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がんと人生 - 公益財団法人ちば県民保健予防財団
愛する配偶者ががんになったら、あるいは親しい人をがんで亡くしたら…。人は病気や悲しみと どのように向き合えばいいのか。『妻を看取る日』の著者である垣添忠生先生に、奥様を看取られた 経験やグリーフケア、がん在宅医療への思いを語っていただいた。 がんと人生 公益財団法人日本対がん協会 会長 垣添 忠生 先生 はじめに 私は臨床家として、がん診療に 40 年以上携 わってきた。また、約 15 年間、国立がんセンター 研究所・生化学部でがんの基礎研究にものめり 込んだ。当時の臨床現場は、現在ほど忙しくな く、私も若かったから疲れを知らずに二足のわ らじを履いた。 私自身、がんを 2 回経験した。国立がんセン ター中央病院長時代に便潜血反応で発見された 大腸がんを内視鏡切除。総長時代に、センター 内に新設したがん予防・検診研究センターを体 験受検して、左腎がんを発見。左腎部分切除を 受けた。両がんとも早期発見である。 私の妻は、3 度目のがんである小細胞肺がん を、わずか 4 ミリで発見したのに治すことがで きなかった。全経過 1 年半、私は妻の闘病に全 面的に付き添ったがん患者の家族でもあり、遺 族でもある。 国立がんセンター中央病院長、総長であった 約 15 年間、その後、日本対がん協会の会長と して 5 年間、私はがんの行政的側面にも深く関 わってきた。 このように私はがんのあらゆる側面に関わっ て 40 年、そして妻との結婚生活 40 年、これが 私という人間を創った。そこで本講演を「がん と人生」と題した。 本日は、「人の生死とその多様性」「妻を看取 る日」「がんと人生」という三つの話題をお話 しする。 人の生死とその多様性 最初に、人は多様で複雑な存在であることを ご理解いただくために何人かの患者さんを紹介 する。 A さん。仕事をしている時にいつも左耳で電 話の受話器を取っていたのだが、あるとき右耳 で受話器を取っていることに気づいた。左耳の 聴力が落ちたかな、というわずかな異常で病院 を受診し、検査をした結果、聴神経腫瘍であっ た。早期発見で比較的簡単な手術によりすぐに 社会復帰ができた。 B さん。32 歳のときに、精巣(睾丸)がソフ トボールくらいに大きくなり、首が回らず、仰 向けに休めない状態で受診した。だいぶ前から 睾丸の異変に気づいていたが、恥ずかしい、悪 い病気ではないかという恐怖で、4 ヶ月ほど受 診する決断ができなかった。精巣を取り出して 検査した結果、精巣腫瘍は、組織学的に 4 種類 のがんがあるが、そのうちの 3 種類のがんが 入り交じっていた。また、鎖骨の上にある左側 ウィルヒョウリンパ節にも転移があり巨大な腫 瘍により顔を左側に向けない。両側の腎臓の間 にある後腹膜にもリンパ節の転移があって、腫 瘍は小児の頭くらいの大きさになっており、仰 向けで休めなかった。さらに胸の CT を撮ると 両肺にも多発性転移していた。治療は、精巣腫 瘍の特効薬シスプラチンという抗がん剤を中心 に他 2 種の抗がん剤を使い、3 コースの化学療 法を実施した。昔は、抗がん剤の副作用対策は 十分ではなく、患者は吐き気などに相当苦しん だ。しかし、1 コースごとに腫瘍が小さくなり、 左側に向けるようになり、仰向けに休めるよう にもなった。検査データをみても正常な値にな り、自覚的にも他覚的にもよくなったことがわ かった。それでも CT を撮ると小さい影や腫れ たリンパ節が残っていた。そのなかにがん細胞 が生きているかどうか診断するのは現在でも難 しいのだが、当時は当然のこととして手術をし てその部分を取り出し病理検査をする方法が取 られた。