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アレクサン ドル一世時代の教育政策
アレクサンドルー世時代の教育政策 -リベラリズムの理念とその矛盾一 佐々木弘明* Policy Educational in the Reign idea of liberalism -The Hiroaki and of Emperor Alexander I its contradiction- SASAKI 1803年と1804年に発布された一連の大学令-ヴイリノ大学(1803年4月4日),デルプ ト大学(1804年3月21日),モスクワ大学と-リコフ大学とカザン大学(いずれも1804年11 月5日) -そしてその直後にそれぞれの大学の管轄下に置かれる諸学校 ギムナジヤ と郡立学校と教区学校 を規定した学校令は,大学には広範な自治権と教授の自由を認 め,また諸学枚は単線型システムと広範な教授内容を規定した。これらはアレクサンドル ー世(在位180ト1825)の治世の初期のリベルな政策を端的に示したものであった。これら はアレクサンドル皇帝在位中,基本的には教育令として機能するが,同時に現実のロシア の社会構造,つまり貴族社会・農奴制社会での諸矛盾,その改革-の動きとそれへの抵抗, そして内外の政治・社会的動向,等との関連の中で,その実効性と内容が変化していった。 教育問題は人間形成,啓蒙・教化という色彩から次第に政治的色彩を強めていきやが七政 治的手段と化していった。 以下アレクサンドルー世の治世下の初期の理念とその矛盾と変容そしてそれに伴う教育 政策の特質を解明していく。 アレクサンドルー世は,解放者,改革者として,とりわけ貴族階層から歓迎されたo彼 に対する期待は,一方で保守的な貴族層からそして他方でリベラルな貴族層から寄せられ たものであった.彼の父パーヴュルー世(在位1796-1801)は,近衛将校によって暗殺され たが,それはパーヴュル皇帝によるプロシア的軍国主義的風潮とその強要,さらに貴族の 軍役義務の復活と農奴労働の軽減化,等のいはば貴族への圧迫がその大きな要因であった。 従って保守的貴族層は警察的圧迫からの解放と彼らの特権の復活と拡大を求めた。・他方リ ベラルな貴族層は,フランス革命期の思想やアダム・スミスなどの影響を受け,政治・行 *教育学教室(°ept. of Education) 2 佐々木弘明 政改革と農奴解放などを求めた。 アレクサンドルー世は,共和主義者として知られていたスイス人ラ・アルプ(1754-1834) を師とt,彼の手で10年あまり(178511795)啓蒙思想を植え付けられ,理念において彼は 人間の自由と権利を擁護しまたフランス革命にも理解を示すリベラリストであった(1)。皇 太子時代の1786年に,披はリベラルな若い貴族たち ア・チャルトルイイスキー公爵 (1770-1861),エヌ・ノヴォシーリツオフ伯爵(1768-1838),ペ・ストローガノフ伯爵(1774 と親密になり,彼を交えたこれら「若き -1817),ヴェ・コテエペイ伯爵(1768-1834) 友人たち+は秘かに会合を重ね,農奴制の廃止,専制主義の害悪と共和政体の優越性,守 についての議論に夢中になった(2)。また彼は1789年にラ・アルプに宛てて「あわれな祖国は, 名状しがたい状態にあります。農民は困り果て,商業は行き詰まり,個人の自由と平和は もはや存在しないも同然です。 --優にわたしが支配者になる運命にあるとしたら,この 国を自由な国家に成長させるようつとめ,そうやって,将来においても祖国が気違いども の意のままにならぬよう措置を講じておくことのほうが,祖国を捨てるよりはるかにまさ っているだろうとわたしは考えましたo+とそのリラベルな見解を書き送っている(3). このようにアレクサンドルは理念においてリベラリストであったが,しかしその反面, 父パーヴュル皇帝の寵臣で無教養と粗野な軍人ア・アラクチェ-エフ(1769-1834)と深い 信頼関係を結んで父の疑惑や叱責からその身を守ろうとする現実主義者でもあった。アレ クサンドルはピョ-トル大帝のような実行的改革者ではなかった。彼の行動はつねに早急 さや極端を避け, 「10回仮縫いして一着の服を作れ+という諺を愛好する慎重さ(4),時に優 柔不断さを印象づける漸進主義である。従って敵を作ることを好まず,保守的な貴族の意 見も聞き,状況を判断してそれに譲歩することも敢えて行なった。 かくてアレクサンドルの周りには保守主義者もリベララストも混在し,彼の政策は両者 の力関係に影響されぎるを得なかった。彼の治世の前半はリベラリストたちが支配し,そ の後半は保守主義者が巻返しを図り,いわゆる反動期をつくりだしていくが,こうした時 代の流れに対する逆行はアレクサンドルの死によって表面化したデカブリストたちに代表 される革命思想を醸成することになった。 「若き友人たち+を呼び戻し,また・アルプを相談相手 即位したアレクサンドルー世は, として,リベラルな改革者としてその治世を開始する。 アレクサンドルー世は,即位後まもなく,従来の貴族会議の廃止とともに皇帝の傍らで 国事と国法を審議する常設の会議機関の設置から,国政の改革に着手するが,改革は皇帝 (1801年-1807) と4人の側近「若き友人たち+の私的な会議,いわゆる「非公式委具合+ によって推進されたo 「非公式委月会+は1801年6月24日に第一回会議を開くが,会議は翌 年5月12日までに実に35回に及び,精力的にさまざまな問題を審議し改革案を作成した。 「非公式委月会+の出発点は貴族の権力の拡大の抑制,皇帝の絶対権力の強化にあった。 それは上からの改革を志向したのであった。共和制を最終的理想とするストローガノフを はじめ, 「若き友人たち+は「絶対権力を強化させることによって,いはば皇帝権を利用し (5)することを企図した。 て,農奴解放その他,上からの改革を断行+ 「貴族階層の中には,教育も受けないくせに,ただ勤勉さを認められ ストローガノフは, 3 アレクサンドルー世時代の教育政策 て称号をもらった連中,皇帝の権力から先は何一つ見越せない思想の貧困な連中が,山ほ どいる。 I--もっとも無知で,もっとも卑劣で,石頭ばかりの階級だ!+と(6),私的利益の みを求める貴族のエゴイズムを批判した。後にとって改革は行政改革から始めて,貴族の 発言力の低下と皇帝権の絶対化によって上から強力にしかも速やかに推し進められなけれ ばならなかった。皇帝となったアレクサンドルの前に現われた師ラ・アルプは,もはや共 和主義の理念を捨て,若き皇帝に「明敏な専制君主+たることを望み, 「法と秩序を結合す る+には堅固なる君主の権力が必要であり,それは,r不可侵なままに保たれ+なければな らか-として, 「絶対権力が陛下にもたらす嫌悪の気持ちにまどわされることなく,絶対権 力を完全なままに保ちそしてそれを分割しないこと+ (7)がロシアにとってもっとも重要で あることを進言した。即位直後のアレクサンドルに感涙を与える内容の手紙を送ったこと を契機に, 「若き友人たち+と同等の待遇を受け,改革の請合議への出席を許されたウクラ イナ人貴族で官吏のヴェ・カラーズィン(1773-1842) (8)は,皇帝-の手紙の中で,ロシア 「専制によって,専制を統御+することによって開か の前途に広がる「洋々たる未来+は,. れることを強調した(9).リベラルな貴族たちによる貴族のエゴイズム批判と皇帝の絶対権 力への期待は長い間続き,デカブリストの乱の首謀者ペ・ペステリ(1793-1826)でさえ1820 年頃まで貴族こそが「その特権をもって,君主と国民の間に立ちふさがり,自分の利益の ために国民の本当の状態を君主に隠蔽している障壁だ+と述べ,また同じ首謀者のひとり の疑いで亡命を余儀なくされたリベラリストのエヌ・トゥルゲ-ネフ(1789-1871)は, 「解 放問題を解決できる唯一の者は独裁権力であり,皇帝自身である。+ 「もし改革が障壁にぶ つかるとしても,その責任は必ずしも君主が負うべきではないだろう。特権階級の,また 特権を持つ個々の無分別なエゴイズムこそ非難されるベき場合が多い+と述べ,アレクサ ンドルに改革を度々進言して, 「絶対権力はわが国の救いの綱である+とさえ言い切ってい る(10)0 一方では,貴族こそが国家の支柱であり,皇帝の権力との並列こそが国家の安泰をもた らすとする保守的有力貴族たちによる貴族主義的立場からの改革要求があった。ア・ザォ ロンツオフ伯爵(1741-1805)は,アレクサンドルに覚え書きを提出し,その中で,ピョトル大帝以来のロシアにおける貴族の役割を強調し,成り上がりの寵臣や下級士族によっ て政治が左右されたことまたパーヴュル帝の貴族-の抑圧にこそ混乱の原因があるのであ り, 「貴族上層の政治勢力を高めることのうちに一切の悪を匡正する道+がある(ll)という観 点からの改革を提案したが,チャルトルイイスキーは彼を「女帝を帝位に招いて彼女の権 力の制限を欲したあの昔の自由主義的ロシア貴族の気分が彼のなかに残っていた+と評し t=(12).弟エス・ヴォロンツオフ(1744-1832)はノヴォシーリツオフ-の手紙の中で, 族は--・君主と民衆との間のもっとも緊密な仲介者である。貴族は民衆制御に力を貸し, 「貴 玉座の本来の支持者である。貴族に対するもっとも深い尊敬を民衆に吹き込む必要がある。 --貴族を傷つけ,貴族を破壊したから,ジロンドやジャコバンがフランス君主制の転覆 に成功したのだ--貴族を弱めるのは玉座の基礎を堀り崩すことを意味するo+ (13)と書き 送っている。 アレクサンドルー世は専制を排除すべきとしたが,実は後にとって「専制とは,貴族の 4 佐々木弘明 横暴であった+にほかならなかったのであり,いわばこれまで皇帝の権力が貴族の権力に 屈伏してきた状態カさらその逆転を望んだのであり,彼は「無秩序な貴族政治を,確固とし た主権のもはに秩序ある三権分立の真の君主制を意図した+ (14)のであったo従ってアレク サンドル中にはも.はや共和制は理念においても存在しておらず,皇帝の絶対権の確立にお 「若き友人たち+と同じであったが,その日駒は最初から異なっていたといえた。 いては, 彼はリベラルな改革者としてふるまったが,だからといって貴族主義者を排除したわけで 「若き友人たち+はノヴォシーリツオフを除いて改革は一 はないし,改革も急がなかった。 挙に迅速に進めることが必要であるとした。