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ブロンテ書簡研究 (6)
ブ ロ ンテ書簡研究 (6) 岩 上 ※ イ まる ど 子 (十 )1843年 1843年 1月 27日 ,シ ャーロ ッ トは再び ブ リュ ッセルに向かつた。今度 は一人 きりの旅 だつた。リー ズ発午前 9時 の列車 は 2時 間 も遅れ,ロ ン ドン到着 は年後 10時 を回つて いた。そのため シ ャー ロ ッ トはチャプター・ コー ヒー・ ハ ウスでの宿泊 を諦 め,ロ ン ドン橋 の埠頭 まで直行 し,オ ステ ン ド行 きの船 に乗 り込んだ。 28日 朝 に出航 した船 は年後 9時 にオステ ン ドに入港 し,シ ャー ロ ッ トはそ こ で一泊 した後 ,翌 日の昼 の列車 でブ リュ ッセル に向か い,29日 夕方イザベル通 りに到着 した。 2ヶ 月 ぶ りに戻 った シ ャーロ ッ トをエ ジェ夫妻 は暖か く迎 え,エ ミリーが いないシ ャー ロ ッ トに 自宅 の居間 を使 うよう勧 めて くれた。友人 メア リ・ テ イラー はすで に ドイツに移 つて い たが ,ブ リュ ッセルにはメア リの親戚ディクソン家 の人々 (特 に 5歳 年上 のメア リとは親 しくして いた)や , ウィールライ ト家 の人々が居住 し,一 人 きりの シ ャーロ ッ トに何か と声 をかけて くれた。教師 とし ての年俸 は16ポ ン ドで,そ の中か ら洗濯代 その他 を払 う と, ドイツ語 の授業料 に事欠 くほ どであつ たが,授 業 の負担 は軽 く,シ ャーロ ッ トは これ までの シジウ ィック家や ホフイ ト家 での家庭教師の 経験 に比 較 して,現 在 の状況 にはおおむね満足 して い る。 もはや生徒 ではな く教師 となった シ ャー ロ ッ トは,エ ジェ氏の授 業 を受 ける機会 はなかったが,逆 に彼女 が エ ジェ氏 と義弟 に英語 を教 える ` ことになった。 順調 な生活 に見 えたが, 3月 になって も冷 え込 みの厳 しいブ リュ ッセルで,シ ャー ロ ッ トは弧独 に凍 えて いた。 生来 ,社 交性 に乏 しいシャーロ ッ トは同僚 とはうち解 けず,エ ジェ家 の居間 も居心 地の良 い場所 とはな らなかった。そ こには昼間 は教師たちがたむろし,夜 は生後間 もない乳飲 み子 を抱 えた エ ジェ家の団 らんを邪魔するのは気 が 引 けた。 エレン宛 の 4月 (P)の 手紙 は,「 生活 は変 「エ ジェ氏以外 の男性 とは 化 に乏 し く単調 で,多 くの人 々の中 に在 りなが ら孤独感 につ きまとわれ」 一 言 も交わさず,そ の彼 ともごく稀 にしか話 さない」「隠者のような生活」を送 って いることを伝 え ている。 そのエ ジェ氏 へ の英語の レ ッスンも,理 由 も明 らかにされない ままに, 5月 ,突 然 中止 さ れた。それ までの シャー ロ ッ トの手紙 の中 に,エ ジェ夫人 に対す る非難 めいた文言は見 あた らない が, 5月 29日 宛 のエ ミリ宛 の手紙 には,は っき りと彼女 たちが互 いに対 して好意 を持 って い な い こ とが書 かれている。 シ ャーロ ッ トは同僚 のプラ ンシュ嬢 が エ ジェ夫人 のスパ イであ り,自 分 の行動 の一部始終 を夫人 に報告 してい ると疑 い,「 夫人 に素晴 らしく従順 なエ ジェ氏 Jの 彼女 へ の「好意 が 失われた」 と確信 している。 ※国際言語文化講座 岩上 はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) 弧独 の中で シャー ロ ッ トはしばしば故郷 を思 い出 し,10代 の初 めか らブランウェル と書 き続 けて きた くアング リア物語〉を懐 か しんだ り (ブ ランウェル宛 , 5月 1日 付 け),エ ミリの 〈ゴングル物 語 〉 に言及 した りして い る (エ ミリ宛 , 5月 29日 付 け)。 現実 か ら夢想の世界 に逃避 しようとす る かつてのロウ・ ヘ ッ ド時代の悪夢が甦 ろうとしていた。 6月 末 には帰国 の気持 ちが萌 したが, ドイ , ツ語 を習得す るとい う大義名分 と自尊心だけが,シ ャーロ ッ トを踏 み とどまらせた。 この頃 にはエ ジェ夫人の冷淡 さの理 由が シャーロ ッ トにも察せ られ,「 吹 き出 した い ような,泣 き出 した い ような 気持 ち」 になるが,そ れ は親友 のエ レンに も打ち明 けられない ものであった (エ レン宛 , 6月 末付 け)。 8月 に入 り,長 い休暇 が始 まろうとしていた。 ガランとした校舎 に一人 きりで取 り残 され る恐怖 に,シ ャーロ ッ トは脅 える。 その休暇 が 2週 間 あ ま り過 ぎた 9月 2日 付 けのエ ミリ宛 の手紙 で シ ャーロ ッ トは当て もな く街 をさまよい歩 き,立 ち寄 つたサ ン・ ギ ュデール教会 で「奇妙 な考 えが , 浮かび」「本物 の告 白」をした ことを伝 えてい る。告 白の内容 については触れ ていないが,こ れ まで カ トリック教徒 に対 して強 い嫌悪感 を抱 いて きた シ ャーロ ッ トが告 白す るに至 るまでには,か な り 精神的 に追 いつ められていた ことは想像 に難 くない。 この経験 は『ヴィレ ッ ト』 (防 滅厖 ,1853)に おいて,孤 独 な長 い休暇 で精神的な変調 をきた した主人公 ルーシー・ スノウの体験 として描 かれ る ことになる。 ・ディクソンもウィールライ ト家 も帰国 し,一 人の友人 もい な くなっ 親 しく行 き来 していたメア リ たシャー ロ ッ トに とって,ブ リュ ッセル は耐 えがた い場所 となった。それで も帰 るべ き「 口実が見 つか らず」「教 区の世話 になる年寄 りのように……役 に立たない」 (エ ミリ宛 ,10月 1日 付 け)人 間 として舞 い戻 ることは 自尊心が許 さず,シ ャーロ ッ トは帰国の決心がつかないでいる。 しか し10月 13日 付 けのエ レンヘ の手紙では,そ の意地 も捨て,エ ジェ夫人 に辞意 を表 明 した ことを伝 えて い る。 エ ジェ氏の強 い要請で い ったんは踏み留 まるものの,お よそ二 ヶ月後 の12月 19日 付 けのエ ミリヘ の 手紙で,年 内 に帰国す る決心 を伝 えてい る。彼女 の出発 は最終的 には1844年 1月 1日 になった。 1843年 1月 6日 頃 ?〕 〔 ハワース〕 〔 愛するネル 手紙 を書 かな くてはな らないのに読 むに値す るものがない というのは,奇 妙 なものです。 ご無事でお帰 りの こと,何 よりです。 2通 もお手紙 くださるなんて,あ なたってなんて良 い方な ので しょう。特 にあんなに長 いお便 りを。 我 が家の一人 一人 によろし くと書 きなが ら,な ぜ ブランウェルの名前 だけ念入 りにはず したのか 本人 が知 りた い と言 っています。 , あなたを怒 らせ るようなことをしたか どうか, もしそうなら, どんな ことなのか知 りた い そ うで す。 それ とも,う ら若 い女性が紳士の名前 を口にす るのは,は したない と考 えたのか しら。 あなたがお帰 りになった後 ,わ た したちは一度 ,荒 野の散歩 に出かけました。 キース リーにも出か けて1上 知 り合 いにばった り出会 い ました。彼 はわた したちを見 て驚 いた よう な声 を上 げましたが,よ うや く落ち着 くと,わ た しが死 んで火葬 された という話 を聞 いた とい うで はあ りませんか │ 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育・人文科学 第 1巻 第 2号 (2000) 87 お便 りで はジ ョー ジの手 帳 の こ とは何 も触 れ て い ませ んで したが ,見 つか つた のか し ら。 ジ ョー・ テイ ラーが そん な に頻 繁 にブル ック ロイ ドに来 る こ とにつ いて は,ど う考 えた らよい の か ,わ た しにはわ か りかね ます。 「 張 り合 う兄 弟 」 分とい う題 名 の悲劇 が あ ります。 ジ ョーの ポケ ッ トに入 って い た例 の 2通 の手紙 はジ ョンか らの もの だ と思 い ます か。 馬鹿げた話に入って行きそうなので,こ 2ヲ f止 めておきます。 , あなたが帰 つてか らも,わ た しは大 きな焼 きだんごみた いに中身 が しっか り詰 まってい ます。 フェアレス0の ノー トはお返 しします。貴重 な ものに違 い あ りませんので。ア ンのは取 っておきま す。ああ,か わいそうなO.P.V〔 ヴィンセント〕01 本当にかわいそう 署名なし〕 〔 1)キ ース リーで は,キ ー ス リー機械 工 協会 に図書室が あった ほか, ! ・ハ ドソ ン (Thomas トマ ス・ダケ ッ ト Ducket Hudson)の 経営す る貸本 屋 が あつた。 チ ャー ド・ カ ンバ ー ラ ン ド (Richard Cumberland,17321811)の `The Brothers'と い う喜劇 ,あ る い は1786年 に匿名 で 出版 された `The R al Brotherぎ を指 して い る と思われ る。 2)リ 3)ア ー ン リー に住 む兄 ヘ ン リーの家 に滞在 中 にエ レンが会 った人物 か。 4)エ レンは牧師補 ヴ ィ ンセ ン トの求愛 を断 って い る。