まず耳鼻科チームによる首のリンパを 取り除く手術、次に胸部外科チームが肺の腫瘍 の残存部分や心臓の周りのリンパ節を取り除く 手術、最後に泌尿器科チームが後腹膜のリンパ 節を取り除く手術を行い、トータルで 14 時間 にも及んだ。病理検査の結果、生きているがん 細胞はなく彼は完治した。現在も健在である。 この二人は、結果としてがんを克服したが、 自分の身体の異常に対する向き合い方や、どう 対処するかには天と地ほどの違いがある。 『がん六回、人生全快』という本を出版された 関原健夫氏は、1945 年に北京市で生まれ、京 都大学法学部卒業後、銀行に入行した。ニュー ヨーク支店で働いていた 1984 年 39 歳のときに 進行性の大腸がんが見つかり、ニューヨークの 病院で手術をした。帰国後、41 歳で肝臓に転移、 残っていた大腸にもがんが発生し、両者を国立 がんセンターで切除した。43 歳のときにまた肝 転移、同じ年に肺転移も見つかった。45 歳でま た肺の転移が 2 回あり、合計 6 回の手術を受け た。入退院の繰り返しにより非常に落ち込んだ が、自分と家族を守るため手術しかないと納得 し、闘い抜いた結果6回目の手術によりやっと がんは打ち止めになった。50 歳の時に心臓のバ イパス手術をしたものの、すっかり元気になっ た。銀行を定年退職した後は、しばらく投資会 社の社長をしていたが現在はそこも退任し、日 本対がん協会の常務理事として日本や海外で講 演し、ご自身の経験を話し、がん患者・家族そ して一般の人々を励ましている。 一方、作家の開高健氏は、ヘビースモーカーで、 酒も大量に飲んでいた。食道がんのリスクは酒 とタバコで 30 倍にも跳ね上がる(図)。あれほ ど教養豊かな彼が、そんな事実を知らないはず はないのに、そのような生活を続け 59 歳で亡 くなってしまった。なぜそんな生活をしていた のか。これは推察だが、開高健氏は、朝日新聞 の特派員記者としてベトナム戦争に従軍し、一 図 喫煙と飲酒習慣の組み合わせにともなう食道が んの危険度の上昇(男性 , 愛知がんセンター病院) 晩に米軍の大半が亡くなるという壮絶な体験を していたことが人生観に影響を与えているのか もしれない。あるいは小説を紡ぎ出すというの は、酒とタバコが手放せない仕事なのかもしれ ない。あるいは、人はがんにならないため、が んで死なないためにだけ生きるのではないと考 えたのかもしれない。 前立腺がんの患者でも、がんへの対応は様々 であった。芸術的エネルギーが失われてしまう から、性機能を喪うようなら手術は受けないと いう画家もいた。一方、ある 85 歳の潜在がん 患者は、どんな小さながんでも、見つかったの なら何としても手術をしてほしいという。年齢 を考えれば治療しなくても天寿を全うできると 説得するのに大変な苦労をした。このように前 立腺がんの手術一つをとりあげても患者は様々 である。 また、私は、早い時期からがん告知を続けて いたが、早期がんと聞いただけで失禁、失神し てしまった人もいた。その経験以来、がんであ るという事実をどのように患者に伝えるべきな のか、告げ方は慎重になった。その一方で、脳 転移、肝転移、骨転移、副腎転移と聞いても顔 色一つも変えずに淡々と化学療法を受けた人も いた。この人は、実は私の妻であり後ほど話す。 このように、病気やがんとどう向き合うかは 人様々であり、がんとの向き合い方に関して人 は多様な存在なのである。 病院では毎年 4 月に新任医師や看護師を大勢 迎える。その際に必ず私が伝えるのは、「人間 の強さ、弱さを包摂して医療はある」というこ と。がんという病気に向き合うだけでも患者に より様々な対応があり、その様々の対応を含め て医療者は立ち向かっていかなくてはいけない と思う。 