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(3)金属生産量の歴史(2)銅pdf3
ギlh ilLV ▲■▼ 3。 産量 の 歴史 (2)銅 新井 日本金 属 工業 (株 宏 ) 常務取締役 前回す でに ,鉄 の み で な く,銅 や金銀 の 歴 史的 な こも年産 20ト ン程度 であろ うか.こ の よ うな銅製錬 生産 量推 移 に つ い て ,あ らか じめ 表 3に 「各 時代 の 基地が い くつ あ つたか半Jら な いが ,ロ ーマ 帝国内で 各種金 属 の 生産 量 」と して ま とめてお いた は数 百 トン規模 にはな るか も知れ な い .600ト ン と 個 々の 数値 につ いて はそ ち らを参 照 していただ くと して , 今 回は銅 生産量 の推 定根拠 等 に つ いて 述 べ る。 仮置 きしてお くが ,何 か新 しい資料 を見 つ けた ら , 後 日補 いたい . ヨー ロ ッパ 中世 の銅生産量については,ま ずベ ッ [ヨ ー ロッパ ]鉱 山国だ つた ドイツ クの『 鉄 の歴 史』を参照 したい。 そ こには極 く断片 ローマ時代 の銅生産 につい ては,ま だ参考 とし得 的な こ としか述べ られ ていないが , ドイツの鉱 業は る資料 に巡 り合 えな いでい る。 当然 「銅 の 島」の意 を持 つ 「キ ュ プ ロス」の銅 が 対象 にな ろうが ,そ の 12世 紀 には開花 してお り,当 時 のチ ロル の銀 山お よび銅 山には,3万 人 の鉱夫が働 い て い た と言 う 考古学的な研 究状況につい て紹介 してい る原善四郎 享保 2年 (1717)の 秋 田阿仁銅 山の例では人口2640 氏 も,量 については何 も触れて い ない。藤野明氏 が 人で 160万 斤 (1000ト ン弱 )の 銅 を生産 してお り 『 銅 の 文化史』で紹介 しているよ うに,ギ リシ ャ人 3万 人 が家族 を含 めた値 として も,そ れが確 か な ら オ フ リニ ウス (1世 紀 頃 )の 挙 げた七不思議 に, ロ 大変な生産水準である . , . ー ドス島のブ ロンズ製 ヘ リオ ス像 (前 四世紀 )の 高 さ しか しよ り信頼できる資料 としては,フ ッガー 家 が32メ ー トル もあ つた とか ,ナ イル 河 口の ファロス の記録 があ る.諸 田実氏の『 フ ッガー 家 の時代』 に 島 の灯台に巨大な反射鏡 があった とか ,豊 富な銅 を よれ ば ,16世 紀初 の 当時 の ヨーロッパ にお い て,フ 思わせ る伝承 もあるが , ローマ 自身は銅や錫に恵 ま ッガー 家 が銅 の取引きを取仕切 つていたのは 間違 い れず ,交 易等 によって入 手 していた .ロ シヤ人 の ミ ない .そ の フ ッガー 家 が銅 の供給 のた めに開発 した カエル氏が『 金属博物館紀要』に紹介するところによ のが,ハ ンガ リーの鉱 山である。記録 によれば,1497 ると,ロ ーマ時代以前のキプ ロスの銅 の年産量は 10 年 か ら1539年 の 間 ,ハ ンガ リー か ら送 られ た銅 は ∼ 20ト ンであった と言 う。それ とは別 に ヨル ダンの 年平均 300万 ア ン トウェル ペ ンポ ン ド (約 1500ト 2つ の銅製錬遺跡でも,残 留 スラグの量か らみて ン)で あ った。鉱 山国 の ドイ ツのことであるか ら 通算 5000∼ 10000ト ンの銅 が生産 された との報告 そ の他 にもかな りの銅生産があったはずで,全 体 と もある.数 百年間にわたるもの と思われるので,こ しては 3000ト ン程度 としてお きたい。16世 紀 中ほど , , BOUNDARY 19992 には, ドイ ツで硫化銅鉱 を酸化製鋼す る近代銅 製錬 を燃料 とした送風炉で溶解 されて いた .