを送り、周到な教育計画と配慮ある指導に徹 篭の品性良善なるに非ざれぱ、決して国威を海外に耀かす して行うべきは何事ぞ﹂より︶ ︵﹁西村茂樹著﹃日本道徳論﹄第五段・道徳曾にて主と からざるなり、⋮⋮ の方便を用ひて国民の品性を良善にせんことを求めざるべ からず、而して吾道徳の曾員たる者は殊に力を議し、種々 切なりと思は壁、人々自ら奮って其品性を良善にせざるべ こと能はず、故に余は全国の人に望む、若し賞に此国を大 しないと結果は出ない。あえて強調しておきたい。 子どもの道徳性は、生活環境と人間関係に依り育つとす るなら、子どもの道徳性養成は、学校だけでなく、むしろ 家庭や社会の方にある部分では負うことが大きいであろう。 その家庭がいま、どれだけ膜や習慣づけができているであ ろうか。電車や人の集まるところで子どもが大声を出した る。それらの光景の先には家庭の教育機能の低下があろう。 り、他人に迷惑をかけても親は無視したり平気でいたりす (15) 先ず基本的生活習慣を いわゆる賎は家庭教育にあるべきであるが、現在の家庭 安達 り、よほど尊敬する人か知人でないかぎり教育力は及ばな た接し方によって道徳観の成長は期待される状況でない家 境は失われ、一部には親中心、放任あるいは過保護といっ 化など、以前のように日々の生活の中で身についてきた環 意識調査で、共に﹁基本的な生活習慣﹂が児童・生徒にとっ ませていただいた。ある学校の教員、保護者を対象にした で五人の先生方が問題点を指摘されており、同じ思いで読 本誌第九六二号︵平成五年一・二月号︶の特集﹁心の教育﹂ く、社会における教育力には限界がある。 庭もある。マスコミで取り上げられることによって過大な ﹁基本的な裳は家庭でやってほしい﹂と考え、保護者は﹁家庭 ているという結果がある。またその調査では多くの教員が での賎に足りない点を学校で指導してほしい﹂と考えてい て大切で、ぜひとも身につけさせたい道徳性であると考え 一方、学校における道徳教育は教育活動の全体を通じて、 る結果もある。基本的生活習慣の指導が家庭においてこれ イメージを与えられるが、多くは健全な家庭で、次代を背 計画的、発展的に行うとしへさらに私どもが習った修身に 以上期待できないとすれば、家庭との連携をとりながら学 校における指導に待つほかないと考えられる。先の教員の は、主題に対する興味や関心を高めどう対処すべきか動機 意識調査の中で基本的な生活習慣の指導上の問題点として 心情が行動に至らない六六% 心情面の指導が不十分五四% について考えさせ、確認を図り今後の発展につなげていく 対して、現在では道徳の時間が設定されている。その時間 負う子供たちが育っている。 環境は核家族化、少子化、共働き家庭の増加八価値観の変 次 づけをし、意見交換させながら生徒一人一人に道徳的価値 なく、児童・生徒が自分で積承上げていく倫理観である。 教師間に取組承の差がある四七% という展開である。教師の一方的な押しつけ的なものでは 〃次に、社会の教育力であるが、‘平素の人間関係が疎であ. (16) 伸 が挙げられており、児童・生徒に対してやや一方的に外面 ければならない。大学で講座が設定され、教員研修で磨き、 徳性を高め、児童・生徒から親しまれ信頼される人材でな ぱならないpそしてなによりもまず教師本人が人間性?道 それが学校の道徳教育で児童・生徒に浸透し、次の世代の 的な行動に対する指導に重点が置かれ、道徳的な心情面の 教員が育つというサイクルが必要である。 指導が弱いように思われ、生活習慣の指導には道徳教育の 基盤が必要である。その上に教師間の共通理解が重要で、 ︵島根支会会員・元公立高等学校長︶ 一貫した指導を行うには教師全体が指導の必要性を十分理 の土台のところが心配で次のような提案をして承ようと思 ありふれた文題をつけて恐縮であるが少年たちのくらし 車でお母さんに送ってもらって遅刻を免れる子もいた。こ 込むのを見た。リーダーらしい少年が入口で待っており、 朝の散歩を楽しんでいて、道ばたの教会に子供たちが駈け た。ついでにもうひとつ述べるが、同じこの国で日曜日の (17) 解し、学校の教育活動全体の中で指導の展開を図らなけれ い立った。大分まえに北米西部のさる都市を訪れる機会が のときも私は︵日本の子どもたちは日曜日ごとにお宮やお寺や教 内田 あり、電車に揺られながら坂道の多い郊外に遊びに行った 会にお参りしないだろう︶と首をかしげていた。これはまこ ささやかな提言 っていたp両親は座席に並んで談笑しており幼児は母親の のモラルなどを比較しようとは全く考えていない。断片的 な事実を一方から見るだけで評価してはならないことは承 とに卑近な例であって、このようなことで彼我の国の少年 左に相当な揺れようだったがその子は立ちん坊だったので 知しているつもりであり、未来に向かって必要な点検とい ひざにつかまって腰かけさせてくれるようむずかっていた 私はふと︵日本の父母ならどうするだろうか︶と思ってしまつ が父も母も彼に席を与えようとはしなかった。電車は右に ときのこと、向かいの席に両親と保育園くらいの幼児が乗 蕊 ったまでである。 う意味で体験にもとづいてすこしぱかり記してふたいと思 以上の感想にもとづいて平凡な提案を試象たいと思う。 つと敏感に反応したいものである。 くる﹂という提案である。それは口では簡単に言われるけ れども実行は至難のことであって、多くの場合に敬遠され それは一口に申せば﹁困っている家庭に握手の手をさし伸 あるいは﹁たてまえ﹂や上からの訓話でうやむやにされて 子どもには︵日本の場合︶九年間の義務教育の学校が用意 設けられている。それらの学校は多かれ少なかれ地域社会 され、その次には準義務化した高校をはじめとする学校が に支えられ成り立っているが、いまその学校が病承、苦悩 ながらあまり活用されず、勿体ないことであった。地域や きた。我灸にはせっかく数多くの貴重な失敗の教訓があり なのだという﹁無知無力の自覚﹂であろう。したがって 学校の再生のキイポイントは多分お互いがゑんな弱い存在 しているという。あるいは栄養失調に陥っているのか。父 するが、例えば高校への不本意入学は増える一方、中退生 と母は育児がうまくいかないときには学校と地域とに期待 徒の数は年間十四、五万を下らないとか、世界に冠たる︵と 護などのため子育てに手が回せないことであろう。児童憲 家庭の問題のトップは、父や母が不在であり次には労働介 てはまちがいである。︵それはボランティアのこころである。︶ の差と運動能力の差とは同じ程度に考えてよいのかいけな 章には﹁すべての児童は家庭で正しい愛情と知識と技術を. ﹁困っている家庭﹂へ応援こそすれ﹁助けてあげる﹂と思っ いのか。しつけは学校で勉強は家庭と塾でそこそこやる、 もって育てられ、家庭に恵まれない児童にはこれにかわる 我々が思っている︶わが国の小中高校の生徒ですらそんな具 あるいは酒も煙草も異性とのおつきあいも家庭では手に負 環境が与えられる。﹂とあるし、また﹁あやまちをおかし 合である。いったい学習とは権利なのか義務なのか、学力 えないので学校でよろしく。外国ではおよそこんな領域で 実のところ父と母との役割、さらには男女の役割とかあ 学校が乗り出せば非難を受けるに違いない。私はずっと島 り方とかが子育てにひびいているので落ち着きのわるい提 た児童は適切に保護指導される。﹂とも述べられている。 よく分からず多少はらはらもしている。中高生ぐらいの年 しかし、この憲章は一般に周知されているとは言いがたい。 ごろの娘が外出するとき母親がゴム製品の携行を確かめる ることに私ごときがとうてい論述することはできないが、 案にならざるを得ない。社会全体のありように関わってい あることを大いに誇りとしているが、都会地の事情などが 国も海外にはあるらしいが、それに比べると島根の青少年 根県に住んでいてこの故里の学校教育が公私立とも健全で は恵まれている。﹁問題行動の一般化﹂という表現にはも (18) で社会の一員としてその活動を重んじ、よい環境を与え、 ハードルであるが、子供をきちんと鍛え馴れさせ導く一方 く子育ての費用︵大学卒まで︶一人二千万円も容易ならざる ことを見落としてはならない。厚生白書に載っているごと 大仕事であるし、次にそれはつねに楯の両面を有している 成人がバトンを確かに手渡すため取組まなければならない 子供ひとりをまつとうに育てることは、やはり地域全体の ている事情も知っていただきたい。 と説く。この二つの奨励と禁止が学校を萎縮させ敬遠させ は尊重する一方で公立学校では宗教教育をしてはならない 記されている。また宗教に関する寛容の態度と宗教の地位 せよとある一方で、政治教育などの活動をしてはならぬと 育基本法には良識ある公民たるに必要な政治的教養を尊重 である。ひとこと学校を援護して申し添えるが、憲法と教 学校の危機が叫ばれて久しい。我が国が明治維新から一 る家庭への応援も同じこと、心ある住民が挙ってそれぞれ い話がそれにも人材が必要であり資金もかかる。困ってい 国民あげてモラル向上の要が痛感される昨今であるが、早 誤解を怖れながら一人の庶民として記させていただいた。 世紀あまり息せき切って富国強兵に努力する中で、学校は 人間として尊重していくことが肝要であろう。 国策遂行の先陣を承ってきた感じであるが、ここにきて全 ︵島根支会会員・元松江市教育長︶ の力を出し合いたいものである。 の機関として立ち直り、背筋を真直に伸ばしてもらいたい。 国の学校は公立私立を問わず住民とその社会の幸せのため 危機の突破はまずこの共通理解に立つことで緒につくはず 菅原正三 家庭教育では右のような教育の阻害条件が少ない。だか いのではないか。 父母のための基礎的道徳教育の手引き およそ教育と名のつくことに携わっている人が、生活費 を稼ぐという考えと我執に偏っていては成果が挙がりにく (19) したら体を正すことから始める。腰骨は体の中心でこれを 自分でバツと起上がる自律へのタネまき。④心を正そうと 、、、、 ら小心中学校の児童生徒で、父母の努力によっ.て、学校教 のスタートにつながる。⑧時を守り、朝は目覚ましをかけ す。これらは一つの行動のしめくくりであり、次の行動へ これは家庭における日常生活の、他の教育では持ち合せな 、、、 育の基盤ともなる承ごとなしつけを身につけた子がいる。 い特長をうまく活かして実践された、基礎的人間形成の優 のある子に育てる。⑥これだけは絶対にしない、と自己を 抑え、表に飛び出して車にはねられない子、折り目切り目 きりつと立て心を集中させ、心と体の重心を下げ、衝動を 次に私が関係したある地域簿偲母達汰信頼ずろ特定の 確立させ、人間としての最低基盤線を確保させる。以上は れた成果だと考える。 つつ学校と家庭が一体となって実践した結果、遂に高い全 師を遠方から毎年一回招き、十数年も継続して指導を受け 消極的態度を指向するものではなくて、次の如く積極性自 初期段階の道徳教育は、めあてと方法が端的でわかり易 は毎日の新聞を所定の場所に整頓する、中級年は玄関の掃 事を全員で分担する活動を進める。一例を挙げれば初級年 律性主体性へと行動実践を展開する。実践は家族が家の仕 、、、 国的評価を得た﹁家庭教育﹂の一端を紹介する。 く、簡にして要を得、事物に即して具体的で常時一貫継続 、、、 する事に極まる。 り㈲腰骨を立て⑤﹁これだけは絶対にしない﹂を約束する。 へと発展させる。しかも父と母と子が寝食や日常生活の場 的情操・宗教的情操そして知的な判断力や意欲的な行動力 三、家庭教育は人間形成のタネまきで、この上に更に道徳 め、責任を果したらほめる。 と五大原則を挙げ、いかなる時・処・立場においてもあて を共にしながら団らんの中で同じ目標で共に行じ共に励ま 除をする。高級年は風呂を洗うなど、家族で話し合って決 はまる人間の生き方と社会集団のあり方の根底を身につけ し合う実践によって、真の家庭が築かれていく。そこでこ 一、めあてとして﹁人間らしい平凡な人間﹂の根づくりを させる努力をした。 れらの成果を確実にするためには父母が師をもつことが肝 する。具体的目標として①礼節を正し⑧場を浄め⑥時を守 二、右の五大原則の行動実践としては⑩朝のあいさつと、 ︵島根支会会員・島根県退職公務員連合会副会長・元公立学校長︶ 、、、 呼ばれたらコイ﹂と元気よく返事をする。これらは家庭 要である。 、、、、 や集団の空気を新鮮にすることであり、相手を敬い受容す 、、 ることで世の中の道理をかゑしめることである。③身の周 りを整え脱いだ履物をきちんとそろえ、イスを机の下に戻 (20) 出した。子供たちは先行きの短いことを知っていたのでな 長い間病床に伏していた母が﹁桜の花が見たい﹂と言い 母親になっている。自分の子供に道徳的な膜をどしたらよ かと諦めた。このような教育を受けた子供たちが今父親、 あった、わたしは不満だったがこれが新しい道徳教育なの いが道徳性の酒養になるのである、との指導主事の指導が 浅井 んとかして見せてやりたい、外に連れ出すことも無理なの いか、迷っているのではないか。その為膜まで学校に任せ この頃思う事 で近くの公園にゆき一枝戴いてと言う事になり早速公園に てしまっているのではなかろうか。反面、学校で些細な事 以上日頃感じている愚痴をのべたが、今後どのように対 こともある。 思うこともある。こんな私の考えが古いのかなと反省する を称賛する入このような人と話し合うと無性に腹立たしく 旦動を取ることが如何にも進歩的だと考える人、またこれ 道徳的価値観の多様化を隠れ蓑に日本道徳からは承出る ろうかp このようなテレビや新聞を見た子供はどう受け止めるであ ないか、との建設的な助言をしている事を見たこともない。 校を批判する、評論家もこのようにしたらよかったのでは 故でもあると大騒ぎをする。マスコミもここぞとばかり学 行ってみた。桜は満開だったが木の下には﹁この枝を折ら 泉 ないで下さい﹂との立て札がたてられていた。 これは、中学校の道徳の時間の資料として取り上げたも のである。 この桜の花を取りに行ったのが自分だったらどうします 子供たちの意見は多種多様であった。 か。 に告げて納得してもらう。 一、立て札の通り公衆道徳を守り枝を取らないで理由を母 二、母の一生はこれで終わりで、桜はまた来年も咲くので 管理者に話して一枝戴いてくる。 最後はこの二つにしぼられた。 どちらが良いかまで話し合わなくともよい、この話し合 (21) 和 まず道徳的な規範を作り全ての国民に周知させること。 処すべきだろうか。 ているのではなかろうか。社会教育の機会を作り、人間の 人道徳、社会道徳とありますが、会員である以上すこしで 良い方向に向かうのではなかろうか。日本弘道会綱領の個 のではないと確信している。日本には日本独特の国民性が けているが、日本道徳は多少変わってもそれほど変わるも しれない、なるべく努力して現代社会に適応するよう心が 戦前の教育を受けた私どもの考えは古いと言われるかも 尊さ、優しさを感じさせる事が必要ではなかろうか。 