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三つのフォードとイギリス総括

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三つのフォードとイギリス総括
三つのフォードとイギリス総括
6月30日(再度イギリスへ)
夫婦二人になったので、ベルギー空港へはタクシーで行った。予想外の距離で、メーターは
30ユーロを示した。ここは存外大きな空港であったが、手続きは成田なみに済んだ。
ミッドラ
ンド航空
という今
回始めて
知った航
空会社で
あったが、
ルフトハ
ンザ系に
最近入っ
たという。
11時4
0分発、
12 時につ
く、といっ
てもこれは時差1時間遅れの現地時間、1時間20分かかる。
上昇した機は直ぐに平原を越え、海を越え、イングランド上空に入った。ロンドンは確かに
大都市で、テームス上空からみる町並みは家でうまっていた。
市街の外には緑が広がるが、この都市がブリュッセルなどと比べ物にならないほど大きい。
ヒースローへは、今回は一回で侵入できた。いつもは、屡上を一度は通過するのだが。第5
ターミナルが出来たせいかもしれない。
第1ターミナルには格別の違いはなかった。この巨大空港も田舎からの機はハッチにはつけ
ない。バスでゲートに到着、時間をとるパスポートチェックがあって、汚い通路から外へで
た。四年前と同じである。
ビルを待っていた。10分も経たずに現れた。息子アンリュウと二人である。再会を心から
喜んだ。
空港はロンドン郊外で、車は一度環状線M25にのる。10キロも走らずM3へ、この道は
西南西に走りサザンプトンサザンプトンに通じるが、フリートへの距離は30キロ余り。
近くなったように思うが、道路事情がそうさせたのであろう。自動車道を出て、一般道へ
フリート駅周辺は尐し変わった。ここはロンドンの隣のハンプシャー州で、鉄道で50分
あれば、ロンドンのワーテルー駅につく。つまり、通勤距離にあるから、発展が著しい。
駅周辺におおきな池があるのに、反対側には森を切り崩して、造成し、大きなニュータウ
ンが出来るほどである。フリートそのものは運河の流れている古い町であるのに、近代化
の影響は避けられない。
ルミが迎えに出てくれた。想像していたより、元気だった。この四年間、彼女には余りにも
多くのことが起こりすぎたから、今度も立ち寄るのははばかった。でもきて良かった。
オペラ劇場を巡りを最近3年続けていたのは彼女には喋らないでおいた。
ヨーロッパに来て
いるのに、立ち寄らないのは水臭いと思われるだろうと思ったからだ。今度はツアーにロン
ドンが入ったから、それもおかしいとおもった。
この家へ三度目であり、前回二度は3週間もお世話になった。今回は4泊である。案内する
時間がない、とビルに言われた。
我が家へ帰ったかのように家に入りこんだ。尐し明るく、綺麗になった感じがした。
アンリュウが太った以外、あまり大きな変化は感じられない。庭のトチが尐し大きくなった
気がする。日本の家ではこんなにたびたび大人2人が長期滞在するのは情的に不可能だが、
ここは何か外人を落ち着かせてくれる雰囲気がある。広いこと、喋らなくても気兹ねがない
ことなどのせいかもしれない。
ウインブルドンの時期で、テレビは祖国の星を紹介していた。いつもと同じである。扇風機
が置いてあった。去年買ったそうだ。温暖化の所為らしい。クーラーなどない。
夕食をご馳走になり、英語を使おうとするが、ついつい日本語になる。必要があれば翻訳し
てもらえるからだ。
ここの夜はなかなか始まらない。10時だろうか、来たと思うと、深夜の雰囲気になる。庭
は幹線道路に面しているが、生垣代わりの巨大なブナが一切を吸収し、静かである。
アンリュウの部屋へ入り込み、オーディオを見せてもらう。大分改造されたようだ。明日が
楽しみだ。
いつもの部屋で眠りについた。ホテルより落ち着く。
7月1日(ストラトフォード・アポン・エイボン)
ストラトフォード・アポン・エイヴォンへいこう、と言われたとき、嬉しいやら困ったやら。
疲れているから体力が心配だったからだが、予期していた誘いでもあった。ビルは親切だか
ら、ボーッとさせておいてはくれまい、と思っていたのだ。
「エイよ,ママよ」と、承諾し
た。
1 時間くらいと思ったが、どうして2時間はかかるらしい。アンリュウも一緒にいってくれ
るらしい。38 歳にもなっていい息子だ。
目的地はM40沿いで、どこで乗ったが、はっきりとはわからい。多分M4,A34経由で
いったのであろうが、途中、日本のようにパーキングがあった。
(シェクスピアーの家)
道路は勿論無料であるが。
都市を外し、しかも都市を結ぶつくりになっているから、車は果てしない平原を走っている
感じで、快適である。都市が一つの塊として出来ているから、その近郊を通って、こういっ
た形で自動車社会が作れたらしい。だらだら町並みの続く日本では考えられない。オクスホ
ードの近くを通ったのは知ったが、勿論都市は見えない。2時間も走り続け、目的地につい
た。瀟洒な感じのパーク&ライドである。ここから5分ほどバスに乗る。
シェクスピアー生誕の地のイメージから思い浮かばない町が現れた。
商店の立ち並ぶ町であ
る。バスを降りると交差点、左に斜めに入れば記念の家があった。そこだけとりあげれば写
真で知ったとおりである。入り口は人の山、私は金を払って入る気をなくした。周囲を囲む
花々の前で写真と撮った。これで十分である。隣の関連ショップは空いていたから、中へ入
る。よくあるグッズの羅列に過ぎなかったが、来年のカレンダーを買った。
どの国も、どの地も同じである。日本にシェクスピアー記念館を作っても同じだろうが、1
600年台の小さな町に大勢の人が集まるから、記念館が巨大な建物で無い限り、こうなっ
てしまう。そこでこの町が考えたのが後に現れる。
昼過ぎたので、伝統料理店にはいる。家庭料理と言った方がよいかもしれない。オムレツや
ら鳥肉やら、5 人で食べる楽しさ、といっても食べ物の話が出来るほど英語はでない。店の
雰囲気は 20 年昔の東京郊外の店と言った感じだった。
外へでると、人の流れは同じで、観光でも生活でもない服装の人が流れる。多分近くからき
た人々だろう。ここは軽井沢のようなものだ。有名ブランドの店も集まっている。
ローラ・アシュレイの店があって、家内とるみ子さんが中に入ってしまった。男どもにはな
す術もない。暫く周囲にただずんでいたが、女の好奇心に歯止めはない。街の写真や歩く女
性の姿を写真にとっているうちに、私も現場からだんだんはなれてしまった。
カナールがある。橋を渡ると、下を大きなボートが動いていた。この運河はバーミンガムに
通じているそうだ。20 キロ離なれている。例の大指揮者サイモン・ラトルが活躍した近代
都市である。カナールは実用的ではないとしても、十分観光に耐える。
ここは運河とアポン エイボン川との合流点で、付近には広場があって、巨大な劇場やら、
記念館が作られ、大観光地化の拠点とする計画らしい。ここをシェクスピアー観光の拠点に
するつもりらしい。これは納得できる。でもグローブ座があんなに大きいなんて気持ちがわ
るい。
もう一つ、記念碑があったのが印象に残る。シェクスピアーの像と周辺をとりまく、劇中人
物である。ファルスタッフ、ハムレット、マクベス夫人、その他不明一人、これらはなかな
かよくできていて、架空の人物であるのは知っていても、実在感があった。マクベスがなく、
マクベス夫人があったのも気にいった。個性的な人物だけでも全て像を作ったら、蝋人形の
国に相忚しい見世物になるだろう。
ストラトフォード ヴォン アポン エイボンで一番気
にいった見世物である。
イギリス人好みの、雑然としてはいる
が、ゆったりとした時間が流れていた。
外で時間が過ぎればよい、という雰囲
気である。そんな中にマクドナルドが
あり、入ったが、シェイクというと、
イメージが違うらしく、注文した飲み