鉄 分 が 5% 法がアグ リコラによ り発明 された とい う も入 つてい るものが あ り,酸 化精錬はお こなわれて . なお後にも述 べ るが,ヨ ー ロッパ では 1550∼ 1600 い なか った と思われ る.な お鉱 山遺跡 の状況につい 年頃 ,米 大陸か らの膨大 な銀 の流入 により,物 価 が ては ,雷 従雲氏 の論文 「中国湖北省銅緑 山古坑道冶 3∼ 6倍 に高騰 した。その 中にあ って ,竹 岡敬温氏 金遺跡 と春秋戦国時 代 の採鉱冶金」が『 考古学雑誌』 の 「16世 紀 リヨンの貨幣 と物価 」 『 大阪経済学』 23 68-3に 紹介 されて い る . によると,鉄 は一 般 物価 と同 じよ うに上 昇 したのに 銅緑 山の近 くにある戦国期 の一 諸侯 に過 ぎない 曽 銅価 はま った く変化 しなか った と言 う.こ の 頃 ヨー 侯 乙の墓か ら,編 鐘 をは じめとする青銅器が約 10.5 ロ ッパ では銅 生産が銀生産の伸び に匹敵す るほ ど活 トン も出てきて驚 いた ことがあるが,銅 緑山の規模 発化 していた もの と思われ る。 を知れば当然 とも言 える.た だ,そ の量 の多さには , 一方 ,英 国は伝統的に錫 の生 産国ではあ つたが , 日本 における弥生 時代・古墳 時代 を通 して発掘 され 17世 紀末ま で銅 の 生産 は重要ではなか った 諸統 た青銅器 の総量が 10ト ンに満 たないことと比較 して 計 か ら見 る と,18世 紀初 の生産量 は 1500ト ン程度 驚 いて欲 しいのである。このことは後 で改めて触れ る で ,18世 紀 の後半になる と 3000ト ン近 くになる であろ う これが 19世 紀 の 中葉 には 13000ト ンに急 増す る . 中国 の銅 生産量 をもうす こし直接的に推定す る方 19世 紀 中葉 ,ド イ ツは 45000ト ンの レベ ル に達 し 法 としては,鋳 銭 の 問題 がある。 中国 では歴 代貨幣 てお り,ほ ぼ英国 の 3倍 の水準であ り,類 推す るに の 中心が銅 貨 であ り,銅 生産 のか なりの部分 が鋳銭 18世 紀初 まで の ドイ ツの銅 生産 量 は 5000ト ン程 に用い られて い た。 『 漢書』によれ ば,孝 武元狩 5年 度 であつたであろう。 これ な ら先に推 定 した 16世 紀 (B C 120)か ら平帝元始 (A.Dl)ま での 120年 間 の値 とも整合性 が 取れ る.後 述 のよ うに ,17世 紀末 に発行 された五鉄銭が 280億 高余 とあり,こ の重量 か ら18世 紀初 ,日 本 の銅 生産が世界一 との「定説 」 が約 10万 トンで,年 当た りでは約 1000ト ンである があるが, ドイツとはほぼ同等 の レベ ル にあったので 面 白い ことに現在使用 されて い る十円玉の発行総数 はなかろうか。 も 50年 間で 280億 枚 である.漢 代 の人 口は,現 在 . の 日本 の人 口の 半分 くらいで あるか ら,ど の程度 の 国]古 代 としては桁外れ の銅消費 [中 しば しば 日本で も催 され てい る中国古代 の青銅器 銭 の普及度であつたか, 自ず と想 像 できるだろ う . しかし,中 国 にお ける銅産は後漢以降 い ちじるしく 展で もわか るよ うに,中 国 では圧倒的 に豊 富な青銅 停滞す る.こ れは後漢初 に人 口が 3分 の 1に まで低 器鋳物類 が発掘 されて い る。 しか し中国 で青銅器文 下 した ことと無 関係 でない .そ の後 ,後 漢 の末には 化 が始まったのは ,現 在確 かめ られて い る限 り河南 人 口がいったん回復す るが ,三 国時代 に入つて再び 省 王城岡の B.C.2450頃 であ り,人 類 が初 めて銅 を手 最盛期 の 10分 の 1ま で人 口が減 る.