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もみの木 - 愛徳カルメル修道会

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もみの木 - 愛徳カルメル修道会
2013.1
寒さに震える日本列島、風邪に倒れたり、転倒されたり、ドキリとするお知らせも
入りますが、皆様復活されましたでしょうか?
お忙しいシスター蓮沼に代わり、初めてニュースを編集します。といっても、
寄せられた原稿は 1 本です。心を込めて書いてくださいましたので、じっくり
お読みください。
ボランティア日記 (12 月に入り被災地、福島県いわき市と岩手県大船渡に行く。)
☆
福島県
→
カトリックさいたま教区 いわきサポートステーション「もみの木」
12月3日(月)
~ 12月7日(金)
上野駅より常磐線の特急で「いわき」まで約 2 時間。「いわき」に着くと 3 時半頃。
曇っているのか夕暮れなのかよく分からなく迎えに来て下さった方に
尋ねると“いつもこんなですよ”と言われる。
やはり北に行くほど夕暮れは早いと思った。
〈仕事の内容〉
主に傾聴ボランティアである。
・「もみの木」に訪れる人達にコーヒーを出しお話をする。
・仮設の集会所に行き「出前カフェ」をして、訪れた人達のお話を聞き交流を
深める。私がいるときには、折り紙や刺し子の講習も行われていた。
〈もみの木〉
いわき市中央台高久の仮設住宅(1~10 棟 約 1000 所帯)の一角にサポートステーション「もみの木」
がある。フィランドからはるばるやってきたログハウス。すべて木製の山小屋的な非常に温かい建物。
大阪教区の神父様がスリランカ人の信徒の方と来ていて、地元のボランティアの人とハウスの周りにイ
ルミネーションをつけられた。
道行く人達が「中はどんなかな?」と覗いてみたくなるほど素敵なログハウスである。
一階がサロン風になっていて地元の誰が自由に訪れても「もみの木」オリジナルのコーヒー、お茶など
自由にお出ししてお話できる場を提供している。
〈感じたこと〉
「もみの木」
、または仮設の集会所に行き、コーヒーやお茶を出しながら、耳を傾ける傾聴ボランテ
ィアである。
単なる談話で過ごし、友だちとの触れあいで心癒される人達もいれば、私たちにもっと深く話を聞いて欲
しいと思っている人達もいる。
限られた時間内でなくそれを超えた時間や場所での関わりの大切さを感じた。
わたしは補聴器をしているので話をきちんと聴くことができるかと人との会
話には神経を使う。今回の経験はかなり緊張した。自分の弱さと限界を感じつ
つも話してくださる人にはどこまでも心から関わりたいと思った。
“来週も来てくれる?”と聞いて下さるご婦人に私のほうがおもわず目頭が熱
くなった。
「もみの木」には、小学生も友だちと度々来るのであろう。
自由にオセロゲームを出してきて友だちと楽しんでいる。
私が“入れて”と言うと“あなたもするのですか?”とあまりにも丁寧に言われてびっくり!
