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EL ジョーンズ 『経済成長の世界史』 と日本近世史研究

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EL ジョーンズ 『経済成長の世界史』 と日本近世史研究
Kobe University Repository : Kernel
Title
E. L.ジョーンズ『経済成長の世界史』と日本近世史研究
について(E. L. Jones, Growth Recurring : Economic
Change in World History and Studies in Socia-Economic
History of Early Modem Japan)
Author(s)
天野, 雅敏
Citation
国民経済雑誌,202(6):1-13
Issue date
2010-12
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006976
Create Date: 2017-03-29
E.L.ジョーンズ『経済成長の世界史』と
日本近世史研究について
天
野
国民経済雑誌
雅
第 202 巻
敏
第6号
平 成 22 年 12 月
抜刷
1
E. L. ジョーンズ 経済成長の世界史
日本近世史研究について
天
野
と
雅
敏
E. L. ジョーンズは, The European Miracle : Environments, economies and geopolitics
in the history of Europe and Asia を1981年刊行し, 1988年には, その続編として,
Growth Recurring : Economic Change in World History を刊行した。 本稿は, 後者の
再版にもとづいて, ジョーンズの経済成長のとらえ方や彼の日本研究の概要につい
て紹介し, しかるのち彼の議論と関連する日本近世史研究の明らかにしたところを
整理したものである。
E. L. ジョーンズ, Growth Recurring : Economic Change in World
キーワード
History ( 経済成長の世界史 ), 内包的成長 (intensive growth)
と外包的成長 (extensive growth), 日本近世史研究
1
E. L. ジョーンズ 経済成長の世界史 について
エリック・ライオネル・ジョーンズ (Eric Lionel Jones) は, もともとイギリス農業史の
研究者として研鑽を積み, 意欲的な実証研究を通じて農業革命の実態について再検討をおこ
ない, 研究視角や時期設定を見直し, 農業革命概念の再構築をおこなった。 彼によると,
「一九五八年から一九七〇年頃にかけて, 私は一六世紀以降のイギリス農業史について出版
された論文の一語一句を読み漁った。 それは楽しかったし, それをテーマに多くの論文を書
いた。 そのときの経験から, 私は誰の所説が適切な証拠にもとづいているか, 誰が模倣者で
誰がアイディアを剽窃しているかを見抜くことができるようになった。 一般的な歴史書や開
発経済学に関する研究書では, くたびれた主張や農業に関する誤解のひとつひとつが一目瞭
然だった。 私は一般的な書物を書く学者がいかに専門家を苛立たせるかを十分に学んだので
ある。 ただし, 専門家がその研究をもっと幅広い問題に関連付けようとしないときは一般的
な書物を書く学者の方が苛立つのであるが, こうしたことを避けるためには農村史ほど恰好
1)
なものはない」 とする。 実証的な研鑽を積みながら, 幅広い問題を視野に入れ, 鋭く全体を
俯瞰するような視角や接近方法への関心が形成されていた。
このようにして, ジョーンズは, 「現在わたくしが取組んでいる仕事は, 狭い領域に沈潜
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第
6 号
して学問的な課題を追い求めるというハリネズミ型の研究態度から広大な野原を駆けめぐっ
2)
て対象を探し求めるという狐型のそれへの転換を刻印するものである」 とし, 「経済史学の
健全な発展のためには, (中略) 細かい研究は多少犠牲にして, それぞれの専門家に任せ,
もっと多くの経済史家が, 個々の研究領域でこれまで明らかにされて来た膨大な事実を積み
3)
上げて, 全体像を描く努力をすべきである」 とする方針のもとに, 1981年に ヨーロッパの
奇跡
環境・経済・地政の比較史
(The European Miracle : Environments, economies and
geopolitics in the history of Europe and Asia, Cambridge University Press, 1981, 邦訳は安元稔・
脇村孝平訳, 名古屋大学出版会, 2000年) を公刊し, グローバル・ヒストリー, 比較史, 環
境史の優れた業績として高く評価されるとともに, 1988年には, その続編として, Growth
Recurring : Economic Change in World History, Oxford University Press を刊行した。 同書の再
版の際にはミシガン大学出版会の 「社会現象の理論的・経験的研究フォーラム (Forum for
Theoretical and Empirical Investigation of Social Phenomena)」 のシリーズ 「経済学, 認知,
