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タイトル 制定法を超えた不法実務 : ナチ司法とE.ヴォルフの 「正法

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タイトル 制定法を超えた不法実務 : ナチ司法とE.ヴォルフの 「正法
 タイトル
制定法を超えた不法実務 : ナチ司法とE.ヴォルフの
「正法」をめぐって
著者
鈴木, 敬夫
引用
札幌学院法学 = Sapporo Gakuin law review, 31(1):
243-273
発行日
URL
2014-12-27
http://hdl.handle.net/10742/1923
札幌学院大学総合研究所 〒069-8555 北海道江別市文京台11番地 電話:011-386-8111
論 説>
制定法を超えた不法実務
……ナチ司法と E.ヴォルフの
正法
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をめぐって……
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夫
Introduction
During the twelve years of the Third Reich, the Nazi regime
enacted many ethnically discriminatory laws under its Enabling Act
(Ermachtigungsgesetz), a law that assumed all legislative power.
The regime then took advantage of these malign laws to execute
Jews and political opponents in the name of legal process. The
judges at the time, rather than simply being faithful to the enacted
laws, are known to have gone beyond these malign laws to impose
severe sentences with greater vigor. In many cases, for example,
they handed down death sentences even though the statutory penalty
was imprisonment. This is because they were observing the Nazis
unique ethnic natural law , and freely interpreted and applied the
provisions of the statutes in making their judgments. Today, 70
years after the end of the war,how should we censure the historical
reality that, as a result of their acceptance of Nazi ideology, ordinary Germans became judges bereft of human freedom and conscience?
ナチスの第三帝国 12年間、ナチ政権は、立法権の全てを授かった全権
授権法(Ermachtigungsgesetz)の下で、多くの民族差別的な法律を制定
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し、その悪法を駆 して、裁判の名においてユダヤ人や反ナチ抵抗者を
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のドイツ人 であった者が、ナチスを受容した結果、人間の自由と良心
処刑した。当時の裁判官は、制定された法律に忠実な裁判官というより
も、むしろ制定法された悪法を超えて、より積極的に厳格な判決を下し
たことで知られている。例えば、法定刑が懲役刑であるにもかかわらず、
極刑が言い渡された事例が多々みられる。これは、彼らがナチスに固有
な 民族的自然法 、 ナチ正法論 を遵奉し、制定法の条項を自在に解
釈し適用して、審判したことによる。戦後 70年の今日、我われは 普通
を失った裁判官へと陥ってしまった 実を、いかに問責すべきか。
目 次
はじめに 問題の所在
1.ナチ司法における裁判官の不法実務論
2. 普通のドイツ人 としての裁判官
⑴ 自由からの逃避
⑵ 司法の同質化
⑶ 道徳的権利
3. 正法とはナチズムの法である (E.ヴォルフ)
結び
H.アーレントの言説
はじめに 問題の所在
我が国で 制定法を超えた不法実務 論が説かれて久しい。 制定法を
超えた不法実務 という え方は、G.ラートブルフの論文 制定法の形
態をとった不法と制定法を超えた法 (1946)
の影響のもとで 生したも
のといわれる。この 制定法を超えた不法実務 という 察方法のもつ
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意義は、ただ 法実証主義断罪説 の真偽を問うだけにとどまらず、 ナ
チ司法における裁判官の不法実務 が、どれほど民族的自然法の影響を
受容したのか、その 不法 の真意を究明することにもあろう。
だが 法実証説断罪説 をめぐっては数多の論 がみられるものの、
不法実務 の背景にあって、この不法を育んだ民族的自然法の性格につ
いては、いまだ研究し尽くされていないように思う。そこで、本稿では、
青井秀夫教授の説く 制定法を超えた不法実務 論をひも解き、併せて
ナチスの法哲学者が説く民族的自然法論を尋ね、それが わるところに
みられる裁判官が招いた不法な実務の背景を探りたいと思う。
最初に本稿では、本邦でいち早く 法実証主義伝説の
に取り組ん
だ青山秀夫教授の論文、すなわち、 ナチの司法は、制定法拘束性によっ
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てではなく、むしろ裁判官の価値拘束性または世界観拘束性によって堕
落した とする立場を礎にして、 (1) さらには酒匂一郎教授が ラートブ
ルフ・テーゼ を究明しつつ、 犯罪的な法律を制定する立法、妥当する
法律を侵犯する司法 にナチの 不法 を解明した論 に学び、 (2) 加え
てフベルト・ロットロイトナー(Hubert Rottleuthner)が 司法をいつ
でも政治指導によって道具化できるイデオロギーである とする 実体
など、これらの先行研究に
的決断主義 (substanteiller Dezisionismus)
導かれて、 (3) ナチ司法における裁判官の 不法 な実像を明らかにしよ
うとするものである。
なによりも青井秀夫教授が掲げる
を解明しようとすれば、 法実
証主義断罪説 の背景にあるもの、あるいはナチ司法を堕落させた、H.
ロットロイトナーのいう 価値実体 (Substanzwert)の実相を探り、か
つそれに献身した 普通のドイツ人 の営為について素描する必要に迫
られる。第三帝国を支えた 普通のドイツ人 の実像は、法学者による
研究だけでは必ずしも明らかにされない。そこで本稿では、フロム(E.
、ブラッハー(K.D.Bracher)
、ゴールドハーゲン(D.J.GoldFromm)
、ジェラテリー(R.Gellately)等、心理学、歴 学の研究成果に
hagen)
依拠して、彼らが繰り返し指摘している 普通のドイツ人 のナチスへ
の親和性、たとえば民族共同体の受容、そして法と民族道徳が一体化し
ていく過程に注目し、ナチ司法にたずさわった裁判官がいかに法盲目的
であったか、その原因を探りたい。
そして、A.カウフマン(Arthur Kaufmann,1923-2001)によって ワ
イマール共和国の墓堀人 (Die Toteng Raber der Weimarer Republik)
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に数えられた一人の法哲学者、エリーク.ヴォルフ(Erik Wolf, 19021977)の ナチ正法論
(4)
を取り上げる。そこでは、彼の 民族 と 人
種 を掲げる価値盲目的な正法論が、民族的自然法論を展開してナチに
対する遵奉性(Konformitat)の高揚に手を貸し、学者、裁判官など法曹
の思 に幾多の法哲学的基礎を提供したであろうことが明らかにされよ
う。
E.ヴォルフは、ラートブルフの門人として、第二次大戦後、師の代表
的著作 法哲学 第5版の編纂に際して、 編者のまえがき…グスタフ・
ラートブルフの生涯と業績 を著した者として知られる。 (5) しかし、
ラートブルフの価値相対主義を学んだ彼が、第三帝国において、声高に
正法とはナチスの法である と主張したことは、日本では殆ど知られて
いない。
最後に、哲学者である H.アーレント(Hanna Arent)は、ナチ下にお
いてノーマルではあるが、 想像力の欠如した 一人のドイツ人が罪を犯
し、イェルサレムの法 で裁かれる様子を凝視している。その えるこ
とを喪失して罪を犯した被告人と、なんの疑問も抱かずに不法な実務を
おこなったナチ下の裁判官と重ねて、結びに代えた。
拙稿は、主として 制定法を超えた不法実務 の背景を探ることに焦
点をおいたので、所謂 ラートブルフ・テーゼ をめぐる論争
(5a)
には立
ち入らない。
(1) ナチ司法の教訓----価値拘束性の危うさ を明らかにして、青井秀夫 実
証主義伝説の ----戦後法哲学の現実と課題
刑事法学の現代的課題 安部
純二先生古希祝賀論文集(第一法規、2004)
、14頁。後に同著 法理学概論
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(有 閣、2007)297頁-298頁。
(2) 酒匂一郎 ラートブルフ・テーゼについて
法政研究 第 78巻第号
(2011)
203頁。いわゆる 不法国家としてのナチス体制 の基本的特徴は 不法 性
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にあり、その意味において 不法国家 であった、と説いている。
(3) Hubert Rottleuthner, Substantieller Dezisionismus-Zur Funktion der
Rechtsphilosophie im Nationalsozialismus;Recht, Rechtsphilosophie und
Nationalsozialismus, Herausgegeben von H.Rottleuthner 1983, ARSP
Beiheft Nr.18, S.20ff. 実体的決断主義
について
ナチズムにおける法哲学の機能
(竹下賢訳)
、H.ロットロイトナー編 法、法哲学とナチズム
ナチス法理論研究会編(みすず書房、1879)34頁以下。
(4) Erik Wolf,Richtiges Recht in nationalsozialistischen Staate,Freiburger Universitatsrenden Heft. 13, Freiburg im Breisgau. Fr. Wagnersche
Universitatsbucherhandlung 1934.
