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1 戦前日本における市場秩序の受容と否定
1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 ――構造改革・規制緩和路線の経済思想史的背景 寺西重郎 要 旨 本稿の目的は,市場秩序に対する期待・受容・批判・否定といった人々な いし社会による対応のパターンを経済思想史の視点から考察することである. 第 1 に,開港と明治維新の時期に人々がどのようにして市場秩序を受容した かを,福澤諭吉と田口卯吉の諸説を中心に検討する.第 2 に,1930 年代に 市場秩序が否定され政府介入が強まっていった過程をラジャンとジンガレス の「大反動」モデルに則して考察する.最後に,政府の能力と動機というス ティグラーの指摘した視点からスミスと小泉内閣の規制緩和路線を比較し結 びとする. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 5 1 はじめに 本稿の目的は,戦前期日本における市場秩序の受容と否定の過程を経済思 想史の視点から考察することである.第 1 に,国の内外で財市場の急激な拡 大が生じた開港と明治維新の時期 1) に人々がどのようにして市場秩序を受 容したかを,福澤諭吉(1835 1901 年)と田口卯吉(1855 1905 年)の諸説を 中心に検討する.第 2 に,1930 年代に世界的に金融のグローバル化が停止 し経済のブロック化が生じるなかで,市場秩序が否定され政府介入が強まっ ていった過程をラジャンとジンガレスの「大反動」モデルに則して考察する. 明治初期の市場秩序受容過程では,市場経済の効率的意味合いだけでなく, 市場秩序のもつ倫理的含意と社会のあり方について,深い葛藤と省察が生じ た.1930 年代の市場秩序の否定にあたっては,予想されるインパクトにつ いて市場秩序を重視する立場とそれを否定する立場の間でイデオロギー上の 対立が生じた. 市場という抽象的な経済システムの変化に直面するとき,人々の行動は, その価値判断とともに,市場の機能と市場のもたらす便益とコストをどのよ うに理解していたかに依存して決まる.そしてその理解の程度は,その時代 の経済学による市場分析の水準と普及の度合いに依存する.したがって,こ の問題を考えるには,その時代ごとに最先端の経済学が市場の機能をどの程 度解明していたか,そしてその分析が日本でどの程度周知のものであったか を確認しながら進まねばならない.現在の日本の経済学者がもっている最先 端の市場分析のツールを既知のものとして分析することは,歴史分析におい 1) 先立つ江戸時代にも領国経済とつなぐものとして 3 都の株仲間問屋商人を中心とする全国的商 品流通機構が存在した.これについては宮本[1988]をはじめとして多くの蓄積があり,また近年 では制度分析の視点からの岡崎[1999]がある.本稿で急激な市場経済の発展というとき,特権的 な株仲間商人だけでなくすべての人々が移動の自由を得,かつ国の内外での商品流通に参加しえ ることとなった,という変化をさしている. 6 ては正しい方法ではないであろう. 以下では,まず第 1 節で,経済学における市場秩序に関する分析の長期的 過程を,不十分ながら,要約する.第 2 節では,明治期から昭和前期にかけ ての経済学知識の日本への導入過程を概観する.第 3 節では,明治期におけ る市場秩序の受容過程を福澤諭吉と田口卯吉という 2 人の代表的な市場秩序 の主唱者の市場観を中心に考察する.第 4 節では,1930 年代における市場 秩序否定・政府介入拡大の過程を,ラジャンとジンガレスの分析を手がかり に分析する.最後に第 5 節では,アダム・スミスの市場秩序観と近年の規制 緩和路線における政府の市場観を対比することにより,本稿の分析の含意を 取りまとめる. 2 経済学における市場秩序認識の展開――概観 明治から昭和前期というのは,西洋での経済学の発展史に則していうと, アダム・スミス(1723 90 年)によって創始されトーマス・ロバート・マル サス(1766 1834 年),デイヴィッド・リカード(1772 23 年)によって彫琢さ れ,ジョン・スチュアート・ミル(1806 73 年)によって集約された古典派 経済学が,アルフレッド・マーシャル(1842 1924 年)による限界効用理論・ 一般均衡理論との総合を経て,新古典派経済学に向かう転換点にあたってい た. アダム・スミスは,人々の利己心に基づく行動を前提として,市場が自生 的に秩序を形成することを明らかにすることにより,近代的な経済分析の基 礎を切り開いた.利己心に基づく人々の極大化行動は,交換的正義の法の支 配のもとでの自然的自由であると考えられた.すなわち彼の自由放任主義は, 倫理的道徳的価値をもつものとして,ホッブス,ロック,ルソーなどの社会 契約思想の基礎をなす自然権思想 2) に裏打ちされたものであった.スミス 2) 社会契約説では,人間がもともと自然状態でもっているとされた自由に生きる平等な権利をよ りいっそう確実なものにするために,人々は互いに契約を結び国家や社会を形成する,と考えら れた.社会契約思想と近代自然権思想については田中[1982]参照.自然権の内容は論者によって 異なる.ホッブスにあっては自分の生命を自分で守るという意味での自己保存の権利を意味し, ロックにあっては自己保存を確保するための手段としての財産権の保障を,ルソーにあっては人 間自由の尊重を意味した(田中[1977]) . 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 7 は経済社会の発展における分業の役割を強調したが,マルサスは,人口増大 と食料資源についての分析を行い,人口増加を抑制しないかぎり「困窮」が 経済を支配するという悲観論を組み立てた.リカードは,スミスの基本的前 提を引き継ぎながら,これをマルサスの議論と結びつけることにより生産と 分配に関する動学体系を構築した(Gill[1967]). 労働価値説に基づく生産費説,基本的に私的経済活動に立つ競争原理,人 口増加と資本蓄積・分業の利益に基づく経済の実物的動学理論などのスミス 以来の古典派経済学の伝統は,J. S. ミルによって引き継がれ集大成された. スミスの主張の基礎をなしていた自然権思想は,政治理論における社会契約 説の面で,ジェレミー・ベンサム(1748 1832 年)やミルの功利主義によっ て引き継がれた 3).ベンサムは社会や国家を単純に平等な個人の総和(one man one vote)と見なし, 「最大多数の最大幸福」を主張したが,J. S. ミル はこれを否定し,所得分配の不平等の問題を体系に取り込んだ.彼は「団結 の自由」を認め,弱者である労働者階級の擁護 4),分配問題における国家の 役割を主張した(猪木[1987], p. 15)5). スミスはまた,生産の目的は消費にあるとして,消費者重視の視点を打ち 出した.しかし,リカードやマルサス,J. S. ミルでは,市場における価値決 定の生産費用原理を強調したために,消費者主権の流れが弱くなった.この 傾向は,限界効用学派と一般均衡学派が台頭する 19 世紀末から 20 世紀初頭 まで続く.マーシャルは『経済学原理』の第 8 版において,消費者主権の考 えが後退した理由として次の 3 点をあげている. コストの強調, 数理的な解析方法の未発達, リカードなどによる生産 社会的富や人間社会の厚生 についての関心の高まり(Marshall[1920], Vol. 1, pp. 84 85). マーシャルは,消費者の効用に重きを置く限界効用学派の分析とリカード 3) 「社会契約論は十九世紀イギリス功利主義の中に正当なブルジョア政治理論の後継者を見出し た」 (田中[1993], p. 68) . 「ベンサムは 1 人 1 票という政治的平等を実現するために,……自然権 という用語を懸命にも避けてユティリティ(utility)という言葉を用いた.しかしこのことは決 して自然権や近代自然法の原理を彼が放棄したことを意味しない」 (田中[1982],社会契約説). ベンサム以前の自然権思想では,革命によって悪政に抵抗するという論理が取られていたため, 中産層以下の危険な思想としてイギリス上層ブルジョアジーの恐怖の対象となっていた.ユティ リティという用語に依って保守主義者の批判を避けたのである. 4) この意味で J. S. ミルはマルクス経済学者からは「過渡期の経済学者」と呼ばれた. 5) ま た,そ の『功 利 主 義 論』で は,自 利 の 原 理(self-interest)を 否 定 し,自 己 犠 牲(selfsacrifice)の必要を説いた. 8 などの労働と生産費に重きをおく供給側の分析を総合し,その後の新古典派 経済学の出発点を用意した.マーシャル以後,経済学は,消費効用の極大と 一般均衡論の展開に基づく純粋経済学の消費者主権の流れと,ミクロ的・マ クロ的な市場の失敗を考慮した厚生経済学・ケインズ主義などのケンブリッ ジ学派の政府介入の流れへと分岐しつつ発展する. 消費者主権の流れ , レオン・ワルラス(1834 1910 20 世紀初頭, カール・メンガー(1840 1921 年) 年),ウィリアム・スタンレー・ジェボンズ(1835 82 年)を中心とするオー ストリア学派の経済学者たちは,限界効用理論に基づく消費行動理論を打ち 立てた.またヴィルフレド・パレート(1848 1923 年)とワルラスを中心と するローザンヌ学派を呼ばれるグループは一般均衡理論を構築し,消費者効 用を基準とした競争的市場均衡の最適性を主張した. 第 2 次世界大戦後に至り,ケネス・アロー,ジェラード・デブルー,二階 堂副包などの数理経済学者は新古典派的一般均衡モデルにおいて競争均衡の 最適性の厳密な証明に成功した.その後,H. マーコヴィッツやウィリア ム・シャープなどによって資産市場分析が進展し,効率的な状態条件つき証 券市場の最適性,つまり資産市場を含めた市場均衡の最適性が明らかにされ た.すなわち,代表的個人の通時的な消費効用の極大をもたらす資源配分が, 財市場と金融市場の市場均衡において実現される,という新古典派経済学の 基本命題が証明されたのである 6). 政府介入の流れ 工業の発展,都市化の進展とともに,フランスなどで革命の生じた 1848 年ごろから西洋では古典的な自由放任主義への懐疑が強まってきた.さらに 交通・通信の進歩とともに,1870,80 年代には貧困が社会問題化してきた (猪木[1987]) .こうしたなかで,J. S. ミル,スタンレー・ジェボンズ,H. シ 6) もちろんこの命題が成立するためには,財市場と金融市場で市場の失敗がないこと,両市場を 機能を可能にする制度インフラが存在することなどの前提条件が必要である.また,こうした分 析が,所得分配を所与のものとし,かつ消費効用にのみ基づいて行動する経済人の仮定に立って いることも留意せねばならない. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 9 ジウィクなどが国家の役割を容認する主張を展開してきた.実際,イギリス で 1884 年に設立されたフェビアン協会は,J. S. ミルの社会主義理論を継承 したものであった(猪木[1987], p. 178).20 世紀に入り,社会主義の普及や 金本位制の自動調整機能への懐疑の高まりがこの傾向に拍車をかけた.