物は単なる冷菓だった。アイスクリー
ムでもない。同じマクドナルドで同じ
名の商品が国により違っていたのは
不思議である。
バスに乗って、パーク& ライドのタ
ーミナルにもどる。どこも似た広さと
思ったが、ここの駐車場は尐し狭い。
お客の数を見込んでのことだろう。こ
こストラトフォードは生活の場では
ないのだから。
ビルがアン・ハサウエイの家に連れて行っていくという。日本では考えない場所である。シ
ェクスピアーの奥さんの実家だそうだ。
車で5分も走ると街並みの雑踏が消え、田舎である。そこに実に英人が喜びそうな藁葺きの
農家があった。道の両側の木々も青く、大きい。500年前がどうであったか、想像はつか
ないが、当時としてもかなり立派な家であったろう。屋根が大きく、形がいい。ハサウエイ
の家が立派なだけで
なく、この家から空想
すると、遥か年上のア
ンに会いに来るウイ
リアムは大きなもの
に抱かれるのが好き
だったに違いない。
ここはストラトフォ
ード・アポン・エイヴ
ォンと比べ、田舎だけ
に来る人も尐なく昔
の面影も強い。好感度
は比べ物にならない。
庭はかなり手が入っているが、それらを削除し、手入れを悪くすれば、
1600年ごろの像が浮かぶ。
ストラトフォード・アポン
エイボンは交通の要衝であ
ったろうが、あの地に住ん
でいて、どうしてハムレッ
トが、イヤーゴがシェクス
ピアーの頭に浮かぶか、不
思議に思う。それは無理で
あろう。シュエクスピアー
はやはり、創作家ではなく、
それらに基づいて劇を作る
名人であるのを改めて思う。
帰路は往路の逆行だ。70歳の老ビルのタフさに驚き、感謝。
7月2日
ロンドン近郊ギルホード
多分3度目である。フリートからロンドンの方向に1時間ほど逆走する。ここは瀟洒な町、
お城があって、町並みが洒落ていて、運河が走り、商店街が発達している。そして今はロン
ドン中心街へ30分もあればつく。ロンドンを取り巻くホーム・カウンテイースと呼ばれる
州の一つサリー州に入る。日本では知られていないが、ギルホードは古さと新しさが調和し
た、中都市として成功した稀な例であろう。私がここへくるのが好きなのはベンという中古
CD屋があるせいだけではない。
ここはワーテルーとフリートの中間にある駅ワーキングから枝分かれした最初の大きな駅
である。
昼過ぎ、男ども三人はビルの愛車に乗って、ファーナム経由で直接、ギルホードへ走った。
1時間はかかるが、いつもののパーク&ライドについて、バスに乗りかえる。通勤用である
が、
時間外のせいかバスは空いている。
外国人でも老人は半額だそうで、身分証明などなく、
割りひいてくれる。日本は老人パスとかを買わなければならないが、ここは大らか。老人に
は住みよい国である。駅は谷底にあり、町は山の上に発達している。一帯はノース・ダウン
(北丘陵)と呼ばれているところの一部で、巡礼道があったところらしい。バスは山の上で
降りた。ビルがトム(私のこと)はこの方がいいだろう、と考えてくれたらしい。呼吸器障
害への気遣いである。
城門があって、そこを通り、坂を尐し登ると、オーディオ街。テレビの店も多かったからこ
う言っていいだろう。中古CD店「ベンの店」は覚えていた。9尺の間口と言う奴である。
如何にもこの種の店、イギリスには珍しいドギツイポスターが貼ってある。店内は相変わら
ずの熱気、脳の片
隅にあった店主の
早口が懐かしい。
ここへ入るまでは
忘れていたが、不
思議なもので、聞
くと思い出す。勿
論英語である。
男ども三人はお互
い相手を忘れ、各
様の古いCDに跳
びついた。ここの
クラシックは原則
3ポンド(700
円)であるが、2ポンドのもある。日本の中古CDは原価の7~8掛けただけだから、計算
ができて面白みがない。古いものは定価と無関係に一律だと、スリルがある。
コヴェントガーデンで聞いたバーバラ・フリットーリのアリアが見つかる。ヴェルディだけ
のものだ。次がヴェルディの序曲とバレー曲という珍しいもの。3ポンドである。数百枚を
めくり上げ、読んだが、他に目を引くものはなかった。
アンリュがSACD1枚と1992年のプロムスを見つけて、もってきてくれた。彼はポッ
プスのファンだから、
私への気遣い。買うことにした。全てあわせ4枚で10ポンドだから、
まずまずの買い物だった。
外へでた。アンリュの後についていく。方向が違うがと思ったら、城跡につれていってくれ
たのだ。私は忘れていたが、見て思い出した。前にみて大変喜んだのを彼は覚えていたのだ
ろう。城は壊れたままだが、周辺が手入れされ、花が一杯で綺麗だった。イギリスは確かに
豊かになっている。ロンドンの新築ビルと言い、道路工事といい、改善されている場所が多
い。
私は何故かここでキャスルを維持していた、古い騎士を、いつも思う。こんな小さなものと
思うが、ここを根城に周囲に君臨していた、城主はどんなジェントルマンだったか。人の一
生の滑稽さをつい思うのだ。何故だかわからない。
この町は宿場だったのだろう。城門をでたところにある馬の休憩所をビルが教えてくれた。
町並みはみな新築になっているが、そこだけが古い作りである。坂を下る途中にあった。
親子二人の後ろから、
写真を取りながら坂を下る。
店が洗練されているし、どこもそうだが、
骨格が似たつくりになっているから、日本の商店街にはない品を感じる。
坂の下に運河があ
る。川と言ってよい
ほど大きいが、これ
は北に流れ、テーム
スと合流する。ヒー
スロー空港のロン
ドンよりである。ノ
ース・ダウン一帯の
水を集めているら
しい。その手前に大
きなビルがたって
しまった。モールと
いっていいのだろ
う。最近の建物らし
く、中に大きな空間があって、そこにエスカレータやエレベーターがある。日本でも見る作
りである。最上階が食堂街。そこにフルーツパーラーがあって、冷たいものをご馳走になっ
た。ここでもシェイクに出会えなかった。
モールの1階はCD屋や模型ショップ。模型が大人の遊びであるのは日本の比ではない。日
頃関心がないから詳しくはいえないが、目を引くほど大きい。イギリスでは尐しは男性も買
い物の権利を持っているらしい。衣類ばかり目につく日本のショップと違う。
ビルの反対側にはHiFiショップがあると、アンリュウが連れていってくれた。大したも
のはなかった。スピーカーが目立つ。タイや日本のようにヴィデオと絡めた、ホーム・シア
ターはこういう店が取り扱う範囲外らしい。
若者の姿が多い。平日なのに何故と言う気になる。思えばもう夕方にちかかったのだ。バス
に乗ってパーク&ライドに行く。
既に通勤のラッシュに入ってしまった。乗用車ばっかりのラッシュ、これはいささか薄気味
わるい。鉄道王国イギリスは鉄道網の拡張に失敗したらしい。幹線しかない。降りると、全
ての通勤客が車で自宅にかえる。絶望的な渋滞がおこる。ロンドン中心街から30分しか離
れていないのに100年続く鉄道だけが頼り、
日本のように地下鉄や私鉄の網は出来ていな
い。バスも尐ない。みながパーク&ライドから自家用車で自宅に帰る。
パーク&ライドもラッシュはもはや有効ではなくなってしまったらしい。
道路にでるとすぐ、
渋滞である。信号もないのにと疑問に思ったが、ロータリー方式が十字路で使われているの
で、ある程度車が多いと、右折できない。1回転して右に回るのがルールだが、右折車が回
転の渦に入れない。2車線あっても、車が多いと、後から来る直進車の進行を妨げる。尐し
ずつ動くとしても、信号よりも効率が悪い。右折車線がない日本の交差点に似ている。往路
は1時間弱だったのに帰路は2時間かかった。
帰宅してアンリュの
HiFiを詳しく見
せてもらった。流石イ
ギリス人である。彼は
私同様ハイファイマ
ニアだが、最近のオー
ディオのデジタル化
に上手く対忚してい
る。4年前、スピーカ
ーの選択が巧妙だっ
たのに感心したが、今
回はアンプとプレイ
ヤーが変わっていた。アンプは日本製で先ず先ずだが、CDプレイヤーには金をかけず、近
