Comments
Description
Transcript
1 No.29 ベヴァリッジにおける失業と福祉の問題 小峯 敦
No.29 ベヴァリッジにおける失業と福祉の問題 小峯 敦 2003 年8月 1 謝辞 本稿の作成にあたって、次の便宜を得たので感謝したい(順不同)。 (1)特別研究員 an Honorary University Fellow(2001 年9月1日から 2002 年9月 30 日まで)として招聘してくれたエクスター大学、特に歴史学科 のアラン ブース博士 Dr Alan Booth に感謝する。 (2)在外研究員として1年間、派遣してくれた新潟産業大学に感謝する。 (3)この論文の一部は、日本学術振興会・科学研究費補助金・基盤研究 C (15530132、2003-2004)によって支えられている。 (4)図書の閲覧、引用の許可などで次の図書館・司書にお世話になった。ベ ヴァリッジ文庫およびウェッブ文庫(the British Library of Political and Economic Science at the London School of Economics) 、ケインズ関 係の文書(Kings College Library at the Cambridge University) 、政府 公文書(Public Record Office in Kew, London) 、その他の雑誌・新聞(the British Library) 。 Key Words: ベヴァリッジ、失業、福祉、完全雇用、自発的活動 JEL Classification (Journal of Economic Literature) B31 History of Thought: Individuals B Methodology and History of Economic Thought 凡例 (1)訳文のあるものは参照しているが、原則として訳は変更してある。 (2) は原文の省略を示す。また[ ]は筆者による挿入を示す。 (3)Harrod (1982/1951: 123) 初版(または発表時)は 1951 年だが、1982 年版を用い、123 ページを参照した。 2 2003.8.17 ベヴァリッジにおける失業と福祉の問題 小峯 敦 要旨 20 世紀前半の失業と福祉の問題を取り上げる時、ウイリアム=ベヴァリッジ William Henry Beveridge (1879-1963)ほどふさわしい人物はいない。彼は 1900 年代から 40 年間の長きに渡り、一貫してこの問題に取り組み、大きな足 跡を残したからである。 ベヴァリッジの独自性は3つある。第1に、経済官僚として、新しい経済学 的知の形成に貢献したことである。彼は民間活動家からは離れて中立を装いな がら、なお経済の統制を担う非中立的「競売人」の役割を果たした。第2に、 労働市場とそれを取り巻く社会環境を捉える仕方が動態的である。福祉の問題 と失業の問題を螺旋的に把握した。第3に、自由社会における個人の動機とい う問題に、初期から後期に大きな回帰運動が伺えることである。初期には個人 動機の排除を謳いながら、後期には福祉の多元的供給も見据えていた。 ベヴァリッジの人生はまさに包括的であった。理想主義的社会哲学の摂取、 法律的思考、社会事業家、貧困問題調査家、労働植民地実験家、王立委員会証 言者、省庁局長・次官、学長、政府委員会委員長、一介の社会科学者、王立経 済学会会長、政治家そのすべてを体験した。そして事実観察・理論構成・政策 提言・大衆説得・制度構築というすべての面で、卓越した能力を発揮した。こ の全領域に比類する人物はケインズしかいない。まさに両者が失業と福祉の問 題に一定の解答を与えたのは必然的であった。 3 2003.8.17 ベヴァリッジにおける失業と福祉の問題 小峯 敦 はじめに 第1節 貧困から失業へ 1-1 『失業』(1909)の構造 1-2 正統派経済学者の系譜 1-3 社会改良家の群像 第2節 無秩序の放置と管理 2-1 第一次大戦の衝撃 2-2 失業保険の変容 2-3 知の管理者として 第3節 正統派から異端派へ 3-1 1930 年代初頭の激変 3-2 民主主義下の計画? 3-3 様々な協調的計画案 第4節 福祉国家理念の誕生 4-1 真の社会保険の登場 4-2 完全雇用との結合 4-3 自発的活動への回帰 おわりに はじめに 20 世紀前半の失業と福祉の問題を取り上げる時、ウイリアム=ベヴァリッジ William Henry Beveridge (1879-1963)ほどふさわしい人物はいない。彼は 1900 年代から 40 年間の長きに渡り、一貫してこの問題に取り組み、大きな足 跡を残したのである。 20 世紀前半の特徴とは、2つの世界大戦による政治的・経済的大混乱であり、 それに対処するための政府機能の急速な拡大である。政府が労働者・使用者と 4 は異なる第3の演技者として経済社会に登場せざるを得なかったのである。言 わば、勤労・奢侈・投機・起業などのいずれの動機にも当てはまらない経済主 体が出現したのである。その中でやがて福祉国家という究極の混合体制が出現 してくる。 ベヴァリッジはオックスフォード大学ベリオール校を卒業後、法律家への道 を断念し、大学セツルメント運動の中核であるトインビーホールに副館長とし て就任した。そこで労働者の実態をつぶさに観察した後、保守系日刊紙のモー ニングポストに社説書きとして雇われた。金銭的・時間的に余裕のある生活は 労働問題への傾倒で占められ、やがてウェッブ夫妻の仲介でチャーチル商務省 大臣を知る。1908 年7月に商務省に入り、すぐに局長となり、職業紹介所法 (1909)や国民保険法(1911)で主導的な役割を果たした。戦時中は統制経 済に関わり、軍需省・食糧庁に勤務し、同時に失業保険の実態を精査していた。 公務員生活は 10 年で終え、ウェッブ夫妻の招きで LSE に入った。学長として 経済学の科学化に腐心しながら、王立石炭委員会や失業保険法定委員会など公 職も歴任した。次いでオックスフォード大学ユニバーシティー校学寮長に移動 しながら、1940 年代に入って「社会保険および関連サービスに関する省庁間 委員会」の議長となった。これが『ベヴァリッジ報告』 (1942)として結実し、 福祉国家体制の出発点となった。続けて『自由社会における完全雇用』(1944) と『自発的活動』(1948)という私的報告書も残した。BBC の諮問委員会議長 や住宅公社議長などを勤め上げて、喧噪な世界から離れていった。 本稿の構成は次のようである。第1節で処女作『失業』(1909)を中心とし て、1900 年代ベヴァリッジの思考を探る。第2節で第一次世界大戦の影響を 主に失業保険の改変から見る。第3節で 1930 年代のベヴァリッジの自由主義 に対する激変を辿る。第4節で 1940 年代にベヴァリッジが著した3つの報告 書を細述し、現代福祉国家理念の誕生を見届ける。最後に結語として、ベヴァ リッジの失業・福祉問題に対する独自性をまとめる。 第1節 貧困から失業へ ベヴァリッジの『失業』は様々な意味で、現代福祉国家理念の出発点である。 その意味は、まずこの著作が 19 世紀末以来の社会改良思想の集大成になって いること、そしてその集大成を越えてなお独自の福祉思想が明確になっている 5 こと、少なくともこの2つに求められる。本節ではこの著作の衝撃を、内部構 造と外的影響の二面から探る。 1-1 『失業』(1909)の構造 ベヴァリッジは 1908 年秋学期に、オックスフォード大学で一連の講義を行 った。この草稿が直接に『失業:産業の問題』につながった。この著作の特徴 は、徹底的に 20 世紀の息吹を包含していることである。失業問題の分析・救 済提言・実行という包括性が最も独自な点である。その根底には一貫して国民 最低限保障の思想が流れ、職業紹介所と国民保険という2つの具体的な政策が 失業問題の究極的な解決策として挙がっている。以下では、ベヴァリッジの問 題意識がなぜこの3要素に集約されたかを探る。 ベヴァリッジによれば現代の経済状況は、「労働の予備」reserve of labour (失業予備軍)の必然化という最大の特徴がある。彼は無数の統計表からこれ 以下には決してならない最低限の失業があることを発見した。労働の予備とは 「需要の突発変動に応じるための一定の失業マージン」 1であり、時々しか雇用 されないがいつも利用可能である。波止場や建設現場で典型的なように、均質 で大量の労働者が日々その日暮らしをしている。他方、雇う側は労働需要を常 に迅速に満たしてくれるので、この状況に不満はない。この状況こそがイギリ ス全土を覆う事態である。この概念に加え、産業活動の大幅な変動(季節変動 と循環的変動)および産業構造の変化による労働者の適応不能がある。このす べての要因から臨時雇用 casual labour の常態化が発生する。つまり労働の供 給が常にどこでも労働の需要を上回っている。 これこそが失業問題の根本的逆説である。その理由は「単一の労働市場が存 在せず、切断された労働市場群が無数にある」 2ためである。哲学者ポランニー は『大転換』(1944)で、市場メカニズムの浸透を「無数にあるが、互いに連 動して大単一市場 One Big Market を作り上げる」3こととし、新救貧法の成立 (1834)が労働市場の成立をみなした。ベヴァリッジは同じ問題意識を共有し ながら、ポランニーと異なり、労働市場が未だに確立していないとみなした。 1 Beveridge (1907a: 325)。 Beveridge (1909: 70)。 3 Polanyi(1957/1944: 72)。興味深いことに、ポランニーはこの推察をホート レー『経済問題』(1925)からヒントを得ている。また市場の働きについては 2 6 つまり救貧法下で単一の労働市場が出現することは決してなかった。それゆえ ベヴァリッジは人工的な市場創造に向かう。労働の流動性だけでは不十分で、 組織化された動きに支援されなくてはならない4。 この組織が職業紹介所であり、それに付随する失業保険である。各地方の職 業紹介所はまず求人・求職の情報を一同に集め、ついで職業紹介所どおしが情 報を共有しあう。これによって無知・慣習・距離によって妨げられていた5労働 の自由な移動が可能になる。そして職を移る時の期間を最小にできる。それで も残る移行期間の所得を平準化するために、失業保険が存在する。失業者は毎 日、職業紹介所に赴くことによって、その能力と意欲が自動的に判定される。 救貧法体制も怠け者と意欲ある失業者を分けようとして、労役所判定や劣等処 遇の原則を掲げてきた。しかしそれらは他者判定であり、完全に失敗した。ベ ヴァリッジの方法は「産業の自動的判定」 6であり、労働者自身の自己判定であ る。この判定に合格した者だけに、失業保険の給付権利が発生する。職業紹介 所は臨時雇用を根絶し、失業保険は貧困を緩和する手段である。失業対策とし てはあくまで前者が主であり後者が従である。しかし、失業者の登録が職業紹 介所で行われることから、両者は一体化して相乗効果を上げようとしている。 ここのおいて人工的な労働市場の創造というベヴァリッジの目論見は完成した。 以上のような診断と救済策の元には、ベヴァリッジの「現代性」が二段階で 伺える。第1に、彼は分析対象を貧困から失業に移したこと。1903 年以来、 彼は焦点をまず雇用不適格者 the unemployable から失業者 the unemployed へ、次に失業者から失業 unemployment へ二段階で移動させた7。1905 年に 草稿『失業者:経済問題』を書いた時 8に、ベヴァリッジは既に非自発的な遊休 (失業者)を生む経済的・社会的要因に注目していた。救貧法が長らく問題に していた雇用不適格者については、最初の分析から除外されている。また失業 という状態が個人を雇用不適格者にしてしまうので、逆の因果ではない。さら に 1906 年頃までには焦点は個人ではなく、失業という現象に移った。この二 ヘンダーソン『供給と需要』(1922)を引用している。 4 Beveridge (1909: 87)。 5 Beveridge (1909: 78, 81)。 6 Beveridge (1907b: 21 September)。 7 詳しい議論は Komine (2004)を参照。 8 The Beveridge Papers(以下では BP) 、Section 3: Reel 2, Item 12; “Plan for the Unemployed: An Economic Question” (1905). 7 段階移動によって、個人貧の概念は完全に払拭された。特に貧しさ一般ではな く、現代産業における失業の意味を考察するようになった。第2に、この注目 は必然的に、市民権の剥奪された被恤救貧民 pauper ではなく、ごく普通の市 民 citizen に向かう。その人々に適応される原則こそが、国民最低限保障 National Minimum である。ベヴァリッジは既に 1906 年までに、完全雇用と 最低限生存賃金を国家が提供すべきだと論じていた 9。臨時雇用がなぜ悪徳なの かという理由は、それが不規則な雇用と生存水準以下の賃金をもたらすからで ある。この廃絶こそが市民権と両立する自由な産業社会の要請である。この2 点は極めて現代的な指摘である。 それではこの現代的指摘はどのような起源を持つのだろうか。以下で経済学 者および社会改革家と対照させよう。 1-2 正統派経済学者の系譜 まず正統的な経済学者を登場させよう。先駆者としてベンサム・ジェヴォン ズ・マーシャルに短く触れ、同時代人のピグーをやや詳述する。最後に未来か らランゲと比較する。 ベヴァリッジにとってベンサムは、父性の象徴として強く意識せざるを得な かった。その結果、社会改革という情熱と効率的社会組織の建設は引き継がれ ながら、道徳および立法の重視というベンサムの視点は遺棄された。ベヴァリ ッジは非道徳(個人的要因の排除)および行政を重視したのである。この差は もちろん時代の差による。ベンサムが直面した 19 世紀前半は個人的自由や政 治的自由の確立が急務であった。ベヴァリッジの意識は既に社会的自由 10に向 かい、ベンサムの個人主義ではなく、国家の役割を拡大する集産主義 collectivism の解決方法に向かっていた。また、労働者を峻別する判定装置も 対照的である。救貧法体制では労役所判定あるいは劣等処遇の原則が掲げられ た。