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まえがき
まえがき 目次
まえがき 今年は戦後 70周年。一応、平和に過ごしてきた日本に、安倍さんは、「安保関連法案」を提出
し、強引に国会を通してしまった。半数以上の国民が反対する中、成立したこの法案は、日本を「普
通の国」にしてしまった。こんな風景を見ていて、思い出したのが、 1967年に書いたこのフィクショ
ン。話は 1960年安保闘争に身を置いた大学生の日々。
注:この本は A5版で38頁(23、000字)の本です。
目次
一章:大手前公園 2P
二章:全学連 4P
三章:フランス式 7P
四章:混乱と安らぎ 9P
五章:祭りのうた 12P
あとがき 13P
著者プロフィール 14P
次ページに進むには、各ページの右下の「次のページ」ボタンを押してください。
下にある横へのスライダーは、うまく動かないことがあります。 第一章
大手前公園
Ⅰ
<大手前公園>
大手前公園の木立の中に、我々は黒く聳える大阪城を見上げていた。
暗闇の中に、多くの人の動きが感じられた。明るく灯をつけた大阪府警のビルの玄関には、ヘルメットをつけた
機動隊が、その鋭い視線を、我々の群れに投げかけていた。もう何ヶ月、我々は、この安保に反対してきただろ
う。いくつのデモが組織されただろう。その疲労と、熱情が我々を支え続けていた。
もうあの日、いやあの夜から5日が過ぎていた。政府与党は、国民の反対にもかかわらず、5月19日、500人の警
官を国会内に導入し、強行採決を予知して座り込んだ社会党議員を実力で排除した。そして11時48分、清瀬衆議院
議長は与党議員だけで、50日の会期延長と、続いて、日米安保条約の新協定を一方的に可決してしまった。
そうした岸内閣の横暴と独善は決して許せないものであった。多数党は、その多数を手に入れたあかつきには、
その意思とその利益によって、国民の全利益を決定する権限を当然に得たかのように振る舞ったのである。広い民
衆の反発をバックに、意識した部分は、反対のその意思を表明するために立ち上がった。5月20日に始まった10万
人の請願デモは、民衆が、自己の意志を、自分で表明するために国会に集中していた。全学連は7,000人を国会周
辺に集め、マスコミは岸の非民主的行動を非難し、安保は、単に社会の意識した部分のみの闘争から、家庭の主婦
までを含む、大きな盛り上がりとなっていた。
我々、市大学自治会は全員投票により全学ストを決議し、他の大学とともに、安保国民会議主催の5.24統一
行動に参加していた。委員長の小平尾と富田は、連日のデモに擦れた声は張りあげて、我々の今夜の行動について
説明している。
中央に設けられた演壇には、社会党、共産党、総評などの、諸団体の代表が立ち、「安保反対」「岸内閣打倒」
の声を上げていた。主催者側の発表によれば3万人という参加組合員、学生たちが、拍手と歓声で、それに応えて
いた。佐久子は、その白い顔に、こうしたデモに来るにしても、赤いルージュを、その形の良い唇に、鮮やかにひ
いていた。演壇のライトが反射して、その唇は光っていた。
佐久子を知ろうとしたのは、下平尾の女だという友達の話に、俺が興味を感じたからだったろうか。0女子大は府
立の故か、こうした学生運動に積極的に参加していた。府学連の共闘会議が、俺たちの大学でも取れたとき、佐久
子は女子大のモサらしい4人ほどをひき連れて、杉本の俺たちの自治会室にやってきた。箭内と言うややこしい名前
を避けて、俺は、彼女を佐久子とよんでいるけれども、佐久子と直接話したことがあるわけではなかった。
下平尾は、そのやせがたの顔に、いつも少し無精髭を生やし、男としては、少し高い、しかし、聞きやすい声で
話す男であった。そして話をしている時、その長い髪は、ひろい額に垂れ下がり、白い長い指でぽいとかきあげる
とき、佐久子の黒い冷たい目が、ねめるように、下平尾にそそがれているのを、俺はいつも気づかぬふりで見てい
た。いつも、そうしたときの佐久子の目の光の中に、なにか、ねっとりとした発散を見るような気がするのだっ
た。理性的な佐久子の挙動の中に、女を感じさせるものが、強烈に現れているのを感じるのだった。
俺の大学にも女子学生がいないわけではない。現に、俺が付き合っている和子にしても、決して女を感じさせな
いわけではなかった。理性的というインテリの仮面の裏に、時として俺をいらだたせる、女の存在を感じることも
あった。
春のはじめの頃、俺たちは自治会室で、夜遅くまでディスカッションを重ねていた。興奮と、疲労に赤くなった
目と、すいすぎたタバコに咳をしながら、広いキャンパスの、暗い芝生に出たとき、和子は急にその体重を俺にか
けてきたことがある。軽くカールしたその頭を、俺の方に寄せてきたとき、かすかな甘い香りが、俺の鼻腔をかす
めた。
いらだたしく俺は、和子を少し突き放して歩いて行った。そうした「女」は、俺に欲望を感じさせるものではな
かった。和子と寝ることは決して難しくはない。和子を想像の上で、既に犯してしまっている俺でもあり、その想
像においては、和子に対して欲望を感じる俺ではあるのだが、本物の和子には、そうした欲望を感じない自分をい
つも感じているのだ。和子の知的な仮面の下には、平凡な1人の女が必ずいると感じたからかもしれない。一生と
いう時間を、俺は安定した時間を、一緒に生き続けるという約束をしたくない。和子は俺と寝ることを許す気持ち
の中に、必ず、俺という1人の人間を自分自身に縛りつけるという、反対給付を考えているのが、俺をいらだたせ
るのだ。末梢神経を刺激しつつ、その延長の大脳までを所有する明日を、期待する心が俺をいらだたせる。
しかし、和子に、そうした期待を持たせる行動を、俺がやらなかったとは言えない。俺の大きな手が、和子の胸
の膨らみをまさぐり、完全に熟したそのふくらみの重量感を、その汗とともに俺の手のひらに感じたとき、俺は、
和子の少しうけ口の唇に俺のそれを重ねていた。和子は、大きく鼻で息をしながら目を閉じていたけれど、それ以
上は、俺は、俺自身にも和子にも許さないでいた。もし、このことが和子に、俺に対する将来を期待させたとすれ
ば、いらだたしくも、俺は和子をストイックに突き放さなければならないのだ。
今夜のデモに和子は来ていない。
打ち合わせも終わり、集会のスピーカーが我々の世界に入りこんできた。すでに決議文の採択が終わり、明るく
照らされた広場から、総評の大きな旗を先頭に、組合員たちはスクラムを組んで、公園の暗闇へ進んでいった。警
察の車から繰り返し注意を促す放送が聞こえ、カメラのフラッシュは、その周りの警官のヘルメットと鉢巻き姿の
我々の仲間を照らして、一瞬にして消える。パトカーの赤いランプがくるくる回転しながら、巨大な人の流れを照
らしている。民青のブルーの旗に続き、俺たちの順番が来る。霧が俺たちの周りをとりかこみ、大阪城の淡いシル
エットを作り出している。俺たちの大学の旗に、府大の旗が続く。
この安保のデモで、我々全学連は、いつも、しんがりだった。機動隊は、いつも後から、我々を威嚇し、追い立
てるのが常であった。俺たちは女子学生をスクラムの中程に入れ、お互いに腕を組みあって、さらにその両手を自
分の体を前でしっかり組んでいた。この形が、警官の引き抜きに一番強い形であることを、我々は学んでいた。