そして社会 (Economics, Cognition, and Society)」 の 1 冊として所収されている (University
of Michigan Press, 2000)。 また同書の再版は, その後, 天野雅敏・重富公生・小瀬一・北原
聡によって邦訳され, 経済成長の世界史 (名古屋大学出版会, 2007年) として上梓されて
いる。
ヨーロッパの奇跡
では, 環境・経済・政治の諸領域を視野に入れ, 主に1400年から
1800年に及ぶ時期のヨーロッパとアジアの経験を比較・対照させ, 経済成長や経済発展がな
ぜヨーロッパで始まったのかを解き明かすことを課題としていたが,
経済成長の世界史
は, 東アジアにおける経済発展の達成を見据えて, 「東アジアの経験の背景を組み込もう」
として, 「成長の底流をなす諸過程を前景に浮かび上がらせることが可能な, より広い構図
4)
を描こう」 としており, 「世界経済の成長の諸起源を扱おうとする」 ものであった。
ジョーンズは, 「多くの人びとは, 他の事情が同じならば, 自らの欠乏状態を改善しよう
と試みるものである」 とし, 「どの社会でも自らの境遇を改善しようとする性向をもつ一群
の人々がいた」, 「なかには豊かになろうと活発な努力をする者もある。 彼らは交換し交易す
ることだろう。 彼らは道具や小間物を製作する技を磨くことだろう。 (中略) 彼らは自然現
象を理解しようと試みる人間となる。 彼らのさらに一部は自分の知識を科学的思考という新
しいやり方に転換しようとし, また別の一群は科学を実践に転換しようとする」 と考えてお
り, 物質的な改良への欲求, 成長を求める性向は, 「一時代の一社会だけの所産ではなく,
5)
歴史を通して奏でられる通奏低音なのである」 とみる。 こうして, 「あらゆる社会において,
生活水準を上げようと試みる人々が一方にいて, 他の (おそらく多くの) 人々は消極的であ
り, またさらに成長への努力を阻害する既得権益擁護というような類のことに携わるその他
6)
の人たちがいる」 のであり, 「成長性向と既得権益の擁護と追求との間の綱引き」 と経済史
E. L. ジョーンズ
経済成長の世界史
と日本近世史研究について
3
7)
は性格づけられるのであって, 「経済成長は, 障害物, とりわけ政治的障害物が取り除かれ
8)
れば, どの社会でも可能だったであろう」 と主張する。
9)
ところで, ジョーンズは, 「二つのタイプの成長を区別しておく必要がある」 という。 外
包的成長 (extensive growth) と内包的成長 (intensive growth) である。 彼によると, 外包
的成長とは, 「総産出量と人口の両方が増加しているが, ほぼ同じ割合で増加しているので,
一人当たりの産出量には確たる増加がない状態を言う。 ならしてみれば, ほぼこのような状
態が数千年にわたって世界経済を特徴づけてきた」 とする。 「ごく長期で見れば, 経済の規
模と総産出量 (一人当たりではない) は恒常的に上昇してきた」 のであり, 「この 「静的拡
10)
大」 は経済社会を徐々に着実に作り変えていった」 のである。 「外包的成長の世界は静止の
世界とはきわめて異なった変化の苗代であった」。 そして, 「その世界のあるどこかの地点で
内包的成長が生じた可能性が高かった。 着実に増大する人口に, たとえ最低限度ではあれ食
糧と衣服と住居を提供することは, 数限りない投資行動を伴い, 一定程度の技術変化を生じ
させた。 われわれは, 全般的な拡大の過程でいわば他と区別されるような変化の局面があり,
ある時点で注目に値する技術変化が起こったことを知っている。 ほとんどの時代を通じて経
11)
済生活は氷河のようにゆっくりと動いていったが, 袋小路に陥ることはなかった」 という。
「内包的成長は, 一人当たりの平均実質所得が上昇しているときに起こる。 実際には人口
は常に前の時期よりも早く上昇し続けてきた。 定義上は少なくとも人口が安定していること
が前提となる。 (中略) 内包的成長はまた, 通常, 就業人口の一定部分が第一次産業から第
二次 (製造業) ないし第三次 (サーヴィス業) 部門へ移行するという, 構造変化を伴う。 お
そらくわれわれは内包的成長のいずれかの局面で, 歴史的な転機を画するのに十分なほど持
続的で確固たる構造変化を期待しなければなるまい。 内包的成長はそのような意味での経済
発展を内容とし, 通常は所得上昇に加えて, 制度的, 構造的, ないし分配上の変化を示すた
めに使われる。 内包的成長を表現するもうひとつの方法は, 一人当たり国民総生産 (GNP)
の上昇による。 平均余命の上昇もしばしば観察されるので, 内包的成長とは, 場合によって
は純経済厚生 (NEW) の増加と整合的であり, それに近い状態をもたらしたと言えるかも
12)
しれない」 とする。 こうして, 彼は, 「歴史とは, 静かに膨張している外包的成長というパ
ン生地のなかから, 繰り返しためらいながら沸き起ころうとする内包的成長の試みと考える
13)
べきであろう」 という。 「内包的成長が実際に起こる場合, エネルギーは無から呼び起され
たというよりも, あらためて方向付けられるか凝縮されていったのだが, それは外包的成長
というすでに拡大中の母体から生じるという事実と矛盾しない。 後者から前者への振り分け
は成長性向が既得権益の擁護と追求という性向を圧倒したときに生じ, その逆が起ったとき
は前者から後者へ振り向けられる。 したがって政治的要因はその過程で大きな役割を果たす」
