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偽り悪魔の存在理由 - タテ書き小説ネット

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偽り悪魔の存在理由 - タテ書き小説ネット
偽り悪魔の存在理由
石田梅
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
偽り悪魔の存在理由
︻Nコード︼
N7030CB
︻作者名︼
石田梅
︻あらすじ︼
その愛らしい容姿と満ち溢れる優しさから、学園の天使と称され
る姉の美月。
派手な外見に傍若無人な態度から、学園の悪魔と称される妹のアキ
ラ。
まったく正反対の姉妹だと思われている2人だが、実はその関係は
偽り。
1
アキラとは、美月を守るためだけに引き取られ、白河家に尽くすこ
とに人生をささげてきた他家の少女であった。
天然純粋培養の天使に群がる愚か者共を人知れず蹴散らしてきたア
キラだが、乙女の花盛りを迎えた美月の婿探しが始まったことで、
少しずつアキラの世界が変わっていくこととなる。
2
天使と悪魔
︱︱︱︱︱︱︱美月様のお側にいること。
︱︱︱︱︱︱︱美月様をあらゆる害から守ること。
︱︱︱︱︱︱︱美月様を盛り立てるための踏み台となること。
それが彼女の存在理由だ。
ほうすう
桜咲き誇る空の下、鳳雛学園に入学した二人の少女は瞬く間にそ
の名を全校生徒に知らしめることとなる。
一人は、学園の天使として。
もう一人は、学園の悪魔として。
高名な近代建築家の手による校舎は自然光がたっぷりと注がれる
ように設計されている。昼休みのこの時間、中庭の渡り廊下は風が
通り明るく爽やかだ。五月の新緑は目にも鮮やかで、木々は光り輝
いている。
そこを行きかうのは、まさに理想の高校生たち。
自然な黒髪、規定通りの長さのスカート、一番上まで止められた
詰襟、手には参考書や文庫本、おだやかに朗らかに談笑し合い、落
ち着いた足取りで歩いて行く。
3
ほうすう
鳳雛学園高等部。
輝かしい伝統と歴史を掲げ、国の次代を担う若者を育てる由緒正
しき学び舎である。
この学園で学ぶのは、まさに鳳凰の雛たち。全国から名家の御曹
司・御令嬢が集い、共に学び、友情をはぐくんでいくのだ。
品行方正、質実剛健、生徒たちは学園の一員として誇りを持ち、
ひと時の青春を謳歌している。
が、しかし。どこにでも例外というのはつきものである。
﹁あっはははは! マジでー? ああ、うん、こっちはオッケーだ
よ! あははは!!﹂
その場違いなほどの大きな笑い声に、生徒たちは一斉に顔をしか
めた。
短いスカート、ボタンを大きく開いた上にだらしなく裾を出した
ブラウス、指定外の紺色のソックス。
大きく開けるその唇はリップグロスでつやつやと光り、健康的な
白い歯をのぞかせている。猫っ毛の茶髪を遊ばせ、ちらりとのぞく
耳を小さな赤いピアスが飾っていた。
スマートフォンに対し大声で話している少女の名前は白河アキラ
︵しらかわ あきら︶。
はっきりした顔立ちをより魅せる化粧、すらりとしているのに出
るところは出たプロポーション、長い脚。雑誌にでも載っていそう
な女生徒だが、その美しさには毒がある。
鳳凰の腐った卵、悪性腫瘍、悪魔の女、最悪のワガママ女王。言
い方は様々だが、彼女はこの学園の異分子であった。
その格好だけではない。授業はサボる、教師に口答えをする、成
4
績も下から数えた方が早く、集団行動などもってのほか、とにかく
勝手気ままにふるまっている。
今もかたくななまでに左通行を貫いている生徒たちを無視し、廊
下の真ん中を堂々とつっきっていく。
ここは鳳雛学園。選りすぐりのエリートのみが入学を許された聖
域。例外代表・白河アキラのような人間はこの学園にふさわしくな
い!
そう思う教師、生徒は多々いれど、多額の寄付金をおさめている
名家・白河家の娘を表立って叱責できる者はそういない。
そして、アキラを学園から追いやれない理由がもう一つ。それを
考えると、ついアキラへの文句をこらえてしまうのだ。
そこへ歯がみしつつも何も言えない生徒たちの願いが届いたのか、
正義の味方が立ち上がった。
﹁待ちなさい、一年B組白河アキラくん﹂
短い髪、涼やかな目元、詰襟をきっちりと着込んだ男子学生がア
キラを呼びとめる。
周囲の生徒が小さく歓声をあげる一方で、アキラはスマートフォ
ンを持っていた手をビクリと震わせた。
﹁何度言ったらわかるんだ。君のその格好は相変わらず校則違反だ﹂
﹁げー、またアンタ? しつこいんですけどォ﹂
げんなりとした顔を向け、アキラはおおげさなため息をつく。
﹁俺が風紀委員である以上、君を認めるわけにはいかない﹂
しろさわ たかとし
﹁表情筋だけじゃなくて頭も固すぎなんだよ、城澤ー!﹂
長身の男子学生、二年生にして風紀委員長の城澤隆俊を見上げて
アキラは舌打ちをする。
城澤は未だに諦めずアキラの素行の悪さを注意する、使命感あふ
れる鋼の男だ。
5
この学園内において親の地位は自然と生徒の地位となっていく。
ここでの地位とは、生徒会、委員会委員長に属する言わば﹃役職持
ち﹄である。
中でも発言力の強い風紀委員の委員長は、さすがのアキラも無視
することはできない。しかし、素直に言うことを聞くワガママ女王
ではなかった。
﹁あたしはどっこも悪くないじゃん! 役職持ちだからっていい気
になんないでよ!﹂
﹁調子に乗っているつもりはない。わからないのなら一つ一つ説明
するまでだ﹂
城澤は人差し指をアキラの鼻先に突きつける。
﹁まず髪。一つか二つにゴムをつかってまとめなさい。耳のピアス。
これは外しなさい。唇をむやみに光らせないこと。ブラウスのボタ
ンを止めて、スカートの中にきちんとしまって。スカートの長さも
おかしい。靴下は白で無地のものと決まっている。携帯電話の使用
はマナーを守って。以上の点をきちんと⋮⋮﹂
﹁うるっさい!!!﹂
アキラは城澤の手を払いのけ、アイラインをひいた大きな目で睨
みつけた。
﹁いいの、これで! こうしてたほうがかわいいもん! 別に誰に
も迷惑かけてないんだからいいじゃん!﹂
﹁追加、大声で叫ばないこと。うるさいだろう﹂
﹁じゃあ小声で言いますぅ。ほっといてくれないかな、もォ。先生
だって何にも言わないんだし﹂
﹁まったく、どうしてそう反抗的なんだ﹂
城澤は顎に指をそえて思案するように言った。
﹁姉のほうはあんなにも模範的だというのに⋮⋮﹂
﹁ごめんなさいっ、城澤先輩っ!﹂
6
ぱたぱたと足音を響かせてやってきた女子生徒に、周囲の視線は
一気にそちらに移った。皆一様に瞳に熱を宿している。
華奢な体を精いっぱい動かして走ってきたのだろう。幼さの残る
白い頬は赤く染まり、何も塗らなくても桃色の唇からは苦しそうに
息がもれている。大きな目が子犬のように潤み、ベージュ色のシュ
シュで結わえられているふわふわの髪はまるでしっぽ。
愛らしさの塊のような少女だ。
﹁いつもアキラが⋮⋮妹が、ご迷惑おかけしてすみませんっ! ち
ゃんと言い聞かせます﹂
彼女は長身でがっしりとした身体つきの城澤の前に立ちはだかり、
アキラを守るように細い腕を広げた。
﹁城澤先輩、どうか、許してくださいっ﹂
﹁ねえさァん!!﹂
アキラは迷わずその背にすがりつく。
しらかわ みつき
その光景に、ギャラリーの中から誰かの感嘆のため息がもれた。
﹁相変わらず優しいな、白河美月さん⋮⋮!!﹂
﹁さすが元華族の白河家のお嬢様、気品があるわ﹂
﹁あの野蛮人と姉妹なんて信じられないな﹂
﹁まったくよ! とってもかわいいし、気取らないし、頭もいいし
!﹂
﹁あんな妹のために頭下げるんだもんな。すごいよ﹂
﹁白河の血は全部姉の美月さんのところにいったんだな。妹はその
しぼりカスだ﹂
﹁彼女こそ天使!﹂
小さく、だがざわざわと騒ぎ始めた観衆に眉をひそめた城澤は、
こほんと咳払いをすると言った。
﹁一年A組白河美月くんか。⋮⋮しかたない、いいか、白河アキラ
7
くん。今回は特別に免除だが、次回は風紀室で反省文を書いてもら
うぞ﹂
﹁は∼いはい﹂
﹁返事は一度でいい﹂
﹁こらっ、アキラ﹂
不満を残しつつも去っていく城澤の背に舌を出すアキラを、美月
は険しい顔で叱った。しかし子犬の威嚇と同じでまったく効果はな
く、むしろ彼女のかわいらしさを引きたてている。
﹁またそんなカッコしてー。授業もサボッたって聞いたよ! ダメ
だよ、もう﹂
﹁えへ、ごめ∼ん。でもありがと、姉さん!﹂
﹁しょうがないなァ、アキラは﹂
自分より背の高いアキラにぷん、と胸を張ると、美月はやわらか
い笑みを浮かべた。
﹁でもわたしはお姉ちゃんだからね﹂
アキラはさきほどの城澤に対する生意気な態度はどこへやら、に
っこりと美月に抱きついた。
﹁さっすが姉さん! 頼りにしてるよ!﹂
美月の愛情を独り占めにするアキラに、羨望まじりの嫉妬の眼差
しが注がれる。だが、美月の笑顔はアキラへの憎々しさより勝る素
晴らしいプレゼントだ。
学園の天使、姉の白河美月。
学園の悪魔、妹の白河アキラ。
正反対の姉妹は学園中の噂になり、今や誰ひとりとして知らない
ものはいない。
そして意外にも姉妹仲は驚くほど良く、美月はアキラを甘やかし
8
放題であることも周知の事実だった。
悪魔とはいえ、妹のことを悪く言われると天使の笑顔は一瞬で消
え去ってしまう。泣き顔も怒り顔もかわいらしいが、嫌われるよう
なことがあったらこの学園で生きていけない!! そんな気持ちに
させる力が美月にはあるのだ。
おかげでアキラの大暴走を止められる者は、美月をおいて他にい
ない。︵城澤は止めようとするが、アキラは決して従わない。︶
アキラのような問題児が今日も鳳雛学園に在籍していられるのは、
すべて姉の美月のおかげなのだ。
︱︱︱︱︱︱そう、考えられていた。
美月に言われた通りきちんと授業を受けてそのまま放課後を迎え
たアキラは、ぺたんこの鞄を手にさっさと教室を出ていく。当然教
師に挨拶はしないし、クラスに親しく話す友人もいない。周囲はき
っと、すぐにでも街に繰り出して、自分と似たような品のない頭の
悪い仲間とバカ騒ぎするつもりなのだ、と考えていることだろう。
アキラはまだ誰もいない昇降口まで小走りに向かうと、辺りを見
渡しながら下駄箱のロッカーを開いた。
しかしそこは自分の場所ではない。
別のクラスの、姉の下駄箱だ。
そこに入っていた一通の手紙を鞄に押し込み、昼間に通った渡り
廊下から特別教室棟へ。目指すは三階の理科実験室。行儀悪く窓際
の棚の上に座り、昇降口の辺りを見下ろした。そして数分後、ぞろ
ぞろと歩いて行く生徒たちの中に姉の姿をみとめ、目を細める。美
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月はまるでお姫様のように友人たちに囲まれ、楽しそうに笑ってい
た。
﹁さァて、今日は⋮⋮﹂
アキラはごてごてとシールを張り付けたピンク色の手帳を取り出
した。
﹁有沢、園江、安田、長野。まァいつものメンバーだな⋮⋮﹂
ぼそぼそと独り言を言いながら、アキラは慣れた手つきで手帳に
書き込みをしていく。手帳本体には似合わない、角ばった形の良い
文字だった。
呼びあげた名前はいずれも男子学生だ。しかし、ただの男子学生
ではない。
製薬会社社長の息子、大手商社会長の孫、大物政治家の息子など
など。つまり白河家にふさわしい家柄の人間だ。しかも顔もいい。
﹁あいつらはいいとして、こっちはダメ﹂
姉の姿が見えなくなってから、アキラは鞄から取り出した先ほど
の手紙を開いた。
内容は見るまでもない、学園のアイドルであり天使である美月に
あてた、青春と熱と欲望が見え隠れする愛の告白。
アキラは文末にある学年、クラス、名前だけを確認すると、ペン
を右手に左手でスマートフォンを操った。すぐさま個人データが小
さな画面に表示される。
﹁やっぱり表立って近づくこともできない成り金か﹂
白河家の長女であり、いずれは後を継ぐことになる美月の相手に
ふさわしくない。美月へ分不相応なふるまいをしようとした愚か者
としてデータを更新する。
そして更にアキラは残酷な行動に出た。んん、と喉の調子を整え、
電話の発信ボタンを押す。
﹃はい﹄
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﹁あ、もしもし、あの、今日、手紙を⋮⋮﹂
﹃えっ、し、白河さん!?﹄
﹁ええ、あの、いきなり電話してごめんなさい⋮⋮﹂
﹃い、い、いや、僕のほうこそ、いきなり、あんな。ああ、ごめん、
なんだかあわててしまって⋮⋮!!﹄
電話口の向こうで焦りに焦っている哀れな少年の姿が目に浮かぶ。
﹁ううん、いいの⋮⋮。よっぽどあわててるみたいね。あたしの下
駄箱に姉さん宛の手紙入れるくらいに﹂
﹃⋮⋮え?﹄
﹁あっははは、似てたァ? お姉ちゃんに! あたし誰だと思う?
白河ア・キ・ラでェ∼す!!﹂
想像するにはたやすいのだが、絶句する相手の顔が見られないの
がなんとも悔しい。アキラは続けた。
﹁こういうの恥ずかしいからさァ、もっと確認したほうがいいよ?
いくら同学年でも姉妹で間違えてたら意味ないし! っていうか、
姉さんと釣り合うとか本気で思ってんの? 笑える。明日朝イチの
大ニュースだよねェ!﹂
﹃⋮⋮嘘だ、ちゃんと、確かめて⋮⋮﹄
﹁うんうん、確かめた上であたしんトコ入れちゃったんだ。あー、
恥ずかしい。姉さんになんて言おうかなァ﹂
﹃み、美月さんには⋮⋮!﹄
﹁言わないでって? なら二度と姉さんに近づくなよ﹂
アキラはそれだけ言うと電話を切る。手紙を汚らしいもののよう
につまみあげると、放置されていたマッチで火を付けた。ぽと、と
実験台の流しに落とす。
また別の番号を呼び出しながら、アキラは煙をあげる紙きれを冷
えた目で見つめていた。
﹁アキラです。美月様が校舎を出たのを確認。本日も異常ありませ
ん﹂
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﹃お疲れ様です、アキラ様。どうぞお戻りください﹄
﹁はい、これから帰宅します﹂
大きく息をついたアキラは、目をつむったまま天井をあおいだ。
一日の仕事終わりには、決まってあの日の言葉がよみがえる。
︱︱︱︱︱︱︱いいですか、アキラさん。
︱︱︱︱︱︱︱あなたは今日から白河の人間となります。
︱︱︱︱︱︱︱当主を仰ぎ、敬い、従いなさい。
︱︱︱︱︱︱︱あらゆる害から守らなくてはならない。
︱︱︱︱︱︱何においても上に立ってはいけない。
︱︱︱︱︱︱頭の良いあなたなら、わかりますね?
︱︱︱︱︱︱︱︱はい。
︱︱︱︱︱︱︱︱あたしの役目は美月様のお側にいること。
︱︱︱︱︱︱︱︱美月様をあらゆる害から守ること。
︱︱︱︱︱︱︱︱美月様を盛り立てるための踏み台となること。
その使命を全うすべく、彼女はその身を捧げて生きている。
12
悪魔の﹃家族﹄
学園内では年子の同学年の姉妹、と思われているが、調べれば誰
でもわかる、意外に知られていないこと。
白河姉妹は、実は本当の姉妹ではない。
白河家とは、古くからある公家の一族だ。歴史に名を残す派手さ
はないが、細々と長くその尊い血を守りぬき、明治維新や戦後改革
の波をのらりくらりと乗り越えてきた。
正直なところ、現在の白河家に大きな力はない。持ち前の人の良
さとちょっとした資産、それらをうまく使ってなんとか生活してい
る。︵しかしそれは上流階級の中では、の話であって、一般庶民か
らしたらはるか雲の上の﹁普通の生活﹂だ。︶
ではなぜ一見無力な白河家が未だに優雅な暮らしを楽しんでいる
かというと、答えは簡単。守り抜いてきた血こそが白河の唯一にし
て最大の強みだ。いつの時代でも尊い血筋を奉りたがる権力者、と
いうのは多い。名家・白河という後ろ盾欲しさに、どこぞの会社の
役員だの全国なんとか委員会の特別委員だの、そういった役職を与
えたがる輩が実質白河家の生活を支えている。当主様の名刺の裏側
には書ききれないほどの肩書が印刷されており、その人脈の広さは
計り知れない。
そしてその人脈目当てに、もしくは血を取り入れて本物の上流階
級に加わりたいがために、白河家をもてはやすのだ。
13
そして白河アキラことあたしは、もとは白河家を頂点とした一族
の、山の裾野の端の端の分家の娘だ。つまりは雲の下にいる一般庶
民。
あたしが白河家に籍を移したのは、十三年前の実の両親の離婚や
やすあき
ら何やらのトラブルが起こした偶然だった。愛娘と同じ三歳で身寄
りを失いかけたあたしを、美月様の父である白河家当主、泰明様が
不憫に思い引き取ってくださったのだ。
さらに詳しく言うと、あたしが居座っているのは白河本邸だが、
籍を置くのは分家のひとつの、本家とはまったく別の白河家だ。
つまり、血のつながりも戸籍上も美月様とあたしは姉妹ではない。
これは後々のことを考えた上での措置。あくまで本家の娘は美月様
お一人、というわけだ。
美月様は遊び相手として引き取られたあたしをいたく気に入り、
妹と呼んではばからなかった。当主様もそれを止めようとしない。
真実を知っている者からすれば、それは白河家の美談である。い
くら環境がよくても生まれ持った血のせいか、温情空しく出来が悪
く育った娘を抱えることになった白河家に同情を寄せる声もある。
当然、そんな言葉を気にするあたしではない。だってそれは、す
べて計算されたことなのだから。
﹁たっだいまー﹂
一仕事終えたあたしは、背の高い門扉をくぐり、一人ふらふらと
14
白河邸に帰宅した。石畳を歩いた先には、コンクリートの階段と重
々しい玄関扉。西洋ランプを模した玄関灯がかわいらしい。
しかしあたしは玄関を通ることなく脇にそれ、お邸をぐるりと周
って広い庭の一角にポツリと立つ離れに向かった。
西洋かぶれだった先代が築いた母屋が小さなお城のようなたたず
まいなのに反し、この離れだけは日本式のまま残されていた。
二間のこじんまりとした造りだが、あたしが寝泊まりするように
なってから手が加えられ、バストイレ、ミニキッチン付きに改装さ
れている。もったいないほどいい部屋だ。軒先から遠慮なく靴を脱
いで上がりこむ。
寝間にしている部屋に入り障子を閉め、そこでようやく息をつい
た。
﹁あー、疲れた﹂
すっかり飴色になった年代物の鏡台の前に座り込み、腕を枕に倒
れこむ。が、あわてて体を起こした。
﹁まずい、化粧が崩れる﹂
鏡にうつる顔は見慣れたものだ。アイラインのしっかり入った釣
り気味の目、マスカラを何度も塗った長いまつげ、ちょっとつけす
ぎな頬紅。リップは少し剥げている。たっぷりしたゆるくウェーブ
する髪は地毛で、それとあいまって頭が軽いイマドキの女子高生ら
しくなっている。
高校入学から始めた化粧だが、この一月でなんとか手慣れてきて
いた。きっと高校デビューを果たそうとする子たちと似たようなレ
ベルだろう。
顔に何か張り付いているような感覚はまだ慣れないものの、あた
しはそのまま渋々立ち上がる。
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母屋と離れをつなぐのは、長くて細い廊下のみ。それはまるで白
河本家とあたしのつながりを示すもののようで、なんともいえない
愛着がある。そこを渡るのは、あまり好きではないのだが。
母屋に入ると、ちょうど通りかかった使用人がすっと頭を下げて
くる。
﹁お帰りなさいませ、アキラ様﹂
﹁はい、戻りました。美月様は?﹂
﹁お友達に送られて、今お戻りになりました﹂
﹁わかりました、ありがとう﹂
きっとあの取り巻き共だ。一応探りを入れておくか、と思った矢
先に、探していた相手は自分からやってきた。
﹁あっ、お帰り、アキラ!﹂
﹁ただ今戻りました、姉さん﹂
﹁教室まで迎えに行ったのにアキラいないんだもん。どこ行ってた
の?﹂
﹁えへ、ちょっとね﹂
﹁またどこかお出かけ?﹂
﹁まァね﹂
あたしが笑ってごまかすと、美月様はぱあっと目を輝かせた。
﹁もしかして、広場の大道芸!?﹂
﹁は?﹂
思いがけない問いかけに気の抜けた返事をしてしまったが、美月
様は幸い疑問に思わなかったようだ。
﹁違うの? 今、商店街の広場で大道芸やってるんだって。外国の
有名なチームも来ているって、一緒に帰った綾乃ちゃんが言ってた
の! 週末はもっと大勢でやるらしいから、今度見に行こうって!﹂
﹁へェー、そうなんだ﹂
16
それはそれは興味深い。が、当然あたしと美月様は興味の方向が
違う。
﹁姉さん﹂
﹁なぁに?﹂
﹁それ、誰と行くの? 二人っきり? どこのオトコ?﹂
あたしがにんまりと笑って言うと、とたんに美月様は頬をふくら
ませた。
﹁もォ、違うってば! お友達! 変な想像はやめて﹂
﹁えェ∼? それ本当? つまんな∼い﹂
﹁アキラってば。またお父様からつまらないこと言われたんでしょ﹂
﹁つまらないこと?﹂
﹁わたしのお婿さん探し!﹂
あたしはそれに苦笑いで応えた。
白河家には娘しかいない。そうなると気になるのが跡取りの問題
だ。当主様は当然婿養子を考えているが、美月様を溺愛するあまり
誰を相手にするかで頭を悩ませている。ぜひとも白河家とお近づき
になりたい家々も、当主様の動向をひどく気にかけている様子だ。
だが、美月様はそういった周りの思惑を快く思っていない。
﹁運命の人には自分から出会いに行きたいの。アキラだってそう思
うでしょ!?﹂
あたしは何も言わず、口角をほんのちょこっとだけ上げて見せる。
これで美月様は﹃自分の意見への同意﹄と見なすだろう。
﹁それなのに最近のお父様ときたら、変な男にひっかかってないだ
ろうな、とか、お前に合う男は私が見つける、とかうるさいんだも
の。わたしは友達だって、好きな人だって自分で決めるの﹂
そう言って美月様は澄んだ目をまっすぐに向けてくる。
自分で決める、か。
あたしは美月様の言葉を心の内で反芻し、また小さく笑みを作る。
17
誰と出会い、交流し、親密になっていくか。
さきほど大道芸を見に行く約束をした方を含めた美月様の御友人
は、すべて白河家に並ぶにふさわしい子息子女たちだ。
美月様に近づきたい輩は吐いて捨てるほどいるが、本当に近くに
いていい人間はきれいにきちんと整理されている。
何を隠そう、白河の指示を受けたあたしの手配だ。
とはいえ、当然あたし一人でそんなことできるワケがない。
あたしと、つまり白河家と目的を同じくする者が、他家にもたく
さんいるというだけの話だ。
不純なものには目を向けさせない、触れさせない。すべてが上流
階級と言われる家同士のつながりで仕組まれていることに、なぜ気
づかないのか。ここまで露骨だというのに。
いや、違う。
あたしはこっそり首を振る。
気づかないように純粋培養されているのが美月様なのだ。気を回
してハラハラするのが自分の役目。
あたしはそう思うことでこみ上げるため息をおさえつけた。
高校生になって年頃を迎えた美月様には、既に縁談の話がこっそ
り持ち込まれている。相手はたいていが鳳雛学園の生徒、もしくは
卒業生だ。
もともと当主様から、美月様に近づく不埒な男の排除を命ぜられ
ていた。しかし最近では﹁これは!﹂という男がいたら報告するよ
うにと追加命令も受けているので、正直あたしはてんてこまい。
とにかく、美月様の結婚が決まるまであたしの心労は絶えそうに
ない。
18
﹁大道芸、アキラも行こうね﹂
﹁うーん、そうだねェ﹂
あたしが言葉を濁すと、美月様はもじもじとためらいつつも口を
開いた。
﹁⋮⋮その時は、あの、辰巳さんも呼んだらどうかな﹂
﹁辰巳?﹂
﹁あっ、ほら、辰巳さんってあんまり遊んだりできないじゃない!
? だから、いい機会だなって!﹂
眼をきょろきょろと動かして落ち着かない様子の美月様に、あた
しはどう誤魔化そうか内心考える。
そこへ、使用人の一人が明るく声をかけてきた。
﹁美月お嬢様、旦那様がお帰りになりましたよ﹂
﹁えっ! お父様!?﹂
美月様はぱっと駆けだして玄関口へと向かった。あたしもあわて
て後を追う。
そこには靴をぬいでいる最中の当主様がいた。なでつけている髪
には白いものが混じり始めているが、四十代半ばでも未だ若々しさ
を保ち、のびた背筋は平均ほどの身長をより大きくみせている。い
いわど けいご
つでも浮かべている朗らかな笑みは人をひきつけてやまない。
対照的なのは当主様の背後に立つ岩土敬吾さんだ。幼少から当主
様に仕え今ではその片腕となっている男で、細い目は眼鏡越しでも
冷たい光を放っている。三十代半ばほどの若さに細身で整った顔立
ちながら、放つ威圧感は当主様さえも圧倒する。誰からも愛される
がゆえに人に対する警戒心や恐怖心が薄い美月様だが、彼女さえ怖
がるのだから恐れ入る。この屋敷の内で一番厳しく怖い人間である、
というのが共通の理解だった。
しかし今は当主様を自宅に送り届け仕事もひと段落ついたとあり、
静かに後ろにひかえるだけだ。
19
﹁お帰りなさい!﹂
﹁ただいま、我が家のお姫様。おみやげだよ﹂
そう言って白い箱を掲げて見せた当主様に美月様はとびついた。
﹁あっ、カメノ屋のチョコレートケーキ!?﹂
﹁正解。鼻がきくね﹂
ケーキの入った箱を受け取って嬉しそうに覗き込んでいる美月様
の後ろで、あたしは頭を下げる。
﹁お帰りなさいませ﹂
﹁ああ、ただいま﹂
当主様は美月様とよく似た目に心の揺れをほんのすこし映して答
える。
﹁⋮⋮アキラ、よかったら君も一緒にそれを﹂
ためらいつつも言葉を紡ごうとしたそのとき、
﹁あなた、おかえりなさい!﹂
鈴の音のような高い声が当主様をさえぎった。
みずね
﹁ただいま、水音﹂
﹁今日は早かったのね。嬉しいわ﹂
小柄でほっそりとしたその女性は、吹き抜けの階段をゆっくりと
降りながら夫と娘に向かって微笑んだ。やわらかい笑顔が美月様と
似ていて、少女じみた美しさがあった。
﹁お母様、ほら、お父様がチョコレートケーキを買ってきてくれた
わ!﹂
﹁あら、美月の大好物ね。でもお夕食前よ﹂
﹁いいの、これは別腹∼﹂
調子よく舌を出して笑う美月様に苦笑しながらも、当主様はお茶
の準備をするよう命じている。これから居間へと移動しようとする
両親の後を追おうとした美月様は、あたしを振りむいて言った。
﹁アキラも食べよう!﹂
20
その瞬間にぱっと当主様があたしに奇妙な視線をむけた。
ああ、またか。でも、大丈夫ですよ。
あたしは当主様を安心させるように穏やかな笑みを浮かべた。そ
れだけで当主様は目をそらす。
﹁いいえ、所用があるのでこれで失礼します﹂
﹁えェ!? あとでいいじゃない、一緒にたべようよ∼﹂
﹁美月。わがまま言ってはダメよ﹂
あたしへと伸ばした美月様の腕は、母親の水音様によってとめら
れた。
﹁行きましょう﹂
﹁う∼⋮⋮。じゃあ、次は絶対だからね!﹂
しぶしぶと引きさがる美月様にも同じ笑みを返して、あたしは遠
ざかる3人の背中を見送った。
﹁あなたもいつもこれくらいに帰ってくださればいいのに。そうす
ればこうして家族みんなでお茶ができるわ﹂
﹁はは、そういうわけにもいかない。会合というのは手間暇がかか
るものなのさ﹂
﹁お酒の席もお仕事の一つって言いたいんでしょ﹂
﹁美月、痛いところをつくなぁ!﹂
家族団欒。
親子で笑いあう声というのは、常に自分からは遠いところにある
ものだ。
わかっていながら目で追ってしまうあたしの心を見透かすように、
敬吾さんは鋭く声をかけた。
﹁アキラさん。美月様に何か言われる前にお戻りください﹂
﹁はい、すぐに﹂
声も言葉も情がない敬吾さんに、あたしは素直にうなずいた。本
日の美月様に関する報告書がわりの派手な手帳を敬吾さんに渡し、
21
その場を後にする。
あの声にあたしは誓わされた。自分の役目をまっとうすることを。
それに逆らう気は毛頭ない。
自分はあの輪の中に入っていい存在ではない。
そんなことは百も承知なのだ。
だから当主様のもの言いたげな目にはあえて気付かないフリをし
た。
あたしは再び母屋を抜けて自室である離れへと戻った。
やれやれ。
人目につかない自分の居場所に戻った油断からか、あたしはまた
小さく息をつく。ふと顔をあげると、廊下を渡った先に若い男が一
人たたずんでいた。白いシャツにスラックスという地味な姿だ。実
直な性格をそのまま形にしたような、華やかさに欠ける、しかしバ
ランス良く整った顔つき。
彼はあたしの姿をみとめると、すぐさま声をかけてきた。
たつみ
﹁アキラ様、お帰りなさいませ﹂
﹁ただいま、辰巳﹂
あたしは自分付の唯一の使用人に頷く。先ほど美月様が名前を挙
げた男だ。
﹁当主様がお帰りになった。向こうはこれから家族そろってティー
パーティ﹂
﹁⋮⋮さようですか﹂
辰巳はわずかに顔を曇らせた。しかし素早く切り替えたのか、パ
ッと顔をあげて言った。
﹁アキラ様。お茶を淹れましょう。アキラ様のお好きな鶴の子があ
22
ります。さきほど買ってまいりました。とってもおいしいですよ﹂
外では無口な男が懸命に話す姿がおかしくて、あたしの口元は知
らずに緩む。
﹁うん。辰巳も、いっしょに食べよう﹂
﹁はい﹂
﹁うん﹂
確認するようにうなずいたあたしに、辰巳はようやく目元を和ら
げてみせた。周りの人間は、辰巳は真面目すぎてお役目以外何を考
えているかわからないというが、あたしにとってはまったく逆だ。
すぐ感情が顔に出てわかりやすい。他者にはわからない濃密な時間
を二人で過ごしてきたおかげだ。
﹁母屋は最近なにかと賑やかですね﹂
座卓を囲み、温かいお茶を淹れる辰巳の横で、あたしはメイク落
としのコットンを目元に押しつけていた。
﹁美月様の高校入学から当主様の周囲がうるさい。いよいよ婿を決
めるのかな﹂
日差しは全く変わらないのに、玄関前の騒ぎがうそのように離れ
は静かだった。遠くから聞こえてくる甲高いはしゃいだ声はどこか
の子どものものか、それとも年の割に幼さのある美月様のものか。
﹁さっさと決まってしまえばいいのに﹂
辰巳は興味も関心もない、といった調子で言い捨てた。
﹁そういうワケにもいかない。白河家の未来がかかっている﹂
﹁こんな騒ぎ、アキラ様の負担になるばかりです﹂
辰巳はどこまでも冷めていた。
﹁それがあたしの役目だ﹂
そう言うあたしに、辰巳は小さく小さく顔をこわばらせる。
﹁心配しなくても大丈夫。うまくやるよ。ギャル系っていうのもあ
たしに合ってるみたいだし﹂
茶化してみても、辰巳の表情は晴れなかった。
23
﹁⋮⋮俺はあなたのお役目は理解しているものの、納得はしていな
いのです。なぜアキラ様がそこまで犠牲になる必要があるのか⋮⋮﹂
﹁辰巳がそう思ってることは知ってるけど﹂
﹁お若いアキラ様は素顔が一番かわいいのに。お化粧するにしても
俺がもっとかわいくして差し上げるのに。お顔立ちだって振舞いだ
ってお勉強だって、俺のアキラ様は絶対に負けていないのに﹂
﹁はいはい、ストップストップ﹂
ハッキリとは言わないが、誰に対抗意識を飛ばしているのかは明
白。この辺で止めなければ辰巳は怨霊の如くどこまでも恨み言を続
けるし、不敬にあたる。
﹁まったく、なーにが理解してる、だ。いい? あたしの役目は、
美月様のお側にいて、気づかれないように支えとなり、守りとなり、
盛り立て役となることなの﹂
そう、それが約束。
美月様に寄り添い、彼女をすべての害悪から守る。
そのために引き取られてきたのだ。
﹁ですが、アキラ様﹂
ぐっと身を乗り出してくる辰巳に、あたしは小さく笑った。
﹁辰巳もしつこいな。知ってるでしょ、あたしはチョコレートケー
キより、鶴の子のほうが好き。向こうの家庭に参加したいなんて思
ったことない﹂
淡いピンク色の鶴の子をつまんでおどけて言ってから、硬く握っ
ている辰巳の拳の上に己の小さな手を乗せる。それだけで辰巳は怒
気を散らされておとなしくなった。
﹁大丈夫。あたしには辰巳がいるから﹂
辰巳は切れ長の目をぎゅっと閉じ、あたしの手を熱い両手で握り
直した。
24
﹁必ず、お側におります﹂
その実直さにあたしはまた笑ってしまう。
﹁⋮⋮アキラ様﹂
﹁ごめん、わかっている﹂
自分は本気で言っているのだ、と目で語る辰巳。
ごめんね。
心の中でもう一度謝る。
辰巳は優しいから、あたしの代りに辛い思いをしてくれる。それ
が嬉しい自分がちょっと悲しい。でも、この手を離すことなんて絶
対にできなかった。
辰巳はあたしの手を握り締めたまま、ふと思い出したかのように
言った。
﹁そうだ、アキラ様。一つ朗報が﹂
﹁ん?﹂
﹁美月様の御縁談、案外すぐにまとまるやもしれません﹂
﹁どういうこと?﹂
美月様に、自分が人生を捧ぐべき白河家に関わることとして、あ
たかつ
たしはきりりと気持ちをひきしめた。
﹁まだ正式な報告はありませんが、鷹津家の御子息が留学から帰っ
てこられるそうです﹂
﹁鷹津家の⋮⋮!﹂
鷹津といえば、戦前から海外貿易によって財をなし、今なお名を
轟かす天下の大財閥。実質的な力がある以上、格は白河よりも上だ。
﹁あそこは数年前に長男が家を継いでいたはず。留学していたのは
放蕩息子って噂の次男坊﹂
﹁ええ、なんでも向こうの学校で一区切りついたので、かなり強引
に帰国させたそうです。このまま落ち着かせようとしているらしい、
との噂を聞きました﹂
﹁鷹津か⋮⋮! これは、こっちから売り込みにかかるようかな﹂
25
当主様が美月様を釣るエサ付で早く帰ってきたことと関係があり
そうだ。
唇についた粉をぺろりとなめたちょうどその時、
﹁ええええ︱︱︱︱︱ッ!!?﹂
邸宅内をまっぷたつに切り裂くような悲鳴が響き渡った。
26
悪魔の﹃家族﹄︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
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天使と生徒会
﹁おはよう! 一緒に学校行こう﹂
﹁美月さん、おはよう﹂
美月様が玄関から一歩外に出ると、四方八方からすぐさま声がか
かる。
彼らは美月様の笑顔を拝むべく、こうして朝から家の前をうろつ
く頭の悪い連中だ。こんなヤツらが将来の国を背負うのか、と思う
と悲しくなる。
高校入学から早一ヶ月、もはや見慣れた光景だ。一人一人に律義
にあいさつする美月様に、あたしは割り込むようにして抱きついた。
﹁ねっえさ∼ん! おはよ∼﹂
﹁あ、アキラ! おはよう。また寝坊してギリギリに出たでしょう。
ご飯食べた?﹂
﹁辰巳におにぎり突っ込まれたよ﹂
ふああ、と大きくあくびをしてみせたあたしに注がれる軽蔑の眼
差しにゾクゾクしてしまう。
﹁ちょっと、白河さん? 品がないと思うわ﹂
かみつが あやの
特にパッツン前髪の下にあるつぶらな目であたしを睨むのは、美
月様と同じクラスの上都賀綾乃嬢。美月様を任せるに足るしっかり
者だ。
美月様とは気が合うようで、入学後わずかな期間ですでに親友と
いう立ち位置にいる彼女だが、周りの取り巻きのように盲目的では
28
ない。だからあたしに対しても率直で、堂々正面から文句をつけて
くる。そういうところが特に気に入っているのだけど、それはあた
しの片思いで、彼女はあたしが大嫌いだ。
﹁あんな喉の奥が見えそうなほどの大あくびだなんて﹂
﹁相変わらず制服も着崩しているし、身支度を整える時間もなかっ
たのかしら﹂
上都賀さんの言葉に同意の声が続く。だが彼女たちはあたしに聞
こえる声量で、こそこそと話しているだけだ。
完全に無視してまたあくびを一つ。場を治めるのは美月様だ。
﹁ごめんね、アキラって昔から朝弱くて⋮⋮﹂
﹁うっ﹂
文句を言っていた連中は天使の困り顔をくらい、言葉を詰まらせ
た。効果は抜群。上都賀さんは甘やかしすぎだ、とあきれ顔だ。
﹁アキラもあと少し早起きすれば一緒に食べられるのに。目も覚め
るよ﹂
﹁その分寝てたいの!﹂
﹁もー﹂
困った子、と言う美月様はまるで聖母。あたしに美月様をとられ
て悔しそうにしていた連中の顔も一気にゆるんでいる。
ちなみに、学校以外の場所であれば美月様と食事の席を伴にはし
みふね
ないし、母屋にもそう行かない。それが仕える側の礼儀だし、家で
の美月様のお目付役には、世話役のお姉さんである三舟さんがいる
からだ。
あたしはひっそりと離れで食事をとっている。でも一人じゃない、
辰巳と二人。それこそあたしに仕える辰巳とは席を別にしたほうが
いいのだけれど、ワガママを聞いてもらっているのだ。やはり一人
は味気ない。
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学校までは徒歩で向かう。仰々しい車での送迎を美月様が嫌った
ためだ。実際、徒歩二十分の距離を車で行くのも馬鹿らしい。
あたしは美月様に時折世話を焼かれながら周囲を怠りなく見渡し、
行列の参加者を確認した。昨日までの顔ぶれと大差ないが、一人姿
が消えている。
昨日、美月様に手紙なんぞ渡した愚か者、あたしからのショッキ
ングな電話を受けた哀れな少年。
あれくらいで本当に近寄らなくなるような根性無しに用はない。
涙目をこすりつつ美月様の様子を窺うと、少しばかりその表情は
暗かった。原因はきっと昨日の悲鳴にある。
﹁はァ﹂
本人にその気はないのだろうが、大きくこぼれたため息におしゃ
べりはぴたっと止まった。
﹁美月さん、何かあったの?﹂
気遣わしげに尋ねた御学友に、美月様は小さく首をふる。
﹁あ、ごめんなさい。なんでもないの﹂
﹁なんでもなくないよ、どうしてため息なんてついたんだ﹂
更に問いかけたのは、昨日美月様と一緒に帰っていた取り巻きの
一人だ。
﹁ん⋮⋮。お父様がね、今度パーティに出ろって言うの﹂
﹁嫌なの?﹂
﹁わたし、ああいう場って苦手でずっと断ってたのに。もう高校生
なんだからって今度ばかりは聞いてくれなくて﹂
きゅっと唇をかむ姿はいじらしく、見ている者の憂いを誘う。し
かしあたしは殊更大きな声であっさり言った。
﹁なーんだ、姉さんったら、そんなことで悩んでたの?﹂
そんなこととはなんだ! という非難をかわし、あたしは美月様
の前で笑顔を見せる。
﹁そんな固くならなくていいじゃん。かわいいドレス着て、美味し
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いもの食べて、ちょっとお辞儀してれば終わっちゃうよ﹂
﹁アキラ⋮⋮﹂
﹁感性も品性もないどっかの誰かと美月ちゃんはぜーんぜん違うと
思うわ﹂
繊細な美月様とお前を一緒にするな、と遠回しに言って来る上都
賀さん。
﹁そりゃあたしと姉さんは違うけど。そのパーティの話敬吾さんか
ら聞いたよ。なんだっけ、留学してたどっかの御曹司が鳳雛に帰っ
てくるっていうんでしょ? それのお迎えパーティ﹂
﹁そう、鷹津家の﹂
﹁ああ、それなら僕も聞いた﹂
﹁私も﹂
次々と上がる声。
﹁なんだ、みんな知ってるんなら、どうせパーティにも呼ばれるん
でしょ? 姉さん、深く考えずに友達に会いに行くって思えばいい
んだよ﹂
﹁あ、そっか。みんなも来るんだ﹂
﹁そうそう。それに⋮⋮﹂
﹁え、何?﹂
思わせぶりに言葉を濁してみると、思った通り美月様は食いつい
た。
﹁鷹津家の御曹司。イケメンかもよ?﹂
﹁もー、またソレ!?﹂
美月様はむくれたが、それを聞いて穏やかでないのは周囲を囲む
男たち。愛しい美月様が他の男にとられてはたまらないのだろう。
﹁僕も絶対参加するよ。元気だして、美月さん﹂
﹁俺もだよ!﹂
﹁そうよ、私もうかがうことになるはずよ﹂
﹁ありがとう、みんな!﹂
31
チョロいものだ。
今朝敬吾さんから返された手帳に記入されていた、﹃鷹津家のパ
ーティ出席の説得﹄というミッションは見事クリア。
ずうっと遠くまで続く真っ白な鳳雛学園の外壁沿いは、生徒用の
遊歩道になっている。規則的に並んだ銀杏の木は鮮やかな緑色の葉
をつけていた。美月様の笑顔も戻ったし、こんな気持ちがいい日な
ら眠くもなる。
一安心したあたしは、また大きなあくびをした。
あたしの役目は、使用人の目が届かない学校生活が中心になる。
しかしクラスが違うから、実際に動ける時間は限られる。
昼休み、美月様のご機嫌伺いのために隣のA組をのぞきこむ。週
に一回か二回、不定期で昼食を一緒にいただくのだ。
白河アキラの登場すなわち避難警報、とすでにA組では決まって
いるらしく、あたしの姿を見ただけでそそくさと教室から逃げる影
がちらほら。
でも美月様はいつだって同じ反応だ。
﹁アキラ! 一緒に食べよ∼!﹂
﹁うん、姉さん! おっじゃましま∼すっ﹂
満面の笑みで手を振る美月様のもとにスキップ気味で近寄ってい
くあたし。ひきつる美月様のお友達のお顔。若干机も美月様から遠
ざけている。
いつものようにあたしを見とめた上都賀さんはお弁当の包みを持
って立ち上がると、﹁じゃあまた後で﹂と教室を出ていった。そう
そう、﹁美月ちゃんは好きだけど、問題児の妹とは一緒に食べたく
ない﹂と堂々宣言しちゃうようなところも好き。
いなくなった上都賀さんの席に座ると、美月様はこてんと首をか
32
しげて問いかけた。
﹁アキラはお弁当中身なに?﹂
﹁辰巳お手製の豆腐ハンバーグ。じゃーん﹂
﹁おいしそう! さすが辰巳さんっ﹂
美月様は今朝の不安もすっかり消えたようで、つつがなくお過ご
しのようだ。顔色もよく食も進んでいる。あたしも食べようとした、
その時。
きゃあとざわめく歓声、近づく足音。
ふり返らずともわかる厄介な集団の登場に、あたしの顔はひきつ
っていく。こいつらには会いたくなかった。けど、ここへ来たのは
正解だった。
﹁こんにちは、白河さん。ちょっと話したいんだけどいいかな﹂
長ったらしい前髪も似合ってしまう細面の甘いマスク、上背のあ
すずめの みつや
る体、穏やかな物腰。
彼こそは雀野光也。三年A組に在籍し、学年トップの成績を誇る
頭脳と魅力的な容姿、もとは某藩の御典医であった立派な家柄とい
う合わせ技でもって、鳳雛学園のトップたる生徒会会長に君臨する
男だ。
﹁雀野先輩。こんにちは!﹂
明るいお返事、とっても良い子。
しかし美月様、それはいけません。こいつが何しに来たのかは明
白ですよ。
あたしは美月様に変わってしっかりお返事してあげることにした。
﹁かいちょーう、何回来たってだめですよー。姉さんは生徒会には
入らないよー﹂
﹁あっ⋮⋮﹂
33
あたしの発言からようやく雀野の目的がわかったようで、美月様
は途端にしゅんと肩を落とす。
﹁白河さん。生徒会の件、考えてもらえた?﹂
だから断ってるでしょうが、というのはこの男には通じない。先
ほどからあたしのことなど眼中にないのだ。こういう性格の悪さに、
なぜ全校生徒たちは気付いていないのか。
﹁ごめんなさい、先輩。わたし、やっぱり生徒会なんてスゴいとこ
ろに入る自信がなくて⋮⋮﹂
美月様は箸をおき、心底申し訳なさそうに頭を下げた。その様子
には関係ないあたしの心まで痛んでくる。雀野も同じなようで、柳
眉をひそめて言い募った。
﹁そんなことを言わないでほしい。君はとても優秀で、すばらしい
生徒だと評判だよ。僕自身そう思っている。これからの生徒会には、
君のような役員が必要なんだ﹂
さりげなく美月様の肩にふれる雀野。
あたしは勢いよく立ち上がり、その手を両手でがっと握りしめた。
﹁えええ∼! 姉さんをそこまで認めてくださってあたしも嬉しい
∼! でもォ、まだ入学して一ヶ月ですよぉ? そんな大役、さす
がにかわいそうっていうかァ∼。あ、でも、お茶くみとかのお手伝
いだったらあたしがやっちゃおうかな! ね、ね、どうです? 会
長!﹂
ねっとりと甘い声を出して体をぐいぐい押し付けると、雀野は微
笑みを凍りつかせて押された分だけ後ろに引いた。
﹁離してもらえないかな、今は大事な話をしているんだ﹂
﹁聞いてますよぉ、だから、あたしがこうしてお話してるんじゃな
いですかァ!﹂
互いに笑顔だが、あたしと雀野の目は笑っていない。
迷惑なことに、この雀野は美月様が入学当初から特別お気に入り
34
のようで、こうして度々やってくる。そして生徒会入りを促すのだ。
基本的に選挙制をとっている生徒会役員だが、既存の役員は優秀
な生徒を推薦し﹃生徒会役員補佐﹄に任命することができる。
つまり雀野は美月様を補佐に任命し、今から手元に置いておこう
というのだ。
確かに美月様は優秀だ。華も実力も人望もある。だが、敬吾さん
は美月様が生徒会に加わることに難色を示している。
鳳雛学園における生徒会は普通の高等学校とは違う。生徒会役員
であった、という事実は卒業後も使える立派なステータスとなるの
だ。なんと歴代生徒会役員だけによって構成された鳳凰会というO
B・OG会組織まである。その構成メンバーは錚々たる顔ぶれで、
まさに国を動かしている人間ばかりだという。
つまり、生徒会に入りたいと望む生徒はとても多いのだ。彼らは
一様に優秀で、華もあり、真剣だ。それぞれの得意分野で輝かしい
功績を残している。いくら美月様であってもいきなり生徒会補佐に
なったら反感を買うだろう。それが怖い。今だって若干の嫉妬混じ
りの目が向けられているのだ。
美月様が生徒会に入るのであれば、学年が上がってからで十分だ。
それに、とあたしは手により力をこめつつ雀野を睨む。
こいつは思いっきり美月様に下心を持っている。
させるか! とあたしは美月様の盾となっているのだが、悲しい
ことに敵が多すぎた。
あまみや しょうこ
﹁ねえ、美月さん。わたしの力になってほしいの﹂
﹁雨宮副会長まで⋮⋮﹂
シャープな眼鏡が似合う知的美人、三年の雨宮祥子副会長。生徒
会の紅一点だ。レースの白い手袋に包まれた指が、美月様の手をし
っかりと握りしめている。
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﹁アレの言うことなんて聞くことないよ。美月ちゃん、オレと生徒
会やろ?﹂
ワックスではねさせた髪は少々ちゃらけた雰囲気があるが、ただ
はせ かなめ
歩いて美月様を覗き込む、というだけの所作が実に優美だ。二年、
書記の初瀬要、華道家元の息子なだけはある。
﹁えっと、ええっと⋮⋮﹂
﹁姉さん!﹂
少し目を離すとこれだ!
雨宮も初瀬も、美月様がお気に入り。どういうワケか入学早々、
美月様は生徒会役員全員から気に入られてしまっている。気難しい
気位の高い連中だというのに、あっさり懐に入り込んでしまうなん
て、美月様は本当にすごい方だ。
だが、人がよすぎる。
左右から加えられた圧力に負けそうになっている美月様の下にあ
わてて戻ると、下心満載の生徒会役員のと間に割って入った。雨宮
と初瀬は雀野と違い、あからさまにむっとした顔を向けてくる。
﹁邪魔しないでくれない? 美月さんのかわいいお顔だけが見たい
の﹂
﹁何が起ころうとアンタは補佐にしないからさー。化粧臭い、どい
てよ﹂
﹁そんなァ! 姉さんのそばにはあたしがいるってのが常識だしぃ
?﹂
﹁その常識どこかへやってくれないかしら。すごく迷惑だわ﹂
迷惑なのはこっちだ。
毎度毎度断る身にもなってほしい。すでに生徒会からの集団襲撃
は三回目、最近では﹁あの悪魔が生徒会役員様方の邪魔をしている
!﹂﹁それを必死で止めようとする美月さんはやはり天使﹂という
謎の噂が広まっているようだが、まあそれはいい。
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﹁そろそろ諦めてくれませんかねェ∼。ほんと﹂
あたしはイライラと口調を荒げた。
﹁だいたい、生徒会補佐って一年生からの任命は九月からでしょ?
今五月なんですけど﹂
﹁優秀な人材であれば、時期なんて関係ないよ。僕には今すぐに白
河さんが必要なんだ﹂
にっこりとほほ笑む雀野は、あたしを通り越して美月様だけを見
つめている。
﹁姉さんが優秀なのは周知でしょうけど、規則を曲げてまでするこ
と? それで姉さんが﹃ナマイキ!﹄って目ェつけられたらどーし
てくれんの?﹂
﹁そうならないよう、わたしが美月さんをしっかり守るわ。必ずね﹂
雨宮の垂れ気味の色っぽい目に獰猛な光が宿る。お嬢様、ちょっ
とそれは物騒すぎやしませんか。
だが負けるわけにはいかない。静かな睨みあいが続く。⋮⋮って
ちょっと、横で美月様怖がってるじゃないですか! もー!
﹁あれー、姉妹なのに、弁当の中身違うんだな﹂
いけのうち まさき
あたしの肩越しに顔を突っ込んできたのは、二年池ノ内正輝。生
徒会書記だ。よく日に焼けた長い腕で空いている椅子を手繰り寄せ
ると、あたしたちのそばにどっかりと座った。
﹁あっ、池ノ内先輩﹂
﹁昼混ぜてー﹂
﹁いいですよ! どうぞ﹂
話題が変わったことにほっとしたように言う美月様。
﹁正輝、今はそれどころじゃ⋮⋮﹂
止めようとした初瀬に、池ノ内は持っていたパンを突きつけた。
﹁今は昼休みだろー? 今じゃなくていつ食べるんだよ﹂
池ノ内は、大きな口でパンにかじりつく。
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﹁白河の弁当うまそうだな﹂
﹁わたしのは美代子さんっていう人が作ってくれるんです。アキラ
のは辰巳さんが担当で﹂
﹁ミヨコさんとタツミさん? ああ、家政婦さんか。さすがお嬢様、
姉妹で別々にお弁当作ってるとはね。俺と兄貴なんか毎日パンかコ
ンビニ弁当だよ﹂
池ノ内は大きくため息をついて美月様を笑わせる。
﹁そのコロッケパンも美味しそうですね。今度食べてみようかな﹂
﹁なら一口かじる? 弁当ちょっとくれよ、交換﹂
﹁ふふっ、いいですよ!﹂
ラッキー、と池ノ内が美月様のお箸を受け取ると、生徒会役員を
含めた教室の空気がキッと鋭くなった。きっとみんなの心は今一つ
になっている。
天使との間接キスだと!!?
大丈夫だ、教室にいる美月様ファンの紳士たち。ついでに一部い
るであろう池ノ内ファンの淑女。ここはあたしに任せてほしい。
あたしはお弁当箱を入れる巾着の中から、さっとある物を取り出
して池ノ内につきつけた。
割り箸だ。
ほっとゆるむ教室内の緊張感。さっきまで鋭かった生徒会役員た
ちの視線まで、あたしに﹁グッジョブ!﹂と語りかけてくるようだ。
﹁池ノ内先輩、コレ使って﹂
﹁おっ!? お前準備いいなー﹂
﹁はい、姉さんはおしぼり。手ふいてからちぎって食べて﹂
﹁ありがと、アキラ﹂
﹁さんきゅ! 使わせてもらう﹂
38
池ノ内はどれ食おうかな∼と美月様のお弁当の上で、お箸をさま
よわせた。そこへさらに彼を惑わせる天使の声。
﹁実は、この中にわたしの作ったおかずが一品入ってるんですよ!﹂
﹁えっ、まじ!? すげー。俺当てる﹂
えっ、そうなの?
また教室中の心の声が聞こえてくる。
無念だが、あたしにできるのは割り箸を差し出すことまでだった。
手のひらを返したように﹃お前のせいで天使の手料理が⋮⋮﹄とい
う怨念を飛ばすのは止めていただきたい。
飛ばすなら池ノ内にしろ。
池ノ内、これくらいに耐えられなければ美月様と添うことはでき
ないぞ。がんばれ。
そんな周囲の思いを知らずに、まるで付き合いたてのカップルの
ような初々しい会話が隣で続く。
﹁これにしよう! 肉巻きアスパラ﹂
﹁きゃあ、正解!﹂
﹁うん⋮⋮。ウマイ!﹂
﹁わ∼い、嬉しい!﹂
それに慌てる雀野、雨宮、初瀬。
﹁え!?﹂
﹁ちょっとズルくない!?﹂
﹁そうよ、わたしだって食べたい!﹂
とりあえず納まった﹃美月様勧誘騒動﹄に一息つき、新たに勃発
した﹃美月様お弁当騒動﹄でわあわあ騒ぐ方々をぼんやりと眺めな
がら考える。池ノ内、ポイントリード。
池ノ内は二代続く政治家の息子かァ。
将来出馬しそうなのは現在大学生の長男のほうだが、白河の血は
39
あって悪いものじゃない。格式と言う点では劣るが、池ノ内は悪く
ない物件だ。ちょっと天然ぽやぽや夫婦になりそうな危険はあるけ
ど、そこはあたしと敬吾さんがバックアップするとして、クリーン
で健康的な幸せ夫婦ってことで印象は良いかも⋮⋮。
美月様の将来設計に想像を膨らませながら、あたしはようやく席
について豆腐ハンバーグを口に運ぶ。
うん、冷めててもおいしい。
それが表情で伝わってしまったのか、戦地から抜け出した池ノ内
はとんでもないことを言いだした。
﹁なァ、白河妹。俺、そっちのハンバーグ食いたいんだけど﹂
﹁はァ? 姉さんの肉巻きアスパラ食べたじゃないですか﹂
﹁豆腐ハンバーグは食ってない﹂
﹁あたしパンいらないもん﹂
﹁じゃあヨーグルト一口やるから﹂
﹁ええええェ?﹂
あたしが露骨に顔をしかめると、何に火がついたのか池ノ内はく
っきりした眉をハの字に曲げて両手を合わせてきた。
﹁なあ、頼む! 半分でいいから!﹂
快く弁当を分けていた美月様は、あたしのほうを向いてわずかに
顔を険しくする。
﹁アキラ、いじわるはだめだよ?﹂
ええー、いじわるじゃないです。だが、美月様には逆らえない。
あたしは渋々お弁当箱を池ノ内に差し出した。
﹁半分ですよ?﹂
﹁やったー! さんきゅな、妹!﹂
﹁池ノ内先輩も、妹、なんて呼び方ダメですよ。ちゃんと名前で呼
んでお願いしなきゃ﹂
﹁そっか、悪い。ありがとな、アキラ!﹂
﹁⋮⋮ドウイタシマシテ﹂
40
妹呼びも気持ちのいいものではないが、名前も嫌だ。白河でいい
んだけど、それだと美月様とかぶるし⋮⋮。複雑だ。
池ノ内はにこにことあたしのお弁当箱にお箸をつっこみ、ハンバ
ーグをさらっていった。
﹁おお、すげーうまい! アキラの手作り?﹂
﹁あたしが料理なんてできるワケないじゃん。姉さんマジすごい﹂
そうだろうな、もっともだ、と鼻を鳴らしている雨宮たちと違い、
池ノ内は豪快に笑った。
﹁俺も俺も! 全然できない! アキラいいなァ、料理上手な家政
婦さんがいて﹂
池ノ内につられたようにニコニコ顔の美月様に、あたしは文句を
言う気が失せた。それに辰巳を褒められるのは嬉しい。
﹁ありがとうございます。伝えておきます﹂
﹁うん。今度はもっと大きい弁当箱にして、多めに詰めてもらって。
俺の分﹂
﹁それは⋮⋮んっ﹂
伝えない、と言おうと口を開けた、その時。あたしの口にプラス
チックのスプーンが突っ込まれた。
パイナップルの切れ端の混じったヨーグルト。
﹁お礼!﹂
﹁よかったねー、アキラ! 池ノ内先輩と仲良しだね!﹂
よくない。っていうかコレじゃあたしと池ノ内が間接キスじゃん。
どうしてくれんの。今、あたしの背中に池ノ内ファンの鋭い視線が
ぶっすぶすに突き刺さってんですけど。﹁何あれ、池ノ内先輩に色
目つかって、はしたない﹂って声、念波じゃなくて直に今はっきり
聞こえたんですけど。
41
池ノ内正輝のデータを更新、ヤツは要注意人物だ。
今日のことを辰巳に言ったら、絶対すっごく怒るな。黙っていよ
う。
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天使と生徒会︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
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悪魔と風紀委員長
体育の授業を受けている生徒たちの声が聞こえる。
淡々と美しい数式を黒板につづる教師の背を見ながら、生徒たち
は一心不乱に授業に臨んでいる。夏を迎える前のすがすがしい風に
眠気を誘われている一部をのぞいて、ではあるが。
あたしはどちらかというと、両方だ。
さすがのあたしも授業妨害のようなマネはしない。教室窓際一番
後ろという最高の席にどっかりと足を組んで座り、一言も発せず、
頬杖をついてうとうとしているだけだ。
だが実際は寝ていない。空いている右手は案外せわしなく動き続
け、あたしの男みたいな角ばった字でノートをとっている。
授業中にノートをとるのは当然の行為だというのに、あたしのノ
ートはなぜかクラスでは﹁閻魔帳﹂という物々しいあだ名がつけら
れている。そこにはあたしの悪だくみや、陥れてきた人物の秘密な
どが書かれているらしい。なんのことやら。
﹁今日はここまで﹂
教師がそう言うと、あたしはぐーんと立ちあがって伸びをした。
それだけの動作なのに、びくっと体を震わせる前の席の気弱系男子。
なんにもしないよ。
閻魔帳を大事にしまってから、あたしはポーチを持って教室を後
にする。ポーチには化粧品と、お気に入りの棒付き飴が入っている。
砂糖と水と醤油のごくごくシンプルで素朴な味わい、夕日を溶かし
たみたいな美しい飴だ。
44
飴をくわえ、さて、とあたしは気合を入れる。これから休み時間
の定期巡回だ。美月様のA組を過ぎるとトイレもあるので、化粧直
しのフリをしてさりげなく中を確認することができる。そのまま中
庭を通る渡り廊下を進み、食堂前の自販機でジュースを買って、だ
らだらと教室に戻るのが一連のコースだ。
教室を出ると、ちょうど廊下にいた美月様はあたしを見つけて大
きく手を振った。珍しく一人で、おかげで誰に嫌な顔をされること
なく美月様の側に行けた。
﹁アキラ! ちゃんと授業出てる?﹂
﹁出てるよー﹂
﹁いい子!﹂
ふふっと笑う美月様はとても愛らしい。
﹁でも棒をくわえながら歩くと危ないよ?﹂
﹁ん﹂
これが他の相手であれば決して飴を離しはしないが、美月様であ
れば別だ。あたしはがりがりと飴をかみ砕き、残った棒をゴミ箱に
捨てた。すると美月様は腕を伸ばして、自分よりわずかに高い所に
あるあたしの頭をなでてくれた。
﹁あ、アキラのべとべと取れたね﹂
﹁え? あ、唇?﹂
捨てた棒についたグロスの跡に、あたしはポーチからリップグロ
スをとりだした。鏡を見ずに器用にぬるあたしを、美月様は大きな
目でじっと見つめてくる。
﹁ねえ、アキラ。べとべとするのイヤじゃないの?﹂
いかにも美月様らしい言葉に、あたしは光る唇でにこっと笑った。
﹁ええー、キラキラするのがかわいいんじゃん﹂
﹁ふぅん﹂
あたしはティアラのマークのついた、ピンク色のかわいらしいリ
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ップグロスの容器を振って見せる。
はちみつ配合というのも伊達ではないらしく、甘い香りとぺっと
りした感触が強い。あたしもこの唇、髪にひっつくと厄介だからあ
まり気に入ってはいないのだが、こういった装いをしていたほうが
何かと都合がいいのだ。見た目でわかる、お利口な姉とおバカな妹
! そんなあたしの心を知らず、上目遣いにあたしを見る美月様の目
に興味の色が浮かんだ。ここは心を鬼にする。美月様には必要時以
外の普段メイクは推奨しないのだ。
﹁でもォ、天然ピンクの唇の姉さんにはこっちのがいいんじゃない﹂
﹁え、コレ?﹂
あたしが渡したのは無着色無香料の、お子様でも使えるリップク
リーム。これこそ三舟さん推奨品だ。
﹁むぅ。これ、小学生のときから変わってないよ﹂
﹁あはっ! 姉さんには十分ってコト﹂
﹁あーっ、ひどい、アキラ!﹂
つんと尖らせた唇は十分瑞々しい。天使を悪魔の品のない持ち物
で汚すなよ!と無言の圧力をかける連中に言ってやりたい。安心し
ろ、そうはさせないから。
美月様はあたしのマネをしたがるが、それは許されない。
あたしは美月様の引き立て役であり、反面教師とならなければい
けないのだ。
でなきゃ、ホラ。
﹁白河アキラくん、待ちなさい﹂
﹁あああああ! また出た!!﹂
場の空気を一瞬でぴりっと引きしめさせるその男の登場に、もう
恒例行事となりつつある問答が始まろうとしていた。
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美月様の後ろにわざとらしく隠れるが、にっくき風紀委員長は見
逃してはくれない。城澤は眉間にシワを寄せて苦々しく言った。
﹁また君は、唇をそんなに光らせて﹂
﹁もォおおお。しつこいよ∼。これくらいいいじゃん、マジうざい﹂
﹁いいわけないだろう。反省文の準備はできているぞ﹂
﹁やだっ!﹂
﹁やだ、ではない。前回言ったはずだ。次はない、と﹂
﹁それで張ってたワケ!? 意地悪すぎ!﹂
﹁違う。たまたま通りかかっただけだ﹂
﹁うううううう﹂
口には絶対に出さないが、この城澤には大変お世話になっている。
利用している、ともいえるが。
公正公明、カタブツ委員長が多くの生徒の前であたしを叱る。見
るからに素行の悪そうな妹、それを必死にかばう姉。実にわかりや
すく差を引きたててくれるのだ。ついでに、﹁グロスでテカテカの
唇も乱れた制服もよくないことなんだなァ。やっぱりやめよう﹂と
あたしのマネをしたがる美月様を止める助けともなる。こいつがあ
たしを叱れば叱るほど美月様の株があがる不思議。
シチュエーションはいい。あたしのこの頭の悪そうな格好は、そ
のためにやっているのだから。
だが、反省文はイヤだ。
美月様と別れて別室に閉じ込められたら、その間どう彼女を見守
ればいいのか!
﹁ごめんなさーい、ちゃんとするから!﹂
あたしはあわてて唇をティッシュでぬぐうが、べたべたはそう簡
単に落ちなかった。
﹁だめだ。放課後、必ず風紀室に来るように﹂
困る! 放課後は美月様の帰宅確認とその他のフォローでたいへ
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ん忙しい。城澤の相手をしている暇はない。
﹁ううっ、姉さァん! たすけてっ﹂
﹁城澤先輩⋮⋮っ!﹂
美月様はうるうる上目遣いおねだりをするが、城澤はその必殺技
が効かない数少ない男だった。
﹁白河美月くんは関係ない、黙っていなさい。アキラくん、気が変
わった。放課後、俺が迎えに行くから必ず教室に残っているように﹂
﹁ぎゃーっ! 余計にひどくなった!!﹂
これは演技ではない、本心からの叫びだ。効かないとはわかって
いながらも、上目遣いでどうにかしてくれ!とすがりたくなる。
﹁さわがしい。早く教室に行きなさい﹂
ぷいっと顔をそむけた城澤はそれきりふり返らず、どれだけあた
しが文句を言っても聞こうとしなかった。
最悪!
あたしの機嫌は底を這い、その後の授業で真面目にノートをとる
手にも無駄な力が入る。そのため今日の﹁閻魔帳﹂には呪いが刻ま
れている、悪魔に呪われて風紀委員長、死ぬんじゃないか?とクラ
スメイトたちはいつも以上に恐れおののいていた。
今日は昼休みのうちに美月様の下駄箱チェック、ロッカーチェッ
ク︵体操着やら何やらが盗まれる可能性がある︶、昼食を共にした
友人のチェックを大急ぎですませた。おかげで昼を食べのがす。せ
っかく作ってくれたのにごめん、辰巳。今日は手紙もなく、怪しげ
な呼びだしもなかった。これなら放課後、城澤につかまってもなん
とかなるだろう。
だけどなァ、とあたしはため息をこぼす。
美月様はひどく温厚で、真面目で、素直な良い子だ。しかし時に
こちらがびっくりするほどの騒ぎを起こす。気付いたら生徒会連中
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と仲良くなっていたのが良い例だ。
逃げちゃおうかな。
帰る前のホームルーム中まで、ずっと悩んでいたのだけれど。
﹁きゃあ、城澤先輩!?﹂
﹁なんでここに!?﹂
終了のチャイムと同時に開いた教室後方の扉の前でたたずむ城澤
に、あたしは抵抗する気も失せた。
﹁いいんちょー、あたしちゃんと行きますよ﹂
﹁君は油断ならない﹂
﹁腕いたい﹂
﹁痛くないはずだ。力は加減している﹂
城澤はあたしの手首をそのでかい手でしっかりとにぎり、風紀室
へ連行した。逃げないというのに、まったく聞こうとしない。
おかげで委員会ごとの部屋や文化部部室がある特別棟まで連行さ
れるさまを、他の生徒たちにばっちり見られてしまった。
﹁いよいよ年貢の納め時か﹂﹁やだ、城澤先輩の手が汚れちゃう﹂、
そんな声があちらこちらから聞こえる。まったく失礼だ。
特別棟最上階は階下のざわめきが遠くに感じるほど静かだった。
この階は大会議室の他、生徒会室と風紀室しかない。それだけ広々
と空間を贅沢に使えるのは、この学園内でその二つの組織が最も大
きな力を持っているからだ。風紀室は階段手前のやけに立派な扉の
奥にあった。
手前は応接スペースで、ローテーブルを囲むように革張りのソフ
ァが置かれていた。右をみると通常のデスクが四つあり、その奥に
﹃風紀委員長﹄と書かれた三角のプレートが立つ大きな机がでんと
居座っている。壁際はファイルや書籍が詰まった本棚が並ぶ。ゆっ
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たりとしているはずなのに、どこか息苦しい。ちょっとした置物も
観葉植物もない、殺風景な部屋だからだろう。
﹁あれ、誰もいない﹂
﹁他の委員は放課後まず校内巡回をしてからここに集まる﹂
﹁へェ、そうなんですか﹂
﹁こっちに﹂
城澤はあたしの手をひいて、さらに奥へと誘った。
そこには更に扉があった。なんとも恐ろしいことに、取っ手のと
ころにツマミがある。つまり、この扉は中から閉めるのではない。
外側から鍵をかけることができる扉なのだ。噂には聞いたことがあ
ったが⋮⋮。
﹁ここがお仕置き部屋﹂
﹁違う。反省室だ﹂
促されて入ってみると、そこは真っ白な壁に囲まれた、教室机と
椅子しかない狭い小部屋。小さな窓があるものの、それはあたしの
頭よりもっと高いところにある。よく刑事ドラマで出てくる取調室
が連想される、嫌な部屋だ。
﹁さて、反省文は初回だから三枚にしよう。使うのは鉛筆だ﹂
シャープペンさえ使えないとは!
先のとがった鉛筆と消しゴム、そしてまっさらな原稿用紙がすで
にセッティングされていた。
﹁うう、ホントにこんなとこで書くんだ﹂
﹁反省のためにな﹂
﹁鍵、閉めるんですか﹂
﹁必要があれば。だが、今回は閉めない﹂
城澤はあたしをおいて一度小部屋を出ると、パイプ椅子を持って
戻ってきた。
﹁俺が見ているからな﹂
﹁ええっ、それもヤダ!﹂
50
﹁つべこべ言わずさっさと書いた方が身のためだ﹂
あたしは顔をしかめたが、城澤はとんとん、と白紙の原稿用紙を
指さすだけだ。
﹁わかりました、書きます。すぐにおわしますから﹂
﹁そうしてくれ﹂
口調こそ淡々としたいつもと変わらない城澤だが、どこか満足気
に見えるのはあたしの気のせいだろうか。苛立たしい。
しかし、鋼の男、と呼ばれるだけある。城澤はしつこいまでにあ
たしを追いまわした。
普通なら他の教師たちのように呆れるか諦めるかするだろうに。
覚悟を決めたあたしは、よく先のとがった鉛筆をとり、勢いよく
書き始めた。内容は書きながら考える。
城澤はトレードマークである眉間のシワをそのままに、あたしの
手元をのぞきこんでいた。
書くこと五分。とりあえず言葉を変えつつひたすら謝罪を繰り返
す。
﹁⋮⋮きれいな字だ﹂
﹁はい?﹂
ぽつ、とつぶやかれた言葉に、あたしは聞き返すが、城澤は返事
をしない。なんだ、こいつは。あたしははらりと耳から落ちた髪を
はらいのけ、更に鉛筆の勢いを増した。よし、一枚目、あとちょっ
と。
﹁髪の毛が邪魔だろう﹂
﹁ええ、まあ﹂
うるさいな。
城澤はポケットから何かとりだすと、おもむろにあたしの背後に
まわった。ただでさえ狭いのに後ろに入り込まれると距離が近い。
﹁え、何するんですか﹂
﹁いいから、書いていなさい﹂
51
﹁へ?﹂
ぱっと広がる視界。なんと城澤はあたしの髪を両側からすくいあ
げ、手櫛ですき始めた。
﹁ちょ、なんですか?﹂
﹁いいから﹂
いいから、じゃないんですけど。
あたしの髪は猫っ毛で量が多い。柔らかさとツヤには自信がある
が、まとまりにくいのが難点なのだ。城澤はあたしの頭を何度もな
でるようにしながら、髪を頭の後ろに一本にまとめあげていく。い
わゆるポニーテールだ。
﹁うん﹂
毛先を整えて尻尾をなで、一人満足そうに城澤はうなずいた。
﹁すっきりしていい﹂
﹁⋮⋮どうも﹂
﹁毎朝こうしてきなさい﹂
﹁⋮⋮考えときます﹂
反抗心が首をもたげたが、ここで口答えして反省文の枚数を増や
されても厄介だ。
﹁髪が茶色がかっているのは、地だな?﹂
﹁はい。姉さんもそうでしょう﹂
﹁そうだったかな﹂
﹁見ていないんですか?﹂
﹁そんなところまで覚えていない﹂
あれ、とあたしは思わず手を止めてしまう。
あれほど人気のある美月様、柔らかい栗色の髪に触れてみたいと
よく言われているのに。ましてや城澤はあたしを叱るついでに何度
も美月様と会っているはずだ。
﹁委員長、姉さんに興味ないんですか﹂
﹁興味とはなんだ。彼女はきみと違って、俺が気にかけるような不
真面目な生徒ではなかったはずだ﹂
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それを聞いて少し残念に思う。うすうす感じてはいたが、本当に
城澤は美月様に魅力を感じていないらしい。城澤は某一流大学教授
の息子だ。実は当主様に報告する美月様の婿候補にリストアップし
ていたのだ。
﹁姉さん、あんなにかわいいのに﹂
もったいない。
その言葉を飲み込み、反省文に向き直ろうとしたあたしを、また
もや城澤は邪魔をした。くい、と結んだ髪をひっぱったのだ
﹁もー、なんですか﹂
﹁唇、光らせていないな?﹂
﹁怒られたから止めましたよ﹂
﹁そうしていなさい﹂
﹁はいはい﹂
﹁返事は一回﹂
﹁はァい﹂
﹁うん﹂
よくできた、と言わんばかりに、城澤はあたしの頭をなでた。
﹁俺は、そう素直にしているきみのほうがよほど︱︱︱︱︱︱﹂
﹁委員長、大変ですっ!!﹂
何か言いかけた城澤をさえぎり、足音を響かせて飛び込んできた
のは、腕に風紀の腕章をつけた男子学生だった。
﹁なんだ、騒がしい﹂
﹁大変なんですっ、天使がっ。学園の天使がっ!!﹂
﹁天使? 何を寝ぼけている﹂
﹁姉さんがどうした!?﹂
学園の天使っつったら美月様しかいないだろうがっ!!
鈍い城澤を押しのけ、あたしは男子学生の胸倉をつかんだ。
53
﹁早く言えッ! 何があった!﹂
﹁し、白河さんが、校舎裏のゴミ捨て場辺りで⋮⋮! ふ、不良の、
東条にからまれていると報告が⋮⋮!!﹂
ぞわ、と首筋が泡立つ。
あたしは男子学生を放りだすと、わき目もふらずに走り出した。
54
悪魔と風紀委員長︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
55
悪魔と不良と天使
学園内の有名人といえば、生徒会役員や委員長クラスの役職持ち、
美月様のような特殊な家柄の人間が挙げられる。才能、血筋、社会
とうじょう あきひこ
的地位、そういったものが生徒のステータスとして評価されている
のだ。
だが、二年D組・東条彰彦は違う。
名門・鳳雛学園でも腐った生徒はすこ∼しばかりいる。あたしも
その一人として振舞っているのだが、あっちは本物だ。しかも、学
園内の腐れた連中のトップ。
極道の組長の息子だとか中国系マフィアの妾の子だとか言われて
いるが、れっきとした大会社の息子である。しかし歴史は浅く、金
融会社界隈で一躍名乗りを上げた彼の父親が一代で築いたともいえ
る家だ。
家への反発か若気の至りかは知らないが、喧嘩に酒に煙草に女、
とにかく素行が悪いの一言に尽きる、らしい。少なくとも白河家の
事前調査ではそうだった。
あたしみたいに見せるための不真面目さなどかわいいものだ。
とにかく、美月様の婿候補どころかブラックリスト入りしている
要注意人物なのだ。
絶対に近づかせないようにしてたのに!!
最短距離で廊下を駆け抜ける。
放課後は人気のなくなる実験棟の裏側、普段なら静まり返ってい
るはずなのに、今日に限っては怒鳴り声が響いていた。
56
﹁だから、黙れって言ってんだろうが!﹂
それに負けじと響く美月様の声。
﹁黙ってられないから言ってるんじゃない! 煙草って害があるし、
周りの人にも良くないの! やめた方が絶対に良い!﹂
﹁キャンキャンうるせーなぁ⋮⋮﹂
東条は三白眼を不機嫌そうに細めて美月様を見下ろしているが、
美月様はおびえた様子もなく真正面から睨みつけている。身長差は
およそ三十センチ、ばくっと頭から食べられてしまいそうだ。
﹁ちょおっと待った!﹂
あたしは勢いを殺さずに開いていた窓からひらりと飛び降りた。
もちろん上履きのままだ。
美月様の側にあるパンパンのゴミ袋、東条の足元にある飽き缶、
そして煙草の吸殻。状況はすべて読めた。
美月様と東条の間にすべりこむと、あたしは美月様の肩をがくが
くとゆさぶった。
﹁姉さ∼ん、なんでこんなトコいるの! 探したじゃん! 風紀か
ら逃げるの手伝ってもらおうと思ってたのにィ∼!!﹂
﹁あ、あきら、ちょっと、苦しい﹂
﹁ごめんごめん! じゃ、いこ!﹂
﹁オイ、こら待て﹂
﹁失礼しま∼す﹂
﹁こら!﹂
東条は低く唸る。赤茶色のベリーショートのこめかみには青筋が
立っている。
﹁いきなり割り込んで何言ってんだ、お前﹂
﹁いやー、すみませんすみません﹂
﹁そうよ、お姉ちゃんは今この人と大事な⋮⋮﹂
﹁姉さんはちょっと、しー、ね﹂
﹁俺はそのねーさんと話してんだよ、どいてろ﹂
57
ぱん!
あたしの肩越しに美月の腕をつかもうとした手を、音高く鋭く払
いのけた。
驚きで目を丸くする東条に、あたしはふり返って静かに言った。
﹁姉さんに触るな﹂
﹁⋮⋮⋮お前﹂
東条は払われた手をそのままに、あたしと美月様を交互に見る。
﹁こら、アキラ!﹂
﹁あっ、やだ! あたしったら! ごめんなさい、東条先輩! 当
たってしまいました、悪気はないんです!﹂
あたしは素直にがばっと頭を下げた。そしてくるりと回って姉さ
んに向き直りすうっと息を吸う。
﹁もー、姉さんったら、東条先輩に何言ったのォ? 相手は先輩、
人生の先駆者! そんな相手にタメ口で、しかもヒトの趣味嗜好に
口出しするのはどうかと思うなァ﹂
﹁だって、煙草は体に⋮⋮﹂
﹁うん、良くないよね? っていうことは姉さんも煙吸っちゃ大変
だよ! 近寄らないが吉! それを止めようとした姉さんはホント
優しいよね。そうだよね、煙草なんて税金の塊で高いばっかりで体
に悪くていいことなんてないよね! ましてや未成年だもん! で
もね、そのリスクを自ら背負おうとしているヒトもいるんだよ、東
条先輩はその筆頭なんだよ、でなきゃあんなでっかく﹃害がありま
す﹄って書いてあるパッケージのブツに手を伸ばすワケないじゃん
! こんな人気のない場所にひっそりいるのも、周りに気を遣って
のことなんだよ、今や喫煙家には肩身がせまい世の中だからね、こ
うして隅っこに追いやられてる姿はむしろ哀れ!? なのにわざわ
ざ吸ってるんだもん、きっと辛い事情があるんだよ、そうだよ、そ
58
うに違いない。だからあたしたちにできることは、ああやって自分
をいじめ抜いているんだね、修験者なんだね、チャレンジャーなん
だねって見て見ないフリすることだけなの! オーケー?﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁そうなの!﹂
﹁⋮⋮そう、かァ﹂
自分でやっておきながら、こうも素直な美月様にあたしは一抹の
不安を覚えている。
それは東条も同じ気持ちのようで、﹁おい、マジかよ⋮⋮﹂のつ
ぶやきはあたしの心の中だけに閉まっておくことにする。
﹁アキラくん!!﹂
遅い!!
あたしは駆け寄ってくる城澤と先ほどの風紀委員を睨みつけた。
城澤はあたしと美月様の無事を確認すると、荒げていた息をすぐに
整えて東条に向き直る。
﹁二年の東条彰彦くんだな? 喫煙していたというのは本当か﹂
﹁ちっ、風紀かよ。吸ってねーよ。吸殻拾ったから捨てようと思っ
ただけだ﹂
﹁ええっ!? わ、わたし、見間違えちゃったの!?﹂
ショックで青ざめている美月様だが、大丈夫、見間違えではない。
あたしたちに背を向けた東条のスラックスの後ろのポケットに、ラ
イターと煙草らしきシルエットがしっかり浮かんでいる。
美月様はまだしも、城澤が信じると思うのか。
あたしが呆れた視線をこっそり送っていると、不意に東条が首だ
け振り向いてあたしを見た。
そしてあろうことか口の片端だけを器用に上げると、﹁これも拾
った﹂と煙草とライターを堂々と取り出したのだ。
59
﹁誰かこっそり吸ってたんだろ。俺が回収しといた﹂
﹁何?﹂
城澤はあからさまに不審気な顔をした。しかし辺りに煙草の匂い
は残っているが、現行犯ではない。証言者のはずの美月様は自信を
失っている。
そこで、あたしは東条の笑みの意味に気付いた。
﹁あー、風紀委員長﹂
﹁なんだ、アキラくん﹂
﹁姉さんが絡まれてたっていうのも、誤解みたい﹂
﹁誤解だと?﹂
﹁ええっ!? 通りかかった一般生徒から、確かに聞いたのに!﹂
城澤の影に隠れていた風紀委員に向かい、あたしは肩をすくめて
みせた。
﹁そう見えただけでしょ。煙草を拾った東条先輩、喫煙を止めよう
とした姉さん、互いの正義感がすれ違ったんですね。 悲劇!﹂
﹁そうだったんだ⋮⋮。失礼なこと言ってしまってごめんなさい!﹂
﹁おう、気にすんなよ。お前度胸あるな。俺に突っかかって来るヤ
ツなんてなかなかいねェよ﹂
美月様が深く頭を下げると、東条は鷹揚に笑った。そうすると妙
な愛嬌が出て、もともとの悪人面に少しばかり親しみが出る。美月
様もそれを感じたのか、ぱあっと笑顔を浮かべた。
﹁いやー、これで解決。よかったよかった﹂
﹁⋮⋮アキラくん?﹂
せっかくめでたしめでたしで終わろうとしているのに、俺は騙さ
れないぞ、と疑わしげな目を向ける城澤。
ここで東条を悪者にすれば、美月様が恨まれる。
美月様の正義感はまっすぐで好ましいが、それはいいことばかり
ではないのだ。
60
わだかまりなく終わらせるにはこれしかない。
そこであたしは、ほの暗い取引の中に風紀も巻き込むことにした。
﹁っていうかァ、怒鳴りあっちゃうまで誤解がひどくなってたのに、
なぁんで風紀はすぐに助けてくれなかったのかなァ。少なくともソ
コの人は報告受けて知ってたんでしょ?﹂
あたしが指を指すと、風紀委員はぐっと言葉を詰まらせる。
﹁まさか東条先輩一人が怖かったから親玉の風紀委員長呼びに行っ
てた、なんてないですよねェ。ついでにぃ、その頼みの親玉も、一
般生徒のあたしより来るのが遅いとかァ、それってどうなのかな∼﹂
この嫌みには城澤も黙った。
﹁そういうワケだからァ﹂
あたしはすすすっと城澤に近寄り、トドメをさす。
﹁ここで双方の意見を聞いて、場を治めてもらいたいんですよね。
風紀委員長として﹂
東条の無理な主張を通せ。お前らが今できる最善のことは、それ
だけだ。
﹁⋮⋮白河美月くん、アキラくん。そして東条彰彦くん。来るのが
遅れてすまなかった。煙草を預かろう﹂
風紀委員長の敗北宣言。苦々しく歪んだ口元、眉間のシワはぐっ
きりと深い。
差し出した手に煙草とライターを乗せた東条は、美月様に
﹁これからは修験者も大切にしろよ﹂
と言いながらあたしの頭をぐしゃりとかきまわして去っていった。
﹁御迷惑おかけして、すみませんでした﹂
ほっと息をつくと、美月様は風紀相手にも深く腰を折る。そんな
必要ないのに。
﹁東条先輩、怖い顔して制服の前全開でお外でしゃがみこんでたで
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しょ? それに怖い人だって、不良だって聞いてたからあんな勘違
いしちゃった⋮⋮。わたし、自分が恥ずかしいよ。見た目で判断す
るなんて﹂
﹁まあまあ。東条先輩だって怒ってなかったじゃん﹂
﹁とってもいい人だったね! 今度お詫びに行かなきゃ﹂
﹁いや、そういうのしなくていいから! さ、あたしたちも帰ろう
?﹂
さっさと退散、と歩き出したところで、城澤はせめてもの逆襲に
かかった。
﹁アキラくん﹂
﹁はい?﹂
﹁今日は帰っていい。また明日、反省文の続きを書きに風紀室に来
るように﹂
﹁⋮⋮マジで⋮⋮?﹂
62
悪魔と不良と天使︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
63
悪魔と下っ端風紀
朝のホームルーム前の、教室内に﹁おはよう﹂が飛び交う穏やか
な時間。あたしの機嫌は最悪だ。ひそひそとこちらを窺いながら何
やら言いあっているクラスメイトたちの視線も気にならない。
あたしはじっとりと黒板を睨みつけていた。目つきは普段の三割
増しで鋭いはずだ。これは化粧のせいだけではない。
昨日はひどく疲れた。それなのに、帰宅後も散々な目にあってし
まったのだ。
後ろめたいことがある時に限って敬吾さんは時間に余裕があり、
報告手帳を渡したその場で目を通し、ぎろりとあたしを冷たく見据
えた。
なぜ美月様から目を離したのか。
なぜ美月様と東条を接触させたのか。
偶然としか言いようがなかったが、今回のことは風紀に捕まった
あたしのせいだ。いくら化粧をする案を出していたのが敬吾さんだ
としても、だ。
﹁あの学園内で、化粧をしているのがあなただけだと思っているの
ですか、アキラさん﹂
﹁え?﹂
﹁ファンデーションでそばかすを隠し、エクステでまつげを伸ばし、
64
カラーコンタクトで瞳を大きくしている女生徒に気付いていない、
なんて言わないでしょうね。日ごろあれほど周囲に注意を配るよう
に言っているんですから﹂
﹁⋮⋮⋮ええっと﹂
あたしは化粧初心者であり、女生徒たちのバレにくい凄腕ナチュ
ラルメイク術など心得ていない。
﹁あなたの化粧がヘタクソなのはいいのです。ですが、それでまた
今回のようなことがあっては困ります。風紀の検査にひっかからな
いギリギリのラインを見極めてください﹂
これからはもっと要領良く立ち回るように、とこんこんと説教を
受けた。そしてフラフラになりながら離れに戻れば、今度はまさか
の辰巳が噛みついてきた。
﹁お疲れさまでした、アキラ様﹂
﹁あー、ただいま。疲れたよ、辰巳﹂
思わず弱音を吐いたあたしの鞄を受け取ってくれた辰巳は、そっ
と肩に手をまわして支えてくれる。その温かさに甘えたい気持ちが
こみあげる。
﹁⋮⋮⋮アキラ様?﹂
﹁え? ちょ、辰巳? なんか痛い﹂
不意に辰巳の手に力がこもる。
﹁なぜ、御髪が結わえられているのです﹂
﹁え?﹂
そういえば、と頭に手をやれば、城澤が結んでくれたままあたし
の髪はポニーテールになっている。
﹁俺におっしゃいましたよね? 結わえないんだと。そのほうが﹃
らしく﹄見えるから、と。アキラ様、ご自分で結うの上手ではあり
ませんよね。ではこれはどなたが?﹂
﹁あー。えっと、これは不可抗力で﹂
﹁この髪ゴムはどうなさったんです。お持ちではなかったですよね
65
?﹂
﹁も、もらった⋮⋮﹂
﹁俺にはやらせてくれなかったのに、アキラ様はどこぞの誰かにあ
っさりと髪を触らせたんですね。そうなんですね。俺にはやらせな
かったのに﹂
﹁た、辰巳ぃ⋮⋮﹂
だんだん辰巳の目が据わっていく。ヤバイ。こうなると辰巳はし
つこい。
﹁うるさい先輩に怒られちゃってさ! だから仕方なくだよ﹂
﹁そうですか﹂
﹁明日から辰巳にお願いする!﹂
﹁本当ですか? いいんですか、嫌だとおっしゃっていたのに﹂
﹁嫌なんじゃないってば! 必要ないと思っただけだ。でも、敬吾
さんにも少し整えるように言われたから。辰巳じゃないとあたしの
髪は扱えない﹂
こわばっている辰巳に正面から飛びついて腕をまわし、ぐりぐり
と頭を胸板に押し付ける。
﹁本当でしょうね﹂
﹁ホントだ、疑うな。ね、お腹空いた、さっさと着替えてくるから
夕ご飯食べよう﹂
あとひと押しだな。
長年の勘から、あたしは美月様直伝の上目遣いで辰巳を見つめる。
すると思った通り、辰巳はおだやかな表情に戻っていた。ほっと
胸をなでおろした瞬間、すっと髪がほどけて自由になる。
﹁わかりました。では、これは俺が処分致します。よろしいですね
?﹂
辰巳はあたしにゴムを見せると、ポケットにしまってしまう。城
澤に返そうかとも思っていたが、まあいいだろう。
﹁うん、わかった﹂
﹁では、お化粧を落として、制服を着替えて﹂
66
﹁うんうん﹂
﹁お風呂に入って髪をよ∼く洗ってから、ご飯にしましょうね﹂
﹁え、先ごはんがいい﹂
﹁お風呂が先です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁俺が髪を乾かしますからね。櫛とドライヤー、用意しておきます
ね。明日はどんな髪型にしましょうか﹂
﹁⋮⋮まかせる⋮⋮﹂
おかげさまで、今日のあたしの髪はふわりと左耳の後ろで一本に
まとめられている。水色の花のポイントがついたゴムは辰巳が用意
していたものだ。
辰巳のご機嫌はなんとか戻ったが、敬吾さんとのダブルパンチで
あたしはずいぶん疲れた。その上その上、あたしはすご∼くがんば
った! 風紀の反省文を見事に自宅で書きあげたのだ!
がんばった! あたし、偉い!
これさえ提出すれば、今日は反省室に行く必要はなくなる。
美月様をお守りすることもできる!
﹁うふふふふ⋮⋮﹂
思わずこぼれた声に、周囲はぎょっと身を引いた。
どうぞドン引くがいい。
さて、気分も優れないこういうときはストレス解消に限る。
弱い者いじめに行くことにしよう。
さりげなく美月様のお昼チェックを済ませた後、あたしは早々に
1年D組を訪れた。
﹁ええっと∼﹂
ここでも反応は同じで、あたしが教室のドアからのぞきこんだ途
67
端に﹁げっ﹂という声が聞こえてくる。
きょろきょろと見回すと、お目当ての人物を発見。にんまりと口
まつしま いちろう
元が歪むのがわかる。
﹁風紀委員の松島伊知郎く∼ん!﹂
ハートがつくくらい甘ったるく呼んであげると、松島は中学生み
たいな幼い顔を、飲んでいる牛乳と同じくらい白くした。
そう、彼は昨日美月様を見捨てて逃げ帰ってきた風紀委員。下っ
端とはいえ風紀なので優秀な生徒のはずなのだが、あたしのデータ
ベースにはたいした情報はなかった。
﹁な、な、な、なに、かな。白河さん﹂
教室中の視線を浴びて転びそうになりながらも、松島はなんとか
あたしのところまでたどり着いた。
並んでみるとあたしと同じくらいの身長で、まだ未成長な体つき
はどうにも頼りなさそうだ。これでは東条に立ち向かおうとしたと
ころで、鼻で笑われるに決まっている。か弱い女生徒であるあたし
と相対する今でさえ、彼のクラスメイトは松島に同情的な、心配そ
うな目を向けている。
﹁やっだなー、なんでそんなビビッてるワケ? あっははは!﹂
﹁あ、あはは⋮⋮﹂
あたしにつられてひきつった笑いを返す松島くん。より彼を安心
させてあげるために、あたしは耳元に顔を寄せて小さな声で呟いた。
﹁安心してよ。姉さんを見捨てたこと、誰にも言ってないから﹂
﹁うっ!!!﹂
いくら東条相手だったとはいえ、学園の天使を見捨てたとなれば
松島の信用はガタオチ、風紀だって叩かれるだろう。だが、すべて
無かったことにするという約束で昨日の騒ぎは手打ちにしてもらっ
たのだ。蒸し返すようなマネはしない。
68
用事は別にあるのだ。
あたしはにっこりとほほ笑むと、松島にA4サイズの茶封筒を差
し出した。
﹁これ、風紀委員長に渡しておいてほしいの﹂
﹁え、これ?﹂
目を丸くした松島は、封筒とあたしの顔をせわしなく交互に見た。
﹁昨日書けなかった反省文。今日はグロスも塗ってないし、髪だっ
てほら﹂
あたしは肩にかかる結んだ髪をゆらした。
﹁あ、そうだね⋮⋮﹂
﹁ね。ふかァく反省してましたって言っといてくれると助かる﹂
﹁わかった、受け取るよ﹂
﹁ありがと!﹂
このために呼ばれたのか、と松島はほっと肩の力をゆるめたよう
だった。
だが、甘い。
あたしは封筒を受け取ろうと伸ばした松島の手首をぎゅっとつか
んだ。
﹁ところでさァ、これも何かの縁じゃん?﹂
﹁え?﹂
﹁ほら、風紀委員って他の委員と違ってクラスに最低何人、とかじ
ゃなくて、既存の委員からの指名制でしょ。一年生で唯一の風紀、
そんな優秀な同級生とはぜひとも仲良くなりたいなァ∼って思って
るの﹂
﹁⋮⋮え?﹂
理解の遅い松島に苛立ち、あたしは低い声ではっきりと言った。
﹁トモダチになろうって言ってんのよ﹂
﹁ひいっ﹂
短い悲鳴をあげる松島。手首をつかむ手に力をこめ、あたしは彼
69
の顔をのぞきこんだ。
﹁大丈夫だって、ほんとに仲よくするだけだって。メールとかしよ
うよぉ。それで、風紀の朝の遅刻者チェックの日とか、荷物検査の
日とか、委員長のスケジュールとか、いろいろお話しよ?﹂
﹁そ、そんなこと⋮⋮!﹂
﹁あれれ? 嫌なの? じゃあ言っちゃうよ? 松島くんが、風紀
委員が美月姉さんをあっさりと︱︱︱︱︱﹂
﹁わ、わわ、わかったよ! ちょっとこっち!﹂
逆に手を引っ張られながら、松島に連れられて早足で非常階段へ
向かった。そのまま外にある階段の踊り場へ出ると、松島はふうー
っと大きく息をついた。
﹁あー、びっくりした。君の所には行こうと思ってたんだけど、覚
悟ができる前に君から来ちゃうなんて!﹂
﹁え?﹂
﹁お姉さんのことでね﹂
﹁どういう意味?﹂
あたしが鋭い目を向けると、松島は慌てて言った。
﹁別に悪いことじゃないよ! ただ、彼女は学年一番の有望株だか
ら﹂
﹁有望株?﹂
﹁次期役職持ちの有望株ってこと。生徒会とか文化部総括、運動部
総括とかが、優秀な人材を一年の中から探してる。そういうのって
やっぱりハクがつくでしょ? だから決定に際しては揉め事が多い
んだよ。僕ら風紀はそれを今から注意してるんだ﹂
﹁⋮⋮ああ、そう﹂
松島はさきほどのおどおどした態度が嘘のように、流暢に口を動
かしている。
﹁あ、連絡先を交換しようか。赤外線使える?﹂
スマートフォンをとりだした松島に、あたしは逆にうろたえてし
70
まった。
﹁⋮⋮ヤケに気前いいね。嫌がったくせに﹂
松島は照れたような困ったような顔をして、頭をかいている。
﹁うん、君と親しくするのちょっと怖いんだけど⋮⋮。でも、これ
も委員長から言われたことだから﹂
﹁城澤に?﹂
﹁同学年として、君の動きをしっかり見張っておくようにって。昨
日の失態もあるし⋮⋮﹂
﹁そ、そういうこと言っちゃっていいの? 怒られない?﹂
つい松島を心配してしまったが、彼はけろりとして言った。
﹁遠くからこっそり監視するより、打ち明けちゃった方がお互い都
合がいいと思うな。全部ってわけにはいかないけど、一斉検査とか
ある日は情報も流す。かわりに君は僕に見張られてることを自覚し
てもらって、最低限風紀を乱すのはやめる、とか﹂
ついでに昨日のことを黙っていてほしいんだけど、どうかな、と
また弱気になってみせる松島に、あたしは大きく肩をすくめた。了
承の代りにスマートフォンを差し出す。
甘かったのはあたしのほうかもしれない。
71
悪魔と下っ端風紀︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
72
天使と不穏な空気
松島は使える。それがあたしの判断だった。
小心者ではありそうだが、なかなかタフな面も見え隠れする。あ
の人畜無害そうな外見では周囲も油断するだろう。校内のことをち
ょこちょこと探るにはもってこいの人材。いい﹃友人﹄を得たこと
にあたしは満足感を覚えていた。
嬉しいことは思わぬ収穫だけではない。今日は金曜日、朝寝坊が
できる明日を思い、ふんふんと鼻歌まじりに廊下を歩いていく。
美月様の下駄箱とロッカーチェック、ついでに生徒会ファンから
の嫌がらせはないか、といった確認を終えたところだ。
いつもならもう帰れるのだが、今日はなぜかまだ美月様が昇降口
から出てこなかった。
まさかまた何かあったのか、と電話をかけてみれば、美月様はす
ぐに出てあっさりと﹁教室にいるよ!﹂とおっしゃった。加えて﹁
アキラも来て! お話があるの﹂と楽しげなご様子だ。
だから安心してゆうゆうと一年A組にむかっているのだが、何も
していないというのにあたしに向けられる視線はとげとげしく警戒
心に満ちている。
そんなに見られるとサービスしたくなってウズウズしてしまうで
はないか。あたしはポーチから棒付き飴を取り出し、口に含んだ。
歩きながら物を食べる、という行為に拒否反応を起こす生徒たち
は一斉に眉をひそめる。飴が舐めたかったわけじゃないけど、その
ひきつった顔見たさに棒付き飴を所持しているあたしも大概だ。
73
違和感を感じたのは、一年の教室が並ぶ廊下についてからだ。
何やら騒がしく、特にA組廊下前は他の学年を含む生徒たちが群
れをなしている。
そしてその群れから少し離れた所に、一人ぽつんと立っている上
都賀さんがいた。鞄を手にうつむいたまま、動かない。
﹁あれ、綾乃たん、どしたの﹂
﹁話しかけないでよ。そんなふうに呼ばないで﹂
あたしに気付くと、上都賀さんはぱっと顔をそむけた。それはい
つものことだが、寂しげだった彼女にいたずら心よりも不信感がわ
いた。
﹁上都賀さん。なんで姉さんといないの? 姉さんはまだ中?﹂
﹁⋮⋮美月ちゃんは、また生徒会の方々に捕まってる。下駄箱に向
かおうとしてた生徒たちが生徒会に気づいちゃって、あんな騒ぎに
なってるのよ﹂
あたしはぐっと眉根に力を込めた。油断していた。生徒会連中は
たいてい放課後は仕事に追われる。それを潰してまでくるとは思っ
ていなかった。
上都賀さんはとても賢い。生徒会と不用意に接触する危険性がわ
かっているのだろう、だからここで一人待っているのだ。先に帰ら
ないのは美月様を案じてのこと。捕まっている、という言い方から
も、彼女が生徒会心棒者でないことがうかがえる。
﹁ありがと、ちょっと待っててね。すぐに姉さん連れてくるから﹂
﹁え﹂
あたしは上都賀さんに言い残し、大股でひとごみを突っ切ってい
った。
74
﹁すごい、まるで絵みたいに麗しいわ!﹂
﹁会長があんなに優しく笑うなんて﹂
﹁ところであの女の子誰だ? すごくかわいい﹂
﹁知らないの、一年の白河さんよ。悔しいけど生徒会の方々に負け
てないわ﹂
﹁あの子が白河の天使って噂の子か!﹂
﹁見劣りしない? 副会長のほうがよほどステキだけど﹂
﹁必要な距離感が見えてないのね。ちょっと調子にのってるんじゃ
ない?﹂
﹁生徒会の方々のお邪魔はしないっていうのが鉄則なのに﹂
きゃーきゃーうるさい悲鳴混じりの不穏な会話を聞きながら、あ
たしはスマートフォンのカメラを向けるバカな生徒を押しのけて教
室に入り込む。案の定そこには美月様の机を取り囲む無駄に華やか
な連中の姿があった。
﹁ね∼え∼さ∼んっ。あれ、やっだ∼! 生徒会の皆さままでいる
ぅ! 超ラッキー! もしかしてあたしのこと待っててくださった
んですかァ? 生徒会入りのことで!?﹂
あたしは飴の棒をぎりりと噛みしめたあと、甲高い声で自分の存
在をアピールした。するとさああっと視線が移り、美月様へ不満を
もらしていた連中の攻撃目標があたしに変わる。
﹁うわっ、白河の悪魔の方だ!﹂
﹁何あれ、勘違いはなはだしいわ﹂
﹁あの麗しい空間に入っていけるって、空気読めなさすぎ﹂
﹁最悪。目が汚れる﹂
どうとでも言うがいい。あたしは困り切っているであろう美月様
をさっさと生徒会から引き離さねば⋮⋮。
75
﹁アキラ、やっと来た!﹂
あれ?
