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プロイセンとオーストリア

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プロイセンとオーストリア
第7章
近世ヨーロッパ
プロイセンとオーストリア
プロイセン ①
プロイセン公国
・東方植民によりブランデンブルク辺境伯領が成立(12 世紀)
→ 金印勅書によりブランデンブルク選帝侯国となる(1356 年)
→ 15 世紀以降ホーエンツォレルン家が支配
・ドイツ騎士団の東方植民によりドイツ騎士団領が成立(13 世紀)
→ プロイセン公国となる(1525 年)
プロイセン公国とブランデンブルク選帝侯国が合併(1618 年)
②
プロイセン王国
(1)
都∼ベルリン
フリードリヒ 1 世(位 1701∼13 年)
・スペイン継承戦争に神聖ローマ皇帝(オーストリア)側で参戦し、王国に昇格(1701 年)
・フリードリヒ=ヴィルヘルム 1 世(位 1713∼40 年)
・プロイセンの軍国的絶対王政の基礎を築く
(2)
フリードリヒ 2 世(大王)(位 1740∼86 年)
・啓蒙専制(絶対)君主として、君主主導の近代化につとめる
・フランスの啓蒙思想家ヴォルテールと交流して、サンスーシ宮殿(ロココ式)にまねく
しもべ
・「君主は国家第一の 僕 (下僕)」と述べる
・ユンカー(グーツヘルシャフト経営などを行うエルベ川以東の地主貴族)と協調
→農奴制は存続
・オーストリア継承戦争・七年戦争の結果、シュレジエン(シレジア)を獲得
・第 1 回ポーランド分割に参加(1772 年)
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第 56 講
プロセインとオーストリア
オーストリア
オーストリア
13 世紀以降ハプスブルク家が支配するが、カルロヴィッツ条約でのハンガリー獲得
などにより、複合民族国家となる
(1)
マリア=テレジア(位 1740∼80 年)
・オーストリア継承戦争・七年戦争の結果、シュレジエンを失う
(2)
ヨーゼフ 2 世(位 1765∼90 年)
・啓蒙専制君主として農奴解放令や宗教寛容令を発布
・第 1 回ポーランド分割に参加(1772 年)
オーストリア継承戦争と七年戦争
①
オーストリア継承戦争(1740∼48 年)
・オーストリアのマリア=テレジアがハプスブルク家領を継承したことに対して、バイ
エルン(バヴァリア)公やプロイセンなどが異議をとなえて、オーストリア継承戦争開
戦
オーストリア・イギリス VS バイエルン・プロイセン・フランス
・アーヘンの和約でマリア=テレジアのハプスブルク家継承とプロイセンのシュレジエ
ン領有を承認
②
七年戦争(1756∼63 年)
・シュレジエン奪回をはかるオーストリアが、イタリア戦争以来の宿敵フランスと同
盟= 外交革命
・プロイセンの攻撃で七年戦争開戦
オーストリア・フランス・ロシア VS プロイセン・イギリス
・講和条約でプロイセンがシュレジエンを確保
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第7章
近世ヨーロッパ
<プロイセン・オーストリア> 71
第 56 講
プロセインとオーストリア
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第7章
近世ヨーロッパ
次の文を読み、設問に答えなさい。〔津田塾大学〕
プロイセンという国名は、おもに現在のポーランド北東部とロシア領カリーニングラード
州にまたがる地域に居住していた先住民の名に由来する。このプロイセン人の土地は、13
世紀にドイツ騎士団によって征服された。プロイセン人など先住民のキリスト教への改宗を
名目にバルト海沿岸地域に進出していたドイツ騎士団は、外交力を駆使して神聖ローマ皇帝
とローマ教皇の両方から特許状を得たうえで征服地を領土化し、国家としての体裁も整えて
いった。(A)ドイツ騎士団は征服地を開拓し、ドイツ諸地域から農民などの移住を促した。
また沿岸のダンツィヒやリガなど
ア
同盟都市と結んで木材や琥珀・穀物の交易に携り、
騎士団国家は 14 世紀に最盛期を迎えた。
ドイツ騎士団は、バルト海沿岸地域を征服していく過程で隣接諸国と衝突を繰り返した。
北方では現在のエストニアの地をめぐって、のちに
強国
ウ
と対立した。東方では、
ア
イ
同盟を率いることになる北欧の
同盟の在外商館も置かれていたルーシの
エ
国と 1242 年に一戦を交えて敗北を喫し、以後東方への進出を阻まれた。一方、南方のポー
ランドと、南東の黒海方面にまで領土を広げ強大化しつつあった
オ
大公国とは、長期
間にわたって抗争を繰り広げた。特に 14 世紀末までキリスト教を受容しなかった後者との
抗争は、一種の十字軍としての性格を帯びたものだった。両国はドイツ騎士団を共通の敵と
