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アウラングゼーブのファルマーン(小名報告)
アウラングゼーブのファルマーン 小名康之 ムガル帝国時代の史料としては、各皇帝の一代記、皇帝の書簡集、貴族・高官の人名事 典、farman(勅令),nishan(皇妃、皇女、王子名命令書)、parwana(高官名命令書)な どがあり、その多くは領地や税率に関する命令である。本発表では、1662 年にアウラング ゼーブによって発布されたファルマーンについて報告する。 当時ムガル帝国は、ヨーロッパ各国の東インド会社とも関係を有していた。イギリス、 オランダ、フランスなどの各東インド会社は使節をしばしばムガル宮廷に派遣し、領内で の交易開始、主要な都市での商館設置の許可を求めた。1662 年のオランダ東インド会社の スーラト商館長のデリー訪問もこうした目的で行われたものである。 1662 年、スーラト商館長 Dircq van Adrichen は首都アーグラに長期にわたって滞在・活 動していた商館員 Jan Tack の助力を得て、デリーを訪問した。当時皇帝アウラングゼーブ は重病であったが、療養の結果回復し、皇帝の回復後、スーラト商館長はデリーの宮廷を 訪問し、皇帝に謁見した。1662 年の farman はこうした状況下で出されたものである。 同年に発給された farman は四通であり、そのうち第一のもののみペルシャ語の写しが存 在する。残りはオランダ語訳、英訳のみである。第一のものでは、商品売買の自由を定め、 原則として商品売買税、公道警備費の徴収を禁止している。第二のものはアーグラにかん するもので、仲介者取引料についての規定である。第三部のものラーフダーリー(道路税) 賦課の禁止である。第四のものは、商品税査定の原則、銅地金の販売、馬の購入に関する ことなどが記されている。ここで注意しなければならないのは、farman をはじめとするム ガル文書は、形式上発給先は各州総督などムガル帝国の地方高官であり、直接ヨーロッパ の各会社宛に発給されたものではないことである。公道警備費やラーフダーリーの賦課の 禁止はそのことを示している。 またこの farman では、港湾で徴収される商品関税及び商品価格の査定について規定され ている。前者は、関税率を原則 2.5%、外国商人の場合は 3.5%とする、地方政庁の付加的 課税は原則禁止することを定め、後者では原則は購入時の価格とし、商品価格に上乗せさ れれる場合は farman 第四部の規定に従って上乗せ割合の明細を決めるとされている。 問題点として、ヨーロッパ東インド会社に関する farman 原典の存在が未確認であること が挙げられる。ペルシャ語の写しは確認できるが、それが同時代のものか否か、原典から 直接写したものか否かについては不明確である。また、ヨーロッパの各東インド会社は farman の原典を保有しておらず、彼らが原典を確認できたかどうかも不明である。 また、ヨーロッパの会社とムガル帝国との関係は、国家間の公的関係ではなく、皇帝と 会社の私的関係であった。ヨーロッパ側は、交易に触れた farman 発給及び帝国領内での各 種付加「税」取立て、商品関税以外の税の免除を請願するが、farman の宛先はあくまでム ガル帝国の地方官吏であり、ヨーロッパの各会社に発給されたものではない。にもかかわ らず、ヨーロッパ現地商館は本国に「farman を授与された」としばしば報告している。こ れについては、本国宛の報告には皇帝の勅令である farman を使ったほうが通りがよかった こともあるが、そもそも商館側が farman の内容を正確に把握しておらず、場合によっては 内容を誤解したり、一部捏造していたことも考えられる。また、重要な事件でのムガル皇 帝の farman 発布の報告、内容の確認などもできておらず、これらについては今後の課題で ある。 質疑応答 ・ (質問)港湾担当官が関税を徴収する一方で、ヨーロッパ人が物資を運んだ先でもまた関 税が徴収されるとのことだったが、交易関連のことについてはスーラトですべて行うので はないのか (回答)スーラトでもやり取りはされるが、帝国の首都であるアーグラは藍の集散地で もあり、ヨーロッパ諸国は同地にも商館を置いて商品を買い求めていた。こうした商品が 輸出される際には、別に輸出税もかけられていた。 ・ (質問)ムガル帝国にとってのヨーロッパ諸国の位置づけはどのようなものだったか (回答) ヨーロッパ人はムガル帝国にとっては外部であり、序列的には低い。序列的に最 も重要であったのはオスマン帝国であり、サファヴィー朝、ブハラ汗国となる。ヨーロッ パ諸国の名前は認識されていたが、国際関係の相手としてどの程度認識していたかは不明 である。なお、farman は国内上の問題を扱う命令書の中で一番上のものであり、国際関係 を扱ったものではないことに注意する必要がある。 ・ (質問)東インド会社の貿易量について具体的にどのようなことが言えるか (回答)具体的な数値は不明であるが、オランダ側はこの交易をインドとアジア・マレ ー世界の関係で捉えており、ヨーロッパとの関係として捉えていない。インド商人は港の みでなく内陸まで入って活動し、綿花、硝石などの商品を集めてくる。通説では、インド 西部の商取引は内陸部まで影響を与えるものではないとされていたが、実際にはまったく 影響がなかったとも考えられず、今後各文書の実証的研究が必要である。 ・ (質問)東インド会社はスーラト入港時とアーグラで商品関税を徴収されるとのことだっ たが、港湾通関税を商品関税と解釈してよいか。また、 「外国人商人」にはアラブ人、ペル シャ人は含まれるのか (回答)港湾で徴収されるものが商品関税である。それ以外の売買税は雑貨ーとに分類 される。 「外国人商人」とされるのはヨーロッパ商人とポルトガル人だが、アラブ、ペルシ ャ人については不明である。なお、インド商人については港湾通関税は原則 2,5%であった が、特別な場合一定期間免除された事例もあり、スーラトの商人の願い出によりそのよう な措置が取られた可能性がある。港湾通関税については、ヨーロッパ商人が狙い撃ちされ ている可能性も考えられる。