「安保反対」「岸を倒せ」の四拍子を、我々は口に叫び、腕を組んだ列を、その拍手に合わせ前に進めた。我々は
前の組合員たちに続き、大手前公園の暗闇から、明るいライトの交錯する府警本部へデモをかけた。俺たちの組ん
だ手は、自分の体から発散する熱気で、汗に濡れている。
携帯マイクを持って、下平尾はかんだかく叫んでいる。「安保反対」「岸を倒せ」 我々の大合唱は、霧の降り
た街に高く響き渡った。振り返ると、佐久子は、顔を紅潮させながら、大合唱に合わせて唇を開いて叫んでいた。
目は輝いていた。少し短めのその髪は、その顎の辺りで揺れていた。佐久子は、まっすぐ前を見つめていた。
先頭の辺りでガラガラ声が響く。「シュプレヒコール」「安保反対〜 国会、即時かいさ〜ん」、俺たちは口々
に叫ぶ「安保 反対」「国会 即時 解散!」 マイクは続ける。「岸内閣打倒」「安保粉砕」。府警本部はヘル
メットの機動隊に固められていた。彼らもスクラムを組み、我々の叫びを受けながら、沈黙を守って我々を見つめ
ていた。お互いの敵意が静かに、しかし、鋭く対立した。カメラマンたちは、このコントラストを捉えようと、フ
ラッシュを盛んにたいた。「ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ」俺たちは、その隊伍を振り回
し、また、振り回されながら、彼らの前を過ぎる。
天満橋への坂道は、我々のスピードを増す。共産党の宣伝カーが「独立青年行動隊」のレコードを流しながら、
我々の横を過ぎて行く。我々の波は、市電通りに降りて左側の車道を走らずに進んだ。いつしか俺たちは「独立青
年行動隊」を、叫ぶようにして歌っていた。我々を、立ち止まって眺めている街の人たちの表情にも、昨年の頃の
冷たい目とは、どこか違った光がある。中には俺たちに手を振ってくれるものいる。又、「頑張れよ」と声をかけ
てくれるものもいる。あの5月19日の岸の横暴が、彼らに、彼らが完全に無視された立場にいることを教えたの
かもしれない。そして、無表情が、我われへの目立たぬ声援に変わったのかもしれない。
我々はスクラムから腕を抜き、手をあげてその人たちに応えた。プラカードが高くかげられ、そして、波をうっ
た。岸の出っ歯が、高く上がって揺れた。「世界を繋げ花の輪に」と、女子の間から歌い出され、それはすぐ
我々、全体のうたとなった。市電は我々の横をすり抜け、乗客のあるものは、不安そうに、あるものは笑いなが
ら、我々を見てすぎる。我々の歌は続き、見返ると警察の車が、ランプを点滅させながら、数知れぬ人の頭の後ろ
で付いてくるのが見える。下平尾は、一人マイクを抱えて先頭に立ち、前の民青の連中と少し離れて、府学連の旗
と我々の大学の旗の中程を、歩いていた。そして、その後に、巻いた旗の棒を横に持った我々の隊の第一列がい
た。我々は歌い続け、夜の街をすんだ。
我々の前の方で、歓声が上がった。そして「安保反対」「安保反対」の叫びが大きく響いた。続いて「ワッショ
イ、ワッショイ」の声と、警官の甲高い笛が響いた。我々はスクラムをかたく組んだ。そして駆け足で進んだ。
我々は右へそして左へ、蛇のごとく走った。「ワッショイ、ワッショイ」は、我々の吐き出す呼吸だった。
天神橋の交差点だった。ジグザグの中に、我々は熱していた。市電が1台、交差点にさしかかったところで立ち往
生していた。警察のマイクはわめき、デモの波が、広い交差点全体をうねりまわっていた。我々は、そのあとに続
いた。誰かが「いくぞ」と叫び、我々の列は、右へ、左へふりまわされ、そしてふりまわした。「ワッショイワッ
ショイ」の声が一段と高くなり、警官隊の姿が、我々を威嚇ししようとしていた。我々は精一杯幅広く、又、真横
に突き進み、そして一方の端から、一方の端へ走った。警察のマイクは、「交通の妨害をしては…」と叫んでい
た。
大学の旗は巻かれ先頭の一列が、その旗をしっかりいだいていた。ワッショイ、ワッショイの声に、我々は走っ
た。耳が熱くなり、汗がしたたった。メガネの内側に汗がしたたりを作った。ぬるぬると汗は、額から流れる。し
かし我々は、かたく手を組んで走り、そして曲がり、そして走った、車のライトが我々をてらしていた。
カメラのライトが我々をとらえた。
その時だった。左手の歩道にいた機動隊はスクラムを組んで、我々の波を押し潰そうと進出してきた。ヘルメッ
トは光り、その波は黒く大きく、我々の方へおしてきた。我々の流れは、抵抗を受け、揺れ、ぶつかり、そして曲
がった。警官の黒い波は、我々の先頭の前に押し出してきた。我々は叫び、列を崩すまいと流れ走った。二人の警
官が1列の旗棒を持って、その動きを止めようとしていた。下平尾は、同じくその棒をつかみ、警官の手を、その
旗棒からはなそうとしていた。
我々は方向を変え、その二人を連れたまま、デモの真ん中に戻った。すべてが流れ、叫び、走り、ぶつかってい
た。先頭の列と警官の間で、殴り合いが始まった。渦の中に連れ込まれ、そして押され、警官は頭を抱えて、しか
し、執拗に棒にしがみついていた。
その間にも、我々は走り、とどまり、ののしり、叫び、ぶつかりあっていた。警官隊は「バカヤロウ」と怒鳴り
ながら、我々の列を圧迫してきた。ぶつかる瞬間、彼らの手は機械的に、横に、ななめに我々を打った。我々は、
走り続けていた。警官隊にぶつかって方向を変える時、彼らの無数の靴が、我々の足と、脛を蹴り上げていた。俺
は、足に激しい痛みを感じていた。
黒い波は、いつか我々を取りかこみ、下平尾は警官に腕を取られて叫んでいた。我々は下平尾のいる方へ突進
し、その黒い壁にぶつかり、先頭の二人がまた腕をとられて、その黒い波に捉えられていった。俺は、片方の腕を
スクラムから外し、右手で手に当たるその黒い物を殴った。無数の手が同時に伸び、俺の手をとらえようとした。
強く振り払い、又、我々はぶつかった。
我々は、怒鳴りながら交差点を少し外れた。市電の線路の上に、いくつかの女物の靴が転がっているのを見た。
肩で息をしながら、我々は走った。交差点の喧騒から外れたとき、我々は、下平尾と、そして二人の学友を失った
ことを知った。高く誰かが叫んだ「安保反対」「岸を倒せ」。我々はありったけの怒りを込めて、大きく叫んだ。
「安保反対 岸を倒せ」「暴力警官追放!」「岸の犬を殺せ!」。シュプレヒコールが続く中、我々は汗を滴らせ
ながら歩いた。振り返ると、佐久子が大きく叫んでいた。安堵感があった。中島公園が見えた。我々は、その興奮
のまま、デモの終点である大阪市庁前に到着した。先に着いていた組合の連中が、我々を拍手で迎えた。
佐久子は乱れた髪をかきあげながら、話している俺と富田に近づいてきた。「彼は」
俺へとも富へともなく言った。俺はただ頭を横に振った。佐久子は、緊張にひきつった顔を、暗い川面に向け
た。霧がさらに深く御堂筋を埋め尽くしていた。
第二章
全学連
Ⅱ
<市立大学>
5・25ストで、下平尾らが逮捕されて、もう10日が過ぎていた。
あの夜、我々は市庁舎前から曽根崎署へ、釈放要求に行った。佐久子も、そして多くの我々の仲間も、署長との
面会を要求して警察の石段で粘った。我々の要求は拒絶され、彼と他の2人の仲間は帰ってはこなかつた。彼らの
逮捕が我々に与えたものは、あるものには挫折感であり、あるものには、さらなる岸に対する怒り、我々の声を遠