妻を看取る日 私の妻について話す。妻は若い頃から膠原病 の一種である SLE(全身性エリテマトーデス) という難病を抱え病弱だったので、家事の半分 は私がやっていた。あるとき声が枯れるように なり、検査の結果、甲状腺の左側にがんが見つ かった。 手術をして元気になったものの、肺転移の可 能性を調べるうちに肺の端の方に腺がんが見つ かり、くさび状に切り取った。数年後に右の肺 の下葉に 4mm の影が見つかった。質的診断が つかず半年の経過観察中に、4mm だった影は 6mm になっていた。千葉県柏市にある国立が んセンター東病院で、陽子線治療を受けた。そ の結果 6mm の影は完全に消えたが、わずか半 年後に右肺門部にリンパ節転移が一ケ発見され た。このリンパ節を CT ガイド下に生検をした ら小細胞性肺がんであることが分かった。 私は妻に対しては何とかなるから大丈夫と話 し、当時最強といわれていたシスプラチンとエ トポシドいう 2 種類の抗がん剤治療を月に 1 回 ずつ計 4 回行った。さらに肺門部のリンパ節に 対しては通常の放射線治療も行った。 これで完全に直ったと妻も私も思った。しか し、3 ヶ月後確認するための検査をしたら、先 ほど話したように治癒どころか全身に転移が あった。画像診断の結果を見て、私は妻の命は 長くて 3 ヶ月だと悟った。妻にもその通り伝 え、別の抗がん剤を使った治療を受けたが、副 作用はかなりひどいものだった。それでも妻は 弱音を吐かなかったが、一度だけ、「こんなに 苦しい治療を我慢しているのは、あなたの立場 を思ってなのよ」と語り、私は絶句した。 入院して最初の頃の週末は、まだ体調がよ かったので家に帰ると、妻はすぐに身の回りの 整理を始めた。最後に外泊したとき、銀座で洋 服を買い、家に着くと楽しそうにファッション ショーと称して着てみせた。死装束にするつも りなのか複雑な思いで見ていた。私はいつでも 取り出せるようにこの洋服セットをしまった。 12 月に入ると体調はどんどん悪くなり、ほと んど寝たきりの状態になった。そんななかで妻 が「私が亡くなってもお葬式はしないでね」と 私に言ってきた。まだ元気だった頃、二人で知 人の葬儀に行った際、亡くなった奥さんのこと を知らないご主人の仕事関係者が大勢来てい た。妻は恐らくそれが印象に残っていて、自分 と関わりのない人が自分のお葬式に来るのを避 けたいと思ったのだろう。それともう一つ、 「家 で死にたい」と何度も口にしていた。 妻の決心が確固としたものと分ったので、私 は家で看取ろうと決意し、寝室は 2 階にあった が妻の体力を考慮し、1階の応接間を病室に整 え、酸素供給装置を設置したり、布団を敷いた りするなど、在宅で診るための準備をした。病 棟の看護師からは、看護や介護の方法、機械の 扱いを教えてもらった。妻は 1 ヶ月ぶりの帰宅 に終止ニコニコしていた。外泊する 1 週間前 に食べたいと言っていた白身魚のアラ鍋セット を取り寄せ、鍋の準備をした。激しい口内炎の ために食べられないだろうと思っていたが、在 宅の奇蹟だろうか、美味しそうに食べ、おかわ りもした。そして何度も「家ってこうでなくっ ちゃ」と口にし、心底満足そうだった。 ところが翌日から意識が切れ切れになり、帰 宅してから 4 日目の 12 月 31 日に呼吸困難に 陥った。そして忘れもしないその日の夕方 6 時 15 分、それまで昏睡状態であった妻が、半身 を起して目をぱちっと開け私を確認し、妻の右 手が私の左手をぎゅっと握ったかと思うと、が くっと顎が落ちて心臓と呼吸が止まった。がん を発見してから、わずか 1 年半であった。 わずか 4 日間の在宅医療であったが、私が一 人で見守り、私が一人で看取った。