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ドイツ・ルネサンス期の城塞建築家ダニエル・シュペックリンによる理想

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ドイツ・ルネサンス期の城塞建築家ダニエル・シュペックリンによる理想
ドイツ・ルネサンス期の城塞建築家ダニエル・シュペックリンによる理想都市案
正会員
理想都市
集中式プラン
ドイツ
シュペックリン
○
杉本
俊多
*
ルネサンス
城塞
『城塞建築論』の folio59 左頁に掲載された平面図
1.序
ドイツ・ルネサンス期における理想都市計画案として
(図1)は、基本的に集中式プランを示し、ルネサンス
は、アルブレヒト・デューラーの著書『城塞論』、また実
期理想都市の基本的な性格を示している。平面図から読
現したものとしてハインリヒ・シックハルトによるフロ
み取られる形態構成上の特徴は以下のとおりである。
イデンシュタット等が知られている。16世紀後期にシ
① 市街地は正八角形の輪郭(直径、隅で最大約 800M、
ュトラスブルク(現フランス領ストラスブール)で活躍
辺中央で最小約 735M)の中にある。
した城塞建 築家ダニエ ル・シュペ ックリン 1 )(Daniel
② 中央に同じく正八角形(直径、隅で最大約 165M、辺
Specklin, または Speckle, 1536-89)はその著書『城塞
中央で最小約 150M)の広場を持つ。
2)
建築論 』(1589)においてわずかながら理想都市計画案
③ 放射状に8本の道路(幅約 20M)を展開し、同心多
について提示している。
角 形 を な し て 走 る 環 状 の 街 路 ( 幅 約 14M ) を 4 本
シュペックリンはシュトラスブルク市で私的に、また
(一部途切れる)持つ。
公的建築家(Stadtbaumeister)として活躍しただけでなく、 ④ 各街区は台形をなす。奥行は一定(幅約 40M)だが、
城塞建築家としてドイツ、オーストリアの都市から招か
幅は中心近くが狭く、外に行くに従って広くなり、
れ、幅広く活動している。目立った作品は少ないが、シ
大きく異なる。
ュトラスブルクの都市整備や周辺地域における城郭建築
⑤ 正八角形の市壁(幅約 35M)の外側はルネサンス期
が知られ、またその著書はドイツ語圏において普及した。
特有の明快な星型稜堡(突出し部においては奥行約
しかし、彼は孤立した建築家として扱われることが多く、
62M)で囲われる。
その普遍的な意義についてはなお分析の余地が残されて
3.2.
3)
いる 。
理想都市計画案の施設構成
都市施設については同図および同書本文(folio 5862)における解説から、以下のように読み取れる。
2.研究の目的と方法
本研究は北方ルネサンス期における理想都市計画の考
① 中央広場は市場として位置づけされている。他所に
え方の一端として、シュペックリンの理論を分析し、そ
② 中央広場に面して、東に教会堂(長軸約 75M)と背
の形態構成方法と内容を吟味し、その歴史的な意義を明
後の墓地(教会堂境内の奥行約 86M)がある。ファ
らかにしようとすることを目的とする。
サードは西に面し、内陣は東にあり、通常の教会堂
は小広場はない。
理想都市案そのものは、『城塞建築論』所収の図面およ
配置理論に従っている。図中に三廊式バシリカ形式
び解説文 4) が唯一の資料であり、これを用いた。シュペ
の平面図輪郭と、内部に交差ヴォールトと思われる
ックリンの都市計画、城塞建築に関連する資料として、
描き込みがある。(図中番号 1,2)
シュトラスブルク市公文書館に所蔵される図面資料 5) を
③ 中央広場に面して、南に領主の館があり、奥行は3
参照した。
街区を統合した台形状(奥行約 150M)をなす。ウィ
シュペックリンの理想都市計画案自体は簡単なもので
ング形式で二つの大きな中庭を持つ。(図中番号 3)
あるが、シュペックリン自身が行った都市計画、城塞計
④ 中央広場に面して、北に市庁舎(奥行約 86M)があ
画関連の業績との比較参照により、シュペックリンの考
る。ウィング形式で、中庭を持つ。(図中番号 4)
