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〔公益学研究
第 11 巻
第 1 号,pp9-18,2011〕
 特集1:医療と公益 
精神障害の新しい理解を通して新しい希望へ
―共生社会の実現を目指して─
A Positive Step against Prejudice with a New Understanding of Mental Disorders
─ Towards a “Fully-Accepting” Society ─
玉 井 洋 一
Yoichi Tamai
たまいこころクリニック
TAMAI KOKORO Mental Clinic
英文要旨
People with mental disorders are burdened with, in addition to the primary handicap, which is impairment caused by the disease
and the secondary handicap, which is disability, the third handicap, which is social disadvantage. This social disadvantage is caused
primarily by people’s misunderstanding or prejudice against people with mental disorders, i.e., stigma. This has resulted in people with
mental disorders being discriminated against in their social lives and even being robbed of human rights. A lack of accurate information
on mental disorders and people with mental disorders would broaden those mistaken images leading to prejudice. As a result, people
with mental disorders are excluded and isolated from society, which in turn reduces further accurate information on them, creating a
negative chain. This paper points out the fact that a negative role that prejudice and the media have played has been a significant cause
of historical stigma,with statistical data and case studies. The prejudice refers to images that people have held without valid reasons and
the media refers to their coverage of social events. In order to escape from such stigma, it is necessary to obtain a correct understanding
of mental disorders based on accurate information, to be in contact with people with mental disorders in our daily lives such as school
education and local societies, and to ascertain bilateral communications by having the voices of people with mental disorders heard. Only
when these are achieved, social participation by all people, with or without disorders, where they are treated equally with their human
rights protected, can be expected to be realized. Such a society is a non-prejudicial and “fully-accepting” society, which has foundations
in the philosophy of normalization.
本稿を故坂上正道先生に捧げます。
1.はじめに
物質乱用者を含めたある種の精神障害あるいは神経障害を
患っていると推定される。1999 年の時点ですべての疾患
WHO 事務総長のグロ・ハーレム・ブルントラント博士
に罹っている人の 10%以上が精神障害と考えられる。し
が 2001 年の世界保健デーにあたり,日本の記念講演会に
かし実際に治療を必要とする人と実際に治療を受けている
以下のメッセージを寄せている。その一部を抜粋する。
人との間には大きなギャップが存在する。統合失調症の再
「今日,世界ではどんな時点でも,4 億人を超える人が
発は,もし適切な薬物療法を受け,家族が必要な教育と支
援を受けるならば 60%に減らすことができるが,実際に
玉井 洋一(たまい よういち)
たまいこころクリニック院長・北里大学名誉教授・医学博士
略歴
東京医科歯科大学医学部卒。同大学院で精神神経医学を専攻。
東京大学医科学研究所および医学部生化学教室で神経化学研究
を行う。精神科病院医師,新潟大学脳研究所,ミシガン大学
医学部研究員を経て 1972 年,北里大学医学部に赴任。1988 年,
トロント大学客員教授。1997 年には北里大学医学部・病院倫理
委員長として「脳死患者からの臓器移植に関する見解」をとり
まとめるとともに医の倫理を考究した。2000 年,人間総合科学
大学の創設に参加し,社会人学生とともに生命科学・人間学を