1840年 4月 30日 付 け,1841年 11月 2日 付 け書簡 を参 照。 1843年 1月 14日 〔 ?〕 ハワース〕 〔 愛す るエ レン わた しの縦縞模様 の ドレス は斜 めに裁断されてはい ません一一一 モス リンを一巻送 って くださつ て本 当 に感謝 して い ます一一― ソファの下 にブラシが見 つか りました し,先 週 の土曜 日にはパ ッ ドリも見 つか りました十一一 息 が詰 まるほ どあなたを抱 きしめてあげた いわ。 ブランウェルにあなたの伝言 を伝 えます。聖書 を忘れて い らっしゃい ましたが,ど うや つてお届 けした らよいのか しら。 出発 の 日はまだはっき りしませんが,今 月の最後 の週 あた りで しょうか。あなた もい らっしゃる ? バ ース トールの大夜会用 にあなたが選 んだ衣装 はとつて も素敵です。 ピンクのペ チ コー トに黒 い ジャケッ ト,バ ラの花輪 と言 っていた と思 い ますが。 きれ いですね。 ち ょっ とした変化 に,わ た し な ら黒 いコー ト,ビ ロー ドの立 ち襟 ,チ ョッキ,白 いズボンにお しゃれなブーツ をお勧 めします。 この手紙 ではあなたの ことを,た だエ レン と呼 んで い ます一一一 とい うの も,ま もな くJ・ テイ ラー夫人 になるだ ろう ことはわかつてい ますが,頭 文字 の Jが ジ ョンの ことなのか ジ ョーの ことな のか た しにはまった くわか りませんのでの。 それは全 く謎 です。 ,わ 時間が あった ら,ヴ ィ ンセ ン ト氏の挽歌 を書 くつ もりです。気の毒 な方 !工 場主 たちは彼 をすっ か り打ちのめしています。 わた しの住所 は次の通 りです。 マ ダム・ エ ジェ・ パ ラン方,イ ザベ ル通 り32番 地 ,ブ リュ ッセル,ベ ル ギー。 いい子だか ら,ま たお便 りち ょうだ い。す ぐにね。 2週 間 もした ら,も う書 けな くなってしまう 岩上 はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) で し ょうか ら。 お母 さま とマー シー に よろ し く。 C Br l)婦 人のスカー トを膨 らませ るための詰 め物。 2)メ ア リー・ テイラーの兄弟。Johnが 兄で,」 oeが 弟。 1843年 〕 1月 30日 〔 プ リュ ッセル 愛す るエレン 先週の金曜 日 9時 に リーズを発 ち ロン ドンに向かい ました 1ち 〔 汽車 が〕 2時 間 も遅れて,ロ ン ド ンに着 いたのは夜 10時 を回ってい ました。 ユ ース トン・ スクウェアに着 くと,直 ちに馬 車 で ロン ド ン橋 の桟橋 に直行 しました。郵便船 は桟橋 に係留 されていて,そ の晩 に乗船 し,翌 朝 ,出 航 しまし たり。船 は快調 に進み,午 後 9時 にオステン ドに入港 しました。翌 日,昼 12時 の列車 に乗 り込み,夕 方 7時 にイザベ ル通 りに到着 した次第 です。。エ ジェ夫人の優 しいお 出迎 えを受 けました。3日 にわ た る旅 の緊張 で,ま だ疲れが抜 けません。何事 も起 こ りませんで したが,そ れで もや は り心細 い気 が していましたので。今 日の年後 , ミス・ ディクソンが来 ました。 1月 の最後 の週 にはわた しがブ リュ ッセルに戻 っているだろ うと,メ ア リ・ テイラーか ら聞 いたそうです。彼女 は見 るか らに優雅 で淑女然 としていると,ジ ョー・ ティラーにお伝 え ください。 日曜 にはあち らに伺 う予定です。住 所 をお知 らせ します。 マ ダ ム・ エ ジェ・パ ラン方, ミス 。ブ ロンテ,イ ザベル通 り32番 地 ,ブ リュ ッ セル,ベ ル ギー として くだ さい。 1)シ ャーロットの旅は 1月 27日 に始まり,ダ ービー,ラ グビー経由でロン ドンに到着した。 2)28日 (土 曜日)に 「 リブァプール伯爵号Jに 乗船 した。初めての一人旅だった。 3)28日 の夜 はオステ ン ドに宿泊 し,翌 29日 の昼 の列車 で ブ リュ ッセル に向 か った。 1843年 )3月 6日 〔 ブ リュ ッセル 愛す るネル 前便 が着 いたか否 かわか りませんが,ま た届 けて下 さるというせ っか くの機会ですので,お 便 り したい と思 い ます。 もちろん, もうすっか り落 ち着 きました。仕事 はまだそれほ ど忙 し くはな く , 英語 を教 える傍 ら, ドイツ語 を勉強する時間 もあ ります。 自分 は恵 まれて い ると思 うべ きで,好 運 に感謝 しなければ と思 っています。感謝の気持 ちを忘れない ようにしたい ものです。 いつ も気持ち を引 き立て,寂 しい な どと思わず,お 付 き合 いや友情 ,何 と呼 ぶにせ よ,そ うした ものさえ求めな ければ,か な りうま くやって い けるもの と思います。以前 にも書 きましたが,こ の家 では注 目 と尊 敬 に値するのはエ ジェ夫妻 のみです。当然 ですが,か れ らとはいつ もどころか,ご くた まにしか ご 一緒 で きません。 こちらに戻 った 当初 は,居 間 を我が家 と思 って,授 業 の時以外 はいつで も自由 に 使 うように言われ ました。 で もそうい うわけにはい きません。 そ こは昼間 はみんなのた まり場 で , 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育 。人文科学 第 1巻 第 2号 (2000) 89 音楽 の教 師な どがた えず出入 りしています。夜 になって までエ ジェ家 の団緊 の じゃまをす るつ もり はない し,ま た してはな らない と思 うのです。 そんなわけで授 業 のない時 はいつ も大体独 りで い ま す。で もそれはた い した ことで はあ りませ ん。 Cい ます。 エ ジェ氏の最初 の奥 さま 今 はエ ジェ氏 と義弟 のシャペール氏 に,定 期的 に英 語 を教 え が,シ ャペ ール氏の現在 の奥 さまの妹 さんだったのです。彼 ら, とくにエ ジェ氏 の上達ぶ りはめざ ましく, もうかな りきちん とした英語 が話 せ るようにな りました。イギ リス人 らしい発音 を教 えよ う とす るわた しの努力 ,そ れ を真似 ようとす る彼 らの空 しい試 みをご覧になるな り,聞 くな りした ら,あ なたはお腹 を抱 えて笑 うことで しょう。 感謝祭 が終 わ り,陰 鬱な禁欲 の四旬節 に入 った ところです。初 日の朝食 は ミルクな しの コー ヒー 昼食 は酢 をぶっただ けの野菜 にわずかな塩魚,夕 食 はパ ンだ け という具合 で した。カーニバ ル はもっ , ぱら仮面劇 と無言劇 です。 エ ジ ェ氏 がわた しともうひ とりの生徒 を,観 劇 に町へ連れ て行 つて くだ さい ました。人 の群 れや賑わ い は楽 しかつたけれ ど,仮 面劇 はパ ッとしませんで した。 ディクソン家 へ は何度 かお じゃまし, とて も親切 にしていただ きました。 この手紙 はたぶん トム が届 けて くれ るで しょう。 ミス・ デ ィク ソンは優雅 で垢抜 けた素敵 な方です。彼女 につ いてのわた しの見方 は変わ りません。 これか らもずっ と。彼女 がプ リュ ッセル を去 った ら,わ た しにはもう行 ・ ウォーカーが結婚す ること,ジ ョー・テイラー くところが あ りません。残念 でな りません。 メア リ ・ の病気 が思わ し くない ことを聞 きました。 いったい どうしたので しょうか。 メア リか らは手紙 を 2通 もらって いたのに,具 合 が悪い ことな どはまるで触れず,愚 痴 ひ とつ こ ばしてい ませんで した。 で もその手紙 は,幸 せいつぱい とい う人 の手紙ではあ りませんで した。彼 女 にはわた しに とってのエ ジェ氏のような人が い ません。本 を貸 して くれた り,話 をして くれ るよ うな人が。 マーシー とお母 さまによろし く。何 か変わ った ことが あった ら知 らせて ください。ジ ョー ジ・オー ルバ ッ ト夫人 に会 った らよろしく伝 えて くだ さい。 この手紙 を長々 と書 いて も,あ なたにはあま り益 がないで しょう。 さような ら,愛 しい ネル。わ た しの声 はあなた に届 きそうもあ りません。 ぶた りの間に広 が る英仏海峡の波音が,き っ と声 をか き消 して しまうで しょうか ら。 メアリ・ディクソン宛 〔 1843年 初旬〕 ブリュッセル〕 〔 親愛 なるミス・ ディクソン 木曜 日にはお伺 いで きない ことにな りました。 エ ジェ夫人 に許可 を求 めた ところ,ご 夫妻 が一 緒 に出かける約束 を既 にしてしまった とおっしゃるのです。 けれ どもご都合 が よろしけれ ば,金 曜 日 の年後 2時 に伺 い ます。 エ ジェ氏が 夕食後 の英語の レ ッスンを希望 してい ますので, 4時 までには 帰 らなければな りませんが。 わた しの不運 な肖像画 は諦 めてあなたに譲 ります十 一一 その輪郭 はとて も整 って い る とは言 えな い状況 なので,練 習 にはもって来 いか もしれ ません。で も独立独歩 の気概 を表 して い ますか ら,眺 ・テイラーに喜 ばれ るか も知れ めて い ると啓発 されるで しょうか。けれ どわた しの肖像画 うがメア リ ない とい う博愛的 な考 えは間違 ってい ます。彼女 にあげた りなさらないで ください。 おあげになっ た として も,お 礼 を期待 してはい けません。