大阪や神戸ならシスターかおばちゃんなのに。
この子たちが素敵な紳士に見えた。(笑)どこでも子どもの声には希望を感じる。あの子たちが大人にな
ったときどんな福島になっているのか、そして原発はどうなっているのか……。
希望の色「もみの木」のごとく、このログハウスが地域の希望として復興の歩みを力づける光であって
ほしいと願いつつ。
☆ 岩手県 → カリタス大船渡ベース「地の森いこいの家」
12月11日(火) ~
19日(水)
東北新幹線の郡山から福島にかけて
窓から見えるうっすらと雪をかぶった山並みの美しさに
くい入るように見つめていた。
磐梯山か安達太良山の山並みなのか。
精神を病む妻、智恵子を愛してやまなかった高村光太郎の
〈智恵子抄〉の一節が頭によぎった。
『智恵子は安達太良山が見たいと言う』
遠く離れて見るとこんなにも美しいのかと、ともかく感動の一言。智恵子の気持ちが分かる。
入会前、すぐ近くで二つの山を見たことがある。さほど感動はなかったのに。
人も出来事も遠く離れて ものをみることはいいことだと変に感傷めきながら静かでリッチな
一人旅。
《大船渡ベースの時間割》
5:45: 聖体顕示と教会の祈り (大船渡教会
7:00
自由参加)
ミサ(大船渡教会 自由参加)
8:15
朝のミーティング
8:30
身の回り、べース内、外回りの掃除
9:00
12:00
午前の活動
昼食
13:00
午後の活動
17:00
ミーティングと分かち合い
18:00
夕食
夕食後
自由交流
22:00
ベッドルーム消灯
23:00
ベース内完全消灯
第一日目
・ベース内で 16 日(日)に行われるバザーのために支援物資を集めて値段つけ。 (4 人参加)
・ 午後は「お茶っ子」 →ご近所の人達がお茶を飲みに来られ、ベースは喫茶店となる。
私たちはそのお話相手。
バザーの品物の値段付けは、とても面倒な仕事だと思うが今回は適当に自分の判断で 500、300、100、
10、5 円の品物に分けてダンボールに入れていく。ただであげると言われても要らないと言ってしまいそう
な品物もある。嬉しい、悲しいが分かる心をもつ人に差し上げる物、もっと心ある物を寄付して欲しいと思
った。
午後は、ご近所の人達がお茶を飲みに来られ、私たちはその話相手。
空いたテーブルでボランティアのシスターがお正月用のリース飾りを教えていた。完成したリースを嬉しそ
うに眺めるご婦人達、仮設に飾ると言う。「希望にみちた新年でありますように」
そう祈らずにはおれない。
第二日目
・大船渡の隣の町、陸前高田市にある介護老人施設「松原苑」に一日お手伝い。(四人参加)
・昼食時の介助と、午前はおじいさん、午後はおばあさんたちが入浴されるのでその着脱のお手伝い。
壊滅的だった陸前高田市だったがこのホームは高台にあったため津波の被
害からは免れたという。
しかし電気がなく施設中のカーテンをとりお年寄りの人達にかぶせたと聞
いた。
今日は、入浴の日、“今からシャツをきますよ“とひとつひとつ広げて
見せてから着せていると
“シスター上手ね、介護のお仕事しているんですか”
と仲間のボランティアから褒めていただき嬉しかった。
難しい政治、経済、思想などの話でなく私の心にも温かいものが流れ〈やがて行く道〉と思いつつ心からお
じいさん、おばあさんの生まれたままの年輪の重ねたその姿に『お疲れさま』と言いつつ汗だくで奮闘した。
父と母の介護は一度もできなかったのに………。
最後はドライアーで髪を乾かしきれいにして終わる。“すごく
きれい!”というと一人残らずニコッと笑
う。きれいという言葉は幾つになっても嬉しい魔法の言葉!!
昼食は、ベースで握ったおにぎりを食べる。なんと冷たく味気ないこと!
温かいお茶の美味しいこと!
第三日目
・ベース内で子ども達のクリスマスプレゼントの袋詰め。(4人参加)
いただいた色んなお菓子を平等に分けて 150 人分を作る。
・ 午後は在宅訪問。
午前中は、クリスマスプレゼントの袋詰め。私一人なら 2 時間もあれば十分できると思ったけれど 4
人のボランティアがああでもない、こうでもないと言いつつ素敵なプレゼントが出来た。
道草は豊かさの宝庫、無駄は生きる時がくるもの!子ども達の喜ぶ顔が見たいな!
午後は在宅訪問の予定だったが連れて行ってくださるスタッフが風邪でお休みとのこと。
思わぬ時間が取れたのでその辺のお掃除でもと思ったが仲間のボランティアとの行動のバランスも考えて
ゆっくり震災当時の写真集を夕方まで穴の空くほど見ていた。
四日目
一日大船渡漁港に漁業支援。
(5 人参加)
海辺に青いビニールシートの屋根をつけてその下にすわり、海から引き上
げられる養殖のカキに穴をあけて五個ずつ釣り糸を通して綱にくくり付けて
いく。それをまた漁師さん達は海に持っていく。美味しいカキにするために。
お店に売っているあのカキにこんな作業があったのかと思い知る。
お腹からスッポリかくれる程の大きな長いゴムエブロンを
つけて私は今日元気な漁師のおばさん、いやおばあちゃんだった!