中 国 の銅鏡 の に した太古ベ ル シャの B C 5500頃 と比較 しては もち 状況 を見ても,六 朝 の 後半 の 5,6世 紀 には,鏡 の ろんのこと,南 メソポタミヤの シュメール人が BC 製作 が急に落 ち込み ,こ の時代 の古墳 か ら出土す る 3500頃 プ ロンズ を知 ったの に比 べ て もかな り遅れ 鏡 は貧弱な小鏡 か鉄 鏡 にな り,銅 銭 の 品質 も悪 くな ている る。 この時期が 日本 の古墳時代 に当る。 日本にお い . 中国にお いて ,銅 生産量 を示唆す る資料があらわ ても,弥 生時代 より古墳時代 の方が銅消費量が少 な れ るの は,前 漢時代 からである。 戦国期 か ら漢代 の くなることに つい ては ,後 で「発掘 された金属量」 鉱 山として知 られ る湖北省 の銅緑 山には ,朱 寿康氏 の ところでふれ る の『金属博物館紀要』の論文によれば,銅 の鉱滓が . 唐代に入 ると再び人 口も回復 し,す べ ての面で生 40万 トン以上も残つてお り,こ こでの産銅だけでも 産活動が活発化す る。開元通宝 が主銭貨になるが 10万 トンはあつたであろうと言う.鉱 石には,マ ラ 宮沢知之氏 の『 宋代 中国 の国家 と経済』な どの考証 カイト(炭 酸銅)や 酸化銅が主として用い られ,木 炭 によると,そ の発行総数は 400∼ 600億 枚 であ り BOUNDARY 19992 , , 16万 トンか ら24万 トンに相 当す る.年 当た りにす る 銅 生産 には見 るべ き ものが な く,か えって宋銭 を大 と,1000ト ン弱であ る。したがつて,漢 代や唐代 の 量 に輸入 して使用 した歴 史 を持 つてい る 中国では毎年 平均 ,鋳 銭 に 1000ト ン弱 の銅 が 用 い . それ では ,な ぜ 東大 寺 の 大仏 が で きた のか と反 問 られたわけで ,そ の他鋳銭以外 の用途 を合わせ ると を受けるであろう。 『東大寺造立供養記』によれば 毎年 2000ト ン程度 の生産 であつた と見た い .た だ 大仏 を造 るの に使用 した銅 が 739560斤 (444ト ン), し,唐 代 の後半はまた生産 が停 滞す る.前 出の朱寿 錫が 12618斤 (8ト ン)で ある。まさに「国 の銅 を尽 康氏は,唐 代後半 の 9世 紀末 の生 産量を 130∼ 350 して尊像 を鋳 る」ため,全 国 の銅 を集 めた大事業で , , トン と低 目に推定 してい る.根 拠 は明 らかに されて い ないが,推 定値 としてはす こし少 なす ぎるよ うに あ った。そ の大変 さは,そ の後 の銅生産 の実績 を見 るとよく判 る . 927年 撰 上の『 延喜式』主税上には,備 中 。長門・ 思う . そ の後鋳銭 は ,貨 幣経済 の発達 がいち じる しい北 豊前の三 国からの鋳銭用の採銅貢進を年 5833斤 (3.5 宋代に入るとまたまた活発になり,約 150年 間に発行 トン),鉛 2917斤 (1.75ト ン)と 定めて い る.驚 く された総数 は 2600億 枚 で百万 トンにも達す る 年 ほ ど少 ない量である.し か しこれが 間違 い でな いの 当た りにすれ ば約 6000ト ンで ある。 一 方 ,北 宋代 は,『 類衆 三代格』に も弘仁 9年 (818)か ら承和元 の銅生産は,そ のほ とん どす べ てが官営 でお こなわ 年 れてお り,そ の記録 を平均的に見 ると年 1000万 斤 60ト ン)と 伝 えてお り,年 当た りにす る と 3.5ト ン す なわち 6000ト ンで あ る.こ の結果 を素直 に理 解 で ,延 喜式 の水準 と合 つてい る。 もつ とも承和 8年 すれば,産 銅 のほ とん どす べ てが鋳銭 に使用 された (841)に 出 され た太 政官符では,承 和元年 か ら毎 (834)の 17年 間の鋳銭 の実績 を 2017万 枚 1100万 枚 (約 (46ト ン)の 鋳銭 を,な ん とか古銭で ことになってしま うが,実 際 には銭や銅製 品は相互 に 年 改鋳 されて使用 されてお り,生 産量 としては,年 6000 補 い なが ら実施 してきたが ,つ い に銅 の入手難 か ら トンで 良いの であろう.