マー シャルの後継者であるアーサー・セシル・ピグー(1877 1959 年)とジョン・ メイナード・ケインズ(1883 1940 年)は動揺するイギリス資本主義の現実 を踏まえて,実践的経験的なケンブリッジ学派の経済学を展開した.1912 年に『富と福祉』を刊行したピグーは,外部効果,公共財および誤った決 定 7)(情報の非対称性)という 3 つの理由から市場が失敗することを明らか にし,1936 年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を刊行したケインズ は,価格の調整機能の不完全性に着目して不完全雇用状態を含むマクロ均衡 の一般理論を樹立した.ピグーの貢献により「いまや政府は以前なら介入を 正当化できないような諸条件のもとでも,産業への有益な介入をなしうるよ うになった」(Stigler[1975],邦訳 p. 75)し,ケインズ経済学は政府による総 需要管理政策の根拠を提供した. 1950 年代になって,サミュエルソンやマスグレイブは公共財の問題につ いて厳密な証明を行い,また 1970 年代以降,非対称情報問題のもたらす諸 問題はスティグリッツやアカロフ等に依って包括的に解明された. 3 戦前期における西欧経済学導入過程の概観 日本における西欧経済学の導入過程は,便宜的に,1877 年(明治 10 年) ごろまでの啓蒙主義期,明治 10 年ごろから明治末期までの経済学の本格的 導入期,大正から昭和戦前期にかけてのマルクス主義中心の時期に分けるこ とができよう. 啓蒙思想の導入期 明治 10 年ごろまであるいは自由民権運動が衰退に向かう 1882 年(明治 15 年)ごろまでの時期は経済自由主義ないし個人主義の啓蒙の時代であっ 7) 個人に意志の能力や銀行の安全性などを見極める能力がないことからする市場の失敗.情報の 非対称性の一部をなすものと思われる. 10 た.その中心は,米国から帰国した森有礼の提唱により 1873 年(明治 6 年) に結成された啓蒙的学術結社,明六社であった.明六社では 1874 年(明治 7 年)2 月より機関誌『明六雑誌』を発行し,1875 年(明治 8 年)11 月の刊 行停止までに 43 号が刊行された.毎号平均 3,205 冊売れたという.設立時 のメンバーは箕作秋坪,西村茂樹,杉亨二,西周,津田真道,中村正直,福 澤諭吉,加藤弘之,箕作麟祥,森有礼の 10 名であり,その大部分が,幕臣 ないし佐幕藩出身の下級士族で,幕府の最終段階でその洋学機関ないし翻訳 方に勤務した経験をもつ.多くはまた大久保・西郷・木戸などの明治政府要 人と同じ天保元年前後生まれであり,福澤と津田を除く 8 人は明六社時代に は新政府の官僚であった(植手[1974], pp. 111 196). 明六社は,明治 7 年 1 月の民選議院設立建白書の左院への提出を契機に, 解散に向かう.建白書は,日本版の近代自然権思想である天賦人権説を根底 に,代議権と納税義務の不可分性を理論的根拠にして,民選議院による立憲 君主制への移行を主張したものであった.天賦人権説は明六社の啓蒙運動の 中心的テーマであり,理論的にはこれを否定することはできない.しかし建 白書の中心人物である副島種臣,後藤象二郎,板垣退助,江藤新平は征韓論 をめぐる派閥争いに敗れて下野した前参議であり,政権を掌握する薩長閥の 専横をけん制する政治的意図を含みとしてもつことは明白であった.主要メ ンバーの大部分が現役官僚である明六社としては,時期尚早論によって対抗 するしかなく 1875 年(明治 8 年)9 月には明六社自体の解散の決定に至る (服部[1953],宮川[1967]) .しかし明六社の啓蒙はその後自由民権運動の全 国的高揚をもたらし,1881 年(明治 14 年)には国会開設の詔勅が出される こととなる. ちなみに,1882 年(明治 15 年)ごろを契機とする初期の自由主義的啓蒙 的傾向からの方向転換は,政治学における自然法的社会契約思想の導入とそ の結末にさらに鮮明に現れた.明六社の時代すなわち明治初期啓蒙主義の時 期において,近代自然法思想は,天賦人権論という日本的表現・解釈のもと に導入され,自由民権思想の普及に大きな影響力をもった.しかし,民選議 院設立建白書を契機にその傾向は逆転し,ドイツ的国家主義が支配的となっ た 8).その変化は加藤弘之の転向に象徴されたとされる(田中[1993],第 2 章) .すなわち,加藤はその著作『真政大意』[1870]において,国家設立の 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 11 基礎をアリストテレスの「人の性」 (社会的動物)論におくなどして,天賦 人権論・社会契約説に基づく立憲君主制や共和制に一定の評価を与えており, 明六社の啓蒙運動の中心的論客の一人であった.しかし建白書を契機に自由 民権運動の火蓋が切られるとともに,加藤は天賦人権論と決別し,明治 14 年には, 『真政大意』を含む過去の著作を絶版とすることを内務卿山田顕義 に申し出たのである 9).1882 年には新たに『人権新説』を刊行し,ここで 加藤は,当時流行したイギリスの社会学者スペンサーの社会進化論 10) の影 響のもとに,適者生存の事実は科学的に証明できるが人間生まれてから自由 平等ということは証明できない,と主張した.現在の視点で見ると,この加 藤の主張はきわめて「素朴な科学主義」であリ,とても説得的なものとはい えないという批判も成り立ちうる.田中のいうように,社会契約説はイギリ ス革命の生きた現実のなかから導出されたものであり,ホッブスやロックは その先行事実を基礎にしながら近代的人間観・社会観を理論化したのであり, 太古の昔に人類が一堂に会して国家建設の社会契約を結んだというのは単に 1 つの論理的フィクションにすぎないからである(田中[1993], p. 89).しか し,アジアの国際的政治的緊張状況のなかでは,とにもかくにも単なる理想 論では国家建設はできないという現実論としての前提がまずあり,国家主義 が選択されざるをえなかったということであろう.欧米へ対抗し富国強兵政 策を進めるためには,民権に対する国権の優位を確立せざるをえないという 状況があった(田中[1993], pp. 6 9,84 85). またこの時期の西洋では,社会や国家における人間の行動や政治現象を, 自己保存,恐怖,功利といった抽象的原理からのみ演繹するホッブスやロッ 8) 9) 河上肇の表現でいうと天賦国権・国賦人権となった. 加藤は,民選議院について時期尚早論に立ち,論争の中心人物として,プロシャ流の絶対主義 的近代化方式を主張した.加藤の官職は,明六社時代は左院の一等議官,その後明治 14 年から 東京大学綜理,同 23 年から 26 年まで帝国大学総長. 10) スペンサーの Social Statics は 1881 年から 1883 年にかけて全訳が刊行された(図表 1 1) .明 治前半期のスペンサーの翻訳書は 22 点に及び,ベンサムの 9 点,ミルの 12 点をはるかに凌駕し ていた(山下[1983], p. 6).スペンサーの社会有機体説は,生物学から学んだ進化概念に基づく ものであり,進化説としてはダーウィンの『種の起源』刊行(1859 年)に先立つ.社会は, ホッブス的に構成的合理主義によって形成されるのではなく,適者生存の原理に従って動学的に 進化するものである,淘汰でより良きものが選抜される過程から社会の状態が改善されるのであ り,この過程に任せる必要がある,したがって政府介入は不可であるとされた.この民間の自由 な活動を重視する考えは,自由民権運動の理論的支柱として,板垣退助,植木枝盛をはじめとし て民権運動の指導者たちに広く支持された. - Alfred Marshall Henry Cary John Stuart Mill Herbert Spencer John Stuart Mill John Stuart Mill Karl Marx Leon Walras William Stanley Jevons Alfred Marshall Henry Sidgwick 犬養毅 林薫・鈴木重孝 松島剛 高橋誠次郎 渋谷啓蔵 河上肇・宮川実 手塚寿郎 安田源次郎 高橋是清 日本土子金四郎・ 田島錦治 1892 井上辰九郎 1884 1889 1875 1876 1881 1883 1895 1880 1931 1933 1882 1885 1886 1897 注) 1.本庄[1946],堀[1975],山下[1974]ほかによる. 2.原則として全訳で刊行されたもの.On Liberty には 1870 年に西周による 『利学』と題する漢訳がある. 3.手塚寿郎によるワルラス翻訳は上巻のみ.邦訳の出たのと同じ 1954 年に英訳も発行された(Gill[1967]) . 1890 1837 1840 1848 1851 1859 1863 1867 1894 1874 1877 1878 1881 1883 大島貞益 1877 大島貞益 1889 『圭氏経済学』 『弥児経済論』 『社会平衡論』 『自由之権利・一名自由理 『利用論』 『資本論』 『純粋経済学要論』 『 氏経済論』 『勧業理財学』 『経済政策』 (第 2 版の第 3 編のみ) 『経済原論』 『馬爾去斯人口論要畧』 『李氏経済論』(英訳からの翻訳) 『リカアド 経済原論』 (抄訳) Thomas Robert Malthus 訳書名 1820 者 Friedrich List 訳 1841 翻訳刊行年 1921 堀経夫 名 David Ricardo 書 1817 者 1948 米林富男 『道徳情操論』 (第 6 版の訳) 1884 石川暎作・嵯峨正作 『富国論』 1883 陸奥宗光 『利学正宗』 著 明治前期までの主要経済学書とその翻訳 1759 Adam Smith 1776 Adam Smith 1789 Jeremy Bentham 刊行年 図表 1 1 12 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 13 クなどの方法は,進化論によってだけでなく J. S. ミルなどによっても否定 される傾向が顕著となっていたことに注目する必要もある.このため,受け 入れるにあたって,ホッブスやロックに遡って人権思想の原理を学ぶことが なかったことである. 啓蒙思想としての近代自然法思想・天賦人権論が,ある程度政治的社会的 な役割を果たしたものの,短期間にその影響力を失ったことの背景には,思 想の受容過程に,今ひとつの次のような脆弱性がともなっていたことがある とされる.それは,思想が儒教(とくに朱子学)の論理的枠組みのなかで導 入されたため 11),人間性には社会規範が本来ア・プリオリに賦与されてい るという観念が強く 12),社会秩序の人為的構成という意識が弱かったこと である.いい換えると,自由で独立した個人の確立という概念の析出が弱く, その個人による社会秩序の能動的構成という観念が根づかず,このため民権 が国権に従属しやすい思想基盤の上に導入されたということである(植手 [1974],石田[1976]). 明治期の経済学導入 外国経済学の知識に導入はかぎられた洋書の利用と翻訳から始まった.初 期の海外知識の導入の中心は幕府の蕃書調所 13) であった.現存する幕府の 蔵書目録には 5,930 冊の洋書が確認されるが,しかしそのなかでの経済学書 はわずか十数点でしかない 14).またその多くはオランダ語のものであった. 本格的な経済学書の利用は明治新政府の手で始まる.太政官記録課から明治 11) たとえば明六社のメンバーは例外なくまず儒学を修めその後洋学に進んだ.これに加えて, 儒教では,超越的普遍的な天とそれへの人間の内在が前提とされるが,この枠組みは国家や共同 体に先行して個人の自由や権利があるという自然法思想の受容に好都合であったという側面もあ る. 12) 植手[1974]第 2 章によれば次のように整理される.第 1 に,朱子学では,五倫という社会規 範が人間性にとってア・プリオリに存在するのに対し,西洋啓蒙主義では,社会秩序は「不羈自 立」の権利をもった個人相互の関係としてア・ポステオリに成立する.