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自省的法学

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自省的法学
Kobe University Repository : Kernel
Title
自省的法学: 法学的教育方法学の必要性につい
て(Reflexive Rechtswissenschaft: Zur Notwendigkeit
einer rechtswissenschaftlichen Didaktik)
Author(s)
ディートリッヒ, ヤン-ヘンデリク / 角松, 生史[訳]
Citation
神戸法學雜誌 / Kobe law journal,61(3/4):1-18
Issue date
2012-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81004342
Create Date: 2017-03-29
1
神 戸 法 学 雑 誌 61巻 3・4 号
神戸法学雑誌第六十一巻第三・四号二〇一二年三月
自省的法学
−法学的教育方法学の必要性について
1
ヤン−ヘンデリク・ディートリッヒ(連邦行政専門大学教授)
⻆
松 生
史(訳)
本稿は、法学的教育方法学(rechtswissenschaftliche Didaktik)の擁護論を自
任する。法を教えることに関する学問的な視点を持つべきことを訴えるもので
ある。ドイツと日本において、知識の媒介・習得が、類似の問題・課題に直面
している限りにおいて、以下私がドイツ法学について述べられるところの結論
2
は、日本における議論にとっても有用たりえよう。
*(訳者注)著者Jan-Hendrik Dietrich氏は、ハンブルグ大学法学部で行政法・環境法
を専攻し、Hans-Joachim Koch 教授の指導の下博士号を取得された後(博士論文:
“Landesverteidigung in den Grenzen der Umweltpflichtigkeit”(Nomos,2011))、 同
大学法学教育方法論センター助教として勤務し、2011年より連邦行政専門大学
(Fachhochschule des Bundes für öffentliche Verwaltung,Brühl/München) 教授に着任
されている。また、日本における法曹養成制度改革の調査のため、2010年に学習院
大学に研究滞在(受入教員:大橋洋一教授)のご経験がある。本稿は、2011年 9 月
26日に神戸大学大学院法学研究科で行われた同題の講演(主催:神戸法学会、共
催:北海道大学GCOEプログラム「多元分散型統御を目指す新世代法政策学」)に
基づくものである。同講演実現に向けての関係各位のご尽力に、この場を借りて心
よりの謝意を表したい。
同講演は英語で行われたが、本稿は、その後著者から加筆訂正の上脚注を付して
送付されたドイツ語版をベースとしている。(
)は原文の括弧、[
]は訳者が
理解の便宜のために付したものである。原文の斜体字強調は本稿では太字とした。
2
自省的法学
I はじめに
ドイツの国法学者 Thomas Weigend は、かつて Günter Kohlmann 古稀論文
3
集において、
「ドイツ法学の不幸」を説いた。彼は何よりも、教育方法学一般
における進歩がドイツ法学教育においてはほとんど等閑視されていることを確
認する。そのため、学問的法学教育について今日でも広範にみられる現状は、
4
時間と希少資源の嘆かわしい浪費になってしまっているというのである。以
下、この言明について検討しよう。まずドイツ法学教育実践の実際について述
べ(II)、ついで、法学教育に対する教育方法学的接近について検討する(III)。
そして教育方法学の基本モデルと諸概念、教育方法学と法学の関係について
述べた上で、法学についての専門教育方法学の可能性を主題とする。その土台
の上に立って、「教育方法学的−実践的法理論」の具体例を挙げて締めくくる
(IV)。
II 法学教育と教育実践の実際
ドイツ連邦共和国の法学部における授業は、知識の媒介・習得という観点か
ら見る限り、何十年間もほとんど変わっていない。一斉授業形式が通常である。
教師が学生に対して対面する形で立ち、法学の深奥を詳細に伝えるというわけ
である。ドイツ刑法総論−日本でも明治維新以来なじみのものだろう−の講義
において、犯罪行為への関与類型が主題とされる場合を例にとろう。教員たち
( 1 ) ⻆松生史教授(神戸大学大学院法学研究科)および高田倫子氏(大阪大学大学
院法学研究科博士課程)の懇切有意義な支援に感謝する。
( 2 ) 詳しくは参照、Jan-Hendrik Dietrich, Schöne neue Law School Welt – Bemerkungen
zur reformierten Juristenausbildung in Japan, Rechtswissenschaft 2011, S. 235 ff.
( 3 ) Thomas Weigend, Die Misere der Strafrechtslehre, in: Hans J. Hirsch/Jürgen Wolter/
Uwe Brauns(Hrsg.), Festschrift für Günter Kohlmann, Köln 2003, S. 741(741 ff.).
( 4 ) 参照、Weigend, Misere der Strafrechtslehre(o. Fn. 3), S. 741(754).