14)
と述べている。
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初期の社会では, 「自然災害, 乏しい資本, ひ弱な技術, 輸送コストの高さ, そして財産
や人身の安全性の限界といった, 成長を確実なものにしにくい 「客観的」 な困難」 があり,
「支配者集団は既得権益を追い求め, 社会に対する自らの貢献の価値を上まわる利得を熱心
に追い求めた」。 「既得権益擁護とは, 政治的手段やときには暴力さえ用いて, 自分自身の貢
献による報酬部分以上のものを全体のポットから略取することである。 規模の大きい前近代
的社会すべては, 一握りのエリートにより自らのために運営され, 搾取されていた」 とす
15)
る。 ジョーンズは, こうして, 「経済成長抑制の理由を, 欲望や努力の欠如ではなく, 支配
者や政府の搾取とその行為の付随的な結果, さらに為政者が変革を促進する制度を作らなか
16)
ったことに見いだしている」。 独立した法の支配の欠如, 国家のあり方, 行政の無力さ, 侵
略, 過酷な課税, 価値体系, 軍事的領域・宮殿・寺院・支配者や神への壮大な記念建造物に
17)
みられる初期技術の性格などが, 成長を抑制し抑圧した主な要因であったとみており, 「制
18)
度や政治組織の形態が, 生産性の上昇への衝動を鈍らせた過程として追究すべきである」 と
いう。
「経済成長はほとんどいつも抑制されていたが, 常に抑制されてばかりいたのではないこ
とは顕著な事実である。 遥かはなれた時期に, そして多くの場所で, 建設的な経済的・技術
的活動が一再ならず行われていた」。 「中国の宋朝は, 妥当などの尺度で見てもひときわ目覚
ましい経済的な隆盛を経験した。 しかし, 近代初期になって, 西ヨーロッパの外辺部と日本
19)
で劇的な変化が始まったとき, アジア大陸はそれに歩調を揃えることを止めた」 とみる。 こ
うして, 「近代初期までに, どこよりも成長の機会はヨーロッパにおいて大きかった。 (中略)
従来よりも多くの資本や技術が蓄積され, 風通しの良くない社会よりも多くの資本や技術が
積み上げられていった。 ヨーロッパにおける政治的主権の間の競争は, 初めのうちは意図せ
ずに成長を促した。 キリスト教といえども市場活動を阻止することができないことがわかっ
た。 (中略) 成長は, ヨーロッパの政治的制度および価値体系における大きな割れ目から伸
長し, 世界の他のいかなる場所より強く突出し, 一層強固な基盤を備えるに至った」 とい
20)
う。 「ほかの幾つかの旧世界の社会と比較すれば, ヨーロッパはむしろ遅れて発展・成長し
たのかもしれない。 しかし, いったん成長が始まれば, 技術変化はなにがしかの成熟を遂げ
ていたので, その急速な進展のためには, 何よりも改新を実行する人々や企業家にとって妨
21)
害とならないような政治的枠組が必要だった」。 「基底となる非中央集権的構造は元来の民族
的混成に源があり, 地勢的・言語的に多様な土地風土を征服したり掌握したりすることにか
かる高額の費用が, そのような性格をさらに強めた」。 また, 「多くの国王や下位の諸侯が他
の地域の支配者たちより少なく搾取し, 僅かながらでもより多く還元した」, 「窮極的には国
家同士の, あるいは王と貴族の間の臣民と権力をめぐる競争が (それへの―筆者注記) 答え
22)
であるように思われる。 つまりそのことが最悪の振る舞いを防いだ」 とする。
E. L. ジョーンズ
経済成長の世界史
と日本近世史研究について
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「一七世紀ないし一八世紀以降, 政府は政治算術や経済プログラムに自らの関心を深めて
いった。 (中略) その内部で民間の市場活動がそのまま搾取の対象とならずに, 国家により
育まれるような政治社会がうち建てられつつあった。 このことが必然的に成長と発展の方程
23)
式にプラス変数を導入」 した。 「「平和と軽課税」 は成長への 「自然」 な欲求を十分稼働させ
る手段であったかもしれないが, 経済成長はそこから自動的に発生する天恵ではなかった。
各種の公的権威の追加的かつ積極的な役割が関わっていたが, それは利他主義あるいは民衆
の期待から湧き出したのではなく, 政治的競争がもたらす自国経済促進の刺激から来ていた」
24)
と述べている。
こうして, ジョーンズは, 「日本とヨーロッパでは, 政治が確かな違いを生むだけの長い
期間にわたって十分なエネルギーが市場拡大の促進に向けられたため, 世界の歴史を変える
25)
までに至った」 とする。 「機械化された産業部門がゴールと見なされるなら, レースの勝者
はヨーロッパであった。 しかし, 最近の見識は, 後にヨーロッパからさまざまなものを取り
入れたにもかかわらず, 日本は独自に一人当たり実質所得の増加を達成したことを示してい
26)
る」 とし, 「一六世紀から一九世紀にかけての日本における実質経済成長の出現に目を向け」
27)
ている。 そこで, 次節では,
経済成長の世界史
において提示されたジョーンズの日本研
究の概要についてみることにしよう。
2
E. L. ジョーンズ 経済成長の世界史 における日本研究
「日本の経済成長が始まったのは, 明治維新以降であると広く信じられてきた」 が, 「一
九七〇年頃から, 日本経済史の研究は, 徳川幕府 (一六〇〇∼一八六八) を後続の明治帝国
への停滞した序奏部に過ぎないという従来の評価から救い出した」 とし, 「明治維新以降の