もこれに近ずこうとします、ここに綱領の意義があると思 あることを誇りとしている自負があるから。 民主主義の美名のもとに反対者もでると思うが無いよりは います。 ︵干潟町支会会員・元公立学校教頭︶ 柴田徳二 〔22) 社会教育の拡充、経済至上主義に走り人間性を失って来 地域社会における教育力の高揚を 八万石との関連について記述したいと思う。 私の曾祖父は幕府に仕えた江戸の茶師で、干潟開拓の祖 鉄午禅師の手引きで入植し、大間手村の名主を勤め、佐倉 環境は人をつくる、人間形成をめざす教育は、人間とし 西村先生と同門であったという︵﹃弘道﹄第九五九号︵平成四 して大間手学校を開設して地方教化にあたった。会祖泊翁 設定する必要がある。一期一会の出合いにより、人間形成 上東海で同じく佐倉藩で文武を学び郷に帰り近隣村の名主 年七・八月号︶に掲戴、表紙裏︶、又服部治右衛門の二男が井 私はこの稿を述へる前に、弘道会との出合いと郷土干潟 はなされ、深化されていくものと考えられる。 藩の直轄であるので藩校に遊学し、儒学、剣道を学び帰郷 宮 ての在り方、生き方を基本とする環境との出合の場を多く 緒 出合いにより、奇しくも、曾祖の懐いた開拓と、儒教を根 連は東海の娘が私の祖母である。弘道会、干潟八万石との ったC鉄午禅師との親交が深かったという。柴田家との関 総元締をつとめ、万才学校を開設して、子弟の教化にあた 大規模農業経営等、地域の歴史的産業文化も変容し、以前 農業中心の生活から、兼業農家もふえ、他産業への流出、 性化が図かられている。地域社会、経済の進展に伴なって 地や住宅団地の造成、大原幽学史跡公園の設置など町の活 ない。 地域社会の要望や実態を把握して検討を加え、学校、家 のように子ども達の手をかりての農作業を営む姿は見られ 庭、地域社会との連携を密にして生徒の個性を生かし、豊 を、私が引継いで、同じ場の出合いで、人間学儒学の教育 て同じ場で四十八年間の教育遍歴を継続し、父祖の最初の 理念を具現する人間形成の実践活動を父祖の偉業を引継い かな心情をもつ子の育成として取りあげられたのが次の事 幹理念とする、地方教化、干潟八万石を中心とする理想郷 開拓地、古城西小、又干潟町、教育行政職教育長として、 項である。 び。学級、学年集団の仲間意識をもたせ豊かな人間性を育 勤労意欲を高め、勤労の尊さを知らせる。勤労と協力の喜 ①勤労生産体験学習⋮栽培活動、施設等の体験を通して 父祖の事業の総括をなそうとは、﹁歴史的現実﹂の哲理を 参加を続けている。昨年四月教育委員会を通して、町中学 実感し現在は市井の老教師として、生涯学習を通して社会 一年三クラスの書写指導の教壇に四十数年ぶりに立ち、指 校より社会人活用学習の講師としての依頼があり、中学校 草花栽培、水田稲作栽培、畑作野菜栽培 む。自然を愛し、人間と自然の調和を求める子の育成 農家、工場、商店、福祉施設への体験学習 導要領により、年間三十五時間、教材研究、教案、資料づ くりと尊い汗を流した、短期間であるが現場を通して、道 ②社会人活用学習⋮情操教育面では郷土芸能クラブ︵郷 して外国英語教師を町教委で専託し、国際化をはかってい ⑧英会話学習⋮小中学校で実施、教育委員会が県と連絡 Bの担当が望まれる︶ 書写指導︵正課の授業であるので文化協会書道部の中で教職O 当部講師 士古典芸能︶、伝統工芸クラブ︵竹工、木工︶←文化協会の担 徳教育の私見を述べて見たいと思います。 |地域社会に広く開かれた学校教育 干潟町は旭市を中心とする東総地区広域市町村圏にあり、 米、野菜、養豚、養鶏、園芸の促成栽培等が盛んであり、 圃場の大型化基盤整備と大型農業整備事業の実施、工業団 (23) そのようなことが子ども達にも反映してか、少なからぬ 淋しさを感じます。 ども達を取り巻く状況も、〃心″の面に焦点を当てますと 現代社会における﹁心のあり方﹂が問われています。子 の嵯個 ふるさと祭り︵産業まつりを兼ねる︶、町民体育祭、文化祭、 三行政面の対応 ②町内自主団体との連携をはかり、協力を要請する 活動の促進・助成をする 高齢者学級、生涯学習として文化協会各部と連携し、自主 ⑲公民館活動の充実⋮婦人学級?若妻学級、主婦学級、 二家庭、社会の教育力を高めるための社会教育の充実 る 大原幽学祭り、干潟花火大会、幽学公園、ミニ動物園、 キャンプ場 住民意識の高揚と町の活性化をはかる行事に学童が参加 結び 学校に於ける道徳教育は数度の改訂により農村地区では 定着し深化されつ上あると思考される。問題は社会環境の いう立場で考え、社会道義の高揚こそ緊急の課題であらう。 教育力を高揚することが必要であるo全入教育、全村教育と 竜頭蛇尾、拙文を謝し稿を終ります。 出土0鰹﹄朝 J く ︵干潟町支会監事・元干潟町教育委員会教育長︶型 問題があるようです。 細かなことになりますが、礼儀のことひとつ取りあげて も満足にあいさつができない、どんな農がされているのか 首をかしげたくなるというような話が耳に入ります・ 教育の末端に身を置く者としてその責を免れることはで 会祖西村茂樹先生が提唱されてこられた﹁道義国家の建 きないと責任を感じるわけです。 り″という観察記録を年間を通してしています。ちょっと した自然の変化をとらえ記録するのです。その対象に花を ﹁この草花は何という名前ですか。﹂と三年生の女の子が、 咲かせた草花が対象になります。 トングデージーという名前だけど、この花は太陽の光が当 鉢の雑草を取っている私にたずねてきます。﹁リビングス 設﹂の理念に再度、学び直しそして教育の指導のあり方を 学校で実践されている道徳教育は、週一時間設けられて ます。 たらないと花を開かないのだよ。⋮.:﹂と会話が交わされ 真剣に考え直さなければと自責の念に駆られる昨今です。 いる特設の時間と、全教育活動を通して指導される両面か 学校で育てたものですか。﹂と言われる。不揃いの草花を 植え代えている私に話をかけてこられました。﹁この花は つい先日も校庭を通りか入った方が、玄関前にある花を ら行われています。 その全教育活動を通して教育される道徳的実践に関連す るであろうささやかな一例をあげて象ることにします。 本校では毎朝、五、六年生の栽培委員会の子ども達が、 ″じょうろ″や水道につないだホースによって校舎の外に ですp種を蒔いて子ども達といっしょに育てたものです。﹂ 見てそう言われたのではなかろうかと考えました。﹁そう これも花を介しての交流のひとこまです。花が開くとい きるのですね。﹂と会話が続きました。 ではないかと思っていつも見ていましたよ。小学生でもで と答えます。﹁そうですか。私はどこかから買ってきたの 咲いている草花に水をやっています。 今、.︿ンジー、ぎんぎょ草、さくら草などが小さな花び らを開いて競って花を開かせています。校舎の玄関前に、 昇降口に通路にと、ところどころにある花壇にと緑の葉の 先に花をつけた草花がそこを通る人の目に触れ、回りをあ てるようになることは、花が人間に贈ってくれるプレゼン いことですが、心がなどんだり、ほのぼのとした気持を持 をも開かせ交じり合うということができるのです。何気な うことは、人の目に触れて楽しませるだけでなく、人の心 ささやかな潤いや爽かさを与えることができれば、草花の トなのだとも考えました。 朝、登校してくる子ども達に、学校に来校される方々に たたかく包承春を漂よわせているようです。 ます。 心を育てることの容易ならざることを認識しながらも、 世話をする子ども達も働きがいがあったということになり 本校の子ども達は、理科の学習の一環に〃季節のたょ (25) 心を耕し育むことは、大上段に構えるのではなく、ちょっ になるのではと考えをめぐらします。 とした心づかいや行いが、人の心に触れ働きかけ育つこと 今、現場教師の果すべき役割は何か 昨年八月、たまたま、縁あって、会祖西村先生のミニ伝 校長室の窓から眺める草花は、太陽の光を浴びて息づき、 ︵野田支会会員・野田市立南部小学校長︶ 回りに芳香を振り撒いているように見えます。 石渡 今わが国に生を受けているものの責任ではないのか。とく 西村先生の偉大なるご功績を、後世に伝えることこそ、 めている生涯教育の原点ともいうべき、先見的提言である。 生涯を想起させていた壁く時、余りにも、そのご功績が偉 うのか。 に将来、わが国を背負う小国民に伝承する大役は、誰が負 記執筆の光栄に浴させていた壁いた。今、静かに先生のご として脳裡に焼きついてはなれないものがいくつかある。 憂慮すべき事態を見逃すわけにはいかない。 小・中学校における道徳教育の現場に目をおとすとき、 一、今の道徳教育はこれでよいのか 大であったことを痛感している。その中で最も強烈な印象 ある 。 学制発布時における伊藤総理に対する直言も、その一つで ﹁学制は立派であるが、大事なものを忘れている。それ とは、全国講演行脚、しかも晩年に至ってからの決行には、 西村先生の面目躍如たるものを感ずる。更に驚くべきこ 自分との対比において真剣に考え、判断することが、置き 習で一番大切な、教材の奥にひそむ価値・葛藤の場面で、 って、教材の内容を理解することに精いっぱいで、道徳学 貴重な一時間の道徳の授業が、教師のつめこゑ方式によ 文句なしに頭が下る。修身科の特設、教科書の発行、とく ざりにされたま上時間切れになってはいないだろうか。も は日本人の心であるo﹂︲ に学校卒業後、学校に行けない人への配慮は今叫ばれはじ (26) 敬 し、そうだとしたら、その要因をさぐって承る必要がある 例文1の訓練が、できるようになってから、例文2の訓 例文1は読解、例文2は作文の訓練教材 ︵佐倉支会副支会長・元公立学校校長︶ 林田武雄 高校の﹁社会科﹂の免許を得ているが、実地には、昭和十 しかし、私は、﹁師範学校、旧制中学高女﹂の﹁修身﹂、 おける道徳教育﹂に関心が深い。 はないだろうか。 び方を定着させることが、今の現場教師の果すべき役割で このように、小・中学校の子ども一人ひとりに道徳の学 力で読解することが可能となる。 小学校段階で読解能力を身につけておけば道徳教材を自 ︵文部省道徳教育実験校として試験ずみ︶ 裁量として、全校で毎日二十分間とることが有効。 この訓練用の短文を使った能力定着訓練は、学校の自由 練を、やることが効果的 のではないか。 二、﹁子どもの読解力の不足﹂が、最大の要因となってい るのではないかと考えている。 子どもに読解する能力をつけるにはどうしたらよいか、 このことについて詳説するス・ヘースをもたないので、簡 単にのべて承ると、 道徳教材の読解力をつけるには、次の短い文を読みとる 例文1雨が、ふってきました。※︵こまった︶ 訓練をすることが効果的である。 あしたは、えんそくです。 例文2雨が、ふってきました。︵よかった︶ ※︵田うえがおわりました。︶ 指導者の熱意に期待する ﹁道徳教育﹂といえば、場として﹁家庭﹂﹁社会﹂﹁学校﹂ 等広い。 私唾多年学校教育関係に携わっていたので、﹁学校に (27) 埋めて、富山師範附属枝の経営の全体が全国に紹介された。 力を重ねた。二年後には、月刊の﹁教育雑誌﹂の全紙面を また、﹁朝日新聞社﹂主催の﹁全国健康優良児﹂︵当時は、 五年、栃木師範予科の﹁修身﹂を数年間指導したに過ぎず、 た。 師範、短大、大学では、﹁国語﹂、﹁文学﹂の指導に専念し の﹁教員適性審査﹂で、遅くまで残されて適格と判定され 省すべき点が多く、指導者代表の私は、後に、関東甲信越 六年生の学級全員対象︶表彰で、女子が全国第一位、男子が 現在、﹁道徳教育﹂に関連して、﹁教育基本法﹂﹁学校教 た次第である。しかし、この例話は、﹁指導者﹂の強い熱 全国第二位に表彰された。ただし、当時の戦時下の道徳は、 育法﹂﹁学習指導要領﹂﹁指導要録﹂﹁指導計画の例﹂その したがって、﹁道徳教育﹂の﹁提言者﹂としては、まこ 他関係する事項について、﹁文部省﹂としても、まことに 意による﹁実践﹂が、必ず成果を挙げるであろう実例とし とにふさわしくないと考えるが、敢えて、拙文を提示して、 詳細、丁寧に示している。しかし、その実際の効果挙をげ て示したものである。 ﹁皇国民の錬成﹂で、終戦後の平和国家とは相反して、反 るのは﹃指導者﹄である。これら資料を参考としつ上、指 最初に述べたように、﹁道徳教育の成果﹂も、指導者た羽 る教員各員の熱意ある実践に侯ち、しかも、自信をもってく 採否をおまかせしたい。 実践に専念すべきであり、また、そうしなくてはならない 導者自身が、絶えず積極的に、研究、工夫、努力を重ねて べたが、過去にも、良いものはあるだろうo良いものは取 共同することにあると信ずる。今、﹁過去の思い出﹂を述 モツ ナ ︵特別会員・千葉教愛短期大学名誉教授︶ 画⑪ j ことは言を侯たない。私は、指導者が、﹁熱意﹂と﹁自信﹂ ■凸 を温れて新しきを知れば、以て師と為すべし。﹂である。 タズ 師、諸橋轍次先生御指導の﹃論語﹄中の﹁温故知新﹂﹁故き フル 教育生活六十一年、米寿翁たる私の﹁座右の銘﹂は、恩 りあげるべきである。﹄ とをもって、﹁必死﹂に﹁共同﹂で実践することによって、 私は指導者の必死な研究熱意による実践が、必ず成果を 必ず、その成果が挙がることを信じている。 挙げ得ることを、実地に体験した思い出がある。 昭和十六年︵一九四一年︶四月、﹁国民学校﹂発足の際、 恩師、富山師範学校校長木暮安水先生のお招きで、若輩三 十歳台の私が、栃木師範教諭兼舎監から、﹁男子部附属国 に、十数人の訓導達と一丸となって、その経営に必死の努 民学校主事﹂︵後の校長︶として赴任。戦時色濃厚な非常時 平山秀樹 の道を船尾村の生家に帰省し、父母を驚かしたり。日蓮 畳るところあり。冬季休暇に初めて印膳沼を越して三里 を立てる 近代金工美術界の泰斗として文化勲章を受章し、また、 明治七年︵一八七四︶千葉県印膳郡船穂村船尾︵現印西町︶ 解鐸するについて俳の如き智慧を輿へたまへ﹂と神俳に 願をかけ、仙豊権律師は﹁言の葉の道の源たる万葉集を 聖人は十二歳の時﹁日本第一の智者となしたまへ﹂と祈 の香取家に生まれた。幼くして佐倉の鎮守麻賀多神社の宮 また武人として鎮西八郎は十三歳にして九画を従へ、遮 祈誓をこらし、三十一年を経て初めて望を達したりと。 覚者である。 歌人としても一家をなした香取秀真は、佐倉市ゆかりの先 二九年︵一九五四︶八十一歳の折、宮中歌会初めの召人に選 那王牛若丸は九歳にして諸家系園を見て平家を亡さんの 司、郡司家の養子となり︵明治三○年に香取家へ復籍︶、昭和 ばれ、その務めをりつばに果した後、間もなく病にたおれ 志を起したるなど、これは何れも偉人のことなるが、平 譜﹂による︶ ︵昭三一刊、中央公論社版﹁香取秀員全歌集﹂所載の﹁略年 凡の余も平凡なりに自畳したるなり。 て天寿を全うした。 