くに無視する官憲への反発だった。
岸は衆院の可決をやってしまった今、国会法に定められた自然承認の30日間に、物理的時間の経過に任せきって
いた。岸は強気であった。「声なき声を聞け」と、不敵な言葉を吐いて我々の憤怒を高めた。 我々の時間は限ら
れていた。30日間という期限付き闘争は、我々の心を悲痛なまでに高めていた。我々はこの30日間に、全てをかけ
なければならなかった。岸内閣の総辞職、国会解散を、その目的としなければならなかった。
安保国民会議は、戦後、最初のゼネストを明日に決定していた。国労を中心とする公労協を中核に、全国で「安
保反対 岸内閣打倒」をスローガンに、その集会を持つことになっていた。明日の6.4ストは我々の組める最大のも
のであるはずであった。府学連は湊町から、天王寺へのデモを決定していた。
自治会室の雑然とした、プラカード、ポスターや、紙屑の中で、我々は明日のビラを作成していた。和子達が原
紙を切り、俺たちは、それを謄写版で刷っていた。手は黒くなり、袖にも、インクがついていた。「無実の学校を
救おう」というビラは不鮮明であった。
突然扉が開いて、佐久子が入ってきた。我々は、彼女の少し青白い顔を見つめた。下平尾のいないこの部屋に、
佐久子は姿を見せたことはなかった。富田が近づいていった。かけろよ。佐久子は、黙って座った。こめかみが、
ぴくりと震えるのが見えた。
佐久子が下平尾を失ったことは、俺たちのそれに対する怒りとは、全く別のものであることを皆が知っていた。
富田は佐久子の前に腰掛けて、小声で何か言っている。佐久子は、黙ったまま部屋の中を見回していたが、俺の視
線を感じてか、俺の方を見た。ローラーを持ったまま、俺はしばらく佐久子の顔を見ていた。漆黒の目がしばらく
俺を捉えていた。俺は、笑顔にはなれなかった。佐久子は、机の上の刷り上がったビラを手にとって読み始めた。
佐久子の目の中に苛立ちが見えた。
俺たちが仕事に戻ったとき、俺の背中に、ある視線を感じた。和子のそれであることを知りながら、背中でそれ
を黙殺してローラーをおした。仕事終わって、和子を下宿に送って行く時、和子は少し、いつもより俺と離れて歩
いた。生け垣の角で和子は手を挙げて、短くさようならと言って去った。空は曇って、月に大きな傘がかかってい
た。
全国560万人もの人達が参加した6・4ストは、戦後最大の政治ストとして成功したようだった。国鉄は、始
発から7時までの時限ストを決行し、全逓も時間内職集を行った。国民はそれを納得し、大した波乱もなく、その
朝を過ごした。
我々は、2時に湊町駅前広場に集まった。プラカードの数は多く、参加人員も、日を追って増加していた。佐久
子たちも、カラフルなプラカードを持ってやってきた。俺の仲間に、今日は和子がいた。少し離れた所から、佐久
子は、例の冷たい目でまっすぐ俺を見た。そして、和子を。俺の体の中に、熱いものが下腹部あたりから盛り上が
り、胃袋を持ちあげてきた。俺は黙って軽く頭を下げた。
俺たちのデモは整然と進んだ。歌を歌い、我々は歩いた。曇天の空から、一瞬光が降り、薄汚れた、みなみの昼
の姿を見せた。ビラを配り、女子学生の持っていた風船は、子供たちの手に渡って、風に揺らいだ。いくつかのそ
れは、子供の手を離れて、鉛色の空に上昇していった。「日本をアメリカに渡す売り渡す安保に反対しましょう。
」「戦争につながる安保に反対しましょう。」彼女たちは、俺たちは、歌をうたい、訴え、ビラを配りながら歩い
た。
大国町を過ぎ、左に大きく曲がり、新世界の近くの霞町を通る。時間を持て余したような釜ヶ崎の人たちも、我々
の行列を眺めて、あるものは声をかける。佐久子は、それに手をあげて応えた。しかし顔に笑いはなかった。
佐久子が一瞬、俺の方を見たとき、俺は無意識に前髪をかきあげている自分を発見した。佐久子の目が光ったよ
うに思った。俺の体の奥深いところを、あるものが動きを求めてはい回るのを改めて感じた。俺は敷石に足をつっ
かけ、少しよろめいた。俺は苦笑しながら前に進んだ。和子は俺のそばにいた。佐久子の方を見たい欲望を抑えつ
けて、俺はジャンパーのポケットに手を突っ込んで、行列の中を歩いていった。
大阪病院の坂をのぼって、デモは天王寺公園で流れ解散となった。
我々のグループは、プラカードを担ぎながら、近鉄デパートの角を曲がった。南海線の緑の古びた電車をやり過
ごして通りを渡った。富田と俺と、そして他に3人の仲間がいた。木村屋に入った俺たちは、深く椅子に体を投げ
出した。ブルーのドアの外を、南海電車が、ちんちん鳴らしながら過ぎていった。俺たちはけだるかった。佐久子
は、時々俺に視線を向けながら、しかし、その硬い表情は崩さないでいた。下平尾のいない我々のグループは、そ
の話のリーダーを失って、口数は少なくなっていた。6月19日の自然承認までの、期限付闘争で、簡単に国会解散
を獲得できるとは、誰も考えてはいなかった。けれど我々にはそれ以外にはなかった。重苦しい空気が我々を捉え
ていた。
和子はコーヒーを飲みながら、カップ越しに、俺の方を見ていた。コーヒーは苦くまずかった。先ほどから、間
欠的に俺の体を襲ってくる衝動が、俺を少しずついらだたせてきた。一息にコーヒーを飲み込んで、俺は正面から
佐久子を凝視した。佐久子の目は、それをとらえた。佐久子は視線を外そうとはしなかった。薄くマニキュアした
指にハイライトを抜き取り、富田の差し出すライターで火をつけて、一息吸って白く吐き出した。体の中を動き回
る塊が、俺の思考を停止させていた。そうした俺たちのやりとりを、和子がオドオドした目で捉えていた。見返す
俺の視線を避けて、グラスに手を伸ばした。俺は、ある束縛感に、重くとらえられていた。
佐久子達とは、夕暮れの天王寺駅前で別れた。和子はすぐ背を見せたを俺に追いつきながら、後ろを振り返って
見ていた。飲みに行こうか、背を向けた俺の背中に冷たい視線を感じながら、俺は言った。和子は、もの問いたげ
に俺の顔見てから、かすかに微笑を浮かべた。和子の今日初めての笑顔であった。上六へ向かう広い通りを左へま
がった。「オリズル」に向かう途中、和子は俺の腕に手をかけていた。たびたび俺の顔を見上げながら歩いてい
た。俺は和子をはねつけることはしないで、腕を組ませたままポケットに手を突っ込んで歩いていた。
南田辺の駅を降りた時、銀行の電光掲示板が10時半を指していた。南の住宅地のこの辺はもう人影も少なく、
街灯がポツンポツンと続く道が多い。
ジンフイズとブランデーサワーの幾杯かで、和子の耳のあたりは、薄く色づいていた。和子は重心を俺にかけ
て、もたれて歩いていた。和子は酒場での時間のうちに、安らぎを得たようだ。俺は、今夜は、全く不思議に酔い
が回ってこなかった。胸の辺りにある塊ができて、そのしこりが俺をいらだたせていた。酔ってみたかった。けれ
ど、アルコールは俺の胃袋を、その芳香で満すだけで、俺を酔わしはしなかった。和子のヒールの音が、歩道に硬
い音を響かせていた。もたせかけた和子の髪から、かすかな化粧のにおいと、女のにおいが、俺につきまとって離
れない。俺は苛立ちを感じた。胸のしこりはカッと熱くなり、さらに重くなった。和子は顔を上げて、潤った目で
俺を見た。俺は和子にまわした手に力を加えた。その手に、和子の乳房が感じられた。