年変化が著しい、LPプレイヤーに金をかけていた。例えばピックアップがカートリッジか
らアンプまで一体になっていたことや、
モーターとターンテーブルの間の振動をバネで減ら
す技術など、抜群のものだった。レコードをかけているときの見た目の安定感にほれぼれし
た。音も安定していた。
最近の5チャンネルCDの音の欠陥も十分知っているようで、そんなことを思うと、古いL
Pレコードを探して楽しむ方がいいと考えたようだ。今日本ではLPレコードそのものが手
に入り難くなっているが、イギリスはある程度可能だそうだ。
説明をきき、
片言の英語で質問しながら、彼の趣味や精神的安定性が感じ、
好もしく思った。
こんな好青年に憧れる女性がいないのは不思議である。
大変に楽しい長い夜が送れた。
7月3日(大学の町「オクスフォード」)
今日はオクスホードへつれていってくれた。ビルはタフだ。
方向は1日と同じ、距離は半分である。途中だから似たことの反復でもある。
テームス川の源はサイレンスターの近くで、4年前ビルに連れていってもらった。オクスホ
ードはそれから50キロ近く川下にあるから、
オクスが渡れる川というオクセンフォードが
もとの名、オクスホードの語源だという。
フォード ford イギリスの地名にしばしば出てくる。前回のギルドフォード Guildford(同業
者の浅瀬)、前々回のストラトフオード stratford(層状浅瀬)とたまたま3回重なったが、
フォードは浅瀬の意味だそうで、ギルドフオードはウェイ川(テームズ川支流)、ストラト
フォードはエイボン川(カージフへ)、オクスホードはテームス川である。
オクスホードに大学が出来たのは 12 世紀までなのは間違いないらしい。わけは学生がパリ
大学へ行ってしまうのを防ぐためだったそうだ。
そんな学生は質が悪く、騒ぎを起こし、
町民との折り合いがわるかったので、管理するため、
当局は寄宿舎を作った。それがカレッジで、学寮の意味だそうだ。大学はあとからついた意
味らしい。
オクスホード大学発展の経過は長い歴史で複雑であるが、カレッジが基本にあることには違
いはない。最初のカレッジはマートンとベイリーで1249~80に作られた。全てが神学
が勉学の対象だったようである。
オクスホードの各カレッジは金持ちが自分の願いで、学校を作るという似た経過をたどって
いるよう
だ。内容
は簡単に
言えば神
学と法学
だけで、
それらが
含む色々
な分野を
各カレッ
ジの特色
としたら
しい。今
やその数
は 40 余
という。
15 世紀ころまでは、聖職者を生み出し、国家から独立して活動する方向で発展し、国権と
の争いが絶えずあった。
ルネッサンスの頃、人文主義の発達につれ、また宗教改革も起こり,ローマから離れ、カレ
ッジはイギリス王権と結びつく方向に進み、古典学もとりいれて、やがてイギリス国教の牙
城になった。
つまり、
カソリックからイギリス国教へと鞍替えした。基盤が安定するにつれ、
腐敗も進み、独立を謳歌し、聖職者育成を独占することになる。これに反発して、内部から
新教に走る学者も現れ、火刑に処せられることも起こった。
複雑にいりくんだ大学という特殊世界が支配する町は、
こんな経過を頭に入れないと全くわ
からない世界である。これと比べ日本の大学はどうであろう。東京大学を例に取る。
明治維新の文明開化とともに、カレッジが導入された。それ以前に開成学校や、塾があった
けれど、それとは別に、カレッジは専門化というイメージとともに入ってきたらしい。既に
イギリスでは専門化の意味がこめられていた。したがって法科大学、医科大学、農科大学な
どが独立に作られた。国家の発展を目的とする分野別である。
カレッジ本来の学寮の意味は、日本ではどう扱われたか。明治の元勲たちは大学と学寮との
密接な関係は知っていたらしい。そこで大学の予備門に学寮の役割を持たせた。全寮制高校
の設置である。
一高は東大と一体化して運営されるのを自明の理とした。
東京以外に帝国大学を作って、7帝大にさえ達しても、一高など予備門の学生定員は帝国大
学の定員と同数とした。この基本方針は昭和 24 年の新制大学の誕生で全て崩れた。
(トリニテイ・カレッジ)
カレッジの専門性は大正8年(1919年)東京帝国大学の学部となって薄れたかに思えた
が、実質の運営は学部不可侵の原則で貫かれた。この伝統は東京大学となってからも受け継
がれている。
パーク&ライドからのバスが止まったのは、クイーンストリートの端だった。ここから内部
にはカレッジが散在している。ザ・ハイの手前で左折しコーン・マーケット・ストリートに
はいる。ここは中心街の入り口、日本流にいえば3階建てに屋根がのる中層のビルがならん
でいる。この道は商店がビルの中に入っているところが多く、ところどころ歴史を感じさせ
る建物もある。
更に右折すると広い道にでる。
ブロード・ストリートであり、
左手にカレッジが続いている。
右手の遠くにもカレッジがある。
左手の一部にトリニテイ・カレッジがあった。
そこは見学ができるそうで、幸い公開の時間だったから、入場料を払い、なかに入った。整
備されているが、人さえいなければ東大でもこんな場所もある。唯芝生の美しさは比ではな
い。日本では芝生は管理が難しく、大学の手にはおえない。入場可の建物があると聴いて女
性たちはそちらに向かったが、私は外で十分である。如何にも大学らしいレンガ作りの建物
に囲まれているだけで十分、中に入って、学問と人間模様の入りくんだ関係を思い起こす気
にはなれない。外は芝生だけでなく、木の花も美しかった。
中を散策した。ここは四角四面の世界で、斜めの小道はない。全てが整然としてなければな
らない。
30 分ほどで外へでた。門の反対側にCD屋があったから、中へ入った。流石インテリの街
だから、
珍しいCDも多かったし、
大学や教会の合唱団のものが目だった。
触手が動いたが、
やめた。30ポンドに近い。あまりにも値段が高い。
ここから先は大学の建物ばかり、オクスホードにはカレッジ巡りの散歩コースがあり、案内
図も出来ている。大学は普通の人には虚構の世界、夢の世界だろうか。
ブロード・ストリートを逆にもどり、コーン・マーケット・ストリートと交わるところにあ
った、ファースト・フードの店に入る。
午後はクライストン・チャーチへ行くというのでついていった。そこは雅子妃が勉強したと
ころ、と八重子は知っていた。こういった雑学の知識は抜群である。それでいて大学の仕組
みには全く関心が無い。亭主が 30 年も大学へ行っていたのに、古い大学も成り上がり大学
も区別がつかない。歴史の重荷がわからない。これではオクスフォードも東京大学の区別も
つかない。
コーン・マーケット・ストリートをまっすぐ進むと左手に巨大な教会があった。クライスト・
チャーチだそうで、正面の巨大な八角塔はウルジーが建てたもので、1681年完成した。
中庭がトム・クオッドと呼ばれ、これを見渡せるところから塔の名はトム・タワー。重量 7
トンの鐘が「グレート・トム」
。最初の入学生徒が101名で、毎晩101回の鐘がなる。
道路を挟んだところに、TOMという喫茶店があって、アンリュウが「TOM」と私に教え
てくれたが、由来はこんな所にあった。
横門から中に入る。これは見事である。一面に広がる平原の手前に巨大な教会があった。見
事な調和である。カレッジだから、他の建物もある筈だが、入り口からは見えない。私たち
には自然まで計算に入れた美観はない。
あとから、あとから、人が入ってくるが、景観が余りにも大きく、尐しも邪魔にならない。
右手のヒース、左手の教会、その先に広がる芝生、木がいろどりとして植わっているが、決
して主人公ではない。人を誘導する並木に過ぎない。
聖フリーデス・ウイーデが好色な求婚者から逃れて、ここに修道院を作った話は「クライス
ト・チャーチ」の由来の伝承として有名である。
(クライスト・チャーチ)
チャーチを母体にし
て1525年大法官
だったウルジーが資
金と野心を注ぎこん
でたてたのがクライ