私たちには 子どもはなく、覚悟はしていたが、40 年間に 渡る人生の伴侶を失うことは非常に辛く、亡く なった後の 3 ヶ月は、もがき苦しんだ。1 月 4 日に葬儀場から灰になって戻って来たが、もう 言葉を交わすことはできない。それは想像を絶 する辛さであり、がんで体調が悪くなっていて も、毎日対話ができ、身体は暖かかった。亡く なる前と、亡くなった後では別世界であった。 毎年お正月は、箱根駅伝の中継を楽しみにし ていたが、妻が亡くなってからはテレビを見る 気にもなれない。毎年注文しているおせち料理 が届き、食べてみたところで砂を噛むようだ。 酒で流し込もうとビールを飲むが全然酔えず、 それではと焼酎やウイスキーをロックであおる ように飲んでも酔えず、その年の正月はひたす ら泣いて暮らした。 正月が明け仕事に戻ると、仕事をしている間 は一瞬だけ悲しみを忘れられることに気づき、 新しい仕事をどんどん引き受け夢中で仕事をし た。職場にいるときはよいが、家に帰れば泣い てばかりで 3 ヶ月間酒浸り。あれだけ酒浸りの 日々で、よくアルコール依存症にも肝機能障害 にもならなかったものだと感心した。 そうはいっても生きざるをえないと思い始め たのは、妻が亡くなってから 3 ヶ月経った頃だっ た。仏教では 49 日と百か日法要は特別な意味 があるそうだ。3 ヶ月かけてその人が亡くなっ たことを残された人が得心するのだろう。私も 百か日を過ぎたあたりから、こんなにむちゃく ちゃな生活は何とかしなければと思い始め、ま ずは以前からやっていた腕立て伏せと腹筋、背 筋を再開してみた。 腕立て伏せ 100 回、スクワット 50 回、背筋 100 回、腹筋 500 回を毎朝やることを日課にし た。身体を鍛えて身体の調子がよくなって来る と、不思議と精神も前向きになった。食事もま ともにとるようになり、酒もあまり飲まないよ うになった。 私たち夫婦はカヌーが趣味で、妻が元気な頃 はよく、5 月の連休には中禅寺湖にカヌーをし に行っていた。毎朝カヌーをこぎながら同じ景 色を眺めていても、日々自然は変化するので、 飽きることはなかった。日中は写真を撮りなが ら二人で山を歩いた。妻が亡くなってカヌーも 山も止めようと思ったが、それでは妻が悲しむ と思い直し、亡くなった翌年の 5 月に私は一人 で奥日光を訪れた。カヌーの妻が座っていたと ころに砂袋を置き、重さのバランスをとりなが ら、いつものコースを数時間かけて回った。山 もトレーニングのせいでかなりのスピードで登 れた。 その体験は私に自信をくれた。以前からやっ てみたいと思っていた居合術も始めた。まった く新しいことを始めて、悲しみを忘れたいと 思った。死ねないから生きているようなもの だったが、6 ヶ月から 1 年近くかかって、よう やく積極的に生きるようになった。丸一年経っ た翌年の正月には、おせち料理も食べられるよ うになり、酒もたしなむ程度にした。箱根駅伝 も楽しんだ。また、妻が趣味で描いてきた絵の 遺作展を銀座の画廊でほぼ 1 周忌の頃に開くと ともに、カタログも作成した。忙しい時期であっ たが、私はこの作業が妻との共同作業に思え、 精神的にも良かったと思っている。 1 年後の正月休暇中、散歩ぐらいしかやるこ とがなく、ふと思いついて妻との出来事を書い てみると悲しみが癒やされることに気付いた。 それから私は毎日原稿用紙に向かうようになっ た。書くことは、私の心の底の深い悲しみを表 出する行為だった。カウンセラーに話すという のは、きっとこういう効果があるのだろう。年 が明けて、私の中学・高校時代の同級生で文筆 家の嵐山光三郎氏に原稿を送ると、これを本に してみてはどうだろうかと勧められた。個人的 な体験と、在宅医療と亡くなったあとのグリー フケアも考察されていて、きっとたくさんの方 の役に立つ本になるはずだという。