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南宋の「帰正人」について

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南宋の「帰正人」について
南宋の「帰正人」について
─その呼称と実態をめぐって─
榎 並 岳 史
1、はじめに∼問題の所在∼
金という王朝の成立と、その華北平原への侵攻という状況は、当時の東アジア世界におけ
る一大事件であった。この所謂「靖康の変」が周辺諸国に与えた影響は甚大なものであった
と言わざるを得ないが、ここでは直接的な当事者である南宋に与えた影響はどのようなもの
であったか、ということを軸にして考えたい。
南宋における主要な課題として立ち上がったのは、金支配下の華北から逃れてくる流民達
の存在であった。当時南宋では、①軍事的理由(辺境防衛軍事力の増強)、②経済的理由(淮
南・湖北を中心とする荒田の生産力回復のための労働力)③政治的理由(金に対して政権と
しての正当性を主張するための宣伝効果)の以上3点を理由に積極的な受入れを展開してい
た。この受け入れは金・南宋の対峙していた間一貫して行われていたが、当時の両国の国際
関係にも左右され、受入れの可否めぐり、朝廷高官同士の討論に発展することもあった1。
こうした流民について、黄寛重氏は彼らを概括するタームとして、当時の史料に頻出する
「帰正人」とは、華北より
「帰正人」に着目し、その実態を考察している2。黄氏によれば、
南宋領内に逃れて来た人々全般を指すものである。黄氏は「帰正人のほかに「帰明」などの
呼称も存在するが、当時の記録ではそれほど厳密な区分は為されていない。
」3と述べられ、
様々な名称で呼ばれていた流民達を「帰正人」という呼称の中にまとめ、概括的に理解すべ
きとの判断を示されている。
こうした見解は後の研究動向にも基本的に引き継がれている。例えば「帰正人」に対する
「南宋の所謂『帰正人』
」を「遼・金・西夏・偽斉
南宋の科挙政策を検討した4裴淑姫氏は、
などの隣国・渓洞蕃部さらには占領された地域から宋朝に逃れて来た人々」と定義され5、
朱熹『朱子語類』や趙昇『朝野類要』を引き、南宋の「帰正人」は「帰正」
「帰明」
「帰順」
「帰
朝」の四種類に分けられるとしている。
しかし、当時華北から逃れて来た人々は、本当に「帰正人」という一つのカテゴリーで概
括しうるものなのだろうか。
裴氏が引用した南宋後期の類書『朝野類要』の「帰附等」の項目には、趙宋政権の支配下
に帰順してきた人々について、その特質に合わせて、次のように細分化され、定義されて
いる。
帰正とは、元と本朝の州・軍の人に係り、蕃に陥るに因り、後に本朝に来帰するを謂
−18−
う。帰順とは、元と西南蕃蛮・渓峒頭目等に係り、納土帰順し、旧に依り渓峒に在り
て職事を主管するを謂う。帰明とは、元と西南蕃蛮・渓峒人に係り、納土し本朝に出
来して官に補し或いは給田養済せらるるを謂う。帰朝とは、元と燕山府等路州・軍の
人に係り、本朝に帰する者を謂う。忠義人とは、元と諸軍の人に係り、見に本朝界内
に在り、或いは蕃地に在り、心に忠義を懐き、一時功を立つる者を謂う。
(
『朝野類要』
6
巻三、帰附等)
この記載を見る限り、南宋へ流入してきた人々は、その来歴・出自等に合わせて「帰正」
「帰
明」
「帰順」
「帰朝」
「忠義人」などの名称が存在し、その一つ一つについて明確な定義が存
在していたことが分かる。このことは、当時(南宋中期から後期)
、領内へ流民達を受け入
れるにあたり、こうした分類が明確に存在したことを示すものではないか。黄氏の概括につ
いて、その妥当性についてもう一度検討を加える必要があるのではないか。
また、裴氏の言うごとく「帰明」
「帰順」
「帰朝」を「帰正人」の一要素としてのみ捉える
ことは妥当であろうか。少なくとも『朝野類要』の記載を見る限りでは、
「帰明」・「帰順」
は西南蕃蛮にのみ使用される用語であり、華北からの流入者である「帰正人」とは、根本的
に異なる。また、「帰朝」についても「元と燕山府等路州・軍の人に係り」とあるように、
極めて限定された条件下でのみ使用されていた言葉であることが窺える。
それでは、南宋における「帰正人」と、その他のカテゴリーとにはどのような違いがあっ
たのか。また、何故そのような相違が生じたのか。これは南宋における「帰正人」について
考察する際に、まず検討しなければならない問題である。本稿ではこうした課題意識に基づ
き、
「帰正人」の実態を、
「帰明人」および「帰朝人」の実態と比較検討し、その名称の相違
がどのような要因によって生じたのかを明らかにしたいと思う。
2.
