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晒屋におけるマニュファクチュア経営

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晒屋におけるマニュファクチュア経営
晒屋におけるマニュファクチュア経営
木 村 博 一
こ・こにいう酒屋とは、奈良晒布業の仕上加工部門の経営を意味する。晒屋の経営形静については、か
って土屋喬雄氏が、服部之塘氏の幕末敢マニュ説に対して、織物業における主要なる生産形態が問屋制
家内工業であったことを論証された「徳川時代織物業に於ける問屋制家内工業」:1)なる論稿において、臍
屋の生ア様式にふれ、「奈良曝布古今侭諺集」(2)(以下「但諺集」と略する)の「…‥釜屋には天竃を数
多並べ居て、朝葛之れを焚き、家僕、下部、日億の徒数十人糾包へて騒々しき家業也」という語を引用
して、酒屋では「相当大規模なマニユ的形態が行ほれていたものと恩はれる」’と述べられたことがあっ
た。しかし土軍氏は、論稿の性質上その実際について詳しい論証を試みられたわけではなかった。以下、
私は土屋氏がてニュ的形態が患こなわれていたとされる酒屋の経営形態を・史料に即して出来るだけ具体
的に明らかにしておきたいとおもう。
いうまでもなく戦後における幕末の経済発展段階の規定は、かつてのマニュファクチュアか問屋制家内
工業かという課題から、マニュファクチュアか′J、営業かという問題に移され、藤田五郎氏は遂に自らの「
豪農マニュファクチュア段階」を:否定して、幕末=維新の段階規定の問題は従来と異った方法と史料操作
の上にたてられなければならないとされるにいたった(3)。また周知のように戦後における明治維新史の
研究は、維新史=マニュ問題とされた問題意識をこえて、外圧に対抗する民族の形成と対抗という民族
独立の観点からみな患され、経済主義的な把稗から高度に政治史的な把握へと高められてきているわけ
であるが、維新史の正しい埋解のためには、それが幕末一維新の基礎的経済通程との統一的な把担にお
いてなされねばならないと考えられる。従って資本主養成立史の研究においては勿論、幕末の経済段階
の規定のためにも、維新史の正しい把握のた捌こも、個々の達菜部門の実証的具体的研究が一そう患し
進められなくてはならない。この小論は、そういう意味での極めて限られた範囲の実証的研究にすぎな
八リ 八月 判 別
0 書 ′l ′、︵
い ︵
(j)r経済J昭和9年7.8月皆「日本資本主義史論賃 昭和の年祈輯
担 徳川時代商業叢書第一
(3j r封建薩ヒ会の展開過程J序文
I 概 観
奈良晒布の起源については充分これを明らかにすることが出来ないが、天正のころから一般に知られ
るようになり、慶長末年家康の保護奨励をうけて急速に発展するにいたった。主に幕府御用品をはじ
め、武士乃至富裕町人の礼服用乃至夏の衣料として愛用され・徳川中期までは年30万疋才至40万疋の生
産をあげて麻布業界に膏偏していた。享保以後他国布におされて漸次衰退に赴き、幕末には数万疋の生
産にとどまり、明治維新によってその衰勢を早めるにいたるが、近世を通じて「南都随一」の産業であ
ったといってよい(1)。
酒屋は、いうまでもなくこの仕上加工工程を担当するものであるが、奈良晒布の名の示すごとく、晒加
工がかなり重要視されていたものと考えられる。天正ごろ清娼美堀四郎なる者が、晒法の改良に成功し
「奈良晒の名誉天下にきこえ、将軍家の用達を命ぜられたるは、巽に源四郎の功なり」としているの
も(z)、晒工程の重要性を暗示しているものといえようか。或は「輝彦集」が「然れども晒業は世を迫ひ
5fi
て、銀燭精密になりて、輯白光沢に於ては、古へに増りて、他国に勝れたる名品、尤水上の天性、愛す
るに足れり」といい、或は「万金産業袋」(3)が「奈良晒、椋ノ黄上トイウノ、南都也…‥・染テ色ヨク著テ身
二糖ズ・汗ヲノ、ジク・依テ知不和ノ人モカタビラトダニイへバ 奈良々々トイウ、尤ソノ筈至極ノ事払
上麻ノ吉水ヲヱラミ紡積シテ由楕アル旧都ノ永二数千ベンサラシアゲタル名品ナレバト覚ユ」といっ
ているのも、晒工程になみなみならぬ関心のよせられていたことを示すものであろう。
さて阿薯について「健諺賃」が「南都七色名物記臼、奈艮布ノ権輿未レ詳、古老昏云、般若寺辺佐保用水活、
以ヨ斯水1洗滴布1、敷空佐保山上l乾レ之、及レ経レ日潔白、佐保山如竺白雪1、婦人悉業レ之、粗在ゴ旧記2、耳後藤
布在∋般若寺村1、諸人求レ之学レ之、自ゴ天正之比1両奈良布籍2甚干世1、添下郡疋田村亦相続葉ヨ港布1」と
述べているどとく、室町末位梓川の水を、利用して般若寺村におこり、やがて疋田村(現在生駒郵伏見町疋
田)に及んだものと恵もわれる。当初の晒葉はおそらく「般著寺相川上村などの桟の女の頬ひ、其葉を
勧めて、国布麻布手織の調布の差別もなく、佐保用水に曝し、佐館山に干しけるとかや」(「但譲葉」)と
いう状態で、時に社寺の註史をうけて楢葉に従うこともあったのであろう、「多開院日記」天文十八年
五月二日の条に、「一、日惟布乗ル マヲー把百六十五文 七十文ヲ’リチン 碑文サラシチン 合二百
六十八文人ル 三尺オト余りγ」という記載がみられる。 やし時代を下って天正十九年五月廿七日
(丈カ1
の条には「甚四郎般若寺サラシャへ軍人J′ 女ハ甘一才甚四郎ハ廿研け 合性凶 金種大将軍ノ方也
如何」とあり、明らかに酒屋の名称をみとめることが出来るのは、独立の晒業者の成立を予想せしめる
ものである。疋周村にいつどのようにして隅繋が患こつたかについては、さきにあげた史料の外、「大
和人物誌」末尾の人物年表天正ごろのところに「前田喜右衛門 晒布菜、添下疋田に移住す」とある
だけで、これを詳にしないが、おそらくはこのころから疋田村にあいても晒業が始ったものとおもわれ
る。それはともかく、患そくも慶長年間には般若寺疋田両村に晒塵仲間の成立をみていたと考えねばな
らない。何となれば、慶長1明三家康から南都の具足師岩井与左衛門に「南都改」なる朱印が与えられ、岩
井氏の江戸移住にともなって、慶長18年以降、両村酒屋仲間の責任において・尺巾検査の上階布に未刊
を押すようにきめられているからである(4)0かかる晒昆仲間の成立は、寛永14年訓0人余りを数える臍
商人の出現(勒こよって想定される、緻布工程における商品生産のめざましい発展に対応するものという
べきであろう。そうして寛永14年尺巾検査が強化され用材に判押し役人がおかれることになり(6)、尺巾
不足のものに東「冊:絶対押さないこと・並に登録された360人の晒商人の「もん」のない布は一一切これを
晒さないとの請状を出しているが(7)、これによって階屋は・特定の商人(後に藤方乃至問屋となる(8))を通
じて買い集められた布のみを晒し、’彼らから晒賃をうけとる体制が整えられたとみるべきであろう。こ
のときから晒賃は米値段に準じて、奈良奉行が定めることになり(n)、値上げについては晒屋の申立によ
り(通常懲年寄を通じておこなわれる)奉行所が問屋の意向を下問して定め、値下げについては、酒屋
問屋両方の申立によって定められることになったという(10)。つゞいて明啓鏑三晒される前の生布の尺布
検査もおこなわれることになり、南部橋本町に判場を設け、奈良町惣年寄が生布の尺巾を改め、布の絨
初めに「極」の黒印を、織酢こ「奈良町惣牢寄」の熱二ロを:押し、黒印なき生布は一一切これを晒すことを
禁止されることJCなった(ll)0これは粗製濫竃の弊を改める意図に出るものといわれるが、問屋=商業資