これは本当に救済が必要な者だけが労役所に入るように、その中の状態を 自立労働者の最低状態より低くすることである。ベンサムにおいては「理想的 な監獄」において、監視者が内面化されて囚人自ら道徳的な規範に従うような 装置が考えられた(権力の自動化)。ベヴァリッジはこうした古い装置から貧 民の刻印を払拭し、職業紹介所という新しい制度を用いることで、産業の自動 9 Beveridge (1907a: 327)。 T. H. マーシャルの三分類。それぞれ 18、19、20 世紀に対応している。 10 8 判定ができるような工夫を生み出した。 ジェヴォンズの立場も興味深い。限界革命を成し遂げ、古典派との理論的断 絶を自負する彼だが、晩年にはむしろ国家の経済介入に注視していた。それが 『労働との関係での国家』(1882)であり、『社会改革の方法』(1883、フォク スウェルによる遺稿集)である。彼は労働条件・公衆衛生・教育・郵便などに 国家の大きな役割を認めるようになった 11。この態度は自由競争を標榜する彼 の理論的厳密性と矛盾しない。なぜなら立法とは科学の領域になく、試行錯誤 で幸福の総量を付け加えるという実際の作業に過ぎないからである 12。ベヴァ リッジは 1905 年 10 月までに前者の本を読んでいる13。しかしその自由放任主 義の終焉宣言には同意しただろうが、接近方法は対照的である。ジェヴォンズ は労働問題を立法に所属させ、経済学固有の問題とはしなかった。ベヴァリッ ジは労働問題を産業の問題として経済学に取り込もうとした。両者の違いは、 正統派として守るべき経済理論があるかないかの差に還元できるだろう。 マーシャルの出発点は貧困の根絶であった。彼はジェヴォンズの機械的人間 観(快苦の微積分学)を拒絶し、経済学を人間研究の一環 14とみなした。物的 富だけでなく倫理的な諸力も考慮が必要 15なのであった。特に経済衰退が忍び 寄っていたヴィクトリア時代にあって、「卓越性の欲求」が労働者(生活基準)・ 企業家(経済騎士道)・政府(教育)それぞれに働くべきだとした。他方、マ ーシャルは科学として経済学の独立を謳い実行してきた。この倫理と科学の二 重性が彼を形作っている。ケンブリッジ出身ではあるが、オックスフォードの 理想主義が色濃く伺えるのである16。救貧法に対しては「1834 年の問題が被恤 救貧民の問題であったのに対し、1893 年の問題は貧困の問題である」17とする。 力点が一般的な貧困者に移っている。しかし救済行政を緩和するのには反対で ある。なぜなら労働者の側に倫理的な諸力が育っていないので、せっかく国家 11 Jevons (1887/1882: 1)によると「彼らの厚生を保障ないし増加させるため に、何らかの権威が介入すべき事例」がある。 12 Jevons (1897/1882: 9, 12)。 13 BP 9b-3 (1930)の参考文献表。 14 Marshall (1920/1890: 1)。 15 Marshall (1920/1890: ⅻ)。 16 ブリストルでもベリオールでも、理想主義的経済学者がマーシャルの就任を 助けた。マーシャルは夭折したトインビーの後任である。 17 OP (1926: 244)。 9 救済を施しても、再び惰民を助長してしまうからである。ベヴァリッジはオッ クスフォードの伝統の中で育ちながら、マーシャルとは対照的な態度を見せる。 すなわち倫理的諸力を全く等閑視して失業の問題に接近するのである。さらに 彼の失業分析の動機は貧困の根絶に導かれたものというより、国家の機能を見 定めてみたいという欲求18から生じたものだった。 ピグーとベヴァリッジは同時代人であり、生涯の友人同士である。専門的経 済学者ピグーはむしろベヴァリッジの後塵を拝した。大著『産業平和の原則と 方法』(1905)の中心課題は倫理であり19、経済分析は知の道具に過ぎない20。 王立救貧法委員会に提出したメモ(1907)によると、福祉 well-being は倫理 的個性、人と人との関係、経済環境から得られる満足の3つに依存する 21。こ こで経済環境の指標で全体の福祉状態に代えうる。算術的に集計した効果を測 れるからである。その上で、福祉は国民分配分の大きさと分配の程度に依存す る。このように定義した上で、ピグーは今ある貧民への救済策の効果を費用∼ 便益法的に論じた 22。同時期のベヴァリッジと比べて、景気変動への考慮がな いこと、通常の失業者ではなく救貧法下の困窮者のみを扱っていること、とい う点で後退的であった。ケンブリッジ大学教授就任演説「実践との関連での経 済科学」(1908)では、能力ある労働者がしばしば長期に渡っても職がないと 認識するに至った。ただし賃金の構造差にも注目している。『失業』(1913)で はベヴァリッジの議論を完全に消化し、特に救済策のほとんどは同じになって いる。ただし賃金パラメータに関しては、両者に大きな差が残っている。ベヴ ァリッジはあくまで数量調整が主であり、ピグーは限界不効用や賃金の働きを 重視した。『富と厚生』(1912)では失業問題を拡張した形で、国民福祉の量的 把握という大問題に一定の解答を与えた。 ランゲとベヴァリッジには何の個人的交流もないが、極めて興味深いモデル 分析ができる。ランゲは後に経済計算論争において、社会主義の経済でもワル ラスの模索過程と同じ価格調整が可能だと論じた 23。中央計画局(または制御 18 Harris (1997: 74)の指摘による。 Pigou (1999/1905: 3)、ただし善とは何かには踏み込まない。 20 Pigou (1999/1905: 5)。 21 Pigou (1910/1907: 981, para.2)。「救貧法救済の経済的側面と効果に付いて のメモ」 。福祉国家の先駆としての視点は本郷(2001)を見よ。 22 McBriar (1987: 256)の指摘による。 23 Lange (1938: 83)。 19 10 者 managers)が超過需要・供給に応じて、経済を調整できるのである。なお 当局は私的企業よりも広範な情報を持ち、所得再配分も可能である。そこでラ ンゲは社会主義の優位性を説くのである 24。このモデルはベヴァリッジの労働 市場論に極めて示唆的である。制御者は職業紹介所に当たり、共に人工的な存 在であるが、市場を十全に機能させる役割を果たす。確かにランゲのモデルは ミクロ経済学に支えられ、全市場が対象ではある。しかし人工的な完全市場の 創出という点では両者の類似は際立っている。ベヴァリッジの初期の構想は、 社会主義的な設計主義を内包していたと言えるだろう。 1-3 社会改良家の群像 本節ではベヴァリッジに流れ込む 20 世紀初頭の社会改革熱について略述す る。まず4つの起源を指摘し、次に具体的な人物と対照する。 第1にオックスフォードの理想主義である。ベヴァリッジはその本拠ベリオ ール校を卒業した。在学中に学寮長ケアードから「なぜ富の多いイギリスで、 同時に貧困が目立つのか」と問いかけられ、朋友トーニーと共に貧困問題に目 を開かされた 25。この雰囲気はトインビー・グリーン・バーネット・ジョウェ ット・パーシヴァル等の改革者が醸成していたものである。例えばベリオール 学寮長であったジョウェットは人生の最高目的を人格の完成とし、科学と宗教 がその過程で役立ち、また社会改革にも向かわざるを得ないと説いた 26。特に 慈善組織教会 COS の中核にいた牧師バーネットは、ロンドンの最貧地区にト インビーホールを建て、大学セツルメント運動を興した。中世のキリスト教的 慈善運動は市民革命を経て、博愛主義という啓蒙運動に繋がっていた。さらに 19 世紀後半には慈善活動を組織化する COS も救貧法の補完として完成してい た。しかし COS は国家救済を困窮者自立の妨げと見ていたので、バーネット はやがて失望し、社会改良を企図する 27社会セツルメント運動に転換していっ た。その一環である大学セツルメントとは、若い教養人と貧困者が同一の宿で 暮らし、寄付によって生活費と貧困調査費を賄う社会運動であった。ベヴァリ 24 Lange (1938: 99)。 Harris (1997: 76)の指摘を参照。トーニーは資本主義が反キリスト教的と断 罪し、倫理的社会主義者になった。後にベヴァリッジの妹と結婚した。 26 高島(1998: 48)の引用による河合栄治郎の指摘。河合はジョウェットに師 事した。 27 Barnet (1919: 266)、1895 年に COS で行った講演より。 25 11 ッジはバーネットにスカウトされた。 第2に科学精神の発展である。コント・スペンサー・ハックスレー等の哲学 者・科学者と、ブース・ラウントリーの科学的貧困調査を典型例とする。コン トは形而上学的な絶対的格率を廃し、観察・仮説・実験・推理・検証という近 代科学精神の立場を宣言した 28。スペンサーは非国教徒的急進主義に基づき、 進化の法則によって生物・天体・社会がすべて統一原理で把握できるとした。 産業型社会とはイギリスが進化していくべき方向であり、そこでは結束性のあ る異質性が確保されている。スペンサーは家庭教師として、ベアトリス=ウェ ッブの社会的有機体・進化発展観に影響を与えた 29。もちろんマーシャルの生 物学的進化論にも影響がある。ハックスレーのベヴァリッジに対する影響は甚 大である。ベヴァリッジは彼を英雄と呼び、その実証的分類学(観察・実験・ 一般的命題への帰納・新たな観察による検証)を高く評価し、それを社会の科 学に応用しようとした 30。それこそがベヴァリッジの考える経済学の姿であっ た。しかしスペンサーの楽観主義は世紀末の「悲痛な叫び」によって消される。 その貧困の「発見」に寄与したのが科学的貧困調査であった。ロンドンとヨー クの調査では統計データが整備され、労働者の分類により貧困線が確定した。 第3は新自由主義 New Liberalism の第二世代による社会思想である。これ はフェビアン協会やレインボーサークルとも密接に関連している。新自由主義 とは 19 世紀までの個人的自由主義とは異なり、社会目標のために国家の経済 介入を積極的に解決手段として用いる立場である。フェビアン協会は社会主義 を標榜するが、議会制民主主義の枠内での漸進的改革を主訴する。また人間の 力や能力の成長に重きを置き、国家が補助機関としてその人格的発展を助ける べきとする。レインボーサークルは 1894 年に会合を開始し、1931 年に解散し た。倫理運動協会の助けも借りながら、政治的・経済的進歩主義を自由に論じ る会合であった。ジャーナリスト・政治家・経済学者などが結集していた。こ れらの潮流にはホブソン・アルデン等の経済的思考(景気変動、中央交換所、 職業紹介所)やホブハウス・ウェッブ等の法律的思考(働く権利運動、生存賃 金、国民最低限保障)が混在した。 28 ベヴァリッジには正確性・反復性・規則正しさ・数量データを扱う能力が備 わっていた。Harris (1997: 77)。 29 金子(1997: 41-44)に詳しい。 30 Beveridge (1955: 247)。社会の科学または社会学が理想である。 12 第4は過激な労働運動の高まりと、それを抑えるための一連の行政・立法過 程である。不況期(1873-1896)を迎え、救貧行政がますます無力化する中、 困窮に満ちた労働者は結束して行動を起こすようになった。1889 年にはロン ドン港湾ストライキが 15 万人以上の参加になった。労働組合会議 TUC(1868 年設立) 、独立労働党(1893 年設立)、フェビアン協会(1884 年設立)は連携 して労働党を組織した。このような労働運動の先鋭化で、指導者側は様々な手 を打ってきた。それは慈善活動の公的性格と法律制定に二分される。まず 1886 年には暴動寸前の労働者を宥めるため、緊急にロンドン市長公邸基金が組織さ れた31。この基金は再び 1903-04 年にバーネットの下で組織され、ベヴァリッ ジも参加した。ウィリアム=ブースの提唱する救世軍活動も 1890 年代以降に 軌道に乗った。法的にはまず労働補償が重要である。1906 年に労働補償法が 改訂され、1880 年の雇用主責任法や 1897 年のチェンバレン労働補償法を拡充 した。またタフヴェール判決(1902)によって打撃を受けた労働組合の財政基 盤も、労働争議法(1906)によって従来の労働組合法(1871、1875)を回復 し、労働争議によって組合が損害賠償を払う必要はないとされた。失業者法 (1905)が最大限に重要である。その目的は困窮者に関わってきた異なるグル ープを大同団結させ、金銭と情報を失業者のために収集して使うことである。 その組織として労働植民地 labour colonies と労働事務所 labour bureaux が ある。前者は失業者を一時移住させて開墾などの仕事を与えて賃金を払う仕組 みであり、後者は失業者に求人などの情報を与える機関である。後者に関して は既にロンドン労働事務所法(1902)が制定されていた。救世軍活動はこの事 務所を資金援助し、公的救済の補完をしていた。こうした一連の立法で自由党 は改革時代の先陣を切った。ボーア戦争や関税改革運動で分裂していた進歩勢 力が、再び結集されつつあったのである。 具体的に急進改革派、科学的社会調査家、自由主義的官僚の中から、ベヴァ リッジに関係した人々を取り上げておこう。 急進改革派として6人を挙げておく。政治家アルデンはベリオールで教育を 受け、慈善事業も組織していた。『失業者:国民的問題』(1905)の中で失業を 経済問題と看破した 32。ベヴァリッジはこの本を批判的に摂取し、特に職業紹 31 32 Brown (1971: 4)。 Alden (1905: 144)。「失業者のために国家介入が必要である。」 13 介所を救済策とすることに同意した 33 。政治家ホールデンは早くから新自由主 義の立場を明らかにし、ウェッブ夫妻と深く交流していた 34。大臣としてイギ リス軍の近代化を成功させ、この体験が「政府機能に関する委員会」報告書 (1918)で科学的調査の必要性を説かせることになった。異端の経済学者ホブ ソンは有機的社会組織の構築という目標を持っていた。所得の不平等が過少消 費と失業などの遊休資源をもたらすとみなし、誰よりも広い経済的視野を確保 していた。1906 年4月にホブソンは失業に関する会議(LSE)に出席しコメ ントを付けた。この会議はベヴァリッジがその経済的分析(労働の予備、福祉 国家宣言)を大いに発展させたものである 35。