え方を精査し、また理想都市案として類似するパルマノ
⑤ 中央広場に面して、西に計量所、商館、宿泊所等を
ーヴァ等のイタリア・ルネサンス期の理想都市理論と比較
収容する施設(奥行約 86M)がある。(図中番号 6)
し、シュペックリンの構想について吟味する6)。
⑥ 周縁部の街区に食物貯蔵庫(穀物、果物、野菜、肉、
魚等の倉庫)が配される。(図中番号 7)
3.シュペックリンの構想
3.1. 理想都市計画案の形態構成
⑦ 周縁部の市壁に面する街区に木材、石炭の置き場が
設けられる。(図中番号 8、9 が相当すると思われる
Study on the Ideal City Plan by the Fortification Architect Daniel Specklin at the German Renasissance
SUGIMOTO Toshimasa,
19
が、明記されていない。)
後半に誕生した軍事的意図の強い計画都市である。シュ
⑧ 各稜堡の内側に塔屋が配される。防衛施設の一貫と
ペックリンはその情報をよく知っていたようであり、ヴ
して火薬を配備するが、高さを抑えて市外から見え
ァレッタについては城塞都市の平面図を掲載している 7) 。
ないようにしてある。(図中番号 10 か?:16 ヶ所)
いずれも直行グリッドプランによる街区計画であり、ヴ
⑨ 兵舎が市壁のあたりに設けられ、また騎士の厩舎が
ァレッタは半島の不整形な輪郭を城塞化し、カルロヴァ
城塞の北部、東部に設けられる。病院、兵器庫も同
ッツは六角形の星型稜堡の中に、単純明快なグリッドプ
様の場所に置かれる。
ランを敷いて理想都市の特徴を見せている。
⑩ 広場に面する残りの街区、また放射状に走る主街路
シュペックリンの理想都市案はやはり軍事的な考慮が
に面して貴族層、市民層の私的な居宅が並ぶ。他に
色濃く見られるが、それらの模倣ではなく、敢えて放射
手仕事職人の住まいが設けられる。
状街路による集中式プランとしており、文章中にも、「5、
6 ないし 7、8、さらに多くの角と稜堡に向かって、中心
⑪ 街路網の各角には照明具が吊るされ、また各街路に
からすべての街路、広場、場所を引く 8)」と記し、社会
は井戸が置かれる。
的理想像を空間的にも表現しようとする意思がある程度
⑫ 市街の各建築物は、可能な限り、少なくとも下部は
石造とし、地下室はヴォールト構造とし、屋根は瓦
はあったものとすることできる。
葺とする。またコーニスや高さを揃える。下部の窓
3.4.
理想都市計画案の現実との対応
新都市においては明快な秩序を形成できるが、既存の
は格子付きとし、扉は強固とし、万が一敵が城塞内
に侵入しても建築物内部から反撃できるようにする。 都市では既存部分を継承し、状況に合わせて稜堡や城壁
3.3.
を追加して配するものとしており、理想都市というもの
理想都市計画案の考え方
『城塞建築論』は大部であり、113 フォリオ(226 頁)
を、必ずしも完全な幾何学的秩序で全体を形成するのを
+図版よりなる。そのうち理想都市案に関しては、4頁
よしとするのでなく、一種の試行モデルとして提示する
足らずに過ぎない。シュペックリンは都市の城塞理論に
ような姿勢を示している。
ついては多くの仕事と技術的な理論を残しているが、そ
シュトラスブルクを城塞都市化する必要性から、彼は
もそも民生的な都市計画や建築論に関する詳細な文章は
既存の市壁の位置と形状を綿密に調査して図面化するこ
見当たらず、シュペックリンが理想都市というものにつ
と、それをもとに稜堡を用いた城塞都市化の計画案を作
いて本格的に取り組んだとは言えない。
成することを試みた 9)。そこでは新市街の拡張はほとん
しかし、その文章には都市社会のあり方についての言
どなく、稜堡の設置に伴って、従来からある歪んだまま
及があり、ある程度の社会的理想像を描いていたであろ
の市域輪郭を整備し、ある程度幾何学的な形状が導入さ
うことは推測される。特に晩年にシュトラスブルク市の
れたのみである。
わずかに理想都市案に関連する要素として、塔屋の配
公的建築家の立場にもあり、都市のハード面、ソフト面
置がある。中世以来の既存市壁には石造の塔が適当な間
の全般に意を払うべき立場にあったことは事実である。