講学した。2005 年,たまいこころクリニックを開設。
これらの治療を受けているのは 25%に過ぎない。これら
の事実に多くの人びとは驚くにちがいない。私たちは事実
を直視して,予防,治療そしてケアーを妨げている多くの
タブーを解消することに努めねばならない。タブーは差別
をもたらす。しばしば精神疾患を患った人は彼らの住む地
域社会から除け者扱いされる。多くの国で,精神障害の基
本的人権さえ,いつも侵されている。これらの差別は偏見
によるものである。そして偏見が精神障害問題を押し隠し
たものにしてしまう。私たちが偏見と差別について語ると
〔公益学研究
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き,初めて私たちは実際の進歩を作り出せるのである。そ
のことは不可能ではない。」
WHO の 2002 年 障 害 調 整 生 存 年 数(Disability-Adjusted
第 11 巻
第 1 号〕
2.スティグマ ─ 精神障害への誤解・偏見
(1)スティグマとは何か
Life Years, DALYs)によれば,3 つの精神疾患が上位 20 位
スティグマ(stigma)とはもともとギリシャ語で「焼き
のうちに入っており,うつ病や統合失調症をはじめすべ
ごてで印をつける」とう意味で,体につけることによって
ての精神疾患を合わせると 22.5%で,全疾患の中でトップ
奴隷,犯罪人,謀叛人,穢れた者,卑しむべき者を世間に
になる(臨床精神医学 40,No1 に拠る)。うつ病や統合失
知らしめたものであり,共同体のスケープゴートの対象で
調症の DALY 値は要素的には寿命ロス(病気により失わ
もあった。英和辞書では汚名,烙印などの意味があるとし
れる命)よりも健康ロス(障害により損なわれる健康生
ている。スティグマの定義といえば,ゴッフマンの次の定
活)の意味が大きい。健康ロスは当人や当人に関わる周囲
義が有名である。
のものが働けないことによる経済ロスにつながり,また経
「スティグマという言葉,およびその同義語は次のよう
済的負担の面からもその克服は大きな課題になっている。
な二つの方向への展望を覆いかくす。その二つの展望と
さらに精神障害は,機能的不全(impairment)と能力不全
は,スティグマのある者は,自分の特性がすでに人に知ら
(disability),その結果としての社会的不利(handicap)の
れている,あるいは人に見られればたちどころにわかると
総体であるとされている(1983 年国際障害者年行動計画)。
仮定しているのか,それとも,彼は自分の特異性がその場
これらの現実を直視するとき,精神障害は公益という観点
に居合わせるひとのまだ知るところとはなっていない,あ
からも無視できない社会的,公共的な問題であることが明
るいはすぐに感知されるところとはならないと仮定して
らかである。英国のブレア政権は,精神疾患を,がん,循
いるのか,ということである。第一の場合には,人はす
環器疾患とともに 3 大疾患と位置づけて,精神保健・医療
でに信頼を失った者(the discredited)の苦境におかれるの
改革の最重点疾患とした。わが国では,厚生労働省が平
であり,第二の場合には,信頼を失う事情のある者(the
成 19 年に施行された改正医療法により,医療計画制度の
discreditable)の苦境におかれるのである。」
(白石大介「精
下で,いわゆる 4 疾病 5 事業ごとに,医療連携体制を構築
神障害者への偏見とスティグマ」より引用)として,ス
することとしたが,精神科医療は含まれていない。このよ
ティグマは以下の三つに分類できるとしている。①身体上
うに,からだの健康に比べるとこころの健康の位置づけが
の障害,②性格上の,もしくは精神上の欠点や障害,③人
低く,保健・医療・福祉のいずれの分野においても社会と
種,民族,宗教等という集団にかかわるもの。こうしたス
しての取り組みが DALY の水準にふさわしくない遅れた
ティグマが個人や集団の中に持続的に起こると,個人は社
ままの状況にある。精神医療が抱える問題は多岐にわたっ
会的に大きな負い目を持って生きることになる。さらにス
ているが,とりわけ,精神障害に関する知識の普及,啓発
ティグマは社会的地位の低下をもたらし,失業や貧困を招
は緊急かつ重要なテーマである。偏見をなくすことが治療
く。社会的アイデンティティが損なわれると社会生活にも
への道につながり,それが健康ロスの低下をもたらすこと
影響が出てくる。個人や集団に対して人間性の否定にまで
が期待されるからである。病院収容隔離から地域生活支援
つながる恐れもある。統合失調症は精神障害の代表的なも
への流れをさらに押し進めるためには,ブルントラント博
のであるため,精神障害というとすべてこのような偏見を
士のメッセージにあるように,精神障害にたいする正しい
持つ傾向にある。日常生活において,われわれが言葉を用
理解を持ち,偏見(スティグマ)への解消に努めることが
いる場合,実態や事実を知らないままに,あるいは十分な
強く求められる。世界精神医学会(1996)や世界保健機構
事実確認をしないままに不用意に使用していることがいか
(2002)など国際的にもアンティスティグマ運動が展開さ
に多いかを認識する必要があるだろう。不正確な理解は誤
れている。平成 20 年 5 月に「こころの健康政策構想会議」
解を生み,誤解は偏見を生む。精神障害にたいする偏見は
から精神保健医療改革に向けて提言書が作成された。ここ
まさにその典型である。
では,共生社会に向けて脱施設化や地域における受け皿の
問題など医療・福祉的観点からの提案が幅広くなされてい
(2)スティグマの歴史 ─ わが国の場合
る。それらの提案が,単なる皮相的な提案に終わらないた
ヨーロッパでは,もともと精神病者の大部分は一般社会
めには,われわれひとりひとりの精神障害(者)にたいす
の中で生活し,狂気は文学など文化現象の中に自由に姿を
る正しい理解が不可欠である。本稿では,これまで,統合
現し,それは人々にとって日常的な体験であり,排除する
失調症を中心として精神障害への理解がいかに誤っていた
よりむしろ大切に扱っていた。14 世紀にはベルギーのゲー
かを実例を挙げて論じ,スティグマを糾すことによって「と
ルという地域に,すでに里親制度があった。しかし,17