ホブハウスは 1911 年に「働く 権利と生存賃金への権利は、人格権や財産権と同様に正当である」 36と述べ、 スマート以来の働く権利運動と、ウェッブ夫妻の国民最低限保障を結び付けた。 ウェッブ夫妻は当時の進歩主義を象徴する。夫シドニーは官吏であったがコン トの影響を受けて辞任した。妻ベアトリスは裕福な中産階級に生まれ慈善活動 (ブースの調査を含む)に従事し、スペンサーの影響を受けていた。両者はフ ェビアン協会で出会った。夫妻はベヴァリッジを見出し、高級官僚にのし上が る機会を与えた。両者の対立は職業紹介所と国民保険の関係で浮き彫りになる。 商務省案が任意の(民間を含む)職業紹介所と強制の国民保険であったのに対 し、ウェッブ夫妻は全く逆を主張した。彼らは国民の品行を改善させることな く一方的に給付を行う不道徳性を訴え、職業訓練を国の責任で強制させる体制 こそが必要だと説いたのである。ベヴァリッジの考えが労使国家一体型の協調 主義だとする 37と、夫妻の考えは道徳の強制的矯正による国家との共生主義に なるだろう。これらの活動はいずれも、抑圧の機構(貧困の封じ込め=市民権 喪失)という救貧法の世界から、予防の機構(働く権利=社会問題)という 20 世紀の世界へ、多くの人々が敏感に感じ取った結果である。 貧困の発見者を2人挙げる。ラウントリーはヨークを調査し、貧困線による 峻別を発見した。これは最低賃金が人間の最低限必要 needs に対応し、それ以 上の賃金は市場の力にまかせるという原則の区分に対応する。ラウントリーは 33 書評としての Beveridge (1905: 77)を見よ。 Johnson (1968: 43)、Haldane (1929: 114)。 35 Hobson (1907: 332-333)と Beveridge (1907a: 341)のやりとりを見よ。 36 Hobhouse (1911: 159)。働く権利 right to work 運動については、Brown (1971: Chapter 3-5)に詳しい。 37 藤井(1990: 28)は「階級調和的な産業理解」と整理した。 34 14 人々の3分の1が貧困線以下にあり、このままでは産業発展もできないことを 危惧した。栄養学の観点から、貧乏は不健康を導くと実証した。ベヴァリッジ と共に臨時雇用の問題を政治家に訴えることになる38。ヨーク調査は 1899 年、 1936 年、1950 年の3回行われた。第1回のみならず第2回の調査もベヴァリ ッジに決定的な影響を与え、国民最低限保障が貧困線として具体的に算定され ることになる。ブースはベアトリスによれば、「時代精神」を体現している。 つまり公共精神と科学的信仰の混和である 39。コントの実証主義に導かれたロ ンドン調査によって困窮者の詳細な分類が明らかになり、分類B(一時的過少 雇用者)・分類C(間歇雇用者)・分類D(低所得者)という分け方がベヴァリ ッジを感心させた。また特に老齢の困窮者が悲惨であるという実証から、1908 年の老齢年金法の成立に大きな影響力を持った40。 リューリン=スミスはベヴァリッジの直属上司として、新しい官僚の代表で ある。ベリオール時代にジェヴォンズの影響を受けた『国家社会主義の経済的 側面』(1887)を著し、自由放任を放棄して実用的な立法を目指した 41。そし て商務省の次官に上り詰め、失業統計・職業紹介所・失業保険について大きな 足跡を残した。最後には新設の首席経済助言官に就任している。リューリン= スミスの思想は社会科学と政府との融合を目指した。具体的には失業者を分類 することによって、労働者の所得の不規則性・不確実性を減らす対策をすべき と勧告した。彼は政府の内部にあって労働に関する経済学や景気循環論を他の 官僚や政治家・大衆に伝えていく役割を担ったのであり、ベヴァリッジと大き く重なる点である。ホーレイは政府の外部から技術的革新者として統計データ の収集・加工に尽力した。彼はマーシャルの尽力で数学者から経済統計学者に 転向し、LSE の講師となった42。1920 年代には石炭産業に関する王立委員会で ベヴァリッジを助け、1928 年∼1932 年にはブースを受け継いだリューリン= 38 ロイド=ジョージやチャーチルに臨時雇用の問題を対処させられるのは我々 の意欲にかかっている、という主旨の手紙が残っている。 BP 2b-13、1913 年 11 月 17 日(ラウントリーからベヴァリッジへの手紙)。 39 金子(1997: 70) 。 40 小山(1978: 207-209) 。マーシャルは貧困の根絶に結びつかない無拠出型 の老齢年金を否定した。一方的な給付は労働者側に「倫理的な力」を身につけ させないからである。特に OP (1926: 244-245, para.10356-10358)を参照。 41 Llewellyn Smith (1910: 529)。 42 Darnell (1981: 141)。 15 スミスの主導による新しいロンドン調査にも参加した。ベヴァリッジが資金を 獲得して LSE で実行されたこの調査を、ボーレイは自分の最も大きな貢献と 見なしている 43。ベヴァリッジ報告の時も、ラウントリーと共に外部委員とし てベヴァリッジを助けた。 第2節 無秩序の放置と管理 第一次世界大戦はイギリスを全く違う国にしてしまった。しかし人々の意識 は経済的変化に追いつかない。そこで過去に郷愁を感じる者と、新しい息吹を 実感する者に大きな葛藤が生まれる。この節では世界大戦の内的・外的衝撃を 扱う。戦争の前後で、イギリスの雇用問題が全く変化したことがわかる。 2-1 第一次大戦の衝撃 この戦争は「通常通り」business as usual とはならず、総力戦になった。 総力戦は二重の意味で、古典的自由主義の「奇妙な死」 44をイギリスにもたら した。第1に、徴兵制の導入による自由主義の終焉である。戦地に赴くかどう かの究極的な選択は、個人ではなく国家が担うことになった。第2に、自由経 済の大きな後退である。戦時経済は必然的に経済全般の統制を生んだ。特に生 産(軍需省)と食糧(食糧庁)が統制された。ベヴァリッジは商務省からまず 軍需省へ、次に食糧庁へと異動した。本心は独立した労働省に異動したかった のだが、時代が許さなかったのである。また、敗戦国ドイツは理性よりも情念 を重視する政治家・大衆の嫌悪の目に晒され、ヴァイマール共和国の中で内部 的な憎悪を貯めていくことになった。ロシアには社会主義政権が誕生し、好奇 と畏怖の目に晒された。 このような統制経済は政府機能の意図せざる拡大をもたらし、戦争終結を控 えて「政府機能に関する委員会」(1917)を発足させることになった。ベアト リスも委員として活躍したが、ケインズに草稿を見せて大蔵省の統制がはずれ たことに同意している45。ホールデン委員会の報告書は政府機能を次の 10 に分 割・再編すべきとした。財政・防衛と外交・研究と情報・生産・雇用・配給・ 43 Darnell (1981: 168)。 自由・自由貿易・進歩・聖書の教え・改革・平和といったグラッドストーン 流の自由主義が 1914 年までに終焉した。Dangerfield (1997/1935: 20)。 45 Webb (1978: 98)、1918 年3月 14 日(ベアトリスからケインズへの手紙)。 44 16 教育・健康・司法である 46。特に研究と情報という項目が重要となる。この委 員会は再建省の下に作られたが、他にも「市民戦時従事者委員会」や「経済学 者委員会」が戦後の雇用混乱について審議を行っていた。ベヴァリッジは前者 の小委員会・委員長として失業保険の検討も行った。戦時体制に従事している 民間人が任を解かれた時、保険の拡充が必要であるという主旨であった。1911 年の国民保険法(第2部)では、工業・造船・建築などに失業保険の適用を限 っていたのである。特に戦争に従事しているか否かの判断が恣意的になるため、 包括的な保険の即時開始(拠出金を集めるため)が勧告された。しかし政府は 動かなかった。「もし一般的な保険計画を緊急に案出・着手しなければ、困窮 を非組織で即席の救い方しかできず、悲惨な大混乱は避けられない」 47という ベヴァリッジの警告は無視されたのである。続いて彼はカニンガム委員会でも 活躍し、国の直轄保険・特定産業への分離保険・任意団体への補助金を勧告し たが、これも無視された48。 このような世界情勢の中で、ベヴァリッジの改革熱は徒労感によって疲弊し た。職業紹介所と国民保険という制度は生みの親を離れ、ベヴァリッジは全く アイデアの必要とされない大量の日々雑務に埋もれていく。確かに戦場に赴い たピグーやロバートソンやトーニー達の恐怖感とは異なるが、戦地に行かなか った者としても虚無感が広がったのである。この徒労感によって彼は官僚を辞 め、ウェッブ夫妻の招きで LSE の学長となった。「私が商務省に入ったのは労 働問題を通じてだったが、労働問題は既に商務省にはなかった。そこで私は役 人を辞めたのである。」49ケインズも場面は違うが官僚としての仕事を辞め、 『平 和の経済的帰結』(1919)を執筆した。ケインズは確かにヨーロッパの没落を 感じ取っており、旧弊や情念に縛られている政治家を激しく非難したのである。 2-2 失業保険の変容 戦時経済からの解放は当然に激しいインフレを生み、その反動として厳しい デフレを後追いさせることになった。それだけでなく、膨大な戦費債務はポン ドの不信任を生み、基幹であった輸出産業を没落させることになった。イギリ 46 PRO, MUN5/27/263/22, part 1: para.55。 Beveridge (1943: 13)。 48 Harris (1997: 336)。 49 Beveridge (1955: 160)。 47 17 スは 1920 年代から深刻な不況に悩むことになる。アメリカが株式ブームに沸 いていたのとは対照的である。 この混乱により、1920 年には失業保険の性格が激変してしまった。第1に 一般市民に適用される普遍保険を指向したが、むしろリスクの高い職種を包含 してしまったこと。1911 年の国民保険法は失業保険適用の職業を限定して、 約 225 万人の適用者だった50。しかし 1916 年法の部分的な拡大の後、1920 年 には約 1200 万人の肉体労働者(年 250 ポンド以下の賃金の場合)をカバーす る普遍保険(ただし失業率が高い階層に偏る)となった。戦後の不況が迫って いたため、拠出と給付が同日に開始された。当初 2200 万ポンドあった失業基 金が6ヶ月で底をついた 51。第2に拠出原則を無視したこと。無定型な給付の 例を2つある。第1に「寄贈計画」donation scheme である。第2は「無契 約給付」uncovenanted benefit である。第1の概念は戦争終結直後の混乱か ら、非将校の元軍人や公務員に対し、拠出の裏付けを欠いた「離職者手当」 out-of-work donation を給付し始めたことである 52。この計画は戦後混乱と いう不可避的な要因から発生したが、後に失業手当が「施し」dole であり「気 前よい寄付」largesse と呼ばれる原因となった。第2は、請求者が給付に基づ いて正当な(契約上の)権利がない場合である。この時、大臣の裁量によって、 給付権を使い果たしてしまった者にも払われることになる。例えば、1920 年 法では次の3つが定められていた。(1)12 週間以上の保険料を拠出して受給資 格が発生する。(2)6週間の拠出で1週間の給料を受け取る。(3)年間の最大給 付は 15 週までになる53。この中で歴代内閣は(1)を特に緩和していく。この「特 例」の給付が無契約給付と呼ばれるのである。以上のような保険の普遍化と無 定型化は、一面で社会保障給付という意味で意図せざる福祉国家体制の始まり 54 と呼べる。他面、保険数理を無視した財政支出の無軌道な拡大は、失業基金 を瓦解させ均衡財政を危うくさせた55。 50 Beveridge (1924: 18)。 Bruce (1968/1961: 199)。 52 Beveridge (1930: 273)、Lowe (1986: 136)。 53 大沢(1986: 272) 。 54 「失業寄贈」は「イギリスの歴史で最初の国家による直接救済プログラム」 (Garraty 1978: 147)であり、 「戦後福祉の歴史で新しい方向の動きを示し」 (Gilbert 1970: 60)た。 55 1929 年に明示された「大蔵省見解」はこの現実に対する対抗声明である。 51 18 ベヴァリッジは保険の普遍化に賛成した。例として『万人と万物のための保 険』(1924)を挙げる。本書は自由党夏期学校の成果パンフレットとして扱わ れた。ベヴァリッジは所得と社会責任、稼得と生存を結びつけ、もし稼得の中 断すなわち失業が生じたら、人間の責任を全うできないと論じる。所得中断は(1) 仕事上の事故、(2)病気、(3)失業、(4)老齢、(5)寡婦によって生じるので、この 5つすべてをすべて包含し、かつ重複しない社会保険が望まれる 56。これらの リスクは現代社会では不可避で、しかも個別の貯蓄では応じられないほど大き い。そのためこうした共同体への不確実性は、集計的に管理される必要がある。 それが社会保険──同一拠出の国民保険──である 57。特にこの時代、寡婦問 題を正面から取り上げ、社会保険の必要性を論じたのは革新的である。壮大な 計画を持っていながら、執行上の細部まで目配りするという彼の特質は、この パンフレットにも伺える。ただし給付水準は生存最低限賃金ではなく、私的貯 蓄の呼び水にすぎない。また「万人」の定義はある所得以下という意味で、市 民全員ではないという不十分な点はある。再びこのパンフレットは政府に無視 された。 実際の失業保険運営は資格緩和と制限というジグザグを歩んでいる。1921 年法では「求職の誠実性テスト」と「無契約給付」が同時に導入された。1924 年の労働党政権によって後者が緩和された。しかし同時に前者の厳格適用も歴 代内閣で考えられていた。ボールドウィン保守党内閣の下で組織されたブラネ スバーグ委員会 The Blanesburgh Committee(1925-1927)は秩序立った失 業保険を目指したが、どの陣営からも批判された。この報告書で拠出と給付の 比例関係を基礎に置く 1911 年法の理念が完全に崩れた 58。この制度を勧告せ ざるを得なかった理由は、未だに救貧法が廃止されていないためである。つま り、困窮者が貧民の刻印を押されないためには、無制限施しとも言える「過渡 的給付」を救貧法外で作る必要があった。