彼女 は確かにわた しの ことを好 きです けれ ど,わ た し 岩上 はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) の顔 の絵 な ど欲 し くない はずです2ち 彼女 に尋ね てみれば,き っ と大 まじめに,偽 らず にそう言 うは ずです。 あなたの絵 の モ デルになるのが気 が進 まな い,な どと思わないで ください。喜んで お伺 い して しば らくの間あなたのために座 りましょう。た とえ,画 家の習慣で,話 す ことも首 を動かす ことも 許 して くださらない として もね。 , 1)シ ャー ロ ッ トはメア リ・ デ ィク ソンの 肖像 を描 い たか,交 換 に もらった もの と思われ る。 ア リはシャー ロ ッ トの容貌 について は,ギ ャスケル夫人 へ の手紙 の 中で遠慮 のな い発 言 を して い る。 (ギ ャスケル 夫人 『 シ ャー ロ ッ ト・ ブ ロンテの生涯 』参照 ) 2)メ 1843年 4月 〔 ?〕 ブリュッセル〕 〔 愛す るエレ ン 誉 めるべ きときは率直 に誉 めるのが よいか と思 い ます。先 日のお便 りはまさに賞賛 に値 す るもの で した一―― その長 さといい,面 白 さといい一―一余 力 が あれば,直 ちにもっと長 い手紙 をもう一 通 いただけない ものか しら。 ・テイラー の大胆 な行動 1)に ついては,も う聞 いているで しょう。彼女の公式 な手紙 で,詳 メア リ しい ことは一切おわか りか と思 い ます。 とくにお知 らせすることもないので,わ た しの意見 を述 べ ることにします。 この問題 をい ろいろな角度 か ら考 えてみ ましたが,誠 に理 に叶 っているとい うほ か あ りません。 この意見 はけっして安易な思 いつ きな どではな くて,そ れ を結論 とす るまで には , 5, 6日 を要 した ことをお忘れな く。 お手紙のはじめの部分 (主 にジョー・ テイラー に関 してですが)を 読 んだ ら,わ た しが何 とい う か, どう思 うかはわかってい ると言 うのですね。 で もお構 い な く。わた しは 自分 の好 きなように考 えますか ら。ネ リー,わ た しは特 に何 とも思 い はしなかったで しょう。 このち ょっ とした挑発 がな かった ら。 おかげで よ くよ く考 えることにな りました。 エ レン,自 分の気持ちを大切 になさい。 と らわれず 自由 にして くだ さい。 で もそんな忠告 も無用で しょう。分別のあるあなたの ことですか ら , みすみす城 を明 け渡す ようなことはしない と思 い ます。 ブ リュ ッセル に来 られ るといった話 はあ りませんか。 2月 ,そ して 3月 も大半がひ どい寒 さで し た。あなたが一緒 に来 られなかったのはよかったで す。ゎた しの ように凍 え,わ た しの ように手足 を真 っ赤 にはらしているあなたを見た ら,わ た しの心痛 は倍加 した ことで しょう。 こんな状況 で も わた しは大丈夫です。あまり苦痛 には感 じて い ません。ただ手足 が俸 んで,回 数 が少な くな るだ け の ことです。で も,あ なたがベル ギーで一冬過 ごす とい うことになった ら,き っ と病気 になって し まうで しょう。 で もこの ところ,よ うや く暖 か くなってきましたので,こ こにいて くれた らと思 っ た りします。 で も,こ れ まで無理 強 い をした ことはあ りません し,こ れか らもそんなつ もりはあ り ません。 い ろいろ不 自由な こと,屈 辱的な ことを我慢 しなければな りません し,生 活 は変化 に乏 し く単調で,特 に多 くの人々のなかに在 りなが ら,た えず孤独感 がつ きまといます。新教徒 と異邦人 は,教 師 であれ生徒 であれ,孤 独 であることに変わ りはあ りません。 自分の境遇 に文句 を言 ってい るわけではないのです。不満が まった くない とい うわけではあ りませんが,は た して満足 の い く職 業 な どあるので しょうか。今の自分 とかつての 自分一―一 ここで の 自分 の地位 とシジウ ィック夫人 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育 。人文科学 第 1巻 第 2号 (2000) 91 あるいはホワイ ト夫人 の家庭 での立場一一一 とを比 べ て見 て,わ た しはいつ も感謝の気持 ちに満た され ます。 先 日のお便 りのなか に,一 瞬,わ た しの怒 りを掻 き立てる憶測が あ りました。 はじめは相手にす るの も馬鹿 げて いると思 い,放 って置 くつ もりで したが,や は り思 い直 し,今 回 にか ざって答 える ことにしました。「ブ ロンテ嬢 の将来 のお相手 は大陸にい ると考 えて い る」人たちが「 3, 4人 はい る」 らしい とい う件 です。 そうい う人たちはわた しよ り頭が よ くて,彼 らにはわた しが海 をわたっ た理 由が,単 なる一教師 としてエ ジェ夫人 の ところに戻 るため とは到底信 じられないので しょう。 イギ リスで50ポ ン ドの職があるにもかかわ らず,わ ず か16ポ ン ドのベル ギー行 きを選ぶには,エ ジエ 夫妻 を敬愛 し,そ の ご親切 に報 いた い とい うだけで は不十分 で, もっ とほかに何か強 い動機 がなけ 十 ればな らない とい うわけなのです。 つま りやが て夫 を獲得す る見込みが,ど うや ら一 一 どこかに い 一一―あ るに違 い ない とい う ことになるのです。 こうした お情 け深 いお歴々が,わ た しの送 って る隠者 のような暮 らし一一一 エ ジェ氏以外 の男性 とは一言 も言葉 を交わ さず,し か もその彼 ともご く稀 にしか話 さない十 一一 ことを知 った ら,そ んな愚 にもつかな い考 えがわた しの行動 に何 らかの 影響を与えた,な どと勘ぐるのは止めるでしょう。そんな馬鹿げた批半Jを 退けるには,こ れだけ言 えば足 りるで し ょうか 。 結婚 す る一一 一 あ る い は結婚 を望 む一 一 一 こ と自体 を罪 だ と言 うつ も りはあ りませ ん。 けれ どわ た しが唾棄 した いの は一 一 一 財産 もな く容 姿 に も恵 まれ な い女 が一 一 一 ひた す ら結 婚 に憧 れ ,そ れ を人 生 の 目標 とす る こ と一 一 一 自分 た ちの魅 力 の な さを認 識 す る こ ともな く一 一 一 日 をつ ぐんで 結 婚 以外 の こ とを考 えた方が身 のた めだ ,と い う こ とが 自覚 で きな い一一 一 まさに,そ う した愚か さ なのです。 ブル ック ロ イ ドの皆 さ まの ご無 事 を心 か ら祈 ります一一 一 お 母 さ ま とマ ー シー に よ ろ し く。 ア 分 ン か ら便 りが あ りま したか。 さ ような ら,す ぐにお便 り くだ さ い。 す て きな愉 快 なお便 りをお待 ち して い ます。 どうか つ ま ら ない峰 でわた しを悲 しませ な いで くだ さい。 1)メ ア リは ドイツで英語 を教 える一方,音 楽や代数 を勉強 していた。 2)エ レン・ ナ ッシーのおば。 ブランウェル・ ブ ロンテ宛 1843年 5月 1日 プ リュ ッセル 愛す るブラ ンウェル お便 りを くれた そうですね。 けれ ど例 によってわた しの もとには届 きませんで した。残念 です。 。 あなたの様子 を知 りたかつただけになおさらです 。きち ん と住所 を書 いて,イ ギ リスの郵便切手 を 1シ リング 6ペ ンス分 ,貼 って くれたので しょうか。 そうしない と絶対 に転送 して くれ ません。数 日前,お 父 さまか らお便 りが あ りました。家 ではどうや ら順調 なようですね。ただエ ミリが独 りばつ ちなのが気 がか りです。で も,そ れ も間 もな くあなた とアンが休暇で帰省すれ ば賑 やか になるで しょ か う。調子 はいかがで すか。ア ンは元気 にしてい ますか。お父 さまが い らした と聞 きました 。ご機嫌 はいかがで したか。手紙 を くれ るときは,忘 れず にこれ らの ことを知 らせて くだ さい。 それか ら生 徒 さんたちや,家 族 のほかの方々 とはうまくいってい ますか。詳 しく書 いて くだ さい。 あなたが一 岩上 はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) 生懸命や っていて評判 の よい ことは聞 いていますが,詳 しいことを知 りた いので す。 こち らは元 気 で何 とか頑張 っています。 けれ どひ どい人 間 ぎらい にな り,自 分で も むずか し く 気 な りつつある ことに気 づか され ます。あなたに言わせ れば,特 に珍 しくもない,そ れ どころか,こ のわた しが一一―優 しさ溢れ る博愛の一―下人だった ことな どあったか と言 うで し ょう。グス・ イ スト ・ ヴァール (「 ほん とうで す」 とい う意味)で すね。で も実 際 ,こ この人々 にはお よそ 覇気 が感 じられ ません。学校 には昼 間は120人 もの人 間が 出入 りしますが,そ の中で 目をひ く人 はほんの 1人 か 2人 しか い ません。 これ はなに もわた しが愚かな選 り好 みをしているか らで はな くて れ らに ,か 立派な ところがないか らなので す。