スト・チャーチ・カ
レッジで、恩寵を失
ったウルジーに代わ
り、1546年、時
の王ヘンリー八世が、
自らの印章を刻印し、
市全体の大聖堂にし
てしまい、カレッ
ジ・チャペルとして
クライスト・チャー
チの名をつけたそう
だ。
近頃映画「ハリー・
ポッター」でここの
大聖堂が有名になっ
たから、女性二人は
中にはいった。フリ
ーデス・ウイーデの
聖廟があるそうだが、彼女らの関心はカレッジ・ホール。ここで学生が正餐をとり、それを
ハリー・ポッターが茶化したようだが、どうも男には興味がわかない。
私には、この広大な土地が500年の歳月に耐えて、今もカレッジとして使われていること
に興味がある。日本では東大でさえ、130年。大学の社会的役割の変遷は100年でさえ
大きい。大きすぎて、大局的理解が困難である。
17世紀初頭、国教との結びつきが完全となった、カレッジはやがて、国の政治からも独立
し、国教会の一部として安眠をむさぼる。しかし18世紀末から始まった英国産業革命は社
会の著しい変貌とそれに見合う対忚を迫られ、信仰以外にも研究対象の増加を要求された。
対象は自然科学にも拡大され、規模も大きくなって、いく。18世紀末である。
オクスホードにとっては信仰からの脱離も大きな問題で、1604年以後、入学の必要条件
だった、39か条の信仰告白への署名も1871年は廃止された。20世紀にはいると階級
の枞を越えた入学者が入り、今学生7800、教授118、その他1371で、東大の5分
の1程度である。
日本には学問を神の声のようにあがめる傾向があるが、オクスホードは歴史から思うに、大
学は神の声を研究するところであり、現実の背景にも神の声を見出そうとする姿勢がみられ
る。
カレッジ・ホールから出てきた女性達と、町を歩いてきたビルとアンリュウに合流し、TO
Mの店の前からバスに乗りながら、この教会の格別の大きさに、様々な思いが去来した。
7月4日(帰国)
帰国時の足が気になり、ルミに相談したら、知人のルフトハンザの人に相談してくれ、車椅
子を出してくれることになった。日本までの全部の空港という大きな話だった。これでフラ
ンクフルトでの乗り換えも安心できた。
ビルとアンリュウも送ってくれて、ヒースロー ゲート2には2時間以上前についた。連絡
はついていて、車椅子の手配ができていた。ビルたちとの別れも早くせざるをえなかった。
空港内を車椅子で動くのは若干照れくさかったが、ともあれ安心第一、無理ができない体だ
からやむをえない。
定刻に出発,定刻にルランクフルト着、一般通路に出たら、案内所があって、問うと調査し、
車椅子の手配をしてくれた。職員の服装をした男性があらわれ、大きな自動車でゲートまで
連れていってくれた。こちらは職員なのが明白だったから、チップはやめた。あとは全て順
調、しかし成田は朝が早かったせいか、迎えはなく、長い、長い距離をあるいた。日本の身
障者扱いの悪さを、感じた。
08 年に4度目の訪英をして、変わらないと思ったイギリスが尐しづつ変わったのを知った。
今更古い日記を公開するのは愚ではあるが、04 を中心にイギリス南部の要所を紹介する気
になった。イギリスという国、この遠い国の変化は日本で紹介されていない。一つの座興と
思い、古いフロッピーをあけた。
イギリス総括
イギリスの旅(1)鉄道
蒸気機関発見のせいか、鉄道はイギリスの象徴である。イギリスへ行くと列車を眺めるだけ
でこの国に厚い歴史を感じるし、改札口のない方式に紳士の国を思い知らされた。ロンドン
から50分のっていても車掌がこないのは普通だった。
列車の作りも古く、座席ごとにドアーがついていて、ホームから窓こしに手を突っ込みレバ
-を倒してドアーをあけ、乗客の前を遠慮せず擦り抜けて内部の席につくのも、極めて新鮮
な思いをさせられた。自転車をかつぎこまれるのは尐し困ったが。
車内放送も簡単で、到着直前に「フリート」とつぶやくだけである。夜のフリート駅に駅員
はいない。自転車を下ろすまで待ってくれる。
列車も粗末で、先頭車両などとくになく、連結器でぶったぎったままの姿で、客車はそのま
ま先頭車として走る。行く先など書いていない。
古い列車
こんななりふり、かまわない運転姿はイギリス人の鉄道に対する自信、誇りを象徴している
ようで、私は鉄道を愛した。
定刻に列車がこないのは旅行者には尐しこまったことである。勿論アナウスはあるのだが、
話された英語は判読が曖昧である。定刻にきたと錯覚して列車にのったら、終点近くで、思
わぬ方向に列車がまがって、目的のチャーリンクロスではなく、キャノンストリートについ
てしまい、ロイヤルオペラの開演に間に合うため冷汗をかいたことがあった。中心駅ワーテ
ルー駅の発車時刻板は電光表示ではなく、カタカタとなる板で、表示板の前には常に人が集
まり、掲示がでるや、大急ぎで指定のホームに急いだ姿は名物である。どの線に列車がくる
か、15~6あるなかから、寸前でなければ決まらない。5年前の出来事だから、紳士はつ
まらぬことにこだわらぬ、のを地で示したようだった。
こんな古さのなかに私はイギリスの国民性を一番強く感じた。
これら懐かしい情景は改札がないこと以外、すべて消えてしまった。改札の代わりに、車内
検札の回数が増えた。
いつのまにか、国鉄の民営化がこの国で起こっていたのだ。
いくつの会社に分かれたのか忘れたが、
JR東日本、JR東海的な会社の誕生が多いなかで、
ヴァージン・アトランテイックが一つ入っているのが強烈な印象を与える。あの飛行機やC
D製造販売で有名なイギリスの新鋭会社である。
他の会社が南イングランド、スコットランドなど地域別の会社であるのに対し、ヴァージン
は線で大事な場所を結んでいる。勿論同じ駅舎を使っているから、ヴァージンだけの特殊な
方式はない。それにもかかわらず、これを契機にグレイト・ブリテン鉄道の上記特色は全て
消えてしまった。
特急1等で旅をしたので、一層感じたかもしれないが、列車は新しい。客車中央の柱や、ゴ
ミ箱は姿をけした。普通車もいりぐちは、両端のみとなった。全て日本並み、違うのは下車
時に自分で自動ドアーのボタンを押すこと、定刻に駅につかないことくらいだった。行く先
表示板や下車駅の電光指示も完備し、アナウンスが「ご乗車ありがとうございます」という
のも日本並み、したがって車内がうるさくなったのも同じである。
新しい車両
まだ携帯電話のスイッチ・オフや老人に席をゆずれとは言っていなかったようだ。このレベ
ルのモラルはまだイギリス人にはあるからだろう。
イギリスも忙しい国になってしまった。このような合理化が収入につながっているか、どう
も普通の時間帯での乗客は多くはない。
改札がないのは紳士の国の証かもしれない。だまって1等に乗っていた中国娘が罰金をとら
れて、列車の移動を命じられていたのは伝統の残りか。ただ、料金表示が日本ほど親切では
ないし、駅員の数もすくないから、自発的切符購入を義務付けるのは旅行者には尐しごくだ
が、そんなときには座らないで1等の戸口で車掌を待つべきだろう。紳士の国は姿勢が大事
である。
イギリス人が合理性を尊ぶのは今も昔と変わらない。昔のやり方はあれできわめて合理的だ
った。しかしあれが合理的である社会的基盤が変化してしまったから、彼らは新しい合理性
を作り上げただけの話だ、
と私は信じたい。
イギリスが紳士の国であることに変わりはない。
しかしこの合理性はまだ徹底していないようだ。列車のスピードはレールの保線状況を越え
てあがっていたから、国鉄時代の大宮、高崎間を常に思いださせるほどよく揺れる。ワーテ
ルーからの近距離最終列車が10時45分発で、繁華街での催しものの終演が10時なのも
気になった。
鉄道というイギリスの象徴ともいえるものの変化が合理性とはいえ、
まだ失ったものの方が
大きい。人の心のあり方は異国から見た人間にはささいなことに見えるものだ。時間に対す
る無神経さも、全体がおおらかな仕組みのときには、「さすがのゆとり」と感じたが、現状