委員会は6%という実現不可能な失 業率を前提にしているので、「例外的な失業」はすぐに去ると帰結を持ち出さ ざるを得なかったのである。ベヴァリッジはこの委員会およびにそれに基づい た 1927 年法に非常に批判的である。委員会は2つの全く異なった見解に直面 していた。(1)拠出と給付に何らかの比例的関係を保つべきというもの。(2)失 56 Beveridge (1924: 4-5)。 Beveridge (1924: 6)。 58 Fraser (1984/1973: 187)。 57 19 業に陥っている限り、労働者を支えるべきというもの。一般財源(税金)で財 政を支えることになる。 委員会はこの両極を避け、第3の道を歩もうとした が、ベヴァリッジによれば両極の中間ではなくむしろ「非拠出型」にずっと近 くなった 59。1911 年法の失業保険は2つの意味で契約的であった。(1)大臣の 裁量やその他の資質と関係なく、加入者は法的な権利を持つ。(2)加入者ごとに 拠出に基づいた権利を持つ。 しかし「1918 年から 1928 年の 10 年間混沌に よって、いずれの意味でも失業保険は契約的ではなくなった」60。1927 年法は 「無契約給付」を廃止したことで、(1)の側面を回復したが、(2)の面は遺棄さ れたままになった。この混沌とした 10 年は、「契約から資格(身分)へ」from contract to status 61とまとめられる。これは形を変えた院外救済(もちろん給 付は権利なので、貧民の汚名は払拭されている)であり、地方自治体(救貧法) ではなく国家が事業を行い、雇用者からの一般財源・税金によって支えられる 62 。まさに救貧法体制の瓦解を伴う新しい体制であるが、拠出と給付の適正化 という経済問題は脇に退けられた。失業に対する緩和策が徐々に破綻するにつ け、新しい失業対策が望まれることになる。 ベヴァリッジの別の側面も見ておこう。王立石炭委員会(サミュエル委員長、 1925-26)で、ベヴァリッジは4人の委員の1人として活躍した。これは生涯 で最も強烈な仕事であった 63が、この時期の彼の心情をよく現している。義弟 トーニーは炭坑夫側で国有化の案を出してきた。労働時間の延長と賃金の引き 下げのうち、ベヴァリッジは後者を選択した。第1に、賃金の低下は好況にな れば取り戻せること。第2に、炭坑夫の貧困は賃金ではなく大家族制によるも のであって、家族手当の創出がむしろ急務であること。この報告書は石炭産業 の労使を調停させることはできず、1926 年のゼネストという破滅的な結果を 導いた。このストは労働者側の完敗に終わり、逆に 1926 年の労働争議法を作 り出し、1906 年法とは反対に組合の力を制限させることになった。1926 年の バルフォア委員会(商工業に関する委員会、1925-29)での証言でも、ベヴァ リッジは賃金切り下げを勧告した 64。この時期、彼の意識はそれまでの国家統 59 Beveridge (1930: 283)。 Beveridge (1930: 289)。 61 Beveridge (1930: 289)。 62 「偽装された院外救済」(Fraser 1984/1973 :184)という表現がある。 63 Beveridge (1955: 211)。 64 Harris (1997: 333)。 60 20 制に対する信頼よりも、自由放任経済に傾斜していた。これはピグーやロビン ズの影響でもあり、官僚として疲弊した彼自身の実感でもあった。 ただし賃金の伸縮性への信頼は限定的なもので、むしろ家族手当の創出に力 点があるとも解釈できる。ラスボーン女史の『権利を剥奪された家族』(1924) を読んで感銘を受けたベヴァリッジは、直ちに石炭委員会でも65LSE 学内でも 66 家族手当を提唱した。1925 年に寡婦・孤児・老齢に対する拠出年金法が成立 したのも、『万人・万物に対する保険』やその後の議論がきっかけとなった。 しかしその関心はラスボーンとは微妙に異なり、当時問題視していた人口(出 生率)低下の歯止めとして、また賃金切り下げを容易にするため、家族手当を 推進したという側面もあった 67。いずれにせよ賃金の伸縮性は単独で正常状態 としてベヴァリッジが認識していたというより、労働者の全厚生の中で考慮さ れていたと言うべきだろう。 1929 年には地方自治体法が成立し、救貧法体制の根幹であった 643 の教区 連合と貧民保護委員会が廃止された。その代わりとして 145 の地方自治体(州 と市)に救貧行政が移管されたのである。これは名称の変更と領域拡大により、 公的サービスの均一化を狙ったものであった。1920 年代の失業保険給付の拡 大が実質的に意図せざる社会保障給付となったのに対し、この法律は名目的に 福祉国家への大きな制度変更となったのである。 2-3 知の管理者として 1910 年代から 20 年代にかけて、ケンブリッジ学派を中心に景気循環の原因 と対策について大きな理論的進展があった。これらはマーシャルが内包しある いは残していた問題群という側面もあったが、現実の経済が激しいインフレ・ デフレを経験するという事情も手伝っていた。特にホートレー『好況と不況』 (1913) ・ 『通貨と信用』(1919) 、ロバートソン『産業変動の研究』 (1915) ・ 『貨 幣』(1922) ・『銀行政策と価格水準』(1926) 、ピグー『厚生経済学』(1920) ・ 『景気循環論』(1927)、ラヴィントン『イギリス資本市場』(1921)、ケイン ズ『貨幣改革論』(1923)・『貨幣論』(1930)、マーシャル『貨幣信用貿易』 (1923)はケンブリッジ学派の景気変動に対する理論的豊穣さを証明している。 65 Beveridge (1955: 211)。ラスボーンはグリーンの影響を受けている。 Harris (1997: 332)。新設の家族手当基金協会の審議員となった。 67 Harris (1997: 333)の指摘による。 66 21 その中で特にケインズとホートレーは金本位復帰問題(1925)において、国内 の雇用に注目して為替変動よりも国内価格の安定を願うという国内均衡優先主 義を唱えた。また両者にロバートソンを加えて、投資∼貯蓄分析の発展と中央 銀行の景気制御の役割を提唱するに至っている。言わば景気循環論の原因解明 と救済策が密になり、金融面での経済管理の必要性が自覚されてきたのである。 特に失業論についてはフォクスウェル『雇用の不規則性と物価変動』(1886)、 ホブソン『失業者の問題』(1896)、チャップマン『失業』(1909)、ラウント リー『失業:社会問題』(1911)、ピグー『失業』(1913)、クレイ『第一次大 戦後の失業』(1929)、キャナン・グレゴリーを挙げておく。そのほとんどがケ ンブリッジ学派以外の著作であった。ホブソンはこの段階ではっきりと富の不 平等が有効需要不足(過少消費)を招き、さらに遊休資源を生むと明言してい る。ラウントリーは失業とは非自発的失業に他ならないとする 68 。しかしその 他の論者は、価格変動のみの議論や摩擦的・構造的失業の考察に終始していた。 そして賃金切り下げを──現実的な手段としては退ける論者もいるが──論理 的帰結の政策勧告とする場合が多かった。 むしろ別の可能性を探っていたのがケインズの一連の議論であろう。産業合 理化問題にも注目していた彼は、1924 年から一連の投稿を行い、高金利とい う政策的な失敗が失業を生み、自由放任主義を捨てて政府の主導で投資資金を 国内開発に向けよと主張した。この方向は自由党の報告書『イギリス産業の未 来』(1928)でも「ロイド=ジョージはそれをなしうるか?」(1929、ヘンダ ーソンとの共著)でも変わらない。1929 年頃になると全面的な遊休資源を用 いて資本計画を立てるべきで、投資と貯蓄は一般に一致しないから、それを一 致させるように波及効果のある公共事業を用いるべきとしていた。その基礎と なる統一理論はないものの、大量の未利用資源の存在を前提としながら、国内 均衡を優先する手段を模索していた時期であった。 経済学内部の理論的発展と共に、その応用である政策立案ルートも開発され ていった。その強力な触媒が「経済参謀(本部)」Economic General Staff で ある。これはホールデン委員会を嚆矢としてベヴァリッジが 1923/24 年に唱 えた概念で、経済学者からなる専門家集団と大臣を含む全体会の二重構造であ る。政府の内部に常駐の公務員として、経済問題を広い視野から研究し政策を 勧告する機関であった。ケインズは直ちにこの概念を受け入れ、マクドナルド 68 Rowntree & Lasker (1911: 301)。 22 首相に詳細なメモを渡している 69。ただしケインズの場合は経済学者の一時的 政府雇用に力点が移っている。両者の公務員としての体験がそのまま反映して いるのである。なおケインズは経済参謀の設置が「国家の機能や目的について の我々の概念を移行させてしまう」 70 と自覚している。政府が経済的な知を正 しく雇用しなければ、複雑な経済問題に対処できないという自覚・自信の現れ であろう。実際にベヴァリッジ・ケインズの提唱を1つの強力なきっかけとし て、1930 年には経済諮問会議が設立された71。経済学者が正式に──少数派で はなく多数派として──助言母体になった瞬間であった。 経済学の内部発展も外部進出も、複雑で手に負えない現実の経済をいかに制 御するかという大きな問題意識に支えられた。この新しい意識(管理経済論) の根底には第一次世界大戦による無秩序観があった。 第3節 正統派から異端派へ 1929 年にアメリカに端を発した大恐慌はやがてヨーロッパをも飲み込み、 大不況の激震をもたらした。イギリスでは 1931 年に財政収支と貿易収支の悪 化から金本位制が再離脱を余儀なくされるなど、1920 年代の慢性的な不況に 追い打ちをかけた。各国が政治的にも経済的にも急速にブロック化し、憎悪と 不信感が拡大することで、やがて再び世界大戦が勃発することになる。 3-1 1930 年代初頭の激変 1930 年当時のベヴァリッジの思考は、チャーチルへの手紙72 に要約されてい る。戦後の失業は、登録の完全性により過大な失業数が記録され、主婦のよう に本当の困窮者とは言えない者まで数えられている。そこで純粋な失業者は世 界需要が低迷している炭鉱夫・重工業の従事者、55 歳以上で職を失った者であ る。失業保険に歴代内閣の決定が責められるべきである。 ようやく改訂された『失業』(1930)の基本線は 1909 年版と変わっていな い。すなわち失業を現代の産業問題と捉え、労働市場の組織化によって失業に 69 PRO, Prem 1/70, P.M.C.10、同時に CW20 (1981: 22-27)。 CW20 (1981: 27)。 71 ホールデンらの尽力の結果、1925 年に市民研究委員会が発足したが、影響力 を持ち得なかった。Chester (1982: 129)。 70 23 対処する方法である。その組織化には職業紹介所と失業保険が不可分に組合わ さっている。この基本線の上に、1930 年版は極めて新しい理論的要素が3つ 含まれている。第1に、ロビンズの影響を受けて、実質賃金による労働市場の 清算という正統派の考えが広く取り入れられている。労働組合と 1920 年以来 の失業保険の普遍化 73によって、貨幣賃金が下方に弾力的ではなくなったので ある。また過剰な労働者に対しては移民を行うか、生産性と賃金を調和させる 必要が出てきた 74。第2に、景気循環理論への急速な理解が示され、特にホー トレーの貨幣的説明を重視する 75と共に重大な疑義を与えている。ベヴァリッ はホートレーの世界を円を用いて要約し承認しつつ 76、不況から好況へ転じる 点を問題にした。低金利は十分ではなく 77、ホートレーが描くほど、不況から の回復は自動的ではない。第3に、大蔵省見解への批判が実務的困難からでは なく、理論的反駁から来ている。ベヴァリッジは雇用に向かう支出は固定され ているのではなく成長しているので、「公共支出は民間と同じく失業を減らせ る」 78と論じた。特に大恐慌で商工業者が麻痺している時に、適切に利益のあ るように計算された公共事業は信用創造を増加させる。資源を遊休のままにし ておく 79ことはできない。結論として、大蔵省の「ドグマは 明らかに不適切 である」 80。ベヴァリッジは 1920 年代に景気循環の最新理論を摂取し、不況 時には整備された公共事業が必要とした。同時にピグー 81・ロビンズ等から賃 金パラメータの市場清算機能という思考も獲得した。さらに、この両者を一気 に昇華する方法として、市場の組織化(流動性の回復)がある。「労働市場の 72 BP 2b-29、ベヴァリッジからチャーチルへ。1930 年2月5日。 Beveridge (1930: 369)。 74 Beveridge (1930: 400)。 75 BP 2b-26。リューリンスミスへの手紙、1927 年4月 26 日。 76 Beveridge (1930: 329)。 77 Beveridge (1930: 331)。 78 Beveridge (1930: 414)。 79 Beveridge (1930: 416)。 80 Beveridge (1930: 414)。 81 ベヴァリッジは再びピグー『失業』(1913)の結論に触れている。その結論 とは「失業はすべて賃金率と需要との調整不良が起こす」という説明である。 ベヴァリッジはこの部分を景気循環や労働の質などの要因を無視したものと批 判している。Beveridge (1930: 371, note1)。 73 24 効率的な組織化は、20 年前よりも今日の方がより必要となっている」 82。ベヴ ァリッジにとって 1908 年や 1911 年の法案は誤っていなかった。それが大き な成功を収めなかったのは、思考が間違っていたからではなく、正しく実行さ れなかったからである 83。戦後の大混乱という新しい要因が加わったものの、 あるいはそれゆえ、なおいっそうの完全な労働市場が望まれたのである。労働 市場効率化の助けとなる限りで、裁量的な公共事業計画も賃金の伸縮性も同時 に望まれた。ここに両者の併存という──1930 年前後の──ベヴァリッジの 大きな特徴が伺える。 価格パラメータへの盲信は『関税』(1931)にも伺える。ケインズがマクミ ラン委員会報告書(1931)で保護貿易を有力な視野に入れた時、ベヴァリッジ はロビンズに説得されて自由貿易を守る報告書を書き上げた。失業は4つの原 因からなる 84 。