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プレビューを見る - ホビージャパン

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プレビューを見る - ホビージャパン
渾沌のエンパイア
アンソニー・レイノルズ
訳 藤沢涼 崎浜かおる 待兼音二郎 網代淳
エンパイア
帝 国 全土に恐ろしい疫病が蔓延している。アナリーズ・
イェーガーが住む村もミュータントに襲われて滅びた。生
き残ったのはアナリーズと、負傷し囚われていたエルフだ
けだ。思いがけず道連れとなったふたりは、ともに戦いな
がら黒火峠へと向かう。この経験により、アナリーズは自
分の信仰と勇気の力に気づき、周囲のひとびとにも影響を
ウィッチハンター
およぼす。魔女狩人とドワーフ戦士も登場、合流する。一
エンパイア
行は 帝 国 軍やドワーフ族とともに、地上や地下で、グリー
ケイオス
ンスキン族や渾沌の群勢との戦いをくりひろげる。手を携
え、勇気をしめし、なんとしても闇の潮流を押し返さなく
エンパイア
てはならない。さもなくば 帝 国 は完全に失われる。
2
EMPIRE IN CHAOS
ANTHONY REYNOLDS
Cover illustration by Petrol.
Map by Nuala Kinrade.
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This translation copyright © Games Workshop Ltd 2008. All Rights Reserved.
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日本語版翻訳権独占
ホビージャパン
5
ディーモン
エンパイア
いくさ
エンジニア
いまは暗黒の時代。流血と、悪魔と魔術の時代。戦と死のとき、世界は終焉をむかえようとし、
すべてが、砲火と憤怒の火焔に包まれている。そしてこれは、偉大なる英雄たちの時代。その勇
敢な行いと、傑出した勇気の時代だ。
オールド・ワールドの中心に広がる 帝 国 は、人間の領土では最大にして最強。その技工や魔
術師、商人や兵士の名声は世に聞こえる。壮大なる山脈、悠久なる大河、広大なる暗黒の森、堂々
エンパイア
ウォーハンマー
す
た る 都 市 群 を 有 す る 国 土。 そ し て、 ア ル ト ド ル フ の 玉 座 に い る の は、 皇 帝 カ ー ル・ フ ラ ン ツ。
帝 国 の創始者シグマー、魔法の 戦 鎚 の行使者シグマーにつらなる地位を受け継ぎ、この国を統
べて い る 。
しかしいまは、文明とはかけ離れた時代。ブレトニアの誇り高き騎士の館から氷に閉ざされた
まがまが
いくさ
極北のキスレヴにいたるまで、オールド・ワールド全土から禍々しい戦の物音が聞こえてくる。
ば っ こ
そびえ立つ最果て山脈には、次の襲撃のためにオークどもが集結し、南の荒れ地ボーダー・プリ
ケイオス
ンスには、盗賊や反逆者どもが跋扈している。噂が広がる。そこかしこの下水や湿地から、鼠人
ディーモン ビーストマン
間スケイブンが現れ出ると。そして渾沌の脅威絶えざる土地、北の荒れ野からは、暗黒の神々の
エンパイア
邪悪な力によって堕落した悪魔や獣人がやってくる、と。
戦いのときを間近に控えて、 帝 国 は、かつてないほどに英雄を必要としていた。
6
序章
序章
空には雷鳴がとどろき、雨をはらんだ重たげな雲が大地に低く垂れこめていた。奇形の身体で
すき
不恰好に鋤に寄りかかる人影がある。その男は、泥にまみれた肉厚の顔に呆けた表情を貼りつけ
ら
ば
て、近づいてくるウドー・グリュンヴァルトを見守っていた。
ら
ば
グリュンヴァルトは、飢えて弱った騾馬の手綱を引き、足どり重く汚泥の道をのぼっていた。
ら ば
重い荷を引いた騾馬は急な坂道に、苦しそうにあえいでいた。
哀れをさそう騾馬が引く荷車、その歪んだ車輪はガタガタと音をたててまわり、泥道に深い二
わだち
クロスボウ
本の轍を残す。グリュンヴァルトは大きな肩を油でなめした黒革のマントで覆い、重い石弓を背
負っていた。剃りあげた頭を風にさらし、容貌は殺し屋のように凶悪だ。何度も骨折して歪んだ
まま固まった鼻、突き出したいかつい顎。グリュンヴァルトが通りすぎるあいだ、神殿に仕える
奇形の下男は呆けた笑みを浮かべていた。グリュンヴァルトは、愚鈍なこの男にしばし厳しい視
線を向けてから、ふたたび神殿の門を見あげた。
神殿は戦にそなえた物々しい造りで、周囲を圧している。祀られている戦の神にふさわしく、
祈りの場所というより小さな要塞のような外観だ。控え壁を装飾する彫像は、何世紀にもわたっ
て風雨にさらされて目鼻が摩耗し、崩れていた。それらはシグマー教団の聖人となった司祭や戦
渾沌のエンパイア
7
やぐらもん
チェインメイル
プレートアーマー
ハンマー
士の像だ。みな鎖帷子や板金鎧をつけ、鎚やフレイルなどで武装している。
ら
ば
櫓門のアーチの下を通りぬける。引きあげられた落とし格子は歯のように並び、鋭く尖った恐
ろしい先端が下を向いていた。そこから先、丸石が敷きつめられた薄暗い通路は神殿の前庭につ
や は ざ ま
るいへき
ハルバード
づいている。グリュンヴァルトが騾馬と荷車をひいて、この門を抜けていくようすは、石落とし
や矢狭間からひそかに監視されていた。
何十という目が、この侵入者の歩みを追っていた。塁壁の上には、広刃の斧槍に寄りかかる武
装した男たちがいる。鍛冶屋のようなたくましい腕をした司祭、さまざまな年齢層の泥にまみれ
た下男、なかには不具の者も奇形の者もいた。鋲どめの革鎧を着た大柄な兵士に行く手をふさが
れ、グリュンヴァルトは相手を睨みつける。兵士は、荷車のなかを一瞥し、なにも言わずに道を
あけ た 。
前庭の中央、神殿の堂々たる両開きの扉の前で、グリュンヴァルトは足をとめた。皮が骨に引っ
ら ば
かかっているように見えるほど痩せた騾馬が、ぐったりと首を垂れた。グリュンヴァルトは荷車
の後ろにまわりこみ、平らな荷台に置かれた死者を見下ろす。雇い主の亡骸だ。
膝まである黒の乗馬用ブーツ、揃いの黒のズボンとシャツとヴェスト、そして紫の裏地がつい
エンパイア
た黒の肩マントという姿は、陰鬱な色を好む、 帝 国 の裕福な若い貴族の亡骸といっても通りそ
ホイールロック
うだ。だがその遺体には、ほかにつば広の黒い帽子と、幅広のベルトに収まっている凝った装飾
なりわい
の歯輪式ピストル二丁があり、そして蒼白い首に有名なブロンズの魔除けをかけているとなれば、
ほんとうの生業はあきらかだった。
8
序章
ウィッチハンター
女狩人。
魔
ウィッチハンター
エンパイア
罪なき人間すらも、罪の意識と恐怖で満たす職。
容赦も慈悲もない魔女狩人は、 帝 国 各地をめぐり、堕落や妖術や渾沌変異を見つけて根絶や
ウィッチハンター
しにする。悪魔との交わりを疑われた者は、それだけで魔女狩人の残忍な粛清を受ける。大勢の
人間が身に覚えのない罪を告白させられたあげく、速やかな死を迎えた。
ウォーハンマー
神殿の両開き扉の片方が軋んだ音をたててひらき、老齢の、胸板が厚いがっしりとした人物が
出てきた。凍える大気に吐く息が白い。身にまとっているのは濃い緋色の飾り気のないローブで、
装飾品は 戦 鎚 をかたどった胸もとのピンだけだ。かつてはまちがいなく力強い戦士であっただ
ろうが、時の流れは無慈悲にも、司祭からその力強さを奪い去っていた。皮膚には深い皺が刻ま
れ、褐色のしみが浮いている。それでも、動作は老齢に不似合いなほどしっかりしたものだった。
司祭は神殿前の大階段をおり、グリュンヴァルトの前で足を止めた。両の眼がいくらか濁って
はいるものの、まだ目の力は衰えていない。顔は険しく、まるで何十年もそのままだったのでは
ウィッチハンター
ないかと思われる渋い顔だ。司祭がグリュンヴァルトの存在を認めて、そっけなくうなずいた。
「そなたが魔女狩人の亡骸を教団に持ち帰ってくれたことは、わしから大修道院長さまに知らせ
ウィッチハンター
ておこうぞ」老司祭は陰気に言うと、無残な死体を見下ろした。死体がつけている黒の服でさえ、
魔女狩人の命を奪った多くの凄まじい傷を隠すことはできない──その肉体に残された無残な裂
ジーロット
グリュンヴァルトはその夜のことを思い出した。ほんの七日前だ。羽根をまとった狂信者の姿
き傷は人間の手によるものではなかった。
渾沌のエンパイア
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0
0
0
が目に浮かんでくる。その体内でなにかがもがき、爪をたて、模様を彫りこんだ皮膚を波立たせ
てい た 。
老いた司祭は背を向けて、神殿内部へ向かう階段をのぼりかけたが、一段のぼったところで足
を止めた。ふりかえり、しょぼしょぼした目でマントの男の顔を見つめる。
「来るがよい」司祭は言った。「そなたのかつての主人は、そなたのことを誉めておった。教団
もそなたにいろいろと聞きたいことがある」
11
第一部
12
第一部
デストラクション
エンパイア
殲 滅 軍団がわが 帝 国 に向けて進撃中だ。
いにしえ
東、最果て山脈の向こうに不浄ヶ原のグリーンスキンの大群が集い、こちらに迫ろうとしてい
エンパイア
る。 帝 国 建国前、天主シグマーの時代以来という大群勢だ。ドワーフ軍の守備力は確かなもの
ではあるが、古からつづく数々の偉大な砦ですらも、敵の勢いを食いとめることはできまい。
ケイオス
西、はるか尊大海の沖、ウルサーンの盟友ハイエルフは、憎むべきダークエルフの攻撃を受け
ており、われらの窮状に際して、援軍を望むことは難しい。
エンパイア
レイヴン・ホスト
そして北からは最大の脅威が迫りくる。永遠の魂を破滅に売りわたした渾沌の大群が、またも、
われらに向かって進軍しているのだ。
帝 国 を殲滅すること、それのみを目的に召集された大鴉軍が、われらに向かいくる。すでに
ハ イ ・ パ ス
じゅうりん
ツァーリナ
上古街道を突破し、盟友キスレヴの北の凍土が蹂躙されている。女帝から、大都プラーグまでも
包囲されたと急使があった。
北方諸州ではすでに戦端が開かれ、これを記すあいだにも、敵群は南のタラベック河へと押し
寄せているだろう。選帝侯らが軍を結集させているにもかかわらず、街や村はつぎつぎと奪われ
ていく。すでに多くの民が虐殺され、犠牲となっているが、それもまだ端緒にすぎず、いずれは
渾沌のエンパイア
13
とど
るかに規模の大きな、われらを壊滅させかねない戦闘が起こるだろう。
選帝侯らは苦戦している。オストマルクのヘルトヴィヒは敵を押し止めようと苦闘しており、
オストランドのフォン・ライコフは、すでに州軍の大半を失った。ミドンランドのトッドブリン
ガーがタラベック河の北に州軍を集結させているものの、トッドブリンガーの手腕をもってして
も、憎き敵の猛烈な勢いには敵うまい。そして選帝侯らは、この未曾有の危機に際し、大昔から
の不和や確執を持ち出していがみ合っている。シグマー、ウルリックの両教団もまた対立してい
まんえん
はやりやまい
グリフォン
る。いま団結を果たすことができず、その結果、どのようなことが導かれるかと思うと背筋が凍
る。
やまい
各地に邪悪な悪疾が蔓延し、その異様な流行病に何千という民が冒されている。わが鷲獅子騎
やまい
士団の偵察隊が、いまもこの不吉な病の原因を調べている。あらゆる情報が、魔術的要因を示唆
やまい
しており、この病は敵の策略であると思われる。われらの気を挫いてから大攻撃を仕掛けようと
いうのだ。悪疾はアルトドルフ市街にまで及んだ。この邪悪な病から逃れられる安全な場所はど
こに も な さ そ う だ 。
厄災を告げる予言者たちは、これを〈終焉〉の兆しだという。それが真実でなければいいのだ
が… … 。
K・F
14
第一部
第一章
暖炉でパチパチと音をたてる火は、地獄の炎のようで、その舌は新しい薪を舐めている。アナ
リーズ・イェーガーは破壊的な美に魅せられ、明るく燃える炎をじっと見つめていた。
赤く顔を照らす暖炉の熱は感じられるが、その熱も、薄暗い丸太小屋にしみいった氷のような
冷たさを払うことはできなかった。暖炉にどれだけたくさん薪をくべても、炎がどれほど高くあ
がっても、この執拗な冷気は去らない。死そのものの冷酷な手と同じで、打ち勝つことはできず、
とても、とても冷たい。
はり
じゅうたん
窓に厚いカーテンがかかっていて、狭い部屋は薄暗かった。かつては濃い緑色だったカーテン
もすっかり色褪せ、擦り切れたり虫に食われたりした穴から、寒々とした鉛色の光が射しこんで
わら
いた。天井の梁は、屋根の重さを支えきれないかのようにたわみ、絨毯を敷いた木の床はでこぼ
こしている。部屋にある家具といえば、床においた粗末な藁のベッドと、その横にある低い肘掛
け椅子だけ。父親が元気だったころには、その椅子に座って暖炉の前で、考え事をしていたもの
だ。
アナリーズはうつろな視線を炎から引きはがし、蒼白く生気のない父の顔に向けた。どうか、
昔の父さんのたくましい姿を覚えていられますように──汗で湿った重い毛布の下で、息をする
渾沌のエンパイア
15
のも苦しげな骸骨のように痩せこけた姿ではなく。かつて、たくましく太かった腕は、病魔にむ
しばまれて衰え、いまでは骨と皮も同然となっていた。この四日間、父は目を覚ますことも声を
上げることもなく昏睡状態におちいっている。痩せこけた胸がかすかに上下していることだけが、
いまも生きている証だ。