しかしラ・アルプは,改革は性急であっては ならず,行政改革にしても農奴解放にしても,性急さのために貴族の不満の増大,さらに は反乱の原因となるようなことは避けなければならないとアレクサンドルに進言し,皇帝 はそれに意を強くして「物事は漸進的にやっていかなければならない。常に段階を追って 進まねばならない+と言ったという(15)0 改革は皇帝と「若き友人たち+による「非公式委月食+の手で進められたが,皇帝の「漸 進的+遂行は,元老院の改革にしても,農奴制の改革にしても,貴族主義との対決を避け ながら,常に貴族への譲歩をもりこみながら進められた。例えば,農奴の解放について1803 年の「自由農民+に関する勅令が発布されたが,それは貴族の自発的な農奴解放を許可し たもので,いわば地主の良心と善意に期待した道徳的勅令であって,ほとんどその実効性 を持つものではなかった。皇帝の漸進的改革の方向はやがて急進的な改革を求めるストロ ーガノフたちとの間の溝を深めていく。アレクサンドルにはものわかりのよさと優柔不断 さとが同居していたが,エム・スベランスキー(1772-1839)は,皇帝は「統治するために はあまりにも弱く,そして統治されるにはあまりにも強い+(1¢)と性格づけているが,統治 者としての能力はすぐれてはいなかったが,その本質は頑固で,臣下の言いなりにはなら ず,必ず自分の意見を取り入れたが,また凄歩もした。スベランスキーの指摘に従えば「彼 はすべてを半分までやる+ (17)ことでよしとしたといえよう。 「非公式委月食+は, 1807年アレクサンドル皇帝のナポレオンとのテルジット条約の締 結をめぐって「若き友人たち+との対立が激化し,彼らが辞職を願い出たことを契機に, 解散された。代わって皇帝の側近として脚光を浴びていったのがスペテンスキーであった。 スベランスキーは,ロシアの法典編纂で知られるが,僧侶出身で非貴族でありながら国務 院事務絶長にまで昇った成り上がり着であった。彼はアレクサンドルの即位当初国事尚書 として内務省にあったが,内務大臣であるコチエ-ベイを通じて次第に頭角を現わし,ア レクサンドルとの直接の交わりは1806年コテュべ-イの代理として報告した時からである といわれる。スベランスキーはアレクサンドルがもっとも信頼をおいた側近の一人となっ たが,それは彼が早急な変化を控え,漸進的改革を願う皇帝の見解にもっとも近かったか らにほかならか-。彼は専制政治を「真の君主政治+に変えること,すなわち最高権力者 たる皇帝も法に従う立憲君主政治を求めたが,それは皇帝の絶対権力の制限を意図したの ではなく,その権力の濫用を予防することにあった。彼は皇帝の絶対権を法に定め,整然 とした法による君主政治が国家の安定と繁栄のもとであり,それは法秩序の整備と能力の ある官僚による中央集権国家体制の確立あるとした。それはアレクサンドルの意図した皇 アレクサンドルー世時代の教育政策 5 帝権の貴族に対する優越であった.ス-iランスキーの皇帝の信頼の高まりは同時に彼に対 1809年の2つの勅令,すなわち4月6日の宮廷人の身 する保守派哀族の反発を増大させ, 分に関するものと8月6日の官等の試験制度の導入に関するもの,が彼に対する貴族の反 発を爆発させる要因となった。この2つの勅令はスベランスキーが皇帝と秘かに作ったも ので,前者は宮廷人の公事での皇帝との直接交渉を禁止して彼らに公私の区別を強要した ものであり,後者は貴族であることだけによる昇進や年金の特権を廃止し試験による昇進 制度を導入したものであった。スベランスキーは,その趣旨説明で「国家-の奉仕のあら ゆる部分が,練達した実行者を必要としている。 --功績やその人物の薪著な識見によっ てではなく,ただ勤務年限によって官等を与えるということが, 『従来の欠陥の』主たる原 因であった。これを憎み,功績なしで官等を得ることを妨げるために,そして本当の功歳 によって陛下の新しい証明書を与えるためには,私は以下のように決定することを必要だ (18)と試験制度の導入の必要を述べた。しかしこの二つの勅令は貴族のみな と認めた--+ らず宮廷人にも反スベランスキーを作り出した。保守派貴族を代表する歴史家カラムジン の『新旧ロシアに関する覚え書き』は, 「ピョ-トル以来,我々は世界の市民となった。し かしそうすることによって,ロシアの市民であることを忘れてしまった。+という有名な文 「実際のところ,ロシ 章で知られるが,それはスベランスキーの批判を内容としたもので, アはヨーロッパに向かっておごそかに自らの不徳を認めたり,あるいは弁護士あがりだか ジャコバン上がりだか知らぬ輩の書物を前にして,白髪頭を傾けたりする必要は,まった くないと思われる+ (19)とスベランスキーを痛烈に批判したものであった.この覚え書きは 皇帝の妹エカテリーナ・パヴロヴナを通じてアレクサンドルの許に届けられた。スベラン スキーの推し進めようとする立憲君主制の企図は農奴制の廃止そして貴族の廃絶を企図し たものであるとの批判,また疲がフランスとの内通着であるなどのうわさ,が飛びかうな ど,秘かに彼の失脚の策謀が保守派貴族間で進められ,こうした動向に皇帝も彼を庇護し きれず,ついに彼を1812年ニジニ・ノヴゴロド洗刑に処したのである。 スベランスキーの失脚,ナポレオンとの祖国戟争,そして神聖同塵,などが直接の原因 かどうかは定かではないが,この頃からアレクサンドルー世は,宗教に救いを求めていき, いわゆる神秘主義者の傾向を強めていく。彼の関心は国民の宗教的啓蒙に大きく傾斜する。 それは1812年12月の「サンタト・ペテルブルク聖書協会+の設立そして1814年9月の「ロ シア聖書協会+への名称変更,きらに1817年10月の宗務・国民教育省の設置となって現わ れていく。この動きの中心にあったのがア・ゴリツイン公爵(1773-1844)であった。 ゴリツインは,少年時代にエカテリーナニ世によってアレクサンドルの近習として取り 立てられ,以来アレクサンドルのもっとも親しい友となった。アレクサンドルはこの友を 1803年に宗務院長に任命した。ゴリツインは,アレクサンドルと同様宗教には懐疑主義的 な教育を受けており,また物質主義的俗物的生活に明け暮れていることを理由に,宗務院 長の職を固辞したが,アレクサンドルは譲らず,結局その禽に従った。当時宗務院長はさ して重要なポストではなかったが,皇帝はゴリツインに個人的に直接報告と意見を具申す る特別の待遇を与えた,このことによって宗務院長は権威づけられ,にわかに脚光を浴び ていった。 (20)ゴリツインは宗務院長としての職務に励むが,それはいわゆる官僚として精 6 佐々木弘明 勤したのであり,思想的にはリベラリストであることには変わりなかった。しかしアレク サンドルの宗教的関心にあわせたように彼もまた急速に神秘主義者に変貌していく。ゴリ ツインは上記の聖書協会の稔裁となるが,聖書協会は,聖書の普及を目的とし,それは宗 据を問わない「宗教的寛容+を特徴としてぃた(21)o ゴリツイン自身宗教的啓蒙に強い関心 をもったが,宗派にはまったく無頓着であった。それはアレクサンドルも同じであった。 ゴリツインは1816年に宗務院で「皇帝は内なる神の徳性により,また御自身の経験により; 次のように確信されるにいたった。人々や人民の真の福祉が依拠するところの敬神と徳行 が好結果を得るためには,あらゆる身分の人々が聖書を読むことがいかに有益であるかと いうことを--。ロシア国民のためにも,聖職者の監督のもとに,古代スラヴ語から現代 (22)と述べた。聖書協会 ロシア語-の聖書の翻訳を行なうように--と仰せいだされた。+ は,聖書の各国語の翻訳と,廉価な聖書,ならびに各種宗教・道徳書の発行を行なったが, とりわけこれまでギリシャ正教の聖書は古代スラヴ語で善かれ, 「聖書を人民の手に届かぬ ところに置くことをよしとしていた+正教会の方針からすれぼ23),スラヴ語聖書の現代ロ シア語-の翻訳は聖書を国民大衆に近づけたいという点で大きな意義を有していた。 年国民教育相ア・ラズーモフスキー(1748-1822)の辞職にともない空白となった大臣をゴ 1816 リツインが兼任するが,単年10月に教育省と宗務院がひとつとなり宗務・教育省に改組さ れゴリツインはその大臣となった。大臣としてゴリツインは,後述のようにそれまでの二 人の大臣より,はるかに多くのことをした。ロシアの教育の発達は当初の意気込みにもか かわらず停滞しており,それには後述のようなさまざまな要因があげられるが,ゴリツイ ンの下でとりわけ中等および下級の学校の教貞の不足と財政的貧困の問題,ランカスター 方式の導入(アレクサンドル皇帝の肝煎りで)による国民教育の普及の試み,等がなされ た。 しかしながら省の指導的機関である中央学校局は,すでにリラベル派ではなくマグニッ キー(1778-1855)に代表される保守派が支配しており,彼らを中心に大学への圧力やギム ナジャの哲学の廃止などのカリキュラム変更などが実施されていった。保守派はドイツの 学生運動の影響がロシアの大学とギムナジャにも広がりはじめ,また文学サークル,秘密 結社などによる政治改革や革命-の動きが活発化していく中で,その反動として勢力を拡 大していった。そしてゴリツインの影響力は次第に小さくなっていった。保守派はゴリツ インと敵対するアラクチェ-エフを中心として発言を増していくが,そこにゴリツインの 宗教的寛容や教会の実質的支配に敵意を持つフォテ(1792-1837)等にギリシャ正教金側 が連合し,ゴリツインの罷免要求が日増しに強まり, 1824年5月に彼は大臣の職を解かれ, 同時に聖書協会捻裁を辞職した。宗務・教育省は解散され,宗務院はもとに戻り,また聖 書協会も廃止された。しかしゴリツインの失脚には皇帝が断固として反対し彼を逓信大臣 に任命し,重用し続けた。そして逆にフォテ-とマグニッキーは皇帝の勘気を蒙り,表舞 台から姿を消した。 1820年第前後からの保守派の政治的抑制の強まりは,結果としてアレ クサンドルー世の急死とニコライー世の即位のもつれを契機に起こったリベラルな貴族・ 将校によるデカブリストの乱となり,この事件は皮肉にもニコライ皇帝の手で貴族の特権 が廃止され,貴族主義が裏返しそしてそれに代わって官僚制国家の誕生となる(もっとも 7 アレクサンドルー世時代の教育政策 その実態は警察国家であった)0 ⅠⅠ 「非公式委員会+で最初に取り上げられたのは1801年の12月で,この 国民教育の問題が, 席でアレクサンドル皇帝が国民教育の草の設置と全国の村落にいたるまで学校網をはりめ ぐらすことを提案したラ・アルプからの覚え書きについて討議することを求めた。ラ・ア ルプは,国民大衆の教育と法典の作成が改革にとって最も欠かせぬことがらであるとした。 