3
神 戸 法 学 雑 誌 61巻 3・4 号
は何よりも、様々な関与形態の区別問題を描き出すことに重点をおく。そのこ
5
とを示すために、連邦通常裁判所の有名な判例である「シリウス事件」が持ち
出される。殺人未遂の間接正犯と、[ドイツ法では]不可罰である自殺教唆と
の区別が法的問題となった訴訟事件である。この事例では、ファンタジー的な
虚言により、加害者は犠牲者に自殺未遂を促した。ここで上記の区別は、加害
者が惹起した錯誤の態様と程度によるとされる。この事例の場合、シリウス星
で転生できると信じさせられることで、被害者にとっては、真実が覆い隠され
ていた。黒幕の人物が優越的な知識を持っていたということをもって、彼が行
為者だとされたのである。本稿は、具体例を示す箇所で、この区別問題にもう
一度立ち返る。
内容を視覚的に示すために、多くの教師達は OHP やパワーポイントによる
プレゼンテーションを使う。時にはソクラティック・メソッド的な、誘導的対
話が行われる。講義内容については、自宅での予習復習が期待されている。指
導つきの演習(Übungen)や勉強会(Arbeitsgemeinschaft)で、事例中心の
復習も部分的に行われる。
( 5 ) BGHSt, 32, 38 ff. = BGH JZ 1984, 194 f.. 詳細については、以下の判例評釈を
参 照。Ulfried Neumann, Abgrenzung von Teilnahme am Selbstmord und Tötung in
mittelbarer Täterschaft, JuS 1985, 677(677 ff.).
( 6 ) 参 照、Beate Merk, Impulsreferat, in: Deutscher Juristen-Fakultätentag(Hrsg.), Der
„Bologna-Prozess“ und die Juristenausbildung in Deutschland, Stuttgart 2007, S. 16
(22); Johann-Friedrich Staats, Die Ausbildung zu den Rechtsberufen in anderen
Staaten Europas und der nachdenkliche Betrachter, Recht und Politik 2007, 198(198
ff.); Heribert Hirte/Sebastian Mock, Die Juristenausbildung in Europa vor dem
Hintergrund des Bologna-Prozesses, JuS 2005, Beilage 3(14); 更に Heino Schöbel,
Einführung des Bologna-Modells in der deutschen Juristenausbildung, in: Christian
Baldus/Thomas Finkenhauer/Thomas Rüfner(Hrsg.), Juristenausbildung in Europa
zwischen Tradition und Reform, S. 331(335); これらに批判的なものとして、
Bernhard Großfeld, Die Augen der Studenten: Jurastudium zwischen Lokalisierung
und Globalisierung, in: Heinz-Peter Mansel/Thomas Pfeiffer/Herbert Kronke,
Festschrift für Erik Jayme, Bd. II, München 2004, S. 1103(1106 ff.).
4
自省的法学
Weigend の悲観的な総括に鑑みれば、上のような教育伝統への固執によっ
て、ドイツの大学で劣悪な法律家が養成されてしまっているかどうかが問われ
ることになろう。この問いに対してはおそらく「否」と答えなければならない。
まずドイツの法律家の自己理解としては、自分たちが世界中で高く評価されて
いると認識している。法曹養成改革について検討する専門文献は、ドイツの法
6
律家が外国で高い評価を得ていることに言及することを決して忘れない。ドイ
ツ司法大臣会議専門委員会の最近の報告書は、ドイツ法律家が「高い専門能力
7
と柔軟性」を有していることを保証する。Peter M.Huber によれば、ドイツ
8
の国家試験は「文化的成果に値する」とすらされる。
このことから、ドイツの法曹養成には文句をつけるべきなどなにものもない
ということも可能だろうか。良い法律家の養成が大学教育の一つの重要な成果
物とされる以上、この目的が達成されたのであれば、法学教育がそう悪いとい
うことはありえないからである。この観点からすれば、法学的教育方法学への
必要性はさしあたり見いだされないことになる。しかし、教育の成果物から過
程へと目を移すと異なった姿が立ち現れてくることを、いくつかの経験的研究
9
は示している。Stefen Lueg の研究によれば、ドイツの大学の法学部は、もは
や法曹養成にとっての唯一の責任主体ではない。法学教育の始めであるボロー
ニャ大学以来の伝統からして、学生の大部分は第一次国家試験前に予備校に
( 7 ) Ausschuss der Konferenz der Justizministerinnen und Justizminister zur Koordinierung
der Juristenausbildung, Bericht über Möglichkeiten und Konsequenzen einer
Bachelor-Master-Struktur vom 31.03.2011, http:// www.justiz.nrw.de/JM/justizpolitik/
schwerpunkte/juristenausbildung/berichte/bericht2011/bericht2011.pdf( 最 終 ア ク セ
ス: 2011年12月 4 日), S. 149.
( 8 ) 参 照、Peter M. Huber, Beiträge zu Juristenausbildung und Hochschulrecht, Stuttgart
2010, S. 105(107)= ZRP 2007, 188 ff.
( 9 ) Stefan Lueg, Die Entstehung und Entwicklung des juristischen Privatunterrichts in
den Repetitorien, Ein Beitrag zur Diskussion über die Reform der Juristenausbildung,
Frankfurt am Main 1994.