第 2 に,朱子学では,人 間の本性は社会性をもっており,社会秩序は人間にとって自然的であると考えられているのに対 し,西洋啓蒙思想では,「自立自愛」「不羈自立」が人間の自然であり,社会秩序は人為の産物と される. 13) 1856 年に洋学の研究・教育および統制の期間として設立され,後 1862 年に洋書調所と改称, さらに 1863 年に開成所と改称された. 14) 蘭学資料研究会編『江戸幕府旧蔵洋書目録』および静岡県立中央図書館葵文庫編『江戸幕府 旧蔵洋書目録』の収録書の合計(杉原[1972], pp. 3 4) . 14 15 年に刊行された『諸官庁所蔵洋書目録』によると,その法律の部には, 英独仏語の文献 5,049 部(10,064 冊),経済の部には 1,284 部(1,394 冊) が収録されている.経済書の用語別では,英語 1,394 冊,仏語 567 冊,独語 209 冊である.部署別では,東京大学が 803 冊ともっとも多く,ついで大蔵 省 294 冊となっている.大蔵省には,1872 年 5 月から 1874 年 7 月の間翻訳 局,1874 年 4 月から 1876 年 7 月には銀行学局,1877 年 2 月から 1879 年 6 月には銀行学伝習所がおかれ,近代的な国庫や銀行制度の移植を研究・教育 する機関とされた.蔵書はそのためのテキストであった(杉原[1980]). 明治期の経済学の導入期に,まず最初に導入されたのは経済自由主義に立 つイギリス経済学であった.J. S. ミルないしそれに基づく入門書の翻訳もの が広く読まれ,大きな影響をもった.他方田口卯吉は,スミス,リカード, ミル,スペンサーなどに依拠しつつ独自の自由主義経済論を展開した.彼の 主催する『東京経済雑誌』は 1879 年(明治 12 年)に創刊され,幅広い支持 を集めた.ついで,明治 15 年ごろ以後,自由民権運動の衰退と時期を同じ くしてイギリス系の経済学に変わって国家主義的なドイツ系の経済学の導入 が盛んになる.1887 年(明治 20 年)には自由主義経済学がわでは徳富蘇峰 によって雑誌『国民之友』 (民友社)が発刊され,他方のドイツ歴史学派が わでは『国家学会雑誌』 (国家学会)が発刊された.両者はともに大きな反 『国民之友』の創刊号には田口卯吉の特別寄 響をよんだ(杉原[1972], p. 22). 書が寄せられている. 本庄[1946]によると,1867 年から 1897 年の 30 年間においてわが国で翻 訳された経済学書は 274 冊に上る.うち英書が 104 冊,米書が 48 冊,独書 が 40 冊,仏書が 37 冊であった.図表 1 1 は主要経済学書の刊行とわが国で の翻訳書の刊行を対照したものである.スミスの『国富論』は 1884 年に, J. S. ミルの『経済学原理』は 1875 76 年に翻訳が刊行されている. 『国富論』 の翻訳は,田口卯吉が 1878 年に創立した東京経済雑誌において企画された ものであり,石川暎作,嵯峨正作の 2 人により 6 年の歳月をかけて完成され た.現在の水準で見てもきわめて質の高い翻訳であるといわれる(杉原 [1980], p. 50).今,30 年間を 1867 1881 年と 1882 1897 年の 2 期間に分ける と前期では,合計 89 冊翻訳され,そのうち英書 33 冊,米書 22 冊,独書 5 冊であった.後期では合計は 185 冊であり,うち英書 71 冊,米書 26 冊,独 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 15 書 35 冊であり,後期にドイツ関係経済書の翻訳が増加していることがわか る. 経済学書のなかでもっともよく読まれたのは一般向けの入門書の翻訳もの であった.最初の経済学入門書の翻訳は,神田孝平の『経済小学』[1867]で あり,その定本は,W. Ellis の『社会経済学大綱』のオランダ語訳であった. また後述するように,William and Robert Chambers 編の入門書 も,福澤諭吉がその 『西洋事情外編』において部分訳したことにより,広く読まれたといってよ か ろ う 15).そ の 後 の 入 門 書 と し て は,圧 倒 的 に よ く 読 ま れ た も の は, フォーセット夫人(M. G. Fawcett)の『初学者のための経済学』であった. この本の骨格は J. S. ミルの『経済学原理』であり,イギリス国内で短期間 にたびたび版を重ねただけでなく,イタリア,スペイン,ロシア,ポーラン ドなどでも翻訳され世界中で広く読まれた.わが国では 1877 年に永田健助 訳述『宝氏経済学』が出され,問題集だけの訳本や簡約本が出るなどして, 明治前半期ではもっとも普及した経済学書となった.また,東京大学では, 1878 84 年の間雇外国人フェノロサが経済学を講義したが,その講義録では とくに J. S. ミルが重視されたといわれる.また,明治 14 年政変で下野した 大隈重信が設立した東京専門学校(後の早稲田大学)で,天野為之が講義し た経済学の講義録『経済原論』は,明治中期もっとも広く読まれた経済学教 科書として版を重ねた.これはフェノロサの講義録を基本として,ミル,ケ アンズ,フォーセットなどの英米の経済書を典拠として書かれたものであっ た(杉原[1972], pp. 7 11). 大正・昭和前期の経済学導入 大正・昭和期の経済学はマルクス主義経済学の時代であった.スミスもリ ストもウェーバーもすべてマルクスとの関係で読まれた(内田[1967]第 1 章, 小林[1990]) .とくに日清戦争(1894 95 年)以降,急速な工業化を背景に, 15) 出版は 1852 年.著者などについては千種[1996]参照.著者名はながく不明であったが,最近 J. H. Burton なる人物であることが判明したとのことである.千種は,福澤はロンドンの古本屋 街でこの 154 ページからなる小冊子を買ったが,スミスもミルも買わなかったとしている.福澤 はまた米国から当時評判の高かった入門書 F. Wayland[1853]の をもち帰り慶應義塾でのテキストにした. 16 ストライキが頻発し,分配問題にかかわる資本主義の矛盾が注目を浴びるこ ととなる.社会政策学会が組織されたのは 1898 年であり,同じ年に,後の 社会民主党となる社会主義研究会が安部磯雄・片山潜・幸徳秋水などによっ て立ち上げられ(杉山[1986], p. 17),また翌 1899 年には横山源之助の『日本 之下層社会』が刊行された.このころ以降日本の経済学はマルクス主義の圧 倒的な影響下におかれる.市民社会のあり方をめぐって,経済学が個人の思 想の中核に入り込むことがなかったことが日本の思想の歴史的特質であると されるが,そうした状況を一変させたのがマルクス主義である.諸科学は 「国家主義と社会 『資本論』をめぐって循環した(内田[1967], pp. 247 250). 主義が真っ向から対立し,個人主義も自由主義も結局は社会主義の友軍とし て敵視」された(田中[1982]).マルクス主義理論は,経済理論であるととも に,日本資本主義の「発展段階」の規定,したがって社会主義革命の可能性 をめぐって,講座派対労農派の間の「日本資本主義論争」を巻き起こした. 京都大学での河上肇の経済学史の講義ノートには,1910 年代にはスミス, マルクスと並んで J. S. ミルに大きなウェイトがかけられていたが,1920 年 代にはミルに関する叙述が消え去っている(杉原[1980],第 3 部).河上によ るマルクスの著作の翻訳は 1919 年の『賃労働と資本』が最初のものである が,1931 年には宮川実との共訳のかたちで『資本論』の全訳の公刊が始 まった. 限界効用理論と一般均衡理論で目覚しく発展しつつあった新しい経済分 析・新古典派経済学は,ようやく 1930 年代にはいって中山伊知郎・高田保 馬・安井琢磨などの若手の新進の経済学者によって紹介・研究が始まる 16). また 1930 年に死去した福田徳三はその晩年ピグーの厚生経済学の研究に努 力を傾注した 17).しかしこうした研究が強いインパクトをもつのは第 2 次 世界大戦後しばらくしてからのことであった.教育の面では 1920 年代以降 圧倒的にマルクス経済学が中心であった 18).とくに 1920 年代に大学を卒業 16) これには満州事変以後マルクス主義者(河上肇,大塚金之助など)に対する弾圧が強まった ことも影響している.高嶋善哉や大河内一男によるスミス研究,小林昇等によるリスト研究が戦 時中進展したのもこうした理由がかかわっていると思われる(小林[1990]) . 17) 西沢[2007], pp. 586 591.それでも一般均衡論の輸入という点では米国より早かったのではな いかと安井琢磨は回顧している.ちなみに,ワルラスの主著の翻訳が出たのは日本においても米 国においても 1954 年であった. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 17 してキャリア官僚になった,後に革新官僚と呼ばれた人々は,大学時代教養 としてマルクス主義の洗礼を受け,これが後に彼らによるドイツ全体主義受 容の基礎となった(古川[1990]). しかし,この時代の経済学をすべてマルクス主義に関連づけて理解するこ とは一面的にすぎるかもしれない.とくに応用経済学の分野では,通貨制度 のあり方をめぐって,J. M. ケインズ,グスタフ・カッセル,アーヴィン グ・フィシャーなどの貨幣理論や為替理論が紹介され金解禁論争などで影響 を与えた.また,そうした政策論では,1895 年(明治 28 年)に創刊された 『東洋経済新報』が,石橋湛山などの論稿によって,大きな影響力をもった ことも重要である. 4 明治期における市場秩序の受容 ――福澤諭吉と田口卯吉を中心にして 坂本[1991]は,明治初期における市場秩序観,人々の欲望がすなわち交換 関係のうちに相互に媒介されることで秩序の形成が可能になるという考えの 受容過程を,福澤諭吉を中心に,徳富蘇峰・中江兆民・幸徳秋水などの思想 を考察した.そこでは,そうした秩序のもつ倫理的意味に対して根強い懐疑 の存在したこと,福澤などが果敢にその懐疑論に挑戦したこと,市場秩序へ の絶望から極端な国家主義や社会主義が生まれたことなどが明らかにされて いる.以下では,われわれは,市場秩序の倫理的内容でなく,経済的意味合 いを中心にしてそのコンセプトの導入・受容の経過を考察する.対象は,市 場秩序の経済学的視点からの代表的支持者とされる田口卯吉と福澤諭吉にお かれる.彼らが政府介入を批判し市場秩序を強調した理由は何か. なお以下では,福澤については慶應義塾編『福澤諭吉全集』(岩波書店, 1969 1971 年)から,田口については鼎軒田口卯吉全集刊行会『鼎軒田口卯 18) 中村[1976]は次のような興味深いエピソードで始まっている.「今から十年余り前に,こんな 話を聞いたことがある.某市の大学の経済学部でさる一流企業の支店長に 日本経済論 の講義 を頼んだところ,その内容は山田盛太郎の『日本資本主義分析』の祖述であった.……30 年代 半ばに大学を出た支店長氏にとって,血の通った学問とは 資本主義論争 以外にはなく,彼が 若い学生に伝えるべき真理は『分析』以外には見出しがたかったのである. 日本資本主義論争 がこの世代の若い知識層に与えた影響はそれほど大きいものであった」 . 18 吉全集』(1927 29 年)から引用し,全集第何巻と記す. 