本が商品の独封ヒを簡したものと考えるべきであろう。そうしてこれを降ること程遠くない時期に、お
そらくは延宝7年と推定されるが(12)、問屋株仲間23株の結成に対応して、般若寺9株(水門村1株を含
む)疋田村11株の酒屋株仲間が公認されたものとおもわれる。ここに晒屋が惣年寄の極印をうけた生布
を問屋の委託によって晒し、一定の酒質をうけとる体制が確立されたとみることができるが、このこと
は、晒屋が生産者からも市場からも遼暦されるにいたったことを意味するものとして注意されねばなら
ない。さらに延宝7年市之井ここ新たに3株の慨屋が認められ、般若寺付仲間に編入されて、般若寺付株
仲間12韓と定まり、かくて般若寺柳2株、疋田村14株計26株として幕末に及ぶことになる。なお臍屋の
56
外に仕上加工部門には、生布の糊を恵とす揉布及び半臍・玉子膳を本業としていた揉屋と、極印布以外
の椒掲いの幅挟布・切布・他国布・着領布・木綿、都合五品の阿加工を業としていた切晒岸があり、前
者は明暦3年6株認可、尭祓11年より本臍も許可になり、後者は元祓11年5株認可、正徳年間−→時本膳
をおこなうことも認められたこともあった(13)。
奈良晒補選の盛衰は直ちに酒屋の隆替にひびくわけで、享保以後奈良晒布繋が衰えるにつれて、晒屋
の休株の増加していったのは当然である。いま幕末にいたるまでの奈良臍布の生産高と肺屋の営業戸数
を概観すれば第一表にみられるとおりである。
第 二 表
生 布
年 代
生産高
椚 韓
!布方一巻覚書
万治元!321,60蒜[
寛文 只:286,餌針
l
:− :_
[6月18日讃歌
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堪写:S 336,20針127,570 20R,G381336,208
)】(12)(26)1(G)
。;昔。3)l
 ̄∴∵∴∴二.1 ̄ 二一一二:二
!布!・一巻覚書その他
j奈良曝
51布方一巻覚書その他
再小中高羞間納叉兵衛
保保保
享事享
転永年矧 一 一 l
I
3う3,937195,238;912,‘112.5 307,暗0.5
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永政政保永
頃ll魔l反長子廣
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l宅暦31こ155,80日3,687頭1呼19,1瑚06.5
︻− ︻ノ AU
:元文元,910,893131、557.5i154,633.5:185,591
♪ U 1 0 5 6 6 5 1 1 1
厚保lSi − I
∴‘二三子
叫徳田勘兵衛諸事掩
可同 上
日月4日仲間定
は盈監禁昆宛
11呈㌫月報。坤
河 上
明治二元15吼150
同 上
万治元年一享保2年の生布生産璃及び晒l矧は玉井家文書庁中渡録による。その他は備考にその原拠を示した○
( なお( )したものはほぼ確実に推定されるものを示す。
既に論じたこともあるように(ll)、奈良隋布業の基幹工程たる織布工程においては、問屋制家内工業の
形態が支配的であり、近世を通じてマニュファクチュア経営を検証することが出来ないのであるが、仕
上工程たる晒菜においては、後にのべるような技術的相性から、造酒葉におけると同機かなり早くから
マニュファクチュアがあらわれてレ、たのでないかと想像される。 このことは、既に引用した「保護集」
の言葉や、また「惣而酒豪菜ハ下人多ク集候ハねバ不動職ナレバ」(15)といった言葉によってほぼ明らか
であろうが、事実覚文8年疋田村の史料によれば(66頁第7表)、当時宿屋17軒の中2軒を除く15軒のも
のが5人以上の奉公人を雇臆し、10人以上の奉公人をもつものが半数に遷し、その経営が自己の家族労
働よりも雇傭労働の結果に依存している様子がうかがわれ、さらに日用労働を加えるならば、20人∼30
人の雇傭労働力をもつもの数軒を数えることが出来る。即ち寛文8年当時、既に資本家的協業乃至マニュ
ファクチュアの存在を確認出来るわけである。 より古い伝統をもち、疋田仲間よりも大きな生産規模を
もっていたとおもわれる(このことについては後にもふれるが、第一表の肺高と酒屋の数を比較すれ
ばほぼ推定出来よう)般若寺仲間においては、この傾向は一層許晋であったものと考えねばならな
い。おそらくは奈良臍布業が急速に発展する近世有期からマニュファクチュア経営があらわれていたと堆
57
定してほぼ大過かないであろう。残念なことに史料を欠いているので、いつごろからどのようにしてか
かる資本家的経営があらわれてきたか、また彼らの社会的系譜がいかなるものであったかについてこれ
を明らかiこする’ことができないが、本稿の目的は、それがいかなる過程によって上昇してきたものであー
るにしろ、かかる「資本家」が現実にどのような姿をとっていたか、またその経営の笑顔がいかなるも
のであったかを明らかにする点にある。
以下疋田村前田家の史料を中心に、晒屋における経営の実際たみてゆきたいと恵もうが、外ならぬこ
の前田家が、疋田村において明治初年まで酒菜をつづけた唯一の酒屋なのである(史料は特記しないか
ぎり前田家のものである)。なお附言するならば、疋田村は下に示した享保5年の明細帳にみられるよ
うに(敗料1)、晒菜十色の付であったことが注意されよう。従ってまた第2表に示したように、奈良晒
布の衰退につれて家数人教の減少していったのは当然のことながら、慶応3年の明細帳に「但農業手透
男酒屋働 女奈良布繊半稼仕候」とあるように、楢葉の村としての性格は、近世を通じてかわらない。なお
第2表 疋田村人 口及戸数 史料1
一、高二百三十七石一斗五升
(中 略)
一、家数百四 ㌢二軒
内
隠居罠 四 軒
医 師 一 軒
酒 屋 一 軒
第3表にみるように、一 第3衷 寛政4年名寄帳
生布商人 十一軒
般にきわめて零細な土地
莞昆布繊少力耕作仕接骨営申候老ニート一軒
をもっているにすぎなか
晒 臣 十 軒
ったことは、他柑からの
残九十四軒ハ晒屋奉公並日雇仕少々抑作仕渡
世営申快
奉公人の流入を考慮に入
一、人数合五百七十八 子ノ年改
れるとしても、上に引用
内男二百人十五人
女二百八十五人
内
百二十一「人他所ヨリ爽ル男女 女ハ
した言葉につづけて「御
高割合二人数多候二付右
御積仕候」とかいている
ように、農民を余業に迫
(但し20石余りの村方仲地,
百石余りの時庭仲間所有地,
伊勢薄田その他と勒いたも
深長布織渡世仕候
(享保5年疋田村明細慣)
いやるものであり、疋田 あこき去る)▼’ ̄ ̄’‘
栂における臍葉の背景をなすものと考えられる。
(言圭)
定
(1)(8)(14)拙稿r近牡における苓良暗闇の生藻賑軍組織」奈良
学芸大学紀要1篭2号
大丁二かねにて
平之布晒立 巾 憂尺壱寸
長 六真二も尺玉寸
侵)「大和人物誌J480∼81貢
大工かねにて
より布晒立 巾 を尺五分
長 六丈七尺玉寸
.
(3)古事頸花産業部二118寛
つ4)(6)(13)r奈艮曝古今僅謹熟(以下「用語壌」と喘する)r烹艮
曝由緒書」、田村氏所蔵「布方一巻覚書」など
(5)的r烹都曝釦謝眼目由緒書_J
(f))享保5年疋田村明細帳にr甥泳14丑ノ年プリ当境ノ年迄百「年
二成南都御奉行中坊飛輝守様潮時プリ晒貫奉行琵二被成申隈j
とある。
冊「布方一巻覚書工明治17年「工新局月報j32号など。
瑚
看琵之通晒立候而如北柏極晒最中印
判を押出すべし
極印無之布勿論不可晒毎年極月中に
さらし候員数可書上之車.