5
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10
通っている。Lueg と共著者によれば、学生の80−90%が大学外の学習補助者
11
を利用している。個別的に見れば、予備校を利用する理由はそれぞれ多様だろ
12
13
う。予備校の教育が大学より優れているかどうかも必ずしも定かでない。しか
し、大学教育によっては国家試験に対して十分準備ができないという印象が、
学生の間に広まっていることもまた事実である。[学生達による]このような
評価にどのような背景がありうるかについての説明が、連邦調査省の委託を受
けた Tino Bargel,Frank Multrus,Michael Ramm による、ドイツ大学の実態
14
調査(1996年)に見いだされる。同調査は、法学部の学生が、他の学科の学生
と比べて、講義に対して明らかに低い学習効果しか認めていないことをはっき
15
りと示している。調査対象の学生たちによれば、教員は学習の進展度をほとん
16
17
ど確認していない。試験に関するフィードバックについての評価はさらに低い。
(10) 詳しくは Thorsten Keiser, Der andere Bologna-Prozess: Ursprünge europäischer
Juristenausbildung im Mittelalter, JURA 2009, 353(356).
(11) 参照、Lueg(o. Fn. 9)Repetitorien, S. 1; Christoph Knödler, Zur heimlichen Koalition
von Universität und kommerziellem Repetitor, JuS 1999, S. 1032(1032).
(12) この点について詳しくは、Klaus-Henning Hansen/Mario Nitsche/Manfred Walther,
Der Repetitorbesuch als Strategie sozialer Anpassung, Zeitschrift für Soziologie
1975, 234(234 ff.); Wolfgang Martin, Die Stellung des Repetitors in der deutschen
Juristenausbildung, ZRP 1991, 449(450).
(13) この点についてより詳しくは、Franz Streng, Determinanten und Indikatoren von
Examenserfolg und Studiendauer im Jurastudium, in: Dieter Hermann/Brigitte Tag
(Hrsg.), Die universitäre Juristenausbildung, Bonn 1996, S. 32(39); Matthias
Katzenstein, Zum Status des Repetitorwesens im juristischen Studium, JURA 2006,
418(419 ff.).を見よ。
(14) Tino Bargel/Frank Multrus/Michael Ramm, Das Studium der Rechtswissenschaft, Eine
Fachmonographie aus studentischer Sicht, Bonn 1996.
(15) Bargel/Multrus/Ramm, Studium der Rechtswissenschaft,(o. Fn.14), S. 136;また参照、dies.,
Studiensituation und studentische Orientierungen, 7. Studiensurvey an Universitäten
und Fachhochschulen, Bonn 1999, S. 54.
(16) Bargel/Multrus/Ramm, Studium der Rechtswissenschaft,(o. Fn. 14), S. 138.
(17) Bargel/Multrus/Ramm, Studium der Rechtswissenschaft,(o. Fn. 14), S. 139.
6
自省的法学
著者たちはこのことから、学生が授業の過程で、「受け身的受容者の役割に押
し込められている。彼ら自らの寄与、彼ら自身の提案が問われることは殆どな
い。この経験が、学生が授業−特に講義形式のそれ−を学習進展の観点から低
18
く評価し出席率が悪くなることにつながっている」と総括する。そのことから
著者たちは、「法学教育の改善を考察するにあたっては、コミュニケーション
的観点をどのようにして改善するか、どのようにして学生達を授業により積極
19
的に組み入れるかに留意しなければならない」と述べる。教育方法学の基本原
則が十分守られていないことと学生たちの受動的な役割とが、法学教育におけ
20
る本質的欠陥とみなされているのである。
いくつかの州における学習/教育評価の結果も、法学教育における知識伝
達・接近の伝統的形態がこのような欠陥を有していることを如実に示している。
例えば、南ドイツの大学法学部における法学教育の評価においては、電子的教
21
授−学習システムの不在が批判されている。北ドイツの法学部の評価において
は、評価者は、大人数教育の匿名性を抑制して教える者と学ぶ者の密接な関係
を構築するために、コミュニケーション的授業形式を促進することを求めてい
22
る。このような背景からは、Weigend のテーゼが裏付けられるように思えて
くる。
(18) Bargel/Multrus/Ramm, Studium der Rechtswissenschaft,(o. Fn. 14), S. 140 f.
(19) Bargel/Multrus/Ramm, Studium der Rechtswissenschaft,(o. Fn. 14)
, S. 141.
(20) Bargel/Multrus/Ramm, Studium der Rechtswissenschaft,(o. Fn. 14), S. 151.
(21) Evaluationsagentur Baden-Württemberg, Evaluationsbericht Rechtswissenschaft an
den Universitäten und Fachhochschulen in Baden-Württemberg 2006, http://www.
evalag.de/dedielv/projekt01/media/pdf /evalag_berichte/jura.pdf(最終アクセス: 2011
年12月 4 日), S. 19.
(22) 参照、Zentrale Evaluations-und Akkreditierungsagentur Hannover, Evaluation von
Lehre und Studium im Fach Rechtswissenschaft an niedersächsischen Universitäten,
2000, http://www.zeva.org/service/ evadownl_pdf/ Jura2.pdf(最終アクセス: 2011年
12月 4 日), S. 24
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7
III 法学教育への教育方法学的接近
かくして、次のような問いが視野に入ってくる。法学専門教育方法学は、教
育の改善に貢献するだろうか?貢献するとすれば、何が実際に達成されるのだ
ろうか?