みなし、これに対抗するために、キリスト教に改宗した
1385 年に結婚し、
カ
朝
オ
オ
大公とポーランド女王とが
=ポーランド王国を成立させた。この 2 国連合王国軍
は 1410 年の戦いでドイツ騎士団に大勝し、その後騎士団国家は断続的に続くポーランドと
の戦争で弱体化していった。そして 1525 年には騎士団長アルブレヒトがルター派に改宗し
たうえでポーランド王に臣従を誓い、騎士団領を世俗化しプロイセン公国を名乗るようにな
った。
1618 年にアルブレヒトの家系が途絶えると、これを(B)ブランデンブルク選帝侯が相続し、
キ
家のもとブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国とが合体した。その後、
キ
家は
ク
年からのスペイン継承戦争において神聖ローマ皇帝の側に立って参戦
し、その功績により、公より格が高い王を名乗ることを許された。これがプロイセン王国の
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第 56 講
プロセインとオーストリア
始まりである。以後、プロイセンは中央集権化や軍備の増強を行い、ヨーロッパの強国に名
を連ねるようになる。
問 1 空欄
ア
∼
ク
に最も適当と思われる語を入れなさい。
問 2 下線部(A)について、について、これを何と称しますか。
問 3 下線部(B)について、選帝侯とはどのような諸侯のことを指しますか。
次の文章を読み、それにつづく問 1∼4 に答えよ。〔成蹊大学〕
ヨーロッパでは、戦争がくりかえされるたびにジャガイモが普及してゆく。七年戦争のと
きにジャガイモは東の方にも広がり、(1)プロイセンやポーランドでも栽培されるようになっ
た。
ジャガイモ栽培の普及に貢献した人物として知られているのがプロイセンの
A
で
ある。彼は、偏見からジャガイモを食べようとしなかった農民にジャガイモ栽培を強制し、
飢えから人びとを救ったといわれている。いわゆる「
A
伝説」である。この伝説の真
偽は明らかでないものの、その後の(2)七年戦争と 1770 年におこった飢饉のときにジャガイ
モ栽培の利点は明らかになった。このときまでジャガイモはドイツではもっぱら家畜の飼料
として使われていたが、人間の食料として見直されたのだ。
ちなみに、生涯を戦争に明け暮れた
A
の最後の戦争は、1778 年のバイエルンの王位
継承をめぐるオーストリアとの対立であったが、この戦争は「カルトフェルクリーク」、つ
まり「ジャガイモ戦争」として知られている。
(山本紀夫『ジャガイモのきた道 ―― 文明・飢饉・戦争』岩波書店、2008 年より。ただ
し一部変更をほどこした。)
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第7章
近世ヨーロッパ
問 1 下線部(1)の 2 国に関連し、次の①∼④の記述のうち、正しいものをひとつ選べ。
① フリードリヒ=ヴィルヘルム 1 世は、産業を保護育成し、徴兵制をしき、8 万人余の
兵力を整備して、「軍隊王」とよばれた。
② プロイセンは、スペイン継承戦争でブルボン家側で参戦して、1701 年に王国への昇
格が認められた。
③ 1772 年、プロイセンはフランスをさそってロシアにポーランド分割を提案し、この
3 国がそれぞれ領土を奪った。
④ 1793 年の第 2 回目のポーランド分割は、コシューシコ(コシチューシコ)率いる義勇
軍の抵抗によって失敗に終わった。
問 2 A
に関連し、次の①∼④の記述のうち、誤っているものをひとつ選べ。
① ユンカー勢力と協調して官僚制・軍隊の強化を進めた。
② ヴォルテールと親交をもち、学芸の振興につとめた。
③ オーストリアのマリア=テレジアがハプスブルク家の全領土を継承したことに異議
をとなえた。
④ バイエルン公とともに、フランスに支援されたオーストリアとたたかったが、敗北
した。
問 3 下線部(2)に関連し、次の①∼④の記述のうち、誤っているものをひとつ選べ。
① オーストリアのマリア=テレジアはプロイセンとの戦争を有利に進めるために、外
交政策を転換して、長年敵対関係にあったフランスと同盟をむすんだ。
② オーストリアの外交革命で孤立したプロイセンは、イギリスの援助を受けて先制攻
撃でオーストリア陣営に開戦したが苦戦した。
③ 1762 年、オーストリア陣営から脱退したロシアではクーデタがおこり、エカチェリ
ーナ 2 世が皇帝となった。
④ 1763 年、プロイセンはオーストリアと条約をむすび、シュレジエン(シュレージエ
ン)を放棄した。
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第 56 講
プロセインとオーストリア
つぎの文章を読んで、下記の設問に答えよ。〔成城大学〕
ドイツの近代史を主導したプロイセンは、もともと 13 世紀に
a