労働市場の未組織化(若年労働者の誤導・季節的変動・循環的 変動・産業構造の変化)、戦後期の特殊な損失、1930 年の大不況、失業保険の 拡大という行政的な要因である。特に最初の3つを解決する手段として、保護 主義は不適切である。結局、失業は硬直性を原因とする 85。貨幣賃金の下方硬 直が典型例である。経済体制の中で柔軟であるべきものが硬直化し、不均衡を 作っている 86 。需要と供給は長期には調整され、生産は諸価格の動きのみに先 導されるのである。以上のように要約される議論は、ロビンズやヒックスの高 度な国際経済学に裏打ちされていた。ベヴァリッジは明らかにその内容につい ていけず、独自性を発揮できなかった。 改訂版『失業』と『関税』は失業に関して、専門的経済学者とベヴァリッジ の手法・発想が完全に分裂しつつあることを象徴している。前者はあくまで価 格の一般理論をコアとして、価格調整という需給分析を労働市場に応用してい るだけである。他方、ベヴァリッジはその技法にも共感を持ちつつ、なお労働 市場の独自性(未組織化の現状と政府による秩序導入、失業保険との連結 87) 82 Beveridge (1930: 402)。 「1909 年の建設的な主要政策──労働市場の組織 化──はかつてよりもさらに確実に基金に必要である。」Beveridge (1930: 406)。 83 Beveridge (1930: 401)。 84 Beveridge (1931b: 62-63)。 85 Beveridge (1931b: 72)。 86 Beveridge (1931b: 240)。 87 『失業の原因および治療』(1931)の現状認識も参考になる。20 年間に失業 25 を忘れない。皮肉にも自由市場の機能が最も疑問視される時期の 1930 年代初 頭、ベヴァリッジは最も賃金パラメータの働きに惹き付けられていた。その反 動として 1932 年以後、ベヴァリッジはロビンズの理論的影響力を拒絶する。 そして再び統制的な思考を強めていく。 3-2 民主主義下の計画? 1932 年頃から 35 年頃のベヴァリッジの立場は虚無主義とでも形容したい。 1932 年に自由市場に対する懐疑が現れた88。通貨危機・金本位制再離脱・改善 しない雇用など、大不況の深刻化が一因である。同年にウエッブ夫妻がソビエ ト視察旅行から帰還して以来、彼らは計画化の熱狂的な支持者となった。長年 の友人であるベヴァリッジは常にその熱狂に晒されていたが、最後まで社会主 義の計画化を盲信することはなかった。むしろ完全な社会主義と完全な自由放 任主義は、どちらも放棄するという立場であった。さらに当初はケインズらの 立場である集産主義的自由主義という中間的な立場も拒絶した 89 。つまりこの 時期はどの立場にも懐疑があり、揺れ動く黎明期であった。 この立場は「ソビエト共産主義」(1936)という題の論文に最もよく現れて いる。ソビエトの実験は5つの複合的な革命である。技術的・経済的・政治的・ 宗教的・家庭的という形容の革命である 90。経済的革命とは価格メカニズムを 廃止することである 91。政治的革命とは議会制民主主義を捨てたことである。 もしソ連の実験が国家による無制限の労働需要創出(投資と国防)ならば、 大量失業は資本主義の中でも──特に戦時には──解決できる。つまり大量失 業の持続は資本主義に内在する欠陥ではなく、イギリスの歴代政府が機能不全 に陥っていたためなのである 92。ベヴァリッジは懐疑し、ソビエトの体制にも イギリスの体制にも満足しない。ソビエト当局は議会制民主主義を破壊し、し かも経済問題を熟知していない。イギリスの戦後歴代の内閣は、政府機能の適 切な発揮に失敗してきた。中央当局による生産・分配の制御は可能である、と 保険の性格は完全に変わり、拠出とは無関係の永続的な救済体制になってしま った。Beveridge (1931a: 42)。 88 Harris (1997: 314)。 89 Booth & Pack (1985: 157)。 90 Beveridge (1936b: 347)。 91 Beveridge (1936b: 348)。 92 Beveridge (1936b: 366)。 26 ベヴァリッジは認めつつあった。ただしそれはイギリス議会主義の伝統の中で 行われなければならない。そして計画の担い手も経済問題を十分よく知ってい なければならない。ここに経済参謀の設立意義が出てくる 93。この主体によっ て純粋な価格メカニズム以上に効率的な配分──貨幣的攪乱を避け、所得の平 等化を行い、労使の協調を目指すこと──が可能であれば、自由主義の欠陥を 乗り越えることができる。しかしこの体制とソビエト社会主義はどこが異なる のか。ベヴァリッジは独裁制の有無を指摘する。圧制という政治上の欠点は、 経済的効率性の長所を覆い隠してしまうのであった。ベヴァリッジは 1935 年 の時点で、非常に悲観的である。価格メカニズムと計画化の併存は「不可能で はないかと不安な気持ちになる」94。 しかし 1937 年には戦争の可能性が高まったこともあり、今度は計画化が不 可欠であると確信するようになった。「民主主義下の計画化」(1937)では、計 画化と経済参謀が直接に結び付いた。民主主義下の計画化は水面下の息継ぎの ようなものである。息継ぎ(計画化)なしにはやっていけない。同時に水(民 主主義)を除去することもできない(独裁者は水を除去しようとしている)。 もしこの状況が不可避ならば、水面下で息を継ぐ方法を習わなくてはいけない。 それには協調された見解と予測を行う機関、つまり経済参謀が必要である 95。 ナチスの脅威が具体化したこの段階で、非常大権を持つ経済参謀こそが救世主 として96、民主主義を壊さない(なぜならば最終決定は首相・内閣にあるから) で経済的困難を解決する手段だとベヴァリッジは確信した。「経済参謀」とは 単なる経済助言に留まらず、包括的計画化の担い手に昇格したと言えるだろう。 戦争が始まるとベヴァリッジはさらに強力な国家管理が必要と考え、1939 年 10 月には再び経済参謀と戦時内閣が必要だとキャンペーンを張った97。 この時期の仕事として失業保険法定委員会の議長(1935-45)を挙げておこ う。この委員会があたかも「経済参謀」の実現例とみなせるからである。ベヴ 93 ベヴァリッジは自分が関与していない経済諮問会議を経済参謀とはみなして いない。Beveridge (1935a: 58)。 94 Beveridge (1935b: 93)。 95 Beveridge (1937: 143)。 96 「ベヴァリッジにとって経済参謀の創設は、政治家が体現している耄碌・不 適切さ・近視眼について、一刀両断する本質的な手段であった」 (Booth & Pack 1985: 162) 。 97 Addison (1977: 64)。 27 ァリッジ自身、この委員会を「全く新しい型の政府の機関」であり、 「事実上、 常設の失業保険に関する王立委員会」 98であるという自負を持っていた。そし て 10 年間(1934-1944)の議長職に就いている間、ベヴァリッジはこの委員 会を単なる年報を発表する機関から、「公共財政に関連する失業の全問題に関 して、長期の政策形成集団に 変更した」 99のである。つまり委員会は当初、 失業保険基金の需給バランスを大臣に報告するだけの義務を負っていた。しか しベヴァリッジはこの委員会の潜在能力に気付いた。そして失業のトレンドを 予測し、不況時に備えて基金を貯めておく自由度を獲得したのである。中期に 渡る均衡財政主義であるとも言えるが、別の面では失業給付を不況緩和の手段 として積極的に用いたとも言える100。いずれにせよ、当初の目的をベヴァリッ ジがかなり拡大解釈して、基礎データ収集や政策助言というより、長期的経済 計画の立案・実行を行ったことになる。ある意味で、ベヴァリッジ自身が「経 済参謀」そのもの──しかもその拡張版──に昇華した。失業保険法定委員会 での経験は、次のベヴァリッジ委員会でも遺憾なく発揮されることになる。 3-3 様々な協調的計画案 管理された経済という命題はひとり自由党や労働党の陣営ばかりでなく、保 守党陣営からも新しい思想運動を生み出した101。その典型例としてマクミラン (ケインズの出版元、後の首相 1956-63)、モンド∼ターナー協議、モズリー を挙げておく。 ベリオール出身のマクミランは保守党に席を置きながら、社会改革の情熱に 燃えていた。その結果がまず『産業と国家』(1927)に結実した。本書は自由 党の『イギリス産業の未来』(1928)と多くの共通点を持つ。例えば中道の推 進、国民的利益への傾斜、産業合理化問題、国家の経済介入の必要性102などで ある。国民的利益は 1920 年代にケインズが傾斜していったように、国内均衡 98 Stocks (1970: 167)。メアリー=ストックスは当時、王立委員会などで必ず 選ばれる「審議会の婦人」statutory women の1人である。Stocks (1970: 165)。 ラスボーンと共に家族手当基金協会の1人として活躍した。 99 Stocks (1970: 168)。 100 Harris (1997: 347)。 101 Booth & Pack (1985: Chapter 3)に詳しい。 102 その際に、経済委員 an Economic Staff の重要性も述べられている。 Macmillan et.al. (1927: 62)。 28 を優先する主張であり、労使協調を国家的ルールで実現することである。次い で『再建』(1933)の出版や「次の5年」集団103の結成(1934)で、労使を調 停するための第三者的な「経済参謀」もますます必要とされた。さらに『中道』 (1938)はケインズの『一般理論』(1936)に依拠しつつ、有効需要不足を拡 大財政、最低賃金制度の確立 104、分配の平等化によって解消すべきと論じた。 特に最低限の生存賃金や基礎食品の配給がラウントリーの調査に依拠しつつ提 唱されている。以上のような「革新的」計画は自由党の場合と同じく、政治的 な多数を惹き付けることはなかった。しかしこれらの案はベヴァリッジやケイ ンズの意識とかなり共通しており、党派を超えて似たような「計画化」が推進 されていたことがわかる。その際、基本となる線は民主的な政治手続きと経済 的な私有財産制の固執であった。これがファシズムでも社会主義でもない「計 画化」の基本原則であった。実際、チャーチル首相の下で住宅相になったマク ミランは、30 万個の新規住宅を建てて称賛された。彼は「住宅は保守主義でも 社会主義でもない。人間性の問題である」105という言葉を残している。 このようなマクミランの協調路線に対し、3つの付随的な例を挙げておこう。 第1はモンド∼ターナー会談(1928-)である。イギリス唯一の全国全産業一 斉ストライキとなった 1926 年の惨事は、逆に労使歩み寄りのきっかけともな った。そこで労使代表が会談を重ね報告書を出すことにより、「国民的利益」 の一致を演出することになった。そこでは労働者に過酷な賃下げや解職を濫用 しないかわりに、労働者も過激な活動は控えて合理化運動に協力するという合 意がなされた。第2はマクミラン委員会(1929-31)での「ケインズ∼マッケ ンナ∼ベヴィン同盟」106である。ベヴィン(後の労働相・外相)は組合幹部と して 1926 年全ネストの敗北後、労働側に経済学的思考を痛感していた。マッ 103 労資協調の政策を実現する集団。その報告書では経済参謀の設置が提唱さ れた。Macmillan et.al. (1935: 18)。起草委員はマクミラン・ソルター・フォ スター・ブラウン。報告書の署名者にはブラケット・ホブソン・レイトン・ラ スボーン・ラウントリー・ヤングなど、広範な陣営から 152 人を数える。 104 最低賃金は社会正義のためだけでなく、安定化要因のために必要。有効需 要を支えるからである。Macmillan (1938: 302)。 105 http://www.number-10.gov.uk/output/page131.asp。他方、ベヴァリ ッジはマクミランを「三流の公務員」と罵ってこの計画を軽蔑した。Harris (1997: 463)。住宅政策に関する自らの関与が拒絶されていたからである。 106 Clarke (1988: 120)の表現。マッケンナについては神武(1991: 160-166) 、 モズリーについては神武(1991: 166-199)に詳しい。 29 ケンナはアスキス時代に大臣を歴任した後、ミッドランド銀行総裁になってい た。シティの内部者としては異例だが、金融の不安定性をイギリスの経済問題 の本質とみていた。この三者はマクミラン委員会で支配的な委員として活躍し、 国民的利益・産業(非金融)側と労働側の協調・財政拡大を推進していた。第 3はモズリーである。彼は社会主義者として出発し様々な革新的アイデアを抱 えながら、最後はファシズムに走った。『理性による革命』(1925)で有効需要 不足を克服するための高賃金を提唱した。不足を満たす計画を遂行する「経済 委員会」Economic Council に経済的権力を与えるという案もあった。マクド ナルド内閣で入閣して失業問題に着手したが、その案が認められず辞任して新 党を結成する。既にモズリーの関心はイタリア型の「協同国家」corporate State に移り、この国家機関ですべて翼賛的に利害調整がなされることを願った。そ の目的に適わない既存の制度はすべて破壊する必要がある。この運動は帝国内 の孤立的繁栄を目指す点でチェンバレンの「関税改革運動」(1903)の最終版 とも言える。マクミランを軸にしてモズリーを語る時、経済的危機を乗り切る という目的のため、民主主義的な手続きを犠牲にするかどうかに焦点がある。 ベヴァリッジの経済参謀概念も経済計画の集中管理という面があり、モズリー との差を明らかにしておかなければならないだろう。 第4節 福祉国家理念の誕生 平和への希求にもかかわらず、再び世界大戦が勃発した。第一次大戦の時も そうであったように、戦時(連立)内閣において戦後運営のための委員会が次々 と発足した。ベヴァリッジは呼応して 1940 年代に3つの公的・私的報告書を 勧告した。その報告書の理念はイギリスを越えて、全世界に広がっていった。 4-1 真の社会保険の登場 ベヴァリッジ委員会が設置された理由は大別して2つある。第1にアイルラ ンド問題の暫定解決(1922) 、男女平等の普通選挙の実施(1928)によって 19 世紀全般を揺るがしていた政治的動乱にひとまず終止符が打たれた。