美月様はにこにことご機嫌だ。そして勝ち誇るような腹の立つ顔
をしている雨宮、初瀬。池ノ内は美月様と何かを覗き込んでおり、
雀野は少し離れたところで腕を組んで座っている。
まさか、もう言いくるめられてしまったのか?
﹁姉さん、落ち着いて。生徒会入りはまだ早いよ。考え直した方が
⋮⋮﹂
﹁その話じゃないわ﹂
ばっさりと遮った雨宮は、ゆっくりと足を組みかえる。形のいい
ふくらはぎに、廊下側の男子生徒のざわめきが大きくなった。
雨宮はそれさえ気にならない様子でにっこりとほほ笑んだ。
﹁今はただ純粋に、一緒に遊びに出かける予定を立てているの﹂
﹁え?﹂
あたしが聞き返すと、美月様は喜色満面に答えてくれた。
﹁土曜日に行くことになったの!﹂
﹁どこへ?﹂
﹁もー、決まってるでしょ! 大道芸だよ∼﹂
﹁え﹂
そういえばそんなことを聞いた覚えはある。しかし、それは⋮⋮。
﹁それ、上都賀さんと行くんじゃなかったの?﹂
﹁わたしが行くって話をしたら、偶然先輩達も行く予定だったんだ
って! ほら、コレ!﹂
美月様はあたしに派手な黄色と赤のチラシを差し出した。そこに
は大道芸フェスティバルとポップな文字が踊り、明日の土曜日に特
別ステージがあることを宣伝していた。
﹁こういうの見たことなくてさー。一緒に遊ぶだけなんだからアン
タも文句言わないよね?﹂
猫のようににんまりと笑う初瀬に﹁かわいい!﹂という悲鳴が上
76
がっているが、どこがかわいいものか。憎たらしい。
﹁俺も見たことない。なんかこいつらが行こうってうるさいんだよ﹂
はは、と白い歯を見せる池ノ内に、美月様は笑顔をより輝かせる。
﹁みんなで見に行けばきっと楽しいよ! 綾乃ちゃんにはわたしか
ら話すね﹂
﹁姉さん⋮⋮﹂
騙されちゃダメだ、これはこいつらの作戦だ。
こいつらの目的は﹃美月様を独占するために生徒会に入れて側に置
き、より親しくなっていく﹄こと。
生徒会入りは断られたが、個人的に仲良くなることに美月様は抵
抗を示さない。さらに美月様はお優しいから親しい友人の頼みとあ
らば断れなくなる。つまり﹃美月様と親しくなってから、生徒会に
入れて独占する﹄と目的の順序を入れ替えただけで、まったく諦め
ていないのだ。
﹁上都賀さんもいきなり先輩方が参加するってなったら気まずいん
じゃない?﹂
﹁わたしたちは美月ちゃんのお友達と御一緒させてもらうことに異
存はないわ。お邪魔させてもらうんだもの、一番いい席を用意する
わ﹂
﹁先輩たちと仲良くなれる機会ってあまりないから、きっと綾乃ち
ゃんもいいって言ってくれるよ。わたしが間に立つから!﹂
むん、と胸を張る美月様。
みんな仲よく、とモットーにしている美月様に、あたしは何も言
えない。くそう、雨宮も初瀬も、イヤなところを突いてきた。
﹁⋮⋮はァ﹂
大きく息を吐き出す。これは負けた。
﹁先輩方、これはあくまで個人的なお付き合い。生徒会入りの勧誘
は一切なし。そういう理解でいいワケ?﹂
77
勝者の余裕か、雨宮は鷹揚に頷いた。
﹁会長も、いいですね?﹂
﹁ん⋮⋮﹂
それまで静かだった雀野が、今気がついた、というようにこちら
を見た。夢から覚めた王子、といいたくなるような、呆けた顔も様
になる男だ。
﹁ああ、約束しよう。それに僕は行かないからね﹂
﹁え、行かないの?﹂
これを計画したのはてっきりこいつだと思ったのに。
驚いたあたしに、雀野は一瞬でいつもの穏やかな笑みを張り付け
た。
﹁残念だけど用事があってね。でも今度は僕とも出かけてくれるか
な、白河さん﹂
﹁えェ∼、そうなんですか⋮⋮。わたしも残念です。絶対にお誘い
しますね!﹂
﹁ありがとう﹂
張り付いた笑みが、美月様に向けられるときはゆるりと溶けだす。
糖度がぐんと上がるのだ。しかしなぜかこの時は、雀野はひやりと
するような鋭い物言いをした。
﹁だがそれとは別に、真剣に生徒会のことを考えてほしい。急ぎ、
いい返事がほしいんだ﹂
もう時間がない。
小さいつぶやきだったが、あたしの耳にはなぜかそれが妙なはっ
きりした音を持って届いた。嫌な予感がした。
あたしはこれ以上この場にとどまることをよしとせず、美月様を
うながした。
﹁とにかく! 姉さん、今日はもう帰ろ。廊下で上都賀さん待って
たよ﹂
﹁えっ、ホント!?﹂
78
あたしはすすすっと雨宮に近づき、小声で言った。
﹁時間などの詳しい話はまた後で。でないと聞き耳立ててるアイツ
ラが、当日に偶然を装ってわんさか湧き出てきますよ﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
教室の前できゃあきゃあ騒ぐ生徒たちをちらりと見ながら、雨宮
は同意した。美月様も鞄を手に立ちあがる。
﹁すみません、先輩! わたし、そろそろ⋮⋮﹂
﹁こちらこそ引きとめてしまってごめんなさいね﹂
﹁またね! 美月ちゃん!﹂
﹁じゃーなー、白河、アキラ﹂
﹁はい、また明日!﹂
本当にやれやれだ。
あたしは美月様の背中を押しながらまた息を吐く。
上都賀さんのかなしげな顔が頭をよぎった。
79
天使と不穏な空気︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
80
天使と道化と悪魔
通りは人でにぎわい、こうばしい匂いや甘い香りがたちこめてい
る。大道芸の見物客を目当てに出店が出ているのだろう。
アーケード沿いにある広場は街が管理しているもので、小さなス
テージもあり、よく催物が開かれている。普段から休日になると人
が多くなる場所だが、今日はいつも以上の賑わいだ。それもまだ人
は増えつつある。
﹁あっ、はしご乗り!﹂
人々の頭をはるかにつきぬける高い梯子に登る男は大きく手を振
り、開演間近のラッパを鳴らす。本番前の客引きとはいえ、目の前
の演技は巧妙だ。
あたしは広場に面したビルの二階にある、喫茶店のテラスにいた。
華奢な細工の柵は少しばかり心もとないが、夕涼みや祭り見物には
もってこいの席なのだろう。そして今は、整列してお辞儀をする芸
人を特等席で見下ろせる。
だがあたしはオペラグラスをのぞきこみ、観客の最前列でひょこ
ひょこと動いている美月様の後頭部を眺めていた。
﹁美月様はなぜこちらにいらっしゃらないのです﹂
隣に控える辰巳が当然の問いかけをした。
そもそも、この特等席は副会長・雨宮によって美月様のために用
意されたものだった。
﹁美月様は下で御覧になりたいってさ﹂
貴族のように見下ろすのではなく、平民と同じ視点から同じよう
81
に楽しみたいというご希望だ。
こんなこともあろうかと、あたしは事前に、美月様の世話役であ
る三舟さんに立ち見できる最前列の場所取りをお願いしていた。三
舟さんは出来た人で、使うかもわからない場所のために快く時間と
労力を割いてくれた。
あたしが用意した場所で立ちながらの見物、という行為に最初こ
そ迷った雨宮たちであったが、美月様のおねだりにすぐ頷いた。そ
して空いてしまった特等席に、﹁どうぞお使いになって﹂と微笑み
と共に追い出されたのだ。三舟さんもいるし、そばから離れても問
題はない。そう判断してあたしはさっさと身を引いた。
三舟さんの手伝いをしていた辰巳の姿にぱっと頬を染め、あたし
と共に去ることに肩を落とす、美月様のわかりやすいまでの気分の
上げ下げは見なかったことにする。
気になっていた上都賀さんは、美月様の熱心なお誘いに根負けし
たようだ。生徒会役員たちとしっかり距離を置いているが、見る限
りは美月様とはしゃいでいる。よかった。
雨宮や初瀬は美月様にしきりに話しかけ、芸人を指さしたり屋台
で買った菓子を分けたりしていた。その表情はおだやかで、普段の
必要以上にツンと澄ました顔よりずっといい。そうさせているのは
美月様の笑顔だ。
昨日の夜、敬吾さんに報告した時は連日のお叱りを覚悟した。だ
が意外なことに、敬吾さんはどうぞいってらっしゃいと頷いて見せ
た。
生徒会連中は家柄も人格も十分保証されているし、交友関係を結
ぶのは悪くない。やっかみを受けることもあるだろうが、それをど
うにかするのが﹃妹﹄の役目、と敬吾さんはサラリと言ってくれる。
まったく、結局シワ寄せはこちらにくるらしい。
﹁アキラ様、ここは三舟さんにお任せして、じっくりご覧になって
82
はいかがです。おもしろいですよ﹂
﹁ああ、うん﹂
オペラグラスを下ろしてちらりと後ろを見ると、辰巳もまた広場
に目を向けている。
恐ろしく高い下駄をはいた男が器用にジャグリングを始めた。あ
たしは柵によりかかりながら、ぽつりと言った。
﹁辰巳が興味を持つとは思わなかったな。⋮⋮悪かった﹂
﹁え﹂
﹁美月様が辰巳も呼んでやれと言っていたんだ。でも、無理に連れ
出すのもどうかと思った。だから⋮⋮﹂
﹁アキラ様、あまり身を乗り出すと危ないですよ﹂
辰巳はそっとあたしの肩に両手を添えた。
﹁俺はアキラ様と二人で見物したいと思いました。アキラ様はおこ
もりがちですので、こういった機会もいいかと。俺の興味は大道芸
にはありません﹂
では何に、と聞くつもりはない。
あたしはぽすんと辰巳に体重を預けてもたれながら、しばし肩の
力を抜くことに決めた。
とことん甘い世話役に、もっと甘えたくなったのだ。
﹁辰巳はお手玉得意だったな。いくつまでならできる?﹂
﹁そうですね、七つはいけます﹂
﹁あっ、刀をのみこんだ!﹂
﹁⋮⋮あれは、どうなっているのでしょう。お時間を頂かないとア
キラ様にお見せするのは難しいかも⋮⋮﹂
﹁やれって言ってないだろう﹂
次から次へと繰り広げられるパフォーマンスに、あたしは辰巳と
会話しながらも目が離せなくなっていた。よくよく考えれば、あた
しもこういったものを間近で見るのは初めてだ。
動物園や水族館、遊園地といった類の行楽施設も、学校行事以外
83
で行ったことはない。
美月様はご家族でよくおでかけになるが、あたしは家族ではない。
当然、行かない。
あたしは自然と辰巳の服の裾を握りしめていた。
隣にいてくれてよかった。心底そう思う。
自分でも意外なほど大道芸に見入っていたあたしは、辰巳が芸で
はなくあたしのほうを向いて満足げに笑っていることに気がつかな
かった。
﹁あっ、美月様﹂
何やら何人かの見物客が手を挙げたかと思うと、外国の鳥の羽根
のついた派手な帽子と仮面で目元を隠した芸人が美月様の手をうや
うやしくひいて広場へと誘っている。
﹁なんだ、あの男は﹂
目を険呑に細めてすっかり警戒態勢に入ったあたしに、辰巳は小
さく笑った。
﹁大丈夫ですよ、アキラ様。よくあることです、観衆から一人選び、
ちょっとした手伝いをさせるのです﹂
﹁ああ、そういうことか﹂
﹁あの方もおとなしく見ていればいいものを⋮⋮﹂
﹁こらこら﹂
仮面の男は大げさに美月様に一礼すると、かぶっていた帽子を手
渡した。美月様は指示通りに中をのぞき、次はふってみせ、周りの
観客に何も入っていないことを示した。愛らしい助手にため息がも
れる。
美月様から帽子を受け取ると、仮面の男はにっと笑って帽子に手
をつっこみ、何か引っかかっている演技のあと勢いよく引きぬいた。
84
すると途切れることなく色とりどりの大量のリボンがあふれ出す。
ようやく途切れたところをぐるぐるっと両腕で巻き取ると、男は宙
にリボンの塊を放り投げた。落ちてきたところを見事片手で捕まえ
る。なんと、その高々と上げた右手にはリボンではなく花束が!
これには拍手喝さい、指笛の音が鳴り響く。
美月様も興奮したように手を一生懸命たたいている。
仮面の男はまた頭をさげ、声援に応えた。そして手にした花束を
すっと差し出した。
美月様は嬉しそうに両手を伸ばす︱︱︱︱︱︱が、しかし。
ひょい、と男は美月様に渡す直前で花束を自分の手元にさらって
しまった。
﹁え﹂
小さく戸惑う美月様の声が聞こえたような気がした。
どうなるのか、とドキドキしながらその様子を見守っていると、
不意に仮面の男が上を向いた。目元こそ隠れているが、通った鼻筋
に厚めの唇、なかなかの男前であることは容易にわかった。仮面の
男はしなやかに腕をまわし、花束をふわりと空に投げた。
﹁え﹂
今度はあたしが声をあげる番だった。
高く飛んだ花束は花びらを何枚か散らしながら、あたしの膝の上
にぽとんと落ちてきたのだ。
いったい花束はどこへ、と観衆全員が目を上にそらした次の瞬間。
﹁わあっ、すごい!!﹂
美月様の声に一斉に視線が戻る。
いつの間にやら、さきほどのものよりずっと大きな花束が、膝を
ついた仮面の男から美月様に差し出されていたのだ。
またもや溢れかえる拍手に、仮面の男は美月様を送ってから何度
も手を振りながら後ずさる。次の芸人に交代するのだろう。
去り際、仮面の男はまたふっと視線をあげた。見えない目は確実
85
にこちらをとらえ、にいっと笑う。
あたしが思わず身をすくめると、男は唇に手をあててあたしへと
手を伸ばした。いわゆる投げキッス、というヤツだ。
﹁キザな男だ﹂
ああいう演出なのだろうか。
思わず彼の姿が消えるまで目で追っていると、視界に妙なものが
飛び込んだ。
広場をはさんだ、屋台が並ぶ向かいの通り。サングラスで目元を
隠しているが、薄いニットにチノパンのラフな姿で佇んでいるのは
会長の雀野ではないか? あの長めのうざい前髪、間違いない。
用事があってこれない、と言っていたはずだが。
堂々と一緒に来ればいいだけの話なのだから、まさかこそこそ美
月様のストーキングってことはあるまい。
﹁いったいどういうつもりだ⋮⋮? え、あれ?﹂
さっと取り上げられた花束に、それていた意識が戻ってくる。
﹁辰巳?﹂
どうした、と見上げると、辰巳は口の端だけをわずかに上げて笑
っていた。
﹁アキラ様、これはこの店の方に差し上げましょう。御礼がてらに
ちょうどいいです﹂
﹁あ、ああ、うん﹂
﹁帰りに花を買いましょうね。こんな花ではなく、もっと美しい気
品ある花がアキラ様には合います﹂
﹁ああ、うん﹂
なぜか辰巳の機嫌が急降下していることに気付いたあたしは、と
りあえずこてんと辰巳に寄りかかり直し、彼の言うとおり頷いた。
86
87
天使と道化と悪魔︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
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悪魔と謎の生活委員会
穏やかに過ごせた週末が明けた。大道芸フェスティバルも無事に
楽しめ、あたしとしては満足だ。しかし、楽しみの後は辛いことが
待っている。隣を歩く美月様のほっぺたは見事に膨れていた。
月曜日の朝というのは憂鬱になりがちなのは仕方がないが、原因
は別にある。
今週末に行われる鷹津主催のパーティに出ることが、美月様には
億劫で仕方ないらしい。あくまで私的なパーティだが、美月様のプ
レ社交界デビューともいえる舞台だ。当主様も三舟さんも気合いを
いれてドレスを見つくろっている。それもまたうんざりの種なのだ
ろう。
﹁どうせ一着しか着れないんだから、あんなに何着も用意しなくて
いいのに!﹂
美月様がそう言っても、使用人含めた白河家一同が美月様を飾る
ことを楽しんでいるのだから無駄だろう。あたしはまあまあ、と傍
からなだめるだけだ。
﹁やっとドレスが決まったと思ったら、今日は髪飾りとお化粧合わ
せだって。もうやだ!﹂
﹁それだけ張り切っちゃうくらい、みんな姉さん大好きなんだよ﹂
﹁アキラは? ずるいよ、一人でぽうっとしてぇ。わたしばっかり
振り回されてる﹂
﹁ま、あたしは行かないからね﹂
﹁ずるーい! こういうときお姉ちゃんだと損だなぁ。アキラがう
89
らやましいよ﹂
パーティへ出席するのは当主様と美月様のお二人だけだ。だが、
もし仮にあたしがパーティへ行くことになっても、衣装合わせなん
てことはないだろう。与えられた衣装を着て、必要な役割をこなす
だけだ。
﹁美月ちゃんのドレス姿楽しみ! きっと可愛いよ﹂
﹁ありがとう。綾乃ちゃんも行くんだよね、わたしも楽しみだよ﹂
上都賀さんに励まされ、美月様はようやく頬から空気を抜いた。
あたしもほっと気が抜ける。
そんなあたしを咎めるように、不意にポケットのスマートフォン
が震えた。画面を見ると、登録したばかりの松島の名前が表示され
ている。
何事か、とあたしはさりげなく速度を落として美月様から離れて
歩く。
﹁もしもし? もう校門前なんだけど、今更服装検査とか言ったら
怒るからね?﹂
あたしの喧嘩腰の応答に、松島は早口で言った。
﹃違うよ! でもそっちのほうが良かったかもね﹄
﹁は?﹂
﹃昇降口で生活委員が白河美月さんと君を待ちうけてる。気をつけ
て。アレは僕らも手出しできないからさ﹄
﹁生活委員?﹂
﹃そういうことだから、がんばって!﹄
﹁え、ちょっと﹂
それだけで切れてしまった電話に、あたしはスマートフォンを片
手に立ちつくす。何だったんだ。
生活委員?
あたしは記憶している委員会名を頭でなぞるが、そんな名前の委
90
員会は存在しなかったはずだ。
得体のしれない委員会が、美月様を?
美月様はもう校門をくぐってしまった。昇降口はすぐそこだ。
気味の悪さを感じ、あたしは急ぎ美月様の元へ向かった。
﹁白河美月さんよね。それに上都賀綾乃さん。ああ、今走ってきた
のが白河アキラさんで間違いないかしら? 三人は残って、あとの
生徒はどうぞお入りになって﹂
前に立ちふさがっているのは二年生と三年生から成る女子連合五
人、皆一様に美しいが、今はその麗しの顔を険しくさせて美月様を
見据えている。
昇降口前は普段はごった返しているというのに、生徒たちはこち
らをうかがいつつも関わりあいになるのを避けてこそこそと通りす
ぎていく。
﹁最近のあなた方の行動について、ちょっとお話があって来たの﹂
﹁なんでしょうか﹂
きょとん、と首をかしげる美月様は愛らしいが、相対する彼女た
ちはその仕草を愛でる余裕もないようだ。上都賀さんは唇を引き結
んだままだ。
﹁はっきり言わせてもらえば、あなた方は先輩に対する礼儀っても
のがわかっていない﹂
お団子頭のリーダー格らしい女生徒はびしっと美月様の鼻先に指
を突きつけた。
﹁なんでも、生徒会の方々と土曜日にお出かけしたらしいわね﹂
﹁あ、はい。大道芸フェスティバルに⋮⋮﹂
美月様は真っ向から向けられる敵意にどう反応したらいいのかわ
からない。というか、そもそも敵意というものがわかっているのか
どうか怪しい。
91
﹁なぜ、軽々しく御一緒したりしたの?﹂
﹁え?﹂
﹁いい? 生徒会役員といえば、この学園内では頂点に立つ方々な
のよ。まだ入学したての一年生がお声をかけていい相手じゃないの。
迷惑をかけるようなマネしてはだめ。秩序が乱れるわ﹂
﹁そんな、秩序って⋮⋮﹂
﹁学園の天使とか呼ばれているみたいだけど、それはあの出来そこ
ないと比べての話でしょう。自分が生徒会役員と同じ立場にいると
勘違いしているのではなくて?﹂
﹁え? え?﹂
だめだ、美月様、やっぱり理解できてない。
あたしはぐいっと美月様と勘違いお団子頭の間に入りこみ、にっ
こりほほ笑んだ。
﹁どーもどーも、出来そこないのほうだけど。あのさ、姉さんに文
句言うのって筋が違うんじゃない?﹂
﹁あっ、悪魔のほう!﹂
﹁なんだっていいけど。アレは生徒会の方々が一緒に行きたいって
言いだしてんの。それを快くオーケーした姉さんに、何文句言って
んの?﹂
﹁それを断るのが礼儀なのよ。わからないのは仕方ないわ、まだ一
年生だもの。だからこうして今の段階で教えて差し上げているの﹂
﹁ふうん。姉さんが﹃白河﹄だってわかってて言ってるんだ?﹂
﹁﹃白河﹄だからこそ、こうして注意で済んでいるのよ﹂
澄まして答えるお団子頭に、残りの女生徒たちはうんうんと頷い
て同意を示している。
﹁あっは、教えるとかウケる。生徒会からお声掛けがないからって
ヒガまないでよ、バカらしい。正直に言えば? あたしたちがうら
やましいって。あー、楽しかったなあ、雨宮様と初瀬様と池ノ内様
とのデートォ!﹂
92
あたしは両手を合わせてうっとりと眼をつむる。
お団子頭たちはぎりっと歯を食いしばり、きんきんと高い声で叫
んだ。
﹁わたしたちは生活委員よ、バカにしないで! そんな不純な思い
は持っていないわ!﹂
お、出た。謎の生活委員。
﹁そもそも生活委員って何? そんなのあったっけ?﹂
問いかけたあたしに、お団子頭はふんっと下品に鼻をならした。
﹁生活委員を知らないからそういう暴挙ができたのね。納得したわ。
生活委員とは、風紀とは別に、デリケートな面の素行について意識
向上を呼び掛けている、勇士によって私的に発足した委員会よ﹂
﹁なにそれ!? 私的って、ソレ正式に認められてるんですかァ?﹂
﹁陰ながら活動してるの! 特に生徒会や役職持ちの方々の学園生
活を守るために!﹂
物はいいようだ。
察するに、無頼から美月様を守るあたしと似たような役目をもっ
ているのだろう。下心をもって近づこうとする輩から役職持ちの生
徒を守る委員会。だが、守る相手が多すぎるためかお粗末な活動だ。
あたしだったら生徒会自ら美月様を勧誘しに来た時点で動いている。
﹁余計意味わかんない。行こうよ姉さん、綾乃たん。つまりは生徒
会に近づくなって言いたいんでしょー。あーめんどくさ。ハイハイ、
すみませんでしたァ﹂
﹁⋮⋮わたしは白河美月さんと出かけたつもりでしたが、結果的に
生徒会の方々とご一緒することになりました。今思えばあの場で別
れるべきでした、分不相応な振舞いを反省しています﹂
イエス、綾乃ちゃん模範解答ありがとう。
あたしはバチっとウインクをしてみせたが、完全に無視された。
さ、あとは状況がよくわかっていないであろう美月様を引っ張っ
93
て逃げてしまえばあとはもう大丈夫⋮⋮。
﹁納得できません!﹂
ああああ、美月様ァ!!
あたしはのけぞって声にならない悲鳴をあげる。そんな奇行に気
付かず、美月様は大きな瞳を輝かせている。
﹁どうして生徒会の先輩たちに近づいてはいけないのですか﹂
﹁あ、あなた、さっき伝えたことが理解できていないの!?﹂
﹁わたしは先輩たちと普通に遊びに行っただけです、悪いことなん
てしていません。これからだって一緒に遊びたいし、お友達として
仲よくしていきたいと思っています。それを決めるのはあなた方で
はないと思います!﹂
そうだよねぇ。お友達は自分で決めるもんねぇ。人に指図されて
どうこうっていうんじゃないよねぇ。
うん、さすが美月様!
﹁正直言って先輩方が何を言っているのかよくわからなかったんで
すけど、アキラがあなた方は生徒会の人とお話したことないって言
ってましたよね! ということは、生徒会の人が迷惑だと思ってい
るかなんてわからないはずです! わたしは直にお話して、仲良く
しているんですよ!﹂
お団子もその配下も、顔を真っ赤にして震えている。それはそう
だろう、美月様の言葉はつまるところ﹁わたしとあんたらは違うの
よ!﹂だ。
あちゃー、どうするかな。あたしはのけぞりつつもこの場を回避
する方法を探すため必死に頭を回す。しかし、思いつかない。上都
賀さんはおろおろと美月様をとめようとするが、ノッてきてしまっ
た美月様は止まらない。
そうだ、と美月様はびしっと指をつきつけて言った。
94
﹁なんだったら、生徒会の人たちに直接聞いてみてください! そ
うすればきっとわかってもらえます﹂
﹁ええっ、あなた、そんな畏れ多いことを!﹂
﹁きちんとお話をしていないから誤解が生まれるんです。わたし、
この前それで失敗してしまいました。東条先輩にひどいことを⋮⋮﹂
ぽつりと出た名前に、お団子頭の顔が引きつる。
﹁と、東条? 東条彰彦のこと?﹂
﹁あ、そうです! 東条先輩って一見怖いけど、とってもまっすぐ
で優しい先輩で⋮⋮﹂
﹁あなたそれ本気で言っているの!?﹂
﹁え? どういう意味ですか?﹂
美月様の発言に、遠巻きにしていた生徒たちも一斉にざわめきた
った。
﹁おい、嘘だろ、あの東条を優しいって﹂
﹁マジで天使だな、白河美月さん﹂
﹁まっすぐ? あり得ない。学園の天使って本当に何者なんだ? もう天使通り越して慈愛の女神じゃないのか﹂
﹁それなら生徒会の方々が気に入るのも無理ないような⋮⋮﹂
風向きが変わった。
なぜか影響力が強いらしい生活委員会とやらが、天然天使の美月
様を前にたじろいでいる。それを後押しするのが今まで無関心を装
っていた生徒たちだ。
正直、東条の名前を出すのは後が怖いがここは仕方ない。
あたしは体をゆっくりと起こした。
﹁相互理解って重要だよねぇ。姉さんはそれを実行してるワケ。生
徒会の方々はそれを評価して下さってんじゃないかしらー。あの東
条彰彦に真っ向勝負しかけられる生徒がこの学園に何人いるやら﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
95
あたしは後ろ手にそっと上都賀さんの肩を押した。映画によくあ
る、ここは俺に任せて先に行け、というアレだ。賢い彼女は美月様
の手をひき、こそっとあたしの影に隠れて後ずさり。
あたしはそれを確認してから、満面の笑みを浮かべて言ってやっ
た。
﹁そーんな姉さんがいてくれて良かった! おかげであたしは何の
苦労もせずに生徒会の方々とお近づきになれるモンっ!﹂
﹁あなたみたいな生徒がいるから困るのよっ!!﹂
勢いを失いかけていた生活委員会は、ようやく明確な敵を見つけ
ていきり立った。
﹁いい!? し、白河美月さんはいざ知らず、あなたこそ本当に生
徒会の方々に近づいてはいけない人間よ!﹂
﹁えー? もお、マジ言ってる意味わかんなーい。嘘っぱち委員会
に関わってたら遅刻して風紀に怒られちゃーう﹂
﹁あなたはそうやって風紀委員長の城澤様にまで接触する気ね!?
待ちなさいっ、白河アキラっ!﹂
お団子頭の手をかわしたところでタイミング良くなったチャイム
に、あたしはにんまりした。
﹁きゃー、遅刻ちこくぅ!﹂
あたしはさっと身をひるがえし、下駄箱へ直行した。そのまま教
室にダッシュであたしの勝ちだ。
﹁覚えていなさい、あなたには必ず生活委員の怖さを思い知らせて
あげるわ!﹂
負け犬の遠吠えはむなしいだけだ。
これで矛先はあたしに向いた。敬吾さんには怒られないで済むか
もしれない。
96
﹁で、なんなのアレ﹂
﹁何って?﹂
﹁生活委員!﹂
あたしはホームルームが終わってすぐにD組に向かい、人気のな
い階段の踊り場まで松島をひきずってきた。
﹁なんであんなのに文句言われなきゃなんないの? 生徒の素行指
導って、風紀の管轄じゃないワケ?﹂
﹁ああ、それなんだよねぇ﹂
松島は困ったように笑うと、制服の内ポケットから生徒手帳を取
り出した。そして学園内の組織図が載っている見開きページを示す。
﹁御覧の通り、生活委員なんて名称はここに記載されていない。正
式な委員でもなければ風紀の仲間でもない﹂
﹁そんなのわかってる。だからおかしいって言ってるの﹂
不機嫌にかみつくが、松島はさらっとその怒りをかわしてしまう。
﹁待ってよ、問題は次のページ。部活動のところ﹂
ぺら、と手帳をめくった松島は、トントンと文化部欄の隅を指さ
した。そこには小さな文字で﹃学生生活安全部﹄と書かれている。
﹁これが彼女たちの正体だよ。つまりは部活動なんだ﹂
﹁部活動!?﹂
﹁目的は学生の理想的な学園生活の推進。はっきり言っちゃうと、
不純異性交遊の取締なんだ。親同士のパワーバランスを考えない自
由恋愛は、良家のお坊ちゃんとお嬢様にはあまり歓迎されることじ
ゃない。そういったことが起こらないようにできたのがこの部活。
通称﹃生活委員会﹄﹂
松島によると、生活委員会は学園設立当初からある伝統ある部活
らしい。保護者からすれば自分の子どもにおかしな虫がつくのを取
97
り締まってくれるということで、信頼は厚い。おかげで風紀として
も口を出せないのだ。
﹁委員会じゃないから決められた活動もないし、報告義務もない。
でも人の恋愛事情に口をはさむんだから、馬に蹴られそうになって
も蹴り返すことくらいしてきたんだろうね。こわーい集団だよ﹂
﹁さっきのヤツらの口ぶりだと、どうも対象は生徒会とかの役職持
ちに限定されているみたいだったけど?﹂
﹁うん、もともとの活動目的に﹃家柄目当ての友情、恋情を禁ずる﹄
っていうのもあるんだけど、最近ではそれが﹃抜け駆け厳禁﹄に変
わっているみたいだね。部活設立時はきっと明確な保護対象がいて、
その人を保護する口実に過ぎなかったんだろう。それが今では﹃学
内の人気者を守る﹄っていうおかしな目的に成り変わっている。ア
イドルのファンクラブと同じなんだよ。まあ実際、彼女たちの活動
が悪質なストーカー行為とかの抑止力になっているっていう評価は
あるんだけど⋮⋮﹂
﹁おー、なるほど。やるじゃん、松島﹂
﹁委員長の受け売り∼﹂
松島の照れ笑いは雑種犬の愛きょうに近い。
﹁ううん、生活委員ね⋮⋮。バカらしいけど、利用価値もあるから
そのままにしてるのか﹂
もう少し頭のいい連中なら、あたしも有効利用できたものを。
﹁とにかく気をつけてね! 睨まれたりしたら面倒だと思うよ﹂
﹁⋮⋮⋮そういうの、もっと早く言ってほしかったわ⋮⋮⋮﹂
98
悪魔と謎の生活委員会︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
99
天使と大鷹
﹁いやだなァ。パーティ、嫌い﹂
﹁大丈夫大丈夫。言ったでしょー。すぐ終わるって!﹂
ずっと言っていた文句を飽きもせず繰り返す美月様に、あたしは
もう一度同じことを言った。
﹁鷹津家はとってもいい家柄だし、友達もたくさん来るよ﹂
﹁友達とならウチとか学校で十分だよぉ﹂
﹁鷹津の御子息とも友達になったらいいじゃん﹂
﹁⋮⋮放蕩息子って聞いた。どんな人だろう﹂
﹁なんかずいぶん破天荒な人らしいけど﹂
これは控えめな表現だ。
鷹津家の次男は鳳雛学園に入学して一年足らずで家を飛び出し、
周りが気付く前に国外に逃げ出した。しかも留学先は現地に行って
から決めるという無謀ぶり。恐るべき行動力だ。とにかく一度決め
たら止まらない性格らしい。
いよいよ迎えた鷹津のパーティ。 美月様はうつむいて薄青いドレスのフリルを指でいじりながらう
めいている。夜会用に巻かれた髪が崩れないか、あたしは気が気で
ない。だが、ぷうと拗ねてはいても、ふわふわとショートラインの
ドレスの裾をゆらす美月様は西洋人形のように愛らしかった。
そういうあたしは、なんとパーティ用にばっちり身支度を整えら
れていた。
100
美月様と印象が重ならないようにフリルもレースもない藍色のス
レンダーラインのロングドレス。開いた肩を濃い色のショールで隠
すため、露出も少ない。これは美月様の愚痴のお相手をしていたら、
いきなり敬吾さんに突きつけられたものだ。
なぜ、と問う間もなく三舟さんにより着替えさせられ、気づいた
時にはもうパーティの準備は出来上がっていた。呆然とするあたし
の横で、辰巳は普段動かさない表情筋を悔しさで歪ませた。曰く、
ドレスアップするなら自分の手でメイクやらヘアセットやらいろい
ろやりたかったらしい。特に地味すぎるドレスは若いあたしには似
合わない、と歯がみしていた。
何にせよドレスが似合うかどうかは関係ない。
敬吾さんから言われたのは、美月様をなだめることともう一つ。
鷹津の次男を直接検分し、美月様と接触させること。それが今回の
あたしの役割だ。彼はやはり美月様の有力婿候補なのだ。
﹁早く終わらないかなァ﹂
﹁姉さん、まだ十分も経ってないよ﹂
声はひそめているものの、もうとっくに始まってしまっているパ
ーティ会場で交す会話ではない。当主様は美月様を咎めるでもなく、
にこにこと笑っている。
パーティの名目は、一年間の外国留学をしていた次男坊の帰国祝
いだ。鳳雛学園への復学が決まっており、呼ばれた客は学園の生徒
を子にもつ有力者が多い。
この度のパーティの会場となったのは、郊外にある鷹津家の別邸
だ。日本でいち早く外国進出の必要性を見抜いた、と言われる切れ
者の先々代当主の趣味で、鷹津邸は半世紀以上前からすでに外国風
のつくりの屋敷であった。そのため同じ西洋風でも白河にはない重
みと風格がその家に表れている。
あくまで私的で気楽なパーティということだったが、100人を
収容できるフロアは大賑わいだ。
101
磨き抜かれた石の床、目ざわりにならない程度に置かれた名だた
る調度品、これでもかと用意された料理に飲み物、会話に花を咲か
せるきらびやかに着飾った人々。鷹津の盛況ぶりをみせつけられる
かのようだ。
﹁おお、これは篤仁くん! ひさしぶりだね﹂
たかつ あつひと
﹁ごぶさたしております、白河様﹂
彼が今夜の主役、鷹津篤仁か。あたしは周囲を見渡していた目を
素早く戻す。
その男はイタリアの某有名ブランドであると一目でわかるミッド
ナイトブルーのタキシードを見事に自分のものにしていた。日本人
では体格の差から着こなすことが難しいとされるブランドだが、彼
は服の上からでもわかる均整のとれた身体つきをしていた。印象の
きつい目だが、人懐っこそうに笑う厚めの唇がうまくそれを中和し
ている。後ろに軽く流した黒髪は計算されたように額に幾筋かこぼ
れて艶を放っていた。鷹津家子息という肩書はどうも似合わない。
放蕩息子というのは本当らしいな、と思ったその瞬間。
当主様にむけらえていた目がぎっと音を立てるように鋭くこちら
を向いた。
こくん、と自分の喉が動いてからようやく気付いた。見下ろされ
ているだけだというのに恐ろしいほどの威圧感。
あたしはすぐさま視線をそらし、逃げるように深く頭を下げた。
そして隣を見てぎょっとする。美月様が頭も下げずに鷹津篤仁を
見上げているのだ。
﹁ね、ねえさん⋮⋮!﹂
﹁はじめまして! わたくし白河の娘、美月と申します!﹂
挑むような勢いの自己紹介だ。
冷や汗がどっとにじむあたしのことなど気にもせず、美月様は大
102
きな瞳をまっすぐに鷹津に向けていた。
ぶしつけとも取れるその態度に、彼はどんな反応を示すのか。
﹁くっ⋮⋮﹂
こらえられなかった、と片方の口端をぴくりと動かすと、鷹津は
快活に笑った。
﹁あっはっは、元気な方だ! 篤仁です、どうぞよろしく﹂
鷹津は美月様の手をとると、優雅な仕草で手の甲に唇を落とした。
﹁きゃっ!﹂
びっくりして顔を赤くしながら手をひっこめた美月様に、あたし
は隣で体をはねさせた。
﹁ああ、申し訳ない。あちら式のあいさつですよ。貴女があまりに
かわいらしいから思わず!﹂
﹁あ、ご、ごめんなさい!﹂
美月様が頭を勢いよく下げると、それを見てまた鷹津が笑った。
﹁さ、今夜は楽しんでいってくださいね! 特に庭はなかなか見ご
たえのありますよ。とはいっても、出歩いている間にいろいろ変わ
ってしまってご案内するにはこころもとないんですが﹂
﹁あはっ、ご自分のおうちなのに!﹂
﹁ええ、だから今日は一緒に楽しませてもらうんです﹂
にっといたずらっ子のような笑い方をする鷹津につられてか、美
月様も普段と同じ明るい声を出す。さきほどの挑戦的な様子はみら
れない。
﹁では、また後で。失礼いたします、白河様﹂
﹁うん、娘の相手をしてやってくれ﹂
﹁喜んで﹂
鷹津は当主様に礼をすると、美月様に微笑んでならその場を通り
過ぎて行った。ふっとさわやかな香水の香りだけが残る。
あたしは小さく呼吸を整えて、そろりと彼が去った方をうかがっ
た。そしてひゅっと息をのむ。
あたしがそうすることを見越していたかのように、鷹津が肩越し
103
にこちらを見ていたのだ。美月様に向けたものとは全く違う、残忍
な支配者の笑み。
ゾッと背筋を震わせて放心状態に陥ったあたしを救ったのは、意
外にも美月様の叱責だった。
﹁あーきーら。だめじゃない、ちゃんとご挨拶しなきゃ!﹂
﹁あ﹂
しまった。頭は下げたものの、何一つ言葉を発することなく終わ
ってしまった。慌てて当主様に﹁申し訳ありません﹂と謝罪する。
﹁いいよ、大丈夫さ。珍しいこともあるね﹂
当主様は怒るでもなく、むしろ楽しげだ。
﹁いい青年だろう﹂
﹁ええ! やっぱり噂は信じちゃダメね、自分の目でみなくちゃ!﹂
どうやら彼女なりに人となりをはかっていたようで、望み以上の
結果に美月様は御満悦だ。
だが、本当に﹃いい青年﹄なのか?
ドッドッとうるさいくらいに騒ぐ胸をおさえ、あたしは先ほどの
出会いが良いものなのか計りかねていた。
104
天使と大鷹︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
105
悪魔と大鷹
その後、あたしはパーティ会場の壁の花を決め込んだ。この場で
ふさわしい行動は大声で品なく振舞うことではない。
存在しないかのようにひっそりたたずむのは、幼いころからのあ
たしの得意技だった。
白河姉妹の特殊な事情は暗黙の了解とばかりに知れ渡っているこ
とだ。わざわざ話しかけてくる相手もいない。たまにこちらを見な
がら噂話している輩はいるが、今更気にもならなかった。
美月様は身分も立場も似たような状況にある友人たちを見つけ、
楽しげに談笑している。こうして一歩引いた立場から見ると、やは
り美月様は人目をひく。パーティは嫌だと言っていたが、この場に
は誰より馴染んでいるように見えた。彼女をとりまく連中はいつも
の顔ぶれで、特に男性陣はどこか無理にはしゃいでいるように見え
る。
無理もない。大事な大事な﹃友人﹄が、急にわりこんできた大鷹
に奪われかねない状況なのだ。今夜のパーティは久々に帰ってきた
鷹津篤仁の顔見せといってはいるが、その実結婚相手を探すための
第一段階であることなど誰の目にも明らかだ。
思惑飛び交うパーティ会場で、天使の愛らしい邪気のない笑みは
誰をも魅了してやまない。
遠巻きに交される会話に耳をすますと、﹁あれがシラカワの﹂﹁
なんて愛らしい﹂﹁結婚相手は﹂といった言葉がちらほら聞こえて
106
くる。
値踏みしているのは自分だけではない、相手とて同じだ。あたし
は空けるつもりのない華奢なグラスをゆらしてこっそり笑った。ホ
ストである鷹津の父親からの挨拶はすでに済んでおり、あとはパー
ティ終了まで歓談と称した腹の探り合いに終始する。
わあっと若い声が響いたかと思うと、さっそうと美月様に近寄っ
ていく華やかな集団が目に入った。やはり来ていたか、生徒会。
びしっとスーツをまとった雀野や初瀬はまさに王子のような気品
があり、微笑み一つで女性陣をとろけさせている。雨宮はボートネ
ックのドレスで見せつける首筋に色気がただよう。カラーシャツで
遊び心を出している池ノ内は、飄々とした態度ながら臆する様子は
ない。見られることにも、噂されることにも慣れ切っているのだ。
目立つ集団に囲まれてより一層注目度が高まった美月様だが、本
人はまるで気付いていない様子だ。むしろ知った顔に安心している
ように見える。まさかこんな場所で生徒会勧誘などという無粋な真
似はしないだろう。あの集団にはよほどの自意識過剰な人間でなけ
れば近づかない。ある意味ではこれ以上ない美月様ガードと言える。
あたしがわざわざ側にいって不興をかう必要もないだろう。
ふと大きな窓に目を向けると、外がうすぼんやりと明るいことに
気がついた。今日は満月である。フロアの庭園に面した部分はガラ
ス張りで、ここから外に出ることも可能らしい。さきほど鷹津が言
っていたようにかなりの広さで、背の高い木々が道を作るように整
然と並んでいた。その奥には異国の女の像が水瓶から水を注いでい
る噴水まである。
こんな気持ちの良い夜なら、ちょっと散策もしたくなる。
いや、待てよ。
あたしは会場をさっと見渡し、鷹津の姿を探した。頭一つ飛びぬ
けているあの目立つ男を探すのは容易かと思われたが、見つからな
107
い。
理由は簡単、この場にいないのだ。
そして鷹津の言葉を思い出す。
﹃庭﹄﹃一緒に﹄﹃楽しませてもらう﹄
あれは暗に美月様を誘っていたのではないだろうか。そうでなか
ったとしても、この場にいない彼が庭園にいる確率は高い。
鷹津はあたしには判断しかねる男だ。ならばいっそ、美月様ご自
身にあの男を見てもらおうか。敬吾さんの言いつけには従っている
わけだし。
そうと決まれば、あたしはすぐさま行動を起こした。美月様をそ
の気にさせることなどたやすいことだ。
﹁姉さん﹂
﹁あっ、アキラ! どこ行ってたのよー﹂
﹁ちょっとね。皆さま、こんばんはぁー﹂
﹁よう! いたのか、アキラ﹂
愛想よく返事をしてくれたのは池ノ内だけだ。あとの面々は露骨
に顔をそむけて黙り込む。
その隙に、とあたしは美月様の腕を引っ張り、イヤリングで飾ら
れた小さな耳にそっと囁いた。
﹁姉さん、ちょっといい?﹂
﹁なぁに?﹂
﹁お庭、とってもきれいだよ。変わった噴水もあるしね。ここから
すぐ出られるみたいだし、姉さんも行ってみたら?﹂
﹁えっ! 見たい!﹂
﹁あそこを一人で歩いたら、きっとお姫様気分だよ﹂
108
あたしははしゃぐ美月様を庭園まで連れていき、さりげなく手を
離した。後はきっとうまくいく。
一仕事終えたことで、あたしは少しだけ自分にご褒美をあげよう
と思った。この庭園は広い。少しだけ散歩して、パーティの喧騒か
ら離れてもいいだろう。
噴水を中心にして放射線状に延びた道は、それぞれ別の種の花や
木が並んでいる。その中から一本選び、ぽつぽつと歩いていく。そ
の道を飾る木の幹はまるで大きな目のような模様がたくさんついて
いて、じいっとこちらを監視しているようだった。ふしぎな木だ、
と目に触れてみようと手をのばした、その時だ。
﹁どこに行ったかと思った﹂
﹁え﹂
木の後ろから伸ばされた手にぐいっと腕をつかまれる。反射的に
押しのけようとするが、無理やり引き寄せられた。今まで感じたこ
とのない男の力だった。
﹁よう﹂
木の影に引っ張り込まれたあたしは、間近にせまる男の顔に鳥肌
がたった。漏れそうになる悲鳴をとっさのところで抑える。
鷹津篤仁、あたしが先ほど探していた人物その人である。
﹁そうそう、いい子だ。静かにしてろよ﹂
こく、と喉をならしたあたしは、静かに言った。
﹁⋮⋮なんのおつもりですか﹂
﹁ん?﹂
﹁なぜ、こんなところにいらっしゃるのです﹂
美月様と会うのではないのか、と内心の動揺を隠そうとあたしは
109
鋭く尋ねた。だが鷹津はニヤリと笑い、余裕の風をふかしながらこ
ちらをのぞきこんでくる。
﹁めんどうで逃げてきた。あいさつは終わったし、俺がいなくても
いいだろう﹂
さきほどと全く違う粗野なもの言いに呆気にとられたものの、今
の鷹津から嫌な威圧感は感じない。あたしは﹁そういう問題ですか﹂
とだけ返した。
﹁何も問題はない。用だって済んだ﹂
﹁そうですか⋮⋮。なら、わたくしはこれで﹂
早々に鷹津から離れようとするが、あたしの腕をつかんでいた手
は腰に回り、余計に身動きがとれなくなった。
抱え込まれるような体勢に、わきあがったのは嫌悪感。護身術の
稽古くらいでしか他人とこんな近い距離に立つことはなかった。例
外といえば辰巳だけだ。
﹁冗談が過ぎます、やめてください﹂
はっきりと言うと、鷹津はますます笑みを深める。
﹁冗談じゃあない。お前だって、これが何のためのパーティかわか
っているんだろう﹂
﹁⋮⋮わたくしは、そのための下準備をしたつもりです﹂
あたしは目線だけで噴水のほうを示した。そこに、あなたの求め
る女がいる。そう伝えたつもりだった。しかし、鷹津は手を離さな
い。
﹁下準備? それはありがたいな。覚悟はできているというワケか﹂
﹁あ、いえ。どうか、お優しくお願いいたします。まだそういった
ことには慣れていないので﹂
夢見がちな美月様のこと、男女間の恋愛がどういうものかよくわ
かっていないに違いない。あたしが真剣に言うと、鷹津は片眉をひ
くりと動かした。
﹁なんだ。言っていることの割に冷静だな﹂
﹁そうでしょうか﹂
110
﹁まァいい。お望みとあらば優しくしよう﹂
鷹津はあたしのあごをつまむと、ひょいと口の端に自分の唇を落
とした。
﹁え﹂
頬に触れる吐息と柔らかい感触に、ぞわあっと更に鳥肌が立つ。
﹁うっ!﹂
あたしは血の気が引くのを感じながら、鷹津の頭を押しのけた。
﹁汚い!﹂
﹁⋮⋮汚いはないだろ﹂
不満そうな鷹津に、あたしは小声で言った。美月様に怒鳴り声が
聞こえたらまずいからだ。
﹁何するんですか! あいさつとか言ったら怒りますよ!﹂
﹁あいさつじゃない。未来の妻への愛を示しただけだ﹂
﹁はァ?﹂
﹁なんだ? わかっていたんじゃないのか﹂
鷹津は首をかしげたが、そんな仕草、まったくかわいくない!
﹁何を言ってるんですか! 未来の⋮⋮!?﹂
﹁妻だ﹂
﹁つま!?﹂
﹁そう。わかるか? 結婚相手のことだ﹂
小さい子に言い聞かせるような調子で言う鷹津に、今度は苛立ち
がわいてきた。
﹁だから、それならあっちです! 噴水の方で待っています、早く
行ってください﹂
﹁お前こそ何を言ってるんだ。むこうにはお前の姉がいた﹂
﹁そうです、あなたの望む姉さんはあちらに﹂
﹁違うな。俺はお前がほしいんだ﹂
﹁え﹂
111
何を言われたのかわからなかった。
きょとりと首をかしげるあたしは、あまりにも幼く彼の目に移っ
たのだろう。鷹津は口元をゆるめながら続けた。
﹁いいか。俺がほしいのは﹃姉さん﹄じゃあなく、お前だ﹂
﹁は?﹂
今度は聞き取れたが、男の意図がわからない。あたしは露骨に顔
をしかめてみせた。
﹁おい、少しは恥じらうとか喜ぶとかしろ﹂
﹁⋮⋮そんなわけのわからない冗談に付き合っていられません﹂
﹁冗談だと? 本気も本気だ、俺はお前を妻にする﹂
にいっと笑う鷹津はまるで少年のようだ。あたしは大きくため息
をつくと、聞き分けのない弟をたしなめるように言った。
﹁鷹津様。御家があなたの伴侶を探しているのはわかりますし、あ
なたがそれを厭っているのもわかります。同じような境遇の人間が
ウチにもおりますから。でも、よりによってわたくしを遊び相手に
するのは止めていただきたいのです﹂
﹁いーや、厭ってないさ。相手次第というものだ﹂
﹁だから、その相手が⋮⋮﹂
﹁うるさい、いいから聞け﹂
鷹津は大きな手のひらであたしの口をばふっとふさいだ。
﹁白河との縁談の話は既にあるんだが、あのぽやぽやお嬢様は俺の
趣味じゃない。でもお前はいい。お前にしよう。俺は決めた﹂
またもや見せる、いたずらの計画を立てる悪ガキの笑み。
﹁覚悟しておけ﹂
鷹津はそれからあたしに何も言わせずにその場を立ち去った。
﹁あっ、鷹津様!﹂
112
美月様の声が聞こえる。
﹁美月さん。庭にいらしたんですか﹂
﹁はい。とってもキレイですね!﹂
﹁ありがとうございます。俺も今散歩中でしてね﹂
﹁そうなんですか! 奇遇ですね﹂
﹁パーティも久し振りなもので逃げてきてしまいました。ここだけ
の話、疲れるでしょう?﹂
﹁ふふっ。実はわたしも苦手なんです﹂
﹁奇遇ですね。よかったら一緒に回りませんか﹂
﹁はい、ぜひ!﹂
美月様が楽しげに笑っている。
誰に?
あれは一体誰だったんだ。
今、美月様と朗らかに会話している好青年は?
あたしは茫然とその場に取り残されていた。
敬吾さんになんて報告すればいいんだろう。
辰巳に無性に会いたかった。
113
悪魔と大鷹︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
114
悪魔と雪原の男
敬吾さんはしんと降り積もった雪みたいな人だ。景色も周りの音
も呑み込んでその場を掌握し、余人には踏み込ませない領域を作っ
てしまう。
あたしは入り込む許可はいただいているものの、頭から呑み込ま
れて窒息寸前だ。
﹁その後、美月様は鷹津篤仁と庭で過ごし、パーティ終了間際に当
主様のところへ戻りました。帰り際には名残惜しそうに挨拶をする
姿も見られ、美月様はいたく彼をお気に召した様子でした。帰りの
車内でも当主様に鷹津篤仁を非常に褒めています。物腰はおだやか
でスマート、とても親切で話しやすい、とのことです。報告は、以
上です﹂
帰宅後、あたしはすぐさま敬吾さんの下へ向かった。敬吾さんは
白河邸の近くのマンションに居をかまえているが、そこには寝に帰
るだけのようで夜遅くまで白河邸の書斎で仕事をしているのだ。
どう言おうか、なんて結局迷うだけ無駄だった。包み隠さず起こ
ったことを伝えるのみだ。白河家を取り仕切るこの人に隠し事をす
るのは至難の業。取り繕うにもボロがでるし、そもそも何をごまか
せばいいのかわからない。だが、規則的に瞬きをする他は微動だに
しない敬吾さん相手に、あたしの口は自然と重くなる。ましてや非
常に言いにくい内容だ。
115
敬吾さんは薄い唇を開き、氷の息を吐いた。
﹁美月様とアキラさんが受けた印象は大分異なるようですが﹂
﹁⋮⋮あたしを手近な遊び相手に選んだ点からして浅慮と軽薄さが
うかがえます。要人への振舞いは完璧、ただ格下に見た相手には容
赦がない。これもあまり良い印象は受けません。﹂
﹁妻にする、と言われたというのは?﹂
﹁自分が色男であることを自覚した上で、愚かと評判の妹を使って
白河をゆさぶるつもりでしょう。あくまで本命は美月様、あたしが
白河本家の人間でないことくらい、鷹津は知っているはずです﹂
﹁わかっているなら問題はありません﹂
敬吾さんはかちゃりと眼鏡のズレを直した。
﹁一番してはいけないことは、あなたが鷹津に見初められたと勘違
いをすることです。浮かれて白河の不利益になるようなマネをされ
ては困ります﹂
なんとか及第点の答えを出せたようだ。ほっと膝から力が抜けそ
うになる。しかし、あたしの唇の端に触れた敬吾さんの指の冷たさ
に、背筋がぶるっと震えた。そこは鷹津が口付けた場所でもあった。
﹁わざわざ似合わないドレスを選び、地味な化粧をさせたというの
に。アキラさんはよほど遊び好きの軽い女に見えるのでしょうか﹂
あからさまな侮蔑の言葉に、かあっと頭に熱が灯るのを感じた。
ずいぶんな言われようだ。
制服の乱れ具合とは裏腹に、あたしは友人も恋人もいない、乱れ
ようのない青春を送っているというのに。それを敬吾さんは誰より
知っているはずなのに。
知らずに拳を握る手に力が入っていた。爪が手のひらに食い込む
痛みが、冷静さを保たせてくれる。
抗議の気持ちを込めて黙り込んでいると、敬吾さんは観察するよ
うに目を細めた。
116
﹁⋮⋮世には十万人に一人、天運を呼びよせる笑貌を持つ人間が現
れるそうです。古代中国、周の文王しかり、名宰相孟嘗君しかり﹂
﹁はい?﹂
突然始まった講釈に、渦巻いていた感情が霧散する。
﹁かの笑みを持つ人のところには自然と人が集まるのです。苦難に
あっても救いの手をも引き寄せる。白河の血はまさにその笑貌を持
っています。ですがアキラさん、あなたは違う﹂
そんなことは重々承知だ。
あたしと美月様は違う。
全然違うのだ。
敬吾さんの二本の指があたしの唇をゆっくりなぞっていく。噛み
ついてやろうか、と一瞬迷った。
﹁笑貌に魅かれる者は良くも悪くも力が強い。扱えるのは笑貌の持
ち主だけです。どうぞお気を付けください。何分あなたは⋮⋮ちょ
っかいを出したくなる顔だ﹂
どういう意味だ。
あたしが問い返す前に、ぷに、と下唇をつまんでから、敬吾さん
は背を向けて仕事に戻ってしまった。
﹁訂正します。アキラさんが遊び好きに見えたというより、白河の
人間で美月様のお気に入りだから接触を図ったのでしょう。とりあ
えず今は様子見です。機嫌を損ねない程度に相手をし、美月様との
仲をうまくまとめてください。ただし、主導権を簡単に譲らないよ
うに。お疲れさまでした、どうぞ休んでください﹂
﹁⋮⋮⋮はい、わかりました﹂
そうとも、ようやくわかった。
敬吾さん、今、すご∼く機嫌が悪い。
あたしはどうやら八つ当たり⋮⋮というか、ストレス解消のため
にいじめられたようだ。そんな気がする。
117
不満は残るがようやく解放されるのだ、あたしは無駄口を叩かず
に退出することにした。あたしのストレスの吐きだし口は、別にあ
る。
﹁ただいまっ!﹂
渡り廊下を駆け抜けて離れに飛び込んだあたしを、待ちかまえて
いた辰巳が﹁お帰りなさいませ﹂とだけ言って受け止めてくれた。
パーティの首尾についても、あたしの不機嫌の訳も、辰巳は何も
問いかけなかった。今日は何も言いたくない、でも明日になれば話
すから。そういう心の声が、あたしの足音でわかるのだという。
あたしは辰巳の胸に顔をうずめ、鷹津と敬吾さんによって冷えた
口元を温めることにした。
布団に入り込んで目を閉じてから、﹁あ﹂と思わず声を上げた。
しまった。
敬吾さんへの報告が一つ抜けていた。
実はパーティ会場に戻った後、あたしは血相を変えた雀野につか
まった。彼はあたしに近寄るなり、﹁白河さんはどこへ?﹂と問い
ただしてきたのだ。
あたしの思考回路はちょっと狂い気味だったが、ギリギリのとこ
ろで通常通り作動した。
﹁知りませんよ。怖い顔してどうしたんです﹂
﹁まさか、篤仁と?﹂
﹁さあ﹂
あたしの答えに、雀野は悲しげに眉をひそめた。
﹁⋮⋮君が白河さんの生徒会入りを止めようとしているのはわかっ
118
ている。その理由も、彼女を思ってのことだということも。だけど、
どうかこれだけは譲ってほしい。僕には彼女が必要なんだ。もう、
僕には彼女しか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮雀野会長?﹂
興奮したように早口になる雀野は、あたしの声にはっと正気に返
ったようで、すぐさま踵を返してどこかへ行ってしまった。
ただそれだけの事だったが、あの時の雀野の様子は普通ではなか
った。余裕たっぷりの落ち着きも、あたしを視界にも入れようとし
ない失礼な態度も、どこかへ置いてきてしまったようだった。美月
様をとられそうであせるのは分かるが、それだけだろうか。今思い
なおしてみると違和感がある。
だが、報告するまでではないか。この件も様子見だ。
雀野は鷹津の対抗馬となりえるだろうか。
雀が鷹に勝てるのか。字面では完敗だけど、ぶつかり方によって
は鷹津という人間を見るいい機会になるかもしれない。
眠りに落ちる寸前、あたしは敬吾さんの奇妙な話を思い出してい
た。
文王も孟嘗君も、大成するまでに多くの苦難にあっている。捕え
られたり息子をミンチにされたり、縁起の悪い日に産まれたからと
殺されそうになったり、散々だ。現代日本において美月様がそんな
目にあうとは思えないけれど、彼女がひどい苦難にあうのはイヤだ。
あたしには、その苦難の一つが鷹津であるように思えて仕方なか
った。でも敬吾さんの話を信じるなら、あのアクの強さが美月様の
助けに転じる人物となるのかもしれない。
美月様には確かに不思議な力がある。人を魅了する力だ。
悲しませたくない。
あたしを妹と呼んで慈しんで居場所を与えてくれた人を、守りた
い。
119
そのためにあたしができることは︱︱︱︱︱︱。
120
悪魔と雪原の男︵後書き︶
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121
悪魔と不良、来襲
美月様の引き寄せる苦難をうまくあたしに回すこと。
お守りするための秘訣といえばコレかな?
なーんてぺろっと舌を出しながら考える余裕はあるけれど、どう
しよう。回ってきた苦難の乗り越え方がまったく思いつかない!
﹁そういえば、篤仁さんっていつから学校に来るのかなァ﹂
パーティから一夜明けた朝のこと。下駄箱から上靴を取り出して
履き替えている最中に、美月様はぽろっとそんなことを聞いてきた。
ちなみにあたしは真っ先に隣のクラスの美月様の下駄箱を開ける。
異物が入っていた時に素早く対処するためだ。あたしの下足番的行
為は習慣化しているので美月様は何も疑問に思っていない。
﹁あー、そうだね⋮⋮って﹃アツヒトさん﹄!?﹂
﹁え? やだなぁ、昨日お会いした鷹津篤仁さんのことだよ。もう
忘れちゃったの?﹂
ころころと笑う美月様は、自分が何を言ったのかわかっていない
ようだ。
﹁美月ちゃん、そんなに鷹津様と仲良くなったの?﹂
そう、そこだ、上都賀さん!
﹁うん、いっぱいお話しちゃった! とってもいい人だよ∼。親し
くなったんだから下の名前で呼んでいいって。そのほうがもっと仲
122
良しって感じでしょ? 早く復学しないかな。またお話したいな﹂
﹁へぇ⋮⋮﹂
上都賀さんは珍しいものを見た、というふうに美月様を眺めてい
る。
美月様は誰に対しても優しく平等だ。想いを寄せる者からすれば
ヤキモキするほどだろう。それが、鷹津篤仁に対してはどうだ。
﹁でも姉さん、昨日の帰り道では﹃鷹津さん﹄って言ってたじゃん﹂
﹁ちゃんと気をつけてたんだよ! 仲良しでも先輩と後輩でしょ?
お父様に聞かれたら礼儀がなってないって怒られちゃう﹂
これでもいろいろ考えてるんだよー、と美月様は言うが、結果的
にそれは良かったのだろう。もし当主様が聞いていたら、鷹津との
縁談交渉を具体的に進めようとするかもしれない。美月様の性格上
いくら鷹津を気に入ったとしても、当主様が手出ししたとあっては
ヘソを曲げてしまう可能性がある。運命とやらを自分の手でつかみ
たい、美月様はそう思っているのだ。
﹁あ、でも篤仁先輩、のほうがいいかもね! それなら失礼じゃな
いよね。うん、篤仁先輩!﹂
美月様は確認するように何度もつぶやいた。
当然周囲にいた生徒にも聞こえている。学園の天使が既に鷹津の
子息の心をとらえた、という噂はきっと瞬く間に広がることだろう。
美月様争奪戦へ参加するハードルがぐんと上がったということだ。
それにしても美月様は本当に鷹津をお気に召したらしい。表面的
には願ってもない縁談なのだが、喜んでいいのか、警戒すべきなの
か。
﹁ん?﹂
考えながらようやく自分の上靴に足を入れると、くしゃ、と何か
がつま先に当った。
つぶれてしまったが、それはA4サイズの八つ折りの紙だった。
123
嫌な予感に美月様に見られないようこっそりと中を広げる。
﹃あなたの言う相互理解を示してみなさい﹄
印字されていたのはそれだけだ。
なんだ、てっきり罵詈雑言か不幸の手紙かと思ったのに。拍子抜
けだ。
しかしどういう意味なのか。
あたしを気に入らない者からの謎の嫌がらせか、と深くは気にせ
ずに紙をポケットにしまい、美月様と教室へ向かった。
その紙の意味を、あたしは数分後に知ることになる。
﹁おい! あの東条彰彦が一年の教室をE組から順にまわってるっ
て﹂
﹁なんでも﹃一年生同士の姉妹﹄を探してるらしい﹂
﹁天使か! 天使が目当てなのか!﹂
﹁やばいぞ、今C組に入った﹂
恐れおののく生徒たちは口ぐちに情報を伝え合っている。そして
チラチラと怯えた目でこちらを盗み見る。お前のせいだろう、天使
を巻き込んで何してくれるんだ、おかげでこっちは大迷惑だ! そ
んなことを思っているのだろう。
別にクラスメイトにどう思われようがかまわないが、東条を相手
にしたくない。口でならいくらでも相手になるが、直接的な暴力は
苦手なのだ。
あたしは机につっぷして頭を抱えていた。
あの雑な手紙の差出人は、生活委員会に違いない。あたしが﹁姉
さんは東条に対しても相互理解というものを実践している﹂と言っ
たことへの挑戦状だ。
124
やはりあそこで東条の名前を出したのはまずかったか。
しかし後悔してももう遅い、東条はすぐそこまで迫ってきている
のだ。
隠れたいけどA組に行かれて美月様が捕まる方が問題だ。正面切
って東条を迎え撃つのもできれば避けたい。どうしよう! その時、ブブブとスマートフォンにメールが届いた。送り主は松
島だ。
文面は、東条彰彦が君たちを探してる、気をつけて、という簡素
なものだ。
﹁松島⋮⋮っ! 遅いから⋮⋮っ!!﹂
あたしはギリリと奥歯をかみしめ、スマートフォンを壊れんばか
りに握りしめた。
﹁おい、このクラスに一年同士の姉妹いるか﹂
﹁きゃああああ!﹂
ドスのきいた低い声に、というよりも、悲鳴を上げた女生徒の声
にびくっとあたしの体が跳ねる。
﹁うるせーな、いるのかいないのか聞いてんだよ!﹂
﹁ひいいいいっ、あの人ですぅ!!﹂
﹁あー?﹂
指さしてあっさりとバラしてくれたクラスメイトは悪くない。怖
いよね、わかるよ。
あたしは腕の隙間からちらりと扉のほうをうかがった。ばっちり
目があった東条は、にいっと歪んだ笑みを作る。
﹁おお、いたいた。あん時の妹のほうだな。聞いてくれよ、妙な噂
があるらしいんだよ﹂
東条はずかずかと教室に入り込む。
﹁俺が? お前ら姉妹に? 飼いならされたっていうんだよ。なん
だろうな、そりゃあ﹂
125
大きな歩幅であっという間に教室隅のあたしの机のそばまで詰め
てきた。この距離だとこめかみが引きつっているのがよくわかる。
あたしはこっそりと腰を浮かせた。
﹁どういうことか、説明してくれるよなぁ!?﹂
ばんっ!
東条が勢いよく手のひらを机に叩きつけたその音が、あたしのロ
ケットスタートの合図になった。
﹁あ?﹂
﹁すみませんでしたー!!﹂
あたしは猛然とダッシュし教室を飛び出した。ぽかんと口を開け
たクラスメイトたちがあたしを見送るのが、なぜかスローモーショ
ンで見えた。走るのは、当然美月様のいるA組ではなく反対のE組
方向だ。
﹁この野郎! 待てコラ!﹂
すぐさま東条の怒声があたしの後を追いかけてくる。うまくA組
から遠ざけることができたのはいいが、事態は好転してはいない。
まずい、本当にまずい。
怖いなー、やだなー。
あの怒り方ではぺろっと舌を出しても許してくれそうにない。
そろそろ朝のホームルームが始まる時間だ。教師が来るころでは
ないかと走り出したのはいいが、なぜかチャイムがまだならない。
とっさに持ってきていたスマートフォンを見るも、既に時間は過ぎ
ていた。それなのに教師もまだ来ない。
生徒たちは突然の騒ぎに教室から顔を出してあたしたちの追いか
けっこを見ているが、東条の迫力に負けてかあたしの人望の無さの
せいか、助けてくれそうもなかった。
126
﹁今止まれば少しは許してやっからよぉ、おい妹ォ!﹂
少しはって、許してもらえない残りの部分であたしはどうなって
しまうのか。あまり想像したくない。
﹁先輩、誤解! 誤解だから!﹂
あたしはふり返らずに叫ぶ。
﹁ああ!? なんで誤解で俺がお前らの犬になってんだよ!﹂
犬だと!?
仲良くなったという話が、どうして犬だの飼うだの物騒な内容に
変わってしまったのか。噂って恐ろしい。それも生活委員会のしわ
ざだろうか。
﹁違いますよぉ! そんなの思ってない!﹂
﹁だったら俺の目ぇ見て証明して見せろや!﹂
﹁怖いから無理!﹂
ああ、もう! あたしは心の中で悪態をついた。矛先は生活委員
会でも東条でもない、松島だ。
松島め、メールは遅いし、助けてはくれないし! 役に立たない
じゃないか! 風紀のくせにぃ!!
﹁⋮⋮風紀?﹂
いい加減息が切れてきた。背後に迫る東条の足音もどんどん近付
いている。
今いる場所は教室棟一階の階段前だ。ここを登りきって一番奥の
教室、そこに逃げ込むしかない!
あたしは一段飛ばしで階段をのぼり、ようやく二年生の教室が並
ぶ二階にたどりついた。あとはストレート突っ走るのみ、いける!
と思ったのだが。
﹁あっ!﹂
﹁捕まえた﹂
127
首の後ろをぐっと引っ張られ、危うくバランスを崩しそうになっ
た。が、倒れそうになる体を東条が引っ張り起こす。
あたしの頭の高さに体をかがめた東条は、口端を持ち上げて三白
眼を光らせた。
﹁観念しろ。逃げた件も含めて、どう落とし前つけさせてもらおう
か﹂
﹁う⋮⋮﹂
か弱い乙女が暴漢に捕まっているというのに、二年生たちもなん
だ、どうした、とこちらを窺うだけだ。これが美月様だったらきっ
と別だっただろうに。
﹁せ、先輩。冷静に話し合いましょうよ﹂
﹁ああ、いいぞ? 冷静に、人気のないとこで、じっくりと話そう
じゃないか﹂
﹁あー、そういうんじゃなくてぇ!﹂
襟首を掴む手がぐいっと持ちあがり、あたしの首も閉まって苦し
い。東条はあたしを引っ張ってどこかへ連れて行こうとするが、そ
うはいかない。行ったら最後、帰ってこれなくなりそうだ。あたし
は階段の手すりにつかまって抵抗した。
﹁先輩、やっぱりここは立会人をもって話を進めましょうよ!﹂
﹁ああ? んなモンいらねぇよ。オラ行くぞ﹂
﹁ぐう⋮⋮!﹂
引っ張られて余計に閉まる首を片手で押え、もう片方の手で必死
に手すりを握る。
ここから声が届くだろうか。届いたとして、来てくれるだろうか。
賭けだった。でも、これは勝てる賭けのはず!
あたしは息を大きく吸った。
﹁しろさわぁああああああ!! 怖いよ! 助けて︱︱︱︱︱!!﹂
128
﹁年上の相手を呼ぶのなら敬称をつけなさい! アキラくん!﹂
来たっ!! それも予想以上に早く!!
階段正面の窓ガラスから差し込む光が、まるで後光のように城澤
風紀委員長を照らしていた。
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悪魔と不良、来襲︵後書き︶
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悪魔の反省、そして反撃
あたしが目指していたのは二年A組、風紀委員長城澤隆俊のクラ
スだ。
学園一の不良と悪魔のコンビでは誰もが目をそむけるであろうが、
この鋼の男は違う。悪魔であっても助けを求める相手を見捨てない。
そう踏んだのは間違いではなかったようだ。
城澤はあたしの襟首を捕まえている東条の手首をつかむと、語気
も鋭く言った。
﹁おびえている後輩の女生徒に対する振舞いとは思えないな。手を
離したらどうだ﹂
﹁あー、風紀委員長よー。これはこっちの問題だから口はさまない
でくんねーかな﹂
東条の凄みのきいた睨みにも城澤はひるまない。
﹁生徒間の問題解決も風紀の役目だ、仲介役をしてやろう﹂
﹁お願いします!﹂
あたしが間髪いれずに叫ぶと、城澤は﹁わかった﹂とうなずいた。
東条はあたしをぎっと睨みつけるが素直に手を離す。この前も思っ
たことだが、東条は風紀と揉め事を起こす気はないようだ。もし東
条が風紀をものともしない悪人だった場合、こうはうまくいかなか
っただろう。
城澤はあたしを下がらせて東条との間の壁になってくれた。東条
はもはや成人男性と変わらないがっしりした身体つきだが、幸い城
澤も負けていない。
131
これであたしがボコボコにされるという最悪のパターンを避ける
ことができた。胸の動悸もようやく治まってくる。
城澤は興味津津の生徒たちを教室にもどし、静かになった階段の
踊り場であたしに問いかけた。
﹁それで? どうしてもめていたんだ﹂
﹁誤解だってば。でたらめの噂が流れていて、それを聞いた東条先
輩が怒ったの﹂
﹁だから、どこをどうしたら俺がお前らの飼い犬になったってこと
になんのか聞いてるんだよ。なぁ風紀委員長、ひでぇだろ? 先輩
のこの俺がなんで後輩女の犬にされんの?﹂
東条は先ほどまでの攻撃的な態度を隠し、俺は被害者なんですと
訴え始めた。
﹁犬⋮⋮? 俺が聞いたのは﹃白河美月の慈愛は東条彰彦をも照ら
す﹄とかいう訳のわからない話だったが﹂
﹁その噂いつから? 犬とか飼うとかは聞いてない?﹂
首をかしげる城澤の袖を引き、あたしは勢い込んで聞いた。
﹁先週から流れ始めたはずだ。風紀は学園内の平和維持のため情報
収集を怠らない。くだらない内容だったので気にかけていなかった
が、東条が犬呼ばわりされているのは知らなかった﹂
﹁一部であってもそういう噂が流れたっていうのが俺には精神的苦
痛なんだよ﹂
﹁もっともだ。アキラくん、東条くんはこう言うが実際のところは
どうなんだ。何か心当たりは﹂
﹁それなら委員長も知ってるはずですよ。この前の姉さんと東条先
輩の煙草事件﹂
﹁何?﹂
嫌な思い出なのだろう、城澤は嫌そうに口をへの字に曲げた。
﹁そうだ、風紀なら、この前生活委員会に姉さんがちょっかいかけ
132
られたってことも知ってるでしょ? その時に東条先輩と姉さんが
話し合いの末和解したって話が出たんです。原因っていうならそれ
しか考えらない﹂
﹁それがどうしてあんな噂になるんだ﹂
東条はあたしの説明に不満顔だ。
﹁姉さんと東条先輩が和解した、仲良くなった、親友になったって
感じで大げさに変わったんじゃないかとしか言えませんよ。こっち
はそんなひどい噂があるなんて知らなかったくらいだし﹂
噂が流れるであろうことは想定していたが、それは先ほど城澤が
言ったような美月様のイメージアップ効果しかないものだと思って
いた。
まさかそんな悪質に変化するなんて。
﹁そもそも、どうして東条くんは今日いきなりアキラくんを問い詰
めようとしたんだ。その噂は誰から聞いた﹂
城澤がたずねると、東条はおもむろに一枚の紙を取り出した。
﹁今朝これが俺の下駄箱に入ってたんだよ﹂
A4の八つ折だ。
開いてみせると、そこには﹃警告 東条彰彦は一年生姉妹に飼い
ならされた犬と評判になっている﹄と印字されていた。
﹁ふざけんなって思ったよ。気になったんでクラスのヤツにちょっ
と聞いてみたら、顔真っ青にして小刻みに首縦に振ってたぜ﹂
それは肯定の意味ではなかったのではないか。いや、今はそれよ
りも言いたいことがある!
﹁それ、あたしにも来ました!﹂
持っていて良かった! あたしはポケットに入れっぱなしだった
紙を城澤に渡す。城澤は二枚を並べて見比べているが、用紙も文字
の大きさも書体もまったく同じものに見えた。
﹁相互理解⋮⋮?﹂
﹁姉さんがしてみせたように、怒り狂ってる東条先輩を話し合いで
133
説得してみせろって言ってるんですよ﹂
手の込んだことをしてくれる。
﹁つまり、この手紙の送り主がきみたちを仲違いさせようと目論ん
だ、と﹂
﹁噂だって流したのはそいつに決まってます! だから東条先輩、
これは決してあたしたちの仕業ではなく︱︱︱︱︱﹂
﹁気にいらねぇな﹂
東条はあたしから目をそらさないまま、壁をどんっと蹴りつけた。
﹁あの件はアレで終わったはずだろ? お前らが黙ってりゃ済んで
たんだ。そういうこと含めての﹃手打ち﹄だったんじゃねーのか﹂
﹁う﹂
そこを突かれると痛い。
あの場で成立した協力体制は、東条から美月様を逃がしたいあた
しと風紀から逃げたい東条の利害関係から生まれた一時的のものだ。
そこには言外にもう互いに関わらないようにしよう、忘れようとい
う考えがあったはずだ。わかっていながら、あたしはそれを破って
しまった。
﹁相互理解だァ? ふざけんな、俺がお前らと慣れあってるように
言われちゃたまんねーよ﹂
﹁それについてはすみませんでした。軽率に口を滑らせたことで不
快な思いをさせてしまい⋮⋮﹂
確かによく知りもしない後輩の女生徒の飼い犬扱いはあまりにも
ひどい。不良というのは面子を気にするというし、東条もさぞかし
腹が立っただろう。
あたしは東条に頭を下げた。
﹁東条くん。彼女はこうして噂の原因を作ってしまったことを悔や
んでいる。謝罪もした。噂の撤回にも尽力してくれることだろう﹂
134
城澤の援護に、どうか折れてくれないか、とあたしは祈るように
思った。そして待つことたっぷり五秒間。
突然東条は﹁あーっ!﹂と大きな声を出してまた壁を蹴った。
﹁ちっ! あー、調子狂うな! 俺はこんなつもりじゃなかったん
だよ! 噂が気にいらねぇのは事実でも、ガチで頭下げられたって
面白くも何ともねぇんだよ!﹂
﹁え?﹂
大きな舌打ちに、あたしは頭を下げたまま目だけを上げた。 ﹁城澤なんて呼びやがって、風紀がいなけりゃ今頃こいつビービー
泣かせて楽しく遊んでやれたっつーのによォ!﹂
ビービー泣かすだと?
こいつ、真剣な謝罪なんて望んでいなかったのか。噂をネタにあ
たしをいたぶって遊ぶつもりだったのか!
あたしよりも先に美月様が捕まってしまったとしたらどうなって
いたことか。
反省の思いから縮こまっていた体が、湧き上がる怒りでぐうっと
伸びあがる。
﹁東条くん、その態度は一体どういうことだ!﹂
あたしは東条に抗議してくれようとする城澤の腕をそっと握った。
﹁いいんですよ委員長。東条先輩、この度はほんっとーにすみませ
んでしたぁ⋮⋮﹂
﹁もういい、クソつまんねぇオチだったな。お前はもっと面白いヤ
ツかと思ってたぜ﹂
東条は不機嫌そうに吐き捨てる。もう興味をなくした、と背を向
けようとする東条に、あたしは静かに言った。
﹁ところで、さっき紙を取り出した時にシガレットケースみたいの
が見えたんですけどォ⋮⋮。気のせいですよねぇ?﹂
135
﹁は!?﹂
あせった声を出す東条。その反応にあたしはにんまりと笑みを作
った。
﹁もしかして拾ったんですか? また? そんな偶然ってあります
かね。ねぇ、風紀委員長﹂
﹁おいおい、今はそういうコトじゃねーだろ、何言ってんだお前は
! こら、妹!﹂
城澤は逃げ腰になる東条を前に眉間にシワを寄せている。
﹁一応確認させてもらおうか﹂
﹁うォーい、風紀委員長まで何のせられてんだよ!﹂
東条はあからさまに狼狽していた。実はあたしはシガレットケー
スなんて見ていない。ただの揺さぶりだったが、これは確実に持っ
ている。
逆襲成功だ。
﹁観念するんだ、東条くん﹂
﹁あたし、東条先輩の無実を証明すべくお手伝いしま∼すっ﹂
﹁あっ、バカ、やめろって! おい!﹂ 城澤が暴れようとする東条の両手を抑えつけている間に、あたし
は素早く背後にまわって東条のスラックスのポケットを探った。セ
クハラじみているけど仕方ない。遠慮なく手を突っ込ませてもらう。
四角い革の入れ物の感触に、あたしは口の両端が吊りあがるのを
止めることができなかった。
﹁あれ∼、これ、なんだろ∼?﹂
出てきたのはビンテージ加工された茶色の牛革のシガレットケー
スだ。中身の感触もちゃんとある。
﹁あああああ!﹂
﹁アキラくん、貸してくれ﹂
﹁は∼い!﹂
136
﹁あああああああ⋮⋮!﹂
あたしは良い子の返事をして城澤にパスする。東条はうめき声を
上げながらがっくりと廊下にうずくまった。相当内申点を気にいて
いたのだろう。だがもう遅い。
﹁む。これは⋮⋮﹂
﹁委員長、何入ってるんです? たばこ? やっぱタバコ?﹂
あたしはワクワクと城澤の手元を背伸びしてのぞきこんだ。
﹁え?﹂
思わぬ事態に笑みが崩れる。そこに入っていたものは予想外のも
のだった。
﹁棒付き飴、だと?﹂
﹁え、うそ。コレ⋮⋮﹂
そう、ケースの中にはタバコではなく飴が五本も入っていた。呆
然とするあたしたちの足元で東条は肩を震わせている。
﹁いや、違うし⋮⋮。ウマいから持ってただけだし、禁煙とかじゃ
ないし⋮⋮。あ、でも甘党ってわけじゃないから⋮⋮! 甘いもの
好きとかマジねェから⋮⋮!!﹂
ぶつぶつと言い訳がましいことを言っている東条を見下ろし、あ
たしは恐る恐る声をかけた。
﹁東条先輩、まさか姉さんのお説教まともに受け取ってたんですか﹂
﹁いや、むしろお前の口上のが効いたっていうか⋮⋮。あ、いや違
うし⋮⋮。お前をからかってる最中にこれ取り出して煙草と勘違い
させてやろうとか思っただけだし⋮⋮﹂
東条の耳は真っ赤に染まっていた。
あたしと城澤は互いに顔を見合わせ、うずくまったままの東条の
前にそっとシガレットケースをおいてやった。
﹁疑ってすまなかったな⋮⋮﹂
﹁うん、改めてすみませんでした⋮⋮﹂
﹁やめろ! 優しく言うな!﹂
137
羞恥で顔を隠している東条は、なんというか、図体の割に可愛げ
がある。
この男、はたして何がしたかったのか。
怒りは急速になえ、東条に対する警戒警報もぴたりと止まってし
まった。
﹁えーと。美味しいですよね、この飴﹂
﹁あぁ!? バカにしてんのか!﹂
﹁違いますよ﹂
慰め不要とすごむ東条に、あたしはしゃがみこんでポケットから
出した物を振って見せる。
﹁あたしも好きなんですよ。⋮⋮持ち歩いちゃうくらい﹂
なんという偶然か、東条が持っていたのはあたしのお気に入りの
夕日みたいな棒付き飴だった。
﹁お⋮⋮おォ!﹂
ばっと起き上がってあたしの手ごと飴を握った東条は、悪人面を
わずかに善人に変えて笑った。
﹁だよな。うまいよな! フルーツだのコーラだのよくわかんねぇ
味より、この天然素材って感じがいい﹂
﹁ああ、ええ。はい﹂
﹁お前も仲間みたいなもんだ、なあ!?﹂
﹁え、ああ、まあ﹂
そのままぐぐっと顔を近づけてきた東条は、また悪人に戻って声
を低くして言った。
﹁だからこのことバラすんじゃねーぞ。これに限っては俺は真剣だ、
ガチで怒る﹂
東条の怒りの向けどころがさっぱりわからない。だが、これは悪
い話ではない。
﹁⋮⋮もうあたしたちのこと怒ったりからかったりしないって約束
138
してくれたら言うこと聞く﹂
﹁よし、交渉成立だ﹂
ぐしゃっとあたしの頭をかきまわした東条は、両手を広げて城澤
に歩み寄った。
﹁えー、なんだかんだとあったが、そういうことになった﹂
﹁そうか。きみの説明はさっぱりだが、東条くんは煙草を所持して
おらず、アキラくんとも話がまとまったことだけはわかった。飴の
件は他言するようなことでもないしな、俺も黙っているから安心し
ていい﹂
﹁理解がはやくて助かる﹂
東条はシガレットケースから飴を一本取り出して城澤に渡した。
かわいらしい賄賂もあったものだ。
﹁風紀委員長のおかげで助かった。ありがとうございましたぁ﹂
あたしも便乗して飴を差し出すことにする。両手に棒付き飴を持
つ食いしん坊系・鋼の男。悪くない。
一段落ついたことで、あたしは壁に寄りかかってほっと息をはい
た。ひんやりとして気持ちがいい。
﹁あー、まったく朝から疲れちゃった﹂
﹁俺もだぜ、嫌な汗かいちまった﹂
やれやれと肩を回している東条にあんたのせいだろ、とは言わな
い。かわりにあたしは城澤へと問いかけた。
﹁ね、城澤。今回の手紙の差出人、抑えること出来ないの?﹂
﹁犯人がわかっているのか﹂
﹁誰かなんて決まってるじゃん﹂
あたしがキツイ目を向けるが、城澤は無言だ。やはり生活委員会
というのは相当にやっかいな組織らしい。
ならばここにはもう用はない、早く教室に戻らねば⋮⋮。
﹁え、あれ? そういえば、なんでまだチャイム鳴らないの? 先
生も来ないし﹂
139
スマートフォンを確認すると時刻は既に九時を過ぎている。本来
なら一時限目がとっくに始まっている時間だ。
﹁なんだ、知らないのか﹂
城澤は腕時計を見ながら言った。
﹁今日は急きょ午前の授業はなくなった。そろそろ集合の合図があ
るはずだ﹂
﹁なにそれ? 何のために?﹂
その時、ちょうどあたしの問いに答えるようにスピーカーが作動
した。
ピーンポーンパーンポーン。
電子音が校内中に響き渡る。
﹃午前九時半より、第一体育館にて臨時生徒総会を行います。生徒
のみなさんはクラス順に集合してください。繰り返します、午前九
時半より︱︱︱︱︱︱﹄
140
悪魔の反省、そして反撃︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
141
悪魔と学園の支配者
第一体育館の二階上手側にある放送室は現在使用されていない。
数年前にステージ舞台そでに新しい音声機器が設置されたことで利
用回数は減り、今ではすっかり古い機材の墓場となってしまったの
だ。
だけどあたしには好都合。ちょっと埃っぽいけれど、ステージ上も
含めた体育館全体を見渡すことのできる絶好の見物ポイントだ。
あたしは教室に戻ることなくこの部屋へ直行した。城澤は別れ際
に、東条に乱されたあたしの髪を整えながら﹁ちゃんと出席するよ
うに﹂と念を押してきたが、これだって一応出席だ。
あたしが集団行動をさぼるのはいつものことなので、今更クラス
にいないととやかく言う人はいない。
もしかしたら東条に骨も残さず喰われたと思っているかもね。
九時二十五分、前から三年、二年、一年の順に並び、用意されて
いるパイプ椅子に座る生徒たちは、これから始まる臨時生徒総会を
前にそわそわと落ちつかない様子だ。
それもそうだろう、昨日まではそんな話は一切出ていなかった。
何が始まろうと言うのか。
あたしは放置されている機材のうち旧式のちょっと重いビデオカ
メラを手に取った。コンセントで電源を入れてやれば、ズーム機能
で望遠鏡の代わりになる。それを一年生の座席へと向けて美月様を
探すと、美月様は上都賀さんと何やら楽しそうにおしゃべりをして
142
いた。あの分だと東条の騒ぎも知らないのではないだろうか。
あたしはほっと口元をゆるめる。知らないならそれで構わない。
美月様に余計な心配をかけてしまうことのほうが、よほど困るとい
うものだ。
さて今度は、とあたしはステージ上にカメラを動かした。ちょう
ど生徒会役員たちが舞台袖から出てきて立ち位置を確認している所
だった。池ノ内でさえきりりと引き締まった顔をしているのだから、
今回の総会は何か大きな決定があるのだろう。
しかし特に気になったのは雀野だ。いつもならおだやかに浮かべ
ている笑みが消え、もともと白い肌が一層青ざめている。あの顔は
見たことがある。この前のパーティの時と同じだ。
﹃お静かに願います。時間となりました、姿勢を正してください﹄
マイクを通して、司会の放送委員のはっきりとした声が体育館に
響いた。
ざわついていた体育館がピタリと静まり返り、全員がびしっと背
筋を伸ばしている。
﹃それでは、臨時生徒総会を始めます。生徒会長、お願いします﹄
﹁はい﹂
ステージ上に一列に並んでいた生徒会役員の中から雀野はすっと
前に出た。顔色こそ悪いものの、しっかりとした足取りでスピーチ
台に向かう。
﹃おはようございます、みなさん。本日は重大な発表があり、この
ような場を設けさせていだたきました﹄
大勢の人の前で話すというのは一種の才能だ。どれだけの人が耳
を傾けるかは、話し手の人間的な魅力を示すステータスとなりうる。
この学園の生徒は、規模の大きさに差はあれどいずれは集団の長と
なる者が多い。そんな全校生徒を前に臆することなく朗々と話す雀
野の姿は、この学園のトップにふさわしい風格があった。
143
そう思っていたあたしにとって、雀野の発言はまったく予想だに
しないものだった。
﹃わたくし雀野光也は、ただ今を以って生徒会会長を辞任致します﹄
﹁ええっ!?﹂
慌てて口をおさえたが、幸いあたしの声は生徒席側からの悲鳴に
まぎれた。椅子から立ち上がったり、信じられないと手で口を抑え
たりしている生徒が大勢見えた。
しかし、一体どういうことなのか。
いきなり会長を辞めるなんて尋常ではない。
雨宮たちはというと、すべてを承知しているらしくただ雀野を見
守っている。
雀野は騒ぎ続ける生徒たちをなだめるように右手をかざして口を
開いた。
﹃みなさん、落ち着いてください。一年生はご存じないでしょうが、
わたくしは元々前回の選挙により副会長に選任されていました。し
かし、会長となるはずだった人物の留学により、繰り上げで生徒会
長という大役を任されることとなったのです。わたくしのような頼
りない代役を会長と呼び慕い、よりよい学園生活のために力を貸し
てくれたみなさんに、心よりお礼を申し上げます。本当にありがと
うございました﹄
雀野はそこで一度言葉を切り、一歩下がって深く頭を下げる。肌
が泡立つほどに美しい礼だった。その姿に鳴き声混じりの悲鳴がよ
り一層ひどくなる。
﹃わたくしは本日以降は副会長として生徒会活動に関わっていきま
す。これまでと変わらずこの学園のために尽くす所存です。では、
改めて紹介させていただきます﹄
招き入れるように舞台袖の影に向かって手を伸ばした雀野は、言
144
った。
﹃新しい生徒会長、鷹津篤仁さんです﹄
ゾワリと悪寒が這い上る。体育館中を覆うような存在感。
彼は一歩舞台上に出ただけで全員の視線を自分のものにした。ま
だ残っていた嘆きや不満の声が一瞬のうちに消えている。
詰襟の制服に身を包んだ鷹津はまるで青年将校のようだ。いや、
もっと物々しい、怖いモノ。人を無条件に屈服させ、従わせるモノ。
長い脚でゆっくりと雀野に歩み寄った鷹津は、御苦労だったとい
うように彼の肩をたたき、マイクに向き直った。
﹃先ほどご紹介に預かりました、鷹津篤仁です。わたしのような無
責任な男が投げ出した責務を担い、見事学園を治めてくれた雀野く
んにまず御礼を言いたいと思います。本当にありがとうございまし
た! 彼に拍手を!﹄
音高く拍手をする鷹津につられ、全校生徒は一斉に手を打ち鳴ら
す。いつまでも続くかと思われたが、鷹津がさっと手を振るとそれ
だけで拍手の音は止んだ。
﹃さて、一年生の諸君、はじめまして。そして二・三年生の諸君、
お久し振りです﹄
鷹津はスピーチ台に両手をつき、にっと口の端を上げて笑った。
﹁鷹津会長だ⋮⋮﹂
﹁鷹津様だ、お戻りになったの﹂
﹁鷹津会長、本物だ﹂
﹁会長! 会長!!﹂
誰かの一言から始まったざわめきは渦をなし、周囲を巻き込んで
暴れまわった。一年生までも歓声を上げている。
145
わああっと湧き立つ生徒たちをまたもや手の一振りで黙らせた鷹
津は言った。
﹃覚えていてくれて光栄だが、まだ会長と呼ばれるには早い。本来
ならばこのまま雀野くんに会長職を任せるのが当然であると思う。
しかし、本人たっての希望とありわたしがこの役に就くこととなっ
た。本日はその承認を求めたい﹄
どうだろうかと問いかえる声は、マイクがなくても相手の頭の中
心に入っていく。神経性の毒に犯されているようだ。
そこであたしはようやくカメラを床に落としていたことに気がつ
いた。
だが、もう拾う気にはなれない。
あの凶暴なまでに鋭い目を見たくなかった。
﹃では、お願いします﹄
鷹津は司会役の女生徒を見やった。彼女は鷹津に見惚れていたの
だろう、ぽかんと口を開けている。そしてハッと正気を取り戻し、
慌ててマイクのスイッチを入れた。
﹃失礼いたしました。それでは承認にうつります。この決議に賛成
の方は拍手をお願いします﹄
アクセントも声量も十分なのに、鷹津とは違う、ただの音声。き
っと彼女のアナウンスで、これほどまで大きな影響を及ぼしたこと
はなかったのではないだろうか。全校生徒は立ち上がり、割れんば
かりの拍手を新たな生徒会長に贈った。誰もが頬を興奮に染めてい
る。
鷹津は満足そうに体育館を見渡し、一同に向かって頭を下げた。
しかしそれはこうなるのが当然と言いたげな傲慢で悠然とした態度。
鷹津はこの場において、鳳雛学園の支配者となったのだ。
146
あたしはペタンと床に座り込んだ。
なんだよ、アレ。
美月様との仲介? 主導権をわたすな?
敬吾さんはあたしにアレの相手しろっていうのか。
雀野は学園中の尊敬を集める生徒会長だった。何もなければこの
まま役目をまっとうし、歴代生徒会会長の一人として名を残しただ
ろう。だが鷹津は別格だ。カリスマ性を惜しみなく発揮したあの光
景、雀野には再現できないだろう。二度起こった拍手だが、二度目
のほうがより大きかったことは誰もが感じたはずだ。
一対一で向き合ったときにはただ威圧感しか感じなかったが、あ
れが鷹津の本当の姿なのだ。
東条に追いかけられたときよりもずっと怖い。
あたしは小刻みに震える自分の手を、呆然と眺めるほかできなか
った。
147
悪魔と学園の支配者︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
148
悪魔の不貞寝
辰巳の大きな手が何度も何度もあたしの頭をなでていく。その優
しい感触にささくれだつ気持ちがほんの少し和らいだ。
﹁今日は大変な目にあってしまいましたね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
あたしは辰巳の膝の上につっぷして不貞寝をしている真っ最中だ。
お茶菓子を用意して帰りを待っていた辰巳は、あたしの顔を見る
なり、ぽんぽんと正座した自分の膝を叩いた。あたしは迷わずそこ
に滑りこむ。
布越しにくぐもりがちになりながらも、あたしは今日あったこと
をとりとめもなく話し続けた。辰巳は時折手の動きをぎこちなくす
る。東条に追いかけられた話をしたときなんて、びしっと音がする
かと思う位固まっていた。きっと心配してくれたのだろう。
だが今日の一番の関心ごとは他にある。
﹁まさか鷹津が会長になって学園に戻ってくるなんて⋮⋮﹂
学内の情報通である松島にメールで聞いたところ、鷹津と雀野の
因縁は深いという。
彼らは二年生進級直前の生徒会役員選挙、つまり前々回選挙に共
に立候補し、鷹津は大差をつけて生徒会副会長に当選した。その存
在感は三年生の会長を圧倒していたという。だが何の気まぐれか、
鷹津はそうそうに学園を去り外国へと旅立った。もともと生徒会の
149
構成メンバーは会長、副会長二人、会計、書記の五人体勢だったが、
欠けた副会長の仕事は、次点で生徒会役員入りを果たした雀野が書
記と兼任することで乗り越えた。
実績をつくった雀野は前回の選挙において会長に立候補し、その
当選は確実と思われた。
だがしかし、またもや鷹津の存在が選挙をひっかきまわす。
役員選挙に合わせて鷹津が戻ってくる、との噂が流れたのだ。曰
く、留学を決意したのは自分より上の者、つまり会長がいるのが許
せなかったからだ。今度こそ学園のトップになるために会長選に立
候補するつもりだ。
結果的にそれはデマだったのだが、鷹津のもたらす影響力は凄ま
じかった。なんと投票の過半数が立候補者でもない鷹津篤仁の名を
書き、無効票となったのだ。次点が雀野。もしもその場に鷹津がい
れば、鷹津が会長、雀野が副会長ということになっていただろう。
本来ならば投票のやり直しを行い、雀野は正式に生徒会会長に就
任するはずだった。だが彼はそれを強く拒否した。
雀野は投票結果を学園の意志としてうけとめ、副会長として代理
の会長役を務めることを決めたのだ。
所信表明演説の際、雀野はこう言ったという。
﹁本来ここに立つべき人物は、今学園にはいない。自分は彼が戻る
までの代わりを精いっぱい務めよう﹂
﹁二人は幼馴染でもあるんだそうだ。幼稚園からずっと一緒だって﹂
﹁それはなかなか複雑ですね。ライバル関係というより、完全に優
劣がついているのですか﹂
﹁雀野もけっこう哀れだけど、今はどうでもいい。それよりあたし
はどうしたらいいのか﹂
150
ぶーっと辰巳の膝に無意味に息を吐き出した。口元が暑くなる。
﹁美月様なんて大興奮だった。珍しくお昼も放課後も自分からあた
しの所へ来て、口を開けば篤仁センパイかっこいい、やっぱりスゴ
い人だって大絶賛! そこに水を指すのもなぁー。鷹津を近づけた
ものか、遠ざけたものか⋮⋮﹂
﹁確かに生徒会長となった鷹津様は厄介ですが、とりあえずは相手
が動くまで何もしないのが一番では。そこまで目立っているとなる
と、向こうも慎重になるでしょう﹂
﹁そうだな。美月様に気安く接触すれば、あっという間に付き合っ
てるだの婚約しただの言われちゃう。でもそれが狙いだったらどう
しよう⋮⋮。でもでも、鷹津なら白河じゃなくても選び放題だし、
むこうだって物色中だと考えれば美月様がつまみ食いされるような
ことがあったら大問題だし⋮⋮!﹂
とにかく匙加減が難しいのだ。
白河家としては鷹津家から婿を迎えることは大歓迎。
だけど鷹津篤仁の人格に問題がないかを見極め中なので、思い切
った行動にはまだ出たくない。
鷹津家は白河との結婚をどう思っているのか、鷹津篤仁にその気
はあるのか。それがわからない。
鷹津の真意を窺いつつ白河の益になるよう画策するなんて芸当、
あたしにできるのか。
あまりに荷が重い⋮⋮。
﹁⋮⋮違うな﹂
あたしはぼそりと呟いた。
﹁何がです﹂
﹁近づける遠ざけるじゃなくて、あたしは鷹津に関わりたくない﹂
自分で言って納得した。あたしの本音はコレだ。
﹁だって、あいつヤバいもん。怖いんだもん。気持ち悪い﹂
得体が知れないのだ。
151
素直に彼を信じられる者にとっては、鷹津ほど魅力的な統率者は
いないだろう。あたしも生徒席側からステージ上に立つ鷹津を見上
げていたら、他の生徒たちと一緒になって歓声を上げて拍手してい
たかもしれない。彼についていけばすべてが上手くいく、そんな気
にさせる男だ。あたしだってできるならそうしたい。
でも、幸か不幸かあたしはあの異様な熱から少し離れた放送室に
いた。だからこそあの男に対抗しようとしている自分が愚かしくて
ならない。
﹁ラスボスレベルじゃん、魔王じゃん! でもあたし勇者じゃない
し!﹂
﹁倒さないでお姫様を差し出してしまうのはいかがです﹂
﹁あたしは勇者じゃないけどお姫様の従者なの! あ∼、もう、あ
たしのこと誘うような性格の悪さがなければ、怖いことは差し置い
て素直に美月様との婚約の後押しできたんだけどなぁ∼っ!!﹂
あたしがじたばたと暴れていると、不意にすっと体を起こされた。
﹁アキラ様﹂
﹁へ?﹂
﹁俺はそのお話を聞いておりません﹂
辰巳はあたしを座らせると、ずいっと顔を覗き込んできた。
﹁鷹津篤仁が、アキラ様に、一体何をしたのです﹂
﹁あ、そっか、言ってないか﹂
﹁今すぐお話しください﹂
辰巳の目は恐ろしく真剣だ。嫌な予感。
﹁え、えと、パーティの時に美月様と鷹津を会わせようと思ったん
だけど﹂
﹁はい﹂
﹁なぜかあたしと偶然会ってしまい﹂
﹁はい、それで﹂
152
﹁⋮⋮口説かれて口の横にキスされた﹂
ぶわっと辰巳の髪が逆立ったように見えた。
辰巳はすっかり冷めてしまったお茶を手にあたしに迫ってきた。
﹁アキラ様、今すぐこれでお口をゆすいでください、お茶は殺菌作
用があります﹂
﹁え﹂
﹁いや、お茶じゃ足りない。どっちですか、右ですか左ですか、消
毒がいります、薬箱を﹂
﹁辰巳、ちょっと落ち着いて﹂
湯呑みを押しつけた辰巳は勢いよく立ち上がり、部屋をうろうろ
と歩きまわる。
﹁きれいにしなくては、アキラ様を。俺のアキラ様。そう、アキラ
様の穢れを払うのは⋮⋮。塩。塩!? 清めましょう、今すぐに!