1 .教育方法学の基本概念とモデル
この問いに答えるためには、教育方法学の本質とその学問体系上の位置づけ
に取り組むことが不可欠である。 教育方法学は、1657年に綱領的著書『大
23
教授学』Didactica Magna)を著した Jan Amos Komensky(コメニウス)に
よって学問化された。コメニウスは、“Didaktik”を「全ての人に全ての物事
を教授する教育技法」と理解している。もっともその後、「いかに学習するか
を知る者でなければ、効果的に教授することができない」という見解が支配的
24
になる。今日、教育方法学とは、教授と学習とを関連づける科学だと理解され
25
る。誰が何を・誰から・誰と共に・どこでどのように・何のために学ぶべきな
26
のかを問うものなのである。
コメニウス以後、教育方法学の科学化は、ドイツでもヨーロッパ全体でも、
(23) Comenius, Große Didaktik, übersetzt und herausgegeben von Andreas Flitner, Stuttgart
1998.[本稿はDidaktikを「教育方法学」と訳したが、同書の書名については
「大教授学」という訳が定着しているようである(稲富栄次郎訳(1956年、玉
川大学出版部)鈴木秀勇訳(1962年、明治図書)。)]
(24) „Shift from Teaching to Learning”について詳しくは、Ulrich Welbers, The Shift from
Teaching to Learning. Zur historischen Rekonstruktion eines Paradigmenwechsels, in:
ders./Olaf Gaus(Hrsg.), The Shift from Teaching to Learning, Bielefeld 2005, S. 357 ff.
(25) Johannes Wildt, Ein hochschuldidaktischer Blick auf Lehren und Lernen in gestuften
Studiengängen, in Ulrich Welbers(Hrsg.), Studienreform mit Bachelor und Master,
Bielefeld 2003, S. 29(30 f.).はこう述べる。
(26) これについては、Werner Jank/Hilbert Meyer, Didaktische Modelle, 10. Auflage, Berlin
2011, S. 16 ff.;関連して、Arne Pilniok/Judith Brockmann/Jan-Hendrik Dietrich,
Juristische Lehre neu denken: Plädoyer für eine rechtswissenschaftliche Fachdidaktik, in:
dies.(Hrsg.), Exzellente Lehre im juristischen Studium, Baden-Baden 2011, S. 9(15).
8
自省的法学
それぞれ体系化可能なさまざまな細分化されたアプローチを生み出すことにな
る。一般教育方法学は、コメニウスの伝統に従い、教育内容から独立した教授
法および学習法の合法則性を探究する。当初それは、教育学者の関心事項だっ
た。Wolfgang Klafki,Herwig Blankertz,そして Paul Heimann といった教育
方法学者は、50年代・60年代において、ドイツ教育学の一分野としての教育
27
方法学の確立を志向した。それ以来、容易には概観できないほど多数の教育
方法学モデルが生み出されている。Friedrich Kron は、「教育方法学の基礎知
識」と題する教科書で,40種以上の教育方法学モデルをリストアップしてい
28
る。特に影響力があるとみなされるのは、人間形成論(Bildungstheorie)的
29
30
31
教育方法学、教授/学習理論的教育方法学、構成主義的教育方法学だろう。もっ
32
とも近年では、心理学が独自の教育方法学モデルを形成している。学習心理学
は、教授することの前提条件としての学習に関する経験的研究を積み重ねるこ
33
とによって、教育学に対して鏡を突きつけている[欠点を指摘している]。一
(27) 詳細に論ずるものとして、Jank/Meyer, Didaktische Modelle(o. Fn. 26), S. 29; 批
判的なものとして M a r t i n R o h l a n d , A l l g e m e i n e D i d a k t i k – d i s z i p l i n ä r e
Bestimmungen zwischen Willkür und Pragmatismus, Theorie und Praxis, Zeitschrift
für Erziehungswissenschaft, Sonderheft 9(2008), S. 173(173 ff.).
(28) Friedrich W. Kron, Grundwissen Didaktik, 5. Auflage, München 2008
(29) この点については Wolfgang Klafki, Didaktische Analyse als Kern der Unterrichtsvorbereitung,
Die Deutsche Schule 50(1958)
, 450(450 ff.); ders., Neue Studien zur
Bildungstheorie und Didaktik: Beiträge zur kritisch-konstruktiven Didaktik,
Weinheim 1985; また概観として Horst Siebert, Didaktisches Handeln in der
Erwachsenenbildung, 6. Auflage, Augsburg 2009, S. 82 ff.も見よ。
(30) 詳しくは、Paul Heimann/Gunter Otto/Wolfgang Schulz, Unterricht: Analyse und Planung,
Hannover 1965; 近年の展開についてはJank/Meyer, Didaktische Modelle(o. Fn.
26), S. 261 ff.
(31) 詳しくは、Kersten Reich, Konstruktivistische Didaktik, 4. Auflage, Weinheim/Basel
2008; Siebert, Didaktisches Handeln(o. Fn. 29), S. 27 ff.; Jank/Meyer, Didaktische
Modelle(o. Fn. 26), S. 293 ff.; Ewald Terhart, Allgemeine Didaktik: Traditionen,
Neuanfänge, Herausforderungen, Zeitschrift für Erziehungswissenschaft, Sonderheft 9
(2008), S. 14(20 ff.).