これによ ってイギリスは全市民が参加しうる民主主義制度を確立していたのである。市 民の大部分を占める労働者に向けて、戦争目的をはっきりさせる必要があった。 第2に 1940 年来、ダンケルクでの英仏軍撤退(1940.5-6)など、戦局が急速 30 に緊迫化し、自由社会の崩壊が目前に迫ってきたように感じられたのである。 ここでもイデオロギー対立を一時休戦し、戦争勝利という単一目標が必要にな った。おりしも 1936 年の第二回ヨーク調査が『進歩と貧困』1941 として発表 された。低賃金による貧困問題というより、失業や児童・老齢者の食糧不足に よる貧困問題が浮き彫りになっていた。疎開によって児童の窮乏がいっそう明 らかになった面もあった。 戦争目的を起草する試みはいくつかなされた。例えば歴史家トインビーは委 嘱されて「平和・自由・繁栄の追求」という基本線を 1940 年に起草した 107。 また無任所大臣グリーンウッドの戦後再建問題委員会が 1941 年1月に発足し たことも重要である。アメリカとの同盟では、1941 年8月に大西洋憲章が協 同署名された。いずれも戦後の国内および国際秩序を高らかに謳う目的であっ た。この大枠で、まずは労働者が最も不満に思っていた労働補償に関する調査 を始める必要が出てきた。同時に家族手当の拡充に対するロビー活動も活発化 していた 108 。具体的には「社会保険および関連サービス(複数)」を検討する 省庁間委員会が 1941 年6月に設立宣言された。議長はベヴァリッジが指名さ れ、各官庁の中堅官吏が委員となり、経済学に精通するチェスターが秘書とな った。 『ベヴァリッジ報告』(1942)は包括的・野心的な社会設計計画である。そ の計画はすべての事象に目を配りながら、濃淡が付けられた対策群がひとまと まりになっている。ベヴァリッジはまず人類の五大悪を分類する。窮乏 Want 疾病 Disease、無知 Ignorance、陋隘(不潔)Squalor、無為(怠惰)Idleness である 109。それぞれ別の手段を用いて巨悪を倒すべきなのだが、その中で最大 のかつ絶滅させ易い悪徳が窮乏である。ゆえに国家は「窮乏からの自由」を第 一目標とする 110。この窮乏を根絶する手法は社会保障である。社会保障とは具 体的に、収入の中断・稼得力の喪失・特別支出の時に、最低限度の所得が保証 されることであり、できるだけ速やかに所得の中断を終わらせるように措置を 講じることである 111。そして社会保障の具体的手段として社会保険が推奨され る。ただし社会保険が機能するために、(1)児童手当、(2)包括的医療サービス、 107 毛利(1990: 196-197) 。このトインビーは「使徒」アーノルドの甥。 毛利(1990: 199) 。 109 Beveridge (1942: 170, para.456)。 110 Beveridge (1942: 7, para.11)。 108 31 (3)完全雇用 が前提とされなければならない112。(1)は 15 歳または 16 歳以下 の児童に対して支給される。賃金が夫の労働に専ら基づいている限り、大家族 は相対的に窮乏化する。そこで社会保険とは別枠で児童手当が必要になる。(2) は疾病の予防・治療および労働能力の回復であり、できるだけ速やかに労働市 場に市民を戻すことを目的とする。失業は最悪の浪費形態だからである。(3)は 長期の失業に権利としての無条件現金支給を行うことは、道義心を低下させる ために好ましくないという判断である。社会保険による所得保障は人間の幸福 には不十分であり、完全雇用という平等の機会がなければ、この原則を貫けな い。 この前提の下、次の3つを統合させた制度が社会保障体制となる。第1に主 として、基本的必需物 needs に対する社会保険である。これは強制的な拠出原 則を持つ。保険料の拠出と引き替えに、市民全員が最低限生活水準 subsistence まで所得保障を権利として持つことになる。この水準はラウントリー・ボーレ イ等の外部専門委員によって具体的に算定された。社会保険を実行するために 次の6つの原則を守るべきである。同一給付(最低生活費)、同一拠出(保険 料)、行政責任の統一、適正な給付額、包括性、被保険者の分類である 113 。第 2に従として、特殊ケースに対する公的扶助である。これは国家助成であるが、 資力調査を経た後に支給される。第3に補完として、基本的な措置に付加する 私的貯蓄の奨励である。これは自助努力の働く余地を残し、最低限生活の上に は自由に生活設計できることである。以上の理念は3つの指導原則に支えられ ている。第1に、既存の制度を踏まえつつ、それに拘束されない包括性も必要 である。第2に、社会保険は社会の進歩のために必要な政策(所得保障)の一 部である。第3に、社会保障は国家と個人の協力によって達成されるべきであ る。ただし行動意欲や機会や責任感を抑圧してはならない。また国民最低限保 障 a national minimum を決める際、その最低限以上の備えを自発的に行う余 地を残し、さらにそれを奨励すべきである114。 ベヴァリッジの計画は20世紀初頭から続く福祉政策の集大成であると共に、 大きな断絶も抱えている。一連の「自由主義(党)の改革」以来、救貧法は事 111 Beveridge (1942: 120, para.300)。 Beveridge (1942: 120, para.301)。 113 Beveridge (1942: 9, para.17)。 114 Beveridge (1942: 6-7, para.9)。 112 32 実上停止状態にあり、老齢者・児童・失業者・寡婦は実質上の国家給付を個別 に受けられるようになっていた。ベヴァリッジ計画はその国家給付を正当化し た。言わば意図せざる福祉給付を、計画された福祉体制に改めたのである。こ こに歴史的な連続性はある。しかし包括的一元管理という点で、この計画は大 いなる断絶がある。ベヴァリッジ自身を含め、今までの体制は個別産業・個別 事象に対応する拠出∼給付体系だった。あるいは無原則の現金給付になってい た。ベヴァリッジ計画はそれを改め、市民を完全平等に扱い、全国民が同一拠 出・同一給付を一元的に行うという国家体系にしたのである。もちろんリスク は異なるから、この一元化は国民最低限保障115というよりは最低限生活費のみ の保障にならざるを得ない。その上は個人の自発的行動に任されている。この 意味で自由な経済体制と計画された福祉体制の混合となった。しかしその混 合・結合は可能かどうかを吟味する必要があった。 4-2 完全雇用との結合 次いでベヴァリッジは私的報告書『自由経済における完全雇用』(1944)を 発表した。3人の匿名寄付者と6人の匿名私的委員の援助を受けた。本書の成 立事情は複雑である。公式文書『ベヴァリッジ報告』は戦闘に集中したいチャ ーチルとの軋轢を生み、かろうじて議長1人の署名として公表されたのだった。 その後、ベヴァリッジの関心が前提の1つである完全雇用に向かった時、内閣 はベヴァリッジとの接触禁止令を出し 116、人的・金銭的な援助を拒絶したので ある。このような抑圧の中で書かれた憤り 117が本書の基調にある。ただし既に ベヴァリッジには仲間がいた。第一次世界大戦中に官吏として活躍しながら、 現在無役な人々がいた。ケインズ・ソルター・レイトン・ヘンダーソン 118であ 115 保障の単位は家族である。夫が賃金労働で稼ぎ、妻が専業主婦で、養育す る児童がいるという標準的な家族を想定していた。稼ぎ手の夫が存在しない場 合や出産に係る場合は、寡婦手当や出産一時金が準備されていた。 116 Beveridge (1955: 330)、ケインズも禁止命令に従った。 117 「我が国のためになるならば、私には用意がある」という決意は、チャーチ ルに無視された。BP 2B-39、1940 年5月 23 日(ベヴァリッジからチャーチ ルへの手紙)。ベアトリスは彼が意気消沈しているのは、政府に無視されてい るのが主因と看破していた。Beatrice Webb Diary, British Library of Political and Economic Science (LSE)。 118 ヘンダーソンは既に大蔵省顧問だった。ケインズも次に大蔵省顧問になる。 33 る。「古強者」the Old Dogs と名付けられた119人々は、ケインズの家で 1939 年以来会合を重ね、政府の対応が鈍いことを批判していた。さらに『ベヴァリ ッジ報告』はケインズやミードによる財政的側面の議論に支援されていた。ケ インズとの協同に機が熟していたのである 120。オックスフォード大学での会合 などをきっかけに、1943 年には完全雇用に関する関心が全面に出てきた。ジ ョーン=ロビンソン、カルドア、シューマッハなど若き俊英が私的報告書の草 案を作った。この3人はすべて当時、ケインズの影響を多大に受けてその理論 普及を目指していた。同時に、ミードを中心に戦後の雇用問題に対する政府の 会合も 1943 年には始まっていた121。 『自由社会における完全雇用』は単にベヴァリッジによるケインズ理論の受 容を意味するだけでなく、彼の理想とする社会観を含んでいる。ケインズ理論 の受容とは有効需要の喚起による完全雇用の実現である。ベヴァリッジは失業 の診断を3つに分けた122。有効需要の全体的な不足、有効需要が誤導されて求 人に向かわない場合、産業が労働の予備を過剰に抱えたり労働の移動が妨げら れる場合である。この中で有効需要不足が最も深刻である。雇用は支出に依存 する。総支出が労働需要を十分にするほどでないと、完全雇用は達成不可能で ある123。また二重予算 double budget という考え方を取り入れる。通常予算 は毎年均衡させるべきで、税から支出を賄う。しかし非通常予算は好況時の基 金から供出して、失業を克服するために緊急に使われる124。以上の分析はすべ てケインズ的である。さらにこの完全雇用政策はイギリスの伝統である「本質 的自由」を侵害しないし、人間の尊厳を守る。 「本質的自由」とは言論・信条・ 結社・教育・政府の平和的変更・職業選択・個人所得の管理などの自由である 125 。配給や強制労働は含まない。これらの自由は完全雇用という目標よりも貴 119 ケインズの自称。BP 2b-39、1940 年4月 15 日(ケインズからベヴァリッ ジへの手紙)。Beveridge (1955: 268)も参照。 120 詳しくは平井(2003: 745-753)を参照。 121 CW27 (1980: 333)。 122 Beveridge (1945/1944: 24, para.20)。 123 Beveridge (1945/1944: 134, para.180)。1909 年の診断では、第3の要素 が最重要だった。 124 Beveridge (1945/1944: 181, para.249)。ケインズも同様に、通常予算と 資本予算の二本立てを提唱する。CW27 (1980: 225)。 125 Beveridge (1945/1944: 21, para.11)。 34 重なのであり、本質的自由に付随する他の自由も尊重されなければならない126。 全体主義による完全雇用の提供をきっぱりと拒絶するのである。また予算は金 銭ではなく、人力 man-power によって作られなくてはいけない。「人間予算」 human budget になる必要がある127。完全雇用とは単に求職数より求人数が多 いことを意味するのではない。たとえ失業したとしても短期間で、公正な賃金 の下ですぐに雇用が見つかることである128。たとえ保険などで所得が保障され ていても、失業は無為を生み、望まれていないという感情を生む 129。道徳的退 廃を生まないように、短期間の失業保険の覆いで仕事に復帰できるのが完全雇 用である130。摩擦的失業は含むが、構造的失業は含まない。 政府はベヴァリッジの私的報告書と競うような形で、『雇用政策』白書を先 だって公表していた。そこでは「高度で安定的な雇用」が国家目標であると明 言され、ケインズの需要管理の思想も包含していた。ベヴァリッジはアメリカ 版あとがきで政府白書に触れ、ついに経済参謀がここにある、すばらしい成果 だと激賞した131。政府は既にスタンプ調査(1939)を発展解消して内閣経済部 を発足させていたが、ベヴァリッジはまだ大いに不満だったのである。1943 年に政府が「政府機能における経済学者の役割」と題する報告書を出す際、ベ ヴァリッジの証言も聞いたが、完全に無視された 132。そのわずか2年後、ベヴ ァリッジの評価は 180 度変わったのである。雇用の安定化宣言がいかに彼にと って大事かがわかる。 『自由社会における完全雇用』でベヴァリッジは、ケインズの管理経済論と 自らの社会保障論を「自由社会」という大枠の中で結び付けた。社会保障によ って有効需要が確保され、有効需要が喚起されれば社会保障に回せる余裕資金 も拡大する。両者は不可分である。しかし完全雇用政策は大いなる目標でもあ るが、より本質的にはイギリスの伝統が育んできた「本質的自由」と両立し、 人々の道徳的退廃を予防する目的と合致するものであった。この報告書でケイ 126 Beveridge (1945/1944: 36, para.44)。 Beveridge (1945/1944: 136, para.182)。 128 Beveridge (1945/1944: 18, para.4)。 129 Beveridge (1945/1944: 19, para.5)。扉の語句「悲惨さは憎悪を生む」 。 130 Beveridge (1945/1944: 20, para.7)。 131 Beveridge (1945/1944: 260)。 132 政府はベヴァリッジの経済参謀案が強大な権限が多く、議会制民主主義に 抵触すると考えた。 127 35 ンズ理論と結び付けることで、経済政策と社会政策の結合という国家目標が完 成した。唯一残されたのは、このような自由経済社会に生きる個人の規範的目 標である。 4-3 自発的活動への回帰 ベヴァリッジにはまだ問題にすべき領域が残っていた。それが第3の『自発 的活動:社会進歩の方法に関する報告書』(1948)である。本書は国民貯蓄友 愛組合の資金援助によって成立した。そのため、多くの部分はこの団体の歴史 と機能を叙述している。先の2つの報告書では、一般的な市民および国家のな すべき政策に議論を集中させていた。