塩!!﹂
﹁落ち着け!﹂
辰巳はぶつぶつ言いながらミニキッチンをひっくり返して調味料
をあさっている。ちょっと尋常ではない。
﹁昨日のことなんだから、今はもう大丈夫だって!﹂
﹁それでもダメです! もう一度お顔をよく洗って⋮⋮﹂
﹁帰ってきてから辰巳の胸でしっかり拭いた! 石鹸でよ∼く洗っ
た! それでもあたしは汚れてるっていうワケ!? いいから座り
なさい!﹂
まるであたしが汚いかのような辰巳の言い方に、さすがにムカっ
と頭にくる。怒気をこめて叱りつけると、ようやく辰巳は動きをと
めた。
﹁⋮⋮アキラ様は汚れてなんておりません。取り乱して申し訳あり
ませんでした﹂
﹁じゃあ握りしめてる塩を離しなさい﹂
﹁⋮⋮はい﹂
153
辰巳はやっと座り直したが、まだ思うところがあるのだろう、あ
たしの口元におずおずと手を伸ばす。
﹁それで昨日はあんなに憔悴してらしたんですね。怖かったでしょ
う﹂
﹁ちょっとだけ。むしろびっくりした﹂
﹁絶対に許せません、鷹津篤仁。アキラ様に対してなんという変態
行為を⋮⋮!﹂
また暴れそうになる辰巳をおさえつつ、あたしは説明した。
﹁本気じゃないんだよ。鷹津は、あたしを使って白河を計っている
のかもしれない。縁談相手の美月様だけじゃなくてあたしにまで手
を出そうとするって、普通あり得ないでしょ? それでも白河が鷹
津を婿に望むようなら、白河の決意は本物。鷹津が結婚条件にいろ
いろ提示しても呑むだろうって確信を与えることになる﹂
鷹津篤仁ほどの男なら、年頃の娘を持つ名家は喉から手が出るほ
ど欲しいはずだ。きっとどの家と結ぶのが一番いいか、いろいろと
考えているに違いない。だからといってこんな揺さぶり方は性質が
悪い。その点も含めてあたしは鷹津に疑念を持っている。まっすぐ
な美月様には合わないのではないだろうか。
﹁それならなおさら許せません! アキラ様を試金石のように扱う
なんて失礼にもほどがある。そんな嫌らしい男とアキラ様を対峙さ
せるなんて、岩土さんは何を考えているんだ⋮⋮﹂
﹁そりゃ白河のことでしょ。敬吾さんは、あたしが鷹津の誘いに乗
らなければ済む話だって言ってた。鷹津と何かあった時、真実はど
うあれ﹃白河の出来そこないの娘が鷹津の子息を誘惑した﹄って見
られるのがオチで、逆に鷹津をゆさぶることはできないだろうから
そのままにしておけって﹂
﹁アキラ様⋮⋮﹂
154
﹁まったく、乙女の純情をなんだと思ってるんだか!﹂
辛そうにうめく辰巳に、あたしは文句を言いつつも逆に心が凪い
でいく。あたしはまたコロンと辰巳の膝の上に頭をおいた。
﹁やっぱり辰巳に話してよかった。なんだか落ち着いてきた﹂
﹁何も解決していないのに?﹂
﹁うん。解決できるよう、動いていかなきゃね。何を言ってもやる
しかないんだし﹂
辰巳はゆっくりとあたしの髪をなでている。
﹁やっぱり、さっさと美月様と鷹津篤仁の縁談を進めてしまいませ
んか。そうすればアキラ様に手を出そうなんて考えなくなる﹂
﹁それじゃ本末転倒なんだって﹂
あはは、とあたしは笑うが、辰巳は多分本気で言っている。これ
だからダメなのだ、辰巳は。優先事項がちょっと間違っている。で
もそれを咎める気にはならなかった。
部屋は大分散らかっているが、片づけはあとでいいだろう。
現実に立ち向かう前の小休止だ。
あたしは少しだけ目をつむることにした。
時間にしてみれば多分十分程度だろう。うつらうつらとしながら
辰巳に甘えていると、突然誰かの足音が聞こえた。
﹁アキラぁ、いる?﹂
あたしはばっと辰巳の膝から顔を上げた。
﹁辰巳、急いで片づけて﹂
﹁はい﹂
あたしは障子をしめて美月様を出迎えるために廊下に出た。
﹁どしたの姉さん。こっち来るなんて珍しいね、呼んでくれればす
ぐ行くのに﹂
155
﹁えへへ∼、ちょっとねぇ﹂
美月様はいたずらっぽく瞳を瞬かせた。
﹁聞いたよぉ、今日東条先輩と鬼ごっこしてたんだって?﹂
﹁え、あ﹂
あたしは頬をひきつらせた。鬼ごっこなんて可愛いものではなか
ったけれど。
﹁朝からそんなふうに遊んでちゃダメでしょ。みんな大騒ぎしてた
よ。それに会うならわたしも呼んでくれれば、この前のお詫びとか
御礼とかちゃんと言えたのに。もお、アキラってば﹂
﹁はは⋮⋮。ごめんね、姉さん﹂
﹁仲良しなのはいいんだけどね。アキラはあんまり学園内にお友達
いないみたいだし﹂
﹁まあ、気をつけるよ﹂
あたしはちょっと複雑な思いで頷いた。東条がお友達か。 それより、美月様はこんなどうでもいい話をしに来たわけではな
いだろう。あたしは美月様が言いだすのを待った。
﹁⋮⋮あのね。アキラに相談したいことがあって﹂
﹁なに?﹂
縁側に腰をおろし、美月様はぷらぷらと足を揺らした。あたしも
その隣に座り込む。
﹁あのね、今までずっと誘われていたでしょう。生徒会補佐﹂
﹁姉さん?﹂
﹁受けようかなぁ﹂
美月様の笑顔がグサリと刺さる。悲鳴を上げなかっただけ褒めて
ほしい。
﹁それは鷹津の御子息がいるから?﹂
﹁ん、そう言われるとなんだか情けないんだけど、そうなの﹂
美月様は恥ずかしげに瞼を落とした、
﹁今日の篤仁先輩、すっごくかっこよかった。それに雀野先輩も。
156
ううん、外見だけじゃないよ? ああ、こういう人が生徒会なんだ
なぁってしみじみ思ったって言うか。アキラが止めてくれたみたい
にわたしには務まらない重い役柄だってことはわかってる。でも、
なんだかやってみたくなったの。篤仁先輩の役に立ちたい、学園の
ためになりたいって思ったの﹂
美月様が自主性を見せるのは珍しい。学級委員長や何かの代表と
いった活動は、周りに推しに推されて引き受けることはあったが、
自分からやろうと意気込むことはなかった。こんな状況でなければ、
美月様を支えるお手伝いができるのに。
あたしは少しだけ迷ってから言った。
﹁あんまり賛成はできないな﹂
﹁アキラ⋮⋮﹂
﹁姉さんが鷹津を見て思ったことは、他のみんなも思っていること
なんだよ。生徒会補佐になりたい人もいっぱいいる、きっと今日で
もっと増えたよ。姉さんが生徒会補佐を目指すのも生徒会に立候補
するのもいいと思う。ただそれは規定の時期を守らなくちゃフェア
じゃない﹂
生徒会補佐になれるのは九月以降。生徒会に立候補ができるのは
二年進級前の選挙から。そう決められている。
﹁雀野先輩はいいって言ってたよ?﹂
﹁雀野先輩はね。他の人はどうかな﹂
美月様はうつむいて黙り込んでしまった。
うぅ、辛い。かなりツライ。
しょんぼりする美月様は、とにかくこちらの罪悪感をかきたてる。
今すぐ謝ってしまいたい! 口からごめんなさい、と出かかったとき、素晴らしいタイミング
で辰巳が障子を開けた。
﹁失礼いたします﹂
157
﹁ああ、うん! ありがと﹂
部屋はすっかりかたづいたようで、きれいな湯呑みに新しいお茶
がいれられていた。
﹁た、辰巳さんはどう思う!?﹂
﹁なんでしょう﹂
美月様はすがるように言い募った。
﹁生徒会補佐っていう役目がね、本当はまだやっちゃいけないんだ
けど、わたしやりたいの! 生徒会の人もいいって言ってくれてる
んだけど、アキラがダメだって。辰巳さんはどう思う?﹂
はちゃめちゃな説明だったが、辰巳はあたしからすべてを聞いて
いる。掃除しながらであっても障子越しに会話も聞こえていただろ
う。
辰巳はためらうそぶりも見せずに言った。
﹁﹃まだやってはいけない﹄のなら待った方がいいでしょう。無意
味な規則というのはあまりありません﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁学園に貢献したいというお気持ちは立派です。ならば、生徒会補
佐でなくとも方法はあるのではないでしょうか﹂
辰巳にまでいさめられ、美月様は更に落ち込んでしまった。
﹁姉さん、落ち着いて考えてみようよ。ね? 鷹津政権に変わった
から、雀野の一存じゃ補佐も決められないだろうし﹂
﹁⋮⋮アキラは﹂
﹁え?﹂
﹁アキラは、応援してくれないんだ﹂
慰めるため美月様に触れようとした手がピタリと止まる。
﹁わたし、戻るね。ごめんね﹂
﹁姉さんっ﹂
美月様はあたしの呼びかけに答えることなく、渡り廊下を走って
行ってしまった。
158
お茶はまた飲まれることなく冷めてしまいそうだった。
159
悪魔の不貞寝︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
160
天使の訴え
﹁おはよー、姉さん﹂
いつものように挨拶をしたものの、あたしは内心冷や汗ダラダラ
だった。美月様が返事をしてくれなかったら、怒っていたらどうし
よう。
﹁おはよ、アキラ!﹂
しかしそれは杞憂だったようで、くるっとふり返った美月様は朝
日よりまぶしい笑顔を見せてくれた。美月様は上都賀さんや他の御
学友ともいつも通り挨拶をかわし、楽しげにしている。あたしは心
底ほっとした。昨日のことはひきずっていないみたいだ。
報告手帳を通して敬吾さんにも相談したが、やはり生徒会補佐は
見送ったほうがいいだろう、との意見だった。諸々の理由に加えて、
美月様が補佐になってしまえば、あたしには美月様の生徒会室での
様子を見守る術がない。
そう頭でわかっていても、またおねだりでもされようものなら、
あたしは今度こそ頷いてしまいそうだ。
でも、この分ならなんとかなるかもしれない。
昼休み、あたしは教室で敬吾さん宛の報告メールを打っていた。
昨日は結局手帳だけのやり取りで、直接話せてはいない。しかし報
告はよりこまめに行うように、との指示を受けていた。
161
昨日の総会から学園中の話題は鷹津一色だ。おかげであたしがせ
っかく足を投げ出してだらしなく椅子に座っているというのに、誰
も見向きもしない。
﹁鷹津会長はD組になったそうよ﹂
﹁朝から公務に励んでいたって。さすがだな、昨日の今日なのに﹂
﹁かっこいいよなぁ、鷹津会長!﹂
三年D組前には、その姿を一目見ようと多くの生徒が押し寄せて
いるらしい。あんなの頼まれたって見たくもないのに、物好きなこ
とだ。でも彼らのおかげで鷹津は身動きがとれなくなっていること
だろう。その点は感謝だ。
しかし雀野も哀れなものだ。
もうみんな鷹津を会長と呼ぶことに抵抗を感じていない。ああい
う秀才タイプメンタル弱そうだけどなー、思い切った行動に出なき
ゃいいけど。
でもしょせんは他人事。あたしの関心の外だ。
心配なのは、美月様が人ごみをかき分けてでも鷹津に会いに行こ
うとすることだ。
三年教室のある三階に行こうとするには、あたしのいるB組の前
を通る必要がある。あたしはメールを打ちながらも廊下側の窓をち
らちらと横目で確認することを怠らない。
﹁⋮⋮おおっとォ﹂
あたしはぺろっと唇を舐めた。
来ました、来ましたよぉ!
美月様は足早に廊下を通りすぎていく。上都賀さんも取り巻きの
連中もいない。
あたしは素早く立ち上がって後を追った。階段前で追い付いて声
をかけるつもりだ。しかし美月様は階段を素通りし、特別教室棟へ
続く中廊下に向かっていた。
162
美月様の目的は鷹津じゃない。ではなんのために?
あたしは声をかけるのをやめ、尾行することに決めた。
誰かに呼びだされたかな。
告白劇かな? それとも生活委員会?
相手に応じた撃退パターンをいくつか考えていると、美月様は人
気のない特別教室棟の階段を上っていき、最上階にある音楽室の扉
をノックした。
﹁失礼します。雀野先輩、お待たせしてすみません﹂
雀野!?
美月様のよく通る声は、はっきりとその名前を呼んだ。
鷹津の存在にあせり、先手を打って告白しようと言うのか。
階段の影から様子を見ていたあたしは、足音をたてないように音
楽室へと近づいた。閉められた扉の前で息を殺す。
﹁突然呼び出して悪かったね、白河さん﹂
﹁いえ、いいんです。わたしも先輩にお話ししたいことがあって⋮
⋮﹂
いつの間に美月様と連絡をとっていたのか。あたしは鷹津に意識
が向き過ぎていたことを反省する。
それにしても、美月様から雀野に話? やっぱり生徒会補佐のこ
とだろうな。まだ諦めてなかったのかなぁ、うーん、困ったな。
乱入すべきか、雀野の呼び出しの理由がわかるまでとりあえず待
つか。
﹁ならちょうど良かった。僕は、まず君に謝らなくちゃいけない︱
︱︱︱︱︱﹂
謝る? 何を?
あたしはどうすべきか迷い、後ろから伸びてくる腕に気がつかな
163
かった。
口をふさがれ、腰を引き寄せられる。
その感覚に既視観を覚えた。
﹁なにをコソコソしている﹂
唇をおしつけるようにして耳に吹き込まれる密やかな艶めいた声。
間違えようがないその声の主に、あたしの心臓は跳ね上がる。
なんでここにいるんだ!
反射的に暴れようとしたが、その男、鷹津篤仁は﹁しーっ﹂とあ
たしをあやすようにたしなめた。
﹁コラ、バレるだろ。今おもしろいところなんだから﹂
鷹津はあたしを後ろから抱きかかえたまま、音楽室の中をうかが
っている。ぱんぱん、と口をふさいでいる手を叩くと、こちらに目
を向けて﹁静かにできるか?﹂と問いかけてきた。無言でうなずく。
不思議と今は鷹津に対する畏れをあまり感じなかった。緊張はす
るものの、重圧感を伴う迫力は抑え気味になっているように思えた。
鷹津の興味が音楽室内にむいているせいだろうか。だが、あたしに
も我慢できることとできないことがある。
﹁⋮⋮ちょっと﹂
口を解放されたあたしは小声で言った。
﹁なんだ、静かにしていろ﹂
﹁手、やめてください﹂
鷹津は確かにあたしの口から手を離してくれた。だが、その手は
今あたしの顎の下をくすぐっている。
﹁いいだろ、手がヒマなんだ﹂
﹁そういう問題じゃ⋮⋮!﹂
﹁な、なんでですか!?﹂
164
美月様の悲痛な声にはっとする。
しまった、会話を聞くのを忘れてた!
﹁なんで今更、生徒会補佐にはできないって⋮⋮。誘ってくれたの
は雀野先輩なのに!﹂
﹁申し訳ないと思っている。僕が浅はかだった﹂
﹁でも、わたし、ようやく覚悟ができたのに⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮本当にすまない﹂
あれ?
あたしは聞き間違いかと思った。
しかし会話の流れは間違いなく、雀野が美月様の生徒会補佐入り
を断っている。
﹁なんで?﹂
ぽつりとこぼれたあたしの言葉に、鷹津はにんまりと笑った。
﹁へぇ。ミツはあのぽやぽやが好きなのか。どれどれ﹂
﹁ひっ﹂
鷹津はちゅっとあたしの耳のピアスに口付けてからようやく体を
離した。
そして無造作に扉を開ける。
﹁おいおい、何後輩をいじめてるんだ﹂
﹁篤仁!? なぜここに?﹂
﹁お前と昼を食べようと誘いに行ったらいないんでな、探しに来た
んだよ﹂
﹁あ、篤仁先輩!﹂
﹁おや、白河美月さんじゃないか。パーティ以来ですね﹂
ぞわぁあああっと鳥肌が立ってくる。きっと今、鷹津はすっごく
爽やか好青年の顔をしている。あたしは立ち去りたい衝動にかられ
たが、なんとか歯を食いしばって逆に音楽室に飛び込んだ。
﹁ね∼え∼さんっ!﹂
165
﹁アキラ! どうしたの?﹂
美月様は突然のあたしの登場に目を丸くしている。
﹁えへ∼、次の現国の教科書忘れちゃって、姉さん持ってないかな
∼って探しに来たの! あれぇ、どうしたんですか先輩方! 生徒
会のツートップがそろってるなんて超豪華! 写メっていい!?﹂
わざとらしいのはあたしも同じか。
鷹津はおや、というように眉をひくりとさせたが、すぐにまたに
んまりと唇で弧を描いた。この野郎、美月様が見ていないと思って。
だけどここは鷹津邸のパーティ会場ではない。学園内であれば、
あたしはワガママ女王、白河の悪魔の方として振舞うことができる!
﹁なんか∼、さっき姉さん怖い声出してたけど、大丈夫? まさか
いじめられたの!?﹂
﹁ううん、違うの⋮⋮。雀野先輩がね、生徒会補佐への勧誘、なか
ったことにしてほしいって⋮⋮﹂
﹁ふぅん、いきなりだね﹂
あたしはきゅっと唇をかみしめている美月様をかばうように立ち、
雀野を見据えた。しかし雀野の視線は鷹津へと注がれている。まる
でおびえるように。
﹁篤仁、頼む⋮⋮﹂
﹁何がだ、ミツ? はっきり言わなきゃわからないぞ﹂
ミツとは雀野光也の愛称だろう、やはり二人は仲がいいのか⋮⋮。
いや、彼らの関係は幼馴染の仲良しというより、いじめっ子といじ
められっ子ではないだろうか。
﹁篤仁先輩!﹂
﹁ん? なんです、美月さん﹂
﹁あの、わたしが生徒会補佐になったら邪魔ですか!?﹂
﹁姉さん!?﹂
あたしは慌てて美月様をふり返るが、美月様はとまらない。両手
を祈るように組んで必死に鷹津に訴えた。
166
﹁わたし、前から雀野先輩に補佐入りを勧められていたんです。煮
え切らない態度をとっていたことは悪かったと思ってるんです、で
もやっと決心がついたら、今度はもう補佐入りは認められないと断
られてしまって。篤仁先輩が許可してくれれば、雀野先輩や他の人
たちも認めてくれるかも⋮⋮!﹂
﹁なんだ、一度約束したことを反故にしようとしていたのか。それ
はよくないなぁ﹂
ふむ、と鷹津はわずかに険しい顔をした。それがあたしには演技
じみてみえる。
﹁ミツ。考え直す気はないのか﹂
﹁ああ。僕の浅慮だった。それに彼女はまだ一年生だ、最低でも夏
休み明けまで待たなくてはいけない﹂
雀野は負けじと言い返す。だが、美月様も黙っていなかった。
﹁でも、先輩は時期なんて関係ないって言いました!﹂
﹁姉さん! 決まりは決まり、結局あいつは守れない約束したんだ
よ。嘘つかれたのはムカつくけど、会長には従っとこうよ﹂
﹁今の会長は篤仁先輩だもん!﹂
その時、雀野は見事に凍りついた。
﹁そうだな、わかった。ミツが美月さんを任命しないのなら、俺か
らの任命を考えてみよう﹂
﹁はぁ!?﹂
﹁本当ですか!?﹂ あたしと美月様の声が重なった。
鷹津は自信満々に頷いた。
﹁もともと任命しようとしていたのなら、きっと問題ないくらい優
秀なんだろう。とりあえずそういった点を確認してからになるが、
いいかな?﹂
﹁はい! もちろんです。わたし、篤仁先輩や生徒会の先輩方と一
緒に、学園のために力になりたいんです﹂
167
﹁ありがとう。意識の高い後輩がいてくれるというのは頼もしいね﹂
まとまってしまいそうになる話に、あたしは無理やり割り込んだ。
﹁だめ! だーめっ! いーんですかぁ、代替わりしたばっかりで
いきなりそんな横暴? 姉さんがいいんだったらあたしも立候補し
ようかな。規則曲げてもいいんでしょ? あたしみたいのいっぱい
湧くよ、さっそく失政なんてことになったら笑えないよ? そーい
うのォ、しょっけんらんよう? っていわない? 違う?﹂
鷹津はゆっくりとあたしを見た。また湧き上がる悪寒に、あたし
の顔は自然と下を向いてしまう。
﹁確かに非難もありうるだろう。だが俺は美月さんを信じよう。規
則を曲げるに足る仕事をしてくれる、と﹂
﹁⋮⋮もしもダメだったときは?﹂
﹁その時は俺が責任を持つ。なに、ミツがいてくれる。生徒会長が
また変わるだけだ﹂
あたしの口からは反論する言葉が出てこなかった。
器が大きいのか、それとも大雑把なのか。あたしは計りかねたが、
美月様は心底感激したと頬を染め上げている。
﹁お、チャイムだ﹂
昼休み終了、授業開始の五分前のチャイムが鳴った。
﹁ミツ、お前のせいで昼食を食べ損ねた。あとでジュースでもおご
れよ。さあ解散だ、各自教室に戻ろう﹂
﹁はいっ﹂
機嫌良く出て行った二人に、あたしと雀野は取り残された。美月
様はこのままでは本当に補佐になってしまう。敬吾さんにすぐ連絡
すべきだろうか。あああ、また怒られるなぁ∼。
あたしが頭を抱えていると、後ろでかすれ気味な呟きが聞こえた。
﹁いつもこうだ﹂
﹁はい?﹂
168
ついつい返事をしてしまったが、雀野は顔から表情というものを
消し、力なくそこに佇んでいた。
﹁会長? 正気?﹂
﹁もう会長じゃない⋮⋮﹂
雀野はあたしに答えはしたものの、崩れ落ちるように壁に背を預
けて床に座り込んでしまった。長い前髪がかぶさり余計に哀れを誘
う。
﹁あー⋮⋮。授業始まっちゃいますよ。あたしも行くんで、副会長
もほどほどに⋮⋮﹂
﹁そう、副会長だ。僕は会長でさえ仮初で、絶対に篤仁に勝てない
んだ。昔からそうだった。どうして僕は篤仁みたいになれないんだ
⋮⋮﹂
ものすごく出て行きにくい。
聞いてあげるのが人情ってもんかもしれないけど、正直めんどう
くさい。雀野みたいなタイプは自己憐憫に溺れてしまうだろう。そ
れに付き合うのは骨が折れそうだ。
しかし、あの鷹津相手じゃ仕方ないのかもしれない。あんなのと
幼少時代から付き合ってきた雀野に、あたしのなけなしの同情心が
わいてきた。
あたしは雀野から少し距離を置いて座り込み、ポケットから飴を
とりだした。授業開始のチャイムが聞こえたがもういい、サボって
やる。
﹁鷹津篤仁は別格でしょー? あんな化け物と比べても仕方ないん
じゃないですか﹂
﹁僕もそう思う﹂
お、なんだ。意外にのってきたな。
﹁今までだって散々負けてヘコんできたんでしょう。今更じゃん﹂
﹁そうだけど⋮⋮﹂
169
ぐす、と鼻をすする音がする。おいおい、泣いてますよ。もー!
いつもの穏やかではあるが庶民を寄せ付けない王子様然とした姿
はどこへやら。
﹁泣かないでくださいよ。はい、ハンカチ。飴舐めます?﹂
あたしは親しい友人もいないので、泣いている人を慰めたことな
んてない。あたしを慰めてくれる辰巳だったら頭をなでてぎゅっと
して甘やかしてくれるけど、雀野にやることじゃないだろ、うん。
それくらいはわかる。
ハンカチと棒付き飴を受け取った雀野だが、握った拳が震えてい
る。
﹁会長の立場に未練はない。篤仁が戻った今、僕が会長のままでい
たとしても居心地が悪いだけだ。でも白河さんだけは譲りたくなか
ったのに﹂
喉の奥からしぼりだすような言い方に、あたしはふと疑問がうか
んだ。
﹁そういえばさ、なんで姉さんにそんなに執着するの?﹂
あたしのリサーチ不足で恥ずかしいことだが、なぜ美月様があれ
ほど生徒会連中に好かれているのか、イマイチはっきりしていない
のだ。
雀野はまた鼻をすすってから、ゆっくりと言った。
﹁白河さんは⋮⋮天使だと思った﹂
﹁はいはい、知ってる。姉さんは天使です﹂
あたしが適当な返事を返すと、雀野はあわてて続けた。
﹁そうじゃない。僕を救ってくれる天使だと思ったんだ﹂
﹁救う?﹂
﹁入学式から数日後だった。移動教室で迷子になっていた白河さん
を見かけて、声をかけたんだ⋮⋮﹂
170
当時、雀野は荒んでいた。
会長に就任したのは二年生の三学期からだ。会長となって最初の
大仕事である卒業式と入学式を無事終えたというのに、心は晴れな
い。自分はあくまで鷹津の代わり、彼だったらもっとうまくやった
のではないか、という思いが頭から離れないのだ。
そもそも選挙内容からしてそうだった。実際に演説や活動を行っ
た自分よりも、鷹津の影が生徒の支持を得た。影にも劣る自分が、
はたしてこのまま会長を続けていけるのか?
雀野は鷹津の帰国を心底祈っていた。
せめて本物がいれば、みじめさも薄れる。あの本物の力強さをま
た目の当たりにすれば、仕方なかったと諦められる。
昼休みも生徒会室で仕事をしていた雀野は、教室へ戻る途中特別
棟内をうろうろとしている女生徒を見つけた。
制服のリボンの色から一年生だとすぐにわかった。
﹁どうしたのかな? 迷ってしまった?﹂
意識的に優しい顔をつくってから話しかけた。彼女は科学の教科
書を手に、泣きそうな顔をしている。
﹁科学実験室に行きたいんですが、道がわからなくなってしまった
んです﹂
恥ずかしげにうつむく姿は庇護欲をかきたてられる。今度は自然
に浮かんだ笑みをのせ、雀野はここは特別棟で、めざす実験室は隣
の特別教室棟であることを教えた。
﹁別の建物なんですね! 特別っていうから同じだとばっかり﹂
﹁ふふ、新入生は間違えやすいんだ。気をつけてね﹂
﹁ありがとうございます!﹂
女生徒はシュシュで結わえられたふわふわの髪をゆらして頭を下
げる。そしてあっと声をあげて大きな目をより大きく開いた。
﹁先輩、確か生徒会長さんですよね!﹂
﹁そうだよ﹂
171
仮の、だけどね。雀野は自虐的に心の中で付け加える。
﹁入学式のときの挨拶、とってもかっこよかったですよ! 堂々と
してて、威厳があって! それでこうして優しいなんて、理想の会
長ですね!﹂
その輝かんばかりの笑顔は、彼女が真実そう思っていることを告
げていた。ただでさえ鷹津と比べられることが多く卑屈になりがち
な雀野は、お世辞や建前の嘘に敏感だ。だから余計に彼女の笑顔は
染みわたった。
彼女が鷹津篤仁を知らないからこう言ってくれることはわかって
いる。
だが、今彼女は自分を会長と認めてくれている。
自分だけを見て、褒め称えてくれている。
彼女こそ自分を救う天使だ。
雀野は直感的にそう思った。
﹁⋮⋮君の名前は?﹂
﹁あ、申し遅れました!﹂
天使はダメ押しとばかりににっこり微笑む。
﹁一年A組、白河美月です!﹂
﹁ほォ∼⋮⋮﹂
さすが美月様。
意識せずとも、相手が望んでいる言葉をさらっと素直に告げられ
る。美月様が愛される理由の一つだ。
﹁彼女は僕だけの天使だ! 篤仁には絶対わたしたくなかった﹂
﹁それでやっきになって補佐に誘ってたんですか?﹂
﹁彼女は家柄、成績ともに申し分ない。入学当初から候補に名前が
挙がっていたんだ。篤仁が戻れば白河さんだってあいつに魅かれる
に決まってる。そうなる前に、彼女の意志で僕の側にいてほしいと
172
思ったのに﹂
﹁でも、そうなる前に鷹津が帰国してしまった、と﹂
﹁思った通り白河さんは急に補佐になると言い出した。パーティで
もそうだ、いつの間にか篤仁と一緒にいて、仲良くなって。おまけ
に、おまけに⋮⋮!﹂
雀野はぶるぶると体を震わせている。
その先は言わなくてもわかる。
そうとう衝撃だったのだろう、美月様のあの発言。
﹃今の会長は篤仁先輩だもん!﹄
もう自分は、理想の生徒会長と思われていない。事実は事実。だ
が、雀野には何より辛い一言だったに違いない。
あたしは一度雀野から飴をとりあげ、包装紙を取ってやってから
もう一度握らせた。
﹁ほら、飴舐めて。お昼食べました?﹂
﹁食べてない⋮⋮﹂
﹁なら糖分取りましょう。顔もふく﹂
ようやく手を動かし始めた雀野に、あたしは淡々と言った。
﹁あたしこういうの不得意なんで、ムッとしても聞き流してくださ
いね? 正直これは副会長がダメでしょ。あれだけしつこく誘った
んだもん、それなのに鷹津が戻ったから今更なかったことに、なん
て都合よすぎ。振り回される姉さんがかわいそう。おかげで姉さん
は生活委員会から睨まれたりして大変なんだよ?﹂
雀野は赤くなった目元にハンカチを押し当てて黙り込んでいる。
だが、しっかり話は聞いているようだ。
﹁ストレートに告白する気はないワケ? 鷹津がいるからって手を
引くようなら、最初から姉さんにちょっかい出さないでほしい﹂
﹁⋮⋮引く気はない﹂
173
少しばかり張りの戻った鼻声。
﹁じゃ、がんばるんだ?﹂
﹁でも今告白したって無理に決まってる⋮⋮。フラれたらもう立ち
直れない﹂
﹁弱腰だなぁ﹂
あたしが笑うと、雀野は拗ねてそっぽを向き、別のことを尋ねた。
﹁白河家は篤仁をどう見てる? 縁談の話は?﹂
﹁さぁねぇ﹂
﹁やっぱりあるのか﹂
鋭い雀野にはあたしの適当な誤魔化しは通じないようだ。ぱく、
と棒付き飴をくわえた雀野は、びしょびしょになったハンカチをも
てあそぶ。
﹁正攻法で勝てるとは思えない﹂
﹁また小細工? それで失敗したんでしょーが﹂
﹁う﹂
言葉に詰まる雀野に、あたしは都合のいい提案をしてみる。
﹁それよりさ、鷹津止められないかな。姉さんが補佐になるのあた
し反対なんだけど﹂
﹁篤仁は一度決めたら絶対やる﹂
﹁そこで諦めるなって﹂
雀野は首を傾けてあたしのほうを見た。まぶたが少々腫れている
が、十分に美しいといえる甘い顔立ち。美形は得だ。
﹁君のことをこうしてちゃんと見るのは、初めてだ﹂
﹁はいはい、そーでしょーね﹂
いつも雀野は美月様しか見ていなかった。あたしは大根のツマ以
下だ。
﹁白河さんが篤仁目当てに補佐になるのは見ていて辛いけど、近く
にはいられる﹂
﹁え、ちょっと。なんでそこに前向きになってるの。それはダメだ
って﹂
174
﹁要は、篤仁と白河さんの邪魔をするモノがあればいい﹂
生気が宿ってきた雀野の瞳に、嫌な予感がこみあげてくる。
やっぱりさっさと置いて帰ってしまえばよかった。あたしは少し
ばかり後悔した。
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天使の訴え︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
176
補佐の天使を補佐する悪魔
﹁ついに白河美月さん、生徒会補佐に任命されたのね﹂
﹁この前あった実力テストで三位だったって聞いた。頭もいいしか
わいいし家柄もいい、誰にでも優しい人気者﹂
﹁でも、まだ五月よ。どうしてこんなに早い時期に?﹂
﹁生徒会の方々が全員一致で推薦したんだ。特に鷹津会長が、新入
生の新鮮な意見を取り入れようって﹂
﹁へえ、会長らしいね。それに妥当な人選だ!﹂
生徒たちはうんうん、と頷き合う。
しかし、話しあっていたうちの一人が急に声をひそめて言った。
﹁⋮⋮だけど、さっき生徒会室に向かう白河さんに例のアレがくっ
ついていたらしい﹂
﹁まさか、あの!?﹂
﹁天使を利用して生徒会の方々に近づくなんて! 最悪の妹ね﹂
﹁そうやって学園の中枢にまで入り込むつもりか、悪魔め⋮⋮。ど
こまで卑劣なんだ!﹂
教室の片隅でそんな井戸端会議が行われている頃。
﹁うう、緊張するなぁ⋮⋮!﹂
美月様とあたしは生徒会室の扉の前に立っていた。
﹁だいじょぶだいじょぶ! 姉さんはいつも通りでいればいいよ﹂
あたしはこわばっている美月様の肩を軽くゆすり、にかっと笑っ
177
た。
﹁反対もしたけど、姉さんが決めたなら応援する。あたしがついて
るよ!﹂
﹁アキラ⋮⋮!﹂
美月様はぶんぶんと首を縦にふり、あたしの手をぎゅっと握りし
めた。
﹁よし! 行こう!﹂
気合いを入れ、美月様は扉をこんこんこん、と三度ノックする。
すると間髪いれずに﹁どうぞ!﹂と返事がした。
﹁失礼します、今日からお世話になる白河美月です!﹂
ぺこっと四十五度のすばらしいお辞儀をする美月様を、生徒会メ
ンバーは皆歓迎の拍手で迎えた。
﹁さ、入って入って!﹂
﹁ようやくだね∼! 俺もうずっと待って⋮⋮﹂
興奮気味に近寄ってきた雨宮と初瀬は、あたしの笑顔に見事に動
きを止めた。そしてあっと言う間にしかめっ面に切り替える。
﹁どういうこと。呼んでいない人間が来ているようだけど﹂
﹁えっとォ∼、姉さんが心配で付き添いに来ちゃいましたぁ∼! へー、生徒会室ってこうなってるんだー﹂
あたしは姉さんの後に続いてするっと入りこむと、ぐるりと辺り
を見回した。
初めて足を踏み入れた生徒会室だが、風紀室と構造はほぼ同じだ。
応接スペースと業務スペースに分かれ、壁際にはファイルの詰まっ
た棚がずらりと並んでいる。しかしこちらは観葉植物の鉢が置かれ
たり、恐ろしいお仕置き部屋がなかったりと雰囲気は幾分やわらか
い。
﹁許可のない生徒は今すぐ出ていってよ。そうだよね、会長!?﹂
﹁ん? そうだな⋮⋮﹂
一番奥の大きなデスクにいる鷹津は、気の乗らない声で言った。
178
真面目に書類を確認しているだけなのに、獲物をどういたぶって
やろうか、と考えている肉食獣に見えるのは錯覚か。少なくとも美
月様にはそう見えないらしく、あたしをかばうように前に出てまた
ぺこりと頭を下げる。
﹁すみません、篤仁先輩! 一人で来るのが不安だったもので、わ
たしからお願いしたんです﹂
美月様はこう言ってくれるが、さんざん彼女の不安をあおったの
はあたしだ。そして同行を求める言葉を引き出した。
﹁一年生は姉さんだけだし、あたしがいるだけでも和むかな∼って
! 姉さんともども仲良くしてくださいねっ﹂
﹁するワケないでしょう! ちょっと鷹津くん、この子になんとか
言って!﹂
雨宮は白いレースの手袋をした可憐な指先をあたしに突きつけ、
ヒステリックに叫ぶ。鷹津は苦笑しながらようやく手元の書類から
顔をあげた。
﹁そうカッカするな、雨宮。しばらく見ない間に怒りっぽくなった
な。鍛練が足りないぞ﹂
﹁今はそんな話したくないわ﹂
ピシャリとはねのける雨宮に、鷹津はやれやれと肩をすくめる。
﹁さて。確かに部外者の立ち入りはどうかと思うが⋮⋮。俺に言い
たいことはないかな、白河アキラさん?﹂
﹁えー?﹂
あたしはそっぽをむいて生返事だ。かわりに、美月様がもう一度
言う。
﹁先輩方⋮⋮。お願いします﹂
﹁俺はいいぞ﹂
ひょいっと軽く手を挙げたのは池ノ内だ。
﹁白河を呼んだのだって特例みたいなもんだ、アキラが生徒会補佐
の補佐についたって気にしない﹂
179
﹁またあなたはそんなことを﹂
雨宮はきゅっと眉根を寄せるが、池ノ内に続いた彼の言葉にぎょ
っと目を向いた。
﹁僕もかまわない。それで白河さんが落ち着くというのなら、居て
もらってもいいんじゃないかな﹂
﹁す、雀野くん!?﹂
﹁雀野先輩、本気!?﹂
初瀬も一緒になって雀野の正気を疑っている。
﹁もともと無理を言って補佐就任を頼んでいたんだ。白河さんから
のお願いも一つくらい聞いてあげないとね。篤仁、いいよね?﹂
﹁⋮⋮ミツ﹂
雀野はトレードマークの穏やかな笑みを鷹津に向けた。鷹津は幾
分冷えた眼差しを送り返すが、雀野に引く気はないようだ。それを
見とめた鷹津は、手元の書類に意識を戻し、関心をなくしたように
言った。
﹁美月さんの勧誘は、生徒会長であったミツの決定で行ったことだ
からな。好きにしろ﹂
﹁なら決まりだ。いいね? 雨宮、初瀬﹂
﹁ありがとうございます! アキラ、ほら、御礼言わなきゃ!﹂
﹁ありがとーございまーす﹂
会長の決定と美月様の笑顔には勝てない二人は、ついに引きさが
りあたしの生徒会室入室を認めた。
うまくいった。
ちらっと雀野を見ると、雀野もあたしに小さくうなずいた。
一昨日の音楽室で、雀野はあたしをあろうことか生徒会補佐に任
180
命させてもらえないかと言ってきた。
﹁僕にだって任命権はある。君が生徒会補佐になって、篤仁と白河
さんの仲を邪魔するのを手伝ってもらえないか?﹂
﹁はあああ? ダメに決まってんじゃん!﹂
﹁どうして。さっきは立候補したいって言ったのに﹂
﹁あのね、あたしがなんて呼ばれてるかわかってる? あたしみた
いのが補佐なんて出来るワケないし、認められるワケないっての﹂
む、と雀野は押し黙る。美月様以上の反発を受けることは間違い
ない、という現実に思い当たったようだ。
﹁副会長を助ける義理もないしね。どっちにしろあの化け物から姉
さん奪うくらいの気概がなくちゃ、白河家の婿なんて無理だよ﹂
﹁うう﹂
また飴をくわえて唸る雀野。と、ふと何かに気付いたようにあた
しの顔をまじまじと見つめてきた。
﹁今更だけど、君は篤仁びいきじゃないのか。君みたいな人間こそ、
篤仁に魅かれると思ったのに﹂
﹁へ﹂
まずい。うっかり鷹津のことを呼び捨てにした挙句、化け物扱い
してしまった。
﹁あ、いや、鷹津様はほら、超大物の怪物級っていうか﹂
﹁⋮⋮⋮まだ、なんだね﹂
﹁はい?﹂
﹁白河はまだ篤仁を正式な縁談相手と定めていない。僕の入る余地
があるような言い方からして、見極め段階なんだ﹂
今度唸るのはあたしの番だった。
そんなあたしに、雀野はぐっと体を寄せてきた。
﹁当たってるだろ。僕は僕を売り込む努力をしよう、君が生徒会に
来るメリットを示すよ﹂
﹁そんなこと言ったって無理だってば﹂
181
﹁君が来るのは補佐としてじゃなくて、あくまで白河さんの付き添
いとしてだ。一年生一人放りこまれるのは本人も不安だろう、だか
ら君がうまいこと言ってしっかりお姉さんについてくるんだ﹂
﹁そもそも、姉さんごと生徒会に入れたくないって話してんの!﹂
あたしがイラつきながら雀野を押し返すと、雀野は違う、と首を
横に振った。
﹁いや、生徒会に入った方がいい。君がネックにしている生活委員
会は、基本的に役職持ちの保護を行動指針にしている、白河さんが
補佐になれば、彼女は排除対象ではなく保護対象となるんだ﹂
﹁⋮⋮ふむ。でも、一般生徒だって妬み嫉みはするでしょ﹂
﹁おおっぴらな批判は生活委員が潰すか、篤仁がどうにかする。自
分の決定に逆らおうっていうんだから、あいつが黙っているはずが
ない。当然僕たちもできることをしよう。白河さんは人望もあるか
ら、実際仕事をし始めれば不平不満も薄れるだろう﹂
確かにいい話にも聞こえる。
しかし、それでは美月様が鷹津の庇護下に入ることになる。美月
様が鷹津へ傾倒していくのが目に見えている。
そんな不満があたしの顔にでたのか、雀野はきゅっと眉根を寄せ
た。
﹁君の心配もわかる。白河さんは優しすぎるところがあるからね。
篤仁に付け込まれたら、どんな条件でも飲んでいつのまにか白河家
が乗っ取られるかもしれない﹂
そこまでは言ってないけど、おおむね当たっている。
﹁だからこそ、一番近くでお姉さんを見守りたいだろう?﹂
あれ、とようやく気がついた。
なんかおかしい。
﹁⋮⋮⋮なんで、あたしにそんなこと言うの﹂
そう、やっぱりおかしい。
182
﹁あたしのことさんざん嫌ってたじゃん。鷹津に対する障害物にな
りそうだからって早々に方針変更? っていうか姉さんを守るとか
何ソレ。あたしは姉さんに守ってもらいたいほうなんだけど﹂
﹁見え見えなんだよね﹂
細められた雀野の目に、ぎくっとあたしの肩は跳ねる。
﹁僕たちのことを褒める言葉、媚を売る態度、あからさまでヘタす
ぎる。生徒会補佐の件だって、まずは喜んで見せなきゃだめだよ。
さっき言っただろ? 僕は卑屈だから、お世辞や建前の嘘に敏感な
んだ。僕が嫌っていたのは君の値踏みするような眼差しだ﹂
ぐうの音も出ない。
あたしの演技はお粗末なものだったようだ。これからは気をつけ
ようと反省するが、それよりも先に込み上げたのは雀野に対する素
直な感想だ。
﹁副会長、マジ根暗﹂
﹁どうとでも。君のことは﹃将を射んと欲すればまず馬を﹄ってい
う考え方になれないほど嫌いだった。単純と言われればそれまでだ
けど、この飴のおかげで今はちょっと違うかな﹂
﹁あっそー、光栄なことで。⋮⋮でも残念だけど、鷹津と姉さんの
仲を邪魔しようとは考えてない。鷹津は最高の物件だから捨てるに
は惜しいの。もちろん副会長のサポートもしないよ﹂
﹁でも、君は篤仁を警戒している。そういう意識を持っている人間
が白河さんの側にいるってだけで十分だよ。⋮⋮ちょっとくらい白
河さんに僕のことアピールしてくれてもいいんだけど﹂
雀野は、ただ優しいだけじゃない、こずるい笑みを浮かべてみせ
た。少しは人間らしい表情じゃないか。
﹁姉さんの保護の確約とあたしの生徒会室入室の自由を認めてくれ
るってワケ﹂
﹁そういうことだ。どうせ白河さんの補佐入りは避けられないんだ。
好条件だと思ってほしいね﹂
183
口のうまい王子様は、こうしてあたしを言いくるめた。
敬吾さんには皮肉たっぷりに叱られたが、雀野の口上をそのまま
使わせてもらうことで、なんとか美月様の補佐入りを認めてくれた。
条件は、あたしがしっかり美月様をお守りすること、という一点だ。
鷹津の行動は早かった。
昼休みの美月様の懇願から中一日をはさんで登校してみれば、掲
示板に﹃白河美月を生徒会補佐に任命する﹄との辞令が掲示されて
いたのだ。もともと美月様を歓迎していた生徒会役員たちのおかげ
でスムーズに話がまとまったのだろう。
今日は美月様の補佐としての仕事始めの日。
あたしの入室許可を得るのもなんとかクリア、幸先はいい。
体が沈むような座り心地のソファに寝っ転がり、あたしは美月様
の仕事ぶりを眺めていた。何をするでもないのだが、こうしてダラ
ダラし始めて早一時間。忙しいのも大変だが、何もやることがない
のも持てあます。
美月様はディスプレイと手書きの書面を交互に見ながら、テンポ
よくキーボードをたたいている。
﹁初瀬先輩、この間の議事録の文章起こしできましたよ!﹂
﹁ありがと、美月ちゃん! 助かるよ∼﹂
初瀬はパソコンの画面を確認して嬉しそうに言った。
﹁うん、ばっちり!﹂
﹁プリントアウトして、このファイルに保存でいいんですよね﹂
﹁そうそう﹂
﹁美月さんがいてくれると助かるわ。仕事がいつもよりずっと早く
進むもの﹂
印刷した書類に穴を空けてファイルに閉じている美月様に、雨宮
184
も頬をゆるめている。
﹁そんなことないですよ。でも、一生懸命がんばりますね!﹂
なんて健気なお言葉!
あたしが見る限り、美月様は非常に手際よく言いつけられた仕事
を進めている。失礼ながら意外なことに、パソコンの基本操作も問
題なく、ミスなく丁寧に処理を行っているようだ。
最初こそ緊張した面持ちではあったが、美月様にとっては気心の
知れた相手との作業だ、自然とこわばりもほぐれている。だからと
いって慣れあうでもなく、真面目で頭のいい美月様は黙々と仕事を
している。他の生徒にとやかく文句を言われることない立派なお姿
だ。構いたがるかと思った雨宮たちも、案外ちゃんと各々の役割を
こなしているようだ。
美月様のほうは問題なし。だからといって、あたしの居心地がい
いわけではない。むしろ悪い。
﹁美月ちゃんにひきかえ、アレなに?﹂
﹁なんの役にも立たないわね﹂
放っておいてくれればいいのに、初瀬と雨宮はちょくちょくこち
らを睨んでは文句を言ってくる。
﹁あたしはいわゆる生徒会のマスコット的な立場だからぁ。可愛が
ってくれるのは大歓迎だけど。姉さん、がんばって!﹂
﹁ありがとう、アキラ! がんばるねっ﹂
美月様はにこっと笑ってかわいらしいファイティングポーズをと
ってみせた。おい、見とれるな、報告書めくる手がとまってるぞ雀
野。鷹津はハンコをポンポン押しながら満足げな様子だ。
﹁やっぱり俺の判断は間違っていなかったな。美月さん、その調子
で頼みますね﹂
﹁はいっ!﹂
見る限り鷹津も美月様にちょっかいを出すでもなく仕事に励んで
185
いる。ちょっと拍子抜けだ。あたしは足を投げ出してう∼ん、と伸
びをした。実は緊張していたのか、ぱきぱきといい音がする。
﹁ヒマそうだなー、アキラ﹂
ずっとパソコンと向き合っていた池ノ内も、同じように腕を伸ば
して体をほぐしている。
﹁表計算ソフト、得意?﹂
﹁あー、無理。あたしパソコン苦手。キーボード打つのも指一本打
法だもん﹂
﹁なんだよ、ホントにパソコン初心者って感じだな﹂
﹁そうそう。機械ムリ。頼もうとしたってダメだから﹂
何を考えているのか、池ノ内は怒るでもなく快活に声をあげて笑
った。
﹁じゃあ別のこと頼む。ちょっとでいいから肩もんでくれよ﹂
﹁ええぇ?﹂
﹁ヒマなんだろー﹂
ほれ早く、と池ノ内はあたしに手招きをする。当然拒否したが、
美月様がぱっとキーボードを叩く手を止めたのに気付き、仕方なく
立ち上がった。あと一呼吸遅ければ﹁わたしがやりましょうか﹂と
言いだしただろう。
﹁もー、あたしやったことないからヘタクソですよ?﹂
﹁いいからいいから﹂
池ノ内の厚みのある肩に触れようと手を伸ばした。
﹁紅茶﹂
突然の鷹津の言葉に、思わず動きを止めてしまう。
﹁紅茶が飲みたい﹂
﹁あっ、俺も飲みたい﹂
﹁私も紅茶がいいわ。ミルクティー﹂
便乗する初瀬と雨宮。え、これってつまり⋮⋮。
186
﹁買って来いってこと?﹂
﹁買えだなんて。給湯室はここを出て右よ﹂
茶を淹れて来いってことか。素直にお願いできないのか、こいつ
ら。
﹁あの、アキラは池ノ内先輩のマッサージがあるから、わたしが⋮
⋮﹂
﹁あなたはやることがあるだろう﹂
鷹津はバッサリと美月様の申し出を斬り捨てた。言っていること
は正しいが、言い方ってものがあるだろう。美月様ちょっとしょん
ぼりしてるんだけど!
﹁あー、ハイハイ! あたしがやりますぅ。じゃ池ノ内センパイ、
そういうコトだから﹂
﹁ちぇー、残念。な、俺の分も頼むな﹂
﹁はーいはい﹂
池ノ内の肩をぎゅっと一度だけもんでやって、すぐに離れる。
﹁姉さんは何が飲みたい? ジュースでもいいよ、買って来るし﹂
﹁ううん、大丈夫だよ。ごめんね﹂
﹁平気平気! じゃあ適当に持ってくるから。すぐ戻るね﹂
あたしは美月様に手をふってから、生徒会室を後にした。
まったく、希望だけ言えばなんでもその通りになると思いおって、
おぼっちゃま方め。﹁飲みたい﹂じゃなくて﹁お茶をください﹂だ
ろうが!
雨宮に言われた通り右に曲がると、冷蔵庫や電子レンジまで用意
された給湯室がある。
あたしはヤカンを探して水を入れる段階でふと気がついた。
﹁⋮⋮紅茶ってどう淹れるの?﹂
187
188
補佐の天使を補佐する悪魔︵後書き︶
更新が遅れ気味ですみません。
ご意見・感想をお待ちしております。
189
お茶くみする悪魔
ヤカンはしゅうしゅうと熱を発している。お湯がわいてきた、と
いうことなのだろう。わいたらピーっていうんだよね? うえにつ
いている小さいフタ、いきなり飛んだりしないよね? 今まで心の中でバカにしていたお嬢様おぼっちゃま方、ごめんな
さい。なんだかんだであたしも十分お嬢様待遇で過ごしていました。
お茶を飲むのなんて、辰巳に﹁お願い﹂っていえば済むことでした。
いや、言わなくても出てきました。それにあたしはもっぱら緑茶派、
普段紅茶は飲みません。
﹃お湯はわきましたか?﹄
﹁うん、こぽこぽ言ってる。ねえ、今更だけど水道水ヤカンにいれ
て良かったの? ミネラルウォーターも冷蔵庫にあったよ?﹂
﹃大丈夫ですよ。空気をふくんだ水のほうが合うんです。それより
も火傷に注意してくださいね﹄
﹁わかってるよ。で、カップに注げばいいんだっけ? 茶葉抜きで﹂
﹃はい。ポットにもお湯をいれて、温めてください。茶葉抜きで﹄
スピーカー設定したスマートフォンからの指示に従い、あたしは
まごつきながらも準備を進めていく。
結局、あたしが頼ったのは辰巳だった。
普段日本茶ばかりだからダメでもともと、という気持ちだったが、
辰巳は紅茶にも精通しているようだ。なんと有能なあたしの世話役!
イギリス王室御用達のブランドのカップ&ソーサーを人数分並べ、
お湯を注ぐ。このまま出してやろうか、と思わなくもない。
190
﹃アキラ様、どうですか﹄ ﹁ん、だいじょーぶ。次は?﹂
﹃茶葉の用意ですね﹄
﹁うん﹂
あたしは棚に入っていた小さな缶を手にスマートフォンに話しか
ける。
﹁あ、そうだ。あのさ、一人ミルクティーが飲みたいってワガママ
ッ子がいるんだけど、どうしよう。牛乳もあたためたの入れるの?﹂
﹃用意してある茶葉の名前はわかりますか﹄
﹁んん? セカンドフラッシュって書いてある。だー? じぇーり
ん?﹂
﹃⋮⋮他に置いてある茶葉はありますか﹄
﹁これだけ﹂
﹃では、そのワガママッ子さんには諦めてもらいましょう﹄
﹁えっ!? なんで!?﹂
あまりにもばっさりと切り捨てた辰巳に、あたしは思わず聞き返
した。
別に雨宮のためにおいしいミルクティーをだしてやりたい、なん
て思ってはいないが、あえて逆らおうとも考えていなかった。
﹃そもそもアキラ様にお茶を用意させようというのが気に入りませ
ん。俺が今からお伺いしたいくらいです﹄
﹁今は置いといてよ、その過保護。ミルクティー⋮⋮﹂
﹃さ、ここからが重要ですよ。時計はお持ちですか。蒸らす時間が
美味しい紅茶のポイントです﹄
﹁た、辰巳ぃ!﹂
﹃大丈夫です。これから言うことをよく聞いてくださいね﹄
﹁あくまでそのまま通すのね⋮⋮﹂
雨宮に言われるであろう嫌味を想像してちょっとゲンナリしてし
まうが、あたしの心をよく知っているはずの辰巳の紅茶講釈は続い
た。
191
そして、改めて辰巳は有能だと思い知らされた。
﹁おっまたせー!﹂
﹁遅すぎるわ﹂
﹁なにタラタラしてんのー?﹂
元気よく生徒会室に戻ったあたしを、雨宮と初瀬は心やさしい言
葉で迎えてくれた。ほんと涙でそう。
﹁アキラ、大丈夫だった?﹂
それに引き換え美月様は、キーボードを叩く手をとめてあたしに
心配げな目を向けてくれる。
﹁全然問題ないよ﹂
味見こそしていないけど、初めてにしてはキレイな色で薫り高く
淹れられたと思う。美月様にも自信をもって差し出せた。
六人分の紅茶を運ぶのはなかなか骨の折れる作業で、慎重に足を
踏み出しながら配っていく。まずは当然美月様。
会長である鷹津へ一番に持っていくのが礼儀かもしれないが、そ
んなの知らない。美月様から席が近い順に置いていってやる。
﹁おー、さんきゅなー!﹂
﹁どーいたしまして。これで肩のコリもほぐしてくださいねっ﹂
池ノ内に愛想をふりまき、次は初瀬。ろくにカップの中身をみる
前から顔をしかめている。
﹁コレ色濃すぎじゃない? ちゃんと時間はかった? 香りがにご
ってるんだけど﹂
﹁えー、気のせいじゃないですかぁ?﹂
小言も気にせず、次は雨宮。こっちが問題だ。
さあ、くるか?
192
あたしは迎え撃つつもりで雨宮を観察した。
差し出したストレートティーに、雨宮は冷たく言った。
﹁⋮⋮ミルクティーって言ったわよね﹂
﹁すみませーん、これで我慢してくださーい﹂
﹁まったく、こんな用事も満足に果たせないなんて! 生徒会補佐
の補佐っていうのもあなたには大役すぎるんじゃない?﹂
雨宮はわざとらしく憤慨した口ぶりだが、どこか﹁してやったり
!﹂と言いたげな様子を隠し切れていない。だが残念だったな。
﹁ごめんなさぁい。茶葉がダージリンしかなかったからぁ﹂
あたしがそう言って小首をかしげた途端、雨宮の顔つきが変わる。
﹁高そうな缶だったし、あれ二番摘みのイイやつでしょ? ミルク
いれちゃうのはもったいないんじゃないかなー。あ、それとも雨宮
副会長はそういうの気にしない派? やだー、あたしってば気回し
過ぎたかなー﹂
辰巳は、なぜあえてミルクティーを用意しないかの理由を教えて
くれた。ミルクティーにはアッサムや甘い香りのフレーバーティー
といった、牛乳に負けない濃厚な味わいのある茶葉と相性がいいら
しい。
ダージリン、特に高級品のセカンドフラッシュと呼ばれるものは
特有の爽やかな香りを楽しむものらしく、ストレートで飲むのが一
番とのことだ。
べらべらとしゃべってはみたものの、辰巳の講釈をなぞっている
だけで正直よくわかってはいない。だが教養ある雨宮にはちゃんと
伝わっているようで、ツンとそっぽを向いてしまった。
そしてあたしは確信する。
やはりこの女、ダージリンの用意しかないことを知っていたな。
大方あたしに恥でもかかせたかったのだろう。だが残念だったな。
あたしには超有能な辰巳がついているのだ。
あたしと雨宮の攻防に、雀野は含み笑いをしていた。こらえきれ
193
ない、というふうに小さく肩が震えている。
﹁はい、どーぞ!﹂
﹁うん、ありがとう。⋮⋮さすがだね﹂
﹁えー? これくらい常識でしょー?﹂
最後に鷹津のデスクのすみっこにカップをおくと、鷹津はそれを
一瞥して意地悪げにニヤっと笑った。
まるであたしの紅茶の知識の無さも全部見透かした上でバカにし
ているような、イヤな目だ。
ちょっとした達成感もしおれていく。
﹁あーあ、慣れないことして疲れちゃった。きゅうけーい﹂
あたしは本音をもらしつつ再びソファに転がった。辰巳に改めて
御礼のメールを打とう。転ばずに運べましたか、なんて過保護なメ
ールも来ていることだしね。
自分で淹れてみると、紅茶とは本当に薫り高いものなのだとよく
わかる。温かな熱と色づくような爽やかな香りが生徒会室に広がっ
ている。そんなことを考えていると、池ノ内は余計なことを言いだ
した。
﹁なあ、なんでアキラの分はないんだ﹂
﹁へ?﹂
﹁紅茶。飲まないのか﹂
なんでって。
用意していたカップは最初から六つ。美月様、鷹津、雀野、雨宮、
初瀬、池ノ内の六人分だ。
聞くまでもない問いかけに、あたしは逆に言葉に詰まった。
そしてその当然な返答の不自然さに気付く。
だって、飲まないでしょ。あたしはがんばる美月様のために用意
したのであって、お相伴にあずかる理由がない。
なんで、飲まないのかって。白河アキラは傍若無人の女なのに。
194
﹁⋮⋮ジュース派だから。今はコッチの気分だしぃ﹂
あたしはさっと取りだした飴をくわえる。
﹁なんだ、自分で用意しといて。うまいぞ?﹂
﹁アキラ、あんまり家でもお茶しないもんね。﹂
ふふ、と笑う美月様にあたしは肩をすくめた。辰巳と二人ではよ
くお菓子を食べながらお茶も飲んでいるけど、わざわざ言うことで
はない。ああ、求肥食べたくなってきた。ふにゅああっと柔らかい
の。
﹁ジュースって、何が好きなんだ﹂
﹁え、何って﹂
﹁コーラとかオレンジとかあるだろ﹂
池ノ内の質問はまだ続いていた。紅茶を傾けながらおもしろそう
にこちらを見ている。
﹁⋮⋮食堂前のコーヒー風豆乳?﹂
﹁ああ、あれな! 俺もたまに飲む。わかった、アレな。白河は好
きなのあるか﹂
﹁わたしはイチゴミルクとか、甘いのが好きです!﹂
﹁めちゃくちゃ甘いヤツなー! 骨まで溶けそうな味だよな﹂
﹁えぇー? そんなことないですよ、今度ちゃんと試してください﹂
﹁そうだな。俺はスポーツドリンク派だからなー。でも、紅茶もい
いもんだな﹂
﹁正輝は味覚音痴のスポーツバカだから紅茶の味もわかんないんだ
ろ。こんなのが美味しいなんて﹂
仲むつまじい美月様と池ノ内に妬いてか、初瀬はふん、と鼻をな
らしながら割り込んできた。
﹁こんなの色つきのお湯だよ。ぜーんぜんセカンドフラッシュの良
さが活かされてない﹂
﹁そう言うなよ。相変わらずお前の鼻は特別製だなー﹂
毒づく初瀬を軽くかわす池ノ内。意外にいいコンビなのかもしれ
195
ない。
﹁アキラ、初めてやったんでしょ? とっても上手だよ!﹂
﹁姉さん! ありがと! もー、超うれしい!﹂
美月様のいたわりの言葉が嬉しい。だが、黙ってカップを傾けて
いた男がここで口を開いた。
﹁うん、まだまだだな。もっとうまく淹れられるはずだ﹂
ひくり、とあたしの眉がはね上がる。
﹁⋮⋮そりゃどーもスミマセンでしたぁ。かいちょー﹂
﹁鷹津新会長も厳しいっすねー。俺には十二分にうまいんだけどな﹂
﹁もっと、と言ったはずだよ池ノ内。これからも頼もう。ここにい
る役割ができてよかったな﹂
鷹津は誰もが見惚れるような完璧な笑顔であたしに言った。
よかった? さもお前があたしの立ち位置を決めてやったとでも
言いたげな口ぶりだな。
言い知れない苛立ちが湧き上がる。それが表情に出てしまったの
か、鷹津は唇の端をより釣り上げた。ああ、こいつは本当に根っか
らの根性悪だ!
﹁明日もよろしくな。アキラ﹂
﹁⋮⋮呼び捨てやめてくんない?﹂
その呼び方にぎょっとしたあたしは、思わず言ってしまった。す
ると鷹津はわざとらしいほど驚いた顔をする。
﹁なぜだ。池ノ内はそう呼んでるじゃないか﹂
﹁え、だ、だって﹂
﹁﹃白河﹄さんが二人では呼びにくい。いいな、アキラ﹂
決定事項だ、と鷹津は言い放った。こうなると呼び捨てがいや、
とか言ってられない。逆らう術が思いつかない。これだから鷹津を
相手にしたくないのだ、美月様とは違った意味で逆らう気になれな
196
い。⋮⋮だからやめて、美月様! その﹁いいなぁ﹂って目で見て
くるの!
﹁初めてだと言ったな。ならこれから練習を重ねればどんどん上手
くなる。がんばってくれ﹂
﹁おう。がんばれよ、アキラ!﹂
無責任な池ノ内が、鷹津にもまして腹立たしかった。
三つ並べられたカップは、それぞれ若干違う色合いをしている。
いずれも温かくいい匂いだ。しかしそれぞれを嗅ぎわけることは
到底できなかった。
﹁ねー。わかんないよぉ、辰巳ぃ﹂
そもそもちゃぶ台に紅茶ってのが不似合いなのだ。
帰宅後にあたしを待ち構えていたのは、辰巳による紅茶講義第二
弾だ。
ちょっとした抗議をこめ、わざとらしく唇を突き出してみる。
﹁なにもお勉強をうながしているのではありません、お気に召すも
のがあればいいと思っただけです。興味がないのならそれで構いま
せんよ﹂
辰巳はお茶受けのクッキーを出してくれた。市松模様の四角いク
ッキーは、おそらく辰巳の手作りだ。いつもなら日本茶とちょっと
した茶菓子を出してくれるのだが、今日はちょっと違うみたいだ。
あたしが紅茶を飲むなら何が好みに合うのか、見極めようとしてい
るのだろう。
﹁紅茶が嫌いとかじゃないけど。これからあたしがお茶くみ係なん
だって。それなら毎回辰巳に助けてもらう訳にもいかないし。ぜっ
たい雨宮、次は別の手で嫌がらせしてくるよ﹂
﹁そういうことならいっそ俺が行きたいですね﹂
197
﹁来てほしいよ、切実に﹂
あたしと辰巳のため息が重なる。
だが。そうぐじぐじ文句を言ってはいられない。
﹁練習するから! 美月様のためだから。生徒会室でやることない
ってのも逆に辛いし、やるってなったら頑張るよ﹂
﹁アキラ様、ご立派です。俺も協力しますからね﹂
では、と差し出されたカップを、あたしは親のカタキのように睨
みつけた。
﹁お夕食がお腹に入るギリギリ手前で止めますから、どうぞご心配
辰巳はそつなく付けたした。
なく﹂
198
お茶くみする悪魔︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
199
悪魔のわだかまり
六月になると学園生活にもだいぶ慣れてきた。この裏庭は、もう
少しすればきっと見事なあじさいに彩られるだろう。しかし今はそ
れを楽しみに待つ気分ではない。
昼休み、人気のない裏庭、あたしを取り囲む敵意を宿した険呑な
目の女生徒。
あまりにもわかりやすいシチュエーションだ。
﹁あなた、どういうつもり?﹂
﹁なにがぁ?﹂
あたしの気の抜けた返事がさも気に入らない、というように、見
覚えのあるお団子頭は盛大にため息をついてみせた。
﹁やっぱり、事の重要性ってものがわかっていないようね﹂
﹁えー? 意味わかんなーい﹂
何が事の重要性だ。この狂信者どもめ。そう思いつつも決して口
には出さない。こいつらはそういう人種なのだ。生徒会役員らを珍
重する保護団体。利用価値で評価するあたしと大して変わらない。
お団子頭の三年生は調査済みだ。一戸由果、家具メーカー社長の
一人娘だ。成績もそれなりに優秀、クラス内でのヒエラルキー上位
層、そして生活委員会を率いる部長。ああ、こういうのをナチュラ
ルに見える上手な化粧というのか。露骨ではないアイラインで目が
自然と大きく見える。勉強しよう。
﹁あなたのお姉さんである白河美月さんは、有能と評判よ。我々が
200
認めてもいいと思っているくらい。でもあなたときたらお茶くみさ
え満足にできないと初瀬様や雨宮様からうかがっているわ。そのく
せ生徒会室にいりびたるなんて言語道断! 即刻態度を改めてほし
いわ﹂
そうよ、当たり前よ、とうなずいているのはこの前とは少し違う
顔ぶれだ。何人いるんだ、生活委員会。
﹁ええ∼? ひどくなーい? あたしだって精いっぱい尽くしてる
のに。学校をよりよくするための活動をする生徒会、その生徒会を
支える姉さん、その姉さんを支えるあたし。ほら、構造的にはあな
たがたの為にもなってると思ってくんないワケ?﹂
﹁その役に立ってないって言ってるのよ!﹂
お団子にひっつめた髪のせいだけではないだろう、一戸の釣り上
ったまなじりはあまりにも鋭い。
﹁いい? 厳重注意で済んでいる間に考え直しなさい。いくらあな
たが白河家でも、許されることと許されないことがあるのをわかっ
てちょうだい﹂
心底ばからしい。
あたしがこうしているのは白河のため、美月様のため。それだけ
だ。むしろ、なんのメリットもない彼女たちがどうしてこうも必死
になるのか不思議で仕方ない。真正面から告白でもしたほうがよっ
ぽどいいと思う。
あたしに対しては熱烈なラブレターを靴箱に入れて呼びだし、こ
うして面と向かってお話しているというのに。
﹁先輩方の理屈はむずかしくってよくわかんないー。あたしはあた
しのやりたいようにやるから﹂
﹁あなた⋮⋮!!﹂
﹁それより、あんたら素直だねぇ。美月姉さんに言われた通り、直
接雨宮センパイと初瀬センパイに聞きに行ったんだ?﹂
201
からかってやると、一戸はかわいらしいほど素直に狼狽した。
﹁な、べ、別に我々が活動を行う上で必要なことだったから行った
だけよ!﹂
﹁あ、そ﹂
﹁今はそういう話じゃない! とにかくこれ以上生徒会室に出入り
するのはやめなさい。そうだ、あなた似合いのお連れ様がいるじゃ
ない、そっちの方と親しくしたらどうなの。どんな目にあったのか
しら﹂
﹁は? 誰のこと。何の話﹂
とたんにクスクスと顔を見合せながら、彼女たちは口元を意地悪
げに歪めた。
﹁犬って噂になってじゃない、あの﹂
﹁おーう、ナマイキ妹じゃねーか。いじめられてんのか? 笑える
なぁ﹂
びくうっと震え上がる特別委員会たちは見物だった。
そうか、こいつらがあの噂流してくれたんだっけ。あたしがひど
い目にあったと思っていたのだろう。しかし正義の男によりあたし
はその難を逃れている。
都合よく利用しようとしたくせに姿を見ただけでおののくとは、
と思わず苦笑いしてしまう。やはり特別厄介なヤツらしい。
東条彰彦という男は。
﹁東条せんぱぁい、どうにかしてくださいよぉ。あたしこわぁい!﹂
鼻にかかった甘え声を出すと、東条は露骨に顔をしかめた。それ
をどう受け取ったのか、一戸はあたしと東条を交互に見やったあと
に早口で言った。
﹁な、何よ。本当に仲良かったの!? あ、あ、あなたと釣り合う
のはやっぱり彼みたいな相手ではなくて? そういうことだから!﹂
202
﹁あ、ちょっと!﹂
言い逃げしようとした一戸の手をつかみ、あたしはずいっと顔を
寄せてささやいた。
﹁誰が、誰の犬だって? あのとき東条がどれだけ怒ったか⋮⋮﹂
﹁関係ないでしょ!? わたしのせいじゃないわ!﹂
﹁ふざけるなよ、ここで全部バラしてやろうか?﹂ 一戸は真っ青になって震えた。このあたりか、とあたしが手を緩
めると、途端に仲間を追うように校舎に向かって走っていった。
﹁なんだよ、もう終わりかよ﹂
﹁おかげさまで。なんで残念そうなんですか﹂
﹁やー。おもしろいモンでも見れるんじゃないかと期待したんだが﹂
﹁悪趣味﹂
あたしが鼻をならすと、東条はにやっと笑った。
﹁そういや聞いたぜ、お前が今度は犬になったってな﹂
﹁は?﹂
﹁生徒会の犬﹂
勝ち誇るような言い方が、あたしの神経を逆なでした。頬の筋肉
がぴきぴきひきつりそうだ。
﹁⋮⋮むっかつく響き﹂
﹁だろ? 俺の気持ちわかったか﹂
﹁まぁね﹂
そう吐き捨てると、東条は例のシガレットケースから棒付き飴を
とりだし、満足そうにくわえた。
犬か。あたしは白河、いや美月様の狂信者たる誇りはあるが、あ
の高慢ちきな連中の犬になった覚えはない。
しかし、ここしばらく生徒会室に出入りしてやったことといえば、
お茶くみや掃除、ご機嫌伺い。そう言われても仕方ないのかもしれ
ない。
203
周囲の評価なんかどうだっていいんだけど、まったく傷つかない
わけではない。
﹁はぁ﹂
急にこみあげてきた疲労感に負け、あたしはその場にしゃがみこ
んだ。東条はあたしの情けない顔を見ようというのか、隣に腰をお
ろしてくる。
﹁ンだよ。好きでやってんだろ。ワンって言ってみろ﹂
﹁そういう安い挑発にも乗りたい気分。なぐるぞ﹂
﹁やってみろよ﹂
﹁ぶん殴ったあとでまた城澤のとこまで逃げてやる。校内暴行事件
だって騒いでやる﹂
﹁城澤出すのやめろよ、マジで⋮⋮﹂
心底嫌そうな声に、あたしはささやかながら一矢報いることはで
きたようだと知る。
﹁ね、飴ください﹂
﹁やだね、俺んだ﹂
﹁けち﹂
あたしが文句をぶつぶつ言っても、東条は知らんぷりだ。
不良だ悪党だと言われているだけある、意地悪め。
﹁お前さ、なんで生徒会んとこ行ってんの﹂
﹁生徒会とお近づきになれるチャンスなんてそうそうないじゃん﹂
テンプレートとなっているあたしのセリフに、くはっと息を吐き
出したのは、笑ったのだろうか。
﹁動機不純すぎ﹂
﹁うるさいな、犬だからいいでしょ、即物的なの。はいはい、わん
わん﹂
﹁お前が尻尾振ってる相手は、お前の涙ぐましい努力わかってんの
か﹂
204
﹁愛情は注いでるわー。だからおいしいお茶の淹れ方だって覚えた
し、茶葉の名前だって覚えた。知ってる? セカンドフラッシュ﹂
﹁一番摘みだろうが二番摘みだろうが変わらねーよ﹂
知った風な口をきく東条に、あたしは余計にイライラが増す。
本当に殴っちゃおうかな。
ここからだと近いのは風紀室のほうか、いや、今の時間帯だと城
澤は教室か。殴ったあとの算段まで考え出したあたしの横で、東条
ははっきりと恐ろしいことを口にした。
﹁っていうか、俺が言ってんのはあのきらびやかな連中じゃねーよ。
あの超天然のお姉さまのほう﹂
﹁え﹂
がばりと顔をあげると、待ちかまえていたように東条がじっとあ
たしを見つめていた。
﹁どうせわかってねーんだろ。あれじゃ世間渡っていけないだろ。
過保護すぎんだよ、お前﹂
﹁そんなこと﹂
﹁ま、どーでもいいけど﹂
東条は話を切るようにふいっと視線をそらし、伸びをして立ち上
がった。
﹁殴られんのイヤだから行くわー﹂
﹁と、とうじょ﹂
﹁いじめられんのはいいけど、俺に助け求めんじゃねーぞ。絶対助
けてやんねーから﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁じゃな﹂
﹁どうしたの、アキラ。ぽーっとして﹂
205
﹁あ、いや。なんでも﹂
あたしは歩きながらも意識を飛ばしていたようだ。美月様に言わ
れてようやく焦点が合う。
﹁何かあったの﹂
﹁なんでもないよ、ほんと!﹂
美月様の大きな瞳に情けない顔のあたしが映っている。いけない
いけない、しゃんとしなければ。
美月様が生徒会補佐になったことにより、二人で並んで歩いて帰
る機会が増えた。仕事終わりを狙って近づこうとする不埒者を、影
からではなく堂々と追い払える点は楽だ。それなのにあたしが美月
様に心配かけてどうする。
﹁何もないならいいけど、なんだか今日はずっと考え込んでるみた
いだから﹂
﹁うん⋮⋮﹂
気になっているのは、東条の言葉だ。
あたしと美月様の関係について、一端なりと知っているような口
ぶりだった。
さらに、過保護だと?
美月様に対して?
でも、そんなことはない。と、思う。
﹁姉さん、生徒会の仕事大分慣れたよね﹂
﹁うん、わからないことはいっぱいあるけど、親切に教えてくれる
からなんとかね﹂
﹁前よりタイピングのスピードもあがってる。書類整理の手さばき
も様になってきたよ。今日は職員室におつかいにだって行ったし、
ゴミ出しだって率先してやった﹂
﹁当然だよ、そのための補佐なんだから﹂
﹁そうかもしれないけど﹂
206
美月様はきちんと自分のやるべきことをやっている。
やると決めたことにたいして責任を持ち、やり遂げようと努力し、
事実着実にこなしている。
やっぱりあたしは美月様を甘やかしてなんていない。
﹁うん、大丈夫!﹂
﹁なにが?﹂
﹁大丈夫、心配かけてごめんね、姉さん!﹂
﹁変なアキラ!﹂
そう、お守りすることと美月様の成長を妨げることは違う。
それは敬吾さんにも言われていることだ。敬吾さんの厳しいチェ
ックをくぐりぬけているわけだから、間違っていない。
紅茶と同じで、東条はわかった風な口をきいただけ!
207
悪魔のわだかまり︵後書き︶
更新が遅れ気味になっております⋮⋮。
ご意見、感想をお待ちしております。
208
悪魔と鋼の先輩、子犬の後輩
﹁うまくやってるみたいだね。安心したよ!﹂
相手に警戒心を抱かせない子犬の人懐っこさを前面に押し出した
ところで、あたしはもう騙されない。
非常階段の踊り場は日陰になっていて少し肌寒いが、仮にも風紀
委員である松島との密会場所にはやはりここが最適だ。
放課後に少しだけ時間をとってほしい、という松島のメールがき
たのはついさっき。美月様を生徒会室まで送ってから、駆け足で戻
ってきたのだ。
﹁で? 役立たずの風紀が何の用﹂
﹁冷たいなぁ﹂
そう言う松島の背後にしゅん、と丸まった尻尾の幻が見える。
﹁実際そうなんだから。どうせ呼びだしたのだって、昼休みの生活
委員会とのやり取りのことでしょ﹂
﹁あ、やっぱりわかる?﹂
﹁そっちこそ、わかってたクセしてか弱い一般生徒のあたしを助け
てくれないわけね。何が風紀だか﹂
﹁うう﹂
﹁話の内容も東条が来たことも知ってるんでしょ。今更何の話をし
たいの。聞いたってなーんにもしてくれないんでしょ﹂
松島は眉毛を八の字にしてわかりやすくへこんでいる。だから、
209
騙されないったら。絶対こいつは自分の特徴をよォく理解している。
あたしからの攻撃を素直に受けて情けない反応を見せることで、あ
たしの苛立ちのはけ口を作っているのだ。そこで怒りを吐き出させ
た後に、自分に有利なように話を進めていく。立ち回りのうまい男
に違いない。
﹁ごめんね、風紀は生活委員会には手が出せなくて⋮⋮﹂
﹁前聞いた﹂
﹁うん⋮⋮﹂
別にあたしは怒っていない。ただのポーズだ。生活委員会から目
をつけられることは最初からわかっていた。今回は理由が理由だか
ら風紀の助けも期待できない。
これはただの駆け引きだ。多分、松島もそれをわかっている。
つん、とそっぽを向いて見せると、おずおずと、しかししっかり
とこちらに聞こえるように松島は言った。
﹁ただ、それでも君はとても上手にやってるよねって言いたかった
んだ﹂
﹁今のところはね﹂
﹁そう、今のところは、だ﹂
ほら、来た。
階段に座った松島のつむじを、あたしはぎろりと見下ろした。
﹁⋮⋮ようやく本題?﹂
﹁うん、まぁね。早い話が、君は生徒会役員たちと関わるべきじゃ
ないってこと﹂
﹁はっ﹂
あたしが鼻で笑うと、松島は無意味に合わせた手の指をぐにぐに
と動かしている。
﹁言いにくいけど、生徒会補佐の補佐、っていうはっきりしない役
について納得する生徒はいないだろう。ましてや君の素行が素行だ
210
から。僕らは生活委員会を取り締まるどころか、君を排除しなくち
ゃいけなくなる﹂
﹁ならやれば? あたしは勝手にするけど﹂
﹁そうしたくないから言ってるんだよ﹂
松島はくるくるとまわしていた人差し指の回転をより上げた。
﹁どういうつながりか知らないけど、委員長がすっごく君のこと気
にしてる﹂
﹁は? 城澤?﹂
突然出てきた風紀委員長に、あたしは首をかしげた。
﹁委員長、君のこと﹃俺が必ず更生させる﹄って意気込んでたよ﹂
﹁こわっ!﹂
﹁君の事が心配なんだよ。お姉さんはともかく、君は今まともな味
方がいない状態で全校生徒相手にしてるようなもんだから。その上
生徒会の人たちを怒らせたら、学園にいられなくなるよ﹂
﹁そうならないように松島と仲良くしてんじゃーん! うまく頼む
よ﹂
﹁信用してないくせに﹂
茶化すと松島は力なくまた肩を落とした。
﹁なんでそこまでしてお姉さんにくっついてるのかな﹂
﹁あたし、姉さんのことちょー好きだから。それに玉の輿には憧れ
るよね。そのためなら多少のやっかみは仕方ないって言うか﹂
﹁正直すぎ! ⋮⋮委員長は、そのやっかみがまた心配なんだよ。
あの人、二年生で委員長になっちゃって、そういうの多かったから。
君が同じ目にあうのが嫌なんだよ。あ、今じゃすっかり認められて
るけどね。完璧な仕事っぷり、冷静で公正な態度、そして君へのゆ
るぎない指導のおかげでね﹂
﹁あたし?﹂
どういうことだ、と聞き返すと、松島は肩をすくめた。
﹁教師でさえ諦めている生徒を見捨てず、家柄におびえもせず、毅
211
然とした態度で処罰にのぞむ。みんな歯がみしてこらえていた不満
を、学園の悪魔に真正面からぶつけてくれる正義の味方。委員長本
人は自覚ないけど、おかげで委員長の評判はウナギ登りだ﹂
﹁⋮⋮あ、そ﹂
まさかそんな効果があったとは。少しばかり助けてもらうことが
あったから城澤には恩を感じていたが、これでは逆に御礼でもして
ほしいくらいだ。
ふふ、と笑った松島は頭をあげてあたしを見上げた。
﹁その点君には感謝してる。風紀としての忠告はこれだけ、生徒会
には近づかない方がいい。生活委員会は巧妙だ、こっちが批判しづ
らいやり口で君を責め立てるよ。後手に回るのは悔しいけど、実際
なにかハッキリした証拠とか被害がないと風紀は動けないんだ、君
を助けられない﹂
﹁はいはい、聞くだけ聞いとく﹂
あたしが生徒会補佐の補佐にふさわしくないのは歴然、犬とのの
しられるのも仕方ない。
だが、学校を辞めさせられるような臨界点を見極める自信はある。
生徒会への影響力の強い美月様と、あたしの協力者である雀野。こ
の二人がいれば、ギリギリで持ちこたえられるはずだ。
﹁で、ここからはまったく別件。風紀とは関係なしに聞いて﹂
﹁え?﹂
ぱっと立ち上がった松島は、あたしをまっすぐに見つめて口元を
きゅっとあげてみせた。
﹁僕は君と話してるの好きだよ。うまくやれるか毎回ドキドキする。
素直に話をのんでくれる相手じゃないからね。いなくなったら寂し
いんだ、できるなら君のやりたいことやりつつ、上手く動いて学園
に居続けてほしいよ。それともう一つ。本当は直接伝えたかったみ
たいだけど、それが原因でまた呼びだしにあうんじゃかわいそうだ
からって﹂
212
﹁城澤先輩からの伝言。﹃何かあってもなくてもいいから、また俺
の名前を大声で呼びなさい。今度はきちんと先輩とつけること﹄っ
てさ。これは役職なしのただの先輩から後輩へのメッセージだよ。
先輩が後輩を助けるのに、理由なんていらないからね﹂
この時期、ふとんにくるまって眠るとうっすら汗ばむのだが、目
覚めのころにはなんとも心地よい暖かさとなる。抜けだしがたい誘
惑だ。
枕元の目覚まし時計は既に八時をまわっている。
嬉しいことに今日は土曜日、学校はお休み! あたしはぬくぬく
とふとんに潜り直し、枕を抱きしめた。このままもうしばらくまど
ろんだら、辰巳と散歩に出かけよう。今日は気温が上がるそうだか
ら、ひんやりした葛餅を熱いお茶といっしょに食べよう。
楽しい幸せ計画をそこまで考えて、昨日あった﹃幸せ﹄がまたふ
わりと胸の内に蘇る。
あんなことを言われるのは初めてだった。
まともな交友関係をもたなかったあたしにとって、同学年の友達、
先輩後輩、そういったものは無縁だった。
古典的な表現だが、確かに胸がきゅーんとした。いや、ホントだ
ったんだ、的確な表現だったんだ、あれ。
仲良くなった、ということではないと思う。松島はあたしがいた
ほうがおもしろそうだ、という言い方だった。城澤は何やら使命感
にかられているようだし。
それでも、あのようにあたしのことを肯定的に見てくれる人はそ
ういない。手を差し伸べてくれる人もいない。そう仕向けているの
は他でもないあたし自身だけど、どうしてだろう。むずがゆいほど
213
心がざわついた。
昨日、ポツポツと辰巳にそう伝えると、やわらかく目元をゆるめ
て微笑んだ。相手が男というのが少々気に入らないらしい過保護な
辰巳だったが、敵ではない相手ができたことを喜んでくれたようだ。
ただし、という警告付きではあったのだが。
﹁ただしアキラ様。相手は敵となりうる風紀委員です。あまり油断
してはいけません。岩土さんも同じことを言うでしょう﹂
﹁うん、気をつけるよ。ほんのちょっと、嬉しかったってだけ﹂
﹁お話は俺が全部聞きますから。大声でなくても、俺の名前を呼ん
でくださったら学校にだって駆けつけます﹂
﹁辰巳はホントにやりそうだな﹂
﹁本気ですから﹂
そんな会話を反芻していると、あたしってけっこう恵まれてるな、
と口元がゆるんでしまう。
ふわふわと夢心地でいると、また眠りにおちていたようだ。いく
らも時間がたったようには感じなかったが、また時計を見るとしっ
かり動いていた針にびっくりする。
まずい、十時近い!
さすがに寝過ぎてしまった、とあたしは布団から腕をつきだして
伸びをした。そこでふと気付く。
﹁⋮⋮あれ。辰巳、なんで起こしに来ないんだろう﹂
普段だったら一声かけてくるのに。
﹁ま、いいか。なんたって今日は土曜日なんだから⋮⋮﹂
もぞもぞと虫のようにはいでるゆるみきったあたしは、不意に聞
こえた美月様の声に寝ぼけ眼をかっと見開くこととなった。
214
﹁アキラ︱︱︱︱! お客様だよ! 生徒会の先輩たちが遊びに来
たよ︱︱︱︱!!﹂
215
悪魔と鋼の先輩、子犬の後輩︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
216
悪魔と紅茶と来訪者
﹁アキラー? もしかして寝てるの?﹂
﹁いやね、何時だと思っているのかしら﹂
﹁へー、こんな離れがあるんだな﹂
﹁趣とかワビサビじゃなくてボロいだけだね、これは﹂
﹁こら、初瀬﹂
﹁だってホントのことだし。雀野先輩だってそう思わない?﹂
聞きたくもない声がいくつも聞こえる。なんで? 今日は幸せの
土曜日でしょ?
あたしはがばりと体を起こし、あわてて周囲を見渡した。押し入
れの中しか隠れる場所が見当たらない。いや、なぜあたしが逃げる
必要がある! ここはあたしの部屋だ、辰巳と美月様以外誰も訪れ
ない、あたしだけの空間のはず!
そうは思うのだが、事実彼らはここへ向かっている。話声がこん
なにはっきり聞こえるのだから、もう母屋からの渡り廊下に来てい
るはずだ。
今すぐ迎撃して追い出したいところだが、今のあたしは化粧はお
ろか寝巻すら着替えていない情けない格好だ。髪もぼさぼさになっ
ていることだろう。せめて部屋に鍵がついていたらいいのに! こ
んな時ばかりはオープンな日本文化をうらむ。
どうしよう!
足音がすぐそばまで迫る。
﹁辰巳﹂
217
あたしは鏡台の上に置かれたスマートフォンへ手を伸ばした。祈
るような気持ちでボタンを押す。
何度でも言わせてもらおう。
辰巳はあたしにはもったいないほど有能な世話役だ。
﹁お待ちください﹂
ワンコールなるかならないか、というタイミングで、辰巳が離れ
に戻ってきたのだ。いつもよりわずかに固い響きの辰巳の声に歓喜
したあたしは、すぐさま電話を切って外に耳を傾けた。
廊下にたちはだかる辰巳のシルエットが障子にうつる。
﹁ここから先はどうぞご遠慮ください﹂
﹁はぁー? せっかく出向いてやってんのに、なにその言い方﹂
初瀬は思いっきり不機嫌そうだ。だが、辰巳の態度は変わらない。
﹁客間にご案内させていただきます﹂
﹁いいって。ね、美月ちゃん﹂
﹁あの、せっかくみなさんが来てくれたのでアキラも呼びにきたん
だけど⋮⋮﹂
﹁はい、後ほどお連れいたします﹂
﹁だからー、今迎えに来てあげてるって言ってんじゃん!﹂
﹁はい。ではお先に皆さまを客間へ﹂
見なくてもわかる。辰巳は物腰こそおだやかだが、きっと表情筋
は一ミリたりとも動いていない。使用人としてどうかと思うほどに
愛想がないのだ。本人にその気はまったくないのだが、人を見下ろ
せる上背とモノクロの衣服とあいまって無愛想さに拍車がかかる。
﹁うっわー、美月ちゃん、ちょっと使用人の教育考えた方がいいよ。
やばいってコイツ。美月ちゃんに対していつもこんななの?﹂
﹁そ、そんなことないです! それに辰巳さんはウチじゃなくてア
218
キラの使用人だから⋮⋮﹂
﹁ああ、主が主なら仕えてるほうも仕えてるほうだね﹂
﹁⋮⋮初瀬様﹂
﹁はいはい皆さま、わざわざこんなところまでどーも御苦労さま!﹂
あたしは障子をわずかにすべらせて声を張った。
本当はこのまま辰巳に任せるつもりだったけど、黙っているのも
限界だった。確かに辰巳は無愛想だが、礼を尽くしている。侮辱は
許せるものではない。
それに、あのままでは辰巳が何を言い出すかわからなかった。
﹁辰巳﹂
名前を呼ぶことで叱責を与えると、辰巳は頭を下げつつ、障子の
あいたところへさりげなくあとずさる。これであたしの姿は完全に
見えなくなった。
﹁朝っぱらからどしたの、姉さん?﹂
﹁アキラ! やっと起きた。先輩たちが遊びに来てくれたの、こっ
ちにおいでよ﹂
﹁それでわざわざ呼びに来てくれたの? やーん、感激!﹂
﹁お前に会いに来たんじゃない、この離れに興味があっただけだよ﹂
﹁初瀬せんぱーい、冷たい∼。それでボロクソ言ってくれたってワ
ケ? これで案外居心地いいのよ、ココ﹂
あたしの嫌味など耳に入らないのだろう、初瀬はつまらなさげに
言った。
﹁茶室か何かかと思ったらふっつーの造りじゃん。なんなの、まる
で小さい家みたい﹂
﹁そりゃそうでしょ、ここはあたしの部屋ですから﹂
﹁は?﹂
﹁部屋ですって?﹂
219
どういうことだ、と言いたげな初瀬と雨宮の様子に、あたしはよ
うやく合点がいった。こいつら、ここがあたしの部屋だと知らずに
来たのだ。
﹁いくらあたしでもいきなり部屋に招待するほど軽くないよ。も∼、
センパイたちってばそんなにあたしに興味ある?﹂
﹁は、え?﹂
戸惑う初瀬に、辰巳はすかさずフォローをいれた。
﹁御無礼お許しください。ですがお客様を、ましてや男性を家人の
私室にご案内するわけにはまいりませんので﹂
﹁え、もしかしてアイツここで暮らしてるの?﹂
﹁あ、そうです。この離れ自体がアキラの部屋なんです。母屋には
あんまり来ないんですよ﹂
﹁ああ、そういうことなの。⋮⋮そうね、そうしたほうが絶対にい
いわね﹂
きっと雨宮はしたり顔をしていることだろう。ええ、そうですよ、
隔離ですよ。
﹁そうか、アキラはここで寝起きしてるのか。女の子の部屋に俺ら
がズカズカ行くわけにはいかないな! 納得したろ、要﹂
﹁うるさいな、正輝は﹂
池ノ内のからかいに、初瀬は気まずそうに引きさがった。
﹁思ったより積極的なんですねぇ、初瀬センパイ。今ちょっとしど
けない感じになってるから、すぐ着替えて行くね! あたしがいな
きゃ始まらないみたいだしぃ﹂
﹁こ、来なくていい!! 恥ずかしいやつだな!﹂
純情そうな返事に、あたしはべっと舌を出す。これくらいからか
ったってバチはあたらない。
まあ、勘違いしても無理はない。
立派な母屋があるのに妹だけ離れで生活しているとは思わないだ
ろう。それが自然になっていたから、美月様もそこまで思いいたら
220
なかったようだ。
﹁ごめんなさい! わたしが軽率に案内したから⋮⋮﹂
﹁ううん、悪いのは私よ。なぜかぽつんとあるこの離れが気になる、
なんて言ったから。理由はもう十二分にわかったわ﹂
﹁いい加減にしないか。すぐ戻ろう。無理を言って申し訳ありませ
んでした。アキラさんに待っている、とお伝えください﹂
﹁承知いたしました﹂
﹁あっ、辰巳さんはアキラをお願いします! 皆さんはわたしが客
間までお連れするから﹂
﹁はい、お願いいたします﹂
雀野がうまくまとめたようで、複数の足音が遠ざかっていく。
ほっとあたしは肩の力をぬき、また布団に倒れ込んだ。
すっと障子がすべり、まぶしい光が筋となって入り込む。
﹁アキラ様﹂
﹁助かったよ、辰巳﹂
倒れたまま手を伸ばすと、辰巳はひざをついてあたしの手をとり、
抱き起こしてくれた。
﹁申し訳ありませんでした﹂
﹁いや﹂
よくやってくれた、とあたしは辰巳の肩をたたく。
﹁今朝、急にあの方々がいらっしゃることになったんです。おかげ
で皆掃除やら仕度に追われ、俺も駆り出されていました﹂
﹁それでいなかったのか﹂
さすがに生徒会役員レベルの子息令嬢たちを迎えるとなっては、
生半可なおもてなしはできないということだろう。
﹁昨日の夜、美月様の携帯電話に雨宮様から遊びのお誘いのメール
があったようで﹂
高校生になってから持つようになったスマートフォンは、最初こ
221
そ扱いに関する厳重な指導が入ったが、美月様はご友人とのメール
の内容も食卓の話題にする隠しごとの出来ない素直な良い子だ。そ
れに早寝早起きなので遅くまで電話やメールに興じるようなマネも
しない。だから管理が甘くなっていたのだが、今回はそれがあだに
なった。
夜に来たメールを今朝がた確認した美月様は、ならばどうぞと雨
宮たちを招待することにしたらしい。当主様は地方の温泉旅館で会
合、水音様もそれに同伴しているので、気にせずおいでくださいと
いうワケだ。おかげで急なお客様の来訪に、白河家はおおわらわ。
﹁迷惑な連中だ⋮⋮。寝ざめ最悪﹂
あたしは立ち上がり、顔を洗おうとひとまず廊下に出た。障子越
しのやわらかい光と違って目に痛い。
﹁それにしてもホントにタイミングばっちりだったね。あやうく大
恥かくところだった﹂
﹁⋮⋮⋮ええ﹂
﹁辰巳?﹂
辰巳はどこか言いにくそうに口ごもった。一瞬のためらいの後、
辰巳は母屋にちらりと視線を投げた。
﹁鷹津様が、教えてくださったんです﹂
﹁げっ! 鷹津まで来てるのか!?﹂
﹁はい。俺が客間の前を通りかかった時、呼びとめられたんです。
他の客人たちは離れへ連れだって行ってしまったが、あそこは誰か
の個人的な場所ではないのか、と﹂
﹁なにそれ。知ってるみたいな口ぶりだな﹂
﹁おかげですぐに駆け付けることができました﹂
﹁ふぅん﹂
辰巳の表情はまったく動いていないが、内心複雑なのがよくわか
る。あたしへの無礼なふるまいから鷹津を嫌っていた辰巳だが、そ
の鷹津にピンチを救われた。
222
﹁そう思うなら止めてくれればいいのにねぇ﹂
﹁おそらくは止める間もなく美月様が率先して動いたんでしょう﹂
﹁こら﹂
﹁失礼しました﹂
とにかく、あたしは土曜日幸せ計画を捨てなければならないよう
だ。ぐずぐずしているとまた美月様が呼びに来てしまう。
﹁よし、一戦まじえてくるか!﹂
﹁お手伝いいたします﹂
あたしは辰巳の協力のもと、十五分でなんとか外に出られる姿と
なった。今日はメイクも髪も服も全部辰巳プロデュースだ。
辰巳を従えて母屋に向かうとちょうど三舟さんとすれ違った。
﹁三舟さん、お客様へお茶は﹂
﹁はい、紅茶の用意をしております﹂
﹁すみませんが、一つミルクティーにしてください。雨宮様分で。
茶葉はおまかせします﹂
﹁かしこまりました﹂
にこりと笑みをうかべ、かすかな足音だけを残して動き回る三舟
さんはまさに使用人の鏡だ。でも辰巳に見習えと言うつもりはない。
﹁辰巳も手伝ってあげて﹂
﹁はい﹂
気合いをいれて目指すのは玄関そばの応接間。美月様のお友達が
くるときは、たいていここが客間がわりとなっている。
﹁おっまたせ∼!!﹂
あたしはノックもせずにちょっと重いドアを押し開いた。
この応接間はあまり広くはない。しかし雑貨が飾られたガラス棚
にレンガの暖炉、毛足の長いカーペットとその空間は居心地がいい。
223
なんとはなしに懐かしい落ち着く匂いがする場所だ。
革張りのソファに思い思いに座った客人が一斉にこちらをふり向
く。制服ではない彼らは新鮮で、少しばかり幼くのびのびしている
ように見えた。
﹁よ! 早かったな﹂
池ノ内は片手をあげてにかっと笑う。
﹁そりゃもう急ぎましたよ。初瀬センパイが待ってるんだから﹂
﹁待ってない!﹂
﹁素直じゃないなぁ∼﹂
﹁本気でウザい﹂
おっと、これ以上怒らせると面倒だ。あたしは一人掛けのソファ
に座っている美月様の傍らに立ち、﹁おはよ﹂と挨拶をする。
﹁アキラ、ご挨拶しなきゃ﹂
﹁はぁい。先ほどは失礼いたしました! お待ちかねのアキラちゃ
んでーす﹂
小首をかしげ頬に人差し指をあててみる。が、反応は鈍い。
﹁さっきは悪かったね﹂
雀野は気遣わしげにあたしに言った。この人はあたしを協力者と
みなしてか、態度を大分変えてきた。少なくともこうして率直に謝
れるくらいには。
﹁いいですよ別に。そーだな、アポとっといてくれれば雀野副会長
なら考えなくもないかも﹂
うふん、と唇と尖らせてみせる。あまり好意的に接してもらって
も困るのだ。あたしは雀野に力を貸してもらっているが、彼に力を
貸すわけではないの。そうそう、だからアンタはそうしてちょっと
眉をひそめているくらいがいいんだよ、副会長。
﹁なら、俺も歓迎してもらえるのかな﹂
224
断られることなど考えていないのだろう。鷹津はまるで家主のよ
うに長い脚を組んで三人掛けのソファに陣取っていた。ちなみに雀
野はその端に小さく座っている。
ブランド物のシャツに黒いパンツというシンプルな姿だが、こい
つは高校生には見えない。幼さとかじゃなく、制服で少しばかり抑
えてられていた傲岸不遜さが全開になっている。
そういえばコイツもいたんだよな、なんて。嘘です、入った瞬間
見えてました、でもあえて見ないようにしていました。
﹁会長はどーしよっかなァ。どう思います、雨宮先輩?﹂
適当にごまかそうと雨宮に話をふると、彼女はあたしを無視して
鷹津に言った。
﹁鷹津くん、趣味が悪いわ﹂
﹁そうかな﹂
鷹津は楽しげだ。なのにこっちを向いている視線にはあたしを咎
めるようなトゲが生えている気がして落ち着かない。
コンコンコン、とノックの音がしたあとに、三舟さんがティーセ
ットを手に入ってきた。後に続く辰巳が人数分のケーキを運ぶ。
﹁あら﹂
雨宮がぱっと頬を染めた。自分の前だけに出されたミルクティー
に気付いたのだ。
﹁美月さん、覚えていてくれたのね。うれしい﹂
いただきます、と真っ先にカップに口を付けた雨宮は女神もかく
や、という美しい微笑みをうかべた。
﹁前お会いした美月さん付きの方よね。とってもおいしいです﹂
﹁うん、こっちはオレンジペコーだね。いい香り。やっぱり従者の
力量っていうのは主に左右されるよねー﹂
雨宮と初瀬の賞讃に三舟さんは軽く会釈をすると、するすると壁
際に下がった。ちゃんとわかっている三舟さんは何も言わない。
225
セットを整えた辰巳も無言であたしの背後に控える。今はしっか
り自制して心にも完全な鉄仮面をかぶっているようだ。
﹁三舟さんはお料理もお茶を淹れるのも上手なんです! でも辰巳
さんも負けないくらい上手なんですよ! それに辰巳さんが用意し
てくれたこのチョコレートケーキ、わたしの大好きなカメノ屋のな
んです﹂
悪意というものを持たないが故に気付かない美月様だが、今回は
矛先が自分ではなく辰巳だったためかフォローするような心やさし
いお言葉があふれる。それに反応したのは池ノ内だった。
﹁辰巳さんって、例のアキラの弁当作ってる人だよな。男性だった
のか! アキラのお相伴にあずかったことあるんスけど、すごくお
いしかったです! ごちそうさまです!﹂
池ノ内はスポーツマンらしい率直さで御礼を言った。さすがの辰
巳も少しばかりたじろいだようだが、一切そんな様子は見せずに軽
く頭を下げる。辰巳さえ動揺させるとは、やはり池ノ内恐るべし。
﹁辰巳さん、俺から言うことじゃないと思うんだけど、アキラって
すごい頑固ですよね﹂
﹁⋮⋮は﹂
﹁コイツね、絶対俺らとお茶飲まないんスよ﹂
ビクリと三舟さんの肩がはねた。
習慣とは恐ろしい、母屋においてあたしへお茶がふるまわれるこ
とはほぼ無い。あたしが自分の立場を忘れないようにと、使用人た
ちはあたしへの過剰な奉仕を止められている。逆らうと待っている
のは敬吾さんによる教育的指導だ。
それは今回だって例外ではない。それに、あたしとて長居する気
はなかった。少しだけ顔だして茶化して怒らせて、後は三舟さんに
任せて離れに帰ろうと思っていたのだ。
﹁アキラ、せめて椅子もってこいよ。俺の隣座ったっていいんだけ
226
ど⋮⋮﹂
池ノ内と初瀬も三人掛けソファに座っているので、池ノ内の隣は
初瀬のすぐそばということになる。
﹁やめろよ、絶対やだ!﹂
﹁要がこんなんだからな﹂
﹁あー、そう、だね。辰巳﹂
﹁はい﹂
辰巳はすぐさま動き、別室へ椅子を取りに動いてくれる。そして
お茶を淹れるため三舟さんが足早に部屋を出ようとすると、池ノ内
はそれに待ったをかけた。
﹁あ、俺いいもん持ってきてるんで! アキラ、お前におみやげ﹂
﹁え?﹂
立ち上がった池ノ内がエナメルのスポーツバックからとりだした
のは、保冷バック。さらにその中には薄茶色の瓶が入っている。
﹁これ、最近東南アジアから進出してきたマメ専門店の豆乳なんだ
よ。濃いのにマメ臭くないしほんのり甘いんだぜー。超おすすめ!