神 戸 法 学 雑 誌 61巻 3・4 号
9
般教育方法学と並んで、個別分野の教育方法学も具体化された。学校教育方法
学、1970年代に生まれたところの大学教育を特別に視野に入れる大学教育方法
学、そして特定の勤労領域・生活領域における必要性に対応したいわゆる領域
教育方法学がある。最後に専門教育方法学があげられる。この概念は長い間、
個別教科の教授と学習についての学問分野として、教育学的にのみ理解されて
34
きた。しかしこの 5 −10年の間に、多くの専門教育方法学において、教育方法
学のモデルが独自の学問的細分野として形成され、各専門分野固有の教授と学
習が、どのような前提条件や論理や形式を有しているかを探求している。その
一例として、医学教育方法学があげられよう。連邦全土で、医学教育方法学に
35
関する研究センターや講座が設立されている。
(32) 参照、Kurt Reuser, Empirisch fundierte Didaktik-didaktisch fundierte Unterrichtsforschung,
Zeitschrift für Erziehungswissenschaft, Sonderheft 9(2008), S. 219(220 ff.).
(33) これについては Ewald Terhart, Fremde Schwestern – Zum Verhältnis von
Allgemeiner Didaktik und empirischer Lehr-Lern-Forschung, Zeitschrift für
pädagogische Psychologie 16(2002), 77(77 ff.); Reuser, Empirisch fundierte
Didaktik(o. Fn. 32), S. 219(220); Rudolf Messner, Allgemeine Didaktik und LehrLernforschung, in: Barbara Koch-Priewe/Frauke Stübig/Karl-Heinz Arnold, Das
Potential der Allgemeinen Didaktik, Weinheim/Basel 2007, S. 43(43 ff.); Sigrid
Blömke, Allgemeine Didaktik ohne empirische Lernforschung, in: Karl-Heinz Arnold/
Sigrid Blömke u.a., Allgemeine Didaktik und Lehr-Lernforschung, Bad Heilbrunn
2009, S. 14(15 ff.).
(34) このような理解を未だに示すものとして Jank/Meyer, Didaktische Modelle(o. Fn.
26), S. 31 ff.; Siebert は成人教育の文脈で「専門領域教育方法学」という概念を
用いる。参照、ders., Didaktisches Handeln(o. Fn. 29), S. 17.
(35) 例えば、チュービンゲン大学医学部にはバーデン−ビュルテンベルグ州医学教
育方法学資格センターが付設されている。同センターは、医学教育修士号を付
与することができる。参照、http://www.medididaktik.de(最終アクセス:2011年
12月4日)
。類似の施設がレーゲンスブルグ大学医学部にもある。参照、http://
www.medizindidaktik-bayern.de. Martin Fischer は、ミュンヘン大学において、
「医学教育方法学・医師養成研究」講座を担当している。参照、http://www.
klinikum.uni-muenchen.de/Medizinische-Klinik-Innenstadt/Medizindidaktik/de/index.
html(最終アクセス:2011年12月4日).
10
自省的法学
教育方法学へのアプローチのこのような多様性は、次のことを予感させる。
法学における教育実践の現実を教育方法学的に改善しようとするのであれば、
何と連接すべきかについて明確でなければならないのである。連接可能性を作
り出すことによってのみ、教育学や学習心理学の知見を有用なものにすること
ができるだろう。
2 .教育方法学と法学
以上から、法学における教授と学習の探求は、理論的基礎付けを必要として
36
いるといえる。そのために法学固有の専門教育方法学の発展が必要かどうかに
ついては、大学教育方法学と法学との関係を視野に入れることで答えが与え
られるだろう。その端緒において、大学教育方法学は、法律学固有の専門的
問題を確かに視野に入れていた。例えばハンブルグでは、大学教育方法学セ
37
ンターと法学部の両方に籍を置く講座が設けられた。法学においても確かに
教育方法学的な省察が行われた時期があった。例えばドイツの民法学者であ
38
る Wolfgang Kilian は、既に1970年に「法の教育方法学」を要求している。ほ
とんど知られていないが、Michael Max は、「刑法教育方法学」という教授資
39
格論文を執筆している。しかし、相互理解と受容の問題はあまりに大きく、専
(36) この必要性について参照、vgl. Judith Brockmann/Jan-Hendrik Dietrich/Arne Pilniok,
Von der Lehr- zur Lernorientierung – auf dem Weg zur rechtswissenschaftlichen
Fachdidaktik, JURA 2009, 579(581); dies., Juristische Lehre neu denken(o. Fn.26),
S. 16 ff.
(37) ハンブルグにおける大学教育方法学と法学との関係の発展について、Jürgen
Bruhn/Wolfgang Schütte/Rolf Schulmeister, Hochschuldidaktik in Hamburg – 10 Jahre
interdisziplinäres Zentrum für Hochschuldidaktik, uni hh reform Nr. 14(1982)
(38) Wolfgang Kilian, Zur Notwendigkeit einer Didaktik des Rechts, JuS 1970, 50(50
ff.); ders., Ansätze einer juristischen Fachdidaktik, in: Loccumer Arbeitskreis(Hrsg.),
Neue Juristenausbildung, Neuwied/Berlin 1970, S. 62(62 ff.).