もう長くない、もしモール神に慈悲があるなら……。
ふところ
慈悲! アナリーズはその発想に、もうすこしで声をあげて笑いそうになった。アヴァーラン
ドの民はとっくに見捨てられたのだわ、いったいどんな慈悲を期待できるというの。
冬が、凍える懐にこの土地を抱きしめて五ヶ月になろうとしている。雪解けがはじまるどころ
か、雪などすっかり消えていてもおかしくないのに、外にはまだ厚く雪が積もっていた。畑の作
物はとうに枯れて凍えた大地のなかで駄目になっているし、このあたりで飼っていた毛足の長い
丈夫な羊も全滅してしまった。死はあたりを覆いつくし、老人と弱者が一番の犠牲者となった。
村人たちは自暴自棄となり、不足がちな毛布や薪、食物を争って流血騒ぎまで起きていた。アデ
ルモ・ヒェーヘンは落ち着いた話しぶりの粉屋だったが、ひと塊のパンをめぐる口論があった二
日後に腹を刺された。
しかし冬の厳しさなど、そのあとに起こった事態とは比べものにならなかった。
およそ三週間前、錯乱した半裸の哀れな男が村にやってきた。両腕の骨に何本も釘を打ちこみ、
は
背中の肉を剥ぎ血まみれの皮が垂れていた。額には〈双尾の彗星〉を刻み、顔の乾いた血の上に
あらたな血が流れていた。
16
第一部
男は甲高い声で世界の終わりをわめきちらし、死が近づいている、自分はその先触れだと触れ
まわった。そうやって熱く破滅を宣告しながら、鋲つきの革の殻ざおで自分の身体を打っていた
のだ 。
そして、そのとおりになった。もっとも、当人が思い描いていたのとはちがう形だっただろう。
フラジェラント
というのは、その鞭うつ者が疫病を持ちこんだからだ。男はその日のうちに倒れて意識を失い、
二度と目覚めることはなかった。
数日のうちに何十人もの村人がこの病に冒されて倒れたが、病の広がりに規則性は見られな
かった。まもなく何十世代にもわたって地代を課してきた地主たちが、ふだんは市場へ商品を運
エンパイア
ぶのに使う荷車に家財を詰めこみ、当てにならない安全を求めて遠くの街──ナルン、アヴァー
ヘイム、ウィッセンブルグなどを目指して出ていった。そのうちに 帝 国 の帝都アルトドルフの
市街にすら、疫病が広がっているという噂が聞こえてきた。そしてその噂が届いたころ、村は正
真正銘の恐慌状態におちいっていた。
かんぬき
毎日、さらなる患者が広場を見わたす商館に運びこまれた。これはずいぶん前から使われてい
ない朽ちかけた建物で、屋根はいたんで陥没もあり、壁も恐ろしく傾いている。これを当座しの
エンパイア
ぎの隔離用施設として使うことにしたのだ。扉や窓に錠をかけ、鎧戸を閉めて閂をおろし、周辺
ねずみ
からす
には警告の立て札がいくつも立てられた。そして 帝 国 の民の大半、文字が読めないひとびとも
ひと目でわかるよう、立て札にはモールの印を描いた家畜の頭骨や、死んだ鼠や鴉など、疫病や
感染症を警告する不気味な目印がぶらさげられた。
渾沌のエンパイア
17
村長はとっくに自分の職責をほうりだし、悲運にみまわれた村人を見捨て、真夜中に逃げだし
かか
ていた。パンを焼く者はない。パン屋もその妻も弟子たちも、そうそうに疫病に罹り、すでに昏
睡におちいって、どんどん不衛生になる商館で痩せ衰えていくいっぽうだった。薬屋を兼ねてい
た肉屋は、この村でもっとも治療師に近い存在だったが、すでにこの衰弱病の初期症状で倒れて
いた。もはや、病人や死にゆく者たちの世話をするために、広場にある恐ろしい建物にはいって
わら
いこうとする者はなかった。あらたに見つかった疫病患者を、誰がこの建物に運びこむか決める
ために、毎朝、村の男たちが藁でくじを引いた。男たちは鼻と口を布で覆い、病人を館内に投げ
捨てると、すぐさま扉に錠をかけなおした。
これまでに、疫病にかかって死んだ者があるかどうかわかっていなかったが、最初の症状から
およそ三日でみな昏睡状態となり、その後、回復した者はひとりもいないようだった。とにかく、
いまのところ、あの悲惨な隔離施設から逃げ出そうとする者はいなかった。
アナリーズはもう一度、父のやつれた顔を見つめた。ほんの一週間前は健康そのものだった。
あの悲惨な隔離施設に父を連れていくつもりはない。死人や死にかけたひとで埋まったあんなひ
どい場所で、父に最期をすごさせたりしたら、わたしは人でなしになってしまう。
坂下にある村から怒声が聞こえてきて、アナリーズは立ちあがった。なんの騒ぎだろうと、重
よご
く埃っぽいカーテンを引いて汚れた窓を開けた。眩しい雪景色に思わず手をかざす。雪のぬかる
ハルバード
みをのろのろと進んでいく男たちの一団が見えた。何人かは、アヴァーランド州兵の黄色と黒の
軍服を着ており、ほかには斧槍や熊手、棍棒などを振りまわしている姿もある。彼らの怒鳴り声
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アナリーズは気遣わしげに父親を見て、ためらい、唇を噛んだ。最近、よそものが村にもちこ
んだものといえば厄災と悲嘆だけだったから、このあらたな事件がなにをもたらすのか心配だっ
を聞いて外に出てきた村人たちも、自分たちの惨めな現実を忘れようと見物に加わっていた。
ヴァイスのことは子どものころから知っており、アナリーズが働いている宿屋の主人でもあっ
「なにがあったの?」
た恰幅のいい二重顎のヨハン・ヴァイスに尋ねた。
村人が広場に集まってきていた。みな、あまり商館には近づかず、多くの村人がぼろや布切れ
で口と鼻を覆っている。アナリーズは寒さをこらえて自分の身体を抱くようにして立ち、横にい
一瞬、長くつややかな黒髪がちらりと見えたが、すぐにまた人垣に埋もれてしまった。村人の
たいまつ
なかには火のついた松明を手にしている者もおり、血を求める怒声が聞こえた。
せた 。
士は、その男を棍棒で殴り倒し、さらに三、四人で残忍に蹴りつけてから引っぱって立ちあがら
長いスカートの引きずった裾を濡らしながら、さくさくした雪を踏んで坂をくだっていくと、
さるぐつわ
兵たちが、猿轡を噛ませて縛りあげた誰かを押しやり、突き飛ばして進んでいるのが見えた。兵
どっ て く る か ら ね 。
羊の毛皮の外套をしっかりと着こみ、小屋の扉を開けて冬の外気に踏み出した。父さん、すぐも
いた。父はここ二日の病状より悪くなることはなさそうだ。よし、行ってみよう。アナリーズは
た。それでも、今度はなにがやってきたのか見届けたいという趣味の悪い好奇心をそそられても
第一部
渾沌のエンパイア
19
た。
「きのう、三家族が一台の荷馬車にありったけの家財を積みこんで村を出ていったろう」声には
なんの感情もこもっていなかったが、疲れ、悲しそうな目をしていた。アナリーズは恐る恐るう
なずいた。その娘たちならよく知っていた。
「旅の途中で殺されてしまったよ。年端もいかない子どもまで皆殺しさ。あの野郎は」ヴァイス
が強くうなずいた。「一味のひとりだ」
アナリーズは深い悲しみと恐怖でいっぱいになった。宿屋の主人が父親のようにアナリーズの
肩を 抱 く 。
村人たちが捕らえた人殺しを広場の中央に引きずりだした。そこには、何十年前か何百年前か
がた
わからないほど昔から、頑丈な絞首台が立っている。高い横木から吊るされている檻はひと形で、
格子の金属は黒ずんでいた。アナリーズはこの薄気味悪い代物が子どものころから大嫌いだった。
幼い頃、ほかの子どもたちが罪人めがけて石をぶつけていたときも、アナリーズはひとりで離れ
てい た も の だ っ た 。
こうのとり
黒い鉄の残酷な檻のなかで一体の骸骨がうなだれていた。盗っ人のなれの果てで、この一年、
見せしめとして放置されていたのだ。ぞっとする屍を吊っている重い鎖が緩められ、檻が落ちて
凄まじい音がすると、村人から喝采があがった。
葦のように細いレオナルド・ホルストが現れた。竹馬をつけて、餌を探す 鸛 のようにぎこち
ない足どりで干し草を固めた束にのぼると、静かにするよう片手をあげた。ホルストは村の取り
20
た。
締まり役人で、容赦ない男として知られている。通行税を免れようとした行商人を殴り殺したこ
ホルストの声がひときわ高くなり、怒りと敵意によって舌鋒がさらに鋭さを増した。
ばな ら ん 」
トが言う。「気の毒なヘルマーン家族をむごたらしく殺した報いだ、こやつを長々と苦しませね
「いやいや、もっと厳しい罰を与えよう」崩れかけた干し草の上で、棒切れのような姿のホルス
「火あぶりにしろ!」別の誰かが怒鳴り、その意見が喝采で迎えられた。
「そいつを吊るせ!」誰かが叫び、ひとびとが同意の声をあげた。
の顔をもっとよく見ようとした。
「エルフですって?」アナリーズは小さく呟いた。宿の主人から離れてすこし坂を下り、殺人犯
集まった村人の何人かが息をのんだ。みな、エルフなどは童話にでてくるだけの存在だと思う
ようになっていたのだ。
「人殺しをひとり捕らえた。憎き、邪悪な人殺しはエルフだ」
ふたりの男もその手にいっそう力をこめる。
に集まった村人たちが、憤怒の形相となり武器をかたく握りしめた。人殺しを押さえつけていた
うとちゅうで、むごたらしく殺された」ホルストは憎悪に満ちた声で苦々しく言った。武器を手
「蹄鉄工ヘルマーンの家族と、ヘルマーンの姉一家と、さらに妹一家が、アヴァーヘイムに向か
ともあるらしい。それでも、村や村人のために献身していることを疑う者はなく、尊敬されてい
第一部
渾沌のエンパイア
21
さるぐつわ
からす
「まず、猿轡だ。薄汚い妖術の呪文を唱えたり、憎むべき神々に助けを求めたりされては困る。
それから絞首台に引き上げて石をぶつけ、両目をえぐり出して鴉どもに食わせるのだ! 檻に一
のち
週間閉じこめた後には四つ裂きにし、はらわたを村の四隅に運ぶ。そうすれば、憎きこのエルフ
の仲間ども全部がわれらを恐れるだろう。アヴァーランドの真の復讐を思い知らせるのだ!」
集まった村人からの賛同の声は地鳴りのように大きく、アナリーズは驚きと恐怖を感じた。善
良で思いやり深い隣人たちが流血と拷問を求め、その歪んだ顔は憎しみの仮面のようだ。みんな、
恐怖と絶望に感情があおられている。救いのないおぞましい現状を誰かのせいにしないではいら
れないのだと、アナリーズは思った。
黒髪のエルフが引き起こされた拍子にはじめて、横柄そうな白い横顔が見えた。肌は凍った雪
のように白く、輪郭は尖っていて長細い。目はアーモンド型で大きく、瞳は黒。殴られた痕があ
から
ざになって出血しているにもかかわらず、表情は超然として冷ややかだった。集まったひとびと
を前にして昂然と顔を上げている。
檻が開けられると鉄がキーと鳴った。骸骨が蹴りだされ、空になったその鉄の檻へとエルフが
引っ立てられる。エルフが抵抗して暴れた。州兵の手をふりはらい、その鼻に肘打ちを食らわせ
る。それから人間にはない素早さで、もうひとりの州兵の顔面を蹴りつけ、手首を巻きつけて身
体を一回転させると、エルフをつかんでいた男の肘が裏返って空を向いた。そこをエルフが上か
その後頭部に大きな木槌がふりおろされ、エルフはくたりとたおれた。最初にやられた州兵が
ら激しく叩きつけ、ねじりあげられていた州兵の肘が砕けた。
「こいつは、長々と苦しませねばならない」
鼻血を滴らせ、悪態をつきながら立ちあがると、その目に殺意を浮かべ、手に短剣を握って倒れ
ダ ガ ー
22
あのエルフがほんとうにヘルマーン一家を殺したのなら、死んで償うのが当然だわ、でも、死
の苦しみを長引かせたりしなくてもいいのに。そんなのは残酷で野蛮なことだもの。
居間につづく狭い台所に行き、汲み置きの水に両手をつっこんで顔を洗う。氷のように冷たい
水に思わず身震いした。長い金髪を後ろに払いのけ、深呼吸をして心を落ち着かせた。
悪意に満ちた憎々しげな声だ。
息を切らして丸太小屋の我が家にもどり、身体を震わせて泣きじゃくりながら思い切り扉を閉
めた。村人たちの怒声はすこし遠くなったものの、まだ聞こえている。恐怖と絶望にあおられて
た。涙が浮かんでくる。逆上したひとびとを押しのけ、家に向かって雪道を駈けのぼった。
これ以上見たくない、父さんのそばにもどろう。アナリーズは周囲の人垣を押しわけようとし
て、ひとびとの顔に浮かんでいる憎悪や恐怖や殺意に気づき、狼狽すると同時に気分が悪くなっ
られ、石や腐った食べ物が投げつけられた。
じこめた。ひとの頭ほどもある大きな錠だ。血を流し、意識もなさそうなエルフが宙に吊り上げ
頭が血まみれになったエルフは、ほとんど意識がないようすで、ひと形をした檻まで引きずら
れた。兵がエルフを狭い檻のなかに押しこんでガシャンと閉じ、錆びた古い南京錠でエルフを封
がた
州兵は口汚く罵りながら短剣を鞘におさめ、エルフに唾を吐きかけた。
たエルフの方へ踏みだす。ホルストがその州兵の胸に手をおいて制した。
第一部
渾沌のエンパイア
23
もう一度深呼吸をした。そのとき、最初の悲鳴が聞こえた。
戸口まで駆けもどって外を見たアナリーズは、さっきとはまるでちがう光景を目にした。村人
たちがてんでんばらばらに逃げていて、雪には血が飛び散っていた。あちこちから悲鳴や叫び声
が聞こえる。とっさに、エルフがどうにかして檻から逃げだしたか、あるいは仲間が助けにきた
のかと思った。でも、そうじゃない。エルフを閉じこめた檻はいまも宙に吊られたままで、流血
の騒ぎはその下で起きていた。
アヴァーランド州の軍服、黄色と黒を着た兵士が、茶色の服を着た村人と取っ組み合い、雪の
うえを転がっていた。さらにふたりの村人が別の兵を地面に引きずり倒し、首をしめようとして
いた。ほかにも大勢が、逃げようとするひとびとに押し倒されていた。
いったいどうなっているの? どうしてこんなわけのわからないことに?