国民大衆の教育にとって障害となっているのは,第一に学校教師の不足と教科書の不足で あり,第二は「国民大衆の隷属化+である。第一の障害は,それほど難しいことではない が,第二の障害が問題であろ,なんとなれば「人間が隷属状態にあるとき,真の教育につ いて語ることは+不可能である。従って「この間題が,騒乱もなく,また,とくに所有権 の侵害もなく,徐々に解決できるものとして,差当り,今からでも若干の準備的方策の実 行を始めることができるであろう。すなわち,都市および農村における教育状態に関する 資料を集めることである+としている(24).農奴解放がなされなければ国民大衆の教育は不 可能であることを認めている。しかしまたそれは漸進的にまた慎重に行なわなければなら ないというのは彼の持論であった。しかしそれでも「何も始めなければ,決して何も達成 することは出来ない+ (28)と指摘している。 農奴解放が国民教育の発達に不可欠であるとする見解はラジーシチェフの継承者とされ る当時の急進的リベラリストに見られる.その一人にイ・プニン(1773-1805)がいる(26). 彼の教育論は, 『ロシアに関しての教育の試論』 (1804)である。その中で,彼は「今,立 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 法者が当然取り組まな吋ればならない,最も重大なことがらは,農業に従事している身分 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● の着たちの所有を定めることができ,それを圧迫から保護することができる-要するにそ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● れを不可侵にする法律を命じることである。 --その時にのみ,彼らにその権利の状態, その義務を教えるための真の時期が到来するのである。 --その時にのみ,確信をもって 彼らの教育に着手することが出来,彼らに其の教育への道を開くこと、が出来るだろう+ ● ● (27) と,土地付きの農奴解放がまず必要であることを主張している。しかし,そのすぐあとの 「祖国の福祉のた 文で彼は, 1803年の貴族の自発的な農奴の解放を許可した勅令に対して, めにのみ努力する心+ 「有徳の本性+がそれをなし得た(28)と過大に評価してる。貴族の良心 への期待が農奴解放の第一歩とするこうした見解は,必然的に教育に対する期待が込めら れ,その目的を「全体の福祉+への志向「私的欲望+の抑制をめざす「最善の徳+の形成 に置く。彼は「真の意味において受け入れられる教育は,社会の一員が,いか、なる身分に あろうとも,自分の義務を完全に知りそして遂行しているとき,すなわち当局が自分の側 からそれに委託された権力の義務を揺るぎなく遂行し,またその下の階級の人々が自分の 巌従の義務を破ることなく遂行しているときに,存在する。+(29)と述べ,そしてそれぞれの 階層に求められる「最善の徳+として,農民には「勤勉と禁酒+,商人には「凡帳面と誠実+, 僧侶には「信仰と模範的振舞い+,そして貴族には「公正とつねに進んで社会の利益に自己 を犠性にすること+をあげている(30)。とりわけ貴族の徳を高めることが社会にとって重要 になる。 8 佐々木弘明 貴族に徳の教育を優先させているのが, ストウージェフ(1761-1810)は, 4人のデカブリストの父として知られるア・ベ 『教育論』(1798)の中で,貴族の称号はその祖先が国家 と祖国に示した自分の勇敢さ,などの功績の証として下賜されたものであるのに,こんに ちは「大部分の貴族たちは善行において自分の祖先たちを真似ることに努めていない,従 ってこのような貴族の身分にあるものたちに何を期待出来ようか?ただひとつ墜落だけで ある+(31)と痛烈に批判をするo貴族は「徳+を生まれついて身につけているわけではなく, 「徳+は正しい教育によってのみ形成されるものであると,貴族陸軍幼年学校における徳 の形成を中心とした教授プランを提起している。彼の「徳+は具体的には, てほしくないことを他人にしないこと+, し,最高の主権の決定を敬うこと+, 「あなたがやっ 「可能なかぎり他人に善ををすこと+,「法を遵守 「祖国に出来るだけ多くの利益をもたらすこと+の4 つに集約できる(32). ラ・アルプは,改革は簡単には遂行されるものではなく,改革を支持するのは「他の者 より教養のある若干の貴族+,若干の平民,知識人と将校たちにすぎず,大部分の貴族や僧 侶や金持ちなどの保守的連中はむしろ改革を阻止しようとするに違いないことを麻知して いた。しかしそれでも「助力者の数はまもなくふえるだろう+と改革に明るい見通しを持 つよう勧めている(33)。助力者として期待されるのは,貴族であり平民であった.農民たち 一般民衆について彼は「民衆は,もちろん,その運命の改善を望んではいるが,しかしみ なその用うべき方法について皆目わかっていない。無学な状態にある民衆と相談しようと したり,あるいは民衆にただその希望の表明でも話したりしようものなら,それこそ民衆 は皇帝の最大の敵となるかもしれない+と改革の支持者のリストから除いている(34)。教育 を有する,また教育を受ける機会をもった階層のあるべき教育によって改革の支持者を増 やしそして国家に有用な人間を形成することが先決であり,そして良識ある貴族が増えて いく過程で農奴解放が実現きれ,そしてそれに伴って一般民衆の教育の発達があり,そこ に改革の成功,つまり真の君主制の実現を見ている。これが漸進的な改革であり,それだ けに教育の問題は重要である,だが教育によって理想的社会が出来ると考えているわけで はなく,出来ることからやっていくという現実的な考えで貫かれている。 さて,教育の改革問題は「非公式委貞会+でさまざまな議論やいくつかの計画案につい て審議されたが, 1802年9月.8日の省の設置についての勅令による国民教育省の発足とと もに本格的な取り組みが開始された。この勅令の第7条に,国民教育省の所轄を「国民教 育の,若者の教育ならびに科学の普及の,大臣は,自身の直接の管轄下に,中央学校管理 局(それに属するすべての部局を持つ),科学アカデミー,ロシア・アカデミー,大学およ び他のすべての学校,但し陛下の最愛の皇太后マリヤ・フヨードロヴナの特別の庇護が決 定されているものならび陛下の特別な命により他の人物あるいはポストの統治に置かれて いるものを除いて,私営ならびに国営の印刷所(その後者のうちで直接特定の官庁の下に あるものは除き),検閲,新聞,ならびにあらゆる定期刊行物の出版,民衆図書館,骨董品 の収集,自然研究室,博物館ならびに今後科学の普及のために喪立されるのであろう全て の施設+ (35)と定められた。 国民教育省の大臣に,ペ・ザヴァドフスキー伯爵,そして次官にエム・ムラヴイ-ヨフ 9 アレクサンドルー世時代の教育政策 が任禽されたoザヴァドフスキー(1739-1812)は,有能な人物であったが,ラ・アルプや ストログーノフをはじめ若いリベラリストはその保守的傾向を理由に反対であった,しか しそれを衷知の上で皇帝は任命した。彼はまた法典纂委兵舎の長でもあった。彼はいはば 保守派からの攻撃の防波堤であった。次官のムラヴイ-ヨフは作家で,皇帝の少年期にロ シア語と文学を教授し,当時の最も教養ある人物で,自由と教育に「国民の福祉が作り出 される主要な基礎+を見ており,そして研究に自由を「教育の発達のためにだけでなく, 国民の精神の高揚のためにも必要条件+とみなした(36),リベラリストであった. 省の中に改革案の作成のために学校委月食が設けられ,大臣を議長に,委月に,ア・チ ャルトルイイスキー公爵,エス・ポトッキ-伯爵,エフ・タリンゲル(1752-1831)将軍(陸 軍幼年学校長),アカデミー会員エヌ・オゼレツコフスキー(1750-1827)と同エヌ・フス (1755-1826),そして事務局長にヴェ・カラーズィンによって構成された。その第一回の 会議は9月13日に行なわれた。そこにエカテリーナニ世の時代に作られた国民学校設立委 貞舎(1782-1789)の代表的活動家として知られるエフ・ヤンコヴイチ(1741-1814)も加 わり,審議がなされ,地域別の学校管理システム,いわゆる学校管区制の必要が, 1786年 の国民学校令が実効性を持たなかったのは地方の教育施設統治機関が存在しなかったこと に大きな欠陥があったということから,取り上げられ,またそのためにも大学の設立が急 務であること,そして中央と地方の学校および行政システムの全体プランを作成すること を決定した。タリンゲルに「下級学校の設立と運営に関する計画案+の作成を,またオゼ レツコフスキーとフスには「ロシア帝国の諸都市に有益で適切な大学,それらに所属して いる県に存在している学校に適った目的を有する大学を設立する計画を立てること+が委 託きれた。こうして教育計画案の作成が始まった。これらの計画案のほかヤンコヴイチや チャルトルイイスキーによる計画案が提出され,それぞれ審議されたが,とくにチャルト ルイイスキーの計画案「ロシア帝国内に国民教育の育成のための基礎+は10章102条におよ び,委具合はこれを「大いなる敬意をもって+受け入れ,全体プランの作成の「審議の基+ とし,そして委貞会でのさまざまな意見を参考にして,全体プランの草案を作成するよう カラーズィンに委託した(37)。それはカラーズィンを中心に「全体的教育に関する法令の試 莱+としてまとめられた。委貞会はかなり精力的に活動し,学校管区の問題,また科学ア カデミー,ロシア・アカデミーそしてモスクワ大学の法令作成についてなどを審議している。 こうして1803年1月24日に『国民教育令草案』が皇帝に提出されその認可を得た。草案 の認可と同時にそこに定められた6つの学校管区の監督官が任命された。 モスクワ学校管区(モスクワなど10県)監督官がムラヴイ-ヨフ,ヴイリノ学校管区(ヴ イリノなど8県)監督官がチャルトルイイスキー,デルプト学校管区(リヴォニヤなど4 県)監督官がタリンゲル, -リコフ学校管区(スロボトカーウクライナなど9県とドン・コ サックと黒海コサック地方)監督官がポトッキ-,ペテルブルク学校管区(ペテルプルク など5県)監督官がノヴォシーリツオフ,カザン学校管区(カザンなど13県)監督官がマ ンティフェリ伯爵(半年後には科学アカデミー割線裁エネ・ルモーフスキーに交替)であ った。 学校委員会は,中央学校局に改組され,省の最高審議機関となった。