そうして新 潮社から『妻を看取る日』という書籍を出版し た。本の出版により、私の人生が一変した。 年間 35 万人くらいががんで亡くなっている。 そのうち 20 万人くらいが、配偶者をがんで亡 くしている。この本を読んだ見知らぬ読者から、 がんの専門家でもこんなに苦しむのか、それが 分かり自分は勇気付けられたという声が寄せら れた。講演にも呼ばれるようになり、NHK で もドラマ化された。反響の大きさに、がんがい かに大きな社会問題になっているのも実感させ られた。 がんと人生 私は、人生はブラウン運動のようなものだと 思う。ブラウン運動は物理学の言葉で、ホコリ や花粉が、分子の衝突によって不規則な運動を して、予測もつかないところに飛んでいく現象 である。人生も同じようなもの。誰と出合い、 どんな選択をするかで展開がガラリと変わる が、予測はつかない。また、がんへの向き合い 方の多様性の話をしたが、生物学的な面からみ ても、人は有性生殖により父親由来と母親由来 の遺伝子セットが混ぜ合わされ、組み換えが起 こる結果、一人ひとりが唯一無二の遺伝子セッ トを持つ多様な存在である。その存在は 1027 m という広さを持つ宇宙と、10-35 m の大きさの素 粒子という途方もない自然界のスケールに漂う 儚いものであるが、一個の生物としてみると人 間は 60 兆個の細胞でできており、細胞の中の DNA をつなぎ合わせると太陽と地球を 300 往 復するすさまじい距離にもなる途方もない存在 である。このことからも、一見儚く見えても唯 一無二の個別の人の命の大切さ、重さが浮かび 上がってくる。 妻が亡くなって丸 6 年が過ぎた。この悲しみ は永遠に消えないが、悲しみを抱いたまま生き る術は確実に身に付けたと思っている。妻の生 前、私たちは遺言書を書き、死後のことも話し ていたが、妻の死後、私は「死」が恐ろしくな くなった。妻の死後、自分の人生観が変わった と思う。生きることは危険と苦悩に満ちており、 予期されない出来事の中で絶えず判断を下しな がら進むことであり、この点では登山や手術に よく似ている。しかし、乾杯の歌にあるように、 酒と歌と笑顔で楽しく夜を飾ることも大切。そ して、人生は仏教でいう「色即是空、空即是色」 すなわち、形あるものはすべて無であり、また、 シェークスピアの言うように「これまでのこと はプロローグ」ともいえるだろう。 最後に、私が今自分に課していることをお伝 えしたい。私は、がん患者本人でありがん患者 の家族でもあり遺族でもあり、国のがん対策に も約 20 年積極的に関わってきた。がんに関わっ てきたものとして、今、私は残された人生で「が ん検診」、「がん登録」、「在宅医療」、「グリーフ ケア」この 4 つを課題として考えている。 ①「がん検診」は、現在の受診率 20%を 50% にするために、国の事業に戻すべきだと思っ ている。我が国のがん検診(胃、乳、子宮、 大腸、肺)は国の事業として進められてきた。 それが、がん検診はわが国に定着したとの判 断で 1998 年から補助金が廃止され、市町村 が地方交付税でまかなうものとなった。地方 交付税だと、財政が苦しい自治体は道路の整 備や港湾の整備に使ってしまう。行政的には 一度地方の管轄になると、国には戻らないと いう慣例があるそうだが、だからこそ政治判 断でもう一度国の管轄に戻して国でがん検診 を行うべきである。がん死亡の半数はがん検 診の対象である 5 大がんであり、国民の多く ががん検診を受けるようになれば、がんの死 亡はかなり減ると予測される。国民の意識改 革とともに、がん検診は国の事業として行う よう訴え続けたい。 ②「がん登録」は、やっと昨年(平成 24 年) 秋の臨時国会で法律が通り「がん登録推進法」 が成立した。がん登録はがん対策の効果を評 価するためにも重要であり、平成 26 年度か ら国の事業としてスタートする。まことに喜 ばしい。 ③「在宅医療と在宅死」を推進する方向に、国 は方針を切り替えているが、実態が伴ってい ない。在宅で看取ることができずに悔いてい る人がたくさんいる。全国では年間 114 万人 が亡くなっており、その 6 割は在宅を望んで いるが、実際には 8 割が病院で亡くなってい る。今後、高齢者が増える中、2025 年頃に は 160 万人が亡くなる時代を迎え、死亡者の 8 割が病院で亡くなることは不可能であり、 在宅死が増えるだろう。在宅が難しければグ ループホーム等で看取る体制を作るなど、手 だてを打たなければこの先ますます大変な事 態になる。 ④「グリーフケア」は、配偶者、親、友人など 大切な人を亡くし、大きな悲嘆(グリーフ) に襲われている人に対するサポートのこと。 医師も看護師も忙しく、患者が死亡退院した ら、患者本人や家族との関わりは終わりだが、 遺族の悲しみや苦しみはそこから始まる。グ リーフケアは担当者にとっては重たい仕事。 今は緩和ケア病棟やホスピス病棟の医師や看 護師が遺族への対応に当たっているが、ボラ ンティアである。きちんとしたグリーフケア を行うためにも、診療報酬の体系に採り入れ、 グリーフケアの実施を評価していくことが必 要ではないだろうか。 がん患者は肉体的にも精神的にも社会的にも 何重にも傷つきやすい存在である。副作用や再 発の恐怖におびえ、精神的に不安定になること も多い。なかでも最大の課題は社会的差別では ないだろうか。がんと分かると、早期がんでも 窓際に追いやられたり、最悪の場合は解雇され たりする。二人にひとりはがんになる時代。が んは誰の身にもいつ起こるかわからないのに、 世の中の無理解や誤解によって患者や家族が差 別を受けているのは私には堪えられない。がん 経験者が、がんに罹る以前と同じような生活を 淡々と送れることが成熟社会には求められてい るのだと思う。 質疑応答 <質問 1 > 友人ががんと診断されたが、どのような対応 を取ればよいか。 <回答 1 > がんとどう向き合うかはご本人の問題である が、友人として、その方の立場・考え方、病状 等を理解し、励ますなどの対応することが大切 である。 <質問 2 > がん検診で早期にがんを発見すれば 8 〜 9 割 は治癒できるのに、がん検診受診率は上がらな い。どのような対策が考えられるか。 <回答 2 > ひとつは、「がんが見つかると怖いから受けな い」というような国民のがんに対する考え方を 変える必要がある。また、国の責任として、が ん検診でがんが見つかった場合の治療費は 1 割 減にするなどの金銭的なインセンティブを考え ることや、欧米の高い受診率の背景にあるよう に、がん検診を受診しない人には電話をかけ て、受診を個人的に働きかけるというコール・ リコール制などの対策を取ることも必要だと思 う。 垣添忠生先生の略歴 1941 年大阪府生まれ。1967 年東京大学医学部 医学科を卒業後、都立豊島病院、東大医学部泌 尿器科助手等を経て 1975 年国立がんセンター 病院に勤務。手術部長、病院長、中央病院長な どを務め 2002 年に総長に就任。2007 年に定年 退職しセンター名誉総長、日本対がん協会の会 長に就任。専門は泌尿器科学だが、すべてのが ん種の診断、治療、予防に関わり、がん関連の 審議会や検討会の委員、座長等を数多く務め、 高松宮妃がん研究基金学術賞、日本医学学会医 学賞、瑞宝重光章等を受賞。がんに関する著書 も多数あり、近著には『妻を看取る日』『悲し みの中にいる、あなたへの処方箋』がある。