附 極印に少しにても不審成頚知
出候者奉行所江早々持参可仕事
石之通.堅可相守者也
年 号 月
l
(11)「布方一巻見習]なおこの時以後寒行交代毎に、両村肝匠に現して前景匿託したような毘吾が輿えられ、め
いめいの晒臣では、これを写して根にかき(掛板と称した)作貿喝に掲示すべきものとされた0(明和3年
酒井丹波を普懐紙)
(12)詳しい考証は即稿にゆずる。
(15)買暦6年「家督護り日銭J
ll 生 産 の 概 要
1 技 術
購法について「呉服名物目録」(1)は簡潔に次のように述べている。
一、臍様は初素水二而右之布苔をもらい落し 大音日にはし候而一番あくと申こつけ 一両日人憲 夫合金へ
入 あくにてたき申候 一巳院其夜は釜に人置うまし申慣 夫よりIll辺二而うすこ人つき出し申候 水二両二三匿
も洗申候何遍もつき申低同 文力巨にはし ひあがり時候を あくを叉何遍もカけ串供
一、四月彦八月比迄は 釜へ入境申候は二三度計 打電各二成申候而ほ 四五度ほど登へ人煙申候間 者之邁あ
くこ而晒上げ車峡
これはおそらく享保のころの事情を説明しているものとおもうが2)、更に詳しくは明治17年の「工務
局月報」32号によって知ることができる。一般に手工生産の段階に患いては技術的な進歩はいちじるし
く停滞的であり、事実天正のころ活須美源四郎の晒法の改良以後、楢法の技術的変革についてふれてい
る史料がないから、工務局月報の語るところは、そのまま近世を通じて変っていなかったと考えてよい
とおもう。レ、ま「倖諺集」に述べろところを若干考慮にいれながら(括弧に入れたのは同音よりの引
用)、立ちいってみておきたいと恵もう。
1 11l−
第一 生平を水に浸し、糊を除き、荻汁を注ぎかけ、芝生の上に拡げ、日光に曝すこと長日の中は三度、短日の
ときは二度 此の如くすること凡そ十四五日間、之を元付と云。
第二 右の生下を大釜に入れ、衣汁を加へて煮ること(一釜に六拾疋宛煮るを違法とす、金の下薪には藁を以て
す、其荻を取りて衣汁に垂るる故也)一時年若は二時間にして之を取出し、芝生の上に曝乾す、其乾きたるとき又
前の如くすること六七度、之を盗人と云。
第三 釜人の済みたる者を木臼にて鳴くこと三回とす(松の木の大日を川際に据えて輪の木の槌にて布を穐きて
晒し)、英二固までは澄みたる友汁を注ぎて、日乾し、三回馴こ木目に清水を盛り、布を浸し、杵の如き柄の長きも
のにて摘き、又之を日光に曝す(晒果して後の張千には大竹を二本宛高さ凡六尺計、左右に丸き穴を穿ちて小竹を
横に其穴忙入れて車の巡る如くして、此棚に晒壱疋宛を引ほへ、何疋も竹の間に通し重ねて乾す也)、これにて晒方
終れるなり。
1J−・ル
晒布を反物に仕立るは、先水覇を吹掃け、適宜の長さに摘み、之を木製の嶺軸に挟みて朗を延し(或は火慰斗を
オ
かけ(3)).其反物の端に臍屋の姓名を印し、又別に長二寸五分巾一寸位に「南都貫艮晒平大工曲尺長大丈七尺五寸
巾二尺四寸」と彫りたる印を捺せり。(なお玖貢図版参照のこと)
奈良晒布の加工工程は、ほぼ上の史料によって明らかになったとおもうが、仝加工工程に、ほぼ晴天
数十日を要したといわれている。従って技術的にいってます第一に、天候に左右されることの多い仕事
で、雨天の際には休業を余儀なくされる事情にあったことが注意される。明和六年の「奉公人掟晶之
軸」において、雨天の際の奉公人の使用法について細かくのべ、また必要最低限の労働者の雇僻を強調し
ているのはこのためである。第二に「暴之儀ハ天地之気を受 火と水とを以て暴立申候 依之不残無痛二
出来仕侯斗二両も無御座 依時暴布に娩出来仕候物二御座候」(4)とあることが注意されよう。このため
痍布ができてもできなくてもー率に晒賃の中から一分引される定めになっていたし(5)、或は宝永3年に
は痍引貨をめぐって問屋との問に出入があったり(6)、或はまた仲間の掟に「晒貨銀算用節者 御仲間え
致持参改之上請取可申候 勿論戚引老分外内証二両少しこ而茂引請取中間敷候」(寛政6年)とか、琉布
之儀得意偲ぶ屍し被申候其 懸垂而申堅之通堅相惧講取中間敷事」(宝暦8年)という風に、.坑布のこと
ntI
Cr南都布さらし乃記」寛政元年九月刊)
が仲間のギルド的制約の貢要な一項ともなっているわけである。第三に、宝暦前後とおもわれる史料「仕
用覚」が、季節に応じての元付の仕方、灰汁かげん、干方の水の振り用などについて細かくのべているよ
うに、晒方に微妙な「手かげん」を必要としたことが注意される。従って技術がいきおい秘伝秘法的な
性格をもつわけで、めいめいの晒屋の技術が他に裕まれる・ことを極度に警戒しなければならなかった。
寛支8年6月18日付の史料に
一、今度御公儀様方票艮町中迄被焉仰付快適 般若寺疋田晒臣二軍公仕侠 隈もらい罷田候以後他所之晒匿へ参
り串等、御法度之旨陪二可届(カ)如此別辞仕申帳 此上ハ他所へ参り晒琶ハ不及申二奉公こも又ハ日周にも参り串
間親族 薯他所の晒犀へ参り申幌においては 如何掛こも御穿墾可被成僕 共時一言之子細串間敢快 篤後日依如
件
とみえ、後年の仲間掟にも、しばしば「奉公人井目雇御仲間二両相動候内を内証二面雇申候儀撃無用之
事」なる文字がみえ、享保4年の「掟之事」によれば、これに背いた場合50匁の過料たるべきことを連判
決議していることなどは、このことを明白に物語っているというべきであろう。中世的な手工生唾にし
ばしばみられる技術の秘密主義が、ここにも強く働いているといってよレ.
2 労 働 手 段
では上にみたような加工工程がおこなわれる対易的諸条件として、どのような施設を必要としたであ
ろうか。生布の糊を洗い忠とすための池、布をはすための干場(芝方とも称せられている)、生布を灰
汁につけておくための湿蔵、灰で煮るための釜場、本臼で鳴くための鴇場、及び仕立部屋などがその主な
ものであったと考えられる。この中、池・揚場・干場が仲間の共有であったことが注意されねばならな
い。このことは、寛政4年酒屋仲間として5反2畝14歩、高7石丁斗4升丁合5勺の土地を所有してい
密ことによって推察されるところであるが、池とつき場についてはなお次に示したような記垣のあるこ
印
と(史料曽)・東には「仲間用きいめん埠つき場其外之用事人足月行事より触達候ハバ 早速無闇逮差
出し可中上事」(6)とあることによって明らかである。干場雄二関しては他にこれを裏付ける史料を欠く
が、前田安道氏母堂からの聞取に徹して、おそら
史料 2
晒屋仲間
西川サイメン池
一 上九亘玖十歩
同ツキバ
ー 上島十八歩
同ツキバ
ー 上拾二歩
同
一 同入畝十三少
同西方
一  ̄下四畝歩
くは仲間共有地の中、池とつき場を除いた土地乃至
村方仲地が利用されていたのでなかろうかと恵もわ
高一石四斗九千四含
オー石一斗六列五合四勺
高七二升九合
イ四升七合
れる。かくの如く生産施設の一部が仲間の共有であ
ったことは、仲間の共同体的規制を強めるのにあず
かって力があったものと考えねばならない。従って
高七升
才四チt三合
個人の所有にかかる生産施設は労働用建物としての
湿蔵・登場・仕立部屋になるが、後にも示すように
高一石三斗五升
4人斗三升七合
高三斗六升
オ二斗二升六合人勺
(以下路)
(寛政4年疋田村名寄帳より)
(糾頁)この外藁小屋・柴′ト屋・灰小屋があり、生布
乃至酒布の保管のための晴蔵と鴇場における若干の
建物などを必要としていたであろう。後にあげたも
のの中藁小屋は、生布を煮るた捌こも、また灰汁をと
るための藁灰をつくるためにも、藁が大量に用いら
れた関係上重要な施設の−ノつであったと考えねばならない。
つぎに労働要具としては、第4表か弟lグループに示された釜・木うす・杓・桶・きぬ・竹などが教
えられよう。これらが龍城的な労働手段でなく、一般に化学工業において重要な役割を演するといわれる
装置的な労働要具であることは、加工鷺としての肺葉の特性を示しているといえるであろう。いうまで
もなく釜は布を煮るための大釜、木うすときぬは布をつくためのもの、杓と柄は灰汁を運び布に注ぎか
けるのに必要なもの、竹は晒した布を張り干すのに用いるものである(この外仕上げのためのロール乃
至火慰斗が含垂れて然るべきであろう)。この中弟 表に柄 ̄六・きぬ木とあり、つづいて大工手間・欄屋
手間とみえていることは、少くも短・きねなど.の生畢要具が酒屋において自ら製作されていたことを意
味するものと考えられる。
3.労働対象及労働力
次頁に第4表として示した史料、正徳二年「布一万疋晒上ケ候諸色入用覚」は、このとき晒賃上げ要
求の資料として、両村酒屋仲間から奉行所に提出された生唾費の明細であるが、晒屋の経営を概観する
上で重要な史料とおもわれる。
何となれば一万疋という数字が慈意的なものでなく、後に説くように一一万疋の晒高が酒屋の慎準的な
生産規模を示していると考えられるからである。第4表はほぼこの入用覚の記載順に従って、弟I群は
労働者に対する賄費、第∬群は勢貨、第腰群は労働手段、第Ⅳ群は生産要具の−一部の製作乃至作業場の
修繕のための人件費、第Ⅴ群は荷造費、第Ⅵ群はその他、第Ⅶ雅は加工材料費という風に分類してみた
ものである。
これによって労働対象からみてゆきたいとおもうが、労働対象としての固有の意味にあける原料は、
いうまでもなく問屋から委託される生布である。従って原料たる生布は生産費の中には入り込まない。
加工生産費の軌点からいえば、原料に附加される補助榊斗としてあ藁及び義侠が(第Ⅶ群)、労働対象と
して湊も重要なほとんど唯一のものであったといってよく、それが衰生産費の40.2%を占めていること
によってもこのことは明白である。前にも述べたように藁は布をたくのに用い、出来た藁灰を以て灰汁