これならお前も飲めるだろ﹂ ﹁正輝、ばっかじゃないの。荷物大きいと思ってたらそんなモン入
れてたなんて信じられない﹂
わざわざ近寄ってきて瓶を誇らしげにつきつける池ノ内に、初瀬
は心底呆れた、とため息をついた。
﹁なんだよ、要。豆乳バカにすんなよ﹂
﹁バカにしてるのは正輝だって﹂
﹁なんでもいいけど、ほらアキラ﹂
﹁⋮⋮ありがと﹂
他にどういえばいいのか。池ノ内には本気で調子を狂わされる。
﹁あとなー、豆乳でできたケーキもあるんだよ。白河分のおみやげ
はもう渡してあるから、これ全部アキラのだぞ﹂
﹁ど、どうも﹂
﹁うん﹂
227
椅子を手に戻ってきた辰巳は、あたしと池ノ内、そして瓶へと順
番に目を動かしている。
﹁今すぐ感想聞きたいんスよー。グラスと皿用意してもらえません
か。そういうワケだからアキラ、お前今回紅茶とカメノ屋のケーキ
無しな! こっち食べろよ。これ、先輩命令だからな﹂
﹁は、はい﹂
﹁いっぱい食べろよ!﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁お預かりいたします。すぐご用意を﹂
真っ先に立ち直った三舟さんは、池ノ内から瓶とケーキの箱を受
け取って今度こそ応接間を出て行った。
﹁椅子も来たことだし座れよ。今日は学校じゃないんだし、いいだ
ろ﹂
あたしはうながされるままに椅子に座り、うんうんと満足げに笑
う池ノ内を見上げた。
ああ、これで強制的にここに残らざるを得なくなってしまった。
228
悪魔と紅茶と来訪者︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
お返事が滞っていて申し訳ありません。どれも大変うれしく、楽し
く読ませていただいております。
229
悪魔の宣言
昼前とあって少し小さめにカットされたチョコレートケーキは、
味にうるさい彼らの舌にも好評なようだ。
﹁さすが美月ちゃんのオススメだね、おいしいよ!﹂
﹁お口にあってよかったぁ。このお店チーズケーキもとってもおい
しいんですよ﹂
美月様をまぶしげに見つめる雀野は、自分もケーキに手をつけつ
つ話に参加する。
﹁白河さんはチョコが好き? 洋菓子派かな﹂
﹁はい! 断然洋菓子で、生クリームも捨てがたいけどチョコの魅
力には敵いませんっ﹂
﹁⋮⋮そうなんだ﹂
一呼吸おいてから返事する雀野。こいつもあなたの笑顔には敵わ
ないみたいですよ、美月様。
﹁なら、今度から生徒会室にもチョコレートのお菓子を用意しまし
ょう。休憩がてらつまむのもいいじゃない?﹂
﹁わっ、雨宮先輩、すっごくいい考えだと思います!﹂
雨宮はハンカチで口元をおさえながら目を細めている。かわいく
てたまらない、そんな表情だ。
﹁おいアキラ、ちゃんと食べろよ。早く!﹂
わきあいあいと過ごす一同の横、池ノ内の声であたしは意識を目
の前のシフォンケーキに戻した。
今や池ノ内はもう一脚用意した別の椅子に座って、あたしが食べ
230
るのを隣で待ちかまえていた。ちなみに自分のケーキはすでに完食
している。
﹁はいはい、今食べるって﹂
落ち着きのない弟をなだめるのってこんな感じかしら。
皿に乗った薄黄色のシフォンケーキは、ちょっと変わっていた。
フォークで切ってみると弾力があり、キメも荒目。豆乳のケーキと
言っていたが、なにか秘密があるのだろうか。がぜん興味がわいて
きて、そえられた豆乳のクリームにつけて口に入れる。
するとケーキで味わったことのないもっちりとした食感と優しい
甘みが広がった。キメが荒いからパサパサするかと思ったのに、不
思議としっとりとした味わいだ。
﹁なにこれ。おもしろい﹂
﹁だろー? 何が入ってると思う?﹂
あたしの驚いた顔に、池ノ内はより笑みを深くした。
﹁ケーキってあんまり食べないからわかんない。豆乳いれるとこう
なるの?﹂
﹁あれ、アキラは白河と違って和菓子派だったりする?﹂
﹁まあ、どっちかって言えば。ね、なにこれ。辰巳、なんだと思う
? ケーキなのにもっちりしてるの。それにしっとり﹂
﹁もっちり⋮⋮。米粉、でしょうか﹂
﹁おお、正解!﹂
﹁ふぅん﹂
正解を聞いたところでよくわかっていないあたしは、一口、また
一口とケーキを食べる。すこしボリュームがあるが、朝ごはんを食
べのがした身にはちょうどいい。味も主張が激しくなくて飽きが来
ない、実にあたし好みだ。
﹁おいしい!﹂
﹁よしよし、用意したかいがあった。次は豆乳のほうな﹂
弟かと思えば兄のように世話を焼き、グラスを差し出してくる池
231
ノ内。おいしいものに完全に釣られているあたしは素直に受け取り、
グラスを傾けた。そしてまたもや驚かされる。
おいしい!
甘さが舌にとろっとのって、でも気付くとさらりと喉の奥に去っ
ていく。池ノ内の言うようにマメ臭さもない。
﹁どうだ、感想は?﹂
﹁こっちもおいしい!﹂
﹁そうだろそうだろ。お前が豆乳好きだって言うから探したんだ﹂
恩着せがましいセリフだが、池ノ内の人徳か嫌味には聞こえない。
ついつい口から出かかったありがとう、をなんとか抑え、あたしは
﹁そりゃどーも﹂とだけ返事した。
もの言いたげな辰巳には、後で説明するからと目配せをする。
確かにあたしは、以前何が好きかと聞かれて豆乳と答えた。だが
それは校内見回りの際によく飲むから思いついただけで、家で飲ん
だことは一度もない。辰巳がいぶかしむのも当然だろう。
しかし、そんなポロっと言ったことを池ノ内はよく覚えていたも
のだ。
﹁気に入ったんならまた買ってきて、生徒会用の冷蔵庫に入れとい
てやるからな。お前は紅茶じゃなくてそれを飲めよ﹂
﹁そんなことしないでいい!﹂
反射的に素で口にしてしまった拒絶に、あたしはあわててつけた
した。
﹁あたし飽きっぽいからぁ。この味はもーいらない﹂
﹁わかった、じゃあ別のを用意してやる。これはノーマルだけど、
抹茶風味とかもあるから﹂
﹁や、そうじゃなくって!﹂
﹁一通り試して気に入ったのあったら言えよ。ケーキもまだ種類あ
るし﹂
どういう思考回路してんだ!? あたしはあわてて首をふるが、
232
なぜか池ノ内は止まらない。なんで楽しそうなの、この人!?
﹁池ノ内、アキラが困っているだろう﹂
これぞ本物の兄気質か。鷹津はたしなめるように、静かに言った。
﹁鷹津会長、だってこうでもしないとアキラ絶対俺らと休憩しませ
んよ﹂
池ノ内の訴えに、雨宮はほそい眉をひそめる。
﹁そうじゃなくたっていつでもダラダラしてるじゃない。甘やかし
すぎよ﹂
﹁でも生徒会補佐の補佐っスよー。白河のチョコは用意しといてコ
イツに何もないんじゃおかしいでしょ﹂
なあ! とあたしに同意を求められても困る。
﹁や、そういう気遣い要らない﹂
﹁でもお前和菓子派なんだろ﹂
﹁池ノ内先輩ってばどんだけあたしに餌付けしたいの? そこまで
してくれなくていいですよぉ! 嬉しいけど、あたしそこまでワガ
ママじゃないっていうかぁ﹂
﹁さっき自分が何を言ったかわかっているのかしら。こんな役立た
ずのためにわざわざ飲みものもお菓子も用意するなんて反対だわ。
冷蔵庫や水回りの設備費だって生徒会予算から出てるのよ?﹂
雨宮は眼鏡を光らせ、語気するごく言いきった。
﹁雨宮、何もそこまで⋮⋮﹂
﹁雀野くんは気にしないみたいだけど、私はまだあの子を補佐の補
佐なんて認めてないから﹂
かたくなな雨宮に、雀野は小さくため息をついている。雨宮に初
瀬に池ノ内、よくもまあここまで個性派ぞろいの連中を率いてこれ
たものだ。少しばかり同情してしまう。
ぱん!
乾いた音が部屋に響く。鷹津はたたいた手を大きく広げて言った。
233
﹁わかったわかった。雨宮の不満は、アキラを補佐の補佐に認めた
俺の責任だからな。アキラの分はちゃんと俺が自腹で用意してやる
から、もう文句をつけるな﹂
﹁はあ!?﹂
﹁鷹津くん!﹂
聞き返してしまったのはあたしだけではない。雨宮は間髪いれず
にかみついた。
﹁そこまでしたら余計付け上がるわよ! だからやめなさいって私
は⋮⋮﹂
﹁倹約もいいがケチは嫌われるぞ。いいじゃないか、後輩をかわい
がるのは先輩の務めだ。多少の飴もなくてはアキラもやる気がでな
いだろう﹂
﹁いやいやいや! 会長おかしいって!﹂
初瀬もつっこむがそこは鷹津だ、聞く耳など持っていない。雀野
はよりため息を深めただけだ。諦めているのだろう。
だがあたしはそうはいかない。
﹁会長、そういうの逆に迷惑だからいいって。池ノ内先輩も。あた
しいっつも自分の好きなもの飲んで食べてるじゃん。それでいいの、
人と合わせるの嫌いなの﹂
だいたい、なんであたしのオヤツ事情で険悪になっているのか。
﹁皆様が何食べてようが飲んでようが構わないからさ。気にせずほ
っといてよ﹂
﹁アキラ、いい加減にしろ﹂
﹁はい?﹂
やれやれ、と鷹津はわざとらしくため息をついてこめかみに長い
指を添えた。
﹁池ノ内も言ったが、お前は頑固だな。それで美月さんがどれだけ
心を痛めているのかわからないのか﹂
﹁ね、ねえさん?﹂
234
いきなりお説教に入ったかと思えば、出てきたのは姉の名前だっ
た。美月様は困り顔で﹁篤仁先輩、言わないでって言ったじゃない
ですか﹂と小声で鷹津に訴えている。
﹁いや、こういう分からず屋にはハッキリ言った方がいいんです。
いいか、アキラ。美月さんはお前が名ばかりの役職で生徒会室にい
ることに負い目があるから一緒にお茶しないのではないか、と心配
しているんだぞ﹂
﹁負い目? 心配?﹂
説明を求めて美月様をじっと見つめる。すると大きな目を伏せて
美月様はおずおずと言った。
﹁仕事してる生徒会の先輩たちに遠慮しているのかなと思ったの。
だからお茶も飲まないで静かにじっとしているのかなって⋮⋮。わ
たしが無理につき合わせているばっかりに﹂
﹁そんなことないよ! 姉さんは悪くない﹂
﹁でも、アキラはいつも一人でぽつんとしているし⋮⋮﹂
ぐう。
だって、それはやることないから。
生徒会の連中に遠慮なんてするはずない。いくらでも傍若無人に
ふるまえる。
あたしはただ、美月様と同じものを同じ席でいただく、というこ
とに抵抗があるだけだ。心の根っこに、美月様たちとあたしはまっ
たく別の世界の人間だという意識があるからだろう。お弁当ならい
い、あれは辰巳があたしのために用意してくれたものだから。でも
それ以外となると落ち着かなくなる。
しかしそれが美月様にいらぬ心配をかけていたとは。
﹁そこで俺が相談を受けた﹂
鷹津は黙り込むあたしにニッと笑った。
﹁アキラの気持ちもわかる。現に雨宮はああ考えているわけだし、
235
お前はまだ補佐の補佐としての立場を確立していない。ゆうゆうと
お茶を楽しむ余裕がないのだろう﹂
﹁飴くわえてだらだらする余裕はあるみたいだけど﹂
﹁雨宮。だからこれからはお前にも認めてもらえるよう一層励んで
もらおうというんじゃないか。アキラもお前たちももっと歩み寄る
必要がある。その第一歩だ。いいか、これからは俺たちと一緒に休
憩すること。そしてその時のアキラの分の用意は俺がする。別メニ
ューだ﹂
﹁⋮⋮だから、そこまでしてもらわなくても﹂
﹁勘違いするな。お前のはみんなよりワンランク下のものだ﹂
鷹津は指をぴっと突き出す。
その提案に初瀬はおや、とおもしろそうに片眉をあげた。雀野は
どこかいぶかしげだが、雨宮も今はおとなしく鷹津の話を聞いてい
る。
﹁お前はいわば見習い期間中だ。だが今後の働きに期待することに
して美月さんの優しい気持ちをくもうじゃないか。共に食べるとい
う行為は信頼関係を築くには有効な手段だ。わだかまりをなくし、
はやく同じ席につけるよう頑張ってくれ。これでどうだ、池ノ内﹂
﹁えー、俺が用意してやりたかったんスけど。食わせようと思った
もののリストも作ったし﹂
﹁お前がみつくろったものを俺が用意しよう。来週からだ、全員わ
かったな?﹂
この決定には従ってもらう、と鷹津は眼光鋭く全員を見渡した。
﹁そうだな、オレたちと別っていうならいいかも。そういう区別っ
て必要じゃない?﹂
﹁美月さんが辛い思いをするのはいやだわ﹂
﹁⋮⋮僕も異論はないよ﹂
﹁アキラ、この際だから好きなモン言えよ。ランク下とかいっても
絶対うまいの探してくるから﹂
236
各々好き勝手言ってくれる。
あたしは豆乳片手に何も言えない。
だって、美月様がじっとこっち見てるんだもん。不安と期待の混
じった目なんだもん。
﹁嬉しい⋮⋮。みんなでお茶会とか団結力アップみたいな!? そ
してあたしがより生徒会のマスコットとして輝いてくってワケね!
! 姉さんごめんね、あたし頑張る!! みててよー雨宮先輩! すぐにでもあたしがいなきゃダメって言わせてやるわ!!﹂
こうなりゃヤケだ。
あたしは豆乳を掲げ高らかと宣言したのだった。
237
悪魔の宣言︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
238
天使の花束、悪魔の花束
﹁よかった。アキラがやる気になってくれて﹂
美月様は紅茶のカップを手にほっと表情をゆるめた。
﹁いっしょに頑張ろうね﹂
﹁うん、パソコンも事務処理もできないけど、やれることやるよ!﹂
握りこぶしを突き出して見せたが、心の中でしっかり付け加える。
でもやれることがないんだから仕方ないよね。意気込みも言うだけ
は簡単、それで美月様の気持ちがほぐれるならたやすいことだ。
﹁先輩たちも助けてくださいネっ!﹂
あからさまに﹁いやです﹂と言いたげな雨宮だが、美月様の喜び
に水を差すようなまねは控えてくれている。やれやれ、来週からが
怖い。
﹁あ、そうだ! 見習いの主張とかやる気とかはどーでもいいよ、
オレいいもの持ってきたんだ﹂
実際どうでもいいが、人から言われると複雑だ。そんなあたしの
気持ちなど無視し、初瀬は楽しそうに薄い冊子を取り出した。
﹁この前大道芸見に行ったときの写真! 現像して持ってきたんだ﹂
﹁おっ、どれどれ﹂
身を乗り出した池ノ内につられ、あたしも初瀬の手元に控えめに
首を伸ばす。
さすがカメラマン初瀬、見事な演技をみせる芸人ではなく、美月
様のはしゃいでいる姿、驚いている瞬間、満面の笑み、ベストショ
ットがいくつも並んでいた。隣に写る雨宮は明らかに芸人のパフォ
239
ーマンスではなく美月様へと熱視線を注いでいる。そして当然のよ
うに池ノ内の姿は見切れていた。
﹁よく撮れてるじゃない。ねえ初瀬くん、私もほしいわ﹂
﹁そう言うと思ってちゃんと焼き増ししときましたよ﹂
﹁おい要、お前へただな! 俺がまともに写ってるのひとつもない
ぞ﹂
﹁もとから撮ってないよ、当たり前だろ﹂
﹁なんだよー、もー﹂
池ノ内のふくれっ面に笑った美月様は、細い指を一枚の写真に添
えた。
﹁楽しかったですよね! 私、このときもらった花束、部屋に飾っ
てるんです﹂
﹁ええ? まだ枯れてないの?﹂
もう一か月近く前のことなのに、とあたしが驚いて聞き返すと、
美月様はきゃらきゃらと笑い声をあげた。
﹁やだ、アキラ! あれは造花だよ。枯れないよ﹂
﹁ああ、なんだ、そうか﹂
バカだな、と呆れた視線が二対ほど突き刺さるが気にしない。だ
って偽物って知らなかったんだもん。あたしは再び写真を眺めた。
埋もれてしまいそうなほど大きな花束を受け取った美月様と、そ
の前にひざまずく道化。これから物語でも始まりそうな、幻想的な
絵姿だった。
時間をかけて写真を見ていた雀野は、ようやく顔をあげて言った。
﹁ずいぶん楽しかったんだね﹂
﹁とっても感動しました! 雀野先輩と一緒に見たかった﹂
率直な美月様に、雀野は照れたように笑った。
そういえば、雀野はいったい何をしていたのだろう。
240
あたしはあの大道芸フェスティバルの日に会場で雀野を目撃して
いる。あの時の雀野の様子はとてもじゃないがお祭りを楽しんでい
るふうではなかった。
いったい何の目的があったのか︱︱︱︱︱︱。
﹁俺にも写真を見せてくれ﹂
﹁はい、どうぞ! 今度は篤仁先輩も雀野先輩もみんなそろって出
かけたいですね﹂
鷹津の差し出した手に、美月様はさっとアルバムを渡した。その
隙に、と初瀬が美月様との距離をつめる。
﹁みんなでっていうのもいいけど、オレとしては美月ちゃんと二人
でデートしてみたいなぁ﹂
﹁えっ﹂
初瀬はキラキラと無駄に輝き放つキメ顔で戸惑う美月様を見つめ
ている。
はい、初瀬アウト!
あたしは素早く二人の間に割り込んだ。
﹁デートだったらあたしとしません? ちょうど行きたいところあ
ってー﹂
﹁見習い補佐補佐は黙っててよ!﹂
とたんに不機嫌になる初瀬だったが、
﹁初瀬くん? そういった件なら私も黙ってないわよ﹂
と斬りつけた雨宮の冷ややかな殺気に、彼は小さく身を縮めた。
鷹津は一通りページをめくると、美月様ににこりと微笑んだ。
﹁実に楽しそうだ。何か機会があればぜひ俺も参加したいね﹂
﹁はい、ぜひ! み、みんなで行きましょうね﹂
ぽっと頬を染める美月様は愛らしい。鷹津まで妙なことを言い出
したらどうしてくれよう、と思ったが、美月様が先手を打ってくれ
るとは。それが恥ずかしさと期待の裏返しではないと祈ろう。
241
﹁ところで、アキラが写っていないな﹂
﹁ああ、見習いは別の場所にいたんですよ﹂
いたとしても撮らないけど、と余計なことを加えながら初瀬は説
明した。
﹁どうだ、楽しかったか?﹂
﹁え? ああ、まあ楽しめたけど。ね、辰巳﹂
不意に話をふられ、あたしは辰巳を振り返ることで鷹津の視線か
ら逃れた。
﹁そうだ、辰巳さんもアキラと見てたんだよね! どうだった?﹂
﹁はい、思いがけず楽しい体験をさせていただきました﹂
美月様にそう返す辰巳の石のような瞳に、一瞬だけ奇妙な色が映
った。きっとこの部屋で気づいたのはあたしだけだ。
どうしたのか、とこっそり問う前に、鷹津があたしをまた呼んだ。
﹁アキラは何かもらわなかったのか﹂
﹁もらう?﹂
﹁美月さんは花束を受け取っているんだろう﹂
﹁ああ、そういうこと。あたしは残念ながら何も﹂
﹁ほお?﹂
鷹津は足を組み換え、その膝に肘を置いて顎を支えた。どこかお
もしろがっているようだ。
﹁パフォーマーの目には留まらなかった、ということか﹂
﹁まぁ舞台映えって点じゃ姉さんには負けるかなぁ。それにあたし
がいたのはお店の二階のテラスだし⋮⋮。って、あ﹂
ふと脳裏によみがえったのは宙を舞った小さめの花束。
﹁思い出した。あたしも花をもらったんだ﹂
たしかアレは造花ではなく生花だった。だからさっきの美月様の
言葉に違和感を覚えたのだ。
242
﹁そうなの!? 気づかなかったよ﹂
﹁うん、姉さんに最初フェイントかけたヤツ。ちょうどあたしのト
コに落ちてきたんだよ﹂
﹁よかったね! ラッキーだね、アキラ!﹂
自分のことのようにはしゃぐ美月様。自分はもっと大きなものを
もらっているはずなのに、こうして一緒に喜んでくれるのはなんだ
かうれしい。
﹁そのお花どうしたの? アキラも飾ってるの?﹂
﹁ううん、あげちゃった﹂
あたしは軽く笑って首を振る。
﹁⋮⋮あげただと?﹂
激情をおさえつけるような低い声に、背筋がぞくっと震えた。そ
れはその場にいた全員が感じ取ったようで、一様にぎこちなく首を
動かして声の主へと目を向ける。
﹁⋮⋮あ、篤仁先輩?﹂
さすがの美月様も鷹津のただならぬ態度に驚いたのか、小さな声
で呼びかけた。すごいよ美月様、誰も動けないこの状況下で勇者す
ぎる!
こく、とのどが動く。
そして次の瞬間。
﹁なんだ、せっかくもらったものをあげてしまったのか。誰にだ?﹂
あれ? 今何が起こったの? そう言いたくなるくらい、鷹津はころりと明るい笑顔を見せた。
雨宮も初瀬も池ノ内も、昼間の幽霊を見たような顔で目をぱちぱ
ちとしばたいている。
﹁アキラ? 誰にあげたんだ﹂
﹁見物場所を借りていたお店の方にお礼として差し上げました﹂
243
﹁た、辰巳?﹂
繰り返された問いかけに、あたしの代わりに辰巳が返事をした。
珍しい、こういう場で辰巳がでしゃばるなんて。
辰巳はぶしつけなほどまっすぐに鷹津を見据えていた。
それでも固まっていたあたしには救いの手に違いない。
﹁えーと、そう。お店のおばちゃんにあげた﹂
﹁そうか。アキラは花より団子か﹂
﹁え∼、あたしだって花くらい愛でますよお∼!!﹂
﹁へえ? 本当かな、美月さん﹂
﹁ふふっ、アキラってば。お部屋にお花なんて飾ったこともないじ
ゃない﹂
﹁やだ、姉さん、しーっ﹂
あたしは無理にテンションをあげ、おおげさなリアクションをし
てみせた。そうでないとまたあの重圧感が襲ってきそうで怖かった。
うまいこと姉さんがのってくれてよかった。すると雨宮も初瀬も、
﹁見た目通りね﹂﹁見習いなんかに花がわかってたまるか﹂と便乗
してくれる。
﹁も∼、みんなしてひど∼い。なんとか言ってやってくださいよ雀
野先輩⋮⋮。雀野先輩?﹂
あたしが雀野を見やると、彼は身をかがめてぶるぶると震えてい
た。まるで発作かひきつけでも起こしたかのようだ。
﹁雀野先輩!? 大丈夫ですか!?﹂
美月様がすかさず駆け寄り肩に手を添えようとすると、雀野は震
える手でそれを断った。
﹁あ、ああ、大丈夫だよ﹂
﹁でも顔も赤くなってるし、辛そうです! 具合悪いんですか﹂
﹁いや、そんなことは⋮⋮﹂
美月様の言うとおり雀野は白皙の貌を赤くして、唇をかみしめて
244
いる。これで元気だというほうが間違っている。
﹁どうしたミツ。何かあったのか﹂
﹁ああ、篤仁。何もないよ。何も﹂
雀野はぐっと両手で額をおさえると、ふっきるようにして顔を上
げた。すると幾分顔色は戻り、震えもおさまっている。
﹁ごめんね、もう大丈夫だから﹂
﹁本当ですか?﹂
﹁うん。そうだ白河さん、よかったらその花束見せてくれないか。
あれだけ大きなものだと本物はさぞ見栄えするだろう﹂
﹁あ、俺も見たい。なんなら活けなおしてあげるよ﹂
初瀬はぱっと手を挙げた。
﹁おお、さすが華道家元の息子。造花でもできるのか?﹂
池ノ内のからかいまじりの賞賛に、初瀬は自信満々に言った。
﹁生花が一番に決まってるけど、形整えるくらいなら問題ないよ﹂
﹁わあっ、初瀬先輩にやってもらえるなんて嬉しい! すぐ持って
きます。雀野先輩、また気分が悪くなったらすぐに言ってください
ね﹂
﹁ありがとう﹂
美月様は雀野に念を押すと、三船さんを連れてパタパタと自室に
向かった。それを見送る彼の笑みのなんと甘いことか! 砂糖吐き
そう。
それをとがめるわけではないだろうが、雨宮は雀野の視線を美月
様からそらさせる。
﹁ねえ雀野くん、本当に平気なの?﹂
﹁ちょっとむせただけだよ﹂
﹁ならいいけど﹂
雀野は心配する雨宮にも同じことしか言わない。
鷹津といい雀野といい、何があったというのか。
245
その後、ちゃらけた初瀬の意外な真剣な横顔を拝見しつつ華道の
腕前を披露してもらったり、カードゲームをしたりと和やかに時間
は過ぎていった。あれから鷹津も雀野も特に変わったところはない。
美月様はしかたないとしても、池ノ内がやたらとあたしを同席さ
せたがったのが一番厄介だった。昼食まで一緒にとることになり、
あたしは気が気でなくてろくに手を付けることができなかった。
白河家のもてなしを満喫した彼らは、食後のお茶を優雅に楽しむ
とようやく帰宅の途についた。
長かった。本当に長かった。
たった数時間ぶりだというのに、この離れが懐かしい。
あたしは玄関口まで見送った美月様と別れると、作り笑いでひき
つる顔をほぐしながら一目散に離れに逃げ帰った。
畳の上に勢いよく寝転がる。
﹁あ∼、疲れた!!﹂
﹁お疲れ様でした、アキラ様﹂
﹁辰巳∼!! ホントに疲れた! おなかすいた!﹂
ここに戻ってきてからようやく緊張が解けたのか、あたしのおな
かはくう、と鳴く。
辰巳も鉄仮面をはずして数ミリだけ口角をあげた。
﹁早めですがお茶にしましょう。今度はゆっくりいただきましょう
ね﹂
﹁うん、食べる﹂
﹁アキラ様のお好きな豆乳の用意はございませんが⋮⋮﹂
﹁あ、拗ねてる﹂
あたしは寝転がったまま、すぐそばに正座した辰巳の膝に顎をの
せた。
﹁あたしの好みは辰巳が誰より知ってるはずでしょ﹂
﹁ええ、もちろんです。ですから少しばかり驚いております﹂
﹁学校でよく飲んでるってだけだよ﹂
246
﹁⋮⋮今日は葛餅をご用意しました。それと、ちょっとだけいただ
いたケーキを切りましょうか。お昼はあまり入らなかったようです
から﹂
葛餅!!
現金なもので、あたしは自分の目がきらっと輝いているのを自覚
していた。
﹁さっすが辰巳! やっぱり一番よくわかってる!﹂
あたしの幸せな土曜日がようやく始まろうとしていた。
あたしが辰巳と二人だけの心安らぐお茶会を開いていると、ブブ
ブブブ、と何かの振動音が不意に鳴った。
﹁ん? 何?﹂
﹁アキラ様のスマートフォンのようです﹂
辰巳が長い手を伸ばして鏡台の上にあったあたしのスマートフォ
ンをとってくれる。
まさか敬吾さんからか、と身構えたが、画面にでているのは知ら
ない番号だった。
﹁誰だろう。登録してない電話番号からなんかかかってきたことな
いのに﹂
あたしのスマートフォンには鳳雛学園の生徒たちの個人情報はび
っしり入っているが、アドレス帳自体は悲しいほど件数が少ない。
基本的には敬吾さんや辰巳としか使わない業務用だ。あたしのスマ
ートフォンは休日になるとパタリと動かなくなるはずなのだが。
﹁ですが岩土さんも出先ですし、別の電話からかけている可能性も
⋮⋮﹂
たしかに、敬吾さんだった場合、無視した後が怖い。
あたしは仕方なく電話をとる。
﹁もしもし﹂
247
とりあえず名前を告げずに無難にあいさつすると、電話口の向こ
うから破裂音が聞こえてきた。
﹃ぷっ! ふ、く、くふふふふふ!﹄
﹁⋮⋮⋮変態﹂
あたしは耳に近づけていたスマートフォンを取り落した。それを
辰巳がすぐさま拾い上げる。異様な声は辰巳の耳にも届いていたよ
うだ。
﹁二度とかけるな、次はない﹂
ドスを利かせて低く咆えた辰巳は、握りつぶす勢いで通話を切ろ
うとした。が、しかし。
﹃ああっ、すみません、切らないでください! 雀野と申します!﹄
﹁はあ? 雀野?﹂
スピーカーから漏れ聞こえる小さな声は、確かに雀野のものだっ
た。
あたしは警戒態勢の辰巳をなだめつつスマートフォンを再び耳に
あてた。
﹁雀野先輩? 本物?﹂
﹃そうだ、すまない! たえられなくて、つい笑ってしまったんだ。
もう、ほんとに、君ってなんて、おもしろ、ぷっ、あっははははは
は!!﹄
﹁⋮⋮もしもーし﹂
なんのスイッチが入ったのか、雀野は大爆笑中だ。確かにレアだ
ろうが、こんなのを聞かせたいがためにわざわざ電話してきたのか?
﹁用がないなら切るけど﹂
﹃や、用ならあるんだ! 伝えておきたくて⋮⋮ひィ、ちょっと待
って﹄
雀野は息も絶え絶えに深呼吸を繰り返した。
﹃ああ、落ち着いてきた﹄
248
﹁そりゃよかった﹂
しかしこっちは良くない。辰巳は若干据わった目で、スマートフ
ォンを指さしている。今すぐ切れ、と言っているのだ。
﹁先輩の変態チックな電話のせいで、あたしの世話役が不審がって
るんだわ。スピーカーに切り替えて聞かせてもいい?﹂
﹃構わないよ。辰巳さんといったね? 彼にも聞いておいてほしい
からちょうどいい﹄
スマートフォンを座卓の中央にのせると、辰巳はじっとそれを睨
み付けた。とりあえず口をはさむつもりはないようだ。
﹃いきなり悪かった。どうしても伝えたいことがあって、白河さん
に君の番号を聞いたんだ﹄
﹁姉さんから?﹂
﹃ああ、雨宮たちに知られると面倒だから、メールでこっそりね﹄
辰巳はひくっとわずかに眉を動かした。おおかた勝手に番号を教
えた美月様に対する恨み言だ。しかたない、言いたいことは後で聞
こう。
﹁で? そこまでして何を伝えたいって﹂
﹃お礼さ﹄
﹁お礼?﹂
﹃あんな篤仁を見るのは初めてだった! 当然だろうね、あそこま
でないがしろにされたのが初めてだろうから!﹄
﹁ないがしろ? 何の話?﹂
﹃君の話だよ!﹄
さっぱりわからない。あたしが目で辰巳に問いかけると、辰巳は
なぜかまた眉を動かした。今度は不満の表現じゃない。何か勘付く
ところがあったのだ。
言葉の切れ目で笑いをこらえながら雀野は続けた。
﹃そこにいる辰巳さんはわかってるんじゃないかな﹄
﹁なにそれ。ちゃんと説明してよ﹂
249
雀野と辰巳の二人に対していうと、雀野はふうっと大きく息をつ
いてからようやく言った。
﹃君にあの花束を差し出した道化、あれは誰だと思う?﹄
250
天使の花束、悪魔の花束︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
251
悪魔と根暗雀のおしゃべり
コンコンコン、と性急なノックの音が静かな廊下に響く。美月様
のお部屋は母屋の三階だ。
﹁はーい! どうぞ﹂
﹁姉さん、入るね﹂
﹁あれ、アキラ? 珍しいね!﹂
美月様の部屋は当然ながら洋風で、ちょっとした天蓋付のベッド
やパステルカラーでまとめられた調度品が置かれている。主と同じ
くかわいらしい印象だ。
美月様は机にむかい、初瀬からもらったアルバムを眺めていると
ころだった。ちょうどよかった、あたしもそれに用がある。
﹁ねー、あたしもそのアルバムもう一回みたいな﹂
﹁これ? いいよ! また行きたいね、今度はサーカスでも来ない
かなぁ﹂
自分が見ていたというのに、美月様は快くアルバムを貸してくれ
る。あたしはそれを受け取ると、バラバラとページをめくって例の
写真を探した。
美月様の前でひざまずく道化。
彼の鼻筋はきれいに通り、形のよい唇は厚めでセクシーだ。しゃ
がんでいてもわかるそのスタイルの良さ、そして艶のある黒髪。
まったく気づかなかった。
さっきまで間近で見ていたというのに!
﹁御曹司があんなマネするなんて⋮⋮﹂
252
﹁え?﹂
こぼれたあたしの呟きに美月様は聞き返したが、答えるつもりは
ない。普通なら呆れかえるか眉をひそめる行為だが、美月様はきっ
と真正面から感激しスゴイスゴイと褒めるだろう。こんなところで
奴の株をあげることはない。
﹁ありがとう、姉さん﹂
﹁もういいの?﹂
﹁うん、充分だよ﹂
あたしはアルバムを返し、首をかしげる美月様をそのままに部屋
を出た。
﹁まさか、ホントにホントなんだ⋮⋮?﹂
﹃僕を疑っていたのか。あの道化は正真正銘、鷹津篤仁だよ﹄
離れに駆け戻ったあたしを出迎えた少し不満げな声に、あたしは
当然だと言い捨てた。
﹁信じるかっての! だって鷹津だよ?﹂
雀野の伝えた衝撃の事実。疑わしいことこのうえなかったが、あ
の写真を見た後だと納得せざるをえない。あれは鷹津だ、確かに彼
だ。あんな人間が二人といてたまるか。
﹁そもそもなんで大道芸なんか!?﹂
﹃たぶん、白河さんに会ってみたかったんだろう。大道芸フェステ
ィバルの宣伝チラシを持ってきたのは篤仁だ。僕たちが白河さんを
補佐に抜擢しようとしていることはその時には知っていたはずだか
ら﹄
﹁で、雀野先輩は素直にチラシを姉さんに見せて、連れて行って、
ばっちりお膳立てしたってワケ? 完全にいいように使われてるじ
ゃん! それで本気で姉さんのこと好きとか信じられない﹂
﹃し、仕方なかったんだ⋮⋮﹄
253
あたしは辰巳が差し出した湯呑を一気にあおった。
﹁っはー、ありがと。母屋からの往復は疲れた﹂
﹃⋮⋮本当に離れで過ごしているんだね﹄
﹁当たり前でしょ。それより、なんで仕方ないの﹂
﹃僕は鷹津のおじ様⋮⋮いや、篤仁の父親から直々に頼まれていて
ね、日本での篤仁のお目付け役なんだ﹄
﹁何それ。なんで雀野の坊ちゃんが鷹津の坊ちゃんの面倒みる必要
がある﹂
いくら幼馴染といえど、そこまでする義理があるのだろうか。あ
たしが眉根を寄せると、辰巳が控えめに口をはさんだ。
﹁アキラ様。鷹津家当主と雀野家当主は幼馴染と聞いております﹂
﹁あ﹂
ああ、そういうことか、とあたしはげんなりと顔をしかめた。見
るまでもなく敏感な雀野にも伝わったのだろう、彼は黙り込む。
﹁オーケーオーケー、お二人の関係って根が深いのね﹂
﹃⋮⋮察してくれて助かる﹄
つまるところ、鷹津と雀野の力関係は親世代譲りなのだ。
﹁しっかしバカじゃないの、鷹津って。それだけのためにあんなこ
とやるとは。というか、やれるのがスゴイっていうか﹂
﹃篤仁は器用っていうか、才能の塊なんだ。なんでもこなすよ。し
かもやるって決めたら恐ろしいほどの集中力と徹底した努力で、自
分の中の才能の芽を引き延ばす﹄
﹁才能の塊ね。でも努力家﹂
そういうタイプ、一番強いよね。
才能にあぐらをかいてくれるなら、まだ対応策はあるんだけど。
﹃まあ、あの大道芸の一座とは留学中の知り合いみたいだったけど﹄
﹁はぁ? ますますわかんない。どういう交友関係結んでんだっつ
ーの﹂
﹃付き合いの長い僕でもそれはわからないよ⋮⋮﹄
254
二人同時にため息をついたあたしと雀野。だが、彼はまた気を取
り直したかのようにぷっと噴出した。
﹃だからこそ! 今日の君にはスカっとしたよ﹄
﹁いや、あれはあたしがどうこうっていうより鷹津の自信過剰でし
ょ。なんであんな花束一つ大事にとってあると思うのよ﹂
﹃けっこう子供っぽいところもあるロマンチストなんだよね。きっ
とあとで打ち明けるつもりだったんじゃないのかな。あのときから
貴女のことを想っていました、とか﹄
﹁うっわ、さむ!﹂
﹃ははっ! 僕もそう思う。けど篤仁がやると洒落にならないくら
いキまるよ﹄
﹁うっ、どうしよう。確かに姉さんそういうの好きかも﹂
美月様は運命の相手を自分でみつけにいく、というロマンチスト
だ。鷹津と気が合いそう、と言えなくもない。というか、そんな演
出されたら鷹津を運命の相手と信じ込んでしまうかも。
しかし雀野の声は明るかった。
﹃僕もちょっとそれは心配なんだけど⋮⋮。たぶん、君のおかげで
その手は使えなくなったんじゃないかな﹄
﹁プライド傷ついたって? あたし鷹津が怒ったとき本気で鳥肌た
ったからね!? そんなことであんな怒気散らすの!? 何をバカ
な。鷹津ってわかってたならともかく、こっちはただの大道芸人だ
と思ってるんだから﹂
﹃でも、篤仁だからなぁ。フェスティバルのあとも、あの仮面の男
は誰だって騒がれたみたいだし﹄
﹁へぇ﹂
﹃君は違うの?﹄
少し意地悪げな、試すような口調の雀野に、あたしは意地悪で返
してやった。
255
﹁いい男だとは思うけど? 少なくともライバルの手助けしたり下
手な変装してコソコソ様子うかがったりしてる情けない誰かよりは﹂
﹃え、見てたの?﹄
﹁サングラスくらいじゃバレバレ﹂
﹃⋮⋮君、やっぱり変な子だねぇ﹄
﹁はぁ?﹂
あたしの嫌味に、雀野は怒るでもなく嘆くでもなく、なぜか感心
したようにつぶやいた。
﹃篤仁のほうがよっぽど目立つと思うけど、あの人ごみで僕を見つ
けるなんて﹄
あたしは何も言わずに辰巳に目配せをして、肩をすくめてみせた。
こいつ、本当に卑屈だな。
鷹津篤仁という存在が輝きすぎていて、自分の美しい光がわかっ
ていないのだろう。今までさんざん生徒会会長としてチヤホヤされ
ていたにも関わらず、鷹津の帰還以降自ら身をひそめるように影を
薄くしているきらいがある。
﹃君、今心の中で僕のこと貶したろう﹄
本当にもう! まだ口に出してないって! ﹁そうです、その通り。マジ根暗、マジ卑屈﹂
﹃そうなんだよ﹄
﹁認めないでよ!﹂
﹃だって君には情けないところをもう見られてるから﹄
開き直った卑屈な男は厄介だ。案外不屈だったりするし。
﹃そうそう、今日のことで僕は少し思うところがあってね。こんな
僕でもまだまだ勝機はありそうだって自信がついたんだ。君のおか
げだ﹄
﹁さっきまでの話でいったい何が⋮⋮?﹂
﹃篤仁が何を狙っているのかって話さ﹄
﹁ん?﹂
256
しいて言うなら、収穫といえば鷹津の美月様を口説く手段が一つ
つぶれた、というだけではなかったか。ついでに言えばあたしが鷹
津のプライドを折ったってことか。
﹃なぜ篤仁があんなに怒って、それを一瞬で治めてみせたかってこ
とがポイントだよね。いったい誰がそうさせたのかな﹄
﹁ええ?﹂
雀野の話はわかりにくい
それなのに、雀野は一人でさくさくとしゃべり続けた。
﹃やっぱり君を生徒会に呼んでよかった! あんな大笑いしたの久
しぶりだよ。時々電話していい? 学校で話すと何かと面倒だから。
辰巳さんも交えてさ﹄
﹁あたしじゃなくて姉さんにすればぁ? ま、内容はすべて筒抜け
で午後八時以降は電話もメールも禁止ですが﹂
﹃白河さんとじゃ緊張してうまく話せないだろう﹄
﹁堂々と言うことですか、情けない﹂
﹃そうなんだよ﹄
﹁だから簡単に認めるなって!﹂
なんやかんやとくだらない話を交えつつ長電話が終わってみれば、
あたしのアドレス帳には一件連絡先が追加されていた。しかもメー
ルアドレス付だ。
本当はこの登録番号には上都賀さんのアドレスを狙っていたのだ
が。
スマートフォンのデータと照合してみると、そこに載っていたも
のと今教えられた連絡先は異なっていた。ということは、これは白
河の探りでは手に入らなかった雀野のプライベートナンバーという
ことになる。使える使えないは別にして、貴重なものではあること
は間違いない。
257
﹁こんなに長く電話で話したの初めて﹂
﹁アキラ様はほとんどお使いになりませんからね﹂
﹁ねぇ辰巳。雀野の言ってること、意味わかった?﹂
﹁何がでしょう﹂
﹁何がって﹂
たいていはツーカーで通じる辰巳との会話。こういう返事が返っ
てくることはあまりない。
﹁⋮⋮さては辰巳、わかってるな?﹂
﹁いえ、まったく﹂
﹁だからー、なんで鷹津は怒って、なんですぐ治まったかってこと
ー!﹂
﹁俺にはまったく﹂
﹁こらー! さてはあたしが美月様のところ行ってる間に二人で何
か話したでしょ! 何言ってたのー?﹂
あたしは辰巳に背後からしがみつき、耳や頬をひっぱった。しか
し辰巳は何も知りません、と首をふるばかりだ。
えーい、頑固者め。
﹁ふぉれより、あひらさま﹂
﹁何よー。辰巳が何言ってるのかわかんなーい﹂
のびた頬のせいで滑舌の悪くなった辰巳は、ふにゃふにゃとかわ
いく無慈悲なことを言った。
﹁このたびのこと、いわどひゃんにおふたへしなくては﹂
この度のこと、岩土さんにお伝えしなくては。
あたしはザッと血の気が引くのを感じた。
夕方過ぎにご帰宅した当主様たちは、お夕食時に美月様のおしゃ
べりを聞いてさぞ驚いたことだろう。
258
まさか学園内でも十指に入る有名人たち、生徒会役員が全員我が
家に訪れていた、というのだから。
﹁あなたがいながら軽率にもほどがあります﹂
﹁はい、すみません﹂
﹁雨宮様がいらっしゃったからまだ良かったものの、男性のご友人
を四人もお連れするとは。よからぬ噂がたったらどうするんですか﹂
﹁はい、浅はかでした﹂
﹁采配は三舟さんが滞りなく行ってくれたようですが、万が一不始
末でもあったときはどう責任をとるつもりですか。とれるんですか﹂
﹁いえ、その⋮⋮﹂
何も言えないあたしに、敬吾さんは一メートル級に積もった積雪
のような息をついた。
ご立腹です。眼鏡の奥の切れ長の目、不穏な光が宿ってます。
﹁大方美月様が勝手に決めてやったことなのでしょうが、聞くとア
キラさんはすっかり寝こけていたらしいですね。それで離れにまで
客人を連れ込んだと。あなたが頭の悪い軽い人間だと見られるのは、
学校だけで十分です﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁さて。では報告をお願いします﹂
いつものように書斎で待ち構えていた敬吾さんは、あたしに反論
の間もあたえず叱責から始まった。暖色のランプがついているのに、
なんだか寒い。すっごく寒いんですけど、この部屋。
しかし弁解もできない失敗を犯したのは確かだし、あたしはおと
なしくショボーンとへこむ。あとは淡々と今日あった事実を告げ、
敬吾さんの判断を仰ぐだけだ。
﹁︱︱︱︱︱︱ ということで、雀野光也の電話番号を得ました﹂
﹁ふむ。⋮⋮鷹津篤仁の行動の理由、ですか﹂
ブリザードをまき散らしていた敬吾さんだが、雀野との会話のこ
259
とを話すと少しだけ嵐が治まった。何か考えているようだ。
﹁あの、敬吾さんならわかりますか﹂
﹁鷹津様はずいぶんと個性的な方のようですね﹂
﹁え、ああ、まぁ﹂
﹁⋮⋮案外、本気なのか﹂
﹁何がですか﹂
敬吾さんはあたしの二番目の問いには答えず、氷の刃の切っ先を
あたしに突き付けた。
﹁いいですか、アキラさん。プライドを傷つけられた鷹津様は、あ
なたへのアプローチの真似事を始めるかもしれません。餌付けもそ
の一環です。雀野様は、一時的にせよ美月様への鷹津様の執着が薄
れるかもしれないと期待しているのです﹂
﹁ああ、なるほど!﹂
そういうことか、とあたしはようやく納得した。
雀野の機嫌がいいわけだ。
﹁しかし、あなたはご自分の立場を忘れてはいませんね?﹂
何度も繰り返された問いかけに、あたしはいつものように返事を
した。
﹁はい、もちろん。あたしは白河に使える人間です﹂
鷹津に付け込まれ、白河の不利益になるようなマネは絶対にしな
い。
これだけは自信をもって言える。
あたしは強い意志をこめて敬吾さんを直立不動で見返した。
敬吾さんはようやく満足したように、できあがったあたしの氷像
にうなずいた。
260
悪魔と根暗雀のおしゃべり︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
261
悪魔の悪夢
休んだ気がしない週末が終わり、あっという間に月曜日だ。気が
重いったらない。
喜ばしいことに美月様は朝から元気いっぱいだ。
大きく手をふり、やる気満々で学校へ向かう道すがら、あたしに
ぐっと握りこぶしを突き出した。
﹁アキラ、今日から生徒会がんばろうねっ!﹂
﹁あー、うん。まあ、それなりに﹂
﹁アキラー?﹂
あたしのやる気のなさを感じ取ってか、美月様は笑いつつもあた
しを咎める。
﹁がんばるウ⋮⋮﹂
﹁いい子!﹂
頭を撫でてくれる美月様に、上都賀さんはちょっと意外そうに言
った。
﹁美月ちゃんはともかく、そっちもちゃんと続いてるのね﹂
﹁まぁね﹂
彼女はあたしがとっくに仕事を放り投げてるかと思ったらしい。
本当だったらそうしたい。
﹁最初こそ反発もあったけど、今じゃ野放しにしているよりいいか
もって言われてるのよ。知ってる?﹂
﹁はっ! あたしは野獣か何かかっつの﹂
﹁似たようなものだわ﹂
辛辣な上都賀さんだが、どこかあたしを心配してくれているよう
262
ないないような。願望まじりの自意識過剰か。
﹁アキラはね、今日からより一層がんばるって決めたの! だから
大丈夫だよ、綾乃ちゃん!﹂
﹁ならいいけど。美月ちゃんの負担になったら大変だわ﹂
最近は美月様が生徒会にいそしむあまり、上都賀さんと接触する
機会が少なくなっている。二人の仲はどうなるか、と少しばかり心
配だったが、こうして朝の登校は一緒だしクラスメイトであるお二
人は問題なく過ごしているようだ。
﹁あっ、職員室に生徒会の書類おいてこなくちゃ! 朝一でやるよ
うにって言われてたの﹂
﹁私もついていく?﹂
﹁ううん、いいの! 教室で待ってて﹂
先に行くね、と美月様は小走りに校舎へと向かっていった。上都
賀さんは笑って手をふっているが、やっぱり寂しそうだ。
二人になったところで、あたしは上都賀さんに声をかけた。
﹁ねえ、綾乃たん﹂
﹁その呼び方やめてって何回言えばわかるの?﹂
﹁姉さん、今ちょっと新しいことに夢中みたい﹂
﹁⋮⋮そうね。でも、やる気に満ちてる美月ちゃんってすごく素敵
だわ。こっちも頑張らなきゃって気持ちになる﹂
﹁うん﹂
それは美月様に拗ねたところがないからだろう。
﹁さみしくはない?﹂
﹁ちょっとだけ﹂
こけしみたいで愛嬌がある上都賀さんの幼顔に、苦笑がのる。少
し胸が痛い。
﹁でも姉さん、綾乃たんのこと大好きだから﹂
上都賀さんに生徒会という連中に必要以上の思い入れがないのも
263
幸いだった。彼女は冷静に校内での立ち位置を決めているようで、
危ないラインには決して近づかない。ましてや美月様を利用して生
徒会に取り入ろうなどとは絶対に考えないだろう。そういうご友人
は貴重だ、ぜひとも大事にしてほしい、とあたしは思っている。
﹁ちゃんとわかってるわ。それに私だって美月ちゃんが大好きよ。
余計な心配は無用﹂
﹁ああん、やっぱり綾乃たんステキ!﹂
﹁気持ち悪い﹂
そう切り捨てた上都賀さんは、もだえるあたしを置いてさっさと
校舎に入っていった。
美月様が生徒会入りしてからというもの、めっきり美月様に告白
しようとかいう愚か者は減った。鷹津のお気に入りという噂による
ものか、生活委員会からの圧力か、原因は複数あるだろうが、それ
によってあたしの仕事が少しばかり減ったことは間違いない。
しかし、反面あたしの負担は増すばかりだった。
﹁見習いー、これ二十部ずつコピー!﹂
﹁見習いさん、部費の用途バレー部とサッカー部と手芸部に明細聞
いてきて﹂
﹁あ、コピー用紙少なくなった! オレ取りに行って⋮⋮﹂
﹁待ちなよ、正輝。そういうのこそ見習いの出番でしょ。帰りに持
ってきなよ﹂
﹁ついでに新しいトナーもそろそろ欲しいわ、申請しておいて﹂
﹁はぁ∼!? なんであたしが!?﹂
放課後、足取り重く生徒会室に入った途端にコレだ。別段忙しそ
うには見えない。それなのに、これだけ一度によくもまぁ用事を言
264
いつけることができたものだ。
当然文句を言うあたしだが、そのセリフを待ってましたとばかり
に雨宮はツンと細い顎をそらした。
﹁やるって決めたんでしょう﹂
﹁う﹂
どうにかしろよ、と雀野を見れば、彼は素知らぬ顔でキーボード
をタイプしている。あの野郎、一昨日の大爆笑すっかりなかったこ
とにする気か。感謝するなら態度で示せよ、もー!
﹁パソコンも使えない、事務処理も苦手っていうあなたにできそう
なこと任せてあげているのよ? これくらいさっさとこなして﹂
眼鏡の位置をわざとらしく直している雨宮に続き、美月様が今朝
と同じように拳を突き出す。
﹁アキラ、がんばって﹂
﹁うう、姉さん⋮⋮。わかった、がんばる⋮⋮﹂
しぶしぶと頷いて初瀬からぞんざいにコピーする原紙を受け取る。
いじけて背中を丸めながらまた生徒会室を出ようとすると、今度は
鷹津があたしを引き留めた。
﹁アキラ﹂
﹁なんですかぁ? あたしもォキャパシティオーバーなんですけど
ォ!?﹂
﹁気を付けて行っておいで﹂
﹁⋮⋮⋮はぁい﹂
何にだよ、という突っ込みがとっさに出てこないほど、鷹津は優
しい笑みを浮かべていた。
コピー機ってハイテクだなぁ、十枚もあるのに、一つボタンを押
しただけでページ順に並べて部数分コピーできるんだもんなぁ。
あたしはろくに触ったこともないコピー機に悪戦苦闘しつつ、あ
265
ふれ出る紙の束に感心していた。
職員室隣の印刷室は教師に申請すれば誰でも自由に使える。あた
しが職員室に入ったときはちょっとした騒ぎになった。そりゃそう
だ、学園の悪魔、白河アキラが絶対に踏み入れないであろう場所が
職員室だ。
無言で突き出したコピー機使用願いに、担任教師は二度三度とあ
たしと申請書を見比べて冷や汗をかいていた。そして一言、﹁本当
に生徒会の仕事やっていたんだな⋮⋮﹂という無礼な言葉は聞かな
かったことにしておいてあげましょう。
そうでなくても、さきほど訪れたバレー部とサッカー部と手芸部
には大げさなほど驚かれた。各部の部室をまわり出納帳再提出依頼
の紙を渡すだけの単純な仕事なのだが、その仕事を行う白河アキラ
に問題があった。部ののっとりか、部費の強奪狙いか、はたまたた
だの嫌がらせか。﹁うわあ! 出た!﹂と面と向かって叫ばれたあ
たしは、どうリアクションすればいいのだろう。
できる限りの期待に添えるように、汚い汗臭いせせこましい、と
罵倒を繰り返しながら配達を終えたところだ。どうぞ諸先生方、な
んとでもおっしゃってください。
﹁⋮⋮でも実際、らしくないよね﹂
学園の悪魔、ワガママ女王。なんでこんな素直に仕事しちゃって
るの?
不自然ではないか。
めんどくさくなったからやーめた! と生徒会室に戻るのも一つ
の手ではないか、とふと思いつく。しかし、それでは最悪生徒会室
から追い出されてしまう。仕事はこなしつつもなんとか手を抜きま
した、とわかってもらえるようにするには何をすればいいか。
生徒会の連中は仕事中は案外真面目で、美月様にちょっかいを出
すほど暇ではなさそうだ。
266
ならこの時間、少しばかりあたしがいなくても平気だろう。
そう決めたあたしは、棒付飴をくわえて窓を開けた。
﹁休憩休憩﹂
校内を歩き回って疲れたところだ。ちょうどいい。適度に時間を
つぶしてから戻れば、きっと雨宮は﹁こんな簡単なことにどれだけ
時間をかけるのだ﹂とヒステリックに怒ってくれることだろう。
窓枠から身を乗り出してみれば、部活動にいそしむ運動部の姿が
見えた。青春してるね。
ガーッ、ガーッと音を立てて紙を排出していたコピー機はもうと
っくに黙っているが、あたしは外を眺めたままぼうっとしていた。
あと十五分は粘るつもりだ。
時刻は五時手前。
ちょっと前までは美月様の帰る後姿を見送ってちょこちょこと報
告を済ませ、そろそろあたしも帰ろうかという時間帯だった。
それが今や生徒会の雑用タイムとは。
飴の棒をたばこのように指ではさみ、漏れ出るため息の代わりに
見えない煙を吐き出した。
そこへぶぶぶぶ、と震えたスマートフォンにいやな予感がして画
面を見れば、美月様からのメールだった。
文面はこうだ。
﹃お仕事はうまくいった? みんなで待ってるよ! よかったら手
伝うよ﹄
なかなか戻らないあたしを心配してくれているようだ。
﹃コピー機ってなんでこんなにボタンついてんの? 意味わかんな
くてまじムカつく! でもあと少しで戻るから大丈夫だよ∼!﹄
あたしは本音も交えたメールを打ち返し、小さくなった飴をころ
がした。
まだ早い。あと少し、あと少し。
267
﹁ただいまぁ。もー超大変だった! 部室の場所はわかんないし、
コピー機は複雑怪奇だし紙は重いし﹂
きっかり十五分後に印刷室を出たあたしは、盛大に愚痴をこぼし
ながら生徒会室に帰還した。ちなみに持って帰ってきたコピー用紙
はたったの一包。怒られるのも想定済みだ。さて、どんな形相で待
っているかと思えば、雨宮達は意外にもすまし顔だ。そんな中、美
月様だけが少しばかり気まずげな様子だった。
﹁お帰り、アキラ! ごめんね﹂
﹁え﹂
美月様はなぜか出迎え早々に謝ってくる。どうしたの、と聞き返
す前に、あたしの胸はドクンと強く脈打った。
﹁アキラが遅かったから、先にみんなで食べちゃったの﹂
各々のデスクに置かれた使用済みの皿とティーカップ。
ローテーブルには、大皿に残ったワンピースの真っ白なケーキと
冷めた紅茶。
﹁あーあ、残念だったね! 今日は最初だからって会長が同じもの
食べさせてくれようとしてたのに﹂
﹁あんな単純作業でここまで手こずるほうが悪いのよ﹂
﹁美月ちゃんの淹れてくれたお茶はすごくおいしかった! 誰かの
とは大違いだ﹂
初瀬や雨宮の意地悪な言葉なんか頭に入ってこなかった。それよ
りも面倒なことでいっぱいになっていたからだ。
ああ、そうか。
思い出した。
なんで美月様と同じ場所で同じものを食べたくないのか。
268
白河家に引き取られてから間もなくのことだ。
﹁アキラ、遅かったね﹂
いつもいつも美月様はそう言っていた。
美月様はお優しいから、﹁お父様とゲームをしよう﹂﹁お母様と
映画を見よう﹂﹁家族みんなでオヤツを食べよう﹂と誘ってくれる。
あたしはうなずいて美月様のあとに続こうとするのに、毎回誰かの
手があたしを止めた。
お洋服が汚れていますから、お着替えしてからにいたしましょう。
まだ今日の分のお勉強が済んでいませんよ。
オヤツの前には手を洗わなければいけません。
理由は様々だったが、あたしはいつもいつも遅れて美月様を追い
かけた。早くしなければ、急がなければ、と。そして見つけるのだ。
決着のついたボードゲーム、エンドテロップの流れる映画、そし
て円形状だったケーキの残された一かけら。
美月様への愛情の残りカス。
﹁アキラ、遅かったね﹂
ああ。また間に合わなかったのか。
ゲームは一人ではできないし、映画を見る気にはならないし、一
人リビングで食べるケーキはまるで砂をかむようだった。おかげで
あたしはいつしか美月様のお誘いをさらっと理由をつけて断るよう
になり、美月様がお好きなチョコレートや洋菓子をあまり好まなく
なった。
期待を裏切られた喪失感、孤独感、寂寥感。
幼いあたしは失敗を何度も繰り返し、ようやく彼女たちの家族団
欒の場に入ってはいけない、と学んだのだ。そこにあたしの居場所
269
はない。
仕える白河本家との適切な距離感というものを教え込まれる過程
でのことだ。
まさか、それがトラウマとなっていたとは。辰巳があたしのとこ
ろに来てくれてからすっかり忘れていた感覚。
あたしはドクドクと鳴る心臓の喧しさにめまいがし、とっさにソ
ファの背をつかんだ。 ﹁アキラ?﹂
﹁ん? どしたの、姉さん﹂
﹁顔、真っ白だよ﹂
﹁えー? ファンデ塗りすぎたかな﹂
あたしはふふっと笑ってそのままソファに腰を下ろした。
おーっと、いけない、いけない。これでは雀野のこと笑えないじ
ゃないか。情けないぞ、あたし。
こいつらと一緒にお茶がしたかったワケではあるまい。
昔のことを思い出してグラついてどうする。
あたしはにっこり笑って言った。
﹁わーっ、おいしそう! 今日はあたしも同じもの食べられるんだ
ーっ。間に合わなかったのは残念だけど、うれしい!﹂
﹁おいしかったよ、とっても! 中にフルーツがいっぱい入ってる
の。ゼリーの層もあってね⋮⋮﹂
美月様は断面を指さしながら教えてくれる。
﹁へぇ。でも失敗した、あたしさっきお腹すいて菓子パン食べちゃ
ったんだよね﹂
﹁ええーっ?﹂
﹁今おなかいっぱいで食べられないや﹂
﹁もー、アキラってば!﹂
270
﹁パン食べる暇があったっていうの?﹂
﹁パン食べながらコピーしてましたー﹂
雨宮の睨みもケーキもするっとかわし、あたしは冷たい紅茶だけ
をいただいた。
﹁おっ、冷めてもおいしい。さすが姉さん﹂
そう言えば、ちょっとだけあたしを叱った美月様はふにゃりと笑
ってくれる。
これでいい。
これで、大丈夫。
はやく帰ろう。
帰れば、辰巳がいるから。
自己暗示じみた精神の安定を図っていたこのとき、鷹津がどんな
目であたしを見ていたかなんて気に掛ける余裕はなかった。
﹁アキラ、今日はがんばりすぎて疲れちゃった?﹂
﹁そうかも∼。あいつらいろいろ言ってくるし!﹂
﹁こーら、口が悪い﹂
﹁ごめんなさーい﹂
﹁ふふ、いい子﹂
帰り道、あたしは持たされたケーキを片手に、美月様の様子をう
かがった。
どうもあたしの顔色は悪いままのようで、美月様に心配をかけて
しまった。だが、その理由が生徒会の雑用だと思ってくれていれば
問題はない。
﹁あれ? なんだろう、あの車﹂
意識を戻すと、白河家の長い塀の先の門扉からトラックがちょう
ど一台出ていくところだった。
271
六時をまわっても外は明るい。トラックの横にはよくテレビで見
る有名な警備会社のロゴが入っていた。
まさか泥棒か何か入ったのか?
いや、それならなぜ連絡があたしに来ない。
﹁システムの点検、かな。たいしたことじゃないと思うけど﹂
母屋に入る美月様と別れて離れに向かうと、辰巳と敬吾さんが縁
側で何やら話している最中だった。
﹁ただいま戻りました﹂
﹁お帰りなさいませ、アキラ様﹂
﹁お帰りなさいませ﹂
あたしを見るなり、辰巳はわずかに眉をひそめた。センサーにひ
っかかってしまったのだろう。
﹁アキラ様⋮⋮﹂
﹁敬吾さん、さきほど警備会社の車が入っていたようですが、何か
ありましたか﹂
辰巳のお小言は後回しだ。
﹁今そのことを辰巳くんに話していたところです。詳しいことは彼
から聞いてください。今日の報告はまた後で﹂
敬吾さんは早口に言うと、さっさと母屋に戻ってしまった。その
後ろ姿を見送りながら、
﹁どうしたの、辰巳﹂
と尋ねればぐっと手をひかれた。
﹁それは俺のセリフです﹂
いつの間に降りてきたのか、辰巳はつっかけを履いてあたしの背
後に立っていた。
﹁どうなさったんです﹂
﹁ん?﹂
﹁怖いことでもありましたか﹂
272
その言い方、まるで小さい子ども相手みたいだ。
あたしがくっと笑うが、辰巳は険しい表情をくずさなかった。
﹁アキラ様﹂
﹁⋮⋮怖いこと、あったよ﹂
﹁何があったんです﹂
﹁あったなぁって、思い出してた﹂
﹁え?﹂
﹁今は大丈夫ってこと﹂
あたしは大きく息を吐き出して、辰巳にしがみついた。
ああ、ようやく呼吸ができる。やっぱり辰巳はあたしの精神安定
剤だ。
手から落ちたケーキの包みが、ぐしゃりと地面にぶつかった。
273
悪魔の悪夢︵後書き︶
感想のお返事が遅くなって申し訳ありません。ですが、本当にどれ
もうれしく思っています。
更新するたびにいただける感想に、このつたない作品を待っていて
くれる方がいるんだ! とやる気がわいてきます。
更新も引き続きがんばります。
ご意見、感想、お待ちしております。
274
悪魔の従僕
敬吾さんは中を一読すると、一つうなずいてそのまま手帳を返し
てくれた。
﹁今日は問題なかったようですね。お疲れ様でした﹂
特筆すべきこともなかったので、あっさり報告は終了だ。一日の
中でこの時間が一番気が張る。さっさと退出したいのだが、少しだ
け迷ってからあたしは口を開いた。
﹁あの﹂
﹁何か﹂
﹁ありがとうございます。辰巳から聞きました﹂
すでに別の仕事に取り掛かっていた敬吾さんは、なんのことはな
い、と顔もあげずに言った。
﹁今にして思えば、離れで鍵がかかる場所といえばバスルームだけ
という不用心さでした。必要だからつけたまでです。お礼は当主様
におっしゃってください﹂
﹁はい。⋮⋮失礼します﹂
きっと当主様にお礼を言ったところで何の話か通じないだろう。
でも機嫌を損ねてはたまらないので、手配してくれたのはあなたで
しょう、とは言わない。
風呂上りにぼんやりと化粧水をはたいていると、鏡台に見慣れな
いものが置いてあった。
275
四角い小さなリモコン。
これこそ敬吾さんが手配してくれたもの、警備会社のトラックが
出入りしていた理由だ。
さきほど辰巳から詳細を聞かされた時は、つい敬吾さんの正気を
疑ってしまった。
なんと離れに警報機を設置したというのだ。
とはいっても簡易版で、有事の際にボタンを押すと母屋に緊急コ
ールが届く、というものだ。ちなみに辰巳の携帯電話にも連動して
おり、会話も可能。
通りかかった使用人の一人を捕まえてたずねたところ、緊急コー
ルがなった際は必ず離れに駆けつけること、と徹底して通達されて
いるらしい。
﹁説明書は読みましたか﹂
ドライヤー片手に入ってきた辰巳に、あたしは肩をすくめた。
﹁一応ね。ありがたいけど、いきなりすぎない?﹂
﹁岩土さんが昨日から手配していたようです。離れへの客人の侵入
をよほど気にかけてくれたのでしょう﹂
﹁おおげさだな﹂
あたしがそう言うと、辰巳は大きく首を横に振った。
﹁あのとき俺が間に合ったのは運が良かったからです。ちっともお
おげさではありません。他の使用人は普段は離れへ近寄ることを止
められていますから、いざというとき困ります。俺から岩土さんに
お願いしようと思っていたところでした﹂
﹁やめてよ、絶対。にらまれちゃう﹂
﹁にらみませんよ、絶対。むしろアキラ様の警戒心のなさを心配し
ています﹂
﹁心配⋮⋮﹂
あの白河家第一主義の敬吾さんが?
﹁本当ですよ﹂
276
あたしの寝床を用意してくれながら、辰巳はちらりと横目であた
しを見た。疑っているのがバレバレらしい。
﹁お礼も言ったけど、必要だからつけたまでです、だってさ﹂
﹁アキラ様のために早急に手配しましたって言ってくる岩土さんの
ほうが、俺は怖いです﹂
﹁確かに。裏に絶対なにかあるね﹂
笑い声をあげたあたしに、辰巳は安心したように目を細めた。
﹁さ、髪を乾かしましょう﹂
﹁ん﹂
一字一字丁寧に書こうとすると、つい余計な力が入ってしまう。
それは結果手の震え、線の乱れにつながってしまう。ここまで書い
たのだ、失敗するわけにはいかない。
あたしはサインペンを握りしめ、鳳雛学園の校章が刻まれた真っ
白な封筒の山と向き合っていた。
﹁まだあと半分はあるわよ、早くして﹂
﹁きれいに書けって言ったじゃん!﹂
﹁きれいに書くのは当然なの、問題はスピードよ﹂
﹁鬼!﹂
﹁あら、自分がなんて呼ばれているか知ってて言ってるのかしら﹂
本日の生徒会の雑用は、封筒の宛名書きだ。鳳雛学園では年に二
回ほど広報誌が発行される。それは銀行口座への振込用紙も同封し
てOBOGに郵送される。つまりは寄付金集めだ。
基本的には業者に委託し、宛名シールを張られた封筒に詰めても
らっている。しかし歴代生徒会役員の分だけは生徒が手書きで宛名
を書いて用意するように決められているらしい。
まったく伝統とは面倒だ。
277
﹁これなら校内走り回ってるほうが楽だよ⋮⋮﹂
ここにいる以上はきっちりやってもらう、と雨宮は率先してあた
しの監視役を買って出た。自分のデスクを持たないあたしは応接ス
ペースのローテーブルで前かがみになって作業をしているのだが、
雨宮はわざわざ席を立ってちゃんとやっているか確認しに来るのだ。
最初こそ適当に書き上げてしまおうと思っていたのだが、雨宮は
書いたばかりの封筒を指ではじいて﹁曲がっている﹂﹁字が小さい﹂
などと文句をつけてやり直しを命じてきた。おかげで気が抜けない。
﹁なんだ、アキラ走り回るつもりだったのかー? だから今日はそ
んな髪型なのか﹂
池ノ内は気合入ってるな、とあたしを褒めるが、実際気合が入っ
ていたのは辰巳の方だ。今日はサイドから編みこんでアンティーク
調の大き目のバレッタで髪をまとめている。普段はゴムでゆるくな
なめに結わえる程度のシンプルさなのだが、今朝に限って辰巳はい
つもより時間をかけて髪を結ってくれた。
あたしの昨日の落ち込みっぷりのせいだろう。あたしは辰巳に髪
をさわってもらうのが好きだ。あの大きな手が自分のために動いて
いる、というのがたまらない。
﹁あたしの専属スタイリストにがんばってもらったんですぅ﹂
﹁白河家すげー! そんなのいるのか!﹂
﹁ふふっ、アキラってば。辰巳さんのことでしょ!﹂
﹁ああ、なーんだ⋮⋮って、あの人そんなこともできるのか! や
っぱりすごいな﹂
池ノ内が口を大きくあけて感心しているその隣で、初瀬が唇をと
がらせて疑ってかかった。
﹁あの無愛想男が? ウソでしょ。すっごい不器用そうだけど﹂
﹁辰巳さんはとっても器用ですよ! アキラもいっつも自慢するん
です。その髪型かわいいね、うらやましいなぁ﹂
﹁美月ちゃんのポニーテールのがかわいいよ。⋮⋮そんなに優秀な
278
ら、なんで見習いなんかに付いてるの? もったいなくない?﹂
﹁え? いえ、辰巳さんはアキラに仕えてるのでそんなお願いでき
ません。でも本当にすごいんですよ、食事に掃除に髪型まで、アキ
ラのことは辰巳さんが全部面倒みてるんです﹂
﹁全部って⋮⋮﹂
おっと、いけない美月様。それは辰巳のフォローにはなっている
が、ちょっと白河家の内部事情が浮き出てしまう。﹃白河﹄ではな
く白河家の﹃妹﹄に仕える使用人、というのは関係性がおかしい。
あたしはすかさず間に入った。
﹁そうそう! あたし付の使用人って辰巳だけだから。なぜか知ら
ないけど、小さいころからあたし付になる人はみんなすぐ辞めちゃ
うんだよねー!﹂
﹁あっそ。当然だろうね。そうか、あの感情なさそうなぼーっとし
た男だからこそ見習いの相手ができるのか﹂
そういうことか、と初瀬は皮肉っぽく笑った。
よし、なんとか軌道修正できた。初瀬の頭の中では、大暴れする
幼いあたしが使用人たちを振り回していることだろう。辰巳はワガ
ママ悪魔のお守役として特別に用意された生贄、というわけだ。
﹁あなたたち、おしゃべりはそこまでにしてさっさとお仕事しなさ
い﹂
鬼の雨宮のおかげで会話は断ち切られ、あたしは内心ほっとした。
実際のところ、美月様の言っていることは本当だ。あたしの生活
は辰巳によって支えられている。夕食だけは本家で作ったものを分
けてもらっているが、他はまったく別々だ。食事も掃除も洗濯も、
離れのことはすべて辰巳が切り盛りしている。
そして辰巳は白河ではなく白河アキラ、つまりあたしだけに仕え
ているというのも本当。あたしの生活費は白河本家から毎月決めら
れた額を出してもらっている。あたしはその一部を使って辰巳を雇
279
いいれているのだ。お金の出所は白河本家だけれど、使い方を決め
ているのはあたし。だから辰巳の主はあたし一人という理屈だ。
白河家であたしが異分子であるように、辰巳も白河家の使用人の
中では異分子だ。あたしは何の気兼ねもなく辰巳に甘え、辰巳はあ
たしだけを甘やかしてくれる。お互いしかいないのだ、あたしたち
の関係がより深くなるのも当然といえる。
美月様には辰巳に何かを命じる権利は表面的にはないし、辰巳も
最低限の敬意しか示さない。美月様はその事実を正しく認識してい
るのだが、同家庭内で別の主従関係があるという不自然さを不自然
とは思っていないようだ。だから時折ぽろっとこぼれる辰巳の話に
はヒヤヒヤさせられる。
あまり辰巳の話題を出さない方がいいだろう。
﹁少し休憩しよう﹂
鷹津の鶴の一声で生徒会室の空気が緩んだ。
﹁ならまたわたしがお茶を⋮⋮﹂
﹁いや、今日は俺がいこう﹂
立ち上がろうとした美月様を制して、鷹津はちょっと待っていろ
と部屋を出ていく。へえ、あの男も自分から動くのか。
いくらもたたないうちに戻ってきた鷹津は、小ビンのジュースを
抱えていた。
﹁毎日甘いものを食べるのはちょっとな。ケーキやら何やらは週に
二回程度にしよう﹂
だから今日はこれだ、と一人ひとりにビンを配る。ビンに張られ
たシールには笑顔の黄色い果物と蜂の絵が描いてあった。確か四国
のお取り寄せ有名品のユズジュースだ。
鷹津は手ずからそれぞれの机に配ってまわった。ご丁寧にストロ
280
ーまで添えている。
﹁篤仁先輩、いただきます!﹂
嬉しそうにフタを開けたとたん、美月様は歓声をあげた。
﹁あっ、ユズの匂いすごい! おいしいですっ﹂
﹁本当、いい香りね﹂
女性陣には好評。しかし一口飲んだ池ノ内と初瀬はどこか渋い顔
だ。鷹津はそれを見逃さず、おもしろそうに二人をからかった。
﹁なんだ、初瀬、池ノ内。お前たちにはダメだったか﹂
﹁や、ダメっつーか⋮⋮。めちゃくちゃ甘いっス﹂
﹁濃いから舌に残るんだよね⋮⋮﹂
﹁僕はけっこう好きだ。おいしいよ。篤仁ごちそうさま﹂
﹁雀野先輩、実は甘党ッスよねー﹂
それぞれの意見を聞いた鷹津は神妙な顔を作り、わざとらしく顎
に手をあてる。
﹁ふむ。意見が割れたな。俺たちも試してみるか﹂
そういうと、鷹津はどっかりとあたしの隣に腰をおろした。
﹁え、ちょっと、なに?﹂
﹁なにって?﹂
﹁なんで席に戻らないの﹂
﹁今は休憩中だ、ソファに座ったっていいだろう﹂
鷹津はひょうひょうと言いのけると、あたしにビンを差し出した。
﹁アキラの分だ。俺たちのは限定版らしいが、これは通常版﹂
確かに差し出されたものと比べると、鷹津の手にあるビンのシー
ルはキラキラとラメが入っている。こころなしか蜂の笑顔もより輝
いていた。
迷いがはしったが、ここで意地をはるのもおかしいと思い直し、
あたしはそろそろとビンを受け取った。
﹁いただきまーす⋮⋮﹂
281
﹁どうぞ﹂
よく冷えたビンの表面には水滴がまとわりついて手をぬらす。
飲まないといけないのはわかっている。ただどうしたことか、あ
たしはフタを開ける気がまったく起きなかった。
理由はわかっている。昨日のことをひきずっているのだ。ここで、
この人たちと、飲み食いしたくない。
ああ、もう! 案外繊細なのねー、あたし!
情けなさを自分でちゃかしてごまかしてみても状況は変わらない。
一気飲みしてトイレに駆け込む、という案が頭をよぎる。
しかしその前に、ひょいと鷹津があたしの手からビンを抜き取っ
てしまった。
﹁あっ﹂
﹁まったく、甘ったれのお姫様は仕方がないな。その辰巳さんとや
らがいないとジュースも飲めないのか﹂
鷹津はぽん、とフタを開けて、ストローを差した状態であたしに
もう一度ジュースを差し出した。うけとらないあたしに鷹津はぐっ
と顔を寄せ、他の誰にも聞き取れないほど密やかに言った。
﹁いいか。これは誰かの残りものじゃあない。この俺が、お前のた
めだけに、用意したものだ。わかるな?﹂
驚きのあまり動きをとめたあたしの手を無理やりつかんだ鷹津は、
そのままビンを握らせた。そして声の調子をもどし、自然と体を離
す。
﹁さ、感想を聞かせてくれ。今のところ三対二だ﹂
あたしは改めて手の中のビンを見た。
透き通った黄色の液体が揺れている。
これはあたしの分。この場であたししか飲んでいない。
美月様のお相伴にあずかるのではないのだ。
つまり、辰巳のお弁当といっしょだ。あたしのために用意された
282
もの。
そう思うとすっと抵抗感が薄れた。
あたしはストローに口をつけ、おずおずと吸い込んだ。
ふわりと鼻に抜けるユズ。はちみつの甘味が広がる。
﹁⋮⋮⋮あっま∼!!﹂
﹁ええっ、アキラもダメ?﹂
﹁めちゃくちゃ甘い! のどヤケそうなんだけど!﹂
水で希釈するのが正しい飲み方なんじゃないか、と思うほどの濃
厚さに、あたしはべーっと舌をつきだした。
美月様は﹁いただきものなのに失礼でしょ!﹂とあわてている。
でもいいのだ、これが白河アキラにふさわしい反応だから。うだう
だと思い悩んでいるよりずっといい。
鷹津は機嫌を損ねた様子もなくくすくすと笑いながら、ようやく
自分のビンに向き合った。
﹁これで三対三だな。さて、俺はどうかな﹂
ぐっと直接あおった鷹津は、おだやかな表情のままローテーブル
にビンを置く。
そして沈黙することたっぷり五秒。
﹁⋮⋮⋮これ、薄めて飲むんじゃないのか?﹂
283
悪魔の従僕︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
284
悪魔の油断
美月様は生徒会補佐という役職に強いやりがいを感じている。は
つらつと学校に通う様子は、以前よりもイキイキしているようだ。
美月様の人間的成長につながるよいきっかけだった、と今では敬吾
さんも満足している。当主様も同じ考えだろう。
そんな美月様の傍らで、補佐の補佐として適度に役割をこなして
いたあたしは、一つの結論に達した。
あたしが生徒会室にいる必要はもうない。美月様はすでに補佐と
しての地位を確立し、仕事も十分慣れた。最初に扉を開けることす
ら緊張していたときとくらべ、大きな変化だ。
鷹津も雀野も初瀬も池ノ内も、それぞれにけん制し合っているの
か雨宮の睨みが厳しいせいか、美月様にちょっかいをかける様子も
ない。
ならばあたしの直接的な監視はもはやいらない。なにかあれば雀
野から連絡をもらえるよう手配すれば、問題はないはずだ。
生活委員会や生徒会崇拝者の生徒たちを﹁ようやく不釣り合いな
立場に気付いたのね﹂と大喜びさせてしまうことが腹立たしいが、
余計な嫉妬心や恨みをこれ以上買うこともないだろう。事実、不釣
り合いなわけだしね。
﹁面倒だからやーめた!﹂と言ってしまえば終わりだ。なぜならあ
たしは責任感とか使命感とか皆無の学園の悪魔だ。
敬吾さんと相談の上、いつその話を切り出すか考えていた矢先の
ことだった。
285
習慣化されつつある週に一、二度の雀野からの電話で、なんとあ
たしの評価がわずかながら上向きになっているらしい、と聞かされ
た。
おもにパシリだが、校内を駆け回るあたしの姿を見た生徒たちの
間で﹁悪魔が天使と生徒会の厳しいな監視のもと、更正の道をたど
ろうとしている﹂﹁おかげで学園への被害が減った﹂と思われてい
るようだ。なんとまあ、あたしの予期せぬところで生徒会補佐の補
佐に対する容認の動きが見え始めたのだ。
﹁すずめのふくかいちょ∼、あたしもう辞めたいんだけど﹂
﹃だーめ﹄
美月様への賞賛、鷹津への愚痴、おいしいお菓子、くだらない世
間話。そんな雀野とのいつもの話の内容に本音をもぐりこませてみ
る。あっさり承知するとも思っていなかったが、あたしは言わずに
はいられなかった。そして予想通りの返答に、あたしは卓上に置か
れたスマートフォンをじっとり睨みつけた。ちなみに雀野との電話
の際は必ずスピーカー機能にすることが辰巳によって決められてい
た。それをどう思っているのかは知らないが、雀野に抵抗感はない
ようだ。
﹃なんだかそんなこと言いそうな気がしていたんだ。でもどうして
?﹄
﹁あそこにいる意味ないからダルいの。副会長が言ってたように鷹
津が怪しい行動とるならまだしも、副会長だって姉さんにアプロー
チかけないじゃん。一般生徒は言うに及ばず。正直今って一番落ち
着いてる﹂
﹃それは君がいるからだって思わない?﹄
﹁思わない。あたしはよく席を外してるけど、そっちが何も言って
286
こないってことは誰も動いてないんでしょ﹂
﹃⋮⋮確かに、篤仁はおとなしいものだよ。でもそれとは別に、君
がいることでプラスになっていることはある﹄
﹁ウソつけ﹂
﹃君のおかげでみんなのモチベーションが上がってるよ﹄
﹁そんなわけないじゃん﹂
あたしが鼻で笑うと、雀野は真面目に言い返した。
﹃そんなことあるよ。篤仁が雨宮や初瀬にハッパをかけている。見
習いをバカにするならお前らはバカにされない仕事をしてくれるん
だろうな、ってね﹄
﹁あたしがいなくても姉さんがいればかっこいいとこ見せたくて必
死にもなるでしょ﹂
﹃君の評判だって上がったじゃないか﹄
﹁別にそんなのどうだっていい。それよりあたしは自由な時間がほ
しいのー﹂
そう、あたしは忙しいのだ。前までは丁寧に仕上げていた報告手
帳だって、最近ではおざなりになっている。それで敬吾さんに怒ら
れるのはあたしなのだ。今までこなしていた巡回や美月様の交友関
係調査といったルーティンワークだって、生徒会のために時間をと
られて満足に遂行できていない。時間はいくらあっても足りない。
﹃残念だな⋮⋮白川さんはとても喜んでいたのにね﹄
その雀野の言葉に、あたしと辰巳の顔がそろってこわばった。そ
う、あたしの評価向上を誰より喜んでくれたのは他ならぬ美月様だ。
これもがんばった成果だよ、アキラ。これからも張り切ってこう
ね!
まぶしい笑顔が脳裏をよぎる。
﹃ね。辞めるなんて言わないでよ。君がいないとさみしくなる。篤
仁だってあんなに楽しそうに君に構ってるしね﹄
287
根暗で卑屈、人の弱みにつけこむのが得意な雀野のせいで、あた
しは辞めるタイミングを逸していた。それは美月様の笑顔が一番の
理由だったが、それだけかと言われるとほんの少しひっかかること
がある。
鷹津は毎回、なぜかあたしの隣に座ってお菓子やら何やらを差し
出してくる。それらは常に美月様たちに用意されたものとはわずか
に異なり、ともに食する罪悪感を軽減させてくれた。
最初に出されたユズジュースこそ口に合わなかったが、それ以降
は実においしい一級品とよべる品々が出された。いや、別にほださ
れたわけではない。餌付けされたのでもない!
本来あたしがのぞむお茶会とは、辰巳と一緒に同じ席で同じもの
を食べることだ。
ではなぜ、気になるのか。それがわからない。
あたしは辰巳の物言いたげな視線に気づかぬふりをして、今も生
徒会補佐の補佐見習いとして籍を置いている。
膠着状態に陥っていたわけだが、可もなく不可もないこの状況。
少し、油断していたのかもしれない。
高い位置でしっかり一本にまとめた髪。
ピアスも今日は外して、濃いアイメイクもマスカラも頬紅も中止
だ。
スカート丈も膝下、ブラウスもはみ出していない。靴下も指定通
りの純白。
あたしはくるっとまわって辰巳を振り返った。
﹁どーお?﹂
288
﹁そういったお姿もよくお似合いです。鳳雛学園の模範的な制服姿
です﹂
その答えに満足したあたしは、カバンを手に意気揚揚と離れを出
た。
門扉で行き会った美月様は、あたしの姿に目を丸くした。
﹁どーしたの!? アキラ!﹂
﹁ん? なにが?﹂
我ながら白々しい。だが、ちょっとだけ美月様の素直な反応を楽
しませていただいた。
﹁なんで今日はしっかりした格好なの!?﹂
あたしはにやにやと緩む口元を抑えた。
﹁なんかぁ、今日はそういう気分だったっていうか﹂
﹁めずらしーい! でも新鮮で、なんだかいい感じだよ、アキラ!﹂
﹁ありがと!﹂
それからの道中は見ものだった。
すれ違う鳳雛学園の生徒たちは一様にぎょっと目をむき、自分の
正気を確かめていた。それをストレートに表現してくれたのは、上
都賀さんの﹁あなた、とうとう頭がおかしくなったの?﹂の一言だ。
まともになったと思ってもらえないのが日ごろの行いというものか。
しかし当然あたしの頭はおかしくもまともにもなっていない。
いきなりこんな大変身を遂げたのにも理由がある。
風紀の柴犬こと松島少年が、ようやく﹃事前連絡﹄というものを
覚えたのだ。
昨夜あたしのスマートフォンに届いた松島からのメールは、風紀
委員によって不定期に行われる抜き打ち登校検査を知らせるものだ
った。
松島いわく罰則者にはペナルティが課せられるとのことだ。
罰則者という汚名を着ることに抵抗はないが、そのペナルティと
やらが恐ろしい。また放課後捕獲されて反省文なんてごめんだ。面
289
倒事を回避すべく、あたしは一時学園の悪魔、ワガママ女王の名を
返上することにしたのだ。
﹁あれ、どうしたのかな。人だかりができてるね﹂
﹁え∼、ホントだ∼! 何かあるのかな﹂
﹁わたし見てくるね!﹂
美月様は、てててっと小走りに校内をのぞきこんでからまた帰っ
てきた。
﹁風紀委員の抜き打ち検査だって!﹂
それを聞いた上都賀さんは、露骨にうろんげな目をあたしに向け
た。ま、バレますよね。あたしは素知らぬ顔で堂々と言った。
﹁そっか∼、検査かぁ。でもあたしは大丈夫だな! この通りの模
範的な生徒だし﹂
﹁あなたの口が曲がればいいのに﹂
﹁やっだー、もう綾乃たんってば愛情表現きつい∼﹂
﹁黙って。⋮⋮まぁ面倒ではあるけど、わたしや美月ちゃんには関
係ないわね﹂
当然ながら美月様や上都賀さんは、常日頃から校則違反など一つ
も犯していない。鳳雛学園の生徒たちは大半がそんなもので、抜き
打ちだろうが慌てふためく生徒はそうそういないだろう⋮⋮⋮と思
っていたのだが。
なぜか校門前は、鏡を見たりカバンの中をごそごそしたりと忙し
そうな生徒たちが群れをなしていた。
﹁ねえ、誰か定規もってない!?﹂
﹁靴下止め貸して!﹂
﹁校章バッジなんて式典のときしか付けないよー!﹂
普段の落ち着きはどこへやら、ぎゃーぎゃーと大騒ぎだ。
﹁え、本当になんなの。なんか怖いことでも起きるの﹂
今度は演技ではなく本気で困惑してしまう。好奇心半分恐れ半分
290
で長蛇の列の先をうかがうと、その理由がなんとなくわかってきた。
それと同時にあたしの顔からも血の気が引いていく。
﹁やだ∼、スカート丈あと一・八センチも足りないの!? 身長伸
びていたんだわ﹂
﹁まずい、角度が五度もずれている! どうして曲がってしまうん
だ!?﹂
生徒たちは互いのスカート丈や校章バッヂの位置を定規で計りあ
い、髪の毛を整え、薄付の化粧や整髪料をごまかそうとしている。
とはいえ、彼らは手直しの必要もないくらい模範的な学生の姿に見
えた。違反行為をしているようには思えない。
しかしここは鳳雛学園。
もともと規律を守っている生徒たちを対象とする検査ならば、ハ
ードルが異様に高いのが当たり前なのだ。
一・八センチ!? 五度!? おい、そこの男子生徒。分度器持
ち出して何やってんの。ウソでしょ、制服の何の角度直すつもりな
の!?
油断した。これは、あたしの付け焼刃模範生徒コスプレでは潜り
抜けられないかもしれない。
察しのよい上都賀さんも同じことを思ったらしく、ぷっとかわい
らしく噴出してあたしの肩をたたいた。
﹁せいぜい無駄な抵抗をするのね。美月ちゃん、行きましょ? 並
びながらちょっと整えれば私たちは平気よ﹂
﹁うん、ちゃんと校則を守っていれば怒られることないもんね! アキラも大丈夫だよ、行こう!﹂
﹁ん、あ、うん⋮⋮﹂
すっかりしぼんでしまったあたしのやる気。どうしてくれようか、
松島。肝心なことを伝えそびれるあの柴犬は、一度よ∼く躾ける必
要がありそうだ。
291
検査は昇降口前で風紀委員と学生指導教員たちによって行われて
いた。各学年のクラスごとに並び、一人ひとり検査を受けてから校
舎に入る。
﹁スカート丈は膝下十センチです。これは八センチしかありません
ね﹂
﹁ヘアゴムは黒か茶と決まっています。花模様は許されていません﹂
﹁靴下は白の無地に限ります﹂
﹁この雑誌は学業に必要なものですか﹂
自分の番が近づいてくるにつれ、風紀の厳しい追及の声がよく聞
こえてくる。重箱のすみをつつくような執拗なやり口に、あたしは
大きくため息をついた。
恨みはしたが、どうせなら松島にあたってほしい。そうすれば少
しは甘く採点してくれるだろう。だが、残念ながら女生徒は女性の
風紀か教員が担当する決まりがあるようで、あたしのいるB組女子
担当は家庭科の鶏がらみたいなオバサマ先生だ。普段は白河の名前
を気にして黙っている彼女も、今日ばかりは学校行事の名目を借り
てぐちぐちとあたしを袋叩きにするのだろう。
隣の列の美月様のほうをうかがうと、きりっとしたポニーテール
の風紀委員であろう女生徒がきびきびと検査を進めていた。美月様
は少し緊張した面持ちだが、上都賀さんが何か軽口でも飛ばしたの
だろう、かわいらしい笑みを浮かべている。これなら心配はいらな
いだろう。
さて、いよいよ回ってきたあたしの番。
鶏ガラ先生はくいっと張りのない細い首を動かすと、上から下ま
であたしをじろじろと見た。
﹁白河アキラさんね﹂
﹁はぁい﹂
﹁あなたはあっちよ﹂
﹁へ?﹂
292
鶏ガラ先生は校舎の中を指さした。まだ検査も受けてないけど、
行っていいの? 一瞬期待してしまったが、やはり甘かった。彼女
が示したのは校舎ではない。
下駄箱の先で背筋を伸ばしてあたしを待ち構えている長身のシル
エット。
言わずもがな、鋼の男、風紀委員長城澤隆俊だ。
﹁おはよう。君は俺が直接指導したほうが良いという意見が出た﹂
﹁⋮⋮朝っぱらからゴクローなこって⋮⋮﹂
城澤はいつかのようにあたしの手首を拘束し、誰もいない廊下を
足早に歩いていく。
﹁も∼、だから逃げないよ! 逃げるつもりなら最初っから来ない
っての﹂
﹁そうだろうな﹂
﹁わかってるなら手、離して﹂
ぐんぐんとおかまいなしに進む城澤の背中に強く言っても、城澤
はおかまいなしだ。
油断その二。今更制服をただしてみたところで、あたしはもはや
通常の検査対象とはみなされていなかった。だからこんな特別扱い
なんのだろう。
以前より城澤への苦手意識は減っていたが、こういうことなら話
は別だ。城澤は冗談も白河の家柄も通じない面倒な男だ。罰則フル
コースの予感に震えてしまう。
通いなれた特別棟最上階だが、城澤が目指した先はいつも入る生
徒会室ではなくその隣の風紀室。城澤はあたしを先に中に入れると
後ろ手に重い扉を閉めた。
﹁ねー城澤ぁ。見てもらえばわかると思うけど、あたし今日はそん
なにヒドい格好じゃ⋮⋮﹂
293
﹁なぜ俺を呼ばない?﹂
あたしの弁解をさえぎり、城澤は鋭く言った。
﹁なぜ、俺を呼ばなかったのかと聞いている﹂
城澤はひどく重たく冷えた目であたしを見下ろしている。
﹁伊知郎を通して伝えているはずだ。聞いていないとは言わせない﹂
﹁や、松島からは確かに聞いてますけど﹂
城澤が怒気を散らす理由がわからず、あたしは一歩あとずさるが、
扉を背に立っている城澤からは逃げられない。
﹁ならなぜ。教室にも風紀室にも来ない、伊知郎伝いでも連絡一つ
よこさず、どうしていた﹂
﹁だって⋮⋮。城澤のこと呼ぶ必要なかったから﹂
これはちゃかしたりできる雰囲気ではない。あたしが真面目に答
えると、城澤はきゅっと眉をひそめてから大きなため息をついた。
張りつめた空気が緩む。
﹁まったく、君は⋮⋮﹂
﹁ねぇ、何怒ってんの? 怖いよ?﹂
まだ何もしてないよ、とあたしが言うと、城澤は諦めたように首
を振った。
﹁もういい。よくわかった。君はとても素直だ、それは評価すべき
美徳だが危ういな﹂
城澤の感想に、あたしはぎょっと目をむいた。今まで言われたこ
とのない言葉に、鳥肌がぞわりと立つ。
﹁はぁ!? あたし以上に頭腐ってんの!?﹂
﹁腐っていない﹂
城澤はしわの寄った眉間をもむと、仕切り直しだとあたしを検分
し始めた。
﹁髪、ピアス、化粧、スカート丈、ブラウス、靴下﹂
294
つらつらと唱えた城澤は、腕を組んで頷いた。
﹁これは以前、俺がアキラくんに改善を促した点だ。細かいところ
はともかくとして、一応直っている、と言える﹂
﹁でしょ? えらい?﹂
﹁偉い。だがその反面、つけていない校章、よれよれのカバン、上
靴のカカトを踏み潰しているところ、その他もろもろの俺が注意し
ていない点はまったく直されていない。これを素直と言わずになん
と言う?﹂
う、と黙ったあたしに、城澤は重ねて言った。
﹁何かあってもなくてもいいから呼べ、と言ったのに、必要がない
からと俺を頼らない。それもある意味素直だ﹂
いや、それは素直とかじゃなくて普通だ。用事もないのに呼ぶヤ
ツがいるか。だがあたしの心の突っ込みは届かない。
﹁仕方ないからこうやってこっちから理由をつけて君を連れてこな
くてはいけなくなった﹂
﹁まさかあたしのこと呼び出すために検査始めたの?!﹂
﹁ついでだ。先輩としての義理だけじゃなく風紀の務めも果たせる。
一石二鳥だ﹂
はたしてどちらがついでなのかハッキリしない答えだったが、こ
の鋼の男は大真面目に言ってのけた。
295
悪魔の油断︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
296
悪魔と鋼の男の歪み
さて、と城澤はボードとボールペンを持つと、一つ一つ声に出し
ながら確認をしていく。
﹁髪の色は地毛だと聞いている。根本の色も同じだからいいだろう。
髪もしばっているし、ゴムも問題ない。しいて言うなら耳の横にた
れている房もまとめるべきだ。薄付きではあるが、化粧をしている
な? 身だしなみにしても学生がすべきではない。ブラウスも第一
ボタンまできっちりとめなさい。校章バッジはどうした﹂
﹁あー、忘れた﹂
﹁きちんと常につけなさい。それからスカート丈は⋮⋮﹂
﹁わかったわかった、ストップ!﹂
どこまでも続きそうな城澤の説教に、あたしは大きく手を広げ、
降参のポーズをとった。
﹁要点だけでいいよ、もうあきらめた。あたしは罰則何したらいい
の?﹂
﹁反省点はきちんと聞くべきだ。そうすれば君のことだ、次回は改
善してくるんだろう﹂
﹁さーね。で、また反省文書けって?﹂
﹁ああ。五枚と一週間の奉仕活動だな﹂
さらっと言ってくれるものだ。あたしは下品に舌うちをした。そ
れを城澤が目線だけで咎めてくる。
﹁まだ検査は終わっていない。⋮⋮むしろ、これからが本番だ﹂
﹁え?﹂
297
あたしが眉をひそめると、城澤はあたしの薄いカバンをさっと取
り上げた。
﹁中を確認させてもらってもいいか﹂
﹁ええー!?﹂
それはちょっと困る。勉強道具など一切入っていないカバンには、
かわりに報告用手帳と情報たっぷりのスマートフォンやら何やらの
あたしの秘密道具が入っている。一見しただけでは詳細はわからな
いはずだが、堂々と見せたいものではない。
﹁全員がやっていることだ、我慢してほしい﹂
﹁⋮⋮ハズカシいから、あんまりじろじろ見ないでよ﹂
﹁わかった。本来なら女性の担当者がやることだ、君が自分から見
せてくれればいい﹂
城澤はカバンをあたしに返し、テーブルの上に中身を出すように
命じた。
あまり抵抗するのも得策ではない。あたしはしぶしぶと、だが素
直にカバンの中のものを並べて行った。
﹁手帳とー、筆箱とー、化粧ポーチにー、ハンカチでしょ。スマー
トフォン、財布。こんなもんかな﹂
何しに学校に来ているのか、と呆れられることを覚悟していたの
だが、城澤はこちらが驚くほど真剣なまなざしをテーブルの上に向
けていた。
﹁ポーチの中は。ポケットの中もだ﹂
﹁そこまで見るのォ?﹂
﹁頼む﹂
あたしはいぶかしみながらも、ポーチの中身を取り出した。なん
てことはない、コンパクトにマスカラ、リップといった化粧品に、
いつもの棒付飴が三本。それだけだ。
空のカバンとひっくり返したポケットを確認した城澤はハッキリ
とわかるほど肩の力を抜いた。眉間のしわも減っている。
298
その様子に、あたしはぴりっと心が痛むのを感じた。
普通の先輩後輩みたいな関係がもてたら、なんて理想は持ってい
ない。それに似た体験ができてちょっと、ほんのちょっとうれしか
っただけ。
勘違いしないでね、あたし。
胸の内で呪文を唱えたあたしは、意地悪げに口元をまげて笑って
見せた。
﹁満足した?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
あたしは生徒会室での定位置であるソファにどっかりと座った。
風紀のソファは少しばかり固いようだ。生徒会のあの無駄にやわら
かいクッション性よりは慣れた感触だ。
今回のこの検査は確かにあたしのために行われたのだろう。しか
し職権乱用などではない。城澤は風紀としての職務を全うしている。
あたしはこの場で、検査の結果如何では即刻糾弾されるところだ
ったのだ。
﹁で、どんな疑いがかかってたのか教えてくれんの?﹂
﹁先日、風紀に投書が届いた。写真付きでな﹂
城澤は自分のデスクからファイルを取り出し、開いた状態であた
しに差し出した。白河アキラが鳳雛学園にふさわしい生徒ではない、
即刻生徒会をやめさせるべきである、といった内容のことがびっし
りとタイプされた紙がはさまっていた。
隣のページには少しピントがずれているが、十分にあたしである
ことはわかる写真が二枚。窓枠にもたれたけだるげなあたしが口元
にナニカをくわえているところと、指ではさんだナニカを顔から離
して息をついているところ。
﹁これと同等の投書が複数ある。風紀としては事実確認をする必要
299
があった﹂
はっきりと口にしない城澤に、あたしは彼の内心をかわりに言っ
てあげた。
﹁風紀委員長はあたしがタバコ吸ってるって思ったんだ﹂
﹁そういう指摘があった、というだけだ﹂
ウソばっかり、わざとらしく目線そらして気まずそうな顔をして。
だからあたしもわざとらしく大きなため息をついた。
﹁なぁ∼んだ! 会いたがってくれてたんじゃないんだ∼。こォ∼
んなひどい疑いかけられてたんだ∼! しかも逃げられないように
全校生徒一斉抜き打ち検査やるほど真剣に!﹂
城澤もこの皮肉に黙り込む。
ところで、風紀も盤石ではないらしい。城澤のもくろみはあんま
り役立たない柴犬松島くんの手により、風紀の内側から瓦解してい
る。
﹁残念だったね、委員長! あたしタバコはきらいなの。くさいし、
体に悪いっていうし﹂
悪ぶるのにはいいかもしれないが、美月様に副流煙という害を与
えるわけにはいかない。もとは愛煙家であった当主様も美月様の誕
生を機にきっぱりやめているので、白河家は完全禁煙だ。
﹁君がタバコを吸っているなんて思っていない﹂
またウソ。
あたしはじわじわと湧き上がる苛立ちに、つい言葉を重ねてしま
う。
﹁そお? じゃあなんでこんなところ呼び出したの。みんなの前で
持ってないって証明させてくれればいいのに﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁大丈夫だよ、吸ってないし持ってないから。この分厚い手帳の中
身くりぬいて隠し持つ、なんてミステリーっぽいこともやってない。
300
ほら、匂いもしないよ?﹂
あたしは城澤の制服の詰襟部分をひっつかみ、ぐいっと下に引き
寄せた。
間近にせまる凛々しい顔。あたしは鼻先がくっつくくらいの距離
でささやいた。
﹁疑ってたんでしょ﹂
﹁違う﹂
﹁違わない﹂
﹁違う!﹂
認めようとしないウソつきを突き離し、あたしはカバンに荷物を
戻し始めた。
﹁ねぇ、もう行っていいよね﹂
おかしいな。
あたしは自分の不調を感じ取っていた。
疑われるのは当然、嫌われるのも当然だ。
それなのにあたしは今、なんだかむず痒いような痛痒いような違
和感を覚えている。胸がざわついて気持ちが悪い。
乱暴にカバンに手を突っ込んでいると、横からそれを邪魔する大
きな手があった。
﹁触らないでくれない?﹂
﹁話を聞け﹂
﹁満足したって言ったじゃん。あたしココ嫌いなの﹂
﹁そんなに生徒会がいいのか﹂
﹁はぁ? ⋮⋮ああ、そうだね、風紀よりはマシかもね。姉さんも
いるし会長様や副会長様たちもいるし、居心地いいの。だからそん
な誹謗中傷受けても辞める気しないの。あーあ、会長様だったらあ
んな怪しい紙一枚であたしのこと疑ったりしないのにィ﹂
なんだ、これは。拗ねている子どもみたいだな。
301
辞める気まんまんのくせして、とあたしを笑うあたしが心の中に
いる。でも、なぜか止まらなかった。
﹁いたいっ!﹂
思わず漏れた自分の悲鳴に、あたしはビクリと肩を震わせた。
あたしの右手首をつかむ城澤の手に、急に力がこめられたのだ。
﹁痛いよ、離して﹂
努めて冷静に言ったつもりだが、それがはたして成功しているか
どうか。
﹁いやだってば!﹂
振り回してほどこうとしても、あたしの腕は城澤が捕まえた位置
からまったく動かない。そういえば、こいつは東条並の体格の良さ
だった。
﹁風紀が人畜無害の女生徒にこんな乱暴していいの!?﹂
そう叫ぶと、城澤は今までに見せたことのない表情を浮かべた。
ひどく冷えた鋼が、熱ではない強力な力でむりやり歪まされたよう
な、嫌な顔。
﹁人畜無害? 笑わせるな﹂
﹁うるさい! 離せ!﹂
城澤は暴れようとするあたしの腕を背中にひねりあげ、上体をテ
ーブルに押し付けた。
﹁うるさいのはお前だ。少し静かにしよう。話をしよう﹂
﹁いったぁ⋮⋮。話すことなんかあるもんか。これ以上何かするな
ら、こちらにだって考えがある。ここがお前のテリトリーだからっ
てなんでも通ると思うなよ﹂
急変した城澤の態度に少しばかり震えるが、あたしは目でカバン
の中のスマートフォンとかろうじて動く左腕の距離を測っていた。
何のつもりか知らないが、今の城澤はあたしといっしょでちょっ
とおかしい。今すぐここから離れるべきだ。
302
出入り口は城澤の背にある、スキをついてスマートフォンだけ取
って反省部屋に逃げ込むか。いや、あそこは中から鍵がかけられな
い。ならばデスクを間にはさんで少しでも距離をとるべきか。視界
に入れておいて逃げ回れば、少しくらいは間が持つだろう。助けを
求めるなら姉さんか雀野しかいない。幸い履歴から雀野の番号はす
ぐ呼び出せるはずだ。自分だけでどうにかすることができないのが
情けないが、そんなことに構っていられない。よし、そうと決まれ
ば︱︱︱︱︱︱。
あたしが必死に頭を回転させていると、ぱんぱん! と誰かが両
手を打ち鳴らした。
﹁そこまでにしてください! もー、落ち着くのは隆俊さんですよ
! 何やってるんですか。白河さん、ごめんね。でも話聞いてくれ
る?﹂
ひょこっと反省部屋から顔をのぞかせたのは、松島だった。
﹁最悪最悪最悪!!﹂
﹁すまない、本当に悪かった﹂
﹁暴力男、最低男、変態男!﹂
﹁申し訳ない、許してくれ﹂
﹁ちょーっと僕も弁解できないですね。アレはない。マジでないで
す﹂
松島のおかげで一気に気が抜けた風紀室で、あたしは赤くなって
しまった腕を冷やしてもらっていた。ビニール袋に入れた氷をタオ
ルでつつみ、優しく腕にあててくれる松島はかいがいしい。
﹁っていうか、なんでアンタもっと早く出てこなかったの!? な
んであそこにいたの!?﹂
303
﹁や、僕は保険っていうか。できるだけおひとりで解決したいだろ
うなあっていう心遣いだったんだけど、完全に裏目に出たねー﹂
﹁⋮⋮伊知郎も、すまなかった﹂
﹁はいはい﹂
松島は肩をすくめて笑った。
改めてソファに座りなおしたあたしたちは、松島を介して﹃冷静
な話し合い﹄をようやく始めることができた。
﹁ごめんね、白河さん。委員長は本当に君のこと疑ってたんじゃな
いんだよ﹂
﹁どーだか。じゃ、何の理由で?﹂
﹁うん。検査にかこつけて話し合いがしたかったんだ。言いたいこ
とは前と同じ。君は即刻生徒会を辞めるべきだ﹂
﹁理由は﹂
﹁もう見せただろ。あんな写真が広まるのは学園内の風紀にも、君
のためにも、白河家のためにもよくない﹂
松島の率直な物言いに、いつもの調子が戻ってきた。にやぁっと
あたしの唇が弧を描く。
﹁あんな写真? 笑える。アレはむしろ、あたしがうまくやってる
ことの証拠みたいなもんじゃない﹂
ぴく、と松島と城澤の左の眉が器用にあがった。そっくりの仕草
だ。
﹁どういうことかな﹂
﹁そっちこそわかってるんでしょ? 解像度少し上げれば、あの写
真に写っているのはあたしで、くわえているのは棒付飴で、あそこ
は職員室隣の印刷室だってことがす∼ぐわかる。そんなお粗末な偽
証拠写真であたしのことハメようとしたってことでしょ。逆にいえ
ば、あんなもんしか用意できなかったってことだ﹂
それだけあたしはボロを出さずに生徒会補佐の補佐という役目を
果たしている。
304
生活委員会の連中はあせっているはずだ。だから偽物とすぐばれ
るようなものでも使うしかなかった。
﹁褒めてほしいくらいだよね。今回の件は悪いのはあからさまに向
こうでしょ﹂
﹁けど、なにぶん相手が学園の悪魔白河アキラだからねぇ。今回は
一斉検査をした挙句のシロってことでなんとかやり過ごそうとして
るけど、もしこういった写真や噂が広まれば君の生徒会排除の要望
は学園の総意になるだろうね。せっかく君の評判があがってきてい
るのに、偽の証拠写真のせいですべてパァ。委員長はそれを心配し
てるんだ﹂
﹁心配?﹂
あたしが首をかしげると、松島は当然だ、と肩をすくめた。
﹁言ったろ? この人、君の更正を目指してるんだよ。でも匿名と
はいえ生徒からの申し立てがあった以上、風紀として調べないわけ
にはいかない。そして君に直接このことを伝え、できるなら問題が
大きくなる前に君が生徒会から引くことで丸くおさめたい。で、今
回の一斉検査に至ったんだけどね。穏便にいきたかったんだけど、
すべてはこの不器用な風紀委員長のせいです﹂
﹁⋮⋮伊知郎﹂
﹁異議申し立ては聞きませんよ﹂
眉間のしわを深くする城澤は、前かがみになって額を抑えながら
ちらりとあたしを見た。
﹁⋮⋮アキラくん、痛むか?﹂
﹁すっごい痛い﹂
﹁⋮⋮⋮申し訳ない﹂
頭を下げて繰り返す城澤を見ずとも、痛みは残ってもあたしのイ
ライラはもう消えていた。
﹁その、君を疑っていたんじゃない。本当だ。言い訳させてもらう
なら、検査が済んでこれから君とゆっくり話ができると思ったら気
305
がゆるんだ。なのにアキラくんは俺を信じないし、生徒会役員たち
のほうがいいと言い出すものだから、つい、その、なんだ﹂
﹁焼きもちならもうちょっと可愛く妬いてくださいよ。根が真面目
な分凶悪なんですよ﹂
﹁何の話だ﹂
松島は呆れて半目になって息をついている。
その様子は、まるであたしの悪さの後始末をする辰巳と通じるも
のがあった。
﹁⋮⋮なんなの、委員長と松島って。風紀ってだけの関係じゃない
みたいだけど﹂
﹁うん、まぁね。今でこそただの小さい会社やっててあんまり知ら
れてないけど、もともと僕の家って武家だったんだよね﹂
そう言って松島は東北のある藩の名前をあげた。
あたしはヘコんだままの城澤に視線を移し、彼のプロフィールを
思い返す。
父親は大学教授。専門は教育学、関東生まれだが本家は東北だっ
たはずだ。
﹁出身が同じ⋮⋮。そういや、あの地域っていまだに藩士同士のつ
ながり強いって聞くね﹂
﹁戊辰の辛酸忘れ難しって感じでさぁ。隆俊さんと僕の家は一番近
くにいる同郷人ってことで、幼馴染でもあるんだ﹂
﹁ああ、そういうことだったんだ。⋮⋮あ、もしかして前風紀委員
長も⋮⋮﹂
﹁勘がいいね。歴史的に見ちゃうとさ、この学園だと周囲はどうし
ても僕らにとっては仇敵ばっかりになったりするでしょ? だから
頼る先はどうしても同藩出身の気心の知れた仲になるんだよ﹂
城澤が二年生という立場で風紀委員長を務めているのも、松島が
一年生にしてただ一人の風紀委員になっているのも、彼らには生ま
れる前からの強い信頼関係があったことが理由らしい。
306
﹁いやいやいや、ちょっと待って。なら松島、なんであたしに今日
の検査のことバラしたの﹂
﹁え?﹂
﹁え、じゃないでしょ。あたしのタバコ疑惑解決が目的なら言っち
ゃダメじゃん! 持ってくるわけないよ! しかもあたしのこの真
面目な格好見てよ、検査があるって知ってたってバレバレじゃん!