穏やかな波の上を飛んでいた鳥に
“カモメだ、カモメだ”と声をあげていたら“あれはうみねこだ、
カモメの足は赤くて、うみねこは黄色”とホンモノの漁師さんが
教えてくれた。
帰り道、海面と道路がほぼ同じ高さになっていてびっくりした。
地盤が沈下して満潮時にはこうなるという。黒い大きな土嚢がフェンスのように並んでいた。
五日目
・ベースの近所にある「地の森発八軒街」の一周年記念。
それに合わせてベースからもバザーを開催。全員手伝い、
・午後仮設公民館訪問(3 人参加)
午前中は、ペースの近所にある「地の森八軒街」の 1 周年記念。
八軒の小さなプレハブのお店を並べ八軒街と名づけて頑張っている。震災前は一軒一軒がそれぞれのところ
に大きなお店を構えていた。どんなにか悔しかったろうと思う。
いつか「震災五行歌」にあった歌を思い出した。
『被災して
10 目の夜に
夫が
泣いていた じっと静かに』
きっとこんな背景があったかなと思いつつ………。
その 1 周年記念に合わせてカリタスからも先日値段付けをした品物を売る。支援物資だから
ただでさしあげてもいいけれどたとえ少しでもお金をいただくほうが被災者も嬉しいでしょう。と。
あるご婦人が、こんなものまでと少々胸の痛みを感じる品物の中から一生懸命に何かを探していたの
で”何をお探しですか?”と聞くと”黒い服、通夜や葬儀にはどんなものでもやっぱり黒は必要だから”と
いう。あまり着ないものでついつい後回しになるが社会生活を営む人達には必需品。
修道服の私たちにはそんな心配はないけれど。
この一周年記念のお祝いに、隣の陸前高田市から珍ドン屋と称して応援に着てくださった。
厚化粧の侍姿にフルート、和太鼓、エレキギターにドラムを持って。
自分達も壊滅状態に被災しながら、隣の町を励まそうと一生懸命演じる劇とバンド演奏に思わず胸が熱くな
り涙が流れた。人が励ましあい、支え合い、助け合う姿の美しさは懐かしいふる里にかえってきたように温
かい気持ちにしてくれた。
最後に紅白の大福餅を車の上からまかれ私もその大福を両手で受け取り皆さんと寒風の中で食べた。その
美味しかったこと!
午後は毎月、横浜から定期的にポランティアで来るという
保健員さん 2 人と一緒に、仮設の公民館に行く。
毎月決められた曜日なので皆さん待ってくださっていた。
ブレハブの佐野公民館は、浜松市から送られたと言う。
“この公民館ができたおかげでこんな楽しい交流ができるんです”
と喜んでおられた。浜松市の方が聞かれたらどんなに喜ぶことだろう。
健康体操のあと、二人は集まった人達に手のマッサージ。手持ちぶさたな私は他の人達とお茶を飲みつ
つ話をしていたが「肩たたき」ならできるとおもい隣の人に「肩をたたきましょうか?」と声をかけるとすん
なり“お願いします”と言われ肩たたきをはじめた。
その人が大きな声で“気持ちええ”と言われたおかげであとにひけなく私は一躍プロのマッサージ師。次か
ら次へと“私も”
“私も”と来られ私の手は痛くて硬直したようになってしまった。
でも、肌と肌の触れあいの中でそっと漏らされた
“震災後一番辛いことは家族構成が変わったこと”と。
津波を免れたご主人の実家でお姑さんの家族と、ご主人の妹さんご夫婦の 3 家族が住んでいるという。お姑
さんが“食卓のテーブルを拭いた布巾でごみ箱をふくんです。
もうやめてと言い続けて一年半が来ます”と。 前と同じ家庭生活ができるのはいつのこと??