もに生きる」というあるべき共生社会への方策を提示する。
世紀中頃,キリスト教勢力の増大とともに精神障害につい
て哲学的,宗教的な解釈がなされるようになり,魔女狩り
11
にみられるように「精神病は病気ではなく悪魔の仕業,神
(3)-1:ライシャワー大使事件
1964 年 3 月 24 日
の罰である」との考えの下,一般社会から迫害されるよう
これは,アメリカの日本大使であったライシャワー博士
になった。18 世紀になって精神障害の治療が司祭から医
が 19 歳の少年に大腿部を刺されるという事件である。鑑
師に委ねられるようになってもまだ,精神病者は鎖につな
定の結果,少年が統合失調症で治療中断中ということが明
がれていた。1793 年,フランス革命の潮流のなかで,精
らかになった。この事件がもたらしたものの第一はこの事
神科医ピネルがサルペトリエール施療院に入院中の患者を
件を契機にマスコミが精神障害者の犯罪を大々的に取り上
初めて鎖から解放し,精神障害者を病める人間として尊重
げるようになったことである。当時の新聞報道の姿勢の
した。その後,19 世紀から 20 世紀初頭にかけて精神疾患
代表例を挙げる。「春先になると,精神病者や変質者の犯
の自然科学的研究が盛んになり,多くの精神病院が人里離
罪が急に増える。毎年のことだがこれが恐ろしい。危険人
れたところに立てられるなど社会防衛的見地から精神障害
物を野放しにしておかないように,国家もその周囲の人も
者施策がとられるようになった。
もっと気を配らねばならない。犯人が精神病的だからと
一方,わが国ではヨーロッパと異なり,精神障害にたい
いって,外国大使を傷つけた日本の責任が軽くなるという
する宗教的偏見は少なかった。むしろ,精神障害者を温か
ものではない」(昭和 39 年 3 月 25 日付朝日新聞「天声人
く迎い入れる土壌があった。たとえば,律令制度では,精
神病者には罪一等を減ずるという規定があったといわれる。
語」)。どのようなデータに基づいているかわからないが,
「春になると精神病者の犯罪が増え」,「危険な精神病者が
11 世紀,京都の岩倉村では岩倉大雲寺に加持・祈祷を求
野放しになっている」と,堂々と新聞紙上で語られている。
めて集まる精神障害者に近在の民家が住まいを提供し生活
学問的裏付けに基づき,公正な報道を自認する大新聞でさ
の世話をしたといわれる。江戸時代には精神障害者を「隣
え,当時の認識はこの程度であったことを示す一例である。
人」として迎え入れていたといわれる。京都には里親制度
大新聞は国民の代弁者を自認するだけに一般国民への影響
もあったという。
はきわめて大きかった。その後に起こった,丹羽元労働大
どうして精神障害に対する誤った理解がわが国で蔓延る
臣死傷事件,バスジャック,ハイジャック,そして池田小
ようになったのであろうか。我が国に限って考えると,こ
学校事件(後述)など,すべて精神障害者イコール危険な
れは明治以来の近代精神医学によるところが大きい。明治
存在,というイメージがマスコミ報道を通じて作り上げら
政府が国家権力を確立し,西欧列強に伍していくために国
れることになった。第二は施策としては精神衛生法が改正
内体制の整備に努める過程で精神障害者を社会から隔離す
され,通報や入院制度が強化され,また病床数が大幅に増
る政策がとられるようになった。入院治療システムのみを
加することになった(図 1)。
先進西欧諸国から取り入れ,鉄格子で装備した病院に精神
障害者を押し込める政策をとるようになってから,市民の
意識(誤解)が生まれるようになった。1901 年,東京帝
国大学の精神医学教室の教授であった呉秀三が,「この病
を受けた不幸の外に,この国に生まれた不幸」つまり二重
の不幸を持っていることを指摘した言葉は余りにも有名で
ある。なぜこの国に生まれたことが不幸かと言えば,例え
ばフランスでは,呉秀三が嘆いたときより 100 年も前の
1793 年に,前述したように精神科医ピネルが,それまで
鉄の鎖に繋がれて収容されていた患者を解放し,「精神病
者は罰せられるべきではなく,病人としてのあらゆる医療
を受ける権利がある」と宣言した。日本における精神病者
への施策が 100 年遅れていたにもかかわらず,さらに逆の
図1
各国の精神科病床数の推移(OECD Health Data 2001)
方向に向かって行った。
1960 年には 8 万 5 千床の精神科病床が,1975 年には 27
(3)スティグマの実態 ─ 事件報道の負の役割
万 5 千床にまでなった(2009 年現在,34 万 8 千床)。ライ
日本の精神障害施策の歴史的過程については本論では触
シャワー事件こそ「精神障害者福祉はどうあるべきか。障
れないが,本節ではこの半世紀の間に,精神障害者への偏
害者をどのように町に戻すべきか」を考えるべきであった。
見と処遇に大きな影響を及ぼした社会的事件について触れ
この施策は,精神障害者を一般市民から見えないところに
る。
置くことにより,障害者への偏見と誤解,いわゆるスティ
グマをさらに増大させ,持続させることになった。その意
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味でライシャワー事件は結果としてマイナスの意味で大き
第 11 巻
第 1 号〕
言っても過言ではない。
な出来事であったということができる。多くの日本国民は
未だにその呪縛から抜け出ることができないのが現実であ
表1
池田小学校事件の報道被害に関する調査結果
る。皮肉ではあるが,ライシャワー博士の母国アメリカで
は,日本の施策とは反対に,1963 年,ケネディ教書によっ
て精神障害者の脱施設化という施策が展開されて行く。図
1 からも明らかなように,欧米の精神科医療がこの 40 年,
「脱施設」,「地域生活支援」を基本に病床数も入院者数も
減らす方向に進んできたのと対照的である。わが国では人
口 1000 人あたりの病床数はアメリカの 9 倍にもなっている。
(3)-2:宇都宮病院事件
1983 ~ 1984
アメリカだけではなく,人権思想の高まりや薬物療法の
進歩によって,障害者を病院から開放するという考えは世
界的な流れになっていた。このような背景の中で,1984
年 3 月,精神病院の看護職員が二人の入院患者を殴る蹴る
のリンチを加え殺すという事件が発覚した。世に言う宇都