秀真が金工家になろうと志を立てたのは、十二歳のとき であった。秀真が自ら記した年譜には、次のように書かれ ている。 巨匠秀真にして﹁平凡の余も平凡なりに自畳したるな 佐倉市教育委員会では、﹁わたしたちの郷士佐倉市や日 り﹂と記しているのは、非凡である所以であろう。 野に戦争遊びをし、川に船浮べなどして遊びに余念なか 本の発展に貢献した佐倉市ゆかりの先覚者の偉大な考え方 学校放課後、または休日を待ちかねて近隣のものと共に 明治十八年十二歳 りしが、或時突如として自らの年齢を考へ月樗然として (29) 志 にする﹂ため、﹁郷土の先覚者シリーズ﹂を編集発行して 倉次亨︵佐倉茶を海外に輸出するなど明治期に活躍、倉次重 佐藤志津︵情熱の教育家、東京美術大学再建者、佐藤尚中の娘︶ 一氏の曾祖父︶ 先駆者︶ A5版、教科書体活字を用いた四’五○ページのカラー えて幕制の基を固めた︶ 土井利勝︵佐倉城をつくり、家康・秀忠・家光三代の将軍に仕 秀取秀真 津田仙︵キリスト教精神に生き、日本の近代農業を指導した 平成五年度 や業績を学び、これからの自分のあり方を考える手がかり ある 。 いる。管内小学校児童及び中学校生徒を対象としたもので 弘道会会祖﹁西村茂樹﹂伝も当然この中に含まれている ︵執筆者は本会佐倉支会副会長石渡敬氏︶。 同教育委員会は、倉次重一氏︵弘道会佐倉支会長︶を編集 委員長に、松裏善亮氏︵佐倉支会会員、郷土史家︶や私、また、 小・中学校現場関係者を編集委員に委嘱して、逐年刊行が 続いている。 にふりがなをつけ、児童生徒の抵抗を少しでもへらすよう 版、非売品。平成五年度からは、図表以外のすべての漢字 堀田正睦︵幕末の佐倉藩主、老中首座、日本開国の功労者︶ 平成二年度 また、各地区の図書館や公民館にもそれぞれ適当部数を配 分八○冊ずつを配布して児童生徒の自由な活用を期待し、 同教育委員会では、管内小中学校用として各校二クラス 努めた。 ・天堂創設者︶ 佐藤泰然︵堀田正睦に見出された近代日本医学の先駆、佐倉順 浅井忠︵日本洋画界の父︶ 好評を博しているようである。もちろん、弘道会本部には、 布して、市民の閲覧に供し、さらに関係方面にも配布して 平成三年度 西村勝三︵茂樹の弟、日本近代産業の祖︶ に取りかかる予定であったが、市当局の緊縮財政のため合 き続き第一期の総集編︵合本︶の出版や第二期の企画編集 平成五年度をもって第一期一二名のシリーズを終え、引 刊行以来教育委員会から謹呈申し上げていると聞いている。 西村茂樹 順天堂開設者︶ 佐藤尚中︵近代日本医学の明星、佐倉順天堂二代目主宰、東京 平成四年度 堀田正倫︵佐倉藩最後の藩主、郷土佐倉への数盈の貢献︶ (30) の仕事に向かって慎重に準備を進めることとなる。 に編集会議は開催可能であり、細々ながらも事業の継続は 本の出版は見送らざるを得なかった。しかし、幸いなこと に違いない。それらの人物を発掘して世に出し、青少年の 歴史の陰に隠れた世に知られていない人物もおおぜいいる 郷士にはそれぞれの偉人・先覚者がいるはずであり、また、 むろん国民共通の偉人・先覚者であるが、それぞれの地方、 ︵佐倉支会幹事・公立学校校長︶ の責任と喜びと誇りを感じている次第である。 宜に適したことであり、また、その仕事の一端を担うこと 先覚者シリーズ﹂の編集発行を企画し実現しているのは時 このような意味において、佐倉市教育委員会が﹁郷土の と考える。 道徳教育の資料の一つとして提供することも有意義なこと できることとなった。倉次編集委員長以下編集委員は、次 道徳教育を考え進めるうえで、歴史上の重要人物を知り 親しむことは、単に歴史教育の分野だけでなく﹁国語科﹂ て全体的立場で考えるべきだいじなことであろう。 や﹁道徳﹂での取り扱いはもちろん、その他の分野も含め 喜ばしいことに、近年小学校社会科日本史において、日 本人として知っておかなければならない重要人物が示され、 教科書にも取り上げられているようである。この場合は、 郡司勝美 知育優位となったが、反面最も大切な人間教育を軽視する 道徳教育に想う 教育とは知育、徳育、体育の総合といわれるが、人間と 倒となり、日本の道徳は非民主的で、封建の遺物であり、 傾向となった。特に第二次世界大戦後はアメリカ文化一辺 道徳を否定するのが進歩的知識人であるかのような風潮と して基本である身体と精神を鍛練する体育、人間の本質的 を行うのが順序であろう。明治以来日本の近代化を進める なり、これが道徳教育を欠落させ、モラルの荒廃を増幅さ なものである徳性、モラルを身につけさせた上で知識教育 ために西洋近代文明の知識技術の吸収を優先させた結果、 (31) おいて族生しており、日本社会の崩壊にもなりかねない状 せた。そして道義心の低下に伴なう諸問題があらゆる面に 身につけさせて徳性を養い、それが習い性となることが望 はない。早いうちから膜教育を厳しく行ない、良い習慣を つかないといわれる。幼いときほど自然であり素直なとき ましい。幕末頃の塾式教育では行儀作法から始めて具体的 況を呈しているのが現状であろう。 実践的な教育が実施されていた。こうした環境からすぐれ 道徳教育の難かしさの第一は儒教でいう五倫五常を始め としてその徳目の多様さと抽象的徳目と具体的行為をどう 道徳社会教育は学校委せでなく、まず家庭での厳しい祭 た人物、人材が輩出したことを想起すべきである。 なうべきものである。また最も肝要なことは教える人が徳 礼儀作法から始まり、学校において、そして社会全体でに ることである。第二には、道徳は知識として具備するだけ 結合させるのか、時には相反する事態もあり、錯綜してい 善性悪の双方を併せもつ矛盾した生物であり、社会的行為 でなく、行動として実践されなければならない。人間は性 このようにして始めて、道義のあまねく行き渡った社会 の手本を示すことであろう。 を展望することができ、国際情勢、社会構造の変化に対応 道をはずす行為をとり易いということであろう。第三は道 としての理非曲直を理解しておりながら、利己欲などから 徳心を維持高揚していくための支柱を何に求めるかの問題 できる道義社会を創造することができるであろう。 して行ふべきは何事ぞ﹂より︶ ︵﹁西村茂樹箸﹃日本道徳論﹄第五段・道徳倉にて主と んことを欲するなり。 改良し、国民の品性を造成し、其教化の度くして普ねから り推して他人に及ぼし、種々の方便を用ひて国民の風俗を 行の上より言ふときは、先づ道徳を其身に行ひ、夫れよ ︵茨城支会幹事.︵株︶常陽クレジット相談役︶ である。戦前の日本には儒教、武士道精神、あるいは﹁恥 の文化﹂という道徳心培養の土壌があった。キリスト教国 家には宗教信仰というよるべき道標があった。イスラム社 会のコーランは宗教書というより法律、道徳律の書に近い。 道徳は法律で規制すべきものではなく、また徳性酒養の下 地を喪失している日本の場合、究極的には各人の良心、自 覚に期待するほかはあるまい。困難な道程ではあるが、道 徳的雰囲気をあまねく醸成し、心情による反道徳的行為の 抑制、いわばその成員を心理的に拘束する集団規準にまで 公徳心は幼児期に形成されるもので、あとからでは身に 高めることであろう。 (32) 郷土における弘道精神の再認識と 三ヅ児の魂の愛育 渡遥宏 とになったのは、一つは弘道会要覧の口絵で、︽会祖先生は 程よく親炎したものであります。日本弘道会に入会するこ 茨城支会は鈴木会長、藤下事務局長両先生の御指導を頂 とに非常に親愛の情が感じられたからです。又道義立国の もこれによる。︾と御自筆が写真入りで解説されているこ 論語の一節をとり、モットーとしていた。会誌名﹁弘道﹂ 、茨城支会の発足について き、第十番目︵戦後五番目︶の支会として発足することがで 理想を追求し、新しい時代に対応した日本道徳の確立と理 (33) ﹁子日く人能く道を弘む、道、人を弘むるに非ず﹂という きました。会祖西村先生が提唱を続けてこられた﹁道義国 想社会の実現に身を堵して強く訴え続けてこられた﹁弘 道精神﹂に深く共鳴したからでもあります。今日、経済的 ﹁君子万人の時代﹂を目指す極めて格調高い理念をもとに、 物質的豊かさを一応達成した経済大国日本が、国民の道徳 家の建設﹂の理想を追求し、第七代会長が唱導せられた な﹁道徳教育﹂の一端を述べ、支会に対する執筆ご依頼に 新支会の一員として、日頃考えながら実践してきた身近か 漬が続発し、﹁皇室を敬愛する綱領﹂も排除される青年の 心、政治経済の倫理性がこれに伴わず、特に、ゼネコン汚 先般、第九回研修旅行記﹁常陸路を訪ねて﹂と題して弘 憂うべき現況にあり、特に戦後の若人に対し先輩は努力す 応ずることにしました。 は、その冒頭において﹁弘道とは何ぞや、人能く道を弘む 道館見学についても報告されました。水戸藩校弘道館記で 渡辺武助︵号華洲︶翁や平塚唯鳩氏︵﹃泊翁西村茂樹偉﹄︶の編 会とは極めて縁の深い地域でありました。本会の常任幹事 て本当に申し訳けない次第です。本県はもともと日本弘道 べきで、明治維新で天下に魁けた郷土の先賢志士達に対し 可からざるもの也。⋮.:﹂と藩主徳川斉昭︵烈公︶の親筆に る也○道とは何ぞや、天地の大経にして生民の須竪も離る よる天下の大名碑ですが、多感な中学時代の私は暗調する ’ 点を置き、その教科書﹃修身訓﹄を編集し、恩師渡辺華洲 とあります。創立者渡辺嘉重先生は晩年まで修身教育に重 ゆ常総常総われらが常総学院﹂ 七の支会ができていたのであります。このような歴史と伝 発展に尽くされましたので、活動の盛んな頃は、県内に十 先生もその修正を担当し尽力を惜しふませんでした。渡辺 集委員で後述の渡辺嘉重氏の義弟等生涯を通じて弘道会の 申せ、大死一番の覚悟で、ここに弘道精神により生涯を堵 統ある郷土に生を享けた者として、古稀を過ぎた愚老とは ﹁華洲﹂の号はこの﹁花島﹂に由来しております。華洲翁 両先生共に茨城県南西部にある水海道市花島の出身で、 は六歳年上でしたが、名主を勤めた名家で、母親が家出し けて道義振興のために逼進すべき使命を痛感し、支会設置 を提唱させていただいた次第であります。 て貧困な幼少時代の嘉重を特に愛情こめて訓導し、彼は花 め、水戸市にある茨城師範学校に進学し卒業。明治十六年 島小学校を卒業しても学校に留まり、助手として学費を貯 ﹃弘道﹄第九二九号︵昭和六十二年七・八月号︶でも三シ児 書斎名﹃後楽堂記﹄の選文を依頼したのですが、それに応 洲先生を郷里水海道の自邸に訪問しました。そして自分の 校に就任、教育愛を胸に燃やしそして就任挨拶に恩師の華 の家庭教育から 、三シ児の魂百までの諺の通り道徳教育は先ず幼児愛育 の魂について記したことがありましたが、ここでは、郷士 じて実に素晴らしい教師愛あふれる激励の名文が﹃老幼文 教師の免許を得て直ちに利根川沿いの岩井市にある小山学 の先覚渡辺武助翁と子守学校の創設者渡辺嘉重氏との師弟 詩﹄と題する約三十頁の和本に記載されていることを、地 元の知人から教示されました。私はこの文章を読み感激の て頂きたいと考えます。今春甲子園で全国選抜高校野球大 あまり、その夜は一睡もできませんでした。後日当市の教 愛にまつわる逸話を記し、家庭教育、道徳教育の参考にし に輝いた事をご存知のことでしょう。この常総学院の創立 嘉重:⋮・後楽堂記を読んで想う﹂と題して寄稿したのです 育委員会発行の﹃歴史承つかいどう﹄に﹁渡辺華洲と渡辺 会が開催され、茨城県土浦市にある私立常総学院が準優勝 に何回か栄誉の校歌が一小節だけ甲子園から全国に放映さ を叫んでも、就学率は特に子女が頗ぶる低く殆んど登校し ります。二十四才の青年教師は政府が学制頒布、国民皆学 が、これを詳細に紹介する紙面のないことは誠に残念であ 者こそは、前記の渡辺嘉重先生であります。勝利する度び れましたがその三小節には、 ﹁世界に秀づ日本を創りし明治いま思えあふ建学の 精神をわれらは胸にうけ継ぎて未来を拓く夢に燃 (34) 代の体験から、自分で校内に子守教室を設け、背負ってき ませんでした。嘉重先生は貧困で子守をして育った幼少時 から﹁子守学校﹂創設の必要性とその意義は重大です。嘉 しかも小学課程を無事修了できるのは七・八%といいます 小学児童の就学率は四四%、女児に限れば僅かに一三%、 重先生が﹁されば斯の女の児等を教へ導きてひとなゑの学 た乳幼児も保育しながら学べる、所謂、子守学校を創設し、 翌十七年九月には東京普及舎より﹃子守教育法﹄を出版し 子守学校を設け、いささか力を尽しけるに:::﹂と著述し ましたが、県では自由民権運動加波山事件とも絡んで禁圧 を修めしむるは教育家の任なり。余此に見る所ありて嘗て︲ 的でした。井上毅文相はこれを高く評価し、東京女高師細 一つに挙げられています。その著書の緒言で﹁世の児童の し﹂と筆を起し、政府が国民皆学をめざすのに、一般に貧 中にても子守というものほど哀れはかなきものはあらずか 推奨しています。 川潤次郎校長にこの著書を贈り、日本的保育としてこれを ました。今日では福祉に根ざす貴重な保育の世界的古典の しい家庭では女子を就学させることは容易でなく、多くの させて頂く機会を得たいと念願しております。 ︿付記﹀私自身が両親から受けた家庭教育についても述べ (35) 家庭にとっては子供は貴重な労働力であり、﹁授業料を払 った上に労働力をとられるのはごめんだ﹂と考える人も少 ︵臓釧厳難剛事い州絵噸馴雛郁離齢踊︶ なからずいたのです。今日では幼少年の就労は児童福祉法 邦保 ころが高等学校では、前記小・中学校のような特設道徳は 置により、その実施と充実が承られているようである。と 小・中学校の道徳教育については、特に道徳の時間の設 川 違反の人権問題です。当時の本県教育事情はきわめて悪く、 高校における礼法指導 1高校でも道徳の時間が必要 黒 て指導することになった。しかもこれは選択科目となり、 なく、従来は社会科で扱い、これからは公民科で倫理とし 少年一般に欠けている礼儀作法の充実が承られ、同校の伝 授業の実際では、副読本の利用により、家庭・学校・社 統的教育方針の継承が意図されている。 これを開設している学校は余り多くはないようである。 マナーに関する題材について例をあげると、歩きかた、座 りかた、立ちかた、おじぎは心をこめて美しく⋮⋮などが 会・日常のマナーの学習が計画されている。前記の日常の 配列されている。これらの授業は、教室で行われるほか、 さらに高校生の基本的習慣形成や族、礼儀作法について あることをしばしば見受ける。 曜参還学鰯登下校時のマナーなど、小学生にも劣る事例が .このような状況と、指導要領総則にある道徳教育につい しかし、生徒の家庭・学校・社会生活の大半で、和室に 茶道室で動作の実習も行われている。 で、座礼などの起居動作の習熟を図ることはむずかしいよ おける礼儀作法の経験が不足しているため、週一回の授業 一り方生き方に関する教育を学校の教育活動全体を通じて行 ての記述とを考えて承よう。