和子の部屋は、少し庭を通り抜けて母屋の左側に立つ離れのようなところにあった。
いくたびか和子の部屋に入ったことがあるのに、今夜は入り込むことに何か抵抗を感じながら、俺は和子の後に
ついて庭に入った。部屋は、その主によって特有の漂う空気を持っている。和子の部屋には、大学での彼女からの
感じよりも、華やいだ甘さかあった。若い女の部屋だった。
和子は、カーテンを開け、窓を開けた。入り口につながる小さな台所に、和子は水を飲みにたった。水音を聞い
て、水を飲みたいと思った。俺も後に続いた。和子の後ろ姿には、成熟した女の線あった。ブラウンのカーディガ
ンの襟が少しずれて、和子のうなじに髪が揺れていた。
俺の中の熱いカタマリが重くのしかかってきた。俺は和子を両手にとらえた。和子はぴくっと体をふるわせて、
そのままでいた。ガラスを通して、庭の木が揺れているのが見えた。
俺は和子を胸に抱きとった。両手は、和子のブラウスの中の、重いやわらかい肉を感じた。俺のカタマリはさら
に熱くなった。両手でブラウスのボタンをはずし、そのふくらみを片方ずつとらえた。和子は、俺の手を肌に感じ
た時、軽く体を痙攣させて俺の胸に身を持たせてきた。
和子の髪に顔をうめた。俺はなにか束縛を感じた。俺は胸から手を離し、和子を向きなおらせた。和子は潤んだ
瞳で、僕を見て、俺の背に手をまわした。そのままで、俺たちは部屋に戻った。胸のカタマリと下腹部の鈍痛が、
俺をいらだたせた。和子は目をつぶっていた。俺は、和子の胸を開き、レースの飾りのついたスリップの上から、
胸の豊かな丘陵を、強く手で握った。和子は身をよじった。そして俺はさらに、和子の胸に顔を近づけ、そのふく
らみ歯にした。弾力性のあるそのふくらみは、その薄いスリップの皮膜を通して俺に反応した。
この暑い鉛のカタマリを、吐き出してしまいたいと思った。
長い時間が流れた。俺はもういいやと思った。手をのべて、和子のスカートのジッパーに触れた時、和子の手が
素早く伸びて、俺の手を軽く抑えた。胸は熱かった。俺は、ジッパーを下げた。スナップは、はずれにくかった。
俺はいらだち、それに抗って、それを外した。スカートを外す時、和子がかすかに腰を浮かしたのを感じた。こう
した行為に出会うとき、俺はいつも和子を突き放してきた。けれど、今夜の俺の苛立ちは、いつもの俺のいらだち
と少し違ったものだった。
スリップだけになった和子は、スイッチを引く俺の顔を、静かに目を開けて見た。俺を確かめるように、一瞬
光った。俺は、目をそらし、手荒く、もどかしくスリップを外し、和子を抱いた。和子の堅く閉じられた唇に、俺
は、俺の唇を重ねた。目の前に和子の色づいた耳があった。裸の胸のふくらみを強く握った。和子の呼吸が、俺の
耳をかすめた。俺はさらにいらだっていた。大きく叫びだしたかった。
和子の最後の衣類を取り去った時、和子は、俺の背に手をまわして力を加えた。和子の深い谷間に手をやったと
き、佐久子の冷たい目が、一瞬、目を閉じた俺の前をかすめてすぎた。
和子は身を硬くしていた。俺は唇を、耳から、唇へ、そして胸の膨らみへと移した。かすかな女の匂いが俺をさ
らにいらだたせた。自分のベルトを外す時、俺は鈍痛を重く下腹に感じた。和子の両足の間に体を位置した俺は、
和子の小さな茂みの複雑なカールのいくつかが、窓を通して入ってくる光に、するどく光っているのを見た。
俺は和子におおいかぶさった。和子は、かすかな声を上げて、俺をその胸にきつく引きつけた。和子の脚が、か
たくなに閉じられようとするのが感じられた。俺は、体を硬くして、和子の中に入ろうとした。和子の顔は紅潮
し、吐く息は、俺の顔を荒く打った。和子は、俺の体が、その入り口でためらっている間、頬をこわばらせてい
た。喘ぎは高かった。
再び、あの佐久子の目を背中に感じた。下腹部のうっ積はさらに強く熱く、俺をいらだたせた。俺は、体をさら
に堅くし、強引に和子に体の中へ入りこんだ。和子は、かすかに呻いて、歯をくいしばり、俺の背の手にさらに力
を加えた。
それまでのかなりの抵抗が一時に失せ、俺はさらに入り込んでいった。入り口からの時間の永さに、俺はいら
だった。体を本能的に閉じようとする和子を、俺はより深く満たしていった。和子を完全に満たし終えたとき、和
子の食いしばった歯は開かれ、目尻にかすかに涙が流れた。和子を抱きしめた俺は、そのまま静かにしていた。少
しずつ下腹部のしこりが溶解していくのが感じられた。和子の豊かな胸にヌルヌルとした汗が流れた。唇を重ね
て、俺は和子の頭をすこし起こした。膨らみのあるそのほほは暑く紅潮していた。
下腹部のかたまりが溶解し終わったとき、俺は少しずつ、和子の体からはなれていった。初めての侵入からの離
脱が終わった時、和子は、短い声を発して、俺をひきよせた。俺は、俺が、和子の中への侵入により、完全に濡れ
ているのを感じた。和子の血液だった。俺は、和子に唇を与え、側のスリップをその下半身に投げた。その白い女
体は、その小さなもので隠されていた。
第三章
フランス式
Ⅲ
<フランス式デモ>
次の日、俺たちは六甲へ登った。ケーブルに乗り、六甲の山頂に立った時、和子は俺の腕に自分の腕を絡ませて
きた。リスが1匹、道を横切って林の中に消えた。
瀬戸内の海は、かすかに淡路島を浮かべて、動きもなく横たわっていた。全てが静寂だった。風が渡っていくの
が、木々の葉の音でわかる。
和子は、安心しきった顔を、無言の微笑で崩し、俺をみあげた。二人の間に、無言の了解があった。昨夜の二人
の秘め事が、俺の思考を占領して離れなかった。けだるさが、失った下腹部のカタマリが、俺を安保から、デモか
ら、そして佐久子から切りはなし、別世界へ、俺をいざなっているようだった。
わけのわからない愛おしさが、全身をつらぬいて走り、圧倒され、俺は和子に口づけをした。和子は激しくそれ
にこたえてきた。腕の中で和子は小さかった。車のこない脇道を選んで、和子と二人歩いた。風のこない山襞の林
の中で、俺は腰をおろした。タバコを取りだして咥えた。
しばらく一人だけで立っていた和子は、ちょっと顔をしかめて、ぎこちなく、俺のそばに腰をおろした。和子の
顔を見て、俺はタバコを地面に差し込み、和子を胸にいだいた。和子は、いたずらっぽく俺に笑ってみせた。
和子はチェックのシャツのボタンを一つはずして、俺に言った。「ほら」和子の肩から胸の斜面に、紫がかった
赤いしるしが見えた。
なぜ人は、自己の存在した場に、その印を残したいと思うのだろう。机の上にナイフで削ったイニシャル、山頂
の岩への落書きなど、自己の存在したことを確実に自己に記すために、それらを残すのだろうか。たゆたった時間
の流れに、その刻みをつけるために。和子の白い胸の印も、昨夜の秘め事を確実にするために、俺が残した印なの
であろうか。
昨夜以来、俺の和子に対する気持ちの中に、それまでの気持ちとは全く異質なものが存在し始めたのを感じた。
その熱いものは、俺の意志を無視して、和子に傾こうとする。かすかな意志の抵抗を感じながらも、和子を抱きし
めて、俺は林を見上げた。高い梢の葉が、光に揺らめいて見える。足元の神戸の街から、電車のひびきが、かろや
かに、とおく、山肌をのぼってくる。馬酔木の白い花が、吹く風にさやいででいた。
6月10日に全学連の主流は羽田で、ハガチー来日反対のデモをかけた。安保は、俺の世界から、少し離れたと