6 日目
・漁業支援。
5 人参加
・今日の仕事は「ホタテ貝」をきれいにすること。
「漁師の人」にあこがれて再び漁業支援を選ぶ。海からひきあげられる「ホタテ貝」には
大小様々なムール貝がくっついていてまるで黒いボールのようになっている。
そのムール貝を鉈のようなものでトントン落としていく。そしてホタテ貝にちいさな穴をあけて釣り糸を通
して綱に結んで籠に入れると漁師さんがまた、海に持って行く。先日のカキと同じ流れである。漁師さんは、
今日来てくれるボランティアの人数に合わせて貝を海から引き上げる。
引き上げてきた貝はその日のうちに仕事を終え海にもどさないと死んでしまうと言う。
だから仕事を任された私たちは仕事を終えた時、
お互いに“おつかれさま!”と歓声をあげる。
私はムール貝をこっそり 30 個ほどべースに持って帰った。
ルンルン気分で夜、茹でて中身をとって貝殻にした。
掛川と磐田の教会学校の子ども達のクリスマス会でこの貝殻に
小さなイエスさまをのせてプレゼントしたいと思った。
7 日目
・午前中は、仮設集会所訪問
・午後は在宅訪問
ボランティア最後の日となった。
午前中は仮設の集会所に行き、おじいさん達との触れあい。
べースのスタッフが車の中で言う。
“女性は世間話で時間はもつが男はそうはいかない。だから囲碁、将棋
等で時間をつなぐ”と。集会所にはおじいさん達がたくさん交流を求めて遊びに来ていた。
私は「UNO」のゲ―ムで 7 人のおじいさん達と時間を過ごす。
おじいさん達はあまり話さないし表情もない。でもゲームを楽しんでいるのだろう。
終わると“もう一回”と言う。2 時間で 5 回もしてお昼がきた。
おじいさん達は皆仮設にいる人達。間違いなくあの日の辛いおもいをその胸の奥に秘めておられる。何
もしてあげられない、「UNO」のゲームのほかに。たとえ一時でも毎日心和む時間がたくさんありますよう
に……。
集会所の壁には、堺の賢明学院幼稚園(シスター多田の姪御さんが園長)の子ども達からきた一人ひとり
のはげましの言葉や、かわいい絵が貼られていた。その文字や絵が殺風景な集会所を暖かくしていた。阪神
淡路大震災の時のことを思い出す。私は垂水の幼稚園だった。解体を余儀なくされた幼稚園には色々な形で
全国の幼稚園から様々な心が届けられ多くの善意に支えられていたことを思い出す。
午後は、在宅訪問。
鎌倉の清泉小学校の生徒達の手作りカレンダーを小学校に届ける。
在宅訪問は、大きな紙袋にお醤油、みりん、お味噌、昆布、紅茶、手製のお正月用の祝い箸を入れて持って
いく。仮設にいる人達は支援が受けられる。
しかし自宅が流されずにすんだ人達には支援がない。たとえ家は流されてなくとも安心して生活できるもの
ではない。いわゆる谷間におかれ忘れさられた人達への在宅訪問である。
そんな人達に『私たちはあなたたちのこと忘れていませんよ』と訪問を続けている。
今日は 15 軒訪問した。皆さん嬉しそうに“有り難うございます”
と明るい顔で受け取ってくださった。
ベースの存在を感じた一日だった。
訪問を終えて帰り道、
“ここを見ないで被災地を見たとは言えませんよ”と大船渡市
の市街が見える高台に連れて行ってくださった。
“ここに避難したんですよ。みんな流れていく自分の家を見ていました。
あのスピーカーから避難指示が出て訓練もしていたんですよ。電気がこなくなることなど想定外でしたよ
なんの役にもたちませんでした”と。
あるご婦人が言った。
“私たちは、ともかく逃げるのが遅かった。
まさかと思っていました。外に出てみると海辺の近くの家から、木くずが立ちのぼっているのが見えて始め
て異変に気づいて逃げました。そして高台に登り切ってうしろを振り向くと自分が今逃げてきた道が海にな
っていました”と。
大船渡は、このような高台が町の中にはたくさんあったので犠牲になった人は少なかったという。(約
380 人)