4.1 見えざる手の秩序の認識 田口卯吉は,スミス的な分業のもとでの職業選択の自由に着目して,国内 における自由競争と国際関係における自由貿易による社会の進化を主張した. ただし,田口はスミスとリカードを評価し,日本のスミスとも呼ばれたが, 自然法的自由経済論を信奉していた形跡は希薄であり,日本における近代市 民社会の形成という自覚はなかったものと思われる(和田[1995]).また,維 新後の体制が,新体制であるとは考えていたが,封建制から資本主義への推 移という事態も明確に認識されていたとはいえない(溝川[1971], p. 94). 田口は,国内での自由競争は,自由な分業と交換により平等な社会をもた らすとした.自由な分業のもとでは人々の職業選択の自由が保障される.田 口にとって開化とは平等な社会をもたらすことであった.平等な社会とは 「労働社会の有様平均に進歩したる」状況であり,社会の多数の構成員を満 足させる状況(1885 年〔明治 18 年〕,『日本開化之性質』田口卯吉全集第 2 巻, p. 126)である.この意味では単なる分配の平等でなく生産における効率性を 意味していたとも考えられるが,田口の見た市場経済のベネフィットは主と して,自由で能力に応じた職業選択のもとでの平等な所得分配にあった(溝 川[1971], p. 91) .『自由交易日本経済論』(1878 年〔明治 11 年〕,田口卯吉全集 第 3 巻所収)では,こうした国内レベルでの自由競争のベネフィットを説い た後に,それを国際貿易の領域における自由貿易論へと敷衍し,産業保護論 への批判を行う.田口においては, 「経済の論理の基調は,社会的分業論を もとにし,資本と労働の流動性を媒介にして,職業選択の自由および交換の 自由こそが一国にとって有利である事を主張するものであり,自由交易論は その国際経済への応用に他ならない」(溝川[1971], p. 93). こうした田口の市場論はその歴史分析に基礎をおいていた. 『日本開化之 性質』において,欧州の開化は平民の導ける開化であるのに対し,江戸時代 の日本を含む東洋の開化は貴族の開化であったとし,今後の日本では,すべ ての人が自己の労働によって衣食する平等社会になる必要があると論じた. 「文明開化は社会の有様をして平均ならしむるものなり」(全集第 2 巻,p. 119). 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 19 田口がその後もその諸論稿において,「ユートピア的といえるほどの徹底 性」(熊谷[1995], p. 35)で自由貿易論に一貫して固執し,自由貿易による経 済世界の調和像を描き続けたことは改めて注目せねばならない 19). 『東京経 済雑誌』が,明治中期までの時期に幅広い支持を集めた事実から,われわれ は,自由競争のもとでの自律的な秩序の形成とそのもとでの文明の調和的進 歩という見方に,当時の人々が寄せていた強い期待観を読み取ることができ る.徹底した市場主義は,労使問題についてのスタンスについても明らかで ある.田口は,婦女子労働の禁止問題や労働時間短縮問題について,これら は純粋な経済問題であるとの立場からいっさいの政府介入を否定し続けた. すなわち労働者と資本家の自由な利己心の発動に任せておけばおのずと解決 すると考えたのである(和田[1995]).田口の死後の『東京経済雑誌』も同様 な論陣を張った.しかし明治後期以降,貧困や所得分配の問題が深刻化の度 合いを深めるにしたがいこうした主張は支持を失わざるをえない.『東京経 済雑誌』の影響力は次第にかげりを見せていくことになる(杉原[1972], p. 141). 福澤諭吉もまた,市場メカニズムのもとで個々人の利己心に基づく行動が ある種の最適解をもたらすことを認識していた. 「今日世に持囃す所の彼の 経済学の如きも,人に利己主義あるに依て初て出来たるものにて,供給需用 の関係なり,分業製産の事なり,競争均価の仕組なり,悉く皆此主義に依ら ざるはなし.又目下世人の喋々する彼の議院政治の仕組の如きも,固より世 の為め国の為めなど云ふ大造なるの事柄に依て出来たるものにあらず,全く 己れの事は己れに取て之を行ひ,人に頼まず又頼まれずとの利己主義より外 ならず.……人々自ら己れの利を謀りて……一毫も取らず一毫も与へず…… 期せずして自から天下の利益となり,天下は円満に治るべし. 」(1889 年〔明 治 22 年〕,「漫に大望を抱く勿れ」全集第 12 巻,p. 187).すなわち市場経済も 議会政治もその基本は利己心にあると論じたのである. ただし福澤の理解した市場秩序が西洋経済学の直訳的なものではなく,そ の意味ではきわめて自己流のものであったことは改めて注意しておく必要が ある.第 1 に,利己心に基づく競争が自然権によるとの認識は福澤において 19) 日本が日英通商航海条約(1894 年,発効は 1899 年)により,部分的ではあったが,関税自 主権を得た後も田口は自由貿易の主張を変えなかった(熊谷[1995]) . 20 も希薄であった. 『西洋事情外編』でチェインバーズ(編)の翻訳にあたっ て,自然的自由と予定調和の数パラグラフを省略(杉山[1986], p. 164)した ことにその証左を見ることができる 20).第 2 に,福澤においてもベンサム 的な功利主義の影響は見出しがたい. 「個人の効用を究極の原理とするとこ ろの功利主義的性格」を帯びていたと主張されることもあるが(坂本[1991], p. 99),しかしそれは,個人の消費効用を究極の基準とする新古典派的論理 に立っていたということにはならないし,坂本の記述もそうした意図で書か れたのではないことに注意せねばならない.第 3 に,また,福澤が繰り返し ゲームの形でのレピュテーションの果たす機能に気づいていたことはたしか でも(坂本[1991], p. 99),それを市場秩序の自生性に結びつける論理展開を 念頭においていたというのも,うがちすぎた理解である.少なくとも補論で 指摘するようなアダム・スミスの経験したレベルの知的葛藤を,福澤から読 み取ることは難しいと思われる 21). 4.2 市場の失敗 封建秩序との戦いを標榜する明六社の一部は経済自由主義の系として自由 貿易論を主張した.西周とともにオランダに学んだ津田真道などはそうで あった(杉山[1986]).1877 年(明治 10 年)以降自由貿易論を強硬に主張し たのは田口卯吉と 1879 年(明治 12 年)彼が創刊した『東京経済雑誌』に依 拠したエコノミストたちであった. 『東京経済雑誌』は新興の民間商工階級 の立場を代弁して,明治 10 年代の経済政策論特に 1887 年ごろまで強い影響 『国民之友』を刊行し平民主義をとなえ 力をもった(杉原[1972], p. 139)22). た若き日の徳富蘇峰も,物質的文明の経済の世界と精神的文明の道徳の世界 の調和の論理として,自由貿易主義によりどころを求めた.すなわち“貿易 20) ただし,『学問のすゝめ』には個人については自然的自由はありうるとの記述(全集第 3 巻, p. 204)もある(杉山[1986], p. 220).ちなみに省略部分の全訳は千種[1996]に与えられている (pp. 56 58) . 21) 『福澤文集二編』(1882 年〔明治 15 年〕 ,全集第 4 巻,p. 468)に,商人の異時間にわたる取 引の差し引き勘定を論じて,商売における評判の役割を論じている. 22) 溝川[1971]は,田口の影響力は明治 27 年ごろまでであったとしている. 『東京経済雑誌』は, 1905 年の田口の死去以後,乗竹孝太郎によって引き継がれた.田口卯吉全集全 8 巻が刊行され たのは 1928 年であり,長谷川如是閑,河上肇,櫛田民蔵などによって田口の再評価の動きが生 じた. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 21 の主義”における自他の利益の両立が「自愛」と「他愛」の究極的一致をも たらすこと( “利益の結合はすなわち愛情の結合”の一大真理)に強い同感 を覚えたのである(坂本[1991], pp. 126 131)23). しかし,自由貿易主義に対しては保護貿易の立場からの強い反対論が展開 された.とくに福澤門下の犬養毅 24) は 1880 年雑誌『東海経済新報』を創刊 して自由貿易政策を批判し,J. S. ミルなどを引用しつつ幼稚産業保護論を展 開した(堀[1975], pp. 213 231,杉山[1986], pp. 265 278).大島貞益もまた,リ ストなどの議論を援用して,一国が低開発状態にあるときには自由貿易論が 妥当するが,一定の発展段階に達してからは保護貿易政策が必要であると論 じた.米国の保護主義者ケアリの著書は,1874 年に が抄訳され,1884 年には が犬養によっ て翻訳された.また,ドイツのリストの主著 - は 1889 年に大島によって(英訳を通じてであったが) 最初の翻訳が出版された.この翻訳書には寺島宗則(元外務大輔,元老院議 長)が「序」を,富田鉄之助(日銀総裁)が「題言」を寄せており,当時の 反響の大きさがうかがわれる(堀[1975], p. 250).ちなみに『東京経済雑誌』 の終刊は 1923 年, 『東海経済新報』の終刊は 1882 年であった. 福澤諭吉もまた自由貿易論には与しなかった.利己心に基づく市場秩序を 主張しつつも,国際関係においては,個人については「報国の大義」が必要 であるとし,政府については保護貿易による商工立国論(堀[1975], p. 304) を唱えたのである.理由は,同胞に対しての「私情」を排除できないという ことにある(全集第 4 巻『文明論之概略』,p. 204).個人を個人としてではな く常に国民としてとらえ,一国の独立を何よりも重視した福澤の思考方式に おいては,国際貿易における政府の役割は経済政策論の不可欠の道具立てで あったのであろう(杉山[1986], pp. 174 183). 23) ただし蘇峰は日清戦争後,自由貿易論を放棄し帝国主義に転じ,国家主義・軍国主義のイデ オローグとなった(田中[1993], p. 160) . 「冷血な利己主義」すなわち利己主義の行き過ぎの問題 に直面し,これを「国家」という観念を直接媒介として意識的に克服しようとした(坂本[1991], p. 138) . 24) 慶應義塾出身.当時の貿易政策に関する論争を自由党系と改進党系ないし三田派の争いと見 る見方もある(杉山[1986], p. 939) . 22 4.3 政府の失敗 福澤は,しかし国内に殖産興業に関しては政府の介入を明確に否定した. 『民間経済録 二編』の「政府の事」という章で政府の職分として「司法,兵 部,租税,外国交際等」(全集第 4 巻,p. 334)に限るとしたうえで,政府に よる経済活動について『民間経済録 二編』 「公共の事業の事」の章で次のよ うに論じた.すなわち,一般の事業において政府が民間と競うようなことが あってはならない,また産業奨励のために政府資金を貸与することは弊害が 大であるとし,しかし「直に公共一般に関係せざる事にても,其事業の極て 大にして資本を要すること極て多く,之を私に任ずれば所費所得容易に相償 う可からず,去迚永遠国の大計を目的とすれば,捨置」くことができない事 業 25) は政府に任せる必要がある.同様の政府介入否定論は『文明論之概略』 その他多くの論考で見られる. 経済活動への政府介入否定論は田口卯吉においても明瞭である.とくに田 口は明治初期の政府の保護政策を鋭く批判した(「経済策」pp. 83 84 など,全 集第 3 巻).単に保護貿易批判というだけでなく,政府による直営事業や政 策金融を否定していることが注目される. こうした政府介入否定論は当時の一般的な論調であったと思われる.