どすんと重いものが床に落ちる音がして、アナリーズは飛びあがった。父さんの部屋だ。それ
から、木をこするキーという音となにかがぶつかったような音がつづいた。父さんのベッド脇の
肘掛け椅子が、押されて倒れたように聞こえた。村で起きているきちがいじみた残虐行為から目
かすみ
わら
を離し、用心しながら、父の部屋が見える居間の真ん中へと向かう。足もとで床が軋んで音をた
てた 。
霞のようなものが低く渦巻いていた。
藁のベッドの横で誰かが四つんばいになっ
薄 暗 い 室 内 に 、
ているのに気づいて、心臓の鼓動が一拍飛んだ。父さんがもちなおした、ベッドから出てきたの
ね!
24
が立ちのぼっている。
「父さん!」呼びかけながら駆けよった。部屋に飛びこむなり、気温がぐっと下がったのを感じ
目を閉じて、押しよせてくる疲労と絶望に身をまかせた。前にいつ眠ったのか思い出せなかっ
首にふれる。脈も打っていなかった。
まもなく発作がおさまり、父は完全に動かなくなった。アナリーズは動揺して荒い息をつきな
がら、父の頭をそっと床の上におろした。呼吸の音は聞こえない。脈をさぐって痩せて筋張った
かりと抱え、激しい発作で頭を床にぶつけたりしないように胸もとに抱きしめた。
があふれ出した。アナリーズはどうしていいのかわからず泣き叫びながら、父の頭を両腕でしっ
身を激しく震わせはじめた。身体がのけぞり、笑んだ形の唇の端から、気味の悪い黄色いあぶく
父の力ない紫色の唇がまくれあがって、陰惨な笑みの形になった。アナリーズの肌が粟立ち、
一瞬、嫌悪と戦慄が身内を走り抜けた。父がぴくりとしたかと思うと、衰えた筋肉が引きつり全
父が顔をこちらに向けた。紫色の唇が見えた。目は閉じている。蒼白い顔に生気はなく、皮膚
の下で青い静脈が交叉していた。
たの だ 。
「父さん」アナリーズの目に涙が盛り上がってきた。数日前から、父は死ぬものとあきらめてい
両膝をついて父の骨張った肩に腕をまわした。ごわごわした寝間着を着た父の身体が、氷のよ
うな冷気を放射している。父は首を垂れ、顔には艶のない黒髪が落ちかかっていた。
た。さっき、ここを出たときに燃えていた火は完全に消えて、黒い薪からリボンのように細い煙
第一部
渾沌のエンパイア
25
ぎわ
た。父の死に際の痙攣に衝撃を受け、アナリーズは全身を震わせて泣き出した。
ふと目を開けると、冷え冷えとしたふたつの目がこちらを見ている。
父の顔の落ちくぼんだ眼窩で、青い炎が明滅していた。アナリーズは、正気の縁が崩れはじめ
るの を 感 じ た 。
よじ
無意識のうちに金切り声を張りあげ、床にへたったまま必死で後ずさる。かつて父親だったも
のは腹ばいになって顔をあげると、床に爪を立て、アナリーズに向かって這ってきた。動作はぎ
くしゃくと不自然で、糸が捩れた操り人形を誰かが動かしているみたいだ。
顔には、あの歯を剥きだした不気味な笑顔、あるいは躁病的な死のしかめ面を貼りつけたまま、
両目には青い炎が冷たく燃えさかっていた。
26
第一部
第二章
ぶしょうひげ
ウドー・グリュンヴァルトはつば広の黒い帽子をぬぐと、手袋をはめた手で剃りあげた頭をつ
るりとなでた。髪が生えていたら、白髪が混じっているだろう。口ひげに白いものがあるし、い
かつい顎を覆う無精髭も同じだった。わたしも歳をとったものだと、グリュンヴァルトは独りご
ちた。足が痛い。くそっ、あの馬盗っ人めらが。盗まれたときのことを思い出して悪態をついた。
ボ ル ト
あれは、グリュンヴァルトが木に向かって用を足したあと、背の高い黒い雄馬のところにもど
ろうとしたときだった。賊は三人。脱走兵と思われるいかにも粗暴な男たちで、蹴りつけ跳ねあ
がる馬を逃がすまいと必死に押さえつけていた。
三人はたくましい雄馬しか眼中になかったので、最初のひとりが首の後ろを太矢に射抜かれて
あっさりと死ぬまで、グリュンヴァルトの存在に気づかなかった。
クロスボウ
盗っ人になりそこねた男は即死し、だらりと垂れた手から手綱が落ちた。残りのうちひとりは
猛々しい雄馬の蹄に蹴られ、地面に叩きつけられた。グリュンヴァルトは、黒マントを後ろには
ためかせて忍びより、かさばる石弓を地面においた。代わりに片手で重いフランジメイスを握り、
もう一方の手で凝った金細工のピストルを抜く──かつての主人が使っていた武器のひとつだ。
馬に襲われた男は立ちあがろうともがいていた。その男にピストルを向けて音高く発射した。鉛
渾沌のエンパイア
27
いたち
弾は男の頭を直撃し、男は血飛沫をあげて後ろに倒れた。
三人目は、鼬のような顔の小柄な男で、両手にしっかりと手綱をつかみ、跳ねまわる馬の鞍に
ひょいと飛び乗った。
「わたしの馬だ、すぐに降りるのが身のためだぞ」グリュンヴァルトは警告したが、盗っ人は返
事代わりに唾を吐き、馬に蹴りをいれて全速力で駆けだした。
ひとのいないスターランドの地で盗っ人を追跡するのは簡単だ。
かか
あの三人は、疲弊している地元民を食い物にする大きな強盗団の一味だった。疫病のせいで、
このあたりは荒廃している。スターランドの選帝侯アルベリッヒ・ハウプト=アンデルセン伯の
エンパイア
軍隊が、おぞましい悪疾に罹った人間を殺して死体を焼却するという、一帯の掃討作戦を実施し
てい た 。
いま、これからグリュンヴァルトが狩ろうとしている盗っ人どもは、いわば寄生虫だ。 帝 国
を取り巻く悲惨な状況につけいる、腐肉食らいの卑しいやつらで、無人となった村落で略奪を働
き、逃げゆくひとびとから全財産を奪い取っている。調べたところ、やつらはもともと、北から
エン パ イ ア
迫 り く る 脅 威 と 戦 う た め に 州 軍 に 徴 用 さ れ た 者 た ち だ っ た ら し い。 し か し、 持 ち 場 に つ い て
エンパイア
帝 国 のために戦うことなく、その任を放棄し、逃げ出して無法者となったのだ。
グリュンヴァルトの表情は暗然としていた。何万という忠実な兵士が 帝 国 を守るために北で
む こ
戦い、死んでいるというのに、一方で任務を放棄し無辜の民を餌食にする者たちがいるのかと思
うとむかむかした。かならず、やつらには報いを受けさせてやる。
28
第一部
だが、それにもまして憎むべきは、やつらが昨日犯した大罪だ。シグマーを祀る田舎の神殿を
見つけたやつらは、献金用の壷を盗み、慌てて逃げだす際に神聖なるシグマー像を倒すという不
敬を働いた。その行為でやつらの運命が決まったのだ。殴られ、あざだらけになった司祭は恥じ
入りながら、無法者どもがどんな狼藉をはたらいたか話した。それを思い返して、グリュンヴァ
ルトの凶暴そうな顔に怒りが浮かぶ。
さくがら
グリュンヴァルトは、このスターランドという土地が嫌いだった。豊かだったためしがなく、
ズィルヴァニアという呪われた領土の影に怯え、腐敗や卑劣さの温床のような場所だと思われた。
作柄の悪い畑、気を滅入らせる暗い森、険しい山々といった荒涼とした景色も、スターランド人
の暮らしに浸透した絶望感をさらに強めているだけに思える。
急に暗くなった。頭上のぶあつい雲のお陰で、月や星などの明かりもなく、姿を見られる恐れ
ねじ
はない。周囲の捻れた木々が、悪意のこもる邪悪な気配を漂わせ、闇のなかに気味悪く浮かび上
がる。グリュンヴァルトはふたたび動き始めた。退屈したようすの見張り役に向かって、雪の上
をゆっくりと這って進んだ。
見張り役の背後で立ちあがり、手袋をした手の一方で男の口を覆うと、もう一方の手に握った
ナイフで咽喉を横に裂く。音を立てずに男を雪の上に横たえ、痙攣する身体をしっかりと押さえ
つけた。生温かい血が純白の雪にしみこんでいった。
命運尽きた盗賊どもを何週間も追跡してきたあとで、その虫けらの目から光が失せるのを見て、
満足のなかに喜びを感じる。
渾沌のエンパイア
29
ウィッチハンター
倒木の下に死体を隠し、グリュンヴァルトは密生した木々の太い幹のあいだにすべりこむ。そ
こから脱走兵の野営地のようすを見て悪態をついた。少なくとも、焚き火を囲んでくつろいでい
る者だけで六、七人だ。しかし魔女狩人が悪態をついたのはそのせいではなかった。
焚き火の周囲に馬の姿はない──が、杭にさして火で炙られているものは、どう見ても馬の形
をし て い る の だ 。
アヴァーランド最強の軍馬の血統、しかも調教済みで選帝侯の身代金になるほどの価値がある
馬だというのに、それをこの無知なあほうどもは炙り焼きにしてしまったのだ。
びっくりしたような甲高い声が聞こえて、グリュンヴァルトは雪の上に身を伏せた。暴力沙汰
の覚悟を決める。もうあの見張りの死体を見つけたのか? それはありそうもなかった。動き出
す前に一時間近く野営地を観察して、このあと数時間は、誰も見張りを確認しにいくことはない
とわかっている。押し殺した話し声を聞きとろうと耳をすました。
「……あの道を行ったところで」と聞こえた。
「……おれたちを追ってきたのか?」最初より太い声がした。
グリュンヴァルトは腹ばいのまま、肘を使って慎重に前進した。貧相な男──馬を乗り逃げし
たやつが話しかけている相手はかなり大柄だ。かつては均整がとれたいい身体をしていたのだろ
うが、どうやら筋肉が脂肪に変わってだいぶ経っているようだ。
「そういうわけじゃなさそうだぜ、軍曹どの」小柄な男が言った。
「その呼び方はやめろって言っただろうが!」
はみんな知ってるからな。スターランドじゃおれたち人間が飢えてるってのによ」
「すまねえ。見たところ一人旅だ、えらく重装備のドワーフよ。重そうな荷も持っている。ぶん
イ
ル
レ
ザ
ー
のとなりにある片刃の斧にはルーンが刻まれ、いっそう複雑な模様のブロンズ細工で装飾されて
トールリックが腰をおろしている丸太には、円形の金属の盾が立てかけてある。盾の中央部に
つる
は、鬚のある顔が浮き彫りになっており、縁は複雑な蔓草模様がブロンズで細工されていた。そ
油でなめした革の包みが大事に置かれていた。
オ
の無骨な鍋がうまく載せてある。かたわら、雪のうえには重そうな荷物があって、その一番上に
背が低く、がっちりした身体つきのトールリック・ロクリソンは、調子はずれの鼻歌を歌いな
がら小さな焚き火の前に座っていた。火のなかに小さく石が積みあげられ、そのてっぺんに黒鉄
ずさり、その場を離れた。
グリュンヴァルトはふたたび悪態をついた。予定では、夜陰に乗じて見張りをひとりずつ片づ
け、それから寝静まったやつらを襲うはずだった。溜め息をつき、木々のあいだを腹ばいであと
を蹴 り 起 こ す 。
なことはできねえな。よし、野郎ども、やっちまおうぜ」そう言って、うとうとしていた男たち
大柄な盗っ人が鼻を鳴らした。
「お宝が近くまで出向いてくれてるとはな。そんなありがてえ機会をみすみす逃すなんて、失礼
どる価値があるものにちげえねえ。金かもしれねえぞ。あいつらが金を貯めこんで喜んでいるの
きん
30
きん
第一部
渾沌のエンパイア
31
いた 。
トールリックは音高くげっぷをし、湯気を上げて煮えている鉄鍋のスープを覗きこんだ。具だ
くさんの濃厚なスープの匂いを嗅いでから、もとどおりに座りなおして鼻歌を再開した。
ひげ
兜ははずしてあるが、それ以外は頭から爪先まで重い鎧に覆われていた。外気にさらされてい
チェインメイル
る皮膚といえば、額、だんご鼻、血色のいい頬だけで、顔の残りの部分は鎖帷子のフードに縁取
ブレスト・プレート
ブレスト・プレート
られ、みごとに編まれたあごひげに隠れていた。鬚はブロンズの針金を編みこんで、美しい装飾
の胸当てを覆って垂れていた。その胸当ては、顔を彫りこんだたくさんのメダルで飾られていた。
厚いガントレットの手で、短くて太い金属スプーンを握り、具がたっぷりはいったスープをか
きま ぜ る 。
「うまそうな匂いじゃねえか、友よ」背後から聞こえてきた声は、けっして友好的なものではな
かった。トールリックは表情をくもらせた。近づいてくる物音に気づかなかった。
もじゃもじゃ
トールリックは斧を手にして立ち上がり、夕食の邪魔をした人間に向きなおった。
の眉毛の下にある石のように険しい目をぎらつかせて、左右に鋭い視線を走らせる。男が六人、
扇のように広がって立っている。弓を手にしているのはふたり、ほかの者は剣と斧で武装してい
ぼ
ろ
るが、誰も武器を構えてはいない。トールリックはあらためて集団の中央にいる巨漢に目をむけ
グリーンスキン
た。声をかけてきたのはこの男、雲をつくような大男だ。襤褸になった黄色と緑の服を着て、肩
に厚い毛皮をはおっている。その横に立っているのは痩せて顔色の悪い男だ。憎き緑の肌ではな
いものの、山地の地下深くに棲息する胸くその悪いグロビにそっくりだ。
32
じゃ な い か 」
「ひとりですごすには、寒くてわびしい夜じゃねえか、友よ」巨漢の声には脅しの響きがあふれ