ばか!﹂
﹁ああ、問題ないよ﹂
松島はケロリと言った。視線を交わした城澤はあとに続ける。
﹁筋書きはこうだ。アキラくんは今日から心機一転、心身ともに素
行改善をはかることにした。しかしそこへ偶然の一斉抜き打ち検査、
厳しい検査とペナルティを課せられる。いまだ不十分だと自覚した
ことで生徒会補佐の補佐を辞退することを決意﹂
﹁何それ、意味不明なんだけど。⋮⋮タバコは?﹂
﹁だから言っただろう。最初から持っているとは思っていない﹂
きっぱりと言い切った城澤は、ようやく顔をあげてあたしを正面
から見た。
﹁白河さんが制服整えてきたところは多くの生徒が見てるからね。
さらに罰則受けてるところも見れば、白河アキラ更正計画がちゃー
んと進んでるって思うでしょ。でもこれ以上は生徒会にいないほう
がいい。生活委員会はエスカレートしていくよ、君だってお姉さん
に迷惑かけたくないだろ?﹂
﹁あとは、明日からもアキラくんがその格好で登校してくれば問題
ない﹂
﹁勝手に話進めないでよ。白河アキラ更生計画ってなに!?﹂
城澤も話しているうちに立ち直ったらしく、いつもの鋼の男らし
く姿勢を正してあたしの不満をはねのけた。
307
﹁もう七月に入る。夏休みが明ければ本来生徒会補佐が任命される
べき九月だ、補佐の補佐がそこで引退となったところで不自然では
ない。むしろアキラくんの功績になるだろう。今の時点で辞める時
期を明言すれば被害はおさまるはずだ﹂
城澤の言葉は、まさにピカリとあたしの頭の中で輝いた。
﹁⋮⋮それだ﹂
﹁ん? 何がだ﹂
あたしは腕に当てていた簡易氷嚢を落としたことにも気づかず、
唇に指をあてて考え込んだ。
まったくもって正しく、鮮やかな引き際だ。
城澤たちに言われるまでもなく辞め時を探し、ずるずると引き延
ばしていたあたしだったが、それはまさにピッタリの案だった。
﹁いろいろ突っ込みたい点はあるけど、それ採用﹂
﹁なに?﹂
﹁おっけー、わかった。あたし辞めるわ﹂
﹁い、いいの!?﹂
二人だってそれを望んでたんでしょう、とあたしが呆れて言うと、
風紀凸凹コンビはぽかんと口をあけた。
﹁いや、まさかこんなにあっさり決めてくれるとは思わなくて⋮⋮。
どう交渉進めようか、いろいろ考えてたから﹂
﹁なーんか生徒会の雑務ばっかでつまんないし、会長たちはあたし
にかまってくれないしィ。もっと玉の輿ルートにのれそうな展開が
あるかなって思ってたのにとんだ期待外れだった! だから辞めて
もいいかなって﹂
作っていた通りの辞める理由をべらべらと語れば、さすがは学園
の悪魔と二人はそろって口を閉めなおす。
﹁なんなら辞めることは今回のペナルティとしてもかまわないけど﹂
﹁いや、そこはアキラくんが自主的に辞めるという意思を固めた方
向でいこう。そのほうが波風がたたない。その発表については風紀
も協力して⋮⋮﹂
308
こんこんこん。
これからどうするか、という話を進める途中で、不意にノックの
音がした。
﹁風紀が戻ってきたの?﹂
﹁いや、違う。まだ検査は済んでいないはずだ﹂
松島がいち早く立ち上がって扉に近寄った。しかし、扉は松島が
手をかける前にゆっくりと開いていく。
﹁失礼する。生徒会の者がこちらにお邪魔しているはずなので、引
き取りに来た﹂
そこには一部の乱れもない制服姿の鷹津篤仁が、優雅に微笑みを
浮かべて立っていた。
309
悪魔と鋼の男の歪み︵後書き︶
間がずいぶん空いてしまいました⋮⋮。
読んでくれる方がいることを願って。
ご意見、感想をお待ちしております。
310
大鷹の心配、素知らぬ悪魔
目線だけで松島を下がらせた鷹津は、悠々と風紀室に入り込んだ。
﹁風紀委員長の城澤くん。こうして直接話をするのは初めてですね。
二年生ながら風紀を立派に率いる優秀な生徒だと聞いています﹂
﹁いえ、まだまだ未熟者で﹂
立ち上がって礼をする城澤に、鷹津はにこやかに笑った。
﹁謙遜する必要はない、鳳雛学園の風紀委員を務めるというのは生
半なことではないからね。こうした規模の大きい一斉検査が滞りな
く進んでいるのは、間違いなく君の手腕によるものだ﹂
城澤はお褒めの言葉に恐縮したようで、黙ったまま再び軽く頭を
下げる。
﹁さて、そんな君のことですから、もうそこの問題児の検査は済ん
でいるんだろう。迷惑をかけて申し訳ない﹂
鷹津の口ぶりから、先ほどまでの話は聞かれていないようだと胸
をなでおろす。しかしなぜここに鷹津がいるのか。
ドアを背にしたソファに隠れているあたしだったが、鷹津はそん
な無駄な抵抗を無視して背もたれ越しに腕を伸ばし、あたしの頭を
なでてきた。
﹁ほら、帰るぞ﹂
﹁⋮⋮会長、何しに来たんですか﹂
﹁迎えにきたんだ﹂
﹁なんで?﹂
﹁さっき美月さんと会ってね。アキラがここへ連れ込まれたという
311
から。おや、なんだ、今日はいい子ぶった格好じゃないか﹂
そう言って手を差し出した鷹津に、城澤は静かに待ったをかけた。
﹁会長。彼女とはまだ話が終わっていません﹂
﹁うん?﹂
﹁白河アキラくんとは面談の途中です﹂
﹁もう十分だと判断するが﹂
﹁まだ問題点は過分に残っています﹂
﹁なら俺も同席しよう﹂
﹁いえ、これはアキラくんの個人的なことですので、遠慮願います﹂
おおっ、すごい!
あたしは思わず姿勢をただし、ぴしりとソファに座りなおした。
いくら猫かぶりモードとはいえ、鷹津相手に言い返すとは。恐る
恐る鷹津の様子をうかがうと、同じことを思ったのか、いたぶりが
いのあるネズミを見つけた猫の顔になっている。
﹁アキラ。彼はああ言っているが、どうなんだ﹂
﹁え﹂
なぜ、あたしに振ってくる。
﹁あまり美月さんに心配をかけるものじゃない。今も扉の向こうで
待っているんだぞ﹂
﹁姉さん来てるの!?﹂
﹁ああ。一緒に来たがってな。俺がすぐ連れてくるから、となだめ
たんだが﹂
困ったな、とまったく困っていない顔で鷹津が言う。
憎たらしいが、こいつのいうコトはイチイチあたしの弱みをつい
てくる。
本当ならまだ城澤と話をしたいのだが、学園の悪魔が風紀室に居
座りたがるのも不自然だ。何より美月様をほうっておくわけにはい
かない。
312
﹁城澤ァ、あたしもう行っていいよね?﹂
﹁⋮⋮アキラくん﹂
わかってるわかってる。あたしは城澤をじっと見てから一瞬だけ
松島に視線を投げた。松島経由で連絡をとるから、しばし待て。そ
ういったつもりだ。
﹁まったく⋮⋮。しかたない、続きは罰則を受けてもらうときにし
よう﹂
﹁げっ﹂
しまった、それもあったか。
﹁そればかりはあきらめるしかないな。お許しもでたし、アキラ、
行くぞ﹂
演技ではなくしかめっ面をしたあたしを笑うと、鷹津は改めてあ
たしの手をとろうとし︱︱︱︱︱そして、低くうなった。
﹁なんだ、これは﹂
鷹津はあたしの赤くなった腕を優しくすくいあげた。
﹁城澤風紀委員長。どうしてアキラの腕がこんなことになっている﹂
さきほどまでのにこやかな仮面を捨てた鷹津は、本来の暴君の顔
を取り戻していた。これにはさすがの城澤も顔色を変える。
﹁それは⋮⋮﹂
﹁男二人で女生徒相手に何をするかと思えば⋮⋮。お前は信頼にた
る男だと思っていたが、前言撤回だ。そこの君も同罪だ﹂
剣呑に目を細めた鷹津は、松島へも牙をむいた。
﹁床に落ちている氷嚢もどきは手当のつもりか。けが人相手にろく
な処置もせず身だしなみの検査を優先させるとは、大層なことだな。
風紀はいったい何をしているんだ﹂
反論できずにいる城澤に、なぜかあたしのほうが辛くなってきた。
鷹津に正面からにらまれるプレッシャーは相当だろう、背後から感
じる怒気はすさまじいものがある。
313
確かに指のあとが残るほど強くあたしの腕をつかみあげたのは城
澤なのだが、城澤を責める気はない。
﹁か、会長? 違うよ、なんか誤解してない?﹂
﹁何が誤解だ﹂
﹁あの、えっと﹂
黙っていればいいのについ口を出してしまい、後悔する。何も考
えはまとまっていない。
﹁えー、あー、ん、と﹂
ぎろり、とにらまれてしまえばもう言葉は出てこない。城澤はす
っかり消沈しているし、松島は鷹津にあてられて震えていた。いや、
そうではない。挙動不審な松島はこっそりと後ずさりし、一人唯一
の脱出口へと向かっていたのだ。おいコラ、逃げる気か! 卑怯者!
あたしの心の叫びも届かず、松島は扉へたどりつき後ろ手に扉を
開けた。
しかし、松島は逃げ出そうとしたのではなかった。
﹁あっ、開いた!﹂
鈴の音のような声に、あたしはハッと鷹津の手をふりほどいた。
﹁すみませ∼ん、失礼します⋮⋮。白河アキラいますか?﹂
﹁ねえさんっ!﹂
ああ、まさにあなたは救いの女神! ひょっこりとのぞきこんできたのは、美月様だった。松島は彼女
の介入を目論んだのだ。よくやった、鷹津も美月様の前でならそう
怖いマネはしないだろう。
﹁あっ、アキラ! 大丈夫? 怒られなかった?﹂
﹁うん、だいじょぶ!﹂
この場から逃げたい一心で美月様に駆けより、両手を広げて抱き
ついた。
﹁ねぇさ∼んっ﹂
314
﹁ふふ、甘えただね。あれ、腕、赤いよ? どうしたの?﹂
今それで面倒なことになってるんです!
しかし不思議と美月様がいると冷静になれて、口からでまかせが
ポンポン飛び出てきた。 ﹁や、城澤怖いし罰則イヤだし、逃げようと思って暴れたら階段か
ら落ちそうになってさー﹂
﹁え! 危ないじゃない!﹂
﹁うん。でもそこを城澤が支えてくれたんだ。あいつ馬鹿力で逆に
腕ちょー痛くなったんだけど﹂
﹁痛いね、平気? でもそれならアキラが悪いんじゃない。まった
くもー⋮⋮﹂
﹁そんなつまらない嘘で説明をしたつもりか!﹂
鷹津の鋭い言葉に、美月様がびくっと震えた。
﹁アキラくん、かばう必要はない。悪いのは俺だ﹂
馬鹿正直な城澤は真摯に言った。でも、そんなのどうでもいい。
﹁かばう? そんなつもりない。まァ、最初っからおとなしくして
ればこんなケガしないですんだかなって反省はしてるけど﹂
そう、あたしが拗ねて暴れただけだ。城澤があたしの喫煙を疑っ
ているんだなって思ったら、悔しくなった。だから必要以上に挑発
して城澤を怒らせた。城澤は、あたしのことちょっとばかり信用し
てくれていたみたいなのに。
だから、この痛みは痛くないのだ。
﹁ね、ねぇ。どうしたの? アキラ、城澤先輩はアキラを助けてく
れたんじゃないの?﹂
﹁そうだよ。助けてくれようとしてるよ﹂
生活委員会からも、生徒会補佐の補佐の役目からも。
﹁それなら、やっぱりちゃんとお礼を言わなきゃダメだよ﹂
ね、とあたしをやさしく諭す美月様。それを鷹津は一刀両断した。
315
﹁礼なんて言う必要はない。アキラ、お前は何一つ答えてはいない。
美月さん、なぜ入ってきた? 俺がアキラを連れ出すと伝えたはず
です﹂
﹁あっ⋮⋮、ご、ごめんなさい﹂
鋭い眼光を直接あびて、美月様は小柄な体を一層すくめた。鷹津
はいつも穏やかに鷹揚に美月様に接していた。こんな高圧的な態度
をとったことはなかったはずだ。
おどおどとおびえる美月様の様子に、ぞわりとあたしの闘争本能
がかきたてられる。怖さよりも、美月様を守るという意識が前に出
た。
﹁姉さんにそういう言い方やめて。あたしのこと心配してくれてる
の﹂
真っ向から鷹津を睨み付ける。
すると、鷹津は珍しく苦々しげに口元をゆがませた。
﹁この強情め。もういい﹂
鷹津はスイッチを切り替えたかのようにまた仮面をつけなおすと、
いくぶん穏やかに言った。
﹁風紀委員長。あの子相手では多少強引にならざるを得ないのもわ
かる。しかし限度というものがある。気を付けてくれ。⋮⋮二度目
はない﹂
﹁はい﹂
﹁アキラ、来い﹂
さっと身をひるがえした鷹津は通り過ぎざまにあたしの腰に腕を
まわすと、引っ立てる勢いで歩き出した。あたしは転ばないように
反射的に足を前に出すだけだ。
﹁うわっ、危ないんですけど!﹂
﹁足は怪我していないだろう、ちゃんと着いてこい﹂
﹁かいちょう!﹂
﹁黙れ。美月さん、先に教室へ戻っていてください。俺はこのじゃ
316
じゃ馬を保健室に連れて行きます﹂
鷹津は美月様を一瞥もせずに言い放つと、あたしを連れたまま風
紀室を出て行った。
後から思う。
このとき、美月様はどんなお顔をしていたのだろう。
幸いなことに特別棟から保健室へと向かう道に生徒の姿はなかっ
た。おかげで鷹津と連れ立っているところを見られないで済む。
しかし美月様がそばにいない今、再び鷹津のそばにいる恐怖が蘇
っていた。
﹁あ、あのォ⋮⋮﹂
沈黙に耐え切れなくなって声をかけてみる。
鷹津はふだんのむかつくほどに余裕綽綽な態度はどこへやら、苛
立ちを隠そうとしなかった。だがそれは怒りというより、子どもが
むくれているのに近いように思えた。明らかに風紀室にいたときと
雰囲気が違う。
鷹津はじろっとあたしを見下した。
﹁お前は本当に強情だ﹂
﹁はぁ﹂
またそれか、とあたしは返答に困り、適当にあいずちを打つ。
﹁腕、痛かっただろう﹂
﹁別に、そんなに痛くないですよ﹂
いたわるような言葉にちょっと驚いて、あたしはぷらぷらと腕を
振って見せた。だが逆効果だったようで、鷹津はくわっと目をむい
317
た。
﹁こんなにはっきり指の跡が残っていて、痛くないわけないだろう
!﹂
﹁え、いや、ホントですって﹂
これもまた心配してもらっているのだろうか。
さっきは城澤に心配された。美月様にも。離れに警報機をつけて
くれた敬吾さんにも。あたしは最近、どうも周りに心配ばかりかけ
ているようだ。
﹁お前はどうせ、何も言わないんだ﹂
﹁え?﹂
どういう意味か、と聞き返すと、鷹津はあたしを捕まえている腕
に力をこめた。
﹁どうせあの辰巳さんとやらにはビービー泣きわめいているんだろ
う。小さなことでも大きなことでも。だがそれ以外の人間には、何
一つ言わないんだ。それがどれだけ必要なことであっても!﹂
﹁⋮⋮誰に言うかなんて、あたしの勝手だ﹂
もし今、隣にいるのが辰巳だったら。考えるまでもなくあたしは
ビービー泣いている。腕が痛い、鷹津が怖い、罰則めんどうくさい。
不平不満をぶちまける。
だがそれがどうしたというのか。
何を言いたいのかはよくわからなかったが、なんだか理不尽なこ
とで怒られている。そんな気がした。わかっていないことがバレて
いるのか、鷹津はふん、と鼻を鳴らす。
﹁ああ、そうだろうな。お前は利用はするが頼りはしないんだ。そ
れもお前の勝手だ。だが腹立たしい﹂
﹁勝手に怒んないでよ。会長みたいな影響力のある人が怒ると、周
りはすっごく怖いんだけど﹂
さっきの美月様のおびえた姿が目に浮かんでくる。
﹁だったら強情も大概にしろ﹂
318
﹁はァ? なんなんですか、じゃじゃ馬だの強情だのと。あたしに
どうしろって﹂
意味不明な問答に不毛さを感じてストレートに聞いてみると、ま
たもやよくわからない答えが返ってきた。
﹁俺に言え、と言っている﹂
﹁何を﹂
﹁正直に、嬉しいことも嫌なことも、なんでもいい。俺を頼って俺
に泣きわめけ﹂
﹁なんで﹂
﹁それが夫婦ってもんだろう!﹂
﹁誰が!﹂
﹁俺たちがだ!﹂
本当に、ここに誰もいないでよかった。
バカと天才は紙一重というが、この男。
頭の中が腐りきっているのではなかろうか。
319
大鷹の心配、素知らぬ悪魔︵後書き︶
定期的に更新できない状況が申し訳ないです。
今後も不定期になってしまいますが、続けていきますのでお付き合
いいただけたら嬉しいです。
感想をくださる方、ありがとうございます!
続けよう、更新しよう、と気持ちが前向きになります。
それに文章がとても上手で、笑ってしまったり考えさせられたりと
勉強になります。
レスポンスがあるってわくわくしますね。
ご意見、感想をお待ちしております。
320
困惑する悪魔
アイラインで目を吊り上げさせ、四色のアイカラーを使ってグラ
デーションを作る。マスカラもたっぷりと。スカートは膝上までた
くしあげ、シャツの裾はきちんと出した。
最後にピアスをはめれば出来上がり。粒は小さくともルビーの放
つ赤い輝きは、あたしの気を引き締めてくれる。
学園の悪魔の完成だ。
が、しかし。
トイレの鏡に写ったあたしの腕、そこに巻かれた大げさな包帯が
目に入り、せっかく盛り立てたあたしのやる気が八割がた削がれて
しまった。
﹁ほんっとうに、あの男は何を考えてるんだろう﹂
底抜けに頭の悪い会話は保健室への到着により打ち切られ、鷹津
はふくふくとしたおばちゃん保険医の前にあたしを突き出した。
保険医は特に処置する必要はない、放っておいていいと言ってく
れたのだが、鷹津が﹁手当をお願いします﹂とにっこり繰り返した
ことでこんな腕になってしまったのだ。青ざめていた保険医には同
情する。あたしよりも鷹津の頭をよく調べてもらった方が有意義だ
ったろう。
包帯ぐるぐる巻きになった腕を満足そうに見やった鷹津は、恐ろ
しいことにあたしを教室まで送ると言い出した。そんなこと絶対に
避けたかったあたしは、お花を摘みに行くから! とその申し出を
断った。
321
ようやく一人きりになり落ち着いたところで、戦闘態勢を整えて
いたところなのだが。勢いはつかず、漏れ出るのはため息ばかりだ。
﹁ほんっとうに変な男。何が夫婦だ。敬吾さんが言ってたアレの一
環か?﹂
大道芸フェスティバルの際、鷹津のカッコつけ告白劇を前座の段
階でつぶしてしまったことで、鷹津は自身のプライドを守るために
あたしへのアプローチの真似事をするかもしれない。敬吾さんはそ
う言っていた。
だが、あれはアプローチとかそういう問題じゃない。いろいろす
っ飛ばしていなかっただろうか。
またもや鷹津の真意の読めぬ行動に、あたしは惑わされている。
﹁腕だってたいしたことないのに、こんなこと。まるで︱︱︱︱︱﹂
まるで。
あたしはぴた、と自分の思考を無理やり停止させた。
だって、そんなワケないから。
気の弱い男子生徒を卒倒させるほどの目力をこめ、あたしは鏡の
中の自分を睨み付けた。
気が重い。
足も重い。
あたしはいつも以上に気の抜けただらしのない格好で一日の授業
を乗り越えた。一瞬でいつもどおりの姿に戻ったあたしを見て、﹁
やっぱりね﹂とどこか安心したようなクラスメイトたちが愛おしい。
そう、あたしのことなんて遠巻きにしてくれていいのだ。
下手に近寄られると、多大なる面倒事まで寄ってくる。
松島からはあたしを気遣うメールが送られてきたが、返事をする
気にもなれなかった。
そして気づけば放課後、生徒会室へと向かう時間になってしまっ
た。
322
普段ならばこれもお役目、と割り切れるのだが、今日はなぜだか
非常におっくうだ。しかし行かないワケにはいかない。
﹁あー、ダルっ!﹂
演技ではなく本心から声をあげ、周囲の生徒たちをビビらせなが
ら席を立つ。今日は休み時間の巡回の折、美月様のお姿を見なかっ
た。朝の様子から健康状態には問題ないとわかっているものの、長
年のくせか気になってしまう。
生徒会室へ向かう足取りはのったりくったりとカタツムリのごと
し。
そこへスマートフォンがぶるぶると震えてメールの着信を告げた。
また松島か、と確認してみると、辰巳からだった。
﹃今日の検査はいかがでしたか。鈴屋の水まんじゅうを買ってきま
した。お帰りをお待ちしております﹄
漉し餡をぷるりとした本葛に包んだ上品な菓子は目にも涼しげだ。
もうそんな季節なのだな、と添付された写真に心が凪いでいく。
辰巳はまるであたしの心が全部わかっているみたいだ。なんとい
うタイミングで、なんという優しい言葉をかけてくれるのか。
今すぐ会いたい。
今日あったことを全部ぶちまけて、文句を言って、弱音を吐いて。
やっぱりあたしには辰巳じゃなきゃダメだ、と改めて確信したい。
そう思ったら、右腕の包帯が余計にわずらわしいものに見えてき
た。あたしはその場で包帯をむしりとり、湿布をひっぺがした。跡
なんて言われなくちゃわからないくらいに薄くなっている。ぐちゃ
ぐちゃになった包帯と湿布を乱暴にゴミ箱につっこんで、あたしは
背筋を伸ばして歩みを速めた。
323
﹁おっ、アキラやっと来たか﹂
﹁遅いんだけどー!﹂
﹁自覚が足りないわね﹂
ノックはするが返事をまたずに入室したあたしを出迎えてくれる、
生徒会役員の方々。いつもより十分遅れただけでこの仕打ちだ。
﹁はーいはい! みんなのアイドルアキラちゃんが遅くって心配し
たー? ごめんねー﹂
初瀬はいつものように﹁誰がアイドルだ﹂と吐き捨てると、荒々
しく書類をめくり始めた。雨宮はキンと冷えた目であたしを一瞥し、
自分の仕事に戻る。雀野は電話以外での接触を持たないようにして
いるから静かなものだ。これでいい、これがいい。
内心うんうんと頷きながら、あたしは笑顔をふりまいて定位置の
ソファに腰を下ろした。一番大きな会長用のデスクの主はまだ来て
いないようだ。顔を合わせたくなかったので少しほっとした。
﹁ねーえさん。遅くなってごめんね﹂
声をかけると、もくもくとパソコンに向き合っていた美月様はよ
うやくあたしに気づいてハッと肩を震わせた。
﹁あっ、ごめんね、アキラ! 集中しちゃってたみたい﹂
﹁ううん、邪魔してごめん!﹂
﹁いいの。あっ、それよりもう制服もどしちゃったの? お化粧ま
で﹂
﹁落ち着かなくて﹂
﹁ふふっ、ダメだよ? 校則違反です﹂
美月様は茶化すように腕をくんであたしを軽くにらんだ。
﹁今朝アキラが風紀室に連れて行かれたって聞いて、すごくびっく
りしたんだからね﹂
﹁う。ごめん﹂
﹁まったく、示しがつかないんだけどー! 仮にも生徒会補佐見習
324
いが風紀に補導されるとかありえない﹂
初瀬のヤジは聞かないふりだ。
﹁せっかくアキラががんばったのにいきなり連れてかれちゃったか
ら、私なんとかしなくちゃって思ったの。でもどうしたらいいのか
わからなくて、困ってたところに篤仁先輩が来てくれたんだ﹂
頬をうっすら赤らめて、美月様はとろりと瞳を潤ませた。その様
子にあたしはギクリとする。視界の端には真っ青になって頭を抱え
る雀野の姿があった。
﹁いい? 篤仁先輩が来たら、ちゃんとありがとうございましたっ
て言ってね﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
どうしよう。
これは本当にまずい。
美月様のこの態度、まったくもってよろしくない! 熱に浮かさ
れる少女マンガのヒロインみたいじゃないか! 読んだことないけ
ど!
前から兆候はあったのだが、最終的なキッカケがあたしとか最悪
だ。敬吾さんもブチ切れるだろう、ああ、なんということ⋮⋮。
意識が遠のきかけたあたしを現実に引き戻したのは、美月様のは
しゃいだお声だ。
﹁あっ、篤仁先輩!﹂
﹁遅れてすまない﹂
鷹津は悪びれることなくさらりと言った。
﹁今朝はすみませんでした、でもとっても助かりました﹂
﹁あなたが気にすることはありませんよ、むしろ教えてくれてよか
った。俺もアキラのことは気になっていたから﹂
美月様に微笑みかけた鷹津は悠然とソファを横切って席に着こう
とし︱︱︱︱︱立ち止まった。
325
﹁アキラ。腕の包帯をどうした﹂
﹁え﹂
またもやギクリとする。
めざといヤツだ、気づくのが早すぎる。
鷹津は不穏な空気を発しながらあたしを見下ろした。
﹁あ、えーと。朝はどーもありがとうございましたァ﹂
にこにこと笑う美月様に背中をおされ、あたしはおざなりに礼を
口にする。しかし、鷹津はそれを一蹴した。
﹁そんなことはいい。包帯は。湿布は﹂
﹁う、腕痛くないし、暑くなってきちゃったから、とった⋮⋮﹂
まさかゴミ箱につっこんできました、では花束のときの二の舞だ。
あたしはこれ以上の追及を避けようとソファの上で縮こまった。
﹁もう痛みはないのか。跡は﹂
﹁ないよ﹂
﹁篤仁先輩、アキラのことありがとうござまいした。手当までして
くれたんですね﹂
﹁いや、保健室に連れて行っただけです。アキラ、見せろ﹂
﹁えー、いいよ、もう﹂
しぶるあたしに鷹津は何を思ったのか、急にその場にひざまずい
た。
﹁うわっ! 何してるんですか! やめてください、汚れてしまい
ます!﹂
あたしは鷹津を立ち上がらせようと、つい敬語で両手を差し出し
てしまった。鷹津はそのタイミングを見逃さず、すかさずあたしの
腕をとる。
﹁ここ。青くなっているじゃないか﹂
鷹津はほんのわずかに青あざになっている部分を指でなぞった。
﹁ごく薄くです、問題ありません﹂
﹁跡が残ったらどうする﹂
326
﹁残らないと保険医も言っていました、もう大丈夫です!﹂
いくら思考回路が謎めいていようとも、俺様バカ殿であろうとも、
相手は鷹津家御曹司。そんな態度をとられると困るのだ。
﹁なんだアキラー。お前ケガでもしたのか﹂
あわててソファから降りていっしょになってカーペットの上に膝
をついたあたしに、池ノ内が能天気に声をかけた。
﹁あっ。いや、そーじゃないけど! もーっ! マジになんないで
よ! うっとうしいなァ!﹂
あたしは自分のとるべき行動を思い出し、おおげさなため息をつ
いて手を振り払った。
﹁アキラ﹂
﹁もう治ってるの! もともとたいしたケガじゃないんだから。し
つこいよォ、かいちょー﹂
鷹津は不服気だったが、池ノ内はあたしたちのやり取りに快活に
笑った。
﹁ははっ、なんだか会長が世話焼きで心配性の父親みたいだ﹂
そんなほほえましく映るのか? この恐ろしい光景が?
しかし、その表現に今朝のトイレでの葛藤がよみがえってきた。
認めたくない。
けどやはりそう見えるのだろうか。
鷹津の態度は、まるで。
﹁まっ、ホントの父親にそんな世話焼かれたことなんてなさそうだ
けど﹂
初瀬のさらっと放った言葉に反応を示したのは、あたしではなく
雀野と池ノ内だった。
﹁初瀬﹂
﹁要。それはアウト﹂
二人はぴしりと鞭打つように初瀬の名前を呼んだ。
﹁ちょっと軽率だったわね﹂
327
珍しく雨宮も同調し、初瀬を責めるかたちになった。
ぴりりと空気が張りつめる。
あたしは両親の離婚騒動の末に本家に引き取られ、離れで一人暮
らす白河の異端児。そんな白河家の事情は周知の事実だ。しかし、
なんやかんやとしがらみのある上流階級の世界では、この程度のこ
とはスキャンダルのうちにも入らない。わざわざ口に出して攻撃す
るのは、正面から相手一族まるごとに喧嘩を売る時だけだ。見て見
ぬフリ、それが常識。
さすがに失言と悟ったのか、初瀬は気まずそうに黙り込んだ。
とはいえ、父親がどうのこうのなんて今更だ。あたしには何の痛
手にもならない。
むしろ今は顔色が悪くなる口実ができたことで、初瀬に感謝した
いくらいだった。
あたしが朝から思い悩んでいるのは、どうしたって重なるはずな
いのにかぶって見えてしまう二人の影だった。
初瀬の言うとおり、あたしは父親から金銭面以外での世話を焼か
れた記憶はない。
熱心すぎるほどにあたしのそばにいてくれるのは、辰巳ただ一人
だ。
こっちがいくら大丈夫だといっても聞かない強情者。
それはすべて、あたしを想ってくれているからだ。
そんな辰巳と、どうして鷹津なんかが。
ありえない、と何度も自分に言い聞かせている。しかし、あたし
には容易に想像できてしまうのだ。帰宅後この薄いあざを目ざとく
見つけ、湿布と包帯を持ってきてくれる辰巳の姿が。
あたしはすっくと立ち上がり、指をもじもじとからめて初瀬のそ
328
ばに寄った。
﹁いやーん、いじわる。でもォ、あたしにはこうして世話焼いてく
れるセンパイ方がいるからァ。ね、初瀬センパーイ﹂
鼻にかかった甘え声でウィンクをすると、初瀬はくわっと歯をむ
いた。
﹁気持ち悪い声だすなよ!﹂
﹁はいはい、ツンデレツンデレ﹂
﹁デレてないだろ!﹂
﹁うっ⋮⋮! 心無い、根拠も無い白河家への批判中傷で胸と腕が
痛い⋮⋮!!﹂
﹁な、なんだよ! 口が滑っただけだよ! ねちねち言うなよっ﹂
﹁雨宮センパーイ、初瀬センパイがいじめるぅ﹂
﹁はっ。気分が悪くなるわ﹂
﹁鼻で笑った⋮⋮﹂
あたしはぶすっと頬をふくらます。それを背後から近寄ってきた
池ノ内が指で押しつぶしてきた。
﹁アキラー、要にはよーく言っとくからな。いい子いい子。あとで
お菓子やるからなー﹂
﹁池ノ内センパイは生徒会アイドルたるあたしへの接し方を勘違い
している気がする⋮⋮﹂
﹁なんだよ、ワガママめー﹂
むに、とそのまま頬をつままれながら、あたしは生徒会室の雰囲
気が戻ったことにほっとした。
誰かから同情のまなざしを向けられるのはゴメンだ。逃げ道とし
ては道化に徹して、怒りでも呆れでもなんでもいいから別の感情を
引き起こすに限る。
それに一時でもいいから、あたしの中でくすぶる困惑を忘れたか
った。
﹁⋮⋮やれやれ、我らのアイドルには困ったものだ。さ、仕事にと
329
りかかろう﹂
鷹津はようやく席に着くと、パンパンと手を打ってじゃれあいを
終わらせた。
ずいぶんと日がのびたのを感じる。まだあたりは明るく、空は青
い。夏だな、と思う。てくてくと帰る道すがら、あたしはタイミン
グを計っていた。
美月様の様子がおかしい。
生徒会室にいる間はいつもと変わらぬ輝く笑顔を見せていたが、
長年そばにいるあたしにはわかる。どこか無理をしている、ぎこち
なさがあった。
二人きりになったことで気が抜けたのか、口数少なにしゅんと下
を向いてしまった。
あたしが生徒会室に入った直後はこんなに落ち込んでいなかった。
むしろ熱に浮かされたようだったのに。
美月様の心のくもりを晴らすためにも、まずはその原因をつきと
めなければならない。
﹁ねーえさん﹂
﹁うん?﹂
﹁何かあった?﹂
﹁なにもないよ﹂
そう言いつつも、美月様は唇を開いたり閉じたりして迷うそぶり
を見せた。こういうときは待つのが一番だ。美月様は素直で隠し事
ができない性格だ。
﹁アキラってさ﹂
﹁うん﹂
よし、きた。
330
あたしは身構えた。何を言われても支えられるように。守れるよ
うに。
意を決したように、美月様は苦しげに、しかしはっきりと言った。
﹁みんなに心配してもらえるよね﹂
﹁⋮⋮⋮ん?﹂
おっと、と心の中で仁王立ちしていたあたしが転びそうになる。
﹁いいよね、うらやましい。アキラって愛され上手だと思う﹂
﹁⋮⋮あたしが? 愛され?﹂
何の言い間違いだ、とあたしが必死に頭を回そうとするそばから、
美月様は調子の狂った言葉を放ち続けた。
﹁生徒会室のアイドルだって。すごいよ、本当にそうだよ。池ノ内
先輩はアキラの好物用意してくれるし、雨宮先輩は熱心に仕事教え
てくれてるし。初瀬先輩とはああやって軽口たたきあえる仲でしょ
? 雀野先輩なんかはアキラを補佐の補佐にするのに一番協力して
くれた。今日もすぐにアキラのことかばってたね﹂
﹁え、ちょ、姉さん⋮⋮﹂
﹁風紀委員長もそうだった。アキラがいなくなった後も、私に対し
てすまなかったって言ってたよ。それから服装も今日は偉かった、
明日からもそうするように、って伝えてくれって。罰則の件はまた
連絡するからって﹂
﹁城澤め⋮⋮﹂
美月様を使って念押しするとは。いや、そこじゃない。
﹁それに、篤仁先輩も⋮⋮﹂
美月様はついに歩みをとめ、その場に立ち止まってしまった。
﹁アキラが風紀室に連れて行かれたって言ったら、私が助けてあげ
てって言う前にもう風紀室に向かってた。いつもは落ち着いて歩く
のに、追いつくのがやっとくらい速足だったよ。それだけ心配だっ
331
たんだよ﹂
﹁姉さん﹂
﹁心配って、相手のことが好きだからするんだよね。学校でもみん
なに愛されていて、家に帰れば辰巳さんがいる。辰巳さんはいつも
アキラ様アキラ様って、そればっかり。小さいころからずっとそう。
⋮⋮アキラがうらやましい﹂
違うよ。
あたしがアイドルのはずないじゃないか。
誰からも愛されるっていうのはあなた自身のことだよ。
辰巳は別だ。だって辰巳はあたしの使用人なんだから。
そう続けたかった。
しかし、あたしの口はとうとう動かなかった。
﹁篤仁先輩、まるで辰巳さんみたいだった﹂
332
困惑する悪魔︵後書き︶
前回の後書きのためか、いろいろ感想をいただきました。
お礼文のはずがおねだりするような形になって申し訳なかったので
すが、やはりとってもうれしいです。励みになります!
本当にありがとうございます!
引き続きご意見、感想をお待ちしております。
333
暴風雪にさらされる悪魔
身一つで白河家につれてこられたあたしに、自分の持ち物なんて
ありはしなかった。それでも不自由はなかった。必要なものならな
んでもそろえられていたし、美月様のそばにはおもちゃもお菓子も
たっぷりあって、美月様は快くそれらを分け与えてくれた。
それでも貪欲な幼いあたしは、﹁プレゼント﹂という言葉が大好
きだった。その魔法の言葉は、あたしの所有物が増えることを意味
しているからだった。
引き取られた当初母屋で生活していたあたしは、よく美月様のお
部屋で遊んでいた。そこはステキなものに満ち溢れた、まるで夢の
ような空間だった。
﹁やあ、仲良くしているかい。いい子にしていたお姫様にプレゼン
トだよ﹂
時折顔をのぞかせる当主様が差し出すきれいな包みに、あたしと
美月様の顔が輝いた。中身は新しいぬいぐるみだったり、絵本だっ
たり、クレヨンだったりいろいろだ。いつもそれはそれは素晴らし
いものが入っているのだ。
美月様は天使のような笑みをうかべ、﹁ありがとう、お父様!﹂
と当主様に飛びつく。感謝の抱擁をおえると、美月様は丁寧に包装
紙をとく。
さて、ここから先は二パターンに分けられる。
一つ目は美月様がかわいらしい歓声をあげるパターン。
334
﹁わあ、嬉しい!!﹂
美月様はプレゼントの中身を抱えてひとしきり部屋を走り回り、
そしてあたしのそばに座る。あたしはそれをソワソワしながら見守
っている。
﹁アキラ、もらっちゃった!﹂
﹁よかったですね、ねえさん﹂
﹁うん! だから、こっちはアキラにあげるね!﹂
﹁ねえさん、ありがとうございます!﹂
待ってました!と意地汚いあたしは手を差し出し、美月様からそ
れらをいただくのだ。
当主様からのプレゼントがぬいぐるみなら前からあったぬいぐる
みを。絵本なら本棚に入ったままになっていた古い絵本を。クレヨ
ンならちょっと小さくなってしまった使いかけの一式を。
以前の﹁プレゼント﹂が、新しい﹁プレゼント﹂に押し出される
ように夢の部屋から居場所を失い、あたしの手元にやってくる。そ
れはいつのまにか決まっていた約束事だった。
これは当主様の意地悪ではない。主と従者の違いをハッキリさせ
ながらも、幼いあたしに何かしてやりたい、と思う当主様の優しさ
だったと思う。
二つ目のパターンは、もっとシンプルだ。
﹁ええー、なにこれー。いらないよォ﹂
﹁おや、気に入らなかったかな。じゃあそれはアキラにあげよう﹂
美月様が不満げな声をあげれば、それはそのままあたしのものに
なる。
どっちに転んだとしてもあたしは嬉しかった。
美月様から借りなくていい、自分だけのものが手に入るのだから。
実は辰巳との出会いは、この二つ目のパターンによってもたらさ
335
れたものだった。
十年ほど前のあの日。
白河家での生活にも慣れ、幼稚園から戻ってきた美月様とあたし
を、当主様はニコニコ顔で出迎えてくれた。いつもよりお早いお帰
りに驚いた覚えがある。
﹁お帰り、我が家のお姫様﹂
﹁ただいま帰りました! お父様、はやかったね!﹂
﹁ああ。今日はプレゼントを連れてきたんだ﹂
その言葉にあたしたちはパアッと笑顔になる。
﹁うれしい! なにをくれるの?﹂
美月様は当主様に飛びついたが、なぜか当主様の手にいつもの包
はない。
﹁ふふふ、特別なものだよ。美月たちと一緒に遊んでくれる人を連
れてきたんだ﹂
﹁えっ、またいもうとが増えるの!?﹂
美月様はきゃあきゃあとはしゃいだ。
﹁いいや、違うよ。妹じゃない﹂
﹁じゃあおとうと?﹂
﹁楽しみにしておいで。さ、応接間で待っている。アキラも来なさ
い﹂
﹁はい﹂
あたしは美月様と手をつないで当主様のあとに続いた。
﹁アキラ、嬉しいね! どんな子かな。もう一人いればおままごと
がもっと楽しくなるね! 鬼ごっこもかくれんぼもできるよ﹂
﹁はい!﹂
だが、しかし。美月様の無邪気な期待は完全に裏切られることと
336
なった。
﹁紹介しよう、私の娘だ。美月にアキラという﹂
当主様に背中を押され、わくわくもじもじと応接間に入ってみれ
ば、ソファに座っていたのは学生服に身を包んだ男の人だった。ま
だ幼さの残る少年ともいえる年ごろだったが、当時のあたしたちに
は十分大人に見えた。
ばっと立ち上がった彼は当主様より背が高い。石のように冷たい
目でぎろりと見降ろされ、真一文字の唇をほとんど動かさずに出て
きた言葉は低いうえに重かった。
﹁白井辰巳と申します﹂
﹁おいおい、子ども相手なんだ。そんなに固くならずとも⋮⋮﹂
苦笑した当主様が場を和まそうとしたところで、耳をつんざく美
月様の悲鳴があがった。
﹁うわああああああん!!﹂
﹁ど、どうしたんだ美月!﹂
﹁怖ァい! 大きい!! やだー!!﹂
あわてて美月様を抱きかかえた当主様は、必死であやしながら言
葉を重ねる。
﹁怖いことはない、とっても優しい子だよ。これから美月のお世話
をしてくれるんだよ﹂
﹁やだあああ!! いやあああああ!! ぎゃあああああん!!﹂
ますますパワーを増す泣き声に、ちょっと失礼、と当主様は応接
間を出て行ってしまった。
残されたのはあたしとその男子学生だけだ。
表情こそまったく変えないが、かわいそうにどうしたものかと困
惑しているのだろう。そんな相手に対し、幼いあたしはとんでもな
い行動に出た。
直立不動で困り果てている彼の足もとに近寄り、ズボンのすそを
337
そっと握った。そこでようやくあたしの奇行に気づいた少年は、固
い顔であたしを見下ろした。
確かに、ロボットのようで怖い。当主様より大きい。だがあたし
の頭は単純で、怖さうんぬんよりも﹁美月様がいらないと言ったプ
レゼント﹂を前に喜びのほうが勝っていた。
﹁みつきさまがいらないなら、わたしがもらっていいですか﹂
﹁はっずかしいなァ、もー⋮⋮。っていうかあたしバカじゃないの。
人間をもらうとか、バッカじゃないの。美月様がいらないイコール
もらっちゃおうとかあさましいにもほどがある﹂
﹁おかげで俺は白河から追い出されずにすみ、居場所を得ました。
あのときのアキラ様は本当にお可愛らしかったです。今も変わって
いませんが﹂
﹁と、とにかく! 一度美月様は辰巳のこといらないって言ったん
だから、それはしょうがないよね!? 辰巳があたしのことばっか
り気にして世話やいてくれるのもしょうがないよね!?﹂
﹁当然です。俺はアキラ様だけのものですから。アキラ様アキラ様
としつこく連呼することになんの問題もありません﹂
辰巳からのお墨付きをもらい一息ついたあたしは、いつもならば
用意されたところで絶対座らない椅子に腰を下ろした。右腕には湿
布が張られている。かろうじて包帯だけは拒否したのだ。
﹁なのに美月様は辰巳と鷹津が似ているっていうんだ。あたしに優
しくするのは辰巳だけなのに。鷹津じゃないのに。気持ち悪いよ、
似ているはずない、似てちゃいけないのに﹂
﹁アキラ様⋮⋮﹂
気遣うように名前を呼んでくれた辰巳は、あたしの背にそっと手
を添えてくれた。
338
﹁さて、少し吐き出せて落ち着きましたか。それなら、今はアキラ
さんと辰巳くんの関係については置いておきましょう﹂
﹁は、はいっ! 失礼しました﹂
まわりかけていた熱も一瞬でひく絶対零度の視線に、あたしはび
しりと凍りついた。
ここは気をダルダルに抜ける離れではない。
敬吾さんの仕事部屋である白河本宅の書斎である。
美月様が帰宅するなり自室にこもってしまったことで、母屋は火
が消えたように静まり返っていた。美月様は白河の小さな太陽なの
だ。天岩戸を開けようと三舟さんが奮闘しているようだが、いまだ
達成されていない。
事態を重く見た敬吾さんによりあたしは呼び出され、なぜか辰巳
も同席を求められたのだ。
混乱していたあたしにはありがたく、辰巳に支えられるようにこ
の場へやってきた。
敬吾さんはあたしが落ち着くのを待ってくれたらしい。
﹁美月様が言った鷹津様と辰巳くんの類似は、近いけれど別の点で
しょう﹂
﹁近いけど、別、ですか﹂
聞き返したあたしに、敬吾さんは淡々と言った。
﹁アキラさんの見たところでは、美月様は鷹津様に心奪われたよう
だ、と﹂
﹁⋮⋮はい。好意を寄せているのは間違いありません。今日向けら
れたのはあからさまに嫉妬心です﹂
そう、あたしは美月様に嫉妬されたのだ。
おそらくは鷹津などの面々から構われすぎているから。
何事にも素直にものを見る美月様には、あたしがさぞかし﹁愛さ
れ﹂ているように見えたのだろう。
339
そんなわけないのに。
﹁やはり以前と状況が似ていますね、辰巳くん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁え﹂
急に話が辰巳にふられ、あたしはハッと顔をあげた。
﹁アキラさん。あなたの感傷もいいですが、今は美月様の頭の中を
考えてみてください。美月様はあの時も自覚はせずともあなたに嫉
妬したはずです﹂
言われてようやく気がついた。あたしは自分のことしか考えられ
ていなかった。
敬吾さんの言う﹁あの時﹂とは、辰巳が正式に白河家ではなくあ
たしの使用人になった時を指している。
白河家の分家筋の息子だった辰巳は、実家の金銭的な問題のせい
で本家へ行儀見習いとしてやってきた。
補足しておくと、白河の一族で優雅な暮らしを保っているのは本
家と本家に近しい二つ三つの分家のみだ。白河の強みはその血の尊
さだけなので、うすまっていく血に利用価値はない。辰巳もあたし
と同じ、当主様に拾ってもらった身なのだ。
﹁美月様は最初こそ辰巳くんにおびえていたようでしたが、アキラ
さんと仲睦まじくしている様子をちらちらとうかがっては、うらや
ましそうにしていました﹂
敬吾さんが思い出話にはふさわしくないとがった声で言った。
﹁あの時は美月様の恋情が育つ前に、辰巳くんをアキラさんだけの
使用人にすることでなんとか押えましたが⋮⋮﹂
小学四年生になったころから、美月様はあからさまに辰巳を意識
し始めていた。隣近所の一番身近な年上の異性には、初恋をしやす
いのだと三舟さんが言っていた。幼いころには恐怖の対象でしかな
340
かった長身も、石のような動きのない顔も、見た目に反して子ども
と遊ぶのが上手で優しく親切なところも、恋に落ちればすべて美点
にかわるのだそうだ。いわゆるあばたもえくぼ。
そのころには既にあたしは辰巳べったりになっていたが、美月様
はそれをうらやましがり、あたしと遊ぶといいながら辰巳もまきこ
んで一緒にいたがった。
それくらいの淡い恋心くらいほうっておいてもいいじゃないか、
と思うが、美月様を溺愛する当主様と奥方様は真剣だった。辰巳で
は本家の婿にふさわしくない。距離をおいたほうがいいだろう。
その考えによって、辰巳はあたしの生活費の一部で雇われるあた
し専属の使用人になった。そして、あたしの離れでの辰巳との生活
が始まったのだ。距離も意識も遠ざけようという作戦だ。
﹁美月様は、思いを寄せる鷹津がまたあたしにとられたように感じ
ている、ということですか﹂
敬吾さんは神経質そうな長く節だった指を額にあてた。
﹁とはいえ、辰巳くんのことはまだ好きでいるのかと思っていまし
たが⋮⋮。女の子の気持ちはうつろいやすいものです﹂
言っていることはかわいらしいのだが、敬吾さんの場合心底迷惑
だ、という気持ちが隠れていないので性質が悪い。
﹁あたしが鷹津のこととるとか、あり得ないじゃないですか﹂
﹁当然です﹂
﹁なんとかそれをわかってもらないでしょうか﹂
﹁効果的なのはアキラさんの説得より、鷹津様自身でしょうね。辰
巳くん、わかっているとは思いますが、決して美月様に優しい言葉
などかけないように。君への気持ちが再燃する、なんてことになっ
たら本末転倒です﹂
﹁はい。俺が美月様に近寄ることはありません。俺が甘やかすのは
アキラ様だけです﹂
﹁それだけ直に伝えようと呼びましたが、問題なさそうですね。安
341
心しました﹂
そんな意気込みはしなくていい、と肘でつっつくけれど、辰巳は
表情を崩さず真正面をむいたままだ。ええい、頑固者め。
﹁敬吾さん。実際のところ、鷹津との縁談はどうなっているんです﹂
あたしが質問すると、敬吾さんはすっとこちらに目を向けた。そ
こから読み取れるものは何もない。
﹁どうとは﹂
﹁鷹津篤仁は毒気も強く問題もありますが、評価をするなら白河の
婿足りうる男だと思います。美月様の気持ちが沿うのならば、話を
進めてもいいのでは﹂
﹁⋮⋮そうですね。アキラさんには言っておきましょう﹂
敬吾さんはノンフレームの眼鏡の位置を直した。
﹁はっきり言って難航しています。少し前までは、正式にとは言わ
ずとも鷹津当主とそういった話をしていたのですが、今は当主様が
話をふってもうまくごまかされています﹂
﹁というと﹂
﹁放蕩息子と名高かった篤仁様ですが、ご帰国後、縁談話が山のよ
うに持ち込まれているそうです。実際に彼を見た人間が彼をどう評
価したか、よくわかります。破天荒な行動もありませんし、選び放
題の状況から鷹津は急ぐ必要性を失ったのでしょう。美月様のこと
だけでなく、ここ最近はそういった話をしたがらないとも。おかげ
で婚約どころか縁談話さえ進まずにいます﹂
﹁そんな! じゃあ美月様は﹂
脈あり、と見ていたのは敬吾さんも同じだと思っていた。話が違
うじゃないか、と血の気がひいたあたしは食い気味で聞き返すが、
敬吾さんはそれを無視して続けた。
﹁あるいは、すでにお相手をしぼったのだろう、と言われています﹂
﹁すでに、相手を決めた⋮⋮?﹂
342
﹁憶測にすぎませんが、パーティでの出会いをきっかけに鳳雛学園
で一気に距離を縮め、親しくしている女生徒の可能性が高いと噂さ
れています﹂
﹁な⋮⋮なんだ⋮⋮!! 結局美月様に戻ってくるんじゃないです
か﹂
力が抜け、あたしはずるずると背もたれに体を預けた。
あたしとしては初恋を奪ってしまった負い目が少なからずある。
これで鷹津ともうまくいかなかったら、と思うとぞっとする。婚約
を望むわけではないが、二度目の恋くらいは美月様の納得するやり
方で終わらせてほしい。
﹁あー、びっくりした。やめてくださいよ、敬吾さん﹂
﹁驚かせようとはしていません。縁談は進まず、こう着状態である
ことには変わりありません。アキラさんの報告も含め、この数か月
で鷹津篤仁について調べることは調べました。美月様も望んでいる
のならば、いつ縁談が進んでも問題はないでしょう。ただ、水面下
で進める必要があるのは今までと同じです﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
鷹津と美月様が結婚、か。
二人のウェディングを想像すると、美男美女で見た目としては申
し分ない。ブライダル雑誌とは違う華やかさと粛々とした厳かさも
あって、名家白河の門出にはふさわしいだろう。
﹁鷹津はアレで面倒見のよい男ですから。なんでも、夫婦とは嬉し
いことも嫌なことも正直に言いあうもので、妻には夫に頼って泣き
わめいてほしいそうです。素直な美月様とは案外相性がいい面もあ
るかもしれません﹂
あたしがポツリともらすと、敬吾さんはギラリと眼鏡を光らせた。
﹁⋮⋮アキラさん﹂
﹁はい﹂
343
﹁それは鷹津篤仁の言葉ですか﹂
﹁あっ、報告が遅れて申し訳ありません、さっき言ったケガの手当
の際に、そんなことを﹂
ケガの話で、あたしはまた自分の悩みに立ち返ってしまった。美
月様の婚約の件でせっかく意識がそれていたのに。
﹁悪い人間ではないと思います。でも腹の底が見えないんです。な
ぜ、鷹津は自分とあたしを夫婦にみたてて夫婦の在り方を説いてく
るのか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮アキラさん﹂
﹁はい﹂
また敬吾さんに呼ばれ、あたしは重たい体をしっかり起こした。
そしてびしっと凍りつく。
冷たい。
寒すぎる!
﹁理解の足りないあなたに教えますので、よく聞いてください﹂
﹁は⋮⋮は、はい﹂
あたしは思わず辰巳にとりすがろうとしたが、辰巳も敬吾さんに
あてられたのか指先を冷たくして固まっている。
﹁今噂になっているのは、パーティで出会い、学園内で急速に距離
を縮めた女生徒です。今、それに該当するのが誰なのかおわかりで
すか﹂
﹁え、それはだから⋮⋮﹂
﹁新たに迎えられた生徒会補佐、そして補佐の補佐なる謎の役職を
与えられている女生徒の二人なんですよ﹂
あたしの開いた口はふさがらなかった。
344
﹁あなたが噂にたつようなマネしてどうするんですか。自覚がない
のならなお悪い、堂々と学園内で口説かれているなんて﹂
﹁く、口説かれてません。誰にも見られていないはずですし﹂
﹁確実ではないでしょう、自分のことにも注意をはらいなさい。い
くら上がしっかりしていても足もとが崩れれば白河も一蓮托生なん
です﹂
﹁すみません﹂
﹁だいたい、どうして風紀の検査で腕をケガするんですか。不用意
に相手を挑発したんでしょう、自業自得です。あなたはやはりどう
も厄介ごとを引き寄せる﹂
﹁言葉もありません﹂
いきなり始まってしまったお説教タイムに、あたしはなす術もな
い。こうなると辰巳にも助けてもらえない。
﹁まったく、こうなるとあなたの縁談をまとめるほうが手っ取り早
い気がしてきました﹂
眉間のしわをもむ敬吾さんは、珍しく冗談を言った。
冗談⋮⋮だよね?
﹁へ、へんなオッサンとこの後家にまわさないでくださいねー。あ
たしだって考えてるプランとかあるんですから﹂
ここは冗談で通そうとあたしが作り笑いをうかべると、意外にも
敬吾さんは興味深そうにうなずいた。
﹁気になりますね。どうぞおっしゃってください﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮俺も知りたいです﹂
﹁た、辰巳も?﹂
うっかりと口にしてしまった言葉に、なぜか敬吾さんも辰巳も食
いついてしまった。
実は、こっそり胸に秘めていたプランがあることにはある。
345
しかし、これは確実に敬吾さんを怒らせる。
どうしよう。
﹁アキラさん。どうぞ﹂
黙ってしまったあたしを再度促す敬吾さん。
﹁いえ、ですから﹂
あたしはじわじわと冷や汗をかきながら、それが凍りつくまえに、
と口を動かした。いいや、これは冗談の延長線上。
覚悟を決めた。
﹁あの、本当ただこうなっていくのが都合いいのかなーって思った
だけで。怒らないでくださいね、ただの無駄話です﹂
﹁いいから﹂
﹁お、怒らないでくださいね!? や、あの、なんか、白河の今後
を考えたら、あたしは悪評高いし他に嫁いだりとか難しいかなーと﹂
﹁まあ、それは少なからずありますね﹂
あっさり言う敬吾さんに、あたしのガラスのハートがちょっと傷
つく。本当のことだが、他人に肯定されると辛いものがあるな。
﹁だから結婚するなら内輪になるなーと﹂
﹁ふっ﹂
敬吾さんはまたも珍しく含み笑いをした。しかし、漏れ出る息は
相変わらず雪まじりの冷たい風だ。
﹁なるほど。辰巳くんといついつまでも、ということですか﹂
﹁え、敬吾さんとですけど﹂
あたしの愚かで軽率な発言に、書斎にはブリザードが吹き荒れた。
﹁お、怒らないっていったのに︱︱︱︱!!﹂
完全にあたしに背をむけた敬吾さんは、とてつもない冷たいオー
ラを発しながら低く呟いた。
﹁アキラさん、わたしと結婚しようと思ったんですか⋮⋮?﹂
﹁だって! 敬吾さんと結婚すれば、当主様は敬吾さん、美月様は
346
あたしって夫婦で白河支えて行けるなって思うじゃないですか。自
分の家庭より白河優先っていうのも理解しあっているワケだし、も
しあたしが結婚できるとなると敬吾さんくらいだなって思うじゃな
いですか⋮⋮!!﹂
あたしは震えながら言いたいことを言わせてもらい、辰巳の後ろ
にかくれた。だが、鉄壁かと思われた辰巳は触れた瞬間膝から崩れ
落ちていた。
﹁辰巳!? どうした﹂
﹁いえ、なんでも⋮⋮﹂
﹁なんでもなくないでしょ!﹂
﹁大丈夫です⋮⋮﹂
﹁た、辰巳ィ!﹂
雪に埋もれて凍死寸前のような辰巳の首根っこにすがりつきなが
ら、あたしは混乱に泣いた。
﹁辰巳、しっかりして﹂
﹁アキラ様⋮⋮﹂
条件反射のようにあたしを抱き寄せてくれる手は頼もしいが、辰
巳の意識はもうろうとしたままだ。
敬吾さんは黙りこんで本棚とにらめっこをしている。ああ、あた
しのバカ! 思わず口が滑ってしまった、あんなこと言わなきゃよ
かった。 今まで見たことがなかったが、敬吾さんって怒り狂うと
黙り込むタイプなのか。どこまでも冷徹に饒舌なまでに追いつめて
くるかと思っていたが⋮⋮。というか、そこまでイヤがらなくても
いいと思うんですけど! 傷つくっつーの!
ああまったく、なんでこんなことに!?
とにかく辰巳を正気に戻そう、とあたしは書斎の扉を開けて声を
張った。
﹁誰か! すみませんがお水もってきてください!﹂
347
すると間をおかずにパタパタと走ってくる足音が聞こえた。すば
らしい反応だけど、少し様子がおかしい。白河家の使用人は敬吾さ
んの指導のもと、歩き方も訓練されているはずだ。
いぶかしんだあたしが廊下の先をにらんでいると、曲がり角から
姿を見せたのは三舟さんだった。しかも手ぶら。明らかにあたしの
呼び声に駆けつけたのではない。
﹁ああ、アキラ様! 岩土さんはそこにいますか!?﹂
﹁敬吾さんはいますけど、何かあったんですか﹂
﹁一大事ですっ﹂
三舟さんは普段の落ち着いた物腰をかなぐり捨て、必死の形相だ。
人があわてている姿を見ると、自分は妙に冷静になるものだ。あ
たしは気をひきしめて三舟さんを中に招き入れた。
﹁岩土さんっ、一大事です!﹂
三舟さんは繰り替えし叫ぶと、荒い息を吐いた。
﹁何事ですか。屋敷を走り回るなどあなたらしくもない﹂
彼女のあわてっぷりに敬吾さんも平静を取り戻したようで、ブリ
ザードをひっこめていた。これで辰巳も元に戻るだろう。
それよりも三舟さんだ。ひきこもった美月様のお相手をしていた
はずなのに、こうもあわてふためいて一大事とは、いったいなにが
あったのか。
﹁お叱り覚悟で申し上げます⋮⋮。美月様が、鷹津家との婚約の話
を知ってしまいました!!﹂
ああ、このタイミングでか。
あたしは思い切り唇をかんだ。
敬吾さんの話が正しいとすれば、鷹津家の的は美月様にしぼられ
たといっていい。だが正確ではない以上、美月様にはお伝えすべき
348
ではない。なにせ天真爛漫、人を疑わぬ美月様は、それを真実と受
け取ってしまうからだ。
ましてや運命の人を自分で探す、と息巻いていた美月様だ。縁談
ありきで出会ったのではない、ほぼ仕組まれたようなものとはいえ
自分で見つけた相手と実は縁談の話があるのだ、と聞かされればそ
りゃあ運命感じてしまうだろう。恋にのめりこんでしまうのが目に
見えている。
だからこそ箝口令を徹底していたというのに、どこのバカが漏ら
したんだ。
これにはブリザード再びか、と敬吾さんをうかがうと、そこはさ
すがと言うべきか、彼は至極冷静だった。
﹁決して触れないようにと言っておいたはずですが。誰が教えたん
です﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
三舟さんはくちごもった末に、小さな声でつぶやいた。
﹁奥様が⋮⋮﹂
あたしは先ほどの惨状を一時忘れ、敬吾さんと目配せをしあって
頷いた。
ついにあの方が我慢しきれなくなったか。
また波乱がおきそうだ。
349
暴風雪にさらされる悪魔︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
350
天使の母親と悪魔の寝言
白河本邸で一番怖い人は間違いなく敬吾さんだ。
しかし、その敬吾さんにも天敵というべき存在がいる。それが美
月様のお母様であり、白河当主の奥方である水音様だ。
水音様は、絶対零度の風を吹き荒らしたり、業火をまき散らした
りして激昂するような方ではない。むしろその逆だ。
ほっそりとしたシルエットが現れたことに気づいたのは、三舟さ
んが最初だった。続いて敬吾さんが立ち上がり、辰巳があたしを書
斎の隅に追いやった。
﹁ねぇ、ちょっとお邪魔してもいいかしら﹂
ころん、と上質な鈴が転がるような声。あたしはすぐさま辰巳の
大きな背に隠れ、顔が見えないよう頭を下げた。
ゆったりとしたロングワンピースに身を包んだ水音様は、優雅な
足取りでするりと部屋に入り込んだ。華奢な体躯にいつも微笑みを
乗せた唇は少女のようで、美月様のような大きな娘がいるとは思え
ないほど若々しい。
﹁こんな時間にごめんなさい。美月のことでね、お話があるの﹂
水音様は大きな瞳をまたたかせて、いたずらっぽく言った。
そんな可愛らしい態度の水音様をばっさり袈裟斬したのは、もち
ろん敬吾さんだ。
﹁わたくしも伺おうと思っていたところです、奥様。なぜ美月様に
鷹津家との婚約についてお話になったのですか﹂
﹁怒っているの?﹂
351
﹁いいえ。わたくしは理由を聞いているのです﹂
﹁でも怒っているわ﹂
﹁怒ってはおりません﹂
﹁だって言い方が怖いもの﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
遅々として進まない話に、敬吾さんが言葉を継げなくなる。これ
なのだ。
敬吾さんが雪ならば、水音様は春風のような人。もう冬は終わり
よ、とばかりに敬吾さんを追いつめる。おかげで二人の間にはまと
もな会話は成り立たない。
しばしの沈黙の後、水音様はしょんぼりと言った。
﹁いいの。三舟さんが話してしまったんでしょう? 怒られるとわ
かっていたから、こうして自分からここまで来たのよ。すべては美
月のためだもの﹂
﹁美月様のため、とは﹂
結局いつも通り、話したいように話すにまかせることにしたのだ
ろう。敬吾さんは言葉少なに問いかけた。
﹁美月には幸せになってもらいたいのよ﹂
慈愛のこもったその微笑みは、まさに子を想う母親にしかできな
い表情だ。
﹁知っているでしょうけど、あの子帰るなりお部屋にこもってしま
ったの。考え事があるからって、わたしも入れてくれないの。こん
なの初めて⋮⋮いえ、二回目ね﹂
水音様は隠そうともせずに、辰巳へと一瞥を投げた。
﹁あの子ね、お夕食もとらずに思い悩んでいるの。ドア越しに聞い
てみたら、あの子なんて言ったと思う?﹂
あなたも聞いていたでしょう、と今度は三舟さんを巻き込んだ。
﹁自分に失望しそうだって。自分ではない誰かに優しくする鷹津篤
仁さんを見たら、なんだか悲しくなってしまったって。そんな自分
352
がイヤだって。あの子、まだ自覚がないようだけど本当に鷹津さん
が好きなのよ﹂
その言葉に、あたしの頭は自然と重くなる。美月様にそんな思い
をさせたのはあたしだ。今ごろお腹は空いていないだろうか。
ハラハラとしている三舟さんをよそに、芝居がかった口調で水音
様は言い募る。
﹁若い娘がくよくよ悩むものじゃないわ。しかもする必要のない心
配だなんて。美月が倒れちゃう。だから教えてあげたの。人に優し
くされるのを期待するのではなく、あなたが優しくすればいいのよ
って。結婚もそういうものよって﹂
結婚、という単語に、敬吾さんの目がすっと細まる。吹雪が吹き
荒れる前段階だ。しかしそんなこと意にも介さず、ますます芝居の
ように、水音様は長調子のセリフをよどみなく紡いでいった。
﹁実はあなたと鷹津さんの縁談話があるのよって言ったら、美月び
っくりしていたわ! 本当なの、お母様ってすぐにドアも開けてく
れた! しょんぼり顔がうってかわって頬を染めていたわ。前は仕
方なかったと思うの。当然のことね、不釣り合いだもの。でも今回
は違うわ、願ってもない相手じゃない。鷹津さんと美月、お似合い
だわ。勝手に言ってしまったのは悪かったけれど、美月のためよ。
あの子が好きになったのなら、もう隠す必要もないんじゃないかし
ら﹂
まるで水音様は舞台女優だ。ぎゅっと握りしめた両手を祈るよう
に胸の前に掲げ、よく通る声で感情いっぱいに主張する。
娘を想う母親の愛に観客は胸を打たれるかもしれない。だが、こ
の人はそう甘くない。
﹁そういう問題ではありません。当主様から説明があったと思いま
すが、鷹津家との婚約は一向に進んでおりません。未だ不確かな情
報を与えて後で気落ちさせるのと、美月様にとってどちらがいいで
しょうか﹂
353
もっともな敬吾さんの意見に、水音様はついに舞台から降りて楽
屋へと戻ってきた。
﹁白河が望む道へ導くのがあなたたちの役目でしょう﹂
不思議なことに、声の調子は甘くやわらかなままだ。しかし出て
くる言葉は違う。
﹁わたしが来たのは、そのお話をするためよ。もう美月には言って
しまったの。主人だって賛成しているわ。できるだけ早く婚約まで
持ち込ませてね。美月をがっかりさせないで﹂
そう言いつつ、もう用はないとばかりに水音様は退出しようとし
ていた。しかし、扉に手をかけながらふと足を止める。そして独り
言のようにつぶやいた。
﹁そんなこともできないなら、わざわざ置いてやっている意味がな
いもの﹂
あたしは布団の上でぼんやりと座りこんでいた。
今日はいろいろとあって疲れた。
敬吾さんのお説教だけでも体力を根こそぎもっていかれたのに、
水音様には精神を削られた。
意味がない。価値がない。あたしがここにいる理由がない。
﹁アキラ様﹂
﹁うん﹂
﹁もう遅いです。お休みになられた方が﹂
﹁うん﹂
時刻はすでに日付をまたごうとしている。早く寝た方がいいとわ
かっているのだけれど、どうしても心につかえるものがあって、あ
たしは身体を横にできずにいた。辰巳の気遣いにも生返事しか返せ
354
ない。
ちっちっ、と秒針の音だけがしばらく続く。
﹁はァ∼∼∼∼っ!!﹂
あたしは耐え切れなくなって大きく息を吐き出した。
﹁アキラ様?﹂
そう、こうして辰巳が呼びかけてくれることを期待して、だ。
﹁辰巳。内緒の話。聞いてくれる?﹂
そう言うと、辰巳はあたしを無理やりに布団に入れ、電気を消し
てから枕元に座った。
﹁俺はちゃんと聞いています。でも、アキラ様は夢の中でおしゃべ
りをしています。寝言です。だからお立場もお役目もみんな関係あ
りません﹂
﹁うん﹂
辰巳にうながされ、あたしは目を閉じた。そう、ここからはあた
しの寝言なんだ。
﹁あのね、あたし敬吾さんに報告していないことがある﹂
﹁はい﹂
﹁これは客観的じゃないからって言い訳してたけど。本当だったら
どうしようって思っているから言えないでいる﹂
﹁はい﹂
これを口に出すのはどうかと思う。どうせなら自意識過剰だと笑
い飛ばしてほしい。ああ、でも。
﹁鷹津篤仁は、本気であたしを娶ろうとしているのかもしれない﹂
辰巳はほんのわずかに間をおいて、また﹁はい﹂と相槌をうった。
核心部分だけを言ってしまってから、あたしはどう話そうか、と
しばし口を閉じた。辰巳はただあたしのそばにいてくれる。
﹁最近ね。あたしに優しくしてくれる人ができた。辰巳は気に入ら
355
ないだろうけどアザを作った風紀委員長の城澤。あたしのこと更正
させようと思ってるらしい。風紀の松島。あたしが学園にいるとお
もしろいと言った﹂
﹁はい﹂
﹁雀野。対鷹津っていう下心があるとはいえ電話でくだらない長話
なんて初めてやった。池ノ内。何かとお菓子くれたりかばったりし
てくれる﹂
﹁はい﹂
﹁嬉しかった。今まで表面的な付き合いはあったけど、好意的なも
のではなかったから﹂
﹁はい﹂
﹁松島や雀野は、あたしがどうしてこんなふうに振る舞っているか
分かっている。きっと城澤や鷹津に対して、似たような立場にある
からだろう。城澤は違うかも。ただアイツは風評に左右されない鋼
の男だから。池ノ内はよくわからないけど、体育会系だからかな。
後輩に親切。でも﹂
あたしはいったん言葉を止め、息を吸い込んでから言った。
﹁鷹津は違う﹂
そう、アイツは違う。
﹁あたしがバカやっている理由だけじゃない。あたしが何を考えて
いるか、何を厭っているか、何を望んでいるのか、知っているみた
いなんだ。しかもその理由まで。根拠はないけど、おかしな点なら
いくつかある。離れへ押しかけようとした生徒会連中を止めたこと、
格下げなんて言いながらあたしにだけ別のものを用意してくれたこ
と。ああ、今思うとアレもおかしい。あたしが泣きつくのは辰巳だ
けだって、なんでわかったんだろう。他の人間なら美月様だと考え
るはずなのに﹂
離れがあたしの居室であること。
幼少期のちょっとしたトラウマのせいで、美月様と同じものを同
356
じ場所で食べたくないこと。
本当に甘えられる相手が辰巳ただ一人であること。
なんでそれを鷹津は知っていたんだろう。
まるで、あたしのことを全部わかっているみたいに手を差し伸べ
る。
まるで、辰巳みたいに。
﹁辰巳と鷹津が似ていると思ったのはそこなんだ。でもそんなはず
ない。あたしのことを全部知っているのは辰巳だけ。何もかもわか
った上であたしに優しくしてくれるのは辰巳だけなのに﹂
鷹津からそんな感情を向けられるのが怖い。
﹁アキラ様﹂
あたしの混乱を感じ取ってか、辰巳は手であたしのまぶたを覆い、
そのまま髪をなでてくれた。
﹁⋮⋮あたしのことを調べたのなら、それでもいい。だけどあたし
に対する行動は不可解だ。これも敬吾さんには言えなかったことだ
けど、夫婦の在り方を説かれたときに、夫婦とは誰のことだと聞い
たら俺とお前のことだと答えてきた﹂
辰巳は生え際から毛先まで、指で梳くように髪をなでる。
﹁初対面のときと合わせて、プロポーズもどきはこれで二度目だ。
鷹津はつまらない冗談やウソはつかないだろう。つくならもっと巧
妙にやる﹂
雀野は鷹津のことを有言実行の男だと言っていた。
おそらくそれは間違いじゃない。
﹁敬吾さんに言ったところで、ご自分にそれほどの魅力があるとお
思いですか、とかなんとか切り捨てられると思う。恥ずかしい勘違
いならそっちのほうが助かるんだけど﹂
自分でも最初はまさかな、と思っていた。敬吾さんの望む答えを
して、知らないフリを通そうとした。美月様に対して鷹津が好意を
357
向けないはずはない、という考えもあったからだ。実際鷹津は美月
様を気に入っていると思う。
しかしあたしを気にかけるような行動が増えるにつれ、小さな疑
惑は大きな不安に姿を変えた。今日のことがなくても、きっと近い
うちに美月様の嫉妬心は破裂していたに違いない。
水音様からの直々の命令にも震えたが、これからのことを考える
とプレッシャーに押しつぶされそうだ。美月様を悲しませる最大の
要因が、自分自身になりかけているのだから。
﹁これからどうしたらいい﹂
辰巳は答えない。これはあたしの寝言だからだ。
﹁せめて鷹津の思惑がわかればいいのに。あたしと結婚するメリッ
トってなんだろう﹂
鷹津の行動があたしとの婚姻を目的としているなら、その理由が
わからない。
あたしは白河本家の人間ではない。
特別な容姿や才能、コネクションも資産もない。
頭が悪く素行も悪い、悪評高いために一緒になったところで鷹津
の評価は下がるだけ。
予想される白河の混乱だって、鷹津になんの関わりがあるだろう。
火種を作る意味がない。
﹁⋮⋮俺も寝言を言いたくなってきました﹂
﹁え?﹂
起き上がって辰巳を振り返ろうとしたら、髪を梳いていた手がま
たふわりと瞼の上にのり、布団の上に押しとどめられた。
﹁あなたと結婚することの最大のメリット。それはあなたとこれか
らの生涯をともにする権利を得る、ということです﹂
思いがけない答えに驚いたあたしをよそに、辰巳は寝言を続けた。
﹁まさか敬吾さんとの結婚を考えていたなんて知りませんでした。
358
あなたのことならなんでもわかっていると思っていたのに﹂
それはそうだろう。
恥ずかしくてとてもじゃないが言えない。今も後悔中だ。
﹁つい、妬いてしまった﹂
辰巳の珍しい物言いに、あたしはふふっと笑ってしまう。
﹁この俺でもわからないことがあるんです。鷹津篤仁とて、あなた
のすべてを知らない。怖がることはない﹂
﹁うん﹂
﹁鷹津篤仁があなたに結婚を迫ったとしても、あなたは毅然として
いればいい。前にも言ったように、こちらをどうぞ、とあの娘を差
し出せばいい。万事解決だ﹂
﹁こら、辰巳﹂
﹁寝言です﹂
そう言われては叱れない。
﹁鷹津は手ごわいよ﹂
﹁どうすればいいか、考えましょう。俺も一緒に考えます。⋮⋮そ
れから、岩土さんも﹂
﹁妬いてるの?﹂
﹁寝言です﹂
嬉しくなってまた笑うと、辰巳はまた髪を梳き始めた。
﹁考え事は日が出ているときにしましょう。寝言もこのあたりにし
て、まずは休んで﹂
﹁⋮⋮うん﹂
辰巳は、あたしが眠りに落ちるまでずっと髪を撫でていてくれた。
359
天使の母親と悪魔の寝言︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
360
不良と悪魔の怪しい取引
じりじりと照りつける日が肌を焼く。あたしは日陰にしゃがみこ
み、目の前の草を気まぐれにブチブチとむしっていた。
日本の一般的な高等学校では、校内の清掃は生徒によって行われ
ているという。しかし当然のように鳳雛学園内の掃除は雇われ清掃
員たちにまかされており、生徒は箒塵取りに触れる機会さえない。
つまり、草むしりという行為は鳳雛学園の生徒にとって屈辱以外
の何物でもないのだ。
風紀委員会からのお達しにより、あたしには一週間の校内清掃が
課せられた。軍手とゴミ袋が支給され、伸びかけの雑草をむしって
こいと放り出されたのだ。ちなみに女生徒の風紀委員がわざわざジ
ャージまで持ってきていた。あたしが体育をサボりまくり、体操着
を持参していないこともバレていたらしい。
おかげであたしには生徒会室へ行かない口実ができたというわけ
だ。
土いじりを屈辱に思うほど高潔な気質ではないが、何分育ち方が
育ち方。あたしも他のお嬢様方と同じで、草むしりなんてしたこと
がない。
なにこれ。むしってどうするの。
﹁こんな壁の隙間からよく生えてくるな⋮⋮。雑草魂とはよく言っ
たものだ﹂
そんな独り言を言っていると、短パンのポケットの中のスマート
361
フォンがぶるぶると震え始めた。
そのまま無視すること約一分。
あたしは相手のしつこさと振動の不快感に負け、しぶしぶと軍手
を外して通話ボタンを押した。
﹁⋮⋮はーい﹂
﹃ようやく出た! 僕が昨日から何度電話かけたと思ってるんだよ
っ﹄
﹁あーもう、うるさいなァ。こっちも忙しいのー﹂
﹃うう、そうだろうね⋮⋮。ゴメン⋮⋮﹄
テンションの落差の激しさに、相手の動揺が伝わってくる。
面倒だなァ、とあたしは隠しもせずにため息をついた。昨日はい
ろいろとありすぎて、カバンにいれたままのスマートフォンをすっ
かり放置していた。今朝になって着信履歴をみれば、画面いっぱい
雀野の名前で埋められていたのだ。
﹁今どこからかけてる。学校内でしょう﹂
聞かれてもいいのかと問うと、雀野は口早に言った。
﹃大丈夫。音楽科の個人練習用防音ルームだから。それより、なん
で今日は生徒会室に来ないんだ﹄
﹁姉さんに伝言頼んでたでしょ。あたしは今日から一週間学園内の
奉仕活動に努めなきゃいけないの﹂
﹃君だったらそんなの素直に聞かなくてもいいじゃないか。篤仁も
表には出してないけど不満そうだった﹄
﹁勝手言うなよ﹂
あたしが苦笑すると、雀野はため息まじりに泣き言を言った。
﹃だって今日の白河さん、いつも通り天使なのに篤仁のこと見るた
びに人間みたく頬真っ赤に染めるんだ。やっぱり昨日のことが原因
? もう天使の心は奪われてしまったのか?﹄
何をバカなことを、と突っ込む気にもなれない。悲しいかな、雀
362
野の言いたいこともわかってしまう。
美月様は降ってわいた鷹津との縁談話にあたしへの嫉妬心もすっ
かり忘れてしまったようだった。今日は朝からどこかフワフワとし
ていて、時折切なげに長い睫を伏せている。あたしが生徒会室に行
かないことがわかると、とたんに不安と期待ないまぜの表情を浮か
べていたものだ。
﹁わかってるだろうからハッキリ言うね。ウチの意志は固まった。
あたしがこれからすることは、見張りじゃなくて愛のキューピッド
役だよ﹂
雀野と違い、あたしは誰かに聞かれる可能性のある校舎裏だ。具
体的な名詞を避けてはいるが、雀野には十分通じるだろう。
白河は鷹津篤仁を婿に迎えるための根回しを始めていた。あたし
はもっと直接的に鷹津と美月様を結びつける手助けをしていく。
鷹津を牽制するという、雀野の望む立場にはもう立てない。
﹃⋮⋮白河さん自身がそう望んでいるんだね﹄
雀野の真剣な声音に、あたしも本気で応えた。正直なところ、雀
野の想いが叶うことはないだろう。今までさんざん非道な手段で美
月様に下心を寄せる連中を追い払ってきたが、少しばかり世話にな
った雀野に同じことはできなかった。
﹁あたしはあの家を守るためにいるけれど、姉さんの意に沿わない
ことはしない﹂
﹃わかったよ﹄
取り乱すことなく冷静に答えた雀野に、あたしは淡々と続けた。
﹁もう生徒会室への出入りもやめる。この電話番号も消しておくか
ら心配しないでほしい。私的に話した内容を言いふらすつもりもな
いし、ヘタレだの根暗だの根性悪だのと悪評を流すこともしないか
ら﹂
あたしとの関わりをなかったことにしよう。
363
そう言ったつもりだった。
しかし、なぜか雀野は妙なことを言い出した。
﹃え、なんで﹄
﹁なんでって﹂
﹃なんで来なくなるんだ﹄
まさか美月様があたしに妬くから、なんて言えない。だが鷹津へ
の牽制をやめる以上、雀野のメリットはないはずだ。
﹃いいじゃないか、このままいれば﹄
﹁いや、ちょっと諸事情があって。あたしも忙しくなるから﹂
﹃まあ、立場上そうなのかもしれないけど。百歩譲って補佐の補佐
を辞めるとしても、なんで僕の番号を消す必要があるんだよ﹄
雀野の言葉に険はない。本気で不思議がっている。それがあたし
には不思議だった。
﹁もう意味ないじゃん。あたしはそっちに不利になるようなことし
かしないんだよ﹂
﹃え? そう、かもしれないけど﹄
﹁そうだよ。もうこうして話すこともないよ﹂
﹃困るよ!﹄
あたしは突如あがった悲鳴に、少しばかり耳からスマートフォン
を離した。
﹁びっくりしたー。なに、どしたの﹂
﹃だって、君がもう僕と話さないっていうから﹄
﹁なにそれ。やーん、センパイ、あたしともっとお話ししたいって
思ってくれてるのー?﹂
鼻にかかった甘い声でからかうと、雀野はしばらくの沈黙の後、
小さく﹁バカ﹂とつぶやいて電話を切った。
ツーツー、としか言わなくなったスマートフォンに、あたしは少
しばかりの寂寞を覚えた。
もうこれで雀野と話すことはないだろう。
364
雀野のネガティブな性格を笑い、あたしの世間知らずを笑われ、
時折辰巳に突っ込まれながらくだらない話をするのは悪くなかった
けれど。
しかし、つまらない感傷にひたっている暇はない。あたしはスマ
ートフォンを無意味に触りながら、軍手をしたままの左手で適当に
草を引っ張るふりをする。草むしりをサボりながら、定刻になるの
を待っている生徒の演技だ。
なぜそんなことをするのかといえば、今日ここでおとなしく草を
むしっていた理由、その人物が近づいてくるのが見えたからだった。
﹁ちっ、またお前かよ⋮⋮﹂
﹁そうイヤな顔しないでよ、せーんぱい﹂
あたしは満面の笑みを浮かべて、眉間に深いしわを寄せる東条を
見上げた。
﹁今度は罰則の草むしりだァ? お前もバカだなー﹂
﹁不良丸出しの先輩に言われたくないんだけど。そっちはどう逃れ
たの?﹂
﹁検問張ってんのがわかった時点で自主休校だっつの﹂
﹁不良∼﹂
﹁ばーか、お前はおりこうすぎるんだよ﹂
東条は小馬鹿にしたようにせせら笑い、くるっと背を向けてしま
った。
﹁え、行っちゃうの? ちょっと付き合ってよ、あと一時間はここ
で草むしってないといけないの﹂
﹁ヤだね、お前のそばにいるとろくなことねぇ﹂
﹁そう言わずに。イチャイチャしようよォ﹂
べっとつれなく舌を出す東条の後ろ手には、細長い紙袋が握られ
365
ていた。
﹁何もってるの﹂
﹁あァ? べつにィ。お前に関係ねーだろ﹂
そう言うくせに、東条はこれ見よがしに袋を振り回す。
﹁気になる。見せて﹂
﹁まーったく、鼻がきくなァ、お前。でも見せたらタカってくるだ
ろうからイヤだ﹂
誘っているとしか思えないセリフに、あたしはパッと立ち上がり、
東条に飛び掛かった。しかし東条もそれを読んでいたようで軽々身
をかわす。
﹁ばっか、あぶねーな﹂
﹁もったいぶるそっちが悪い!﹂
﹁ったく、しょーがねーなー﹂
東条はしぶしぶといった態を装い、わざとらしくあたしを手招き
した。
﹁おら、見ろ﹂
のぞきこんだ紙袋の中には、紅白の細長い棒状の包が一対入って
いた。ちょっと暗いが、そこに鶴と亀が描かれているのは十分わか
った。
﹁これ⋮⋮!﹂
美月様の七五三のお参りの際、一本わけてもらったことがある。
あたしはその味が今でも忘れられない。
﹁いーなー!﹂
それは演技でもなんでもなく、ここに何しに来たのかすっかり忘
れて飛び出た言葉だった。
﹁だろ? お前なら絶対そういうと思った﹂
﹁いーなー!!﹂
くやしいが仕方ない。これはうらやましい。
366
そう、中に入っていたのは七五三のお祝い用のお菓子、千歳飴だ。
さらし飴と呼ばれる昔ながらの製法で作られたその飴は、あたし
お気に入りの棒付飴とはまた違った素朴な味わいがある。
ぜひともまた食べたい、と思っていたのだが、何しろシーズンが
関係する品物だ。さらに近年はミルクだのいちごだのとよくわから
ない味ばかりが増え、ごくごく単純なものは一般的な店では手に入
らない。
﹁今夏だよ!? どこで買ったの﹂
﹁これはなー、ただのブツじゃねーぞ。川越の老舗手作り飴屋の一
品だ。そこなら年がら年中売ってるんだよ﹂
﹁成分表見たい。砂糖と水飴だけ?﹂
﹁と、赤の着色料な、当然。ミルク入りは邪道だ﹂
﹁わかってるじゃないか⋮⋮!! ね、赤いのちょうだい﹂
あたしは恥じらうことなく軍手を投げ捨て、両手を差し出した。
﹁やーだーね。どっちも俺んだ﹂
﹁やだやだやだ! ちょうだいちょうだい!﹂
﹁うるせーなー﹂
﹁いいじゃん、二本も食べられないでしょ。意地悪するなら舐めて
尖った先端で突っついてやる!﹂
﹁なんでお前も食う前提なんだよ﹂
しゃあしゃあと言う東条は実に意地悪気で、それでいて楽しそう
だ。根っからのいじめっこだな、こいつは。
あたしは千歳飴を狙いつつ、本来の目的につながる会話の糸口を
探していた。
﹁二本なめるのにどんだけ時間かかると思うワケ。っていうかカバ
ンも持ってないし、なんで学校に残ってるの﹂
﹁俺の勝手だろ?﹂
そう、東条の勝手だ。
だが、あたしはなぜ東条がそうするのかの理由がわかる。
367
﹁ふぅん。それって中学時代までは警察のご厄介になることもしば
しばだった先輩が、どうして高校生になってからおとなしくなった
のかってことと関係ある?﹂
ぴたりと動きを止めた東条の顔をのぞきこみ、あたしは続けた。
﹁東条先輩のお父様さァ。出身は北陸だよね﹂
﹁⋮⋮それが?﹂
﹁東条の家って、その前は東北にいたんじゃない?﹂
ほらあのあたり、と詳しい地名まで言ってやると、東条はすうっ
と笑みを消す。泣く子も黙る、というか失神しそうな凶悪な面だ。
﹁何が言いたい﹂
﹁飴の件とは別に、ちょっとご相談がありまして﹂
あたしが切り出すと、東条は一層凄みを増す強面でうなずいた。
﹁いいぜ、イチャついてやるよ﹂
﹁ありがとうございます。ちょっと移動しましょっか﹂
﹁あ?﹂
あたしは東条の腕にだきついてから小声で言った。
﹁誰かが通るかも。話、聞かれたくないでしょ?﹂
﹁⋮⋮わかった。こっち来い﹂
仲の良い恋人同士のように、あたしたちは寄り添って歩いた。軍
手やゴミ袋はその場に放置だ。
あたしたちが向かったのは廃棄寸前の用具が置かれた、屋外に設
置された物置だ。薄暗く埃っぽいが、ここなら二人きりで話ができ
る。
擦り切れた体育用のマットにポスンと腰を下ろしたあたしは、睨
み付けてくる東条を見上げた。
﹁いいね。逢引って感じ﹂
﹁俺のこと調べたのか﹂
﹁まーね。でもそれぐらいこの学園じゃ普通だ。怒んないでね﹂
368
﹁怒ってねーよ。それより、俺がなんでおとなしくしてるかって?﹂
﹁はい。酒にタバコに喧嘩に女って四拍子そろった噂ばっかり聞い
てたけど、実際は違いますよね。ま、実際のとこは知らないけど、
少なくとも表ざたになるようなマネは一度もしていない。なんでだ
ろーなーって思ったんですよ﹂
東条はこれまで公立の学校を出ている。これは鳳雛学園の生徒に
しては珍しいケースだ。なぜなら鳳雛学園に通うレベルの人間は幼
稚舎からのエスカレーターか、鳳雛に匹敵する名門私立学校卒業者
がほとんどだからだ。ちなみにあたしと美月様は後者にあたる。
ここ十数年で伸びに伸びた東条家はいわゆる一代成り上がりのた
め、二代目を担う東条彰彦がハクをつけるためにこの学園に入り込
んだ、というのが共通の理解だろう。しかし、その本心はどこにあ
るのか。あたしは風紀との接触により、その答えを見出していた。
﹁東条先輩さ。素行うんぬんというより、風紀委員、いや、城澤の
ことすっごく気にしてるよね﹂
東条は黙ったままだが、その沈黙が何よりの返答だった。
城澤の家は、江戸時代末期に家老職についていたほどの上級藩士
だ。彼らの属していた藩は幕末の戊辰戦争の折り、朝敵と呼ばれ不
遇な目にあうことも多かった。そんな中、明治に入って持ち前の教
養で大学教授にまで成り上がり、同郷者たちを支援してきた城澤家
は、今も結束力の強い旧藩士たちの中心になっている。
﹁東条家ってさ。その藩の出なんでしょう。一応、武家ってことで
いいのかな﹂
事実として東条家がその藩に籍を置いていたことは調べがついて
いる。だが、幕末の動乱の際にどう動いたのかまではつかめていな
い。城澤や松島も東条の家が同郷であることに気づいていないだろ
う。
369
以前から城澤への態度に怪しさを感じてはいたが、調査結果が出
るまでにかなりの時間を要してしまった。それくらいに取るに足り
ないちっぽけな家なのだ。だが、そういう人間に限って、なぜか欲
しくなるものがあるらしい。
﹁ね、昔の仲間とのつながり、ほしくない? あたし実は城澤とけ
っこう仲いいんだよね﹂
成り上がりが欲しがるもの、それは歴史に裏付けられた立派な後
ろ盾、認められる深いつながり。
ああ、なんてあたしは下衆なんだろう。
自嘲ものせた嘲笑が浮かぶ。東条はそれをどう見るだろうか。
﹁はっ﹂
東条は鼻を鳴らすと、あたしに千歳飴の赤い方を放り投げた。
﹁バカ言ってんじゃねーよ﹂
﹁⋮⋮魅力は感じない?﹂
﹁俺の家なんて、戦争になるっていうんで一目散に逃げ出したどう
しようもない下っ端だ。逃げたことにも気づかれないくらいのな。
そんなヤツが今更つながりをほしがるなんてバカげてる﹂
自分は白い方を袋から開けると、あらあらしくバキンと歯で折っ
てしまった。もったいない、じっくり舐めるのがおいしいのに。
﹁会ったこともねぇ主君相手に忠義を尽くし、今もずるずる傷なめ
あってるなんて気持ちが悪いにもほどがある。今更藩主だろうが家
老だろうがありがたくもなんともねーよ﹂
これは、まずい方向にいっているかな。
東条自身は、東条家のために行動することをあまりよく思ってい
ないのかもしれない。
﹁でも、はばかりがあるからイイ子にしてるんでしょう﹂
あたしがそう言うと、東条は飴をかみしめてあたしに向かって腕
370
を伸ばした。
拳一発もらうくらいの覚悟で口にした。
暴力沙汰は本当に勘弁してもらいたいし、逃げ出したいのだが、
あたしは腹をくくっていた。それくらいイヤなことを言っている自
覚があったからだ。
それでも怖さはあるから、反射的に目をつむってしまう。
グラリと傾く体、倒れる感覚。
あたしは肩を掴まれてマットの上に押し倒されていた。
間近に迫る東条の顔は猛々しいが、どこか悲しくもあった。
ああ、あたしはこの人を今傷つけているのだな。そう思った。
東条はくわえたままの折れて短くなった飴を、顔を更に寄せるこ
とであたしの口に突っ込んできた。
﹁それ舐めて黙ってろ﹂
あたしは無言でうなずく。
﹁俺の親父も大バカ野郎でな。我が家は藩士だっただの殿を守って
ただの寝言言いやがる。そのくせ肝心な時にご奉公できなかったっ
てのが後悔なんだと。いつか必ず報いるのが悲願なんだと。それが
金ころがしに成功した今だと思ってる。信じられねーだろ。人脈つ
くりてーとかそういうんじゃなくて、ガチでそう思ってんだぜ? だから旧藩士の集いにも名乗り上げず、匿名で資金援助したりして。
何に報いるつもりだよ、なんもしてもらった覚えなんてねーよ﹂
口の中にじんわりと甘味が広がる。
固さはあるが、重さはない。激しい主張のないかわりに飽きのこ
ない柔らかでやさしい味わいだ。
﹁金積んでここに入学したのだって、あの城澤がいるからだ。陰な
がらでいい、どうにかあいつの助けになれ、少なくとも迷惑はかけ
るなってさ。親父には男手一つで育ててもらった恩がある。だが我
慢ならねーこともある﹂
あたしが抵抗しないことがわかったのか、東条は肩をおさえつけ
371
ていた手をあたしの頬へと滑らせた。意外なことに、ひどく優しい
手つきだった。
﹁お前も親父と同じだ。あんな頭の悪いヘラヘラした女に頭下げて、
何の意味がある。アイツは何にもわかっちゃいねーぞ。お前の必死
さ、健気通り越してイライラする﹂
ああ、そうか。
あたしは先ほどまでの恐怖心が消えているのを感じた。おかげで
こんな挑発的なセリフもポロっと言えてしまう。
﹁けなげは、どっちかな﹂
﹁なんだと?﹂
飴をくわえたままなので発音はままならないが、きちんと通じて
いた。
あたしはゆっくりと手で口から飴をとりだし、言った。
﹁まず先に、安易に城澤とのパイプつくりの手伝いを申し出たこと
を謝ります。どうも先輩のご尊父様は、そんな目先の欲を優先する
方ではないようだから﹂
東条の眉間のしわが深くなる。怒っているわけではない、と思う。
彼はただの悪人面なのだ。
﹁気に入らないのかもしれなけど、先輩は父親を、父親の想いを大
切にしているから、こうしているんでしょう。喧嘩を売られること
のないよう、難癖つけられることのないよう、飴舐めながらひっそ
りと学校で時間をつぶしてる﹂
東条のことを探っていてわかったことだが、この男、運が悪い。
風体も悪いのだが、何かとからまれやすいようなのだ。警察のご
厄介といっても、喧嘩に遭遇したり、生意気だと襲われたりしたと
ころをついつい過剰防衛︵という名の返り討ち︶してしまった結果
のことらしい。鳳雛学園においては十二分に受け入れがたいことな
ので不良扱いされてしまうが、実質は不良と呼べる男なのだろうか。
372
おそらく東条自身自分の性質をわかっているので、だらだらとす
ることもなく学校に残っているしかないのではないか。
﹁健気な先輩﹂
あたしは小さくほほ笑んだ。
﹁⋮⋮お前、今の状況わかってんのか﹂
﹁なにが?﹂
﹁密室で二人っきり。喧嘩売ってきやがって、何されてもわかんね
ーぞ﹂
わざとらしい脅し文句に、あたしの笑みは深まるばかりだ。
﹁何もしないよ、健気な東条先輩は。あたしはあたしを拾ってくれ
た姉さんに恩を感じてる。恩義ある相手を悲しませるようなことは
しない。先輩もそうでしょ﹂
子どものように、くしゃりと眼前の顔がゆがむ。
﹁⋮⋮くそっ﹂
東条はあたしの手から飴を奪い取って身を起こすと、隣にどさり
と座った。
﹁生意気だ。むかつく﹂
﹁そう言わないでよ。ごめんね、東条先輩﹂
﹁うるせぇ﹂
すっかり機嫌を損ねてしまった東条は、ガリガリと音を立てて飴
をしゃぶっている。
﹁バカにしてるんじゃないんだ。ただ、ちょーっと取引できないか
なァと思って。残念、アテがはずれちゃった﹂
あたしが肩をすくめると、東条はまた鼻で笑った。
﹁お前に利用されるとか怖すぎるわ、どんな目にあうかわかんねー﹂
﹁そこまでじゃない。でもまずいなァ、どうしよっかなァ﹂
のんきに言ってはいるものの、困っているのは本当だ。
﹁しかたない、他の手を考えるか。飴はもらっちゃうからね、あと
でなんかお礼するね﹂
373
赤い千歳飴を持って立ち上がろうとしたところ、東条があたしの
手をつかんでマットにまた引きずり戻した。
﹁わっ。なに?﹂
﹁⋮⋮別に、イヤだとは言ってねーだろ﹂
﹁なにが?﹂
﹁や、だから⋮⋮。城澤と、その﹂
東条は口ごもり、また飴をガリガリとやり始めた。
え。
なに、こいつ。
さっき大口たたいときながら、そういうこと言っちゃう?