とく に,政府が藩閥に支配されている状況下では,政府介入は利益集団の影響を 受けやすく,アダム・スミスのいう意思決定の利害集団による支配という動 機の面での失敗の可能性が危惧されたのであろう. ちなみに政府介入に対する明確な否定を根拠に,「福澤が『摂取』したの は,たとえ原典によってでなく,チェインバーズの著者やウェイランドのよ うな末流によってであるにせよ,スミスの原理であることは疑問の余地がな い」(杉山[1986], p. 145)と評価されることがある.しかし,杉山がいみじく もいったように,福澤は「矛盾がおおすぎる」(前掲書, p. 147)ことも事実で ある.自由主義者・絶対主義者などいずれの既存のレッテルも福澤には正確 には妥当せず,それぞれのレッテルに近い意見が見出される一方で,まった く別の考えが表明されているのが知られる.封建制を脱して,民主制と市場 機能に基づいた新しい社会の構築を目指すというところまでは,福澤の関心 25) 今の日本ではたとえば鉄山(鉄鋼業のことであると思われる)などがそうであるとした. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 23 は西洋の思想家たちと共通する.しかしこれに加えて,アジアの政治的緊張 と欧米による侵略の危機への対抗という今ひとつの大きな課題を抱えていた 点で福澤のおかれていた状況は西欧の思想家たちと異なり,したがってその 思想展開は既存のいかなる西欧型の思考パターンとも異質の面をもっていた. こうした異質性ないし既存のレッテルの非妥当性ということでは田口卯吉で も多かれ少なかれ同じであった(溝川[1971], pp. 110 111). 4.4 個人のあり方 明治の啓蒙思想家たちは,何よりもまず人間そのもののあり方の考え方の 変革から出発し,儒教に取って代わるものとして,近代市民的な思考方法を 広めることに努めた.明六社に依拠した思想家たちでは,幕末期初めて西洋 の社会科学の教育を受けた津田真道と西周の 2 人の役割が大きい 26).津田 真道はその『情欲論』で,情欲こそ人間生存の前提であり,人間の知性を進 め,幸福を進める原点であることを説いた.西周はその『人世三宝説』で, J. S. ミルの功利主義論に明示的に依拠して,「最大福祉」を「人間最大の眼 目」とし,それを達成する手段ないし「第二の眼目」として, 「第一に健康 (マメ),第二に知識(チエ) ,第三に富有(トミ) 」をあげ,人世三宝と呼び, 道徳を修めようと欲するなら自己の三宝を貴重することに始まると主張し た 27).「道徳を利益の対極に位置するのではなく,利益を社会的視野のもと で合理的に追求する仕方がまさに道徳という規範をつくる」,また「文明」 と「開化」は,欲望と利益という世俗的価値を充足するための自由で合理的 な精神活動にほかならない,と説いたのである(松本[1974], pp. 54 55). 「利」を「義」と対置することによって,人間の欲求充足の問題を倫理外的 世界に押しやっていた儒教世界は,容赦なく批判された. 26) 津田真道と西周は幕府留学生としてオランダのライデン大学に学び(1863 1865 年)自然法・ 万国公法・国法・経済・統計の 5 教科を履修した. 27) 「情欲論」( 『明六雑誌』,35 号)『人世三宝説』( 『明六雑誌』,38・39・40・42 号および『西先 生論集』巻 3)ともに『明治文学全集 3 明治啓蒙思想集』 (1967 年,筑摩書房)に所収.ちな みにアダムスミスの『道徳感情論』には経済人の行動目的として「健康・財産・身分ないし名 声」があげられており,このうち「地位と名声」が最終的な目標であるとされた.財産は地位向 上のための手段であり,人々は「地位の向上を目的としたそのための社会的力の表示としての富 の増大を図る……その行為の背後に行われる過程の客観的な結果……社会的な目的としての自然 的富の生産と消費」 (内田[1962], p. 124)がもたらされる. 24 しかし,この啓蒙的姿勢は 1874 年(明治 7 年)民選議院設立建白書が出 されるにおよび,大きく変化したこと,上述のとおりである.津田は,選挙 有権者を華士族と富豪に限るという条件のもとで民選議院に賛成したが,西 は時期尚早論の立場から,既存の会議体を再構成する代替案を出した.しか し彼は他の多くのメンバーと同じく漸進論に分類される(宮川[1967],明治 啓蒙思想集) . 明治 10 年代に入り本経済が資本主義経済として本格的に展開し始めると, 資本主義ないし市場経済における個人のあり方が改めて問い直されてくる. とくに,儒教を否定した天賦人権論が否定されると,普遍的規範の追求姿勢 は影をひそめ,儒教は日常的な徳目として改めて強調されるようになる.と くに渋沢栄一が,実業人のあり方として『論語』と『算盤』の両立(経済道 徳合一主義)を説いたことはよく知られている 28).また,ルソーの社会契 約論を翻訳紹介した中江兆民は,議会政治システムとして儒教の有徳君主論 の一般化・民衆化論を展開した 29). こうしたなかで,田口卯吉と福澤諭吉は市場経済による社会秩序形成の必 要性を一貫して主張した.まず,田口卯吉においては,市場経済における倫 理問題は楽観的にとらえられていた.『日本開化小史』には,孟子やスペン サーをひいて「倫理の情は成長せる私利心なり」(全集第 2 巻,p. 25)という 有名な一文がある.孟子の論理からはこれは人間が成長するにしたがい幼少 時には気づくことのなかった他人との協調的行動の必要を知るという意味で あり,スペンサーの意味ではこれは市場経済において自生的秩序が形成せら れるというスミス以来の市場観を表している.同様に,社会の進歩の原動力 を「保生避死」すなわち自己保存の欲望という本能に求め,人々が生命に危 険を防ぐためにさまざまな工夫をすることで技術力が向上したことを指摘し, 「貨財の有様進歩するや,人心の内部同時に進歩す」(『日本開化小史』1877 82 年〔明治 10 15 年〕 ,全集第 2 巻,p. 83)と結論した.すなわち,社会の進 化や退歩は人知の進歩や退歩と平行して進むという歴史観がここに表れてい る.したがって田口によれば,自由な市場秩序のもとでの経済発展は,道徳 28) 小野[1999]参照. 29) すなわち民衆を教育することにより,すべて君子ならしめ,一国を挙げて道徳の園となすこ とを主張した(坂本[1991], p. 185) . 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 25 性や人間性の向上を必然的にともなうということになる. しかしこうした楽観論が当時の人々に等しくシェアされたものでないこと も重要である.たとえば,「平民主義」を主張した徳富蘇峰は,1887 年(明 治 20 年)に『新日本之青年』を公刊し,物質文明としての経済の進歩と精 神文明としての道徳の調和の問題を論じた.すなわち,維新以来物質文明の 建設にのみ邁進してきたが,その結果道徳的に「裸体の社会」(植手[1974], p. 121)となった,西欧を模倣するならば精神文明をも視野に入れねばなら ないのではないかと論じたのである(坂本[1991], pp. 84 85).とくに明治 20 年以降は,一方で経済発展が起動に乗り始め,他方で政商の行動パターンと 著大な致富が世に知られるにつれ,経済人の道徳性の問題が大きな関心事と なった.蘇峰の平民主義は,わが国資本主義のエトスを支えるものとして 「労作・節用・貯蓄」を旨とする能力主義に基づく“力作型”経済人と平民 的道徳の確立の必要を説き,政商に代表されるリレイション依存型経済人 (“叩頭型”経済人)を批判した. 日本を独立国として自立的発展経路に乗せることを究極の課題としていた 福澤諭吉は,市場を通じて,独立した個人の対等の立場での競争的関係によ る社会秩序の構築を主張した.「一身独立して一国独立す」(『学問のすゝめ』 全集第 3 巻,p. 43)という言葉に象徴されるように独立した個人が強力な国 家の基礎をなすという認識であった.個人は国からも他人からも独立しなけ ればならないとされた.その独立の意味は次の 2 点である.第 1 に,対等の 立場すなわちレシプロカルな関係.「一毫 30) をも貸さず一毫をも借らず」す なわち贈与的関係がない.福澤はこのことをとくに政府と国民との関係にお いて重要視した(『文明論之概略』全集第 4 巻,p. 121,『学問のすゝめ』1872 76 年〔明治 5 9 年〕,全集第 3 巻,p. 40 など).政府は租税を受け取っているので あるから,人々を保護するのは当然の責務であり,人々は何も恩を感じる必 要はないとしたのである.第 2 に,リレイションに基づかないすなわち没情 誼的(坂本[1991], p. 79)な競争的関係.すなわち「情愛は競争の反対なり. ……競争は相抗するの義なり.同等同権の義なり.レシプロシチの在る処な り.レスペクトの生ずる源なり.不自由の際に生ずる自由とは正に此辺にあ 30) 「ごう」と読む.単位の呼称で毛と同じ. 26 るものなり」(「覚書」1875 年〔明治 8 年〕,全集第 7 巻,p. 658). 市場競争を重視する姿勢は,裏を返せば,既存の封建的・儒教的秩序に対 する一貫した強い批判である.福澤による儒教秩序の批判は,とくに情実の もとでの恩と威の並存に向けられた. 「儒教的秩序のもとでは 政 すなわち君主が人民に対してその の刑罰 保護維持 恩威情実の を図ることと 生殺与奪 を科しうることが表裏一体」(坂本[1991],47,p. 235)となってお り,世間一般の「他人と他人の附合」に「実の親子の流儀を用ひん」とする ことから,「上下貴賤の名分」が生まれ,保護に名を借りた「専制抑圧」が もたらされる(『学問のすゝめ』全集第 3 巻,pp. 96 100),と批判した.独立 した個人のあり方と儒教のもとでの個人のあり方は,教育論に関して,次の ように比較された. 「在昔は社会の秩序,都て相依るの風にして,君臣父子 夫婦長幼互に相依り相依られ,互に相敬愛し相敬愛せられ,両者相対して然 る後に教を立てたることなれども,今日自主独立の教に於ては,先ず我一身 を独立せしめ,我一身を重んじて,自から其身を金玉視し,以て他の関係を 維持して人事を保つ可し.……一身既に独立すれば眼を転じて他人の独立を 勧め,遂に同国人と共に一国の独立を謀るも自然の順序なれば,自主独立の 一義……一切の秩序を包羅して洩らすものある可らず」(『徳育如何』明治 15 年,全集第 5 巻,pp. 362 363). ちなみに,ここでも福澤はその基本的テーマである, 「一身独立し一国独 立す」に立ち帰っていることが注目される.福澤においては,個人は市民と いうよりは国民であり,公益は国益であった(杉山[1896], p. 174,188)ので ある.また,福澤は外国との対抗のためには富豪の力が必要であるとし,さ らには蘇峰の否定した政商の行動に対しても寛容であった 31). 4.5 経済効率の源泉 生産費 リカードなどの影響下にあって J. S. ミルなどの経済学は生産費に強い関 心を寄せていた.ミルの影響を強く受けている『宝氏経済学』(永田健助の翻 31) 外国商人の横暴な行動に対してはわが国でも豪商を起こして対抗せねばならないとした.こ れを政商ブルジョアジーの階級的立場にたつと見る見方とそれに対する否定的見解については杉 山[1986], pp. 93 102. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 27 訳)の章立ては次のようである. 第1編 生財論(土地・勤労・財本) 第2編 交易論(価値および価銀・貨幣・物品の価値・貨幣の価値) 第3編 分配論(地代・勤労の賃金・財本の利潤・工業結社) 第4編 外国交易信用および租税論(外国交易・信用・租税) とくに第 1 編では,生産の効率に議論の重点が置かれている.まず,スミ スにしたがって分業の利益を次の 3 点にまとめている. 