西洋文明の摂取は日本の経済成長の支援になったとしても, それが経済成長の発端ではない
ということを明らかにし」, 「経済成長への障害を変貌させたか, あるいはこれを洗い流した
過程を見付け出」 し, 「同時代にイスラムと中国の帝国で起こっていた成長の抑制に対する
28)
論理的な反対事例を示」 そうとする。
「明治時代は開発途上国にしては高いといわれる水準から始まった。 そして, 日本は長い
間自分自身の力で発展を続けていた国であった」 という。 「戦国大名たちはそれぞれの領地
で灌漑用水路網に多大な投資を行い, 古くからあった事業の活力を継続, 向上させていた」
し, 「多数の武装抵抗勢力を抱える分権政治が, 徳川政権による全国統一まで, 増加利得の
ほとんどを統一支配を狙うものたちの手から守っていた」。 「徳川政権による統一がすでに活
気のあった幾つもの経済単位をひとつの市場にまとめた」 のであり, 「新政権は枡 (取引の
さいに用いられる四角い容器) の寸法を含めて度量衡を統一し, 一六六五年までに秤を統一
し, さらに貨幣も統一して, 戦国大名が始めた事業を単一市場地域という形でその論理的な
6
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29)
帰結に導いた」 としている。 徳川前期の成長については, 藩単位の分割に内在する全国市場
形成への制約を取り除いた国家統一, 武士の城下町への定住と米納年貢制, 参勤交代制度の
施行と都市市場の拡大, 江戸の百万都市への急成長, 小家族農民の形成と商業的動機に敏感
な小農経営の展開が重要であったという。 このような軍事社会における民生経済の拡大が,
30)
徳川幕府の平定と統一の産物であったとする。
「農業生産高は一六〇〇年から一八五〇年にかけてほぼ倍増した。 人口増加率はわずか四
五%であったから, 一人当たり生産高は著しく増加したはずである」。 耕地面積の拡大とと
もに, 「個々には小さくても連係・集積すると際立つ技術革新の普及の結果」 であった。 農
具の改良, 新種の米の開発・普及, 金肥の導入, 村落における革新熱とそれに関わった地元
の革新家の存在, 彼らのアイディアを高い識字率をもつ社会に広めた啓蒙書の普及などが生
産性を高めた。 農業生産性の上昇が, 都市化, 地域的分業の展開と経済構造の変化, 生活水
31)
準の上昇の基礎であったという。
「徳川時代の前半は都市の成長が著しかった」 が, 「一八世紀から一九世紀にかけて, 村
落経済が都市機能をもつようになり, 商品流通と小売に多様化した」。 「都市型の経済成長は
日本でもヨーロッパでも一時的に農村の家内工業に転移され, 地方の広大な地域が工業化し
たのである。 地方での産業立地は, 都市建設にかかる高い間接費と共にコスト高の都市労働
者の雇用を回避できたので, 割に合うものであった。 それは水面下で進む工業化であった。
(中略) 農耕から工業への労働時間の放出が続いたのである」。 「肥沃な米作地帯では, 穀作
の生産性が高く, あるだけのすべての労働力を食糧生産に投入する必要がなかった。 このた
め, とくに女子労働力が農作業から解放されて副業労働力の供給源となり, これが商人や富
農による追加的な投資を引きつけた結果, こうした地域にも家内工業が興り, 漆器, 団扇,
日傘, 玩具, 履物, 提灯などを生産するようになった」。 「農村部の家内工業化は土地の生産
性上昇を裏付けるものであり」, 「農業からの労働時間の大規模な放出という構造変化と関連」
するものであった。 「家内工業が空間的に非斉一的であったことは, 地方の特産化が進んで
いたことを意味する」 のであり, 「ある程度の地域的特化は取引活動とあいまって急速な全
32)
国的成長をもたらすのが普通であって, そのための前提条件」 をなしていた。
「幕府は, 商業的に統一する施策と安定化の施策を数々実行した」 が, 「幕府は年貢を一
七世紀に測量した際に設定した水準以上に引き上げようとはしなかったし, またそうするこ
ともできなかった。 そのため, その後の経済成長からの利益は, 歴史上のほとんどの社会の
33)
経験を超える規模で藩と農民の手に入った」 とする。 「一七三二年には, 将軍を支持する大
名の六〇%が恒久的な領地を持ち, 少なくとも一八六八年までそれを維持し続けた。 高位の
政治権力の盤石の枠組と外見上の安定性にもかかわらず, 領主権力の実力が強化された」 の
34)
である。 「結果的には, 藩同士を競わせておく一方で, 国家という規模の経済を達成できる
E. L. ジョーンズ
経済成長の世界史
と日本近世史研究について
7
35)
だけのことがなされたように思われる」 という。 「大名たちは互いを牽制しあい, また幕府
を牽制した。 どの時代のヨーロッパでもこのように国民国家が互いを牽制し, 実質上全ヨー
ロッパ的覇権を狙うものを牽制した」。 「それぞれ中央集権化された藩が経済的な自治を保持
しながら, なおかつ, ヨーロッパの諸国家併存体制に見られるようなより大規模な国民国家
の連係にも似ていないことはない, 全国市場での連係体制を実現しえた政治的に絶妙な調合」
がみられたのである。 「日本とヨーロッパには, それぞれの政治生活における互いに力を弱
36)
め合う潮流が内包的成長の現出を可能ならしめたという利点があった」 と述べている。
かくして, 「幕府は政権を取る前からすでに明白だった成長の抑止要因を幾つか取り除い
て」 おり, 「より積極的だった明治政府はさらに多くの抑止要因を撤廃したが, この過程は