はイギリス人のだらしなさの現われとみえ、私は現状の改革に好感をいだけなかった。
イギリスの旅(2)街なみ
私はイギリスの街並みが好きである。南部の街並の話だが、背後にイギリス人のココロの有
り様も想像してしまう。
ロンドンの東の一部を除いてイングランド全般に言えるが、街があって、まもなく草原にな
る。林地は散在するが、区分は明確である。日本の様に農家が散在していないし、街がだら
だら続くこともない。
ロンドンから東へテームス川添いに走りフランスへいたる列車の沿線
を除いて、北のエジンバラ、北西グラスゴー、西のブリストル、南西のエクスター、南のブ
ライトンへ走る列車が私のみた限り、そんな景観をはしる。
私が今回訊ねた南西部の都市の幾つかも例外ではない。
話題にしたいのはそれら都市の内部で自壊とでもいった出来事が起こり始めていることで
ある。
先ず鉄道駅周辺の変化である。ロンドンという地名はないが、ロンドンと呼ばれている地域
には鉄道ターミナルが10あまりある。ワータルー、チャーリンクロス、キングスクロス、
ユーストン、パデイントンなどが著名である。相互は山の手線に似た形では結ばれてはいな
い。これらから郊外へ列車がでる。私が知っている街は4~50分走った、いわば新興住宅
地である。それらは古くから都市として発達していたにちがいないが、近時急速にベッドタ
ウン化した。ここの変化にこの頃の変化を見る。
これらの都市は、キャナル(運河)や、交通の要衝として商業の中心地であり、キヤスル(城)
を中心とした街として発達し、各都市に独特の雰囲気がある。鉄道はどこも街の中心を離れ
て走っている。鉄道が街の発展に寄与し始めたのは20世紀に入ってからであろう。日本は
戦後の復興で、古い街並のスタイルをすっかり替え、鉄道の駅が中心としてなってしまった
が、イギリスの南部の街は格別の大都市を除き、車社会で鉄道の衰退ゆえか、まだ古い形で
街が残っていて、それが戦後の豊かさで洗練され、旅人を楽しませてくれた。尐なくとも5
年前はそうであった。
今イギリスは日本以上に車社会で、自動車道は無料である。当然ロンドンや大都市への道に
車が集中する。日本人より計画性にとむイギリス人であるから、変化への対忚は素早い。パ
ーク エンド ライドというバス利用に依存する方法で、郊外に自家用車の駐車場を設け、
そこから鉄道駅や街の中心までバスを使わせる。駅前や郊外駐車場の整備は十分行なわれて
いる。
ここまでは憧れをいだく程である。
フリートからギルホードへ地図
ロンドンから4~50分の距離に
発展した都市は今もキャスルの跡を
残し、街並の保存も見事であり、落ち
着いた小都市としてイギリス的な美
しさがあふれている。代表的な例はサ
リー・シャ(州)のギルホードである。
(註
四年ぶりに行ったらギルホード
駅周辺にこんなモールが出来てしま
った)
(4年前のギルホード)
ギルホードもサリー・シャ第二の都市として駅前の
発達は顕著であるが、その重みが小さいせいであろ
う。街全体としては落ち着いている。バーク・シャのレデイングは大きくなりすぎて、高層
化までおこり、日本の駅と変わらない。
バーク・シャ(州)
、サリー・シャなどはロンドンのホームカウンテイーズと呼ばれている。
これらの都市化は古いが、最近は更に外のハンプ・シャなどにも都市化の波が襲い、そこで
起きている出来事は極めて珍妙である。
ロンドンから60分程度の都市の一つ、ベーシングストークにその姿をみる。街のおおきさ
にたいし、駅前の重みが大きい。かくして立派過ぎる駅前商店街が出現する。しかも公共文
化施設もそこにあわせ作ったから、出来上がったものは、モダンであり、俗悪であり、国籍
不明のものとなってしまった。
ギルフォードの位置
他地方の都市の変化は見ていない。多分似た状況にあると思う。不動産価格が高騰している
とのことで、都市の発達が進んでいるのは間違いない。
私はこの変化を強く悲しむ。
イギリス南部の雰囲気を全くかえてしまいそうに思うからで
ある。街を歩く楽しみは日本では殆どない。暮らし方が均質になって、都市間の違いがなく
なったせいであろう。
今回訊ねた南部のリミングンやリンドハーストは落ち着いた街だった。イギリス人の心性に
は変化はないのだろう。大好きなアルンドルも旧来のままに違いない。落ち着きと清潔さと
利便性が調和していて、そこにいるだけで楽しい
リミントンの位置 サザンプトンの港
ロンドンから一定距離にある都市の
変貌は仕方がない現象かもしれない。
それに抵抗する心性をイギリス人が
失ったのかも知れない。私としては大
都市に集まる人間にイギリスネイテ
イブの人の割合が減りだしたせいだ
と思いたいが。
イギリスの旅(3)出船
心はどこへもいけない。今度の日本での入院で覚えたのはそのことかもしれない。
心と心の間火が灯り、私の心に入りこんだのは、簡単に形而上的には言葉で表せないか、強
いていうと「待つ心」とでもいえる。溢れてくるものがあっても抑えられる力である。その
とき目はうつろで、耳は頭の後に格納され、ハートは濡れた。
イギリスは南によい港がおおい。サザンプトンもその一つである。(前回地図参照)大雑把
な線を海岸にそって引くと、この港は川の中にあるように見える。それほど深い水位が内陸
部にも確保されているのだろう。尐し西のプリマス港は似た形で、ここは米西戦争や、新教
徒のアメリカ開拓などで名高い。
サザンプトンは今も民間船舶に汎用されている。ビルに教えられ、港に出船をみに行くこと
になった。船はクイーン・マリー、クイーン・エリザベス、それにもう一艚。彼女らはいわ
ゆる豪華客船で、ニューヨークへ、世界一周へ旅立つ。
(クイーン・マリー)
マリーはフランス製とか聞いた。白い
船体が高く、マストもたっていて、煙
突の黒色が居丈高である。エリザベス
は尐し小さいが船体は横に長く、エレ
ガント。あわせるように煙突は細くや
や斜めである。
7時の出発と聞いた。二艘が同時に出
帄するのは珍しいらしく、6時過ぎる
とさんさんごご、見物客が川辺に集まってきた。マリーは視野の中に、エリザベスは港の奥
にあってみえない。湾の中央に向かって岸辺から桟橋が延び、軽便鉄道が沖合の艀に向かっ
て走っていく。その位置は水深が十分で船がつけられるのだろう。ただ、
マリー用ではなく、
もっと小さな船のためである。定期的に走る軽便鉄道の音が辺りの静寂を乱す。あとは海猫
や白鳥が戯れる泣き声だけである。
大潮らしく、トリたちの遊ぶ水辺はみるみるうちに、水が引き、彼女らはどろだらけになっ
ていく。水は早く、後退し、船の通り道まで、どろの海である。これで女王さまの道が確保
できるだろうか。夕日の落ち方はこれに比べ遅く、まだまだ昼間の感じが強かった。私たち
は岸壁に腰をおろした。ベンチもあったが、船との間に人が入るのはいやだったから、足を
海におとした。靴をおとせば泤の中である。
1時間ほど待つうちに、辺りの景観に自分がとけこんでいきはじめたのに気づいた。
ゆったりとした雰囲気に、ほえるようなドラがなった。こんな低音は聞いたことがない。
[ボ
アー.boa.BOA]と表せようか。スーパーウーファーでしか聞こえない音域で船は叫
んだ。
新しい出来事が起こる予感がする。視野にいたマリーが岸から離れていくのがわかった。ゆ
っくり、確かに離れた。そして5分もたち、海へむかって流れ始めた。動いているのがわか
る程度に、巨体が近づいてくる。甲板で手をふっているのがわかる。岸まで数百メートルは
ある。泤の白鳥たちは見向きもしない。
私の中で何かが動いた。去るものをみる哀感か。巨体の動きが心のなかに影をうつしたのだ
ろうか。前をゆく船をカメラでおう。背景が近いから刻々被写体の姿が変化する。やがて右
にずれて、岸辺のビルが視野に入った。見る見るうちに船が大きさをます。自然のなかから
人為のなかへの移動である。私のなかであと尐しとの気持ちになった。消えゆくものを惜し
む、いつも起こる情意が沸き上がる。そしてマリーは去る。