(5) Erik Wolf, Gustav Radbruchs Leben und Werk in: ders., Gustav
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Radbruch,Rechtsphilosophie,Stuttgart,8.Aufl.1973.S.17ff.;田中耕太郎
訳 ラートブルフ著作集 1 法哲学 (東京大学出版会、初版 1961、第9刷
1971)17頁以下。
(5a) 所謂 ラートブルフ・テーゼ をめぐっては、上掲の青井秀夫教授、酒
匂一郎教授による精緻な先行業績が残されている。他に、上田 二 ラートブ
ルフ 式と法治国家原理性
西原春夫先生古希祝賀論文集 第4巻(成文堂、
1988)387頁以下;足立英彦 ドイツにおける 壁の射手> 訴 とラートブル
フ 式
東北法学 第 16巻(1998)193頁以下;川口浩一 ナチス国家権力
を背景とした犯罪処罰とラートブルフ 式
奈良法学会雑誌 第 12巻第1号
(1999)51頁以下;足立英彦 ラートブルフ・テーゼ(実証主義は法律家を無
防備にする)について
ドイツ法理論との対話 青井秀夫・陶久利彦編(東
北大学出版会、2008)289頁以下などが挙げられよう。
1.ナチ司法における裁判官の不法実務論
G.ラートブルフの所謂 法実証主義断罪説 は、概して次のように説
かれる。
実際のところ、
実証主義というのは 法律は法律だ>という確信をもっ
て、恣意的で犯罪的な内容をもった法律に対して、ドイツ法律家層を無
防備にした(wehrlosgemacht) と。
これは、ラートブルフの論文 5 間の法哲学(Funf Minuten Rechtsphilosophie, 1945) 制定法の形態をとった不法と制定法を超えた法
(Gesetzliches Unrecht und ubergesetzliches Recht, 1946)等に表記さ
れているものである。(6) この言説は、第二次世界大戦後、自然法を目指
してナチズムの過去を反実証主義の立場で克服するための出発点となっ
た。その一方で、1945以後の法律家に対する裁判では、彼らに対する過
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去の行動の正当化のためにも引き合いに出された。すなわち 法実証主
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はたして、法実証主義が法曹、とくに裁判官を現実に無防備にしたか
義断罪説 の拠り所にもなった。それは、何十年も支配した制定法実証
主義が、 法律は法律だ という原則をもって、ドイツの法律家をして制
定法への無制限の服従要求として受け止めさせたこと、さらに、彼らを
恣意的で犯罪的な内容の制定法に対してまで無防備にしたこと、その結
果として、ナチ司法における堕落と汚点の主たる責任を制定法実証主義
に帰結させることができる、と要約することが可能である。 (7)
どうか。今日まで、いくつかの 法実証主義断罪説 の真偽を問う研究
がみられるが、そのひとつに B.リュータース(B.Ruthers)著 法理論
(第3版、2007)があげられよう。彼は 1945年以降、制定法実証主義は
ナチス国家の不法秩序とその司法についてのスケープゴード(Prugelknabe)とされてきた。…だが、その責任帰属は誤りである と明言して
いる。 (8) わが国においては、青井秀夫教授による 実証主義伝説の
-----戦後法哲学の現実と課題 (2004)がこの問題を突いている。なか
でも特記されるべきは、青井教授の裁判官による 制定法を超えた不法
実務 論であろう。
青井秀夫教授はいう。 ナチスの裁判官たちは、制定法の文言に忠実に
実証的な方法で判決を導き出したのではなく、むしろナチ的評価を充満
した形で制定法を伸縮自在に扱い、制定法の
から大いに自由になっ
ている。それは、ナチ立法への制定法忠実性による消極的な協力ではな
く、むしろ制定法からあまりにも離れたナチの世界観を実現すべく積極
的に協力したというべきであろう と。 (9) この主張は、これまで広く説
かれてきた所謂 実証主義断罪説 に対する 批判> にほかならない。
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青井教授の批判にみられる先行性は、ナチ司法における問題の真の所在
が、むしろ 制定法の形態をとった不法 (gesetzliche Unrecht)に裁判
官が不承不承協力させられたという側面ではなく、政治によって前決定
された価値秩序、すなわちナチに固有な価値観ないし世界観を信奉し、
それに自ら進んで 制定法を超える不法実務(ubergesetzliches Unrech-
(10)
に携わったということをはっきりと指摘した点である。
tspraxis)
では、この点について具さに見てみよう。そこには あまりにも特定
の価値観に忠実であろうとして制定法を大胆に空洞化する司法的アプ
ローチ が判然とする。青井秀夫教授は、次のように述べている。いわ
く ワイマール期ないしそれ以前からのなお有効な制定法を適用するに
あたって、裁判官は、ナチ世界観に浸潤避けた結果を導き出すために、
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欠陥補充・反制定法的訂正・無制限の解釈・一般条項の大胆な援用など
あらゆる方法を 動員して、融通無碍の司法実務を行っている と。 (11)
その結果、 ナチ司法は、制定法拘束性ではなく、むしろ裁判官の価値拘
束性または世界観拘束性によって堕落した (それは、大体において、制
定法外在的な価値評価や制定法を超えた評価基準への拘束であって、制
定法の文言の範囲内での抑制された目的論的解釈の域をはるかに超えた
、 (12) とする。
ものである)
このことは、裁判官が自由自在な解釈を目指して、制定法拘束性から
解放され自由を携え、価値や正法に訴えて自己決定しようとすれば、か
えって政治的に前決定された価値秩序へと抗いようもなく組み込みこま
れてしまい、政治化し、権力への奴隷に傾き、司法は堕落する危険に陥
ることを意味する。 (13)
それはなぜか。裁判官の制定法からの自由は、一見するところ価値や
正法を目途とした自由であるかの装いはしている。しかしその内実は、
ナチズムにおけるイデオロギー、いわば 政治的親和性(politische Affinitagt) を志向する自由以外のなにものでもない。
(14)
制定法の
か
ら逃れ、その拘束性が和らぐところに、ナチに接近して政治体制を築き
上げる、その 政治的親和性 への道が開かれていたといえよう。まさ
に制定法への拘束を、超実定的な法思想への拘束に置き換えようとする
のが、ナチスの民族的自然法への誘いであろう。 (15)
人々が迷妄していた時代に、全体主義ないし共同体へ寄り添い身を任
せる安 感こそ親和性の源である。その一方で政治的秩序を築きあげる
ための共同歩調は、換言すればドイツ民族がナチに固有な 価値 へ向
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かって歩む自由は、
他方では裁判官に対して良心の放棄するように促す。
安 を求め、良心の掟から逃れる自由、 政治的親和性 への自由は、真
実、生来の自由を放棄する自由にほかならないであろう。ナチ司法にお
ける不法な司法実務は、裁判官の 自由の放棄 から生まれたとものい
えなくはないか。人間の自由を放棄する裁判官ほど罪深いものはない。
心理学者フロムは、 自由からの逃走 という人間の素質について述べて
いる。
(後述)
敬
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(6) G.Radbruch,GRGA Band 3.78f.:Radbruch,GRGA Band3.89f. ラート
ブルフ著作集4 実定法と自然法 、223頁-228頁;249頁-268頁。
(7) 青井 実証主義の …戦後法哲学の現実と課題 前掲、7頁。
(8) B.Buthers,Rechtstheorie,3.Aufl.,2007,S259ff.いわく、ナチス下にお
いては、 法学と裁判所はしばしば法律から完全に解き放たれ、人種政策目的
のために権力保持者の意思を有効な法律に反して現実化したのである。この
解釈>(Umdeutung)
は、法技術的には、裁判所によって受容された新しいナ
チス的法源、すなわち
統の意思>、ナチス党綱領、そして人種的に既定さ
れた新しい 血と土に基づく自然法>に即して行われたのである と。酒匂一
郎 ラートブルフ・テーゼについて 前掲、171頁。
(9) 青井 実証主義の …戦後法哲学の現実と課題 前掲、10頁;同 法理学
概論 前掲、292頁。
(10) キーワードである 制定法を超えた不法実務 という表現について、後に、
より 適切な表現 として、 制定法を曲げた脱法実務かもしれない と記し
ている。青井 法理学概論 前掲、294頁 18)
。ただ、ナチ司法における裁判
官の 制定法を超えた不法実務 という観念および表記は、戦後日本のラート
ブルフ研究課題をより前進させる嚆矢的価値をもっており、
すでに定着しつつ
あるといえよう。
(11) 青井 法理学概論 前掲、292頁。
(12) 青井 実証主義の …戦後法哲学の現実と課題 前掲、14頁。現実に 制
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定法拘束性 を軽視し、 価値拘束性 を重視した典型的な事例として、青山
教授は、裁判官ハンス・ヨハヒム・レーゼ(Hans Joachm Rehse)が死刑が
唯一の選択肢でないにもかかわらず、ユダヤ系ドイツ人に対して極刑を下した
二
五
〇
︶
事例 カッツェンベルガー事件 を紹介している。9頁。
(13) 青井 法理学概論 前掲、298頁。この 制定法を超えた不法 実務が陥
る危うさについて、参照すべきものとして、Luhmann, Zweckbegriff und
Systemrationalitat, 1968, S.58ff. があげられている。24)
(14) H.Rottleuthner,a.a.O.S.22. 邦訳 37頁。ロットロイトナーは、ナチズ
ムにおける実証主義の役割を 析し、 法律家を無防備にしたというより協力
的にしたのは、全体主義に対する彼らの政治的親和性 であると指摘する。し
たがって、裁判官の制定法を超えた評価基準は、政治的親和性の濃淡によって
決定されよう。
(15) 竹下賢教授は、G.エルシャイト(Ellscheid)の見解を上げ、ナチズムにお