37)
明治政府が始めたものではなかった」 とみている。
3
関連する日本近世史研究について
前節では, ジョーンズ 経済成長の世界史
において提示された日本研究のエッセンスの
紹介を試みたが, 本節では, 彼の議論と関連する日本近世史研究の明らかにしたところをみ
ておくことにしよう。
江戸時代の農業は基本的には family farming であった。 18世紀中頃には, 平野部では, 家
族労働力に依存する小経営つまり小家族による小規模農地の労働集約的経営が一般化した。
そして, 小家族農民に適合的な農具の改良が進み, 耕起専用鍬として備中鍬が出現し, 人力
のみによる耕作が可能となり, 深耕が可能となった。 また脱穀過程では, 抜き箸から千歯扱
きへの変化があり, 栽培技術では, 品種改良, 浸種法や播種法の改善による播種量の減少,
虫害防除の工夫がみられた。 肥料面では, 刈敷・厩肥などの自給肥料にくわえて, 下肥・干
鰯・油粕などの購入肥料の利用が進み, 農業生産力が向上し, 反当収量が増加した。
摂津国武庫郡上瓦林村岡本家の事例をみると, 享保期以降干鰯・油粕・干粕の利用が進み,
米の反当収量が18世紀を通じて増大した。 1727 (享保12) 年∼1735 (享保20) 年の反当収量
は1.39石であったが, 1770 (明和 7 ) 年∼1782 (天明 2 ) 年には1.96石となり, 1800 (寛政
12) 年∼1806 (文化 3 ) 年には2.17石, 1824 (文政 7 ) 年∼1830 (天保元) 年には2.23石と
38)
なっていた。 摂津国武庫郡西昆陽村氏田家の事例をみても, 1782 (天明 2 ) 年∼1785 (天明
5 ) 年の米の反当収量は2.30石となっていた。 その後, 同家の反当収量は, 1786 (天明 6 )
年∼1795 (寛政 7 ) 年2.28石, 1796 (寛政 8 ) 年∼1805 (文化 2 ) 年2.09石と低下するもの
の, 1806 (文化 3 ) 年∼1815 (文化12) 年には2.31石, 1816 (文化13) 年∼1825 (文政 8 )
年には2.44石, 1826 (文政 9 ) 年∼1835 (天保 6 ) 年には2.58石と増加した。 氏田家の棉の
反当収量をみると, 1782 (天明 2 ) 年∼1785 (天明 5 ) 年には106斤, 1786 (天明 6 ) 年∼
1795 (寛政 7 ) 年には104斤であったが, 1796 (寛政 8 ) 年∼1805 (文化 2 ) 年には126斤と
8
第202巻
第
6 号
なり, 1806 (文化 3 ) 年∼1815 (文化12) 年には150斤, 1816 (文化13) 年∼1825 (文政 8 )
39)
年には153斤となっていた。 米の反当収量も棉の反当収量もこのように増加した。 近世後期
の畿内や山陽の先進地の農村では, 米の反当収量は2.3石∼2.8石となっており, その50%前
40)
後が商品化されている。 こうした反当収量の増加に対して, 年貢の動向はどのようであった
かをみてみよう。
氏田家は, 1784 (天明 4 ) 年 1 町 9 反 (石高16石) の自作中農経営であり, 家族労働によ
って米・棉・菜種を主作としており, 1829 (文政12) 年には, 日割奉公人 2 名, 長年季奉公
人 5 名を雇い 3 町近い自作地をほぼ同様の作付内容で経営していた。 氏田家をとりあげた山
崎隆三の研究によると, 自作地の総収入にしめる年貢諸掛りの比率は, 1784 (天明 4 ) 年
18.0%, 1829 (文政12) 年16.0%となっており, 年貢率はこうした水準にほぼ固定されてい
た。 労賃・肥料費の高騰と農産物価格の下落により収支は悪化しつつあるものの, 自作地の
41)
収益性は小作地のそれを上回っており, 明治中期まで 2 町歩以上の手作りがみられた。
また 7 藩の11村落の 1 世紀以上に及ぶ貢租資料にもとづいて, 年々の貢租納付高を査定産
出高の石高で除して貢租率を算出し, 各村落の貢租率の長期的動向を明らかにしたトマス・
C・スミスの研究によると, 査定産出高である村の石高は安定的で変化することはほとんど
なく, 査定産出高と現実の産出高の間に乖離がうまれていたとみられること, 査定産出高の
石高に対する貢租の比率は高率とはいえ, その有意な長期的上昇はみられなかったことが示
されている。 再査定のための全領地を対象とする調査に要する膨大な行政的労力や査定と税
率の引き上げへの農民の抵抗などから, 定期的な土地調査はなされず再査定は見送られたも
のとされている。 年貢や小物成が固定的ないしやや減少するなかにあって, 土地の生産性が
上昇していたのであるから, 意欲的な農民の手元には 「余剰」 が形成され, 農事改良への動
42)
機づけとなっていたのである。
長期的に連続した年次の年貢収納高の判明する幕府と高槻・岡山・金沢・久留米・篠山・
会津の 6 藩の年貢収納高の10年間の期間平均を算出し, 幕府や諸藩の年貢米量の長期的傾向
を検出した山崎隆三の研究によると, 17世紀中期から18世紀の高槻・岡山・篠山・会津各藩
の年貢米量は, 17世紀を通じて増加し, 18世紀初頭に頂点に達しており, 以降その水準に停
滞もしくは減退している。 17世紀の動向は分明ではないが, 18世紀以降の年貢米量の動向が
判明する幕府と金沢・久留米両藩の場合をみると, 18世紀中期が一つのピークになっている。
こうした動向は, 岡山・篠山両藩についても同様であるから, 最大のピークが17・18世紀の