岸辺の人は500人以上だったであろう。もう一艚の到来を待ち、誰も去らない。
左手に動きがでたのは数分たってからである。建物の屋根をおしわけるように、白い巨船が
見え隠れしつつ、全容を現わした。エレガントである。尐し小振りであるから、尐女のよう
なはにかみを現わし、マリーより遠くを海に向かって進んだ。軽便鉄道も騒音をとめたよう
だった。奥からきたせいか。それにイギリスの夕暮も進んでいたから、靄を感じた。
(クイーン・エリザベス)
速度がでていた。私は走りさる彼女を
惜しむ。どうしてとめられないのか。
一度くらい振り向いてくれてもよさ
そうなものに。濡れた心に哀愁があっ
た。
”Do
d
you
an
understan
outgoing
ve
ssel”
見上げるとにこやかなビルの眼差しがあった。
イギリスの旅(4)ムーア(荒地)
自然という言葉で日本人が連想するのは、山があって、木がたくさん生えていて、そこから
流れ出る川は流れが激しく、川の周辺は葦が生え、草が生え、ところどころ林がある。勿論
たんぼや畑も人為とはいえ、自然に近い。
こんな自然感をすっかり壊してくれたのがダート・ムアーと言う名のイギリスの荒地である。
例えば「嵐が丘」は荒地を背景として成り立った名作であるが、読んでいて連想するムアー
(荒地)はヒ―スと岩と石ころの集まりであった。この舞台はイギリス中部であるが、私が
今度みたのは南部の海に近いダート荒地で、印象はまったく違っていた。
何故、こんなことが起こるのか。
ダート・ムアーはロンドンからの幹線M5の終点エクスターから西に15キロほど入ったと
ころから始まる。
南北22マイル、
東西14マイル、
高度平均1500~1600フィート、
まあ5~600メートルか。10マイルを15キロと概算すれば、20~30キロの高原と
いうことになる。
ダート・ムアーの馬
ダート・ムアーは起伏が見渡す限り続
いている感じである。こんな広い野原
はみたことがない。家がないし、林が
尐ないから北海道の平原とも印象は
違う。イギリスはどこも凹凸が尐ない
から、似た景色はどこにも在るはずな
のに、ここの景観は特異である。多分
凹凸が多く、木が尐ないせいで、また
岩がここかしこにあるのも印象を変えているのであろう。
土は泤炭で、御影石の高い岩山。気候は雤おおく、湿気に富むらしい。これも場所によって
大変にかわる。
この大高原の一部に人間が住むところもあるが、牛や羊、そして馬が主人公である。勿論棲
み分けているのだろう。つまりこの自然はさまざまな姿をもっていて、植物だけでなく、動
物さえ都合がいい、すみかが探せるほど多様である。
ダート・ムアー岩(絵葉書の一部)
自然の多様性を日本では聞くことが
おおいが、それが人の都合を考えての
多様性であったのに、ダート・ムアー
をみて気づいた。ここでは多様な自然
に見合った多様な生物が住んでいる
のである。
これに比べ日本の自然は何と均質か。勿論雤量はおおいし、地形が起伏にとんでいて、風が
抜けることは尐ない。穏やかである。それにもまして特色的であるのは、関東を中心に火山
灰が大地をおおうところが多い。火山灰は軽く、土壌になりやすい。こんな土壌は空気が多
く、生物に富み、植物に格好の餌を生む。わたしたちの自然はこんな前提で、均質で、植物
に都合がいいものとなっている。
こんな穏やかなものを自然と名付けている。
木もはえない、土壌さえ育たないところがダート・ムアーにはある。それだからこそ、自然
である、このことを日本にいると忘れてしまっている。
て)
人が大地の果てに行きたがるのは、身近
では、岬で経験する。岬の先を目指して
移動する。岬は細く狭いから、当然満員
となる。
東京の近辺では伊豆半島の石廊崎がい
い例であろう。三浦半島や房総半島には
先端が明確にはわかりにくいから、旅の
目的にはなりにくいのだろう。観音崎や
野島岬があるけれども。
私が若いころには、能登半島の狼煙の灯
台は憧れの地だった。
人が目的として移動する先に地の果てがあるのはどんな気持ちによるのだろうか。
とても寂しい地の果てに移動して見たい、という孤独を求める心によるかと私は思ったが、
必ずしもそうでなく、楽園を探すと言う心理もありそうだ。実際そんな場所に行くと結構荒
れた場所ばかりではない。渥美半島の伊良湖岬など、「流れ着いた椰子の実の来し方を思い
出させる」浪漫がある。暫く立ち尽くし,自分の先祖は椰子の実の国からきたか、と夢見る。
ヨーロッパ大陸の地の果てはポルトガルのリスボンだが、たしかサンヴィセンデ岬だとう説
があるときいたことがある。東経10度に近い。そこで東経6度のイギリスのペザンス近郊
のランズエンドよりリスボンは西になる。
然しネイミングのせいかイギリス・ランズエンズの知名度は高い。
イギリスの旅(5)ランド・エンド(地の果
Aはペンザンスとランズ・エンド
ランズエンドへ行く前に土地の状況を想像した。私が思
ったのは一面の平地、それも牧草地か、ヒースの生える
荒地、木はない。風は吹きさらしで、家も尐ない。私は
そこで神と交流できるが、心のことは考えられない。そ
んな状況である。
ペンザンス
ペンザンスまで列車で行き、バスで海岸線を走る。尐し
ずつ家はへり、荒地がふえていく。牛やヤギさえ尐ない。急に視野が開けて、あたり一面広
場になる。胸は高なる。これぞランズ・エンド。突如遠くに掘立て小屋がみえてきた。やは
り、
という疑念が浮かぶ。
日本の観光地のようにお土産店が群れをなしているのではないか。
バスはその付近が終点だった。そこが景色がよいというわけでもなかったが。
お土産店群に入った。
日本と同じで、ここにある意味が感じられない。
子供の乗り物もある。
一歩お土産店をでた。風、絶え間がなく吹く風である。
ランズ・エンド
私はランズエンドにじっとして、地の
果ての感触を楽しみたかった。何か自
分のなかにわきあがってくるものを
知りたかった。然しこの風が凡てを吹
き飛ばした。この地にいたい心理は誰
も同じだろう。暴風を防ぐ帯としての
お土産店群を許す気になった。
ランズ・エンドのバス終点から、左奥が
土産店
帰りのバスはくるときと違って、荒野を
つっぱしった。半分ほどで、右折し、来
た時の村落に入ったが。曲がらなければ
直進道路。直進道路をそのまま行けば1
5分でペンザンスにつく。往路バスは海
岸を走り、50分かかった。ゆっくり地の果てへ連れていってくれた。本当は15分でいけ
るのに。文明は凡ての夢を消し去るのを知ってか、バス会社の粋なはからいかもしれない
イギリスの旅(6)野生馬
近頃、馬はテレビでしか見ない。私は競馬に関心がない。
ヒースローから環状線に乗り、インターチェンジで直ぐ南西に走る、M3にのる。終点で支
線のM271に入ると、イギリス海峡は近い。
一般道に入ると、すぐニュウ・フォレストの表示がある。そこに野生馬がいる。
自然保護運動の一つであろうが、東西15キロ南北5キロの大きな林が馬の放牧地になって
いる。北にはリンドハースト、南にはブロッケンハーストという
大きな町があり、二つを結ぶ道路を含
んで放牧地が広がっている。
林内に駐車場があって、車がとめられ
る。林に入り、草地を探し、下敶きを
だして、店を広げる。ピクニックであ
る。勿論車の音はしない。暫く経つと、
ガサゴソという音がきこえ、馬が現れ
た。巨大である。色艶もいい。数頭群
れをなしている。彼らは人によってく
るでもなく、避けるでもない。人と無
関係に森を抜けていく。
体が自分より大きな動物が自由に動く
のは日頃見なれていない。日常的にはありえないから不思議な感じである。危害を加える気
配は全くないけれど、不気味である。
今世界に馬はどれくらいいるのか。飼育されている馬は1億2000万頭という。家蓄化さ
れる前、馬は5系統いた。その第3の系統が西ヨーロッパの森林馬で体高が180センチに
も達する大型である。野生馬の中では最も大きいら
しい。草原に比べ、森林の方が栄養が
十分に取れ、大型化が容易であったた
めとされている。
最後の氷河期が終わって、イギリスの