をつくったのであって、藁灰はその不足を補うためのものであった。第Ⅴ群に示したものは、荷造その
他に用いられたもので直接生産に粛拓がなく、またその生産費に占める比率も僅かに1.1%に止っている。
61
労働力については、次章において詳しく
第4衰 正徳埠頭料日 布一方疋晒上ケ申痍謹色人用軌
ふれるつもりであるが、ここでは布一万疋
を晒上げるための労働力として、奉公人17
人、下女2人他に日用として年2,000人を必
要としていたことに注意しておきたいとお
もう。いま日用即ち日雇を常備と仮定して、
太陰暦1年3う4日と計算すれば5,析人、閏
年1年3射日とふめば㌣は人となり、少くも
う八一6人の日雇労働をもっていたことが
わかる。従ってそこにいくらかの誇張はあ
るにしても、布一万疋を晒上げるためには、
下女を含めて24人∼25人の雇傭労働に依
存していたこと、従ってかなり大規模な協
業が必要であったことが推察される。つぎ
に雇傭労働に奉公人と日雇の二穣別があっ
たことも注意されよう。享保19年の
「I [仕付覚帳」に、年季明けの三人
(虫損)
の奉公人について「是がハ日雇ニテ両人共
相勤 是遥忠ハ大切二諸事相劾呉候バネノヾ
此方家立不申候(中 略)他少二不限一ヶ
年之問三十日五十日百日相動候共 書付之
銀子ハ相渡し申候 併明年虐何時二不限中
とニテ茂呼二遣次第罷煽り 其方内ニノ→日
雇仕荒俣テ成共此方之仕事大事二掛ケ候陳
(下 略)」とあるから日雇には奉公人の年
季明けのものがなっていたものとおもわれ
る。
4 生産費について
第4表は、晒加工のための諸経費を示し
ているのであるが、晒貨値上げのための資
料である関係から、それが過大に見積られ
ているとおもわねばならない。翌6月、晒
賃が平布ゴ匁5分、ヨリ布2匁4分と値上
げされたと考えられるのであるが、今試み
に1疋の酒質2匁5分とならして1万疋で
銀25貰匁となり、なお赤字ご貰諏匁 いう
勘定になっている。しかし生産賓の割合に
関しては、ほぼこれを信用することが出来
計
11409i 40.2%
ようし、近世を通じてさほど大きな変化が
総 計
28貫367叫 ldo%
みられなかったであろう。生産費に於て最
(但し 原虹判にわいては、第1群小の塩口、酒、油が第I群
の次にあり第1V群中の朱が第I群餅米の炎に記載されている)
62
も大きな比重を占めるものが、人件資と加工材料費であることは一見して明らかである。第1群は触料
費としての柴代糾%を含めての賄費であるが、労働者の賄はすべて晒屋の負担において供されていたの
であるから(7)、この姉貴37.1%は当然人件聾の中に含めて考えねばならない。これを第∬群の労賃15.9
%に加えるならば、人件費は53%(大工手間.桶屋手間を加えると53・7%)と生産費の過半を占めること
になる。これと第Ⅶ群の藁などの加工材料費40,2%を合すと932%となり、生生産費のほとんど大部分
がこの両者によって占められていることになる。酒質値上げの要求が(晒賃が米値段に準じて定められ
る規定であったから米値段の高値を理由としているのは当然として)、例えば「人夫灰藁等多分入増勘
定詰引合致困窮禰曽甚迷惑仕候間」(8)とあるように、常に人夫貨特に藁の高値を理由にしているのは故
なしとしない。
なお文政初年前田家における生産費の明細が明らかであるが、残念なことにこの時期の晒賃を明らか
にする史料を欠いているので、加工利潤について知ることが出来ない。しかしながら加工工程が天候に
左右され易い作業であること、また「私共職分之養〈春三ケ月秋三ケ月重之職分二面」(9)といっている
ように季節的に作業量が一定していなかったこと、さらにはまた生産費の40.2%を占め、「惣両港屋元
入之義ハ銀了・拾貫目入申候へハ七貫目ハ英二入申候儀為り無御座候」(10)といわれる藁の値段乃至「去年
出来之藁以之外患ク大分燃増候得共毎々之通こあく出不申」(11)といわれる藁の品質並に米価の変動がい
ちじるしかったこと これらの事情に加えて後に第4葦で述べるどとく収入の源泉たる晒賃をめ
ぐって問屋の圧力に悩されねばならなかったことを考慮に入れるならば、晒屋の経営はそれが小資本の
ものであればあるほど、いちじるしく不安定であることを免れなかったとおもわれる。このため「一昔
が干争玉造見問及候事如左 疋田二面ハ叉右衛門四部兵衛仁兵衛・…・宗十郎〆十六軒今勤居候六人也
般若寺二面ハ新右衝門大和越前…‥−ノ井清三郎此外こも有之候慎二承候得共 存候分凡五六十年之内
工式十老軒 疋田二面ハ右之衆中身上三度仕舞名も消子孫遥不知人多し 右人数何れも大家二両二代三
代繋栄二御座候得共 只今二面ノ、右衆中二老式軒なして居る人ナシ 其外ハ何方共行方不知名も消劣テ
形チナシ」(12)というようなはげしい隆替を余儀なくされたのもむしろ当然であったかもしれない。
(意)
(1)は)古事誓花覆業部二、この史料の末尾に「町年寄四人右之役人」として石井九郎兵衛、徳田勘兵衛、西村
庄左衛門、清水源蔵の4人の名をあげており、玉井家文書「庁中漣録和州志月こよれば享保3年、この4人が惣
年寄であったことが明らかであるから、享保頃のものと考えてよいであろう。
(3)宝暦6年の「奉公人掟品之軌に張場役人之儀ハ別而仕揚第一なれば至極勘要也 睾悪無之綴二随分細二幅慰
斗第一二可菊ヲ付族」とみえる。
初(5)(6)票良曝由緒薯
同 元諌11年2月18日付仲間より挙行祈宛の訴状に腰C晒ヱいとなみと申候ハ 大勢の人足を以仕立申巌二御座
候へハ 大分之飯米二たべ上ケ申候jとあり前田安道民母藁からの聞醇によっても明らかである。
(叫 年代不詳 関屋宛(カ)rt口上乏覚J
畑 年代不詳 奉行所宛(カ)願状
純 良享2年2月18日付 奉行所宛訴訟吠
輌l享保18年2月1柏 惣年寄宛願状(享保18年「日記」に引用)
(喝 明和6年r家督誤り目録j
Ⅲ マこュフ,クチュア経営
以上の考察によって・酒屋の経営がアニュファクチュア形態をとっていたことは、ほぼこれを予想でき
るわけであるが、以下その経営の実態を明らかにしてゆきたいとおもう。
63
1 生産手段の集中
マニュ77クチュアの成立のためには、ます資本家の直接所有のもとに生産手段の集中がおこなわれ
ていることが必要である0これについては、イギリスにおける資本も義成立史の上で、ヒートンむ著書
からしばしば引用されるリーズの−識元の財産日録といった適切な史料を見出すことができないが、前
田豪にのこされた文政初年の史料によってほぼ推察することができる。おそらく文政4、5年の頃の史
料とおもわれるが・晒屋政吉が「晒株道具共家土蔵建物不残売切証文にて 銀八貰自利足年一割にて」
問屋仲間より借金するための抵当物件として、左に示したものをあげている(凌刹3)。これは晒屋の
史料 3
所有にぞくする労働手段を示していると考えられる
一 晒しめし土蔵
一
一 晒 指 場
一 二階付土蔵 十六
式
十
所所所祈所
一 帯ふき四方庇瓦隠匿
一
年の般若寺徳田庄兵衛「差入一札」、享保8年疋田村
惣十即の「借最一札」においてもほぼ同便のものが
一
が(但し聴居はこれを除かねぼなる変の、文政6
一 惣瓦家一ヶ所
ケ ケ ケ ケ
一 晒裸並諸道具一式
認められる。この中生竜要具としての晒諸道具一式
が明白でなレ、が、徳田庄兵衛のu一札に「布端場建物
一 瓦柴小置 三間二四間 一ケ
一ヶ所 但し嶋田数十から共Jとあるから、数十の臼
一 同毒小堅 四間二七問 一ヶ所
を含んでいたであろうこと、またやや時代を遡るが
一 間狭小臣 一問牛二三間 一ヶ所
一 同長屋 一ヶ所
享保6年釜日録として次のどとき記載のあることに
よって(史料4)、十個前後の釜をもっていたであろ
うことが應定される。この外晒道具の中には、杓、桶など
があるわけであ右が、その数量を明らかにすることがで
きない。・
以上は文政初年酒屋政吉が所有していたと推定される固
定資本を示すものであるが、彼の所有にぞくする流動資本
を示すものとして次頁の史料5がある。
以上によって、晒屋における生産手段の集中の状況をほ
ぼ察することができ、相当の経営規模をもっていたことが
予想されるであろう。
2 協葉 と分業
いうまでもなく、資本制生産の成立存在のためには、資
史料4(1)
一、十二 才五郎
十二 三四郎
一、十一 字右簡門
一、十 孫八郎
一一、六 興兵衛
一、四 伊入部
一、七 孫四郎
禰兵衛
清三郎
入つ二戒
入ツニ成
人ツニ成
七ツニ成
四ツニ成
三ツニ成
五ツニ成
一、八 禰五郎 六ツニ成
甚 七
本の価値増殖を可能ならしめるところの一定の賃金労働者(正使2年晒上下之覚より)
が必要である。従ってマニュファクチュアの実態を明らかにするためには、労働形態一協業の規模、分
業の組織、雇傭条件等々−一について検討しなければならない。
の 協葉の規模 ます雇傭労働の人数が問題になるであろう。「家僕、下部、酎蛎の徒数十人を抱へ
て、騒々しを家業也」(2)とか、「五七人ニテ出来候職二無之多人数抱へ候(3ノ」という言葉が端的に示して
いるように、晒屋の経営が多数の雇傭労働に依存して患り、相当の協葵規模をもっていたことは明らか
であるが、現実に一体どれ程の労働者む抱えていたのであろうか。既にわれわれは、一一万疋の晒上げの
ために、19人の奉公人と数名の臼僻労働を必要としたことを、正徳2年の「諸色入用覚」によって知る
ことが出来た。従って晒屋の生産規模、すなわち一年にどれほどの生布を晒していたか、ますこの間越
から考察をすすめてゆきたいと恵もう。・第1表によって試みに貞享4年をとってみると、疋田村臍屋14
軒で12う,250疋の晒高であるから、平均一経営当り約9,160疋、この年般若寺仲間10軒の隋高179,989疋の