隣の陸前高田市は高台がなく犠牲となられた人も多く約二千人だったと聞く。どんなに怖かった
かと思う。
自分を含めて「私のところにかぎって」と平和に慣れきった生活をおもう。
帰路の朝
スタッフ、ボランティアの皆さんに送られて帰路に着く。
レールが流され電車はない。仙台まで約3時間半のバス。
来るときは暗くて何も見えなかった道。
海面に朝日が輝く三陸の海はあの日を忘れて
どこまでも穏やかだった。
すべてを流し尽くした更地の野原をバスは走る。
ポツンと残る陸前高田市民病院の廃墟跡が痛々しかった。
おわりに
早朝の暗い道に息がファーと広がるのを楽しみながら、毎日満たされた気持ちで教会まで行くこと約 5
分。大船渡教会は日曜、月曜以外毎朝 5 時 45 分から聖体顕示と教会の祈りがあった。
常駐のシスター2 人はもちろん、ボランティアとして参加されているシスター方全員が参加していた。ミサ
には、ほぼ全員のボランティアの人達が参加していた。
夕方の分かち合いのあとはローソクに火を灯し全員で犠牲となった方々のために黙祷を捧げて
一日の活動を終える。祈りで始まり祈りで終わるベースでの一日であった。
ベースの注意書きに
《主役はどこまでも被災者であること。ボランティアはサポートする立場であること》
と書かれていた。でも私は毎日色々なことがしたくて毎夕黒板に書かれる翌日の仕事に
どこに行こうかとワクワクしながら自分の名前を書いた。そんな自分の姿に
“主役はいったいどっち?”と後ろめたさを感じつつ。
大船渡ベースは私が滞在していた期間は毎日 15 人前後のボランティアと 4 人の常駐スタッフがいた。メ
ンバーも毎日変わっているのに終始和やかな一つの共同体が形成されている。1~2 日という短期の方もい
れば毎月決められた曜日に来る人、一ヶ月、半年と長期のボランティアもいる。
神言会の神学生も 6 月から来ていた。
(インド人)
“司祭はスーツケース一個よ”とからかわれていた。常駐されているスタッフはあまり色々なことは指示さ
れない。しかし、ペースでの生活には完全な規律が当たり前のように根付いていた。
スタッフの今までのボランティアに対する関わり方のうえに成り立っているように思えた。
そしてボランティア一人ひとりのどこまでも自分達は奉仕であって決して迷惑をかけないと言う心の姿勢
だったと思う。
ある日、個人住宅の天井の掃除の依頼があり二人のボランティアが行かれた。お掃除のやり方がまずか
ったのであろう染みとなって壁に伝って流れ、壁の材質ゆえにその染みは取れなかったそうだ。弁償します
と申し訳なさそうに報告していた。
それをお聞きしながらボランティアは本当に責任ある会社の仕事と同じと思った。
毎夕 5 時より今日の活動報告と分かち合いがあった。私は補聴器をしているが聴き辛く、もしよく聞こ
えていたなら分かち合いを通して倍豊かな体験ができたと思う。
大船渡ベースの働きは本当にすばらしい。地域の人達にも受け入れられていると感じた。まさに神さま
の手となり足となって愛を運んでいる。
しかし被災地を支援するベースの使命が一日も早く終わりますようにと祈らずにはおれない。
最後に思わぬこの機会をあたえてくださった管区に、また快く送り出してくださった島田の二人の姉妹の
犠牲に、そしてこの平日に2週間もこの体験ができるのは、各共同体、事業所のそれぞれの現場で汗して働
かれる姉妹方のうえにあることを感じています。
本当にありがとうございました。
ベルナデッタ 河内屋幸子
素敵な日記をありがとうございました。
この報告を胸に今度は、シスター田谷がでかけます。
こぼれ話
ここは、幼稚園のおみどうです。
「しーっ!えんちょうせんせい寝てるから」と年中さん。
つぎに、年長さん
「しーっ!えんちょうせんせいが、お祈りしてるから」
どちらが正解?
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