知性 もなければ礼儀 も知 らず,優 しさもな く,感 情 もないので す。わた しは憎み もしませ ん一一―憎 むに値 しないのです。彼女たちには心がな く,人 に訴 えると ころが あ りません。 それで も来 る日も来 る日も,無 関心な まま,何 にも恐れず も好 くことも憎 ,何 む こともな く,何 ものに もな らず,何 事 もせずに日々 を送 るの も退屈 な ものです。確かに授業 をし 時 に彼女たちのあまりの無知 にかっ として頭 に血がのぼ るような こともあ ります。で も怒 鳴 った り , , 激情 に駆 られた りして い るなんて思わないで ください。感情的になって,ロ ゥ・ ヘ ッドの時のよう に声 をあげよ うものな ら0,頭 がおか しいのでは と疑われ ることで しょう。こち らで はだれ もカ ッと なる人 などい ません。 そんな ことはかれ らには無縁 な ことなのです。 かれ らの血 を澱 ませ る粘液 が 重すぎて,血 が沸 き立つ ことな どあ りえません。たが いの関係 は虚 偽 その もので,そ の くせ言 い争 うことはめったにあ りません。友情 な どとい う間違 い は,彼 らにはお よそ無縁 な ものです。 この原 則 に対 してただ一人例 外 なのは,黒 鳥 のエ ジェ氏 のみです (夫 人 はいつ も冷静 で理 性 を失 うことは あ りませんか ら,あ まり例外的な人物 とは言 えません)。 で も今 ではそのエジェ氏 ともめったに話 し ません。 もはや生徒 でない以上 ,彼 とはほ とんどとい うか,ぜ んぜん関係 がないのですか ら。 とき お り本 を貸 して くだ さるな ど親切 にしていただ くこともあ りますので,わ た しの喜ぴ と しみの 楽 す べ ては,な お氏 に負 っているとい う ことになるで しょうか。人 との き いがない こと 付 合 を除 けば 何 も不満 はあ りません。仕事 も多す ぎることはな く,自 由時間はたっぶ りあ り,人 の干渉 を受 ける ことはほとん どあ りません。気楽 な,変 化のない,静 かな生 活です。 シジ ウィック 夫人の家での こ とを思 えば,感 謝 しなければな りません。 どうかす ぐにお便 りください。 そしてァンに も手紙 を同 封するよう伝 えて ください。 そんな親切 がわた しにとって, どんなに救 い になることで しょう。思 いつ く限 りの ことを書 い て ください。 , 夕暮れに,白 いカー テンを巡 らした寝台が並んで い るだけのだだっ広 い宿舎 に独 り件 んでいると 奇妙 に もあの瞑界の思 い 出や懐か しい顔 々や情景 が4ち 物狂 お しい ばか りに胸 を行 き交 い ます。 ア ンに よろし く。 , か しこ 愛するア ン お手紙 ください。 愛する姉 よ り。 C・ B たつた今 ,エ ジェ氏が い らして ドィッ語版 の聖書 を ください ました。意外です。 もう 日も声 をか 何 けて くださらなかったのに。 1)ブ ランウェルはアンの紹介で,彼 女が家庭教師をしていたソープ oグ リーンのロビンソン家の長男の家 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育・ 人文科学 第 1巻 第 2号 (2000) 93 庭教 師 に採用 され,1843年 1月 か ら同家 に住 んで いた。 2)ブ ロンテ師 は ヨー クでの巡 回裁判 に証人 として出廷 した際 に,ソ ープ・ グ リー ンまで足 を伸 ば した と思 われ る。 3)1836年 10月 (?)付 けエ レン宛 の`Weary with a day's hard work'で 始 まる書簡 を参照 。 4)ブ ランウェル とシャー ロ ッ トが10年 あ ま りに渡 って共 同 で創作 して いた 〈ア ング リア物 語 〉の こ とを指 して い る。 エミリん`らエレン宛 〔 1843年 5月 22日 ?〕 ハワース〕 〔 親愛なる ミス・ エ レン 「郵便料金無料」 の手紙 を送 る機会 を教 えて くださって,あ りが とうござい ました。 お礼 を申 し 上 げなければ, とんで もない礼儀知 らず になって しまい ます。 1)に お持ちいただ くには遅過 ぎる 「来週 の火曜 日」というのが 明 日の ことで,た とえテイラー さん として も,ご 指示通 り手紙 を書 きました。 シャーロ ッ トは,帰 宅 については一言 も触れてお りません。あなたが半年 ほどあち らにい らっしゃ るのな ら,ご 一緒 に姉 を運れ帰 ることがで きるか もしれ ません。そうで もしなければ,姉 は航海 に 立ち向か う勇気が出ない とい う理 由だ けで,メ トセラめの歳 になるまで彼 の地で暮 らす ことになる で しょう。 限で こち らに戻 こち らでは皆 ,息 災 です。最近 の手紙ではア ンも元気です。1, 2週 間す れば休 日 りますので,あ なたにきちん とした便 りを書 いて もらい ます。 そんな ことはわた しにはまった く出 来 ない芸当です。 愛 を こめて。 お元気 で。 EJブ ロンテ 1)ジ ョー・ テイラーの ことか。 2)旧 約聖書 「創 世記」 5章 27節 。 ノアの洪水以前 の族長 で,969歳 まで生 きた。 一 般 に長命 者 を指 す。 エ ミ リ・ 」・ ブ ロ ン テ 宛 1843年 5月 29日 ブ リ ュ ッセ ル E・ Jへ 身勝手 なお金の無心 をす る理 由は,お 父 さまへ のお便 りに書 きました。信 じられ ますか。 ミュー ル嬢 ときた ら, こち らはひ とりなのに 2人 分 の月謝 つ まり月額 10フ ランも要求するのです。毎月 5 フランの洗濯屋 へ の支払 い と合わせ ると,年 収 16ポ ン ドの身 には大恐慌 をきた します。 また ドイツ 語 を始 めた ことはお気 づ きで しょう。 こち らはさした る変化 もあ りません。 日下 ブランシ ュ嬢 とオ セ嬢 が情 け容赦 のな い戦 い を繰 り広 げて い る ところです。二 人 はまるで二 匹の猫 の ように いが み 合 つています。オセ嬢 はブラ ンシュ嬢 の病履 に恐れをな して い ます (ふ た りは意地の悪 い 口げんか 1)そ うです。 ソフイ嬢 も をす るのです)。 オセ嬢 によれば,ブ ランシ ュ嬢 は怒 ると「唇がな くなる」 ブランシュ嬢 をひ どく嫌 ってい ることが分か りました。 ブランシュ嬢 の ことを情知 らずで嘘 つ きで 岩上 はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) 執念 深 い と言 って い ますが ,そ の言葉 がぴ った りです。 それ に彼 女 は明 らか にエ ジ ェ夫人 の スパ イ で一一―何 か ら何 まで夫人 に報 告 して い る一― ― こ とが わか りま した2ち 作 り話 まです るのです 。思 い も寄 りませ んで した 。 今 で は英語 の授 業 をす べ て任 され て い ます 。初 級 クラスの授業 をふ た つ して きた ところで す。 こ んな時 のオー テ ンス は まるで絵 に描 い た よ うで ,そ の顔 ときた ら「 額 が 曇 って今 に も雷 雨 が 来 そ う な」0ほ ど暗 く,耳 ときた ら血 の滴 る牛 肉 の よ うに真 っ赤 にな ります。 どんな質 問 を して も「 わ か り ませ ん」 としか 答 え られ ませ ん。 こん な悪 魔 払 い の力 を備 えた人 間 に会 え るのが ,彼 女 の友 人 だ け とい うの は残 念 な こ とで す。 こ うした点 で は,わ た し も仲 間 に不 自由 しませ ん。近 頃 で はエ ジ ェ夫 妻 はめ った に話 しか けて くだ さい ませ ん。 こ こで は他 の人 間 た ちの こ とな ど,わ た しは気 にか けて い る振 りさえ しませ ん。 こ う言 えば,わ た しが ェ ジ ェ夫人 に親 愛 の情 を持 って い るな ど とは思 わ な い で し ょう。彼 女 が わた しの こ とを好 きで な い とい う確信 が あ ります。 なぜ なのか ,わ か りませ ん。 夫人 自身 もわ た しを嫌 うべ きはっ き りとした理 由 はわ か って い な い ので はな い か と思 い ます 。 で も ひ とつ には,彼 女 はなぜわた しが ブ ラ ンシュや ソフ ィやオ セ と仲 良 くで きな い のか ,理 解 で きな い のです 。夫人 にす ば らし く従順 な エ ジェ氏 つが ,社 交性 に乏 し く可愛気 の な い わ た しを気 に入 らな い として も,そ れ は不 思議 で はあ りませ ん。 あ まね く「人 を愛 さね ばな らな いJこ とにつ い て,彼 か らお説教 を受 け ま したが ,わ た しが特 に改 めた様 子 もな い の を知 って,ど うや らわ た しの よ うな人 間 に は構 わ な い で ,間 違 った ままに させ てお くのが よい と,お 決 め にな った よ うです。 その 結果 , 彼 は ます ます顔 を見 せ な くな り,わ た しは来 る 日 も来 る 日 もロ ビン ソン・ クル ー ソー の よ うな境 遇 ―一一 まった くの孤独 の 中 に置 かれ て い ます 。 で も,ど う とい う ことはあ りませ ん。 ほか の 点 で は 取 り立 てて不 満 はあ りませ ん し,こ の こ とす ら不 満 の種 にはな りませ ん。 