けるイデオロギー支配は、
超実定的な法思想の支配であったとして、それが 制
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定法への拘束を、イデオロギーヘの拘束によって置き換えようとしたもの を
引いている。 実証主義の功罪 前掲、63頁。
2. 普通のドイツ人 としての裁判官
以下では、青井秀夫教授によって指摘される 不法実務 の不法な作
為がなぜ 然と行われていたのか、はたして如何なる背景のもとで、彼
らが自ら進んで 自由を放棄 し不法実務に携わるようになっていった
のか。裁判官である以前に 普通のドイツ人 であったその実像が問わ
れる。
⑴ 自由からの逃避
第三帝国 12年間においては、ひとり裁判官のみならず、ごく 普通の
ドイツ人 の誰もが、何の疑いもなくナチス体制を受け入れていたとす
る数多くの実証的研究がある。一口でいえば、ナチ司法を支えた裁判官
であろうとも、いわば 普通のドイツ人 であったということである。
まず、心理学者のフロムは主著 自由からの逃避 (1941)のなかで1章
を設け、 ナチズムの心理 (Psychologyh of Nazism)を詳細に 察し
ている。 (16) そこで彼は、当時のドイツ人が、 自らの自由を放棄してでも
大きな力に服従しよう と思い、同時に自ら権威者であることを求め、
他人を服従させたいとする権威主義的性格(authoritarian character)
を持つようになっていく経緯を明らかにしている。 (17) このような心理
状況こそが、まさに 普通のドイツ人 をしてナチズムを受容させる素
地にほかならなかったといえよう。裁判官が自由の主体であることを忘
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れ、人間であることを放棄する 自由からの逃走 は、概して当時のド
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のなにものでもない。(18) フロムのいう 大きな力 には、 統一的に構成
イツ人の思 行動を表徴しているように思われる。
ナチズムの心理 からすれば 大きな力 に屈服することは、自己を
捨て権威を受容すること、言い換えれば、自己を一つの圧倒的に強い力
のうちに解消し、その力強さと栄光に参加すること
(participating in its
である。それはまさに H.ロットロイトナーの見地、
strength and glory)
ナチスの 実体と決断 (Substanz und Dezision)を受容すること以外
された共同体の精神、
民族の生き生きとした法的良心
(lebendigen Rechts、有機的な種族本能、法と民族道徳との具体的統一、
gewissen des Volks)
価値実体(Substanzwert)としての人種、土、名誉、労働など、そして、
このような実体としての複合体に、立法者の決定、一人の指導者の声、
国家指導部の権威的な意思 が対応している。 (19) ナチ司法の裁判官は、
この 実体と決断 の緊張関係の真っただ中で、 力強さと栄光 を求め、
制定法を伸縮自在に駆 して、ドイツ 民族の生き生きとした法的良心
を示すことに努めたといえよう。
⑵ 司法の同質化
歴 学者 K.D.ブラッハーが、その著 ドイツの独裁 (1969)で力を
こめて述べているのは同質化問題である。ナチスは 1933年に 国家およ
び国家の危機を克服するための法律 (Das Gesetz zur Behebung der
not von Vork und Reicht,1933)を制定し、政府の手に一切の立法権を
掌握し憲法を廃棄した。この所謂 全権授権法 (Ermachtigungsgesetz)
の下では、ドイツの人々が 強制的に同質化 (Gleichschaltung)させら
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れ、併せて 自発的に同質化 (Selbstgleichschaltung)し、これを受容
していく
実がみられる。 (20) 知識人に対する精神的同質化は、やがて
司法の同質化 (Gleichschaltung der Justz)へと波及した。そこでは
裁判官、検事、弁護士などがナチス司法体制維持の道具となって テロ
ル司法 (Terrojustzt)化し、不法な司法体制の共犯者となっていった、
★
字
取
り
あ
り
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行
目
ハ
イ
フ
ン
手
で
入
れ
て
る
★
とされている。 (21)
驚くべきことに、 司法の同質化 と並行して施された、ナチ化を実現
するための文化、教育などのさまざまな諸政策に対して、多くの作家、
芸術家、大学教授などが、競ってこれを支え、援助を志願していたこと
である。とくに大学教授の 自発的な同質化 について、A.カウフマン
は次のように証言している。 あの時代の大多数の法哲学者は、ナチズム
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に対していかなる抵抗も試みなかっただけではなく、新しい民族運動の
ほとんどすべての重要な目標を協力に、
かつ判然と支持したのであって、
人種綱領も決してその例外ではなかった。……これは無知からとか何気
なく行われたのではなく確信に基づいて(aus̈
Uberzeugug)行われたも
のである と。 (22) 彼の証言から明らかなことは、学者たちの自発的同質
化の軌跡は、ナチ司法下の裁判官がたどった テロル司法
への道に繫
がっていたといえよう。A.カウフマンの指摘する 確信 とは、 える
自由を喪失した者がなす、ナチに固有な価値への信奉であろう。こうし
た確信をもった者のなかに、 本来のナチスの理論 (primare NSLehren)にどっぷりと浸かった法哲学者 E.ヴォルフがいたのである。
(後述)
⑶ 道徳的権利
ナチズムへの同質化を表徴する最たるものが、反ユダヤ主義という価
値観の受容であろう。
およそ 600万人に及ぶユダヤ民族に対する虐待を、
普通のドイツの人 はどう受け止めていたであろうか。
ダニエル・J・ゴールドハーゲンは、その著 普通のドイツ人とホロ
コースト……ヒトラーの自発的死刑執行人たち (1996)の中で、 普通
の典型的なドイツ人がヒットラーの自発的な執行者になる 経緯にふれ
て、 ユダヤ人は我われには人間であるとは認識されていなかった(The
Jew was not acknowledged by us to be a human being.)という証言
を上げ、さらに ナチスによって価値転換させられた世界では、ドイツ
人はユダヤ人の殺害を人道的な情けある行動とみなしていた ことを明
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らかにしている。 (23) そして、ナチス政府は、 普通のドイツ人がナチスと
このような確信を共有していることを知っており 、その自負心が 人道
的な情けある行動 に拍車をかけたともいえよう。 (24)
一方、ジェラテリーも述べているように、ナチを支えたドイツ国民の
教養は、他の人種に対して無関心であり、それが終に 道徳的残忍化
して、 然と 道徳的権利 として主張されるものであった。 (25) このよ
うにしてドイツ人の 人道的な情けある行動 は民族の 道徳的権利
行 と結びつき、
何の疑いもなくナチ司法の裁判官がなす不法な実務へ、
つまり人種差別的かつ非人道的な審判へと発展していくことになった。
司法の場で、法と民族道徳の具体的な統一が実現されたのである。
(16) 第6章 ナチズムの心理 において、フロムはいう。ナチスの権威主義的
哲学においては 平等の観念は存在しない。 権威主義的性格の本質は 自己
を一つの圧倒的に強い力のうちに解消し、その力強さと栄光に参加することを
めざすマソヒズムにある と。Erich Fromm, Escape fron Freedom, 1941,
New York (1950. Karl Mannheim) p.199 ;日高六郎訳 自由からの逃走
(東京 元新社、1968)230頁以下、224頁。
(17) F.Fromm. Escap from Freedom, p.23-264.;邦訳 230頁-262頁。
(18) H.Rotteuthner, Substantieller Dezisionismus, a.a.O.S.27. 邦訳 45
頁。
(19) H.Rotteuthner, Substantieller Dezisionismus, a.a.O.S.27. 邦訳 45
頁。
(20) 全権授権法 の強化は、まぎれもなく 実体と決断 の実践にほかなら
ず、たとえば 司法の簡略化に関する 統勅令 (Erlaßdes Fuhrers uber die
Vereinfachung der Rechtaplege, 1942)などの諸立法は、ナチス・イデオロ
ギーの放射ともいうべき、保守主義=官憲国家的な、権威主義的=反民主主義
的な、国民主義的=非合理主義的な連鎖に嵌まり込むこんで作られた 制定法
二
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四
の形態をとった不法 といってよい。K.D. Bracher, Die deutshe Diktatur,
1969,Verlag Kiepenheuer & Witsch,Koln-Berlin,S.250.山口定・高橋進訳
ドイツの独裁…ナチズムの生成・構造・帰結…
二
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四
︶
(岩波書店、1975)
、447
頁以下、455頁。実に、ナチス政権にとって、従来の法律をそのままにして、
新しい法律を制定する方が効率的であったのである。竹下賢著 実証主義の功
罪 前掲、68頁。ヒットラーに全権を授与したこの法律は、カール・シュミッ
ト(Carl Schmitt)にとって 新ドイツの暫定憲法 (ein Vorlaufiges Verfassungsgesetz des neuen Deutschlanda)の成立とまで評価された。Walther
Hofer,Der Nationalsozialismus Dokumente 1933-1945 (1957)S.57. 救仁郷
繁訳 ナチス・ドキュメント (ぺりかん社、1957)
、78頁。
(21) K.D.Bracher, a.a.O., S257. 邦訳 454頁。とくに S.398.