そこには、﹁人間としての在 に当っての教育課程編成の工夫、教師の研修は、実に容易 う﹂と述べられている。これは結構な趣旨であるが、実現 礼法は、一年の発展として三年の課程にも位置づけられ うである。 このような高等学校における道徳教育の問題について、 して扱われている。 ており、その一部は、就職指導における面接作法の練習と な業ではないものと考えられる。 唱と実践がなされている。 千葉県安房西高等学校︵私立︶では従来から次のような提 なかで、今回の改訂では﹁その他の教科﹂として﹁礼法﹂ 同校では、教育課程編成の特色として、従来は社会科の 2﹁礼法﹂の授業で 折の教員の一言こそ生きた教育であろう。 けないと、その動作の習熟はゑられないものである。この 出しかたは指導してあるが、このような個別化の機会を設 行うものである。礼法の授業として、挨拶、茶のいれかた、 校可能な者︶にお茶当番の課外活動を実施させている。そ さらに礼法学習の応用動作として、三年女生徒︵早朝登 の授業を実践している。それは一年生に対し、週一時間扱 ︵安房支会専門部長・前安一房西高校副校長︶ れは朝出勤してきた教員に対し、挨拶とお茶の接待を毎朝 ︵一単位︶による礼儀作法の習得をねらった授業である。こ れにより、小・中学校の特設道徳との一貫性が図られ、青 (36) 世直しは、万人の君子で 物質生活はこんなにも豊かになり、日々の生活はこの上 高橋 っていきようのない憤りを感ずる。 になったものの、地方農山村は年寄ばかり、老人介護は一 また医学の進歩や食生活の向上で、世界に冠たる長寿国 経済至上主義は依然としてこの世の中を支配し、自然の なく便利になったのに、なぜか心の安らぎは得られない。 生態に即した本来的な人間の生き方までおかしくしてしま 目先の消費文化に押し流され、生活の中で暗夜が消え、星 一方において若者は、夢をいだいて都会に出たものの、 空が忘れられ、果ては自分自身を見失ってしまうケースが 体誰がするのか、社会福祉の最大課題となってきている。 たかも﹃地球は人間のためにあるの﹄といったような経済 生物であるのに、自然の節理も忘れたかのような振舞、あ と安楽の世界﹄とは程遠い生活の中に、きわめて人間的な 多く見られる。でも最近、テレビがもたらす﹃消費と成長 っているような気がしてならない。元来人間は自然界の一 され、オゾン層まで破壊されようとしている。このまま推 活動が展開され、その結末として、大切な水も空気も汚染 かん 所詮、三間︵時間・空間・人間︶のない都会の生活には、む 何かがあると気付いて、田舎に移住する人々も散見される。 経済の倫理性を強調すること。 一、政治の道義性を高揚すること。 ︵社会道徳︶である。特に強調したいのは、 見直そうとする場合、より処となるのは、弘道会綱領乙号 このような世相の中で、人間としての在り方、生き方を なしさを感ずるからであろう。 ま ぬぼれ、独善に対する自然のしっぺ返しとしか言いようが 移すれば生命の保全すら危くしてしまう。将しく人間のう ず﹄の様相である。 ない。将に、﹃国栄えて山河荒れ、衣食足りて礼節を弁え 敗戦によって、どん底の生活から這い上り、貧乏からさ え解放されれば幸せになるとの一途の思いから、只まつし したであろうか、かえすがえすも残念であり、どこえもも ぐらに働き続けた結果がこんな事態になろうとは誰が想定 (37) 修 資源の保存と開発を図ること。 二、自然の美と思沢を尊重すること。 課題として、自然界に対する認識を新にして取り組まねば 自然と人間とのかかわり方についても、学際的、国際的 昔から﹃大衆は愚にして賢なり﹄という諺があるが、大 えるからである。 ならない。自然との共生は人類に課せられた至上命令と考 衆の賢なるところ、これこそ、弘道会の提唱する﹃万人の 現在の政治不信の源を正す道は、大人たちが自らの自浄 の二項目である。 田町特有の倫理観︵庶民の良識とは著しくかけ離れている︶も 能力を高める以外に方法はない。と考える。そうすれば永 君子﹄であると考える。 諸方面で変化が起きている。科学技術の進歩と経済の発展 国内でも、細川連立政権の誕生と崩壊が象徴するように、 立井信也 ︵安一房支会副支会長・元鴨川市教育委員会教育長︶ が、世直しへの大道と考える。 たとえ牛歩の如き歩承であっても、万人君子の道筋こそ やがて是正されると考える。財界の企業倫理の欠除、また 然りである。若し現状のまま推移するならば、大人たちが 次世代に向って道義を説いても、そつぼをむかれることは 自ずから明らかである。 自立をはぐくむ教育を 近年社会が急激に変化しつつあることは、誰しも実感と して認めるところであろう。 よき勤労観をぶち壊すことになりかねない風潮もはびこり を生承、一方で、﹁3K﹂と言う言葉が代弁するような、 によって、物質的豊かさは増したものの、各地で環境破壊 家体制の変革、ソ連の消滅と独立国家共同体の誕生、EC 始めている。情報化の進展も目ざましく、私達は、そのこ 国際社会に於ける雲へルリンの壁崩壊以来、東欧諸国の国 たことが、次食と覆っていく観がある。 諸国の共同体国家化への指向等々、これまで常識に近かっ (38) 会に呑承込まれ、個人破産を宣告される人が増えているこ てきている。自己の意思決定力の薄弱さの為に、カード社 私達は、年々自己の意思決定能力を奪われ、スポイルされ とで多大の恩恵も享けてきた。しかし、情報洪水の中で、 盛な自立心とひたむきな向上心﹂とする社会であって欲し 後に私達が望む社会は、人間の人格の上に置く価値を﹁旺 この言葉と、将来の社会の変化を考え合わせるとき、今 小学校の道徳教育のねらいが、﹁人間としてよりよく生 いと願わずにはいられない。 間としての在り方生き方の追究﹂であるとすれば、その具 きるための基礎・基本となる道徳性の育成﹂であり、﹁人 と等は、その好例であろう。 又、少子家族化、核家族化と高齢化社会の進行にも問題 ること﹂にあるのではないかと考えるのである。 体像は、人間としての﹁自立をはぐくゑ、向上心を酒養す がある。価値観の多様化の名のもとに定職に就くことを嫌 い、3Kを嫌い、モラトリアム化する若者達が増大する一 間の人格形成の根本は、人間としての自立の獲得を求め続 分の力で身を立てること。独り立ちである。﹂と言う。人 自立と言う言葉の意味は﹁他の援助や支配を受けず、自 方、外国人労働者の急増を抱えると言った問題も起きてい る。 こうした国内社会の変化も二十年前には予測もつかなか このような社会の憂うべき現状に対して、私達教育に携 ったことであろう。 ﹃人格の発達とは、決して完成されることのない一つの ける過程にあるのではなかろうか。 連続的過程だと思われるからである。﹄と、﹁人格の成熟﹂ わる者は、これまでのように﹁結果の平等﹂に拘り続け、 安易な放任主義や安直な管理主義を是としてきた風潮を反 の著者アンソニー・ストーは言う。孔子のかの有名な﹃吾 六十耳順、七十而従心所欲、不臓矩﹄の言葉も、自立の過 十有五而、志干学、三十而立、四十不惑、五十而知天命、 省して承る必要もあるのではなかろうか。 こうした社会の変化をもたらした責任が教育にあると言 うのではない。こうした社会の変化にも対応し得る、基本 会祖西村茂樹先生は﹁道義立国﹂を提唱され、﹁日本道 程を述べているととれなくもない。 一・我身を善くし、第二・我家を善くし、第三・我郷里を 徳論﹂で、その方法として五箇条を挙げて居られる。﹃第 た点を反省したいのである。 的モラルの確立した人間の育成を、明確に打ち出せなかっ ﹃どんな社会であれ、その社会の道徳的水準をもっとも 善くし、第四・我本国を善くし、第五・他国の人民を善く 顕著に表しているのは、その社会が人間の人格の上にいか なる価値を置いているかである。﹄lストリ︲ター (39) る、かの福津諭吉も、﹁中津留別の書﹂で、﹃一身独立して れている重要な課題ではないかと考えるのである。 ぐくむ教育を如何に実賎するかと言うことこそ、今、問わ 盤石の重きが如く、四方を鎖唾するの威あるべし、以上に 国燭然として光彩あり、他国より仰望して尊敬せらるくし、 直、日く有徳、日く勇毅、人民の性質此の如くなれば、其 るを優等と馬すべきや、日く心思高尚、日く虞責、日く忠 英人斯逼爾士の﹁品行論﹂に日く、人民の品質は如何な スマイ○ルス ︵八千代支会幹事長・八千代市立大和田南小学校校長︶ させたいと願っている。 ぐくゑながら、その過程で、道徳教育の基礎・基本を体得 一人一入の子どもの発達に即した、弛承ない自立心をは す﹄と。又、先生とともに明六社を起こした中の一人であ 一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下 も独立すべし﹄と述べている。 西村茂樹先生の第一に挙げられた﹁我身を善くするこ と﹂や、福津諭吉の挙げた.身の独立﹂も、言わんとす てならない。 る とは は、、 るこ こと ﹁﹁先ずは自立せよ﹂と説いているように思われ 毎日の学習や生活の中で、どんな些細なことであっても、 ﹁こうしてゑたい。﹂﹁ああしてふたいo﹂と言う、自らの志 で負う、こんな繰り返しの中で、子ども達の自立心ははぐ を立て、自らの力でその志を遂げ、その結果の責任も自ら くまれていくのだと考える。 言へる性質の外に要須なる者は日く敬槙、日く規則整斉、 過保護とか、不登校とかと言う今日の教育課題の大半は、 子ども達の自立心の不足と、よりよく生きようとする向上 日く自ら能く統治す、日く心を職分に毒す、此等のもの人 して行うべきは何事ぞ﹂より︶ スマイ.ルス ︵﹁西村茂樹著﹃日本道徳論﹄第五段・道徳曾にて主と 言至極道理ありと言ふくし。 劣なること曾て野蜜の国にだも若かざるなり、斯逼爾士の し の韓と篤し、別に気象の更に高きを有せざる者は其国の晒 或は専ら歓楽に耽り、或は偏へに噌欲を事とし、是を無上 民の品行を植つるに於て亦少くべからず、若し夫れ人民の か 心の萎えから起こっているのではなかろうか。 道徳教育の徳目をあれこれと言う前に、人間としての在 り方、生き方の問題として、基本的なモラルを確立するこ とが、今、求められているのではないだろうか。この基本 的なモラルを確立する前提として、﹁たくましい自立心を どうはぐくゑ、ひたむきな向上心をいかに培うか﹂が、先 ず問われなければならないと思うのである。 :よき人格形成のための道徳教育の前提として、自立をは (40) 学校における道徳教育 l福祉数育とのかかわりI 一経過として 中村二 るか、場の設定・方途を体験的にとらえて、指定を終った とは申せ、今年度も継続して活動をすすめてまいる所存で ます。その反面、本校の調査でも﹁祖父・祖母﹂と生活し 昨年度から引きつづいて指定を受け実践を進めている学校 成果をあげられている学校もございます。また、今年度も 市内には、県福祉推進校として指定を受け、既に立派な す。 ている生徒は約二割しかおりません。老人福祉や障害者福 進校として活動を進めている学校もございます。 もございます。市社会福祉協議会より福祉協力校・福祉推 日本人の平均寿命が伸び、高齢化はますます進んでおり 祉の問題は避けられない状況になってまいりました。学校 別活動の充実、学校同和教育の推進、道徳教育の充実︵道 本市教育委員会の主要施策にある﹁学校教育﹂の中の特 では﹁思いやりの心﹂すなわち﹁福祉の心﹂を教育のなか で育てることは、極めて大切なことであると考えて、徐々 にではありますが取り組んでまいりました。 の三か年間に研究・研修は徐々にではありましたが、生徒 ところの福祉教育の推進をどう図っていくか。昨年度まで とともに研讃してまいりました。その一端を昨年十月二十 徳的実践力の育成と道徳的実践意欲・態度の向上︶にかかわる いりました。併せて、県教育庁、市教育委員会からも研究 五日に、公開の形式で発表させていただきましたなお、一 本校は、平成三年四月、千葉県知事より﹁福祉教育推進 指定校としてご支援を賜ってまいりました。また、市社会 校指定要綱﹂に基づき、三か年間の福祉教育を推進してま 福祉協議会より後援を承認賜り、福祉教育にかかわる実践 昨年も経過的な公開はしました。 本校での福祉教育については、校務分掌組織に教育研究 を進めてまいりました。さまざまな実践活動を通して﹁福 祉の心﹂を考え、福祉問題を中学生段階としてどうとらえ (41) 郎 合う心を育てる教育、豊かな心や社会性を育てるボランテ の体験学習が重視されている今日、また、思いやり、助け 容と方法について主体的努力を図る面を考えました。各種 りましたが、三年目としての昨年度は特別活動の指導の内 段階は知的な面での福祉教育を教えていくという傾向であ 推進を考えていくこととしたのであります。一、二年目の を明確にして、全校的な体制づくりを目ざして福祉教育の 究、特別活動指導研究の三つに構成をなし、その位置づけ 部という大きな組織のなかに、学習指導研究、道徳指導研 く必要がある。として進めております。 道徳の授業と福祉との関連を教師がはっきり頭に入れてお があるが、一例として、福祉教育との関連の項目を設け、 頭においた指導がしたい。そのためには、いくつかの方法 とりの感じ方を大切にして仲間を大事にする態度を常に念 とにかく、道徳の時間は、実践力を高めるために、一人ひ 出されてそれを次なる研究・研修につなぎつつありますが、 を教師が強く意識向上に努めました。無論、成果・課題は になろう。道徳の授業の充実、推進を図ろうというところ におきました。当然のことですが、まず授業ができる教師 特別活動にあっては、その研究主題を、﹁集団を形成すJ る個のあり方と個を生かす集団はどうあるべきかl福祉“ の心をもとにした仲間づくりをめざしてl﹂として設定く ィア活動の推進が求められてもおります。このような一面 などを実践のささやかな動きを進めつつ、ねらいは、道徳、 特別活動の人間としての生き方の自覚を育てるところにも って取り組ゑました。 について指導を深めることにより、学級集団及び個として しました。目標四点のうち、﹁望ましい人間関係のあり方 あり方を研究する﹂が一つにあります。授業研究におきま 二福祉について 道徳指導の研究主題は、﹁豊かな心情を養い、道徳的な の識意を高め、モラルの高揚をはかれるような学級活動の 実践力を育てる指導はどうしたらよいかl仲間とともに て、実体験に結びつくものを行ないました。内容的には、 しても、年間計画の樹立はもとより、適切な題材を設定し は、一つに、日常生活の中で、自他尊重の育成を基盤とし 福祉の心を育てるなかでl﹂として設定しました。目標 の関連性にも配意しつつさまざまな活動をすすめました。 道徳授業でも考慮しましたが、特別活動でも、同和教育と の皆さんにゲートポールをならい、そして、ふれあいをす たとえば、点字をならい、点訳本を作ろう、とか、長寿会 て道徳的実践力を育てる。