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﹁徳川三百年の基礎を築いた組織と管理﹂ 三

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﹁徳川三百年の基礎を築いた組織と管理﹂ 三
 と こ ろ が 三 年 後 、 義 元 が 桶 狭 間 の
戦い で 信 長 に 討 た れ る や 、 家 康 は 岡
二人 の 間 に 、 信 康 と 亀 姫 出 生 。
って 人 質 の 家 康 を 下 に 見 る 。 や が て
説が あ る が 政 略 結 婚 。 義 元 の 姪 と あ
は、 同 年、 四・五 歳 上、 十 歳 上 と 諸
婚。 瀬 名 の 母 は 今 川 義 元 の 妹 、 年 齢
広の 娘 、 瀬 名 姫 ( 後 の 築 山 殿 ) と 結
今川の人質家康(当時は松平元康)
は、 十 五 歳 の 時 、 今 川 家 一 門 関 口 義
の娘とあればなおさらのこと。今川
仲、ただでさえむつかしいのに、仇
の娘徳姫が九歳同志で結婚。嫁姑の
せない。さらに息子の信康と、信長
築山にしてみれば、伯父義元の仇
討ちどころか、同盟を結ぶなんて許
ようになる。
わせたところから築山殿と呼ばれる
ず、城近くの築山に御殿を築き住ま
今川家一門の瀬名を岡崎城へは入れ
子を岡崎へ。しかし信長に遠慮して
の養子になった結城秀康。酷い顔を
かって産まれたのが、後に豊臣秀吉
け、そのため双子の一人は死産、助
の深夜素っ裸にして縛り上げ痛めつ
んに怒ってお万を連れ戻すと、真冬
て行き妊娠させます。築山はかんか
され、家康は築山の侍女お万を連れ
やがて家康が浜松へ進出。正室築
山と、信康・徳姫夫婦は岡崎城へ残
いう政略結婚。
波堤になるので背後が安心になると
「 夫、 信 康 が 武 田 の 娘 を 側 室 に し、
酒色にふけっています」
徳姫は、父信長に手紙を
れは黙っていられません。
織田・徳川連合軍の敵方の娘を側
室というのだから、気の強い徳姫こ
格がない」と責め、武田の家臣の娘
山は「男子を産めない女は正室の資
家康没後四百年、今改めて学ぶ
﹁徳川三百年の基礎を築いた組織と管理﹂ 三
崎へ 逃 げ 帰 り 、 瀬 名 姫 と 二 人 の 子 供
家に執着する姑と、飛ぶ鳥を落す勢
講談師 一龍斎貞花
は人 質 と し て 駿 府 に 残 さ れ て し ま っ
いの信長の娘という嫁、うまくいく
していたので家康が嫌ったという説
「築
ただちに信長は、家康に対し、
があるが、天下有数の槍の使い手で、 山と信康が謀反のきざしあり」と殺
徳姫にしてみれば、姑に対する仕
害を命じます。
「 姑 が、 武 田 家 に 内 通 し、 織 田・
徳川を倒そうとしています」
を信康の側室に致します。
た。 そ し て 二 年 後 家 康 は 、 義 元 の 子
わけがない、嫁の髪の毛をつかんで
関 ヶ 原 合 戦 の 時 手 柄 を 立 て、 越 前
な
氏真 を 見 限 り 信 長 と 同 盟 。 敵 対 し た
引きずり倒したなんて説も。
せ
のだ か ら 人 質 を 殺 す と こ ろ だ が 、 氏
ない 。 家 康 は 人 質 交 換 で 妻 と 二 人 の
うじざね
真は い と こ 同 志 と あ っ て 瀬 名 を 殺 せ
都を臨む信長にとって武田は強敵、 六七万石の城主になっている。
徳川と姻威関係を結べば、徳川が防
一方、徳姫は二人の姫を出産、築
経営と健康
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返し か ら か も し れ な い が 、 信 康 が 優
ったとも。
ちらにつこうかと家を二分する。
れた 人 物 だ っ た の で 、 後 年 織 田 に 弓
我が子を殺してまで家存続を図っ