(39) Michael Marx, Die Didaktik des Strafrechts(年度表記なしの白黒印刷。ミュンヘ
ン大学図書館にて閲覧)
11
神 戸 法 学 雑 誌 61巻 3・4 号
40
門固有の教育方法学的研究に対する財源はあまりに小さかった。大学教育方法
論は、特に教育学的・心理学的視点から、教授/学習の一般的な概念とモデル
の展開に専ら集中する。法学においてそれは拒絶されたり、さらにはそもそも
関心を持たれなかったりした。大学教育方法論の知見を法学へと翻訳する作業
に従事する者はいなかったのである。そのような展開の結果として、今となっ
ては以下の点が確認できる。一方で大学教育方法論は、大学における教授・学
習・試験に関する、受容可能な考察を多く積み上げていたが、それが各専門固
有の考察に真の意味で浸透することは決してなかった。他方で法学部では、教
41
育方法に関する省察無しに授業が行われていたのである。
この両者の架橋が、法学的専門教育方法学によって可能となる。それは学際
的な課題を探求することによって、大学教育方法学の交渉相手を作り出すこと
ができる。法学の内容的特性とその方法、その枠組条件を理解し、法学学習の
教授/学習過程を解明可能なものにするために、大学教育方法学的知見と関連
づけることができるだろう。このようにして、法学的専門教育方法学は、法学
教育への科学的視点において、法学[自体]を豊かなものにする。自己観察を
一定程度可能にするのである。従って、法学的専門教育方法学を自省的法律学
とみなすことが可能になる。
3 法律学的専門教育方法学の可能性
以上、法学教育方法学がどのような機能を果たしうるかについて述べた。そ
こで、それがなしうることの可能性を明らかにするには、教授/学習プロセス
をより正確に視野に入れなければならない。教授/学習プロセスに関する古典
(40) これについては Jürgen Lüthje, Von der Hochschuldidaktik zur Qualitätsentwicklung,
in: Marianne Merkt/Kerstin Mayrberger(Hrsg.), Die Qualität akademischer Lehre –
Zur Interdependenz von Hochschuldidaktik und Hochschulentwicklung, Festschrift für
Rolf Schulmeister, Band 2, Innsbruck 2007, S. 15(19).
(41) 参照、Brockmann/Dietrich/Pilniok, Rechtswissenschaftliche Fachdidaktik(o. Fn.36),
S. 579(581).
12
自省的法学
42
的な記述の枠組みは、いわゆる教育方法学的三角形である。教師、学習者、専
門内容を教授/学習プロセスの中心的要素とし、それら要素の相互作用を指摘
するものである。それぞれの要素に影響を与えるファクターは多様かつ複雑で
43
あるため、教育方法学的三角形はさらなる具体化を要する。法学学習における
教授/学習プロセスに関わる具体化は、例えば以下のようになろう。
この図は、教授/学習プロセスが多くの要素からなる事柄であることを示し
ている。専門能力・教育能力・コミュニケーション能力に長けた教師、素質が
あって強い興味関心と熱意を有する学生、恵まれた枠組条件の協働によって初
(42) これについて詳しくは Jürgen Flender, Didaktik der Hochschullehre, in: Thomas StelzerRothe(Hrsg.), Kompetenzen in der Hochschullehre, 2. Auflage, Rinteln 2008, S. 170
(182 f.); Jank/Meyer, Didaktische Modelle(o. Fn. 26), S. 55.
(43) Jank/Meyer, Didaktische Modelle(o. Fn. 26), S. 55.
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神 戸 法 学 雑 誌 61巻 3・4 号
めて、学習成果達成の高い蓋然性がもたらされる。同時にこのモデルは、法律
学的専門教育方法学の研究課題として見ることもできよう。研究上重点を置く
べき事柄として、以下のようなものがあげられうる。
・
「より多くの学習、より少ない教授」
構成主義的教育方法学を真剣に受け止めるとすれば、
「学習者」こそが、教
44
授−学習プロセスの中心点に位置する。学習者は、ある程度まで自らの教師で
ある。彼は自らの知識を自律的に構成するもの−これが構成主義における確信
45
なのだが−だからである。しかし、いわゆる「教授から学習へのシフト」を実
際に実現しようとすれば、教師にどのような役割がなお残り、それをどのよう
に実現するかが問われることになるだろう。この場合、法学教育方法学にとっ
ては、例えば、知識構成の個人的な過程を支えるものとしての刺激的な学習環
境が、どのように教員によって創り出されうるかを浮き彫りにすることが使命
になるだろう。
・各専門文化(Fachkultur)の研究
法学部において一度でも−ドイツであっても日本であっても−授業経験があ
るものであれば、学習者の多様性がしばしば教授/学習過程の形成を非常に難
しくするということを知っているだろう。学習者の中には、例えば年齢や経験
の差異や、認識能力の単純な相違が存在する。法律学的専門教育方法学はここ
(44) 参照、Reich, Konstruktivistische Didaktik(o. Fn. 31), S. 192 ff.