二つに、生徒の自主的、自発的、 を決定する基準となる価値観を形成させる、というところ 創造的な思考能力を育てる。三つとして、生徒自らの行為 皆さんに参加していただくこと、或いは、病院・施設への すめる。或いは、学校行事でお招きできる範囲で長寿会の ます。まこと、人間性が損なわれてきた人々や社会福祉問 ればならない地域社会、等々何点かの背景がいわれており 造の変貌、弱者への思いやりをもっと広く育てていかなけ 福祉教育の求められている背景は、高齢化社会・経済構 題を抱えた人をとの具体的なかかわりのなかで、理念を体 音楽︵吹奏楽・歌︶や演劇を用意して訪問活動をしたこと、 にも手を伸ばしたこと、さまざまな作品を製作して関係の す。学校のなかでも実体験を意図的に図るためのふれあい 験化、感覚化させる教育活動が必要といわれてきておりま 絵画などを施設に掲示活動したこと、環境美化奉仕を地域 活動は、他にもありましたが、生徒の心の中に、いわゆる ︵八千代支会会員・八千代市立勝田台中学校校長︶ の場の設定などは大きな課題です。 方々に喜ばれたことなどなど、ささやかな実体験に基づく ボランティアマインドが育成されつつあるように受けとめ 林千代美 女の子やネクタイ姿も厚々しい男の子の脇に、満面に笑承 を浮かべた親たちの着飾った姿がありました。そこには、 と共に、多くの父親の姿が見られたことです。 今までとは違った光景が見受けられました。それは、母親 今年は、国際家族年です。企業も、今までと違い、家庭 教育の大切さに目をむけ、父親の家庭関与の意識づけがな されているのでしょう。その表れが、入学式参加の父親数 (43) ております次第です。 地域に根ざした道徳教育の推進 一、国際家族年に 古来から、日本人が愛しつ望けてきた桜の花が、今を盛 りと咲いています。 私が勤務する千葉県八千代市立村上北小学校の入学式は、 満開の桜の花に祝福されて晴れやかに行われました。 式場には、すてきな洋服に身を包んだ可愛いいリボンの 小 一昔前の企業戦士の姿は、影をひそめ、両親揃って、わ をしています。道徳の授業において学んだ人としてのあり 育研究指定校として、道徳教育の伝統の継承と発展に努力 育研究校、千葉県道徳教育研究大会を場、八千代市道徳教 に取り組承、十二年の歳月を重ねています。文部省道徳教 がいとし子の晴れ姿をビデオにおさめるその姿は、社会を 方や生き方そして思いやりの心を学校生活全般に及ぼし、 の増加現象となったのではないかと考えます。 形成する最小単位である家庭が、一つのまとまりとなって この詩の内容は、本校がめざし育てている子どもの姿を 子どもたちが好んで歌う校歌の一節です。 朝に日に礼と誠のわれらの村上北小学校﹂ ﹁敬いたっとびいつくしむ心承がこう の育成を願って努力しています。 の中に生かし関連づけながら、心豊かでのびやかな子ども 又、すべての教育活動の中から学んだことを、道徳の授業 根づこうとする表われのように思えました。 現在の小学生を持つ親たちが育った時代を探って承ると、 道徳教育に対して、いささか背をむけ、社会規範意識は、 や上、希薄気味の時代ではなかったでしょうか。そこには、 一人間が社会人として生きていくための基本的モラルの教育 います。 は、知育偏重教育の陰にかくれ、存在が薄かったように思 ﹁環境が人をつくるo﹂といわれます。時代は、環境の大 部分を形成していると思います。国際家族年となった今年、 る心やさしいのどかな子ども像が浮かんできます。 如実に浮き彫りにしています。目上を敬い、礼節を重んじ これは本校がめざす道徳教育の究極の目標です。この目 父親が家庭に目をむける傾向が増すため、母親と共に、子 どもを育てる時間と、子どもにむける意識は、増えてくる 連携による道徳教育の推進に力を入れています。 標を達成させるために、本校では、学校と家庭及び社会の 本校発刊﹁道徳のしおり﹂巻頭言の一部を記述します。 この意味において、国際家族年となった現在、学校教育 でしょう。 における道徳教育の一層の充実と併せて、家庭及び地域に ﹁国際化時代、生涯学習時代を迎え、子どもを取り巻く ず、地域の宝です。子どもの心の成長は、地域社会の将来 知れないものがあると思われます。子どもは家庭の承なら じめています。地域社会が、子どもに与える影響は、図り 生活圏は、家庭から地域社会へと大きなひろがりを見せは 根ざした道徳教育の推進による子どもや大人の心の教育が 強く要求されていると考えます。 二、学社連携の道徳推進 本校は、心豊かな子どもの育成を願って道徳教育の研究 (44) 報ます。この意味において、 Jを豊かなものにすると思い を決め、学年学級の枠を越えてざっくばらんに話し合い、 加︶を持ち、学校や地域でなすべきことは何か等テーマ 理解を深めて学社連携を強化する母体としています。 上 耐の人々が、学校と力を合︲わ 目家庭を中核とした地域社会 ②学社連携誌﹁ハーモニー﹂を発行し、学校と家庭や社会 本的生活習慣のつけ方等、豊富な内容や紙而の充実に努 との連携を深める。︿イブ役として、学校行事のお知らせ や子どもたちの作文、学社連携で話し合われた内容、基 除 催せて子どもの教育に努める 草と共に、切嵯豚磨して互い ③道徳の授業参観を行い、保准者の道徳に対する意識の向 めています。 す。本校PTAのOBの方 上と、道徳性の酒養をめざすと同時に、保護者に道徳の 子に高め合い、社会の浄化に 親努めることが肝要と考えま 々、第二の人生を心豊かに す。 授業に対する感想を書いてもらい指導の参考にしていま 加︶・親子除草作業・地区ゴミゼロ運動等、子どもと親 例七夕集会での。ヘー・ハーファッションショー︵保謹者も参 々や教師が、膝を交えてお 過ごしておられる地域の方 話をしていただければ、こ ながら心を高め合っています。 そして教師が共に汗を流して働く喜びを味わい、協力し の上ない喜びです。今後この学社連携が地域社会の中核と てくれることと信じます。﹂ なり、学校が、コミュニティスクールとしての機能を担っ ﹁道徳のしおり﹂を全家庭に配布し、学社連携の具体的方 アングルをうまく機能させ、地域に根ざした道徳教育の推 道徳の時間の指導を含め、学校・社会・家庭というトライ 今後はさらに生涯学習という時代の要請に応えるために、 この学社連携の主旨を保護者にわかってもらうために、 持ち指導に当たっています。 ︵八千代支会会員・千葉県八千代市立村上北小学校校長︶ 進に努力していきたいと考えています。 策を通して、地域全体で、子どもの教育に対して一貫性を 入学社連携の具体的方策﹀ ①学期一回学社連携推進会議︵教師と保護者地域の人為が参 (45) ︾︲ 麺 ︾ ︾ “ ︾ “ ︾動b垂困貯句q蝕むb■qbbb、缶qqqbq、b処句心bQ句酋qQやbQb■■句bbQbrqbQqQb苫qqQqQ﹄bqbbbbhh寺bbbqb■こむ町、bqbqbbqQbB守句bbb毎bqbbqbqbqQqqqQい ぬ︲ 炉︻随想︼一 一西村泊翁先生肖像画の作者一 古川哲史一 。〃 一 唖 〃 〃 pqbqbbqqb■■qbbbqbqq、q、bbqbhbqbb■bqqqq■qqhbbqbqbbqQqbqQqb日b■q財財bbbbqqhqbqbqqqqbqbqqbqqqBqbqq、bbqbbqbbbqb、qq町■■﹄ とどまり、京都府立宮津中学校と滋賀県師範学校で教鞭をとったが、 待生となり、明治十七年、優等第一位で卒業した。その後も京都に 明治二十九年、たまたま岡山に立寄った伊藤弥次郎︵帝国鉱山局 明治十九年岡山へ帰り、そこで十年間が過ぎた。 長︶夫妻の眼にとまり、熱心なすすめで上京、京橋の伊藤邸をねじ おける知名の士の肖像を描くようにあっせんしたので、伊藤博文、 るに作画専一生活にはいった。伊藤氏は顔が広く、当時の政財界に 西園寺公望、木戸孝允、井上馨、勝子、岩崎弥太郎、古河市兵衛、 日本弘道会所蔵の西村泊翁先生肖像画は、従来、高橋源吉の作品 大倉孫兵衛、森村市左衛門、北里柴三郎らの肖像画を仕あげた。泊 ということになっていた。そういう伝説の来歴はよくわからないが、 いつからとなくそう信ぜられて来た。高橋源吉は、たしかに、すぐ 翁肖像画もこの系列の一点にちがいない。撫松は明治三十七年に渡 英し、三年間をロンドンの宿舎やアトリエで過ごしているから、泊 れた肖像画家であり、泊翁のひいきにした画家であったらしい。そ 麟祥院墓参、夫より上野美術館にて高橋源吉揮墓の油絵︵日清戦争︶ のことは、泊翁日記︵未刊︶の明治二十九年七月十四日の項に 翁肖像画は渡英前の作と見るのが妥当であろう。泊翁は明治三十五 ところで撫松は、伊藤家の世話になっていたはじめごろ、他の事 が合わない。 年に亡くなったから、その点からも渡英前の作でなくてはツジッマ 四十枚大画一覧す。 というような記事があるのでもわかろう。そういうこともあって、 いつしか泊翁肖像画は高橋源吉作と信ぜられるようになったが、昨 をすれば指が硬くなり、微妙な絵が描けなくなる、また絵が下品に 年の六月、亜細亜大学付属図書館主催の﹁明六社の同人たちと﹁西 村泊翁﹂というテーマの展示会に出品された機会に画面の洗い直し のため同僚の書生仲間から不精者視されたらしいが、これが﹁撫 なるなどの理由で庭仕事や力仕事をいっさいしなかったらしい。そ はらぶしよう をした結果、画家は高橋源吉でなく、原撫松であったことが判明し ところが多い。 霧灘唯軸獅髄糾脚醗騨詮柄号より、︺ ︵本会理事・東京大学名誉教授︶ 本稿は千沢禎治氏の﹁原撫松のこと﹂︵﹃絵﹄一九七三年十月号︶に負う 松﹂という号の由来であったと思われる。 た。原撫松は一八六六年︵慶応二︶備前国岡山藩士の家に生まれ、 一九一二年︵明治四十五、大正元︶に死んだ明治の画家で、撫松の 号は怠けものを意味する﹁不精﹂に由来するらしい。 では、どのように﹁不精﹂であったのか。実際は少しも﹁不精﹂ でなく、きわめて勤勉な画家であったが、その略歴をたどって象れ ぱ、明治十四年︵十五歳︶に京都に出て画学校に入学、小山三造や たのむらちよくにゆう 田村宗立に師事したが、在学中父が亡くなり学資がつづかなくなっ た。しかし成績優秀であったので、田能村直入校長のアッセンで特 (46) 四月下旬、李登輝中華民国総統 表敬する機会に恵まれた。台北で かれた大陸問題研究 会議に出席、 、 の参加者が総統官邸に招かれたの るc 李総統は六尺豊かな偉丈夫だが 周囲を暖かく包み込む雰囲気を持 の会談を実現させ、台湾の実力を内 らず、これら三国の大統領、国王と ろうが、一方、その場で得たものを どで苦しんだことも少なくなかった 台湾人として日本化強制、差別な 素直に評価する度量の大きさに私は 外に誇示している。 スハルト大統領との会談の大半が に恵まれていたに違いない。 打たれた。きっとよき師、よき学友 その教育から身につけた人生観が インドネシアの貧困農民対策で、李 し、話はおおいにはずんだという。 総統は専門家の立場からアドバイス ﹁身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ﹂ だと語った。迫力と使命感がひしひ しと伝わってくる。簸近の日本の指 導者の了見の狭さとの差を、いやで 李総統は近く台北を訪れる司馬遼 も感じないわけにはいかない。 太郎氏との懇談を心待ちしている、 とも言った。アジア観、歴史、人間 の本質と、この両者の語り合うスケ ールの大きさを想像するだけで心が 京都大学の同窓会のためでも、李 蹄る。 圧力に日本政府は逆らえないのだ。 総統の訪日は難しいという。北京の (47) ている。会見の途中から、通訳の ない。 高校の、京都帝大の教育にほかなら ける植民地教育であり、さらに旧制 た。ということは、戦前の台湾にお は即座に﹁それは教育です﹂と答え 何か、との我々の質問に対し、総統 李総統の生き方のバックボーンは 教育が李登輝総統を作る でそ開を フ の手 りて台学湾攻京湾 間を省こう、と言って、日本語で 李総統は日本の柿民地だった台 英 武 窪 会話になった。 の生まれで七○歳。台北高校から 都帝大に入学して農業経済学を専 した。終戦で台湾に引き揚げ、台 大学、アイオワ、コーネルの各大 で学業を続ける。台湾大学教授、 市長、台湾省主席、副総統を経 九八八年、蒋経国総統死去にょ 統に昇格した。 李総統は旧正月休みと称してフ た。中国の執勧な妨害にもかか ピン、インドネシア、タイを歴 し , 〆 f わ訪 ’ あ 総一北 1 U 一震えの種類 震えには振戦、ミオクローヌス、 舞踏病、アテトーシス等、種々あり ますが、振戦は手、指、首の細かい 震えで最も多く見られるものです。 三パーキンソン病の症状 始めに①振戦が現われることが多 い。この病気の特徴はその他に筋肉 イ、弁峰h/、 になり、 ります。 立位では体が前傾して、固 歩行は小幅となり、遅くな が固くなり︵②筋固縮︶、動きが少な 手の震えを染たら両側性か、顔や を低下させない注意が重要です に、リハビリテーションにより筋力 排祉、入浴等の能力を維持するため 生活活動度、すなわち歩行、食事、 らずに闘病の必要があります。日常 依然として難病の一つですから、焦 開発されました︵Lドーパ︶。しかし パーキンソン病は近年優れた薬が 五治療 をとって診断します。 X線写真、頭部のCT、時にMRI 因疾患を区別するために、血液検査、 寡、筋肉の硬さなどを調べ、その原 上腕にもないか、その他運動の多 四診断 杉浦昌也 くなり︵③無動︶、これらが三大徴候 ンソン病です。その他脳の各種障害 丸めるような動き方になる。②と③ は乏しく仮面様となり、言語は単調 とが共に存在する時には、顔の表情 幣を数えるような、あるいは丸薬を ル中毒や甲状腺機能冗進症︵バセド によって起こり、また慢性アルコー ゥ病︶でも起こります。 (48) ミオクローヌスは早いピクッという 動き、舞踏病は奇妙な手足の踊るよ うな動き、アテトーシスは手や足に 見られる緩徐な極端な屈曲進展の運 動です。これらは意志で制御出来な いために不随意運動と云われます。 勘 二震えの原因 蕊 た時に強くなり、進行すると手は紙 手の震え と云われます。振戦は一般に緊張し 田 振戦の原因として多いのは。︿−キ 今溌蕊噸 ︹泊翁百話︺ 翁日記三十五︶ 鯛古 哲史 宇部村時代であった。 そのようにして十一月二十一日、宇部に到着するが、まだ 二十二日阿知須を過ぎて東北に向って車を走らし、小郡 いる。そしてそのあと、二十八日富海、二十九日徳山、三 十七日は佐波川に沿って下り、再び山口市の市街に入って を経て山口に到着した。山口から先は、二十六日八坂、二 泊翁が広島・山口両懸下学事巡視の命を受けたのは十月 十日長穂というように学事視察の旅が続いている。 一、六時出立。人車にて走る。大垣まで四里、別に記すべ 明治十五年 七月一日朝陰十時頃より晴曇 で﹁眺望絶佳﹂をクチにしているp民風の淳朴なのをたた とすp近年︿洲股に出でずして竹鼻に出づ。