(22) A.Kaufmann, Rechtsphilosophie und Nationasozialismus, ARSP,
Beiheft Nr.18. 1983,S.3.
(3)参照。A.カウフマン 法哲学とナチズム
上田 二・竹下賢訳、ナチス法理論研究会訳 法、法哲学とナチズム (みす
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ず書房、1987)、5頁。カウフマンは、 ドイツの大部 の法哲学者が、勝利を
収めたナチズムに、即座に…時流にあった法哲学と国家哲学の理論を提供した
というようなことが、どうして可能であったか と問責している。彼はいう。
私の主張は ナチスのお好みどおりに教示し、著作した人々は、日和見主義者
や経歴主義者もそこかしこにともに作用していたにせよ、確信を以てそうした
のだ、という事実から出発する。ナチスの管弦楽団の中でともに演奏しなくて
も、
法哲学者として決して生存の危機あるいは職業上の危険があったわけでは
ないことについては、実例がある と証言している。A.Kaufmann,a.a.O.,S.
2, S.5、邦訳3頁。
(23) D.J.Goldhagen,Hitlers Willing Executioners,Ordinary Germans and
the Holocaust, 1996, p.452, 453, 454. 望田幸男監訳北村浩、土井浩、高橋博
子、本田稔訳 普通のドイツ人とホロコースト…ヒットラーの自発的死刑執行
人たち (ミネルバ書房、2007)
、570頁、571頁。なお、佐藤 生 ホロコー
ストと 普通>のドイツ人… ゴールドハーゲン論争 をめぐって…
思想
1997. 7(877)は、 自発的 とは何かをめぐって問題を提起している。54頁
以下。
(24) D.j.Goldhagen, p.419. 邦訳 536頁。
(25) ヒトラーを支持したドイツ国民 の著者ロバート・ジェラテリー(Robert
Gellately)は、多くの証拠をあげて、ドイツ人の 大多数は、多かれ少なかれ
人種主義的教養(the racial teachingts)を受け入れ、少なくともそれで悩ん
だ兆候はほとんどなかった という。このことは、ゴールドハーゲンも指摘し
ているように、彼らのもつ教養が他の人種に対する 無関心 というよりも 憐
れみのなさ を表しているものである。さらに R.ジェラテリーはいう。 ナチ
時代を通じて、
ドイツ社会では人権と少数民族保護のための道徳的無関心が増
大した。……そして、ついにドイツの深刻な道徳的残忍化(a profound moral
brutalizaition)をもたらしてしまった と。このような検証から読み取れるこ
とは、普通のドイツ人のこのような道徳的無関心が、裁判官をして 制定法を
超えた不法実務 に走らせ、これを助長させたのではないか、ということであ
る。
当時において、
すでに道徳的残忍化は民族の権利として裏付けされており、
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一切がドイツ民族の 道徳的権利 行 の実践であったのではないかと読み取
れる。Robert Gellately, Backing Hitler. Consent and Coercion in Nazi
Germany,Oxford University Press,2001.p.261. 根岸孝男訳 ヒットラーを
支持したドイツ国民 (みすず書房、2008)
、313頁;p.263. 邦訳 315頁。Paul
Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmesg&Meiler, New
York London, 1997, p.1021. ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男訳 ヨーロツ
パ・ユダヤ人の絶滅 (柏書房、1997)261頁。当時、ナチ新聞は ユダヤ人の
世界支配 を掲載して、 ユダヤ人は全ドイツ人の絶滅を企んでいる と報道
した。これを承継してヒムラー(Himmler)は、 我われは、我われを抹殺し
ようとしているこの民族を抹殺するという道徳的権利をわが民族に対して
持っている (We had the moral right vis-a-vis our people to annihilate
this people which wanted to annihilate us.)と声明し、これがドイツ全土に
宣布されたのである。
3. 正法とはナチズムの法である (E.ヴォルフ)
さて、 普通のドイツ人 、その一人としての裁判官が 制定法を超え
た不法 を是として不法実務に携わった背景には、すでに述べたように
ナチ化の進める 自発的同質化 や 司法の同質化 の指標が存在した。
その目標こそ、ドイツ人をして精神的に同質化するためのイデオロギー
のモデル、H.ロットロイトナーのいう 普遍的正当化範型(allgemaines
にほかならない。 この正当化範型は、一方では、
Legitimationsmuster)
民族の思想遺産、共同体の理念、人種、血と土、他方では権威国家の宣
伝、指導者原理の宣伝とを結合して合成される ものである。 (26) この 正
当化範型 は 法と民族道徳との具体的統一 や 指導者の権威的意思
等が充満し、謂わば 実体と決断 の典型として位置づけられた。裁判
官による 不法実務 の実践は、こうした 普遍的正当化範型 に導か
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れ、この路線から離脱することは許されなかったといえよう。
以下に、 正当化範型 を積極的に認容して、それを自らの自発的同質
化の指標に 民族 と 人種 を掲げて論陣を張り、ナチスの世界観、
価値観の供給源にもなった一人の法哲学者の論 を示そう。価値相対主
義 を説いた法哲学者 G.ラートブルフの門人、E.ヴォルフその人であ
る。E.ヴォルフは、ナチ哲学者として知られた M.ハイデッガーから推挙
されて、ナチ最盛期にフライブルク大学の法学部長となった。 (27) そして
司法の同質化 に向けた法哲学的基礎を提供したといえよう。
顧みて、この時期の E.ヴォルフの法思想が注視されるのはなぜか。そ
れは、G.ラートブルフの価値相対主義とは余りにも異なる、むしろまっ
たく反対の見解を表明したからにほかならない。
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第三帝国が成立した 1932年、ラートブルフは論文 権威刑法か、社会
的刑法か? を表し、刑法改革がナチによって権威的主義的な(sozialautoritat)方向に転轍されようとしていることを危惧して、その 迫り
来 る 再 野 蛮 化 (heraufdrohenden Rebarbarisierung)を 警 告 し て い
る。 (28) さらに翌 1933年の論文 刑法改革とナチズム では、ナチスの刑
法、刑訴法改正の動向を直視して、これは テロリズムだ(terroristisch)
と烙印を押している。 (29) 加えて 精神的同質化 が表現の自由、出版の
自由の規制となって現実化されると、1934年、ラートブルフはフランス
語を以て論文 相対主義における法哲学 を著わし、いわく、 相対主義
それは普遍的寛容である。しかし、不寛容 に対してまで寛容ではな
い (Relativismus ist die allgemeine Tolerantz …… nur nicht Toleranz gegenuber der Intoleranz.)と主張した。これはまぎれもなくナチ
を忌避する抵抗の宣言であった。(30)
まさにこの時に、E.ヴォルフは 正当化範型 を信奉してナチに入党
した後、自己の確信の赴くままに2篇の論文を発表している。その論文
こそ ナチス国家における正しい法 (Richtiges Recht im national、
sozialistichen Staate,1934)
(31)
および ナチスの国家の法理念 (Das
Rechtsideal des nationalsozialistichen Staattes, 1934)にほかならな
い。(32) ナチス国家への遵奉性を鮮明に謳い上げたこの2篇の論文に
よって、彼は 価値盲目的な人びと (Die Wertblinden)の一人に数え
られた。(33)
当時において、法哲学者のほとんどが同一論調で議論していた問題が
ある。それは、 自由主義の拒否 (Ablehnung des Liberralismus)
であっ
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た。E.ヴォルフはこれに同調して、すでに役に立たなくなった自由主義
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と説いたのだった。(34) このような反自由主義および反民主主義がもた
の観念が、 自由主義法の時代のイデオロギーへと逆行 (Ruckfall in die
Ideologie des liberalen Rechtszeitalters)することのないようにと、こ
れに与している。そればかりか、ドイツ人のすべてが犠牲心もって、命
がけで 益に献身すべきだとして、
益的な権利の行 の要請は、法共
同体成員間の血の中で生き続けなければならない。各人は法を愛するこ
とが必要であり、その際に自らの権利を犠牲にする覚悟も必要である
らした帰結の一つに 基本的人権 の放棄あげられる。E.ヴォルフはこ
れにも賛同して、 ナチス国家の要請は、人間の現世の存在を包括的に掌
握する。この要請はその限界を、歴 的な伝統によっても、特定の基本
権または人権にも認めることをしない (Der Anspruch des nationalsozialistichen Staates ergreift das irdische Dasein des Menschen in
umfassender Weise.Er findet seine Grenze weder an geschichtlichen
Traditionen noch an gewissen Grundrechten oder Menschenrechten.)