宮病院事件である。こころ病めるものを癒す場で起きた悲
表 1 は事件の一月ほど後に,全国 122 の精神病院と医師,
惨な事件は国際的な非難を浴びることになった。経済大国
患者,家族を対象に調査した結果である。報道が精神状態
に酔いしれていた日本の評価は,人権擁護の見地から厳し
に影響を与えたと考えられるものが患者と家族それぞれ
く指弾されることになったのである。敗戦後の混乱からひ
に 40%近くに達した。医師は,報道によって 90%の病院
たすら経済再建に猛進してきた国家が,憲法の理念として
で患者になんらかの影響があったと回答している。回答し
の基本的人権,とくに障害者の人権を放置し続けたことに
た医師の受け持ち患者の中で,2 人が自殺し,24 人が再入
対する国際的な批判であった。まもなく国連から法律と医
院している。警察から家族調査までされたケースも全国的
療の合同調査団(国際法律家委員会,国際医療職専門委員
に報告されている。時が経ち,いろいろな事実が分かって
会)が三回来日し勧告を出した。これを受けて精神障害者
くるとマスコミ報道にも変化が現れてきた。しかし,マス
の福祉を含めた法律がいくつか制定されることになり,こ
コミの第一報「多数の小学生を刺し殺した凶悪犯人は精神
こにはじめて精神障害者も社会構成の一員であるというこ
障害者」,「精神障害が理由で大量殺人を起こした」,「精神
とが法律に明記されることになったのである。今までの「閉
疾患と事件が結びつきがある」というイメージを消し去る
ざされた医療」からようやく「開かれた医療」へ歩き始め
ことは容易ではない。一般の人が「精神障害者イコール何
たということができる。
をしでかすか分からない」という偏見をもつのも決して不
宇都宮病院事件は精神障害者施策の観点からは,大きな
思議ではない。本論は精神障害者の事件,犯罪を合理化し,
転換点となったことは確かである。しかし,障害者へのス
弁護することを目的とするものではない。次章で論じるよ
ティグマとは切り離して考えられ,次に述べるように人々
うに,精神障害者イコール危険な存在という誤ったイメー
の偏見はさらに増大していった。
ジが作り上げられる過程に報道が大きく関わってきたこと
(3)-3:池田小学校事件
2001 年 6 月 8 日
当事件について解説するのが本論の目的ではない。この
事件の報道がいかに精神障害者への偏見を強固にするのに
を実例を挙げて示した。
3.精神障害の正しい理解 ─ 誤解・偏見の是正
寄与したかについて述べる。ライシャワー大使事件を契機
精神障害者,とくに統合失調症に対し一般人が抱く誤っ
に病歴報道への批判とそれを受けてメディアの報道姿勢が
たイメージ(スティグマ)の代表的なものとして以下のも
未だあいまいなうちにこの事件が起きた。「精神障害者が
のが挙げられる。
事件を起こした」という第一報は精神障害者は危険である
・統合失調症は不治の病である。
というイメージを強く人々に植え付けた。事件の後,犯
・統合失調症の患者は,通常暴力的である。
人の厳罰と対策を求める署名がたちどころに 82 万人分集
・統合失調症の患者は,怠け者で信頼できない。
まったという。その後の社会現象として,精神障害者やそ
・統合失調症の患者は,何をするか予測がつかない。
の家族がいたるところで差別発言やいやがらせに遭遇する
・統合失調症の患者は,自分の人生に関する合理的な決定
ということになった。精神障害者はまさに憎悪の対象に
なったのである。ナチスのユダヤ人迫害に似た社会現象と
を下すことができない。
・統合失調症は,両親の責任で起こる病気である。
13
・統合失調症の患者は,一生を通して徐々に病気が進行す
る。
一方,こういう議論もある。精神障害者による殺人事件
が問題になると,「早くそれを予測して対処すればよかっ
ここでは,もっとも誤解が大きく,社会的にも影響があ
た」という意見である。これは「再犯予測」といわれる。
る「統合失調症の患者は暴力的で危険である」という偏見
例えば,天気予報は科学的データに基づいた予測である。
を取り上げ,犯罪白書から検証する。
しかし,ここで問題としている予測は,特定の患者が将来,
重大な暴力事件や殺人を起こすか,という予測を意味する。
表2
精神障害をもつ人の犯罪率
それは不可能であることは言うまでもない。さらに精神障
害者の再犯率はそうでない人より低い。
以上の統計からも明らかなように「統合失調症の患者は
暴力的で危険である」というイメージは偏見以外の何物で
もないことを示している。思いこみだけによる誤解や偏見
の典型例である。前述したように,スティグマが事件報道
によって増幅され,一般の人々に誤ってインプットされた
ことは無視できない。多くの偏見や誤解は図 2 に示すよう
に悪循環で形成され,増幅される。スティグマの是正には
この悪循環を断ち切ることが求められる。それは何よりも
精神障害(者)にたいする正しい理解に尽きるであろう。
表3
精神障害をもつ人の犯罪の内訳
図2 社会的偏見・誤解の悪循環
(蜂矢・村田編「精神障害者の地域リハビリテーション」)
4.社会に対する啓発活動 ─ 正しい理解のための提案
これまでは,精神障害(者)にたいし誤解を生むに至っ
た負の側面について述べてきた。ここでは偏見を糾す具体
策について考えてみたい。その前に,精神障害者が日常の
行動やどのような場面で困難を示すかについて理解してお
く必要がある。
・一時に沢山の課題に直面すると混乱しやすい。
平成 22 年度の犯罪白書によると(表 2),刑事事件を起
こして検挙された精神障害者は精神障害の疑いも含めて
全検挙者の 0.8%,つまり 100 人に一人以下である。換言
すると 99.2%,つまり 100 人のうち 99 人は精神障害者で
・とっさの出来事や予定外のこと,あいまいな状況にたい
して統合的な判断をするのが苦手である。
・部分的なことにこだわり,全体を把握するのが苦手で,
問題処理の段取りがうまくできない。
はないことになる。さらに精神障害者の中で犯罪を起こす
・状況の変化にうまく対応できない。待てない。
者は 1000 人に一人である。すなわち国民 10 万人に一人か
・くつろげない。緊張しがちで疲れやすい。冗談が通じる
二人の割合になる。国民全体の中での刑事犯人の割合は
0.3%,1000 人に 3 人であるから,精神障害者が危険であ