その強欲な目がちらりと、トールリックの荷物と、その上の革包みを見た。
賊の頭の顔から笑みが消えた。
「多勢を相手にいい度胸をしてるじゃねえか、ドワーフ」
かしら
たわごとより、豚の糞の方がましだわ」
くそ
ワーフはぶっきらぼうに言った。「脱走兵といったところだろうな。腰抜けめらが。おまえらの
トールリックは不機嫌な顔で、斧を握る手に力をこめた。
せっこう
「この二十マイル四方にスターランド州軍の巡回はない。おまえらは斥候でも民兵でもない」ド
いいじゃねえか。あやしいものじゃねえ」
いた。「こっちは、ただ、おまえさんの焚き火で温まりたいと思ってる 帝 国 軍の忠実な兵なんだ。
エンパイア
まちがっちゃいねえな」男は肉のだぶついた顔に残忍な笑みを浮かべると、巨大な腹を軽くたた
「おいおい、つっかかることはねえだろう、友よ。だが、まあたしかに、おまえさんの見立ては
頭と思われる巨漢がそれを聞いて大笑いし、グロビ面がそれにへつらって小さく笑った。残り
の者はなんの反応も示さず、険しい目をしている。
かしら
低い 声 で 答 え る 。
「おまえはもう、じゅうぶんすぎるほど食い物を腹に入れてきたようだがな、人間」ドワーフが
マンリング
ていた。「仲間がほしいだろう。あんたが作ったうまそうなスープをちょっくら味見してやろう
第一部
渾沌のエンパイア
33
「荷物をよこせ、そしたら退散するぜ。わざわざ怪我をすることもねえだろうが、友よ」
「もう一度、友と呼んでみろ、脂肪と骨を切りわけてやる、この豚野郎め。仲間はそれだけか。
腰抜けの糞野郎が、カラザ=カラクの氏族戦士を襲う勇気を奮い起こすには、もっと大人数が必
づら
要か と 思 っ た が 」
や
グロビ面の脱走兵が周囲を見まわした。「アントンがいねえぜ、軍曹。ヴァルダーもだ」
し た て
「黙りやがれ」巨漢がわめいた。「ドワーフ、下手に出てやりゃいい気になりやがって、おまえら、
殺っちまえ」
ボ ル ト
はな
くう
ふたりが弓を引き絞る。トールリックはドワーフの言葉であるカザリッド語で唸り声をあげ、
斧をふりあげて突進した。そのとき、山道の奧の暗がりでなにかが動き、弓を持ったひとりが倒
けんがい
れた。首に黒い太矢が突き立っている。もうひとりが放った矢は、空を切ってドワーフに向かっ
てき た 。
かしら
かしら
トールリックは飛んでくる矢に肩を向けた。矢はグロムリル製の重厚な肩鎧にはじかれ、貫通
どころか、厚い金属板をへこませることすらできなかった。それからトールリックは驚きの速さ
ショートソード
で賊の巨漢の頭に接近する。頭は悪態をついて後ずさって、間合いをとり、両手持ちの堂々たる
大剣を背から引き抜いた。
賊 の ひ と り が 左 か ら 飛 び 出 し て き て、 ト ー ル リ ッ ク の 剥 き 出 し の 顔 に 小 剣 で 突 き か か っ た。
トールリックは力強く腕を振り、その一撃を頑丈な腕甲の前腕で払いのけると、相手の首筋に斧
を叩きこんだ。命を奪う傷から血飛沫があがった。
34
第一部
ブレスト・プレート
暗がりから醜くいかつい人間が姿を現し、ピストルをぶっ放した。賊のひとりが脚を砕かれ、
悲鳴をあげて地面に倒れた。ピストルの男は黒のマントをつけ、つば広の帽子をかぶり、胸に厚
ぼったい黒の胸当てをつけている。身体じゅうで金具つき革ベルトが交差し、ベルトには見事な
ナイフや恐ろしげな道具が収まっていた。
かしら
戦いに加わったこの見知らぬ男は、あらたな脅威にふりかえった賊の頭をメイスで打ちのめし
て粉 砕 し た 。
0
トールリックは頭にじりじりと近づいた。横から斧をもった男が踏みこんできたのに気づいた
が、視線は仲間に軍曹と呼ばれた巨漢に据えたままだ。
「どうした、友よ」トールリックはしゃがれた声で低く唸った。「思いどおりにはならなかった
よう だ な 」
矢が一本、黒ずくめの男の肩先、剃りあげた頭の近くをかすめて飛んだのが見えた。矢を放っ
た賊がブーツから長ナイフを抜いて、黒ずくめの男に突きかかったが、ナイフを持った手首をつ
かまれて切っ先をそらされ、その肩に重いメイスを振りおろされた。不気味な音とともに肩が砕
け、賊は苦悶の悲鳴をあげて膝をつく。男がもう一度メイスを振りおろして頭を砕くと、悲鳴は
とま っ た 。
かし ら
かしら
右側に、斧をもった賊が突進してきた。トールリックはその男に向きなおると、賊の斧を自分
の斧で受け、そのまま刃をねじって払う。斧男が体勢を崩してよろめいたのと、踏みこんできた
頭がそこに必殺の一撃を繰り出したのが同時だった。頭はぎりぎりのところ、仲間を両断する寸
渾沌のエンパイア
35
前で 剣 を 止 め た 。
かしら
トールリックが踏みだして斧男の膝を叩き割り、その男はどさりと倒れた。
頭が背後の気配を感じてふりかえる。その頭にピストルが突きつけられていた。ランタンの光
かしら
に目がくらんだ鹿のように、頭が目を見張って身を強ばらせた一瞬ののち、引き金が引かれて、
頭が吹き飛び、血と骨がまき散らされた。
もう立っている賊はいなかったが、幾人かは、雪のなかに倒れて苦しみうめいていた。
「助太刀なぞ不要だった」トールリックは、剃髪の男を斜めに見あげて言った。
「こっちも助太刀に来たわけじゃない」男がそう言って、まだ煙がたちのぼるピストルをホルス
ターにおさめた。「数日前から、こいつらを追っていたのだ」
「なにか盗まれたのだな」
男 が う な ず い た 。
「馬 を 、 や ら れ た 」
ドワーフはうなずいて唸った。
「取 り も ど し た か 」
うま
「いや」男はそう答えると、負傷しうめいている賊に近づき、その咽喉をナイフで無造作に切り
裂いた。それから次の賊に向かう。「こいつらが食っちまった」
「ほう」トールリックは、斧の頭についた血を死者のチュニックでぬぐった。「旨いからな」
男がぎろりとこちらに目を向けたが、トールリックは気にとめず、どっかと腰をおろして湯気
36
煮えすぎた夕食からちらりと目を上げて眉をひそめ、生き残った最後の賊に気づいた男を観察
した。黒服の男は、血の痕を残して這って逃げようとしている賊の背中に膝をつき、頭をのけぞ
をあげるシチューを混ぜた。
てい た 。
「かまわないか?」ドワーフが座っている丸太の向かい側の岩を示す。
グリュンヴァルトは手の骨が砕けるのではないかと思った。
パイプをふかしてから、ぶあついガントレットをつけた手を差しだした。ドワーフの握力は強く、
「わたしはウドー・グリュンヴァルトだ」黒手袋の手をドワーフに差しだす。相手はおもむろに
ドワーフがまた唸った。
マンリング
「おぬしもなかなかだ」ようやくドワーフが口をきいた。「人間にしてはな」
ドワーフには会話を切り出すつもりがないらしいので、グリュンヴァルトから話しかけた。
「戦いなれているな」
唸り声が聞こえたので、それを承諾と受けとって腰をおろした。そして重い石弓の雪を払って、
拭い は じ め た 。
クロスボウ
グリュンヴァルトは死んでいく盗っ人をその場に残して雪道をもどり、この戦いに加わる前に
クロスボウ
くゆ
置いた重い石弓を拾いあげた。もどってみると、ドワーフは細工の凝った竜頭のパイプを燻らせ
らせた。怯えたグロビ面は哀れっぽい声をあげたが、男は躊躇なくその咽喉を裂いた。
づら
第一部
渾沌のエンパイア
37
エンパイア
アイアンブレイカー
ウ ン グ ド リ ン
「トールリック・ロクリソン。カラザ=カラクの坑道掘り、バラド族の 鉄 砕 き で、地下道網の
守護 者 だ 」
どうやらドワーフは 帝 国 の共通語レイクシュピールに不自由しないようだが、かなり訛りが
きつ い 。
ハ イ・キ ン グ
「カラザ=カラク……」耳慣れないドワーフの単語をなんとか口にしてみたが、発音が正確では
なかったらしく、ドワーフが顔をしかめた。
エバーピーク
「ドワーフが守る砦のうちでも最大の要塞都市、至高帝の御座所である都だ。人間たちの呼び方
で言うなら常ヶ峰だな」
「ああ」その名前は聞いたことがあった。「ずっと南東、最果て山脈や黒色山脈を越えたところ
マンリング
では な い の か ? 」
「それは人間どもが使う名前だが、まあ、そうだな」ドワーフはぶっきらぼうに言った。
「故郷からずいぶん離れたものだな、トールリック」
みやこ
「指摘されるまでもない」返事は鋭かった。ドワーフは怒りに目をぎらぎらさせながらパイプを
ゆっくりとふかした。それから重い溜め息をつく。「もう八年、あの都を見ておらん」
グリュンヴァルトの眉があがった。「八年は長いな」
マンリング
「おぬしら人間にはそうかもしれん。だが、ふむ、たしかに長い」
ハ イ・キ ン グ
めい
「八年も戻らずにいるとは、理由でもあるのか」
「九年前、至高帝の命により、カラザ=カラクで多数の戦士が招集された。バラド族の戦士も求
「 帝 国 の国境を守るために、 帝 国 内で戦っていたのか」このドワーフと、その種族に対する評
めに応じ、おれもそこにいたというわけだ。以来七年間は 帝 国 北部で戦っておった。北の地に
エンパイア
38
エンパイア
ハ イ・キ ン グ
グリュンヴァルトには、いまのが冗談だったかどうかわからなかった。
食事を終えると予備のパイプをすすめられた。グリュンヴァルトはドワーフの作法に反するこ
あればよかったがな」
「この山羊は肉がすくない」ドワーフは鼻を鳴らすと、シチューを食べながらぼやいた。
「馬で
シチューだが、いい味だ。ドワーフは煮えすぎだと文句を言った。
て食べはじめた。グリュンヴァルトはナイフの先に肉を幾切れか刺す。ごった煮のような素朴な
グリュ
ドワーフは大ぶりの金属の椀をとりだすと、たっぷりとシチューをよそって差し出した。
ンヴァルトはうなずき、ありがたく受けとった。ドワーフは自分の分をすくいだすと、音を立て
「誓いは誓いだ」ドワーフは唸った。「もう、お喋りはいい」
「そいつは……何千年も前の話じゃないか」
その名はグリュンヴァルトも知っている。聖戦士シグマーとともにグリーンスキンと戦ったと
いわれるドワーフの王の名前だ。
「ク ル ガ ン 王 … … 」
「そういうことだな、ふむ。至高帝は、クルガン王の誓いをまじめに考えておるのだ」
価が一気に上がった。
エンパイア
は敵の群れが大集結しつつあるからな、防衛の補強よ」
第一部
渾沌のエンパイア
39
ことわ
クロスボウ
とにならなければいいがと心配しつつも、そのパイプを丁重に断った。トールリックはただ肩を
すくめて唸り、ふたたび自分のパイプを手にとった。
グリュンヴァルトは首を左右に曲げてポキポキと鳴らしながら立ちあがり、重い石弓を肩にか
つい だ 。
はす
「では、元気でな。トールリック・ロクリソン。うまいシチューをご馳走になった」
ドワーフは立ちあがらず、顔を斜にしてグリュンヴァルトを見あげた。それから別れの挨拶と
おぼしき唸り声をあげ、竜頭のパイプをゆっくりとふかした。
マンリング
トールリックは、グリュンヴァルトの姿が闇に消えるまで見守っていた。
人間にしては骨のある男だった。少なくともほかの人間たちほどお喋りではない。人間はたい
てい、短い人生を多すぎるほどの言葉で埋める必要があるとでもいわんばかりに、のべつくだら
ないことを喋っているものだ。
オ
イ
ル
レ
ザ
ー
トールリックは、もうずいぶん前に、人間のやり方を理解しようとすることはあきらめていた
エンパイア
し、 帝 国 の北部で八年間すごして、人間を理解することは無理だという思いを強めていた。
しかし、誓いは誓いだ。
大切な品を損なわないように包んだ油でなめした革にうっすらと積もった雪を払う。
そうとも。誓いは誓いだ。
40
第一部
第三章
座りこんだまま、必死に後ずさった背中に戸枠がぶつかった。アナリーズはその戸枠を支えに
して立ちあがろうとしたが、じりじりと迫る恐ろしい姿から逃れようと焦るあまり、居間に仰向
けに倒れこんでしまった。
父親は痩せて骨ばかりとなった手をついて這いよろうとしている。下半身に絡まったままの毛
布をずるずると引きずっていた。顔にはあの薄気味の悪い笑みが貼りついたままで、冷たい炎が
燃えさかる目でじっとこちらを見据えている。
「父さん!」アナリーズは足をつかもうとする手を蹴りつけるようにして逃れ、後ずさりながら
叫んだ。「父さん、わたしよ!」
それがなにか言った。だが、耳になじんだ父の声ではなかったし、言葉が発せられたときに父
の唇は動いてもいなかった。
ほとばしるような勢いで発せられる言葉は理解できなかった。そして、その声がひとつではな
いと気づいてぞっとする。まるでたくさんのクリーチャーがいっせいに話しかけてきているよう
だ。いくつもの声が重なり、不明瞭に入り交じっている。
「ツェシャアアアアルカン ガアボーランカア メシャンタルマア」
渾沌のエンパイア
41