中市ノ井3軒の晒高11,943疋であったから、般若寺付7軒(水門1軒を含む)の晒高1卵,0調疋となり、
64
史料・3
文政五午年七月 改着物
一 銀六百式拾三匁七分 米九石九斗
但し餅 残米ナシ
残ワラ代
一 同凡弐百式拾五匁
凡廿五貫文
割木廿駄
一 同凡百 百
松枝廿荷
午香車賃
一,同五貫九百拾三匁九分九厘
食後受取高
一 同入匁三分五厘
有銭九百廿七文
共通項
一 同八百へ拾人匁
五百九拾式俵
奉公人日雇
一 同蕾〆式百五拾へ匁L分五厘
元貸之口
但し金拾三両三歩五朱百六拾目 廿六〆五百文
一 同七拾六匁九厘
奉公人かし越
一 同凡式百拾匁
硫布 拾式疋
一 同百三拾九匁五分
甚 四 郎
但壱両壱歩:荻
荻太かし
文政四己年七月改膏勒
一 銀凡百五拾五匁五分 白米巽米餅とも
三石を斗一升
一一 ク凡式百廿五匁 ワラ式拾五貫文
一 ク凡式百目余 木 葉
己膏中質
一 ク五貫七百日三分人厘
盆後入高
但し右之外二三百拾式匁壱分入厘布七滞
式百六拾四匁壱分六度口、不算〆高
有頭
一 銀四匁式分五度
四百六拾丸文
一 同式百五拾九匁五分
一 同壱〆百人十三匁六分三厘
一 同六拾四匁五分
一 同凡式百四拾日
一 同六拾 目
荻百七拾三俵
俵二付一匁五分
奉公人日雇
先かし口々
其屋太兵衛かし
失痍布拾式疋
菅原甚四郎
金曇両かし
壷 両
〆鉄人貰九拾式匁七分七厘
甚 四 郎
〆銀九貰四百四拾三匁三分へ厘
外味噌木竹麦大豆
外二味噌醤油墟己年オ多シ紙杉棟沢山ヒ ̄白‘ル
己七月
午 七 月
(文政四己年「万事留」より)
般若寺では平均一一経営当り約24の00疋、市ノ井約4,000疋となり、かなり瑚酉島のあったことが知られる
(但しこの前後特に般若寺付の酒高多く市ノ井が少ない)。
やし時代を下るが18世紀の史料を整埋すると第5表の如くなり、晒高についての具体的な数字が得ら
れる。即ち疋田村においては数千疋から一万五千疋、天体一万疋前後を上下していること、般若寺村(水
門1軒を含む)においては、元文年間なお平均一経営当り二万疋をこえる晒高を示しているが、その後
は一万疋前後に落ちていつたらしいこと、(元文3年前ノ井2軒を差引いて晒高181,940.5疋、このとき晒
第 5 表
晒 屍 一 ヶ 年 晒 高
疋
亨兵衛
投苫寺仲間 孫四郎l利兵衛
198,785.5
疋l ノE
9,786 7,059
146,766.5
10,394.5 9,j35.5
ノ屯
11,999
12,663.5
P「這司計
4,94㌘!
10,408
79918,170
5,115l ひ,174
42,187
6,009・う;
射,747
8,927,13,569
1
10,703
3,717
7,993.5
7,127.5
9,059.5
8,462
8,453.万
8,6‘18
7,9茄
7,163.5
5,舅0.5
7,323.5
9,186
10,000
:芸5l
芸霊百は霊
53,個7.5
60,848
58,271
13.060】14、333.5
7,リ77.5,
−↓
11,971.5
r り
0
0 .
3
1
安永2
安永4
安永8
疋
12,600
3
一, り
. t
♪
一 寸
l
一元文3
延享元
寛延元
宝庫3
宝階7
賢暦12
明和3
明和7
桓画
内市ノ井
田 仲
惣十郎I治左衛門隣邦兵衛l息四郎
Gも773・5i
61,tI糾つ
S,鍔は
9,048.5
6,830.j
5,646.5
㍉∵‥、‥∵∵∴・一票∴ ̄十∴_ ̄  ̄∴ ∴・∴二 ̄!
65
屋8軒であるから平均22,7ヰ2.5疋、宝磨3年般若寺仲間9軒であるから平均11,346.5疋)市ノ井2軒にお
いても一万疋前後であることがわかり、18世紀には1万疋前後の晒高がほゞ標準であったと考えて
第6表 前田家年利晒高
よかろうかとおもう。なお文化末年文政初年前田家の晒高は第6表の如く
である(文政元年より疋田村酒屋は前田豪1軒となる)。かくてわれわれ
は、さきの正徳2年の「諸色入用覚」に徴して、疋田村晒屋においては、
一般にはゞ20人−30人の雇傭労働による経営がおこなわれていたこと、般
若寺村においては、盛んな・ときには数十人にのぼる労働者をもち近世後期
においては20人∼30人の協業規模になっていつたと考えてよいであろう。
その具体的な数字についてはます第7表に示した寛史8年の史料があげ
られるであろう。このとき既に疋田村の酒屋においては、かなりの協業規
模をもち、自己の豪族労働力よりも雇傭労働の結果に依存するところの資
本家協業乃至マニュファクチュアの形態のあらわ
第7表 冤文8年疋田村
れていたことを認めることができる(よ り晒高
(文政4年「万事留」による)
晒屋奉公人人数
の多かったと推定される般若寺付においてはさ
らに大きな協葉規模をもっていたであろう)。この時には、その経営の規模
にかなりの偏差のあったことが注意されるわけであるが、奈良晒布の生産が
漸次停滞下降するなかで、第二章に引用したような激しい隆替をくりかえし
ながら、漸次小規模の経営が。駆逐され、享保以降5軒乃至6軒の晒屋に整理
されて、ほぼ一一万疋前後の晒高をもち20人∼30人の協業規模をもつものに落
着いていったものとおもわれる。断片的であるが、具体的な史料について一
経営当りの協菜規模を示したのが第8表である。
第8衰 雇 傭 労 働 者 数
雇
圭〕人il
計 i 備 考
人
宝永6年 新次郎
元文ころ7 菩兵衛
明和6年
青兵衛
19
17
同 上
文政2年
政 吉
13
15
27
毎年勘定帳
政 吉
12
13
25
同 上
政 吉
12
19
31
同 上
12
5月8日一札之革
奉公人擦品之如
31
23
107
77
(7月−12月)
文政3年
(1月−7月)
文政3年.
(7月−12月)
幕 末
政 吉?
協業規模がかくの如きものであったとするならば、協業に割ける組織的は作業分割=分業の存在は当
然予想せられるところであろう。
何 分票 決頁に示す「覚」(酎斗のは、最悪2年のものであるが、部分的分業のおこなわれていたこ
とを明白に示しているであろう。 すなわち加工工程の各段階に照応して、釜たき・灰汁屋の者・干場
労働者(芝方ともいい布楯にもあたる)・仕立師(張場のものともいう)の区別があり、さらに問屋
から生布を受取り晒布を間室に届ける町行と、農業に従う野舅のあったことが明らかであるが、このこ
とは明和六年の「奉公人掟品之抑」(4つ′こよっても裏付けることができる(諸部分労働の畳的比例性につい
ては的確な史料を欠くが、「人数下女共了ヰ巨人大男十人〆十二八 千芝出所予共十二人也」とみえる
から、釜焼き灰汁屋の者、張場仕立の者など屋内で作業をするものと、布をついたり干したりする主に
購
史料 6
覚
一 野 男
給分葱石七斗
一 卒 晒 質
式匁五分
たは代廿五匁
拾五匁
一 よ 里 布
弐匁四分
式拾匁
一 半 晒 賃
壱匁三分式厘五毛
一 掘 出 し
辰ノ六月六日よ里 但壱疋二付六分五厘檜
憂匁五分式厘五三毛
一
奉公人給銀之専
給鋏壱石人斗
一
行師き
式匁七分
一 宇晒反物壱疋二付
立た
式匁九分
一 常苧反物を疋二付
町仕釜
一 同反物壱疋二付
日 雇賃銀之車
五分式厘 五分七厘
一 お も 二月三月四月五月 式分檜
残テ八ケ月ハ 葱分檜
一
一 幅 廣
五 分
式匁七分
一 干 場
是よ旦外見はからひ
一 町 行 同 断
一 釜 購 同 断
一 仕立之者 同 断
給分葱石入斗
弐拾匁
給分壱石七斗
一 干場甲奉公ノ\
たはこ代廿五匁
二月廿日
八月廿日
七月十日五
六月廿日
極月十日
上
式拾匁
一 同 たほこ代拾五匁
七匁五分
拾 匁
[口Tlロ[ロ 日[ロ [ロ[ロ[口 日日
中
二八七六極二八七六転
.上
綿誓折指誓肘
二月廿日
人月廿日
拾五匁 七月十五日
六月廿日
式拾匁
極月十日
一干場年季之着たはこ代廿五匁
拾五匁
二月三月四月五月 式分埼
残テヘヶ月ハ 曇分増
いゑ、/ノかくしきそてノ下あるべし
拾五匁
同 断
四分式厘 五分式厘
拾五匁 七月十五日
三拾匁 蒜措冒
同 断
同 断
一お も たはこ代式拾五匁ヲ天鐙呂
一 おも代り たはこ代廿五匁
二月廿日
入日廿日
七月十五日
六月廿日
極月十日
一 日之出申さ須候内こみな\/不残罷帰り朝干(カ1二
度ツゝ可仕慎事
一朝の義壱ヶ月二三度ツ、宥免司仕其_し朝にても不参
仕候ハ、一日二五厘ツゝ奉公人日用とも引可申候
一幕方仕堵之葬人相限リニ働可申慎
一請承之義停止可仕慎
一張場日之短キ時ハ夜なへ可仕慎
一野男朝キ右之同前人絹限り働可申候
一作癖仕候着帯之儀典敬遠ハシ串間敷咲阪時分二韻出
たへ可申帳
一私晒之寿先年オ停止之通り相守り可申幌 若美者之
着用之菱ハ此方へ相断候者さらさせ可申候・菱反二
而もかくしさらし申候ハ、中間へ取上可申慎
一不叶用事看之候ハ、此方へ断候ハ、其上二而隙邁ハ
シ可申候 薯無断我歯二私宅二居申快ハ、右之檜銀
二而引渡シ可申慎
一作物並二竹ノ子何こよら須盗聴さい物二致シ申間数
候事
正徳二年辰七円十九日・
但し兄はからい
一 次汁庭之者 同 断 但し家の格式見計イ
屋外での作業労働者の比率がほぼ半々であったと考えてよかろうかと思う)。さらに注意すべきは、お
も及び恵も代りの存在であって、これは、明和有年「奉公人掟品之如」(以下胃「l」と略す)に「惣支配
饗役市左衛門儀去亥十二月十三日才子十二月十三日迄丸一ケ年給銀定囲百三十日也」とある惣支配覚役
に該当するものと考えるべきであるから、一般労働者を指揮監督する械人頭=作業場良に外ならない。
そうして同じ「如」に、元灰汁役人、干場役人という表現がみえるが、ここに役人というのは、「張場役利
助、張場勘四郎」という記載がみえ、また別の史料に(6)寛保3年10月改雇貨として「下七分中八分、役人九
67.