がバルト海沿岸を征
服して建設した広大な領土に起源の一つを有している。この地は 1525 年に、
b
家出身
の支配者がルター派に改宗して世俗領となり、ポーランド国王から授封されてプロイセン公
国となった。
b
家は、元来南ドイツのシュヴァーベンに発するが、その一系譜が 1415 年に、ドイ
ツ北部のエルベ川からオーデル川にかけてひろがる
さらに 1618 年には
ここに成立した
c
c
c
辺境伯領と選帝侯位とを獲得し、
選帝侯がプロイセン公国を相続・併合して、大領土となった。
=プロイセンは、その後 17 世紀後半に「大選帝侯」と呼ばれた有
力な君主のもとで軍事力と財政力を確保し、東プロイセンに対するポーランド国王の宗主権
を排除することに成功した。また、
「大選帝侯」は、フランスで
d
の廃止によって弾圧
された新教徒を積極的に受け入れ、かれらはこの新興国のその後の産業発展に大きく貢献す
ることになった。
ついでその子の代にいたって、1701 年、神聖ローマ皇帝と交渉し、目前にさし迫った
e
戦争では皇帝側に軍事力を提供することを承諾して、念願だった王国への昇格を実現
した。こうした着実な発展のうえに、次代の王
f
は、
「軍人王」と呼ばれたように軍事
力を徴兵制によってさらに強化し、行財政もととのえて、軍国的絶対王政の基礎を築いたの
である。
この「軍人王」の子
g
は、即位後まもなく、歴代の神聖ローマ皇帝位を占めてきた
王家の相続問題に乗じて、資源の豊富な
h
を占領し、二度の国際的規模の戦争を通じ
て、最終的にその領有を認めさせ、プロイセンをヨ一ロッパの強国に押し上げた。また、1772
年には第 1 次ポーランド分割によって、東西に分断されていた領土の連結を実現させた。
問 1 文中の空欄 a∼h を埋めるのに最も適切な語句を記せ(同一記号は同一語句)。
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第7章
近世ヨーロッパ
問 2 下線部について、
(1) プロイセンの強大化を支えたのは、軍隊と官僚機構であった。エルベ川以東で農奴を
使った大農場経営を行い、地方政治を支配するとともに、軍部、官僚の上層部を独占し
てプロイセンの進路に大きな影響力を及ぼしつづけた地主貴族は、何と呼ばれるか。
(2) プロイセン国王
g
は学芸の振興にも努め、フランス文化に心酔して、ある代表
的啓蒙思想家を招いている。『哲学書簡』の著者として知られるこの人物は誰か。
つぎの文を読み、下の問に答えよ。〔法政大学〕
1
を終結させたウェストファリア条約は神聖ローマ帝国の帝位をもつ
2
家の勢
力後退を明らかにした。
この条約により、東ポンメルンを獲得したのは選帝侯を支配者とする
A
であった。
この国は 12 世紀、東方植民を進める中で生まれた辺境伯領であったが、15 世紀から
家の領土となっていた。そして、この家系は 1618 年に
3
B
公国と合併することで一気
2
家の対抗であった。16 世紀
に神聖ローマ帝国内の巨大な領邦となった。
17 世紀、ヨーロッパ国際政治の一つの軸は
C
初頭、
C
せた
の王は神聖ローマ皇帝の地位を
4
は
C
と
2
と争った。その後の宗教戦争を終了さ
家の王の下で中央集権化を進め、強大な国家建設を目指した。だがこ
の際自国を 3 方向から取り囲む
2
家の包囲網を破ることが課題となった。 5
年余りの在位期間のうちに 4 回の対外戦争を行った。 6
によって彼は孫を
C
と
2
D
王とすることに成功し、
王位を与えられ、その後の発展の基礎を築いた。
77
は彼の最後の戦争であり、これ
C
家の戦いの中で後者の側に立った
は 70
は長年の願望を実現させた。
3
家には 1701 年に
B
の
第 56 講
問 1 A
∼
D
プロセインとオーストリア
にもっとも適した語を下記の語群から選べ。
〔語群〕
a.アイルランド
b.イギリス
c.オーストリア
d.オランダ
e.サルデーニャ
f.シチリア
g.スイス
h.スウェーデン
i.スペイン
j.ナポリ
k.ノルウェー
l.バイエルン
m.ハンガリー
n.フランス
o.ブランデンブルク
p.プロイセン
q.ベーメン
r.ポーランド
s.ポルトガル t.ロシア
問 2 1
∼
6
にもっとも適した語を下記の語群から選べ。
〔語群〕
a.イギリス=オランダ戦争
b.イヴァン 4 世
c.ウィルヘルム 1 世
d.オーストリア継承戦争
e.オランダ侵略戦争
f.三十年戦争
g.七年戦争
h.スチュアート
i.スペイン継承戦争
j.ハノーヴァー
k.ハプスブルク
l.ピョートル 1 世
m.ファルツ継承戦争
n.フリードリヒ 1 世
o.フリードリヒ 2 世
p.ブルボン
q.ホーエンツォレルン
r.北方戦争
s.ミハイル=ロマノフ
t.ルイ 14 世
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