北 宋代 に銅生産が急 増 した 年間 350万 枚 (約 15ト ン)に 定額 を下げた とも伝 え の は,謄 銅 とい う化学的 な銅精錬 法 が この ころ開発 ている 総合 して考 えると,銅 の総生産高は奈 良時 されたことも一 役 買 つてい る。崇寧 5年 (106)に は 代 の年 50ト ン程度 か ら年 々低下し,平 安時代 には 20 約 15%が この謄銅 による生産であった トン程度 になつて しまったのではなかろ うか 明代 ,清 代 の銅 生産量につい て も興味 があるが 後 ほ どまた述 べ るが ,平 安時代末期 か ら鎌倉時代 , 簡単に入手できる資料 がない。近世以降については . にかけて銅価 がいち じるしく高 騰 している。それは , 推定 に推定を重ねて ,確 度 を落 とす の も本意 でない 銅 の生産 の停滞 の反映 であろう.事 実 ,神 崎勝氏 の ので,後 日を期 した い 「梵鐘 の鋳造遺跡 とそ の変遷」 『 日本鉱業史研 究』33 . によれば,文 献的にも遺跡 の面でも,10世 紀後半 か [日 本 ]銅 貧 乏か ら世界 一ヘ ら12世 紀 の間,梵 鐘 の鋳造 が途絶 えていた と言 う。 江戸時代 の中期,日 本 が世界最大の銅生産国であり その頃,史 料 に見える唯 一の銅産地は,摂 津 の能勢郡 毎年数千 トンの銅 を中国や ヨー ロ ッパ に輸 出 してい だけであり,建 長 4年 (1252)の 鎌倉 の大仏 (124ト たとい うことは , よく知 られ て い ることである.た と ,輸 入 した宋銭 を鋳潰 した もので あ り,嘉 禎 元年 (1235)鎌 倉 で洪鐘 を鋳造 したのも,銭 330貫 を鉢 か した もので あ った。平安時代以降 ,金 銅仏 が , えば ,1697年 には公式 輸 出 のみで 896万 斤 (5400 トン)あ り,1665年 には 2700万 枚 の銅銭 (100ト ン)さ え輸 出 していた実 績 があ る ア ダ ムス ミスの ン)も 廃れ ,本 彫 が盛 行 したのも, このよ うな背景 の もと 『 国富論』にも, 日本 の銅 の話 が しば しば登場する で理解す べ きであろ う.建 久元年 ほどである。 したがつて,古 来 日本 では銅生産が活 大仏 の修理 に 83950斤 (50ト ン)の 銅 を費や してい 発 であつた と思われ勝 ちで,事 実そのよ うな主張を るが ,状 況 を考えると, これがす べ て国産銅 であつ 多く見かけるが,実 際 には室町時代 の 中頃までは たか疑間である , BOUNDARY 19992 . (H95)の 東大寺 長登銅 山につい て ,数 次 にわた り紹介や解説 を し 酸化銅か硫化銅か,酸 化製錬か還元 製錬 か てい る池 田善文氏 の最新稿『 季刊考古学 』 62に よ つて,要 点 を抜書 き して見 る . ここで ,平 安時代以降 ,銅 の 生産が い ち じる しく ① 製錬跡 か らは,酸 化銅鉱石 の残片 と緑青粒 (マ 停滞 した原因 につい て触れてお きたい .一 般論的に ラカイ ト?)が 見 つか つてい るが ,未 だ黄銅鉱 な ど は,こ の ことは簡 単に説明できる.銅 鉱石 には ,酸 の硫化銅鉱 を確認 していない。 化銅鉱 と硫化銅鉱 があ り,技 術的 に簡単に銅 を取出 せ るのは,酸 化銅鉱 系す なわちマ ラカイト(子 L雀 石 CuC03・ 土坑が 2基 検 出 されて いて ,鉱 石焙 焼用 の可能性が , Cu(OH)2)や 赤銅鉱 (Cu20)な どで あ る ② 現在 までに明確 な焼窯 はないが ,用 途不明 の焼 指摘できるが ,遺 構 が簡単 なだけに確認 はない . これ らであれ ば,炭 火で強熱す るだけで ,銅 を得 る . ③ 製錬炉 の炉型 を円筒型竪炉 と想定 している . しか し, これ らの酸化銅鉱系は ,地 この報告 か ら見 る限 り,硫 化銅鉱 の使用はむ しろ 上にわずか 1%程 度 しか存在 せ ず,そ の他 の 99%は 未 だ確認 され ていない状況 にある。