を引 く よ う に な っ た ら 大 変 と 信 長 が
た家康。どちらかが勝って存続出来
後年、家康が半蔵に、
いちゃもんをつけたという説もある。 「 剛 の 者 で あ る 其 方 で も、 流 石 に
ると親子兄弟家を二分して戦った真
主人の子の首は討てなかったか」と。 田、前田、田中、小出家。秀吉は死
受けついだ店をつぶすのはいかん」
と。倅に継がせたければ帝王教育を
行ってください。
ぬ 時、
「若年の秀頼を頼む」と五大
家康 に し て み れ ば 、 今 、 織 田 と 対 立
家のために我が子をとはいえ、やっ
ア イ ア コ ッ カ は、「 ク ラ イ ス ラ ー
に従事する社員、家族、そして関連
した ら 滅 び て し ま う 、 家 存 続 の た め
老 に 泣 い て 頼 ん だ。 時 世 を 読 ん で、 企業の社員家族何十万人が路頭に迷
ってアメリカは幸せになれるでしょ
ぱり可愛いかった。優秀なればなお
うか」と言って議会を動かしクライ
には 致 し 方 な し と 受 け 入 れ 、 築 山 を
を」と言っていたら、亡びるにして
スラーの存続が認められた。
「 家 康 殿 が 天 下 を、 秀 頼 に は 大 坂 城
も豊臣家の後年は違っていたかも。
会社、商店を存続させることこそ
重要と申せましょう。
さらのこと。関ヶ原合戦の折、
と、家康が嘆げいたという。跡取り
現在の徳川家も、宗家、十八代恒
孝氏は、御三家ならぬ会津松平家の
浜松 へ 呼 び 寄 せ 、 途 中 富 塚 と い う 寂
の秀忠は、上田城攻めで、真田にほ
出、名君保料正之の子孫。恒孝氏は
し
命令 と は い え 主 君 の 正 室 を 殺 し た た
んろうされて足止めを喰い関ヶ原に
公益財団法人徳川記念財団を設立し、
と
め家 中 の 目 は 冷 た く 、 耐 え ら れ ず 野
間に合わなかっただけに、五九歳と
存続への基礎固
しい 谷 間 で 、 家 康 の 命 で 岡 本 平 左 衛
「 信 康 が い て く れ た ら、 こ の 年 齢
門と 野 中 三 五 郎 が 築 山 を 手 に か け た 。 で こ ん な 苦 労 し な く て す む も の を 」
中は 田 舎 へ 引 っ 込 み 、 岡 本 は 病 気 。
いう年齢で采配をふるわねばならな
め を さ れ て い る。
な人物を後継に
の天 方 通 綱 が 信 康 の 首 を 刎 ね る 。 そ
より実家を大切にしている。養子も
悪女のレッテルを貼られた築山だ
が、徳姫も同様政略結婚は、嫁ぎ先
「行跡の悪い後継
鴻 池 善 右 衛 門 は、
が、大坂の豪商・
し た の で す。 以
の通綱は高野山に隠棲。家康が腹を
同 じ。 信 長 の 妻 濃 姫 は、
「イザの時
者 は、 退 任 さ せ
家の存続なればこそ
家柄でなく優秀
かっただけになおさらだろう。
切 腹 を 命 ぜ ら れ た 信 康 は、「 武 田
に味 方 す る な ど 、 全 く 覚 え の な き こ
と、 そ の こ と だ け は よ く よ く 父 上 に
お伝 え 致 せ 」 と 言 い 残 し 、 潔 ぎ よ く
切腹 。 使 者 の 一 人 服 部 半 蔵 は 、 介 錯
立て た か ら と も 。 主 君 の 命 に 従 っ た
には」と父斎藤道三から短刀を渡さ
他から優秀な人
前にも書いた
にも か か わ ら ず で す 。 す ま じ き も の
れたほど。兄弟の争い、義兄弟とな
材 を。 先 祖 よ り
の刀 を ふ る え な い 、 そ こ で も う 一 人
は宮 仕 え 、 斬 ら な か っ た 半 蔵 は お 構
ればなおさら。主力争いに家来はど
いんせい
いな し 、 半 蔵 は 末 を 読 ん で 斬 ら な か
徳川家康
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