草案の第一章で「ロ 10 佐々木弘明 シア帝国における国民教育は,本省の大臣に委任されそして彼の管轄下で中央学枚局によ (38)と規定され, 19条で「中央学校局は大 って指導運営される特別な国家部門を構成する+ 学ならびのその学区の監督官と皇帝陛下から定められる他のメンバーとから成る+ (39)と構 成貞を定めた。構成貞として, 6学校管区監督以外に,皇帝によってヤンコヴイチ,国民 学校委月食のメンバーであったペ・ズヴイトゥ-ノフとペ・バストゥ-ノフ,そしてフス とオゼレツコフスキーが加えられた。いずれもリベラリストであった。この中学校局はア レクサンドル治世を通じて最高の審議機関として機能を続けた,そしてその当初リベラル 派が占めているが,やがて保守派がその数を増していき,ついには圧倒してしまうのであ る。 草案の第2条で「市民の道徳的教育のために,それぞれの身分の責務に応じて, 4種類 の学校,すなわち, 1)教区学校, 2)都立学校あるいはギムナジヤ,そして4)大学, が走られる+ (40)と教育の目的と学校の種類を親定しているo ここで言う市民ということば は人間一般あるいは道徳的意味を込めて人間性あるいは人格といった意味をもっている。 また道徳的教育という場合には「徳+の教育で,この時点ではまだ宗教的意味合いはもっ ていない。従って教育の目的は,人間として必要な教養,人格形成,が目的であり,その 教育内容は百科全書的一般教育となる。専門教育的目的があるとすれば,第24粂の「いか なる県においても,学校部門のこれらの規則を基に,県が所属する管区での制度にしたが つて5年後には,誰であれ法律的知識や他の知識を必要とする市民的職務に,公立のある いは私立の学校を卒業せずに,差し向けられることはないだろう+ (41)という規定があり, 官吏に学校教育,それも中等教育をその要件とし,そのレベルアップを図ろうとしている ことがわかる。 教育内容は,下級学校から「すべての地域で,すべての身分のためにさまざまな種類の 国家勤務のために必要な科学が教授される+大学を含めて高等教育へ向かう,準備教育的 なものとなることが目指されている。したがって身分を問わないいわゆる単線型教育シス テムである。学校管区の教育および行政の中心は,大学で,その最高責任者が監督官で, 大学の運営は教授の全体集会で選出される学長と教授会があたる。大学の直接の管轄に, 県立学校あるいはギムナジャがあり,その校長は知立学校およびそれに類似の学校に対す る「全般的監視+を行ない,また都立学校の監視人は教区学校での秩序を監督する。監視 人は,地主,教区牧師,名誉市民の「教育のあるそして善意で世話好きな人+に委任され る(42)。実際に最も問題になるのが財源であり,それは国庫と慈恵院そして都市の諸団体の 収入によって確保されるとしているが,教区学校の財政的措置については今後「地方の状 況や都合を見極めるまで+延期するとされている。しかも草案はその結論で, 「すべての善 意ある市民+に「愛国的誓約と全体の利益に対する自己の利益の犠性によって,政府に援 助すること+を呼び掛けており(43),教育改革の実施は財政的基盤がまった.く弱いまま,い わば国民の善意を頼りに進められていった。 学校管区の中心となる大学の法令の作成が急務であった。当初6つの大学が予定された が,ペテルブルク大学の設立は見送られた.それは科学アカダミーの充実と学者養成のた めの付属大学の改造を定めた1803年6月25日の「科学アカデミ、一塊走+ (44)が制定されたこ 11 アレクサンドルー世時代の教育政策 とそしてまたほかにも高等教育の専門機開が存在していたことさらに財政的困難さが理由 であった。ペテルブルクには教貞義成機関としてのペテルブルク教育大学がそのまま残さ れた。大学令の作成は,西方地域のヴイリノとバルト海沿岸地域のデルプトの二つの大学 『デルプト大学令』 とモスクワ,カザン, -リコフの三つの大学と分けて別々に進められ, (1802年12月12日)と『ヴイリノ大学令』 (1803年4月4日)が認可され, 1804年11月5日 に『モスクワ大学令』, 『カザン大学命』,『-リコフ大学令』が同時に認可された。このよ うに大学令は全体に対するひとつの大学令としてではなく個別の大学令と出された。全体 として大学の自治がうたわれ,教授の自由,その教育および行政のシステム,入学条件の 非階級性など,基本的に同じであるが,講座の構成その他の点で違いがあり,それぞれの 管区の事情に合わせて作られている。 ヴイリノ大学について少し詳細に触れておく必要がある。ヴイリノ大学は,チャルトル イイスキーが監督官であるが,ヴイリノの地域はエカテリーナニ世時代のポーランドの分 割によりロシアに帰属した地域で,彼はいわばその人質としてロシアに送られてきていた。 彼は愛国者であり,ポーランドの政治的独立の回復を目指して,監督官として彼の支持者 とともに自らこの地城のポ-ランド化を図った.幸いポーランド人に好意を寄せ彼に絶対 の信頼と尊敬を示した大臣ザヴァ-ドフキーを利用することが出来た。ポーランドには 1773年に設立された教育委居合による教育計画案があり,それをもとにチャルトルイイス キーは「ロシア帝国内に国民教育の育成のための基礎+を学校委員会に提出したのであり, それが草案の作成にかなりの影響を与えた。従って,ロシアの教育改革は彼の思惑どおり に進んでいったといえる。とくに中央学校局は監督官にたいし中央との関係を細かく規定 して縛ることをせず,むしろ大きな権限と自由な行動を許したことが,後にヴイリノ管区 の独自な教育システムを作ることを可能にした。ヴイリノ大学はポーランド時代からすで に存在し, 1771年ポーランド最後の国王スタニスーアヴダーストの時代に改革されており, ヴイリノの法令はこれをもとにしていた。もちろんその基本は他の大学と同じであるが, 3年毎の学長の選出,教授の年金の権利,学部の講座の構成月などに特徴をもっていた。 彼は大学をポーランド人のために開くことを目的とし,そしてそのためにギムナジャはじ め下級の学校ではポーランド語の授業が最重要視され,ロシア語の授業はほとんど行なわ れなかった。チャルトルイイスキーはのちに回想銀の中で,「ヴイリノ大学は完全な意味で, 「数年経って,ポー ポーランド的であり,そしてポーランド地方のためのものであった。+ ランド全体は,そこでポーランドの民族的感情が,自由に発達することを可能にした学校 で満たきれた+ (45),と書いている。 大学令の発布に先立って, 1804年7月9日に検閲令が発布された。アレクサンドルの即 位とともに一切の外国の出版物の輸入が許可きれ,すべての検閲が廃止され,印刷所の設 立が自由となり,言静出版の自由が認められた。がすぐ「国民教育令草案+の中に大学で 検閲をする土とが盛込まれ,それは法に対する背反や個人の名誉穀損を目的とする著作の 予防を目的とした。ヴイリノ大学ではいち早く規定された。こうした流れの中で一般的検 閲今の作成が中央学校局で行なわれた。それは「考えたり,また書いたりする自由が何ら 圧迫されないこと,しかしただその濫用に対する相応の方策が取られること+ (46)を基本原 12 佐々木弘明 理とした。そして発布された検閲令では「検閲委月食および各検閲官は,書物や作品の検 討に際して,特にそれらの中に神の捷,統治,道徳性ならびに市民の誰かある人の個人的 名誉に背いていることが何もないことを,よく注視する。+ (第15条),また「とはいえ,檎 閲は,印刷の禁止や書物や作品の出版許可の取り消しに思慮分別のある寛容さで指導され, それらの中に何らかの取るに足りない理由で禁止に該当するとみなされるような著述や箇 所のはんばな解釈の一切をさける。疑いを受ける場所が二重の意味を有しているときには, そのような場合には,作者を迫害で苦しめるよりも,作者にとって有利な形で解釈する方 が最良である・。+ (第21条) (47),と言論の自由を基本的に尊重することをうたった。検閲は 大学を中心に学校管区の手に委ねられた。 大学今の発布と同時に『大学管下の学校令』が発布された。これは上記の『国民学校令 草案』を下敷きにしたもので,その内容をより詳細にし法令化したものであった。 学校令は,ギムナジヤ,郡立学校そして教区学校のそれぞれに二つの目的,すなわち, 1)上級の学校-の準備教育をすること, 2)教育の継続を望まぬ者に完成教育を与える こと,を示した。 ギムナジャを1) 「学問への天分によりあるいは自己の官職を得るために,なおそれ以上 の知識を必要とし,大学で自らを完成することを望む若者に大学における学問に準備教育 すること+,そして2) 「大学での学問を続けようとする意図を持ってはいないが,良き教 育のある人間に必要な知識を獲得することを望むものに,初等とはいえ,教科目上十分な 学問を教授すること+(48)と規定している。郡立学校を1) 「両親が自分の子どもにより教育 を与えることを望むなら,子どもにギムナジャのため一の準備教育をすること+,そして2) 「さまざまな身分の子供たちに,彼らの身分や生業に応じて,必要な知識への道を開くこ と+(49)と規定している.教区学校を1) 「両親が都立学校で学業を継続することを望むなら, 子どもにそのための準備教育をすること+,そして2) 「農民の身分や他の身分の子供たち に,彼らにふさわしい知識を与え,彼らを身体的また精神的諸関係において最良になし, 自然の現象について正確な知識を与えそして彼らの内にある迷信や偏見 また彼らの平穏 や健康や身代にとってきわめて有害となるさまざまな働きかけを根絶すること+ (50)と規定 している。 このような二重の目的を基に作られたか)キュラムはギムナジャと郡立学校では普通教 育,百科全書的色彩を強く出しているが,教区学校についてはそうした配慮はなされてい ない。ギムナジヤ(4年課程)の教科日は,ラテン語,ドイツ語,フランス語,歴史一古 代史とロシア史,神話学,地理,統計学,哲学,論理学,修辞学,教訓,心理学,美学, 自然法,民法,経済学,.代数,幾何,応用数学,実験物理,博物学,技術学,商業学,絵 画,と実に多彩である。郡立学校(2年課程)の教科目も,問答示教書,福音書の解説, 『人間と市民の義務についての書』,ロシア語文法と地方語の文法,正字法と文体の規則, ロシア国家の地理,数学地理の初歩を含む一般地理,一般史とロシア史,算数,幾何,物 理と博物史の基礎,技術学の基礎, 『地方の状況と生業-の現実的諸関係』,となっている。 教区学校(1年艶程)になると,那)キュラムは,文字,敬,読み方,書き方,算数,簡 易問答示教書,聖史, 『農村家政についての簡易指導』,にすぎない。 