と主張した。(35)
いま、E.ヴォルフが人権をも制限できる根拠、彼が 正法(Richtiges
Recht)とは、……第三帝国におけるナチズムの法のみである と説くそ
の意味を問わなければならない。果たして、E.ヴォルフの説く 正法
とは何か。
まず 強制的同質化 ないし 自発的同質化 が次第に強化され、社
会の隅々まで 実体と決断
が現実化されるのを目の当たりに見た E.
ヴォルフは、 このような経緯から導き出すことができる結論は、すなわ
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ち、我われの今日のドイツの現在において、正しい法とは、この現在の
現実、この現在におけるドイツ民族性の政治的および文化的な統一を表
現するものでしかありえない。しかし、最近のできごとにおいて明らか
になった民族性の統一に対する名称は、国家社会主義と呼ばれる。正法、
換言すれば、我われの現実の法はそれゆえに、第三帝国における国家社
会主義の法でしかあり得ない。
(Richtiges Recht,d.h.also unser wirkliches Recht kann deshalb nur das Recht des Nationalsozialismus im
(36)
Dritten Reich sein.) と断言する。
以下に、E.ヴォルフが説く正法論を、長文に亘るが厭うことなく掲記
しよう。いわく、
この命題を表明することで、我われの正法への問いは、それに相応し
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い答え、その方向を指し示されてはいるものの、まだ答えは与えられて
いない。その答えが与えられるのは、第三帝国におけるナチズムがすで
に完全に目に見えるように完結した姿を得たとき、ナチズムが概念に
よって表現可能となり、理念として言葉で言い表され得るときだけであ
ろう。しかし、それは現実とはまったく異なる。第三帝国は、精神的な
領域において、密やかではあるが、いくつもの他の名前や記号を用いて
何年も前から行われていたもので、そして今、 約および政治的な空間
に姿を現した、完全に革命的な生活に対する名前、記号、象徴である。
第三帝国の多方面にわたる現象は、確かに標語の形で示唆され得るし、
第三帝国の生活に参加するものに対しては象徴を介して示され得るが、
理論的に表現することはまったく不可能である。我われがここで念頭に
おかなければならないのは、ナチズムとは、新しい哲学でも、新しい国
家学や社会学でもないということである。ナチズムはドイツ国民の政治
的・社会的な生活の 体であり、それは確かにドイツ国民の独特な哲学
や経済学、社会形態、そして法を発展させ始めた
しかしその発展は、
ようやく始まったばかりなのである。この政治的・社会的な生活 体は、
今後もその本質を政治的生活の空間以外へと展開していくであろうし、
この意味において政治的な哲学、政治的な経済学、そして政治的な法を
持つであろう、と。 (37)
E.ヴォルフはいう。それゆえ、ナチスの正法においては、哲学的体系
との結びつきや、理論的に規定された政治的計画の実施は問題にならな
い。国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)の旧綱領も、その理念のなか
でナチス的な生活像を、完璧な像としてではなく、絶えず新たな基本方
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針を生む兆候的な象徴的な像として提供している。同時に、ヒットラー
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こうした立場を前提に、我われは、最近の法律と規則を理解しなけれ
の わが闘争 からも、ナチズムの法規則の基本的な教理問答をほとん
ど展開することはできない。この書物は、ヒットラー 統自身の政治家
としての生活における一つの段階をよく表してはいるが、その完結や中
断を意味するものではない。さらに、ナチズムの教義に関する法律文献
も目下のところ、ナチスの法思想の単なる表現にすぎず、規範ではない
と理解してよい。 (38)
ばならない。それらは、ナチス的な国民国家の本質的に固有な法の発展
へ向かう道の、最初の段階であるということである。形式上、民主的な
政党国家の時代から引き継ぐはめになった政治的および経済的な情勢と
の闘いにおいて、ナチス革命はまず、改編された国家の保安への要求を
満たす法規定を必要とした。国家権力を守るための法律と規則は、まだ
ナチスの法の精神の最終的な表現ではない。というのは、ナチスの法の
精神は、 統が何度も表明しているように、民族を国家の前に置くもの
であり、求められるのは民族法であって行政法ではない。国家は、この
法の精神にとって、民族共同体の完全な実現という目標のための手段で
しかない。現在の経過法は、現在の状況の法である。この法は、ナチス
的な法の精神の実現を可能とするためのものである。その限りにおいて
現在の経過法は、将来的な民族法の前段階なのである、と。 (39)
ナチスの意味における正法は、
それゆえ民族の本質にふさわしい法で
ある (Richtiges Recht im Sinne Nationalsozialismus ist also ein dem
Wesen des Volkes gemaßes Recht.)と。
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(40)
それでは、何をもって民族の本質にふさわしい法というのか。いわく、
正義の理念はこの法においてその特別な内容を、哲学や倫理学から授
かるものではない。この理念は、自然的・精神的な統一体として経験さ
れる民族から直接的に定まるものである。この民族思想は、さらなる将
来には国家思想と徐々に融合されて一つになるであろう。しかし、この
思想は概念から導き出すことはできない。この民族思想の概念的要素を
理解した者は、まだそれを本当には知り得てはいない。それゆえ、この
民族性の法も、伝統的な法的知性の単なる適合化や順応化から得られる
ものではない。この法は、我われのナチス的な共同生活の法形式を想像
するために、ドイツのすべての法共同体成員(Rechtsgenossen)が絶え
ず覚醒していること、そしてたゆまず活動することを必要とする。この
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法生活の基本的な え方を、我われは今、明確にすることを試みたい。
その際には謙虚さが必要である。というのも、この え方は、ナチズム
そのものの本質を用いずに明確にすることはできず、その本質は、第三
帝国の形態と同様に、概念的に把握することはほとんど不可能である。
それは論証することができるものではなく、
語り継がれるものに属する。
それは、知り得た者の姿勢や態度、その言葉や振る舞いに表れるのであ
る。しかし、そのような者は、厳密な意味では、自らの血をそのことの
ために捧げた、かつての戦士たちだけである。私は、もっぱら知的な取
り組みの場に立つものが、これに関して言い得ることの、どことなく事
後的で希薄であることを承知している。とはいえ、私はそれでも、私の
洞察に基づきナチス的な生活にとって本質的なものであり、この本質的
のために法の新たな形成を要求するものについて、少なくとも示唆する
ことを試みなければならない。 (41)
それは何より、自然的・歴 的な生活の二つの事実、すなわち、民族
と人種である。これらから個々の生活への二つの要請が発生する。それ
はすなわち 益性(Gemeinnutzigkeit)と犠牲心(Opfersinns)である。
そして二つの価値がこれらの要求を実現しようとする。
それはすなわち、
国民の統一と社会的共同体である。それがなされる生活の 体が国家、
全体国家である。国家において、新たな法の構築がおこなわれなければ
ならない。この事実、要請および価値によって、国家は決定される、
と。 (42)
それでは、E.ヴォルフにとって 民族と人種 に依拠する共同体はい
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かに実現されるべきか。まず、その 民族と人種 論をみよう。いわく、
ナチズムの意味における 民族 とは、身 に基づき区 されるドイ
ツ系の人々の統一体であり、その内部にはさまざま権利と義務が存在す
るが、法は一つしか存在しない。民族はナチズム的な感覚にとっては、
絶対的な国家権力の下に生活する人間の任意の数や任意の行為ではな
く、歴 的運命の下で本質的にそうなるべくして育った、人間の統一体
である。……民族法は、血の中に生き、世代から世代へと育まれ、民族
精神の表現として認識されるものである。
……この民族精神の根源から、
この精神を実現するために、新たな法が 造されるべきである。歴 的
な法体系から本質的なものの選択は、新たに体験された価値から行われ
る。その価値とはすなわち、民族性の維持、社会的 平性、国民の統一
体としての帝国の強化である。そして何より忘れないようにしよう。民
族精神から生まれた民族法は現在も成長していることを。たとえば、ナ
チスの突撃隊(SA)および親衛隊(SS)の不文律である同志の法の中に
みられるものである。 (43)
ついで 人種 はどのように位置づけられたか。すなわち、
新たな民族生活は自らその歴 を、人種の新たな体験からも理解でき
る。そのさい、この体験の核心は、諸民族の発展の生物学的な起源の想
起により、ドイツ人の人種的固有性の生きた経験の中に存在し、その千
年にわたる発展における文化の構築は、異民族の本質的な協力なく行わ
れたものである。……ナチズムにとって民族共同体の基礎は、人種・言
語共同体なのである。この人種・言語共同体としてのナチズムは、決し
て単なる生物学的な 慮に基づくものではなく、それに優位を認めるも