交にあり, それ以降は低い水準での起伏とみることができる。 このようにみることができる
とすれば, 17世紀を通じて増加した年貢米量は, 18世紀初頭以降停滞ないし減退するという
43)
局面に入っていたのである。 18世紀に入ると, 諸藩の財政は, 膨張する歳出に対して歳入は
停滞し, 減少することもあった。 領主財政の破綻に対して, 藩政改革が行われ, 領内の生産
E. L. ジョーンズ
経済成長の世界史
と日本近世史研究について
9
基盤の拡充をはかり, 移出入商品に対する統制が強められ, 国産の奨励とその独占がめざさ
れた。 こうした国産専売という形態をとって施行された諸藩の国産奨励政策については, 専
売制度の研究という多くの業績がある。 藩営専売制度の展開過程の時代別推移や地域別分布
44)
をみると, 17世紀から18世紀前半の専売制は主に大藩で実施されていたが, 18世紀後半以降
小藩にも波及し, 18世紀末から19世紀初めにかけて, 専売制は, 諸藩とりわけ西日本の諸藩
において顕著な展開を示していた。 19世紀初めをとると10万石以上の大藩の 8 割弱, 10万石
未満の小藩の 2 割がそれを実施しており, 専売制の基本的なタイプは領内の購入独占であり,
専売商品の領外市場への移出独占という形態をとっていた。 また専売制実施藩数と藩札発行
藩数の動向は相関的であるとされていた。 つぎに若干の諸藩の国産奨励政策について概観し
よう。
18世紀後半の諸藩の国産奨励政策をみるために徳島藩の事例をみる。 18世紀後半の明和・
寛政の二つの改革により同藩は特産物の阿波藍の国産振興をはかった。 阿波藍に対する明和
の改革は, 名西郡高畑村組頭庄屋小川八十左衛門の建議をいれ, 領内藍業関係者の総意を形
成して施行されたが, それは, 18世紀の阿波藍の発展をふまえて, 中央都市問屋商人の流通
支配を克服し, 在地の発展をささえようとするものであった。 徳島藩は, 地方産業の成長と
在地資本の発展によって形成された地域経済の代弁者として, また地域意志の統合者として
機能する方向へ進んでいたのである。 しかし, この明和の仕法は, 幕藩制社会の基礎的原理
に抵触するものであったから, 幕府はそれに反対し, 仕法は挫折した。 しかし明和の仕法の
提起した課題は, 同藩の寛政改革において継承され, その一層の展開がはかられていた。 阿
波藍に対する寛政改革は, 生産・流通システムの整備をおし進め, 供給サイドの組織化によ
って領外市場の市場編成を行おうとするものであった。 徳島藩は, 18世紀の阿波藍の成長に
ともない, 明和・寛政の二つの改革を実施し, その成長を阻む要因を除去し, その発展をさ
45)
さえていた。
つぎに19世紀初期の国産奨励政策の展開をみるために, 加賀藩と姫路藩の事例をみる。
加賀藩の国産奨励政策=産物政策の展開は, 18世紀後半以降本格化し, 幕末にいたるまで
継続的にくりかえし 5 次にわたって実施された。 18世紀後半の第一次産物政策では, 越中・
能登を中心に領内諸産地に対して低利資金の供与がなされるとともに, 領内生産物の生産量・
消費量などについて調査が行われた。 この産物調査は, 19世紀にはいると, その関心を貿易
構造・貿易バランスの数量的把握にむけていた。 こうして, 19世紀にはいると, 文政年間以
降天保年間にかけて約20年間におよぶ第三次産物政策が実施された。 この第三次産物政策で
は, 1828 (文政11) 年以降加賀藩国産の江戸直送が行われていた。 小松絹・城端絹などのい
わゆる加賀絹は, 宮津藩の奨励をうけ急成長をとげていた丹後縮緬などの地方絹と京都市場
で競合し, 次第に停滞的となっていた。 加賀藩国産の江戸直送政策は, こうした加賀絹の現
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第202巻
第
6 号
状を打開し, 越中を中心とする一定の領内の産業発展をふまえて提起された販売戦略であっ
た。 加賀絹のみならず木綿, 布類, 金物類, 紙類など広範な国産品の江戸直送が実施され,
市場における自立性をたかめるために半製品より付加価値のたかい完成品とすべく加工技術
の取得が試みられていた。 出荷に際しては 「半銀拝借」 という形態をとって産物方の信用供
与がなされていたと思われることや輸送手段を確保するために船舶建造が奨励されていたこ
46)
となどからみて, その意義は小さくないと思われる。
19世紀初頭の姫路藩では, 家老河合隼之助の手によって藩財政の破綻を打開するために藩
政改革が行われ, 国産奨励政策の積極的な展開がみられたのであり, 木綿専売制はその一環
として行われたものであった。 姫路木綿の直面した大坂問屋商人の流通支配を克服するため
に, 同藩は, 1810 (文化 7 ) 年に木綿の江戸積を企図し, 10年におよぶ準備と試行をへて,
1821 (文政 4 ) 年に姫路木綿の専売制とその江戸積を実現した。 姫路に国産会所を開設し,
木綿江戸積問屋30名を公認することにより, 織元から仲買の手をへて集荷した木綿を一手に
掌握し, 領内に委託した晒工程をへて完成品とした白木綿を江戸に直積みし, 江戸の産物会
所を通じて販売するという形態をとっていた。 木綿の集荷にあたっては, 木綿代価の 7 割程
度を国産会所の発行した藩札 (木綿切手) で前払いするという方法をとっており, 姫路藩の
木綿専売制は, 藩札の発行という政策手段を藩専売制とリンクさせて成功をおさめたもので
あった。 姫路木綿の江戸積は伸長し, 江戸問屋の資料によると, 姫路木綿の江戸積入荷量は,