上, 分業による時間の節約, 労働者の熟練の向 工程に適した機械の案出.次に労働生産性 向上の原因を論じ,次のような要因を詳論している. の分業,勤労の競合,機会および器具の使用, 有形の原因――勤労 無形の原因――労働者の熟 練,労働者の才知,労働者の行状,労働者の信実. こうした叙述から,当時の経済学がミクロの組織効率に主たる効率の源泉 を見出していることがわかろう.こうした考え方は,当時の日本でも共通し た理解の仕方だと思われる.以下に見るように,福澤による人的資本の重視 や田口による OJT に基づく技術進歩なども同様な思考の方向にあるものと 思われる. 人的資本 明六社の西周は三宝の 1 つに「知恵」をあげたが,知識資本に大きな期待 を寄せその蓄積を説いたことも明治の経済学の大きな特色であった.福澤も その『学問のすゝめ』は,知識の修得により一身独立し,そうしてしたがっ て一国の独立維持を果たすことを主張したものであり,『文明論之概略』の 冒頭の文章「文明論とは人の精神発達の議論なり」に見られるように国民の 人的資本の蓄積に国の将来を託したのである.つまり,文明の発達とは自由 な精神の問題であり,そうした精神の発達を可能にし助長する社会システム の構築こそ一国の独立維持のための喫緊の課題であると考えられたのである. また福澤は独立した個人となるためには,無形の独立(精神の独立)と有 形の独立(生計の独立)が必要であり,後者は前者の前提となると説いた. リアリストである福澤は,士族のもつ高い教養・人的資本の蓄積が封建制の もとで家禄を保証されていたから可能になったという事実から目をそらすこ とはなかった.彼らが官僚としてまた実業家としてこれからの実学社会を担 28 うためには,有形の独立が必要であることを強調した. 技術進歩 田口卯吉は,西洋の進歩した技術が「労働社会の実験」により発達したこ とを強調した.すなわち,器械学は器械師の,建築学・造船学はそれぞれ大 工や船大工の,そして農学は農夫の,それぞれの実験を蓄積しそれに基づい て形作られてきた.労働を行う平民が自ら実用的で実践的な実学を作り出し てきたのであり,自由企業体制は平等な労働社会をもたらし,人々に技術的 工夫を行うインセンティブを与えるところに成長の基礎があると考えたので ある(『日本開化之性質』1885 年〔明治 18 年〕,全集第 2 巻,pp. 133 134). 松本[1974]によれば,田口の文明観においては, られた平等な社会という基本的な社会構造, 自己の労働に基礎づけ 実験的な人々の精神態度, 鉄道・郵便・生産技術・統治機構などの外形的・物質的な制度・文物の発展, の三者が密接に関連した文明の発展システムを構成していた(p. 60). 4.6 小括 以上要するに,急激な市場の拡大に直面した明治初期に,市場秩序の受容 を主唱した 2 人の代表的論者の目的と根拠は,次のように要約できるであろ う.福澤は nation building のための経済原理として市場秩序の導入を主張 した.彼にとって,市場秩序は贈与関係によらない競争を基盤とした経済主 体間の関係を醸成し,儒教に基づく秩序に代替しうることに重要な意味が あった.田口は平民を中心とした平等な社会の実現のための市場秩序の導入 を主張した.彼は,市場秩序のもとで,分業により職業の自由な選択が可能 となり,活発な経済活動へのインセンティブ効果を通じて経済社会の調和的 進歩が生じることを期待した. 5 1930 年代の「大反動」――市場秩序の否定 5.1 ラジャン・ジンガレスのモデル ――1930 年代の政府介入はなぜ生じたか 他の先進国でもそうであったが,1930 年代に日本では,経済における政 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 29 府介入が急激に強まり,市場による秩序形成が否定された.このことは,1 つには世界大戦の遂行ないしその準備のための国防力増強に向けての制度改 革によって説明される.第 1 次世界大戦が総力戦であったことに鑑み,将来 再びそうした事態が生じた場合に備えるための制度変更がなされたという説 明である.こうした考えが官僚や陸軍のなかに存在したことは事実である. たとえば 1934 年に始まった国策研究会には多数の革新官僚,陸軍政経将校, 学者などが集まり,国防力強化の志向のもとに政策論議を重ねたといわれる (古川[1990]).また,1935 年には後の企画院の母体となる内閣調査局が設置 され,革新官僚を集めて政策研究が行われた.しかしこうした見方を 1930 年代全体に適用することはかなり難しいようである.たとえば,内閣調査室 は当時の「革新」熱に対する岡田内閣(蔵相高橋是清,日銀総裁深井英五) の「政治的ゼスチャー」の意味があったといわれる(中村[1974], p. 30).中 村は「昭和十年ごろまでは経済全体を眺めてみると,まだ統制経済的な経済 政策は主流ではなかった.産業界内部では依然として自由経済を謳歌してい たし,政府の側でもドラスティックな統制はできるだけ避けたいという空気 であった」(同上 p. 33)としている.国防上の理由からの制度改革という意 識が急激に高まったのは 1936 年の 2.26 事件ないし 1937 年 7 月の日中戦争 開始以後のことであった(坂野[2004], p. 68 および中村[1974], p. 39). しかしながら,1930 年前後から,政府による経済介入が徐々に強化され てきたこともまた事実である.すなわち 1931 年 4 月には重要産業統制法が 5 カ年の時限つきで施行され,1936 年 5 月にはさらに 5 カ年延長された.こ の立法は,産業をカルテル化し競争による無駄・不安定を排除すること(第 2 条)と自主的協定に対して公益的見地からの監督(第 3 条)を行うことを 定めたものであった. 「自主規制」によるものではあり,また,強制力を加 えることは避け,できるだけ早くやめたいとの希望から 5 カ年の時限立法に したものであった(吉野[1935], p. 223)が,自律的な市場の調整機能への失 望が立法へのモーメンタムをもたらしたことは否定できない.また,1932 年には,資本逃避防止法が施行され, 「必要の場合」資本移動が制限される こととなった.この法律は 1933 年には「外国為替管理法」へとアップ・グ レイドされ,政府は常時為替取引きに介入することとなった.当時は一種の 変動相場制に移行していたから,金融政策に効果をもたせるためには,資本 30 移動の規制が不可欠であったのである.しかしこのことは,自由な資本移動 の資金配分効果だけでなく,金本位制のもとでの市場の自動調節機能を最終 的の放棄したことを意味していた.こうした動きは,その効果はともかく, 当時の経済界と政策担当者の間に産業自由主義の行き詰まりという認識が次 第に高まってきていたことを反映した立法であったことが重要である.とく に,1930 31 年にかけての金解禁政策が失敗に終わり,市場の自動的調整機 能に対する不信が高まってきたことが大きな契機となった. こうした 1930 年代に入ってのからの政府介入の強化の動きを寺西[2003] や Teranishi[2005]は,経済思想における市場機能認識の変化によるものと してとらえた.これに対して Rajan and Zingales[2003]は,とくに金融市場 に対する規制に注して銀行(利益集団)と中国侵略を目指す国家主義者(利 益集団)の政府との結託とその利害の追求という視点からの説明を試みてい る.以下ではラジャンとジンガレスのモデルの概要を説明し,その問題点を 明らかにしよう. ラジャンとジンガレスは,自由企業体制ないし市場重視の金融経済シス テムがきわめて脆弱な政治基盤の上に立っていること,それは「既得権益 という雑草の攻撃を絶えず受ける繊細な植物であり,それを守り育てるた めには手厚い心配りが必要である」(Rajan and Zingales[2003],邦訳 pp. 385 386)と主張する.市場の役割は,良いプロジェクトをファイナンス し新しいアイディアを実現すること,そうすることにより借り入れ制約を 克服して通時的消費効用の極大化を実現することに求められる.市場経済 システムとくに資本主義システムの根幹を成す金融資本市場が機能するた めにはさまざまな制度的インフラ(法律とその有効な執行,明確な会計基 準,有効な規制,監督機関;情報収集組織,格付機関)が必要である.そ の多くが公共財的性格をもつものであるため,十分な供給を確保するため には,集団的行動(collective action)の問題を解決し政府による支援が 必要である.政府によるインフラ供給が行われるためには政治決定が必要 であり,決定プロセスは利害集団間の政治過程(interest group politics) に依存する.しかしこの利害集団政治過程では,市場経済システムの受益 者である一般市民ないし消費者=投資家の政治力は,少数メンバーからな 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 31 り高い結集力をもつ利害集団の政治力より弱く,市場の抑圧ないし市場の 発展措置を放置ないし無視する政策から利益を得る集団によって支配され る傾向が強い(シカゴ学派の展開してきた利害集団モデル).したがって 市場経済システムの拠って立つ政治的基盤はきわめて脆弱である. 反市場的集団の政治力は,金融インフラにかかわる技術進歩が急速で あったり,貿易・資本市場の開放により海外からの競争が強まると,弱く なる.20 世紀初頭と 1980 年代以降の市場経済の順調な発展はこれにより 説明される.また金本位制が停止され,大恐慌の生じた 1930 年代以降の 金融市場の閉塞と停滞(大反動[Great Reversal] )は,反市場的立場の 既得権益集団の政治力が強まり,これに不況下の落伍者の集団の間に広 まった反市場感情が相乗して生じた.この傾向はとくにヨーロッパや日本 において強く,いわゆるリレーションシップ資本主義が生まれる素地を提 供した.現在においても市場主義は必ずしも安泰ではない.それを守るた めには,市場主義が人々に経済的自由を保障する利用可能な選択肢のなか で最善のシステムであることを周知するとともに,それがさまざまな反市 場的政治力の攻撃にさらされていることに警告を発しなければならない. 以上の要約からわかるようにラジャンとジンガレスの議論の目的は,自由 企業体制ないし経済自由主義による市場秩序の擁護,そのための政治基盤の 分析にある.しかし,自由企業体制をめぐる政治経済学分析はその全体に関 して論じられるのではなく,その基礎をなす金融市場に関してのみ分析され ている.彼らの周到な議論が必ずしも説得的でないのは,この点に起因する と思われる.彼らがこうした分析戦略をとった背景には,自由企業体制の基 盤をなすのは自由な金融市場であり,金融市場を政治経済学的に分析するこ とは自由企業体制を分析することに等しいという前提があると思われる.こ の前提の前半はおそらく正しい.しかし,問題は,そのことは前提の後半が 正しいことを必ずしも意味しないのという点にある.すなわち,金融市場の 自由さを規定する政治過程と自由企業体制全体を成立させる政治過程は同一 でない可能性が強い.後者における自由体制の成立は前者における自由体制 の成立を意味するが,逆は真でない可能性が強いのである.したがって,金 融市場の制度進化を決定する政治経済学分析は自由企業体制全体の進化を規 32 定する政治経済学分析を代替することはできない.より具体的にいうと,個 別産業である金融産業にかかわる政治過程については,利害集団モデルが適 用可能であっても,自由経済システム全体のあり方の分析にこのモデルは適 用できないのである.以下でこのことを説明しよう. 