ころを流れ続けていた。岸はアイク訪日の大きな花束として、安保を批准しようとしていた。ハガチーがヘリコプ
ターによってデモ隊の中の車から救出された時、マッカーサー大使は、我々の安保闘争を、単に国際共産主義勢力
による動乱と決め付け、岸内閣と口調を合わせた。
安保の自然承認の6月15日まで、我々の時間はもう短かった。自治会はその絶望的要素を押しやり、意識的に安
保に取り組み続けていた。
佐久子はあれ以後、俺たちの大学には姿を見せなかった。下平尾は身柄拘束のまま、道路交通法違反、公務執行
妨害の疑いで起訴されていた。自治会室には、この安保闘争が激化して以来、新しい連中が入り込んでいた。彼ら
は下平尾の存在を知らず、俺たちを突き上げ、そしてファイトを燃やしていた。部屋には、6.15 ゼネストのポス
ターが作られ、扉と、壁と、そしてあらゆる平面をそれらが埋め尽くしていた。
和子は、あれ以来、自己の中に、俺への安堵を見出してか、明るく、落ち着をもってきた。遠くから俺に投げて
くるその視線は、まろやかな、安定したものであった。
ある怒りが溶けてしまって、俺は、けだるさが体のどこかに残っていた。まるで山あいの奔流のすぐそばの、静
かに木の葉を浮かべる小さな淀みの中に、身をおいているかのように、安保の激流を見、そして、そのざわめきを
聞いていた。
あの時のいとおしさがふっと去って、和子を、昔の目で見ている自分発見して、ハッとすることがあった。しか
し、その戸惑いは、和子の安心しきったまろやかな視線に、たゆたい、訂正され、いとおしさを取り戻そうとする
心情に変わっていった。俺たちの共有する過去が、和子からその落ち着きを奪うことを、俺に禁じた。和子を愛し
ているのだと、自己に言い聞かせた。それのみが、あの行為と、突然、俺を襲う、制御しえない衝動的な愛おしさ
を正当化できるものだった。
自治会室を出て、俺は芝生の庭に出た。堺市との境である大和川までずっと続くキャンパスの端を、ブルドー
ザーが一台、校庭の盛り土を押しのけていた。そのエンジンの音が、変化しながら、俺のいるところまでひびいて
きた。梅雨前の、これらの日々には珍しく、空は晴れあがって、ポプラがすくっと高く空へぬけていた。押さえつ
けていたものを振り除くように、俺は腕ふりまわした。不安定な心が、己の中にあるのを感じていた。
6月15日、その日、安保条約の自然承認を粉砕する第二波のゼネストが安保国民会議により、全国規模でうたれ
た。民間の組合も、その重い腰を上げ、この政治ストに参加した。大学は全学ストであった。教授会は全学ストを
支持していた。校庭は多くの学生の波で埋まっていた。正門前に、自治会はバスを連ねた。大学の旗と安保反対の
横断幕をはったバスは、学長や教授連を乗せて、続いて出発した。
俺は和子との付き合いに、芝居じみたものを感じるようになっていた。すべては、2人の間で約束されたか
のように、俺には思えた。たゆたいの中に、やわらかくまつわりつく和子の視線からくるものに、さらに和
子自身の中に、俺は、俺を閉じ込める不透明なかすみを見た。そして、その中に存在する自己に苛立ちを感
じていた。
俺は、腕を振り回したかった。そして、下平尾の飲み込まれた黒い波と壁にぶつかっていきたかった。そうした
激しい肉体的行動のみが、このベールに包まれたような感覚の世界から、自分を解放する唯一の方法であように思
われた。その奔流の中に、自己をおきたかった。苦痛と、怒りを、俺に取り戻したかった。俺はあの日以来、和子
の肉体に触れてはいなかった。その肉体が与える、あの疎ましい無感覚の世界に、さらに取り込まれることが、嫌
だったからだ。
御堂筋側は、デモで埋まった。車は完全にストップし、広い通りはみんなが手に手を取って広がったフランス式
デモのパレードだった。学長と教授連は、その先頭に立ち、無数のプラカードが、その上に上がった。「安保反
対」「岸を倒せ」の声に、握られた人々の手が高く上がって波を打った。歌声が起こり、我々は歌った。警官たち
は、通りの両側に間隔を置いて立って、俺たちを見ていた。
シュプレヒコールの交換が、前から後ろかへ、そして右から左へと流れた。フランス式デモは整然と流れていっ
た。この瞬間に、東京で、京都で、名古屋で、そして札幌で、このデモは流れているのだと俺は空見上げて思っ
た。御堂筋の銀杏の木は、高く雄大にのび、その上空をヘリコプターが舞っていた。
こんなにも多くの人たちが、自分たちの意思を表現するために集まったのだ。俺達は、デモの脇に出て、我々を
眺め、手をたたいている人に訴えた。
「僕たちと一緒に歩いてください。デモに参加してください。安保に反対してください」
幾人かが、我々の列に入り、我々の波はさらに大きくなった。共通の立場が我々を支え、我々に参加した人を勇
気づけた。我々はさらに声を高めた。「安保反対」「アイクくるな」
俺はこの後華やかなパレードに、酔っていた。自由に体が動いた。軽い、そして感じられる心が、自分の中に
戻ってくるのを感じた。動物的な行為の持つ暗さや、和子や、それらを含めた俺を取り巻くあの重さが、軽く、空
へ歌声とともに舞い上がっていくように感じた。中之島から淀屋橋をすぎ、俺たちの流れは続いた。汗が額からし
たたり、その汗に洗われた俺の肌は、空気を感じることができた。感覚が、自分が感じられるようになった。ぬる
ぬるとした液体に覆い尽くされていた肌が、俺のものへと変わっていった。
デモは南へと流れた。組合員の中には、子供を連れて来ているものもいた。主婦連も白いエプロン姿で列を作っ
ていた。民青の連中も、我々に笑いかけ、手を振って歩いた。そして、市民も、いつか我々学生の列に、組合員の
中に、遠い炭鉱からの支援のキャップライトの列に加わっていた。全てが完全に演出された大パレードであるかの
ようであった。 黒い波は俺たちを襲わなかった。明るい陽の下に、大丸が近づき、高島屋が見えてきた。俺は叫んでいる自分
を、歩てる自分を、手を振り上げている自分を、軽やかに感じていた。
第四章
混乱と安らぎ
Ⅳ
<今宮戎駅>
熱く、腫れぼったい額から鼻にかけて、俺は手を触れてみた。鈍い痛みが、俺の顔面を焼いていた。鼻の奥に、
固まった血が残っているようだ。右の目は重く、思いっきりこじ開けるようにしなければ、視界は開けなかった。
佐久子の手を取って、俺は街灯の少ない南海線のガード下を、走るように南に向かっていた。佐久子の白いブラ
ウスに、どろがつき、髪は乱れていた。
怒りが、胃袋から急激に突き上げてきた。唇をくいしばり、もれてくる喚きをおしころした。息は乱れている。
後には、もう誰も追っては来なかった。
夕暮れだったろうか、東大の女子学生の1人が、国会であの警官どもによって、虐殺されたニュースが、俺たち
を激しく興奮させてさせたのは。
整然としたフランス式の大パレードは難波に到着し、いつ終わるともしれぬ人の波を、高島屋の前で、俺たちは
待ち受け、拍手と、シュプレヒコールの交換、歌声のうちに、彼らを迎えていた。夕闇の奥に御堂筋が続き、その
後から人々がやってきた。プラカードを振り、体を上げ、歌を歌って。
テレビのニュースは、ビアホールの俺たちを襲った。そのニュースに俺は唇をかみしめ、耳のあたりにさっと鳥
肌が立った。こみ上げる感情が俺を圧倒していた。さっき流れ解散のあった高島屋前に、俺たちは駆けつけた。