分」とあるから・いわゆる醜蚕と考えるべきであろうか0とすればある程度、資本義一作業場長一職長一
 ̄般労働者といった編成が成立していたといえるかもしれない。レ、すれにしろ分業の成立とともに、一
定の労働の編域がおこなわれていたものと解すべきであろ’ぅ0また正徳2年の「覚」(史料6)は、部分
労働の熟練度に応じて等級的貨銀の成立していたことを暗示しているが、このことは下に示した史料7
によって一層明白であろう。
史料 7
元文三千九月廿一日後
日雇人数音質銀之義段々願車二付
一 七 分 はまり中音下
此値段尤下成物ハ是二不限相対之下
直
但シ秋ハ惣而壱分下ケ
一 八 分 はまり中
一般に協業規模の拡大、指揮監督機能の強化とともに、労
働規律が強化され、諸種の労働規則として具体化されると
いわれている。正恵2年の「覚」が、簡単ながらそれにふ
れているのは興味の深いことであるが、さらに具体化され
′な労働規則を示すものとして、明和6年の「如」があるわ
けで、「一奉公人日雇鞄候事、−裏付悪物云いつこどう成
者残片一向之者抱寮候事、一元灰汁役人之事、−釜燃役人
元奴汁
右 同 断
一 九 分 上
右 同 断 町 行
張 場
金 屋
あくや
一 壷匁八度
より中
右 同 断
一 重匁憂分式座
よりと
右 同 断
込燃此内二人候事、−町役働仕用之事、−干場役人
諸事仕用之事、一子共役人勤方仕用之事、−農方奉公役人
勤方之事」と分顎して各部分労働に応じて、詳細にその
「仕事格式の俵」乃至「式法」を規定している。そうしてこ
れは「且部分之者ハ早朝が夜分ハ皆々仕舞片付休候ヲ見面
体候事 昼之内ハ晒農方二不限間有時ハ一日半日寸心之問
こも無僻怠両家葉共気ヲ付見廻り候得ハ 縦隊時二面も見
廻乏恐分天気雨天こもエ封仕事ノ、大分仕事ノ之見落有之者ニ
イツトテ
一 壱反弐分式塵
右 同 断
よ。上ヒ
(中 略)
琴「公人給銀覚
而候此段鍛錬可致候へ者何迫も隙ト云事盃盈候胤とい
った指梯監督の強化を反映しているものであった。
以上によって、晒屋にあけるマニュファクチュア的分業
が、かなり高度に組織されていたことをみてとることが出
来るわけであるが、元灰汁役人について「早ク仕舞候時ハ
一 一百 冒
一 百式拾目
蜜布二面も何方二不寄相働申碩リニ 抱候時二堅ク契約可
致候」といい・釜燃役人之事の項には、昼は干身\出て芝
方の動むべきを説き「共役斗ヲ功こして何事ヲ申付候ても
一 式百 目
右様ニハ得不動ト申者有之時ハ 米雷二面も為致候て」と
(r仲間万覚帳はり)
記している如く、一定部分労働への労働者の緊縛はそう強
同でなかったとおもわれる。な患ここでは、 商品別分業の患こなわれていたことを示す史料は全く見出
すことがでせない。
ごj 雇 傭 関 係
一一 百五拾目
一一.百七拾目
さきに若干ふれた如く(62買)、労働者は奉公人と口雇に大別されるが、正徳2年の「覚」(灸判6」に、干場
平奉公人と干場年季之者という区別があるのが注意される。年季之者について給分の記載がないのは、
「如」に「張場勘四郎年季仕着七両度二時二雲 為仕貴之外来春じゆばん手拭二尺五寸渡ス」とある
「年季仕着セ」の者であることを示し、晒軍に住込みの奉公人を意味するものであろう。平奉公人と
は、一年限りの給分を契約の上奉公するもので、おそらくは通勤の奉公人を意味した一とおもわれる。こ
のことは、例えば「如」に
惣支配覚役市左衛門儀去亥十二月「三日オ十二月十三日迄九一ヶ年路銀四首三十日也
散 道 内式百目者亥十二月減ス
自セミノ
鵬
文百日老子ノ盆前二環ス
又百目ハ子等二渡ス
引項而三十匁ハ年々蔑斗二不限勤ル間之約束二而此三十日ヲ預り置也動ル問一ヶ年之問二一日二而
も引日石之不動事候ハ、二謡給韻酌之内二耐旨欄二賭銀日割以引可漸梶
とあることによって察することができよう。日雇には「但常詰也」とある常勤のものと、「急ケ敷時斗
ハ雇トミノ約束也」というような臨時雇のものとがあり、賃金はすべて日割勘定であった。
給銀の支払形式は、「年季仕着也」の者を除いていすれも時間私であった。このことは加工仕上業と
しての作菜の性質上出来高払いが困難であった事情にもとすくが、その作業が雇主の仕事場にあいて、
雇主乃至職人頭の指揮監督の下におこなわれていた事実と照応するものと考えられよう。なお奉公人の
給銀について、正徳2年の「覚」では、給銀毛石へ斗、給分壱石八斗という風に、現物で支給された形跡
がうかがわれるが、明和0年の「和」では、明らかに現金で支給されているのは、雇傭条件の上で一定
の進化のあったことが認められよう。特に日雇の雇傭条件に関していえば、晒屋で食事が賄われたこと
を除いては、ほとんど近代的な賃銀労働者に近すいているようにみえる。宝麿2年には日雇賃の値上げ
をめぐって、口雇層と酒屋仲間の間に争議の患こなわれている事実も(7)、このことを裏がきしていると
恵もわれる。
然しながら、「丁目」に「奉公人なれハ請人ヲ憤成ル者吟味シテ銀了・相渡時ノ、格式半給渡 日雇二候へハ
少倍 是も可成事なれノヾ詣人ヲ立候ハ、少多貸候面も不苦哉」とみえ、事実文政初年奉公人日雇への億
貸賃が毎年銀一貫式宵匁前後あること(65頁史料5)、さらに上帽の市左衝門の給銀中三十匁の預り銀に
ついて闇汁路候銀子者 不奉公致きぬ橡之引当二預畳也万一一不奉公御座候弾着此方が申合有之候格式
二不背様之引当銀二預り量候者也」としていることは預り銀久は前銀の形で労働者の雇主への人身的隷
属を強制しているものと考えねばならない。このことは「専門家の養成はかなり永続的な訓練を要し、
従って徒弟制度がマニュファクチュアの自然的置伴物となる」(汚)という事実と無関係でないようにおもわ
れる。仲間掟に「奉公人等日雇御仲間二面相働候内を内証二面雇申候俵堅無用之事」とあるように、時
には他の晒屋からの職人の引抜きがあったにしろ、碩妙な「灰汁かげん」[晒あんばい」が必要であっ
た限り、徒弟制度がおこなわれていたことは容場に推察されるところであろう。従ってわれわれは、一
見資本制的な雇傭関係を示しながら、なおそこには預銀乃至前銀の形で人身的隷属の存在していたこと
を無視してはならないと患もう。
なお「和」が、「叉長扉致候へ者仕事ゆるやかに成り行也 尤口和続ニハ廻りかね候専有之候得共
雨天杯統候へ者右二面仕事も不足二相成物二候得者 客〆リ随分不足二人抱置候事」という風に出来る
だけ雇騰労働を少くL、その代り「奉公日雇二不限給銀雇貨共格別高値ニシテ増銀遺」すならば「早朝
モウケ
が夜分二至道管分持候へ者 各々我等遥失墜有間数」「持次第二銀認可有事必定也」と、くりかえし高
給で雇うこと並びに増銀を与えることを強調しているのは注目される。増銀とは「その設銀次第を其人
々之持善悪ヲ見届定高 給銀之外日雇年季子共二至迄働之功次第二甲乙して其人々」に与えようとする
ものであって、能率給の考え方を示している。即ち高賃金乃至増銀によって労働の強化をはかりこより
多くの剰余労働を収取せんとしているものに外ならない。事実かかる政軍をとることによって、仲間に
二三質宛の損銀があり三軒の酒屋が没落を余儀なくされた際にも、三貫目余りの延銀をのこすことが出
来たという。そうしてこの「奉公人掟晶之和」自体、かかる方針を貫徹するための強化された労働規則
を示しているものに外ならない。
4 マニュファクチュアと農業
一般にマニュファクチュア段階においては、工業の巣篭からの完全な分離はおこなわれていないわけで
あるが、折尾の±稚所有、晒屋マニュファクチュアと農菜の結合につレ、ては、充分明らかにすること
69
が出来ない。「もとより酒屋なくては家葉なき者共二面御座候」(0)といわれているが、正徳2年の「覚」
に野男についての賃銀の規定を示していること並に明和11年の「如」に「農方奉公人役人勤方」の規定がみ
えることは、彼らが豊菜を兼営していたこと充分想像させるものである。前田家中輿の祖として前田家