5.2 利益集団モデルの適用範囲 シカゴ学派の利益集団モデル 32) は,集団行動に関するフリーライダー問 題に着目し,小集団では,その集団に参加することによる個人的便益が参加 のための費用に較べて大きいのに対し,大集団では費用の方が大きいと考え る.したがって小集団の方が集団の利益のための政治活動を活発に行うのに 対し,大集団ではその成員はフリーライダーとなりがちで集団の政治行動は 弱くなる.このため集団間の利害の対立する政治決定では小集団の利害が優 先されることになる,というわけである 33). ラジャンとジンガラスの議論では,小集団は銀行業者などの業界団体ない し大銀行からなる利益集団である.これに対して彼らの議論では,大集団は 消費者=投資家であるマクロ的な一般市民であり,上記利害集団モデルを適 用することにより,市場の受益者である一般市民は,強力な交渉力をもつ銀 行などの反市場勢力の犠牲になるという結論が導かれる.たしかに,一般市 民は金融規制の個別事案に関しては,費用と便益の観点からはフリーライド のインセンティブをもつかもしれない.しかし,ことが自由企業体制など経 済社会の基本的なあり方にかかわる場合,一般市民の行動は集団行動の費 用・便益とは別のインセンティブ,たとえばイデオロギーや経済思想などに よって支配される,ないしより強く影響されることに注意しなければならな い.たとえば,ノースは「個人は公正だと信じる程度において私的な費用便 益計算に基づく行動を中止する」(North[1981],邦訳 p. 74)と述べ,人々が 公園にごみを散らかさない行動をとったり,匿名で献血行動を行うことを説 32) Stigler[1971],Olson[1965],Posner[1971],Beker[1983]を参照.この種のモデルの解説と しては,Pelzmann[1976]が優れている.Persson and Tabellini[2000]では,こうした利害集団に よる政策決定モデルはシカゴ学派と呼ばれている. 33) 大集団でも,共通の利益だけでなく別個の非集合的便益や強制があるときは,強力な集団行 動がなされる場合がある.オルソンはそのような大集団の例として,労働組合や農民集団をあげ ている. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 33 明している.ノースによれば,国家目的や社会全体の利害にかかわる問題に ついては,個人は通常その倫理的道徳的判断ないしそれを包括するイデオロ ギーによって行動するのである. このことは,ほかならぬスティグラーなどのシカゴ学派の経済学者によっ ても十分認識されていたことである.たとえばスティグラーは「自由貿易の ようなある種の変革は,われわれ経済学者には説明できない政治制度の根本 的再構成なしには,達成できないであろう」と述べて,貿易制度の基本的な あり方の問題などは利益集団理論では分析できないことを認めている 34). また,ポスナーは,ラジャンとジンガレスの本の出るはるか以前に次のよう に論じている.「極端には,社会の全員あるいは大部分の人が利益集団を形 成すると考えた方がふさわしい問題もある.しかし,利害者集団をこのよう に用いるとそれは公共的利益の理論に解消されてしまって何の用も成さない ことになる」(Posner[1971]).また近年進歩の目覚しい政策決定の経済学で は,シカゴ学派型の利益集団モデルは special-interest politics の問題に適用 可能であるが,general-interest politics では政党政治が基本的な政策決定の メカニズムであり,そこではイデオロギーや中位値投票者(median voter) の選好などが大きな影響力をもつとされている(Persson and Tabellini[2000]). ちなみに,Iverson and Sockice[2001]や Perotti and von Thadden[2006]は, 金融システムの決定の問題に中位値投票者の理論を適用して次のように論じ ている.中位値投票者が金融資産よりも企業特殊技能などの人的資産を多く 保有している経済では,産業構造などの大きな変化をもたらす資本市場より 安全な投資を選ぶ傾向のある銀行中心の金融システムを選好し,自己の人的 資産を守ろうとする傾向がある. ラジャンとジンガレスは,シカゴ学派の利害集団モデルを適用するにあっ たって,タクシー免許の発行増加に反対の姿勢をとり続けるニューヨークの タクシー業界(小集団)とそれを利用する,したがってタクシーの増加によ り利益を得る,市民(大集団)の例をあげている.問題は,同じ市民であっ ても,マクロ的な消費者=投資家である市民集団とタクシー利用者としての ニューヨーク市民ではインセンティブ構造がまったく異なっていることであ 34) た だ し 個 別 産 業 の 関 税 率 な ど の 貿 易 政 策 は 利 益 集 団 モ デ ル の 格 好 の 分 析 対 象 で あ る. Grossman and Helpman[2001])および Grossman and Helpman[2002]を参照せよ. 34 る.後者は,タクシー数の増加運動に参加した場合の費用と便益によって動 機づけられるであろうが,前者の行動ではイデオロギーや経済思想さらには 倫理的判断によって規定される側面がはるかに重要であるということである. 5.3 1930 年代の日本についてのラジャンとジンガレスの説明 ラジャンとジンガレスは,1930 年の日本において金融市場の抑圧が自由 企業体制の否定につながったことの 1 つの証左として,社債発行を有担化す ることが銀行主導で決まったことを強調している.しかし彼らの議論は, ファクチュアルな誤りがあったり,また有担化をめぐる事情に関する情報を 十分に把握していないため間違った評価に至っている可能性が強い.しかも 彼らの議論は,市場秩序の採用・否定という社会経済の基本的あり方に関す る問題をローカルな利害集団モデルで解釈しようとして陥った典型的な誤謬 のケースと見なすこともできる.このことについては寺西[2006]で詳しく検 討しておいたので,ここではその要点を記しておこう. 社債の有担化問題とは次のような事実である.すなわち,1931 年 6 月 5 日および 1933 年 5 月 5 日,銀行,信託,保険会社の代表者からなる五日会 の会合で,社債の発行を担保付とすることが申し合わされた.1933 年 5 月 6 日結城興銀総裁は下引き受けを行う証券業者を招集してこの旨を伝えた.証 券業者は,社債の有担化は趣旨においては賛成としたが減債基金の設置など 付帯の改善を行うことを要望した,というものである. これに対するラジャンとジンガラスの説明は次のようなものである.金本 位制停止後,グローバル化銀行業者の交代を背景に,銀行業者は既得権益を 守るために社債の発行条件に介入し,資本市場の機能を弱めることに成功し た.彼らはさらに国家主義的政府と結託して,戦争準備のための金融規制を 強化していった. 寺西[2006]は,ラジャンとジンガレスが気づいていない次のような諸点を 明らかにした. ①当時の大銀行は投資銀行化しており,また主要証券会社は系列銀行を設立 しており,この問題について銀行対証券の図式は当てはまりにくい. ②有担化を推し進めたのは,当時のもっとも先鋭的な市場経済派の井上準之 助とその強い影響下にあった結城豊次郎であり,彼らは金解禁ないし清算 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 35 主義による経済の効率化の一環としてこれを推進した.この 2 人にとって, 有担化はデフォルトした非効率な企業の効率的な処理によって金本位制の 自動調整機能を十分に発揮させることが目的であった. ③当時の社債に関する最大の問題はディフォルト社債の処理に多大の時間と コストがかかることであり,有担化した場合受託銀行の機能でこの処理が 格段に容易になることが期待された. いい換えると,有担化は,金解禁をめぐる複雑な政治情勢のなかで,自由 主義経済か経済への国家介入か,あるいは市場秩序の擁護か否定か,という 経済政策の基本方針にかかわるイデオロギー上の対立を背景に生じたことで あり,銀行業界の利害などほとんど関係ない.しかも皮肉なことに,それを 推進したのは自由主義経済論者たちであった.有担化は彼らにとって当時の 状況では,ラジャンやジンガレスの理解とは逆に市場発展のための制度イン フラの整備を意味していたのであり,五日会の決定はそれを援護する意味を もっていたと見られるのである. また,この時期の人々が,消費者=投資家の通時的消費効用極大といった 金融市場のもつ理論的ベネフィットを念頭において行動したのではないので はないかことも指摘しておきたい.第 3 節,第 4 節で検討したように金融市 場がそうした機能をポテンシャルにもっているということは,当時の経済学 者の間ですら明確な認識はなかったと思われる.もちろん,度重なる社債の ディフォールとの経験から証券業者たちは投資家の保護に大きな関心を抱い ており,この件でも彼らの主たる関心は投資家の保護にあった.しかし当時 においては,それはいまだ一産業とその顧客の関係にかかわる問題であった. そして,井上たちが競争市場に期待したのは,非効率な企業の排除(いわゆ る財界の整理)と効率的な企業への資金供給による経済効率の向上以外のも のではなかった. ちなみに上掲の Perotti and von Thadden 論文では,日本における大反動 は,1930 年代ではなく,第 2 次世界大戦直後のハイパーインフレにより中 位値投票者である中産階級の金融資産の実質価値が急減したことによって生 じたとされている. 36 6 結びに代えて――現代の構造改革・規制緩和路線に対する含意 市場秩序の受容は,経済社会の基本的な秩序システムの変換である.歴史 的に見て,その変換を人々は,その時々の経済学知識を所与として,さまざ まな期待を込めて迎えた.福澤諭吉は一身独立した個人からなる強力な国民 国家を,田口卯吉は職業選択の自由を許された平等な社会での経済成長の可 能性を,アダム・スミスは重商主義期の個別産業の利害関係に左右される腐 敗した政府システムの解体を志向した.1930 年代前半の日本は,市場の失 敗を抑止したいという政府介入思想と金本位制の自動調整機構により市場の 規律づけを志向する自由主義経済派とのせめぎあいの時期であった.1990 年以降の規制緩和と「抵抗勢力」の関係も,既存の高度成長型システムとく に政府・民間のインターフェイスに深い不満をもつグループと新自由主義に 反感を覚えるグループの対立であった.単なる個別産業の利害の問題ではな く,一国の経済効率の根拠をどこに求めるかという問題でありさらに,一国 の道徳と社会秩序のあり方の問題であった. 明治維新は,経済面では,財の流通の自由化,金融システムの創設,労働 市場自由化などあらゆる面におけるシステムの改革であった.大反動時の政 策変更については,個別の金融市場だけの変更がなされることはなく,労働 市場,財市場,国際取引など経済全体にかかわる規制強化がなされてきた. 今回の規制緩和においても改革は財・労働・金融のあらゆる側面に及んでい る.いずれのケースでも市場秩序そのもののあり方が基本的イシューであっ た.それゆえ,こうした問題には利害集団のモデルの説明力は必ずしも十分 でない.制度の選択は多くの場合,優れて政治経済学的問題であり,そこで はイデオロギーや経済モデルの果たす役割を無視することはできない. 最後に,小泉内閣の規制緩和規制緩和に際してしばしば登場した「民間で できることは民間で 35)」というキャッチフレーズの意味を,スミスの市場 秩序観に引きつけて評価し,結びに代えよう. 