一方で軍事的な要素を検討し、市壁の長さ2シュー
隔を置いて多数配置されているが、新市壁が若干外側に
(Schuh=フィートに相当:約 30CM)に付き1人の兵士、
計画されるため、そのすぐ内側に取り残される。理想都
従って正八角形の全長 8,000 シューに対して 4,000 人、
市案における稜堡の内側にシュペックリンが提案する特
といった冷静に必要な兵士の数を計算する合理主義を示
異な塔の存在は、この中世以来の市壁の塔が持つ機能を
し、他方でわずかながら「神の命令」、「キリスト教的な
継承するものだったと推察される。彼の理想都市案がほ
愛」に言及しつつ、信仰のもとにおける貧しい病人に対
とんど思弁的なものである中で、わずかにリアリティを
する善意や細やかな配慮を唱え、病院の設置についても
感じさせる部分である。中世の塔の列については、シュ
心を配るなど、博愛的な思想も提示する。
ペックリンはイル川の中州の水門整備計画案において現
社会構造については、独立した自治都市ではなく、領
況図面を作成しており、その機能について具体的な検討
を行った経験があった10)。
主が中心におり、加えて市庁舎、教会堂、商館を備えた
自治的な共同体を提案するという姿勢を示し、封建制と
自治都市を統合した都市共同体像を提示している。そこ
4.イタリア・ルネサンス理想都市との比較
4.1.イタリアの影響
に加えて軍事的な合理性について徹底していることが、
シュペックリンの理想都市案はイタリアのルネサンス
16世紀後期という時代の現実主義を示している。
『城塞建築論』には、マルタ島のヴァレッタ
理想都市の典型例として著名なパルマノーヴァと形状、
(Valletta)、カールシュタット(Carlstadt:現クロアチア
規模ともよく似ていることが指摘されてきている11)。も
領カルロヴァツ Karlovac)への言及がある。いずれもオ
っともパルマノーヴァの建設開始は 1593 年とされ、『城
スマン・トルコの侵略に対する防衛のために、16世紀
塞建築論』出版年に4年遅れている。パルマノーヴァの
20
計画者は建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィとされ
わせる一面もある。
るが、ブオナイウト・ロリーニがパルマノーヴァの平面
ロリーニの図にはシュペックリンが描き込んだような
図を掲載している『城塞論12)』の初版は 1592 年である。 領主の館、市庁舎、商館等の個別建築物の描写はない。
したがってシュペックリンがパルマノーヴァの計画案か
パルマノーヴァが国境を防衛する軍事拠点として計画さ
ら影響を受けたとは考えにくいが、断片的な印刷物が普
れたこと、城塞論の例示として掲載されたに過ぎないた
及していたと思われる時代であり、断定はできない。
めに民生的な施設が省略されただけかもしれない。
シュペックリンの理想都市案は特定のものからの影響
た理想都市案から一般的な影響を受けたものと考えるべ
5.北方ルネサンスにおける理想都市デザインの評価
そもそもイタリアにおいても理想都市が実際に築かれ
きと思われる。とりわけ放射状の集中式プランは、フラ
た例は少ない。特に集中式プランという、中心を持つ幾
ンチェスコ・デ・マルキが詳しく検討していた。彼の
何学的秩序に理想を求めたイタリア・ルネサンスのネオ・
と言うよりは、16世紀イタリアで活発に議論されてい
』がまとめられ、出版されたのは 1599
プラトニズムの思想は、議論には上るものの現実の空間
年だが、彼は 1545 年には検討を始めており、断片的な印
として実現するまでには至らないものが多い。その影響
刷物が出回っていたとされる。そこには正五・六・七・
下に始まる北方ルネサンスでは、計画都市の数はむしろ
八角形等の多数の集中式プラン案も見出され、模倣した
多いように見えるが、やはり理念は薄れて行ったものと
と思われる案はないものの部分的に参照して合成したと
思われ、集中式プランは北方地域でも少ない。1550 年頃
してもよいようなものが見出される。
には現ベルギー南部に新都市フィリップヴィル
『軍事建築論
13)
(Philippville)が築かれるが、そこでは集中式プランで
シュペックリンの『城塞建築論』の図版には、城塞都