みんなの目が血走っていた。目が光って、お互いの意志を通じ合った。
俺たちの大学の旗がさっと、その中に立った。そして府大の旗も、それにならって立った。樺美智子が殺害され
たという事実が、我々を強烈に捉えていた。仲間は、つぎつぎに集まってきた。
俺は和子の手を振り切ってマイクをうばった。そして、ありったけの声を張り上げて訴えた。俺の胸に満ちてき
て、その出口を失った怒りは、俺の声となってほとばしった。岸は許せなかった。自己の意志を捨て、いんちき岸
を守る黒い波が許せなかった。人一人の生命を奪った彼らを、決して許せなかった。
皆が俺の言葉をわめいていた。
俺は、俺たちの言葉を叫んでいた。みんなが叫んでいた。共通の意志が、俺の言葉を奪った。「樺美智子を返
せ!」「暴力警官追放!」「岸を倒せ!」「安保絶対反対!」
シュプレヒコールとワッショイの中に、俺たちは腕を組んでいた。
俺たちの波は次第に大きくなり、広場を押しつつみ、その怒りを訴えた。ジグザグが広場をうねっていた。カメ
ラのフラッシュが俺たちをとらえた。俺は、顔を上げ、彼らを睨みつけていた。サイレンがけたたましく鳴ってい
た。
皆は突き上げる激しい怒りに捕らえられていた。デモ大きくなっていた。ワッショイワッショイの声は、荒れ狂
う地底から夜空に舞い上がっていった。暗くなった広場は、人の波の急流であった。
俺たちの波は、広場から道路に押し溢れて行った。ジグザグが、南外劇場から、高島屋に沿って続いた。警官の
ふく笛に、車は止まり、車の窓から無表情な顔がのぞいた。俺は熱くなっていた。一人の生命が、この安保反対闘
争の中で失われたのだ。しかし彼は、それを無関係の表情で、平然とタバコくゆらせていた。我々の波は、その大
型の車をおしつつんでいた。
黒い波が、無届けデモに襲ってきたのは、その直後だった。身をかためた彼らは、俺たちにその厚い壁でおそっ
てきた。俺たちの怒りは、樺美智子の生命を奪ったこの同類の犬どもを許しえなかった。俺たちは抵抗した。腕を
振り回し、奴らを殴った。プラカードの棒を握って、黒い波のもつ警棒にうちかかった。足に、脛に痛みがあっ
た。
世界が無統一に荒れ狂っていた。
彼らの目の中にも、怒りが芽生えてくるのがわかった。俺たちの怒りが、黒い波の怒りにぶつかった。悲鳴は不
思議に、聞こえなかった。肉にぶつかる棒のたてる鈍い音。打ち掛かるときに発する、短い叫び。見える世界は、
激しく流動をしていた。
突然、鋭く熱い感覚が、俺の顔面をとらえた。鼻腔から、なまぬるい液体が湧き上がってきた。俺は、むやみに
打ち掛かっていった。ヘルメットの1人の顔が、すぐ俺の目の前にあった。俺はその青黒い顔の側面を、思いっき
り棒で殴った。その黒い姿は、横に倒れた。
その背後に、佐久子が頭を手にのせて、波の中にもまれていた。佐久子の手を奪い、俺は駆け出していた。暗い
方へ向かって、黒い波に打ちかかり、そして走った。とらえて離さぬ手を殴り、大阪球場の横へと走った。幾人か
が、俺と佐久子を追ってきた。俺は佐久子の手を握り、なまぬるいしたたりを顔に感じながら、ガード下を駆け抜
けた。ぬるりとした棒を投げ出して走った。前の暗闇を頼りに、佐久子をせかせながら、手をひっぱって走った。
もう誰も来ないようだ。ポケットからハンカチを出して、俺は、そっと額から鼻にかけて拭いてみた。鈍い痛み
がおそい、ハンカチは固まりかけた血に汚れていた。佐久子の青白い顔が、俺の顔を見つめていた。佐久子の顔に
は、外傷は無いようであった。ブラウスの袖が破れ、すこし血がにじんでいた。
黙って見つめ合ったまま、俺は佐久子に、手をさしだした。佐久子は、その手をしっかり握った。いつもの冷た
い目は、その冷たさを失った代わりに、鋭く怒っていた。俺は、さっきのこみ上げる怒りの中に、さらに重いしこ
りが加わるのを感じた。唇をかみしめてしめていないと、静止もきかず、唸りがほとばしりそうでそうである。
俺たちは、小走りにガード下を進んだ。和子はどうしただろうと思った。今宮戎の駅の光が見えた。頭の上を電
車がわめきながら走りすぎた。
粉浜の駅に降りるまで、電車の中で、俺は顔を伏せていた。唇のふるえが止まらなかった。佐久子が、気
遣わしげに、俺の顔の傷を見ていた。その目には、ある光が宿っていた。単なる怒りの光ではないその中
に、下平尾を見ているときの佐久子の目の光があった。俺の胃袋は、固くかたまり、怒りの外に、下腹部に
熱いカタマリが生まれてきているのが感じた。
佐久子のアパートは、粉浜駅から左に降りて、少し暗い道を五分ほど行ったところにあった。その小さなアパー
トは、大きなケヤキの木の下にあった。
「ここよ」
佐久子はぽつんといって、俺を入り口に招き入れた。泥だらけの俺の靴を、佐久子は下駄箱に入れて、汚れた自
分の赤いバックスキンの靴の紐を解いた。
扉を開けて、佐久子は部屋に入っていった。俺は額に鈍い痛みを感じながら、廊下にいた。小さく箭内佐久子と
あった。明かりをつけて、部屋を片付けているようだ。廊下の窓から、通天閣が遠くにゆらめいて見える。俺たち
の逃げ惑った難波も、その空は鈍い赤い色映じている。風が、庭のケヤキの枝をゆすってすぎた。永い時間のよう
であった。俺はふつふつと燃え上がる怒りを、胃に、そして下腹部に感じながら、唇をかんだ。
佐久子の部屋には、透明な、さわやかなにおいがあった。和子の部屋の、あの甘い匂いはなかった。佐久子は、
部屋に入るとき、俺に手を貸してくれた。左の腕が、しびれているのを知った。左手は力なく、だらりとしてい
た。つめたかった。痛みは全くなかった。
佐久子は、俺のジャンパーを脱がせてくれた。左手は、俺の意志に反して、ぴくりとも動かない。佐久子は、湯
を沸かし、タオルを絞ってきてくれた。俺をベッドに座らせ、画面の傷を丁寧に拭いた。痛みが、はっきりと戻っ
てきた。右の目は、はれぼったく、うすくしか開けられなかった。傷をぬぐうとき、佐久子の胸が、俺の顔に近づ
いた。あるか無いかのかすかな透明な体臭を、俺はかぎわけた。
佐久子は消毒液を取り出し、俺の傷口を洗った。激しい痛みが全身を走った。怒りが、目の前の佐久子の細い体
を透過していった。ワイシャツに、いくつかの血痕が黒くなっていた。左手を、右手で持ち上げてみた。肘の関節
のあたりから、感覚がなくなっていた。俺は胃袋を盛り上げてくる怒りを制止できなかった。くちびるは震えつづ
けていた。黒い波が、黒い壁が、憎かった。許せなかった。
台所に入っていく佐久子の後ろ姿を、俺は片目でおった。佐久子のスカートは、やはり汚れていた。足にも赤黒
い斑点があった。
ベッドに腰掛けて、握った手を開いてみた。汗と、そして血液によって、こわばっていた。温かいタオルが、そ
れを包んで、そのこわばりから解いてくれた。みると、なぜか、佐久子の唇にルージュがまだ鮮やかに残ってい
た。光に淡く陰影が、その片隅にあった。
俺は、体を震わせながら、右手で左手の指を一本ずつ開いて、きれいになったその手を見た。佐久子が入れてき
た紅茶を口に含んだ。かなり強く、ウイスキーの香りがした。喉が乾ききって、飲み下すことを忘れたかのよう
だ。
俺たちは、部屋に入って以来、黙っていた。
片目で見上げた顔に、髪がかかってきた。俺は、無意識に例の仕草で、髪を掻き揚げた。佐久子の目が少し笑っ