一里除近し きことなし。大垣より名古やに至る八洲股に至るを常道 * いるが、萩に近づくと﹁馬関に着して以来第一の険路﹂も 馬関に上関した泊翁は、日本海沿いに北上するが、各地 の記事を以て一区切りとする。 年一月末まで巡視の旅は続くが、今回は十一月三十日まで 路神戸を経て十一月十日朝馬関に上陸した。それより十七 二十四日であったが、実際出発したのは十一月七日で、海 分は欠けている。 とするが、明治十六年の日記にはこの十月二十四日以前の にはならないので、翌明治十六年の十月二十四日から始ま 萩より南下するが、悪路が多く、輿にたよる場合が多い。 ゑ、﹁眺望甚佳﹂をうたっている。 通過する。萩でも、玉江橋より城山並に海上の相島をのぞ 明治十五年七月一日より七月四日まで。 明治十六年十月廿四日より十一月三十日まで。 泊翁日記の明治十五年六月の分は一回分にもあまるほど 川 る広島、山口両懸下学事巡視の記事を足して第二十五回分 ら四日までの四日分しかない。それだけでは本誌の一回分 分量が多かったが、それに続く明治十五年分は七月一日か 暑解 えてもいる。交通機関はまだ汽車はなく、多く輿を使って (49) 泊 を過ぎて木曾川を渡る。尾越の渡より十町程下流なり。 といふ。竹鼻の前にて揖斐川と長良川とを渡り、かま塚 従前ある処の小松島を以て道路と為す。実に近代の大工 し。橋と橋との間︿、海面を埋めて道路を作るといふ。 の間に四個の橋を架す。其内二個は至て長く、二個は短 入あり。漬ノ松替ることなし。天龍川と見付との間︿旧 作なり。旅客の便利甚し。近頃︿舞坂よりも蒸演船の出 来の池田越を修繕して新道となす。見附より一里半程の りて名古屋に立寄る。余︿黒川と共に直に宮に趣き、四 時半頃同駅の肥後国やに投宿す。薄暮海漬に散歩す。往 海港︵名を忘る︶にも二隻の漁船ありて横漬に往復すとい 萩原にて午飯し、三時頃名古屋に至る。水野氏︿所用あ 又水の浅き処︿埋めて平地となして人家を建たり。 ふ。袋井、掛川替ることなし。日坂より金谷に至る佐夜 昔の桑名の渡は新田出来、其間に一条の水路を残せり。 中山の通路を廃し、昨年来左方の漢に傍ひて新道を開く。 能く車を通ずべし。金谷台︿従来の少し左の方に平行の 七月二日快晴暑 道路を開きて人車を通す。共に便利なり。夕六時頃金谷 *現在の地図では﹁墨俣﹂。 一、六時前出立。車を走らせて鳴海を過ぎ有松村二至り亀 は雪﹄ しぼり やといへる店にて鉄染四反を買ふ。知立、岡崎を経て 駅に投宿す。 七月四日快晴暑夜雨 藤川に午飯す。矢矧橋ハ明治十四年新造にて甚壮麗なり。 合して一橋とある。宇都谷の隆道、阿部川の長橋︵蔵百 一、六時前出立、大井川の橋︿従年ハニ橋なりしが、今︿ 其他三河国の橋︿皆堅固美麗なり。赤坂、御油等の諸駅 ︿別に替ることなし。但追々疲弊の状を見るのみ。豊橋 十八町といふは誤なり。十七曲の上に城門の近き門あり。 にて車を下り、坂路を登る。坂路十七曲あり。世に高き り。久能山︿南面に向ひ吃立せる険山なり。山下の茶店 飯を喫し、先久能山に向ひて出立す。久能山造三里許あ 漁船三保丸清水港より横漬に出帆すと。因て此騨にて午 時頃静岡に達し、汽船問屋に至りて間へ︿、今日夕六時 八十間︶等往年経過せし時と別に異なることなし。十一 うつのや も明治十二年の建架にして、甚堅麗なり。夕三時前豊橋 着、小島やに宿す。 一、今日︿朝より通運会社の人力切符を以て通行す。至て 弁利なり。 七月三日薄陰 一、朝六時前出立、豊橋、二川共旧に依て替ることなし。 来し故なり。潮見坂︿高処を除程削平す。荒井と舞阪と 往昔︿輿力同心是を守るといふ。門内に案内者あり。蔵 新成の新道広して白須賀の古道再興す。是荒井の長橋出 ‘の間の架橋︿、昨年の落成にして従前の渡船場一里七町 (50) く取挑となり、跡︿明地となり、又五重の塔も取排とな なれども、日光に比すれ︿甚簡撲なり。山上の寺院︿尽 銭にて是を一屋ふ。是より御宮造三丁斗あり。御宮︿壮麗 従者岡村満七分金八円相払、夕四時出帆。 広嶋丸上等切符馬関造二十八弗︵此金三十一円三十六銭︶、 十時演車二て出発、横浜大江橋際山崎や啓二方二休息、 赴く。此間砂路高低、車行甚難なり。清水港︿人家櫛比 領事町田実一と同船す。舟中別に記すべきことなし。夜 五時頃紀州大嶋を過ぐ。船中鹿児嶋聯令渡辺千秋、香港 一、海上風西北より吹く。然れども波浪︿甚しからず。夕 十一月八日晴風 し、極めて繁昌の地なり。夕四時頃より胸下煩悶し、大 れり。絵図、写真等を買ひ山を下り、再乗車して清水に 二吐幅す。六時過不快を忍びて乗船す。此船︿上下等の 月良清朗、風景甚佳。 間関に着。現海楼といへる家に息す。此処に山口県学務 ども又別に記すべき事なし。夕刺より雨降、朝七時前赤 一、朝六時抜錨、西に向ひて走る。舟中の風景絶佳。然れ 十一月十日薄晴夜雨 時頃本船え入。 社、平清盛石塔、築島、来迎寺見物、三時過帰宿、夜八 出宿楠公社湊川、夫より兵庫二入り、和田の岬、和田神 勝蔵方二休息す。難場支店支配人千谷葉吉来る。午飯後 一、今暁三時神戸二着。夜明けて小舟二て一先上陸、後藤 十一月九日晴 *原文では欠字になっているのをおぎなう。 * 別なく、雑当云はん方なし。因て船士に依頼して別に一 室を借り受く。夜十一時半頃舟初て清水港を発す。 十月廿四日 明治十六年 一、文部卿より左の通以書付被相達候。 文部大書記官西村茂樹 広嶋、山口両嬬下学事巡視被仰付候事 十月廿六日 一、文部九等属堀田鑑随行被命候。 十一月一日晴 一、出立の用意夫々旧例の通取斗候。 へ旅泊す。此家に︿薬湯あり。楼上より豊前の山々井馬 課大千和、沼代の二子出迎ふ。夫より月波楼といへる家 いふ。家の隣に︿安徳帝の神洞あり。阿弥陀寺︿今︿廃 関の海を眺望して風景絶佳なり。前の丁を阿弥陀寺町と 一、本月七日出立の漁船広嶋丸にて馬関造直海路の積取極。 十一月七日雨 一、右二付広嶋、山口両県令え右の趣以電報申遣候。 一、朝九時出宅、文部省属官等数名新橋停車場造相送候。 (51) 総づ 蕊 / 蓮 ● 三見浦 CZ 長門 萩 11.7 山田 明木)11.19 小野臥旭( 小野 絵堂 吉敷 棋 敷 野 1 1 7 冨海 聯 宇部 郡 12 1. 21 鰐部 Ⅱ , 1藤 藤曲 曲一 四熊ケ岳 渡 川 富 防府) 嘉川 嘉川’ 阿知須 11.22 六連 島 聖 I l i : 電 , 塊 − ,0 謎 吉見 保11.26 ク/仁保1 1.26 叡山 川 君 IW小 小郡 楠木 ( ‘、 船 口木) 1 1 J l.21 ︵函m︶ 八坂11.26 1 美東(大田)11.‘ 美東(大田 1 9 e 長穂 1 1 . 3 0 504 1.28▲,ノ ● 徳山 Ul.29 山岬/ J』 塞懸蕊蓋 大島 して名の承残れり。当区の長吉田氏其外数名来訪す。夜 雲間の淡月海面を照し、風景更に佳なり。 十一月十二日晴、風寒 一、昨夜より西北風起り、今朝甚寒し。八時区長、区書記、 学務官吏等追々来迎す。因て車を命じ区内の小学校を巡 見す。先第一ニ玉江小学の新築を見、夫より文園、苦義、 養頭等の諸小学を見る。其事︿別に記す。赤間宮二参詣、 訓旧阿弥陀寺の地今︿官幣社となれり。境内二天皇の御陵 墓あり。前に碑石ありて其事を記せり。年号潟隠して読 し墓地に︿あらずして後人の建立せるものなるべし。夫 承難し。又左の山麓に平家の一族井諸臣の墓碑あり、蓋 より月波楼にて午飯して出づ。豊浦に向ふ道路︿海辺に して、左ハ小山なりo正面に干珠満珠の二島見ゆ。其東 南に斗出せる︿本州の厚狭郡の山々なり。豊浦の郡長井 上貞方、書記小野安民出迎ふ。二時前豊浦ニ至る。琴橋 小学を見、夫より豊浦中学を見る。共に別記あり。中学 校の前に国分寺あり。建築ハ百年許の物と見ゆ。学校の 瓦︿赤色の瓦にして、当国小月村より出づるといふ。帰 途豊浦宮参拝。洞前の右傍に豊功社あり、毛利秀元を祭 る。夕四時過旅店に宿す。此地︿旧長府の城下なれども、 旅店甚悪し。 十一月十三日朝陰午後晴夜雨 一、八時半頃出立、西北方に向ひて行く。道路山腹に在り り。是より道路更二高低多し。左の方二海面を望み、六 て登頓上下す。一里程行きて砂子小学を見る。村落校な 里正の家にて午飯し、吉見小学を見る。前校に相伯仲す。 連嶋、蓋井島を見る。風景亦よし。六時過吉見村に至る。 此村の正面に鬼か城山餐立す。此辺にての高山也。山麓 り、微温にして少しく硫気あり。 に傍ひて北方に赴き、夕刻川棚村に至る。此村に温泉あ 十一月十四日雨帯風 一、八時過輿を傭ひ発す。西北風に雨も加はり行路頗る銀 なり。一里余にして小串村二至り小串小学を見る。此辺 海浜にして涛声雄壮なり。十二時過宇賀村の内湯山に至 を侵して歩行す。道路山坂多し。馬路といふ処︿山腹の り、湯山小学を見、此村にて午飯す。是より輿を去り雨 く、涛勢甚雄なり。是より山路二入り、登頓上下するこ 海浜に臨める処にして、風景雄壮なり。今日ハ西北風強 と数回にして日暮瀧部ノ村に着す。薬種屋某を宿とす。 何れも淳朴にして、甚愛すべきの風あり。 極めて美宅にて、食撰も亦豊なり。昨日来の諸地︿民風 十一月十五日朝後或雨或晴 時頃輿を一屋ひて発す。二里程にて栗野村旧戸長和田理介 一、今朝旅店主人の懇請により額面井二全紙を揮墓す。十 の宅に至り午飯す。此村に栗野川ありて、従来渡船なり しを、此和田氏の尽力発起にて新に四十二間の石橋を架 (53) し、今工事最中なりといふo主人、郡長を以て余に一当筆 景なり。四時頃豊原村二至る。郡役所のある処なり。深 ふ。此度︿東方の海浜を行く。海中に島喚列時し、甚佳 の最高処ハ大津阿武両郡の分界なり︶。是より少しく前路に 八幡の洞あり。其洞官の宅二於て昼食を喫す︵くサリ板 と十町余にして新築枝あり。是より二、三町行きて郷社 其建築を一見す。本路より左折し、田間の細路を行くこ に着して以来第一の険路なり。三見小学︿建築中二付、 里にして三見村ニ至る。此山路をクサリ板といふ。馬関 さん薙 より乗輿して出づ。坂路極めて険なり。登頓することこ して宗頭小学校を見る。別に記すべき程のことなし。是 一、八時過出立。道路山間二入る。時々飛雨来。一里半に 十一月十七日時雨陰晴 す。庭前に大なる蘇鉄樹あり。 形を為す。豊原小学校を見、畢りて学務委員某の宅に宿 川より此村迄直接の道路あり。瀬戸崎に廻れく道路三角 を留めんことを乞ふ。余因て左の一聯を録して石柱に刻 せしむ。 横水岐竜三十丈 利人功徳一千年 是より十町許にして登竜小学を一見す。大津郡々長重富 氏此処に出て出迎ふ。学校︿甚拙随の村校なり。校前ハ 渡船場にして今石橋の工事に着手せり。川を渡り二、三 町行き、此処にて豊浦郡長井上氏及ひ郡書記に別れ、大 津郡長と同行す。両郡の界︿山上に在り。此山前︿内海 に臨して風景甚佳なり。是より一里許にして伊上村に至 り伊上小学校を見る。建築、授業共に可なりに見ゆ。是 より歩行して薄暮人丸峠に着す。村口に人丸明神の洞あ り、石階数十級ありて、眺望広し。 十一月十六日時雨陰晴 一、八時過輿に乗じて出立。時々飛雨来、輿中寒さ甚し。 入る。玉江橋より城山並に海上の相島を見る。眺望甚佳 なり。玉江橋ハ人民の私造にして橋銭を取る。是より人 復し、更に閑道を歴て本路に出で、山田村を過ぎて萩に 青海島あり、湾中の風景甚佳なり。北方の海上に遠く見 力車に乗りて市中二入り、東田町堺屋に投宿す。今日も 一里古市村を過ぎ、又一里半許にして海浜に出づ。前に なり。此地の小学校を一見し、午飯を喫し、二時頃出立。 島を見る。十二時深川村に至る。人丸峠より是迄三里半 午飯を喫し、再ひ出宿。北斗小学、堀内小学を一見し、 一、朝九時出宅、萩中学校、杏正小学を一見し、午時帰宿、 十一月十八日快晴 昨日同様飛雨屡来り、北風甚寒し。 此辺にハ人力車あるを以て是に乗じて行き、瀬戸崎まで 三十町、海浜に沿ひて行く。風景絶佳なれども、風甚寒 し。瀬戸崎︿相応の村柄なり。学校を一見し、帰途に向 (54) し、且多く旧風の家造にして、店上の売物も旧来の貨物 畢り、継暑学舎といへる漢学の私塾二立寄、薄暮帰宿。 なり。蓋し此三名︿国中士民の尤も尊信せる処なり。右 親、同輝元を肥る処なり。社殿、華表等皆昨年来の新築 旧城内を一覧し、志都伎神社に参詣す。毛利元就、同敬 校なり。是より又乗輿して行く。試里半程行き、国近小 飯し、吉部小学を一見す。八幡の社地に築造したる村落 し。此辺右に荒瀧山を見る。十二時頃東吉部村に至り午 淳氏に行逢い、是より輿して行く。道路の修造前のごと 家にて小休し、又歩して行く。途中にて厚狭の郡長渡辺 て、道路甚悪し。美祢・厚狭の郡界を過ぎ、小野村の農 にして、郡役所あり。 望頗る潤なり。夕五時頃舟木駅二着す。山陽の一等道路 学を見る。一向の村落校なり。是辺四方の山ミ開け、眺 今日萩の市中を縦横に通過せり。市中の状は大坂に類似 と申しえず。 十一月十九日朝陰午後雨 三八時前出立、河上川を渡り山口街道に向ふ。加瀬坂と 一、八時過出発。舟木小学校より徳基女学校を一見す。孫 * 健道の長さ百十間といふ。此懸下未曾有の大工作なりと 駅中を右折して間道二入る。十町許にして山路に入る。 中女学校︿此一校の承也。夫より輿を雇ひて発す。舟中 十一月二十一日晴暖 聞く。明木駅より輿を一展ひ行く。二十七、八丁にして雲 いへる坂路を開塞して隊道を作るの工事ニ取掛り居れり。 雀山の道路の工事あるを以て右方の仮道を取りて行く。 して厚東川の堤に至る。此辺眺望開闇にして南万海を隔 山高からずといへども、上下極めて険なり。一里半余に て入豊後の諸山を望承、右に本山岬斗出して眺望甚よし。 山間の道路にして、極めて悪路なり。阿武と美祢との郡 開作小学校を一見し、豪農某の家に午飯し、是より堤上 界二於て美祢郡の書記来り迎ふ。阿武郡の書記︿是より 辞し去る。一里許にして繕堂駅に至る。此辺も道路の修 を歩行し厚東川の下流に渡る。此処小海港を為し、和船 て藤曲村にて藤曲小学を見、又行くこと三十町許にして 五、六百石積の船五、六膿仔泊す。是より二十町許にし しき の修築処々にありて、加ふるに飛雨連りに来り、道路の 繕多し。桂陽小学を一見し、是より歩行して行く。道路 りて村内にある福田寺といふ真宗の寺院に宿す。 十一月廿二日晴暖 *先代毛利公夫人の私立校。夫人の名﹁とき﹂を取る。 宇部村に着し、此村に宿す。厚見氏といふ酒造家なり。 泥淳甚し。四時過大田村二着し、大田小学を一見し、畢 十一月二十日晴暖 見へ是より輿に乗じて行く。此辺総て道路修築工事あり 一、早起七時頃出立。東行一里許、綾城村にて綾城小学一 (55) 一、朝起宿主人の需に応じ唐紙二、三葉を揮筆す。九時半 ひて行く。右方に海面を望承、遥に豊後の山を望ゑて風 頃出立。宇部小学校を一見し、是より車に乗じて東に向 景よし。常盤堤といへる瀦水︿周囲三里余の大埴にて、 早魅にも水洞る上ことなし。此地︿毛利家の家老福原氏 の采地にして、其頃是を開掘したりといふ。二埋余を行 きて、海辺の緒山を過ぐ。火の坂といふ坂を下れ︿海湾 一見し、又車に乗じて東北に向ひて行く、二里許にして ありて風景清美なり。