のである。……人種の体験においては、伝統、家族、貴族、態度および
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信念といった精神的なものが共鳴する。この新しい体験は、法思想にお
いても首尾一貫した影響をもたらす。民族の人種的な起源の事実を無視
することは許されないという認識を育てる。人種思想の司法上の重要性
は、……今日のドイツにおける人種構成の維持のための措置である。そ
れには、土地所有の獲得を通じて異民族を排除し、異民族が過剰になら
ないよう優勢を維持すること、異民族の帰化を厳格にすること、教育、
裁判、行政、文献への異民族の直接的な影響の低減が含まれる、と。 (44)
民族と人種 という価値は、E.ヴォルフにとって、ナチス国家の中核
に位置する。これらの価値がナチス国家において法として如何に展開さ
れるべきか。 それはドイツ人の権利のすべてを、 共への寄与とその義
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務に結びつけることによって可能となる。 いわく、
国家の法の自然的・歴 的基礎としての民族精神および人種精神を認
識した結果として、その法は、この民族が生き続け、かつ、人種の優れ
た性質を可能な限り最高の発展へと至らしめようとするのであれば、
個々人に対して、それぞれが民族の構成員とし て、自 ら に
益
(Gemeinnutzens)と 犠牲心 (Opfersinns)という要求をつきつける。
益性は何より法共同体成員一人ひとりの法的信念の強化によって達成
することが可能であるし、達成する必要がある。……ナチス国家の法共
同体成員は、個人的な権限および義務を持つことによって結束するので
はなく、 民権および身 法の基準に基づく結束にほかならない。法共
同体成員の関係は法的身 の関係を意味する。その目的はしかし、法に
対して責任を負うことであり、やむを得ない場合には所有する自己の権
利に反しても責任を負うことである。 (45) ……形式的な法的規約の保護
のなかで尊大になった経済、諸団体、自治体の自治を、国家の主導的な
意思の下に帰属させること、これが 益秩序としての法秩序が求めるも
のである。この点から権利の所有者が、権利の所有によって、たとえば
一区画であろうと自由に専横可能な空間を所有することができるイメー
ジは払拭されなければならない。抽象的に自由な、見せ掛けに等しい漠
然とした権利主体の、国家による強制秩序としての、真実に反し、 序
良俗に反する法のあらゆる像、たとえば近代の法思想によって形づくら
れたような像は、消去することが必要である。 (46) ……結局のところ、ナ
チス国家における権利行 の要請は、権利者が全体の富を 慮して、さ
らに自らの法的な相手方の社会的な状況を顧慮し、行動するように要求
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するだけでは十 ではない。さらに一歩進めて、もし権利行 が 益と
いう意味においてもはや可能でなくなる場合には、権利放棄の要求を出
すことが必要になる。 (47) この点で、 益の思想は、犠牲心と合い通じる
ものである。
民族と人種 を価値理念に掲げて、
ドイツの民に国家への犠牲を強い、
その人権をも否認する如上の E.ヴォルフ正法論の結論は、 ナチ的な世
界観は、道徳的な力を担う人間を前提条件とするという思想であり、こ
の道徳的な力は人種の遺産、社会的信念、指導者に対する無条件の忠誠
によって説明され得る という道徳論で結ばれる。そこには指導者への
忠誠を ナチズムとキリスト教を結びつける ことによって正当化を図
ろうとする道徳観が展開されている。いわく、
道徳的な全体性のこの確信は、神という歴 の主の最高権威の下に置
かれることによって生ずる。ここで、本質的に必要となるナチズムとキ
リスト教を結びつける認識が開かれる。人種および民族性の自然法的お
よび歴 性を認めるということ、そうしたヒトラーの 全な要請による
ヒトラーの国家は、キリスト教という、この秩序の 造者・維持者を告
げ知らせる者を必要とする。宗教的個人主義や不可知論は、ナチズムの
国家思想および法思想とは、その思想の本質を理解するならば、両立す
るものではない。 (48) ……すなわち、国家の全体性は、神という最高の権
威による正当化を必要とする、ということである。人種および民族性の
自然法が現世においてどこまで妥当するかは、福音の永遠の真理による
定めと確認を必要とする。キリスト教の規律や道徳の規範との一致が、
民族秩序にかなう正法に呈する完全な保証を与えるのである(Die
Uebereinstimmung mit der norm der christlichen Zucht und Sitte gibt
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、
die volle gewahr fur ein vorksordnungsgemaßes richtiges Recht.)
と。 (49)
最後に、E.ヴォルフの理想とする裁判官像をみてみよう。E.ヴォルフ
は、こうして 民族の本質にふさわしい法 を実証すべく、その法の正
当性のための基準(Massstab)を法命題として形造り得る者を、まさに
指導者の権威に求めている。 (50) そこでは、法定立の最高権威は
でなければならなかった。 彼は何の疑いもなく
統
統が唯一の立法者
である (ゲオルク・ダーム、Georg Dahm)という立場や、 真の 統
は裁判官であり、 統職から裁判官が生まれ出る…… (カール・シュミ
ツト、Carl Schmitt)の見解を踏襲して、 (51) 次のように ナチズムにお
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ける裁判官の理想 (nationalsozialistischem Richterideal)論を展開し
ている。
恣意や形式主義的
抽象的な法的安定性の原理によって縮減され
ない。むしろそれは、制定法の中に表現され、 統に体現している民族
の法的直観により、確固とした基準を獲得し、必要な場合は、そこに制
約を見出す。いかなる抽象的な制定法形式でも、すべての法共同体成員
の感情と意欲の心情的な一致を可能とするほど十 には、判決の独立性
と恒常性を保障することはできないのであるから、我われはこの規制に
信頼をおいてよい と。 (52)
この理想論には、
ナチ司法における在るべき裁判官像が示されている。
そこには、当時の司法大臣ギュルトナー(F.Gurtner)の意向、すなわち
彼が制定法よりも上位にある命題にふれて幾度となくふれた 内的な法
命題 を違わず踏襲しているからである。 今日の裁判官は、制定法より
も上位にある内的な法命題を、しかももう一つの価値判断を含む法命題
を法感情から汲み出す勇気をもつであろう とは、司法大臣の言葉であ
る。(53)
統に体現されている民族の法的直感、その内的な法命題を信奉
する E.ヴォルフの裁判官理想論が、まぎれもなくナチ司法における裁判
官の 制定法を超えた不法実務 の実践に、法哲学的な基礎を与えたで
あろう証を直視することができるように思う。
具体的にナチ刑法はいかに解釈され、適用されたのか。刑法学者の一
面をもつ彼の立論をみてみよう。ナチの刑事政策は 非良心的な利己主
義者による民族に有害な搾取に対して、これまでより優れた刑事的保護
を与える。 つまり 全体主義的なナチ国家において、犯罪は第一に不服
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従および反抗として出現し、この犯罪者は国家の敵に該当する。この点
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箇所で、裁判官が刑法を解釈するさいには、反自由主義的な刑法思想に
で刑法は、国家の権威を実証するのに役立つ。それと平行して、刑法は
有害者の排除という社会的機能を満たす。……すなわち、遺伝病に罹患
する衝動的欲求による犯罪者(訳 :主に性犯罪者)の強制不妊処置、
および去勢措置、常習犯罪者と社会的危険性を持っている者の 民権剥
奪、保安拘禁である。犯罪行為者は不服従の法共同体成員であり、その
法的信念の低下が責任非難を問われることになる という。 (54) 彼は別な
立脚して 被害者の同意を正当化事由から抹殺すること (die Einwillingug als Rechtsfertigungsgrund verschwindet)を要求している。その
理由とするところは、それが 際立った個人主義的思想 であるからで
ある。これは彼がその責任主義刑法思想において、いな正法論において、
基本権や人権をどのように位置づけているかを最もよく示している。い
わく 汝は何者でもなく、汝の民族がすべてである (Du bist nichts,dein
Volk ist alles.)と。
(55)
すでに、E.ヴォルフの正法論について注釈は不要である。ただ、彼の
民族と人種を中核とし、ナチ国家への犠牲的な献身を求める正法論は、
典型的な民族的自然法論にほかならず、そこには H.ロメン(Heinrich
Rommen)のいう 理性的本性 (die vernunftige Natur)を微塵にも
垣間見ることができない。 (56)
最後に、イルマー・タンメロ(Ilmar Tammelo)によるナチ法哲学に
対する批判を掲げよう。
法哲学理論に対する格別に辛辣な異議は、それが抑圧を、堕落をさら
には大量殺戮をさえ 飾することによって、娼婦の役割を演じてきたと
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いう主張にみられる。実際、法哲学者の中には、自己の思想をその時ど
きの政治秩序にすることができ、その政治秩序上の祝福を与えようと試
みた曲芸人がいたのである と。 (57)