とくに大きな声が、ゆっくりと一音ずつ引き伸ばして発せられ、アナリーズの肌は粟立った。
なんとか立ちあがり、石造りの小さな台所に駆けこんでしっかりと戸を閉めた。恐怖が力を貸
してくれた。木製の重い調理台を戸に押しつけてから後ずさり、荒い息をついて、鎧戸を閉めた
0
0
窓に 背 を 預 け た 。
あれはもう父さんじゃない。モールとシグマーに祈りを捧げた──父さんの魂がすでにあの世
に召されていますように。あれはただの抜け殻です。父さんの魂があんなおぞましいクリーチャー
となった体内に残っていて、苦しんでいるなんてことがありませんように。考えただけでも恐ろ
しいことだわ、こんなことを考えなければよかった。
腐った木材が砕ける湿った音がして、冷たい手に咽喉をつかまれた。背を預けた窓から木片が
ばら ば ら と 落 ち る 。
悲鳴をあげようとしたが、声が出ない。冷たい手が容赦なく首を絞めつけていた。アナリーズ
はその腕をつかみ、爪を立てて肉を掻きむしった。しかし、その腕は気味が悪いほど冷たく、手
指の感覚が奪われていく。
シューシューと囁くような声が後ろから聞こえた。さっきのクリーチャーが咽喉から洩らして
いたのと同じように、大勢の声が、今度は耳のすぐそばで聞こえていた。
「シャアアアク ツェシャアアアアルカン」
視界が薄れはじめ、アナリーズは無我夢中であたりをさぐった。ナイフの、象牙の持ち手が触
れた。即座にナイフを振りあげ、自分を窓に留めつけている腕に切りつけた。氷のように冷たい
42
第一部
のこ ぎ り び
血が流れていくのは感じるけれど、咽喉をつかむ手はゆるまない。必死にその手首のあたりを
鋸 挽きにする。冷たい血がどっと流れ出てナイフを握る手がすべり、もうすこしで落としそう
になった。血のせいでクリーチャーの手もぬるぬるしている。そこで勢いよく身体を傾けて咽喉
をつかんでいた手から逃れると、その手を押しやり、空気を求めてあえいだ。
居間につづく重い戸にどしんとなにかがぶつかり、木の調理台が反動で揺れた。調理台に飛び
乗るようにして押さえたときに壊れた窓の鎧戸が目にはいった。そのまま窓に目が釘づけになる。
太い腕が外から窓を殴りつけ、壊れた鎧戸がはずれた。アナリーズは縮みあがった。
窓の外の真っ白な雪を背景にして、化け物の姿は影になっている。顔などはわからず、ただ両
の目で揺らめき、冷たく燃える青い炎だけが見えた。大きな木片が刺さっていることも意に介さ
ないようすで、腕を突きいれ、めちゃめちゃに壊れた鎧戸を蝶番から引きはがした。
『武器はかならず手の届くところに置いておくこと。絶対に追いつめられたりしないよう、つね
に逃げ道を確保しておくこと』父にはそう教えられていた。
それなのにアナリーズはいま、肉用ナイフのほかに武器もなく追いつめられていた。この壁の
向こう側には父が大切にしていた剣が架けてある。わかっていながらどうすることもできず、歯
がみする思いだった。どんなに貧乏をしようと、父はけっしてあの剣を売ることは考えなかった
し、アナリーズもそんなことは一度も口にしなかった。剣は父と兵士だった過去の人生とを結び
つける最後の品であり、父が当時を懐かしんでいたことも知っていた。事故で剣を握る右手の親
指を切断したとき、父はそのすべてを失ったのだ。剣を握ることのできない兵士に軍の仕事はな
渾沌のエンパイア
43
かっ た 。
気味の悪いクリーチャーが窓によじ登って台所に入ってこようとしている。手にしたナイフを
ダ ガ ー
ひっくり返して短剣のように逆手に握りかえると切りかかった。クリーチャーは不快で耳障りな
音をひっきりなしに発している。首の横にナイフをおもいきり振りおろすと、刃は柄まで深く沈
んでから、肉を裂き、すっと抜けた。
人間なら死んでしまっただろうに、そんな一撃も侵入をわずかに遅らせたにすぎなかった。ク
リーチャーは青みがかった腕を窓から台所の内側に伸ばして床に手を着くと、身体を引き寄せる
ようにして、どたりと石の床に落ちた。もつれた髪が顔の上にかぶさっている。
その顔を見るまでもなく、アナリーズには、このクリーチャーがかつての蹄鉄工見習いのヨナ
ス・スクリバだとわかった。炉の前で赤く火照っていた健康的な顔や腕にいま血の気はない。そ
の身体がゆらりと立ちあがると、華奢な十代の娘にとっては見上げるほどに大きい。この顔にも、
やはりあの不気味な薄笑いが貼りついていて、青く燃える両目がのっぺりした顔をディーモンの
ように照らしていた。シャツが裂けて肌が剥きだしになり、数ヶ所に傷を負っていた。ぱっくり
とひらいた傷口から赤い肉が見えている。クリーチャーは太い腕でアナリーズを抱きしめようと
するかのように、ふらふらと近づいてきた。
アナリーズはその腕をくぐってかわしながら、腹に切りつけて大きな裂き傷をつけた。戸が向
こうから強く押され、アナリーズは動いた調理台にぶつかって、よろめいた拍子にかつてヨナス
だった怪物に近づいてしまった。
44
第一部
ヨナスの太い腕で、腕と肩が麻痺するほどの殴打を受けて、床に倒された。
複数の声はますます興奮してきたようだ。意味のわからない忌まわしい言葉がものすごい勢い
で口からほとばしる。
アナリーズは必死に身を起こし、化け物の顎下の軟らかい肉めがけてナイフを突き上げる。刃
は上顎を突きぬけ、そのまま脳に突き刺さった。
クリーチャーがびくりと身体を引きつらせて立ちすくんだところを、体当たりして倒した。ア
ナリーズは手に、まだ血糊のついたナイフを握っている。
背後に別の気配を感じて、ふりかえりざま、血まみれのナイフで切りかかった。弧を描いたナ
イフの先にいたのは父親だった。気づいたときにはすでに遅く、止めようとしたナイフが深い傷
をつけた。衝撃で父の頭ががくんと横に倒れ、父の身体は戸枠につまずいて両膝をついた。
父の頭がぐるりと回っ
アナリーズは悲鳴をあげ、ナイフをとり落として父の前にひざまずいた。
て、またこちらを見据える。血を流し薄笑いを浮かべる顔から、アナリーズは思わず後ずさった。
伸びてきた手を跳びあがって避け、居間へ駆けこんだ。
父の小剣を目指して走る。丸太の壁にある剣架から小剣を取り、近づいてくるふたつの影に意
を決して向きなおった。両者の目から青白い魔の光が投げかけられ、部屋のなかがほのかに青い。
アナリーズは鞘を取りはらって、ぎらりと光る剣を目の前に出した。
あれは父さんなんかじゃない。自分に言いきかせる。
いまがほんとうに、わたしがモールの国に召される時だというのなら、なんとしてもこの化け
渾沌のエンパイア
45
物どもを道連れにしなくては。
化け物たちとの距離をとるために後ずさり、唇をかたく引き結んで、小剣を前に出して構える。
「あんたたちは、ヨナスでも父さんでもないわ」操り人形のように近づいてくるものを見ながら、
小さ く 声 に だ す 。
部屋の空気は異常に冷たく、そこに怪物たちの咽喉から漏れる騒音が響く。囁きやシューシュー
といった唸り声はそこらじゅうから聞こえてくるような気がした。かつて父親であったクリー
チャーは、傷口がぱっくりあいた顔に薄笑いを浮かべて近づいてくる。その両手がめいっぱい差
し伸ばされ、アナリーズは慌てて後ろに下がった。
アナリーズは剣の達人にはほど遠かったが、このクリーチャーどもも動作がぎこちなく、腕が
立つとは言いがたい。ヨナスの顔をしたゾンビみたいなクリーチャーが手を伸ばしてきた。アナ
リーズがその手に剣を叩きつけると、凍傷で黒く変色した指が何本か切れて落ちた。
クリーチャー
の両目で、青い炎がさらに明るく燃え立つ。アナリーズがその胸に剣を突き立てて心臓を貫いた。
青い炎がちらちらと瞬いて消え、クリーチャーは糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。
死そのもののような冷たい手が長い金髪をつかみ、アナリーズの首がのけぞった。深い傷のあ
るクリーチャーの顔が目の前に迫り、咽喉を狙うように大きく口をあけている。化け物が発する
冷気に肌がちりちりと焼けるようだ。髪をつかまれたまま、しゃにむに横に身を投げた。重いテー
ブルの脚に頭をぶつけ、痛みが全身をつきぬける。
声があちこちから聞こえた。かすんでいた視界が晴れるとすぐ、アナリーズは怪物の歪んだ顔
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らしい反応はなかった。
を見あげた。怪物は大きな薪をアナリーズの頭に振りおろそうとしている。
身を守るために武器を手にしている村人もいた。狂ったようにフレイルを振りまわしていた村
がいるのか、どっちへ逃げたら安全なのかを見定めようと左右を見回した。
かるみの泥と混じっていた。苦痛と恐怖の悲鳴やわめき声が飛び交う。アナリーズは、どこに敵
ナリーズだと気づいたようすもない。あたりには死体が散乱し、雪のうえに血飛沫が飛んで、ぬ
アナリーズは中年の男に突き倒された。知り合いだったが、これほど怯えて絶望的な顔をして
いるところは見たことがなかった。男はただ逃げることしか頭にないようで、謝るどころか、ア
村人たちは悲鳴をあげ、抱きかかえた子どもを庇うようにしながら、四方八方に駆けている。
秩序もなにもなく、ただ恐慌と恐怖に支配され、みな先を争って逃げていた。
漏らし、慌てて立ちあがる。アドレナリンが身体をめぐった。
無我夢中で外にでて、雪のうえを転がるように走っているうちに、村人もあちこちで逃げまどっ
ていることに気づいた。アナリーズはなにかにつまずいて膝をついた──死体だ。恐怖の悲鳴を
がたがたと震え、息荒く小刻みにあえぎながら、アナリーズは家を飛び出した。
と引き抜いた拍子に、剣は手を離れて床に落ちた。
向こう脛に切りつけると、脚の骨が折れて、クリーチャーはがくんと膝をついた。アナリーズ
は素早く立ちあがり、やみくもに突きかかる。刃が首に食いこんだ。骨に引っかかった剣をぐいっ
「父さん、やめて!」必死に叫んだが、クリーチャーがその言葉を理解していたとしても、それ
第一部
渾沌のエンパイア
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人が兵士の槍に刺し貫かれたのを見て、アナリーズは息をのんだ。村人はそれでも戦いをやめよ
うとせず、身体を貫いた槍をたぐり寄せて兵士に近づき、爪で襲おうとしていた。
ひとりの女が後ろから抱きつかれて悲鳴をあげた。その咽喉が食いちぎられ、恐ろしい傷から
激しく血が噴き出した。
痩せこけた人影が、その女にかがみこむのが見えた。アナリーズは後ずさりしはじめたが、そ
んな彼女の視線を感じたかのように、痩せたクリーチャーが頭をもたげた。目は燃えさかる青い
炎の球で、口や顎から血が滴っている。夢中で食らいついていた獲物を捨て、よろよろとアナリー
ズの方に向かってきた。ぎくしゃくした妙な動きではあったが、その恐ろしい意図は疑いようも
ない 。
武器ひとつなく、このクリーチャーにかなうわけがない。アナリーズはくるりと背を向けて、
狂乱のなかを駆けだした。何人かの疫病患者に引き倒されそうな年寄りが叫び、目を血走らせて
抵抗していた。疫病患者たちの目は冷たく燃えている。老人の顔に必死の懇願が浮かんでいるの
を見て、アナリーズは一瞬、足を止めようとした。しかし直後、クリーチャーが老人の頭を地面
ハルバード
に叩きつけた。恐ろしい音をたてて頭が砕かれて、老人の叫び声が止まった。
ハルバード
恐怖に顔を引きつらせた兵士が斧槍を振って、長い穂先をアナリーズに向けた。兵士が度を失っ
そ そ う
て粗相したのはあきらかで、ズボンのその部分が染みになっている。アナリーズは両手を前に出
し、害意がないことを示した。斧槍の穂先が目の前で危なっかしく揺れている。アナリーズはふ
りかえり、よろめきながら近づいてくるクリーチャーの姿をちらりと確認した。
48
第一部
ハルバード
「わたしはちがうわ」兵士に向きなおって言ったが、外国語で話しかけても同じだったろう。兵
士はただアナリーズから後ずさろうとしている。アナリーズに向けた斧槍を低く構えたまま、恐
怖に目を大きく見開いたままだ。そして転がっていた腕にけつまずき、雪のうえで仰向けに倒れ
た。
アナリーズが急いでその横を走り抜けた直後、兵士が身の毛もよだつ悲鳴をあげた。ふり向か
なかった。いまはとにかく逃げることしか頭になかった。
気がつくと、アナリーズは村の広場にいた。やみくもに逃げていたら、押しよせるひとびとの
波に巻きこまれて方向がわからなくなり、こんなところに運ばれてしまったのだ。アナリーズは
広場の凄まじい光景を見て恐怖にうめいた。商館の扉は内側から壊されていた。絶望したアナリー
ズが立ち尽くしているあいだにも、窓に打ちつけられた板が吹き飛び、薄笑いを浮かべて目を青
く燃え立たせた怪物がふたり、腐った板切れの残骸から這い出してきた。