1824年37万反, 1837年62万反, 1838∼1840年87万反と増加した。 家老河合隼之助はこの木綿
専売制を 「播磨国一国之富に可相成基本に候間, 不容易事に而候」 とみていたのに対して,
幕府サイドにたっていた大坂西町奉行阿部正蔵はこうした地方における大名領国の発展とい
う事態に直面し, 1842年に 「諸家国産類取捌方之義ニ付, 前ケ条ニ申上候通, 御触有之候者,
姫路表より毛綿糶買いたし候義相止, 先前之通, 国々より大坂廻高相増, 相場引下可申」 と
主張していたのである。 19世紀の進行につれて, 幕府・諸藩の利害は競合するにいたってい
47)
た。
19世紀中葉の諸藩の国産奨励政策の展開をみるために, 高松藩と紀州藩の事例をみる。
高松藩は, 19世紀にはいると 「享和新法」 という積極策をまずとり, 天保年間にはいると
糖業を戦略的産業と位置づけ体系的な国産振興策を実施した。 19世紀初頭に家老玉井三郎右
衛門の手によって行われた 「享和新法」 は, 藩札を使用した広範な国産振興政策であったが,
領内における流通貨幣の管理には配慮を欠いていたため, 放漫政策へと傾斜し失敗した。 文
政後期から天保期にかけて行われた天保改革は, こうした失敗をうけて実施されたものであ
り, 木村亘・筧政典・日下儀左衛門などの新官僚によって行われた。 この改革を通じて, 財
政改革が行われ, 藩札整理がなされるとともに, あらたに新札が発行され, 藩札流通の蘇生
がはかられた。 この天保札の発行を基礎にして, 糖業の組織的振興をはかり, 財政再建を行
E. L. ジョーンズ
経済成長の世界史
と日本近世史研究について
11
おうとしたものが, 砂糖為替仕法と称されるものであり, この仕法の施行により, 天保末年
には財政再建がなされるとともに, 領内における糖業の発展がよびおこされていたのである。
19世紀初頭以降の通貨管理に失敗した高松藩は, その経験から多くのものを学び, 天保年間
にはいると通貨管理のノウハウを蓄積・確立し, 領内の産業発展に必要な安定的通貨の供給
48)
システムを考案・創出するにいたっていたと思われる。 こうして, 讃岐の和糖生産は19世紀
を通じて成長をしたが, そのことはそれまでの投入・産出関係に変化をひきおこし, 肥料の
確保と砂糖の販路の開拓という問題をうみ, 天保末年には讃岐―紀州―関東をむすぶ藩際交
易計画が構想され, 一部実施されるにいたっていた。 幕府は, この計画を 「大目論見ニ有之」
ととらえ, この交易計画の施行に対して 「当分見合可被成」 と掣肘を加えた。 こうして, こ
の高松・紀州両藩の藩際交易計画は所期の思惑通りには進行せず終息した。 しかし, こうし
た交易計画が一部実施されていたことに19世紀という時代相が現われている。
また紀州藩がこの交易計画をうけいれ, それに参画しようとした背景には, 同藩の藩内の
経済的状況の変化があったことにも留意すべきである。 紀州藩の国産振興政策として知られ
ている 「御仕入方」 仕法も, 近世中期以降その性格を変容させ, いわゆる 「御救い」 を標榜
した仕法から 「御国益」 を追求する仕法へと変化していた。 高松・紀州両藩の交易計画は,
18世紀後半から19世紀の両藩の領国における経済的基礎過程の変容のうえに構想され, 実施
49)
されたものであったのである。
18世紀後半から幕末にかけての諸藩における国産振興政策の施行は, 大きな拡がりと深ま
りをもって展開していたし, そうした政策展開は, たんなる財政補填策というより以上の意
義をもっていた。 18世紀後半以降の諸藩は, このような国産振興政策の施行を通じて, 領内
の産業発展をささえるべく制度的枠組を準備し, 19世紀の経済発展を導き出していた。 しか
し, それは, 試行錯誤の過程であり, 紆余曲折した過程をとって, 目的実現に適合的な政策
構想を獲得するという道を歩んでおり, 18世紀後半以降の時代は政策の巧拙によってその成
果に大きな差の生まれる時代となっていたのである。
注
1) Jones, E. L., Growth Recurring : Economic Change in World History, Clarendon Press・Oxford, 1988,
Jones, E. L., Growth Recurring : Economic Change in World History, The University of Michigan Press,
2000, p. 183。 後者にもとづく邦訳は, E. L. ジョーンズ著, 天野雅敏・重富公生・小瀬一・北原
聡訳
経済成長の世界史 , 名古屋大学出版会, 2007年, 171172ページ。 以下, Jones, E. L.,
Growth Recurring : Economic Change in World History からの引用注は, 邦訳のページ数のみを示
す。
2) E. L. ジョーンズ著, 安元稔・脇村孝平訳
名古屋大学出版会, 2000年, 3 ページ。
ヨーロッパの奇跡
環境・経済・地政の比較史 ,
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第202巻
第
6 号
3) 前掲 ヨーロッパの奇跡 , 1 ページ。
4) 前掲 経済成長の世界史 , 56 ページ。
5) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 11ページ, 61ページ。
6) 前掲 経済成長の世界史 , 「日本語版への序」 ページ。