エ ジ ェ氏 の好 意 が 失 われ しわた しが それ を無 くした として)こ とを除 けば,わ た しには何 もか もどうで もい いの です 。 あなたが元 気 な こ とを祈 ります。荒野 を散歩 して くだ さい。 ハ ナが辞 めて,お まけに小 さな妹 をあ た (も なた に押 しつ けて行 った こ とを聞 い て胸 が 痛 み ます 。 タ ビー が その まま残 って くれ る とよいのです が一― ― よろ し く言 って くだ さい。戦 い を続 け る紳 士 た ち0に ,そ して相 変 わ らず の喘 息 に もよろ し く。 C・ B ブ ラ ン ウェル に も手紙 を書 きま した。彼 か らは無 しのつぶ てですが 。 1)原 文 はフランス語。『ヴィンッ ト』第 14章 でルーシー・スノウがサ ン・ピエール嬢 の ことを,唇 が薄 く「糸 のよう」 と書 いている。 2)『 ブィンッ ト』第 8章 には,マ ダム・ ベ ックがスパ イを使 って寄宿学校 を維持 していた と書 かれ てい る。 3)『 ジェイ ン・ エア』第24章 に,ロ チ ェスターについて同 じ表現 が使われている。 4)エ ジェ夫人 は夫 に対するシャーロ ッ トの態度 に不審 を感 じ始 めている。 Fブ ィレ ッ ト』第 38章 で,マ ダ ム・ ベ ックはルーシー とポールの仲 を裂 こうとす る。 5)エ ミリとアンが書 き続 けていた くゴングル物語〉の登場人物 に言及 していると思われ る。 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育 。人文科学 第 1巻 1843年 6月 2日 ブ ロンテ牧師宛 〔 第 2号 (2000) 95 ?〕 ブ リュ ッセル〕 〔 家 か らの便 りを とて も嬉 しく思 い ました。何 も知 らせが届かないので心配 にな り,何 か困 った こ とで も起 こっているので はないか と,漠 然 とした不安 を感 じ始 めて いた ところです。お父 さまはご 自分 のお身体 の ことは何 もおっしゃい ませんが,お 変わ りない ことを祈 ります。 またエ ミリも元気 であ ります ように。 ハ ナが い ない今 では,幸 い仕事 がた くさん彼女 に降 りかかっているのではない でしょうか。 まだタ ビー を置 いて くだ さると聞 いて,本 当 に喜んで い ます。彼女 には大変 な慈悲で あ り,そ れは必ず報われ るもの と思います。 なぜな らタ ビー は本 当 に誠実で,機 会 があれば力 をぶ り絞 って仕 えて くれ るで しょう。 それにエ ミリの よい相手 になって くれ るで しょう。タ ビーがいな かった ら,あ の娘 は寂 し くてた まらないで しょう…… Ⅲ l) 1)こ の続 きは,ド イツ語のレッスンを受けるための費用が必要なことを書いていたと思われる。前出の手 紙 を参照。 友 へ 1843年 6月 5日 (ド イ ツ語 作 文 ) ブ リュ ッセル 6月 5日 親愛 な る友 ヘ わた しが ベル ギ ー に戻 った こ とは, きっ と聞 い てお られ る こ とで し ょう。 生 まれ故郷 を去 る こ と は苦痛 で したが ,お わ か りの よ うに,人 は金持 ちで な けれ ば家 に留 まる こ とは必 ず しも叶 い ませ ん 。 運命 が授 けて くれ なか った 自活 とい う もの を勝 ち取 るに は,外 に出て勤勉 に懸 命 に努力 しな けれ ば な らない のです 。 両親 か ら引 き離 され る時 ,人 は しば しば大 変 な苦 しみ をお ぼ え ます。 自分 の家庭 に見 出す ような愛情 や喜 び を,他 人 の 中 には見 出 せ な いか らです。 しか し,わ た しは とて も親切 に 1ち して くだ さる婦人 と暮 らせ る大変 な幸運 に恵 まれ て い ます の 日曜 日 も月曜 日 も休 日で した 。日曜 日にはオ セ嬢 と 3人 の生徒 た ち と散 歩 に出 か け ま した 。郊 外 で ピクニ ック を して 緑 の小 径 〉働を通 って夕方 に帰宅 し ま した。そ こには馬 草 が た くさん停 まって ,〈 いて,着 飾 った紳 士淑女 が群 れ集 つて い ました。風邪 を引 いた ので,月 曜 日は出 か け ませ んで した。 今 日は また学校 で す。 わた し達 はみんな仕事 を始 めな けれ ばな らな いので ,も う手紙 を書 く時 間 はあ りませ ん。 親 愛 な る友 C・ ブ ロ ンテ 1)シ ャーロッ トはエ ジェ夫人 に対す る本当の気持 ちは控 えていると思われる。 2)『 ヴィレッ ト』第33章 参照。 3)ウ ィルブロー ク運河 に近 い有名 な小径。『教授J第 19章 参照。 岩上 はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) 1843年 6月 末 ?〕 〔 ブリュッセル〕 〔 愛するエレン あなたは何て粘 り強 いので しょうか。 自分 は絶対正 しい と確信 してい るな ら,そ の粘 り強 さも結 で 構 しょう一―― で もその前 にしっか り確信 で きなければい けませんり。ア ンお姉 さまがお帰 りに なって良 かったで すね。 よろし く伝 えて ください。わた しの知 る限 りでは,ジ ョー・ テイラーは と て も元気そうです。で もあの家族 はいつ も血色が いいのです。ハ ンズワースのと こ行 くのをそんなにた めらうなんて,お ばか さん。出か けて行 って,恥 ずか しが らず にジ ョー・ ティラーが好 きです と言 いなさい。彼 は好意 と称賛 に値す る人です。そうい う男性 は滅多 にいない ものですよ。激 しい恋 を するとい うのは別 として も。で も,あ なたに限 って,そ んな恋の深みにはまるとい う ことは,ま ず ない ように思 い ます。わた しはこち らでは何 とかやってい ます。で もメア リ ・ディクソンがプ リュ ッ セルにいな くなった今 となっては,話 をする相手が い ません。。ベル ギー人 な ど数 に入れていません か ら。 時々 わた しは何時 まで ここにい るのだろうと自問 します。で も今 の ところはその問 いか けを す るだけで,答 えは出 していません。 で も充分 な ドイツ語 が身 に着 いた ら,荷 物 をまとめて出立 し ようと思 い ます。望郷 の思いに ときお り激 しく胸 を突かれ ます。 わた しは (鉛 筆 を使 い ましょう一一― ペ ンの具合 が悪 くて),メ ア リ・ テイラーのようなや り方0 はしません。 あなたは無条件 に認 めてい ますが,わ た しには賛成で きません。精力的で活発な精神 の持ち主である こと,勇 気 が あって独立心が強 く,才 能のある ことを示 してはいますが,分 別 ある や り方 とは言 えません。 メア リの ような天才 は得 て して,分 別 な ど関係 な くあ らゆる障害 を越 えて しまうものです。彼女 も成功す るか もしれ ません し,こ れ までの ところ うま く行 っています。で も 慣習 に反 した彼女 の行動 に対す る反対意見 も非常 に強 い ものがあ ります。彼女 に対する風当た りの 強 さをわた しは心配す るのです。生徒たちが女の子 な ら,そ れ もよかったで しょう。 で も男の子 と い うか`若 い男性 'で ある ことが障害です。 この意見 はあなただ けの胸 にしまっておいて ください。 あなたが送 って くださったヘ ン リの肖像 は確 かに似 てい ますが,取 ってお くほ どの出来ではあ り ません。伝道師 になるとい う彼の思 いつ きは面 白いですD。 伝道師た ちが必要 とされているよ うな 国々の気候では,彼 は 1年 と保 たないで しょう。 あなたのお家 の方 はどなた もあまり丈夫 とは言 えません。 それ どころか,皆 さん華奢 で,な かで ヘ も ン リは特 に弱 い のですか ら。 今 日は陰気 な空模様です。 ひ どい風邪 をひき,頭 痛 が して冴 えません。愛す るエ レン,何 もお話 しすべ きことはあ りません。 ここでは毎 日が似た ような ものです。田舎 にお住 いの あなたには ,ブ リュ ッセル のような華や かな大都会の真 ん中で,人 生が退屈 だなんて信 じられないで しょう。で も そうなのです。 とくに休 日には。生徒 も先生 もみんな知人 を訪ね, 5時 間 も 6時 間 も人 っ子ひ とり な く,が らん とした大教室 を 4つ とも思 いのままに使 えるとい った ことが時々 あ ります。本 で も読 もうか,手 紙 で も書 こうか と思 い ますが,だ めなので す。それで部屋 か ら部屋 へ と歩 き回ってみま すが,家 中の静 けさと寂 しさが鉛のように心 を重 く圧 します。 こん な とき,エ ジェ夫人 は (優 しい 良 い方だ とこれ まで書 いてきましたが)わ た しには近 寄 ろうともしない と言 って も,あ なたは本気 にしないで しょう。彼女 は冷静 で分別のある方です。 で も心の冷やや かな ことは,オ ールバ ッ ト夫 人 とさして変わ りません。正直 な ところ,こ のように放 っておかれた時,初 めは驚 きました。 ほか の人たちは誰 もが友人たち とお祭 りで浮かれているのに,わ た しが独 りばっちで い る ことを知 りな が ら,彼 女 はまった く気 を使 って くれ ませんで した。 で も夫人 はわた しの ことを他人 に対 しては誉 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育 。