黒い鉄檻はいまだ絞首台からぶら下がっていた。黒髪のエルフは檻の中で目を見開いて眼下の
狂乱を見おろし、檻の格子を激しく揺らしている。しかし、錆びた南京錠のせいで、エルフが外
にでることはできない。
アナリーズは逃げ道に気づいた。自分が働いている〈黄金の麦束〉亭の横手、肉屋とのあいだ
の路地だ。あそこを抜ければ畑地に出るし、その先には森がある。路地にひとがいないのを見て、
アナリーズは駆け出した。ぬかるみで戦っている者たちや、つかみかかってくるゾンビのような
疫病患者を避けて走った。
渾沌のエンパイア
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地元のたくましい猟師が斧を手にして、ふたりの疫病患者のゾンビと必死に戦っていた。首を
一撃してひとりを打ち倒したが、もうひとりの手が顔に伸びていた。猟師は間合いをとろうと後
ずさってつまずき、手にした斧を振りまわすようにして倒れた。
その斧頭が、絞首台の鎖を巻き上げる機械にぶつかって鎖がくりだされ、鉄檻がガラガラと落
ちてきた。斧を取り落とした猟師にゾンビが襲いかかる。猛禽の鉤爪のように曲がり、骨ばかり
となった手が猟師の皮と肉を引き裂いた。
猟師が恐怖と苦痛の悲鳴をあげるのと同時に、絞首台の黒い鉄檻が大きな音を立てて地面にぶ
つかって倒れた。数体の疫病ゾンビがその物音にふりかえり、それまでの獲物を離してゆっくり
と檻の方へ移動しはじめた。エルフが必死に檻の格子をガチャガチャと揺らしているが、錠はび
くと も し な い 。
アナリーズは唇を噛んで立ち止まると、ふりかえってまだ檻と格闘しているエルフを見やった。
むご
たとえ人殺しという悪行を犯したとしても、死に方としてはあまりに酷すぎる気がした。
自分に舌打ちするような思いで、アナリーズは乱闘のなかを小走りで檻に向かった。檻のすぐ
そばに迫るゾンビもいる。ゾンビたちの咽喉からは、興奮した激しい調子であの邪悪な声がほと
ばし っ て い た 。
アナリーズは走りながら身を屈め、落ちていた斧を拾う。絞首台の下で生きながら貪り食われ
ている猟師のものだ。それを肩にかつぎ上げて檻に駆けよった。疫病ゾンビが、檻に手を入れて
エルフに爪をかけようとしていた。アナリーズは全身の力をこめて、怒りと恐怖の叫びをあげな
50
第一部
がらその頭に斧をふりおろす。斧が頭蓋骨を叩き割って、その血や血の塊がアナリーズの服やエ
ルフの純白の顔に飛び、ゾンビは地面に倒れた。
アナリーズはエルフの凝視に気づき、その異質で挑戦的な眼差しにどきりとした。瞳は初めに
見たときに思ったように黒ではなく、ラベンダーの色に似ている。それがいっそう人間とのちが
いを際立たせ、ちがう世界の生き物であるという印象を強めていた。
これが正しい行いでありますように。アナリーズはそう祈りながら、エルフを閉じこめている
錆びた錠めがけて斧を振りおろした。一撃で錠は真っ二つに割れた。アナリーズは痺れた手から
斧を取り落とすと、エルフが檻を出たかどうか見届けることもなく背中を向けて走りだした。機
会はあたえた。あとのことはエルフ次第だわ。
今度は立ち止まることなく狭い路地に駆けこみ、その細い道を走りながら、手招きしているよ
うに見える畑地とその向こうの森を目指した。
なにかに足をとられて激しく地面に叩きつけられた。息が詰まり、とっさに手をつくこともで
きず雪につっぷしていた。あえいでも空気がはいってこない。
足首にひっかかっているなにかを蹴りのけようともがいた。まだ息が苦しいところに、激痛が
走って息をのむ。刺すように冷たい雪のぬかるみで転がると、足首をつかんでいる手が見えた。
黒ずんだ爪が革のレギンスを破って、足に突き立っていた。その手指には赤い斑点がある。疫病
で心臓が止まったときに血管内で凝固した血の塊だ。つかまれていないほうの足でその手を蹴り
つけると、指の骨が折れたのがわかったが、足首をつかむ力は緩まない。
渾沌のエンパイア
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そのときクリーチャーの顔が目にはいって、アナリーズはどうしようもない恐怖に襲われた。
〈黄金の麦束〉亭の酒場で働いていた友だち、イルサの顔だった。ふっくらと美しかった顔は歪
んでおぞましく変わっていた。唇が大きく膨張し、皮膚も引き伸ばされて血の気を失い、肌の下
を走る青い静脈が透けて見えた。頭蓋骨が気味悪く歪んで、右のこめかみから細枝のような骨の
塊が突きだしているのも恐ろしい。ぞっとしながらも目がそらせなかった。その枝のような渾沌
変異の骨の先がゆらゆらと揺れたかと思うと、アナリーズの体内の生命を感知したのか、こちら
に向かって張り出してきた。イルサの眼窩では氷のような青い炎が燃えている。口をくわっと開
ぶち
こうさい
けると、黒く変色した歯が見えた。舌であるはずのものは、球根のような形の目玉に変わり、金
の斑のある青玉虫色の虹彩がアナリーズを見据えていた。その目がゆっくりとまばたきをした。
おぞましいミュータントから逃れようと、アナリーズは何度も蹴りつけた。
いっ
イルサは手を離すどころか、じりじりとアナリーズの脚を這いのぼってこようとしている。
そう大きくひらいた口の中で、球体の目玉がじっとこちらを凝視していた。
その肩の向こうでなにかが動き、アナリーズは視線を上げた。猟師の斧を手に走ってくるエル
フの姿を目にして、アナリーズは完全な恐慌状態におちいった。エルフが斧を振りかぶり、こち
らに 投 げ つ け た 。
くるくると回転しながら風を切って飛んでくる斧を見て、アナリーズは悲鳴をあげた。
グシャ。ぞっとする音がして、ミュータントとなったイルサの後頭部に斧の刃が食いこんだ。
アナリーズはふたたび悲鳴をあげ、ぐったりとした怪物を蹴りつけ、後ろに這って逃れた。
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第一部
エルフが傍にやってきてアナリーズを引き起こす。背の高さからは不自然なほど細い身体には
そぐわない力で、強くつかまれた腕が痛かった。アナリーズの鼻にこの世のものとは思えない珍
しい香辛料と香草の香りが流れこんできた。
その日の恐怖と衝撃は、アナリーズの許容範囲を超えた。目の前にちかちかと光が飛ぶのが見
えて、意識が薄れていく。アナリーズは、抱き人形のようにくたりと地面にくずおれた。
エルフは自分の国の言葉で悪態をつき、地面に倒れた娘を抱えあげた。娘の首は力なく後ろに
垂れ、長い金髪が地面に届きそうだ。
エルフは自分の愚かさを罵りながらも、人間の女のほっそりとした身体を抱え、すばやく走り
出した。混乱状態の村を離れ、遠くから誘いかけている森に向かった。
渾沌のエンパイア
53
第四章
ろ
ば
ろ
ば
はり
ウドー・グリュンヴァルトはたてつけの悪い小さな扉を押しひらき、低く張り出した梁を避け
ろ ば
て頭をかがめ、みすぼらしい宿にはいった。〈吊るし驢馬〉亭という名の店だ。店先には、その
驢馬が首に縄を巻かれて吊られ、朽ちて雪をかぶっている。ふと、この驢馬がなにをしでかした
のだろうかと思う。こんな処罰に相当する悪事として、外道の頭でどんな話をでっちあげたのだ
ろう か 。
主人の妻と密通でもしたのだろうさ。グリュンヴァルトはそう考えてにやりと笑う。笑みを浮
かべても、彼の残忍そうな醜い顔はいっそう物騒に見えただけだった。
薄暗く煙った店内は、グリュンヴァルトが足を踏み入れたとたんに静まりかえった。ブーツの
重い靴音が木の床に大きく響く。こっちに目を向けている連中をぐるりと睨みつけた。誰もなに
も言 お う と し な い 。
グリュンヴァルトは自分の姿が他人を怖気づかせるのだと承知していたし、こちらが目を合わ
せようとすれば、ひとびとが素早く目をそらすことにも慣れていた。ここでもそれは変わらず、
客の農夫や旅人は、誰ひとりグリュンヴァルトと目を合わせようともしないが、店内には触れる
ことができそうなほどはっきりした敵意が漂っていた。
54
第一部
店にはいってきた自分に、ひとびとがこんな反応をみせるのも無理はない。近頃、旅は誰にとっ
ても安全とはいえず、北から届く知らせはかんばしくない。田舎には、厄災から逃げるひとびと
ウィッチ
を食い物にする山賊や無法者がうろつき、絶えず変化して息づく森には、さらに恐ろしいものが
ケイオス
エンパイア
潜んでいると噂されている。魔女、秘密の魔女集会、穢れたミュータント、人間のように直立歩
行する渾沌の獣など。こうしたものすべてを 帝 国 の民は恐れており、それはこの田舎町でもお
なじことだ。よそものは恐怖と疑惑の目で見られる。とりわけ、疫病が町や村をのみこんで野火
ウィッチハンター
のように拡がりつつあると噂される最近では仕方ない。
だが、それよりもまず、彼は魔女狩人であり、それは一目瞭然だった。その姿を見れば、罪な
きひとですら恐怖や、罪の意識を抱かずにいられないのだ。
酒を飲みに来た客や凍えた旅人がまたそれぞれの物思いにふけり、あるいは会話を再開し、静
ウィッチハンター
まりかえっていた部屋にざわめきがもどってきた。魔女狩人の注意を引きたくない者たちは帽子
やフードをおろして顔を隠している。
グリュンヴァルトは大股でカウンターに近づくと、つば広の帽子をとって前に置いた。近くに
立っていた男たちが後ずさり、常連客とおぼしき男が、棍棒のような奇形の手をマントの内側に
ウィッチハンター
隠そうとしている。それを見てそっと首をふった。いつものことだ。肉体に欠陥を持つ哀れな者
はみな、審問にかけられるのを恐れて魔女狩人の目から欠陥を隠そうとする。グリュンヴァルト
ウィッチハンター
は、不具になった者や、生まれつき異常のある人間を火あぶりにすることに興味などなかったが、
そういうひとびとが怯えるもの無理はない。彼らを炎で浄化するべきだと考える魔女狩人も存在
渾沌のエンパイア
55
して い る の だ 。
「いらっしゃいまし」カウンターから声をかけてきた男は不安を押し隠そうとして、失敗してい
た。丸々と太った男で、両目が異様に飛び出している。その出目のびっくり顔はまるで魚だ。暑
すぎるわけでもないのに、ひどく汗をかいている。グリュンヴァルトはたちまち亭主がきらいに
なっ た 。
「部屋と食事。だが、まず酒をくれ」
「もしご面倒でなければ、お客さん。前もって支払いの件を確認させてもらえませんですかね」
亭主は汗ばんだ両手をもみしぼりながら言った。「いえ、なにも無作法をはたらこうってわけじゃ
ありませんのですがね。ただ、こんなご時世です、まずもって、支払いの確認ができなけりゃ、
あたしが見知らぬお客さんへのおもてなしをためらっちまうというのもわかってくださいますよ
ね。で、どんなもんですかね、お客さん? 支払いの方は」
グリュンヴァルトは嫌悪に唇を歪めたまま、しばらく小男を睨みつけていた。亭主は不安げに、
出目をきょろきょろさせている。グリュンヴァルトは指を一本ずつ引き抜くようにして黒革の手
袋をはずし、音をたててカウンターに置いた。汗みずくの丸々した亭主が飛びあがる。亭主を睨
みつけたまま、ベルトにつけた黒い革の巾着を持ちあげると、そのなかで硬貨がカチッと鳴った。
そこから二枚取りだして、カウンターに乱暴に叩きつけた。
「これでどうだ」軽蔑をあらわに言った。
「じゅうぶんですとも、親切なだんなさん、はいはい、じゅうぶんでございますとも!」硬貨は
56
とは、あたしはほんとうに幸せですよ」
一瞬にして消え失せ、亭主は握手を求めて手を差し出してきた。「あたしはクラウス・フィードラー
0
0
0
0
ば
旅人、農夫、常連客たちといった酔っぱらい連中を押しのけ、薄暗い片隅の、多くの客から離
クロスボウ
れたテーブルに向かう。エールを置いてから、肩をすぼめて石弓を外し、テーブルのうえに置く
い。ここは、南東へ向かう街道沿いにある数少ない宿のひとつなのだ。
会釈すると、向こうも真面目くさってうなずき返してきた。ドワーフとの再会も驚くことではな
誰とも関わりたくなかったので、離れた席を探す。三日前に出会ったドワーフが、隅の席で、
あの竜頭のパイプをふかしていた。トールリックといったか。がっしりしたドワーフ戦士に軽く
ジョッキを受けとり、不愉快な男に背を向ける。驢馬と一緒にいたところをつかまったのは、
きっとこの亭主のほうだったにちがいない。
ろ
それを想像しただけで、すでに酒を飲む楽しみに水をさされた。
酒に汗を落とすなよ。ジョッキを覗きこんでいる亭主の眉毛に、玉の汗が一滴、危なっかしく
ぶら下がっているのを見て、グリュンヴァルトは思った。ありがたいことに落ちはしなかったが、
ンプを動かして、あまりきれいではないジョッキにエールを注いだ。