に怠ける晒葵の基礎を確立したと考えられる芳秀喜兵衛(明和6年死)が、さきの「如」において「四
十四年以前が三十ヶ年棄 此吾之通急度相動 其間持出シ銀了式百貫目会誌出シー 田地買同普請諸道具
買娘兄弟婚礼等家土蔵ヲ建 右人用ヲ致」といっているが、明和年間の「田地内作宛覚帳」によれば、
その手喜三郎分とあるのを含めて高143石6斗丁升の田畑をもち、その中約半分に近い71石4斗8升を
自作し、73石3斗4升を小作に出して、藤田五郎氏の所謂「豪農」としての性格を強く打出していること
が注意されよう。そうして彼は、宝暦7年の「式方支配方之和」において、「右之通り相心得 晒家業
農業共食滞二相勤候事を相心得出精有之候ハハ世話之筋二候へ共食滞役之功有之右之格式相守備へ者子
孫繁昌相定催事」と酒豪薯と農業の兼営を強調しているのである。これは勿論、労働者の飯米年数十石
を必要とした関係上、烏鷺を兼ねていることが、その経営の安定をはかる上で、大きな役割を果したこ
とを意味すると考えられるが、ともかく、酒屋善兵衛が、家業の方針を貴業からの分離の方向にではな
く、却って農葉との結合の方向に向けていることに注意しなければならない。そうしてかかる方向にそ
の姿勢をとっていた前田豪が、疋田村における唯一の晒屋としてのこり、明治維新直後晴屋をやめて寄
生地主に転化してゆくことになるのである(10)。(寛政4年の名寄帳によれば、臍屋治左衛門が14石8斗
4升、治郎兵衛が8石4斗5倉、庄三郎が7石7斗2合1勺の高を持ち、第3表によって疋田村におい
てはかなり上層の高持であることがわかるのであるが、疋田村以外での土地所有が不明なので、彼らの
喪業経営について知ることができない)。
なお明和6年の「如」に「四五年以来♂勤方次第〉ニ悪教戒 家来共何れ其私用多ク下作仕 日雇
共杯一ヶ年之間相軌候者凡三百日斗も相勤 其内ニテ米三四石作坂 それが一年\一/ニ私用よく強く相
成 二三年以来老五六石宛作坂こよって」とあるのは、労働者の側においてもまた奉公人の一部乃至日
雇などで農業を兼営していたもののあったことを示しているものであろう。
(註)
(1)享保6年般若寺仲間から、疋田村の釜数が多いので減らすように申入れて塞たときの記録で、12釜のものは8
釜に減らしたものとおもわれる0
日J r僧琵某j
r3)文政4年5月幻目桝屋政吉よりr両問屋仲へ出陳古前銀隼嘩延年顧之宇田
(4)これによると金噴、元安汁、干場、張場、町埠、農方の区分がみられる0
(討 明和 年「奉公人提晶之拍」
(6)Iγノ 晒屋仲間「万覚帳J
(8)岩波文庫rロシアにおける資本主轟発展」中巻251頁
佃)元稚11年2月1礪 奉行所宛訴状
こlq)この点については稿を改めて考える予定でいる。
Ⅳ 産業資本と高菜資本一一晒屋と問屋
最後にわれわれは、産業資本と商業資本の関係を考えておきたい。一般に「商業資本と産業資本との
間の貴も緊密且つ不可かび酢凱ま、マニュファクチュアの侍激的な特殊性だ」(1)といわれているが、「貫
占業者は殆ど常にここではマニュファクチュア経営主と絡みあっている」(2)といった事実は、ここには
みられない。むしろ商菜資本と産柴資本は、問屋と陣屋の対立と1してあらわれ、両者が絡みあう道は閉
されていたといえる。このことは、第一葦でふれたように、明暦3年惣年寄による生布検査制度の成立
によって、晒犀が問屋から委託された生布の臍加工を患こない、一定の臍賃を受取るという体制が確立
TO
され、商業資本たる問屋が生布の買入れ並びに晒布の販売を独占支配し、晒屋が生産者からも市場から
も完封こ遮萌されていたという事情にもとすくものであったことはいうまでもない。然しながらマニ1
ファクチュ了の経済構造に特徴的であったとされる「小営薯におけるとは比較にならぬほどの洗い営業
者の分化」(勘乃至「多数の小経営と併存する小数の大規模な経営」(4)が、晒屋マニLフ7クチュアにおい
てあらわれてこなかったことを考慮にいれなければならない。何となれば・一つには晒屋株仲間の成立に
よって酒屋の数が固定され、その特権的な独占によって私情の名のもとに小生産者の出現が絶えす排撃
され、二つには次に述べる事情によって、その経営規模の拡大が阻止されていたからである。
ます晒屋の利潤の源泉たる借賃が、米価に準じて公定されるたて変えであったが、問屋=商業資本の
圧力のために、実質的にもまた時期的にも臍屋に不利に決定され、資本の蓄積を国井にしていた事情が
考慮されねばならないであろう。「元来雨間屋共が両村仲間ヲ悪ミ申候訳ノ、往古より晒賃之儀御公儀
横が御定被下’問屋其ハ口銭之外二亦々雨柑之賃銀の内を引 徳用有之様こと無限慾心を仕候」(5)とか、
防屋の賃上げの願に対して「其後問屋仲ケ問井組頭方へも度々参り 何分勘弁之義碩入候処 他役人も
在之専こて評定雑相成而己申立 取締評議も不致呉」(0)とかいっているのは明白にこのことを物語るも
のである。その上「布商売不景気二俣問願之義暫く御見合候へと被申」(7)というように市場の動揺(奈
良晒布が著移的生窒品の性格をもっていたこと、また主に夏の衣料であるため雨が統くとか冷しい夏と
か、気候に左右されて売行不振に陥入る事情もあって(8)市場が非常に不安定であったことが注意されれ
ばならぬ)が、晒賃に「しわよせ」され、晒屋を苦境に追い込むことになっていたことも無視出来ない。従
って臍賃をめぐって問屋仲間と晒屋仲間の抗争がおこなわれ、史料に忠実なるかぎり、米価変動のはげ
しかった元祓一享保期に顕著であったようにみえるが、しかも酒屋仲間の主張が充分に実現出来たとは
考えられないのである。さきにものべたが、明暦3年の生布検査制度の成立は、問屋の生布並に晒布の独
占支配の強化を意味し、問屋に対する酒屋の地位をいちじるしく黍めたものであったが、臍賃をめぐる抗
争において、問屋は次のような筍をとって膳犀を抑圧してゆく。酒屋は「寛文延宝年比、膳屋工鷺娘多
に募り、問屋蔵方仕方に鬱憤有る時は、晒場の芝止とて、問屋蔵方より預り置く布を晒さず、日を捗り
て工匠を打捨て置きける、是を時の俗芝止と云へり」(9)とあるように「芝止め」を以て問屋に対抗する
わけであるが、これに対して問屋は奉行に願出て、両村以外に新たに臍業を始めさせることによって、
酒屋を圧迫しようとする。延宝7年市ノ井における新酒屋3株の出現、元祓11年揉屋に対する木晒の認
可(享保8年一時不許可になるが11年再び許可される)、正徳3年.切晒屋に一時本晒御免、享保18年新
法の晒株5軒の所出(10)といった事実は、酒屋をして「問屋共当前之迷私欲二両村仲問を悪ミ もミや共
を生立申候而 私共を潰し申候方便仕候故 千万迷惑至極二奉有候」(11)といわしめているように、問屋仲
間が両村晒屋を圧迫するための「方便」に外ならない。また酒屋仲間の方で、正徳6年正月の例にみる
ように、「廿九日が布請取不申候夫共増銀ノ出申候の者請取申候」(12)といった手段もとるが、問屋仲間の
方では、享保18年の例にみるように「二月廿八日巳来 惣而両村仲間に暴布無数精機 家業難軌様二両
問屋が仕成候」(13)、また「ならさらしも例年に達無数候 其無数御座候内を大分もミや江指遣 私共仲
間江者至極無敗渡世相立不申候様二仕成シ申候」(1第といつたわけで、もミやを利用して両村阿鼻に生布
委託を削減乃至停止する手段に出ている。特に享保18年の猶賃値下げをめぐる抗争は深刻であったらし
く、「所詮問屋江噴ヒ内之者英二御座候」といわれる問屋資本の支配下にある粕屋仲買百人余りを動員
して両村感屋へ対談申掛けさせるとともに、「別而古川大和大様江者格別二無数指趨候条 大和大條義
者必至と勤リ不申候故五月碁豪碩共江暇を遣候 如此家業被指酎醍二付 両村仲間寄合致談合候処 問
屋之仕方着 発天和大株を潰し 天才柳原斬兵衛次二徳田毯前大様耳後誰々と指肖 畢意次第二両村仲
間を為致清脚可申方便こ もミや共江内証二面賃銀増遺し 嘉大坂江茂両村を様々と悪ク申成シ」とあ