森林は 1 万年まえ、もどってきた。当
時大陸と地続きであったから、イギリ
スに樹木が入りこんできた。最初はカ
ンバ類、1000年おいて、マツ類が
入った。ついでナラやニレの広葉樹類。
最期がシナノキで、紀元前3000年
まではイギリスは原生林に覆われていた。
森林の破壊が進んだのは紀元前1700年から500年までの青銅器時代で、
更に前400
年にケルト人が入り、
ローマ人が占領した400年間にはかってないほど、森林は破壊され、
占領下に人口は2倍に増えた。
人馬の甲冑の重みに耐えられる大型の森林馬が戦力として大きな役割を果たしたことは知
られている。重装備のフランク軍がサラセンの軽装備イスラム教徒軍に勝ったのは、農耕民
族の、騎馬民族に対する勝利として知られている。
日本の野生馬は第3紀から第4紀の
洪積世までいたが、以後何故か消えた。
縄文前期末から後期になって人骨と
ともに再び発掘されているが、大陸か
らの輸入と考えられている。その分布
は関東から宮城までに多いという。関
東は馬の飼育に適していたらしい。
時代は下がって、中世。都の貴族社会
からの、はみ出しものが関東の武士団
をつくった。源氏、平家を問わず彼ら
は関東のススキ原で馬を飼育し一大
勢力になっていく。この混合部隊を統括したのが、源頼朝といわれている。
馬の餌は何であったか。
関東地方の山野の原始的森林相はシイ、やカシであるが、一度伐採して、そのままにしてお
けばナラ、クヌギの雑木林になる。こういう林に毎年手をいれて、家畜を飼ったり、伐採し
たりすると、雑木林の再生が起こる前にススキや草原になる。中世の武蔵野はススキで有名
であるが、これは関東武士団が森林を絶えず破壊し、馬の餌を求めた証である。馬は年々大
量に蒙古韃靼の地から輸入されたとの記録がある。
関西は家畜の主流を牛が占める。牛に比べエネルギー効率の悪い馬が関東で栄えたのは、開
発が遅れ、森林が残っていて飼料事情がよかったせいらしい。
イギリスの旅(7)森林馬の育成とバイオ・エタノール本文
馬は森林と不可欠な関係があるのは、
こう知識を整理するとわかる。ニュ
ー・フォレストに馬を放っているイギ
リスの自然保護運動はこんな事情を
考えてのことだろう。
旅の話で、森林馬が前回出た。この話、
尐し舌足らずの感があり、詳しい説明
をさせていただく。
牛馬は草木を食べて生きられる。草木は糖質やタンパク質が尐ないから、人間はそれだけで
は生きられない。
牛馬などの哺乳類が草木で生きられるのは、彼らが腸に微生物を飼っているからで、微生物
は草木のセルロースを分解し食べられる糖にかえ、
濃度の薄いタンパク質を濃縮、
変質する。
その分解物や微生物そのものを、牛馬は食料として利用できるからである。こういう仕組み
を彼らは進化の過程で作り上げた。
馬で体長の 10 倍、牛で 20 倍も腸の長さがあり、容積では馬は牛の 2 倍で、腸特に、盲腸
は大きく、ここで微生物による発酵をする。
牛と馬では臓器の中味が違うからで、牛は尐ない飼料で育つ。何故か。
牛も腸に微生物を飼って餌として利用するのは馬と同じである。
加えて吸収の効率をよくす
る、体の仕組みをもっている。ご存知胃である。普通の胃のほかに,前胃と呼ばれる臓器を
発達させ、そこにも微生物を飼っていて、消化を一層効率よく、おこなっている。しかも前
胃を3つもち、それぞれ別の働きをさせ、効率化を図っている。(下図)
牛の腸
胃の進化
(以上は星野著「ヒトの栄養、動物の栄養」(大月書店)から借用)
当然それに適した腸の構造になっている。
(上図)
馬と牛の違いは彼らの進化の過程で生まれたものである。今の馬は3000万年前、地球に
でてきたが、牛は1000万年前に現れた。牛が進化した動物であり、新しし仕組みを作っ
て、新しい場所に生きられる工夫をしている。牛の進化の一つが胃に前胃を作ったこととさ
れている。
もし人間が同じ植物性飼料を与えれば、牛が効率的な食事で生きても不思議ではない。
森も様々なものがある。木だけでなく、下に草が生えている。木と草のどっちが食べ易いか
といえば、草であろうが、木の葉の方が栄養分にとんでいる。食べ易く栄養に富んでいるの
は新芽で、今鹿が新芽を食べ、折角植えた木を枯らす害がおきていると同じことがが、馬が
森に放たれていておきた。馬の数がどんどん増えれば、枯れる木が増えた。
関東平野は一度、枯れても、気象条件がよく、新しい森が自然にできる。それが、ナラ、ク
ヌギの雑木林である。
武蔵野の雑木林は最近まで、人間が10~15年に一度切り、切り方に注意して、切り株か
ら芽を出すように工夫していた。だから程よい伐採により、林を限りなく維持できる。
さて、生えた芽を動物が食べれば、林は消える。するとそこに生えるのは、ススキやカヤで
ある。つまり武蔵野のススキ原は風流ではあるが、馬を使って、人が森を痛めつけたなれの
果てである。
森で馬を育てる話にもどるが、馬の数さえ調節すれば、イギリスのニュウ・フォレストのよ
うに、森と馬は共存できただろう。関東の武士団はススキ原になるまで、馬を増やした。木
がなくなればススキも餌にしたことだろう。関東は未開の地だから、それも可能であった。
中世の戦争手段に馬は不可欠である。馬上から弓で敵を倒す。(当時は刀を使わない)かくし
て頼朝は鎌倉幕府を開いて関西の朝廷に歯向かえるまでの勢力になれた。
このころ関西はどうであったか?関西では対抗できるほど馬の数が揃えられない。
開発が進
んでいて、家畜は牛になっていた。牛は馬より飼料効率がいいから、餌が尐なくても育つた
からである。関西は家畜に与えられる餌が尐ないから、馬より牛を選んで、飼育していたの
だ。運搬にも牛を使っていたのは牛車が絵巻物に屡現れることでもわかる。
手元にデータがないが、記憶では、牛一頭草で育てるには1ヘクタール、つまり、野球場一
つくらいの土地がいる。馬のデータは知らない。
森林には常緑樹と落葉樹があるが、
葉が落ちると餌にならないから、
馬は常緑樹の森がいい。
武蔵野のナラ・クヌギは落葉樹林で、冬の餌にはならないが、イギリスのニュウ・フォレス
トは確かシイやカシの仲間の常緑樹林で、冬も緑であった。
森林は植物の中で最も生産性がいいという話は広く伝えられている。
よく引用されるデータ
では1ヘクタール当たり、およそ年間生産量14トン程度である。場所によってはこの2倍
はつくる。耕地は6トン、草原は7トンなどという数値が並ぶ。
カヤやススキはどうであろう。5~10 トンという数値がある。
このカヤやススキでバイオ・エタノールを作ろうという話題が新聞を賑わす。
一つの考え方で、昨今のエネルギー事情を考えると、発展を期待すべき研究である。
日本のカヤ、ススキの生い立ちは前記の通りで、自然の恵みではあるが、これ以下にはなら
ない最低の自然の恵みである。
馬や牛が 1000 万年かけて発達させてきた消化,吸収系に頼れば、カヤ、ススキのセルロー
スは食物になる。400 万年にもならないヒトのアタマを使うと、そのセルローズから、ガソ
リンを作って、車を走らせられる。
そういった角度でみると、この研究に極めて末期的な自然研究の印象をうけてしまう。
もっと非情なのは、餓えているヒトがいるのに、トウモロコシなど食物からガソリン作る研
究と私は思うが。
イギリスの旅(8)カナール(運河)
フリートのカナール
私が訪ねた、森林を貫いてつくられた
カナールは珍奇な景色であった。木々
の間で、ボートが薄暗い中にあり、私
には、こんな風景があったか、と思え
る程だった。
車の行き来が激しい道から、尐し入る
と、公園の景観の奥にボートはあった。池でもあるかと最初はおもったが、カナールと教わ
った。カナールは、農地にある程度しか知識がなかったから、こんな場所にあるのが理解で
きなかった。ボートは木の船だが、屋根があり、壁があって窓もついている。ペンキで化粧
をしてあるのは、日本人の美観では理解しにくいものである。自然の中に何故こんな人工品
を持ち込むか?