阿知須村に午飯す。阿知須学校を 山陽道の本道に出て、東に行きて嘉川に至り、嘉川小学 を一見し、是より一里にして小郡駅に着す。吉敷郡の郡 長高洲景介嘉川まで出迎ふ。 長州の山々︿大抵草木ありへ周防の山々︿禿山多し。 宿赤馬関月波楼東隣安徳陵也 波光雲影碧層を隔水豊山翠黛凝半夜松風驚客枕 家隣寿永古皇陵 十一月廿三日晴 一、朝八時過歩行にて宿を出て五、六丁行け︿追分あり。 フジ 直行︿山口にして、右折︿山陽道なり。駅を出づる処に 川あり、椎野川といふ。架するに橋を以てす。長さ六十 間程あり。橋を過ぎ半里程行き名田嶋小学を見、畢りて 前路に復し小郡駅中に在る梅木学校を見、夫より旅宿に ろ誕陥γ11 ●足秒I1fo帆 災い4J加ソ伽401幻梱岳曲州w4為恥1Jく f儲り#j1?別冊川糾?f11省圃八鮒兄 (56) 行く。一里許にして宮野小学校を一見し、又一里許にし 一、朝近藤書記官来証九時頃出立、山口を出東北に向ひて て舟山小学校を見る。宮野より此辺山多し。仁保村に午 一帰り昼飯を吃し諺車を雇ひて出て山口街道に向ふ。一里 郡より山口まで三里、道路平畑一なり。山口︿従前戸口一 半にして朝田小学を見、畢りて車を馳て山口に赴く。小 して出づ。吉敷佐波両郡の界に金比羅坂あり。上り八町 飯す。其家を吉富氏といふ。家屋至て美麗なり。是を輿 ︵欠字︶。︲ 千程ありしが、毛利氏移居以来漸く戸数増加し今︿二千 許極めて険なり。是より道路下り坂となり、甚急峻なら 五百程なりといふ。三時頃山口□口町太田といへる家に ず。夏焼、中村等の諸村を経て川中村を過ぎ、夕刻八坂 宿す。割烹店なり。 村に着し、八坂小学を一見して投宿す。夏焼村以東︿山 ︽水幽逢にして道路閑疎なり。八坂村も一向の山村にして、 一、県廓諸官吏追々来宿。 村の前後皆山なり。村前に漢水潅流す。頗る幽雅の地な 十一月二十四日晴 庁へ出頭、書記官へ面会、学務課議事堂一見して出づ。 一、早朝本県大書記官近藤氏来問す。九時より出宅、先県 一、吉敷郡長高洲景介︿仁保より辞し去り、佐波郡長都濃 り。此頃道路の修築に掛り、工事多忙に見ゆ。 ︿大内氏の嘘なり。夫より山口中学校、同師範学校一見、 県庁︿旧毛利家の居宅を用ふ。鳴城山の麓に在り。鳴城 ・巽八坂まで出迎ふ。 の紅葉︿楢樹、柄木及上樗木を多しとす。楓樹︿甚だ牢 立、佐波川に沿ひて下る。両山紅葉扮波景色甚佳。此辺 一、早起、残月前山に残りて後水激甚幽雅なり。八時頃出 十一月二十七日薄晴陰 同校にて昼食し、猶同校の授業を見、漢儒市川氏の大学 の講義を聞き、三時頃帰宿。 断る。 一、今日書記官近藤氏より招待を受たれども事故を以て相 一、今日も学務官吏、学校長、教員等追々来宿。 一、朝郡長の案内にて車に乗じ郊外に出て問田小学を一見 む。味極めて佳なり。此辺より矢筈岳見ゆ。山勢奇峻な ふ。戸長某の家に午飯す。松葉と烏賊とを飯に和して進 合小学を見、十二時頃松澗小学を見る。此村を波村とい なり。此頃道路の修築にて歩行極めて悪し。十時頃出平 し、帰路歩行して今道小学を見て帰宿し、午飯を畢り再 十一月二十五日陰 び出て大殿小学校を見、畢りて病院の建築所を一見し、 右田小学を見る。此地︿大内の臣下右田某の領地にして、 り。容形矢筈に似たるを以て名を得たり。一里余にして j十一月二十六日薄晴午後雨 二時過帰宿。 (57) 学を見、薄暮車を一展ひて山口街路を過ぎ、舟橋を渡り山 城山と︿東西に雌立せり。是より更に西方に赴き習成小 利藤内の領地にして皆猶旧家臣なり。是より矢筈山と此 其後の岩石山を城山といふ。其古城社なり。毛利の臣毛 し去る。是より道路至てよるし。午時福川駅に至り、福 にて都濃郡長兼米弘介及び郡書記出迎ふ。佐波郡長︿辞 両郡の界なり。此辺道路を修築してや上平坦となす。髪 を一見し、是より車に乗じて行く。半里程にて佐波都濃 川小学を一見し、此駅にて午飯し、再び車に乗じて発す。 高き山あり。四熊ヶ岳といふ。三時頃徳山に着し、集栄 此辺右傍︿海浜にて島喚布置し、其風景至てよし。左に 口市の市街に入り、藤村といへる旅店に宿す。 一、朝起諸人の乞に応じて数紙を揮牽す。出立掛松ヶ崎天 て市街頗る繁盛なり。豊島氏を以て旅宿とす。楼上より 小学、岐陽小学を一見す。徳山︿旧毛利支藩の城地にし 十一月二十八日晴 ふ。社の左傍に通夜堂ありて、高さ二層なり。往時五重 神二参詣、此天神︿参詣甚多し。祭礼など至て賑ふとい 海上を望むに風色至てよるし。 が、船路の便の為めに陸路と切断せしより和船其内を乗 一、海面の左辺に見ゆる︿大島なり。元は陸地に連なりし 塔を作らんとして基礎を立しに、成らずして通夜堂とせ しといふ。堂上の眺望甚佳にして、目下に宮市の市街を 十一月三十日晴 るを以て大に通船の便を得たりといふ。 見、南に当国の諸島を望承、其外︿海水洋々として遥に 豊後の諸山を見る。蓋し近地無双の絶景なるべし。山を 下り松崎小学校を見、又私立周防客舎を見る。是より三 諮なり。九時後出宅、徳山中学校を一見し、夫より歩行 一、朝起、主人余を延き其家の三階に登らしむ。眺望尤開 して長穂村の方二赴く。徳山より北︿漸々登り坂なり。 田尻迫︿南方の一直路にして、家続きなり。三田尻に至 途中にて弁当を喫して行く。右約試里にして峠に至る。 りて午飯し、華浦医学校井華浦小学校を一見し、是より 車に乗じて東に向ひて行く。道路海浜に近く、右に島喚 須美ヶ峠といふ。上り二里、下り一里の峠なり。下り坂 穂村に着す。今日の道路三里なり。 より︿道路よるし。右の方に頂に満村見ゆ。夕三時過長 すみ りて全く海に臨む。是又風景よし。富海駅二宿す。清水 を見、左に矢筈岳を見し風色よるし。富海駅の入口に至 舎にての一人物なり。 ︵本会理事・東京大学、国際武道大学名誉教授︶ といへる酒造家なり。主人の兄入江石原といへる老人田 十一月二十九日朝雨午後薄晴 一、朝起旗亭主人の為めに数紙を揮篇し、夫より富海小学 (58) 熊谷棚沢慶治 古川哲史編 対岸の茂りの中に立札の鞍掛岩のかそかなつかし 草津泊 平成五年八月二十五日子らに招かれて上州榛名山に登り 父逝きしわが家近く郭公の来たりて鳴きし遠き日恋し ぬ 若き日より耳病むわれはさびしさに歌詠むことを知りて老い来 この日頃咲く朝顔にとく起きて数ふる老のたのし象を知る 聴覚のいたく衰へ来しわれは夜毎の深き眠りたのしむ 修理して夕べ届きし補聴器に遠く鳴き立つカナカナ聞きぬ 老のたのし承 難 詣でゆく谷の狭間のひろごりて冴えざえ走る水音聞こゆ 旅にして台風に遇ふ不安さを夜更けて子らは言ひ出でにけり 佐賀県古田実 駅長になりし次男を老いわれは夕つつましく迎へてやりぬ 白鷺 陶祖碑の上につがいの白鷺の舞いあがる見ゆ霧の晴れ間に く 蔓珠沙華燃ゆる川辺をランドセル負いし子供らはしゃぎ過ぎ行 対人の事故示談書いただきて玄関辞せぱすずむしの鳴く 茜雲バックに窯場の煙立ち有田陶町今右ェ門窯 一日に一万歩づつ歩く誓いおおかた守りはや五年経ぬ 兵で居し久留米篠山城ゑちのけやき茂りて道をおおいい ふぷ 花吹雪く小路にいます野仏のまなざしやさし亡き母に似て 被爆から四十五年の太田川憂いは川面を今も流るる 武蔵野市夜久正雄 果てしなく旋回つづける水槽の金魚は似たりわが生きざまに 桜花折を 裸木の桜の繁き枯枝の千々のさ枝のことごとく角ぐむ (59) 弘道歌壇 寒けれど桜並木はあからゑて春めく日ざしに角ぐゑわたる 春めきて朝日さやけき道ゆけば角ぐむ並木に小鳥しば鳴く いっせいに花ひらきけりわが団地桜並木は一夜見いまに 雨まじり吹き立つ嵐に花ちりて道ゆくわれは目もあけられず うつくしきしだれ桜の吹く風に若葉まじりの諸枝ゆれつつ しべあかく若葉萌えたるさ象どりの若桜並木また見らくよし 生類をいたむ心のせつなきにこの白文となりにけるらし 島根石倉初 野の鳥のはこびし種子の芽生えたる庭の南天、椋相、八つ手、 万両 圃場整備 き 四反で二十筆もあるわが山田四筆の圃場に整備計画 七割補助受けて山田の圃場整備着工決まる通年施行にて ふち 受益面積最大なれば圃場整備の換地委員長われが引き受く 肉身と別るる如し田の縁に年ごと実りし柿の木伐りつつ 先代の汗泌ゑこふし峡の畦圃場整備のプルにくだかる 山の手に青線赤線つけかへて峡いつぱひに田の面拡がる 市川福地重孝 公庫資金の償還終へる二十年後この峡の田いかにあらんや 折りおりの歌 万葉にその名しられし継橋は水なき川の町中にあり二月二日 (60) 散りのこる多賀の桜は一陣の花吹雪して我ら迎へぬ 所沢市斎藤知正 散しらぬ花の流れの中にしてたまゆらすぎつ大花吹雪 偶成 積りたる白雪をわけてさやかなる黄に咲き出でL福寿草の花 水底に群れゐる鯉も日を恋ひて日当りのよき隈に集まる 寒に入り水澄承たれば水底に大き真鯉のありありと見ゆ り一 春一番吹きてわたれば群山の木立なびきて遠くひびかふ 老木となりたるわが家の梅の木は春にさきがけ咲きはじめたり ねむる鴨胸波うたせ息をするリズムはわれの呼吸と合ふも ﹁むくの墓﹂﹁豚君の碑﹂などささやかな石文の立つ全用園の庭 一 二月八日 合格の電報かたくにぎりしめ息はずませて孫はしり来ぬ三月 十日 二十三日 兄逝きて甥の世代にうつりしが樹形かわらぬふる里の庭三月 わが庭のかりんに雷つきにけりいく年月を待ちしこの春三月 狛江村田傭 広告紙に書きたるメモを手に持ちて老われは探す子の住むビル を 駅前の放置自転車年毎に増えゆく街に住みて十年 練馬古川哲史 着ぶくれてゲイトポールの玉を追い走れる老の足のたしかさ やそあま う 連休が明けて三日目八十余り二年も前にわれは生まれき やそあま 八十余り二年のわれに青年の客気失せぬはうとましきかな 泊翁は七十五にて逝きましぬわれの生まれし十年前に の 泊翁と同じ明治の代の空気二か月足らず吸いしさいわい 道徳の最上乗は献身と宣らせしことば天の声かも 道徳と文化の域に福沢に劣らぬ偉業ぎみは残しき 泊翁の日記を読みて明け暮れし七十歳台たのしかりけり かご 輿に乗り山川越えて巡視せし明治初年の諸学区のさま 後藤田や三木の祖先と想わるる家にやどりぬ讃岐路の旅に 伊予に来て泊りし家の高須賀はわが知る人の祖先なるべし (61) 二十八日 白木蓮 はくれんこぶし 白木蓮と辛夷の白さわが町の桜の前のきよめならんか 恥づかしき思ひに目覚む木蓮の白の深さに空の青さに 花満ちしはくれんは皆それぞれに揺れを見せをり風よるこびて 北海道山下忠行 昔よりはくれん多き町なるかわが多端なる春かへりぶて ↓ 、 いづこかに老眼鏡を置き忘れ独りごちつつ探す夕ぐれ 老 なお、棚沢さんに﹁曾孫に榛名の宮に詣でたる土産を宿にひ いが、﹁老人﹂だけでは切実性が足りないのではなかろうか。 よばず割愛した。曾孫のために榛名神社で土産を求めたという らきたのしむ﹂という一首があり、捨てがたいが、改善の力お 小感 今回は、佐賀県の古田実氏から新しく歌稿をいただいた。 のプルにくだかる﹂であった。﹁ブル﹂は何の意か知らないが、 ルにくだかる﹂の原作は﹁先代の汗が泌承こむ峡の畦圃場整備 また、石倉さんの﹁先代の汗泌ゑこゑて峡の畦圃場整備のブ る。 の二つが一緒になったところに異和感を私は覚えたようであ ことと、その土産を宿に帰ってひらきたのしんだということと しかし、弘道歌壇では新人でも、かなりな歌歴を踏んでおら ︵原作︶一日に一万歩あるくてふ誓いたておおかた守りはや れるらしい。それで手を入れる余地は少ないが、 五年経ぬ ︵改作︶一日に一万歩づつ歩く誓いおおかた守りはや五年経 ぬ ︵原作︶果てしなく旋回つづける水槽の中の金魚をわが生き ないが、校正刷りで﹁泌承﹂が﹁泌承﹂となっている。﹁恥﹂ 農器の一種であろう。なお、原稿ではどうなっていたかわから と﹁泌﹂とは、よくまちがわれるが、区別して書くべきであろ (62) ざまと見る ︵改作︶果てしなく旋回つづける水槽の金魚は似たりわが生 尿器の﹁泌﹂で、﹁しふる﹂とは違うというのである。私も、 う。斎藤茂吉はその区別をやかましく言っている。﹁泌﹂は泌 きざまに とした。理由は、﹁あるくてふ誓い﹂よりは﹁歩く誓い﹂、﹁水 るようになった。 斎藤茂吉の注意によって﹁泌﹂と﹁鮎﹂の区別をやかましくす 槽の中の金魚﹂よりは﹁水槽の金魚﹂の方が間のびしない表現 だからである。ほぼ同じ理由で、山下さんの ︵原作︶いづこかに老眼鏡を置き忘れ独り言い探す夕ぐれ 鰯 ︵改作︶いづこかに老眼鏡を置き忘れ独りごちつつ探す夕ぐ とした。﹁老人﹂を﹁老われ﹂としたのはまちがいかも知れな の住むビルを ︵改作︶広告紙に書きたるメモを手に持ちて老われは探す子 ビルを ︵原作︶広告の紙に書きたるメモ持ちて老人は探す子の住む れ 安房支会婦人部・役員合同研修会兵藤恵美子記 一月七日の上野﹁鈴本演芸場﹂は、補助席をいっぱいだ すほどの大入りでした。 十二時三十分の開演から四時三十分まで、二十五の落語 や漫才、曲芸など、熱演がくりひろげられました。 テレビでおなじゑの小朝、木久蔵師匠のナ 篭・i0!・・・⋮i1価マで聞く落語、小ぱなしは小気味良く速いテ ︽り会一狸赫脈哨射州批咽峨剰恥肌触洲州I恥搬雌 ︾趣︾一側峠州詠伽郷胎脈諏枇州側吐淵傭い肪毒Ⅶ加 伸会雪いきの師匠へのかけ声、客席とのやりとりが 一支釧噸州揃州洲仙剛岬、おかしさ、面白さを十分 !⋮・・i︲!●・・爵・岬先行き不透明で、長びく不況の世の中をし ばし忘れさせてくれたひととぎをすごし、演 芸場をあとにする人の顔は明るく見えました。 磯部和子記 私たちも来年から恒例の企画にしようかとの声もあり、 愉快な交流会の一日でした。 江戸東京博物館を見学して お正月のお屠蘇気分もまだ覚めやらぬ一月七日、婦人部 員。支部役員合同の研修会で花のお江戸へ:::。 新春の江戸東京博物館前には、大型雲ハスを連らねて団体 エスカレーターで六階の常設展示室へ。この展示室は、 のお客が列を成していた。 ーン、通史ゾーンの三つのゾーンで構成されている。江戸 六・五階の巨大な吹き抜けの空間に、江戸ゾーン、東京ゾ の名残りを現代に⋮⋮、江戸城と町割が目の当りに見渡せ る広い展示室。徳川三百年の歴史を物語るかのように、建 ち並ぶ家左や数々の文献、江戸城をとりまく町並、武士や 町民の暮らしぶり、上級武士と下級武士の生活の違い、商 人や一般町民の生活、自然を中心に生活していた時代から 文明の利器を使った現代社会への変化。商業や民俗文化の 発展の様子、産業革命、文明開化等々、ミニチュァセット 徳川家康が江戸に入府し、江戸幕府を築いてから、それ や実物を介して我々の目を楽しませてくれた。 いた。江戸時代から東京オリンピックが開催された時まで ぞれの時代を治めた将軍達の思いが、展示物に込められて の、四百年間という永い歴史の中に刻承込まれた人々の楽 しくも又悲しい出来事の一つ一つが、恵まれた今の世の中 にとっぷりと浸っている我左の心の中に痛い程感じられた。 し、精一杯生きぬいていった汗と苦労の結晶が、今の良き その歴史の変化の中で、お互いがそれぞれの持ち味を生か 晴らしさを痛感しながら江戸東京博物館を後にした。 