そ こで, さらに 硫化銅鉱系すなわち黄銅鉱 (CuFeS2)や 黄鉄鉱 (FeS2 調 べ てみた。そ して ,長 登銅 山跡 か ら見つかつた粗 +Cu置 換 )な どで ,酸 化脱硫 と還元 の 2段 処理 を要 銅 の分析値 に硫 黄 が約 1%含 まれて い るものの,鉄 も し,よ り発達 した技術 を必、 要 として い る。そ のため 6.45%,砒 素 も 9.68%と 異常 に高 い こ と,長 登 古代 の技術 では酸化銅鉱 系 を使 い切 つて しま うと の銅 が使われた皇朝十 二銭 が総 じて鉄 ,砒 素 が非常 産銅 が停滞せ ざるを得 な くな った と説明すれ ば,一 に高 いこ とを知 った。 これが何 を意味す るか 自明な 般論的 には済む ことの よ うに思 う。十分 な酸化精錬がお こなわれて ことがで きる , , . た しかに一般論 はそのとお りであるが ,こ こに東大 い なか ったので ある . 寺 の大仏 の銅 が硫化銅鉱 か ら製錬 され た ものだ とす そ もそ も硫化銅鉱 か ら銅 を取 り出す のが難 しいの る主張がある。それ を初 めて知 ったの は,東 京新聞 は,硫 黄 の存在 のためで はない と思 う.そ れはむ し (平 成 3年 5月 5日 )で 関西大学 の亀井清教授 が解説 ろ銅鉱石 中に多量 に存在す る鉄 との闘 い だつたので しているのを見た時 であるが ,私 は非常に疑間に思 はないか.た とえば,硫 化銅 であつて も輝銅鉱 (Cu2S) それ は ,大 仏 の銅が長 門 の長登銅 山か ら供給 の ように鉄 をあま り含 ま ぬ鉱石 な ら,焙 焼 の よ うな された もので ,そ の長登銅 山は接触交代鉱床 が至 る 方法でいつたん酸化 して しまえば ,後 は酸化銅鉱 の ところに胚胎 してお り,マ ラカイト (炭 酸銅 )が 出て 製錬 と何 ら変わ らない。 おそらく焙焼 を経な くとも い るか らである.亀 井教授 が何 を根拠 とされた のか 単に酸化銅鉱 の製錬 と同じ方法で ,多 少雰囲気 を調 知 らないが ,そ の後関連す る文献 に当つてみ る と 整す るだけで も,銅 を取 り出せ たはずである つた , 葉賀 七三男氏 が『 金属』に「冶金考古学 のすす め」を 連載 した 中で,長 登銅 山の「か らみ」に,硫 黄 が 03% , . ここで近世にお こなわれ ていた硫 化銅鉱 の製錬方 法を簡単に見てお こ う . 台 も含 まれ てお り,硫 化銅鉱 の使用 を結論 づ けて い 選鉱 された硫化銅 は,ま ず薪火 の上で焙焼によ り ることを知 った.ま た,製 鉄技術 の考古学で知 られ 硫黄 を亜硫酸ガ ス として とばす .焼 くのに 10日 以 る仁 々木稔氏も,長 登鉱 山の銅滓 に硫 黄 が 22.73%, 上 ,冷 却にも同 じ期間を要す る。 そ の後 ,素 吹床 と 鉄 が 9.97%入 つてい ることから,硫 化銅鉱使用 を前 い う炉に移 して,炭 火 に よ りやや 還元性雰囲気で加 提 として,遺 跡 か らも硫化銅鉱 を焙焼処理す るため 熱すると,上 か ら,か らみ の焼窯跡 が 見 つ か つた と主張 している.こ れだ け根 Cu― Fc― 拠があれば門外漢が何 をか言わんやであるが ,そ れ 尻銅 )が 溜 まる。 この工程 を素吹 き と言 う。次に こ で もなお発言 してみたい ことがあ る.そ れな ら,な こで得た銅滓 を真吹床 にかけ,珪 石 を加 え木炭熱 で ぜ 平安時代以降 ,銅 の生産が停滞 したのか と,そ れ 溶か しなが ら,ふ い ごに よ り強風 を送 り酸化製錬 を が理 系 の視点 である.そ して調 べ てみた す る。 