「はいはい、もちろんですとも」亭主は呆けたにやけ面の額に汗を浮かべ、元気よく汲み上げポ
グリュンヴァルトは、亭主が差し出している汗まみれの手を不快そうに睨みつけて無視した。
「酒 だ 、 い ま す ぐ 」
0
といいます。この快適な宿の主です。だんなさんのような気持ちのいい紳士にお泊りいただける
あるじ
第一部
渾沌のエンパイア
57
と、鈍い音が響いた。それから、さっき押しのけた常連客が面白くなさそうにぶつぶつ言ってい
るのを睨みまわしながら、壁によりかかれるよう長椅子を動かした。
壁を背もたれにして、どっかりと腰をおろす。痛む首を左右に曲げるとポキポキと鳴った。
エールを試しにひと口飲んでみる。薄い、だが悪くはない。今度は思いきり流しこんだ。
疲れていたし、身体のあちこちが痛かった。溜め息をついて強張った背中を壁にもたせかけた。
かね
ドワーフと一緒に戦ったあと、田舎のシグマー神殿の司祭に金を返してやろうと、盗っ人が持っ
ていた金をあるだけとりもどした。ところが神殿にもどってみたら、司祭は全身を刺され、残忍
に咽喉を裂かれて死んでいたのだ。それから二日間、人殺しの手がかりを探したがなにも見つか
らなかった。悪人を見つけ出せず、捨ておくことが心残りで、司祭を葬って神殿を片づけてから
も、どうも先を急ぐ気にならなかった。しかし、上官が帰りを待っており、グリュンヴァルトは
すでにずいぶん時間を無駄にしていた。
ほどなく汗かきの亭主、フィードラーがやってきて、湯気の上がる灰色のスープと厚切りのパ
ンをテーブルにぞんざいに置いた。どう見てもうまそうには思えず、スプーンでスープの中身を
つついていると、亭主はまぬけ面で歯を剥き出したまま横に立ち、あきらかに料理に対するお世
辞を 待 っ て い た 。
「向こうへ行け」グリュンヴァルトが言うと、太った亭主はうなずいてなにか言いかけたものの、
言葉を発することなくテーブルを離れた。亭主がカウンターにもどるとちゅうで、下働きの頭の
後ろをぴしゃりと打つのが見えた。
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うすを観察すると、片足がおかしな形に捻じれているせいで飛び跳ねるように見えるのだとわ
「どきな!」亭主の怒鳴り声が響き、それに客の幾人かが笑った。下働きはあきらかに薄のろだっ
トを小突いた。「あたしらとしちゃあ、身内であろうとなかろうと、こいつみたいな者がだんな
ね。お客を苛つかせちまいますから」亭主はひとりでくすりと笑い、そっと肘でグリュンヴァル
くに追い出してますよ。この役立たずの仕事っぷりじゃあ、これからそうするかもしれませんが
相手に打ち明け話でもするかのように、馴れ馴れしく声を落とした。「身内じゃなかったら、とっ
「オットーです。姉が薄のろ息子を残して死んじまいましてね」まるで気持ちをわかってくれる
「そいつの名前は?」
いいんですが」亭主はすまなさそうに言った。
「大変失礼しました、だんなさん。こいつはちょっと頭が弱いもんで、ご迷惑をかけてなければ
きの手から食器を取りあげた。
から突き出している。すぐさま亭主が飛んできて、ののしりながらまたもその頭をなぐり、下働
食事を平らげると、さっきの下働きが足を引きずり、客で混雑するなかを抜けて、グリュンヴァ
ルトの食器をさげにやってきた。食器を持ち上げるのに一生懸命で、ぼってりとした舌を口の端
グリュンヴァルトは湯気のたつスープにパンをひたして食べた。見た目ほど味は悪くなかった。
なんの肉だかわからないが、きっと、知らない方がいいのだろう。
かっ た 。
た。頭を横に傾け、締まりのない口をあけている。足を引きずって主人に道をあける下働きのよ
第一部
渾沌のエンパイア
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さんみたいなお客さんを苛つかせるのを、許しておくわけにはいきませんでしょう」
「もう一度わたし
グリュンヴァルトは不愉快な亭主の目をじっと見つめ、抑えた声で告げた。
に触ったら、その顔の骨を折ってやる」
亭主はさっと蒼ざめた。それを放っておいて、今度はその横でちぢこまっている下働きに声を
かけた。「ありがとうよ、オットー」
薄のろは大きく笑み崩れて、グリュンヴァルトを見た。
「おまえこそ邪魔だ、この薄汚い小男め」まだ、突っ立ったままの亭主に言った。しかし動こう
としないので、その亭主をグリュンヴァルトは片眉をあげて見やる。「失せろ、いますぐだ」ゆっ
くりと、脅しつけるように言った。
溜め息がでた。亭主を脅したところで得るものはない。せいぜい食事に唾かなにかを混ぜられ
るくらいのもので、それももう一度ここで食事をすればの話だ。だが、もうここで食事をするつ
かね
もりはなかった。夜明け前に出立して、道々なにか食べればいい。まだ先は長いのだから、早く
出るに越したことはない。ふと、さっきの金を返金させてここを引き払い、野宿をすることも考
ろ
ば
えた。だが、粗末であろうとベッドで眠るという誘惑には抗いがたい。たとえ、それがこの〈吊
るし驢馬〉亭のようなあばら屋のベッドだとしても、だ。
早めに休もうと決めたちょうどそのとき、店の向こうの隅で騒ぎがもちあがった。客のひとり
がテーブルに顔を叩きつけられて鼻を折り、テーブルに血がついている。
「このあたりをうろつくなって言うんだ」図体の大きい地元の酔っ払いが、呆然としたようすの
60
第一部
旅の男を荒々しく立ちあがらせた。仲間がその暴れ者をなだめようと手を伸ばしたが、男はそれ
をじゃけんに振り払った。
「邪魔するな!」酔っぱらいが吠えた。飲みすぎて足もとは危うい。酔っぱらいはさらに男の腹
にこぶしを叩きこみ、殴られた男は腹を抱えて床に崩れおちた。
「おい、リカルド、それでじゅうぶんだろう」亭主は酔っぱらいに近づいて、まあまあと汗ばん
だ両 手 を あ げ た 。
「おまえはいいさ、フィードラー、よそもの相手に金儲けしてるんだからな。だが、こっちはそ
うじゃあない」自分の胸を叩きながらリカルドが言った。「あいつらが出入りしてりゃあ、いつ
か伝染病がもちこまれちまうかもしれん。よそものを店に入れるなって、言ってんだよ」
その意見を聞いて、カウンターにいた常連客の半分以上がやんやの喝采を浴びせた。この店に
いる旅人の多くは疫病と戦の惨禍を逃れてきた者たちで、妻や子と一緒にテーブルについている。
彼らは、自分たちに向けられるほかの客たちの敵意を感じて不安そうに店内を見まわした。勢い
づいた酔っ払いのリカルドは、倒れている男の顔を激しく蹴りつけた。
「はっきり言わせてもらうぞ。伝染病が完全におさまるまで、誰ひとり、この村を通っちゃなら
ねぇ、通行禁止だ」こう吠えると、またも力強い喝采があがった。リカルドは、倒れたままの男
をもう一度蹴りつけて、自分が本気だと見せつけている。
「なあリカルド。今夜はもういいだろう、そろそろ帰って寝た方がいい、な?」亭主は、ふらつ
いている酔っ払いに用心深く近づいた。
渾沌のエンパイア
61
酔っ払いはベルトのあたりを探って刃の短いナイフを引き抜き、亭主の咽喉に向けた。
「引っこんでろ、フィードラー。豚みたいにはらわたを抜かれたいか」凄みながら、倒れている
男の方へ顎をしゃくった。「こいつを吊るし首にするぞ。そうすりゃ噂が広まって、よそものは
ここを避けて通るようになるさ。おい、こいつを立たせろ」怒鳴りつけ、床を踏み鳴らすように
して外に出て行った。すぐさま友人ふたりが、ほとんど意識のなくなった男を引きずるようにし
て酔っ払いのあとを追った。
ぱらぱらと拍手があって、大勢の客が席を立とうと椅子を押しやる音が聞こえた。あの残忍な
三人組を追いかけ、騒ぎを最後まで見届けたいのだ。
溜め息をついて立ちあがり、薄のろの下働き、オットーの不格好な手に硬貨を一枚握らせた。「わ
クロスボウ
かね
たしの石弓を誰にも触らせるな。それと、わたしから金をもらったことをおじさんに言うんじゃ
ないぞ」念を押すと、オットーが歯を見せて笑った。グリュンヴァルトはひとびとを押しのけ、
野次馬のあとを追って店を出た。
外では、叩きのめされた旅の男が通りの真ん中にひざまずいていた。
「ああ、シグマーに賭けて、お願いです」懇願する男の顔を涙と血が伝って落ちる。
「アヴァー
ランドにいる妻と子どものところに行くところです。妻と子が先に行って待っているんです。わ
たしを殺せば、妻や子どもまで殺すことになるでしょう。どうぞ、こんなことはやめてください」
酔っ払いはその願いを無視して男の髪をつかみ、一気に始末をつけようと男をのけぞらせた。
野次馬が血を求めてけしかける。
62
第一部
邪魔なひとびとを手荒く押しのけて人の輪の中央に歩み出る。
「そいつを殺せば、次に死ぬのはおまえだぞ」大きな声ではなかったが、威厳と迫力に満ちた声
に村人たちはひるんだ。すでに、浮き彫りのあるピストルを人殺しになろうとしている酔っ払い
の頭に突きつけていた。周りの声は静まり、倒れていた男はすがるような目でグリュンヴァルト
を見 あ げ た 。
「こいつは誰だ?」酔っぱらいがナイフで黒ずくめの姿を指し示して怒鳴った。同時に、自分に
向けられた銃口を見定めようと、一心に目を凝らしている。
「わたしはグリュンヴァルト」腹に響くような大声は、集まっていた野次馬の耳にはっきりと届
ウィッチハンター
いた。次の言葉はゆっくりと明瞭に発声されたので、誰ひとり聞きまちがえようがなかった。
「ウ
ドー・グリュンヴァルト。シグマー教団の魔女狩人だ」野次馬がしんと静まり返った。村人のな
かには、グリュンヴァルトからじりじりと後ずさりをはじめた者もいた。
「もう一度言う。その男を殺したら、次はおまえが死ぬ。断言する」
酔っ払いはしきりにまばたきしながら周囲をうかがっている。なにを考えているかはあきらか
ウィッチハンター
だった。自分がよそものを殺したあと、村人たちが魔女狩人に組みついて止めてくれるかどうか
を判断しようとしているのだ。男は突きつけられたピストルにもう一度目を向けた。それから、
しま
グリュンヴァルトの足もとの地面にべっと痰を吐きだし、ナイフを鞘におさめた。
「これでお終いってわけじゃねえぞ」男はそう吐き捨てると背を向けた。去り際に倒れている男
をもう一度蹴りつけ、相手が身を縮めたのを見てにやりと笑うと、ふらつきながらも足どり荒く
渾沌のエンパイア
63
去っていった。野次馬たちはあっという間にその場を去り、残されたのはグリュンヴァルトと、
涙を流して感謝する怪我人だけと思われたが、驚くことに、ほんの数歩先にトールリックが両手
で斧を握って立っていた。
「今度は、おれが助太刀しなくてはならんかと思ってな」トールリックがまじめな声で言った。
マンリング
たま
「道理がわかるやつらでよかった、手を貸してもらわずにすんだよ」グリュンヴァルトがのっそ
りと 答 え る 。
「ブァ! あの人間の目は殺気を帯びておったぞ。まあ、弾をこめたピストルとやり合わない程
度の頭はあったのだな。たとえ不器用な人間が作った見かけ倒しのピストルであろうとな」
グリュンヴァルトは鼻を鳴らした。「まあいい、一杯おごらせてくれ」
ふたりが怪我人に手を貸して宿にもどると、亭主が不安げに両手を揉みしぼりながら、戸口に
立っ て い た 。
「この男を部屋に運ばせて、傷の手当てをさせろ。この男がきちんと手当てを受けなかったら、
それはおまえの責任だからな」グリュンヴァルトは言った。びくびくして蒼い顔をしていた亭主
は、それでもうなずき、男を助けて店にはいった。
「気にくわん男だな、ちびトロールみたいだ」トールリックは、不快なものを踏みつけたかのよ
うに 顔 を 歪 め た 。
ドワーフは一瞬、まじめな顔をしてグリュンヴァルトを見あげたが、やがておかしそうに目尻
「そいつはすこしばかりかわいそうだ」グリュンヴァルトが控えめに言った。「トロールがな」
64
第一部
に皺を寄せ、咽喉の奥で笑った。
「ああ、おぬしの言うとおりかもしれん」
アナリーズはほんのすこし休もうと、立ち止まって木に手をつき、ぜいぜいと荒い息をついた。
凍えるほどの寒さなのに、裏に毛皮を張った重い外套の内側は汗をかいている。顔を上げて、急
な斜面のとちゅうでこちらを見おろしているエルフを睨みつけた。エルフはさっさと来いという
身ぶりをし、アナリーズは気持ちを強くして登りつづけた。
〈黄金の麦束〉亭ではいつも、一日じゅ
アナリーズは、どんなときでも体力に自信があった。
う立ちづめで十四時間労働をこなしていた。盆をもって厨房とテーブルを往復して食べ物を運び、
一日の終わりには後片づけもすませたものだが、この二日間ほど消耗したことはなかった。移動
がはかどらないことにエルフが苛立っているのはわかっていた。エルフの持久力はとてつもなく、
彼が速度を落とさずに何日も走りつづけることができるとしても、驚きはしない。おまけに不気