人文科学 第 1巻 第 2号 (2000) 97 めそや し,良 い授業 をす る と言 つて い るのです。 わた しに対 して は,ほ か の先 生 に対 す るほ ど冷 や かで はあ りませ ん。 で もあ の人 た ち はわ た しほ ど夫 人 を頼 りに して い るわ けで は あ りませ ん。 ブ リュ ッセル に親戚 や知人 が い るのです か ら。 わた しが イギ リス にい た時 に夫人 か ら届 い た手紙 を覚 えて い るで し ょう0。 何 とも優 し く思 い や り溢 れ る手紙 で した 。 それが ,お か しい と思 い ませ んか ? この豹変 ぶ り,よ そ よそ しさの理 由が わか りか けて きた ような気 が します 。。それ を思 う と吹 き出 した い ような,泣 き出 した い よ うな気 持 ちです。確 信 した ら,お 話 します。 それ まで はあなた ひ と りの胸 に収 めてお いて くだ さ い。 それ だ けが ,わ ずか な気 晴 らしなのです か ら。 ほか の点 で は,今 の立 場 に何 の不 満 もあ りませ ん。 わ た し の こ とを尋 ね る人 た ち (も しい た らの話 ですが )に は,そ う伝 えて い ただ い て結 構 です 。愛 す るエ レン,で きるだ けお便 り くだ さい。 お手紙 を くだ さるの は功徳 とい う もので す。悩 め る魂 に安 らぎ を与 え る こ とにな るのですか ら。 さ よ うな ら一一 ― お母 さ ま,お 姉 さ また ち に よ ろ し く。 1)エ レンは家庭教師 になって家 を出る考 えを再燃 させた と思われる。 2)ジ ョン及び ジヨー・ テイラーは工場 に隣接する家 に住 んでいた。 3)メ ア リ・ ディクソンと兄 (弟 )エ イブラムは健康上 の理 由で ドイツを旅行 していた。 4)異 例 な ことにメア リが ドイツの少年たちに英語 を教 えて生活費 を稼 ぐ決心 をした ことが,イ ギ リス人 の 知人たちの間で物議 を醸 した。 5)ヘ ンリはかつて伝道師 になることを1830年 6月 25日 の日記 に記 していたが,そ の後,頭 部 のけがで断念 した。38年 にバー トン・ アグネスで行われた伝道師集会 に出席 し感動 したが,伝 道師 になる ことはな く その後 44年 にはダー ビシャーのハ ザセ ッジに赴任 した。 6)こ の手紙 は残存 していない。 7)エ ジェ夫人 は夫に対するシャー ロ ッ トの恋情 に気づいていた と思われ る。 , 1843年 8月 6日 プ リュ ッセル 愛するエ レン あなたか らは一 向 にお返 事 が来 ませんで した。で も許す ことはキ リス トの教 えの一 つです し,ま たイギ リスに手紙 を屈 けて いただけるせ っか くの機会で もあ りますので,怒 らず に重ねてお便 りい た します。わた しが愚痴 を こば して も,ど うか哀れに思って叱 らないで くだ さい。気分 が沈んで , 1ち 今 は天 も地 も陰鬱に虚 ろに映 ります。まもな く休暇 が始 まります 誰 もがそれを楽 しみにし,浮 き 浮 きとはずんで い ます。家 に帰れ るか らです。 5週 間 もの休暇の間,わ た しはず っ とここに居 る こ とになるで しょう。 そしてその間 じゅう一人 ばっちになるで し ょう。やがて気 がふ さぎ,夜 も昼 も 耐 えがた い ほど長 く感 じられ るのです。生 まれて初 めて休暇に不安 を感 じて い ます。先週土曜の年 後 の ことですが,ブ リュ ッセルのロワヤール教会 分にいた ところ,説 教壇 か ら声が聞 こえた ように思 い驚 きました。 その声 に,バ ース トール とバ トリーの情景 が,い の中 にさっ と浮 かび上が りました。 眼には見 えませ んで したが,教 会の人ではな くあの小柄 なジェンキ ンズさんがそ こにい らした よう な気 が しました。あなたの手紙 が来 るか と心待 ちにして い ました。 で も来 ない ところを見 ると,た ぶんわた しの錯覚 だったので しょう。 ああ,筆 が進みません。 どうにも気 が滅入 ります。矢 も楯 もた まらず帰 りた いのです。 まるで子 岩上 はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) 供 です ね 。 お許 し くだ さい,ど う しよ う もあ りませ ん。 けれ ど,た とえ明 る く耐 えて い く元気 はな くて も,ま だ なん とか挫 けず にや れ るで し ょう。 まだ数 力月 (神 が 許 せ ば)ヤ ゝて, ドイ ツ語 を もの に した上 で,皆 に会 いた い と思 い ます 。休 暇 なんて さっ さ と終 って くれた らよ い の に Iな ん ともの ろい のです 。 キ リス ト教徒 の慈 悲 を持 って,ど うか長 いお便 りを くだ さい。 で きるだ け細 か く詳 し く。何 で も書 い て欲 しいのです 。何 を読 んで も心安 ま ります。 ベ ル ギ ー を離 れ た いか ら とい って, それ は人 々が 親 切 で な いか ら と言 うので はあ りませ ん。 そ うした問題 で はな い ので す。 皆 , とて も 礼儀 正 しいで す。 それで も,忍 び よる望 郷 の思 い は どうしよう もあ りませ ん。 わ た しの こ とをお叱 りにな ろ う と,こ のつ ま らな い情 けな い手紙 を何 と思 お う と構 い ませ ん。 お返 事 を くれ ていた ら , もっ と書 こ う とい う気 に もなれ た か も知 れ ませ ん。 で も返 事 が な いので ,わ た しに は書 け ませ ん。 お母 さ ま,マ ー シー に よろ し く。 陽気 で 活発 で愉 快 な友 よ り。 C・ B ここまで書 いて いた とき,ジ ェ ンキ ンズ さんが 来 られ ま した。 あなたか らのお便 りはお持 ちで は あ りませ んで したが ,あ なたが アヽロゲ イ ト0に い た こ とを知 らせ て くれ ました。あ なたが送 るつ も り で い た とい う手紙 は見 つか らなか った そ うです。 悲 しい 出来事 を二 つ知 らされ ま した 。 かわ い そ う なセア ラ0。 最後 にさよ うな らを言 った ときに は,ま さか これ っ き りにな るな ど とは夢 に も思 い ませ んで した。 で もきっ とあち らで 楽 し くして い る こ とで し ょう一―― この世 にいた 時 よ りもず っ と幸 せ に。 は じめの喪 が 明 けた とき,そ の死 を嘆 くよ りむ しろ喜 ぶべ き こ とが おわ か りにな るで し ょう。 お母 さ まに は さぞお幸 い こ とで し ょう一一 ― あなた に も。 ハ ロゲ イ トに い らっ しゃ る とい うの は, あなた 自身 の ぐあ いが よ くな い ので は と心 配 で す。 す ぐにお便 り くだ さい。 1)『 ヴィレ ッ ト』第15章 。ルーシー・ スノウは誰 もいない寄宿舎 で駅独 にさいなまれ る。 2)ブ リュ ッセルのプロテスタ ン ト教会。 3)イ ングラン ド北部の有名な温泉保養地 4)シ ャーロ ッ トは悲 しい出来事 の一つ しか書 いていない。ナ ッシーのSarah Walker Nussey(180943) は,長 らく病気 がちであったが,小 腸 の腫瘍 のため 6月 16日 に死亡 した。 エ ミリ・ J・ プ ロンテ宛 1843年 9月 2日 ブ リュ ッセル 愛す るE・ J お便 りす る機会 が またあ りそうなので,せ っか くですか ら 2, 3行 したため ます。休暇 も半分 あ まりが過 ぎ,思 いのほか順調 です。 この 2週 間 は好天続 きで, とい って も昨年 の ようなアジア的な 猛暑 とい うわ けではあ りません。 それであち こち歩 き回 り,ブ リュ ッセルの通 りの探索 に努 めまし た。今週 はパ リか ら戻 ってきたブランシュがいるだ けで,ほ かの教師は誰 もい ない ので,食 事 の と き以外 はいつ も一人です。 あの嘘 つ きで卑劣 なプランシュ とは, とうてい付 き合 う気 にはなれ ませ ん。向 こうも嫌われてい るのはわかって い るので,今 では話 しかけて もきません ほっ としま ― す。 で も話 し相手 もな く,い つ もここに独 りで開 じこもってばか りでは,決 まって気欝 に取 りつかれ 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育・人文科学 第 1巻 第 2号 (2000) 99 ますか ら,外 出 して何時間 も並木道や通 りを足 の 向 くままに歩 き回 ります。昨 日はお墓参 りを し て1ち さらにその向 こうにある丘 に登 って見 ました。そ こか らは地平線 までずっ と野原 が広 がつて い ました。帰 った時 にはもう夕暮れで したが,そ れで も何の楽 しみ もない家 に帰 る気にはなれず,イ り ザベル通 り界隈 をぶ らつ きました。ふ と気 がつ くとサ ン・ギ ュデール教会 の前 に来てい ました。あ なた も知 ってい る,あ の教会の鐘がタベ の祈 りの刻限 を告 げて い ました。 まった く一人で扉 を くぐ り )2, 3人 の老婆がお祈 りをしている側廊 を巡 るうちに (わ た しらし くもない と言 うで しょう , ノた0そ れで もなお教会か ら出る気 になれず, とい うか 晩躊 が始 まりました。