ここフリートのカナールは歴史ものらしい。昔、カナールは重要な交通手段だった。2艘
がやっとすれ違える程度の水路を、土を掘削して作り、船を浮か
べた。街はカナールを中心に発展したのではないか、とさえ思えるほど、中心街に、今ある。
カナールはベイシングストークに発し、フリート、アルダーショット、ファーンバラ、プリ
ムレイ、ブロックウッドを通ってワーキングにいたる。そこはウエイ川との合流点だ。人の
営みの結果だから、先ず街ができ、それを結ぶ道が拡大し、便利なカナールを作った経過が
わかる。古いイギリスの町が好きなわけの一つである。
(フリートの尐し南に見える青い線が今のカナール、南へ下がり、アルダーショット)
今イギリスの鉄道はこれらの町を無視して、大都市ワーキングとベイシングストークを直線
に結び、驀進した。鉄道から外れた町はささやかな姿を今も残す。
イギリスは 18 世紀末大運河網を完成し、船運で国を発展させた。
イングランドの中部は大半が低地である。南部はサウス・ダウンズと呼ばれる穏やかな丘陵
が広がり、北へ流れる川はテームズに流れ込み、テームスは東に流れてドウバアー海峡にい
たる。
南部丘陵は海に近く、
南下する大きな川
はない。
テームスの水源が観光名所コッツワル
ド丘陵近くであるにを日本人は気づか
ない。
イングランドを西へ流れる大きな川セ
ヴァンはブリッスル近くで海にでるが、
源流はウエールズの山岳(カンブリア
山脈)である。イングランド側ではコ
ッツワルド丘陵の西を流れる、エイヴォン川は支流である。シェクスピアで有名なストラト
フォード・アポン・エイボンを通る。
大運河網はコッツワルド丘陵を取り囲むように発展した。イギリスの工業地帯はテームスよ
(フリート駅)
り北にあり、セヴァン川の水も利用し、北東の
ハンバー川を北限として、発展した。
ストラトフォード・アポン・エイボンの運河もその一つである。このシェクスピアーの都市
はそれらの一つである。私が楽しんだカナールは今は観光ではあるが、趣は尐ない。
テームスの南のカナールは大きな水運には使われていなかったのであろう。フリートで見た
運河もその
一つ、更に南のギルホードで見に行ったカナールは
一層小規模で、穏やかな地形に恵まれていた。観光
に、カヌーなど水遊びにと憩いの場所であった。
(ストラトフオード・アポン・エイボン運河)
大運河網(平凡社「大百科」より引用)
ギルホ
ードカナール
イギリスの旅(9)キャッスル(城)
バッキンガム宮殿
元首の住居は宮殿、イギリスならバッキンガムである。昔の地方の主がいたのがキャスル
(城)と呼ぶと、それに相忚しい屋敶がイギリスには幾つかある。昔は戦いの場であっただ
けでなく、住居でもあった、そんな所をキャッスルと呼ぼう。
日本でも知られているのはウインザー城、ロンドンの西、ヒースロウ空港の近くにある。今
も正式行事が 4 月と 6 月に行われるだけでなく、国賓の宿泊施設としても使われている。
それだけでなく、エリザベス女王
が私的にも使っているそうである。
こうなると地方の主の屋敶ではな
く、今、元首である人が生活に使
っている。昔と違うのは戦いの場
ではなくなったことぐらいであろ
うか。それに観光用に我々も入れ
る。
ウインザー城
ウインザー城は観光化したとはいえ、訪ねると暮しの息吹がある。クイーンが暮らしている
からだろう。それに町にも生きた気配がある。大学があるから、オクスホードが町であるよ
うに、城があるからウインザーも町がある。
イギリスが近代の歴史で話題になるのはノルマンがフランスに定着した頃からのようだ。
ノ
ルマンは北のノールウエイなど、海賊を生業とする人々で、
フランスセーヌ河畔に定着した。
相次ぐ略奪に困惑したフランスが正式に承認したらしい。そのノルマンが次ぎの目標にイン
グランドを選んだ。近いから当然だろう。ウインザー城はその防御の目的で作られたそうで
ある。1080年ウイリアム征服王が建てたのが始めで、徐々に住まいの部分も加えられ、
新しく作り変えられてきた。
ノルマンの攻撃を懐柔した功績で領土を貰った豪族がいる。
南のモントゴメリーのロジャー
で、サセックス州の 3 分の1を貰って、アランドル伯爵に任ぜられた。1067年の話で
ある。サセックスはイギリス海峡を挟んでスペインやフランスに接する。アランドルは当時
中心地だったのであろう。ロンドンの南でイギリス海峡沿いにある。サウス・ダウン(丘陵)
の隙間を流れてきた、アラン川が海に注ぐところ、暖流が流れる海岸沿いで、北は山に塞が
れる。この地にロジャーが城を建てたらしい。
アラン川とキャッスル(絵葉書の一
部)
ここがどんなに人を魅するか、誰にも
想像がつく。私もその一人、土地の農
事試験場を仕事で訪ね、この城に魅せ
られた。1986年5月、春が来た頃
だった。遠く山の上に姿を現していた
古城の優雅な姿は一生忘れられない。
アランドル城は今人気の観光地にな
り、ホテルも出来ているが、15年前
の面影はあった。
1243年から1556年までフィ
ザラン・ファミリーがこの城の維持に
当ったのは良くしられている。155
6年フィザランのマリーがノーフォ
ークの4代伯爵トーマスと結婚し、
以後はフィザランとノーフォークが一緒に管理すること
になる。以前も以後もイギリス王朝の支配下にあったのは確かである。
16代ノーフォーク伯爵は1997年に死ぬ。
1000年にもなるから、家系は大変入り組んでいるが、フィザランとハワード家がアラン
ドル城に住んでいたアランドル城
ことは確かで、この美しい城を維持
してきた。今アランドル城は慈善団体がトラストを作って、永久保全に当っている。
2000年に当地で買ったパンフレットに面白い話がウイーンフリーデ・フリーマン
(Fizalan & Howard)の名で紹介されている。
「私は1914年にこの城で生まれました。22年間ここが私の家でした。確かに冬は寒い
が部屋は薪で暖房しました。城は自分の発電施設をもっていますが、電圧が低くて、厨房や
暖房を電気に頼るわけにはいきません。
だから一階に貯めた薪を古風なリフトで3階に上げ、
暖房につかったのです。食事も大変でした。調理は大きな台所で、本管からのガスでしまし
たが、それを食堂に運ぶのも専用のリフトでした。冷えてしまうから、食堂の隣の部屋にあ
る食器室のオーブンで暖めたのです。
我々は電話より手紙を通信につかったから、電話は一つ、唯一の電話機まで、いくのには大
変時間がかかりました。郵便配達は来ませんから、手紙は毎日城のスタッフが郵便局にとり
に行きました。
1922年に我々はラジオと無線を取り入れました。お城の上にアンテナをつけるのに苦労
したのを憶えています。
(中略);
町の中のキャッスル
お城に幽霊がでるという噂は消えな
いようです。でも私は出会ったことが
ありません。
城には馬やロバや犬を沢山飼ってい
ます。お客様は馬車で駅までお迎えに
いきました。
今も沢山の使用人がいますが、彼らは古い道具を使いながら、誇りを持って働いています。
教会との関係も深く、クリスマスには学校の子供たちに広間を開放しています。キープも毎
週の月曜には解放しているし、城全体も八月と九月は公開しています。
The keep was open every Monday and the whole castle in August and
September.(the
keep は城の一部にある円形のタワー。牢屋ではないか?)
第一次、第二次大戦で生活はすっかり変わりました。でも、この城は1000年もこの場所
にあったことは変わりないし、このあと1000年もこの場所にあり続けると信じます。
」
と著者は結んでいます。
イギリスが大変古いものを大事にし、その改造で新しい発展を向かえてきました。これは前
回触れた「キャナール」も同じです。古さを際立たせた改造こそ彼らの発展の根本というの
が彼らの思想と私は理解しています。だからこそ、こんな田舎の城が維持されたのだと、私
は思いました。
アランドルの町にも新しい風が吹き始めたけれど、2000年には未だ、そんな基本姿勢が
崩れていない、と思いました。今年2008年は訪れませんでした。生きている間にまた訪
ねられれば大変幸せです。
なおイギリスの旅は2008年の5日間の滞在だけでなく、2004年の23日間、200
0年の17日間、
それに1986年15日間の滞在をあわせて、
思い出を整理したものです。
いずれも知人ビル&ルミ・ペイン氏宅に滞在と案内の好意を受けました。なお旅行紀は既に
書いてあります。
私の人生のかけがえのない日々で、感謝は言葉に表せ無いほどです。
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