(26) H.Rottleuthner, Substantieller Dezsionismus, a.a.O., S.27;邦訳 44
頁。
〔 (3)参照〕
。
(27) Hugo Ott. Martin Heidegger, Unterweges zu seiner Biograhie, first
Published by Camps Verlag 1988, S.161. 北川東子、藤沢賢一郎、忽那敬一
訳 マルティン・ハイデガー
伝記への途上で (未来社、1995)241頁。ハ
イデッガーは 1933年4月、自ら進んでフライブルク大学の学長に選任されて
いる。彼は就任と同時にナチ党に入党し、1945年まで党員であり続けた。そし
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て学生に対して次のように述べた。 本質を救済し、かつわが民族が国家にお
いて最内奥の力を高揚させるために犠牲を払う勇気が、諸君に絶え間なく育つ
ように。教説や理念は諸君の存在規則となるものではない。 統こそが、自身
(Der
そして唯一、今日そして将来のドイツの現実であり、その法なのである。
Fuhrer selbst und allein ist die heutige und kunfitige deutsche Wirklichkeit und ihr Gestz.)絶えずより深く知ることを学べ。いまよりあらゆる事物
が決定を、一切の行動が責任を要求する。ハイル・ヒットラー この 統を法
律(Gesetz)であるとする法感覚、法意識こそ、これほどあからさまにナチの
普遍的正当化範型 を肯定するものはない。世界的に著名な哲学者のこの言
説は、 普通のドイツ人 をして、どれほど彼らの政治的親和性を高めるのに
貢献したであろうか。このハイデッガーが、大学運営の片腕として E.ヴォルフ
を法学部長に据えたのである。
なお、ハイデガーのナチズム受容問題は、直接に本稿が触れるところではな
いが、ただ、彼は不法な制定法を恣意的に用いた事例が記録されている。すな
わち、Tom Rockmore, On Heidegers Natizim and Philosophy, Universty
of CaliforniaPress 1992,p.57.;奥谷浩一他訳 ハイデッガー哲学とナチズム
(北海道大学図刊行会、1999)81頁他。とくに、ハイデッガーが反ユダヤ主義
に加担したことを証明するものとして、 職業官 制度の再 のための法律
(Gesetz nur Wiederherstellung des Brucfsbeamtentums,1933)第4条を積
極的を適用して、ユダヤ人研究者を追放した事例がある。それは陰湿な政治的
密告が端を発した シュタウディンガー(Staudinger)事件 として知られて
いる。Hugo ott.,a.a.O.,S205. 奥谷浩一著 ハイデガーの弁明 (梓出版社、
2009)
、117頁以下および第3部第1章に詳しい。
(28) Radbruch, Autoritares oder soziales Strafrecht? 1933. in: Radbruch,
Der Menchen im Recht,Vandenhoek &Ruprect,Gottingen 1957 S.63ff. こ
の鈴木敬夫訳が 権威刑法か社会的刑法か?
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札幌学院法学 第 23巻第2号
(2007)109頁以下。ここでは、犯罪をば 人種的に捉えられた民族共同体 へ
の敵対行為とみなし、さらにナチスの 世界観的−政治的見解 に反対する行
為を道徳的な侮辱に値する行為として捉えること、が指摘されている。この訳
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出について、酒匂一郎 ラートブルフ・テーゼについて 前掲、210頁参照。
(29) Radbruch, Strafrechtsform und Nationalsozialismus, in: Neue Freie
Presst (Wien)Vom15.1.1933.Radbruch GRGA Band 9,S.331-335. この鈴
木敬夫訳が 刑法改革とナチズム
札幌学院法学 第 25巻第2号(2009)143
頁以下。ここでは、 テロリストに選択的な刑法 が掲げられ、 法一般(Das
Recht uberhasubt) が ドイツ民族共同体の品種改良(Hochzuchtung) に
利用される危惧が指摘されている。この訳は、酒匂一郎 ラートブルフ・テー
ゼについて 前掲、210頁参照。
(30) Radbruch, Der Relativisms in der Rechtsphilosophie,1934,Radbruch,
GRGA Band 3,S.21. ラートブルフ著作集4、 法哲学における相対主義 尾
高朝雄訳、9頁-10頁。
(31) E.Wolf, Richtiges Rechts, a.a.O.〔 (4)参照〕
(32) E.Wolf, Das Rechtsideal des nationalsozialistischen Staates. ARSP.
Band 28, 1934/35. S.348-363.
(33) H.Rottleuthner,Substantieller Dezsionisus,a.a.O.,S.31ff.〔 (3)参
照〕
、邦訳 50頁。H.ロットロイトナーは、 価値盲目的 な学者を挙げて、彼
らは その支配体制へ教養市民層からの讃歌をうたった。彼らはその支配体制
を何よりも文化改革として解釈した と記している。
(34) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.17f.
(35) E.Wolf. Richtiges Rrcht, a.a.O., S.23.
(36) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O. S.10.
(37) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.11.
(38) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.11.
(39) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.12.
(40) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.12.
(41) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.12-13.
(42) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.13.
(43) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.13-15.
(44) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.15-16.
(45) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.17.
(46) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.18.
(47) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.20.
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(48) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.26.
(49) E.Wolf, Richttges Recht, a.a.O., S.27.
(50) E.Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S10, 29.
(51) A.Kaufmann,Rechtsphielosophie und Nationalsozialismus,in:ARSP
Beiheft Nr.18 (1983), S.11.
(52) E.Wolf, Das Rechtsideal des nationalsozialistischen Staates, in:
ARSP 28 (1934) S.352. 邦訳 19頁。
(53) ナチスの司法大臣ギュルトナー(F.Gurtner)のいう 制定法よりも上位
にある内的な法命題 にふれて、青井秀夫 実証主義の …戦後法哲学の現実
と課題 前掲、11頁。
(54) E.Wolf, Richtiges Recht., a.a.O., S.26.
(55) A.Kaufmann,Rechtsphielosophie und Nationalsozialismus,in:ARSP
Beiheft Nr.18 (1983), S.8. 邦訳 15。
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(56) ここでは H.ロメンの立場に則した。Heinrich Rommen, Die ewige
Widerkehr des Naturrechts,2.Aufl.,Munchen 1947.S.154. 阿南成一訳 自
然法の歴 と理論 (有 閣、1956)155頁。ナチズムと自然法における 理性
的本性 の位置について、竹下賢 実証主義の功罪 前掲、65頁参照。
(57) Ilmar Tammelo, Der Kamf um die Rechtsphilosophie, in: Thesaurs
Acroasium, Vol.