たようだ。俺は、体を震わせる怒りに混じって、ある別のシコリが下腹部を重く圧しているのを感じた。 佐久子は、ふすまを閉めて出て行った。机の上のスタンドが、緩やかな光を投げている。窓の厚いカーテンを通
して、南海線が走り抜ける音を聞いていた。
佐久子は、やっと爽やかな顔をして、杉折のスカートと、柔らかな線のカーディガンを着てふすまを開けた。タ
バコを1本くわえて、ライターで火をつけた。そして、差し出された、かすかに濡れた吸い口を唇にした時、俺は
下腹部の熱い塊を意識した。「何か食べる」佐久子が聞いた。
「いらない」
俺は言った。
俺の胃は、堅くしこっていた。佐久子は、自分のタバコに火をつけて、俺の側に座った。佐久子の重みで、ベッ
トは少しゆらいだ。はれぼったい目の上が、さらに熱くなった。佐久子の胸の膨らみが、カーディガンを通して優
しい線を見せていた。佐久子は、落ち着かぬ風だった。ピクリと頬をけいれんさせたりした。俺たちは、やはり最
前の乱闘の興奮を沈めることができないでいた。せかせかと、俺はタバコを吸った。
佐久子はその視線を俺の左手にうつした。左手はだらりと醜くたれて、ベッドの上にあった。佐久子はいつもの
ように、くい入るような目で、それを見て、それを手に取った。俺は、無感覚な俺の体の一部を佐久子にゆだねて
いた。佐久子のうつむいたあごから首のあたりに鳥肌が立った。熱いかたまりが、胃から胸をかけあがってきた俺
は、自由な右手を佐久子まわした。
佐久子の冷たい目が光った。俺は、右手に力を加えた。ゆるやかに弧をえがいて。佐久子は、俺を見つめたま
ま、ベッドに頭をおいた。俺は、佐久子の顔にかぶさっていった。やわらかい唇が、俺のカサカサに乾燥したそれ
に触れた。かすかに唇はひらかれていた。舌の先に鋭利な小さな歯を感じ、俺は、その小さな隙間に舌を滑り込ま
せた。爽やかな香りが、俺の口腔を満たした。佐久子のそれが、俺の舌に出会い、かすかに引っ込められた。俺
は、佐久子の唇に触れている唇だけを感じていた。
扉にノックがあった。佐久子は俺をはねのけ、入り口へ出て行った。管理人らしい女の人との短い会話が聞こえ
てくる間、俺は、佐久子のそれが今まで触れていた唇に、手を持っていった。佐久子はすぐに戻ってきた。佐久子
は、立ったまま、まっすぐに俺を見つめた。俺は、片方の目をできるだけあけて、その目を見つめた。さらに熱い
ものが、俺の下腹部から胃へと登り始めていた。
俺は自信なく、右手を差し伸べた。佐久子は、その手を握ってくれた。そして、目をきらりとさせて、俺の顔に
重なってきた。俺は、片腕に佐久子をいだいた。左手の上に、佐久子は自分の体を落とした。激しい怒りが、欲望
にとってかわっていた。佐久子は、いつもの青磁の肌を思わせる顔を、心持ち赤らめていた。佐久子は、唇を許し
ながら、力ない俺の左手を握っていた。 シーツは透明な佐久子のにおいがした。佐久子は、握っていた俺の手を離して、ベッドからおりたった。目を閉
じた俺は、怒りがいつしか激しい佐久子への期待となっているのを知った。顔面に鈍い痛みが、遠くにあった。
佐久子が、つるりとした冷たい体を、俺のそばに入れた。なだらかな線が、細い首から肩にかけて流れていた。
俺は、佐久子の細い肩を右手でひきよせた。胸と胸が、そして体全体が、ぴったりとした。このすべっこい感覚
の中に、俺は、やっと体の震えをとめることができた。佐久子の胸は小さく、しかし、俺が、震えから解放され
て、ほっと息をしたとき、その膨らみは、俺の胸を柔らかく圧した。体と体を合わせていて、やっと俺は、安らぎ
を感じた。黒い壁のうちおろす警棒の恐怖も、振り回した腕を打つ鈍い痛みも、血も、怒号も、しだいに俺の心か
ら去っていった。
俺たちは、じっとしていた。二人の間の俺の左手を、佐久子は、体を少し持ち上げて、自分の首の下においた。
麻痺しきったその手は、佐久子の重さを感じる事はできなかった。俺は、やっとその暖かさを知った。胸から、足
から、佐久子のすべっこい感触の中に、やっと温かさが戻ってきた。そして熱いかたまりが、胃から全身に拡散し
ていった。
そのすべっこい肌と肌の連続の中に、一点の違和感があった。俺は、手を伸ばして、その布を下げ、佐久子の体
から外した。すべっこい感覚が、俺の肌をおおった。俺は、その感覚から来るやすらぎの中に、佐久子の唇にゆっ
くり顔を近づけていった。佐久子の目の光は、暖かみを持った緩やかな光に変わっていた。俺の、欲望はその激し
さにもかかわらす、穏やかなものに変質していた。ゆたかな、大きな波のうねりのように、俺を、佐久子を、ゆた
かな温かいものが満たしていった。佐久子の透明な体臭が、俺を、いらだった、とげ、とげした感情の世界から隔
離してくれた。
俺は、佐久子の体にそって、すべっこい感覚に手を滑らせていった。胸から腰へ、そのすべっこい肌は続き、そ
こからかすかな下降をたどって、深い谷前となっていた。大腿のやわらかい肉が、さらに足へ伸びていた。俺は唇
を重ねたまま、佐久子の深い谷間へ指を進めた。かすかな茂の中に、潤った小さな傷口があった。体全体に広がっ
た熱いものが、その部分で熱くなった。強く唇を重ね、深く佐久子の舌を探した。縮こまったそれが、おくびょう
に俺の舌に触れた。俺は、濡れた指先を佐久子の背中に回して、堅く佐久子を抱いた。俺は、それを契機に、緩や
かに佐久子の傷口から入りこんでいった。
佐久子の、温かな舌は、強く俺の舌に絡まってきた。佐久子の体が急に熱くなって、ぴったりと重ねた二人の体
の間に、汗がさっと生まれた。佐久子の体に、小刻みの震えが生じた。汗が下降しはじめていた。佐久子は唇を離
し、唇を少し開いて、俺の肩に顔を押し付けた。かすかに吐く吐息が、全てであった。佐久子は声を立てなかっ
た。
俺は、佐久子の体を満たしを終えた。二人は性急ではなかった。大きな安堵が、二人の間に通いあった。汗が、
二人の体の間をつたっていたが、その汗は透明なさらさらとしたものであった。
俺は、佐久子のすべっこい臀部に手をかけて、強く俺のほうにひきよせた。俺は、佐久子により密着したかっ
た。その密着した状況が、今の俺の一番求めているものだった。安堵と、安らぎと、ゆたかさと、深い人間の接続
が、怒りにすさんだ、ささくれだった心と、血を流した体とを満たしてくれそうだった。佐久子はできるだけ近く
近く、俺に接した。汗のみが二人の体の間に介在する唯一のものであった。
二人は、これ以上、密着できない形であった。うねりが、大きく二人を圧倒し、佐久子の口から吐くあえぎが、
僕のそれと一緒になった。佐久子の体、奥深く入り込んでいた俺を、佐久子のその筋肉が締め付け、俺がそこにい
ることを、俺たちがそんなにも深いところで結あっているのを知らせた。体中の熱いものが、煮えたぎった。俺
は、右手で佐久子を力いっぱい胸にいだいた。佐久子は目を閉じた。二人の体にけいれんが走り、その中で、熱い
ほとばしりが過ぎていった。
俺は、カーテンの隙間から入り込む明るい光の中に目を覚ました。
感覚のない左手の上に佐久子の寝顔があった。睫毛は閉じられた目蓋にきれいに並んでいた。佐久子はかすかな
寝息をたてていた。その両手は、自分の胸に揃えて、軽く一つずつ握られていた。その拳の影に、美しい曲線を
もった乳首が息づいていた。片方の小さな乳首は、そのまわりの丘陵にうまっていた。俺は、安らかさを感じた。