7) 前掲 経済成長の世界史 , 6566ページ。
8) 前掲 経済成長の世界史 , 6 ページ。
9) 前掲 経済成長の世界史 , 11ページ。
10) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 51ページ。
11) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 12ページ。
12) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 51
52ページ。
13) 前掲 経済成長の世界史 , 53ページ。
14) 前掲 経済成長の世界史 , 66ページ。
15) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 16
17ページ。
16) 前掲 経済成長の世界史 , 176177ページ。
17) 前掲 経済成長の世界史 , 14ページ, 24ページ, 26
28ページを参照。
18) 前掲 経済成長の世界史 , 15ページ。
19) 前掲 経済成長の世界史 , 29ページ。
20) 前掲 経済成長の世界史 , 28ページ。
21) 前掲 経済成長の世界史 , 164ページ。
22) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 166
167ページ。
23) 前掲 経済成長の世界史 , 167ページ。
24) 前掲 経済成長の世界史 , 178ページ。
25) 前掲 経済成長の世界史 , 178ページ。
26) 前掲 経済成長の世界史 , 30ページ。
27) 前掲 経済成長の世界史 , 35ページ。
28) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 147
148ページ。
29) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 149ページ, 157ページ。
30) 以上の叙述については, 前掲
経済成長の世界史 , 150
151ページを参照。
31) 以上の叙述と引用については, 前掲
経済成長の世界史 , 151ページを参照。
32) 以上の叙述と引用については, 前掲
経済成長の世界史 , 152
153ページを参照。
33) 以上の引用は, 前掲
経済成長の世界史 , 157
158ページを参照。
34) 前掲 経済成長の世界史 , 156ページ。
35) 前掲 経済成長の世界史 , 157ページ。
36) 以上の引用については, 前掲
37) 以上については, 前掲
経済成長の世界史 , 158
159ページ。
経済成長の世界史 , 158ページ。
38) 以上の叙述については, 今井林太郎・八木哲浩
封建社会の農村構造 , 有斐閣, 1955年, 105
ページ。
39) 以上の叙述については, 山崎隆三
地主制成立期の農業構造 , 青木書店, 1961年, 152ページ。
40) 岡光夫 「農村の変貌と在郷商人」,
日本歴史12
近世 4 , 岩波書店, 1976年, 68ページを参
E. L. ジョーンズ
経済成長の世界史
と日本近世史研究について
13
照。
41) 以上の叙述については, 前掲山崎隆三
地主制成立期の農業構造 , 207ページ, 210ページ,
217
227ページ, 254
260ページ。
42) 以上の叙述については, トマス・C・スミス著, 大島真理夫訳
日本社会史における伝統と創
造 [増補版] , ミネルヴァ書房, 2002年 (第 1 版は1995年) の 「第 2 章 徳川時代の年貢」 の57
76ページを参照。
43) 以上の叙述については, 山崎隆三 「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」,
史12
日本歴
近世 [ 4 ] , 岩波書店, 1963年, 341
346ページを参照。
44) 西川俊作・石部祥子 「藩専売制の波及について」, 経済研究 第36巻第 3 号, 1985年, 268
272
ページを参照。
45) 以上の叙述については, 天野雅敏
阿波藍経済史研究
近代移行期の産業と経済発展
,
吉川弘文館, 1986年, 1146ページ。
近世産物政策史の研究 , 文献出版, 1986年, 77
243ペー
46) 以上の叙述については, 田中喜男
ジ。
47) 穂積勝次郎
姫路藩綿業経済史の研究 , 1970年, 84
254ページ, 穂積勝次郎 「姫路木綿国産
会所の開設に就て」,
日本史研究
書房, 1967年, 252ページ,
第12号, 1950年, 林玲子
大阪市史
江戸問屋仲間の研究 , 御茶の水
第五 , 651ページなどを参照。
48) 木原溥幸 「讃岐高松藩における砂糖の流通統制」,
香川大学教育学部研究報告 第Ⅰ部
号, 1978年, 木原溥幸 「讃岐高松藩における砂糖為替金」, 渡辺則文編
渓水社, 1982年, 永年会編
49) 藤田貞一郎
第44
産業の発達と地域社会 ,
増補高松藩記 , 永年会, 1932年などを参照。
近世経済思想の研究 , 吉川弘文館, 1966年, 藤田貞一郎 「幕藩制的市場構造の
崩壊」, 和歌山県史研究
法」 と関東魚肥市場」,
第 3 号, 1975年, 内田龍哉 「幕末紀州藩における 「加太浦交易会所仕
地方史研究
第35巻第 1 号, 1985年などを参照。
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