まじまじと東条を見つめていると、彼は心底苦しそうに本音をし
ぼりだした。
﹁せめて、城澤が親父のしたこと知ってくれれば、なんか、少しは
救われるような気がすんだろ﹂
﹁⋮⋮⋮せんぱーい﹂
あたしは愛しさやら何やらがこみあげてきて、ついついぎゅっと
腕に抱きついてしまった。
﹁んだよ! なつくなっ﹂
﹁不良だの悪人面だの思ってごめんねー﹂
﹁うるせーよっ。飴かえせ!﹂
﹁や、返さないし。安心していいよ。ちゃんと城澤と連絡とってあ
げるね﹂
そっぽを向いてしまった東条は、話題を変えようと必死なようだ。
﹁それで、なんだよ。取引って言ったな。俺に何やらせるつもりだ﹂
﹁あ、それなんだけどォ﹂
えへ、と小首をかしげてみせると、あたしは聞き流してくれない
かなァと希望をのせて言った。
﹁実はもう始まってるっていうかァ、なにもしないでほしいってい
374
うかァ﹂
﹁は?﹂
当然ながら困惑したように聞き返す東条。
﹁明日からちょーっと騒がしくなるかもしれないけど、目をつむっ
ててほしいんだ。それだけ。大丈夫、ちゃんとあとでスッパリサッ
パリ誤解は解けるから﹂
﹁なんか聞き捨てならねーな。何企んでやがる﹂
﹁ちょーっと、ね﹂
あたしの小首かしげアンド頬に人差し指をあてる決めポーズに、
東条は道端の散らかったゴミを見るような視線を向けてきた。
375
不良と悪魔の怪しい取引︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
376
悪魔、かんしゃくを起こす
遠巻きにこちらを指さしひそひそと話し込むのは、紳士淑女の卵
としてどうなのだろう。
あたしは汗ばむ背中にいらだちを覚えつつ、ひたすらに目の前に
生い茂る青々とした雑草たちに集中した。
時刻は朝七時半、少し早いが、ちらほらと生徒が姿を現す時間帯
だ。そろそろあの場所に移ることにしよう。
あたしに課せられた校内清掃は、朝の始業前と放課後、どちらか
を選んで行うことになっている。家のこまごまとしたうるさい事情
があること前提の措置だ。さらに言えば、どこを掃除するかも自由
となっている。これは人前で恥をさらしたくないプライドの高い生
徒への配慮。厳しいくせにお優しいことだ。まあ、万が一にも美月
様が草むしりするなんてことになったら、誰もいない時間の誰もい
ない場所を選ぶに決まっているが。
しかし、それはあたしに必要なことではない。むしろその逆だ。
﹁なんであたしが⋮⋮朝っぱらからこんな⋮⋮!!﹂
ぶつぶつと不満をもらし、力任せに雑草を引き抜く。最初は演技
のつもりだったが、いつしか本音へと変わっていた。
校門をくぐり車止めのロータリーを抜けた先の白い石畳を進むと、
校舎との間に噴水がある。石畳の脇には広々とした花壇があり、季
節の花を咲かせていた。あたしはその、登校すれば誰もが目に入る
場所で草むしりをしている。
このもっとも人目に付く場所は普段から優秀な用務員たちにより
377
手入れが施されていたが、あえてあたしはここを選んだ。
わざとらしく軍手を土で汚し、花壇のレンガ下から伸びるわずか
な雑草を探す。まだ日は登り切っていないが、太陽は夏の熱を帯び
てさらされた首を焼いている。
まったく、お役目だと思わなければやっていられない。
ああ、もう、早く来てくれないかなぁ!
しゃがんでるだけでも結構疲れるのになー!
いい加減我慢の限界を迎えそうだったその時、生徒たちのざわめ
きが大きくなったことで、あたしはようやくほっと息ができた。
﹁いやだわ⋮⋮。本当にペナルティの草むしりをやっていただなん
て﹂
嫌悪感たっぷりに言い放ち、あたしのそばに立ったのは黒いスト
ッキングに包まれたすらりと長い美しいおみ足。
生徒会副会長の雨宮祥子。
彼女の生活は規則正しく、毎朝この時間に登校することはわかっ
ていた。今回の役者に雨宮は必要不可欠だった。なおかつ、やっか
いな鷹津や池ノ内の登校まで予測ではあと二十分はある。
彼女なら、きっといい反応をしてくれることだろう。
﹁生徒会にかかわる人間として恥ずかしいと思わないの。風紀の検
査になんてひっかかって、みっともない。品位が落ちるわ﹂
あたしは顔をあげることなくもくもくと手を動かしていた。
﹁まだ見習いのくせにこんなことで生徒会の仕事もできなくなるな
んて、馬鹿にしているの﹂
我慢我慢。
あともう少し。
﹁何か言ったらどうなの。それとも情けなくて何も言えない?﹂
﹁あ、あ、ああ雨宮様っ!﹂
378
黙り込んでいるあたしのかわりに飛び込んできてくれたのは、少
々舌がまわっていない生活委員会部長、一戸由果だ。おおこれはこ
れは! カモがネギしょってとはこのことだ。あたしはうつむくこ
とで浮かびそうになる笑みをなんとか隠そうとした。
﹁あら。あなたは確か⋮⋮﹂
﹁学生生活安全部部長、一戸由果と申します! こ、この生徒はで
すね、このように殊勝に奉仕活動をしているように見せかけて、そ
の実は、ハレンチ極まる行為をしておりますのですよ!﹂
﹁なんですって? 詳しく聞かせてちょうだい﹂
キンキンと叫ぶ一戸の声はよく響き、他の生徒たちの耳にも充分
届く。
﹁わ、わたくし、偶然見てしまったのです! 昨日は実験棟の裏で
草むしりをしていたかと思えば、あの東条彰彦と連れ立って掃除用
具を捨てさり、物置へと二人で入り込んでいたのです!!﹂
﹁まぁ⋮⋮!﹂
﹁いったいどうしたのかと思って、思わず写真もとってしまいまし
た!﹂
ほら! と一戸は雨宮に写真を渡す。その数は一枚二枚ではない。
なーにが思わずだ、ばっちり狙っていたくせに。なんて、写真を
とられることがわかっていて東条にしがみついていたあたしが言う
セリフでもないだろう。
﹁何やら親しげに話していたかと思うと、このようにべったりと二
人くっついて密室に閉じこもり、小一時間は出てきませんでした⋮
⋮。わたくし、もう気が動転してしまって﹂
話盛るなあ、とあたしは内心一戸の努力に感嘆する。
生活委員会があたしの行動を監視しているのは、城澤に見せても
らった告発文からわかっていたことだ。東条との会話を聞かれては
まずい、と思っての行動だったが、やはり一戸はあたしのもう一つ
の狙いをきっちりこなしてくれた。
379
﹁な、なんてことなの⋮⋮。神聖なる学園内で、しかも罰則を受け
る身にありながら、なんてことを! 信じられないわ﹂
怒りか軽蔑か、雨宮はぶるぶると震えながら言った。それは他の
生徒たちも同じようで、もはやひそひそ話ではなく立ち止まってこ
ちらを見て騒ぎ立てている。
﹁いやだわ、本当なの!?﹂
﹁少しはまともになったって聞いていたのに﹂
﹁とんでもない女だ﹂
﹁やっぱり悪魔は悪魔なんだ﹂
﹁天使の妹だっていうのに﹂
場は十分に温まった。
さぁ、あたし。
女優になりきるんだ。
﹁あなたは本当に美月さんとは全然違うのね。こんな恥ずべきこと
ってないわ。今すぐにでも生徒会補佐の補佐の役を降りてもらうわ。
このことはすぐに鷹津くんにも報告を⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮何よ﹂
﹁え?﹂
ようやく口をあけたあたしは、下から雨宮を睨みつけた。その目
の鋭さは、雨宮をして動揺させるほど。
﹁あたしが今、何やってるか見えないの?﹂
﹁な、何をって﹂
﹁今、あんたの目の前であたしが何やってるかわかるかって言って
るの!!﹂
あたしは汚れた軍手と雑草を雨宮の眼前にたたきつけた。
大きく息を吸い、その場にいるすべての生徒に聞かせるようにあ
たしは声をはりあげた。
380
﹁あたしは草むしりなんてしたくない! でも罰則だっていうから
おとなしくやってやってるんでしょ!? そうでないと余計にあん
たら生徒会や姉さんに迷惑がかかるからと思ってやってんの! そ
れなのに何!? 罰則に従っててなんで怒られなくちゃいけないん
だ!﹂
﹁そ、それは罰則受けること自体が悪いと言ってるのであって⋮⋮﹂
﹁うるさい! だから反省してるのがわかんないの!? これがパ
フォーマンスだっていうのならやってみてよ、朝六時から、校内の
草むしり、ごみ袋いっぱいになるまで!﹂
あたしはパンパンになったごみ袋を指さした。あたしは何もここ
だけを清掃してまわったのではない。他の場所から雑草をかき集め、
最後に仕上げとしてこの場所を選んだのだ。
﹁掃除のことだけじゃないわ。東条彰彦との不純異性交遊は⋮⋮﹂
﹁これが何!?﹂
あたしは最後まで言わせず、一戸から写真を奪い取った。
﹁少し知り合いと話しただけで不純異性交遊!? 馬鹿じゃないの、
どれだけ潔癖だ! 共学なんだから異性の友人くらいいるでしょー
が!﹂
﹁だって密室で﹂
﹁密室だぁ!? あっついんだからどこか屋内に入りたいって思う
のは自然でしょーが! そうやって薄汚い妄想膨らませるほうがよ
っぽど不潔だ!﹂
﹁腕組んでるし﹂
﹁腕組んだら恋人か! じゃあパーティ会場は婚約者どうしだらけ
か! 入れ代わり立ち代わり恋人か!﹂
今までは何を言われてもすねるかいじけるかだったあたしの反抗
に、雨宮はすっかりたじろいでいる。そのぽかんとした顔には少し
ばかり溜飲が下がった。
381
﹁本質見えてないくせにがーがー文句ばっかり言って、ほんっとサ
イテー! 東条と話すのがなにさ、姉さんのときは﹃天使の慈愛は
不良も照らす﹄とかだったのに、なんであたしはそんなひどいこと
言われなくちゃいけないの!?﹂
﹁み、美月さんとあなたが一緒だと思っているほうが間違っている
わ!﹂
﹁そうよ、白河さんが学園の悪魔と同じ扱いされるほうがおかしい
のよ! 姉を利用して生徒会に出入りしてるのもね!﹂
﹁あたし、ちゃんと仕事したもん﹂
﹁そういうことじゃなくて、そもそもあなたは白河美月さんと違っ
て生徒会にふさわしくないのよ!!﹂
言った。
言ってくれた。
一戸には折詰もって感謝したいくらいだ。
あたしはぐっと唇をかみしめ、うつむいた。
﹁何よ。あたしが姉さんとは違うって、最初から知ってるもん⋮⋮﹂
ここで涙でも流せたら、アカデミー賞ものなんだけどな。しかし、
声を震わせ顔をゆがめてみせるあたり、あたしはかなりいい演者だ
と思う。
﹁お望み通り辞めてやる﹂
﹁え﹂
﹁もう生徒会補佐の補佐なんか辞めてやるっ!! こんなにがんば
ってるのに誰も認めてくれない、ほめるどころか怒られてばっかり
! 生徒会のカッコイイ先輩たちとお近づきになれるかもって思っ
たのに、全然かまってくれないし! もうやだ!! 草むしりだっ
てやらない! 生徒会より東条のほうがよっぽどいいよ、それなり
に優しいし、顔もワイルド系で実はけっこうカッコイイし! 雨宮
副会長の陰険鬼婆!﹂
382
﹁おにばば?﹂
低俗な罵声に頭の処理が追いついていないのだろう。雨宮は思考
停止状態に陥っている。
﹁そっちの生活委員だってそれで満足でしょっ。絶対生徒会になん
か近寄るもんかっ﹂
あたしの剣幕に気圧されたように、一戸も目をぱちくりとさせて
いる。この混乱に乗じ、あたしはすべて放り出して校舎にむかって
走り出そうとして︱︱︱︱︱︱。
﹁アキラくん﹂
ぽすん、と誰かの胸に受け止められた。
﹁大丈夫だ。俺はちゃんと見ていたから﹂
﹁⋮⋮城澤?﹂
そこにいたのは城澤だった。いつも固い表情ですべての不正を正
そうとする彼の目は、今日は悲痛なものを抱えていた。
どうしてここに?
飛び込みの役者が何をしようというのか。
﹁風紀委員長!?﹂
﹁どうして風紀委員長の城澤様が!?﹂
大物二人目の登場に真っ赤になった一戸に向かい、城澤はあたし
を受け止めた格好のまま言った。
﹁一戸先輩、偶然聞いてしまい、大変失礼なのですが、あなたのお
話には説明不足な点があります﹂
﹁えっ﹂
鋼の男からの指摘に、一戸はわかりやすくうろたえる。
﹁白河アキラくんは、確かに昨日放課後、草むしりを一時放棄して
東条彰彦くんと物置に入りました。しかし時間は十五分ほど、本当
に日差しをよけてただ話をしていただけのようでした﹂
﹁え、ちょっと、城澤?﹂
383
﹁さらに、アキラくんと東条くんはその後二人で草むしりをはじめ、
定刻まできっちりと清掃をこなしました。その証拠のごみ袋を他の
風紀委員も見ています﹂
﹁と、東条彰彦が草むしりを!?﹂
これには観衆も驚きを隠せない。それはあたしも一緒だが、理由
は別だった。
確かに昨日はあれから東条を草むしりにつきあわせた。しかし風
紀委員が確認におとずれたことに気づいて東条はさっさと逃げ出し、
残ったあたしだけが膨れたごみ袋を提出した。
つまり東条のことを風紀が知るはずがない。さらに言えば、昨日
は会ってすらいない城澤が、それを見ていたはずはないのだが。
あたしは城澤の腕から逃れようと身をよじるが、がっちりとつか
まれた肩は動かせない。目だけであたりを伺うと、戸惑う生徒たち
にまぎれて両手を合わせて頭を下げている松島が見えた。
あの野郎!
しっかり手綱にぎってろよ、あたしの努力が水の泡になるじゃな
いか!! せっかく巻き込まないであげようと思ったのにィ!!
﹁アキラくんはまじめにペナルティをこなそうとしています。それ
をみっともないと批判するのはおかしいのではないでしょうか﹂
さすが鋼の男、副会長で先輩である雨宮に対してもこの態度だ。
しかし、雨宮も理屈の通じるまともな人間が相手であれば負けてい
ない。
﹁なにも、私は奉仕活動を行っていることを批判しているのではな
いわ。それによる生徒会への仕事の中断、疑われても仕方ないほど
悪辣な日頃の態度を問題視しているのよ﹂
﹁更生への道が見え始めている彼女に対し、適切な発言であったと
は思えません。あれはただのいじわるというものです﹂
﹁い、いじわる!?﹂
384
メガネがずれる勢いでおののいた雨宮に、城澤は容赦なく追撃す
る。
﹁ええ、そうです。欠点ばかりをあげつらい、物事の極端な面しか
見ずに叱り飛ばす。幼子のかんしゃくのようでしたが、一部アキラ
くんの主張には同情すべきところがある﹂
そんなふうに擁護されると恥ずかしいやら困ったやらで、あたし
は頬が熱くなるのを感じた。
ええい、こんな展開は望んでいない!
﹁城澤、もういいよ! ちょっと黙って﹂
﹁いいから、おとなしくしていなさい﹂
﹁よくないよ!﹂
﹁いい子にしてろ﹂
うるさい、とばかりに城澤はあたしの頭を自分の胸におしつけ、
強制的に黙らせた。
﹁ですが、副会長や一戸先輩の言うことももっともです。風紀の検
査もパスできないような生徒が、模範たるべき生徒会役員にはふさ
わしいとは言えないでしょう﹂
﹁え、あ、そう、ですよね。ええ﹂
まだショックから立ち直れていない雨宮にかわり、一戸はたどた
どしくも相槌をうった。
﹁なので、生徒会補佐の補佐の任は解いたほうがよろしいかと。ア
キラくん自身そう望んでいます﹂
﹁ええ! そうです、その通りです!﹂
ここにきてようやくわが意を得たり、と一戸は目を輝かせ、成行
きを見守っていたらしい他の生活委員会の女生徒たちが歓声をあげ
る。
﹁生徒会補佐である白河美月くんも、すでに役目を十二分にこなし
ていると聞きます。補佐の補佐を見事全うしたということで、アキ
ラくんの解任の手続きを進めていただけますでしょうか、副会長﹂
385
白い肌を真っ青にそめた雨宮は、美しい相貌を人形のように固め
たまま動かない。それをいいことに、勝手に了承と受け取った城澤
は話を続けた。
﹁ありがとうございます、よろしくお願いいたします﹂
城澤はことさら声を張り、あたしを抱いたままぺこりと頭を下げ
た。おかげであたしの背はのけぞってしまう。
間抜けな体勢ではあったが、あたしは結果的にうまくいったこと
に安堵していた。
まったくもって城澤の介入は予期せぬものだったが、これであた
しの生徒会補佐の補佐解任は決定されたも同然だ。なにしろ証人は
副会長の雨宮、学生生活安全部部長の一戸、風紀委員長の城澤とい
うそうそうたるメンバーにくわえ、偶然にもそれを見ていた多数の
一般生徒。
﹁では、失礼します﹂
城澤は体を起こすと、あたしをひきずって校舎へと歩き出した。
﹁や、ちょ、やだ! 離して!﹂
﹁話すことがあるだろう?﹂
﹁まぁそうだけど! わかったってば、風紀室行けばいいんでしょ、
なんで毎回毎回あたしのことひっぱるの!﹂
城澤はあたしの肩をしっかり抱えたまま離さない。それに文句を
いうと、さらに肩への圧迫感が強まった。
﹁腕を組むのは友人に対するスキンシップの一環なのだろう。なら、
俺がこうしても問題はないはずだ﹂
﹁えぇ∼!?﹂
何に対抗心を燃やしているのか、城澤はかたくなだった。そして
風紀室にたどりつくと、三人掛けソファにあたしと並んで座ってし
まう。
386
﹁ごめんね、白河さん。止めようとしたんだけど、隆俊さんぜんっ
ぜん聞いてくれなくて﹂
後ろから近寄ってきたのは松島だ。調子よく頭を下げてくる彼を、
あたしは恨みがましく睨みつけた。
﹁これって前言ってた白河アキラ更生計画じゃんっ。あたしはあた
しでちゃんと始末つけようと思ってたのに!﹂
﹁まあまあ﹂
草むしりお疲れ様、と冷たいお茶のペットボトルを渡され、あた
しは喉の渇きを思い出した。
﹁生徒会からの脱出には成功したんだからいいじゃない﹂
﹁よくないっ﹂
ぐっとお茶をあおると、あたしは少し冷静になって聞きたかった
ことを思い出した。
﹁そうだ。なんで城澤が昨日のこと知ってるの。昨日は二年の女性
風紀委員としか会ってないけど﹂
城澤のことだから、自分自身で罰則の言い渡しを行うかと思って
いただけに拍子抜けだった。
﹁あー、それなんだけど﹂
松島は言いにくそうにあいまいな笑みをうかべ、城澤へ視線をそ
らした。
城澤は唇を真一文字に結んだままだ。
﹁しーろーさーわー?﹂
あたしは隣の城澤の腕をぎゅっとつかみ、そっぽをむく仏頂面を
のぞきこんだ。
﹁⋮⋮⋮先輩、とつけなさい﹂
小声の注意も、さきほど雨宮に見せた迫力はない。
﹁まさか⋮⋮。見張ってたの﹂
﹁そうじゃないっ!﹂
かっと目を見開いた城澤だが、すぐに勢いをなくした。
387
﹁本当は見回りのついでに、アキラくんの今後の進退を相談しよう
と思ったんだ。だが、偶然一戸先輩の姿を見つけ、さらに東条彰彦
くんと連れ立って歩くアキラくんを見てしまったもので⋮⋮﹂
﹁で、ついついそのまま動向を見守り続けてしまったというワケで。
もー、あの時の隆俊さんのあわてっぷりったら見てられなかったよ
! 物置に突入しようとしたのを止めた僕を褒めてほしいよ。すぐ
出てきてくれて助かった﹂
﹁伊知郎!﹂
﹁本当のことでしょう﹂
城澤も女房役の松島には勝てないらしい。
しかし気に入らない。
﹁なに。あたしが掃除ほっぽりだして東条と変なことするとでも思
った?﹂
﹁そんなこと許すはずないだろうっ﹂
﹁許す許さないじゃなくて﹂
﹁俺は君がそういうことをする生徒だとは思わない。だが、男女間
では何が起こるかわからないのも事実だ。そうなったとき傷つくの
はアキラくんだ﹂
その返答に、あたしはお茶といっしょにため息も飲み込んだ。
まったく、優等生なんだから。恐ろしいのは城澤が本気でそう思
っていることだろう。
疑われたとひがんでまた痛い目にあうのはごめんだ。今回は素直
に信じてやることにする。
そんなことより大きな問題が目の前に転がっているからだ。
﹁さて、これであたしはもう堂々と生徒会に近寄らなくなるワケだ
けど、風紀にとっては面倒なことになったよ﹂
あたしは傲岸に腕を組んで足を投げ出した。
﹁たしかに大勢の証人のもと、あたしの補佐の補佐解任を認めさせ
ることはできた。⋮⋮でも、もしかしたら。鷹津が邪魔をしてくる
388
かもしれない﹂
そうなれば、矛先はあたしの解任をうながした風紀にも及ぶだろ
う。だからあたし一人で事を進めようと思ったのに。
鷹津がそうする理由については言う必要はない。
言及されたらどうかわすか、と考えているところ、なんと松島も
城澤もわかっている、とうなずいた。
﹁覚悟の上だ﹂
﹁怖いけど、がんばるよ﹂
﹁え。なんで? そこは鷹津があたしのこと引き留めるワケない、
とか思わない?﹂
あまりにも素直な反応に、ついいらないことまで聞いてしまう。
すると松島はハハッと笑い声をあげた。
﹁いやいや、見てればわかるでしょー﹂
﹁一筋縄ではいかない相手だが、俺は引く気はない﹂
何やら決意を固める城澤に、あたしはきょとんと首をかしげるば
かりだった。
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悪魔、かんしゃくを起こす︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
390
悪魔の更生、失敗
二時限目前の十分の休み時間、ぶおーっという異音に教室内の注
目が集まる。
あたしは持ち運ぶにはいささか大きすぎる鏡を机に置き、悠々と
ドライヤーで髪を乾かしていた。朝っぱらからの重労働で疲れた体
も、運動部用のシャワールームを拝借することですっきりした。お
かげで一限目はサボることになったのだが、まあいいだろう。
そろそろじゃないかなぁ。あたしは廊下側に気を配りながら、左
手ドライヤー右手ブラシと忙しい。
﹁アキラ!﹂
﹁おっ﹂
きたきた、とあたしはドライヤーのスイッチを切った。
﹁おっはよ、姉さん﹂
礼儀正しく失礼します、と一言ことわり、美月様はあわてた様子
でB組に入ってきた。それだけであたしに向けられている敵意やら
何やらが霧散するのだから、人柄というものの効果には恐れ入る。
﹁さっきも来たんだけど、一限目どこか行ってたでしょう。だめだ
からね!﹂
﹁あーごめんごめんっ﹂
﹁あっ、それだけじゃなくて。アキラ、雨宮先輩と喧嘩したの!?
それに生徒会辞めるって聞いたんだけど﹂
その言葉に、教室がざわりと動く。
朝っぱらからやらかした騒動は、早耳の生徒を中心にしっかり広
391
まっているようだ。事の真相が本人の口から聞ける機会とあって、
気になるのだろう。
だからあたしは親切に、ハッキリきっぱりと言ってやった。
﹁そーなの、辞めるの。もォ嫌気がさしました﹂
おてあげ、とドライヤーを持ったまま肩をすくめると、美月様は
くしゃりと悲しげに眉をひそめた。
﹁がんばるって言ったじゃない﹂
﹁がんばったよ。でも、もうやめた! やっぱりあたしには合って
なかったみたい﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
﹁雨宮先輩とは完全に決別しちゃったしィ。もう無理﹂
痛む心をおさえる。美月様は雨にうたれた子犬のようで、その子
犬を棒でつついていじめる悪女という光景に、一度は消えていたク
ラスメイトたちのあたしへの敵意が倍増している。
﹁あ、姉さん次は移動教室でしょ? 間に合わなくなるよ﹂
美月様のクラスの時間割は把握済み、次は科学の授業だったはず
だ。美月様はしぶりながらも、
﹁アキラ、ちゃんとお話ししよう。昼休みにもう一回くるから!﹂
と言い残していった。
教室内のざわめきは授業開始までおさまらず、ぶしつけなまでの
視線にあたしは耐えた。
これで火種は十分。
昼休みまでには、白河アキラ生徒会補佐の補佐解任の噂が学校中
に伝わるだろう。
そして昼休み、美月様はうれしいお客を連れてきてくれた。
﹁アキラ、お昼食べよう! いつも来てもらってるから、今日は私
たちが来ちゃった﹂
392
﹁わ∼い、いらっしゃい! しかもスペシャルゲスト、綾乃たんま
で!﹂
そう、いつもなら絶対にあたしと席をともにしない、上都賀綾乃
さんがお弁当の包みを片手にひょこりと姿を見せたのだ。
﹁ちょっとあなたの話に興味があるから。同席させてもらっていい
?﹂
﹁おっけーおっけー。なんでもしゃべっちゃう∼﹂
うん、好奇心野次馬根性丸出しもこうストレートならいっそすが
すがしい。というか、あたしの上都賀さんへの愛が勝る。
机をがたがたと動かして三つつなげると、美月様はお弁当の蓋も
あけずに切り出した。
﹁アキラ。どうして雨宮先輩とケンカなんてしたの?﹂
﹁あたしが草むしりやってたのバカにしたから﹂
あえて食事に集中するふりをして、美月様の質問に簡潔に答える。
今日は白身魚の照り焼きにほうれん草のおひたし、卵焼き。ごはん
には辰巳手作りの乾燥野菜ふりかけがかかっていて色鮮やかだ。
﹁雨宮先輩が、アキラを?﹂
﹁みっともないってさ﹂
﹁それはひどいね。なんで雨宮先輩はそんなこと言ったんだろう。
綾乃ちゃん、なんでだと思う?﹂
﹁さぁ⋮⋮﹂
美月様は真剣に首をかしげている。それを慈愛のまなざしで見つ
めている上都賀さん。
﹁結局のところ、あたしが気に入らないんでしょー。いいよ、別に。
もう気にしてないし、あたしが辞めれば関わりもないし﹂
﹁そういうのよくないよ。仲たがいしたままになっちゃう。本当に
辞めちゃうの?﹂
﹁辞めちゃうの﹂
﹁あんなに生徒会の先輩たちによくしてもらったじゃない﹂
393
﹁思い返すと嫌味言われたり雑用やらされたりした記憶しかないけ
どォ﹂
しれっとツボ漬をぱりぱりと噛んでいると、美月様は珍しくムッ
と険しい顔をした。
﹁そんなことないでしょ! 篤仁先輩にはやさしくしてもらってた
じゃない﹂
釣れたっ!
あたしはすかさず竿を引き上げた。
﹁おーっ、ソレソレ! いい機会じゃん、綾乃たん聞いてよ。あた
しのことより楽しいお話があるの。姉さんにね、ようっやく春がき
たの﹂
﹁え? まさか、やっぱり?﹂
察しのよい上都賀さんは、これまた珍しく素直にあたしの話に耳
を貸してくれた。
﹁そうなの。いやぁ、そういうコト興味ないみたいだから逆に心配
だったんだけど、釣り合う相手を待ってたのかねぇ﹂
上都賀さんはうんうんとうなずいている。
﹁あなたの生徒会云々はどうでもいいわ。今日はその話をあなたに
聞こうと思ってついてきたの。美月ちゃん、ここのところポヤポヤ
してて上の空になること多かったから、もしかしたらって﹂
﹁そうなんだよね。おかげであたしにまでヤキモチ﹂
﹁まぁ﹂
親友の意外な一面を見たのか、どこか楽しそうだ。
話の中心であるのに蚊帳の外におかれた美月様は、きょと、と目
を丸した。
﹁何のお話?﹂
﹁だーいーじーな、お話。ね、あたしが生徒会辞めるとさ、帰りま
たバラバラになるじゃん?﹂
﹁ああ、そうだね。それもさみしいな。アキラ、やっぱり⋮⋮﹂
394
﹁いやいや、待って待って。そこで提案。姉さんお耳拝借。綾乃た
んもどーぞ﹂
わざとらしく声をひそめ、顔を寄せ合ってからあたしは小さく言
った。
﹁一人で帰るのは物騒だし、一緒に帰りましょって誘いなよ。⋮⋮
鷹津会長に﹂
﹁ええっ!!﹂
コミカルなほど美月様は飛び上がり、一瞬で頬を真っ赤に染めた。
﹁そ、そんなこと言えない! っていうか、アキラ、なんで!?﹂
﹁やっだなぁ、姉さんのことならなぁんでもわかるって﹂
行儀悪く箸でツンツン、と美月様のほうを指すと、美月様はすぐ
に犯人を思いついた。
﹁お母様が言ったんでしょ! もー、なんでもしゃべっちゃうんだ
から!﹂
それはあなたがなんでもしゃべっちゃうからですよ、とは言わな
いでおく。
﹁そうなるとあたしがいないほうが都合いいんじゃなぁい? だい
じょぶ、応援はしっかりするからさ﹂
﹁相手にとって不足はないわ。待ってるだけじゃなくて女性のほう
から積極的になるのもいいと思う。なにせ留学経験があるんだもの。
美月ちゃん、がんばって!﹂
﹁ええ∼!﹂
もう美月様はパニック状態で、自分が何のためにここへ来たのか
頭から飛んでいる。よかったよかった。あとは残りの昼休みを年頃
のあたしたちらしい﹃コイバナ﹄とやらに費やせばいいのだ。
まさかこんな青春じみた時間が迎えられるとは⋮⋮。
しみじみと感慨深く思っていると、それを邪魔する無粋な声が飛
び込んできた。
395
﹁あーっ、見つけた、アキラ! ごめんな、ちょっとお邪魔します﹂
きゃあ、というかわいらしい歓声と近づいてきた足音に、あたし
は一瞬で現実に戻された。
﹁⋮⋮せっかく楽しくおしゃべりしてたのに⋮⋮﹂
﹁そりゃ悪かった﹂
恨みがましくいうと、その相手 ︱︱︱︱︱ 池ノ内は気にした
ふうもなく言った。ただでさえこちらに注意を向けている生徒たち
が多かったというのに、これで完全にあたしたちは見世物になって
しまった。
﹁なんなんですかぁ﹂
﹁なぁ、補佐の補佐辞めるって本当か?﹂
ああ、もう、タイミングが悪いっ。せっかく話がそれてたのに、
美月様が正気に戻ってしまうじゃないか!
﹁そーだよ、ホント。辞めるよ﹂
﹁やめろよ﹂
﹁はいはい、辞めるってば﹂
﹁辞めるのやめろって言ってんの!﹂
あれ。
あたしはお弁当をつついていた手をとめ、あらためてまじまじと
池ノ内を見た。声を荒げるとは、なんだか池ノ内らしくない。そう
思ったのが伝わったのか、本人もしまったというように顔をしかめ
る。
﹁あー、ごめん。怒ってるんじゃなくてさ﹂
池ノ内は空いている椅子を引き寄せ、あたしのそばに座った。思
わぬ人物の登場に驚いたのか、あとあとの嫉妬や揶揄を恐れてか、
あからさまに上都賀さんの表情がひきつっている。せめて上都賀さ
んに被害がいかないようにしよう、とあたしは甘えた声で言った。
﹁なに。先輩、あたしがいなくなるのさみしい?﹂
396
﹁うん﹂
﹁うん!?﹂
池ノ内はまさかの即答。
﹁なぁ、白河からも言ってやれよ﹂
﹁えっ、あっ、そうですよね﹂
はっと意識を取り戻した美月様は、あたしと池ノ内を交互に見な
がら口ごもっている。そこへ上都賀さんがぼそぼそと何やら耳打ち
し、またぱっと美月様の耳たぶが赤くなる。
﹁⋮⋮なんか、援護射撃は望めない感じか?﹂
何かを察したらしい池ノ内は、はぁ∼っと大きく息をついた。
﹁アキラ、お前雨宮副会長とヤリあったんだって? 頭固いとこあ
るからさ、悪い人じゃないんだけど。あんまり気にするなよ﹂
﹁ぜんぜん気にしてないけど。でもこれ以上こじれるのは面倒﹂
﹁要も冷たくてな、お前の説得に行くのも勝手にやってろって。友
達がいないよな。あ∼あ、アキラ、辞めるの?﹂
﹁しつこーい﹂
これみよがしにまたため息。池ノ内は購買のパンの袋を開けなが
ら、ぶつぶつと愚痴を言い始めた。ここで食べていく気らしい。
﹁つまんないなー、お前がいる生徒会、気に入ってたのに。会長に
止められても、お前の餌付けちゃんとしとけばよかった。そうすれ
ばまだ引き留められたかもしれないのに﹂
なんだ、その言いぐさは。
﹁あのさ。あたしが去るのを惜しむ気持ちは当然として、先輩はあ
たしをペットか何かだと思ってない? 正直先輩は好意的に迎えて
くれてたから嬉しいは嬉しいんだけども﹂
﹁ペットなんて思ってない。俺、男兄弟の一番下だからさー。妹ほ
しかったんだよね﹂
﹁そりゃ、あたしみたいな妹いたらサイコーでしょうけど﹂
﹁俺だったらすげーかわいがるよ﹂
397
﹁⋮⋮ああ、そう﹂
なんというか、池ノ内はストレートすぎてちょっと引く。本当に
そう思ってる? と聞き返したくなるのだ。鷹津のとは別の意味で
腹の底が読めない男だ。
本気であたしがいなくなるのを止めようとしてくれているように
も見える。なにか下心あってのものなのか、純粋なやさしさからか。
それがわからない。
﹁よくない? 妹と二人で外歩いて、恋人に間違えられるシチュエ
ーションとか。俺そういうのすごく憧れる﹂
﹁兄がいないもんで、よくわかんないわ﹂
﹁そっかー。お兄ちゃんって呼んでもいいぞ﹂
﹁誰が呼ぶか!﹂
﹁どうでもいいけど、そのふりかけごはんうまそうだな。一口くれ、
妹よ﹂
﹁あげない!﹂
結果的に言えば、その後週末までは本当に何も問題なく事は進ん
だ。
白河アキラは生徒会から逃げ出し、奉仕活動からも逃げまくった。
東条と深い付き合いがある、とのことだったが、真偽のほどはわか
らない。だが類は友をよぶときく、そうであってもおかしくはある
まい。
それが学園内での共通の理解になったとき、ついに学園の悪魔の
汚名挽回︵間違いではない︶に成功した。池ノ内もあきらめたのか、
あれきり顔を出さなくなった。
美月様のほうも首尾は上々、池ノ内来襲があった放課後から、本
当に鷹津の送迎車に乗って白河家まで送られてきたのだ。おかげで
398
美月様はこの上なくご機嫌、というかハイテンションで、少し心配
になるほどだ。あたしと敬吾さんはこれを危惧していたのだけれど、
水音様のこともあるし、まあ良しとする。
そこであたしが何を思うかといえば。
﹁あたしって、ものすごい自意識過剰?﹂
恥ずかしくて穴があったら入りたい。
あたしは離れの自室で正座をし、両手で顔を覆っていた。
﹁やっぱり鷹津のこと勘違いだったかも。止めてくるかなーとか思
っててバカみたい。スルーじゃん、何事もなかったかのようにスル
ーじゃん。池ノ内だけだよ、それも一回だけだよ。風紀にまでタン
カきったのに。はーずーかーしーいー!!﹂
そう、鷹津は一切口を出さなかったのだ。
美月様いわく、あたしが辞めると伝えたときも﹁そうか﹂と一つ
頷いて何事もなかったかのように仕事を始めたという。それ以来話
題にも上らないらしい。
ただでさえ鷹津の心象が悪そうな風紀に気を遣い、近寄らないよ
うにしよう、東条の家のことはほとぼりが冷めたころに改めて伺っ
て話をするとしよう、と思っていたのに。せっかく鬼の形相の城澤
と必死になる子犬の松島から逃げまくってたのに。これじゃ鼻で笑
われる。
ましてや美月様が妬いちゃうから、と生徒会を辞めたなんて口が
裂けても言えない。
﹁アキラ様、落ち着いてください﹂
﹁だってだって!﹂
﹁いいじゃありませんか、面倒がなくて。三舟さんから聞いたとこ
ろでは、鷹津様は実に紳士的に美月様にふるまっているようですよ。
このままならうまくいくのではないか、とも言っていました。奥方
399
様も機嫌がいいとか﹂
﹁それは喜ばしいんですけどォ。よかったー、敬吾さんに言わない
でよかったー!!﹂
不幸中の幸いといえば、敬吾さんに﹁鷹津はあたしのこと嫁にす
るつもり﹂なんて頭のおかしいこと言わないで済んだ、という点だ。
もし口にしていたら、今頃あたしは雪山で氷漬けだ。
﹁俺はこうしてまたアキラ様がお早くお帰りになって、いっしょに
お茶が飲めるのがとても喜ばしいです﹂
その言葉に救われる。
たしかに、生徒会の雑務をこなしてからの帰宅ではすぐに夕食の
時間になってしまっていた。平日にゆったりと時間がとれるのは久
しぶりのことだ。
﹁辰巳、あたしも嬉しい。そうだな、物事はよい方にとらえよう﹂
﹁はい﹂
﹁さて、そろそろお帰りの時間かな。お顔を見に行ってくる﹂
よっこらせーと気持ちを切り替えて立ち上がると、あたしは母屋
に向かった。
だしと醤油のいい匂いに夕食のメニューを想像しながら廊下をわ
たっていくと、ちょうど美月様が玄関を開けたところだった。
﹁ただいま帰りました!﹂
﹁お帰りなさい、姉さん﹂
読み通り、とあたしがにっこり笑うと、美月様はとろけた笑顔で
返してくれた。
﹁ただいまぁ、アキラ! 今日もねぇ、篤仁先輩に送ってもらっち
ゃった! 今日はいろいろお話できたの。先輩はねぇ、猫より犬派
なんだって﹂
高校生の男女がなんの話をしているのやら。いや、美月様らしい
といえばらしいのか。
400
外まで迎えに行っていた三舟さんも苦笑している。
﹁生徒会のほうは変わりない?﹂
﹁うん、問題ないよ! あ、でもちょっとみんなさみしそう。やっ
ぱりアキラがいないからかな﹂
﹁それはねぇ。アイドルだったから。でも、アイドルに引退はつき
ものなんだよ﹂
﹁なにそれぇ!﹂
朗らかな笑い声を聞きつけたのか、﹁美月、お帰りなさい﹂と水
音様が階段から降りてくる気配がする。あたしはすぐさま美月様に
あいさつをするとその場を立ち去った。
まったくもって問題ない。
すべてはうまくいっている。
そう、気味が悪いほどに。
夕食後、まったりと辰巳と過ごしていると、不意にジリリリリ、
と鋭い呼び出し音が鳴った。
びっくりしてキョロキョロとあたりを見回すと、辰巳が音の発信
源をかばんから取り出してくれた。
しばらく鳴ることのなかったあたしのスマートフォンだ。
﹁あっれ、雀野だ﹂
しまった、つい番号を消し忘れていた。
あれきりお互い連絡をとることもなかったが、いきなり何の用だ
ろう。
﹁もしもし?﹂
あたしがいぶかしみながら通話ボタンをおすと、早々に雀野は言
った。
﹃薄情者ではなくて、今日僕は辰巳さんと話がしたいんだ。いつも
401
みたくスピーカーでいいから、かわってくれ﹄
﹁は?﹂
﹁俺はここにおります、雀野様﹂
﹃夜分遅く失礼します﹄
﹁とんでもありません。俺に御用とはなんでしょう﹂
﹃ちょっと愚痴を聞いていただきたくて﹄
﹁なんなりと﹂
﹁え? なに? 何が始まるの﹂
二人でポンポンと進む話についていけない。
﹃僕の知人はなんとも薄情なんです! もうメリットはないだろう
から連絡を絶とうだなんて言うんです﹄
﹁おや﹂
﹃打算から始まった仲ではありましたけど、かかわるうちに少しば
かり友情が芽生えてたのかな、なんて思っていたのに﹄
﹁それはショックでしたね﹂
﹃はい、それはもう。その知人は、この前なにかトラブルがあった
みたいなんですけど、それも僕には黙ったきりで相談もしてくれな
くて。その原因というか、意図はなんとなくわかってるんですけど、
それでもなにか一言言ってくれてもいいと思いませんか!?﹄
﹁そうですね。雀野様はなにか働きかけてみたのですか﹂
﹃うっ⋮⋮。いえ。僕も意地になって連絡しませんでした。向こう
から何か言ってこないかなって期待も少しばかりありましたし﹄
﹁なるほど。そのままになってしまったのですね﹂
しらじらしい。
この会話の合間に、あたしは﹁もしもーし﹂とか﹁ちょっとー﹂
とか口をはさんでいるのだが、まったく相手にされていない。ひど
すぎる。
なにが僕の知人、だ。まるっきりあたしのことでしょうが!
402
それを芝居じみたかたちであたしをチクチク非難し、辰巳に告げ
口するとは。これだから雀野は雀野なのだ。
﹁それで、今日はどうしてまた?﹂
﹃本当に連絡してこないから辰巳さんに愚痴を言いたくなったのが
一つと、たぶん知人が知らないんじゃないかという情報提供を、と
思って﹄
﹁なんでしょう﹂
﹃白河さんは篤仁と親密になってきたとは思う。あのわがまま俺様
がお世話をやくくらいには。でも、ガードは堅いよ。絶対に二人っ
きりにはならない。白河さんを送る車には生徒会全員乗ってるくら
いだから﹄
﹁えっ、そうなの!? みんなで帰ってるの!?﹂
むくれるのも忘れて声をあげると、今度ばかりはきちんと返事を
してくれた。
﹃今日は君のとこのお手伝いさんが白河さんを迎えに車のそばまで
来てたんだけど、生徒会勢揃いの車内を見て一瞬驚いた顔をした。
やっぱり知らなかったんだね﹄
ようやくまともに会話が成立したが、それを喜ぶ気にはなれない。
まさかみんな仲良くのご帰宅だったとは。
それではちょっと話が変わってくる。
﹁貴重な情報、ありがとうございます﹂
﹃いえ、とんでもないです。さ、これで僕のありがたみもわかった
かな? というか、間近で白河さんが篤仁にポーッとする様見せら
れてもう辛い。吐き出し口もなくなるとより辛い。バカにしてもい
いし、どうでもいい内容でもいいから、僕とこうしてしゃべってく
れてもいいと思う﹄
結局本音はそこなのだろう。ようやくあたしにむかって告げられ
た言葉にあたしはぷっと吹き出すと、見えない相手に頭を下げた。
403
﹁ごめんなさーい、雀野大明神! 助かるよ、悪かった、このとー
り﹂
﹃⋮⋮見えないんだけど﹄
﹁あたしも友情感じなかったワケじゃない。ただ、雀野のこと応援
できないのに悪いかなーって思ったから﹂
﹃応援なんて、最初から期待してない。ちょっとしか﹄
素直な答えに少し笑うと、雀野は一呼吸おいてから静かに言った。
﹃友情にもメリットデメリットは存在する﹄
﹁え?﹂
﹃その人といると楽しいっていうメリット。その人のイヤな面につ
きあうデメリット。友情って、メリットのほうが勝っている状態の
ことじゃないかな﹄
ぽかん、とあたしは口を開けて黙り込む。
悲しいかな、あたしにはまともな友人がいない。
同じくきっとあまり友達がいないだろう雀野の言葉は信用するに
は難しいが、そうなのかな、とも考えさせられた。
ちらりと辰巳の顔を盗み見ると、待ち構えていたようにニコリと
微笑まれた。なんだか照れくさい。
﹃僕と君との関係は、僕にとってはメリットのほうが勝る。君にだ
ってメリットはあるだろ。だから電話くらい付き合ってよ。それく
らいの友情感じてくれたっていいだろ﹄
﹁⋮⋮うん。ごめん﹂
するりと出た言葉に自分でも驚いてしまう。疑り深く卑屈な雀野
は、あたしがきちんと反省していることを正確に読みとってくれた。
﹃わかればよろしい、許してあげよう。僕は君より一年長く生きて
るんだからね。それくらいの分別はあるさ﹄ ﹁人生の先輩、超エラそうなんですけどォ﹂
﹃ま、たったの一年だからね。そこまで大人じゃない﹄
404
呆れたあたしが顔をしかめると、なぜか辰巳は満足そうにうなず
いた。
なんだか二人に謀られた気分だ。
でも、悪くはない。
﹁それならさ、また連絡してくれるワケ? 有益な情報をお願いし
ます﹂
﹃いいよ、篤仁との仲をせいぜい邪魔してやるさ。その結果報告を
させてもらおう﹄
﹁愚痴で終わらないといいけどねー﹂
﹃がんばるよ。あ、そういえば君、雨宮さんとの喧嘩騒ぎは大丈夫
だった? あれ以来、雨宮さんも妙に挙動がおかしというか、落ち
着きがないんだけど﹄
﹁ありがと、先輩。別に問題ないよ。いつもみたくあたしのことバ
カにしておしまい。おかげですんなり辞めることができました﹂
﹃君の狙い通りってことか。じゃあ、あの東条彰彦と交際してるっ
ていうのは? 君、ああいう人が好み?﹄
﹁あっははは!﹂
まさか、雀野とも﹃コイバナ﹄ができるとは!
あたしの青春も捨てたものではないようだ。
﹁東条とは話したことあるけど、親しいってほどじゃないよ。でも
悪いヤツじゃない﹂
﹃やっぱり違うのか。というか、それも君が狙ってまいた噂なのか
な﹄
﹁あら﹂
読まれてる読まれてる。
﹃安心してよ。別に誤解を解いて回るようなマネはしないから﹄
したり顔をしているであろう憎らしい雀野に、あたしはなんて切
り返してやろうと頭をひねっていたほんのわずかな時間のこと。
405
﹃えっ!? なんで﹄
﹁ん? 雀野?﹂
突然音に雑音がまじり、雀野の声が遠くなる。
電話口のむこうで何かあったのだ。
﹁どうした? 雀野?﹂
あたしの呼びかけにも反応がない。
何もできやしないのに、あたしはつい卓上のスマートフォンに身
を乗り出してしまう。
﹁雀野!? 大丈夫?﹂
なんだか不安がこみ上げる。
いやな予感がする。
それは、嵐がおさまったのかと油断していたあたしを懲らしめる
かのような、いやな予感。
﹃ミツがこそこそ誰と話しているかと思えば、まさかお前とはな﹄
ゾワっと肌があわ立った。
ミツという呼び方、この口調、この声、そして電話口からでも伝
わるこの存在感。
﹃一週間猶予をやったのに、お前は一言も弁解に来なかった。それ
なのにミツとは楽しくおしゃべりか。覚悟はできているんだろうな﹄
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ 魔王、鷹津篤仁。たいへんお怒り
のご様子。
406
407
悪魔の更生、失敗︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
408
悪魔と大鷹の対峙
これほどまでに月曜日を迎えるのが苦痛だったことがあるだろう
か。
土日を過ごすのは辛かった。月曜日の放課後は必ず空けておくよ
うに、と言い渡されたことで、あたしは死刑宣告を待つ囚人のよう
に恐れおののき、それを見た辰巳があわてふためき、敬吾さんは静
かに怒り狂った。
﹁あなたはいったい何をしたのですか。会話内容を聞く限り、完全
に鷹津様を怒らせているじゃないですか﹂
﹁や、あたしにもよく⋮⋮﹂
﹁あなたがやったことでしょう。とにかく謝ってきなさい。ですが、
あくまで個人の問題におさめること。白河や美月様にまで頭を下げ
させるようなマネはしないでください﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁わかりましたね? この土日でしっかり原因と対応、謝罪の言葉
を考えておきなさい﹂
﹁はい⋮⋮!﹂
そう言われたにも関わらず、あたしはなんの言い訳も謝罪の言葉
も思いつかなかった。
鷹津が怒った一番の理由は、あたしが生徒会を勝手に辞めたから
だろう。
それに対する弁解?
409
面倒になったから。それが学園の悪魔としての正しい答えじゃな
いか? だが、謝罪にはつながらない。というか、学園の悪魔なら
謝らないんじゃない? でも謝らないでいられる自信もないし⋮⋮。
雀野の携帯電話はつながらず、あの哀れな男がどうなったのかもわ
からない。やっぱりあたしのせいだろうか、責められてはいないだ
ろうな。
ドツボにはまってしまい、あたしは鬱々としたまま眠れぬ夜を過
ごし、おぼつかない足取りで学校へ向かう。
隣を歩く美月様の飛んでいるかのような足取りがうらやましい。
﹁今日もいい天気だね!﹂
﹁うん、そだね﹂
﹁生徒会でね、夏休み明けからいよいよ文化祭の計画が始まるんだ
けどね、その前段階の会議に参加させてもらえることになったの!
緊張しちゃうけど、私なら大丈夫だって篤仁先輩も言ってくれて。
もう今からやるき出ちゃって、何を提案しようか考えてたの。おか
げで夜更かししちゃった!﹂
﹁そっかぁ。でもちゃんと寝なきゃダメだよ﹂
﹁ふふ、わかってる!﹂
うう、寝不足の目にはまぶしすぎる笑顔だ。これを曇らせるわけ
にはいかないよなぁ。
﹁アキラくん、風紀室に来てもらう﹂
﹁ことわーる!﹂
悶々と過ごして迎えた放課後、教室を出たところを城澤に待ち伏
せされた。
﹁拒否権はない。先週の奉仕活動を途中放棄した理由を聞こう﹂
至極不機嫌そうな城澤の相手をしている暇はない。また捕まって
410
はたまらない、とあたしは城澤と距離をとる。
﹁悪いけど先約があるの﹂
﹁何?﹂
﹁そうだ。お引き取り願おうか。アキラには今日、生徒会補佐の補
佐退任についての釈明をしてもらう﹂
図ったようなタイミングでさっそうと現れた鷹津はあたしと城澤
の間にはいり、にっこりとほほ笑んだ。
﹁鷹津会長⋮⋮﹂
とたんに城澤の顔がゆがむ。きゃあきゃあと羨望と憧憬から騒が
れることが常であろう鷹津にとって、珍しい反応ではないだろうか。
﹁アキラくんの退任は、本人の希望というだけでなく雨宮副会長も
認めています。釈明の必要はないかと思いますが﹂
﹁彼女の就任を認めたのは会長であるこの俺だ。解任の辞令もまだ
出していない。彼女はまだ辞める前の最後の責任を果たしていない﹂
﹁しかし﹂
ちら、と城澤はあたしに視線を移した。
﹁自主性が求められる役職だからな、無理に引き留めるようなマネ
はしない。本人の意思を確認し、簡単な手続きを済ませるだけだ。
手荒な真似は一切しない⋮⋮お前らと違ってな﹂
最後だけズルリと抜き身の刀の鋭さをギラつかせ、城澤の痛いと
ころを容赦なくえぐる。
筋は鷹津のほうが通っている。だがどうせこれから行われる﹃話
し合い﹄では、﹁辞めまーす﹂の一言では片付かないのだろう。
﹁アキラくん? 大丈夫か﹂
思考に沈んでいたあたしは、一拍遅れて返事をした。
﹁なにが?﹂
﹁顔色が悪い﹂
﹁問題ないよ。風紀委員長と生徒会長があたしを取り合うっていう
411
乙女としては垂涎モノのシチュエーションを堪能してた。嬉しい限
りだけどォ、あたしの体一つしかないからぁ。悲劇!﹂
あたしは女優のように声をはって嘆いてみせる。すると城澤は自
分が下校前の生徒たちのいぶかしげな視線にさらされていることに
ようやく気づき、バツが悪そうだ。だが鷹津は堂々としたものだ。
﹁ここで騒いでいては迷惑になるな。さ、行くぞ﹂
﹁ごめんね、城澤センパイっ﹂
あたしが後に続くことを信じて疑わない鷹津は、さっさと背を向
けて歩き出してしまう。悔しいがそれに逆らえる立場ではない。あ
たしは城澤に手をふる。
何か言いたげに伸ばされた城澤の手が、すぐに行く場所をなくし
て力なく下されたのが視界の端にうつった。
無言で鷹津の後についていくと、そのまま案内されたのは特別棟
最上階の一番奥に位置する小部屋だ。今まで入ったことはなかった
が、過去の生徒会資料置場となっているようだ。アルミ製の棚ばか
りが並び、年月日のラベルが貼られたファイルが隙間なく詰められ
ている。図書館の書庫のような雰囲気だ。つまり、人が長い時間滞
在することが想定されていない部屋。わずかながらの気遣いか、こ
の学園にはふさわしくない粗末なパイプ椅子が二脚用意されていた。
﹁生徒会室は使わないんですか﹂
﹁ここのほうが都合がいいだろう?﹂
﹁都合がいいとは﹂
﹁お前もいい加減、腹を割って話したいと思っていたんじゃないか﹂
鷹津は淡々と言った。それがまた怖い。
棚にはさまれた狭い空間はうなぎの寝床。鷹津は獲物を逃がさな
いようにするためか、あたしを奥にいかせ、自分は扉を背にして座
った。椅子を広げてしまえば文字通り膝を突き合わせる距離になる。
412
真正面から向き合いたくなくて、あたしはだらしなくななめを向い
た。鷹津は肘掛のあるふかふかの豪奢な椅子にでも座っているよう
に、優雅に足を組んであたしを見つめている。冷や汗がでそうだ。
﹁そう固くなるな﹂
あたしのこわばり様を見てか、鷹津は親切に言った。
﹁そりゃどーも﹂
﹁俺が求めているのは謝罪ではなく説明だ。ここで何を言おうと勝
手だ、鷹津家が白河家に圧力をかけるようなことはしない﹂
現金なもので、あたしは﹁白河には迷惑をかけない﹂という鷹津
の言葉にとびついた。
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁ああ﹂
﹁言質、とったからね﹂
﹁好きにしろ﹂
糾弾する側に立つ余裕か。だが、それに乗っからない手はない。
敬吾さんからの最低限のお達しを守ることができそうな展開に、少
しだけ肩の力が抜けた。
﹁腹わるもなにも、すぐ終わるって言ったじゃん。あたし、生徒会
やめまぁす。これでいい?﹂
﹁そうか、わかった﹂
﹁⋮⋮⋮ほんとに?﹂
間抜け面をさらしているであろうあたしとは反対に、鷹津は至極
まじめだ。
﹁なんだ、その顔は。辞めたいんだろう﹂
﹁え、は、そうだけど﹂
そうじゃないだろう。
いや、ここでこじれることなんて望んでないけど! こじれない
とは予想してなかったよ!
413
﹁もともとミツの頼みで了承したことだ。辞めたいのなら辞めれば
いい﹂
﹁あの、じゃあ、お話終わりってことでいいですか﹂
﹁いいわけないだろう﹂
あ、やっぱり。
ギロっと鋭い目が突き刺さり、あたしの動きを封じ込めた。
﹁本題に入る。まじめに釈明してみせろ﹂
﹁本題? 釈明って、何に対して⋮⋮﹂
﹁まずは姿勢を正せ。愚かしいフリもいい加減にしないと、頭もま
わらなくなるぞ。俺と初めて会ったとき、お前はどんな話し方をし
ていた﹂
まるで厳格な父親のような物言いだ。だが、二人きりのこの状況
でいつもの白河アキラを演じては鷹津をいらだたせるだけだろう。
あたしは膝をそろえて背筋を伸ばした。そうすることで学園の悪魔
から、白河のイチ使用人へと自分の中のスイッチが切り替わる。
鷹津はよろしい、とばかりに頷き、口を開いた。
﹁俺は、絶対に不貞行為は許さない﹂
﹁は﹂
﹁それと誤解されるような行為も絶対にしない。配偶者に不要な心
配を抱かせるからな。そういった点から夫婦間に亀裂が入るのは絶
対に避けたい。万が一疑いが出た場合は、即刻話し合いによる解決
を図るべきだ。あとあとの遺恨になる﹂
出ました。
鷹津の夫婦観説法。
あたしは頭痛を起こしそうになる頭を指でおさえながら、確認の
ためにたずねた。
﹁ええ、ご立派なお考えだと思います。わたくしも同感です。ちな
みに、今は誰と誰のことをお話しなさっているのです﹂
﹁俺とお前だ﹂
414
ですよね!
はやくも目の前がくらみ始めたあたしは冷静になろうと深呼吸を
する。その間も、鷹津はとうとうとあたしの罪状を述べあげた。
﹁お前はこの一週間という短期間で、三人もの男と怪しい行為をし
ている。風紀委員長の城澤隆俊、二年の東条彰彦、そして雀野光也。
一人ひとり、どういった経緯でどうなったのか、教えてもらおう﹂
なんだコレは。浮気調査か。
目を背けてきたツケなのか。
自意識過剰でもなんでもいいから、やっぱり敬吾さんに言ってお
くべきだったか、とあたしは今さらながら後悔した。だがもう遅い。
今できることをするだけだ。
あたしはぎゅっと一瞬目をつむってから、鷹津を正面切って見据
えた。
﹁その前に一つ、よろしいでしょうか﹂
﹁なんだ﹂
こちらの決死の思いなど伝わっていないのだろう。鷹津はゆうゆ
うと聞き返した。
﹁なぜ鷹津様は、ご自分とわたくしをそのような関係でくくるので
す﹂
﹁そのような関係とは? はっきり言え﹂
ええい、言いにくいことを! あたしは気負って聞こえないよう
気を付けながら答えた。
﹁夫婦、と﹂
それなのに鷹津はあからさまに眉をひそめた。
﹁何をいまさら。もうとっくにプロポーズは済ませたじゃないか﹂
﹁⋮⋮⋮アレ、本気だったんですか⋮⋮⋮?﹂
﹁当たり前だ。覚悟を決めておけと言ったはずだ﹂ ぐらっと体が傾く。
415
ああ、聞きたくなかった!!
自分で確認しておきながら、さも当然、というようにかえってき
た答えに心が折れそうになる。だけど負けない!
﹁はっきりと言わなかったのはわたくしの落ち度でした。改めて言
わせていただきます。わたくしは、鷹津様とは結婚できません﹂
﹁できる﹂
間髪いれずに言い切る鷹津に、二の句が継げなくなってしまう。
いや、まだ心は折れていない。がんばる!!
﹁わたくしは、鷹津様と結婚いたしません﹂
﹁するんだ﹂
ああああ、もう!!
なんでこの人は話を聞かないんだ!
あたしは完全に頭を抱えてしまった。
会話が成り立たない!
﹁お前は頭が固い。結婚なんてお互いの了解があれば成立するんだ。
ただ書面に名前を書くだけじゃないか﹂
その言い方に、あたしはぱっと顔を上げた。
﹁つまり、鷹津様は書面上での夫婦関係を望んでいると?﹂
それなら話は通る。彼は己の自由を謳歌するために形ばかりの妻
が必要なのだ。だから情が深い美月様よりもあたしのほうが都合が
いいと考えている。そういうことか、と納得しかけたが、しかし。
﹁気持ちあっての夫婦関係に決まっているだろう!﹂
﹁⋮⋮えー?﹂
くわっと目をむいて鷹津はツッコんできた。さきほどよりも数段
力がこもっている。
もう、ほんとこの人何言ってるの?
何がしたいの?
416
﹁互いの心が沿っていれば結婚なんてすぐできると言ったんだ。曲
解するな﹂
﹁なら、わたくしの心は鷹津様との結婚など望んでおりません﹂
これでどうだ、と強気に出ると、鷹津はバカにしたように鼻を鳴
らした。
﹁それは白河の望みではない、ということだろう﹂
﹁え﹂
﹁お前は自分で自分のことを決めるのを避けている卑怯者だ﹂
卑怯者だと?
急にそれた話より、その身に覚えのない侮蔑はあたしをひどくい
らだたせた。おかしいな、身に覚えのない侮蔑など慣れっこなはず
なのに。
﹁どういう意味です﹂
﹁そのままの意味だが、お前はわからないだろうから教えてやる。
しかし先にこちらの質問に答えてもらう﹂
すっかり鷹津のペースだが仕方ない。
あたしは少しばかりの反抗を示してから問われた順に名前をあげ
た。
﹁鷹津様とは何の関係もないので、不貞も何もあったものではあり
ませんが。城澤は、白河アキラ更生計画とやらを企んでいるとか。
わたくしの素行から目をつけられているだけです。東条は姉を通し
て知り合った程度の人間です。雀野副会長は⋮⋮﹂
さて、なんといったものか。
その名詞がふさわしいものなのか、あたしは少しばかり迷ってか
ら口にした。
﹁と、と、とも⋮⋮だ、ちです﹂
﹁ほお?﹂
﹁さ、最初は生徒会に入る姉が心配で、なんとかもぐりこめないか
と思っていたところに、雀野副会長が姉に想いを寄せているってわ
417
かったんで、それで、話すようになったってだけなんですけど。そ
れで電話とかするようになって。で、とも、と、友達になった⋮⋮
と、思ってて。あの、鷹津様との電話のあと、連絡がとれないんで
すが。大丈夫なんですか﹂
﹁友人が心配か﹂
﹁え、あ、いや﹂
まずい。耳が熱い。
雀野を友達とよんでよかっただろうか。あたしには友達がいなか
ったから、その基準がわからない。でも本人が友情を感じる、と言
ってくれてたし、いいよね。間違ってないよね。
つい早口になるのを抑えきれず、あたしは雀野のことをごまかす
ように話を続けた。
﹁今は姉も慣れましたし、わたくしが生徒会にふさわしくない、と
いう他の生徒の意見もありましたので、辞める機会をうかがってい
ました。いじめに発展しかねない状況を城澤が案じてくれて、東条
にもそれに協力してもらいました﹂
﹁それだけか﹂
﹁はい﹂
鷹津はこちらを探るようにじいっと眺め回すと、嘘はないと判断
したのか頷いてから足を組みなおした。
﹁ミツのことはいい。話も一致する﹂
固いばかりだった鷹津の表情が少しばかりゆるむ。
﹁あいつは面白いヤツだろう。俺にとってもいい友達だ﹂
﹁はい﹂
﹁外面はあんなにいいのに、内心妙に卑屈で弱虫だ﹂
﹁ええ、まったく。だけどしたたかだ。その卑屈さを笠にきて言い
たい放題ですよ﹂
﹁ああ。あいつはスネながら俺の痛いところをチクチクつついてく
418
るんだ﹂
﹁相手をからかっていたはずなのに、いつの間にかこちらがからか
われているんです﹂
﹁だから俺もあいつには弱い。ミツも、お前のことをいい友達だと
言っていた。今日もあまりいじめるなと注意されたばかりだ﹂
﹁⋮⋮そう、ですか﹂
片思いでは、ないみたい。
胸がほっこりとしてくる。友達。友達か。
﹁まあ、東条もいいだろう。お前の計画に乗せられたといった感が
あるからな。だが、城澤隆俊は別だ﹂
急に鋭さが戻った声に、あたしはびくっとまた背筋を伸ばしなお
した。
﹁あの男は公然とお前を抱きしめていたそうじゃないか﹂
﹁や、捕獲、というべきかと﹂
﹁あの男はお前に過剰に触れすぎている。お前にその気がないのは
わかったが、あの男と二人きりにはなるなよ。危険だ﹂
﹁あの鋼の男が危険⋮⋮﹂
確かに腕をつかまれたり肩に手を置かれたり、と思い返すと接触
は多いが、別段下心のようなものは感じなかった。なにせ鋼の男だ。
不純異性交遊のようなものを率先して行うマネはしないのではない
か。
そんな鷹津を疑う心はばっちりと読まれていたようで、鷹津はぎ
ろりとあたしを睨み、﹁わかったな﹂と念を押してきた。
﹁わかりました⋮⋮。これで、納得していただけましたか﹂
﹁まぁいいだろう﹂
なんでこんなことで許しを得なければならないのか。
そう思いながらも、ほっとしてしまうのが悔しい。鷹津には人を
従わせるオーラみたいなものがあるのだ。まったく、生まれながら
の王様だ。
419
﹁これ以上は不毛なだけですから、話を戻します。鷹津様、わたく
しと結婚できない理由なんて充分おわかりのはずでしょう。おかし
なことを言うのはやめてください﹂
あたしはいい加減鷹津との一対一の会話に疲れてきていた。鷹津
の求める﹁説明﹂も済んだところで、一気に片をつけようと選ぶ言
葉も率直になる。
﹁おかしなこと﹂
鷹津は幼子のように繰り返す。
﹁そうです。わたくしと夫婦になってなんになります。鷹津家が許
しますか。白河家が許しますか﹂
﹁鷹津は許す﹂
﹁え?﹂
鷹津はニヤリと笑った。
﹁俺がなんて呼ばれていたか、知らないのか﹂
そう言われてふと思い出すフレーズがあった。
鷹津の放蕩息子。
﹁最近はおとなしくしすぎていたな。そろそろ暴れてもいい頃だろ
う﹂
うーん、と気持ちよさげに伸びをする様子は、眠りから覚めて狩
りに行く前の大鷹そのもの。
鷹津家が、出来損ないと名高い白河の娘との結婚を許すはずがな
い。鷹津の嘘に決まっている。当然のことなのに、目の前の男はそ
んな常識すら無視してしまいそうな油断ならない力があった。
だけど、あたしはその常識にしかすがることができない。
あたしはぐっと両の拳を握った。
﹁白河のことはご存じでしょう。わたくしは鷹津様と釣り合いませ
ん﹂
﹁よく知っている。だが関係ないな﹂
420
﹁関係ないなんて⋮⋮!﹂
﹁それを理由にするとは、やっぱりお前は卑怯者だ﹂
﹁何が卑怯なんですかっ﹂
ついカッとなって怒鳴ってから、あたしは唇をかんだ。情けない。
こんな悪口で心乱されるなんて。早くここから出たい。
﹁美月様じゃ、ダメなんですか⋮⋮﹂
ああ、これも失言。
言うならもっとうまく、鷹津の興味をしっかり美月様に移すよう
にしなくてはいけないのに。もう頭がまわらない。
﹁それも言ったはずだ。お前の姉は俺の趣味じゃない。まったくそ
そらない﹂
﹁なっ⋮⋮!﹂
下世話な物言いに、怒りでまた頭に血が上る。
そんなあたしに追い打ちをかけるように、鷹津はいやな笑い方を
した。それこそ、悪魔みたいな。
﹁卑怯者のお前に、少しいじわるをする。お前が崇め奉る白河とい
う盾を汚してやろう﹂
鷹津は一呼吸おいて、ゆっくりと言った。
﹁しらかわ あきら﹂
﹁⋮⋮なんですか﹂
﹁お前の名前だ﹂
そんなこと百も承知だ。
﹁だから、それが⋮⋮﹂
﹁お前の名前は、どういう字を書く﹂
心臓をぎゅうっと掴まれた。そんな気分だ。
﹁お前はなんでもかんでもかたくなに﹃アキラ﹄とカタカナで通し
ているんだな。生徒名簿までカタカナか。ばかばかしい、少し探れ
421
ばすぐにわかることだ﹂
﹁いい字じゃないか。﹃明﹄、お前のお父上から一字もらったのだ
ろう?﹂
荒く息をするあたしを満足そうに見やった悪魔は、美しい笑みを
浮かべて、あたしの眼前に迫っていた。
食べられる。
そう覚悟したとき、ガンガンと激しく何かが打ち鳴らされる音が
した。
あたしの頭の中かと思ったら、どうやらそれはこの部屋の扉が叩
かれる音のようだった。小さくだが人の声もする。
鷹津は一度振り返って不機嫌そうに舌打ちしてから、眉間にシワ
を寄せたままあたしのピアスに口つけた。
﹁よく考えてみることだ。白河家が、お前にとって本当に崇め奉る
べき存在なのか﹂
422
悪魔と大鷹の対峙︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
423
悪魔の憎悪と恋心
狭い入口では血相を変えた雀野が鷹津にくってかかっている。き
っと扉をたたいていたのは彼だろう。鷹津はそれを適当にいなして
いるようだが、二人が何を言いあっているのかまったく耳に入って
こなかった。
ひどく疲れてしまった。
あたしは力なくパイプ椅子の固い背もたれに体を預けたまま、動
けない。
鷹津が雀野をおしやって部屋からでると、この空間がより一層あ
たしにのしかかってくるようで、ぐんにゃりと世界が歪んでいく。
なんだかもう、すべて投げやってしまいたい。
﹁アキラ﹂
肩をがしっとつかまれた痛みで、目の焦点があう。
目の前には恐ろしく真剣な顔をした池ノ内がいた。
﹁腑抜けている場合か。お前の姉が見ている﹂
あたしはハッとまた入口を見ると、そこには確かに美月様の姿が
あった。
﹁お前がするべきことはなんだ﹂
カチリと音がしたようだった。
﹁⋮⋮ありがとう﹂
ささやきだけの礼をいうと、池ノ内は﹁おう﹂と頷いた。 424
それがスイッチになって、まわりの音が戻ってくる。
﹁篤仁! お前はいったい何を考えているんだ!﹂
﹁何を怒ってるんだ、ミツ﹂
﹁お前が勝手なことをしているからに決まってるだろうっ﹂
﹁何が?﹂
﹁女生徒をこんなところに連れ込むなんて⋮⋮っ!﹂
﹁ただ話をしただけだ。アキラの生徒会解任についてな﹂
﹁ならなぜこの場所を選んだ! 生徒会室でいいはずだろう!?﹂
﹁気をつかったんじゃないか。アキラと雨宮の仲違いが原因なんだ
ろう﹂
ひょうひょうとしている鷹津とヒートアップする雀野。どちらに
分があるかなんてわかりきっている。
﹁あーもう、うるさーいっ!﹂
﹁あ、あ、アキラさんっ﹂
﹁なによー、どしたの雀野﹂
何事もなかったかのように出てきたあたしに、雀野はつかんでい
た鷹津の襟首を離した。
﹁大丈夫だった!?﹂
何があったのか、雨宮や初瀬、それに美月様もいる。生徒会勢揃
いだ。
美月様がただでさえ白い顔から血の気をなくしながら、こちらを
見ている。
﹁だいじょーぶってなにが﹂
﹁や、だって、その﹂
言いよどむ素直な雀野に、あたしはむっと眉をひそめてみせた。
﹁だいじょーぶじゃないよ! 超怒られたんだから! なんでもっ
と早く来てくれないワケ!?﹂
425
﹁え?﹂
﹁姉さんと雀野のおねだりで許してやった役目なのに、あっさり辞
めて俺の顔をつぶす気かって、そりゃーもうネッチネチいびってき
たんだよ!? 生徒会長様のくせに!﹂
﹁なに?﹂
鷹津が不満そうに問い返すが、あたしは口を閉じなかった。
﹁こんなせっまいトコに引っ張り込んだのだって、その小姑みたい
ちょっと顔がいいからっていい気
ないびりっぷりを姉さんたちに見せたくなかったからでしょー? あたしちゃんと謝ってるのに!
になんないでよっ、最悪! 高飛車、陰険、だいっきらい!! 帰
るっ!﹂
ぽかんとしている一同をおきざりに、あたしは大股で廊下を歩い
て行った。
﹁アキラっ!﹂
追いすがるような美月様の呼び声。だけど、いま、美月様のお顔
を正面から見ることはできない。
﹁姉さん、ごめんなさいっ! あたしには荷が重すぎましたーっ!
!﹂
あたしは走り出す。
途中、騒ぎに気付いて風紀室から城澤が出てきたような気がした
が、当然スルーして階段を駆け下りた。
早く帰らなければ。
敬吾さんに会って、できれば直に話したい。
それからあたしの戸籍上の親である分家のほうの白河家にも連絡
し、根回しする必要がある。できるかぎりのことはしておきたかっ
た。
すべて遅いとはわかっていても。
426
今日の鷹津との接触に対しよほど気をもんでいたらしい辰巳が、
離れの周りを掃きながら待っていてくれた。
あたしの姿をみとめるなり、すぐさま温かいお茶を出してくれる。
﹁岩土さんは、本日七時には戻るそうです。今日の結果を聞きたい
と言っていました﹂
﹁わかった﹂
辰巳は﹃今日の結果﹄を尋ねなかった。ただいつものように世話
を焼く。
﹁アキラ様、まずは制服をお着替えになっては﹂
﹁あ﹂
しまった、気づかなかった。
辰巳に言われなければ、あたしはこのまま微動だにせず敬吾さん
の帰りを待っていただろう。
冷静に、冷静に、と繰り返しているが、やはり頭は動転している
ようだ。
﹁アキラ様﹂
知らずに握りしめていた拳を、辰巳の手に包まれて、じわりと温
度がうつる。
﹁うん。ありがとう、辰巳﹂
虫の知らせでもあったのか、敬吾さんは七時を待たずに当主様と
白河家に戻ってきた。あたしはすぐさま書斎に呼び出された。
自分から椅子に座ったあたしに、敬吾さんは一瞬目を険しくした
ように見えた。これはあたしの不作法を怒ったのではない。長く、
面倒な話になったということを察したのだろう。
﹁大きな報告は二点です﹂
427
﹁どうぞ﹂
﹁一点目、鷹津があたしに求婚しました。美月様よりあたしのほう
が好みだそうです。二点目、鷹津はあたしの名前を知っていました。
⋮⋮父親のことも﹂
あたしはポケットからICレコーダーを取り出し、大きな机の上
に置いた。
何があってもいいように、と録音しておいたのだ。長い時間のこ
とではない、詳しいことはそれを実際に聞いてもらったほうが早い。
敬吾さんはレコーダーをたっぷり五秒間見つめると、そのあと大
きな大きなため息をついた。
﹁そうですか。わかりました﹂
﹁えっ!﹂
あっさり頷かれ、それですますのか、とあたしが驚きの声をあげ
さねひと
ると、敬吾さんはじろりとあたしを睨んだ。
﹁今日、鷹津当主の実仁様とお話する機会がありました﹂
鷹津家の現当主は、鷹津篤仁の兄、実仁だ。年の離れた兄弟だが
たかつ ひろひと
彼はまだ三十路、鷹津の後を継いだといっても、実質的には彼らの
父親の鷹津博仁が実権を握っている。
前回呼ばれたパーティでも、あいさつをしたのは父親のほうだっ
た。そのため、鷹津実仁とあたしはまだ会ったことがない。
﹁今までそれとなく避けられていたというのに、今度ぜひに、と食
事に誘われました﹂
﹁⋮⋮それは、喜ばしいですね﹂
白々しく口にすると、くっと敬吾さんが唇の端をあげた。
﹁ええ。美月様と、あなたも一緒に、とのことです。むこうからは
篤仁様がいらっしゃるから、と。篤仁様があなたに意志を告げたと
いうことは、鷹津本家も了承済みなのでしょう。あの家の人間は決
断後の行動が早い。白河は後手後手にまわるしかないでしょうね﹂
428
ひゅうっと冷たい風が吹き始める。
ああ、くるぞ、ブリザード。
身を縮めたが、敬吾さんはさらっと言った。
﹁気に病まないでください。あなたが悪いわけではないのですから﹂
﹁え?﹂
﹁篤仁様は最初からあなたを気に入っていました。好意の方向転換
ができるなら言うことなし、と思っていましたが、やはり難しかっ
たようですね﹂
諦めました、と敬吾さんはまた息をつく。
﹁敬吾さん、どういうことです。知っていたんですか﹂
﹁あなたの報告を聞いていればわかることです。あなたがそれを隠
そうとしていたことも﹂
﹁うっ!﹂
ぶわっと舞い上がった雪と氷の風に、あたしは自分の愚かさを思
い知った。やっぱりあたしの部屋、盗聴器とかついているんじゃな
かろうか。
﹁この場でそのことについては咎めません。あなたも年頃の女の子
です、人のならともかく自分の恋愛事情を口にするのははばかりが
あるでしょう﹂
﹁はぁ﹂
なんだかむずむずするな、敬吾さんの口からそういうこと言われ
ると。
﹁篤仁様の行動力はお墨付きです、あなたのことを徹底して調べ上
げたとしてもおかしくはない。そうなったとき、あなたの﹃父親﹄
が誰なのか調べないほうがおかしいのです﹂
つまりは覚悟していたことだった、ということか。
あたしは少しばかり安堵しながら、恐る恐る言った。
﹁でも、それは白河にとって不利になるんじゃありませんか﹂
﹁いいえ。世間体の良しあしはおいておいて、これくらい珍しいこ
429
とではありません。いいですか、前にも言いましたが、ささいなス
キャンダルなどなんの脅しのタネにもならないのです。誰もが承知
のことを品なく騒ぎ立てるのは互いの不利益になるだけですから。
それが本当に脅しのタネになりうるのは一定の条件下のみです。つ
まり、絶対勝利の確信のもと、相手を叩き潰すための全面戦争を起
こすときだけです﹂ ﹁はい﹂
﹁どんな家であっても、清廉潔白であることなどありえない。小さ
な汚点をつついて動揺を誘おうとするとは、鷹津も落ちましたかね。
愚劣だ﹂
敬吾さんのあまりの評価に、思わずぎょっと目をむいた。あの鷹
津篤仁をそう見る人間がいるとは、さすが敬吾さん。
だが、それもそうだ、とあたしは飛び跳ねまくっていた心が着地
点を見つけたように感じた。
あたしにとって、白河は崇め奉る存在だ。だが、あたしは白河を
聖人君子とみているわけではない。あたしの白河信仰はちょっとや
そっとのことで汚されるものではない。ましてや、あたしの存在の
せいで汚されるなんてことは︱︱︱︱︱。
﹁あなたは白河明さんです。それを隠す必要がありますか﹂
﹁いいえ﹂
﹁堂々としていなさい﹂
暖色系の蛍光灯だというのに、いつも凍えてしまうこの書斎。な
ぜか、それが今日は頼もしい。
敬吾さんの厳しい言葉もあたしを慰めてくれているように感じた。
辰巳はひたすらに優しけれど、敬吾さんのこういう変わらない態度
は、甘やかされてばかりのあたしの不安を消してくれた。
このままでいいのだ。
あたしは間違っていない。
430
あたしの存在理由はここにある。
﹁ところで⋮⋮。さっきあんなことを言っておいて、口にするのも
申し訳ないのですが﹂
﹁はい?﹂
歯切れの悪い敬吾さんに、あたしは首をかしげた。
﹁こうなった以上、波乱は避けられません。鷹津家はこちらに仕掛
けてきました。美月様と水音様がどうなるか⋮⋮﹂
﹁ああ、怖いですね⋮⋮﹂
調子のいいことで、自分のことが一段落すむと、そっちの問題の
ほうが恐ろしくなってきた。あれ、これあたし白河追い出されるん
じゃないか? それくらいの恨みを買ってしまいそうだ。
﹁アキラさん﹂
﹁はい﹂
﹁鷹津篤仁様について、どう思います﹂
どうとは? と聞き返してやりたくなったが、もう敬吾さんの前
で偽る必要はない。敬吾さんは、鷹津の求婚をどう思っているのか、
と聞いているのだ。
それならもう答えは決まっている。
﹁鷹津篤仁はあたしという存在を擁している白河を侮辱しました。
あたしの生き方を否定しました﹂
敬吾さんはあたしをぴたりと見据えていた。すべて見抜くぞ、と
でも言いたげだが、これがあたしの本心だ。
ふつふつとこみ上げるのは、怒り。
﹁あたしのすべてを否定した鷹津篤仁に、愛情を抱くわけがありま
せん﹂
﹁そうですか。わかりました。では、もし鷹津様のほうから縁談が
あなたに申し込まれたとしても⋮⋮﹂
431
﹁あたしの個人的な希望になりますが、絶対にお受けしたくありま
せん﹂
﹁白河もあなたに強要することはありません。あなたはもうしばら
く辰巳くんに甘えてぬくぬくしていたほうがいい。恋も愛も知らず
結婚への憧れもない女の子が、婚約なんてバカげています﹂
あたしが鷹津へ好意を寄せていることでも想定していたのか、あ
たしの返答に敬吾さんは安心したように見えた。口調がどことなく
滑らかだ。
﹁あとは大人の交渉の時間です﹂
そういう敬吾さんはやけに頼もしく、やっぱりあたし、敬吾さん
とこお嫁にいってもいいかな、と口に出したら即凍死しそうなこと
を考えていた。
あたしの父親は誰なのか。
実のところ、本当のことはハッキリしていない。DNA鑑定は避
けた。それが互いに妥協できる解決策への条件だったからだ。
美しく若く愚かな女は、自分の夫が由緒正しい一族の隅っこに属
していると知り、欲を出したのだという。正月の一族挨拶の場に無
理やり入り込んだ彼女は、すでに妻帯者であった白河本家長男を誘
惑した。彼は愛妻家であったが、ちょうどその時、妻は妊娠が発覚
し、一時公の場に出ることを控えていたのだ。
それから数か月後、彼女はわずかに膨らんだ腹を見せつけて本家
に乗り込んだ。
妻の悋気を恐れた本家の長男は、彼の腹心の部下と相談してある
決め事をした。
身重の妻に余計な心労をかけたくない。数年待ってもらいたい。
その間の生活費・養育費はすべて負担する。
432
彼女の夫はすぐにでも離婚を希望していたが、次期当主たっての
頼みを断ることはできなかった。三年間仮面夫婦を演じること、離
婚の際子供はおいていくこと、父親は誰か言及しないことを約束さ
せ、多額の金を引き渡した。
かくして生まれた娘は、必要な段階を経て白河本家へと預けられ
ることになる。母親の強い要望から白河本家長男の名前である泰明
から一字をもらい、娘は﹃明﹄と名づけられた。
す
父親なんてどうでもいい。
あたしはふわふわとした足場のない存在だ。ならば、白河という
大木にすがる以外に地に足をつける術がない。
名前なんて記号にすぎない。
だから﹃アキラ﹄と書き続けた。
あたしはこうしないと生きていけないのだ。
すべてに恵まれた人間が、一言であたしの短い人生を否定したこ
とが腹立たしくてならなかった。許し難い侮蔑だ。
それで飽きたらず、その男が、今度はあたしの生活を壊そうとし
ている。
好意など抱くはずかない。美月様には悪いが、あの男は美月様を
想ってはいない。ならばもう遠慮しない。
鷹津篤仁はあたしの敵だ。
次の日の朝、あたしは美月様よりはやく家を出た。しばらく直接
会いたくなかった。
433
鳳雛学園の屋上は施錠されており、一般生徒の立ち入りは禁じら
れている。だが管理は甘く、ダイヤル式の鍵の暗証番号はごく一部
の生徒に代々伝えられているらしい。
その一人があたしの隣でのんきに箸を握る男だ。
﹁特権を持つ人間には責務がともなう﹂
いきなりどうした。
あたしは、なぜか屋上で池ノ内とお弁当をつついていた。貯水棟
の影は風が通って涼しい。
昼休みのチャイムが鳴った途端にニカっと笑いながら一年B組に
入ってきた池ノ内は、勝手にお弁当の包とあたしをここまで引っ張
ってきたのだ。
おかげで周囲の目が痛いことこの上なかった。もう二度と雀野以
外の生徒会の人間と接触したくなかったのに。しかし、気になるこ
ともある。あたしは好奇心から逃げることをせず、池ノ内について
いった。
そしておかずを何品か奪われながら一息ついたとき、池ノ内は急
におかしなことを言い出したのだ。
﹁⋮⋮ノブレスオブリージュって言いたいの?﹂
﹁そうそう!﹂
池ノ内はよく知ってるなー、と子供を褒めるようにあたしの頭を
なでた。
﹁それが何? ここに来たことと関係あるの﹂
﹁まぁ聞けって! 昨日のことでさ、俺お前に言いたいことあった
んだよな。あせったぜー、雀野副会長が生徒会室でアキラも会長も
いないって騒いでてさ。んで、全員でしばらく探し回った挙句、雨
宮副会長が資料室が怪しいって言い出してさ。あー、まあいいや、
それでさ、俺は、この言葉正しいと思ってる﹂
434
それにはあたしも同意だ。
美月様が︵本人は気づいていないが︶不自由な生活環境におかれ
ているのも、彼女に負わされた責務の一つだ。ふさわしい人間との
交友、交際、結婚縁組。
上流階級、特権階級とよばれる人間に負わされた役目だ。
また鷹津との問題が頭に浮かんで顔をしかめていると、池ノ内は
続けた。
﹁でな、特権を持つ人間が責務を果たすために、彼らを支える人間
も必要だって思ってる﹂
ぴく、と肩が震えてしまった。ああ、そうか、とあたしは心の中
で納得して頷いた。池ノ内もわかっている。あたしの立場、役目を。
だからこそ昨日、放心状態のあたしに喝を入れてくれたのだ。
﹁⋮⋮へえ。ノブレス側の先輩は、下々のことまで考えてくれてる
んだ﹂
ちゃかすように言うと、池ノ内はへらへらした笑いを一瞬でおさ
めた。
﹁俺はそっちの人間じゃない。お前と同じだ﹂
驚いて池ノ内を見ると、彼はまっすぐ空を睨んでいた。
﹁俺の兄貴は親父の後をついで政界に乗り出す。俺は、その兄を支
えなくちゃならない﹂
手慰みか無意識か、池ノ内は軽くなったペットボトルをもてあそ
んでいる。
﹁絶対に汚点になるようなことがあってはならない。かといって、
兄より目立ってもいけない。俺はそういう生き方を求められている﹂
幸い人並み外れたバカでも秀才でもないから辛くはないけどな。
そう言う声は乾いていたが、響きは軽いものではなかった。
池ノ内は校内の成績上位者だ。容姿も爽やか好青年、スポーツ万
435
能で時折他の部活に助っ人として顔をだしているくらいだ。だが、
全国模試で一桁になるとか、何か一定の部に所属して功績をのこす
とか、卓越した才を見せつけたことはなかった。
オールラウンダーといえば聞こえはいいが、特出するものもない
男。だが、池ノ内はそれを自ら望んでいたように思えた。
﹁でも、そういう生き方をしているってことを兄貴に悟られちゃダ
メなんだよ。いっそ俺のこと堂々踏み台にしてくれたらいいんだけ
ど、兄貴は根がいい人だからさ、負い目になっちゃうだろ。お前な
らわかるよな﹂
池ノ内は前をむいたまま、あたしの頭に手をおいた。
うん、わかるよ。
痛いほどわかる。
あたしは、ここでようやく、なぜ池ノ内があたしに必要以上に干
渉してきたのかを理解した。
﹁アキラ、お前が白河の前であれだけ心乱されたってことは、会長
によっぽどいじめられたんだろう。あの人こそノブレスそのものだ
からな、俺らのことわかんないんだよ。恨んじゃダメだ﹂
﹁でも﹂
やっぱり、憎い。
口から出てきてしまった否定の言葉に、池ノ内はおだやかに言っ
た。
﹁お前は間違ってないよ。俺はそう思う。お前はがんばってる。そ
ういうアキラだから、俺はお前がかわいくて仕方ないよ﹂
コツンと引き寄せられて池ノ内の肩にくっついた側頭部。
頬が熱い。胸がバクバクする。
柄にもなく、あたしは完全に照れていた。
はっずかしい!!! と、同時に目まで熱くなってくる。
﹁おい、アキラ?﹂
436
﹁ち、ちょっと待って。今こっち見ないで。手、離して﹂
﹁えー? なに、お前もしかして照れてる? ほんとかわいいなー﹂
﹁やめてくんない?! そういうこと言うの! お、男の人にそう
いうの言われたことないからすっごくむずがゆいんだけど!!﹂
あっはっは! と快活に笑った池ノ内は、さっきまでの真剣な顔
つきが嘘のように崩れていた。
437
悪魔の憎悪と恋心︵後書き︶
一か月近く間が空いてしまいました。
ご意見、感想をお待ちしております。
438
悪魔と騎士
鷹津の気持ちは、美月様にはない。
それがはっきりしたことで、あたしは美月様への後ろめたさから
お会いするのを避けようとしてしまった。ほんの二三日、とあたし
は自分のわがままを許してしまった。
それがまずかった。
﹁アキラ、逃げないで﹂
ぴりっと怒りをにじませた美月様は、あたしをじっと見た。いや、
睨んだと言ってもいいのかもしれない。それだけであたしはビクリ
と震えた。
﹁ど、どしたの? 何かあった?﹂
﹁怒ってるんだから﹂
﹁え﹂
﹁篤仁先輩に謝って﹂
﹁何を?﹂
﹁ひどいこといっぱい言ったでしょう。それをちゃんと謝って! でないと、アキラが生徒会辞めたって認めないから!﹂
あたしの生徒会補佐の補佐解任は、辞令をもってすでに全校生徒
に知れ渡っている。いまさら許可するもしないもないのだが、美月
様にこう言われては困る。というかこの状況が最悪だ。
ここは一年B組教室内、これから朝のホームルームが始まる数分
439
前。つまり、クラスメイトはほぼすべてそろっている状態だ。つま
りみんな大注目、ということ。
﹁姉さん、落ち着いてよォ。なんでいきなり?﹂
﹁いきなりじゃないよ! もっと早く言いたかったのに、アキラっ
てば学校内ではサボってばっかりで見つからないし、家ではあちこ
ち動き回ってて落ち着きないしで、顔合わせられなかったじゃない
!﹂
ただ美月様から逃げ回っていたのではない。すっかりたまってい
た美月様の身辺調査や風紀への説明などで忙しかったのだ。本当に
こっそりと、クイズのヒントでも与えるようにではあるが、あたし
は城澤に東条の父親の名前と出身地を教えてやった。あの男のこと
だ、はっきり言わずとも調べを進めて正解にたどり着くだろう。そ
しておそらく結果は東条を通じてわかるはず。
白河宅では戸籍上の親への連絡や敬吾さんと辰巳で毎夜会議。鷹
津からのお食事会は口約束では終わらず、明確な日付を伝えられた。
それに対してどうのぞむか。
おかげで美月様から逃げていられたのだけれど、焦れた彼女はつ
いにこの場であたしを追い詰めた。
﹁あんなにやさしい先輩に、恩を仇で返すようなことして。わたし、
今回は本気で怒ってる﹂
美月様は真剣だ。
背中に冷や汗をかきつつも、あたしはヘラっと笑った。
﹁ごめんなさい、怒んないでよ﹂
﹁私に謝ったって仕方ないでしょう! ほら、篤仁先輩のところい
こう﹂
絶対に嫌だ。
ばっと勢いよく腕を振ってから後悔した。
あたしの拒絶が無意識に行動に出た。ぐっと腕を引っ張られたが、
440
鷹津の名前を出されたことで反射的にあたしは美月様の手を払って
しまったのだ。
﹁え?﹂
美月様は茫然と口を開ける。
そりゃそうだ、今まであたしが美月様にこうして逆らうようなこ
となかったものな。
﹁ごめんなさい! でも姉さん、勘弁してよ! ほんとにイヤなの。
相性最悪なの﹂
拝むようにポーズをとるが、美月様の表情は硬いままだった。
﹁⋮⋮アキラのバカ﹂
﹁や、ごめん、バカは本当だけどさぁ﹂
﹁篤仁先輩がどれほどショックだったかわからないの!?﹂
急に声を荒げた美月様に、あたしはヘラヘラ笑いを切り替えた。
美月様の大きな瞳には興奮のためかうっすら涙の膜が張っている。
﹁あのとき、アキラが悪口いっぱい言ったから、篤仁先輩顔真っ青
にしてたんだよ!﹂
﹁真っ青? 鷹津が? 嘘でしょう﹂
そう言ったとたん、美月様の目にもはや隠しきれない涙がにじん
だ。
﹁嘘じゃないもん! ひどい、アキラ、疑うの!?﹂
﹁えっ、違うよ、そうじゃないよ! ごめんなさいっ、違うよ姉さ
ん!﹂
そんな繊細な男だろうか。しかし美月様が嘘をいうとは思えない。
何かあのあとにあったのだろうか。雀野からは着信が入っていたの
だが、忙しさから後回しにしていたことが悔やまれる。
﹁とにかく、アキラがちゃんと謝るまで、許さないからね!﹂
美月様はそう言い残すと、教室から走り去ってしまった。
あとに残されたあたしは、血の気が引く思いでその後ろ姿を見送
441
り、すぐさま雀野に電話した。
﹃ちょっと、今何時だと思ってるの? 無視しといていきなりなん
だよ﹄
教室内で声をひそめているのだろう、雀野はぼそぼそと文句を言
いつつもすぐに出てくれた。
﹁あの変態男、何かあったの? 天使がすっごく怒ってる。あたし、
怒られたことないのに!﹂
この場で名前を出すわけにはいかない。だが、雀野はすぐに誰が
なんのことでどうなったのかわかったらしく、ぷーっと吹き出す音
が聞こえてきた。非常に腹が立ってくる。
﹁なに?﹂
﹃ぷっふふふふふ、やめてよ、いま僕教室なんだよ⋮⋮っ! お、
おなか痛い、ダメ、ちょっと待って﹄
漏れ出る笑い声に、がたがたと何やら物音がまじる。どうやら教
室を出て行ったらしい。
﹃もー、ホント君っておもしろいよね! おっかしい! あー、楽
しい﹄
﹁こっちはそれどころじゃない。情報は簡潔に。時間ないでしょ、
ホームルーム始まっちゃう﹂
﹃生意気。はいはい、わかったよ。まあ説明しちゃうとたいしたこ
とじゃない。君の言う変態男は、君の捨て台詞におおいに傷ついた
ってだけだよ﹄
あの自信家が顔青くして固まってるんだから見物だったよ、と雀
野はまたひとしきり笑った。
﹁はぁ? じゃあ本当だったってこと? そんな心モロイの?﹂
﹃あいつの心臓は超強化ガラスより強いよ﹄
﹁ならなんで﹂
﹃⋮⋮﹁だいっきらい﹂っていうのが効いたのかな﹄
﹁なにそれ﹂
442
﹃君の捨て台詞﹄
﹁あたしそんなこと言ったっけ﹂
暴言は思いつくまま吐いたと思うが、何を言ったかまでは覚えて
いない。
﹃これだもんな! あっははははは﹄
﹁あー、もううるさい! ありがと、じゃあね﹂
あたしは雀野の笑い声を聞きながら一方的に電話を切った。
まさか、鷹津があたしの悪口程度で傷つくとは思わなかった。﹁
だいきらい﹂が効いた? あいつ、どれだけ自信過剰なんだ。あれ
だけ人のことバカにしておいて、好かれるわけがないだろうが。
とにかく、美月様の怒りを回避しなければ。それはあたしの身の
安全にもかかわってくるのだ。
その証拠にほら。 あたしは新たに冷や汗を流しながら、教室中から向けられる隠し
ようもない敵意に身を震わせた。
ついに天使が悪魔を見限った。
一年B組から発信されたその新情報は、一大ニュースとなって駆
け巡った。
何かとスキャンダラスなあたしではあるが、今回は生徒会補佐の
補佐解任に継いでのことでより注目度は高かったようだ。
いつもなら悠々と校内を闊歩するあたしだが、今日は場所を選ん
で歩いていた。できるだけ人通りの多いところ。目立つ場所。
今まであたしによって虐げられてきた人間がなぜ仕返しをしてこ
なかったのかといえば、一重に白河美月様の力があったからだ。
だが、今はその鉄壁の守りに崩れがある。やるなら今だ、と思う
443
者がいてもおかしくない。
あたしはちょうどいい具合に木陰ができるベンチに座り、辰巳の
お弁当を食べていた。夏の風が心地よく、他のベンチにもちらほら
と生徒が座ってランチタイムを楽しんでいる。本当は美月様のとこ
ろに行きたかったのだが、あたしがA組に行った時には既に生徒会
室に逃げ込まれてしまっていた。あそこは鬼門だ。決戦は今日の夜
に持ち越しだ。
ここなら見通しもいいし、人の目もある。まず問題はないだろう
⋮⋮と踏んでいたのだが。
びしゃっとあたしの足元に何かが落ちる。
﹁ん?﹂
なんだ、と弁当箱をよけてみれば、またビシャリと音がした。
﹁は? なに?﹂
それは真っ白で濡れた塊。ちょいちょい、と足でつついてみれば、
長方形で縫い目がはっきりした ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ 雑巾だ。
﹁⋮⋮なんだこれ﹂
あたしが首をかしげていると、周囲からくすっと笑い声が漏れ聞
こえた。こちらをチラチラと見ながら含み笑いをしている。
そしてさらに落ちてくる濡れ雑巾。こちらもまっさらで、未使用
品であることはすぐわかった。
あたしは頭上を見上げたが、校舎の窓が見えるだけで人影はない。
﹁まさか、これがイジメってやつ?﹂
とりあえず、と少しだけ座る位置をずらしてあたしはお弁当をか
っこんだ。いくらきれいとはいっても、お弁当の上に落ちたらたま
らない。
しかしながら、やはりお嬢様お坊ちゃまはやることが違うな。
あたしの少ない知識では、イジメで清掃用具をぶつけるのは定番
のような気がする。しかし何せここは鳳雛学園、彼女たちに用意で
444
き、かつ実際に手でもてるのは汚れいっぱいの雑巾ではなかったの
だ。
﹁さすがだわ⋮⋮﹂
妙なところで感心してしまったあたしは、雑巾を蹴飛ばしてふん
ぞり返った。
﹁ガキじゃあるまいし、ばぁっかじゃな∼い?﹂
さて、これでまた追撃しようと顔を出すはず。
最初にやられっぱなしではないことを示すことが大切だ、美月様
に許してもらうまで同じようなことが繰り返されるのは面倒だ。
コテンパンに返り討ちにしてやる。それから、美月様のご機嫌取
りに走らねば。あー、でも鷹津には会いたくないなぁ。美月様のこ
とで脅されたらどうしよう⋮⋮。
あたしの気がそれた瞬間、目に飛び込んできたのは予想していた
白ではなく水色だった。
﹁げっ!?﹂
あたしの安い挑発にのってくれた嫌がらせの犯人は、狙い通り次
の攻撃を仕掛けてきた。だが、それはなんと雑巾ではなくバケツ、
しかも水入り。スローモーションで水滴をこぼしながら落下してく
る物体に、あたしは体が固まってしまった。
﹁動かないで﹂
﹁へっ﹂
あたしの目の前を横切ったのは、今度は黒くてしなやかに長い何
か。
聞こえたのはプラスチックの弾き飛ばされる軽い音と、ぶちまけ
られる水音。小さくあがる悲鳴。先ほどあたしを笑った生徒に水が
かかったようだ。いい気味。
445
﹁そこの女子生徒、明らかに故意と思われるこの行為に関して弁明
をしなさい﹂
大きくないのに凛と響くこの声、あたしは驚きに身を固くして美
しい立ち姿に見惚れてしまった。
﹁逃げたわね。でも顔は覚えた。風紀に報告しなければ﹂
くっと不快気に寄せられた柳眉。あたしはごくりと喉をならして
からなんとか言った。
﹁いや∼⋮⋮。助かりました、雨宮先輩﹂
﹁私が守ったのは学園内での秩序よ。あなたじゃないわ﹂
雨宮副会長はメガネをくいっと上げてあたしを見下ろした。
﹁奇遇ですねぇ、雨宮副会長もここでお昼?﹂
﹁もう済ませたわ﹂
﹁あー、そうですか⋮⋮﹂
ならなぜ隣に座る。
雨宮は優雅にベンチに座り込み、腕を組んでつんとすまし顔だ。
先ほどの騒ぎで生徒たちは恐れをなしてそそくさと姿を消してしま
った。気まずいことこの上ない。
﹁何かあたしに用でも?﹂
そうふってみるが、雨宮は返答どころか微動だにしない。
﹁あー、いや、しかしさすがですね! あれハイキックっていうの
? キレイだわー﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
またもや無言。もういい、とあたしは勝手に一人で話を進める。
﹁雨宮副会長は警察官僚一族ですもんね! やっぱり強いんだ﹂
雨宮家は日本の暴力装置の一機関を左右するような、一族郎党み
な警察官というお家だ。雨宮自身、空手、剣道、柔道、一通りの武
446
芸はたしなんでいると聞いている。
公式記録はないものの、落下物を正確に蹴り上げたあの足、かな
り実力はあるのではないだろうか。そう思ってふと雨宮の白いレー
スの手袋を見た。
﹁⋮⋮あたし、教室に軍手あるよ。使用済みだけど﹂
﹁え?﹂
唐突にとんだ話に、雨宮もようやく反応を示した。
﹁手袋、濡れてちょっと透けてる﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
今度も無言ではあったが、雨宮はこちらに顔を向けてまじまじと
あたしを眺め回した。
﹁大丈夫よ。替えを持ってるの﹂
﹁そ。ならいいけど﹂
﹁なぜそんなことを?﹂
﹁べつにィ。乙女心ってそんなもんかなって﹂
﹁そうね﹂
問いかけに答えると、雨宮はふっとこわばっていた表情をゆるめ
た。こんな顔、美月様の前以外で初めて見た。
﹁ちょっとお話してもいいかしら﹂
﹁どーぞ﹂
それを待っていたんだから。
﹁私ね、一年中黒いストッキングはいているの﹂
﹁ふうん﹂
﹁手袋と同じ理由﹂
雨宮の体はたおやかでほっそりと美しい。知性的な美貌とあいま
って、これぞ理想の﹁お姉さま像﹂を作り上げている。
しかし、本人はそう思っていないらしい。
﹁拳だこ、竹刀だこで手の皮は厚くてボコボコ。足の筋肉はつきす
ぎで筋ばってる。見せたいものじゃないわ。透けて見えた?﹂
447
﹁ううん。大丈夫、手の甲の部分だけだから﹂
﹁なら、察しがいいのね﹂
肩をすくめたあたしに、雨宮はまたクスリとほほ笑んだ。
﹁でもね、私はこれを厭っているわけではないの。むしろ誇りに思
うわ﹂
﹁そりゃあれだけのことができるならね。副会長、さっきまるで王
子様みたいだったよ。いや、お姫様のピンチにかけつけるナイトか
な﹂
おどけてみせると、雨宮は今度ははっきりと笑い声をあげた。
﹁なんてこと⋮⋮。まさか、あなたから言われるなんて﹂
おかしい、と口を押えて笑っている。まるで憑き物でも落ちたよ
うなその態度に、あたしは彼女の正気を疑ってしまう。
﹁どしたの? あたし変なこと言った?﹂
﹁いいえ。褒め言葉よ。私ね、そうなりたかったの﹂
﹁え?﹂
﹁お姫様を守る騎士。小さいころからずっと憧れていた存在﹂
﹁警察官僚一家であるウチは、正義の味方がいっぱいいるように見
えた。絵本を読んでいても、心惹かれるのは強い勇者や騎士や王子
様。私も強くなりたかった。いつか現れるお姫様を守るために﹂
﹁⋮⋮そのお姫様が美月姉さん?﹂
﹁そう! 純粋で愛らしくてか弱くて。一目でわかった、まさに理
想のお姫様よ。長年の鍛錬が報われるって思った。彼女のために力
を行使したくなった﹂
雨宮はたんたんと言うが、これはあたしに聞かせるためではなく、
自己と向き合う行為なのではないか。
言葉少なではあるが、推測する限り彼女は一種のヒロイックシン
ドローム、英雄症候群だ。
448
字面の通り強い英雄願望からくる空回り。自己顕示欲の対象は一
般大衆ではなく美月様一人になっていたようではあるが、症状は似
たようなものだ。
﹁私は騎士になりたかった。美月さんを守りたかった。でも、その
ためには必要なものがもう一つあった﹂
その言葉にピンとくる。あたしは唇をゆがませて笑った。
﹁それがあたしってワケだ﹂
﹁そう。お姫様を害する明確な敵﹂
あたしは小さく嘆息した。
こう美しく微笑まれては何も言えない。
幼いころの雨宮の描いた妄想は、高校三年生になったとき思いが
けない形で役者がそろってしまったということだ。勝手に配役され
たあたしたちにはいい迷惑だが、これで雨宮が美月様に執着する理
由がわかった。
箱入りで育てられている令嬢は多くいれど、美月様ほど天然純粋
培養な娘はそういないだろう。それは本人の気質に大きく関わって
いる。実際、美月様に﹁僕が君を守る!﹂と宣言してきた愚か者は
少なくない。 雨宮は恥ずかしげに続けた。
﹁きっと初瀬くんも似たような心境だと思うわよ﹂
﹁初瀬も?﹂
﹁彼、お花やっているでしょう。あなたは?﹂
﹁経験あるように見える?﹂
﹁愚問だったわ。アレってね、けっこう無茶するのよ。くきがポッ
キリ折れるギリギリまで力を加えたり、葉を棒で丸めて曲線を作っ
たりするの﹂
﹁へえ。切ってちぎって刺すだけじゃないんだ﹂
﹁自然のものに手を加えて、さまざまな手法でより一層美しく完成
449
させる。一つの世界を創り上げる。そう言ってたわ。美月さんは初
瀬君にとって最高の素材なんじゃないかしら。あなたは邪魔な枝ぶ
り、とがった葉っぱ、というところかしら﹂
﹁まったくどいつもこいつも人をなんだと思ってるんだか﹂
だらしなく足を投げ出してしみじみと言ってみる。しかし、今日
ばかりは雨宮は怒らなかった。
﹁この前あなたに陰険オニババって言われてショックだったわ。だ
からちょっと自分を省みてみたの。あなたを美月さんに害成す悪魔
としてしか見ていなかった。まあ、たしかに? ほんのわずかに?