昨夜のむき出しの怒りは、俺の体を去っていた。やすらぎに感謝しつつ、俺は、佐久子の唇に俺の唇をそっと重
ねた。佐久子は目をさまさなかった。
第五章
祭りのうた
Ⅴ
<南海鉄道 天王寺駅前駅>
アイクは、訪日を中止した。岸は、アイクの身辺保護に確信を持てず、中止要請を公電した。それは一つの勝利
であった。
しかし、国会周辺の流血事件の6.15の翌日、大手新聞は、今までの安保闘争に対する同情的な記事を完全に
すり替えていた。意識しない部分に対して、活字の威力をもちいて、岸と自民党を正当化しようと努力した。マス
コミはその正体である事なかれ主義を、我々の前に暴露した。「国際信用の失墜」として、全学連の抗議行動に非
難を加えた。そして、あたかも暴力は、学生と、組合員と、意識した市民のものであるかのように、七社宣言をそ
の紙面に刷った。樺美智子の生命を奪った、凶暴な黒い野犬の群れを、彼らは、その非難の対象として捉えはしな
かった。
安保自然承認の期限である6月19日は正確に35日後にやってきた。その日、批准の閣議決定は、密かに行わ
れ、その夜、天皇の認証は終わった。
佐久子と一緒に大学病院に行った俺は、その帰り、あの夜、俺たちが逃げまどった南の盛り場に、安保闘争の片
鱗も知らず、人々が明るく流れているのを見た。左手の麻痺は、少しずつ、感覚を取り戻していた。時が、我々の
意思を無視して、その精確な秒を。分を、時間を刻んでいった。
佐久子のアパートに、俺は一週間を過ごした。佐久子の透明なにおいと、俺の心をやすらぎに導く、佐久子の体
が俺のまわりにあった。
佐久子も、俺も、それらの日々に、生活に、強いて意味を見出そうとはしなかった。強いて正当化のための弁明
を試みはしなかった。ある偶然から始まった佐久子との生活に、俺は、心のやすらぎと、豊かさを取り戻し、無意
識の中に、俺自身を縛り上げる自意識から自分を解放していた。それだけで充分であった。佐久子の透明さが、俺
にそれを許していた。
6月22日、安保国民会議の主催する第十九次統一行動が、街を流れていた。しびれの残った左手をポケットに入
れて、俺は、佐久子と天王寺駅前に立っていた。顔面の傷は堅いかさぶたになっていた。右目は、はれが引いて、
細くではあるが、努力せずにみえた。佐久子は別れ際に、俺の右手をとって、強く握った。佐久子の目は以前の落
ち着いた冷たい光を取り戻していた。
二人の生活は、あの苛立ちと、怒りと恐怖の世界から、佐久子を立ち直らせていた。二人が、あの時、結ばれた
そのことによって、お互いが、自己に豊かさと、自分らしさを取り戻していた。佐久子は、俺との深い結びつきの
日々の中に、いらだちと、怒りと、とまどいの永い時間から決別していた。佐久子は、そのやすらぎの中に、傷つ
いた自分の心と、体を癒していた。そして、俺の心からは、恐怖と、ガソリンの炎のような怒りが、静かに去って
いった。佐久子との結びつきがしあわせであった。それは、ゆたかさを取り戻させてくれた、やすらぎの世界で
あった。
俺は、佐久子の目を見て、佐久子の細い手をゆっくり握った。二人の目に感謝があった。「さようなら」佐久子
は見なれた後姿を見せて、ゆっくり駅から、外の明るい光の中へ出て行った。俺は、その明るいエメラルドグリー
ンの姿を見つめて立っていた。
6月23日、マッカーサー大使は、藤山外務大臣と、新安保条約の批准書交換式に出席した。そして午前10時半、
安保改正の完成を見て、岸内閣は退陣した。
岸は倒れた。しかし19次にも及ぶ、全国統一行動は、具体的な勝利もなく、その幕を閉じた。あの怒りと、自己
の意識の表現であったあの安保の波は、幻のように俺の脳裏に残っていた。
日々は、たえまなく過ぎていった。和子は、佐久子と俺のことを知って、一か月近く、俺を自信なく見続け、そ
して去った。俺は、和子の後姿を無表情にみまもった。和子のとまどいと、苦しさは分かっていた。けれど、俺
は、その和子を引き留める気はなかった。和子の願う結びつきは、俺の願うそれとはまったく違ったものであるこ
とを知っていたからだ。
日々は、正確な歩みを続けた。夏が来ていた。この阿倍野の俺の下宿から、南の方に大きな積乱雲の厚い連なり
が見える。その輝くつらなりを見つめていて、俺はめまいを感じた。左手には、まだかすかなしびれが残ってい
た。俺は、その腕を曲げてみた。
佐久子が、下平尾と結婚すると言う噂を友達が伝えた。佐久子は完全に立ち直ったのだと思った。
<60年安保>
悲しみも、虚しさもなかった。ただいくつかの花びらが流れていただけだった。
脚注:クレジット
「南海電鉄大阪軌道線 上町線 天王寺駅前駅」は、「私の撮った鉄道写真」のオーナー、堀越様の了承を得て、借
用しています。
http://m-horikoshi.la.coocan.jp/lac16_Romen/_Rr_59_00_NankaiOosakaKidou3.htm
あとがき
あとがき
あとがき
今後の日本はどうなっていくのか、誰にもわからない。忘れっぽい国民性。戦前回帰の第一章
が、今年、 2015年に完了したのかもしれない。いつの間にか「ゆでガエル」になっていて、自由とい
うあたり前のことが失われてしまった日本にいる自分たちを、後になって発見するかもしれない。若
い人たちにとって、それは、明日であり、将来であり、そして、自分の人生である。
脚注
この本は、1967年5月、法政大学英文研「ヘルムアルムナイ」に収録
したものです。
著者プロフィール
著者プロフィール
徳山 てつんど (德山徹人)
1942年 1月 1日 東京、谷中生まれ
1961年 大阪市立大学中退
1966年 法政大学卒業
1966年 日本 IBM入社
システム・アナリスト、ソフト開発担当、コンサルタントとして働く
この間、ミラノ駐在員、アメリカとの共同プロジェクト参画を経験
海外でのマネジメント研修、コンサルタント研修を受ける
1996年 日本 IBM退社
1997年 パーソナリティ・カウンセリングおよびコンサルティングの
ペルコム・スタディオ( Per/Com Studio)開設
E- Mail: [email protected]
HP: http://tetsundojp.wix.com/world-of-tetsundo
著書
Book1:「父さんは、足の短いミラネーゼ」 http://forkn.jp/book/1912
Book2:「が大学時代を思ってみれば …」
http://forkn.jp/book/1983
Book3:「親父から僕へ、そして君たちへ」 http://forkn.jp/book/2064
Book4:「女性たちの足跡」 http://forkn.jp/book/2586
Book5:「 M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その 1」
http://forkn.jp/book/4291
Book6:「 M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2」
http://forkn.jp/book/4496
Book7:「ミラノ里帰り」 http://forkn.jp/book/7276
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