ベヴァリッジの意図はそのため抜けてい た「非典型的な少数派に対する基本的必需物 needs」にも目を配り、しかも個 人のなすべき行動を記述することであった。ここにおいてベヴァリッジの「自 由社会」における社会規範は完成した。 社会進歩は国家の行動と個人の行動を含む。これまでの報告書は専ら国家の 規範的行動を扱ってきた。本書では個人が何をすべきか、国家は個人に自由と 責任を最大限にどのように保障できるかを扱う。ただし公的な目的(社会進歩) に適った個人行動である。自発的活動 voluntary action とは政府の管理下に ない私的な行動を指す。必ずしも無償ということでなく、有償でも外側からの 制御がない行動である。公的組織と自発的組織の協調こそが、イギリスの公的 生活の特徴であった。そこで特に相互扶助 mutual aid と博愛 philanthropy と いう行動に絞る。前者は不幸に対抗して安全を確保するための登録制の自発団 体である。後者は他人の幸せのために行動する動機からである。物質的に自分 が満足していても、隣人が満足していなければ自分も精神的に満足することは ない。これらの活動が必要なのは、社会保障制度や完全雇用体制によっても、 なお対処できない不幸が残っているためである 133。例えば遺棄され虐待された 児童、心身障害者、慢性的疾患者、未婚の母と子、釈放された元受刑者、不幸 な家庭の主婦などである 134。この不幸に対処しているのはむしろ民間の自発的 団体であった。 こうした状況において、国家の活動と個人の活動は双方向で補完的になるべ きである。「自由社会の顕著な目印は、自分自身および仲間の生活を良くする 133 134 Beveridge (1948: 321)。 Beveridge (1948: 226)。 36 ために、自分の家庭以外の自発的活動が活発かつ豊富であることである」135と いう社会が望ましい。それには「2回の世界大戦によって中断され、その結果 ...... 停滞していた文明の進歩を、人間性が取り戻せる唯一の条件は、権 利の確認よ ............. りもむしろ義務の強調である」136。良き社会は国家ではなく市民に依存する137。 そのために相互扶助や博愛といった自発的活動がむしろ内的な義務になる。他 方、自発的活動を促進させるのが公共政策の原則である。「国家は国家だけが できること、すなわち金を運営して支出を維持することだけをなすべきである。 ここを守り、国家はできるだけ多くの市民たちに創意・起業の余地を残すべき である」 138。そのため、結論として次のような勧告がなされる139。自治を損な わせない条件で国庫補助金を拡大すること(大学はその成功した例である)。 慈善信託 140charitable trust に関する王立委員会を開催すること。友愛組合法 を制定すること(定義の見直し)。専門家を訓練・養成すること。大蔵省(補 助金行政)ではなく、枢密院議長が自発的活動に目を配ること。政府を完全に 民主的に動かし、法律によって社会的安定を確保し、実際に完全雇用を達成し た時に、もし今よりも生活が良くなっていないとしたらなぜか。それは社会的 良心が発揮されるような自発的活動が不十分だからである。最初にやるべきこ とを最初にやる。そうすれば人間社会は1つの友愛組合のようになるだろう。 共通の目的で各人が結びつけば141。 結語 ベヴァリッジの失業・福祉問題に関する独自性を3つ挙げておこう。 第1に、経済官僚として、新しい経済学的知の形成に貢献したことである。 1850 年以来整えられてきたイギリスの公務員制度は、清貧・服従・無名を心 がけ、中立性を基準としていた 142。グラッドストーン時代の清廉さは、均衡財 135 Beveridge (1948: 10)。 Beveridge (1948: 14)、圏点イタリック。 137 Beveridge (1948: 320)。 138 Beveridge (1948: 319)。 139 Beveridge (1948: 308)、本文の分類がすべてではない。 140 ベヴァリッジは指摘していないが、シーボーム=ラウントリーの父ジョセ フがこの領域の先駆者である。 141 Beveridge (1948: 324)。 142 下條(1995: 26)はこの分類をベヴァリッジによるとしているが、原典は 確認できなかった。 136 37 政・金本位制の堅持という点で 20 世紀に入ってからも大蔵官僚に受け継がれ ていた。しかし労働問題を扱う商務省では、むしろ黒子としての官僚像が崩れ ていく。ベヴァリッジが典型であったように、「見えない存在」であるはずの 官僚が社会改革熱という思想群の中で、次々と革新的なアイデアを提出し、や がて富143と名声を確立していくのである。なるほど彼は 1919 年に公務員を辞 任するが、その後の人生も常に政府による公的職務と接触していたのである。 前世紀までの経済思想は、商人・資本家・労働者などの活動的側面を記述した り擁護していた。それに対しベヴァリッジはそうした民間活動人から一歩距離 をおき中立を装いながら、なお経済活動全般に競売人として積極的に関わって いくという非中立的な行動を示している。競売人とは市場の清算を積極的に押 し進める役目を持ち、通常は「見えざる手」として存在が隠されている。しか しベヴァリッジの思考ではこの役目は「経済参謀」こそが担うべきだった。そ の活動動機は強い公共心や道徳観からではなく、社会科学の中での「科学性」 という新しい武器からであった。彼はこうした新しい経済学的知の体系を、理 論的にも実践的に構築したのである。 第2に、労働市場とそれを取り巻く社会環境を捉える仕方が動態的である。 初期において、ベヴァリッジは他とはいったん隔絶した人工的な労働市場の構 築に腐心した。これが個人の技量や道徳性を排除した失業問題の把握である。 ここでは景気変動に晒されるごく普通の市民が分析対象である。その市民の貧 困に力点があるというより、貧困をもたらす雇用の非持続性(臨時雇用)に関 心が集まっていた。そこで求人・求職の意志疎通を密にさせるような労働交換 所を設置し、完全な労働市場が求められた。そこに付随する形で、失業保険が 貧困の緩和目的で導入された。しかし現実には、従の存在であった失業保険制 度が主役に躍り出た 144。拠出を前提とする保険原則から逸脱し、無定型な「施 し」として国家給付になったのである。逆に 1920 年代は産業構造の硬直化に 見られるように、完全な労働市場の創出にはほど遠かった。ベヴァリッジの関 心事も徐々に失業保険の再構築に向かった。その頂点が『ベヴァリッジ報告』 143 ベヴァリッジの大きな関心は、自身の給料や年金であった。例えば Beveridge (1955: 72-73, 241-242)。 144 「失業保険が名を残し本質を変えたのに対し、交換所は本質を残しながら 名を変えたのである」(Beveridge 1930: 295) 。1916 年から労働交換所は雇用 交換所と名称変更された。おそらく労働という言葉が過激な労働運動を想起さ せるためであろう。 38 での社会保険計画である。ここでは拠出原則を貫きながら、最低限生存水準を 保障するという二重性を実現している。その後、この福祉体系にケインズ的な 完全雇用体系を接合させた。1940 年代中葉になって福祉の問題と失業の問題 が統一体系で包括されたのである。このようにベヴァリッジの視点は、2つの 領域を螺旋が拡大していくように動態的な運動を記録している。 第3に、自由社会における個人の動機という問題に、初期から後期に大きな 回帰運動が伺えることである。初期においてベヴァリッジは個人の動機(能力・ 意欲)に関する議論を徹底的に廃した。失業は産業の問題であるという宣言で ある。このような道徳性の頑なな排除は 20 世紀の科学性に要請されたのであ り、19 世紀の社会改良家やウェッブ夫妻・ラスボーン等と異なる点である。非 効率で不公正な現在の体制を排除するためである。これによって個人の多様性 をいったん棚上げにして、集産主義的な解決方法(画一的な総合計画)を可能 にしたのである。その集大成が社会保障論と完全雇用論の結合であった。しか し最後の段階で、ベヴァリッジは再び福祉の多元的モデルをも視野に入れる。 それが「自発的活動」という分野であった。ここで人々は自治組織である小団 体で相互扶助と博愛を発揮し、政府の施策から抜け落ちる例外的な不幸に対処 する。政府は一般的不幸を根絶させようとしながら、補助金でこれらの団体を 支援する。この段階で個人の動機と政府の活動が完全に結びついた。福祉社会 の完成のためには、必要な回帰であった。 ベヴァリッジの人生はまさに包括的であった。理想主義的社会哲学の摂取、 法律的思考、社会事業家、貧困問題調査家、労働植民地実験家、王立委員会証 言者、省庁局長・次官、学長、政府委員会委員長、一介の社会科学者、王立経 済学会会長、政治家そのすべてを体験した。そして事実観察・理論構成・政策 提言・大衆説得・制度構築というすべての面で、卓越した能力を発揮した。こ の全領域に比類する人物はケインズしかいない。まさに両者が失業と福祉の問 題に一定の解答を与えたのは必然的であった。 39 参考文献 (1)未公開文書 1-1 Public Record Office, Kew, London MUN5/27/263/22, Report of the Machinery of Government Committee, Ministry of Reconstruction, presented to Parliament by Command of His Majesty, Cd. 9230, London: His Majesty's Stationery Office, 1918. PREM 1/70, P. M. C. 10, "Economic General Staff", Notes by Mr. J. M. Keynes, 41-47, 10 December 1929. 1-2 The Beveridge Papers, British Library of Economics and Politics, London School of Economics and Political Science. (2)ベヴァリッジの原典 Beveridge, W.H. (1905) “A National Question”, The Toynbee Record, 75-77, Volume 17, No.5, London: The Toynbee Hall, February 1905. Beveridge, W.H. (1907a) “The Problem of the Unemployed”, Sociological Papers 1906, 323-331, 340-341 Volume 3, London: Macmillan. Beveridge, W.H. (1907b) “Humanisation of the Poor Law: the Workhouse and it's Alternation”, The Morning Post, 21 September 1907. Beveridge, W. H. (1909) Unemployment: A Problem of Industry, London: Longmans, Green and Co. Beveridge, W. H. (1924) Insurance for All and Everything, London: The Daily News Ltd. Beveridge, W. H. (1930) Unemployment: A Problem of Industry (1909 and 1930), London: Longmans, Green and Co. Beveridge, W. H. (1931a) Causes and Cures of Unemployment, Longmans, Green and Co. Beveridge, W. H. (1931b) Tariffs: The Case Examined, by a Committee of Economists under the Chairmanship of Sir William Beveridge, London: Longmans, Green & Co. Beveridge, W. H. (1935a) "An Economic General Staff", 54-58, 5 March 40 1935, in Beveridge (1936a). Beveridge, W. H. (1935b) "Engineers and Economics", 90-93, 4 June 1935, in Beveridge (1936a). Beveridge, W. H. (1936a) Planning under Socialism and other Addresses, London: Longmans, Green and Co. Beveridge, W. H. (1936b) "Soviet Communism", 346-367, Political Quarterly, Vol.7, London: Macmillan Beveridge, W. H. (1942) Social Insurance and Allied Services, London: His Majesty's Stationery Office. Beveridge, W. H. (1943) The Pillars of Security, and other War-Time Essays and Addresses, London: George Allen & Unwin Ltd. Beveridge, W. H. (1945/1944) Full Employment in a Free Society, New York: W. W. Norton & Company. Inc. (First published by Allen &Unwin in 1944). Beveridge, W. H. (1948) Voluntary Action: A Report on Methods of Social Advance, London: George Allen & Unwin Ltd. Beveridge, W. H. (1955) Power and Influence, London: Hodder & Stoughton. 