13 アレクサンドルー世時代の教育政策 ギムナジャの規定で教師の職務について詳細に述べられているが,教師を知識の伝達者 としてだけではなく,両親の代わりをする養育者としての役割をもつものとして,子ども の社会人としての人格形成に重点がおかれている.教師は,その「指導の主要な白的+を, 「子供たちを勤労に慣らすこと,彼らの 「記憶で充たすることや記憶の訓練+にではなく, 「彼らに科学-の道を示すこと,それらの価 うちに学問への熱意と愛着を起こさせること+ 値と利用を理解させそしてそれを通じて彼らをあらゆる職責に適応し得るようにさせるこ と,彼らの知性と心に然るべき方向を与えること,彼らの内に誠実と善行の堅固なる基礎 をおくこと,彼らの内にある悪なる傾向を正しそして克服させること+(51)にあるとしてい る。このような教育観は,啓蒙主義や百科全書派の影響を強く受けた当時のロシアのリベ ラルな人々に共通していた。 III こうして新しい法令が作成・発布されたが,その実施にあたって,理念と現実との溝は 深く,すぐに重大な障碍に直面し,教育省はその対策に追われていくことになる。 大学は,聴講者が少なく大部分の講座は学生が存在しなかった.'貴族たちの多くは大学 「軍務を志向す 教育に対して無関心であり,また大学教育の目的に対する曲解も強かった。 る貴族は,専門的な教育の方をよしとした。官吏のためには特に簡略化された課程が作ら れた。子どもにただ職業だけでなくまた正しく教育することを期待する人は私立のパンシ オンの方を選んだ+ (52)というのが当時までの状況であった。このため大学に学生を集める ためには,これまでよく採られてきた方法,すなわち勤務上の特典そして給費制を取りい れざるをえなかった。勤務上の特典は貴族に効果を与え,給費制は貧困者一雄階級人に効 果を上げるはずであった。大学の中でも専門職,つまり医師と教師の養成について,教師 の養成は中等教育に期待されたが,医師については貴族を特典で引き寄せることは非常に 困難で,主に僧侶や雑階級人から集められたが, 6年間の勤務が義務付けられていたので 給費制でも容易には集まらなかった。また教授の大半が外国人であって,外国語で講義さ れていたことがきらに学生の聴貴を妨げていた。ロシア人教授の養成が課題であった。そ して何よりも学生が大学の講義の準備教育が足りない,つまりは学力不足が問題であった。 「もしも大学が厳格な意味で,学生の入学において則らなければならないすべての規則を 守ったならば,こんにち一人の学生も有するとは出来ないであろう+ (53)と-リコフの学校 監督官ポトッキ-伯爵は述べた。中等教育の充実が最重要課題であった。 中等教育,つまりギムナジャと都立学校は,実施にあたってすぐ教育する人間の不足, 財政の問題,そして新しい教育システムに対する社会の疑惑,等が障碍となってその発達 に立ちふさがった。次真の表は1808年の学校管区別のギムナジャと郡立学校の数と生徒数 である。 なおデルプト学校管区について、は, 1806年の報告によれば,ギムナジャが5枚で,郡立 学校は33枚で,生徒数は合わせて1,535人となっている。 この表から明らかなように,中等教育の発達はきわめて緩慢な歩みであぅた。ギムナジ ャの設立が郡立学校の設立よりも早いことが見られる。またヴイリノ学校管区が抜きんで 14 佐々木弘明 て学校数も生徒数も多く,カザン学校管区が非常に少ないことがわかる。 ヴイリノ学校管区の他よりぬきん出た発達は,上述のように,監督官チャルトルイイス 学校管区 ペテルブルク ギムナジャ数 県庁所在市敷 生徒数 都庁所在市数 都立学校数生徒・数 5 3 1294 43 モスクワ. 10・ 1■0 447 116 44 2,356 ヴイリノ 8 6 89 54 7,422 ハリコフ ll 8 477 109 18 1,747 カザン 13 5 315 129 5 248 1,305 5. 1,066 キーのポーランド化への執念と努力のひとつの現れであった。チャルトルイイスキーの手 足となったのがポーランド人の愛国者たちで,ポーランド人からの多額の寄付を集め学校 の設立に努めた。 1805年にクレメンツに設立されたギムナジャは, 「教育の中心,知的,そ してそれに続いて政治的復活の場所+となることが期待され,巨額な資金が集められ,そ の教育内容も広く, 「実を言えば,ギムナジャではなく,小規模な大学であったので,それ は二つの課程に分けられた。 4クラス(各1年)から成る下級3クラス(各2年)から成 る上級であるo一般に通用するシステムにもかかわらず,ここでは,下級および中級の教 育には上級よりも少ない時間が捧げられている。まさに一般に通用する制度とは反対に, 下級および中級の教育は専門的性格を帯び,一方上級は,反対に,百科全書的性格を帯び ていた。+ (55)というものであった。 ヴイリノ学校管区を除くと,どの学校管区でも学校の数,生徒の数は思うように増加し なかったし,その上教育の質も良いものではなかった。 校長には退役の無教養な退役士官,監視月には無学な商人たちとかが任禽されることが 多く,彼らり大半はその責務にふさわしくなく,またその努力もしなカiった. 教師の不足はより深刻であった。それは何よりも教師の待遇の悪さそしてその社会的地 位も低さに因った。貴族はもとより教師を志すことはほとんどなく,納税者階級(貴族と 僧侶以外)から集めなければならなかったが,納税義務負担を負ったまま薄給の教師を望 むものは少なかった。したがって教師の多くは僧侶に期待せざるをえなかった。僧侶は元 老院の許可を得て僧職を離れて教育職についた。そのもとは何より財源の少なさからきた。 国庫からの支出は十分でなく,その大半は都市の諸機関や慈恵院からの補助金に頼ること たなっていたが,都市も慈恵院も,自分たちの財源不足を口実にその補助金支出を拒むと いうのが実状であった。個人からの慈善による寄付が頼りであった。こうした状況に政府 もその改善策を請じることに努めた。 1812年になって「学問あるいは芸術に顕著なる能力 をもつ人々+ (56),つまり教師を納税義務から解放することが認められ,また1815年に僧侶 か教職に就くとき元老院の許可を必要としなくなった。また教師の年金制度など教師の待 15 アレクサンドルー世時代の教育政策 遇の改善の努力も見られた。しかしそれはきわめて緩慢にまたごく部分的にしか進められ なかった。 1804年の教育令のリベラルな側面に対する不満もまた学校の発達を妨げる要因となっ た。富裕な貴族は,非貴族と同じギムナジャに入ることを嫌い,私立パンシオンに好んで 入った。教育令は私立パンシオンを,ギムナジャの校長の管轄下におき,ロシア語と神学 の教授が義務づけたが,その外は従来のまま自由に科目を設置できるなどの権利を与えて おり,その内容は貴族を引き付けるものであった。ま.た百科全書的な教育内容は,出来る だけ早く子どもを勤務に就けようとする貧しい貴族や官吏,また商人や平民はギムナジャ に入っても,必要な科目だけを履修し,上級クラスには行かなかった。全課程を修了した 「学問-の特別な能力を有するもの+だけにすぎなかった。こうした不満 のは,少数の者, に対して,貴族に対しては,いくつかのギムナジャに「貴族パンシオン+を付設する措置 を取った。それらはギムナジャと同じ教科目を持つもの,またそれに貴族に価値がある科 目一軍事学と「楽しい芸術+を補充したもの,さらにはモスクワ大学付設の貴族パンシオ ンに倣って,ギムナジャの課程の上に若干の科学と芸術,また1809年8月6日の勅令によ る文官の任用の試験制度に合わせた内容を有するものなど,貴族の意向に沿うものが作ら れていった。実用的な学校を求める商人や平民のために,ギムナジャと郡立学校に地方の 商業や工業に密接に関係のある科目の教授の特別クラスを作ることによってその要求を満 たそうとした。例えば, 1804年スモーレンスク・ギムナジャには商業学のクラスを付設, 1814年にヘルソン・ギムナジャに航海クラスを付設, 1815年にレ-ヴュリ郡立学校に商業 クラスを付設した。こうしたもののほか商業ギムナジャなどに独立するものもふえていっ た(57)0 教区学校は,ギムナジャと郡立学校に多くの努力を重ねられたのとは対席的に財政措置 はもとより政府によってほとんどなんの方策も取らぬまま放置され続けたのが実状であっ 「国有地の村里の住民た た。ペテルプルク管区の農村学校の状況を伝えている記録がある。 ちは,学問への特別な要溝を感じていなかったし,また彼らの費用で維持されなければな らか-教育施設に喜んで同意しなかった。地主たちも自分の側からこれについてははなは だ多くの配慮をすることはなかった。学校局によって鼓舞された僧侶だけが,彼の仕事の ためにまたしばしば自分の身代に利益をもたらそうとして,農村学校を作ろうと努力した。 多くの農村学校は,地方僧侶たちの費用で,その住宅,灯また暖房を利用して,完全に維 持された。しかし稀には,農村学校が私人の寄付によって生じた場合もあった。しかしな がら,一般に全ての農村学校は揺るぎない存在を保ちえず,大戟分は開設して間もなく閉 鎖された+と(58). 1807年に-リコフ学校管区で教区学校に農奴身分にあるものが教師にな れるか,という問題が審議され,学校管理者が「この身分(農奴)に対する低い評価に加 えて,一般の教師の地位に対する軽蔑もー緒に生み出さないだろうか+との見解を述べた 「地主が自 が,監督官ポトッキ-伯爵はそれに同意した。この報告を受けて中央学校局は, 分の能力ある農奴を子どもの教育のために教区学校で用いることは出来るが,しかしこの  ̄ような身分の教師は一般法今上実際の国家勤務にあるとみなされてはならないし,いわん やそれと結びついた権利や特典を利用してはならない+という決定を下した(59)oこうした 16 佐々木弘明 ことも教区学校の発達を阻んだ理由でもあったし,またここに当時のリベラルな貴族の限 界もあった。 このように教育改革は思惑どおり進まず停滞していたなかで,貴族の側からのより強い 要求が表面化していった。貴族のための大学,つまりリツェイ設立であった。 最初のリツェイは,ヤメスラヴリ高等科学学校(のちのデミドフ法律リツェイ,この時 カ・デ・ウシンスキーが教授として経済学などの講義をしている)である。 1803年に有名 なウラルの鉱山主デミド-フ家の一人ペ・ベ・デミード-フ(1738-1821)が,ヤロスラヴ リ・ギムナジャに3,578人の農奴と10万ルーブルを寄付し,このギムナジャを「大学の科学 のクラスを作って,大学と同一のレベルと大学の全ての特典を有するような学校に高める こと+を請願し, 1805年1月8日に皇帝によって「高等科学校+として認可された。