これ を真吹 き と言 う。 ここまでが粗銅製錬 の . BOUNDARY 19992 (ス ラグ,2FeO oSi02な ど), Sの 混合融体 の銅滓 ,そ して炉床 に粗銅 (炉 45)の 越前面谷銅 山な どであ 工程 であ るが ,さ らに熟銅 を得 るた めの精錬 プ ロセ に康 平年間 (1342∼ ス と して ,不 純物 の 酸化 除去 工 程 で あ る間吹 き が あ る。おそ らく銅生産 の増大 を見たであろ う。その証 る 左 となるのが ,足 利義教 の送 つた復興遣明船である . . 以 上が通 常説 明 されて い る製銅 法である。 この よ そ の永享 5年 (1433)の 第 1次 船 には,わ ず かな量 うな工程 を採 ってい るこ とは ,『 鼓銅 図録』 に も出 とは言 え,生 紅銅 4300斤 (2.6ト ン)を 載せてお り ているので間違 い ないが ,な ぜ焙 焼 をお こなったの そ の 翌年 の第 2次 船 では 152000斤 (91ト ン)に 急 かが よく分 らない .ど うせ最後 に酸化製錬 をお こな 増 してい る。なお ,そ の前 に も応永 24年 (1417) うな ら,手 間 をかけて不完全な脱硫 をお こな つて も に,対 馬 か ら朝鮮 に銅 あま り意味がないのではないか。事実 ,江 戸時代 の 例 もあ り,こ の頃 か ら銅 に不 自由 しな くな っていた 越前 の面谷銅 山では,焙 焼 工程 を経ず製錬 をお こな と思 われ る。 この 後 に も,天 文 8年 っていたのである。すなわち,焙 焼 工程 は硫 化銅鉱 内義隆が明に鋼 を 180ト ン輸出 した例がある , 500斤 (0.3ト ン)を 送 つた (1539)に 大 . の製錬 の本質ではな く,素 吹 きでは木炭 を使用す る 硫化銅鉱 の酸化製錬法 ,い わゆる山下吹 きが摂津 のに,安 価 な薪 で済む とい う経済性 にあったのであ 多田荘 山下村で銅吹屋新左衛門に より始め られたの る そ うであれば ,硫 化銅鉱 の製錬 のポイ ン トは が,16世 紀 の初 めの文亀 。永正年間 (1501∼ 21) , 真吹 きの酸化製錬 にある と伝 え られて い る。 これ より日本 の銅生産 が飛躍的 さて この真吹 きであるが ,こ れ を単に酸化精錬 に よる脱硫過程 と理解す る と本質 を見誤 る それは に伸び たのは間違 い ないが,私 はそれ 以前にも新銅 山な どで,一 部酸化製錬法 が とられて いたのではな , この段 階 では鉄 よ りも硫黄 を酸化す る方が先に進む いか と想像 してい る.古 代 の銅 生産 に比較 して,遣 か らである.問 題 は,鉄 を酸化 させ珪石 と反応 させ 明船 の 91ト ン とい う数字は決 して少ない量ではない て ,い かにフ ァヤ ライ ト (2FeO・ Si02)と して ス ラグ か らである。 こん な見方 をす るのが,理 系 の視点 で オフす るかにあるので ある ある . . 長 々 と横道 に入 つて しまったが ,古 代 の銅製錬 で , 江戸時代 中期以降 の銅生産 の盛行につい てはすで 硫化銅鉱 を取 り扱 い難 かつたのは ,硫 黄 の存在 とい にふれた .江 戸期前半に盛んであ った金銀 の輸出を うよ りは,多 量 の鉄 の存在 のためで あ った ことを言 禁 じた代 りに登場 した銅 の輸 出は,貿 易政策的な面 うためである.従 来 の解説 が うそ とい うわけではな もあ つたが ,も ともとの室町末期か らの銅生産 の盛 いが本 当で もない 況 を引継 いでい るの は間違 い ない .貞 享元年 (168 結論 を急 ご う.長 登銅 山ではや は り酸化銅鉱 を中 4)か ら元禄 10年 (1697)ま での 14年 間 に輸 出 心に還 元製錬 をお こな つて い たのである.