『ベヴァリジ回顧録 強制と説得』伊部英男訳 至誠堂 1975。 (3)一次文献 Alden, P. (1905) The Unemployed: A National Question, London: King & Son. Barnett, S. A. (1919) Canon Barnett: His Life, Work, and Friends, volume 2, Boston & New York: Houghton Mifflin Company. Chester, D. N. (1982) “The Role of Economic Advisers in Government”, 126-159, in Thirlwall (ed.) [1982]. CW20 (1981) The Collected Writings of John Maynard Keynes, Volume 20, Activities 1929-1931, Rethinking Employment and Unemployment Policy, Edited by Donald Moggridge London: Macmillan. CW27 (1980) Activities 1940-1946: Shaping the Post-War World: Employment and Commodities, 1980, 平井俊顕・立脇和夫訳『戦後世 界の形成 雇用と商品─1940∼46 年の諸活動─』東洋経済新報社 1996。 41 Haldane, Richard Burdon [1929] Richard Burdon Haldane: An Autobiography, London: Hodder and Stoughton. Hobhouse, L. T. (1911) Liberalism, London: Thornton Butterworth Limited. Hobson, J. A. (1907) “(The Problem of the Unemployed: A Comment)”, Sociological Papers 1906, 332-33, Volume 3, London: Macmillan. Jevons, W.S. (1887/1882) The State in Relation to Labour, London: Macmillan. Lange, Oskar (1938) On the Economic Theory of Socialism, Minneapolis, USA: The University of Minnesota Press. Llewellyn Smith, H. (1887) Economic Aspects of State Socialism, Oxford: Blackwell. Llewellyn Smith, H. (1910) “Economic Security and Unemployment Insurance”, 513-529, Economic Journal, 20, December 1910. Macmillan, Harold et. al. (1927) Industry and the State: A Conservative View, London: Macmillan. Macmillan, Harold et. al. (1935) The Next Five Years: An Essay in Political Agreement, London: Macmillan. Macmillan, Harold (1938) The Middle Way: A Study of the Problem of Economic and Social Progress in a Free and Democratic Society, London: Macmillan. Marshall, Alfred (1920/1890) Principles of Economics, London: Macmillan. OP (1926) Official Papers by Alfred Marshall, (ed.) J. M. Keynes, London: Macmillan. Pigou, A. C. (1999/1905) Principles and Methods of Industrial Peace, in D. Collard (ed.) A. C. Pigou Collected Economic Writings, Volume 1, London: Macmillan . Pigou, A.C. (1910/1907) “Memorandum on Some Economic Aspect and Effects of Poor Law Relief”, 981-1000, in Appendix, Volume 9, Minutes of Evidence, Royal Commission on the Poor Laws and Relief of Distress, Cd. 5068, London: His Majesty of Stationary Office and 42 Wyman & Sons. Ltd. Polanyi, K. (1957/1944) The Great Transformation, Beacon Paperback Edition, Boston: Beacon Press (First published by New York: Rinehart & Company, Inc., in 1944). 『大転換─市場社会の形成と崩壊─』吉沢 ほか訳 東洋経済新報社 1975。 Rowntree, B. S. & B. Lasker (1911) Unemployment: A Social Study, London: Macmillan. Stocks, Mary (1970) My Commonplace Book, London: Peter Davies. Webb, Sidney and Beatrice (1978) The Letters of Sidney and Beatrice Webb, Volume 2 Pilgrimage 1912-1947, Edited by Norman and Jeanne MacKenzie, Cambridge: Cambridge University Press. (4)二次文献 Addison, Paul [1977/1975] The Road to 1945: British Politics and the Second World War, London: Quartet Books (First published by Jonathan Cape Ltd, London in 1975). Booth, Alan & Melvyn Pack (1985) Employment, Capital and Economic Policy: Great Britan 1918-1939, Oxford: Basil Blackwell. Brown, K. D. (1971) Labour and Unemployment 1900-1914, Newton Abbot, UK: David & Charles Publishers Ltd. Bruce, Maurice (1968/1961) The Coming of the Welfare State, the Fourth Edition, London: B. T. Batsford Ltd. (First published in 1961). Dangerfield (1997/1935) Strange Death of Liberal England, London: Serif (First published by New York: Harrison Smith and Robert Haas). Darnell, Adrian (1981) “A. L. Bowley, 1869-1957”, in D. P. O’Brien & J. R. Presley (ed.) Pioneers of Modern Economics in Britain, London: Macmillan. Fraser, Derek (1984/1973) The Evolution of the British Welfare State, the Second Edition, New York: Palgrave. Garraty, J.A. (1978) Unemployment in History: Economic Thought and Public Policy, New York: Harper & Row, Publishers. Gilbert, Bentley B. (1970) British Social Policy 1914-1939, London: 43 Batsford. Harris, J. (1997) William Beveridge: A Biography, revised paperback edition, Oxford: Oxford University Press, 1997 (First published in 1977). Johnson, Paul Barton (1968) Land Fit for Heroes: The Planning of British Reconstruction, 1916-1919, Chicago: The University of Chicago Press. Komine, Atsushi (2001) “Contemporary Unemployment [1909]: Beveridge’s First Programme”, Niigata Sangyo University Discussion Paper Series, No.22, October 2001. Komine, Atsushi (2002) “Beveridge on Unemployment in 1909: Three Inflows and Outflows”, 27-49, Bulletin of Niigata Sangyo University, Faculty of Economics, No. 25, July 2002、 『新潟産業大学 経済学部紀 要』 。 Komine, Atsushi (2004) “The Making of Beveridge’s Unemployment [1909]: There Concepts Blended”, The European Journal of the History of Economic Thought, 11-2, summer 2004 (forthcoming). Lowe, Rodney (1986) Adjusting to Democracy: The Role of the Ministry of Labour in British Politics 1916-1939, Oxford: Clarendon Press. McBriar, A.M. (1987) An Edwardian Mixed Doubles: The Bosanquets versus the Webbs, A Study in British Social Policy 1890-1929, Oxford: Clarendon Press. Thirlwall, A. P. (ed.) (1982) Keynes as a Policy Adviser: The Fifth Keynes Seminar held at the University of Kent at Canterbury 1980, London: Macmillan. (5)邦語文献 大沢真理(1986) 『イギリス社会政策史─救貧法と福祉国家─』東京大学出版 会。 金子光一(1997) 『ビアトリス・ウェッブの福祉思想』ドメス出版。 神武庸四郎(1991) 『経済思想とナショナリズム─歴史的概観─』青木書店。 小峯敦(2001) 「青年時代のベヴァリッジ─社会事業家からジャーナリストへ 44 ─」 『メディアと経済思想史』Vol.2, 2001 年1月。 小峯敦(2002) 「初期ベヴァリッジの経済思想─独自の失業分析と先行者・同 時代人との関係─」Niigata Sangyo University Discussion Paper Series, No.25, 2002 年5月。 小峯敦(2003a/2002) 「ベヴァリッジにおける経済参謀─経済助言官から包括 的設計家へ─(改訂版)」Niigata Sangyo University Discussion Paper Series, No. 26, revised, 2003 年5月。 小峯敦(2003b) 「1940 年代ヘンダーソンの自由主義─ケインズ・ベヴァリッ ジとの対照─」Niigata Sangyo University Discussion Paper Series, No. 28, 2003 年7月。 小山路男(1978)『西洋社会事業史論』光生館。 下條美智彦(1995) 『イギリスの行政』早稲田大学出版部。 高島進(1998) 『アーノルド・トインビー』大空社。 西沢保(2000)「救貧法から福祉国家へ─世紀転換期の貧困・失業問題と経済学 者・官僚─」 『経済研究所・年報』 (成城大学経済研究所)、75-105、第 13 号、 2000 年4月。 平井俊顕(2003)『ケインズの理論─複合的視座からの研究─』東京大学出版会。 藤井透(1990)「イギリス失業保険の原像─1909 年の商務省失業保険プランを 中心に─」『大原社会問題研究所雑誌』、20-32、No.377、1990 年4月。 本郷亮(2001) 「初期ピグーの再評価─福祉国家論の先駆者として─」『経済学 史学会 年報』第 39 号、2001 年5月。 毛利建三(1990)『イギリス福祉国家の研究─社会保障発達の諸画期─』東京大 学出版会。 45