勅令 では, 「帝国内に存在する中心諸大学に直接次ぐ第一の地位を占めなければならか-+とし て,その教科目として古典語の文学とロシア語美辞法,哲学,自然法と民法,数学,博物 学,化学と技術学,政治学,経済学と財政学が指定された。課程の修了者には大学と同じ 14等官(平民出身でも一代貴族の資格)の勤務に就く権利与えられる(¢0)0 1810年に皇帝の肝煎り.でツアールスコエセロ-離宮にリツェイ(ツアールスコエセロ・アレクサンドル・リツェイ)の法令が発布きれ,翌年の10月19日に開設され,その第一 期生に詩人プーシキンがいたことはあまりにも有名である。リツェイ法は,その第一粂で 「国家勤務の各部門に特別に予定される若者の教育を目的として有する+ことを規定し, 貴族の官吏養成機関であることを明確にしている。その特典は大学とまったく同等であっ た。教育の課程は,各3年の「基礎課程+と「完成課程+からなり,基礎課程はギムナジ ャに相当するが,経防学,統計学,商業学,記述学が除かれ,その代わりに「美術(音楽 や舞踏なども含めて)と体育+が加えられ, 「完成課程+は,大学の学部での講義に相当す る道徳科学,物理学,数学,歴史学,文学,そしてその上に美術と体育,を教育内容とし た。1813年になるとリツェイに付設して特別教育界程を持つ貴族パンシオンが設立された。 このパンシオンは, 「リツェイのための生徒の温床となること+ 「この名称にふさわしい教 育のための貴族に新たな資金を提供すること+とうたわれ,その性格が特権学校であるこ とをより明確にした。パンシオンは,それぞれ3年の3課程からなり,初等,中等そして 高等と呼ばれ,高等課程はリツェイの「完成課程+とも重なりあう内容を持つが,貴族の 勤務上の立身にとって必要な法律学に重点が置かせれている。その特典はリツェイとまっ たく同等であった。 (62). こうした貴族の特権学校に加えて,専門的学校,つまり宗教アカデミーとそのセミナリ ∼,軍事学校,また鉱山学校など,国民教育省の管轄外に置かれた学校の問題が教育改革 の当初からその扱いをめぐって問題であった。なかでも軍事学校,つまり幼年学校の問題 が, 「非公式委員会+で審議された。それは幼年学校をギムナジャと併合して普通教育を施 すべきかどうかという問題であった。結局は皇帝がギムナジャから士官を出すことに反対 し,幼年学校に関する特別委貞会が設けられ,その計画は1805年に認可された。軍事学校 が10の県庁所在市に貴族の子弟3,000人中軍事教育をするために設立きれた.軍事学校は初 等教育のための2年制の特別課程が置かれ,それを履修したのち県のギムナジャに5年間 17 アレクサンドルー世時代の教育政策 在学するが,そこではラテン語の代わりに築城学の基礎が課せられる,ギムナジャそして 軍事学校を修了したものは,ペテルブルクの第一と第二の「高等陸軍幼年学校+に送られ 軍事専門教育を課せられ,また軍務に不適当なものは大学に送られる,というシステムが 作られた. (63)o このように教育のシステムは次第に貴族の側からの要求を受け入れる形で変形されてい ったが,特に1809年8月6日の勅令は,貴族に家柄ではなく大学の卒業証を官途に就く要 件としたため貴族に憤慨を呼び起こしスベランスキー失脚の大きな契機を作ったが,同時 にそれは貴族に特権階級としての意識をより高め,学校を彼らの将来に役立つな教育内容 にまた彼らだけの特権的閉鎖的な学校の設立を公然と要求する機会を与えた。コチエべイでさえ,スベランスキーに, 「われわれにとって大学は,誰もそれらで学ばないならば, その必要はない。 --リツェイのシステムがロシアにとって採用すべき最良のものであ る+ (64)と言ったといわれる。 ザヴァドフスキー伯爵が1810年4月11日に辞任し,その後任にア・ラズーモフスキー伯 蘇(1748-1822)が任命きれた。彼は18鵬年からムラヴイ-ヨフの死後モスクワ学校管区の 監督官であった.ラズーモフスキー自身は,ロシアで指折り富裕な貴顕の出身で,もとも と植物学の権威者として有名で,当時最も教養ある宮廷人の一人であったが,学者タイプ で政治・行政的能力はなかった。 中央学校局のメンバーもムラヴイ-ヨフ,スヴイトゥ-ノフ,そしてルモーフスキーが 死に,ペテルブルク監督官はムラヴイ-ヨフに代わり,後の国民教育相エス・ウヴァ一口 フ(1786-1855)が任命され,モスクワ学校管区監督官に元老院議月エヌ・ゴレニシチュフ ータトゥゾフ,カザン監督官に待従ア・サルトゥイコフが任命され,また1814年にはヤンコ ヴイチも死に,当初のメンバーが次第にいなくなり,その活動も弱まり,会議もほとんど 開かれなくなった。 ラズーモフスキーの時代は,テイルジット条約体制が崩壊しフランスとの敵対関係に入 り, 1812年のナポレオンのロシア侵攻(祖国戦争), 1815年の神聖同盟,そしてその反動の 時代の始まり,という変動の大きなそして不安定な時代やあったo 合月エム・スホムリノフ(1828-1901)は次のように書いている。 この時代をアカデミー 「社会はすでに反動の影 響が目につき始めた。プロテスタント・ドイツの大学-の共感は変わり始めた。カいトン ク的教育システムの庇護者が現われ,ルーニチとマダニツキーの時代の接近を告げていた。 イエズス会士が,主として富裕者や貴人の家庭の生徒を募り,社会的教育を独占し,そし てただツアールスコエ・リツェイの設立だけがイエズス会の手から多くの若者を救い,そ してそれらの中でわれわれの将来をプーシキンの文学が照らした。教育相に科学への愛と それらについての配慮は危険な過ちであるということを証拠立てた。このような世俗的期 待をもってロシア全地方に設立された教育施設の中に,知ったかぶり,自信過剰や倣慢不 逮,流行の軽薄な崇拝者,彼らが敬意を表しないもの,すなわち一切,を破壊することに 準備されている着たちを見い出したo+(65)と.フランスとの敵対関係は必然的に民族主義が 18 佐々木弘明 高まり,外国人教師の有害さが取り上げられた。ラズーモフスキーは, 特別報告書のなかで, 1811年の皇帝への 「われわれの祖国では,外国人によって伝えられる教育が根を広げす ぎた。国家の支柱たる貴族は,ただ自分自身の利益に心を奪われている,外国のもの一切 を卑しむことなく,真正の道徳心の戒律も,認識も持つことめない,人々の監督の下にし ばしば成長している。貴族に倣って,他の身分も自分の子供たちを外国人の手による教育 によって社会にゆるやかに破壊を助けている。--帝国内のほとんど全てのパンシオンは, その使命に必要な資質を有しているものははなはだ稀である外国人によって経営されてい -るo われわれの言語を知らず,そしてそれを忌み嫌い,後にとって見知らぬ国にたいする 愛着を持つことなく,彼らは,若いロシア人にわれわれの言語に対する軽蔑を吹き込み, そして彼らの心を家で行なわれる一切のものに対して無関心にし,しかもロシアの内部で ロシア人から外国人を形成しているのである.+(66)と述べ,パンシオン経営者に対する監視 を強化すること,教師からロシア語の知識とそれによる全ての教科の教授を要求すること, 教授料に5%の税を科しそれを貧困な貴族のための学校の設立資金などに向けること,を 提案した。これは皇帝の裁可を得た。大臣はさらに外国人家庭教師にも適応することを求 め,翌年にそれも皇帝は認可した。 民族主義の高揚は反動化の始まりを告げ,そのひとつの兆候が検閲制度の改革であった。 検閲は国民教育省の管轄にあったが, 1811年に警察省が新設されたのにともない,その業 務を両省が分割することになった。基本的には従来の検閲の権限は国民教育省にあったが, 思想調査の権限は警察省にあった。警察相ア・バランシェフは, 「もし奮察大臣が検閲を受 けて出版されている書物や,作品の中に,社会秩序や安寧に反するような曲解に機会を与 える箇所や表現が許容されているのを発見したなら,警察大臣は即座に自分の注釈を添え て皇帝の検閲に提出しその裁断を仰がねばならない+という自分の責番を拡大解釈し(印, 全ての検閲物を国民教育省が提出し,警察の許可を得ないものは一切出版しないことを請 求した。この要請は1811年12月大臣委員会そして皇帝の許可を得た。ラズーモフスキーは 従来の検閲制度を犯すものと抗議し,その撤回を要請したが,認められず,実質的に検閲 は警察省に握られ,言論の自由の制限が強化されていった。 イエズス会がその影響をペテルブルクで持つようになるのは1802年噴からであった。イ エズス会は主として上流社会に信者を増やしていったが,その主要な武器はイエズス会パ ンシオンでの若者の教育であった。イエズス会は,学校管区からの独立を求めて運動を続 けるが,特にヴイリノ管区でアカデミーを作ることを求めチャルトルイイスキーのポーラ ンド化計画の最大の障害となった。ラズーモフスキーは,友人でサルジア公使デーメストル との深い関わりから,イエズス会を支援し, 1812年にイエズス会はボローツタ・アカデミ ーの設立に成功した。それは3学部を有し,ヴイリノ大学と同等の特典を持ち,学校管区 から半ば独立し,全てのイエズス会の学校を統括した。しかしペテルブルクでのイエズス 会の倣慢な教育活動やプロパガンダ,そしてまた聖書協会に加入を拒んだことなどから, 1812年にラズーモスキーの擁護にもかかわらず全てのイエズス会士はペテルブルクから追 放きれ,パンシオン等の学校は閉鎖きれたo さらに1816年にオデッサの高名な神父ニコル が聖書協会支部の結成を拒否したことから地位を失う,等から政府のイエズス会への圧力 アレクサンドルー世時代の教育政策 が決定的になり,ラズーモフスキーは国家勤務にも疲れ1816年8月10日に辞任した。 19 1820 年にイエズス会のロシア追放に伴い,アカデミーも閉鎖された。ラズーモフスキーの後任 に宗番院長で聖書協会鎗裁のゴリツイン公爵が兼任し, 1817年宗務・教育省の誕生ととも に改めて大臣に任命された。 中央学校局には,今や最初からのメンバーは,フスとカラーズィンの後任事務局長のイ ・マルトィノフだけで,その主導権はカザン学校監督官になったマダニツキー,デ・ルー ニチ(1778-1860)そしてア・ストルツアに代表される保守主義者たちに握られていった0 ほかに大修道院長エム・フィラレート(1782-1867),イ・ラヴァリ伯爵,デルプト学校管 区監督官カ・リーヴュン伯爵などがおり,またウヴァロフはペテルブルク学校監督官とし て残っていた。