味なほど気配を感じさせずに動くので、自分ひとりだと思っていたときに音もなく現れたエルフ
に息をのんだことも一度や二度ではなかった。
どこに連れていかれるのかアナリーズには見当もつかなかったが、エルフには確固とした目的
があり、行く先もはっきりわかっているようだった。どうやらレイクシュピールはひとことも話
せない、あるいは話すつもりがないらしく、どこへ向かっているのかと以前に尋ねたときに返っ
てきたのは沈黙だけだった。
渾沌のエンパイア
65
が
すでに、ヴェステンホルツの森の奥、アナリーズが足を踏み入れたこともない場所にやってき
ていた。もしかしたらその森も抜けていて、ほんとうにどこか知らぬ土地にはいりこんでいるの
かもしれなかった。森は山賊や野獣、それより不穏な生き物の隠れ処であり、危険な場所だった。
アナリーズは村で起きたことを思い返した。ホルストは、このエルフが街道で村人を襲った人
殺しのひとりだと言っていた。わたしは人質なのだろうか? 手を縛られているわけではない。
それどころか、村でミュータントに襲われたときには助けてくれた。アナリーズはぞくりと身を
震わせた。自分の身に起きたことがどれも現実とは思えず、悪夢のようだった。しかし、すべて
は現実に起こったことだ。
まる一昼夜、ふたりは黙々と移動をつづけた。人間のものではないエルフの顔にもどかしさが
浮かんでいた。それでも必要なときには立ち止まって休息し、食べ物もくれた。それは馴染みの
ない、いい匂いのする平べったい焼き菓子のような食べ物で、食べると、たちどころに空腹が癒
され た 。
わたしはもう奴隷なのかしら? 村から遠ざかって、もう追っ手もかからないとわかってから、
なにかさせるつもりなのかもしれない。昨晩はずっと起きているつもりだった。エルフが寝たら
逃げ出そうと思っていたけれど、計画どおりにはいかなかった。アナリーズは切れ切れの、しか
し深い眠りに落ちてしまったのだ。いやな夢ばかり見た。父の顔は歪み、薄笑いを浮かべ、目が
あるはずの場所に青い球体が燃えていた。ようやく目を覚ましたときには、エルフがすでに起き
て、彼女を待っていた。
66
第一部
今夜こそ、逃げ出さなくては。
アナリーズは息を整えて、急斜面を登りはじめた。暗がりのなか、滑りやすい濡れた地面を歩
く脚の筋肉が焼けるように痛んだ。アナリーズは白い肌のエルフに近づき、反抗的な目つきで視
線を合わせようとした。エルフは、厳しく冷たいラベンダー色の目でしばしアナリーズの視線を
受けとめ、尖った顎をしゃくるようにして斜面を登りつづけるよう促した。
エルフは背が高い。父よりずっと上背があるのに不思議なほど細身だった。それでも弱くはな
い。そう、弱いなんてとんでもない。贅肉のない引き締まった身体はしなやかに駆ける狼を思わ
せ、どんな動きも完璧にバランスが取れていて優雅ですらあった。でも、動作のすべてが激しい
くく
敵意に煽られているようにとげとげしく、エルフの唐突で鋭い動きにアナリーズは何度も驚き、
飛び あ が っ た 。
やわらかそうな灰色の革の服をつけ、大腿には細身の鞘をふたつ括りつけているけれど、武器
ははいっていない。背中に負っているふたつの矢筒も中身は空っぽだった。兵士たちに武器を取
りあげられたのだ。それでも、武装していないからといって、エルフが危険でないとは思えなかっ
た。
その目つきがばかにしているように、自分のことをひ弱だと断じているように見えた。弱音な
ど吐くものかと気持ちを引き締める。
アナリーズは昂然と頭を上げてエルフの前を通りすぎ、足の痛みを気にかけないようにして急
斜面を登りつづけた。
渾沌のエンパイア
67
斜面を登りつめると、尾根沿いに進んだ。みじめな思いを噛みしめながらとぼとぼと歩いてい
ると、ふいに肩に手が置かれ、ぎょっとして息をのむ。
し
だ
もちろん、エルフだ。アナリーズは恐怖を表に出してしまった自分に毒づいた。
エルフが下生えのなかを指さしたが、なにも見えない。アナリーズは眉をひそめ、肩をすくめ
た。エルフは軽蔑したようにかすかに首をふり、ついてくるよう合図した。
生い茂る羊歯をかきわけて三十ヤードばかり進み、ねじれた樫の古木の手前でエルフが立ち止
まった。灰色の長マントをひらりと脱いで低く垂れている枝にかけると、革紐で留めつけた。そ
れから小枝を杭の代わりにして、マントの端を地面に固定する。エルフはほんの数秒で、簡素な
がらじゅうぶん役に立つひとり用の避難場所を作りあげていた。マントの下に座るよう促された
が、アナリーズはエルフを睨みつけて、じっと立っていた。
やがてエルフは肩をすくめると、杭代わりの小枝を湿った地面から引き抜き、マントをまた自
分の身にまとった。すっぽりと頭を覆うようにフードをかぶったので顔は陰になり、きらめく両
の目だけが見えている。
じきにみぞれが降りはじめ、氷まじりの雨が叩きつけた。エルフのフードはまるで油でも塗っ
てあるように、雨がすべり落ちていった。アナリーズは外套の前をきつくかき合わせた。エルフ
の目におもしろがるような光が浮かんだ気がして、しっかりと顔を上げ、いかめしく唇を引き結
エルフがアナリーズに指を突きつけ、それから地面を指した。ここにじっとしていろと言って
んだ 。
68
第一部
いるのだ。エルフはその動作をくりかえし、アナリーズはうなずいた。
エルフは行ってしまった。影のように木々に溶けこんだかと思うと、あっという間に見えなく
なる 。
うっそう
エルフから逃げ出す絶好の機会だということはわかっていた。そうはいっても、アナリーズに
はここがどこか見当もつかないし、このあたりに、ほかの化け物が潜んでいるとしてもわからな
つの
ひづめ
い。こういう鬱蒼とした森には無法者や人殺しがうようよしているという。それどころかこのあ
たりには、獣のような頭と角、さらに蹄をもちながら、人間のように二本足で歩く大きなクリー
チャーがいるという噂もあった。子どものころには、付近で縛り首になった罪人の亡霊がこうい
う森にとり憑き、闇夜に生者を探してさまよい歩くのだと聞いたこともある。当時の恐怖がよみ
がえ っ て き た 。
ここで死んでも、わたしの死を悲しんでくれるひとはいない。
アナリーズはもう一度身を震わせ、刺すような風と容赦なく打ちつけるみぞれを避けようと、
ねじ曲がった樫の木を風よけにしてしゃがみこんだ。凍えそうな両手を袖の中に引っこめる。逃
げようにも行く当てがないのだと痛感する。頬を伝う涙が、冷たいみぞれに混ざってわからなく
なっ た 。
どうしてこんなことになってしまったのかしら? 両脚がこわばって痛んだ。泥がつくのもか
まわずねじれた木の根に腰をおろす。幹によりかかって、ぎゅっと自分を抱きしめた。強風が吹
きすさび、みぞれが木を打ちつけていた。そんな落ち着かない場所にもかかわらず、いつしかア
渾沌のエンパイア
69
ナリーズは眠りに落ちていた。
肉が焼けるいい匂いがして、目を覚ました。雨風はおさまり、日が暮れていた。
座りなおすと、不自然な姿勢で眠っていたために身体じゅうが痛かった。立ちあがって猫のよ
うに伸びをし、冷たくこわばった筋肉をほぐす。エルフは、地面に掘った穴で煙をださずに火を
焚いていた。そこで、ふたつの緑色で丸い形をしたものを焼いていて、そこからえもいわれぬ匂
いが立ちのぼっていた。
エルフが小枝を使って、その丸いものを火から転がすようにして取り出し、ひとつずつ器用に
平た い 石 に 載 せ た 。
おき
エルフがこっちへおいでという身ぶりをしたので、アナリーズは用心深く近づいた。エルフが
平たい石のひとつをアナリーズの前におき、赤々と燃える炉火の向こう側にもどって腰をおろし
た。
アナリーズは倒木に座り、興味津々で食べ物を見つめた。燃える燠の向こうにいるエルフにち
らりと目をむけると、手と小枝を使って緑の包みを手際よくこじあけている。なかからシューと
湯気がたちのぼった。アナリーズが見ていることに気づいて、エルフがアーモンド型の目を上げ
た。アナリーズはあわてて自分の前にある食べ物に視線を落とした。
緑の包みは、何枚もの葉をきちんと組み合わせて重ねたものだった。単純だけれど美しく、
隅々
まで丁寧に織りあげられている。エルフの手際をまねて手と小枝で葉の包みをはがすと、湯気が
70
第一部
うさぎ
たちのぼり、兎の肉の匂いと、さまざまな香草も香ってきたが、その大半は知らない匂いだった。
大きな音を立ててお腹が鳴ったが、アナリーズはためらっていた。エルフは優雅な手つきです
こしずつ肉を食べながらこちらを見ている。もしも毒入りだったら? そうしたら死んでしまう
けれど、少なくとも温かいものを食べてから死ねるわ。アナリーズは自分に言いきかせた。
恐る恐る兎肉を口に運んだ。なんとも言えないほどおいしい。アナリーズははにかむ笑顔をエ
ルフに向けてから、むさぼるように肉を食べた。エルフの冷ややかな視線を感じたが、気にかけ
なか っ た 。
い
ずみ
食べ終わってみれば、あのおいしい食べ物をがつがつとまたたく間に平らげたようすが、飢え
おき
た野蛮人のように見えたにちがいないと気づく。アナリーズは指をなめながら、燃える熾の向こ
うにいるエルフを見つめていた。
長い黒髪を頭の後ろでぎゅっとまとめて結び、片頬には黒の入れ墨がある。細い線で描かれた
その入れ墨は、見たことのないなにかのシンボルで、渦巻きと繊細な曲線模様が組み合わさった
もので力強く美しい。なにを象徴しているのだろうとアナリーズは思った。エルフはゆっくりと
食べていた。上品に肉を裂く細長くて白い指は、なぜか蜘蛛の脚を思い出させた。エルフの繊細
できちんと制御された動きには、凄まじい力が秘められているのだ。
アナリーズはあわてて目をそらした。エルフにはどこかしら、背筋をぞくりとさせるものがあ
る。エルフが恐い、それはまちがいない。エルフはなにからなにまで、あまりにも……人間とは
ちが っ て い る 。
渾沌のエンパイア
71
それでも、恐いと思いながらも、好奇心がうずいた。
「わたし……」アナリーズは口をひらいてから、なにを話せばいいのかわからないことに気づい
た。「わたしの言葉が理解できるとは思わないけど」エルフは無表情に彼女を見ている。
「あの家族を殺したの? あの気の毒な女の子たちを手にかけたの? わたしのことも同じよう
に殺 す つ も り ? 」
エルフは肩をすくめると立ちあがり、火をぐるりと回って近づいてきた。アナリーズはひるん
で後ずさった。目の前にくるとエルフがしゃがんで両手を前に出した。見おろすと、食べ物を差
し出している──エルフはまだ食べ終わっていなかったのだ。
アナリーズは首をふっ
急に自分が愚かしく思えて、そばかすの顔が薔薇色に染まるのを感じた。
た。エルフがもう一度、無表情に食事を差し出し、アナリーズも今度はもらうことにした。食べ
物を受けとるときに、エルフの両手に触れた。純白の大理石のように冷たく硬そうに見えたその
手は、温かくてやわらかかった。
アナリーズはまた頬を赤らめ、エルフが離れてから食べはじめた。この二度目の食事を終えて
から、もう一度エルフに話しかけた。
「食べ物を分けてくれてありがとう」黙ったままで超然とした相手に話しかけるのは、なんだか
まがぬけている──石の壁に向かって話しているみたい。それでも、なんとかして意思の疎通を
はかってみようと思った。無表情で、幽霊のように白いエルフの顔は、なにを考えているのかす
こしも読みとれない。
72
第一部
アナリーズは自分の胸を指し示しながら、「アナリーズ、アナリーズ」とくりかえした。それ
からエルフを指さし、問いかけるように両眉を上げてみせる。エルフに反応はなく、ただラベン
ダーの目で見つめ返していた。
「アナリーズ」もう一度言って自分の胸を軽く叩いた。それからまたエルフを指さし、しぐさで
問いかける。気が狂ったと思われているかもしれなかった。エルフはじっとアナリーズを見つめ
てから、そっと顔をそらした。
ふいに、エルフが向きなおって自分の胸を叩いた。
「エルダネア・ラサロス・アス・ルラルメ
ノス・ル・ナガリィン」エルフが丁寧に歯切れよく発した言葉は耳をすりぬけていった。
アナリーズはエルフを見つめた。一語も聞きとれなかったと、その顔に書いてあったにちがい
ない 。
エルフはまばたきをすると、やはり胸を指し、さっきよりもゆっくりと言った。
「エ ル ダ ネ ア 」
それから、エルフはアナリーズに背を向けた。
「エルダネア」アナリーズは小さな声でそう呟きながら、自分が口にしている名前の音に耳をす
ます。エルフが言ったのと同じように発音するというわけにはいかなかったけれど、少なくとも
名前はわかった。これは第一歩だわ。
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