るという考えが誤解であることが明確である。さらに表 3
は精神障害者が起こす犯罪は重大事件が多いという偏見を
糾すものである。また統合失調症者は検挙される割合が高
ほどの余裕がない。
・注意や関心の幅が狭く,ものごとに慣れるのに時間がか
かる。
・通常なら個人的なこととして秘めておくことも話してし
まう。
いので数字としては高くなること,被害者の多くが家族で
・うまくリズムにのれない。おなじ失敗を繰り返す。
あるというのも特徴である。
以上を踏まえた上で,一般社会がなすべきこと,われわ
〔公益学研究
14
第 11 巻
第 1 号〕
れが考え行動すべきことを,次の 4 項目について考察し提
を正しく理解し,障害者が「わたしは精神障害者です」と
案する。
ためらいもなく言える社会になりたいものである。われわ
れがどのような共生社会を作っていくべきかを考えるとき
(1)メディアの報道姿勢の改善
に,「当事者の体験に学ぶ」ことから始めることも必要で
事件報道の負の側面については,すでに実例を挙げて述
ある。危機を生き抜いた当事者の体験の中にこそ,多くの
べた。加藤周一は報道機関の存在理由に触れて「意識的
ヒントが隠されているからである。学ばなくてはならない
にか無意識的にか,出来事の一面を忘れ,他面を強調し
のは,社会の側であり,地域のわれわれである。
て,われわれにとって出来事のもつ意味が明らかになるよ
殺人を犯した統合失調症の男性が退院後,アパートでの
うに操作する。」と指摘し,われわれが社会の出来事を知
単身生活に移り 4 年間安定に暮らしている事例を報告した
るのは新聞やテレビなどの大衆報道機関を通じてである以
高知県精神保健福祉センターは「必要なのは社会防衛より
上,報道機関が提供する情報が民主主義が機能するかどう
も本人支援の視点ではないか。再び罪を犯すとすれば,そ
かを左右すると警告している(平成 17 年 2 月 23 日付朝日
れは本人よりも地域社会の問題だ。」と指摘している(河
新聞「夕陽妄語」)。昨今の誤った事件報道の具体例にはこ
北新報社編集局編「ともに生きる精神障害」)。精神障害者
こでは触れないが,この言葉の意味するところは残念なが
を正しく理解し,社会の中に受け入れ,地域の中でともに
ら現在も厳然と生きていて,報道側もわれわれも厳しく受
暮らすことの大切さを示す例である。
け止める必要がある。たしかに最近では,被疑者の病歴報
道には慎重な姿勢が感じられることも事実である。大切な
(3)学校教育の重要性
のは,精神障害者を「犯罪予備軍」という色眼鏡で見るこ
平成 17 年 1 月に内閣府が行った「障害者の社会参加に
となく,事件の経過を正しく分析し,精神症状と犯罪行為
関する特別世論調査」によれば,障害の問題を身近に感じ
の結びつきの有無を慎重に検証することである。一方的な
ている人は年齢層が若くなるほど高くなる傾向が顕著で,
偏見を取り除く努力をすることが報道に課せられた使命で
また身近な存在に感じた場面として「学校」をあげた人が
ある。同時に,読者であるわれわれにも,加藤周一の指摘
多いという結果が出ている。この世論調査は,学校教育の
を踏まえ,報道の煽動的な見出し記事にいたずらに振り回
中で障害者問題を取り上げることが必要であり,重要であ
されることなく,事件の本質を冷静に見つめる姿勢が求め
ることを示している。「第5回今後の精神保健医療福祉の
られるであろう。
あり方等に関する検討会」でも啓発活動の形態として,①
コミュニティ全体を介入対象とした啓発活動,②若者コ
(2)双方向性メッセージの必要性
ミュニティを介入対象とした啓発活動,③学校を基盤とし
精神的な病に悩む人の多くは,上に挙げたように苦しさ
た啓発活動,④若者の支援者(家族・友人等)を介入対象
の一つとして,病気のつらさが周囲に伝えられないことを
とした啓発活動(トレーニングプログラム)を挙げ,学校
訴える。いいかえると,健常者はどこまで障害者の当事者
や若者への啓発活動の重要性を指摘している。現在の教科
メッセージを受け取る能力を持っているか,持つように
書では精神障害を取り上ることはほとんど無いに等しい。
なったかが問われる。これは制度や政策といった社会の仕
学校教育の中で精神障害(者)を正しく教え,理解させ,
組みの整備だけで解決できるものではない,「共生社会」
そして共に学ぶことによって初めて彼ら,彼女らが身近な
に成熟するための根源的な課題である。相手を理解するた
存在として何の偏見もなく受け入れることができるであろ
めには,受け止める姿勢を持った上で,相手からの信号が
う。人間の社会には,不幸にして障害を負って生まれてき
必要であることはいうまでもない。すなわち,双方向的な
た人々もおり,病気の人々もいる。それが人間社会の正常
発信をどのようにつくりだしていけるかという課題である。
なあり方なのだという認識もノーマライゼーションの考え
その一つとして,障害者自らが積極的に声を挙げることも
方に含まれる。子供たちが,障害があったり,不自由な生
重要であろう。最近は,例えば NHK の「福祉ネットワー
活をしている人々と身近に接しつつ成長していくことこそ,
ク」や「ハートをつなごう」という番組にみられるように,
人間的な共感性,人間としての心と知恵を持つ上で大切で
精神障害者やその家族が堂々とテレビに出て,自分たちの
ある。「真に必要なのは同情であるよりは,むしろ,理解
生きづらさや理解して欲しいことを訴え,一般社会の理解
である。障害を持つこどもたちと普通につきあったことが
を求める番組も多くなってきている。きわめて望ましい方
あるという経験がなければ,人間としての相互理解が生ま
向にあると言えるだろう。現在の社会では,精神障害者は
れる可能性はない。障害者が何を必要とし,何を必要とし
まだまだ拒否されがちであることも事実である。一方,障
ていないかをしっかりと理解するようになれば,それは障
害者自らの発言が増えることによって,社会が身近さを感
害者の自立にもつながるであろう。障害をもった子供たち
じ始めていることも事実である。一般社会が精神障害(者)
も,やはり同じように社会的参加への意思と希望を持った
15
人間であることを,普通の子供たちが理解することが最も
に,「人間の能力の『差』はまさに多様であり,それが人
重要である」(正村公宏「ダウン症の子をもって」)。最近