はあるものの、意図的に歪ませて計画した五角形となり、
市論の先駆けとして知られるピエトロ・カタネオの『建
』から影響を受けたと思われるものがいくつか見
街路の配置も不整合を示す。ここでも新都市建設の目的
出されるが、そこには多角形の城塞は多く見られるもの
は領土の境界を防衛するという軍事目的であり、理想の
の、街区はグリッドプランとなっており、集中式プラン
社会を築こうとするものではなかった。
築論
14)
このような状況においてシュペックリンの理想都市案
はない。
シュペックリンはこれらの理論書に精通していたよう
は、その集中式プランの明快な計画にもかかわらず、特
であり、当時の先進的な技術情報を収集していた知的な
異なものであり、必ずしも普遍的な有効性を持っていた
建築家であったと考えられる。
とは言えない。
また理想都市計画案の幾何学的デザイン技法は、軍事
4.2.パルマノーヴァとの形態・施設構成の比較
パルマノーヴァは実施過程において若干の計画案変更
的な都市計画に応用され、多数の例が見出される星型稜
が行われていったと見られ、ここではロリーニの『城塞
堡による既存都市の城塞化の際に応用される。理想都市
論』所載の平面図(図2)をもとに分析する。
計画案はその理念的な面を省いて、市街地拡張計画の際
パルマノーヴァの平面形の特徴は、正九角形の外郭の
の合理的な技術、そして人為的な景観デザイン手法とし
中に中心の広場から放射状の街路を配する、集中式プラ
て確立するという側面もあった。シュペックリンの理想
ンを採用した点にある。もっとも、街路網はやや複雑化
都市案は、自らもそう意識していたと思われるが、一種
させてあり、放射状街路は計18本あるが、正六角形の
の思考モデルとして位置づけられていたものとすること
中心広場に達する主街路は6本である。つまり中心広場
ができる。
シュペックリンはアントワープに滞在した経験があり、
の正六角形と正九角形の市街地計画が合成され、巧みな
既存の市域輪郭と正五角形の砦を図面化している15)。ネ
幾何学処理がなされていることである。
これによって各街区は台形ではあるものの、幅と奥行
ーデルラント地域ではイタリアの都市計画理論を導入し
がある程度等しくなるようにしてあり、建築物を配置し
つつ、伝統的なグリッドプランを合成して、独自の都市
やすくしてある。また、交差点を利用して正方形をなす
計画理論に発展させており、シュペックリンもそれをよ
6つの地区広場が配してあり、地区社会の複合という社
く観察していたはずである16)。しかし彼の関心はむしろ
会構成が窺われる。
正五角形の砦など、城塞型市壁の幾何学的デザインにあ
シュペックリンの正八角形プランとパルマノーヴァの
ったようである。すなわち、社会理論としてのシュペッ
正九角形プランの街区構成は一見してイメージはかなり
クリンの理想都市理論は、萌芽は出たものの未熟のまま
近似するといってよい。ロリーニの図では、中央広場に
に終わったとすることができる。
面する教会堂はラテン十字のバシリカ式であることが描
6.結
城塞建築家ダニエル・シュペックリンの理想都市計画
きこまれており、その表現方法はかなり近似したものと
なっていて、相互に影響関係があったのではないかと疑
21
4) Specklin, op.cit., 1589, folio 58-62, 図面:folio 59 左。1710 年
版、folio 58-62.
都市計画のスタディ・モデルとして検討された実態を明
5) 2008 年 6 月 15-16 日にストラスブールで現地調査、資料調査を
行い、シュペックリンによるシュトラスブルクの市壁、水路等の整備
らかにできた。その理想都市案は必ずしも当時のリアリ
計画図、『城塞建築論』手書き原稿・図面の断片集について閲覧。
ティを反映するものではなかったが、著書『城塞建築
6) イタリア・ルネサンス理想都市との比較研究のために、パルマノー
ヴァおよびリヴォルノ等について、また各種の歴史的建築書を検討
論』に見られる城塞理論の普及を通して、その後の北ヨ
した。
ーロッパ地域の都市像形成に何らかの影響があったかと
7) Specklin, op.cit., 1589, folio 79 右.