(45) 詳しくは、Wildt, Lehren und Lernen in gestuften Studiengängen(o. Fn. 25), S. 29
(37).を見よ
(46) この概念について、Frank Multrus, Fachkulturen, Saarbrücken 2008;それに加えて
Tino Bargel/Gerhild Framhein/Ludwig Huber/Gerhard Portele(Hrsg.), Sozialisation
in der Hochschule, Beiträge für eine Auseinandersetzung zwischen Hochschuldidaktik
und Sozialisationsforschung, Blickpunkt Hochschuldidaktik 37(1975)
, Hamburg
1975; Bruhn/ Schütte/ Schulmeister, Hochschuldidaktik in Hamburg(o. Fn. 37), S. 53
f. の諸論稿を見よ。
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自省的法学
46
に焦点を合わせ、専門文化の研究となることもありうる。社会構造と学習能力
との関連をテーマとすることもできる。性別・年齢・社会的出自の相違を視野
に入れることもできる。例えば予備校の利用を社会的適応戦略と解釈できるか
47
についても調査することができるだろう。
・メディア教育方法学
大学教育方法学の一部では、学習の「バーチャル的転回」さらに「バーチャ
48
ル大学」について語られている。教授/学習プロセスにおけるいわゆるニュー
49
メディアの活用のことであり、「E−ラーニング」や「混合学習」が標語とな
50
る。ドイツの法学教育では、OLATのような学習プラットフォームはまだス
51
タンダードになっていない。法律学的専門教育方法学は、このようなE−ラー
ニングの提案がどの程度の成果をあげる可能性があるか、教授/学習プロセス
に統合できる可能性がどの程度あるかを吟味することができる。最高のテクノ
ロジーであっても、熟考された教育方法学的全体構想の一部となることなくし
52
ては、殆ど役に立たないものだからである。
(47) これについて参照、Hansen/Nitsche/Walther, Der Repetitorbesuch(o. Fn. 12)
, S.
234(234 ff.).
(48) 例えば Rolf Schulmeister, Virtuelle Universität – virtuelles Lernen, München 2001.
(49) 基本的文献として、Rolf Schulmeister, elearning: Einsichten und Aussichten,
München 2006.
(50) 詳しくは、http://www.olat.org/website/en/html/index.html(最終アクセス:2011年
12月 4 日).
(51) このように述べるものとして Eric Hilgendorf, Computergestützte Lehre im
Recht. Entwicklungsstand und Aussichten des E-Learning in der deutschen
Juristenausbildung, in: Judith Brockmann/Jan-Hendrik Dietrich/Arne Pilniok(Hrsg.),
Exzellente Lehre im juristischen Studium, Baden-Baden 2011, S. 171(171 f.); さら
に、von Christoph Revermann, eLearning in Forschung, Lehre und Weiterbildung im
Ausland, TAB Hintergrundpapier Nr. 14, April 2006.による各州比較も参照。
(52) Flender, Didaktik der Hochschullehre(o. Fn. 42), S. 170(191).の指摘は正当である。
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神 戸 法 学 雑 誌 61巻 3・4 号
IV 教育方法学的関心に動かされた法学教育とは−具体例の試み
法学的専門教育方法学は、法学学習における教授/学習プロセスを探求し
説明することだけにとどまっていてはならない。[日常の]教育実践に対して、
教育方法学的な行動可能性を示し、実際的適用における決定にとってあくまで
具体的な助けになることも、その重要な任務である。この関連で、刑法におけ
る教唆と間接正犯の区別という冒頭の問題が、ドイツ刑法総論の授業における
教育方法学的構想においてどのように位置づけられうるかをみてみることにし
たい。
1 .教育方法学的行動可能性の開拓
53
教員による授業の方法学化は、教育方法学的な行動可能性を明らかにする
ことから始まる。行為可能性の重要な規定要素として、教員、学習者、学習目
標、学習関連的枠組条件をあげることができる。教育方法学的行動可能性が開
拓されることによって初めて、教員は、内容選択と素材伝達手法の特定に関す
る根拠を伴った決定を行うことができる。従って、法学教育方法学が、法律問
題を学習者にどのように伝えるのがよいか、という表層的な問題のみに取り組
むものではないことは明らかである。それでは、教育法法学を単なる手法論
(Methodik)へと縮減することになってしまうだろう。法学的教育方法学は
むしろ、方法的決定(Methodenentscheidungen)と内容選択にとっての準拠
枠組みを提供するものなのである。
教育方法学的行動可能性を開拓する上で、学習目標が内容的外枠(Leitplank)
として機能する。学習目標が、学習者の望ましい達成度について述べ、何を・
(53) この点及び以下も含めて、Flender, Didaktik der Hochschullehre(o. Fn. 42), S.
170(198 ff.); Friedemann Schulz von Thun, Wie gestalte ich meine Vorlesung
und halte die Hörerschaft und mich selbst bei Laune, in: Marianne Merkt/Kerstin
Mayrberger(Hrsg.), Die Qualität akademischer Lehre – Zur Interdependenz von
Hochschuldidaktik und Hochschulentwicklung, Festschrift für Rolf Schulmeister, Band
2, Innsbruck 2007, S. 115(117 ff.).