言いすぎたかもしれないって、思って⋮⋮﹂
なんと、あたしの暴言が鷹津だけでなく雨宮にまで影響を与えて
いたとは。
少なくともこちらはいいほうに転んだ。ヒロイックシンドローム
に陥っていたことに気づき、憎いはずのあたしのところまでわざわ
ざ来てくれたというのだから。
﹁でも、あなた﹂
しおらしい態度から一転し、雨宮はツンとまた顎をそらした。
﹁そう思われても仕方のないような言動がいけないのよ。あなたの
普段の行いのせいだわ。私たちがあなたを目の敵にするような状況
を作り出している一因よ﹂
﹁へーへー!﹂
﹁そういうのがよくないって言ってるのよ! だから美月さんに近
づけたくないの!﹂
﹁でも姉さんだもーん﹂
﹁ああ、腹立たしいっ!﹂
告白と心の整理ができたためか、ヒステリックにあたしを睨みつ
ける視線の強さはすっかり元通りだ。
450
﹁いいこと。私はあなたを認めたわけじゃない。これは謝罪でもな
い。宣戦布告よ。私が美月さんを守ろうとする意志に変わりはない。
もしあなたが美月さんを傷つけるようなら容赦しないわ﹂
﹁わかった﹂
ここは神妙にうなずいておこう。
﹁ただ、私はもっと大きな敵に立ち向かう必要があるかもしれない。
そうなったときあなたなんて相手にしていられないんだから、せい
ぜいおとなしくしていてちょうだい﹂
﹁大きな敵?﹂
それは聞き捨てならない、とあたしが問い返すと、雨宮は指をバ
キバキと鳴らしながら言った。
﹁鷹津君に決まっているでしょう﹂
451
悪魔と騎士︵後書き︶
今さらながら、あけましておめでとうございます。
カメ以下の速度ではありますが、完結にむけて走っていきますので
よろしくお願いいたします。
ご意見・感想をお待ちしております。
452
悪魔と鋼の男
日を追うごとに日差しは強くなり、空調のきいた教室に入ると思
わずほっと息をついてしまう。そこであたしは違和感に気づき眉を
吊り上げた。
あたしの机は教室内の廊下側最後尾だ。今日もその位置に変わり
はない。だが、ちょっと不自然すぎるだろう。なんだってあたしの
机だけポツンと離れて置いてあるんだ。椅子を引くのがやっとなく
らい壁に寄っている。
机の上には﹃天使から捨てられた恥知らずの悪魔、これ以上天使
を汚す前に出ていけ﹄と印刷された紙がラミネート加工した上でき
っちりと張り付けられている。育ちがいいのか悪いのか悩みどころ
だ。
﹁はっ﹂
あたしが鼻で笑うと、あからさまにこちらを盗み見ていた連中が
ビクリと震える。
﹁やぁ∼ん、こんな脅しめいたことされてあたしこわぁい! 分を
わきまえて生徒会も辞めておとなしくしてるってのにィ﹂
あたしは椅子に座りながら誰にともなしに言った。
﹁あんまり怖いからぁ⋮⋮。報復しとくか﹂
がんっと勢いよく音をたて、机の上に足を乗り上げる。顔色を一
気に悪くする数名の生徒が目に入り、それだけで犯人の特定はでき
た。わかりやすいったらない。やりなれないことをするからそうな
るのだ。
453
この程度の嫌がらせ屁でもない。
それに、これ以上被害が広がることはない、とあたしはすでに見
切りをつけていた。
さぁて、何してやろうかなぁ。あたしは最近たまったストレスの
解消の矛先を見つけ、暗く気分が高揚してくる。
特に実行犯らしいのは、真っ青になっているあいつとあいつとあ
いつと⋮⋮⋮。
あれ。
たったこれだけのことにしては、犯人多すぎないか?
﹁おい、気味悪い顔してんじゃねぇ﹂
﹁いたっ﹂
ぺんっと後頭部を叩かれて振り返ると、そこにはつまらなそうな
顔をした東条がいた。
﹁びっくりしたぁ。何してんの﹂
﹁ちょっとな。なんだ辛気臭いクラスだな。葬式みてぇじゃねーか﹂
ピタリと静まり返っている生徒たちは、恐ろしいものでも見たか
のように挙動不審に震えていた。
﹁そりゃセンパイのせいでしょ﹂
﹁あぁ?﹂
クラス全員によるいじめかと思いきや、クラスメートたちが青ざ
めている原因は何も言わずにズカズカと入り込んだ東条にあるよう
だった。
﹁ま、それはどーでもいいから。何、あたしが恋しかったぁ?﹂
あたしは甘い声を出して見上げる。
﹁恋しがってんのは俺じゃねーよ。あの堅物野郎だ﹂
﹁いたっ。⋮⋮カタブツって、城澤?﹂
454
今度はデコピンしてきた東条に、あたしは額を抑えて問い返す。
﹁他にいねーだろ﹂
﹁ふぅん﹂
﹁とにかく、放課後来い﹂
城澤とはうまくいったらしいな、とあたしがほくそ笑むと、東条
は気に入らないとばかりに顔をしかめた。
不満そうだけど、心底嫌がってはいないという複雑な表情。
不良というレッテルで立ち位置が定まっていなかった東条だが、
前と違って彼の足もとが落ち着いたように見える。
悪くない。
あたしは仄暗さを伴わない晴れやかな気持ちになった。
だが、それとこれとは話が別だ。
﹁行くの面倒だなァ﹂
﹁お前が来なきゃ、俺のほうがめんどいことになるんだよ。ふんじ
ばってでも連れてくからな﹂
﹁でもさ、本当に今イヤなんだよね。特別棟最上階はあたしにとっ
て鬼門だから﹂
あの男に会いたくない。
はあ、とため息をついた口に、ぐいっと棒付飴が突っ込まれる。
﹁聞いてなかったのかよ﹂
﹁んぐ?﹂
﹁だから、俺が連れてってやるって言ってんの﹂
ずかずかと歩いていく東条の後ろを、あたしは小走りに追った。
学園の不良と悪魔が連れだって歩く姿はさぞ恐ろしいものなのだろ
う。道行く生徒は目を伏せ息を殺している。なんだか悪いことでも
している気分だ。
455
東条はためらうことなく特別棟に足を踏み入れた。このまま誰に
も会わなければいいのだが⋮⋮。
﹁あれーっ、どうしたの?﹂
これこそ偽りない甘い声。あたしはぱっと後ろを振り返る。
﹁姉さん!﹂
﹁何か用事? あ、アレのことなら朝渡したよ。バッチリだったよ
! 心配しないで﹂
﹁あ、ありがとう、姉さん!﹂
美月様はあたしたちの後を追うように階段を上ってきていた。
あー、やっぱり! ホームルーム終了の時間がかち合ってたんだ
よね、こうなると思ってたよ!
あたしは引きつりそうになる口元をなんとか抑え、美月様に向き
合った。
﹁来るの早いねぇ﹂
﹁うん、やることいっぱいあるからね、がんばらなきゃ! あっ、
東条先輩まで! いつもアキラによくしていただいてありがとうご
ざいます﹂
﹁おー﹂
無礼なことに、美月様に一瞥もくれずに東条は階段を上り続けた。
ついでにあたしの襟首をつかんで引っ張り上げることも忘れない。
﹁おい、東条! 苦しい!﹂
ついつい口から出てきた言葉に、美月様はむっと眦をわずかに吊
り上げた。
﹁アキラ! また先輩にそういう口きいて! この前怒ったばっか
りでしょう! こら、アキラっ!﹂
﹁ごめんなさいっ。だから今はちょっと名前呼ぶのやめて⋮⋮﹂
美月様の澄み切った天使のソプラノはよく響く。これではせっか
くコソコソ来ているのに意味がない。
美月様はあたしのあせりにも気づかずぷくっと頬をふくらませた。
﹁アキラってば! もー、反省したと思ったのに!﹂
456
﹁反省してるってばァ﹂
﹁それで俺に会いに来てくれたのか﹂
一気に跳ね上がるあたしの心臓。意味はないとわかっていてもあ
たしは東条の背中に隠れ、恐る恐る階段上を見上げた。
﹁⋮⋮御機嫌よう、かいちょー﹂
﹁ああ。いつになく気分がいい﹂
後光でもさしそうなほど美しい笑みを浮かべた鷹津に、あたしは
冷や汗しか出てこない。
﹁篤仁先輩! 今来たところですか﹂
美月様は小鳥のように軽やかに階段を駆け上がり、鷹津の隣に寄
り添った。
﹁美月さんの声が聞こえたので、生徒会室から顔を出してみたんだ﹂
﹁えっ⋮⋮! わざわざ、来てくれたんですか﹂
ぽっと美月様のまろい頬が赤く染まる。
﹁アキラ。久しぶりに生徒会室に寄っていかないか﹂
その美月様の視線の熱さと、鷹津の態度がかみあわない。
あたしは、誰しも美月様に恋心を抱かずにはいられないという前
提でしか鷹津を見ていなかった。こうして身内の欲目なしに観察し
てみれば、歪さは明らか。雨宮が鷹津を敵認定してもおかしくない。
だが、以前からこうだっただろうか。あたしの目はそこまで曇っ
ていたか? 美月様の態度がおかしくなるにつれ、鷹津の態度も変
わっていったのではないか?
﹁あーすんません、会長。用があるんスわ﹂
﹁君は二年の東条くんだね﹂
﹁よく御存知で。じゃ、失礼します﹂
東条にしては恐ろしく丁寧に頭を下げると、あたしをひきずった
まま鷹津の横を通り過ぎようとした。だが、相手はそんなに甘くな
457
い。
﹁君はどの委員会にも部活にも所属していないと思ったが。ここへ
は何をしに?﹂
﹁俺じゃなくてこいつに用があるんス﹂
﹁どこの誰に﹂
﹁風紀の俺にです、会長﹂
首の圧迫がなくなったかと思うと、今度は別の方向からがっちり
と肩を掴まれた。
真打登場、鋼の男城澤隆俊だ。
﹁城澤⋮⋮!﹂
﹁東条君、ありがとう﹂
﹁いーや﹂
もう俺は関係ない、とばかりに一歩引いた東条は素直に首をふっ
た。そして興味のなさそうな素振りで美月様、鷹津、城澤、あたし
を順番に見ると、ちいさく
﹁お前も苦労するな﹂
と同情的な響きをもってつぶやいた。
﹁生き残れたらまた飴やるよ﹂
﹁えっ、まさかこの状況で置いてく気じゃないでしょーね﹂
東条はそのまさかだ、とあたしの頬をぶにっとつまんでから背を
向けてしまった。
﹁置いてかないでーっ。卑怯者ォ!﹂
乙女の悲痛な叫びを忍び笑いで無視した東条に怨念をとばしてい
ると、城澤により力をこめて引き寄せられる。
﹁風紀委員長、アキラを何の用で呼んだ﹂
静かに覇気をくすぶらせる鷹津に対し、城澤は鋼の強さでまっす
ぐ見据えた。
458
﹁一目瞭然かと。彼女の生活態度は一時改善したものの、今やこの
通りです。その指導にあたります﹂
たしかにあたしの制服は﹃この通り﹄といえるほど乱れている。
しかし鷹津は認めない。
﹁前回の経験から、俺は君に適切な指導ができるとは判断しかねる。
なんなら生徒会室を貸そう、そこで行うといい﹂
﹁いえ、お断りします﹂
きっぱりと断る城澤に迷いもブレもない。
﹁その他にも話すべきことはありますので﹂
﹁何をだ﹂
﹁それは、雨宮副会長がよく御存知かと﹂
﹁雨宮⋮⋮?﹂
﹁では失礼します﹂
鷹津の思考がブレた一瞬のすきに城澤は深く頭を下げ、あたしの
背中を押すように風紀室に入り込んだ。
ぱたん、と閉まる扉の音。
小さくはあったが、それは間違いなく城澤が鷹津に白星を挙げた
音だった。
﹁やるじゃん、城澤!﹂
あたしは興奮気味に城澤の胸をたたいた。
﹁鷹津に一歩も引かず。いやー、鋼の男はダテじゃないね! ⋮⋮
あれ﹂
せっかくあたしがご機嫌だというのに、城澤は仏頂面でソファに
座ったあたしを見下ろしている。
﹁そんなに東条君のほうがいいのか﹂
﹁は?﹂
﹁なんだ、さっきのは。俺より彼のほうが頼もしいか。俺だって鍛
459
えていないわけではない、腕力だって負けない。弁だってたつほう
だと思う﹂
﹁えーと?﹂
何? 自慢大会?
﹁最初は助けてと俺のところに走ってきたくせに、今ではすっかり
仲良くなったようだな。飴までもらったのか。飴なら俺も買ってや
る、タンキリアメにベッコウ、京飴、それくらいならもう用意済み
だ﹂
﹁⋮⋮えーと。あの、今日松島いないの?﹂
話が通じない、とあたしは通訳を求めたが、語気鋭く﹁今日は不
在だ﹂と切り捨てられた。
﹁あ、そういえば、あたしはなんで呼ばれたの?﹂
しかたなく話題の方向転換をはかると、なんとかこれにはのって
くれた。
﹁雨宮副会長から話は聞いた。雑巾とバケツを落とされたそうだな﹂
﹁ああ。雨宮先輩から聞いたってソレ?﹂
﹁そしてコレもだ﹂
ぺろ、と突き出したのはラミネート加工されたあたしへの悪口。
﹁あれ、どこいったかと思ったら﹂
﹁東条君が報告してくれた﹂
﹁探したんだよ。うちわにしようと思ってたのに﹂
﹁アキラくん﹂
城澤は肺の奥底から吐き出しました、というくらい大きなため息
をついた。
﹁どうして俺に一番に言ってくれないんだ。そんなに頼りない男に
見えるだろうか﹂
﹁え?﹂
ローテーブルをどけてソファの前にひざまずいた城澤は、あたし
460
の手をとってこちらを覗き込んでくる。城澤が触れているのはちょ
うど前にあざを作られた場所だ。
﹁君にはひどいことをしてしまった。それがいまだに俺を信用でき
ない理由になっているなら改めて謝罪する﹂
﹁ちょ、ちょっと﹂
﹁東条君のお父上のことを教えてくれたことも感謝している。あの
高額な寄付金の出所は我々も気になっていたところだったんだ。だ
が本人に秘匿の意思がある以上探るのもはばかられて⋮⋮。それな
のに、俺は君になにもできないのか﹂
さきほどの男ぶりはどこへやら、城澤は塩をまかれた青菜のよう
にしおしおとへこんでしまった。
﹁どうしたの、さっき褒めたばっかりでしょ﹂
﹁だが、俺は肝心なところで君を守れない﹂
﹁はァ?﹂
﹁東条くんのほうがいいのか。それとも雨宮副会長か。俺じゃだめ
なのか?﹂
﹁なんでそんなこと﹂
守る守らないって、東条のほうがいいとかって、いきなり何を言
うのか。
必死な城澤についていけず、あたしはつい苦笑いしてしまう。し
かし、それがまた城澤を傷つけてしまったようだ。
﹁なぜ笑うんだっ﹂
﹁えー?﹂
﹁ぞうきんなんて落とされて、バケツの水をかけられて、こんない
われのないひどい暴言を吐かれて﹂
﹁こんなことでイチイチ傷つくわけないでしょう。今更だって﹂
あたしが呆れながら言い返すが、城澤はいいやと首を振る。
﹁今更だと思ってしまうのは、もう心がマヒしているからだ。傷つ
いていないはずがない﹂
461
まっすぐな目に射抜かれるともう笑っていられなかった。
なんだかその言いぐさが鷹津と重なる。
﹁なんで、城澤までそんなこと言うの。勝手に決めつけないでよ。
むかつく﹂
﹁なら決めつけたりしない、全部俺に言ってほしい﹂
また、鷹津と同じこと。
﹁言うのも言わないのもあたしが決める!﹂
﹁だから頼んでいるんだ!﹂
ひるんで身を引きそうになるところを、城澤の力強い腕が引き留
める。
﹁これは俺のわがままだ。ちゃんと理解したい、わかりたい。だか
ら言ってほしい。君が泣くところを見たくない﹂
﹁泣かないってば﹂
強く言うと、だだっこに言い聞かせるような調子で城澤は言葉を
重ねた。
﹁泣くのを我慢しているのは、アキラくんがその我慢に足る志を持
っているからだろう。だがな、心のうちのお前は絶対に泣いている。
教えてくれ。何のためにそうしている。俺はお前を支えたい、何を
しようとしているのか教えてくれ!﹂
城澤の固い掌は腕をすべり、いつの間にかあたしの手をやわらか
く握っていた。
辰巳とは違う感触に、今更ながら気恥ずかしさを覚えた。なんで
こんなに必死になってくれるんだろう。
城澤はひどく悲しそうにあたしを見つめ、泣きそうな顔をしてい
る。
そこでようやく鷹津との違いを見つけ、あたしの心の波が落ち着
いてきた。
﹁⋮⋮城澤ァ﹂
462
﹁なんだ? なんでも言ってくれ﹂
城澤はずずっとさらに身を寄せてきた。
﹁なんでそんなこと言ってくれるの?﹂
﹁アキラくんを守りたい﹂
あたしは美月様じゃないのに。だからあえて意地悪な質問をする。
﹁バカみたい。あたしを何から守るっていうの?﹂
﹁アキラくんが心血を注いでいるものから﹂
あまりに素早く返ってきた答えにどういう意味か、と首をかしげ
ると、城澤はきゅっと手にわずかに力を込めた。
﹁俺は最初からお前のことが気になっていた。不真面目な格好をし
ていても、一本通った志、誇りのようなものを感じたからだ。その
矛盾がもどかしかった。なぜか不思議だったが、最近ようやくわか
ってきたんだ。誹謗中傷など気にならない、いや、気にしてはいら
れない理由があるのだろう。なら、せめて俺は請け負う必要のない
悪意からお前を守ってやりたい﹂
裏があるのでは、なんて勘ぐることのできないほど直情的な城澤
の告白に、あたしは身のうちが震えた。
今まで美月様に同じ言葉を告げてきた連中に見せてやりたい。雨
宮のヒロイックシンドロームとも違う。もしこんな告白をしてくる
男がいたら、当主様に話を通してやってもよかったのに。あたし相
手に言うなんて、本当にバカでもったいない男だな、城澤。
頭は冷静にそう言っているのだが、あたしの心臓はさきほど鷹津
と対峙したのとはまた別の意味で跳ね回っていた。顔が赤くなって
いないといいのだが。
﹁はは、なにそれ⋮⋮。買い被りすぎ﹂
﹁買い被りならそれでもいい。お前が背負う荷物が少ないのだと、
俺が安心するだけだ﹂
ああ、困ったな。
463
城澤はどこまで知っているんだろう。白河や鷹津といった世の動
きとはまた別の流れをいく大学教授を父にもつ彼の性格上、何もわ
かっていないはず。
それなのに、どうして。
﹁どうして守ってくれようとするの﹂
﹁どうして⋮⋮﹂
そこで城澤は初めて言葉に詰まった。
﹁だってそうでしょ。城澤は赤の他人でしょ。あたしは同郷の仲間
でもない、学園にくるまで会ったことも関わりもなかった一生徒だ
よ。なんでそんなに気に掛けてくれるの﹂
呆けたように黙り込む城澤。
あたしはここぞと反撃することにした。
あたしを動揺させた意趣返しだ。
﹁もしかしてあたしのこと好きなの?﹂
城澤の変化は劇的だった。
﹁えええええええっ!?﹂
滑稽なほどのオーバーリアクションであたしから手を離した城澤
は、すっとんきょうな声をあげてのけぞった。
トレードマークの眉間のしわも伸びきって、顔は真っ赤に染まっ
ている。
﹁な、なにを、なにが!! そんな、そんなのは!! ぐっ﹂
のけぞるだけでは飽き足らないのか、ずりずりと尻餅をついたま
ま後ずさってはローテーブルにぶつかって呻いている。
﹁何やってんの、城澤⋮⋮﹂
ちょっと先ほどのときめきを返してくれないか。
﹁だって、これは、き、きみが、なんだか、そんなの⋮⋮!﹂
464
言葉になっていないが、とにかくあたしの発言が不満だってこと
はよォ∼くわかった。
﹁はいはいはい、悪かった。あたしの思い上がりでした。城澤風紀
委員長がまさか学園の悪魔に惚れるなんてないですよねぇ、すみま
せーん﹂
﹁いや、そうは言ってない﹂
﹁なんでそこは滑らかなの﹂
以前あたしのことを素直だなんだとバカにしていたが、こいつこ
そ素直そのものではないか。
あたしはふふっと笑った。
﹁あたし、守ってやりたい、なんて辰巳以外に言われたの初めて﹂
﹁その辰巳というのはどこの男だ。学園の生徒ではないな﹂
とたんに復活する眉間のしわ。ああ、なんというおちょくりがい
のある男だ。
﹁だからなんで滑らかになるの。あたしのこと好きなの?﹂
﹁やっ、だから、なんだ、そういうのは、もっと、なんだ、あれだ
!!﹂
﹁あれってなんだよ﹂
あっははは、と声高く笑うと城澤は余計真っ赤になった。それが
おもしろくて仕方ない。
そうでもしないとあたしはバクバク言う心臓を抑えられそうにな
かった。
恥ずかしい。むずむずが爆発する。
池ノ内と会話したときも同じ衝動にかられた。
それがなんなのかようやくわかった。好意を寄せられるってこん
な気分なんだ。
﹁あー、おかしい! ふふっ⋮⋮。あたしも少しは真面目になろう
465
かな。過保護な優しい先輩もいることだしね﹂
涙をぬぐいながら息も切れ切れにそういうと、城澤はこれを機と
ばかりにまたラミネート用紙をパンパンと叩いた。
﹁できるのならそれがおススメだ。噂では姉妹ケンカの真っ最中だ
そうじゃないか。まずはそれを解決するのが手だと思うが﹂
﹁ぬかりないよ。解決済み﹂
﹁む?﹂
あたしがこんなつまらない嫌がらせを受けているのも、あたしが
美月様の庇護を受けていないと思われているからだ。
あたしは迅速に行動した。すでに美月様の納得する形で姉妹ケン
カに決着をつけているのだ。
﹁姉さんが怒ったのは、鷹津会長に対するあたしの無礼な言動。だ
からちゃーんと謝罪した。もう姉さんはあたしに怒っていない。ま
た明日から仲良し登校して、お弁当も一緒に食べる姿を見せつけれ
ば完璧﹂
﹁何? 君は会長に会うことすら嫌がっていると聞いていたが﹂
だから東条をよこしたのに、と言いたげな城澤に、あたしはふふ
んと顎をそらした。
﹁謝罪の方法は面と向かって頭下げることだけじゃないんだから﹂
﹁ではいったい何を?﹂
﹁心のこもったお手紙を書きました﹂
﹁は?﹂
466
悪魔と鋼の男︵後書き︶
ご意見、感想をお待ちしております。
467
悪魔と恋愛感情
先日は、大変不快な思いをお掛け致しまして申し訳ございません
でした。姉よりご憔悴のご様子であったと伺い、わたくしも心を痛
めております。誠に軽率な発言と行動であったと深くお詫び申し上
げます。
わたくしのすべての言葉に嘘はございません。
どうか、今後とも姉をお引き立て賜りますようお願い申し上げま
す。
﹁どーよっ﹂
つんと胸をそらして高らかに言うと、げんなりと顔をゆがめた東
条があたし力作の草稿を放り投げた。
﹁なんだこりゃ。どこに送る詫び状だ﹂
﹁だから鷹津会長に送ったんだってば。見たがったのそっちじゃん﹂
﹁あのおっそろしい王様が機嫌よくしてた秘密を教えろって言った
んだよ﹂
﹁たぶんこれのことじゃないかと思うんだけど⋮⋮﹂
あたしの答えに、東条は不満げだ。
﹁これでどこの誰がご機嫌になんだっつーの﹂
﹁ま、形としてはこのあたしが鷹津に頭を下げたってことになるん
だから泣いて喜んでもらいたいところよ。しかも手書き!﹂
東条のテリトリーたる校舎裏のゴミ捨て場近く。あたしは東条と
468
並んで座りこみ、昨日の無事の生還を祝ってもらっていた。
言葉を曲げるつもりはなかったようで、放課後になって顔を見せ
たあたしに、東条は眉をひそめながらもいつかと同じ千歳飴を差し
出してくれた。
さっそくそれをいただきながら、昨日の顛末を話していたところ
なのだが。
﹁わたくしのすべての言葉ってなんだ?﹂
﹁ん?﹂
東条は探るようにあたしを見た。
﹁なんか引っかかる﹂
﹁⋮⋮どう思う?﹂
﹁うるせぇ、早く言え﹂
にやっと笑うと、東条はデコピンの構えであたしを脅してくる。
あれ、けっこう痛いんだよな。
あたしは両手をあげて降参すると、簡潔に言った。
﹁べっつに。そのままの意味だよ。あたしは本当の気持ちしか伝え
てないよってこと﹂
﹁つまり、お前の﹃軽率な発言と行動﹄も真意の一つってワケか。
全然反省してねーじゃねーか!﹂
﹁あらー?﹂
﹁ごまかすな! で、こんな仰々しい慇懃無礼働いておいて、なん
で会長喜んでんだよ。マゾか、あの男﹂
﹁今度本人によく言っとくわ﹂
﹁やめて﹂
東条でさえ気づくこの無礼に、鷹津が気づかないわけはない。だ
が今更鷹津の不況をかうことにためらいはないし、これで美月様に
嫌がらせをするほど小さい男ではない、とふんでいた。
要は、美月様が納得してくれればいいのだ。
469
おかげであたしは直接対峙せずに鷹津への謝罪を果たし、美月様
はあたしを許してくれた。今日は仲良く二人で登校、お昼も共にい
ただいた。嬉しいことに、なんと上都賀さんまでいっしょだった。
元通り仲良くするあたしたち姉妹を見る生徒たちの目は相変わら
ず厳しかったが、妙ないたずらをしてくる者はいなかった。きっと
東条効果もあるだろう。
ひとまず嵐は治まった。
﹁正直どうしてご機嫌よくなるのかはハッキリしない。鷹津がマゾ
気のある変態かどうかはおいといて、これで姉さんの笑顔もあたし
の平安も戻ったし、言うコトないよ﹂
それよりも、あたしは今すっごく言いたいコトがあるのだ。
﹁ねえねえ、それよりさァ! 聞いてよセンパイ! 昨日城澤がね
!﹂
あたしはじゃれつくように東条の厚い肩をゆする。
﹁なんだ、うっとうしい。コクられでもしたか﹂
﹁いや。でもあいつあたしのこと好きかも﹂
﹁あァ?﹂
不良のお手本みたいな顔で凄まれるが、あたしは気にせず東条の
腕をひっぱった。
﹁あのねぇ、あたしのこと好き?って聞いたら、顔真っ赤にしたの。
どう思う?﹂
それを聞いた東条は、露骨に顔をしかめてみせる。
﹁お前デリカシー皆無だな。そういうのふつう本人に直に聞くか?﹂
この男からそんな繊細なワードが出てくるとは驚きだ。
﹁だって気になったんだもん。ねぇ、どうだろう? あたしこうい
うの初めて!﹂
照れながら飴をなめていると、東条は驚いた拍子にがりっと自分
の飴を噛み砕いた。
470
﹁マジで? 遊んでそうな外見して⋮⋮。いや、口開けるとそうで
もねぇか﹂
﹁うるさいなァ。東条はあるワケ? いや、ないだろう﹂
﹁うるせーよ、お前といっしょにすんな﹂
﹁えっ、あるの!?﹂
﹁俺はモテるんだよ﹂
防ぐ間もなくデコピンされ、あたしは痛みにわずかに呻いた。
﹁しっかしあの堅物男がなァ⋮⋮。趣味わりィ﹂
﹁超失礼!﹂
反撃とばかりに脇腹をつつくと、東条はぐわっと滑稽な声をあげ
る。
﹁⋮⋮で、どうするんだよ﹂
﹁何が?﹂
﹁だから、城澤とお付き合いすんのかって聞いてんだよ﹂
﹁お付き合いって、いわゆる男女交際?﹂
あたしと城澤が?
一拍の思考停止のあと、あたしは飴をくわえて率直な感想を言っ
た。
﹁⋮⋮その発想はなかった﹂
﹁はァ? なんでだよ﹂
東条はまたデコピンの形に指を構えるが、あたしが本気でそう思
っていることに気づいたようで困惑したように手を下ろした。
﹁だって、結婚なんてまだ考えてなかったし﹂
﹁飛躍しすぎだっつの!﹂
その突っ込みに、あたしは首をかしげる。
﹁どういう意味? だって、お付き合いってそういうことでしょう﹂
﹁ああ? いや、そうかもしんねーけど、もっと気軽に考えろよ。
俺らまだ高校生だぞ?﹂
﹁⋮⋮あー⋮⋮﹂
471
東条の言う意味がようやくわかって、あたしは小さく息をついた。
﹁東条先輩は高校編入組だよね。孤立しがちでお友達いない先輩か
らするとわかんないかもしれないけど、ここの校風からするとさ、
不純異性交遊ってけっこう命とりなんだわ﹂
﹁ん?﹂
あたしは理解の遅い生徒を優しく指導する教育者として説明した。
﹁高校生のおままごと恋愛が、それじゃすまなくなる可能性がある
ってこと。家同士のパワーバランスが崩れると困るでしょう。特に
女の子のほうは万が一でもあると大変だよ。だから教師だって生徒
だって生活委員会だって目を光らせてる。こんな品行方正なあたし
でも例外じゃないってことよ﹂
﹁そういやお前、頭悪そうな外見して実はお嬢様だったな。言葉も
文化も通じなくてめんどくせー﹂
東条は心底疲れたようにため息をつき、短い髪をかきまわしてう
なだれた。
﹁なんでだ? これアレだろ。コクられちゃった、あたし付き合お
うかなーどうしようかなーって答えの出てる時間の無駄にしかなら
ねぇくだらねぇ相談に来たんじゃねーのかよ。っていうかそういう
のは女同士でやれよ﹂
﹁告白はされていない、そういうこと話し合える女友達もいない。
ただ、あたしはあたしのことを好きになってくれた人がいるってい
うのがうれしくて、とりあえず誰かに言いたかっただけ﹂
おかげで昨日の夜は大変だった。
辰巳は浮かれるあたしをずうっといぶかしげに見つめ、隙あらば
聞き出そうと必死だった。こちらも負けじと口を閉ざしたが、漏れ
る笑みは隠しきれない。でも辰巳に言ったら最後、あの過保護さで
どういう行動に出るか⋮⋮。あと敬吾さんにバレるのも必至だろう。
それはさすがに恥ずかしい。
472
上がるだけだったあたしのテンションも興奮も、東条の言う男女
交際という考えに至って急にすぼまりを見せた。
﹁お付き合いねー⋮⋮。まあ、絶対ないね﹂
がぶ、と固い飴に歯をたてる。
﹁城澤のこと嫌いか?﹂
﹁いいや、嫌いじゃないけど﹂
でも、お付き合いしたいとは思っていない。城澤だってそこまで
は思っていないかもしれないし。
恋人なんかいても仕方ない。
あたしには優先順位があって、第一位に美月様、二位に当主様や
水音様、敬吾さんといった白河、そして辰巳とあたし自身があって
それ以外はないも等しい。
他の人間にかまける余裕はないのだ。
﹁ああ、そうか﹂
黙り込んでしまったあたしを、東条は冷めた目で見降ろした。
﹁お前はまたクソつまんねーこと考えてるんだろ﹂
﹁え?﹂
東条はガリゴリと景気よく音を立てて飴を噛み砕くと、吐き捨て
るように言った。
﹁お前は人間を好き嫌いで判断しない﹂
﹁⋮⋮褒められてる?﹂
どう聞いたってポジティブな響きをもたない声に茶々をいれるが、
東条はほだされてはくれない。
﹁使えるか使えないかで見るんだ。だから俺のことを怖がりもせず
に近づいてきた。あの姉貴のためにな﹂
これは不機嫌になった、というより怒っている。
東条は何も言えないあたしの沈黙から何を読み取ったというのだ
473
ろう。
﹁自分は二の次三の次。恋愛なんてしてる暇はないってな﹂
あらやだ、ピタリと当てられた。ついつい目を丸くしていると、
またギロリと睨まれ首をすくめた。
﹁⋮⋮それが何か? 怒られるようなこと? 飴なめる?﹂
﹁⋮⋮怒ってねーよ。それ俺がやった飴だろうが。あー、ヤメだ、
ヤメ﹂
がしがしと頭を掻いた東条は、舌打ちをしてからまたあたしに問
いかけた。
﹁お前好きな男いねぇの?﹂
今度は幾分落ち着いた口調。むりやり怒りをどこかへ追いやった、
そんな感じだ。
﹁超お金持ちで家柄もよくてスタイルよくってウィットに富んでて
顔も整ってる彼氏なら欲しい﹂
﹁違う。特定の、実在の人間! あー、なんだ。そいつのことで頭
がいっぱいになるとか、そいつには自分のこと一番に見ていてほし
いとか、そういうヤツ﹂
﹁なにそれ。つまり、恋はしていないのか、という質問ですか﹂
﹁ああ﹂
あまりにも可愛らしい質問に、あたしは自分から吹っかけた恋愛
トークに怖気が走る。東条、お前自分の風体わかった上で話してい
るんだろうな。しかしそこは優しいあたし、せっかく散った怒りを
再燃させる必要はない、と落ち着いて言った。
﹁恋愛感情ってよくわからない。そういう気持ちになったら恋?﹂
﹁知らねーよ。好きになったらわかるんじゃねぇの。他にもほら、
そばにいたいとか、まもってやりたいとか、自分のこと思っててほ
しいとか、あとは、まあそれなりに。よくわかんねーな﹂
どういうつもりなのか、聞いている東条も適当なことしか言わな
い。いったい何を探りたいのだろう。
474
ただ、東条のいう条件をきいて頭に浮かんだ人はいる。
﹁それってさあ、やっぱり身内じゃダメなんだよね?﹂
﹁お前の姉貴っていう答えは絶対にダメだ﹂
ああ、またもや見透かされた。
あたしにとってそばにいたい、守りたい、と思うのは当然美月様
だ。だがあたしは美月様に恋をしているのではないはずだ。
﹁思いついた。お前の場合、姉貴を捨ててもいいくらいに大事なや
つ。ものでもいい。何かねーのか﹂
﹁あるわけない!﹂
あまりにも突拍子のない東条の思いつきにびっくりして言い返す。
すると東条は苦々しげに口元を歪ませた。
﹁くそっ。むかつく、即答すんな﹂
﹁いいじゃん、家族だって。恋じゃないけど、これも愛でしょ﹂
﹁家族が悪いんじゃねーけど。お前の場合はダメ﹂
﹁何その理不尽!﹂
そう言われたってしかたない、本当のことなのだから。
これ以上聞かれても何も話せない、と判断したあたしは、質問を
そっくり返すことにした。
﹁ねぇ、先輩にはそういう人いる?﹂
﹁いねーよ。⋮⋮でも﹂
でも?
続きを促してあたしが視線をおくると、大きな体を丸めた東条は
ぼそぼそと言った。
﹁すっげーバカ野郎がいる。自分が報われることとかまるで考えな
い、筋金入りのむかつくバカ。あんまり哀れなんで、少しはそいつ
が幸せになってくれればいい⋮⋮とは思ってる﹂
真摯な気持ちがこもった言葉に、胸が温かくなるのを感じた。
﹁それって⋮⋮﹂
475
あたしの口元がふっとほころぶ。
やっぱり、こいついいヤツだ。
﹁大切なんだ﹂
﹁そういうんじゃねーよ﹂
そっぽを向いてしまった東条が何やらかわいい。
﹁そんなふうに東条先輩に思われたら、幸せになれるよ﹂
﹁はあっ!? べ、べつに俺が幸せにしたいとか思ってるわけじゃ
ねーよっ!! よく聞けよ! だから、誰かそういうヤツがいねぇ
かなって﹂
大慌てで照れ隠しをする東条にほほえましさが募り、あたしは安
心させるようにうなずいた。
﹁ごまかさないでいいよ。東条先輩が幸せにして﹂
そこまで言うと、東条は唖然とした顔であたしと視線を合わせて
くる。
﹁お前、自分がなに言ってるかわかってんのか﹂
当たり前だ、誰がそのお膳立てをしたと思っている。あたしは慈
愛をこめてもう一度うなずいた。
﹁ちゃんと幸せにしてあげてね。お父様のこと﹂
﹁誰が今親父の話をした﹂
学校からの帰り道、あたしは痛むおでこをしきりにさすりながら、
東条への恨み言を呟いていた。
﹁なんでデコピン三十連発されなくちゃいけないんだ⋮⋮。親子の
絆が深まったっていい話してたんじゃないのか⋮⋮﹂
一族の汚名返上とかつての仲間のために奔走し、名も名乗らずに
貢献してきた父親への鬱屈。それが城澤との和解により気持ちの方
向が転じたのだろう、と感激していたのに。あたしは少なからずそ
476
の手助けができたと思っていたのに、この仕打ち。
おのれ東条、あとでなんらかの形で復讐してやる。
そんな執念を燃やすあたしの制服のポケットから、ぶるぶると振
動が響いてきた。スマートフォンを見ると辰巳と名前が表示されて
いる。
﹁はい、アキラです﹂
﹁お疲れ様です、アキラ様。本日のお戻りは何時くらいでしょうか﹂
﹁もう校舎を出たよ。美月様はまだ生徒会のお仕事があるけど、そ
れはもう連絡済みだし、あたしが戻ることも報告してるけど⋮⋮。
何かあった?﹂
﹁鷹津様との会食の日取りが決まりました﹂
一瞬でおでこの痛みも吹き飛んだ。
いよいよ決まったか。
二週間後の日曜日の昼、場所は敵陣鷹津家別宅、つまりあの因縁
のパーティ会場だった。
白河と鷹津の当主の両名が参加している大規模なボランティアプ
ロジェクトの打ち合わせを兼ねた歓談に、両家の子供たちが同席す
るという形をとるらしい。
私的なお招きであることは間違いなく、これを簡易的な見合いと
呼べなくはない。もしかしたら奥方である水音様もご参加するかも
しれない。
何かを仕掛けてくることは確実で、この罠に飛び込むには勇気が
いる。
あたしが冷や汗を流していると、辰巳はさらりと聞き捨てならな
いことを言い放つ。
﹁そのためのお衣裳合わせがあります。今回は俺が服も髪も化粧も
すべてお見立てしますからね。⋮⋮それから、今日はしっかりお話
しいただきますから、覚悟しておいてくださいね﹂
477
﹁おおう﹂
あたしの冷や汗は増す一方だった。
﹁こちらのパステルカラーのワンピースはいかがでしょう。肩の大
き目のリボンがアクセントでかわいらしいですよ。アキラ様は背筋
がのびてすらっとなさってますから、このストレートのラインも美
しくでます﹂
﹁はァ﹂
﹁安心安全のグレーもいいですね。薄い色なので重たくはなりませ
んし、膝丈のショートドレスは品よく年相応でよくお似合いです。
アキラ様のお顔立ちの華やかさが際立っていいかもしれません﹂
﹁ふうん﹂
﹁それとも軽いジャケットにフレアスカートを合わせましょうか。
大人びた印象になりすぎないよう、ブラウスに明るい色で遊びをも
たせて。いずれにせよ今回は時間がないのでセミオーダーになって
しまいますが、悪いものではないでしょう。アキラ様、さっそく明
日つくりに行きましょうね﹂
あたしの生返事など意に介さず、辰巳は畳いっぱいに広がったカ
タログや冊子を次々に拾っては捨てていく。いつもの鉄仮面は変わ
らないというのに、横顔が輝いているのは気のせいではないはずだ。
﹁辰巳ィ、なんでそんな張り切ってるの﹂
あたしの疑問は当然だった。
これまであたしは白河家として表に出たことはない。例外があの
鷹津家でのパーティだ。だから衣裳も持ち合わせてはいないのだが、
それにしてもこんなに着飾る必要はないはずだ。
﹁また敬吾さんが用意してくれたの着るから、作らなくていいよ。
そんなお金もったいないでしょ﹂
478
﹁ご安心ください。その岩土さんが資金提供してくださいました﹂
辰巳はそういうと、あたしと一緒に隅に寄せられていた座卓の上
に置かれた黒いカードを目で指した。
﹁もう美月様を引き立てても鷹津様の意思は変わらないだろうから、
みすぼらしい格好をするくらいなら思い切り飾り立てろとのことで
した。鷹津様相手に披露するのは気にかかりますが、遠慮はいりま
せん、思い切りやりましょう。ちなみに美月様はレモンイエローの
ワンピースの予定だそうです。色や形がかぶったりしないよう三舟
さんとは随時情報交換をしておりますのでご心配なく﹂
﹁ご心配なく、じゃないでしょ! 敬吾さんも勝手なこと言ってく
れるよ﹂
あたしは年ごろの女の子にしては、自分の服装には無頓着なほう
だと思う。いくら養育費をいただいているからといって、衣服を必
要以上に買おうとは思わない。体は一つなんだからいいじゃないか。
不満なのは辰巳だけで、時折どうやってか新しい服を調達しては
せっせと箪笥にしまってくれている。おそらく三舟さんあたりに頼
んでいるのだろう。
ちなみに辰巳があたしのところへ来てくれるまで、あたしの衣服
はほぼ美月様のおさがりだった。あたしが美月様の身長を上回った
とき、辰巳はこれで堂々と買えると一人喜んでいたものだ。
そんな辰巳がそわそわと立ち回っているのを眺めていたあたしは、
ふと浮かんできた疑問を口にした。
﹁ねぇ、辰巳には恋愛感情を注ぐ相手はいる?﹂
ぴた、と面白いほど不自然に動きを止める辰巳。
﹁恋人はいる? 今までの恋愛経験は? 結婚願望はあるの?﹂
矢継ぎ早のあたしの質問に、辰巳はばさっと雑誌をよけてあたし
の前に正座した。華美さはないが端正な顔立ちの辰巳は、固い顔の
479
まま穏やかに言った。
﹁その質問は、アキラ様が昨日浮かれていたのに今日どこか沈んで
いることと関係があるのですか﹂
﹁うん、ある﹂
こっくりとうなずくと、辰巳もうなずいた。
﹁俺には恋人はいません。恋愛経験というほどのものもありません。
結婚願望はありません﹂
否定尽くしの答え。
﹁それはなぜ?﹂
﹁俺にはアキラ様がいます。アキラ様より大事な人はいません﹂
﹁うん﹂
あたしはお茶をすすり、それが当然だとばかりにまたうなずいた。
我ながらなんと傲慢! だが、辰巳はそうでなくてはいけないの
だ。
﹁今日は、その﹃好き﹄ということについてちょっと思うところが
あって﹂
﹁それはなんでしょう﹂
﹁あたしは人を好き嫌いで判断しないと言われた﹂
﹁ご立派じゃないですか﹂
﹁かわりに、使えるか使えないかで判断すると言われた﹂
﹁⋮⋮それはそれは﹂
さすがに褒められたことではないことは自覚している。辰巳も苦
笑気味だ。
﹁好きな人はいないのかと聞かれた。美月様はダメだって﹂
東条が言った﹃好き﹄の例を思い返す。
その人のことしか考えられなくなる、まもってやりたいと思う、
そばにいたいと思う、幸せを願う。美月様以外で思い浮かべるには
ちょっと難しい。
だが、ぴたりとハマるものが一点あった。自分のことを一番に思
480
っていてほしい、そんな相手。
﹁他に浮かんだのは辰巳だった。あたしは辰巳が好きだ﹂
﹁俺も、アキラ様が好きです﹂
迷いのない答えはもはや日常のもので、いまさら欠かすことはで
きない。
﹁辰巳はあたしを一番にあつかってくれなければダメだ﹂
﹁わかっています﹂
﹁辰巳はあたしの家族だ。だが、血はつながっていない。これは恋
愛感情だろうか﹂
辰巳はゆっくりとまばたきをすると、口の端をわずかに引き上げ
た。優しい微笑みは常にあたしに向けられてきたものだ。
﹁難しく考えることはありません﹂
﹁え?﹂
﹁﹃好き﹄に名前を付けるなら、いろいろあります。恋愛もそうで
すが、家族愛、友愛、敬愛、はたまた自愛。それのどれが該当する
かは、おのずとわかってくるものです﹂
﹁⋮⋮どうやって?﹂
﹁方法の一つとしては、自分がその相手にどうしたいのか、考える
ことでしょうか﹂
どうしたいか。
あたしは辰巳をどうしたいか。
﹁何をしてほしいのか、何をしてあげたいのか、それだけでも実は
けっこう違うものです。アキラ様が俺に対して抱いてくれているの
は、どんな愛でしょうか。結論は急ぐことはないんです、ふっと変
わってしまうこともあるんですから﹂
変わってしまう。その言葉がなんだか悲しくて、あたしは倒れこ
んで辰巳のひざに頭を乗せた。
﹁辰巳は今、あたしを愛してくれている?﹂
﹁変わらない愛もあります。俺は、アキラ様を愛しています﹂
481
﹁あたしをどうしたい?﹂
髪をなでようとする大きな手をつかまえて、あたしは甘えた声を
だす。
﹁そうですね⋮⋮﹂
辰巳はあたしの指をなでながら考え込む。だが重たいものではな
く、あたしの爪の切り時を見定めているような沈黙だ。
﹁内緒にしておきましょうか﹂
﹁ええええ? 教えてくれないの?﹂
がばっと起き上がると、辰巳は楽しそうにうなずいた。
﹁ひどいよォ、教えるならちゃんと最後まで教えてよォ﹂
﹁今のアキラ様ではまだ早いですね﹂
﹁あっ、バカにしたな! 辰巳のくせに生意気だ﹂
あたしは辰巳の首に腕をまわして乗り上げる。だが上背のある辰
巳がよろけることはない。余裕をもってあたしを抱いて背中をなで
てくる。
﹁アキラ様も大きくなられましたね。あんな質問をされるとは思い
ませんでした﹂
﹁また大人ぶってバカにする﹂
﹁していません。しかし、大人の俺もちょっと危なかったですね。
アキラ様、愛情の区別は心の中でこっそりやるものです。俺の前で
なら結構ですが、外で口に出して行ってはいけませんよ。絶対に﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ええ、絶対に﹂
482
悪魔と恋愛感情︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
483
悪魔と天使、鷹の巣へ
都会から一時間ほど車を走らせただけなのに、窓から見える景色
はずいぶんと山深い。夏の緑が目にも鮮やかだが、あたしの心は暗
かった。
隣で運転している敬吾さんの横顔を盗み見るが、いつも通りの冷
静さを崩さない。これからどんな波乱が待っているか、恐ろしくな
いのだろうか。
﹁ドキドキしてきちゃった! お母様、この服似合う? 変じゃな
い?﹂
﹁ふふ、昨日からそればかりね。大丈夫よ、美月は世界で一番かわ
いいわ﹂
﹁よく似合っているよ、お姫様﹂
後部座席からはほほえましい親子の会話が聞こえてくる。
美月様のレモンイエローのワンピースは実によく似合っている。
髪をハーフアップにして黄バラの髪飾りでとめた後ろ姿は妖精のよ
うで、ちらりと振り返って微笑みを浮かべれば天使のごとし。水音
様のベビーブルーのスーツも実に可憐で、並ぶとあたし以上に姉妹
のように見えた。
その姿にただただ賞賛を与えたいが、今募るのは不安ばかりだ。
過度な期待はうまくいかなかったときの落胆が大きくなる。
帰りの車中で美月様が泣いていないこと、それだけが今日のあた
しの望みだった。
せめて辰巳が隣にいてくれたなら。
484
こっそり息をついたあたしは、また窓の外を眺めることで自分の
呼吸を落ち着かせようと試みた。
いよいよ鷹津との食事会を控えた昨日のこと、あたしはお食事後
のお茶を楽しんでいた当主様たちの前に呼び出された。
﹁失礼します、アキラです。お呼びでしょうか﹂
﹁待っていたよ﹂
当主様は優しく微笑むと、小さく手招きをした。
﹁明日の予定を伝えておこうと思ってね。少し距離があるから九時
過ぎには出るよ。用意をしっかりね﹂
﹁はい、承知しました﹂
﹁うん﹂
こんなことのためにわざわざ?
普段なら敬吾さん経由で伝わるであろう内容に、あたしは内心首
をかしげる。それに、当主様はいつもより浮かれているように見え
た。
意識がそれかけたとき、甘い声があたしを引き戻す。
﹁ねえ、あなた。明日は家族だけで十分じゃないかしら。大人数で
ご厄介になるのも失礼でしょう﹂
水音様はあたしを一切視界に入れずに言った。これは想定の内だ。
水音様はあたしと同席することを何より嫌う。
しかし、これに続く美月様の言葉は想定外だった。
﹁⋮⋮そうだね。アキラは、無理に来なくても大丈夫だよ﹂
あたしの驚きが伝わってしまったのか、美月様はあわてて言った。
﹁あの、この前篤仁先輩とケンカしたでしょ? もちろん先輩はア
キラのお手紙でもう許してくれてるけど、アキラはまだ気まずいか
なって。顔合わせたくないからお手紙にしたんだろうし、だから、
その﹂
485
もじもじとティーカップを手にする美月様。
手紙を渡してくれるよう頼んだときやけに張り切っていると思っ
たら。あたしを鷹津と会わせたくない、そんな自覚しえない嫉妬心
がいじらしい。
﹁よろしければ、わたくしは辞退させていただきます﹂
火種たるあたしがいなければ、鷹津の凶行も恐れる必要はないの
では。
先延ばしにすぎないが、あたしはあえて当主様に申し出た。しか
し、それをきっぱりと断られる。
﹁だめだ。アキラ、お前も来なさい﹂
﹁あなた﹂
水音様が不満気に訴えるが、ご家族に甘い当主様は珍しくきつい
口調で言った。
﹁水音も美月もわきまえなさい。これは鷹津さんからの招待で、ア
キラもしっかりその中に入っているんだよ。生徒会でお世話になっ
たんだろう﹂
一時とはいえ籍をおいていた生徒会のことは否定はできない。あ
たしは何も言わずに頭を下げるが、こっそり見た美月様はしょんぼ
りとうなだれていた。
﹁ごめんなさい、お父様﹂
﹁わかってくれればいいんだ。アキラ、いいね﹂
﹁はい、承知しました﹂
水音様ははかなげで可憐な笑みを消している。当主様はこれから
きっと不満不平をぶつけられるに違いない。
飛び火する前に、とあたしは早々に部屋を後にしたのだった。
逃げることも隠れることもできなくなったあたしは、辰巳が見立
486
ててくれた勝負服に身を包み、鷹津家別邸へと向かっていた。
公用で当主様が使われる黒塗りの車は乗り心地は良いはずなのだ
が、どうも落ち着かない。
敬吾さんからは﹁卑屈になることなく堂々と振る舞って、我関せ
ずを貫き通せばいい﹂とだけアドバイスを受けた。さすがに鷹津当
主の前でバカを演じる必要はないというわけだ。
前回と同じくおとなしく壁の花を決め込めばいい。だが、今回は
埋もれるほど人がいない。いったいどうやって振る舞えばいいのか
まるでわからなかった。
山の中に突如現れた大きな自動式の門をくぐると、待ち構えてい
た鷹津家の使用人によって出迎えられた。案内されるままに玄関に
通される。あたしは敬吾さんに促されて当主様と連れ立って歩く水
音様と美月様の後を少し離れて歩いた。
﹁ようこそ、白河様。ご足労いただきありがとうございます﹂
広い玄関ホールに響いた声は若々しい。留学先でアメリカンフッ
トボールをたしなんでいたというだけあって立派な体格、だがいた
たかつ さねひと
って顔立ちは端麗。艶のある黒髪は見覚えのあるもので、鷹津篤仁
との血のつながりを感じさせた。
にこやかな笑みを浮かべて正面に立つ男が鷹津実仁、鷹津家現当
主であり鷹津篤仁の兄である。写真でしか見たことがなかったが、
たかつ ひろひと
評判にたがわずイイ男だ。
その隣に立つ父親の鷹津博仁は、まるで実仁氏が数十年したらこ
うなる、というモデルのようで、幾分固太りした体が風格をだして
いる。彼もまた楽しげな様子だ。
﹁こちらこそご招待ありがとうございます、今日を楽しみしており
ました。妻と娘たちです﹂
人好きのする魅力的な微笑みで応えた当主様は、水音様と美月様
の背中を押した。
﹁妻の水音と申します﹂
487
﹁美月と申します。こちらは妹のアキラです。この前もステキなパ
ーティにお招きいただきありがとうございました。篤仁先輩にはい
つもお世話になっております﹂
美月様に続いてあたしも頭を下げる。
﹁初めまして、篤仁の兄の実仁です。ああ、噂にたがわず麗しいご
姉妹ですね﹂
そういう実仁氏の目に、どこか値踏みするような様子があったの
はあたしの考えすぎだろうか。
﹁ええ、本当に目の保養﹂
すっと一歩前に出た女性は、重たげな二重瞼に鋭い光を宿してあ
たしたちを観察した。そう、まさに観察、最初から隠す気もない好
奇心。鷹津親子に並んでも見劣らない長身で、持ち主を選ぶであろ
う濃い紅色のツーピースを華麗に着こなしていた。
﹁妻の時緒です﹂
たかつ ときお
﹁御機嫌よう﹂
鷹津時緒、実仁・篤仁兄弟の母親だ。彼女は若いころ絶世とうた
われた美貌の持ち主で、還暦を間近に控えた今は生来の美しさに気
品と深みが加わっている。小柄で年齢不詳な愛らしさをもつ水音様
とは正反対な存在だ。
話では当時プレイボーイだった博仁氏が深窓の令嬢である彼女に
一目ぼれし、口説きに口説いて結婚までこじつけたそうで、今も頭
が上がらないらしい。その溺愛ぶりもだが、鷹津の奥方はめったに
公の場に姿を現さないということでも有名だった。
実際にそばで見ると、なるほどふつうのご婦人とは気迫が違う。
実家の祖は宮家にも通じるという高貴なお家柄もあいまってか、な
んというか、威圧的な雰囲気すらある。実仁氏が父親似なら、鷹津
のほうは間違いなく母親似だ。
﹁いい色ね﹂
488
艶のあるアルトの声は耳に心地いい。
ここはさすが美月様、にっこりとほほ笑んでワンピースの裾をち
ょいとつまんでみせた。素直にほめられた、と思ったのだろう。
しかし、あたしと敬吾さんの耳には好意的な言葉には聞こえなか
った。どこかトゲがある物言いだ。色とは服のことか? いや、彼
女の紅に対し、美月様の黄、水音様の青とはかぶっていない。
何が彼女の不興を買ったのか、と早くも迎えた第一の修羅場にあ
たしの心臓が飛び跳ねる。
さらに一歩進んだ鷹津の奥方は、水音様も美月様も見ていなかっ
た。どく、とまた心臓の音がする。
﹁今回はいい見立て。これからはその方に選んでいただいたほうが
よろしいわ﹂
なごやかな挨拶の場を一瞬で独壇場に変えてしまった時緒様は、
なんのことかと首をかしげる白河家一同を無視し憮然とした面持ち
でこちらを︱︱︱︱︱あたしを見つめていた。
あたしの今日の装いは、うすいベージュのワンピースドレスだ。
ハイウェストでスカート部分にはプリーツが入っている。さらさら
とした生地が肌によくなじみ、セミオーダーとはこんなに着心地が
いいものなのか、とそのフィット感に感激したものだ。髪もギブソ
ンロールにきれいにまとめられ、辰巳も大満足の出来上がりになっ
ている。
何も悪いことはないと思うのだが⋮⋮。
時緒様の視線をたどった敬吾さんが、こほん、と小さな小さな咳
払いをした。うう、仕方ない。
あたしは口から飛び出そうになる心臓を抑えつけ、目を伏せたま
ま言った。
﹁ありがとうございます。パーティではお見かけしなかったように
489
思えましたが﹂
さきほど時緒様は﹁今回は﹂と添えていた。つまり、以前からあ
たしのことを知っていたのだ。そのチャンスがあるとすれば前回の
パーティしかない。
﹁パーティには出ませんでした。二階からこっそり見ていただけ。
あまりにも似合っていなかったから目についたの﹂
﹁⋮⋮お見苦しいものを、失礼いたしました﹂
﹁いいえ。あの夜で一番おもしろかった﹂
どういう意味だ。
あたし、いやこの場の一同はすっかり時緒様のペースにまきこま
れ、各自がどう反応したものかと困惑してしまう。そこへ救いの手
が差し伸べられた。
﹁母さん、いつも言っているでしょう。あなたの言葉は説明が足ら
ないのです﹂
靴音高く奥の廊下から現れた鷹津は、母親譲りの容色を苦笑に染
めていた。
﹁遅れて失礼しました。白河様、ようこそいらっしゃいました﹂
簡単に挨拶だけすませると、彼は恥ずかしそうに弁解した。
﹁どうも母は少々変わっていて⋮⋮﹂
﹁わたくしは楽しくおしゃべりをしていただけ﹂
えっ、そうなの!? 白河の面々から戸惑いを読み取った鷹津は、
またもや苦笑いだ。
﹁拗ねていたくせによく言います。アキラさん、その服はとても似
合っている。かわいいな。だが、母はあなたが前回と同じ藍色のド
レスを着てくることを期待していたんだ﹂
﹁え?﹂
当主様の前とあってあたしを﹁アキラさん﹂﹁あなた﹂と呼ぶ鷹
津に違和感を覚えるが、それよりも時緒さまだ。
﹁似合わないドレスを着たところをつかまえて、自分の娘時代のド
490
レスをあなたに着せようと企んでいたようだ。そのための準備を完
璧に整えていたのに、予想外に素敵な装いで来たものだからすっか
りヘソを曲げているのさ﹂
﹁ちょっとガッカリしただけです。この前の藍色と似た色で、もっ
ときれいなサマードレスがあったのに﹂
﹁拗ねた母は怖かっただろう。悪かったな、アキラさん﹂
﹁失礼な。ちゃんと意思疎通がとれていました。ねぇ、あなた﹂
﹁はい﹂
貴人の拗ねた顔というのは、どういうわけか尊さがある。あたし
の従属気質がびりびりするほど刺激され、自然と頭が垂れてしまう。
﹁ははははっ、まったく我が妻ながらおもしろい! 惚れ直してし
まう。失礼しました、長年連れ添っていても、彼女の思考回路は読
めないのです﹂
突拍子のない時緒様の発言にも慣れているのか、博仁氏は滞って
いた空気を快活に笑い飛ばした。
﹁いやいや、とんでもない。娘のことをそんなに気にかけていてく
ださったとは、嬉しい限りです﹂
﹁昔から母の考えがわかるのは篤仁だけなのです。まさか白河様の
お嬢様に対してそんなことを企んでいたなんて⋮⋮。大変失礼いた
しました﹂
実仁氏もくつくつと笑っている。
どうもこの口ぶりでは、時緒様の奇行は日常茶飯事のようだ。
もしや公の場に出てこない一番の理由はこれではないか⋮⋮?
﹁兄さん、言っただろう。珍しく顔を出す、なんて言いはったから
何かやらかすと思っていたんだ。思い通りにならないとすぐ拗ねて
しまうんです。どうぞお気になさらず﹂
﹁意地悪な息子﹂
﹁まあそう母さんをいじめるな、篤仁。出不精で非社交的な母が出
てくるきっかけを作ってくれた白河様に感謝するとして、ここから
491
のもてなしで挽回させてもらおうじゃないか﹂
﹁優しい息子﹂
ポンポンとやりあう兄弟を順番に評した時緒様は、こちらに向き
直ってからほんのりと唇に笑みを添えて言った。
﹁二人とも、自慢の息子﹂
劇的な変化で、女帝然としていた彼女から瞬間まぎれもない母親
の愛がのぞいた。
白河家と様子は大きく異なるが、こんな形の家族もあるのか、と
再発見させられた気分だ。あたしの中での母親というイメージがぐ
ちゃぐちゃに壊されて美しく再編した。
すっかりファンになってしまいそう。
つい見とれていると、時緒様は優雅に身をひるがえした。
﹁さあ、いつまでもこんなところにいないで中へ行きましょう﹂
﹁あなたがそれを言いますか、母さん﹂
敬吾さんは別室に控えることになり、いよいよあたしの孤軍奮闘
が始まってしまった。真っ白なクロスに飾られたテーブルの両側に
向き合うように座り、冷たいアイスティーが振る舞われる。会話の
主体は博仁氏と当主様で、あたしたちは時折投げかけられる質問に
答える以外おとなしく座っているだけで済んだ。
そこまではよかった。だが、第二の修羅場はすぐそこに迫ってい
た。
﹁さて、そろそろ時間もころあいですな。昼食にいたしましょう﹂
うちの料理人はなかなかの腕ですよ、と冗談めかして言う博仁氏
と当主様はだいぶ打ち解けた様子だが。
492
ああ、しまった。いろいろなことに気を取られていてすっかり忘
れていたが、これはお食事会だ。つまり、食事をするのだ! 美月
様たちと、ましてや当主様や水音様、鷹津家の方々と!
トラウマスイッチが入ってしまうこの状況に、ただでさえなかっ
た食欲が一気にマイナスだ。しかしまったく手を付けないのも失礼
になる。ここは腹をくくるしかない。
平常心平常心、と自分に言い聞かせて食事の用意のあるテラスへ
移動している最中、先を歩いていた鷹津がわざわざ引き返してきた。
﹁美月さん、アキラさん。好き嫌いは?﹂
﹁ありません! なんでも食べます﹂
﹁⋮⋮いいえ﹂
いぶかしみながら答えると、鷹津はふふんと唇の端をあげた。
﹁ずいぶんおとなしいな。まあいい、好き嫌いがないのは結構。な
ら、アキラさんは別メニューだ﹂
﹁別メニュー?﹂
聞き返した美月様に、鷹津がひょいと肩をすくめた。
﹁ああ。メイン料理が鶏のソテーなんだが、俺はどうも豚で調理し
たほうが口に合うんだ。だからいつもワガママを言って豚にしても
らっている。それで今回もそのワガママを通そうとしたら一人分は
面倒だ、どうせなら二人分にしてくれとシェフに泣きつかれた﹂
﹁それなら、私が豚にしますっ﹂
﹁俺以外の人間はみんな鶏のほうがいいというんだ。美月さんには、
どうせなら評判のいいほうを食べてもらいたい﹂
﹁でも⋮⋮﹂
ちら、とあたしを見た美月様は、切ない表情で鷹津に訴えかける。
それなのに鷹津は無情に話を切り上げた。
﹁好き嫌いはないんだろう。先輩命令だ、アキラ﹂
小声で言ってから鷹津はすぐさま踵を返す。好き勝手に動くとこ
ろまで母親譲りか、と呆れていると、ぼそりと美月様が隣でつぶや
いた。
493
﹁⋮⋮いいなァ、アキラ﹂
何も言えないあたしは、無言で美月様の背中を押した。
前菜、サラダ、スープ、メイン、そしてデザート。今回はお昼と
いうこともあり、ハーフコースでメインは肉料理のみだ。次々に出
てくる料理で、向き合って座ったあたしと鷹津の皿のみが他の皿と
わずかに違う。それは盛られたテリーヌの種類だったり、ドレッシ
ングだったり、わずかだがはっきりと目に見える違い。
それを鷹津は鶏と豚の味の違いに合わせた変化だというが、おそ
らくはそうじゃない。
以前、生徒会室で差し出されたユズジュースを思い出す。
﹃いいか。これは誰かの残りものじゃあない。この俺が、お前のた
めだけに、用意したものだ﹄
あの時鷹津はこう言った。
これは、あたしのために出された料理なのだ。
そう思えば、あたしの腕はごく自然に動いて口に料理を運び、ゆ
っくりと味を確かめることができた。
満足げに注がれる鷹津の視線には気づかないフリをした。
食後のお茶までたっぷりと時間をかけて楽しんでいると、会話の
内容はだんだんと子どもたちへと移っていった。
鳳雛学園のこと、勉強のこと、それから鷹津との共通の話題であ
る生徒会のこと。
﹁生徒会はどうだい、美月さん﹂
﹁篤仁先輩のご指導を受けながらがんばっています﹂
﹁そうか。こいつはワガママだから大変だろう?﹂
﹁いいえ! 全校生徒から尊敬される立派な生徒会長です!﹂
力いっぱい否定した美月様に、博仁氏と実仁氏の顔が笑み崩れる。
﹁いい後輩を持ったな、篤仁﹂
494
﹁はい。彼女には日ごろ助けられています﹂
﹁わたしのときも、あなたのような優秀な補佐がいればよかったの
に﹂
二人とも生徒会長を務めた鷹津親子からの賞賛に、美月様はぽっ
と頬を頬紅以上に染めた。
﹁美月が生徒会に入ると聞いて心配していましたが、先輩に恵まれ
ました。篤仁くんは実に立派で、歴代生徒会長のなかでも飛びぬけ
て優秀だと評判です﹂
﹁ええ、美月ったら毎日はしゃいで篤仁くんのことを報告してまい
りますの﹂
お返しとばかりに当主様が鷹津を褒めると、実仁氏は照れること
なく受け止めた。
﹁ありがとうございます、兄として嬉しく思います。そうだ、アキ
ラさんは美月さんの補佐についていたと聞いたね﹂
﹁はい。ほんの一時でしたが。わたしにはとても務まりませんでし
た﹂
言い訳がましいことを言うと、それまで黙っていた時緒様がまた
もや空気を凍らせた。
﹁生徒会補佐には役不足かしら﹂
役不足。
与えられた役目が自分の手に余ること、とよく勘違いされるが、
この言葉は正しくはその役目が自分の力量と比べて軽すぎるという
不満の意味を指す。
﹁めっそうもありません。大役過ぎて﹂
﹁そうかしら。ねぇあなた、髪のサイドを編みこんではいかが。た
っぷりした髪だからそのほうがまとまると思うの。それとバレッタ
か、簪で飾ってみせて。失礼、どうぞお話を続けて﹂
どこまでも自由な時緒様は、言いたいことだけ言ってまたお茶を
飲み始める。びくびくと震えるあたしに、鷹津はたまらないと含み
495
笑いをしていた。
﹁あ、あのっ﹂
美月様は意を決したように、ぴっと背筋を伸ばした。
﹁わ、わたしはどうですか?﹂
﹁何かしら﹂
時緒様のまともな返答。おお、きちんとコミュニケーションがと
れている。さすが美月様。
﹁あの、アキラには服や髪のことアドバイスしていただけているの
で、わたしに何か不備はなかったかと、気になってしまって﹂
鷹津とよく似た鋭い目にさらされることを望んだ美月様は、カチ
コチと音がしそうなほどかしこまって椅子に座りなおした。
それを時緒様がじっと見つめる。レーザービームのような視線に
も目をそらさない美月様に、時緒様はゆっくり問いかけた。
﹁何を言ってほしいの﹂
﹁え?﹂
﹁目の保養。そういえるくらい可愛らしいと既に伝えたつもりです。
それでは足りない?﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁奥様の審美眼でそう言っていただけるなら嬉しいですわ。この子
ったらあまり服に感心がなくて、他にどんなものが似合うかご教授
願いたいわ﹂
助太刀に水音様がころころと笑いながら水を向けると、時緒様は
またゆっくりと首を横に振った。
﹁いいえ、お教えできることなんて何もありません﹂
﹁そんなご謙遜を。では、どんなお洋服をお召になってました? この子に合いそうなものは?﹂
食い下がる水音様をそっと当主様が手で押さえている。だが水音
様は引かない。あたしの分は用意していたくせに、と根に持ってい
496
らっしゃるのだ。
﹁小柄で愛らしいあなたのお嬢様には合わないものばかりですわ﹂
時緒様はためらいなく言い切った。これには水音様も二の句が継
げない。 表面的な受け答えは間違っていない。だがその答えの裏には徹底
した美月様への無関心が現れている。反面よほどあたしの第一印象
がみすぼらしかったのか。とにかく、あたしとの扱いの差が美月様
も水音様も気に入らないのだ。時緒様はそれがわかっているのかい
ないのか。
箱入り娘は数多見てきたが、ここまでぶっ飛んだ方は初めてだ。
時緒様って、鷹津でもっとも強くてもっとも危険な方なのではない
だろうか。
あたしは時緒さまに魅かれているが、もし白河のお身内にいらっ
しゃったらと思うとぞっとしないものがある。
﹁これ以上口をはさまれるとまた厄介なことになりそうだ。美月さ
ん、アキラさん、庭を散歩しませんか。夜と昼ではまた違った味わ
いがありますよ﹂
鷹津は席を立ってあたしたちを誘った。
﹁は、はい! ぜひ﹂
さっさと歩きだしてしまった鷹津の後を追い、美月様はあわてて
走っていった。あたしはテーブルに残った面々退席を願い一礼する。
女主人のように鷹揚にうなずいてみせた時緒様、ただでさえ白い
お顔を青に染めた水音様。
このお二方の対比が恐ろしかったが、なぜかそれより気にかかっ
たのは、修羅場第三弾だというのに平然としていた男性方の笑みだ
った。
497
悪魔と天使、鷹の巣へ︵後書き︶
ご意見・感想をお待ちしております。
498
悪魔と天使、それに大鷹の笑い話
﹁姉さん、日傘をさしたほうがよろしいのでは﹂
﹁いらない。大丈夫だよ、ちゃんと日焼け止めぬったから﹂
控えていた鷹津の使用人が差し出してくれた日傘に首を振り、美
月様は鷹津とそのまま庭園に出てしまった。
あたしは閉じたままの傘を一つ拝借し、二人並んで歩く後ろ姿を
少し遅れておいかける。
夜の庭園は月光を浴びて神秘的な静けさがあったが、今はセミの
声が聞こえて木々も生き生きしてみえた。
この庭園のメインは中央の噴水だ。水瓶を捧げた女性の像は時緒
様によく似ていた。
﹁篤仁先輩、この像のモデルって⋮⋮﹂
﹁祖父の道楽だ。父と二人して母の虜になっていたらしい、バカな
話だ﹂
﹁そんなことないです! ロマンチックで素敵です﹂
うっとりする美月様に、鷹津は真摯に謝った。
﹁先ほどは母が失礼した。あれは何年たっても治らない﹂
﹁いえ、私こそおしつけがましいこと言って恥ずかしいです﹂
美月様は恐縮したように身を縮めた。
﹁そんなことはありませんよ。アキラも、母の相手をさせて悪いな﹂
﹁いいえ﹂
﹁あの人は外見と口調で損をしているが、気難しい人ではない。好
きに振る舞ってくれて大丈夫だ。どうもお前が気に入ったらしい﹂
時緒様はちょっと怖いけれど、不快な方ではない。
499
﹁初めてお会いしましたが、あのご気性を含めてとても魅力的な方
だと思います﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
正直に言うと、鷹津はやわらかく微笑んだ。
﹁あの、お庭、本当に広いですね! どこまでも続いているみたい﹂
美月様はぐるっと噴水を周りながら鷹津によびかける。
いじらしいな、とまた思った。
標高の高いここからの景色は遠くの山まで見渡せて、庭の境界が
あいまいになっている。
きょろきょろと頭をめぐらせながら、美月様たちはしばらく散歩
を楽しんだ。ひらひらと舞う蝶を見つけた美月様が道を外れて追い
かけていると、不意に振り返った。
﹁篤仁先輩、あれは?﹂
何かに気づいた美月様が指で何かを指し示す。ここからでは何も
見えないが、鷹津にはそこにあるものがわかっていたようだ。
﹁⋮⋮あれはただの東屋です﹂
﹁あちらに行ってみませんか?﹂
﹁おもしろいものはありませんよ﹂
﹁ダメですか?﹂
美月様のおねだりに鷹津は束の間逡巡したが、﹁そういうのなら﹂
と美月様をエスコートした。
白い煉瓦つくりの小さな三角屋根は西洋風の庭園に溶け込んでい
たが、舗装された道から隠されていたことを考えると、景観をふま
えた設計からは外れているように思えた。
﹁かわいい!﹂
美月様は歓声をあげて中に入り、日陰の涼しさにほっと息をつい
ている。
﹁素敵ですね、こんなお庭があるなんて﹂
﹁小さいときはここを駆け回って遊んでいました﹂
500
﹁ふふっ﹂
笑う美月様の額にうっすら汗がにじんでいるのをみとめ、あたし
はバッグから出したハンカチを差し出した。
﹁姉さん、これを﹂
﹁ありがとう、アキラ﹂
鷹津は欄干にもたれて風を受けながらあたしたちを眺めている。
時緒様とまったく同じ、観察する目。
﹁いつまでそうしているつもりだ﹂
﹁え? なにがですか?﹂
美月様が問いかけるが、鷹津は答えにならないことを言った。
﹁美月さん、アキラはなぜ今日はおとなしいんでしょうね﹂
﹁あは、恥ずかしい。アキラったら本当はキッチリ振る舞えるのに、
普段はあんなに気の抜けた態度でいるから﹂
おかしい、と美月様は笑う。
﹁あたしはその場にあった態度をとってるだけだよ。臨機応変って
いってもらいたいね﹂
﹁減らず口∼﹂
﹁ごめんなさい﹂
美月様のからかいに、あたしの口元もほころんだ。
﹁姉さん、そろそろ戻らない? 喉が渇いたでしょう。帰りは日傘
をさしてって﹂
﹁あっ⋮⋮。でも、あとちょっとだけ﹂
美月様はとたんに挙動不審になり、深呼吸を繰り返した。
﹁姉さん?﹂
﹁あの、アキラ。お願い、先に戻っていてくれないかな。すぐ行く
から﹂
じっと熱をはらんだ目を向けられて、あたしは美月様がしようと
していることを理解した。
501
敬吾さんは、知らぬ存ぜぬを通せと教えた。
あたしは知らない。
美月様のお気持ちも、鷹津の望みも。
だけど本当にそれでいいのだろうか。
ためらうわずかの間に鷹津があたしを制した。
﹁アキラ、ここにいろ﹂
﹁会長⋮⋮﹂
﹁篤仁先輩っ。ごめんなさい、お話しがあるんです。聞いていただ
けませんか﹂
﹁それは今日兄たちが話し合っている内容についてですか﹂
鷹津は冷ややかに言った。
﹁今日の、話し合い?﹂
﹁俺の縁談についてです﹂
いよいよぶわっと顔を真っ赤にした美月様は、甘さをかけらも含
まない鷹津の声に気づいていない。
黙っていればいいものを、あたしは美月様が傷つくのが怖くて口
をはさんでしまった。
﹁会長、それは今ここで話すべきことでしょうか。なんのために当
主様たちが話し合っているのです﹂
﹁今ここでわかるか、後で知るかの違いはそんなに重要か? 俺の
口から直接伝えた方が美月さんも納得するだろう﹂
﹁教えて下さい。先輩から聞きたいんです﹂
勢い込んで聞く美月様に、あたしは不安しか感じなかった。
﹁姉さん、いったん戻りましょう。当主様たちを交えてお話ししま
しょう﹂
﹁お願い、篤仁先輩!﹂
もうあたしのことなどすっかり意識の外においやってしまったよ
うで、美月様は祈るような面持ちで鷹津を見つめていた。
やめてくれ。
502
﹁美月さん。今日わざわざ白河様をお呼びだてしたのには、理由が
あります﹂
やめて、お願い。
﹁俺はこの場で、結婚を前提に交際を申し込もうと思っていました。
その許可をいただきたかった﹂
﹁篤仁先輩⋮⋮っ!!﹂
今すぐ黙って。口を閉じて。
﹁先輩、私も、先輩のことが、﹂
﹁俺は、アキラを、明を妻に迎えたい﹂
︱︱︱︱︱︱︱︱ ああ。
美月様の笑顔が一瞬のうちに砕け散る。
﹁⋮⋮え? どう、いう意味﹂
﹁そのままだ。姉であるあなたにも、それを認めてほしい﹂
﹁アキラ? アキラって?﹂
﹁そうです。そこにいるあなたの妹、白河明だ﹂
あまりのことに情報処理が追いついていない美月様に、鷹津は一
音一音はっきりと伝えた。それは死刑宣告と同じだ。
美月様にとっても、あたしにとっても。
﹁どうして? なんで、アキラ?﹂
﹁明がいいんだ﹂
﹁なぜ? 篤仁先輩は、白河と、私と。先輩だって、私を生徒会に
入れてくれた﹂
カタカタと震えだした美月様は、今にも倒れそうになりながら言
い募る。
503
﹁あなたが優秀だったからだ﹂
﹁私のためにお菓子やジュースを用意してくれた﹂
﹁あれは生徒会役員全員にだ﹂
﹁パーティのときだって、いっしょにお散歩をした﹂
﹁あなたがそこにいたからだ﹂
﹁でも、でも、お母様は、私に縁談があるって言った﹂
美月様はひとつひとつの可能性を探っていく。
すこしでも自分を想ってくれていたんじゃないのか。好きでいて
くれたんじゃないのか、と。
しかし鷹津はすべてを否定した。
﹁いいや、あなたとの話は何も進んでいない。俺は、父にも兄にも
アキラとの縁談を進めてくれるよう頼んでいる﹂
﹁うそ⋮⋮。いや。やだ、やだやだやだ。そんなのやだ﹂
美月様はぎこちない動きであたしを見た。その瞳のあまりの絶望
の深さに胸がえぐられる。ハンカチは、美月様の手の中でぐしゃぐ
しゃになっていた。
﹁アキラ、そうなの?﹂
﹁違う﹂
乾ききった舌をなんとか動かし、あたしは言った。
﹁だって、先輩が﹂
﹁違う! 姉さん聞いてください! わたしは鷹津と婚約は絶対に
しません! そんな話根も葉もないウソだ!﹂
﹁これから根も葉もつける。俺は今、ここでお前に求婚しよう﹂
鷹津はもう猫をかぶるのはやめたようだ。
己の決定を貫こうと、あたしという雑草をふみにじる暴君だ。八
つ裂きにしてやりたい衝動にかられる。
﹁いいえ、受けません! わたしには関係がないことです﹂
﹁アキラ﹂
﹁わたしを信じてください。わたしは絶対にあなたを裏切らない!
504
信じてください、美月様!﹂
あたしは美月様の細い肩に触れようとした。
﹁ウソつき﹂
ぱん、と軽い音をたててはじかれる。
﹁アキラ、またとるんでしょう﹂
美月様の震えはとまっていた。
だが天使のような笑みは消え、幽鬼のように色をなくしてゆらり
と佇んでいる。
また、とる?
盗る?
行き場をなくしたあたしの手。
﹁アキラには、お父様もお母様もわけてあげたのに﹂
﹁美月様﹂
﹁おもちゃも、おかしも、わけてあげたのに﹂
﹁美月様﹂
﹁辰巳さんも、最初は私のだったのに﹂
﹁美月様っ﹂
﹁ぜんぶぜんぶ私のだったのに!!﹂
ガチガチと耳障りな音がする。セミの声じゃない。あたしの歯の
根がぶつかる音だ。
﹁篤仁先輩まで盗んでいくんだ。そうやって、ずっと私から盗って
いくんだ。私、好きだったのに。応援してくれるっていったのに﹂
﹁違う、違います﹂
﹁違わないよ、ウソつき、アキラのウソつき﹂
美月様が怒りと憎しみに歪んでいく。嘆きと痛みで崩れていく。
﹁ウソつきの妹なんていらない。私のものを盗っちゃう妹なんてい
らない﹂
﹁美月様﹂
505
﹁アキラなんて、いらない﹂
走り去るレモンイエローが遠ざかっていく。あっという間に小さ
くなって、まばたきの間にはもう消えていた。
笑いかけてくれなかった。
振り向いてもくれなかった。
アキラ、と呼んでくれなかった。
全身の血がどこかへ消えてしまったあたしは、支えをなくした人
形のようにその場に座り込んだ。
﹁明﹂
あたしの名前を呼ぶ人がいる。でも、それはあたしの望む人では
ない。
﹁⋮⋮お前のせいだ﹂
﹁明、しっかりしろ﹂
﹁⋮⋮⋮お前のせいだ!!﹂
あたしは傍らにしゃがみこんでこちらをのぞきこんだ相手の襟を、
思い切り力をこめてつかみあげた。
﹁お前が美月様にあんなことを言うから! お前があんなひどいこ
とをするから! だから姉さんは、美月様は、あたしを、わたしを、
ウソつきだって、いらないって⋮⋮!!﹂
ぼろっと目から熱い滴が落ちたかと思うと、あとは滝のように滂
沱と涙が流れ出る。
あたしは捨てられた。
白河アキラはもういらない。
河添明が白河明になった日、連れてこられた見知らぬ大きなお家
506
は、なんとはなしに怖かった。
そろいのお仕着せを着た人たちは、物腰は丁寧だがこちらを見て
はごしょごしょと言い合っている。手を引いてくれた男の人は氷み
たいに冷たい。新しいお父さんとお母さんとはろくに会話をしなか
ったし、これからも会うことはないという。そして一番偉い人だと
いう男の人と女の人は、ひどく難しい顔をしていた。
幼いからこその鋭敏な感覚が、自分は望まれざる人間なのだと悟
らせた。
今までのせまいマンションに戻りたかった。
﹁おとうさまーっ!﹂
たたたっと駆けてきた女の子は、自分と同じくらいの年の子だっ
た。勢いよく男の人に抱きつくと、ようやくこちらに気づいてきょ
とりと大きな目を瞬かせる。
﹁この子だァれ?﹂
﹁美月。この子はね、今日からお前のお友達になるんだよ﹂
﹁おともだち?﹂
﹁そう。いっしょに暮らすんだ。明という子だよ。仲良くできるね
?﹂
﹁いっしょに暮らすの? じゃあ、イモウト!? わたし、イモウ
トできたの!?﹂
﹁そうだね、妹みたいになかよく、かわいがってあげるんだ﹂
﹁やったァ! イモウトだァ! うれしい!!﹂
女の子は両手をあげて飛び回ると、にっこり笑ってこちらの手を
握りしめた。
﹁来てくれてありがとう! アキラ!﹂
﹁美月様だけがわたしに居場所をくれたのに。白河アキラの存在理
由をくれた人だったのに! もう、いらないって⋮⋮。わたしは、
507
美月様のものを奪い続けていたのか⋮⋮?﹂
あんなふうに思っていたなんて、ちっとも知らなかった。
わたしが美月様を苦しめていたなんて。
では、今まで妹と呼んで慈しんでくれたのも偽りだったのか。あ
の天使の微笑みも、偽りだったのか?
美月様を疑いたくなくて、わたしは感情をすべて憎しみに変えよ
うとした。そう、悪いのはすべてこの男。
鷹津篤仁だ。
﹁お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ!﹂
拳で目の前の厚い胸を叩く。それなのに、相手はびくともしなか
った。
﹁お前なんか、大っ嫌いだ⋮⋮﹂
頭がガンガンと痛む。泣きすぎて酸素がまわっていない。もう顔
は涙でぐちゃぐちゃで、暴れたせいで髪もほつれている。あまりに
もみじめな気分だった。
本当はわかっている。
鷹津は悪くない。
人を好きになるという感情は、損得だけでは動かない。
たまたま美月様が鷹津を好きになり、鷹津が美月様を好きになら
なかっただけ。
わたしの涙の理由はただのエゴ。
美月様から嫌われたことによる、自分の価値の喪失。
もう気力も尽きて、うなだれたまま鷹津の上質なシャツに爪をた
てることしかできなくなった時だ。
﹁く、ふふ⋮⋮﹂
頭上から漏れた笑い声に、わたしは茫然とする。
508
この男はどこまでわたしをバカにするのか。
美月様を苦しめ、白河をひっかきまわすだけで飽き足らず、今も
こうして貶めようとする。
生まれて初めて感じる明確な殺意という感情。それが暴発する寸
前、鷹津はぎゅうっと力いっぱいあたしを抱きしめた。
﹁お前はなんてかわいいんだ!﹂
﹁⋮⋮⋮は?﹂
﹁いつも取り澄ましている分、そうやって感情がむき出しになると
もっとかわいくなる。その原因が俺だというのか。かわいい、かわ
いい!﹂
ぐりぐりと頬ずりまでしてくるからたまらない。
わたしは目をぱちくりとさせて頭の回路を働かせようとした。
﹁は、離せ﹂
﹁イヤだ。泣くなら泣いていいぞ、ほら﹂
鷹津はとんとん、と子どもをあやすように背中をたたいてくる。
﹁お前の存在理由なんて俺がすぐに決めてやる。俺のそばにいて、
ずっと愛される。ほら、もう決まった﹂
﹁気味の悪いことを言うなっ!﹂
﹁お前は口が悪いな。それはどうも素のようだ﹂
ふふふ、となおも楽しそうな鷹津に、わたしは泣くのも忘れて鼻
をすすった。
﹁せっかくの二人きりだ、ちょっと話をしないか﹂
鷹津は、ぼさぼさになってしまったあたしの髪からピンをひきぬ
き、ばさりと解いてしまった。すると引っ張られていた頭皮がもど
って少し頭がすっきりする。さらにかいがいしく自分のハンカチで
わたしの顔をぬぐってくれた。
﹁話すことなんかない﹂
﹁いいや、たっぷりあるさ。まずはそうだな、お前の一人称は?﹂
509
﹁え?﹂
﹁明は、本当は自分を何と呼ぶ。﹃あたし﹄? ﹃わたし﹄? ﹃
わたくし﹄?﹂
﹁え?﹂
﹁それと口調。あの品のない口調より、どうも今のぶっきらぼうな
男言葉のほうがお前の本質のような気がする﹂
﹁え?﹂
﹁趣味は、好きな食べ物は、好きな遊びは?﹂
﹁ま、待ってください。なんのことかわからない。何がしたいんで
す﹂
﹁ん? そうか﹂
鷹津ははちみつよりも甘ったるい調子で言って、熱をとろうと腫
れたわたしの目元に手を当ててきた。
﹁俺の目的はな、お前の存在理由の破壊と再構築だよ﹂
﹁泣いているお前もかわいいが、やっぱり笑顔が見たいな。まずは
笑い話を聞かせてやろう﹂
東屋の影には水道がついていて、鷹津はそこで濡らしたハンカチ
を改めて差し出してきた。ベンチに座り、わたしはそれを目に押し
当てる。
﹁美月さんを追いかけて行っても意味はないぞ。なに、白河様たち
がなんとかしてくれるさ﹂
そう言って鷹津はわたしをこの東屋に留めさせた。
つい感情的になってしまったが、挽回のチャンスはあるはずだ。
ここは冷静になる必要がある。
﹁俺はな、鷹津家に生まれる時を間違った男なんだそうだ﹂
﹁⋮⋮時を間違った?﹂
﹁うん﹂
510
にこにこと笑う鷹津自身に陰りはない。だが、どう聞いたって楽
しい話題ではなかった。
﹁俺の兄は立派な人だ。あの人は、他者の言葉に耳を傾け、人の助
けを借り、周囲のために尽くすことができる人だ。あんなによくで
きた人間はいないよ﹂
﹁尊敬、されてるんですね﹂
﹁ああ、この世で一番な。年が離れていることもあって、兄さんは
俺に優しいんだ。俺が好き勝手できているのは、兄さんの庇護があ
るからだ。でも理由はそれだけじゃない﹂
﹁亡くなった祖父によく言われたよ。お前があと二代前に生まれて
いたら、自分を押しのけて鷹津の後継者になっていただろう、と﹂
﹁二代前⋮⋮。鷹津の成長期、ということか﹂
﹁話が早くて助かる、その通りだ。鷹津は祖父の代で急激に事業を
拡大し、今の地位を築く地盤を作った。しかし現在必要なのは拡大
ではない、安定なんだ﹂
革命家と呼ばれる人間は、一人でもその時代の奔流に負けない強
さを持っている。しかし一歩間違えればただの謀反人にすぎず、よ
り大きな力に潰される。
鷹津は間違いなく強者たる革命家になれる男だ。
﹁今の鷹津に革命はいらない。必要なのは兄のような人格者による
統合だ。俺は自分の才覚と、それののばし方を知っていた。だが、
それが今の鷹津に望まれるものではないこともわかってしまった。
むしろ俺の存在は兄さんの邪魔になる﹂
兄弟の不和による内部分裂はよく聞く話だ。
実仁氏をよく思わない連中が、弟を神輿にのせて兄を退陣させよ
うと画策するかもしれない、ということだ。
﹁俺が兄に勝っているとは思わない、持っている能力の方向性がま
るで逆だからな。でも火種はないに越したことはない。父は俺の成
511
人前に兄に跡目を継がせることでそれを表明した。次の後継者は兄
の子どもになるだろう﹂
鷹津のカリスマ性は本物だ。一度舞台に立てば、周囲の人間を巻
き込んで大きな波を起こす。しかし、わたしが再三思ってきたよう
に彼の資質は暴君のもの、周りとの協調、足並み合わせとは無縁だ。
そうなれば、鷹津家の懸念も考えすぎとは言い難い。
﹁俺は鷹津には不要な人間なんだ﹂
きっぱりと言った鷹津は、背負う国を失った王様みたいだ。これ
だけの才覚を持ち合わせながら、それを活かす立場に立つことがで
きないなんて。
﹁ははは、笑えるだろう! あれだけ俺は鷹津だ、と学園で振る舞
っておきながら、実質誰より鷹津から遠い人間なんだ。お前も笑っ
ていいぞ﹂
だが、鷹津にはあたしのような卑屈さがない。
﹁俺は自分の立場に満足している。自由を得た﹂
﹁自由って⋮⋮まさか、鷹津の放蕩息子っていうのは﹂
﹁そのまさかだ。俺は鷹津の継承権を放棄するかわりに、鷹津の絶
対の庇護と俺の行動の容認を約束させた﹂
鷹津の自信はここにあった。国こそ持たないが、彼は裸の王様で
はない。豪奢な衣装を整えるだけの支援はしっかり受けていたのだ。
﹁俺のワガママはなんでも通る。特に兄が叶えてくれるよ。⋮⋮た
ぶん、後ろめたさがあるんだろう﹂
そう思っているのは弟も同じのようだ。初めて鷹津の表情に曇り
が出た。
﹁縁談の話がでたときも、相手は絶対に俺自身で決めさせてもらお
うとワガママを発動した。文句は言わせない。文句が出たところで
放蕩息子のやることだから、で済ましてもらえるとは思っていたが
な﹂
512
ワガママ、か。
そこでふと、あたしは鷹津の経歴を思い起こしていた。
もともと奔放なところのある鷹津だが、﹃放蕩息子﹄と呼ばれる
ようになったのは高校二年の時の突然の留学がきっかけだ。名誉あ
る生徒会に属しながら、その役目を放棄した。生徒会のOB・OG
会で有力者の塊である鳳凰会から睨まれることは間違いない。
しかし、鷹津は決行した。
なおかつ絶妙なタイミングで学園に戻ると、会長職として生徒会
に返り咲き、鳳凰会の印象をくつがえすほどの高い評価を受けてい
る。
これは単なるワガママ、気まぐれなのだろうか。
﹁鷹津様。あの留学もワガママのうちですか﹂
﹁ああ、そうだ﹂
﹁縁談の話が初めて出たのは、高校二年の進級時では﹂
﹁⋮⋮そうだ﹂
間を挟んだ返答に、わたしは鷹津篤仁の人間性を見た。
ああ、やはり。
この人も家に縛られている。いくら自由を手にしたとうそぶいて
はみても、鷹津は家をないがしろにすることはできないのだ。
﹁あなたは無責任な留学を決行することで、﹃放蕩息子﹄と呼ばれ
るよう仕向けたんですね。そう印象付けたうえで、鷹津の評判を下
げないギリギリのタイミングで戻ってきた﹂
わたしの断定を鷹津は否定しなかった。
﹁ご結婚も、成人間近になったあなたを鷹津から遠ざけるために命
じられたのではありませんか。あなたのワガママは、自分で相手を
決めたいという一点のみ。それで受けるかもしれない非難を自分自
身に向けさせるために、鷹津家も手を焼く﹃放蕩息子﹄を演じたん
だ。そんな男なら、勝手に結婚して家を飛び出しても当然だって思
513
うだろうから﹂
鷹津は意外に長い睫を伏せ、おだやかな表情をしていた。いつも
の不遜で傲岸な態度はなく、今までで一番無防備な姿だ。
﹁ではなぜ、あなたはわざわざわたしを選んだんです﹂
﹁俺のことがそこまでわかるのに、なぜわからない﹂
鷹津は隣に座るわたしの手をとった。
﹁俺は鷹津に不要な人間。お前も白河に不要な人間﹂
手をつないだまま指でリズムをとった鷹津は、ぽつぽつと言った。
﹁お前の言うとおり、結婚相手を探す必要が出て俺は海外へ飛んだ。
ただ、鳳凰会なんぞ眼中にはなかった。ミツがいれば生徒会はなん
とでもなると信じていたし、圧力は父がどうとでもねじふせられる。
生徒会長になるつもりもなかった。ミツなら十分務められたものを
⋮⋮。まァ、そんなことはどうでもいいか﹂
﹁しばらく各国をうろついたが、実に楽しかった。誰も俺を鷹津だ
と知らない。ある程度の金とツテは頼らせてもらったが、あとは俺
だけの才覚で生活をした。大道芸もその時覚えて、小銭を稼いだも
のさ。それからイギリスの学校に腰を落ち着けた俺は、適当な相手
はいないか書面だけで探していた。鷹津が送ってよこした資料も含
まれていて、白河の名もその中にあった。もちろんメインは美月さ
んの情報だ。その隙間から明を見つけたときは震えたよ。必要とさ
れない、愚かと名高い良家の娘﹂
くくっと鷹津は笑う。
﹁中学までは地味でおとなしかった性格も、高校卒業とともにいき
なり派手に変化した。聞けば口調までガラリと変わったそうじゃな
いか。高校デビューを言い訳にするには無理があるぞ。調査を進め
させるとより興味がわいた。お前は俺と似ているのに全く違った。
だれの庇護も受けられない、ただただ踏み台にされる存在。そう思
ったら会いたくてたまらなくなった﹂
514
﹁そんなことで⋮⋮?﹂
﹁会ってみて確信した。お前は自分というものを確立できていない。
嗜好も、振る舞いも、言動も、感情も、すべてを白河に注いでいる
からだ。俺にさえ許されていることが、お前には許されていない﹂
間違っていはいない。
わたしは、自分の一人称でさえ定まらない半端者だ。
だが、しかし。
﹁わたしは不満に思っていません。憐れまれるのはごめんです﹂
鷹津は首を横に振った。
﹁憐れみとは少し違う。俺は、お前を連れ出したい。お前にいろい
ろなものを見せたい、その時のお前の反応が見たい。全部俺の欲求
だ。でも、このままじゃお前を連れ出せない。俺のワガママを通す
ためには、まずお前の凝り固まった白河信仰を打ち崩すしかなかっ
た﹂
いっそ優しいほどの話し方で、鷹津はゆっくりとわたしに言い聞
かせた。
﹁明、お前はお前の役目に誇りをもっているだろう。だがどうだ。
仕えるべき主人はお前を盗人扱いし、お前の存在を否定した﹂
﹁⋮⋮あれは、美月様も動揺して⋮⋮﹂
﹁それでも一度出た言葉は取り消せない。彼女はそんなルールもわ
かっていない。俺は、白河に明を置いていたくないよ。たとえ大っ
嫌いと言われようと、俺はお前を否定する﹂
わたしが鷹津を嫌う理由は、美月様に仕えるわたしの存在理由を
否定したからだ。
わたしが池ノ内や城澤の好意を気持ちよく受け入れられたのは、
彼らがわたしを認めてくれたからだ。
どうしたらいいのかわからない。
どう動くべきか、困った時はいつも敬吾さんに聞いていた。白河
515
のためにはどうするのが最善か。
なのに、鷹津は根底を覆すようなことばかり言う。
どうしたら、どうしたら。
﹁俺の行動のせいで、お前は白河にはいられなくなるだろう。これ
はお前にとっていい機会だと思う﹂
そうだ。わたしはもう戻れない。
美月様に会わす顔がない。
また震えだした体を、鷹津が腕をまわして支えた。
﹁⋮⋮白河にいられなくなることの、どこがいい機会なんだ﹂
﹁お前は客観的に自分を省みるべきだ。白河も、美月さんのことも﹂
﹁美月様のことを⋮⋮?﹂
﹁そうだ。そうすれば、今日の言葉が彼女の本心かどうかもわかる
だろう﹂
わたしを引き寄せた鷹津は言った。
﹁今すぐ俺の求婚を受け入れろとはいわない。今は、ただ白河から
お前を出したいんだ。安心しろ、俺と鷹津が明を守るよ。それから
お前の大事な従僕も引き抜いて、ちゃんとお前の側につけてやる。
まずはじっくり、自分がどういう人間なのかを知ることだ﹂
﹁鷹津様⋮⋮﹂
ぼんやりとする頭で、わたしはまた流れてきた涙をハンカチでお
さえた。
﹁あまり泣くな。荒療治が過ぎた、俺も反省している。まさか美月
さんがあそこまで俺のことを想ってくれているとは思わなかったん
だ﹂
珍しくもしおらしい鷹津の言葉に、わたしは小さく不満をもらし
た。
﹁知らなかったと? ⋮⋮ひどい、あんなにわかりやすかったのに﹂
﹁そうか? まさか、それで雨宮は怒っていたのか? 乙女心をな
516
んだと思っている、とかなんとか言っていた﹂
まさか鷹津は美月様の好意に本気で気づいていなかったのだろう
か。あの騎士道精神の女傑は、それで鷹津に敵意を燃やしていたの
か。
﹁ふふっ﹂
ハンカチの下から漏れ出た笑いに、鷹津は素早く反応した。
﹁笑ったか? いいぞ、もっと笑え。俺のことをバカにしてもあざ
けってもいいから、お前の本気の笑顔が見たい﹂
﹁どうして、そんなふうに思ってくださるんです。書面で知って、
本物を見て、どうしようと思ったんです﹂
﹁さんざん言った。妻にしたい﹂
﹁どうして妻にしたいんですか?﹂
﹁どうしてって⋮⋮﹂
きょとんと戸惑う鷹津は、なんだか幼く見える。
わたしは鷹津に問いかけながら、またもや時緒様と彼の共通点を
見つけてしまった。
﹁俺が、明を愛しているからだ﹂
彼もまた、説明が足りていない。
517
悪魔と天使、それに大鷹の笑い話︵後書き︶
長々と続いたこのお話も、あと一話で完結を予定しております。
どうぞ最後までお付き合いください。
ご意見・感想をお待ちしております。
518
存在理由
それからの話をする。
時間はちゃくちゃくと進む。
わたしは別れの準備を進めていた。
﹁これからマンション生活になりますが、俺がついていますのでご
安心くださいね﹂
﹁頼りにしています、辰巳﹂
離れを掃除しながら、辰巳は優しく笑った。
﹁その言葉使い、お小さいころを思い出します﹂
その指摘に、わたしはうーんと首をかしげる。
﹁では、少し砕けようか。﹃あたし﹄でいたときとの切り替えがう
まくいかなくて、どう話せばいいのかわからないんだ﹂
自分確立のための第一歩とわたしが決めたのは口調。とりあえず
一人称を﹃わたし﹄に設定し直し、相手に不快感を与えないよう頭
の悪そうな話し方を改める。
しかし、﹃ふつうのわたしの話し方﹄をわたしはすっかり忘れて
しまっていた。おかげで辰巳と話すのにも苦労する始末だ。
﹁明様の話しやすいようにすればいいんですよ﹂
﹁そうだな⋮⋮。難しいな⋮⋮﹂
﹁何事も慣れです﹂
﹁うん﹂
﹁大丈夫です。俺を相手に練習していきましょう。俺がずっと、ず
っとお側におりますから﹂
519
﹁うんっ﹂
じろじろと見られることにも、ざわざわと噂されるのも慣れてい
たはずだ。それなのに、学園の悪魔という鎧がなくなった途端心細
くなるのはなぜだろう。
しかし仕方のないことだ。わたしはそういう存在だったのだから。
学生手帳に記された通りの服装で、背筋を伸ばし、両足をそろえ
て教室の椅子にすわるわたしの姿に、クラスメートたちは遠巻きに
何が起こったのかと騒ぎ立てた。
朝のホームルームのために入ってきた担任教師に一瞬ざわめきが
おさまる。
﹁えー、ホームルームの前に⋮⋮。白河明さん﹂
﹁はい﹂
語尾を伸ばすでもない、あくびまじりでもない、歯切れの良いま
ともな返事をしたわたしに教師のほうがびくっと体をはねさせる。
気にしないように、と自分に言い聞かせながら、わたしは教室の
前の教壇側に立った。
﹁急なことですが、白河明さんは来学期から我が校の代表として隣
県の姉妹校に短期国内留学を行うことになりました﹂
えええっ、どういうことなんだ。
頭がおかしくなったのかな。
あの悪魔がいなくなるのか!?