福澤や田口は市場的秩序の経済的重要性を評価するとともに,その秩序の もとでの人のあり方に重大な関心を寄せていた.市場経済の先駆的な主唱者 35) このフレーズは小泉内閣の時代の規制改革に関する文書には随所に見られたものであり,「地 方でできることは地方で」と続く. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 37 であるアダム・スミスも市場秩序のもつ倫理的意味合いに少なからざる危惧 の念をもっていた.少なくとも, 『道徳感情論』の段階ではそうであった. そうした危惧にかかわらず,スミスが『国富論』において利己心を強調した のは,市場の広がりと分業の高度化が,中産階級と下層民を,重商主義的な 特権と規制にともなう腐敗や堕落から救済し,その生活の向上をもたらすこ とを確信したからであり,そのことが一国の文明の進歩につながることに期 待を寄せたのである(田中[1997],下巻 p. 57). これに加えて,スミスの市場主義は,代替的な経済メカニズムである政府 介入に対する強い嫌悪感にも由来していた. 『国富論』第 4 編(book IV)に おけるスミスの重商主義政策に対する執拗な批判からこのことをうかがうこ とができる.スティグラーは,自由放任経済政策に関するスミスの第一の根 拠は,「自然的自由の体系の効率に寄せる彼の信念であった.……スミスが 私的経済活動に強い選好を抱くようになった第二の根拠は,国家に対する深 い不信の念であった」と指摘する.さらに,スミスの不信は「主として国家 の能力よりも国家の動機に向けられた……彼の不満は,国家が組織化された, 発言力のある,利己的な諸集団,なかでも商人や製造業者の集団の隷属物」 になっていた点に向けられていた」(Stigler[1975],邦訳 pp. 63 65)と述べて いる.ちなみに,スティグラーによれば, 「個人が自己の利益について知ら ず,あるいは自己の利益を増進させる力を持たない分野では,スミスはきわ めて寛大に国家の介入を許してもよいと感じていた」とされる. 要するに,スミスの自由放任主義の背景には,市場秩序に対する警戒観の 入り混じった強い期待とともに,政府に対して,その能力は信じつつも,そ の動機にかぎりない不信感を抱いていたことがある. 福澤諭吉や田口卯吉にはスミスほどの政府の動機に対する不信感は見出せ ない.しかしときの政府は藩閥に支配下にあり,そのグループに所属しない 彼らにときの政府の動機についてある種の警戒感のあったことは事実であろ う.また,政府の能力についてもさほど不信感をもっていたとは見られない. 政府にも十分な能力があるが,民間に任せることにより,人々の自立心など の面でいっそうの好ましい効果を期待できると考えたのであろう. こうした論脈で小泉内閣の「民間でできることは民間で」というキャッチ フレーズを解釈すると,それはきわめて強い含意をもっていると思われる. 38 政府の能力も動機も信じない,すなわち,「仮に政府に能力があっても,能 力がなければなおさら,民間に任せる」という主張を含意していると読むこ とができる.政府の動機については,高度成長期型の政府と民間のインター フェイス(業界団体―原局システム)に対する強い不信感があった.郵政民 営化はその象徴である.政府の能力については,最近の官僚の不祥事に鑑み ると,小泉内閣の姿勢はそうした問題を見通していた,あるいは内部情報を 掌握していたとも解釈できよう.市場秩序自体の問題については,そのベネ フィットを強調しすぎた面があると思われるが,グローバル化の急激な進展 を目の当たりにしてそれに乗り遅れた場合のコストが強く意識されたという 面も重要であろう 36).また,中曽根内閣以来の規制緩和のプロセスは,単 に市場に任せるとか市場秩序を受容するというだけでなく,市場機能の十全 な発揮のために,必要な構造改革を行うといういわば再規制の側面をも含む ものであった 37).こうした点を,経済思想史的に検討することは将来の課 題として残されている. 補論 スミスの問題再考 まず,最近までのスミス研究の成果に依拠しながらスミスの市場秩序観を 整理しておく. 市場の自動調節機構 市場経済は行為のための簡単なルール(所有の安定,同意による所有の移 転,約定の履行)のもとで自生的な秩序をもたらす(Hayek[1967]).この ルールはデイビッド・ヒュームがその『人性論』(Hume[1740])において, 人性とその環境に関する 2 つの基本的事実 38) から演繹したものであり,正 義のルールと呼ばれた.正義のルールのもとでの人々の自己愛に基づく行動 が市場の自生的秩序をもたらすことは,アダム・スミスによって見出された. 36) この点について池尾和人氏のご指摘に負う. 37) 内閣府岡田靖氏のご指摘に負う. 38) 第 1 は人間の利己心の強さと寛容心に限界のあること,第 2 に事実は外的事物が所有者を容 易に変えることと人間の欲求を満たす手段が希少であること(Hume[1740],邦訳 p. 69). 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 39 この秩序が「見えざる手」によるとされたことはよく知られている. スミスの『国富論』には(生産者は) 「その生産物が最大の価値をもちう るような仕方でこの産業を方向付けることによって,彼は自分自身の利得だ けを意図しているわけなのであるが,……見えざる手に導かれ,自分が全然 意図しても見なかった目的を促進するようになるのである」(Smith[1776], p. 423)と述べ,私的利益の追求が社会に利益を実現させると説いている.ま た私的利益の追求が分業を通じて消費者の利益につながることを指摘して, 「われわれが自分たちの食事を期待するのは,肉屋や酒屋やパン屋の仁愛に ではなくて,彼ら自身の利益に対する彼らの顧慮に期待してのことなのであ る」とも述べられている(Smith[1776], p. 14)39). スミスは利己心を強調したが,そのことは仁愛の道徳的重要性の否定を意 味するわけではない.仁愛は身近な人間によって構成される対面集団にのみ 可能であり,より広範な社会一般の協力関係を可能にするものではないとい う限界をもつことに着目したのである.彼は,社会の進歩は人口の増加・資 本蓄積とともに,分業に依存していると考えたが,分業は市場の大きさに依 存すると見なした.市場の拡大が分業の進展をもたらし,分業がまた産出の 拡大をもたらすという累積的成長過程を示唆したのであり(Gill[1967]),広 域市場の効率的なワーキングを可能ならしめるためには,仁愛だけに頼るこ とはできず,利己心に立脚する秩序の成立可能性が不可欠の道具立てであっ たのである.いい換えると, 「自愛心に立脚する社会は を欠くゆえ 幸福と快適さでは劣る 相互の愛情と愛着 ことを認めたうえで,なおかつそのよ うな社会が十分に 存立 しうることを論証しようとした」(坂本[1991], p. 123)のである. ちなみに,それ以前の重農主義者でも個人の利益追求と社会的利益が一致 するという調和的社会秩序への信仰が述べられていたが,スミスはこれが自 然権,法の支配による交換的正義のもとでの自然的自由であるとした.すな わち,スミスにおいては,自由放任は倫理的道徳的価値をもつ自然権の 1 つ であった(猪木[1987], p. 22). 『道徳感情論』(Smith[1759])では,行為者の精神には,自愛に基づく部 39) 「見えざる手」については『道徳感情論』(Smith[1759])ですでにふれられている(猪木 [1987], p. 21) . 40 分と公平な観察者としての行動規範の部分という 2 つの部分があるとし,行 為者が立場を変えて観察者的視点に立ちモニターするという論理構成がとら れた(共感ないし同感の原理)40).スミスがこの段階では,市場経済の個人 行動の倫理的側面にもつ意味に関して必ずしも楽観的な見方をもっていたの ではなかったことに注目すべきであろう.しかし,この論理は 17 年後に書 かれた『国富論』(Smith[1776])では,市場のもつ自生的な秩序形成論に立 つ楽観論,すなわち個人の自由な私的利益追求から徳が実現されるという論 理,に切り替えられた.田中正司は,これを市場社会における競争メカニズ ムが,観察者を代替して自然的に道徳性を生み出す,との理解に基づくとし ている. 「商業関係では無分別な行動や不注意は,他人の信用を失うだけで なく,自らの破滅を招くので,自力で生活しようとすれば,誰しも慎慮的に ならざるを得ない」(田中[1997],下巻 p. 48),現代的にいうと繰り返しゲー ムにおけるレピュテイションの効果である.スミスの市場機能に対する確信 は,この点に着目するに至って初めて確固たるものになったのである. 自由放任経済政策と自由貿易論 よく知られているように,以上の市場機能の議論から自由放任経済政策論 と自由貿易論が導かれる.スミスは自由放任主義の経済政策と呼ばれるもの を主張した.すなわち国家の義務は「防衛,司法制度およびある種の公共土 木事業」である(Smith[1776], p. 651).また,スミスにあっては,自由貿易 の利益は,生産費の安い国で生産されたものを輸入することで自国で生産す るより安価にその生産物を入手できるという点に求められた.絶対生産費で なく比較生産費に基づいて国際分業の利益を裏づけることは,その後リカー ドにおいて初めてなされた. 消費者主権 スミスが経済活動の直接的な効率性基準として消費者主権を明確に掲げて 40) 今村([1994], p. 163) .今村はこれをスミスがデカルト的な機械論的モデルに基づく社会観に 立っていた証左としているが,これは検討の余地のある指摘であろう.たとえばハイエクはデカ ルト的な構成的合理主義を否定した思想の流れのなかに,マンデヴィル,モンテスキュー, ヒューム,タッカー,ファーグソンと共にスミスを位置づけている(Hayek[1967], p. 99).なお 機械論的世界観については,今村[1998]第 1 章を参照. 1 戦前日本における市場秩序の受容と否定 41 いたことも重要である.『国富論』には,重商主義の生産者重視を批判して 「消費は一切の生産の目標であり目的である,生産者の利益は,ただ消費者 の利益を増進するに必要な範囲においてのみ顧慮せらるべきである.……し かるに重商主義においては消費者の利益は,ほとんど不断に,生産者のそれ に犠牲に供されている.そしてそれは,消費ではなくして,生産をもって, 一切の産業および商業の究極の目標および目的であると考えているように思 われる」(Smith[1776], p. 625)としている. ただし,ここでスミスが取り上げているのはあくまで直接的な生産の効率 性基準であって,彼が構想した経済制度は,市場メカニズムの利用を通じて, 富のみならず徳の実現をも含めた社会に文明化を究極の目的としていたこと も指摘されるべきであろう(田中[1997],下巻 pp. 57 59).また,スミスの分 析の中心は消費効用でなく生産費用に置かれていたことも,留意されるべき であろう. 参考文献 石田雄[1976],『日本近代思想史における法と政治』岩波書店. 猪木武徳[1987],『経済思想』岩波書店. 今村仁司[1994],『近代性の構造――「企て」から「試み」へ』講談社選書. 今村仁司[1998],『近代の思想構造――世界像・時間意識・労働』人文書院. 植手通有[1974],『日本近代思想の形成』岩波書店. 植手通有編[1974],『明治文学全集 34 徳富蘇峰集』筑摩書房. 内田義彦[1962],『経済学の生誕(増補)』未来社. 内田義彦[1967],『日本資本主義の思想像』岩波書店. 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