間の社会である」ということを理解しなくてはならない。
の統計調査などでも偏見に対する教育効果の大切さが報告
5.自立に向けて
されている。例えば,保護者や学校の教職員など若者が精
神的不調を抱えた際に支援者となる人々に対する初期支援
(1)主権と自立
や初期介入に関するトレーニング講座(全 12 時間。2 時
「『知恵遅れに生まれて幸せか』と聞かれれば,ボクは躊
間程度のセッションを 6 回)を実施した結果,精神障害に
躇せずに,『幸せです』と答えるだろう。多くの人に巡り
対する偏見が改善され,支援を申し出る際の躊躇や抵抗感
会い,親切を受けたこともその一つの『幸せ』であった。
が減少し,実際に多くの支援が提供されるようになったと
しかし,
『幸せ』ということの内容ほど,千差万別で生き方,
いう(第 5 回「今後の精神保健医療福祉のあり方等に関す
考え方によって決まってしまうものはないと思う。第三者
る検討会」資料)。このように精神障害について正しい情
がうんぬんすることではない。個々の生き方の中に何らか
報を得る前と後では精神障害者観に違いがあることを示す
の一本の貫きがあって,初めてその人自身が,自らの幸せ
統計調査研究は少なくない(例えば,竹島正他「こころの
を感じるのではないだろうか。ボクは,元気な頃には気ま
健康科学研究事業」研究報告)。学校教育を含め,正しい
まに放浪もしたし,晩年には,集団生活という枠の中にあっ
知識の普及は不可欠である。
ても自分の生活に対しては,自分が主体的に取り組んで,
自分の能力を最大限に発展させるような生き方をしてきた。
(4)能力「差」の理解
皆に至れり尽くせりな世話を受けるようになってもボクな
個々人の活動能力の違い,すなわち,能力の「差」の認
りの一日をもっていて,その一日一日をボクなりに充実し
識がしばしば「能力主義」と混同されがちである。とくに
て過ごすように考えていた。集団生活の何から何まで皆と
学校生活や社会生活の中で精神障害者を正しく理解する上
一緒という扱われ方の中で,ややもすると,埋没してしま
では両者の違いを明確にしておくことが必要である。能力
いそうな個を一生懸命に主張していた。ボクは,もって生
の「差」は自然的な「差」を含む多様な能力の「違い」を
まれた頑固さで,生かされるのではなく,自らが主体的に
意味する。これに対し「能力主義」を竹内は次のように定
生きるようにつとめてきた。常に生きるということにはど
義している。「『能力主義』とは一般的には資本主義的・管
ん欲であった。」(水田善次郎「ダウン症者の社会生活」)
理社会的な競争原理の中核をなす,支配のための原理であ
これは 64 歳で亡くなった福井楠馬というダウン症者の
り,人間の差別・選別・序列化の近代的原理である。」(竹
気持ちを養護施設の職員を通して表したものである。この
内章郎「いのちの平等論」)。そこには個々人の能力の中に
一節の中で,「埋没してしまいそうな自分という『個』を
ある社会的・文化的なねうちが無視されている。前述した
一生懸命主張し,主体的に生きるようにつとめてきた」と
ように精神障害者の日常行動の困難さ,たとえば「動作が
いう表現に注目したい。この言葉は筆者にフランクルの言
にぶい,混乱しやすい」などは学校の中で「いじめ」の対
葉を思い出させる。「彼自身の未来を信じることができな
象となり,社会の中では「差別・抑圧」の対象となる。「能
かった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に
力主義」で留意しなくてはならないのは,評価をする尺度
彼はそのよりどころを失い,内的に崩壊し身体的にも心理
が,いわゆる「健常者」側の物差しであり,それによって
的にも転落したのであった。…何故生きるかを知っている
能力の弱さ,鈍さを「能力不全」と価値づける傾向にある
者は,殆どあらゆる如何に生きるか,に耐えるのだ。」(フ
ことである。この「能力不全」は人間の尊厳や人格・人間
ランクル「夜と霧」霜山徳爾訳)。養護施設と強制収容所
性の欠落と理解され,人間存在そのものまで否定されてし
という環境の違いは大きいが,両者に共通するのは,人間
まうことになる。1983 年の「国際障害者年行動計画」は,
「障
はいつかは死ぬという事実を忘れることなく,
「何故生きる
害者(Disabled persons)はコミュニティの他の人々とは
のか」という生きるための目的を意識し,懸命に生きてい
異なるニーズを持つ特別な集団(a special group with needs
くことが重要だというメッセージであると筆者は理解する。
different from the rest of the community)として考えられる
福井楠馬の言葉に戻ろう。「個」を主張し,主体的に生
べきではなく,彼らの普通の人間的ニーズを満たすこと
きることに努めた態度は,別の言葉に置き換えれば「主権」
における,特別の困難を持つ普通の市民(ordinary citizens
であり「自立」ということになるだろう。最近,「当事者」
with special difficulties)」とうたっている。「普通の人間的
あるいは「当事者主権」という言葉がよく使われる。中西・
ニーズ」という表現に示されるように,障害があることに
上野は「ニーズ(必要性)を持ったときに誰もが当事者に
よる能力の「差」は認めつつも(無原則的な人間平等論で
なれる。」と定義している(中西正司・上野千鶴子「当事
はなく),それが人間存在の差別・抑圧につながることに
者主権」)。では「主権」とは何か。「主権とは自分の精神
警告を発している。前節で引用した正村の言葉にあるよう
や身体に対し誰からも侵されない自己統治権,すなわち自
〔公益学研究
16
第 11 巻
第 1 号〕
己決定権を指す。私のこの権利は誰にも譲れないし,誰か
な生活をする権利がある」という考え方は,いまだ十分に
らも侵されないとする立場,これが当事者主権である」(前
理解されているとは言えない。
掲書)。当事者主権とはまさに人格の尊厳そのものである
6.こころの風景
ということができる。しかし,当事者主権,平たく言うと,
自分のことは自分が決めるという人間としてもっとも基本
稿を終える前に,精神障害者―こころの病を抱えながら
的な権利を,長年にわたって精神障害をはじめとして社会