終 るまで残 ってい まモ どうにも家一一一学校 の ことですが一一― に足が向かないのです。する と奇妙な考 えが浮かび まし た0。 大聖堂 の片隅 には,ま だ 6,7人 が告解室 のそばにひざまづいてい ました。二つの告解室 に司 , 祭 さまの姿 が見 えました。悪 い ことでないか ざ り何 をして もよいのでは と言 う気 が し,ま た一時の 慰め になるか もしれない と思 ったのです。カ トリック教徒 に転向 して,本 物 の告 白を し,そ れが ど んな ものかひ とつ試 してみようと,ふ と思ったのです。わた しを知 るあなたには,こ れはいか に も 奇妙 に映 るで しょう。で も人 は独 りで い ると奇妙 な ことを思 い着 くものなのです。一人 が告 白 をし ています。司祭 の席 とい うか小部屋 のような所 には入 らず,き ざはしに膝 をついて,格 子窓越 しに 告白す るのです。聴罪司祭 も悔悟者 も囁 くような声 で話す ので,ほ とん ど声 は聞 こえません。 2人 3人 と立 ち上が って帰 って来 るのを見届 け,最 後 にわた しも近付 いて ゆき,空 いたばか りの くばみ , に膝 をつ きました。 そのままの姿勢で20分 ほど待 たなければな りません。 こち らか らは見 えませ ん が,向 こう側 に別 の悔悟者が い るのです。 ついにその人 も去 り,格 子窓の内側 にある小 さな木の窓 が開 いて,司 祭 の耳 が こち らに向けられるのが見 えました。始 めなければな りませんが,わ た しは その際 の決 まり文旬 を一言 も知 らないのです。奇妙 な具合 にな りました。真夜中 にテムズ川で一人 ばっちになった時 と同じような気持 ちで した。。 自分 は異 邦人 でプ ロテスタ ン トとして育 て られた ことを告 げる ことか ら始めました。それではあなたはプ ロテスタ ン トなのですか,と 司祭 さまがお 尋 ねにな りました。嘘 をつ くわけにはい きませんので,「 はいJと 答 えました。それでは「祝福 を授 ける」わ けには参 りません と言われ ました。 しか し何 として も告 白を した い と申 し上 げると,つ い に司祭 はそれでは許 しましょう,そ れが本当の教会 に戻 るきっか けになるか も知れないので とおつ 9。 しゃい ました。わた しは告 白を一―一本物 の告 白 をしたのです それが済む と,司 祭 は住所 を知 ら せ,毎 日パル ク通 リーーー住 いのある所です―一― に来 るように とお命 じにな りました。わ た しに 理 修説 き,プ ロテスタ ン トである ことの誤 りと非道 を悟 らせ ようとい うのです !!!わ た しは仰 せ の通 りに致 します と約束 しました。 もちろん冒険 はそ こまでです。 あの司祭 さまに二度 と会わ なけ ればよいのですが。 この ことはお父さまには内緒 にしてお いた方が よいで しょう。ただの気 まぐれ とは受 け取 らず,わ た しがカ トリックに転向 しようとしてい るとお思 いになるで しょうか ら。 あな ホイルズさんたち〕 も皆 お変 わ りな い もの と思 い ます。す ぐに た もお父さまも,そ してタ ビー と 〔 お便 りください。 か しこ C・ B l)マ ーサ・ テイ ラーが1842年 10月 に埋 葬 されたプ ロテスタ ン トの墓地。 2)1226年 設立 のカ トリック教会。エ ジェ寄宿学校 の あつた イザベ ル通 りは,こ の教会 へ行 くた めの近道 と して作 られた。 3)『 ヴ ィ ン ッ ト』 15章 で は,こ の時 の経験 が使 われ てい る。 4)『 ヴ ィ ン ッ ト』 6章 参照。 岩上はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) 5)伝 記研究家 ジェランは,こ の時 シャーロ ッ トはェ ジェ氏 へ の恋情 を告 白した と推測 してい るが,手 紙 で は不明。『ブ ィレッ ト』の告 白の場面では,罪 とは書かれていない。 エ ミリ・ 」・ プ ロンテ宛 1843年 10月 1日 ブ リュ ッセル〕 〔 日曜 日の朝 ,皆 は「 ミサ」 のため偶像崇拝の真 っ最中で,わ た しはここ,つ まり食堂 にいます。 ここが我が家の食堂 ,で なければ台所 ,い え勝手 口で あった ら, どんなにいいで しょう 。肉 を細切 れにしているところで も構 い ません。 もうひ とつのテーブル には牧師補 さんや教区係の人たちが着 いて,あ なたはわた しのそばに立 って,小 麦粉 は十分 か,胡 椒 は多す ぎないか,特 にマ トンの の 脚 いちばん美味 しい部分 をタイガー とキーパ ーに取 り分 けたか,見 張 っているのです。前者 は皿や 肉 きり包丁の回 りを飛び回 り,後 者 は台所の床か らまるで火柱みた い に立 ち上がっているのです。 こ の絵 の仕上 げには, じゃがい もを糊 になるほど茄で上 げようと,火 をふ うふ う吹 いているタ ビー の 姿 がな ければ !こ んな思 い出が今 のわた しには,何 と神 々 しく見 えることで しょう !し か し今 は帰 国する考 えはあ りません。 日実 が見 つか りません。 なるほ どここは気 が滅入 ります。で もだか らと 言って,帰 って何 をす るとい う当て もないのに帰 るわ けにはい きません。勤 め口を言ってい るので はあ りません。 それでは大難 を逃れて小難 に入 るような ものです。 あなたが 自分 の ことを怠 け者だ なんて !と んで もあ りません,馬 鹿 げて い ます !・ ……お父 さまはお元気ですか。あなたはいかがで すか。タ ビー は。ヴィク トリア女工のブ リュ ッセル ご訪間についてお尋ねで したね1ち 兵隊 に囲 まれ た六頭立ての馬草が ロ ワイヤル通 りを疾走 して い く姿が一瞬見 えました。笑顔でお話 なさって い ま した。 ぶ くよかでお元気 そうな方で,服 装 は地 味 で,あ まり威厳がない とい うか,気 取 らな いご婦 人のように見 えました。ベ ル ギ ー人 は総 じて好感 を持 った ようです。 いつ も礼拝堂のように陰気 な レオポル ド国王の宮廷 りが,お かげで賑ゃかにな ると言 ってい ました。 またす ぐにお便 りくだ さい。 お父 さまが本 当 にわた しの帰国 を心か ら望んで い らっしゃるのか,ま たあなた も同 じ気持 ちなのか お知 らせ くだ さい。帰 って も自分がなんの役 にも立たない一一一教 区の世話 になる年寄 りのように 一一― のではないか と思います。ハ ワースが,中 で もネズ ミ色 した我 が家 が無事であ ります ように。 神 のご加護 を祈 ります。あなた とお父 さま,そ してタビーが元気で健や かで幸 せで豊かであ ります ように。 , 1)1831年 にベ ル ギー国王 とな った レオポル ド 1世 (1790-1865)は ブ ィク トリア女王 の叔 父。 ヴ ィク ト リア女王夫妻 は1843年 9月 15日 か ら20日 まで 同国 を訪問 した。 2)ベ ル ギー 国王妃 マ リー・ル イ ーズ は弟 (兄 )オ ル レア ン公爵 の死 (1842年 7月 )を 悼 み,そ のた め この 年 の ブ ィク トリア女王 夫妻 の訪 問 は取 り止 めにな っていた。 , 1843年 10月 13日 ブ リュ ッセル 愛 す るエ レン お便 りい ただ い て嬉 しか った です。 けれ どそれ を読 んだ時―一 =胸 が痛 みました。 お姉 さまが亡 くな られ て 1)ま だ 間 もな い とい うの に お兄 さまが重病 劾とい う知 らせで遠方 まで駆 け付 けねばな ら , 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育 。人文科学 第 1巻 第 2号 (2000) ず,よ うや く帰宅すれ ば,今 度 はアンお姉 さまが病気 だなんて。昨 日メア リ・ デ ィクソ ンか ら届 い た手紙 では,ア ンの方は良 くなって い るようですが ,ジ ョージは回復 が難 しい とあ りました。本当 なので しょうか―一一 そうでな い ことを願 って い ます一一一本人 ,そ してあなたのために。 ジ ョー ジを失 う ことは,お 母 さまやお姉 さまたちにもなん とい う打撃 で しょう。 その 日が一 日で も先 にな るよう願 うばか りです。愛す るエ レン,ど うか またす ぐお便 りください。 ブル ック ロイ ドの様子 を 知 らせて欲 しいのです。お宅 の ことが気 がか りでな りません。皆 さまはわた しの最 も古 くか らの そして最 も心優 しい友人たちなのですか ら。試練 の時 が間 もな く過 ぎ去 る ことを信 じてい ます。長 , い長 い試練 で した。 メア リ。テイラーは当然 ですが ,元 気 にして い ます。た まに手紙 が届 きます0。 彼女 とあなた か ら の便 りだ けが,わ た しの数少な い楽 しみの一つ なのです。メア リはわた しにプ リュ ッセル を離れ , 彼女 の ところに来 ては と,し き りに勧 めます。 そうしたい気持 ちは山々ですが,そ れは許 されない ような気が します。確実 な ものを捨 て,不 確実な ものを選ぶわけですか ら,無 分別 この上ない とい う ことにな りましょう。 ブ リュ ッセルは確 かに今 のわた しには寂 しい ところです一一― メア リ・ デ ィクソンが帰国 してか らとい うもの,友 人 な ど一人 もい ません。