(1977), S.155.; A.Kaufmann, Rechtsphilosophie und
Nationalsozialismus, in:ARSP Beiheft Nr.18. S.19. 邦訳 33頁。
結び
H.アーレントの言説
ナチ司法は制定法拘束性ではなく、
むしろ裁判官の価値拘束性または
世界観拘束性によって堕落した とは青井秀夫教授の所説である。如上
にみてきたように、ナチ司法には、その固有な価値観ないし世界観に導
かれて 制定法を超えた不法実務 がなされた足跡がみられる。この間、
ナチ司法下の不法な判決例について、内外で精緻な 析と 察がなされ
ているが、 (58) なかでも カッツェンベルガー事件 はその典型である。
ドイツ人の血と名誉を保護するための法律 (Gesetz zum Schutze
des deutschen Blutes und der deutschen Ehre,1935)の解釈適用に関す
るものである。この法律の第5条2項によれば、法定刑は重懲役または
軽懲役を規定している。それゆえ、 法律は法律だ という原則に従えば、
行為者に対して法定の量刑を超えて罰することは許されない。ところが
裁判官は、最終的には 民族の敵対者に対する法律 が要請している
全な民族感情 という判断基準によって、法定刑を無視して、ユダヤ人
に対して死刑判決を下したのがこの事件である。そもそも ドイツ人の
血と名誉を保護するための法律 は、典型的な人種差別法以外のなにも
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のでもなく、それ自体が不法な制定法であるが、判決では、この制定法
の拘束を超えて不法にも極刑を選んでいる。 (59)
この事例のみならず、ナチによる実体的決定主義の下では数多くの悲
惨な裁判例が記録されている。その一つに 白バラ(weiße Rose)事件
がある。 ユダヤ人も人間だ と記述し、 人間の尊厳 、 自由を
と
いったスローガンを掲げたビラを配布した学生グループに対して、民族
裁判所は国家反逆罪を犯した廉で、ゾフィー・ショル(Sophie Scholl)
等7人を処刑した (1943)
。 (60) この事件は 不法な制定法 による犠牲で
あろうが、いま詳細に立ち入る余裕はない。 (61)
さて、 カッツェンベルガー事件 にみられるように、ナチスが制定し
た法律にすら忠実ではなく、およそ実証主義とはいえない裁判官をどう
評価すべきであろうか。問われるべきは、ナチの 普遍的正当範型 の
実現に努め、ナチスによる制定法の不法をも歪曲して判決した裁判官の
ナチスが制定した不法な法律を有効な法律であると盲信し、
営みである。
それを超えて恣意的に解釈する違法性すら認識できなかった裁判官、彼
の 法盲目性 (Rechtsblindheit)は、いかに問責されるべきであろう
か。 (62)
ただ、如上の不法実務に携わり数多の死刑判決を下した裁判官と対照
できる一人のドイツ人官 がいる。それは、ナチスの下で犯罪的な命令
ないし法律に忠誠を尽くし、処刑されたアイヒマン
(Eichmann)
である。
彼はイェルサレムの法 で、日々与えられた仕事に勤勉な 普通の郵
配達夫 (gewohnlichen Brieftragers)
にすぎない普通のドイツ人と評価
された人物である。 (63) ハンナ・アーレント著 イェルサレムのアイヒマ
ン・悪の陳腐さについての報告 (1986)は、ナチスの国家行為の下で、
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ホロコースト へユダヤ人を移送した戦犯アイヒマンに対する審判を
扱ったものであることは世界的に知られている。
H.アーレントは、アイヒマンの行為のついて次のように述べている。
彼の行為が、 法的> 秩序の枠の中で行われたことは否定できない。
このことが、この犯罪の顕著な特徴である。
(64)
しかし、 アイヒマンと
いう人物にとって厄介なところは 、 実に多くのドイツ人が彼に似てい
たし、しかもその多くの者が倒錯しておらず、ザディストでもなく、恐
ろしいほどノーマル(normal)であったということである。我われの法
律制度と我われの道徳的判断基準からみれば、この正常性
(Normalitat)
は、すべての残虐行為を一緒にしたよりも我われをはるかに慄然とさせ
る。なぜなら、……このタイプの犯罪者は、自 が悪いことをしている
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と知る、もしくは感じることをほとんど不可能とするような状況のもと
で、その罪を犯していることを意味するからである。
(65)
要するに、ユダヤ人移送に携わっていた彼は、いったい 自 のして
いることがどういうことか、全然わかっていなかった (niemals vorges(66)
のである。アーレントは、 彼は
tellt, was er eigentlich anstellte)
愚かではなかった が、 完全な無思想性 (schiere Gedankenlosigkeit)
であって、こうした彼の 想像力の欠如 (mangelnde Vorstellungsver、 現実離反 (Realitatsfern)
こそ、彼があの時代の最大の犯罪
mogen)
者の一人になる素因であり、まさにこのことが 陳腐ないし凡庸>〝die
(67)
Banalitat" なのであって、 悪の陳腐 であった、と指摘している。
アーレントにとって、 問題は、もはや特定の人間、被告席にいる一人の
個人ではなく、むしろドイツ民族全体、あるいはあらゆる形態における
反ユダヤ人主義、あるいは人間の本性または原罪である(die Natur des
。………姿には見えないが、人類全体が
Menschen und die Erbsunde)
被告と並んで被告席についている とみることもできるのである。 (68)
思うに、第三帝国という自ら えることができない 閉ざされた社会
においては、普通の人々の凡庸さ陳腐さは、しだいに現実離れしたもの
となる。 えることの放棄には、人間の本性を侮蔑するばかりか、不法
をも侵す危険すら潜んでいるといえよう。まさに人が 自 が悪いこと
をしていると知る、もしくは感ずることが不可能な状態 に陥った場合
がそれである。 制定法を超えた不法実務 が行われた環境は、裁判官の
想像力の欠如、無思想性を培養する、ナチ司法に特殊な状態であったこ
とは否定できない。そうであるならば、 える自由を喪失し、与えられ
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た価値のみを信奉した 価値盲目的 な裁判官には、不法実務の不正で
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客観視することができなくなるいということであろう。
反社会的な性格など、およそ自覚すらできなかったであろう。そこには
自律した行為の主体としてではなく、およそ 自 のしていることがわ
からない 一人の 普通のドイツ人 がいるだけである。ナチ司法にお
ける極刑判決の多さは、彼らの 法盲目性 がいかに狭陋なものであっ
たかを物語っている。 えることを止め、自由を放棄した裁判官をどう
見るか。学ぶべきは、いわゆる 閉ざされた社会 おいて、人は自己を
自由を
(58) 戦後ナチス裁判の評釈については、
周知のように Radbruch,Gesetzliches
Unrecht und ubergesetzlichesRecht(1946)や Radbruch,Gesetz und Recht
(1947)などで取り上げられている。概してこれが契機となって、日本では、
矢崎光圀著 法実証主義
現代におけるその意味と機能
(日本評論社、
1963)43頁以下;竹下 実証主義の功罪 前掲、42頁以下;酒匂一郎 枉法
と故意
ラートブルフ・テーゼと裁判官の責任
法政研究 第 79巻第1・
2合併号(2012)等によって精緻に 察されている。
(59) ドイツ人の血と名誉を保護するための法律 第2条では、 ユダヤ人とド
イツ人の血統またはそれに類する血統に属する国籍者との間の性
は禁止す
る 、第5条2項では 第2条の禁止に反する行為を犯した男性は軽懲役また
は重懲役に処する と規定されている。全条文については、Walther Hofer,
Der Nationalsozialismus Dokumente 1933-1945, 1957. S.285. 救仁郷繁訳
ナチス・ドキュメント (ぺりかん社、1975)384頁以下。
;I. Staff (Hesg),
Justiz im Dritten Reich. Eine Dokumentation, 1964, S.194ff, S.208. 青井
実証主義伝説の
戦後法哲学の現実と課題 前掲、9頁。
(60) ラートブルフも 白バラ 事件にふれて、Radbruch,Gesetzliches Unrecht
und ubergesetzliches Recht, GRGA Band 3. Rechtphilosophei
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.S.86. 著
作集4.邦訳 256頁。多くの研究文献がみられるが、最も新しい資料として、
Sophie Scholl-Die letzten Tage, Herausgegeben von Fred Breinersdorfer,
Fischer Taschenbuch Verlag der S.Fischer Verlag GmbH. Frankfurt am
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Main,2005.;瀬川祐司・渡辺徳美訳 白バラの祈り ゾフィー・ショル、最後
の日々 〔オリジナル・シナリオ〕
(未来社、2006)
、および資料編として、石
田勇次・田中美由紀訳
白バラ 尋問調書 (未来社、2007)がある。
(61) 鈴木敬夫 対圧制的抵抗…納粋政権下的拉徳布魯赫(G.Radbruch)和 白
> (圧制に対する抵抗
ナチ政権下のラートブルフと白バラ) 札幌学
院法学 第 30巻第1号(2013)がある。
(62)〝Rechtsblindheit"を、酒匂教授はラートブルフによる戦後裁判判決の 評
釈 (Anmerkung)
、いわゆる安楽死をめぐる 医療殺人事件 評釈から読み
とって、 行為者がその行為が立法者の意図によって不正あるいは反社会的と
特徴づけられる特性をもつことを認識しつつ、その行為の不正で反社会的な性
格を知らなかった 場合に、行為者の法盲目性を観ている。つまり裁判官に 違
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法性の認識 が欠如しているような場合である。Radbruch,Anmerkung der
Entscheidung des Kammergerichts uber die Euthanasie ist die vorliengede
Entscheidung die erste, die sich mit dem Anstaltsmord befaßt,: OlG
Frankurtg/Main Urteil vom 12. 8. 1947, SJZ2, 1947, GRGA Band8, S.348.
酒匂一郎 枉法と故意
ラートブルフ・テーゼと裁判官の責任 前掲、14頁。
(63) Hannah Arendt, Eichmann in Jerusalem, Ein Bericht von Banalitat
des Bosen, 1986, 14. Aufl. 2005, S.243. 大久保和郎訳 イェルサレムのアイ
ヒマン 悪の陳腐さについての報告 (みすず書房、1969)
、115頁。
(64) H.Arendt, a.a.O., S.60. 邦訳 223頁。
(65) H.Arendt, a.a.O., S.40. 邦訳 213頁。
(66) H.Arendt, a.a.O., S.56. 邦訳 221頁。
(67) H.Arendt, a.a.O., S.56. 邦訳 221頁。
(68) H.Arendt,a.a.O.,S.55. 邦訳 220頁、S.402. 邦訳 214頁。しかし、アー
レントの彼に対する評価は明白である。いわく、アイヒマンは ある人種を地
球上から永遠に抹殺することを 然たる目的とする事業にまきこまれ、その中
心的な役割を演じたから、処刑せねばならなかった と。
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