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自省的法学
54
なぜ・何のために学ばねばならないかを確定するのである。教員が各授業単位
−我々の例で言えば、刑法総論における特定の講義において−における学習目
標を定式化することは、複雑な導出過程の結果であって、ここでは概略を示す
ことしかできない。 マクロレベルの学習目標は、何よりも、教育や試験に関
する法令によって予め与えられている。ドイツでは例えば各州の教育法による。
例えばハンブルグ法曹養成法 1 条 3 項は、「法的規律ないしその成立・体系と
法学的方法の使用に関するに関する基礎的な知識」を教育目標として規定して
いる。それによれば、法学の学習過程では専門知識の集積のみでなく、理論能
55
力と方法意識が重要だということになる。この要請の刑事実体法についての具
体化は、試験範囲に関する命令の 1 条 2 項に見いだされる。つまり、必須科目
としての刑法の試験範囲には、刑法総論の第 2 編(行為)が含まれるのである。
メゾレベルにおいては、授業の学習目標が、学期ごとに具体化される。刑法総
論の講義の場合は、教師は学生に対して、学期の終わりには、犯罪行為への関
与類型についての深い構造的理解を期待する。一応合格水準の(vertretbar)
事例演習の解答を仕上げる能力を学生に身につけさせるにとどまらず、裁判例
や論文を批判的に考察することも同時に可能にするという程度の理解である。
このような理解水準を達成するために、ミクロレベル、即ちここで関心の対象
となっている一回一回の授業において、「学生がそれぞれの関与形態を相互に
区別できる」を学習目標として定式化することができる。このようにして前述
の刑法上の問題−間接正犯と教唆の区別−にたどりつくことになるのである。
教員が学習目標を定義した上で、教育方法論的な行動可能性を開拓するにあ
たっては、教員はその他の規定要素についても考慮しなければならない。学習
(54) 参照、Jank/Meyer, Didaktische Modelle(o. Fn. 26)
, S. 51; Siebert, Didaktisches
Handeln(o. Fn. 29), S. 136 ff.
(55) 最近のものとして、Bernd Rüthers, Wozu auch noch Methodenlehre? Die
Grundlagenlücken im Jurastudium, JuS 2011, 865(865 f.).
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者を観察する上では、彼らの事前知識や多様性を見なければならない。ここで
の例で言えば、教員は初学者に対して講義を行っているわけであるから、参加
者数だけから見ても、学習者の多様性は特に大きい。また、事前知識もごく限
定的であれば活用できる。学習者たちは既に入門授業(Propädeutikum)や指
導つきの勉強会(Arbeitgemeinschaft)に参加しているかもしれない。加えて、
一定の枠組条件が、教育方法学的な活動可能性を規定する。例えば参加者数、
授業形態、授業期間、技術的可能性などがあげられる。最後に教師は、教授/
学習プロセスにおける自らの役割を明確に認識していなければならない。自ら
の専門能力・教育方法的能力についての分析がそれには含まれる。教育方法学
56
において主観的教育構想と呼ばれるものである。
2 .方法的決定
教育方法学的な決定可能性の確定と連接しつつ、一方では具体的な内容の選
択、他方では根拠を伴った方法的決定がなされなければならない。電子的補助
手段の選択や教材の形成が問題になる。内容の選択においては、ドイツの教員
は刑法総論の講義において、例えば間接正犯と共犯の区別を伝える上で、刑
57
法学者 Fritjof Haft によって提案された「通常事例法」を用いる傾向がある。
Haft は刑法理論における「病理的教科書的犯罪事例[の利用]」を批判し、
「通
58
常事例に沿った学習」を称揚する。反対に、教員は、上の区別問題を主題とす
る際、シリウス事件のような病理的な事例をあえて用いるという決定を下すこ
ともできるだろう。このような事例が区別問題を特にわかりやすく示すもので
あり、長期にわたって容易に記憶に残るという見解を教員が有しているという
理由が例えば考えられる。
(56) Flender, Didaktik der Hochschullehre(o. Fn. 42), S. 170(178); 講師の役割につい
て詳しくは、Reich, Konstruktivistische Didaktik(o. Fn. 31), S. 22 ff.
(57) Fritjof Haft, Einführung in das juristische Lernen, 6. Auflage, Bielefeld 1997, S. 62 ff.
und 113 ff.
(58) 参照、Fritjof Haft, Juristische Lernschule, München 2010, S. 98 f.
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自省的法学
V 法学的専門教育方法学に向けて
ここで再び法学的専門教育方法学に立ち戻ることになる。上記いずれの方法
が学習者にとっての最善の学習成果をもたらすかは、現時点において不明であ
る。例えば、教育方法学的活動可能性にかかるさまざまの規定要素のうちでど
の要素があれば「通常事例法」を用いるべき根拠となしうるのか、述べること
はできない。目下のところ教員は、正しい教授法の選択について、直感に委ね
るしかない。法学学習における教授/学習プロセス、そして講義における教育
方法学的活動可能性の開拓についての学問的知見は未だ存在しない。法学教育
への学問的視点としての法律学的専門教育方法学の必要性はかくして明らかで
ある。それによって初めて、私たちは「法学教育の不幸」が本当に支配的であ
るのかを実際に見極めることができるようになるのである。以上の知見は、日
本における議論にも用いうるものだろう。法曹養成の問題については、ドイツ
と日本は様々な意味で類似の課題に直面している。日本とドイツの法的対話を、
法学的教育方法学の観点から豊かなものにすることが、それだけにいっそう重
要なものとなるだろう。
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