確かに ドクター・ ウィール ライ トのお家の方々 にはとて も親切 にしていただ きましたが,彼 らは八月の後半 にお帰 りにな りました。今やわた しは本当 に独 りばっちにな りました。ベル ギー人 なんて数 に入 りません。 エ ジェ夫人 は外面 が 良 くて,そ つが な く抜 目のない方です。わ た しはもう,あ の方を信 じません。大勢 の 中 にいなが らこんなに寂 しいな んて,何 とも奇妙 です。時 にあまりの寂 しさに一一一先 日はもう耐 えられない気 が して一一一 エ ジェ 夫人 の ところに行 き,辞 職 の希望 を伝 えました。夫人の一存 で決 め られ るので した ら,お そらく今 ごろわた しは自由の身 になっていたで しょう。 ところが騒 ぎを聞 いたエ ジェ氏が,翌 日わた しを呼 びつけ,断 じて帰 ってはな らない と言 い渡 したのです。なお言 い張れ ば,き っ と激昂な さると思 い , もうしばらくい ることをお約束 しました。 しばらくが どれ くらい になるか,わ か りません。 で も何 をす る当て もな く,帰 国す るわ けにもい きません一一― いい年 をして。で も,そ ろそろ学校 を始 め る時期 だ とい う語 が あれば,喜 んで受 けた い と思います。 エ レン,お 話 しした い ことがた くさんあ ります。おか しな不思議 な ことが 山 ほ ど。 とて も手紙 に 書 くわ けにはいきませんが,い つか夜 にで も,ハ ワースかブル ック ロイ ドで炉格子 に足 を載 せ,髪 を巻 いた りしなが ら一一一 そんな時が またあった ら一一一 お話 しで きるか もしれ ません。 こち らはまだ火 を入れず,寒 くてた まりません。それ以外 は元 気 です。この手紙 はジ ョージ・デ ィ クソ ンが イギ リスまで届 けて くださるはずです。可愛 い顔立 ちの感 じのよい青年 です。何 だか背骨 が一本抜 けてい るような気 もしますが一一一 肉体的な欠陥を言 って い るので はあ りません一一一 そ れは問題 あ りません一一一彼 の性格 が と言 う意味です。 愛す るエ レン,さ ような ら。 この手紙 がお手元 に届 く頃には,ジ ョージが体力 を回復 して い ると よいのですが。彼 は過酷な試練 に晒 されて きました。ア ン もすっか り良 くなって い ます ように。 お 母 さまやお姉 さまたち,そ してジ ョージによろし く。 愛す るエ レン,あ なたのお望 みが叶 い ます ように。 CB l)エ レンの姉セアラ・ ナッシーの病死 のこと。1843年 8月 6日 付けエレン宛書簡参照。 2)精 神疾患を患っていた兄 ジョージ・ナ ッシーの病状が悪化していた。 3)シ ャーロット宛のメアリの手紙 は残っていないが,エ レン宛 に1843年 6月 25日 から冬 にかけて書かれた 岩上はる子 :ブ ロンテ書簡研究 (6) 手紙 は残存 してい る。それ らは彼女 が ドイツで週48時 間 も英語 を教 え,充 分な生活費 を得 ていることを伝 えてい る。 メア リ・ デ ィク ソン宛 1843年 10月 16日 ブ リュ ッセル 拝啓 ミス・ ディクソン 今頃 はもう,わ た しの ことな どお忘れか と思 い ます。ブ リュ ッセル を後 にされてか ら,た くさん の 日新 しい風景や人 々にお会 いになった ことで しょうか ら。わた しの方は独 りばっちで,あ なたの ことをそうす ぐには忘れ られそうにあ りません。 ベ ル ギー人たちにウ ンザ リす ると,あ なたの こと を思 い出 して気持 ちを入れ替 えます。 水治療 1)の 効果 がな く,ま だ健康 がす ぐれない と伺 って悲 しく思 い ます。わた しは本当 に効果 が あ るもの と信 じていたのです。 とい うの も,本 質的 には気力 の問題十 一― あなたに欠 けているのは主 として体力 だ と思 い ます―― ― に違 い な いので,イ ル キーめの水 と空 気 が もっ と効果 を発揮す るだ ろうと期待 していたのです。長 らく健康 がす ぐれな い状態 でいますが一一―希望 を持 って生 きて く だ さい一一一本当は病気 で はな くて,あ なたの場 合 は年齢 0よ りも成長が遅れて い る とい う ことな ので しょう。養生すればきっ と健康 が戻 って来 ることで しょう。辛 い治療 な ど不要 です。 時 々メア リか ら便 りがあ ります。 あなたにも届 いてい るで しょう。彼女 は現在 の職場 に満足 して 楽 しんで い ると言 って い ます。生徒の人 数 は増 える一方で,そ のため彼女 は授業料 を値 上 げしまし た。 彼女 はわた しに来 るよう言 い ます。わた しがプ リュ ッセルで とて も寂 しい思 い をして いることを 知 っているか らです。そして いかに も彼女 らしい無欲 な寛大 さで,彼 女 と一緒 に授業 をしないか と 誘 って くれたのです けれ ど,も ちろん,わ た しには この好意 に甘 える ことはで きません。 ! ナ ッシー家 の試練 は本当 に厳 しい ものがあ ります。気の毒 なジョージは,特 に苦 しみを受 けるべ く運命 づ けられてい るように思 えます。彼 自身 のためにも,ま た ご家族 のために も,彼 に関す る不 安が根拠のな い もの と判明す るよう願 って い ます。彼 にもしもの ことが あれば,彼 らを結束 させて きた絆 が 断たれ,積 み上 げた薪の束 はきつとバ ラバ ラになってしまうで しょう。数 日前 にエ レンか ら手紙が届 きました。 それには彼 が 回復する見込みが あると書かれて い ました。。 先 日,と て も気分が落 ち込んで一一一今 ではしばしばそ うなるのですが一一一 とて も人恋 しい気 分 にな りましたので,三 階 に上が って,し まってお いた トランクの底か らあなたの 肖像画 を取 り出 しました。あなた とウィリアム・ヘ ン リ01ま 似 て い ない と言 つていましたが,わ た しはある肖像画 を 見 つ けて慰 め られ ました。 もう少 しほっそ りして青 白かった ら,本 当によ く似 てい るで しょう…… エ レン ・テ イラー0が プ リュ ッセル に来 る見込みは今 はあ りません。わ た しはあ とどれ くらい ここ にいることになるで しょう。 自分 で もわか りません。 たぶん春 くらい までで しょうか …… ミス・ ディクソン,こ ち らにい らした頃は本 当 に優 しくして いただ いてあ りが とうござい ました。 わた しの手紙 は短い ものですが, これ以上長々 と書 く必要はあ りません。 あなたがお読 みになって 面 白そうな ことは,も う何 も書 けませんので。 か しこ C・ プ ロンテ 鳥取大学教育地域科学部紀要 教育 。人文科学 第 1巻 第 2号 (2000) 1)Vincenz Priessnitz(1801-51)に よって開発 された治療法 で,水 を内用 お よび服 用 して病気 を治療 す る もの。 ヨー ロ ッパ で広 く行 われ,1840年 代 にイギ リス に も導入 された。 2)リ ーズの16マ イル北西 にあ るワー フ川 のほ と りの小 さな町。1843年 に水治療 の最初 の診療所 が設立 され た。 3)Mary Dixon(1810-97)は 当時 33歳 だ った。 4)ジ ョー ジ・ナ ッシー は肉体 的 には快復 した ものの,1845年 か ら死亡 す る1885年 まで ヨー クの施 設 の精神 病院 で治療 を受 けて いた。 5)William Henry Taylor(182899)の こ と。彼 の父Willian Taylor(1777-1837)は ,メ ア リ。テイ ラー の父Joshua Taylor(17661840)の 弟 で,メ ア リ・ デ ィク ソンの母 Laetitia(1780-1842)の 兄 で あつた。 両親 が死亡 したた め,ウ ィ リア ム・ ヘ ン リ・ テイ ラー は叔 父 エ イブ ラム・ デ ィク ソンのブ リュ ッセル の家 に しば ら く同居 して いた。 6)上 記 の ウ ィ リア ム・ ヘ ン リ・ テイラーの姉 Ellen Taylor(1826-51)。 エ ミリ・ 」・ ブ ロンテ宛 1843年 12月 19日 ブ リュ ッセ ル 拝啓 E・ 」 う 決心 しま した 。新年 の翌 日に は家 に帰 つて いた い と思 い ます 。エ ジ ェ夫人 に も話 しま した 。 しか し帰 るた め には, もう 5ポ ン ドお願 い しな けれ ばな りませ ん。現在 3ポ ン ドしか持 ち合 わ せが な く, ブ リュ ッセル を去 る前 に い くつか 買 ってお きた い ものが あ リーー ー ご存知 の よ うにイギ リスで は簡 単 に手 に入 らな い ものです一一一手 持 ちの 3ポ ン ドで は足 りな いので す。 この ところ どうに も気 が 滅入 って仕 方 あ りませ んが ,家 に帰 れ ばす べ て解決 す る もの と思 い ます一一一特 にお父 さ ま,あ な た,ブ ラ ン ウ ェル ,ア ンの元気 な顔 を見 れ ば。 身体 の ぐあ い が悪 い わ けで はな いので す。調 子 を崩 して い るの は心 の方 なのですか ら一一一不 安 のた め にう。 何 とか元 気 を出 しまし ょう一一一 さ よ うな ら。 C・ B l)シ ャーロ ッ トは最終的には1844年 1月 1日 にブ リュ ッセルを発 った。 2)こ の時期,特 にブランウェルにも父親 にも心配すべ きことは見 あた らない。 (1999年 10月 27日 受理 )