生きている人たちの足取りのわずかでも知るために,今一
的弱者は奪われてきた。しかし,「障害者を地域に」とい
度,彼ら彼女らの声に耳を傾け,心に触れてみることにし
う最近の大きなうねりの中で,障害者の「自立」という問題,
よう。最初は隆明君というダウン症児の母の育児日記をも
自立とは何かということを考えなくてはならなくなった。
とに父親が本にしたものである。
われわれは「自立」というと,他人の世話にならずにひと
「11 月 21 日(水)
りでやっていくというふうに考えがちである。しかし,こ
私(母)が居間で本を読んでいると,彼がいる隣の部屋
の社会にいる限り,障害の有無にかかわらず誰でも他人の
から,すすり泣くような声が聞こえてきました。はじめは
助けを借りずに生きていくことはできない。他人によって
ふざけているのかなと思っていたのですが,いっこうにや
自分のニーズを充たしてもらわなければならないのである。
まないので,変だと思っていってみました。すると彼は,
一見,自立した個人の集まりのように見えても,実は互い
ハンカチに顔をあてて本当に泣いていました。
に依存しあった関係にあるのが,この社会である。障害を
私は,すぐには声をかけないで,様子を見ました。ラジ
持っている,いないに関わらず,必要な助けを必要なとき
オ・カセットには,テープがかかっていて,シューベルト
に受けられる社会,そのような社会こそ誰でもが安心して
とモーツアルトの子守歌がつづいていました。彼は,私が
住める社会ということが出来るだろう。現実には,われわ
はいってきたことに気づきませんでした。子守歌のところ
れの住んでいる社会は,障害をもたないものの立場から作
が終わると,巻き戻しをして,またかけました。そしてまた,
られている。なぜなら,障害者は人口の 2,3%に過ぎない
ハンカチに顔をうずめ,背中をまるくして泣いていました。
ので,最大多数の最大幸福という民主主義の原則に基づけ
私が,彼の肩にそっと手をかけて,『悲しいの?』とき
ば当然かもしれない。しかし,民主主義が,少数者,社会
くと,彼はコックリしました。私は,黙って部屋を出ました。
的弱者の犠牲の上に成り立つことを認めることはできない。
彼の好きな音楽を通して,豊かな感受性をもってくれるこ
障害者の自立運動の中でも,精神障害者や知的障害者の
とを希っています。子守歌は,優しくもありますが,どこ
問題は身体の障害者と比べ特別の目で見られてきた。それ
かもの悲しくもあります。」(正村・前掲書)
は,当事者主権の基本である自己決定能力に欠けるとみな
*
されてきたからである。次に障害者が人間としての存在を
もう一つダウン症児のこころに触れてみよう。洋君が長
無視されてきたことを患者自身の声から示そう。その悲痛
崎大学付属養護学校の高等部にいるときの母の記録で,職
な叫び,訴えを重く受けとめたい。
場実習を体験した洋君がいつになく上機嫌で帰宅し,成績
「秋になって仲間の一人が自殺しました。葬儀に参加し
で○をもらい先生にほめられたことを報告する場面である。
ようと,友人が家族に連絡を取ったら出席を断られました。
「お母さん,ぼくね,今日ちょっと泣いたよ。」
17 歳の少女で新聞にも載っていましたが,デイケアのス
「…泣いたの?どうして。」
タッフはほかの仲間に一言も話さない。それは私にとって
「N先生にね,頭なでられてね,よく頑張ったなあってい
非常な驚きでした。これが高校生の少女の自殺だったら,
われたらね,ここからちょっと涙が出たさ…。」
学校できちんと話をして,生命を大事にしよう,冥福を祈
「ああそうだったの,それで泣いたのね。」
ろうということでしょう。ところが,精神医療・保健・福
「うん。」
祉の世界では,作業所の指導員も仲間も,ご家族に対して
「嬉しかったのでしょう。」
お悔やみを述べることすらできないのです。精神障害者が
「うん。」
苦闘した人生を精算したとき,人々はその人のことを密か
ほめられて─涙が流れるほど嬉しい気持ち─そんなに感
に忘れ去ることを望んでいるのでしょうか。私たち精神障
動するような喜びが今日までこの子の生活の中にあったの
害者は,生きているうちにも,死んでからでも,差別され
だろうか。悔しかったり腹が立ったりして流した涙は数限
続けるのかと思いました。」(滝沢武久「精神障害者の事件
りなくあったであろう。でも自分が認められて流した涙は
と犯罪」より転載)。国連の国際障害者年行動計画にも反
今日が始めてではなかったのだろうか。心の成長といえる
映されている「ノーマライゼーション」の理念,すなわち「人
かもしれない。しかし,それよりももっともっと素直に認
間は病気や障害や能力の有無によってではなく,すべての
めてやらなければならない事実がある。今度の実習で洋が
人が地域社会で治療や福祉サービスを受けて,他人と同等
それだけ心を燃やして自分との戦いに打ち勝って頑張って
17
いることを─。
て人間としてたがいが理解しあい,たがいが認め合うこと
「洋君,それが嬉し涙っていうものよ。涙は悲しい時に
が可能であろう。それこそがスティグマの是正につながる
ばかり流れるものじゃなくて,今日は洋君のように嬉しく
のであり,あるべき自然な姿なのである。
て嬉しくてどうしようもない気持ちの時にも流れてくるも
1979 年,アメリカ国家委員会が「被験者保護のための
のなのよね。嬉し涙っていいね。今,お母さんが流してい
倫理原則」(いわゆるベルモント・レポート)を提示した。
る涙も嬉し涙よ。洋君が一生懸命頑張るのでお母さんも
それは次の 3 原則からなる。「①人格の尊重(Respect for
嬉しくてたまらなくて泣いているよね。」洋も私も次の言
persons):個人は自立的な主体として扱われるべきである。
葉は語らなかったが,涙で顔がぐしゃぐしゃになっている
自立性の弱くなっている個人は保護を受ける権利がある。
私めがけて,洋が傍らのタオルをボーンとほおってくれた。
②善行(Beneficence):個々人の決定を尊重し,害をなし
言葉を交わす必要のない,すべてが通じ合っている私と洋
てはならない。利益をできるだけ大きく,害をできるだけ
の心うちであった。」(水田・前掲書)
小さくする。③正義(Justice):その人にふさわしい利益
*
を受ける権利がある。平等な人どうしは平等に扱われるべ
次は大江光さんにまつわる話を紹介する。光さんには生