ることき強行軍をとっているく15)。ここでおそらく晒屋仲間の決定的な敗北がきたのであろうか、その後
71
の史柚Cは、酒質をめぐる争いについて物語るものがなく、かわって数多くの栖屋仲間栓が残され、後
述の如く問屋に対する屈従的態唾が認められる。これは上にみた如き問屋の圧迫のまえに、臍屋が屈服
を余儀なくされ、もはや問屋と競争するェネルギーを失っていったことを意味するものでないだろう
か。そうしてかかる酒屋ヱ)聞犀への従酎ま、織布工程におレ、て享保以降間犀制家内工業の形態が支配的
になってゆく過程と照応するものとおもわれる。ともかく上述のごとき問屋=商薯資本の圧力のまえ
に、情屋マニュファクチュアの駄犬は、いちじるしく阻害されていたと考えられねばならない。
つぎに生産者からも、販売市場からも遮併されていた酒屋が、その経営規模を拡大していくために
は、「原料」たる生布を、より多く問屋から委託されることが何よりも必要である。然しこの点に関し
て、仲間内の競争を排除するためのきびし小仲間掟の制約があって、宜永から寛政にいたる残された十
数適の仲間穂を通じてみる限り、得意先たる問屋からの生布の委託を集中独占することを禁じた規定が
圧倒的に多いのが注意される。いまそれらから若干引用するならば、「一帖賃銀之俵 党規が定之適
得意方或若粕屋向其外何方が請取候共 御公儀様画定之内壱短毛毛二両も 内々二面相対致引誠取申間
数候事」、「一得意先之手代衆相櫓之俵 堅無用之専」、「一間屋井粕屋へ仕立師致候者達候族ノ、党規より
而無之事二候万一張遠御座候而仕立直し候様申候ハ 此方へ取寄仕立直し造可申候 其外折込杯致呉候
棟申参候共 一切人造串間敷候事」となし、また「得意方へ青物之義定之外一切遺し申間数候」として「一
昔物之事 般若寺方ハ年等祝儀・七夕祝儀・両度の鮎・竹子、疋田方ノ、年暮祝儀・七夕祝儀・竹の子・初
耳・九月神事餅、右之外一切青物堅致間数候事」と規定してレ・るなど、問屋へのサーヴィス競争を排除
し、或は得意党廻りについて、年乱・犬三十日・七月十四円・三月ニー日ヅツ・九月二一日ヅツ「右之
外得意先へ相坦候事 一切致串間数候事」、また「町廻り候者得意億二面内々之相対ヲ以 狼二我榛成
仕方致候者有之候ノ、、仲間♂差止メ可申候」といった制約を設けて 問屋と特殊な関係を結ぶことを
排撃し、生布の委託を集中独占することを相互に警戒している。従って仲間に内証で新規に得意をつく
ることは、勿論禁止されており、何事によらず仲間を出しぬく様な行為は、「仲間互にた患し合候趣段
々候而 甚有之間数事二候故 此度急度相慎」むべきものとされているのは当然である。このためには
「一高事之儀仲間射目談 其上二面仲間衆中丁簡次第守り申事大切成事二候 自分之仕事ト有 朋の事
二面茂不及相談 一分二面取斗ひの義有之候而着港戸こなり その品により御未刊取上ケ可申候」とさ
れ、「一曝賃銀前銀叉ノ、算用仕来り候補 仲間江披露致 御改之上二面得意方へ話取遣シ可申事」、「年
中に晒申員数 無相違書付 仲間へ出シ可申事」という風に、経埋の内容も仲間に公開されていなけれ
ばならなかった。かように・晒屋の自主的な経営と活動を制限し、自由な競争を抑えるギルド的制約が存
在する限り、酒屋の経営規模の拡大は到底期待出来ないであろう。したがって第二章でみたようなはげ
しい隆替にもかかわらず、近世後期にねト十万疋前後のほゞ平均した生夢規模に落着き大規模な集中がみ
られなかったものとおもわれる。
上にみてきたような事倍によって・晒屋の経営規模の拡大は阻止され、て〒ユファクチュア経営主た
る幡屋が、家内労働乃至′ト経営を自己に従罵させつつ買占業者=商業資本となる道は閉されていたもの
と考えられる。まして酒屋マニュファクチュアが、奈良酒布菜のギルド的な諸制約を破って、坂元と直結
して商人=経営主となって畑くことは到底不可能であったといわねばならない。
(詳)
(1)勉 岩波文庫「。シアにおける資本会葬の発展J中巻鋸頁
(3J 同上 2j8貫
糾 問上 266頁
(5)r奈良曝由緒暫」享保11年の頃
(G)年代不詳・奉行所宛闘状
丁空
!7)享保18年「日記」
(8)立命酷大学史学研究室蔵イ永代預ユ
佃)僅琵襲J
胸「票艮曝由緒曽」なお窮一軍車照のこと。
(11)享保18年IH記j記毒拓咽た5月lGR =コ上書j
(1の 正徳2年「晒上下之覚」なよ「前方 ̄宿謂寂不申候全たいに年かさヱ分両村十人閉門被琵仰付候j とある。
(1瑚 紬 的 享保脾年「離別
以上基礎的史料の分析を通じて、晒岸の経営形解はほぼ明らかになったこととおもう。そうしてそこ
に、20人∼30人(般若寺の盛時にはおそらく数十人)の労働者を甜傭し、分菜にもとすく協業の技術的
組織にたつマニュ77クチュアをみることが出来た。 かかる仕上工程に怠けるマニュファクチュアの存
在が、基齢工程たる穐布工程において問屋制家内工菜が支配的な形態であったことと矛盾するものでな
いことは、資本主義成立期のイギリス毛織物工菜の史実に敵しても明らかなところである。すなわち、
ドッブがいうように、「家内生産とマニュファクチュアとは.多くの場合において、同一産菜の異った
段階において密接に結合していた」′力であり(1)、矢口教授が「織布工程に関しては家内工業形態が多く見
られたのに対して、仕上(縮絨)工程に関してはマニュファクチュアが支配的であった」といわれてい
る通りである(2)。また矢口教反がの「限りなく工程の分化している織物工業においては、家内工業
が原則であったが、仕上工程「染色・縮絨・艶出一においてはそれと結びつく半工場状態(マニュフ
ァクチュア一失口民事)が中世においてすら、普通考えられるほどの例外ではなかった」というネフの
所説を引用して説かれていろように(雪)、仕上工程において集中のおこなわれるのが一粒的で、仕上工程
がその技術的条件からいって半工場状態に長も適合していたのであり、酒屋マニュファクチュアがそう
いう意味でのマニーLファクチ声アであうたわけである。従って・酒屋マニュファクチュアの存在を以て直ちに
奈良晒布の発襲段階を考えることは、勿論許されないわけであるが、酒屋におけるマニュファクチュア
自身において、商品別分葵のおこなわれていた証拠がなく、雇傭描係において預銀乃至前銀の形で人身
的隷環がおこなわれていたこと、またその営業方針において酒屋喜兵衛についてみた如く農業兼営の方
向への傾斜が著しいことなど、なあ非近代的な要素を含んでいたことが顧られねばならないであろう。
さらにまた酒屋マニュファクチコアが、奈良晒布業今般のまた晒屋仲間のギルド的制約のもとにおか
れ、問屋=商葵資本の制圧をうけて、自由放立なマニュファクチュアとして発展することが出来なかった
ことも注意されねばなるまい。かくて酒屋マニュファクチュアは、織布工程を自らの資本のもとに組紐す
ることが出来なかったばかりでなく、資本家的家内労働乃至小経営を自己のもとに従属させて買占業者
=商業資本としてたちあらわれることも不可能であったのである。従って、イギリス毛織物工業の史実
について、「仕上工程におけるマニュフトクチュアの存在は、その意味において、生産者が商人になる達
の前提でもあった」(4)といわれるような、「生産者の商業へグ〕上昇的腰逓」の前提すらも、そこには存在
していなかったといわねばならない。
(溝)
用 丸L]恥bb,Sl−1d如in the T)押el。P1−1e−1告 げ舘pihlIiっ−11,19丑Pl射
r2)知孝次郎r資本主義成東期の研究j舗貢
(3J 同上 77−73真
如 同上 89豆
〔附言巳〕なお本稿ま文部省人文科学研究理をうけ、頃田修三氏の協力を得てなされた研究の一郭である。記して感謝
の意を表する。
73
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