そ の過程 された銅 は年平均 566万 斤 (3400ト ン)で あるが で ,鉄 分 の比較的少 ない硫砒銅鉱 (Cu3AsS4)を 併用 これ に密 貿易分や国内消費分 を加 えると,生 産量 と したと考 えれ ば ,種 々のデ ー タとつ じつ まが合 う。 しては 6000ト ン程度 には達 していた と思われ る。 中国古代 の銅緑 山にお ける銅 も,還 元製錬 であ り鉄 長崎や大阪 の勤務 の経験 の ある御 家人 の蜀 山人大 田 分多く状況 がよく似て い る。 したがつて,こ のような 南畝も,貞 享 2年 (1685)の 状況を130年 後に,「 銅 山 還元製錬 では ,鉱 石 が枯渇 して しま うと黄銅鉱 のよ 三四ケ所 か らの毎年銅 出高 ,お よそ 900万斤 ,内 100 うな硫化銅鉱 には手がでなかつたのである。 万斤は日本 ,800万 斤は異国向けで,こ の代金拾五万 , 両余」と書 き留 めている。 鎌倉時代 の新銅山 さて,本 題 に もどろ う。鎌倉 時代 の 後 半 か ら相 つ 人 口ひとり当りの銅生産量 の推移 い で新 しい銅 山が発見 され る.寛 喜 3年 (1231)の 江戸時代 の 中頃 , 日本 における銅の生産量は世界 備 中喜多嘉太銅 山,文 永元年 (1264)の 羽後太良鉱 最大で年産 6000ト ン,人 口ひ とり当りにしても 200 山,弘 安年間 (1278∼ 87)の 石 見笹谷銅 山, さら グラムで,当 時 の コー ロ ッパ の水準 の 2倍 に達 して BOUNDARY 19992 いた。 そ の上 ,古 来奈 良や鎌倉 には 巨大な青銅製 の この よ うに整理 して 見 ると,日 本 にお ける弥生時 大仏 も鎮座 してい る そ のため, 日本 は古代か ら銅 代 ,古 墳時代 の銅 生産が想像で きるようになる.弥 の生産に恵 まれて い た と考 え られ勝 ちであるが ,事 生時代や古墳時代 の銅使用量については,改 めてふ 実はむ しろ銅不足に悩んでいたのである.す なわち れ るが,発 掘 された遺物 の銅 の総量 が 10ト ンに も満 , 奈良時代や平安時代 の人 口ひ とり当 りの銅生産量は たない こと,そ してその頃 の 中国では ,銅 の年産 が , わずかに 3∼ 7グ ラム に過 ぎず , これ は ローマや前 2000ト ンに達 していたことな どと比較 してみ ると 漢 ,唐 の水準 の 20∼ 40グ ラム に比 較す る と,一 桁 新たな歴史 が 見 えて くる.そ れ が無味 乾燥 な数値 を 低 い数値 なので ある まとめる楽 しさである , . . 翼Y 戒 孝ヒ 網 丁 掌 子目 ∵ 厠か︱測ルと 1 1 1 1 瓢おす 111 11 , 六 人こ 得 ︱外T ′窮 蝉Yハーム7普上 ′ 与う杖 ハ鋼 のい︱ざャふI ・ ム む慧 ∵ ¨ ﹂呻﹂。 鉱石熔錬作業 (鼓 銅図録) BO■聡颯〕ARY 19992 8。 川崎製鉄 における高磁 束密度 方向性珪素鋼板 [8-1]し , 1958年 に販 売 を が, Seを 含 む 出鋼材 は圧 延 の トラブ ル か ら最初 は 5 ・ (B10=168∼ 171T,W15/50=135W/kg)が 得 られ た ヽ cρ 一〇コ0 ≦ Sを 含 む 出鋼材 で はまず まず の磁 気 特性 開始 した 6 ・ る新 しい方 法 を開発 7 ・ 法 を基礎 とし,イ ン ヒビター として S,Seを 使 用 す cミ 0ゝ≧ 葛 ∞ N 川崎製鉄 は ,方 向性珪 素鋼 板 RGコ ア を 2段 冷延 No Boron in Coating Max 30ppm Boron from Coa輛 ng 製 造 に成功 した 0 高磁 束密 度 方 向性 珪 素鋼 板 に つ い て は ,1973年 に RG― Hコ ア [H― H]が 販 売 開始 とな つた 。 