きである。」これは,本来は医学・生物学研究のための倫
まれた際に頭部に異常があった。長年にわたり主治医で
理原則を定めたガイド・ラインであるが,筆者は,単に研
あった森安信雄博士が亡くなったとき,父親の大江健三郎
究領域にとどまるだけでなく,精神障害,知的障害,身体
さんと奥さんの二人で光さんに森安先生の死を一時間ほど
障害,あるいは障害の有無を超えた,広く人間社会に生き
かけて話されました。光さんは黙って体を硬くして聞いて
る上での「いのちにたいする倫理原則」であり,
「生存原則」
いたとのことです。翌日,光さんはてんかんの発作を起こ
であると考える。これまで精神障害(者)への「正しい理解」
します。それから間もなく,光さんは「Mのレクイエム」
が「スティグマの解消」と「脱施設化」,そして「共生社
という作品をつくります。大江さんは言っておられます。
会実現」のための大前提であることを繰り返し述べてきた。
「それは家族があらためてショックを受けるほど,澄明で
「脱施設化」や「ノーマライゼーション」の思想を誰もが
鋭い悲しみに満ちた音楽でした。光の作り出した音楽をつ
口にするようになって久しい。しかし,現実には遅々とし
うじて,もっとも深くまで,かれのこころの奥行きをはか
て進んでいない。精神障害(者)にたいし正確な情報を持
ることができると感じます。……森安先生の死から受けた
てばそれが正しい理解につながる。そのことによって彼ら,
こころとからだの体験が音楽という形で作品に反映されて
彼女らが地域の中でみなと共に生きることになる。それは
いる,そしてレクイエムという実体で心と体の苦しみから
精神障害(者)についての正確な情報をより深めることに
恢復して行くのだ。」(大江健三郎・大江ゆかり「恢復する
なる(図 3)。その中ではじめて,彼らが主体的に自立し
家族」)
たライフスタイルを確立することができるのである。効率
ここに紹介した「障害者」といわれる人たちに共通して
化を求める現代社会にあっても,精神障害(者)への正し
言えることは,それが言葉を通してであれ,あるいは音楽
い理解を通じて彼らが社会から排除されることがないこと
という形であれ,感動や表現を通して「心と体の苦しみか
を期待したい。
ら恢復して行く」ことではないだろうか。われわれが精神
に障害をもつ人々を自分たちとは異質な存在と捉えること
なく,お互いが共感し合える存在であることを認識するこ
と(いや,彼らの方がより感性がピュアで透徹していると
も言える),そのことが正しい理解であり,ともに生きる
者どうしになりうるのである。
7.おわりに
本稿では,便宜的に精神障害者と非障害者(健常者)と
を使い分けながら論を進めてきた。しかし,精神疾患に限っ
て言えば,障害者と健常者とを明確に区別することが困難
図3
「脱スティグマ化」から「ともに生きる」へ
であることも少なくない。健常と自負している人の中にも,
病む心をもっている人もいれば,心に病を抱え障害者とい
[追記] 厚生労働省は,平成 23 年 7 月 6 日,これまでの
われながらも健全に生きている人もいる。先に述べたよう
4 大疾病(がん,急性心筋梗塞,脳卒中,糖尿病)にあらた
に人間には能力の自然的な「違い」があり,また心のあり
に精神疾患を加え 5 大疾病とし,地域医療の基本方針とし
ようもさまざまである。であればこそ,障害の有無を超え
て位置づけた。
〔公益学研究
18
謝
辞
本稿は,「グループ芽」精神保健福祉講演会(2005 年 10
第 11 巻
第 1 号〕
央法規
世界保健機構(WHO)編(2004)「世界の精神保健―精神
障害,行動障害への新しい理解」明石書店
月 27 日),福島県精神保健福祉協会喜多方支部講演会(2007
高橋清久(2002)
「精神医療・福祉と公益」公益学研究 2(1)
年 3 月 13 日),および第 11 回日本公益学会全国大会(2010
滝沢武久(2003)「精神障害者の事件と犯罪」中央法規
年 9 月 12 日)における講演原稿をもとに加筆・再構成し
竹内章郎(2005)「いのちの平等論」岩波書店
たものです。各会の関係の皆様に感謝申し上げます。
竹島正他(2007)「精神科実習が看護学生の精神障害者観
に及ぼす影響に関する研究」厚生労働省・平成 19 年度「こ
参考文献
ころの健康科学研究事業」
浅井邦彦(2001)「アンチ・スティグマ・キャンペーン」
浅井病院精神医学・医療論文集
視点から」公益学研究 2(1)
朝日新聞(1964)昭和 39 年 3 月 25 日付「天声人語」
大江健三郎,大江ゆかり(1995)「恢復する家族」講談社
大野和男(2005)「精神保健福祉論講義ノート」日本社会
事業大学
玉井洋一,坂上正道(2000)「生命科学概論」人間総合科
学大学
内閣府(2009)「障害者白書」
中西正司,上野千鶴子(2005)「当事者主権」岩波新書
岡崎祐士他(2011)
「わが国の精神保健・医療改革の展望」
臨床精神医学 40(1)
奈良「ともに生きる」シンポジウム実行委員会編(2004)
「減
刑バンザイに異議あり」りぼん社
加藤周一(2005)平成 17 年 2 月 23 日付朝日新聞「夕陽妄語」
河北新報編集局編(2005)「ともに生きる精神障害」筒井
書房
蜂矢英彦,村田信男編(1989)「精神障害者の地域リハビ
リテーション」医学書院
ベルモント・レポート(1979)津谷喜一郎,光石忠敬,栗
関東弁護士会連合会編(2002)「精神障害のある人の人権」
明石書店
原千絵子訳 臨床評価(2001)28(3)
ヴィクトール・フランクル(1946)「夜と霧」(霜山徳爾訳)
厚生労働省(2008)第 5 回「今後の精神保健医療福祉のあ
り方等に関する検討会」資料
玉井洋一他(2002)「地域社会と精神障害問題―公益学の
平成 20 年 6 月 25 日
国際法律家委員会編(1996)「精神障害患者の人権―国際
法律家委員会レポート―」明石書店
白石大介(2000)「精神障害者への偏見とスティグマ」中
みすず書房
法務省統計局(2010)「日本の統計」
法務省法務総合研究所(2010)「犯罪白書」
正村公宏(1999)「ダウン症の子をもって」新潮社
水田善次郎編(1982)「ダウン症者の社会生活」学苑社
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