時代へと引き継がれ、更に文化の発展につながっていく素 (63) 2月1日︵火︶ ︵抄録︶ *午後1時帥分、ビル消防関係打合せ会︵防火管理者藤下 昌信ほかビル管理関係者︶ 2月2日︵水︶ *午後n時、鈴木勲会長、事務打合せのため来会。 2月8日︵火︶ 所用のため来会。 *午前n時別分、神田消防署本多氏、去る二月八日の査 2月塑日︵火︶ 察結果通知書を持参。 *午後岨時、鈴木勲会長、事務打合せのため来会。 *午後1時刈分、鈴木寛一氏、所用のため来会。 2月別日︵木︶ *午前皿時釦分、入間市博物館準備室玉井幹司氏、繁田 2月弱日︵金︶ 武平翁︵大正時代の本会評議員︶の事蹟調査のため来会。 *午後1時別分、﹁泊翁の日記を読む会﹂を開催。 正、加瀬正治郎、鈴木寛一氏と藤下昌信事務局長。 出席者I古川哲史、堀田正久理事、福地重孝、斎藤知 3月1日︵火︶ *午後u時、鈴木勲会長、事務打合せのため来会。 署今井達雄消防司令補ほか3名来会。ビル防火管理責 *午後1時別分より、神田消防署による査察のため、同 任者小松克徳課長代理︵住商ビルマネージメント︵株︶︶、 *午後2時約分より、神田法人会主催の経済問題講演会 *午前Ⅲ時訓分、入間市博物館準備室玉井幹司氏、資料 3月8日︵火︶ 藤下昌信事務局長、風間一彦職員出席。 ため住友商事︵株︶小田金清課長︵会員︶ほか四名来会。 *午後3時、平成六年度ビル管理・補修関係打合せ会の 3月2日︵水︶ ︵講師・長谷川慶太郎氏︶に藤下昌信事務局長出席。 本会防火管理者藤下昌信事務局長、風間一彦職員ほか 関係者四名随行。終了後会議室において講評を受ける。 2月叫日︵月︶ 友兄氏、高瀬真卿翁︵大正時代の本会評議員、ジャーナリ たかせしんきょう *午後1時帥分、東京都人事委員会事務局試験室長長沼 スト、明治十七年東京感化院を創設︶の事蹟調査に来会。 2月旧日︵火︶ *午後2時、大歳豊彦氏︵会祖のご舎弟西村勝三翁の系累︶ (64) 繍蕊 返却のため来会。 *午後岨時、鈴木勲会長、事務打合せのため来会。 *午後岨時別分、鈴木勲会長、事務打合せのため来会。 3月Ⅱ日︵金︶ お招きして、特別講演会を開催。演題は、﹁現代の世 *午後2時より、元東京大学総長林健太郎先生を講師に 界情勢と日本﹂聴講者開名。 *午後4時皿分より、茨城支会幹部と支会行事の運営に ︹図書の紹介︺ 漢詩集﹃香城山魔詩稿﹄ つぎ打合せ会を行う。出席者I及川正和支会長、上野 栄一副支会長、渡辺宏幹事、藤下昌信事務局長。 *午後3時、藤下昌信事務局長、安房支会主催講演会の 3月旧日︵火︶ 件につき打合せのため読売新聞社へ出張。 3月相日︵土︶ ーにおいて、安房支会主催講演会を開催。講師は、読 *午後2時より、千葉県館山市コミニーティー・センタ まさよし 売新聞社政治部長老川祥一氏、演題は﹁国際社会と日 本の政治﹂藤下昌信事務局長出席。 3月四日︵春分の日︶ 公︵はじめは正篤、のちに正睦と改名︶の一三○年忌が、 まさひろ *午前n時より、本会理事堀田正久氏の曾祖父堀田正睦 昌信事務局長が出席した。正睦公は﹁蘭僻﹂といわれ 千葉県佐倉市の甚大寺において盛大に挙行され、藤下 著者は、干潟町支会長の菅谷敏夫氏であり、若く となり、開国のために奔走した歴史上の人物である。 るほど積極的に西洋文化を取り入れ、やがて老中首座 菅谷香城著 して布施悦斎先生の漢学塾﹁克復館﹂に入門してお *午後2時、斎藤理平氏︵会員︶所用のため来会。 *午前n時如分、鈴木勲会長、事務打合せのため来会。 3月型日︵火︶ ている。 当時、会祖西村茂樹先生は正睦公の秘書的役割を果し り、これが漢詩に牽かれる横縁になった、と語って おられました。 爾来六十年余の歳月を漢詩とともに歩ゑ、この程 ﹃香城山臆詩稿﹄を自費出版されました。題字の ﹁思無邪﹂は、鈴木勲会長によるものです。 A5版一四七頁︵非売品︶ (65) A武生ロ 石倉初 ︵平成6年2月l平成6年3月︶ 鯵図書ご寄贈者芳名 ﹃追悼歌集山峡の畦路﹄ 著者 石倉初殿︵島根県︶ ﹃宗教年鑑平成5年版﹄ 文化庁 文化庁 鈴木勲殿︵会長︶ 編集・発行 ﹃宗務時報﹄z○.褐 鈴木勲殿︵会長︶ 著作権所有 ﹃体系別・件名別 教育研究情報目録︵5︶平成4年度﹄ 編集・発行 東京都立教育研究所 鈴木勲殿︵会長︶ ﹃新日本教育年記第八巻﹄ ︵ご雪愉l届震補︶ ︵ご謡紺lご電撒︶ ﹃新日本教育年記第九巻﹄ 発行︵財︶学校教育研究所 発売学校図書︵株︶ 鈴木勲殿︵会長︶ ﹃国定読本用語総覧4 第三期あ’て﹄ 編集・発行国立国語研究所 鈴木勲殿︵会長︶ ︵平成6年2月l平成6年3月︶ ◎購求図書 ﹃西村茂樹杉浦重剛﹄ 著者海後宗臣 溌行所︵合名︶北海出版社 ﹃西村茂樹﹄ 著作者吉田熊次 護行所︵合資︶文教書院 ﹃西村茂樹先生論説集第壷巻﹄ 編纂兼義行者伯爵松平直亮 ﹃儒教要典﹄ 護行所︵株︶博文館 編者服部宇之吉 発行者︵財︶学校教育研究所 鈴木勲殿︵会長︶ 発行所学校図書︵株︶ 日本弘道会有志青年部 編纂護行所 ﹃泊翁西村先生全﹄ ◎会費領収報告 ︵致秤賊砧韓翠朋皿叩︶ ただきます。 1この報告を以って領収書に代えさせてい 終年度です。 2お名前の上の○印は新入会員の方です。 3お名前の下の括弧内の数字は会費納入最 ︹神奈川県︺ ○小原高子㈲○近藤君江㈲ ○島田優伺○杉本桃代⑥ ○横川ハッヱ⑥○横浜佳子⑥ ○田中博幸⑥○南雲成二⑥ ○西田義明㈲○平井佳江⑥ 島根支会肥名⑥ ︹島根県︺ ︹千葉県︺ 平川支会狐名⑤井上武⑨ 佐倉支会川名㈲ ○鈴木英司⑥可瀬治伺 ︹東京都︺ 斉藤理平㈲ (66) ◎新入会員芳名︵敬称略︶ ︵平成6年2月I平成6年3月︶ ︵府県名︶︵入会者︶︵紹介者︶ 神奈川小原高子小林鉱治 ″近藤君江〃 ″島田優〃 ″杉本桃代〃 ″田中博幸〃 ″南雲成二〃 ″西田義明〃 ″平井佳江〃 ″横川ハッヱ〃 ″横浜佳子〃 千葉鈴木英司平山秀樹 ◎新入会員芳名︵敬称略︶ ︵平成6年2月l平成6年3月︶ ︵支会名︶︵入会者︶︵紹介者︶ 野田茂木友三郎戸辺好郎 ︷測始祁峨り俳壇はお休承させていただ︶ 言葉の ひろば いにしえ 煙立つ、民のかまどはにぎはひにけ かたじ り﹂とありますが如くにその古より民 の喜びを以て喜びとなす大御心の恭け こうべさが なさに対し奉りて頭が自ら下ります次 昭和二十年の新年、年頭詔書が発せ 第でございます。 られました。この詔書について、マッ クアーサー元帥は甚だ満足するところ であるとして﹁詔書によって天皇は人 一個の思想が最早や絶対の力を持つこ きりと示した。天皇の行動は健全なる 反響 民の民主主義化を指導した。天皇は自 ﹃弘道﹄第九六八号四月四日、五日 由の線に沿う自己の将来の立場をはっ と二日に亘りまして﹁日本の文化﹂に は遂にこれを妨げ得るものがないので とを自ら物語っている。健全なる思想 岩崎晶 ついての諸賢氏のご卓説拝見いたしま にお され、民主主義・平和主義・合理主義 天皇は詔書に依って﹁神格﹂を否定 ある。﹂と述べたのである。 した。大和島根に桜咲くこの陽春の季 節に﹁大和心を人間わば朝日に匂ふ山 に則した﹁文化﹂こそは、日本特有・ に徹した新国家をと国民に示されたこ 桜花﹂の歌を想起させました。大和心 とはまことに前途洋食たる日本の発展 りました。 目に見るが如くにして、尊いことであ 、、、 しょう。 独特のものを醸成させたものと謂えま しまして、その昔仁徳天皇の御製と伝 富田先生の言に﹁皇室と文化﹂﹁天 ○富田朝彦前宮内庁長官のお話を拝読 えられる処の﹁高き屋に昇りて見れば (67) が要求されるのであります。美しい風 今日一日中元気でお互すこやかに頑張りま ます。︵又、元気でお遇いしましたね−。 す言葉には無限の意味があるのであり は崩壊します。犬・猫の類には﹁礼﹂ であります。﹁礼﹂なくんぱ社会生活 、、、、、、、 皇と国民﹂との長きに亘る関係は時に 土とともにひたすらに心の﹁キョラカ しよう︶との阿畔の呼吸が触れ合うの 我国現代の政治家にも﹁キョキァカ はあり得ません。人間としての証拠と たがい、、、、 起伏があっても文化の拠り処であった にできないのでございます。 さ﹂を追求する気慨が肝心、ゆるがせ キココロ﹂を以て行住坐臥、その各自 して﹁礼﹂は厳然として存する訳です。 あうん 通りであると拝察いたしました。 とありますが、このご意見は正にその について。清明心︵キョキァヵキココロ︶ でございます。 の行動・出処進退を期待いたしたい処 無理なく日常の中で息づけるような礼 教授は﹁日本の伝統的な生活文化が ○尾田幸雄教授﹁の日本人の道徳観﹂ とは上代の日本人は﹃古事記﹄や﹃日 の提示があげられるように思う﹂と結 あかし 本書紀﹄や﹃宣命﹄、さらには﹃万葉 お話。﹁礼は約束事であって、いくら ○土田健次郎教授の﹁礼について﹂の ばれておられるのであります。 000OO00 ましい心の在り方を﹁キョキアカキコ 集﹄に承られるように、人としての望 っていればすむものではない。時代の 典拠があっても自分だけが自己流にや 0○ コEとして捉え、他の人との純粋な 止めて、蛇足の如き禿筆を撫しました 以上、お三方のご所見を私乍らに受 えなければならない。﹂︵一八頁︶と、 尚、故井手成三教授、黒羽亮一︵日 ることをご叱正の程、願います。 経論説委員︶両氏のお話には啓蒙され ﹁礼に初まり礼に終る﹂と云うが如 実に然りであります。 生活様式・美意識をある程度までふま 心の交流を妨げる私︵わたくし︶の心を 右のご説は日本人の心の琴線に触れ 憎んだ︵十三頁︶。 何事も俗化しては心の純粋さは保て たものと云えましょう。 くに﹁礼﹂こそは、人類文化の基調で 、、、、 あり、源泉であります。﹁礼﹂なき国 に﹁文化﹂はあり得ないのであります。 並びに野口明第七代会長の﹁文化の意 ものであります。︵本会評議員︶ 弘道会々員の指針として肝に銘ずべき 西村茂樹開祖の﹁国家文運ノ前途﹂ 芸﹂等に専心する一流芸術家に於ても 義﹂は今に至るも光を放つ玉稿、吾等 、 は、文化の所産たる﹁絵画﹂﹁彫刻﹂﹁陶 ません。﹁キョキアカキ心﹂なくして る処多々でございました。 その域に入ることは許るされる処では なければならぬ潤滑油であります。 ﹁礼﹂は人として社会生活上一番尊ば とが﹁お早うございます﹂と取り交わ 一夜が明けて早朝、出遇った人と人 ○○O ありません。 真の芸術・美術家にとってはその気 韻が身上であり、﹁キョキァカキ心﹂ (68) ■■|■■■●■■■■■●■●●口●●■■■■■■|■■■■■■■■■●●■●■■●■一■■■P■■■■■■■■■ロ●■●■●●■■■■■■■■■■■■■■■●●● 総会のご案内 岬第九十二回通常総会 における道徳教育の重要性をうったえ、 た。道徳領廃の世情を憂え、学校教育 道徳学会を通じて、一般民衆の道徳意 編集後記 識を高めることに生涯を捧げられた会 ていることをありがたく思います。 鯵本号では、﹁道徳教育への提言﹂とい 鯵次号は、昨年十一月十九日に、九十 祖西村茂樹先生の精神が脈々と伝わっ 為を究極のねらいとする道徳教育につ の生き方、在り方を基調とし、実践行 いて、各支会の会員各位を中心に、特 の追悼号といたします。鈴木貫太郎元 二歳の天寿を全うされた故鈴木一理事 う特集テーマを設定して、人間として 別会員の五氏を含めて二○名の方々か 一日時 一午 前 十 一 時 十 分 よ り ら率直なご意見、ご提言を頂戴いたし ︽議題 生涯学習に連動する道徳教育について 長の小野健知氏には、巻頭において、 ました。また、日本道徳教育学会理事 を偲び、本会を格別に愛された先生に を過されました。鈴木先生のありし日 して昭和天皇のお側に仕え激動の日々 総理大臣の御令息であり、侍従次長と “日本弘道会ビル・8階講堂 ︾平成六年五月二十八日︵士︶皿 一場所 −1平成五年度事業報告、平成一 展望していただきました。今回は、執 五年度決算報告、平成六年恥 FAX○三︵三二八八︶○九五六 郵便番号一○一 振替口座東京四’四三一七 電話○三︵三二六一︶○○○九番 発行所鮒畑日本弘道会 東京都千代田区西神田三︲一︲六 印刷所共立社印刷所 編集兼 発行人 東京都千代田区神田神保町三ノー○ 鈴木勲 平成六年四月三十日発行︵年会費二、○○○円︶ ︵藤下記︶ 深い敬意を捧げたいと思います。 座にご承諾下さり、改めて道徳教育に 関する各位の深いご関心に感銘いたし ました。家庭における教育力の回復、 地域社会における教育力の高揚が叫ば れている昨今、お寄せいただいた玉文 を拝見して、次代を担う青少年の健全 なる育成がいかに重要であるか、人格 いかに大切であるかを痛感いたしまし 形成期における道徳教育、人間教育が 平成六年四月一圭日印刷 筆をご依頼したほとんどの方灸が、即 度事業計画、平成六年度収一 支予算計画 叩2 そ の 他 今回は、昼食後、東京大学名誉教一 一授中村元先生の講話を予定しており一 一ます。終了後、記念写真撮影ののち、皿 岬午後二時すぎから、有志により会祖恥 皿西村先生の法要墓参を行います。多一 一数のご参加をお待ちいたします。総| |会・墓参にご参加の向は、電話又は︾ 皿ハガキでお知らせ下さい。 戸口UpDDDDDDDpplHI8ⅡBocDDoooooo且■0888口DpDoDoooo■■■880日opoDo﹄ 彫物師五代にわたる﹁波の伊八︲|の足跡調査の概要であ 元千葉県鴨川市長ここにまとめたものは、実に遅々たる歩承の中での 現千葉県生涯学習審議会会長 代までも伝えたいものである。︵本書あとがきより︶ ぞれの時代の人々の心を引きつける至芸は、何時の時 編・著長谷川治一る。⋮︵略︶⋮一言年近く風雨にさらされながら、それ ︵本会特別会員・安房支会顧問︶ 経て鴨川市長をつとめた筆者が、公務の傍ら一︲伊八﹂の このシンポの特徴は/パネラー五人の内の二人が外 科医で一カトリックの神父がひとりご﹂の神父と外科医 の一人が外人/二人の外人は葉隠のおしえは少しも奇 異でないこと一イタリアの実家で受けた家庭教育一カト 著者は岩波文庫版の校訂者であり、佐賀県・市共催 リックの教訓とも同じだと話した︵本書はしがきより︶ の葉隠研究会創立時から顧問をつとめ、昨年の同シン ポジゥムでは基調講演をした。本書は、戦後その意味 を誤解されがちな﹃葉隠﹄について、詩人であり歌人で もある著者の平易な語り口により、国際化が問われる 現在、日本独自の美学の深く微妙な姿が綴られている。 TEL03-3966-8106振替東京4-126326 075(751)1781 TELO 限定版五○○部作品を追った集大成といえる。後の五代目との偶然の 定価六○○○円避遁など因縁浅からぬ筆者の熱い想いが伝わってくる。 本会理事 B6版三一頁 定価二九○○円 (発行所) (株)口ング書房 思文閣出版 名工 = ヨ 記』 日 波の伊八撰職潅蛎悪熟議珪鍵 』 I nコ 「 ヨ 二二 洞 同 (発行所) 〒174東京都板橋区宮本町 〒606京都市左京区田中関田町2-7 ’