8) Specklin, op.cit., 1589, folio 58 左.
思われる17)。またイタリア等のヨーロッパ規模での技術
9) ストラスブール市公文書館 AMSt FI.1a, AMSt FI.2a(後者はデン
情報を彼が収集し、それをもとに独自に知的水準を形成
マーク王立図書館所蔵図面の複写写真)
10) ストラスブール市公文書館 AMSt FIIa3.
していた実態が明らかとなり、情報の集約を通した16
11) パルマノーヴァについては、Piero Damiani, "Palmanova - la
世紀後期の建築・都市計画の技術状況が明らかとなった。
storia", "Palmanova – da fortezza veneta a fortezza napoleonica",
"Palmanova – borghi e monumenti, Grafici", Istituto per
l'Encsiclopedia del Friuli Venezia Giulia, 1982. その他を参照。
謝辞
12) Buonaiuto Lorini: “Della fortificatione libri cinque”. Venezia,
本研究ではシュペックリンの遺稿資料について ストラ
1592. ここでは、以下の図を参照:Buonaiuto Lorini: “Le
スブール市公文書館(Strasbourg, Archives de la Ville
fortificatione”. Venezia,1609, pp.54-55 . 独訳 Bonaiuti Lorini,
et de la Communauté urbaine)を訪問して閲覧できた 。ま
"Fünff Bücher von Vestung Bauwen", Frankfurt a.M., 1607, plates.
1592 年版にこの図が掲載されてるか否か未確認。
た本研究は平成 20 年度科学研究費補助金基盤研究(C)課
13) Francesco De Marchi, “Della Architettura Militare”, Brescia,
題番号 18560631「16世紀ネーデルランドおよびドイツ
1599.
における理想都市理論に関する研究」の研究成果の一端
14) Pietro Catneo, “I Quattro Primi Libri di Architettura”, Venezia,
をなす。併せて感謝申し上げる。
1554.
15) Specklin, op.cit.,1589, folio 13 に挿入。解説文は folio 17-19.
註
16) 参照:Gerald L. Burke, "The making of Dutch towns : a study in
1) シュペックリンのモノグラフとしては、以下を参照した。 Albert
urban development from the tenth to the seventeenth centuries",
Fischer: “Daniel Specklin aus Strassburg (1536 - 1589):
London , 1956. その他のオランダ建築史・都市史文献。
Festungsbaumeister, Ingenieur und Kartograph“, Sigmaringen,
17)デンマーク王国によってエルベ川河口に 1617 年に創立されたグ
1996.
リュックシュタット(Glückstadt)は、その半分の市域が六角形を半割
2) Daniel Specklin, “Architektura von Vestungen“, Straßburg, 1589.
りし、集中式プランとした例であり、これはシュペックリンの理想都市
本研究においては、1589 年版の復刻版(The Printed Source
案からの影響が推定されている。参照:Fischer, op.cit., p.160.
Western Art 5、“Architektura von Vestungen“, Portland, 1972.)
を基本とする。他、1710 年版(microfiche:IDC, Zug, 1986)を用いた
図版出典
が、これはドイツ語文法がより新しく書き直されており、また若干の
図1: Daniel Specklin, “Architektura von Vestungen“, Straßburg,
加筆修正がある。シュペックリンの死後百年以上経過しており、加
1589.(Portland, 1972)
筆修正の経緯が不明であるが、読解しやすく、これを多く参照した。
図 2:Bonaiuti Lorini, "Fünff Bücher von Vestung Bauwen",
3) 例えば、参照:Hanno-Walter Kruft, "Geschichte der
Frankfurt a.M., 1607. (from “European Cultural Heritage
Architekturtheorie - von der Antike bis zur Gegenwart",
Online“)
München, C.H. Beck, 1985, pp.129-130.
案の分析から、北方ルネサンスにおける理想都市理論が
図2 B.ロリーニ『城塞論』所収のパルマノー
ヴァ計画図
図1 D.シュペックリン『城塞建築論』所収の
理想都市計画案
*
広島大学大学院工学研究科
教授・工学博士
*
Prof. Graduate School of Engineering, Hiroshima Univ. Dr.Eng.
22
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