やった、ついに追い出されるの!? でも鳳雛の代表だって⋮⋮
どよめきが教室中に広がる。
﹁先生のご紹介の通り、わたしは二学期からこの学園を離れます。
520
とはいえ二年生進級時にはまたお会いすることになると思いますの
で、その時はどうぞよろしくお願いいたします。短い間でしたが、
ありがとうございました﹂
すっと丁寧な仕草で腰をおってみせれば、教室の動揺は最高潮に
達した。ゆっくりと顔をあげてから、わたしはクラスメイト一人ひ
とりを睨み付けた。
﹁⋮⋮あのねぇ、あたしだってこれくらいできるの! あとさっき
喜んだヤツ、しっかりチェックしてるから覚えておけよ﹂
おもしろいほどピタッと静まり返る一年B組。 わたしは鳳雛学園のシステムにのっとり、二学期から鳳雛学園姉
妹校に短期国内留学をすることになった。
白河にも鳳雛学園にも居づらいだろうから、と勧めてくれたのは、
なんと鷹津ではなく当主様と敬吾さんだ。
その話を切り出されたのは、鷹津別邸からの帰りの車中のことだ
った。
手を引かれて庭園から戻ると、屋敷の中を通らずに鷹津はそのま
まわたしを玄関そばの車寄せまで連れて行った。
すでに車が用意されており、開いたままの後部座席のドア近くに
は、当主様が立っている。
﹁当主様、美月様は⋮⋮﹂
﹁水音と先に別の車で帰ったよ。ご挨拶は済ませたから、このまま
我々もお暇しよう。篤仁くん、本当にありがとう﹂
﹁またぜひいらしてください。お待ちしております。明、またな﹂
そう言ってするりと離れた鷹津の手に、わたしは急に不安になっ
た。きっと美月様から事の次第は聞いているはずだ。当主様がどれ
ほどお嘆きか⋮⋮。
521
﹁明、大丈夫だよ﹂
はっと顔をあげると、当主様は優しく微笑んでいた。何の心配も
いらない、とばかりに。
促されるままにわたしは後部座席に乗せられ、ゆったりとしては
いても車内の狭い空間に当主様と向き合う形になった。
すべるように走り出した車の中で、わたしが目をきょろきょろと
させていると、当主様は深く息をついてから言った。
﹁明。今までお前にはなにもしてあげられなかったね﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁本当に悪かった。辛かっただろう﹂
﹁と、当主様? 怒っていらっしゃらないのですか?﹂
﹁怒る? 何をだい﹂
﹁でも、美月様や水音様は⋮⋮﹂
当主様は横に首を振った。
﹁美月はちょっとショックが大きかったかもしれないが、仕方のな
いことだ。これがあの子の成長の糧になってくれればいいんだが﹂
当主様は落ち着いた態度を崩すことなくたんたんと言った。
﹁いったいどういう意味ですか?﹂
混乱するわたしをよそに、運転席の敬吾さんが衝撃的な発言をし
た。
﹁明さん。当主様はすべて知っておいでです。それどころか今日の
食事会は鷹津家もまきこんだ当主様のたくらみです﹂
﹁え?﹂
すべて、とは?
﹁安心おし。私は篤仁くんがお前を好きだということを知っている。
はじめからね﹂
﹁ええ?﹂
﹁まったく、当主様も人が悪い⋮⋮﹂
ぶわあっと吹いた氷交じりの敬吾さんの嫌味を、当主様はにっこ
りと笑って受け流した。
522
﹁パーティに明も連れてきてほしいと頼まれた時から、こうなるん
じゃないかと思っていたんだ。そして、私は篤仁くんがお前に向け
る好意を利用させてもらおうと考えた﹂
﹁利用?﹂
﹁ああ。明を白河から救ってくれるんじゃないかとね﹂
﹁白河につくすあまり、懸命になりすぎる明が昔から心配でならな
かったよ。でも、止められなかった。覚えているかな、一度言った
ことがあるんだよ、そんなにがんばらなくていい、と。そうしたら
お前はかつてないほど大泣きした。もうわたしはいらなくなってし
まったのか、ごめんなさい、もっとがんばりますからと謝りながら
泣いたんだ﹂
当主様は当時を思い出すように苦笑した。
﹁わたしが大泣き⋮⋮﹂
まったく記憶にない。
﹁胸が痛くて痛くて、もう何も言えなくなってしまった。特にあわ
てたのは敬吾だったよ。まだ小さいお前を抱きかかえながら、すみ
ませんでした、二度と言いませんから、と大騒ぎしながら頭を下げ
ていたものさ﹂
﹁当主様﹂
﹁いいじゃないか。泣かれるくらいならいっそ徹底的に鍛えてしま
おうとお前が明に厳しくなったのはそれからだろう﹂
﹁当主様!﹂
珍しく敬吾さんがあわてている様子を楽しむことなどできるはず
もなく、わたしは幼いころの失態を悔やんだ。
もしかして敬吾さんがすっごく厳しいのって、わたし自身のせい
だったのか?
﹁だがきちんと向き合うべきだったと後悔しているよ。がんばらな
くてもいいんだと、白河の一員なんだともっと伝えるべきだった。
その結果、イヤな役をすべて篤仁くんに押し付けてしまった﹂
523
当主様に頭を下げられると困ってしまう。わたしは謝られるよう
なことをされた覚えはまったくないのだから。
﹁⋮⋮やっぱり、わたし、白河の役に立てなかったんでしょうか。
ご迷惑でしたでしょうか﹂
うるっと目がぼやけてしまう。すると涙声に気づいたらしい敬吾
さんが早口で言った。
﹁勘違いしないでください。今の美月様があるのは明さんのおかげ
です。そうでなければ今までいじめや誘拐や非行といった被害を受
けていたでしょう。ただ、雛鳥も成長するときがきたということで
す。それはあなたも同じです﹂
﹁成長⋮⋮﹂
﹁今までの明さんだったら絶対にこんな話をしませんでした﹂
美月様のお側にいること。
美月様をあらゆる害から守ること。
美月様を盛り立てるための踏み台となること。
たしかに、わたしは美月様に自分の存在理由を見出し、それにす
がって生きてきた。鷹津に否定されただけで恐慌状態に陥ったわた
しだ、もし敬吾さんから﹁やりすぎだ、もう白河に仕えなくていい﹂
なんて言われたら卒倒していただろう。
﹁けれどあなたは鷹津様によって、白河へはじめて疑いの目を向け
ることができた。これは大きな変化です。正直、今まで何の疑問も
もたなかったことのほうが恐ろしいですが。ある意味美月様より素
直な子です﹂
﹁そう教えてきたのは敬吾さんのくせにィ⋮⋮﹂
とりなすように当主様は言った。
﹁敬吾は敬吾なりに明を大事に思っていたよ。篤仁くんは、情けな
い私たちに変わって明に白河以外の世界を見せようとしてくれたん
だ﹂
﹁でも、その結果美月様を深く傷つけてしまいました。水音様もご
524
不快でしたでしょうし﹂
﹁美月はね⋮⋮。あの子が篤仁くんに魅かれてしまうのは仕方のな
いことだ。私だって最初は美月の相手にふさわしいと考えていたん
だから。だが彼の気持ちはハッキリしていた﹂
聞けば当主様は、美月様に鷹津との縁談が進んでいないことを説
明していたという。だが水音様が聞こうとせず、美月様もそれを鵜
呑みにした。
﹁美月は自分に都合のいいことしか信じようとしなかった。わたし
が甘やかしすぎたせいで、あの子は何かを欲しがるという経験はほ
とんどないんだ。そのせいか、本当に欲しいものが手に入らなかっ
たとき、まるで明が奪ってしまったように感じたんだろう。それは
最初から美月のものなんかじゃなかったのに﹂
父親の顔になった当主様は、恥じ入っているようだった。
﹁水音は、もうどうしようもない。明が憎くてたまらないんだろう﹂
﹁当然です。わたしがどれだけご迷惑をかけたか﹂
仲睦まじいお二人にとって、わたしの存在は目障りでしかなかっ
たはずだ。
﹁いいや、違うよ明。水音が明を憎むことはね、わたしの愛を信じ
ていない、ということに他ならないんだよ﹂
当主様の愛を、信じていない?
その言い方に、わたしは自分の出生の恐ろしい秘密を知ってしま
った気がした。
﹁当主様、わたしは⋮⋮!!﹂
﹁事実はどうあれ、お前はもう白河の子だよ。それは変わらない。
あんなかたくなな女ですまないね。だが、私は水音も美月も愛して
いるんだよ。そして明、お前にも幸せになってほしい。そこで本当
は篤仁くんが明をさらってくれないか、と期待していたんだが⋮⋮﹂
﹁ごほん!﹂
わざとらしい咳払いが当主様の言葉をさえぎる。当主様は表情を
525
崩して肩をすくめた。
﹁この通り、敬吾に怒られてしまった﹂
﹁当たり前です。明さんにはまだ早すぎます。こんな未熟な女の子
にいきなり男を添わせようとしないでください﹂
﹁とはいえ、篤仁くんはいくらでも待つとのことだったよ。今日の
食事会は鷹津家を巻き込んだわたしと篤仁くんの計画だ。いきなり
で悪いことをしたが、こうでもしないとお前の鉄壁の忠誠心は崩せ
ないと彼に断言されてね。これは、甘やかし放題だった美月のため
でもある﹂
当主様の後をついで、敬吾さんが動揺するわたしに追い打ちをか
けるようなことを言い出した。
﹁そこで明さん、提案があります。しばらく白河を離れてはいかが
でしょう﹂
﹁⋮⋮出ていけとおっしゃるなら、その通りにします﹂
こう言われるとは思っていた。しかし、覚悟ができていたわけで
はない。わたしは震える声をなんとか抑えながら答えた。
しかし、敬吾さんは間髪入れずに説明を続けた。
﹁違います。鳳雛学園の正規システムである、姉妹校への短期留学
を申し込むのです。今のまま白河にいては水音様と美月様の目が痛
いでしょう。鳳雛でも、あなたの悪名は知れ渡りすぎている。一時
離れることがあなたにとっても、美月様にとっても最良かと思われ
ます﹂
わたしの学力ならまず問題なく試験にはパスするだろう、と敬吾
さんは言う。
﹁美月は明にひどいことを言って突き放したそうだね。明と離れる
ことで、どれほど自分が守られていたのかを美月は知らなければな
らない。明も白河の束縛から離れたところで、一度のびのびと過ご
してみてはどうだろう。もちろん全力で援助させてもらうよ。期間
は三か月から半年程度。鳳雛に戻ってくることを前提とした留学だ。
526
明には、自分と言う存在を白河抜きに考え直してみてもらいたい﹂
﹁でも、戻ったところで美月様は⋮⋮﹂
﹁明、激情をコントロールできない未熟者の娘のことはすまないと
思う。ただね、これはわかってほしい。美月はウソがへたで、偽る
ことができない子だ。お前を妹と呼んだことも、お前を愛している
ことも、間違いなく本心のはずだよ﹂
真摯なまなざしを向けられて、わたしは鷹津の言葉を思い出した。
自己の確立ができていない。
自分も白河も美月様も、客観的に見るべきだ。
もう一度美月様にちゃんと向き合いたい。
わたしを救ってくれたあの方に報いたい。
これは、そのために必要なことなのかもしれない。
﹁⋮⋮急にわたしが留学することになって白河に妙な噂はたたない
でしょうか﹂
﹁それは安心してください。あなたは学園の悪魔と呼ばれた女の子
でしょう﹂
はた、と言われて気が付いた。
わたしに不良少女を演じろと言ったのは敬吾さんだ。
美月様とのわかりやすい比較対象物をつくるためだと説明されて
いたが、これってもしかして⋮⋮。
﹁白河も手に余すじゃじゃ馬娘がまた好き勝手やりだした。もしあ
なたがこれからどう自由に生きようが、そう思われるだけですよ。
白河から離れても、学園を出て行っても、誰かと恋に落ちても﹂
これは、鷹津がやった﹃放蕩息子作戦﹄と同じではないか。
﹁敬吾はね、ずっと明を白河から飛び立たせる機会をうかがってい
たんだよ﹂
﹁どうして? いつから?﹂
いったいどこからどこまでが計算だったのだろうか。さっき、当
527
主様の計画は知らなかったって言ったのに!
﹁それがわかれば一人前です。本当は高校卒業までに少しずつ美月
様と距離を置かせて、独り立ちさせるつもりでしたが⋮⋮﹂
白河で逆らってはいけない怖い人で、常にわたしの行く道を照ら
してくれる絶対の指導者。敬吾さんはいつもこうしてわたしを助け
てくれる。
そこでふと思った。
白河から離れる。つまり、それは敬吾さんとも。
﹁わたし、敬吾さんの指示なしじゃ動けません﹂
ぽろりとこぼれてしまったのは本心だ。わたしの精神的な拠り所
は美月様だが、実際に支えてくれていたのは辰巳と敬吾さんだ。
﹁怖いです﹂
そんなわたしの訴えを敬吾さんは鼻で笑った。
﹁バカなこと言わないでください。そういう面も含めてあなたは成
長する必要があります。ただし、むこうへ行っても毎日定期連絡を
してもらいますよ。未成年のあなたの保護者は白河なんですから﹂
げんきんなもので、わたしはそれを聞いて心底ほっとした。
﹁じゃあ、困った時は敬吾さんにどうすれば聞いていいんですか﹂
﹁まずは自分で考えてください。ですが、報告の際に考えながら話
すのはかまいません﹂
当然だが、前を向いて運転をしている敬吾さんの表情は見えない。
冷気も幾分抑え気味だ。それをいいことに、わたしは調子のいいこ
とを言わせてもらう。
﹁自分を見つめなおして、得るものがあったら。敬吾さんといっし
ょに、白河にまた仕えたいと思ったら、戻ってきてもいいんですか﹂
ふ、と敬吾さんの発する冷気が止まる。
﹁⋮⋮当たり前です﹂
コホン、と咳払いした敬吾さんはそれきり黙って運転に集中して
しまった。とたんにぶわっと吹き荒れたブリザードは、敬吾さんな
528
りの照れ隠しなのかもしれない。
当主様の含み笑いだけが車内にぬくもりを与えていた。
クラスでのあいさつを済ませると、わたしは今までお世話になっ
た人たちのもとへ足を運んだ。
いわゆる謝罪行脚だ。
学園の悪魔を見捨てず、わたしという本質を探ろうとしてくれた
稀有な人。
わたしのやり方がおもしろい、と興味をもってくれた人。
なんだかんだと世話をやいてくれた人。
﹁うん、服装、態度、持ち物、何一つ問題ない﹂
﹁ありがとうございます。城澤先輩にはご迷惑をおかけしました﹂
城澤の前では特に傍若無人の女の子を演じていた。今更こんな態
度をとるのは気恥ずかしいが、よそよそしすぎない適度に礼儀正し
い振る舞いがわからない。一番簡単なのは生徒手帳に書いてある通
りにすることだった。
満足そうな城澤と対照的に、風紀室のソファもすっかり慣れたと
みえる東条はあきれてため息をついた。
﹁しっかし、化けるなァお前。模範生そのものだな﹂
﹁ありがと、東条センパイ。ほめたついでに飴ちょうだーい﹂
﹁そのカッコでそれやるなよ﹂
わたしと東条のやり取りに微笑んでから、城澤はトレードマーク
である眉間のしわを浮かべた。
﹁しかしそうか⋮⋮。留学か﹂
﹁はい﹂
529
﹁さみしくなるな﹂
しんみりと言う城澤に、わたしも寂しさを覚えてしまう。そこへ、
ぽんと明るい声が飛んだ。
﹁何言ってるんですか、隆俊さん。姉妹校ってあそこでしょ、車で
小一時間の距離じゃない。いくらでも会いに行けますよ﹂
松島はわたしの姿をしげしげと眺めて、ずいぶん変わるものだ、
と感心していた。
﹁それにもうすぐ夏休みだよ。遊びに行きましょうよ﹂
﹁伊知郎⋮⋮。そうだな、いい考えだ﹂
﹁あ、あそびに外へ⋮⋮? わたし、そういうのやったことない﹂
そわそわしだしたわたしに、松島はまかせてくれと薄い胸をはる。
﹁安心してよ、隆俊さんと二人っきりにはさせないからさ。女の子
も誘うよ。えっと男は僕と隆俊さんと東条先輩で三人だからー、白
河さんと僕の彼女と彼女の友達呼んでー⋮⋮﹂
﹁ちょっと待て、彼女だと?﹂
共犯的な意識で親しくなった人。
一途な思いで自分の信念を貫こうとした人。
美しい花を愛でようとした人。
同じ境遇にあるわたしを見守ろうとしてくれた人。
﹁今まで通り電話するからね、無視しないでくれよ。君の話も聞く
からね﹂
﹁はいはい、雀野先輩。わたしがいない間、少しは強くなってくだ
さいね﹂
﹁わかっている。篤仁に対しては無敵だよ、君がいるからね﹂
にやりと笑う雀野は実に楽しげだ。美月様を狙う強力なライバル
が減ったことで心労が減ったのだろうか。
﹁だけど会長も趣味悪いよねー、こんなのがいいなんてさ! ま、
530
オレはこのチャンスを逃さず美月ちゃん狙っていくけどね。ようや
くトゲとりがすんで会長のおかげで一皮むけた。美月ちゃんはこれ
からもっときれいになるよ⋮⋮﹂
美月様をなんだと思っているのか。うっとりとする初瀬に制裁を
与えてくれたのは、美しきナイトだった。
﹁その前に私を倒すことね、初瀬君﹂
﹁わっ﹂
ずいっと顔の横に突き付けられた竹刀に、初瀬は情けない声をあ
げた。だが雨宮は意に介さず、わたしをジロっと睨み付けた。
﹁美月さんを泣かせるなって言ったばかりだというのに﹂
﹁申し訳ありません。対処できかねました﹂
弁明のしようがなく謝ると、雨宮はぐっと言葉に詰まる。
﹁そんなふうに素直になられちゃ文句もいえないじゃない⋮⋮。い
いの、悪いのはぜーんぶ鷹津君だから。今度道場へひきずっていっ
て、鍛えなおしてやるわ﹂
﹁雨宮、がんばれ﹂
意気込む雨宮とちゃっかり応援する雀野に、わたしも思わず笑っ
てしまった。
﹁あーきら﹂
﹁はい、池ノ内先輩﹂
つんつんと肩をつつかれて振り返ると、池ノ内が口元にクッキー
を差し出してきた。ちょっと迷ってから、わたしはそれをぱくりと
くわえる。
﹁がむしゃらにがんばるだけじゃなくてもいいよな。⋮⋮俺はお前
のこと追いつめちゃったかな﹂
池ノ内は少しだけ切なそうに言った。わたしと似た立場にあった
池ノ内は、わたしの決意に何を見たのだろう。
﹁いいえ。わたしは、先輩に﹃あたし﹄のことを認めてもらえてう
れしかった。ただ﹃あたし﹄のやり方では美月様とうまくいかなか
ったというだけです。⋮⋮もし先輩が疲れたら言ってください。力
531
になりたい﹂
そう告げると、池ノ内はニカッと笑ってわたしの頭をぐしゃぐし
ゃになでた。
﹁ちゃんと戻ってこいよな。あとたまにこっちにも来いよ、おやつ
用意して待ってるから。がんばってこい!﹂
﹁はいっ﹂
美月様を親友と呼び、わたしがいない間美月様を支えてくれるで
あろう人。
﹁美月ちゃんはこれで三日も学校休んでるわ﹂
﹁うちの厳しいお目付け役が失恋休暇は今週いっぱいと定めました
から、来週には来ますよ﹂
﹁⋮⋮あなた、だいぶ印象変ったわね﹂
﹁模索中なんですけどね﹂
ふうん、と興味なさげにあいづちをうった上都賀さんは、空席の
美月様の机に手を置いた。
﹁美月ちゃんの失恋、か。信じられないけどそうなのね。いいわ、
そこは親友たる私が慰める場面だもの﹂
﹁頼りにしています。わたしはしばらくこの学園から離れるので⋮
⋮。姉をよろしくお願いいたします﹂
﹁任せて。⋮⋮えっと、それで、たまにどんな様子か報告もしたい
と思うのだけど﹂
おもむろにスマートフォンを取り出した上都賀さんは、ちらちら
とあたしを見ながら言った。
﹁え? あ、はい。よろしければ姉の世話役の連絡先をお教えしま
すが﹂
﹁違うわよ! あ、あなたに直接知らせてあげたいって言っている
の! いいから電話番号とメールアドレス教えなさいよ!﹂
532
上都賀さんはこけしみたいに可愛らしい顔を真っ赤に染める。だ
が、わたしの耳が一気に熱くなったことを考えると、たぶんわたし
も負けずに真っ赤だ。
﹁本当に!? いいんですか、これからメールとか、お話しとか、
してもいいんですかっ。あの、よかったらお外にお出かけしたりと
か、お茶したりとか、ぜひ一緒にしていただきたいんですけど⋮⋮
!!﹂
﹁な、なんなのよ、性格変わりすぎなのよ! 別に美月ちゃんとの
仲取り持ってあげようとか思っていないんだからね!﹂
それから忘れてはいけないのが、﹃あたし﹄が傷つけてきたたく
さんの人。
きっと顔も見たくないと思っている人が大半なので、ここは得意
の手紙による謝罪をさせてもらった。
今なら想いが届かなかった人の切なさ、辛さが美月様を通してわ
かる。一人ひとり、自分の手で手紙を書いた。
そのおかげかはわからないが、今まではすれ違うたびに嫌悪感を
あらわにしていた男子生徒の一人の態度が少し変わった。不思議そ
うな、何かを考えるような目を向けてくる。
彼は、いつか理科実験室で燃やした美月様宛てのラブレターの送
り主だった。
そして、美月様に深い傷を負わせ、わたしを崩壊させたひどい人。
わたしに契機をくれた人。
﹁美月様はまだお部屋にこもって会ってくださらない。水音様は当
主様に八つ当たり﹂
533
﹁そうか﹂
﹁全部あなたのせいです﹂
﹁お前にたいしてなら責任をとってやる。美月さんについては気に
するな。白河様は穏やかな風体をしていてもなかなかのやり手だ﹂
まったく、この不遜な物言いときたら。鷹津はふんぞり返って会
長の椅子に座っていた。
暮れていく夕日がまぶしい。すでに他の生徒会役員は帰宅の途に
つき、この部屋にはわたしたちしか残っていない。
鷹津は少しばかり気まり悪そうにためらったあと、そっぽを向き
ながら言った。
﹁母が、お前に似合いそうな髪留めを用意したから本邸に遊びに来
い言っている。今度こそ着せ替え遊びをしたいようなんだが、なん
とか都合をつけてもらえないだろうか﹂
案外母親想いのやさしい息子だ。
﹁さすがの鷹津様もお母様には弱いようですね。わたしでよければ
いつでも伺う、とお伝えください﹂
時緒様は、ある意味わたしのあこがれの母親像となっている。ぜ
ひともまたお会いしたい。社交辞令でなくそういうと、鷹津はほっ
としたように息をついた。
﹁助かる。あの人はとことん人付き合いが苦手でろくに友人もいな
いんだ。適当でいいから相手をしてやってくれ﹂
﹁はい﹂
﹁それにしても留学か。白河様も考えるな⋮⋮。お前さえ首を縦に
ふれば、いっしょに海外留学しようと思うんだが、どうだ﹂
﹁雀野副会長が怒りますよ﹂
雀野の名前が出たとたん、鷹津はむうっと不満げにうなる。
﹁そうなんだ。ミツが、今度は絶対に逃がさないから、と息巻いて
いる。やはり会長になるんじゃなかった⋮⋮。おい明、向こうで浮
気なんて考えるなよ﹂
こちらを猛禽類の目で見据える鷹津に、わたしはにっこりと微笑
534
んで反撃した。
﹁浮気なんて、そんな﹂
﹁当たり前だ﹂
﹁まだ本命もいないのに﹂
﹁なんだと?﹂
顔色を変えた鷹津をせせら笑う。
﹁おっしゃいましたよね、まだ求婚に答える必要はない、と﹂
﹁おい、言うには言ったが⋮⋮﹂
﹁おっしゃいましたよね、愛されることが存在理由になる、と。自
分をかえりみて最近わかったことがあるんです﹂
ちなみにそのときのわたしの笑顔は、学園の悪魔の衣装を脱ぎ捨
ててから一番の出来栄えだったと自負している。
傲岸不遜、唯我独尊の鷹津を赤面させ茫然と見惚れさせるくらい
には。
﹁︱︱︱︱︱わたし、実はけっこうモテるんです﹂
自分が愛する人の側で、愛する人を守り、愛する人に愛される。
それが、わたしの目指す存在理由だ。
535
存在理由︵後書き︶
以上をもちまして﹃偽り悪魔の存在理由﹄完結です。
長い間おつきあいいただき、ありがとうございました。
たくさんのご意見、感想に励まされ、なんとか書き上げることがで
きました。
皆様のご協力なしには完成しなかったろうな、としみじみ思います。
また、番外編を望んでくださる方がいらっしゃって嬉しいばかりで
す。入れられなかったエピソードや思い浮かんでいる小話もあるの
で、ちょこちょこと出していきたいと考えております。
その時はどうぞまた覗きに来てください。お待ちしております。
本当にありがとうございました!
ご意見、感想をお待ちしております。
完結に際し、ここでこっそり一人反省会を。読む方によってはいや
な気持になるかもしれません。お気を付けください。
いってしまえば主人公はまだ救われていません。むしろ前よりひ
どい目にあっているかも。留学だって白河が強引に勧めた感があり
ますし、ともすると体よく邪魔な主人公が追い出されただけに見え
ます。ハッピーエンドのような終わり方なのは、これが主人公の一
536
人称で進んだお話だからです。白河を悪く思うはずがありません。
なんだかんだいってもまだ主人公は熱烈な白河信者のままですから。
ただ、主人公は白河を離れる決意をしたことで自分の心の問題と
決着をつけました。
この物語は、起承転結のうちの大きな﹁転﹂を描こうと決めてい
ました。﹁結﹂はまだまだ先で、﹁わたしたちの冒険はまだ始まっ
たばかり!﹂状態です。幸せめざして突っ走ってもらいたいところ
です。
しかし書き上げてみると、これじゃ見方によれば白河悪役みたい、
美月はこのままなのか、と心配な点が出てきてしまいました。
そこは番外編でなんとか弁解したいと思っています⋮⋮。本編で
説明できてこそ、だとは思うのですが、作者の技量不足でした。
言い訳がましいことをツラツラと失礼いたしました。
番外編もおつきあいいただけたら幸いです。
537
番外編 鋼の男、苦悩する︵前書き︶
※ 本編終了後のお話になります。ご注意ください。
538
番外編 鋼の男、苦悩する
しろさわ たかとし
常に五分前行動を心掛けている城澤隆俊であるが、気づけば今日
は約束の三十分前に待ち合わせ場所に着いてしまっていた。
平日の昼日中とはいえ、駅前は夏休みを迎えた学生たちであふれ
かえっている。これでは目印としていた駅前広場のモニュメント前
でうまく落ち合えるか心配だ。
友人と出かけるのは初めてだと言っていたあの子は大丈夫なのだ
ろうか。
落ち着きなく腕時計を確認するが針が早く進むわけもなく、隆俊
はそんな自分に呆れてため息をついた。
照りつける熱光線にとろけそうだ。せめてあと十分ほどはコンビ
ニかどこかで涼を取ろう。そう思い適当な場所はないかとあたりを
見回すと、周囲から頭一つとびぬけた身長を持つ彼の目に思わぬも
のが飛び込んできた。
﹁⋮⋮明くん?﹂
駅の改札付近で隆俊以上にきょろきょろと落ち着かない様子の少
女。
白いブラウスと青地に白い格子模様の膝丈スカート姿は、着崩し
た制服を見慣れた隆俊には非常に新鮮で、日差しよりよほどまぶし
いものに映った。
﹁明くん﹂
﹁あっ﹂
人ごみをかきわけて彼女の肩をたたくと、少女はパッとこちらを
振り向いた。
﹁よかった、会えるか不安だったんです﹂
539
﹁早かったんだな﹂
﹁楽しみで、つい﹂
しらかわ あきら
少女 ︱︱︱︱︱︱︱︱ 白河明は、恥ずかしそうにはにかんだ。
﹁城澤先輩と会えてよかった﹂
彼女がこうしてなんのてらいもなく微笑むようになったのは、ご
く最近だ。
隆俊にとって、明は実に不可解な存在だった。
だらしない格好を平気でさらし、恥ずかしげもなく無礼を働くそ
の姿は、良家の人間が集う鳳雛学園ではとびぬけて浮いていた。さ
かのぼれば平安までたどれるほどの名家の血をひく娘だというのに、
そのふるまいは一般市民にも劣るものだった。また明の場合は優秀
な姉がいたことが災いし、入学当初から﹃名家白河の搾りかす﹄と
陰口を叩かれ、一か月もすれば﹃学園の悪魔﹄と呼ばれるまでにな
ってしまった。
風紀委員長として黙っていられるはずもない。
だが実際に対峙してみると、隆俊はどうしても違和感を覚えてな
らなかった。
明は決して愚鈍で不出来な不良生徒ではない。むしろ頭の回転が
はやく、周囲の状況や自分への評価を正確に把握しているような節
があった。
彼女は何もかも知った上で、あえて﹃学園の悪魔﹄の汚名を受け
入れている。
どれだけ侮辱されようと、どれだけ嫌われようと、まったくブレ
ることなく意志を貫く背筋の伸びた後ろ姿は、決して卑屈なもので
はなかった。
それに気づいてしまえば、隆俊は明を目で追うのをやめられなか
540
った。嫌がられるとわかっていながら生活指導の名目で声をかけ、
接触せずにはいられない。そんな隆俊を周囲は﹁さすが城澤風紀委
員長﹂と高く評価したが、実のところそんなまっとうな理由はない。
ただ、なんとなく放っておけなかっただけだ。
﹁それにしてもさすがに早かったですね。混んでいますし、みなさ
んは大丈夫でしょうか﹂
そう言って腕時計に目を落とす明を見ていたら、隆俊の口は意識
しないまま勝手に動いていた。
﹁敬語はいらない﹂
﹁え?﹂
しまった。そう思っても、一度出た言葉は取り消せない。隆俊は
眉間にしわを寄せ、早口に弁明した。
﹁いや、ここは学外で、しかも休日に遊びにいくところだ。かしこ
まる必要はないだろう﹂
﹁前はきちんと敬称をつけろ、と⋮⋮﹂
﹁呼び捨てはやめなさいと言ったんだ。以前の明くんの話し方から
すれば、それだけで十分な進歩だ。あとは好きに話せばいい﹂
なにを言っているんだ、俺は。言い訳にもなっていない。
あまりの情けなさに落ち込みそうになるが、驚いたことに明はホ
っと肩から力を抜いていた。
﹁そう言ってもらえると助かる。フランクな話し方と丁寧語のうま
い境界線を計りかねているところで、ぜひ実験台になってもらいた
いんだ。不快に思ったら言ってほしい。よろしく、城澤先輩﹂
﹁ああ﹂
さくさくと歯切れの良い口調で言われて、隆俊は自分こそホッと
541
していることに気が付いた。かねてより注意してきた言葉遣いだっ
たが、いざ丁寧な口調になると他人行儀な距離感が生まれてしまう。
それがいやだったのだ。
﹁緊張してきた。ちゃんとお話しできるかな。わたしは変じゃない
?﹂
﹁大丈夫だ。伊知郎の恋人は穏やかな子だし、きっと気が合う﹂
また時計を見てソワソワし始めた明に、鉄仮面と呼ばれていたは
ずの隆俊の口元は自然とゆるんでしまう。こんな様子の彼女なら、
ずっと見ていても飽きそうにない。
だからだろうか。
﹁お待たせしましたーっ、隆俊さーんっ、白河さーんっ!﹂
しずか
な
幼馴染が自分を呼ぶ声が、今日に限ってはひどくうっとうしいも
のに感じた。
﹁このボタンを押すの?﹂
﹁そうそう、それでクレーンを動かすのよ﹂
まつしま いちろう
﹁アームがぱかって開くから、それで景品をひっかけるんだ﹂
お
隆俊の幼馴染である松島伊知郎の恋人静香、彼女の友人である奈
緒は近隣の私立女子高に通っている。歴史も格式もある名門校であ
る。しかし通う本人たちいわく、この一帯の本当のお嬢様はみな鳳
雛学園へ行くため、一般家庭の女の子ばかりが集まった気楽な学校
という話だ。実際二人は富裕層には入るものの、特別な肩書きは持
ち合わせていない家の出だ。
悪魔だの白河だのという先入観がないことも幸いしてか、二人は
ガチガチになっている明をやさしく受け入れ、﹃お嬢様に庶民の遊
びを教えよう!﹄と息巻いていた。おそらくは要領のいい伊知郎が、
彼女たちに何か言い含めておいたのだろう。
542
今も明をはさんだ二人はUFOキャッチャーの前に陣取り、初め
てだという彼女に熱心な指導を行っている。
﹁テレビで見たことあるけど、難しいの?﹂
﹁そうねぇ⋮⋮。イチくん、お手本みせて﹂
素朴な疑問を浮かべた明に、静香はドングリ眼をいたずらっぽく
染めて恋人を振り返った。
﹁えぇ、ぼく? あんまりうまくないんだよなァ。それより白河さ
ん、あっちのカーレースやらない? あれは得意なんだけど﹂
﹁だァめ、まずはこっち! あの猫のぬいぐるみカワイイ!﹂
小柄な伊知郎と静香はよくつり合いがとれていて、並ぶとひな人
形のように微笑ましい。奈緒と明もそう思ったようで、
﹁伊知郎くん、静香と明ちゃんにカッコいいとこ見せてあげな﹂
﹁松島、がんばれ﹂
と冷やかしまじりの応援を投げかける。
華やかな声援に、伊知郎は覚悟を決めたとばかりにコインを高く
掲げた。
﹁⋮⋮よし、わかった。やるよ!﹂
﹁がんばれイチくん!﹂
﹁まず様子見で百円ね﹂
﹁最初っから弱気じゃない!﹂
夫婦漫才のようなやり取りに苦笑しつつ、奈緒はショートカット
の髪をゆらして言った。
﹁この二人、いっつもこんななんだよ。でも害はないから。いざと
なったらあたしがあのぬいぐるみとってあげる﹂
﹁頼りにしてる。ありがとう﹂
﹁まかせて!﹂
胸をはってみせる奈緒に、明はにっこりと笑顔をみせていた。
543
隆俊の知る学園の中での明は、いつも不遜な笑みを浮かべていた。
小馬鹿にするように形の良い唇の端を上げ、そのくせ大きな目は常
に対峙する相手を観察している。
その理由を知ったのは明の留学が決定した後のこと、情報通の伊
知郎が白河の複雑な事情を少しだけ教えてくれた。彼女は姉のため、
家のために、愚直なほど一途に己の役割を果たそうとしていたのだ。
自分を殺して主君に尽くす姿勢は、忠義の武士であったという城
澤家の祖と通ずるものがある。だがそれが褒められたことなのかは
隆俊にはわからなかった。
年端のいかない女の子が、あんなふうにしか笑えない環境に置か
れていたなんて。そんなことが許されていいのか。
隆俊がそう思ったところですべては遅かった。
今、明はあんなふうにきれいに微笑んでいる。
﹁おい、見すぎだろ﹂
﹁見ていない﹂
不意に後ろから声をかけられ、隆俊は驚く前に意味のない否定を
していた。自分の行動を見られていた羞恥をみじんも外に出さずに、
遅刻してきた相手をじろりと睨み付ける。
﹁東条くんか。遅いぞ、何をしていた﹂
﹁寝てた﹂
とうじょう あきひこ
だぼっとしたカーゴパンツにサンダル履きという気の抜けた格好
ながら、東条彰彦は独特の雰囲気をもって周囲を威圧していた。お
かげで騒がしく込み合うゲームセンター内であっても、二人の周り
にはわずかに空間が生まれている。
﹁で、なんでお前はあっち行かねぇの﹂
東条はあごでUFOキャッチャーのほうを指す。伊知郎が奮闘し
544
ているが、結果は芳しいものではない様子だ。だが、やはり気にな
るのは明だ。
﹁いや、ちょっと﹂
﹁ちょっとじゃねーよ、ハッキリ言え﹂
はたからは不良が難癖をつけているようにしか見えない状況だが、
当の本人はいたって真面目で、しかも隆俊は彼に対して恐れや嫌悪
感を持っていない。むしろ、どういうわけか話しやすい相手だとさ
え思っていた。気づけば本音をぽつりと漏らしてしまうくらいに。
﹁⋮⋮あの笑顔を引き出したのは、俺じゃないんだと痛感していた﹂
﹁あ?﹂
﹁明くんは強いな。俺は彼女の力になりたかった。守ってやりたい
と言ったのに、結局なにもできないまま彼女は一人で進んで行って、
何か答えをみつけたようだ。俺は何もできなかった。⋮⋮何も﹂
そんな告白を、彰彦はチッと大きく舌うちすることで一蹴した。
﹁ばかかよ﹂
﹁なんだと﹂
﹁お前守ってやりたいって言ったんだろ。なら投げてんじゃねーよ﹂
﹁投げるだと?﹂
その言いぐさが気に入らなかった。隆俊は有言実行を心掛けてい
たし、だからこそ明の力になれなかったことを悔いているのだ。
睨む目により力を込めたが、彰彦は負けないくらい凄みをきかせ
た目で迎え撃ってきた。
﹁あいつが笑ってるだァ? それで終わりかよ。あいつはな、周り
の機微には敏感なくせに肝心の自分のことは二の次三の次にしてや
がる。鈍すぎるんだよ。⋮⋮いや、あえてそうしてんのかもわかん
ねーけど﹂
あー、とうめき声をあげながら、彰彦は言葉を探す。
﹁だから、なんもできなかった、じゃねーよ。あいつが正面から甘
545
えてくるわけねーだろ、甘えられるよう仕向けてやれよ。あいつだ
って腹は決まったのかもしんねーけど、それで全部おわったわけじ
ゃねーだろ。これから先どーすんだよ﹂
彰彦は低い声で威嚇するように唸り、これ以上の話はやめだと隆
俊を突き離した。そしてその勢いのままUFOキャッチャーへと大
股で歩み寄る。
﹁おいコラ松島ァ! お前ヘッタくそなんだよ!﹂
﹁うっわ、こわっ! なんだ東条先輩かァ、どこの不良かと思いま
したよ﹂
﹁誰が不良だ!﹂
明は胸に抱いた小ぶりなネズミのぬいぐるみを、飽きることなく
撫で続けていた。
﹁大事にするよ。簡単だって豪語した東条先輩が二千円もはたいて
とってくれたんだから﹂
﹁うるせぇよ! こういうのは金と手間かけねーととれねーように
なってんだよ!﹂
﹁どうなのかなぁ、隣にいたお兄さんはヒョイヒョイとってたけど﹂
デコピンの形に指をかまえる彰彦から逃げながら、明は憎まれ口
をたたき続ける。そんな様子だから最初こそ彰彦の風体におびえて
いた静香も奈緒も、すっかり馴染んでしまったようだ。二人のじゃ
れあいをほほえましげに眺めている。
﹁原価計算したらとんでもない金づるだ﹂
﹁これはゲームなんだよ、金出して失敗して悔しがるっていうアホ
を含めて成功を楽しむもんなんだよ。お前だってとれたとき大はし
ゃぎしたじゃねーか﹂
﹁たしかに。これはその価値がある。なるほどなー﹂
彰彦のざっくばらんな説明に、明は感心したようにうなずいた。
546
それを静香がくすくすと笑う。おだやかな彼女はまとう空気さえ
やさしく、明の緊張をほぐしていた。
﹁こうして明ちゃんの価値観ができあがっていくのね。成長過程を
みているみたいでおもしろいわ﹂
﹁ほんとほんと。明ちゃん、さっきまでハンバーガー食べたことな
かったなんていうくらいのお嬢様だしね﹂
昼時になり何を食べようか、と話し合いになったとき、伊知郎が
提案したのがハンバーガーだった。彼の予想通りファストフードと
縁のなかった明は目を輝かせ、一も二もなく賛成した。 顎の可動域を超えるサイズの厚みに戸惑いながら、彰彦の乱暴な
食べ方を真似る明に一同は笑いをこらえることができなかった。
奈緒のからかいに、明は肩をすくめて反論した。
﹁わたしはお嬢様でもないし上流階級みたいな育ち方もしていない
よ。ただ食べる機会がなかっただけだ﹂
そうはいっても、偽ることをやめた明の所作はやはり特別だった。
口元をペーパーナプキンでぬぐうだけの動作がやけに美しく、隆俊
はなぜか目のやり場に困ったものだ。
からかいすぎも禁物とわかっているのか、奈緒はさらりと話題を
変えた。
﹁ところでお味はどうだった?﹂
﹁おいしかった! 手も口も汚しながら、みんなで同じものを食べ
るっていうのがとてもおもしろかった﹂
﹁そりゃ結構! 次はフライドチキン食べに行こうね。ジャンクフ
ードのおいしさとカロリー的な恐ろしさを教えてさしあげよう﹂
自然と次の約束を取り付ける奈緒は実にスマートだ。伊知郎は静
香から﹁とってもカッコイイ女の子を連れてくるからね﹂と聞かさ
れていたらしいが、それも納得だ。
楽しげに会話する彼女たちの背中を眺めながら、隆俊はゆっくり
547
とそのあとを歩いていた。
このメンバーで最初に明と出会ったのは自分であるはずなのに、
なぜかこういう場では気おくれしてしまう。おかげで隆俊が明とま
ともに話せたのは、伊知郎たちを待つほんの数分の間だけだった。
﹁隆俊さん、いいんですか﹂
さりげなく前を行く集団から抜けてきた伊知郎が問いかける。
﹁何がだ﹂
﹁さっきからずっと僕たちから離れて歩いてるでしょう﹂
﹁そんなことはない﹂
﹁また変な意地はっちゃって。そんなんじゃ鷹津会長や東条先輩に
とられちゃいますよ。いいんですか﹂
何を、とは聞かない。隆俊は眉間にシワを寄せることで伊知郎の
問いかけを拒絶した。
﹁まったくもう﹂
一つ年下である幼馴染は時折妙に老成した顔をする。今もまたそ
の顔をのぞかせたことに、隆俊はぴくりと眉を跳ね上げた。
こういうときは毎回何かと面倒なことをし始めるのだ。
﹁みなさーん、腹ごなしにちょっとそこの公園寄っていきませんか
ー?﹂
汗をかいているのは買ったばかりのペットボトルだけではない。
ちなみに隆俊の背中を流れているのは冷や汗だ。
静香たちは伊知郎が売店で買ってきた餌を池の鯉に投げ、その勢
いに歓声をあげているところだ。こんな真夏の日差しの下でやるこ
とではない。つまりそれは、少し離れた木陰のベンチで並んで座る
隆俊と明を気遣っての行為であることに間違いなかった。
548
うまく話さねば。
そう思えば思うほど口は重くなる。
さきほど彰彦に言われた言葉がリフレインするが、それならば何
をどう伝えればいいのかまで教えてほしかった。いや、これはただ
の八つ当たりだ。
あの東条彰彦が鯉の餌やりとは、学園の生徒が見たら腰をぬかす
な⋮⋮と隆俊はつい現実逃避をはかってしまう。
おとなしく座った明は、静香たちから離れた途端にふっと笑顔を
消していた。それもまた隆俊の居心地を悪くしていた。自分と二人
きりがそんなに嫌か。
沈黙が続いたあと、口火を切ったのは明のほうだった。
﹁今日はすっごく楽しい。こんな体験初めてだ。誘ってくれてあり
がとう﹂
﹁いや﹂
お礼を言われることなど何もしていない。計画をたてたのは伊知
郎だし、当初の予定と違うとはいえ景品のぬいぐるみを取ったのは
彰彦だ。初対面の静香と奈緒でさえ、うまく明をリードして彼女の
笑顔を引き出している。
改めて自分のふがいなさに頭を抱えたくなる隆俊だったが、その
苦悩を知ってか知らずか明は不意にぼそっと言った。
﹁こんなに楽しくていいんだろうか﹂
﹁⋮⋮明くん?﹂
一見静香たちを眺めているようで、明の目はどこか違う、まった
く別のものを映しているようだった。
﹁今までわたしは狭い価値観でしか人を見ていなかった。それで人
を選別し、付き合うに値するかどうかを判断していた。特に東条な
549
んて絶対に近寄らせたくない人間だったよ﹂
近寄りたくない、ではなく近寄らせたくない。
自分のためではない他人の選別。
﹁でもわたしの大事な人は、最初から東条はいい人だって言い張っ
ていた。わたしはまったく信じていなかったけど⋮⋮。やっぱりあ
の人はすごい、人のいいところを見抜く目を持っている﹂
明は自嘲じみた笑いをこぼす。
﹁結局、わたしは東条とあの人の接触を絶たせた。今こうしてわた
しが楽しんでいるのは、わたしがあの人から奪ってしまったものな
のかもしれない。わたしが最初からいなければ、今ここで笑ってい
るのはあの人なのかもしれない﹂
明の持つペットボトルから滴が伝い、乾いた地面にポツリポツリ
と跡を残していく。
﹁そう思ったら、あの人に申し訳なくて⋮⋮﹂
﹁なんて愚かなことを言うんだ﹂
しらかわ みつき
反射的に出てきた声は、怒気を伴って低く地を這った。
﹁俺が見た限りだが、白河美月くんは常に友人に囲まれて楽しそう
に笑っていた。その交友関係は彼女の人柄、彼女の努力によって築
き上げられたものだ。それを、お前は否定するのか﹂
名前がはっきり挙がったことに対する戸惑いか、姉への侮辱行為
を指摘されたことへの動揺か。明はハッとうつむいていた顔をあげ
た。
﹁わたしはそんなつもりじゃ⋮⋮﹂
言い訳しようとする明を許さず、隆俊はかぶせるように続けた。
﹁たしかにある程度仕組まれたものはあるだろう。だが、彼女の友
情はそれだけで片付けられるほど稀薄ではないはずだ。ましてやお
前の存在でどうこうなるようなものではない。東条君だって同じだ、
今こうして明くんといっしょにいるのは、彼自身が選んだことだ。
550
お前は今、お前と一緒に過ごそうと決めた伊知郎や静香くんや奈緒
くんの気持ちも否定したんだ。バカにするのもいい加減にしろ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
また下をむいて黙り込んだ明に、ようやく隆俊はハッと我に返っ
た。
しまった。
違う、そんなことを言うつもりはなかった。
さっきあれほど﹁甘えさせてやれ﹂と言われたのに、さっそくや
ったのがお説教とはどういうことだ。
ここから挽回するにはどうしたらいい、ああ、あのよく回る舌を
今だけ貸してくれ、伊知郎!
夏の暑さも忘れ真っ青になった隆俊に、明は震える声で小さく呼
びかけた。
﹁城澤先輩﹂
﹁あっ、なんだ、うん。その、言いすぎた。すまない﹂
﹁ありがとう。ごめんなさい﹂
﹁いや、謝る必要は⋮⋮﹂
﹁わたしは、ここにいていいんだよね。みんなと楽しんでいいんだ
よね?﹂
﹁え?﹂
まさか泣いていないだろうな、と隆俊が明の顔をのぞきこむと、
彼女は痛みをこらえるようにきつく唇をかみしめていた。手が真っ
白になるほど拳を強く握りしめている。
﹁ごめんなさい。またわたしはあなたを利用した﹂
﹁⋮⋮どういう意味だ﹂
こんな尋問じみた問いかけしかできない口下手さがいやになる。
だが明は今、隆俊に何かを伝えようとしていた。それを受け止めて
やりたかった。
551
﹁あの人を思うなら、まずは自分を確立しよう。そう納得したはず
なのに、あの人から離れて楽しみを味わっている罪悪感が消えない。
あの人からまた何かを奪っているんじゃないかと思うと怖いんだ。
でも、以前わたしのことを守ると言ってくれた城澤先輩なら、間違
ってないんだって、いいんだって認めてくれるんじゃないかって、
慰めを⋮⋮期待、してしまって⋮⋮。ごめん、卑怯なことをした。
わたしはずるい﹂
懺悔するように告げた明に、隆俊は身の内が震えるのを感じた。
彼女は隆俊に肯定されたかったという。その言葉を引き出すため
に、己の本心であるネガティブな思考をさらしたのだ。そうして慰
められたかったと、安心したかったのだと。
なんと不器用で卑屈で、愛おしいことか。
芯の通った強い志を持つ明がそんな弱さを見せてくれた。その事
実に隆俊は感謝すら覚えていた。
﹁ーーー今度、花火大会があるんだ。見たことはあるか﹂
隆俊の唐突な問いかけに、明はうつろな目をようやく上げた。
﹁⋮⋮遠くでやっているのを見たことなら、何度か﹂
﹁なら真下から見に行こう。壮観だ。その後は手持ち花火もやろう﹂
﹁⋮⋮やりたい﹂
明が食いついてきたのを確認し、隆俊はおだやかに言った。
﹁こうして新しい友人が一気に二人もできた。白河美月くんも明く
んの知らないところで親交を広げたり深めたりするんだろう﹂
﹁美月様も﹂
少しずつ明の目に生気が戻っていく。
﹁俺たちも、もっと楽しいことをしよう。おいしいものを食べて、
552
おもしろいものを見よう。夏休みはまだ長い﹂
うん、と幼気な子供のようにうなずく明がかわいかった。まわり
くどいやり方でしか甘えられない不器用な女の子を、改めて素直だ
と、守ってやりたいと隆俊は思う。
﹁あっつーい! ジュースもぬるくなっちゃったわ。むこうの売店
でアイス売ってるよ、明ちゃん食べに行こうよーっ!﹂
﹁行く!﹂
パッと立ち上がって駆けだした明を追いかけながら、隆俊はニヤ
ニヤと訳知り顔な笑みを浮かべる彰彦と伊知郎の視線から逃れた。
アイスは全員分ごちそうすることにしよう、と決めた。せめても
のお礼だ。
今年の夏は最高に楽しくなりそうだ。
553
番外編 鋼の男、苦悩する︵後書き︶
番外編第一弾は風紀委員長城澤隆俊主人公で送らせていただきま
した。
彼の情けないところばかりさらしてしまいましたが、いかがでし
たでしょうか。
番外編は、別の人間の目からは主人公はどのように映っていたの
か、ということをテーマに書いていきたいと思っています。せっか
く終わった本編を台無しにしないよう、蛇足にならないよう、がん
ばって書いていきたいと思います。
よろしければ、ぜひお付き合いください。
ご意見・感想をお待ちしております。
554
番外編 歪んだ真珠とその親友︵前書き︶
※ 本編終了後のお話になります。
本編の雰囲気が壊れた! と思う方もいらっしゃるかもしれま
せん。
でももったいない精神から投稿してしまいます。ご注意くださ
い。
555
番外編 歪んだ真珠とその親友
かみつが あやの
上都賀綾乃は大きな門扉を前に、本当にここに来てよかったのか
しらかわ
と何度目になるかわからない自問を繰り返した。
表札には厳めしく﹃白河﹄と刻まれており、西洋風の重々しい玄
関とあいまって綾乃の足を重くさせた。
しかし、ここまできて帰るわけにはいかない。今日は覚悟を決め
てやってきたはずだ。
わたしは今日、親友を救いにやってきたのだ。
綾乃は大きく息を吸い、呼び鈴にゆっくり手を伸ばす。
﹁どちらさまでしょう﹂
﹁ひゃっ!﹂
突然かけられた声に驚き、綾乃は奇妙な声をあげて後ろを振り返
った。そこには線の細い喪服のような黒いスーツ姿の男性が立って
みつき
いた。ノンフレームの眼鏡の奥からこちらをうかがう目は、まるで
氷のように冷たい。
﹁し、失礼しました。あの、わたくし、美月さんの同級生の上都賀
と申します。もう一週間もお休みだったので、心配で、お見舞いに﹂
用意してきた果物かごを掲げてしどろもどろに言うと、男は納得
したようにうなずいた。
﹁ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りください﹂
﹁恐れ入ります﹂
うながされてようやく白河邸の敷地に足を踏み入れた綾乃は、ド
キドキする胸をおさえながら男のあとに続いた。
556
一度来たことはあったが、その時は隣に美月がいた。彼女がいな
い今は、ステキだと感じた吹き抜けの天井からのびる階段も寒々し
く見える。
男は綾乃を女性の使用人に引き渡すとさっと一礼して去っていっ
た。彼の目から逃れたことにこっそりと息をつく。
きっとあれが例の﹁岩土さん﹂に違いない。美月は何か失敗した
り困ったりしたことがあるたびに﹁こんなことでは岩土さんに叱ら
れちゃう﹂と口にしていた。きっと主の娘を前にしてもあの目は温
度を持たないのだろう。
急に別要素の緊張を与えられたことで、逆に綾乃の心は落ち着い
た。よし行くぞ、と意気込んでいると、前を行くお仕着せ姿の女性
が小さく言った。
﹁上都賀綾乃様、ですね﹂
﹁えっ、あ、はいっ﹂
間抜けな返事に綾乃の頬が赤くなるが、彼女はまったく気にした
様子なく続けた。
﹁美月様からたびたびお話をうかがっております。とても頭のいい
頼れる親友だと﹂
﹁美月ちゃんが?﹂
疑っていたわけではないが、親友と思っていたのが自分だけでは
ないことに綾乃の胸はぽっと熱くなる。
﹁今、美月様は少々心が乱れております。力になってあげてくださ
いませ﹂
﹁もちろんです﹂
﹁ですが、失礼を承知で申し上げます﹂
背の高い彼女は身を少しかがめて綾乃の耳元にささやいた。
﹁どうぞ、公正な目で、上都賀様が判断したようにお言葉をかけて
ください。甘い言葉で慰めるのは美月様のためになりません﹂
きっと彼女は心底美月を好いているのだろう。厳しい言葉とは裏
557
腹に、声音からは美月を案じる優しさが感じられた。
﹁⋮⋮もちろんです。わたしは美月ちゃんの親友ですから﹂
繰り返し綾乃がうなずくと、彼女は張りつめていた顔をふわりと
ゆるめさせた。
アキラ
﹁ああ、明様の言った通りのお方です﹂
﹁え?﹂
そこでなぜ美月ではなく妹の明の名前が出てくるのか。
しかしそれを問う前に、二人は美月の部屋の前に到着していた。
みふね
﹁美月様﹂
﹁三舟さん、ごめんなさい。もうちょっと一人でいたい⋮⋮﹂
部屋の中から聞こえるくぐもった声に、綾乃はいてもたってもい
られなくなり、三舟にかわって扉を叩いた。
﹁美月ちゃん、わたしよ。綾乃﹂
﹁綾乃ちゃん?﹂
﹁入っていい?﹂
返事はなかったが、三舟が目でしっかり了承したことを確認して
ドアノブに手をかける。
﹁失礼します﹂
レースの天蓋付ベッドに入る美月は、まるでお人形のようだった。
パジャマ姿の可愛らしさと、青白い生気をなくした顔色と相まって
の感想だ。ゴミ箱にたまったティッシュの山が、美月が血の通った
人間であることの証明だった。
数日ぶりに会う親友はわずかに痩せたようだ。
﹁美月ちゃん⋮⋮! 大丈夫?﹂
﹁綾乃ちゃん!﹂
美月はぱっと体をおこし、はだしで綾乃に駆け寄った。
﹁どうしてここに?﹂
558
﹁寂しくて来ちゃったの。はい、これでも食べて元気出しましょう﹂
肩をすくめておどけて言うと、美月はぽかんと口を開けて果物か
ごと綾乃を交互に見た。
﹁ねぇ、先週のお休みを含めてもう一週間も会っていないのよ。話
したいことが溜まりすぎてしまったわ。わたしの分は週明けにまと
めて話すとして、今日は美月ちゃんのことが聞きたいの。どう?﹂
綾乃がかごの中から桃を手に取って手渡す。すると美月は見開い
た目にじわじわと涙をにじませた。
﹁あ、あやのちゃん⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁わたし、最低なの⋮⋮﹂
思っても見ない言葉に、綾乃は思わず聞き返す。
﹁最低? 美月ちゃんが?﹂
﹁そう﹂
とうとうたえられなかった涙が、珠になってころんと美月の頬を
伝った。
﹁わたし、明にひどいこと言っちゃった⋮⋮!!﹂
二つ目のゴミ箱まで満杯にした美月は、腫れた目に冷たいタオル
を当てて鼻をすすった。
﹁明はね、三歳のときにうちに来たの。本当のご両親の都合で、う
ち預かりになったの﹂
たかつ
ふかふかのベッドに並んで腰掛け、綾乃は静かに美月の手を握っ
ていた。てっきり鷹津会長への失恋話だと思っていたのだが、美月
の話はなぜか妹のことから始まった。
明に関するその事実ならいまや学校で知らないものはいない。明
559
の国内短期留学に際し経歴を明らかにしている最中で、どういう経
緯か話が漏れてしまったのだ。
おかげで﹁どおりで白河の悪魔は天使と似ていないはずだ﹂﹁あ
の勝手気ままさも性格の悪さもうなずける﹂と納得する声が多数あ
がっている。
たかつ あつひと
ついでに、あの鷹津篤仁会長がどういうわけか明に求婚した、と
いう噂も実しやかに広まっている。真実はごく一部の人間しか知ら
ない。綾乃はそのごく一部の内の一人だった。だからこそ、どう美
月を慰めようかといろいろ考えていたのだけれど⋮⋮。
﹁そのころからずっと明はわたしのそばにいてくれた。⋮⋮最初は
﹃美月様﹄って呼んでいたんだよ﹂
ふふっと美月は昔を思い出すように笑った。
﹁わたし、それがいやだった。妹になったんだから、お姉ちゃんっ
て呼んでほしかった。そうお願いしたら、わかりました、姉さんっ
て。それ以来ずっとそう。わたしの前では姉さん、それ以外では美
月様って呼ぶようになったみたい﹂
綾乃はぎくりとした。
綾乃の知る白河明とは、ひどく馴れ馴れしく礼儀を知らず、その
うえ粗暴で粗雑で品がない人間だ。よくも姉妹でこれほど異なる人
間になるものだ、と感心すらしていた。これで明が姉思いの妹でな
ければ、綾乃は美月に縁切りを勧めていただろう。
しかし実際のところ明は美月の妹ではなかった。それどころか﹃
美月様﹄と敬称をつけて呼んでいたとは。
明が美月を姉と慕う様はうっとうしいほどだったが、そこに疑念が
わいた。美月の命令に従い、場合によって呼び方を変える。さきほ
どの三舟という使用人となんの違いがあるのだろうか。
美月は、それを自覚しているのだろうか。
560
﹁じゃあ、あの子は白河の使用人なの?﹂
﹁お母様は使用人と主筋はハッキリさせなくちゃいけないって言っ
ていたけど、わたしには明は使用人じゃない。妹なの﹂
きっぱりと言い切った美月の横顔に曇りはない。
﹁最初に会ったときのあの表情が忘れられない。明ね、わたしと目
が合ってにっこり笑ったの。心の底から嬉しそうに、幸せそうに笑
ったの。なんでかな、ありがとうって言って、ぎゅっと手を握って
いた﹂
ありがとう、か。
そのときの明の気持ちが、なんとなく綾乃にはわかるような気が
した。
きっと美月は、明と同じくらいの満面の笑みを浮かべていたに違
いない。入学式で隣り合って座ったときに、綾乃に向けられたのと
同じ、慈愛に満ちたあたたかい笑顔。緊張と不安で凝り固まってい
た綾乃の心を一瞬で溶かしたものだ。
﹁だからお気に入りの絵本も大好きだったクレヨンも明にプレゼン
トしたの。そうでなきゃ、いくらお父様が新しいのを買ってくれる
っていってもあげたりしなかった。明は妹なの。姉さん姉さんって
後をついてまわってきて、全身で大好きって言ってもらえてすごく
うれしかった﹂
﹁美月ちゃん⋮⋮﹂
綾乃はともすれば停止してしまいそうな頭を必死に回転させた。
表面をみれば明は間違いなく白河の使用人だ。美月の母もそう認識
しているらしい。だが実際のところ明は迷惑ばかりかけて美月に甘
えていたし、美月も明を甘やかしていた。それこそ本当の姉妹のよ
うに。
この齟齬はいったいなんなのか。
561
いったい美月は明をどう思っているのか。もっと掘り下げる必要
がありそうだ。
﹁⋮⋮あの問題児をそこまで大事にしているなんて。恩知らずね、
あの子も﹂
﹁明は問題児なんかじゃないよ﹂
ちゃかしながら水を向けると、うまく美月は食いついた。
﹁おとなしくて隅っこでじっとしていることが多い子だった。お勉
強もできて運動もできて優しくて、いつもわたしを助けてくれた。
忘れ物したときとか、転んだときとか、叱られたときとか⋮⋮﹂
﹁ええっ!? ウソォ!﹂
そんな姿想像できない!
はしたないほど大きな声を出した綾乃に、美月はくすっと笑って
見せた。
﹁ホント。明ね、高校生になる前の春休みに、高校デビューだって
言ってガラッと変わったの﹂
﹁どうして?﹂
﹁わからないけど⋮⋮。それまでおとなしかった反動かなァ? わ
たしは気にならなかった。だって明は明だもん﹂
似合っていたしね、と美月はまた笑う。
﹁明がそうしたいのなら、そうさせてあげたかった。文句をいう人
も多かったけど、そういうの全部から守ってあげたかった。姉とし
てそうしなきゃいけないって思ってたの﹂
守る。
このワードに綾乃は引っかかりを覚えた。
美月は確かに明を守っていた。
学園の悪魔と呼ばれた明が、完全に学園から排斥されなかった理
由は白河という家柄と美月の人柄によるものが大きい。
ではその見返りに、明は美月に何をしたのか。そう考えた時ふっ
と浮かんだのは、しつこい生徒会補佐の勧誘に戸惑う美月の前に立
562
つ、高笑いする下品な少女の姿だった。
綾乃は美月を通して生徒会と関わることだけは避けようと思って
いた。周囲の生徒からねたみ嫉みをかう危険があったからだ。しか
し美月は無事だった。それはやはり学園の天使だからだろうし、実
力も人望もあったからだし⋮⋮。そしてまたもやフラッシュバック
する細い背中。綾乃は美月とともにその背にかばわれ、生活委員会
の目から逃れることができたのだ。
この二人の関係性が、少しだけ見えた気がした。
﹁美月ちゃんがどれだけあの﹃妹﹄を大切にしているかはわかった
よ。でもそれなら、どうしてひどいことなんて言っちゃったの?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
美月はちらりと学習机のほうを見た。そこには一冊の薄手のアル
バムが置いてあった。
﹁⋮⋮あのね。わたし、失恋したの。篤仁先輩のことが好きだった。
わたし、あの人と結婚するんだって思い込んでた﹂
﹁うん﹂
﹁でもね、篤仁先輩は明を好きになったの。そうだよね、明はあん
なにきれいで優しいんだもん。実は初恋の人も明にとられちゃって﹂
きっと本人は笑っているつもりなのだろう。だが美月の表情はこ
わばり、今にもまた泣き出しそうだった。
美月は天使にふさわしい愛らしさの塊のような容貌だが、外見だ
けなら悪魔の明も負けていなかった。すらりとしたしなやかな体つ
きと挑発的な猫目にきらめく美しさがある。日ごろさげすまれてい
る彼女だが、実は密かに人気があるとの噂もある。
﹁それで、明についひどいことを⋮⋮。もういらないって、わたし
のほしいもの全部取っていく明なんていらないって⋮⋮﹂
﹁明、わたしのこと嫌いになったよね。だからいなくなっちゃうん
563
だよね﹂
美月はまた顔をふせて泣き出した。
綾乃はゆっくりとその背中をなでるだけだ。
美月が泣いている理由は単純な失恋騒ぎではなかった。
絵本、クレヨン、両親の愛情、初恋の人、結ばれたかった人。今
まで積み重なってきたものが、急に美月に倒れこんできたみたいだ。
その根底にあるのは、美月が心から愛している歪んだ真珠みたい
な﹃妹﹄。
﹁謝りにいかないの?﹂
﹁いけない。わたしが悪いのはわかっているの。明は何もわたしか
らとってなんか、盗んでなんかいない。でも気持ちの整理がつかな
いの。顔を合わせたときに何を言ってしまうかわからない﹂
ぐちゃぐちゃなのだと美月は言った。
まだ鷹津会長のことが好き。
明を妬ましく思う気持ちもある。
だが同時にとても愛しいから、ひどい感情をぶつけて嫌われたく
ない。
これ以上言えない、聞きたくない、と美月は丸くなって頭を抱え
た。
美月は本当に穢れを知らない子だ。今まで明確な嫉妬や恨みとい
った醜い感情を抱いたことがなかったのだろう。
しかし、美月は人だ。天使ではない。三舟の言っていた﹁美月の
564
ため﹂とはこういうことか、と綾乃は心の中で納得していた。
ならば、時間をかけて折り合いをつけることを、醜い感情を受け
止めることを美月は知らなければならない。
﹁美月ちゃん。わたしは美月ちゃんを責めたり、怒ったりしないよ。
でもこれだけ言うね。聞きたくないかもしれないけど聞いて。あの
子ね、一昨日わたしのところにあいさつに来たの。なんていったと
思う﹂
耳をふさぐ手を優しく包むと、綾乃はゆっくりとささやいた。
﹁姉をよろしくって言ったのよ﹂
ぴくりともしないが、美月がじっと綾乃の声に耳を傾けているこ
とは分かった。
綾乃はすっかり冷めたお茶でカラカラの喉をうるおす。
﹁わたし、あの子すっごく苦手。生理的嫌悪感催すレベルよ。あの
傲慢さ、品のなさ、図々しさ、大っ嫌い。⋮⋮でもね、認めている
点もなくはないの﹂
ティッシュの箱を引き寄せてまとめて五枚ほど抜き取ると、それ
を美月の鼻先に強引に突っ込んだ。
﹁それはね、美月ちゃんに関わるときだけよ。わたしが美月ちゃん
を大事にするのと同じくらい、いえそれ以上に、あの子は美月ちゃ
んを想っている﹂
こういうとき自分の短い腕がもどかしい。綾乃はぎゅっと美月の
肩を包むように抱きしめた。
﹁あの子は美月ちゃんのこと今でもお姉さんだって思っているのよ。
もし美月ちゃんもあの子を妹だっていうなら、あきらめちゃダメ﹂
﹁⋮⋮ウソォ﹂
﹁ホント!﹂
﹁⋮⋮綾乃ちゃん⋮⋮﹂
565
﹁大丈夫よ、あれほどお姉ちゃんにベッタリだった妹でしょ? そ
う簡単に姉離れできるもんですか。それにさんざん迷惑かけてきた
んだもの、気持ちが落ち着くまでちょっと待たせるくらいなんでも
ないわ﹂
美月と明。
いびつ
名家と呼ばれる上都賀の娘だから理解できないわけではないが、
白河のこの姉妹は複雑怪奇でひどく歪だ。
主従の関係にありながら姉妹と名乗り、互いに守り守られ生きて
きた。きっと最初から不安定だったのだ。 そして今、あまりに近くにありすぎて、美月は明をよく見えなく
なっている。きっとそれは明のほうも同じなのだろう。
そう、待たせるくらいなんでもない。
﹁わたしが中継ぎ役になる。この前どうしてもって言われて明ちゃ
んと連絡先交換したの﹂
﹁そうなの?﹂
﹁そう。だから、むこうがどうしているかとか、美月ちゃんに会い
たがってるとか、いろいろ教えるわ。かわりに美月ちゃんがどうし
ているかも伝えてあげる。そのうち三人でお茶でもしましょ﹂
そういえば行ってみたいかわいいカフェがあるの、とついでのよ
うに付け加えれば、美月はのろのろと起き上がって綾乃に抱きつい
た。
﹁綾乃ちゃん⋮⋮! ありがとう。大好き﹂
﹁わたしも大好き。よしよし、いい子いい子﹂
層の巻きが厚くなりすぎて新円が崩れ、偶然によって生み出され
たこの世に二つとないバロック。
566
この変わった宝石の行く末を、九十五パーセントの友情と五パー
セントの好奇心から見守りたくなった綾乃であった。
567
番外編 歪んだ真珠とその親友︵後書き︶
怪しい前書きにも関わらず読んでくださった方へ
番外編第二弾は美月の親友、上都賀綾乃主人公でした。
美月はそんなに悪い子ではない、という主張をしたいがための話
になってしまいましたが、これ大丈夫でしょうか。だいぶドキドキ
しています。
とりあえず書いておきたかったところだけは出せました。
ですが書いている最中にどんどん説明したい要素が増えてきそう
で⋮⋮。
そこで、番外編含めいったんこのお話に区切りをつけたいと思い
ます。
応援してくださった方々、本当にありがとうございました!
ただひたすら明るい話とか、バカをやる話とかも書きたいところ
なんですが、それはまた別の機会にまわすとして。︵完結マークを
つけていても編集からお話を追加できることがわかったので⋮⋮︶
唐突に番外編第三弾とかやりだすかもしれません。その時はどう
ぞよろしくお願いいたします。
568
番外編 主と従僕、いまむかし︵前書き︶
※ 本編終了後のお話になります。ご注意ください。
569
番外編 主と従僕、いまむかし
しらい たつみ
白井辰巳は困惑していた。
足もとにぴったりとしがみついている女の子はいったいどういう
つもりなのだろうか。
どうして当主は自分に子守なんてまかせようとしたのだろうか。
自問してみたところで答えは出ない。
きっかけは父親のリストラだった。十六になったばかりの辰巳は
知らなかったが、本家筋の白河家というのは大層立派な家らしく、
職を求めて一家総出で頭を下げに来たのだ。ろくに会ったこともな
い遠縁の親類に対し、当主だという人の良さそうな男はニコニコし
ながら出迎えてくれた。
﹁わかった、知り合いに声をかけてみよう﹂
﹁ありがとうございます! なんとお礼をいったらいいか⋮⋮!﹂
ソファをおりて、毛足の長いじゅうたんに頭をこすりつける父親
と母親をマネながら、辰巳は世の不条理を味わっていた。
どうして自分がこんな目に。
理解はできる。こうして土下座までしなければ、自分はせっかく
合格した高校に通えなくなる。今まで通りのふつうの生活さえまま
ならなくなる。
だが、辰巳の幼いプライドが邪魔をするのだ。
生まれついた家が違っただけで、こうして地べたに這いつくばる
人間と豪奢なソファに座って見下ろす人間に分けられる。
570
そう思えば目の前の救世主の笑顔さえ憎らしくなってきた。
﹁いいんだ、一族で助け合わなくてはね。⋮⋮それで、こちらも助
けてもらいたいことがあるんだけれど、頼めるかな﹂
﹁もちろん、なんなりと!﹂
﹁君は辰巳君と言ったね﹂
苛立たしいほどおだやかで優しい目を向けられ、辰巳は驚いて顔
をあげた。とはいえ、自分の鈍い表情筋は一ミリたりとも動いてい
ない。
返事をしろ、と背中をつついてくる父親がうっとうしく、辰巳は
あえて黙ったまま当主である男を見つめた。
﹁体はわたしより大きいようだが、高校生だね﹂
﹁それが何か﹂
﹁辰巳っ!﹂
母親の悲鳴まじりの叱責がとぶが、当主は鷹揚にうなずいた。
﹁ああ、いいんだ。お願いと言うのは君になんだ。もし都合がよけ
れば、でいいんだが﹂
思わせぶりに言うが、その口ぶりこそ辰巳の気に入らないものだ
った。父親の仕事のあっせんを頼んだ身だ、断れるはずもない。な
らばさっさと命令すればいい。当主はあくまで本人の意思を尊重し
ようと﹃いい人﹄ぶっているようにしか見えなかった。
﹁バイトを頼みたいんだ﹂
﹁バイト?﹂
﹁放課後の空いているちょっとした時間でいい。ここへ寄って、わ
たしの娘の相手をしてほしいんだ﹂
﹁⋮⋮娘さんの、相手﹂
﹁ああ、五歳の女の子だ﹂
それを聞いて、辰巳は親の事情も忘れて即座に断ろうと思った。
生まれついて辰巳の顔の筋肉は死んでいる。感情の起伏に表情が
571
ともなわないのだ。図体ばかりが大きくなり、すでに身長は百八十
近い。おかげで親には可愛げがないとさんざん言われ、友人をつく
るにも苦労した。犬には咆えられ、ご老人からは警戒され、子ども
には泣かれる。そんな自分が幼い女の子の相手などできるはずもな
い。
だが、しかし。
﹁もちろんです! ぜひやらせていただきますとも!﹂
﹁白河家のお役にたてるなんて、この上ない喜びです!﹂
﹁よかった、助かるよ﹂
両親のおおげさなまでの歓喜の叫び。キラリと光ったようにみえ
た当主の目。辰巳は死んだと思っていた自分の頬の筋肉がひきつり、
口元をしっかり歪ませていることを意識していた。
そんなこんなでバイトの初日を迎えてしまったのだが、辰巳は第
一歩からつまずいて大ケガを負ってしまった。
両親とともに通されたときと同じ応接間に案内され、バイトの対
象である当主の娘とやらに対面するはずが、一目会っただけで拒絶
されてしまったのだ。先ほど時給二千円という破格の賃金を提示さ
れ、ほんのわずかにやる気を抱いていただけに心が折れそうだ。
やっぱり無理な話だったのだ。
父親はすでに仕事を始めたし、自分はここまで出向いた。娘の方
が嫌がったのだから、自分に落ち度はないはずだ。
そう言い聞かせ自分を慰めていたのが、ここでようやく辰巳は違
和感を覚えた。
茫然とたたずんでいた自分の制服のズボンの端がつんつんと引っ
張られている。
見下ろしてみれば、小さな女の子がズボンをしっかりと握りしめ
572
ているではないか。
目があったことを確認すると、彼女は舌たらずに大胆なセリフを
はいた。
みつき
﹁美月様がいらないなら、わたしがもらっていいですか﹂
﹁⋮⋮え?﹂
この子は今何と言った。
もらう? 俺のことを言っているのか。
父親からは白河の娘は一人だと聞かされていただけに、彼女がい
ったい何者なのかすら辰巳にはわかっていなかった。
しかし、当主は確かに言った。
娘の美月と明、と。
ではこの子はどちらだ?
あきら
その疑問は、幸いにも彼女自身が解決してくれた。
﹁わたしは明です、五才です。しらゆり幼稚園のパンダ組です﹂
はきはきとしたあいさつに、辰巳はたじろぎながらも頭を下げた。
﹁俺は白井辰巳です﹂
﹁あいさつのときは、何才かと何組さんかも言うんですよ﹂
こまっしゃくれた口調だが、きっと誰かのマネに違いない。そう
思うと明という女の子がかわいく思え、辰巳は素直に従った。
﹁⋮⋮十六才です。一年A組です﹂
﹁よくできました!﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁ねぇ、座らないんですか?﹂
﹁⋮⋮では、失礼します﹂
促されるままにソファに腰を下ろすと、女の子は大きな猫目でこ
ちらをのぞき込んできた。ズボンの裾は握ったままだ。
当主に連れられていった女の子とはあまりにも違う反応に、辰巳
573
はわずかに興味を持った。こちらからコミュニケーションをとって
もいいかもしれない、そう思うくらいには。
﹁あなたは座らないんですか?﹂
名前は聞いたが馴れ馴れしく読んでいいものかはかりかね、おお
よそ幼児にふさわしくない呼びかけをしてしまった。だが明はなん
の違和感もなく受け止めてくれた。
﹁わたしも座っていいですか?﹂
﹁もちろん﹂
明がへりに手をかけよじ登ろうとしたところで、彼女が座るには
このソファは背が高すぎることにようやく気づいた。
﹁はい、どうぞ﹂
小さな体をヒョイと持ち上げ、自分の隣に座らせる。たったそれ
だけのことなのだが、明は目をこぼれ落ちそうなほど大きく見開い
た。
そして無言でさらに強い眼差しを向けてくる。
しまった、なれなれしかったか。
自分の失態に後悔したのも一瞬だった。
﹁えへへ﹂
明はふにゃふにゃと相貌を崩すと、今にも喉を慣らしそうな勢い
で辰巳にもたれかかった。その無防備な姿に、喉の下をくすぐって
やりたい衝動にかられる。
かわりに、とたっぷりした色素の薄い髪を指ですいてやると、ま
たハッと目を開いて辰巳を見た後にぐりぐりと頭をすりつけてきた。
見た目はちょっと気位の高そうな子猫だが、中身は甘えたで人な
つっこい子犬だ。
今まで子どもはもちろん小動物にも好かれたことのなかった辰巳
には、そのやわらかい感触と温かな体温は新鮮だった。
﹁もっと﹂
574
いつの間にか手が止まっていたようで、明は辰巳に甘えた声で催
促をする。それが辰巳を刺激した。
ではこれはどうだ。
辰巳は自分の大きな両手で明の顔を包み、もみ込んでやった。餅
のように白く柔い頬がぐにゃぐにゃと動く。
﹁ぎゅむむむ﹂
珍妙に唸る明はなんともかわいらしい。つい夢中になっていると、
明も負けじと短い腕を伸ばして辰巳の顔に触れた。そして小さな指
が辰巳の頬を控えめに引っ張る。
﹁変なお顔。きゃはははは!﹂
好奇心いっぱいながらも、丁寧な口調を崩さずこちらを品定めし
ていた子どもが、初めて見せた大笑い。
なぜかそれは辰巳の胸を強く打った。
﹁おや、あなたが笑い声とは珍しい。明さんでしたか﹂
﹁けいごさん!﹂
明の意識がそれたことを惜しみながら彼女の視線をたどると、扉
の前に男が一人立っていた。
彼を見た途端に明はぴっと背筋を伸ばす。
﹁けいごさん、ただいま帰りました﹂
﹁お帰りなさいませ﹂
﹁手を洗ってうがいもして、当主様にごあいさつできました﹂
﹁よくできました。幼稚園は楽しかったですか﹂
﹁はい!﹂
きっとお決まりのやりとりなのだろう。明は満足そうにソファに
座りなおした。
それを見届けてから、男はノンフレームの眼鏡越しにちらりと辰
巳に視線をうつした。その顔立ちは整っているが、それ故にひどく
冷たい印象だ。なるほど、明が自分の顔に怖がらなかった理由がわ
かった。この男にくらべれば自分などまだかわいいものだ。口調か
575
いわど けいご
らして、明が彼の影響を多分に受けていることは間違いない。
﹁失礼いたしました、白河の秘書を勤める岩土敬吾と申します。お
やおや、会ったばかりだというのに、お二人は仲良しですね﹂
サラリと言われただけなのに、なぜか悪さをとがめられたように
思えて背筋が自然と伸びてしまう。
﹁美月様がいらないって! わたしがもらったんです﹂
﹁ほォ﹂
氷のように冷たい視線を浴びせられ、辰巳はどうすることもでき
ずに固まった。こういうときは自分の鉄壁の無表情がありがたい。
﹁⋮⋮ふむ﹂
品定めがおわったのか、岩土はツカツカとこちらに歩み寄ってき
た。
﹁明さん、少々失礼します﹂
﹁なにー?﹂
﹁ちょっとだけです、がまんですよ﹂
両手を伸ばして明の両耳をふさぐと、岩土は辰巳の正面すれすれ
まで顔を近づけて早口に言った。
﹁廊下で泣きわめいていた美月様と当主様の様子からだいたいのこ
とは察しております。これではバイトはままならないかと思いまし
たが、明さんはあなたをいたく気に入ったようです。モノ扱いなん
て無礼は承知ですが、このまま明さんのおもちゃ役になってもらえ
ませんか。時給はあと五百円アップしましょう﹂
当主のときとはまた違う有無を言わせぬやり方に、辰巳はたじろ
ぎつつもなんとか答えた。
﹁⋮⋮この子相手にバイトができるのであれば、喜んで﹂
これは本音だった。
バイトの面接に失敗した、なんて両親に伝えたら何を言われるか
わかったものではない。
父親の仕事が軌道にのるまでは己の小遣いもままならないだろう
576
し、できることならやらせてほしかった。
それに、どうもこの明という子は自分の琴線にひっかかる。
岩土は満足げにうなずいた。
﹁助かります。注意事項、勤労条件などは追って説明するとして、
とりあえず伝えておきたいのは一点のみです﹂
﹁なんでしょう﹂
﹁この子を甘やかしてください﹂
﹁え? なんですって﹂
思わず問い返すと、岩土は真剣な面持で続けた。
﹁とにかく、ここにいる間は何をおいても明さんを優先して甘えさ
せてください。いいですね﹂
﹁は、はァ﹂
﹁よろしい﹂
ぱっと明の耳から手を離すと、岩土は明をのぞきこんで言った。
﹁すてきなプレゼントですね。大事にしてあげてください﹂
﹁はい!﹂
結局俺はこの子のモノか。
よくわからないが、まァいいだろう。
自分は自分の役目をこなすだけだ。
それから辰巳の仕事は明の遊び相手ということで決定した。美月
が彼を見ると怖がるので、離れの和室が遊び場だ。高校が終わって
から白河家へ訪れ、母屋に一声かけてから離れに向かえば、いつも
明がチョコンと縁側に座って待っていてくれた。
明は実におとなしい子だった。わがままも言わないが、何がした
いとの主張もしない。辰巳も何をしてやればいいのかわからず、と
りあえず絵本を読んだり、お絵かきしたり、のんびりと二人で過ご
577
すだけだ。
それだけで給料が手に入るなんていいのだろうか。何より明は退
屈ではないのだろうか。
そんなふうに心配してしまうのだが、明が自分を気に入ってくれ
ているのは事実なようで、何をするでもなく辰巳にぴったりくっつ
いて離れない。
明が白河本家の娘ではないことは岩土から聞かされていた。そし
てその複雑な事情も。
寂しいのかもしれないな。
健気な小さな女の子が自分にすがるのがかわいそうで、愛しかっ
た。
そう思えば辰巳の足は自然と白河家へ向き、数少ない友人たちに
は彼女ができたのかと誤解されるほどだった。
﹁辰巳さん! 待ってました﹂
﹁明様、お待たせしてすみません。今日は何をして遊びましょうか﹂
そんなやり取りをすることにも慣れた頃。
﹁辰巳くん、調子はどうだい﹂
明が自分の生活の中に入り込んでしばらくたったとき、玄関口で
ちょうど帰宅した白河当主に行き会った。
﹁問題ありません﹂
素っ気なさすぎる態度にも、当主は笑みを崩さない。
﹁そうか。明をよろしく頼むね﹂
最初にあったときほどの敵対心はもうない。なにせ、この人の計
らいがなければ辰巳は明に会うことなど絶対になかったのだ。その
ことに関してだけは感謝すらしていた。
いっしょに玄関にはいると、当主は出迎えた使用人にカバンを預
けながらよく通る声でただいまと呼びかけた。それだけで奥の廊下
578
からタタタッと軽い足音が近づいてくる。
﹁お父様、お帰りなさい!﹂
﹁ただいま、我が家のお姫様﹂
当主の娘である美月は父親に駆け寄るとその腕の中に飛び込み、
首根っこにかじりついた。
﹁おみやげはー?﹂
﹁チョコレートケーキがあるよ。デザートに食べようか﹂
﹁わぁい!﹂
美月は無邪気な歓声をあげると、ぱっと首を床にむけた。
﹁うれしいね、明!﹂
﹁はい、美月様。当主様、お帰りなさいませ﹂
美月の後を追ってきたのだろう、駆けてきた明も距離を保ちなが
ら頭を下げた。どう考えても子どもの仕草ではない。
﹁明、ただいま。出迎えありがとう﹂
当主は明にも優しく声をかけた。それだけなら美月と明に特別な
差をつけているようには見えない。だが、決定的に違う点がある。
彼の手は美月と彼女へのおみやげでいっぱいで、明を抱く余裕はな
い。
明が美月を見上げ、美月が明を見下ろす。
ほんのわずかな生まれの違いで。
ドクン、と心臓が脈打った。
それをスタートの合図ととったのか、辰巳の体は弾かれたように
動き出す。
﹁明様、ただいま帰りました!﹂
ただいまだと? いつからここが俺の家になった。
頭の片隅に残っていた理性がそう問いかけるが、体は止まらない。
﹁あれ? 辰巳さん?﹂
579
当主のわきをすり抜けると、辰巳は勢いよく明を抱き上げた。
﹁当主様、ここで失礼いたします﹂
﹁うんうん、よろしく﹂
ようやく辰巳を認識した美月は、石のように父親の腕の中で固ま
っている。しかし大事な妹が捕らわれていることに気づき、大声で
泣き叫んだ。
﹁あ、あきら! お父様、あきら! 食べられちゃう! やだああ
ああ!! あきらぁあああ!!!﹂
辰巳は悲痛な叫びを一切無視し、明を抱いたまま背を向けて歩き
出した。
まったくあのお姫様は人を何だと思っているんだ。そもそも白河
家のお姫様だと? 俺のお姫様のほうがよほどかわいいだろうが。
あれ、俺のってなんだ?
どういうわけか頭に血がのぼって仕方なかった。速足で離れへと
向かう途中、明は戸惑ったように声をあげた。
﹁抱っこ⋮⋮﹂
﹁ああ、明様すみません。速くてこわかったですか?﹂
﹁ううん﹂
明はキョロキョロと落ち着かない様子で辺りを見回している。白
い頬はいつになく赤くそまり、興奮しているように見えた。
﹁たかーい⋮⋮﹂
﹁明様?﹂
﹁抱っこしてもらったの、ひさしぶり﹂
明はぼんやりとつぶやいた。
その何気なさ。
それが何よりの辰巳への断罪だった。
580
辰巳は愕然とした。
そして世話になっている白河家への憎悪を自覚した。
明はおとなしいのではない。甘え方を知らない子なのだ。そうさ
せたのは間違いなく白河だ。
だがそれより憎らしいのは自分自身。自分はなんのためにここに
呼ばれた。最初こそ父と金のためだったかもしれないが、今は違う。
何かしてやれることはないか、と意識にのぼっていたはずなのに、
結局何もしていなかった。あの痛ましい光景を目にするまで、気づ
いてやれなかった。
仕事といっておきながら役目をまっとうすることもできず、心に
沿いたいと思いながら肝心なことはわかろうとしなかった。
明に甘えていたのは自分だ。
﹁辰巳さん?﹂
ぐらぐらとする頭を必死で支えながら、辰巳は言った。
﹁⋮⋮明様。ごっこ遊びをしましょう﹂
﹁え?﹂
唐突な辰巳の言葉に、明は首をかしげる。
﹁俺は今、当主様のマネをしました。明様も美月様のまねをしてく
ださい﹂
﹁美月様のマネ⋮⋮?﹂
﹁いいですか、はじめますよ。もう一回やり直しです。明様、ただ
いまー!﹂
﹁わっ!﹂
辰巳は腕を伸ばして明を抱え上げクルクルと回った。
﹁はい、明様。美月様はさっきなんて言って何をやってました?﹂
581
﹁え? え? えっと、えっと﹂
﹁ただいまって言ったらなんてお返事してあげますか?﹂
助け舟を出すと、明はおずおずと言った。
﹁お、お帰りなさい⋮⋮﹂
﹁そう、正解です!﹂
辰巳は精一杯口角を上げた。なんとか笑みに見えていればいいの
だが。
﹁次は? 何をしていました﹂
﹁ええとね、ぎゅーってしてました⋮⋮﹂
﹁また正解です﹂
辰巳は明の短い手を自分の首に回させ、ぎゅっと力を込めて抱き
直す。
﹁次は?﹂
﹁ふふふ⋮⋮。おみやげはー?﹂
明も遊びのルールがわかってきたようで、含み笑いを漏らしなが
らセリフを言った。
﹁明様は正解! でも俺はチョコレートケーキを買い忘れてしまい
ました。当主様ごっこゲーム失格です﹂
﹁ふふふ! しっかく﹂
明は楽しそうに辰巳の首にしがみつき、ぐりぐりと頭を押し付け
てくる。
﹁ゲームに負けたとき当主様はなんて言います?﹂
辰巳が問いかけると、明は少し考えてから言った。
﹁うーん⋮⋮。いっしょにやったことないからわかんない。美月様
とはやるけどね、わたしとはやらないんです、決まりなんですよ﹂
その妬みも嫉みも持ち合わせない自然な言葉にまたもや白河への
憎しみが募りそうになる。
しかし今は別にやることがあった。
﹁そうですか。ではこう言ってください。辰巳の負け!﹂
﹁辰巳の負け!﹂
582
﹁くやしいです、明日は絶対買ってきますからね!﹂
﹁わぁい!﹂
すり寄ってくる明と目を合わせるようにして、辰巳はゆっくりと
言った。
﹁明様。これから俺と二人だけのときは、ずっとごっこ遊びしまし
ょう﹂
﹁え? ずっと?﹂
きょとりと猫目が動く。まるで夕日を溶かした飴玉みたいな色だ。
﹁はい。美月様みたいに話して、美月様がするみたいに俺と遊ぶん
です。俺のことはお父様っていうかわりに辰巳って呼んでください﹂
﹁お名前の後に﹃さん﹄ってつけなくていいの?﹂
﹁俺だけ特別にしてください﹂
﹁とくべつ⋮⋮﹂
聡明な光を宿す明の猫目がじっと辰巳を見つめた。彼女はたびた
びこうして人を観察する。きっとそうしないといけない状況下にい
るのだ。
この目に嘘はつけない。そう思った。
﹁辰巳?﹂
﹁はい、明様﹂
﹁辰巳﹂
﹁はい、明様﹂
確認作業を終えると、明はすかさず問いかけた。
﹁辰巳は、当主様みたくお話ししないの?﹂
やはり頭のいい子だ。簡単にだまされてはくれないだろう相手に、
辰巳はあえて汚い大人の手を使うことにした。
﹁俺は辰巳なので当主様ごっこはすぐ負けてしまいます。だからや
りません﹂
﹁えー? ずるい! それならわたしは明なので美月様ごっこはで
きません!﹂
583
﹁ダメです、でないとチョコレートケーキなしです﹂
﹁やだー!﹂
ぷくっと頬をふくらました明に、辰巳はそれだと指をさす。
﹁あ、その調子です。明様お上手ですよ﹂
﹁え? これでいいんですか?﹂
﹁今のはちょっとダメです﹂
﹁ええー? もー、よくわからない! ⋮⋮あ、でも、美月様は当
主様にこうしてました﹂
不意に手を伸ばした明は、えいえい、と辰巳の頬をやさしく引っ
張った。
﹁ちゃんとケーキ持ってきてくれないとダメー! ⋮⋮ふふふ、変
なお顔﹂
そう言って笑う明は、なによりも愛らしい。どんなにおもしろい
ことや悲しいことがあっても動かない辰巳の口元が緩んでいく。
﹁明様、ハナマルです﹂
﹁ほんと? ケーキ、プレゼントしてくれますか?﹂
﹁はい。明様のために、たくさんプレゼントします﹂
そう言いながら辰巳は心に刻むことがあった。
本当は美月様ごっこなんてでまかせだ、上手になんてならなくて
いい。
ただ、あなたが普通の子どものように振る舞えるきっかけを作っ
てあげたい。
まず俺が目指すのは、美月様ごっこが明様の素顔そのものに変わ
ることだ。
俺にだけは甘えてほしい。
俺にだけは頼ってほしい。
ゆるみきった子犬の表情をしてほしい。
584
それが俺の仕事であり、この子の心に沿うことだ。
﹁ねぇ、辰巳﹂
﹁はい、明様﹂
明はもじもじと辺りを警戒しながら、こっそりと辰巳に耳打ちし
た。
﹁あのね、ホントはチョコレートよりあんこが食べたい⋮⋮。美月
様のおねだりのマネ。だめ?﹂
いいのかな、いいのかな、とソワソワする明に、辰巳は心臓ごと
この先の人生すべてを捧げる決意が固まった。
﹁明様⋮⋮。百点満点、です﹂
高校生にしてここまで意識できる少年はそういない。だが彼の家
庭環境、そして明という幼い女の子の存在が少年の精神を飛躍的に
成長させた。
若いながらもすでに白河の内部を切り盛りしていた岩土は、辰巳
の特異さと明へ向ける一種異様な感情に目を付け、大学進学の援助
と引き換えに白河で働くことを提案した。
辰巳はそれに際し、一つの条件を出した。
白河家には仕えない。己が仕えるべき人間は白河明ただ一人であ
る、と。
十年たった今にして思えば、すべて当主と岩土に仕組まれていた
ことなのではないだろうか、という気がしてくる。
辰巳は明のみに心酔し、当主をはじめ水音や美月には慇懃無礼と
もとれる態度をとってきた。それでもお咎めもなくこれまでずっと
585
明の側にいることができたのは、彼ら二人の理解あってこそだ。
さらに、こうして新天地に赴こうとする主の側にはべることを許
されている。そのために必要な料理洗濯掃除などのスキルは、白河
に入ってから仕込まれたもの。まるで最初からそのために用意され
ていた人材みたいだ。
どこから見透かされていたのだろう。まさか、最初から?
白河当主は人心掌握に長けていると聞くが、まさか人の心や未来
が読めるのではあるまいな。そうなると岩土も怪しい。最初こそバ
イトの内容は美月の子守だと言っていたのに、すんなりと対象が明
に変わったのは彼の言があったからではないか。
そんな荒唐無稽な想像にふけっていると、ふわっと背中に覆いか
ぶさってくるものがあった。
﹁たーつーみ。ずるいぞ、サボりか? 引っ越しの準備はどうした﹂
幼いころからちっとも変らぬ愛らしい主が背中に張り付いてきた
のだ。
﹁申し訳ありません、明様。アルバムというのは恐ろしいトラップ
です﹂
段ボール箱へ詰める途中でふっと開いたが最後、辰巳は写真に残
る明の愛らしい笑顔に釘づけになっていたようだ。
ようやく白河という重い呪縛から離れることができるという安心
感からか、つい昔を懐かしんでしまった。
﹁もー、引っ越し間近なんだから今日はがんばるって言ったのは辰
巳だろう﹂
﹁明様があまりにも可愛らしくて、つい﹂
辰巳はそう言いながら、自分の肩越しに身をのりだしてくる主の
横顔を見つめた。
幼いころよりシャープになった輪郭、だがまったく変わらない思
慮をたたえた猫目。
586
美月様ごっこを始めてから何年たったろう。彼女は段階をふみ、
ようやく自分というものを探し出そうとしている。それを思えばま
だ目標は叶っていないのかもしれない。それでも自分に対する無防
備すぎるほどの態度は、自分が甘やかしきったことへの功績である
ように思えて仕方なかった。
写真を覗き込んだ明は呆れ気味に言った。
﹁なんてゆるみきった顔だ。わたしはこのころから辰巳には迷惑か
けっぱなしだな﹂
﹁いいんです。俺は明様のモノですから﹂
﹁そりゃ、辰巳はわたしを甘やかさなければならないんだけど﹂
なんのてらいもなく言いのける明に、辰巳は内心にんまりと会心
の笑みを浮かべる。
﹁でもあんまりそういうこと言うとなー、またワガママ言うぞ?﹂
﹁明様のワガママならばいくらでも。俺はあなたを甘やかすためだ
けに存在しています﹂
こう誇らしく言えるようになったのはいつからだったか。
辰巳は自分の首にまわる明の腕に手をそえ、満足げに言った。
﹁そんなこと言うと容赦しないからな。よし、ちょっと片づけ休憩
しよう。お茶を淹れてほしいな﹂
﹁はい、明様。お茶請けには光風堂の最中をご用意しましょうね﹂
﹁餡は? 言っておくが、わたしは⋮⋮﹂
﹁はいはい、漉し餡と白餡の両方用意してありますよ。二つ食べる
のは多すぎますから、半分ずつにして食べましょうね﹂
﹁さっすが辰巳! わかってるぅ﹂
ぎゅうっと抱きついてくるのは、あの日教えた時から変わらない。
それが辰巳には愛おしくてたまらなかった。
人生で一生を捧げるべき相手に出会える確率はどれほどだろう。
決して高くはない数値のはずだが、辰巳は自分がその数値の中に紛
587
れ込んだ数少ない人間であることを知っていた。
﹁あれ? それもアルバム?﹂
明が指さしたのは本棚の影に隠れるように差し込まれた薄い冊子
だった。アルバムであれば辰巳自身がすべて管理していたはずだが、
なぜかその背表紙に覚えはない。興味よりも不信感を覚えてページ
をめくれば、答えはすぐにわかった。
﹁これは⋮⋮。俺が来る前までの明様の写真ですね﹂
辰巳が知るよりも幼い明がそこにはいた。
美月と遊んだりお昼寝をしたりしている様子が写っている。
﹁うわァ、わたし小さいな﹂
﹁本当にお可愛らしい。くやしいです、俺がいたら、もっとこのア
ルバムは厚くなっていたはずなのに﹂
﹁辰巳はこのとき中学生くらいでしょ。そこまで尽くしてくれなく
ていいって⋮⋮﹂
主は呆れ顔だが、辰巳は真剣だった。
見たことのない明の姿に目を奪われ、夢中でページをめくる。そ
して最後のページにさしかかろうとするところで、辰巳はビシリと
音をたてて固まった。
﹁⋮⋮明様。これはどういうことですか﹂
﹁え? え、これなに? えー!? 何やってんの!? ﹂
最後のページに張られていたのは、泣きじゃくる明を抱きしめな
がら、彼女の額に薄い唇を寄せている岩土敬吾の写真だった。
﹁明様⋮⋮!?﹂
﹁ちょ、辰巳!? こわいってば、落ち着いてよォ! 知らないっ
て、覚えてないって! うぇえ、敬吾さんこんなことしてくれてた
の!? こわっ! でもこの写真今より若くてかわいいかも! う
588
わァ、おもしろい!﹂
そういえば。
明のおねだりに財布をもって走り出そうとした辰巳を呼び止め、
明が洋菓子よりも和菓子派、粒餡よりも漉し餡派、さらにおすすめ
の和菓子屋を教えてくれたのは岩土であったことを今更ながら思い
出した。ついでにその時握らされた分厚い封筒も。︵必要経費はそ
の都度報告するように、と口添えされた。︶
年ごろを迎えたのは美月だけではない、明も同じだ。
そして今は厄介な相手に目を付けられているという。
その相手から学校ごと逃れられることで気を抜いていた辰巳だっ
たが、もっとも警戒すべき男はもっとも身近にいる人間なのではな
いか、と気が付いた。
明の口から思わぬ将来設計を聞き、膝から崩れ落ちたのは記憶に
新しい。
﹁明様。俺は絶対にお側を離れませんからね﹂
﹁当たり前だろう﹂
﹁俺以外の男はみな狼だと思ってくださいね﹂
﹁うん?﹂
白井辰巳は何をおいても自分の主を甘やかすと決めている。
すべては主のため、自分の捧げる人生のためである。
明こそ、辰巳が向ける愛情のすべての受け人なのだ。
それは今も昔も変わらない。
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番外編 主と従僕、いまむかし︵後書き︶
完結と一度銘打っておきながら続けてしまった番外編第三弾、主
人公の従僕白井辰巳でお送りしました。
主従の出会いとべったべたに甘やかすに至った経緯、と思って書
きましたが、いかがでしたでしょうか。
ご意見・感想をお待ちしております。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n7030cb/
偽り悪魔の存在理由
2016年12月12日21時15分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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