こ の方 法 の 特 徴 は ,表 11-9に 示 す よ うに化 学成 分 と して Se,Sbと い う新 しい イ ン ヒビター を含 み Max 15ppm Boron from Coaung 4 Seに 関す る精 力 的 な研 究 と開発 [H-9,10]が お こなわれ , 1960年 に RG-11の 失敗 に終 わ つた 5 10 15 20 Boron in Cold Rolled St‖ 30 p― ppm 図 ¬1-14 Effccts of Boron Addition to MgO一 Coating on Cwstal Onentalon[H-12] , また比較的低 い 温度 で 2次 再結 晶 させ る もので あ る 究 をお こない ,B,N,Sが 1次 再結 晶粒 の成長 を強 力 に抑制す るこ とに よ って ,鋭 い 9.GE社 の高磁束密度方向性珪素 (110)[001]方 位 を持 った 2次 再結 晶粒 の発生 を促進す る と述 べ て 鋼板 いる ,B フ ィー ドラ ー (H C Fiedler)[11-12,13]は 25 図 11-14か らわ か る よ うに ,MgOに 含ま れ る Bが 珪素鋼 中 に拡散 し,磁 気 的性 質 に顕著 な効 お よび Nを 含 む珪 素鋼 素材 をハ イ ビー と同様 に強冷 果 を及 ぼす の で あ る ハ イ ビー にお い て もMgOヘ そ の概 要 を表 ¬1-¬ 0に 示 の B添 加 は必要条件 の 1つ で あ るが ,こ の場合 は仕 した 珪素鋼 素材 中 に添カロす る元 素 としては ,Bは Al 上 焼鈍 の昇温過程 で Nの 侵 入 を防 ぐ被膜 を作 る こと と同族 で あ り,そ の 窒化物 が同 じよ うな挙動 をす る に よつて ,AlNの 粗 大化 を阻 止 す る役 目をお こな こ とは考 え られ 興 味 あ る現象 で あ る。しか しなが ら ってい る と考 えて い る Bは 添加 量 が非 常 に微 量 で あ り,現 場 作 業 として は 場合 にお いて もAIN tt BNと い う相乗効果 が働 いて かな リデ リケ ー トな制御 を必要 とす るで あ ろう い るのか も知れ な い 延す る 工程 を発 表 した , . さらに フィー ドラー は ,MgO中 に Bを 添力日す る研 表 1¬ -9 さらに フ ィー ドラー の研 究 にお いて も,ハ イ ビー 川崎製鉄 の RG一 H(RG)コ アの製造方法 ・ 製 造 工程 出鋼 成 分 熱 延 (3(2)lllln)→ 焼 鈍 → 1冷 延 → 中 間 焼 鈍 → → 脱 炭 焼 鈍 仕 上 焼 鈍 (900℃ 保 持 +1200℃ (1200℃ ))→ 平坦化 焼 鈍 (3%Si,Se+Sb(S+Sc))→ 2冷 延 (65(50)%)→ しか しなが ら,ハ イ ビーの (030mm) RG― H(RG):B10=195,192(182,183,183)T ・磁 気 特 性 と同様 に 1段 強冷延法 変貝」2段 冷延法 が採用 さ れてお り,冷 延圧 下率 の 組合 せ が鋭 い方 向性 を得 るのに重要 な技術 である W17/50=122,107(102,096,098)ヽ V/kg ことがわかる . 表 1¬ 一¬O ● ● ● ● ● ● ● 一 34 GE社 , の 高磁 束密度 方 向性珪 素鋼板 の製 造方 法 製造 工程 鋼塊 出鋼成 分 (315%Si,024%Cu,0033%Cr,0035%Mn,0031%S,0030%C,00006%B,00050%N)→ → × 3分 )→ ス ラブ加熱 熱延 (23∼ 33mm)→ 焼鈍 (900℃ → 脱炭焼鈍 → 仕 上焼鈍 (H50℃ ) (1)1段 強冷延 法 :1冷 延 (028 mm,H ml) → (2)変 則 2段 冷延 法 :1冷 延 (152mm)→ 2冷 延 (028 mm)→ 脱炭焼鈍 仕 上焼鈍 (H50℃ ) 磁 気特性 0567W/kg,二 117/60=0677∼ 0744W/kg _l12■_■■里生;B10=184∼ 190T, W15ノ 60=0519∼ BOUNDARY 19993