ウヴァロフは,後ニコライー世の時代に国民教育相として「専制,正教, 民族性+を教育政策の基本原理とした反動家といわれるが,もともとリベラル派といえな いまでも教養主義者であって古典語教育をその基礎におくことを持論としており,マグニ 1821年に辞職を余儀なくされ,彼の後任のペテルブル ッキーの保守派とはつねに対立し, クの監督官にルーニチが就いた。 宗教・教育省の設立に際しての詔勅は, 「キリスト教的敬神がいつも真の教育の基礎とな ることを期待して,われわれは宗務・国民教育省の名の下のひとつの行政のシステムにお いて,国民教育に関する事業と全ての宗教業務とを賂合することが有益であると認識し た+ (68)とその新しい教育の目的を述べた。教育の改革のために1818年3月に中央学校局に 学術委員会が発足した。そのメンバーはイ・ラヴァリ,フス,ストルツアであった。スト ルツァは委月食の業務プランを作りフスの反対にもかかわらず5月にその認可を得た。委 員会の目的は「信仰,行動そして権力,あるいは別の表現をすれば,キリスト教的敬神, 知性の教育そして市民的生存の間の不断のそして有益なる一致+の達成にあるとした(69). そして書物の検討に対する詳細な規定がなきれ,特に哲学および自然科学に関する書物に 慎重に留意することが勧められている。教育の改革は, 1804年法の基本理念や大枠には手 をつけず,教授プランと教育内容の変更に向けられ,それはいわゆる危険思想の追放に主 眼がおかれた。 こうした新たな教育政策は,すぐさま大学間題に現われた。特にドイツにおける学生の 革命運動の動きとその危険性が取り上げられた。マダニツキーは中央学校局の会議に1818 年11月にドイツの状態についての覚え書きを提出した。その中で彼は「反宗教的な大学の 教授たちは無信仰の日に見えぬ毒と合法的権力に対する憎悪をその不幸なる若者に感染さ せている+ (70)とドイツの大学を痛烈に非難した.これに対してフスは反論をし,他のメン バーもマダニツキーの極論を受け入れはしなかったが,ドイツの大学に対するこれまでの イメージは害なわれた。そしてドイツ大学の影響からロシアの若者を.防がねばならないと いう見解が次第に強くなり, 1820年にドイツにいる学生を召喚することが学術重点合で決 められたが,皇帝はそれを拒否した。しかしこうした反ドイツ的動きは強まり,ついに1823 年に-イデルベルク,イ-エン,ギッセンそしてヴュールツブルクの4大学への留学が禁 止された。 国内の大学に対する調査も同時に始まった。最も好ましからぬ状態にあるとされたのが 20 佐々木弘明 カザン大学で,マダニツキーが中央学枚局の委託で1819年に派遣された。彼の報告書に, カザン大学の状態を, 「事件に巻き込まれたそして危険な+教授たちによる道徳的療廃並び に勤務上め怠慢,学生の放堵,授業の怠慢と危険な精神,教科書の貧弱さ,経費の濫用と 不正,に満ちており,そしてそれは学校管区全体に害悪をもたらしており,今やこれら悪 の根絶には「大学の中断+か「その廃止+しかないとした(71)。皇帝は「カザン大学の保持 のために--然るべき秩序の回復に適切な方策を即座に採ること+を命じ,その改造の基 「危険な教授を解雇すること+ 本方策が翌年「神学とキリスト教義の教授をおくこと+ 済的,政治的並びに道徳的部門のために管理者の職務を設けること+ 「経 「ギムナジャと国民学 校を改造すること+として出され,改造のためにマダニツキーが任余された。危険な教授 として,哲学教授シヤードと数学教授エシボフスキーが解雇きれた(72)0 1816年に教育 ペテルプルク教育大学を大学とする計画はゴリツインによって進められ, 中央大学として「大学で学ばれる全ての科学(医学は除かれる),芸術並びに言語が教授さ れる+という規定をはじめ大学と同等の特典を得た(73).そして1819年に正規の大学の認可 を受けた。しかしルーニチは即座に大学-の移行を認めなかった。彼は, 1820年,法学教 授ア・クニーツイン(1783-1841)の著書『自然法』に関する有名な事件を引き起こした。 この本は皇帝への献本に予定されていたが,この本に対してルーニチは「甚だしく有害な 能弁を弄した選集+でその上「天啓の神に対する胃痛的攻撃,さらに危険なことはそれが 哲学の大なるマントで包まれていることだ+と痛烈に非難した(74)。中央学校局はこの本の 販売の禁止と図書館などからの回収を決定し,クニーツインは解雇された。ルーニチはさ らに3人のドイツ人教授に対し「彼らの哲学と歴史学がキリスト教に逆らう精神で大学で 教授されており,そして学生の知性に社会の秩序と安寧にとって破壊的な観念がしみ込ん でいる+という理由でその解雇を要求した(75)。この件については長い間審議されたが結論 が出ないままニコライー世によって破棄された.ルーニチはペテルブルク大学-の改造に 対してその管理と教育が正常でないことを理由に反対し, 1822年に学生の入学の禁止, 「能 力および道徳に関する学生の識別と見込みなき学生の除籍+,等の提案について皇帝の認可 を得た(76).結局ペテルブルク大学が正式の大学令を受け取ったのは1724年になちてからで あった。 大学の教授の解雇事件はデルプト大学の3教授の解雇にも広がった。続いてマグニッキ ーたちは大学講議内容に対する監督も求め,講義に対する訓示の作成を提案した。これに 対してフスは「訓示は,科学の目的から外れる可能性を取り去ることのために導入される ときにだけ有益である。しかしもしそれが科学の歩みを阻止し,新しい発見に導くような 新しい原理や法則の導入を妨害するならば,その時それは有害になるだろう+ (77)と反対し た。さらには彼らは哲学の講座,そして自然法の教授の廃止を求め,審議がなされたが結 論は待なかった。哲学や自然に対する危険視はその対策として神学部の講座の設置の強制 になって現われた。 1804年法にもかかわらず神学部は事実上開設されていなかったためそ れを埋めることそして学生の必修科目とすることが命じられた。 大学に対する弾圧は,ヴイリノ学校管区にも影響し,チャルトルイイスキーのポーラン ド化構想の挫折と彼自身の失脚をもたらした。ヴイリノ管区は政府の動きを察知して学生 21 アレクサンドルー世時代の教育政策 に秘かに自重を求めていたが,ヴイリノの学生はロシアで最もリベラルな教育を受けまた ヨーロッパの影響を最も強く受け,かつまたポーランド愛国主義の高揚とも重なり,秘密 の学生団体が活動していた。この動きは1822年に当時リトワニア地域の軍絵司令官の大公 コンスタンナン・パヴローヴイチを通じて皇帝に報告きれ,チャルトルイイスキーに調査 依頼がなされた。彼はこれらの動きはいわばこどもの一時の戯れにすぎなく危険なもので 1823年改めてノヴォシー])ツェフが派遣 はか-との報告をした(78)oしかし疑惑は解けず, きれ,彼は秘密団体の実在を確認するとともに学校管区の責任を追求した。 1824年に特別 委貞会(委貞がノヴォシー))ツェフ,アラクチェ-エフとシンコーフ)は,その処分とヴ ィリノ管区の改造を決めた。108人の秘密団体のメンバーが処分され,教授4人が解雇され, チャルトルイイスキーも責任を問われ,解雇され,その後任にノヴォシーリツオフが就任 した(79).ここに皮肉にも「若き友人たち+が敵対し,後にノヴォシJ)ツオフはポーラン ド反乱時の弾圧者となる。 こうしたあいつぐ大学への弾圧は必然的に大学それ自体の質の低下をなおさら助長し, 教授の不足は一人でいくつかの講座を兼任し,また教授として不適格なものの数を増やし た。ゴリツインは,講座のかけもちを規制するとともに1820年には教官にふきわしい証明, っまり学位を求めた。また学生の不足は,相変わらずであった。特に医師と教師の不足を 補うために給費生の増加と大学の医学専門課程の付設またペテルブルク中央教育大学に第 二類-ギムナジャと郡立学校の教貞養成課程(1819年に師範学校として開設)の付設がな された。また1817-1822年にかけてリツェイとパンシオンは新しい法令によってその特典 を増し,例えばモスクワ貴族パンシオンは1819年の法令でその生徒は卒業すると1809年8 月6日の勅令による官吏登用の試験が免除され,また6ヵ月の研修を経て14-10等官で勤 番する権利が与えられる,等が定められた。このことはますます大学生の減少をもたらす ことになり,学生を集めるために1822年に学位を所有して終了したものの官位の権利を高 める措置-12-10等官が藩じられた。 大学の問題はその予備機閑たるギムナジャの問題でもあった。教育内容,とりわけその 「百科全書的教育の有害なシステム+ (80)が問題とされ,中等およぴ下級学校も含め改造が 「下級学 論議きれた。ウヴァロフは,政治学と哲学とを除きその基礎として古典語をおき, 校と大学との中心をなす+ことを容易にすることをギムナジャの目的とすることを主張し, これに対しストルツア,ラーヴュリ,フィラレートはその教養的性格の廃止,社会科学お 1819年6月5日C)回章で,ギ よび哲学の除去,宗教教育の強化を主張した(81).こうして, ムナジャの課程から,神話学,一般文法,哲学と美学の基礎,政治学および技術学の基礎 が除かれ,その代わりに,語学,特に古典語(ギリシャ語も導入)が強化されそして地理 と歴史が増加きれ,郡立学校の課程から,博物学と技術学が除かれ,地理と歴史が縮小さ れ,ラテン語とドイツ語はギムナジャに進学するものにだけ義務付けられた。教区学校に はまったく手がつけられなかった。またこれらの学校で,エカテリーナ二世時代以来用い られてきた『市民と人間の義務についての割が除かれ,新約聖書の読書が神学の授業と は関わりなく毎日課せられることとなった。 中等および下級学校の教育の不足は一向に改善されなかったoペテルプルク師範学校の 22 佐々木弘明 開設をはじめ, 1819年には全ての管区のギムナジャに付設して教具養成課程が設けられ, 貧困な家庭の子どもを給費生として募り6年間の教育職の義務を負わせることを命じる, などの方策が採られた。しかし教員の不足はむしろその待遇の悪さに起因した。すでに1817 年にポトソキー伯爵は次のように述べた。「教師は,多数の困難と激務の職にもかかわらず, 自分と家族の扶養にとって十分な手当てを政府からも,私人からも受けておらず,ついに は彼らは自分が背負っているその名を憎悪しそして他の種類の勤務に移る機会を探し求め なければならないのである。 --これらの官吏の貧しい状態は, --まさに赤貧からだけ の理由でそれらに就くことが決心されるほどに今日の好ましからざる結果を生み出してい るのである。 --教授部門の完成のために当局によって用いられるいかなる方策も,もし も何よりもまず教師の地位に大きな利益と尊敬の達成についての配慮が向けられなけれ ば,決して成功することないだろう+ (82)と。しかしそのための思い切った措置は講じられ なかった。問題は学校の維持の財源をどうするかに向けられ,採られたのは189年の授業料 の導入で,それは主として学校修繕のためのものとされた。教師の待遇の改善は相変わら ずよくならなかった。官等の問題や年金の問題でわずかながら改善の方向に向かっただけ であった。 宗教・教育省の設立は聖書協会の聖書の普及を具体的に実施に向かわせた。聖書農村学 枚の設立案などさまざまな案が検討され,農村の教区学校を僧侶に完全に委託するという 方向が示されたが,大修道院長フィラレートは,補寮を農村学枚の教師とすることには「補 祭一農民(都市を除いて大部分このようである)の職務を教師の職務と結びつけること不 適切である。授業料は日々の糧を与えず,それは自分自身の手による土地の耕作がもたら す+ (83)として反対した。こうしたなかで有力な方法として浮かび上がってきたのが,ラン カスター式の相互教授法の導入であった.ランカスター法はアレクサンドルー世自身が真 剣に興味を抱き,すでに1816年にべテルブルク中央教育大学の学生4人をベルおよびラン カスター法の研究のためにイギリス-留学させた。彼らは1819年に帰国し,開設された師 範学校でランカスター法が試みられた。ランカスター法の導入の有効性が中央学校局で論 議され,ウヴァロフはその有効性を主朱した。この一方,ペテルブルクには政府の意向と は関係なく, 「相互教授法による教育施設のための協会+が作られ, 1819年に認可された。 その会月はグリンカなども含め100人を数え,初等学校用教科書と指導書の作成,学校の設 立,ペテルブルク外での設立希望者-の資金援助,を目的とした(84)oこうした動きに呼応 して省は本格的にその導入の検討を開始し, 1820年に相互教授の学校の設立と監督のため の特別委貞会が設置され,マグ土ツキー,ルーニチ,マルトィノフそしてウヴァロフが委 月となった(ウヴァロフは翌年辞任)。しかし委月食は翌年には師範学枚での相互教授法に 疑惑があるとして師範学校批判を行なった。それはマグニッキーによる師範学校の方法に はランカスター法ではなくペスタロッテ法が優勢であることの指摘であって,当時すでに ペスタロッテ法はその思想上危険視されていた。全てのランカスター式の学校の点検がな され,またその導入自体の中止を求める声も高まった。結局その是非から改めて審議され ることになり,実際には導入は延期されたまま放置されたo ランカスター法自体は軍隊あ 中に取り入れられ,後デカブリストたちが流刑地のシベリアで普及させた。 23 アレクサンドルー世時代の教育政策 ゴリツインは大臣としてその実権を保守派に握られ,彼の政策は思うに任せることはで きなかった。そして結局全てが中途半端なまま辞職する。そして彼の後任にはアラクチェ -エフの支持者で70オの老人で典型的な旧貴族シシコ-フが就任したが,それは完全に保 守派の勝利であり,それとともにアレクサンドル時代の終わりも意味した。 34頁 (1)チャルトルイイスキーは,アレクサンドル が「独裁君主制を憎悪していること,全て (1笥同上 の人間が自由への権利を持つこと,フラン ¢S 同前 ス草食はたしかに行きすぎもあったが,そ ¢¢ 同前74頁 れが有益な仕事を成し遂げたという事実 (19 同前10頁 は否めないこと+などを説いたと語ってい (咽 る.B.A.◎e井oPOBA II Jl EⅢ POC-bl耳CTOP A ekcatI ≫1990 1 pI≪Bo CTp.51 35頁 TaM拭e.AJI (17) TaM 丹くe. (1砂 前掲書 の疑惑をまねき,チャルトルイイスキーは (19) 前掲書 サルデイアに,コテュベ-イがドレスデン 帥 fI やられ解散する。 アレク (4)山本俊朗 究1987 56真 中央公論社昭57 eH 帥 アレクサンドル⊥世170頁 C.B.Po ”(且 Ⅱ盛 ecK に,ノヴォシーリツオフはイギリスにおい サンドルー世 アレクサンドルー世時代の研究 90-91頁 (2)やがて「若き友人たち+はパーヴュル皇帝 (3)アンリ・トロワイヤ・工藤庸子訳 CTp.56- ekatI井pI 0530p A H抜CTepCTBaHaPO efI bHOCT払M Tell Jt HOrO 1802-1902 IIf[ cTOP耶 eCTBeHCKHⅡ丘,” 1902 CTp. 聖書協会は,その綱領に「第1条 npOCBe 108 本協会 アレクサンドルー世時代の研 の唯一の目的はロシアで,多くの人々が説 早稲田大学出版部17頁 明や注釈の一切ない,聖書または旧約と新 薬の聖典を利用できるようにすることに 85頁 5 前掲書 6 同前 7 TaM丹(e. 8 カラーズィンはアレクサンドルに出した 的のために,この仕事に参加しようとす 手紙が経で「若き友人たち+とともに改革 る,あらゆる宗派のキリスト教徒,あらゆ の請合議に出席する権利を得,学校委具 る身分の男女。第3粂 合,中央学枚局の事蕃局長として,教育改 の次の点に配慮する。ロシアの帝国内の居 革案の取りまとめに従事,-リコフ大学の 住者にさまざまなことばの聖書または旧 設置は彼の努力が大きかった。しかし1804 約の聖典を与えること。最も適切な値段 年皇帝の不興をこうむり解任される。 で。貧困者には無料で。+などをおいた。前 アレクサンドルー世 ある。第2条 A (9)前掲書 究 JI ekaHヱI plcTP. 協会の構成月は次のごと し。内なる己れの信念に従って,以上の目 53 掲書 アレクサンドルー世時代史の研 協各会はもっばら アレクサンドルー世の時代史の研 究132真 299真 (10) 岡前 246頁 鍋 (11) 岩間 徹19世紀初期ロシアにおける改 ¢3) 同前136頁 革運動の底流 スヴラ研究第11号1967 Ⅱl 岡前135-136真 糾) 前掲者19世紀初期ロシアにおける改革 24 佐々木弘明 運動の底流 39真 ¢5) TaM7Re Ⅲ ㈹ cTOP耶 0630p eCKⅡ面 ついては,学生を「アカデミー生+とし, 教授の養成機関として機能する。学生は20 33 --CTp. e6)プニンは,公爵エヌ・レプニンの庶子とし 人の定男でそのうちから「アカデミーで従 て生まれ,砲兵技術学校を卒業して軍務に 事する科学のひとつへの不断の傾向と優 就き,アレクサンドルー世即位後国務院に 秀な能力を有しているもの+が選抜され, 書記として勤務し,国民学校設立後はその 3年間の教育を受け,外国派遣を経たの 文書関係の職務に就くが, ち,試験を受け, 1805年25オの若 さで死んだ。彼は,ア・ベストウージェ7 (49 誌』を発行するが,これはパーヴュル皇帝 ㈹ TaM邦e rIOJt.Pen.班.fI.IIIEq (48) TaM ㈹ rI POCBeT耳TeJI e 冗 TOM2 CTp. 194 ¢均 TaM祇e. e. CTp. 40 帥 TaM罪( e. CTp. 42 e. CTp. 36 182 62) TaM )釈 e. CTp. 205 61 CTp. 105 63) TaM冗e, CTp. 62 CTP. 107 64) CTp. 71 65) TaMク粥e. CTp. 86 66) TaM冗e, CTP. 68 67) TaM冗e, CTp. 70 68) TaM CTp. 73 69) TaM丹(e, CTp. 74 (紬 TaM CTp. 75 )E e. 運動の底流 40真 (34) 岡前 (35) AETO JI 丘Mblc Or 耳兄 JIR[ Pocc文才 井【e. 耶 Ⅲe皿arOr XIX oB瓦Hbl B. n ePBO亜 1987 ⅢCTOP qtl CTp. eCK ecko 乃OJI 27 E丘 Oq30p --CTp. 7Re. ¢&) TaM 邦e. TaM冗e, 44 2R e, e, B4cTOP AHTO (62) TaM拭e.・・・・・・CTp. JIOrE兄 Ⅱ・・・・・・cTp. Ⅲe刀.arOrⅢ 28 CTP. 79 TaM 〉耳e, CTp. 74 )Ⅸe, CTp. 43 舶 〉Ⅸ e. CTp. 29 (65) TaM Xe. CTp. 28 鍋 TaM丹【e, CTp. 77 TaM拭e, CTp. 103 e, CTp. 109 (69) TaM ,” e, CTp. 111 (70) TaM )釈e, CTp. 116 TR e. CTp. 38 (師 (12) TaM 〉E e. CTp. 28-29 (68) TaM井( (43) TaM Xe. fI CTOP・Etl eCK E岳-・・・CTp. Ⅱ蕗・・・・・・cTp. ・・-・CTp. FYI eCK 耶 CK 75-76 (63) TaM汚くe, (41) TaM 51 3R EfI 130-132 CTp. cko )Ⅸe.抗cTOP ¢1) TaM双e. 39 TaM TaM TaM拝( JI r CTp. 鯛) 前掲書19世紀初期ロシアにおける改革 ㈹ AHTO e. ¢カ TaM ¢9) TaM 〉Ⅸe. TaM井( A, eCK 101 61) TaM ・tl CTp. 195 糾) TaM光e. 帥 〉R e. CTp. ¢⑲ TaM ¢6) TaM Et( 86 われる(雑誌は1年間しか続かなかった) Pycck HcTOP )Re. ¢¢ TaM Jf ㈱ TaM 時代の進歩的な哲学一政治的宣伝誌とい aHOBa 10等官と助教授に就く権 利を受ける。 とともに1798年『サンクトペテルブルク e7) この規定で,科学アカデミー付設の大学に 32 曲-・・・cTp. I嘘・・-・cTp. アレクサンドルー世時代の教育政策 2Re, CTp. 118 (72) TaM ”( e, CTp. 120 (73) TaM 〉Re, CTp. 123 CTp. 124 CTp. 125 CTp. 152 ㈹ 伽 TaM TaM推(e, (75) TaM 推(e (76) TaM 7R (77) TaM )Ⅸe, e, q8) TaM汚くe, CTp. 153 CTp. 132 Xe, CTp. 133 (Bカ TaM 2Re, CTp. 136-137 ¢S TaM 〉式e, CTp. 144 〉Re, CTp. 146 q9) TaM ¢¢ TaM 劉) 馳 TaM TaM )釈 e, 刃くe 25