「帰正人」登場以前の流民受入れ─「帰明人」の実態
「帰正人」に関する史料は、
『宋会要輯稿』兵15「帰正」に、最も数量多く収録されている。
ところが、金が華北を支配してから滅亡するまでのおよそ百年余りの期間、320条あまりの
収録記事には、管見の限り北宋期の史料は一件も存在しない。確かに『宋会要輯稿』は、史
料の成り立ちから考えれば、その項目分類は書写者である徐松の意向を反映し、必ずしも同
時代の実態を反映しているとは言い難い。しかしながら、北宋期の基本資料である『続資治
通鑑長編』においても、管見の限り「帰正人」を受け入れたという記載は見受けられないの
である。このことは、
「帰正人」というカテゴリーが、南宋に入ってから使用されるように
なったものであることを示しているように思われる。
しかし、北宋期においてもまた、宋朝の領内に流れてくるような人々は一定数存在してい
た。こうした人々は「帰明人」と呼ばれ、従来宋の領内に住んでいた人々とは異なる扱いを
受けていたのである。
−19−
「帰明人」とは、どのような人々だったのであろうか。残存する史料からは、以下の2種
類の人々がいたことが確認できる。
まず、契丹・西夏領内から逃れてくる人々である。『続資治通鑑長編』には、彼ら「帰明人」
の受け入れに関する記事が散見されるので、そこからいくつか引用する。
丙辰、鄧州に詔し、契丹の帰明人李美に田十頃を賜う。美自ら言う「旧籍は邢州の内
邱にして、祖紹温契丹に陥る、今を距ること八十年なり。比歲飢に因り、族を挈して
7
来帰す。
」
(
『続資治通鑑長編』巻107、天聖七年四月丙辰条)
「契丹の帰明人」という記載から、この李美なる人物が契丹からの逃亡者であることが分
かる。李美の申し立てによれば、八十年前、彼の祖父の代に契丹に帰属し、その後食糧事情
の悪化により宋に帰順したということなので、彼自身は漢族の出自ということができよう。
西界の帰明人李崇貴に開封府界屋の租銭、日五百を賜う。初め、上批して崇貴に田十
頃を賜い、後に復た之を改む。
(
『続資治通鑑長編』巻243、熙寧六年三月戊辰条)8
「西界の帰明人」という言葉は、西夏から宋に移住してきた人々を指すものとして、しば
しば登場する。李崇貴なる人物は、
『宋史』にも西夏からの帰順者として登場する9が、当
時北宋朝廷がこうした人物に開封府での住居費を補助していたことが窺え、興味深い。
こうした遼・西夏からの帰順者に加え、荊湖・両広・四川などの少数民族で、宋の支配に
服した人々もまた、
「帰明人」と称されていた。
(紹興)七年六月、張㿋言う「湖外は靖康より以来、盜賊盤踞し、鍾相・楊太山・雷
徳進等相い継いで叛す。澧州の属する所尤も甚だしく、独だ慈利県の向思勝等五人は
素とより「渓峒帰明」を号し、防拓を掌るを誓い、卒に能く境を保ち民を息んじ、徳
進の賊党をして剽掠する所無からしむ。思勝、後に竟に徳進を殺す。
」(
『宋史』巻
10
494、蛮夷二)
上記の記載は南宋紹興七(1137)年の上言であり、厳密に北宋のものとは言いがたいが、
北宋末南宋初の混乱期にあって慈利県の向思勝等が「渓峒帰明」を号し、南宋に敵対する鍾
相・楊太山・雷德進等の流賊達と対立していたということは、宋朝廷に帰順した所謂「渓峒
の諸蛮」は「帰明人」を称するものであるという認識があったからに他ならない。
以上、
「帰明人」
という言葉が指すのは、どのような人々であるのかについて述べてきたが、
その特徴を簡潔に述べるならば「趙宋朝廷の直接支配が及ぶ領域の「外」からやってきた人々
である。
」と概括することが可能であろう。
例えば遼・西夏について言えば、国境付近での和議の条約により、厳密に双方の国境が確
定されている11。また、西南渓峒諸蛮については、宋の支配領域内にいる人々と言うべきで
あろうが、
『朝野類要』巻一、羈縻には
・広・川の峽渓洞諸蛮及び部落蕃夷の、本朝の官封を受けて時に進貢有る者は、本
朝悉く制して羈縻州と為す。蓋し漢・唐の都護の類を置くが如きなり。
(『朝野類要』
巻一、羈縻)12
−20−
とあり、趙宋朝廷に帰順してきた彼らの統治には、漢代や唐代の都護府のような機関が設
置され、羈縻方式が採用されていたことが分かる。
なお、西南渓峒諸蛮については、
『朝野類要』によって「帰順人」と「帰明人」に分けて
定義づけがされている。
『朝野類要』はその区分を「旧に依りて渓峒に在り職事を主管する」
人々が「帰順人」
、
「官に補せられ或いは田を給されて養済される」人々が「帰明人」である
としている。これは「帰明」した非漢族が、その土地に羈縻統治の形で残留するか否かとい
う点に相違を見る見解である13が、岡田宏二氏が「納土帰順によって中国側に内属し羈縻の
適用を受けた非漢民族は「帰明人」
「羈縻州之民」「省地渓峒」「峒丁」「省地傜」「熟戸山傜」
14
と述べられているように、羈縻
などど呼ばれ、宋朝に帰順しない非漢民族と区別された」
統治を受けた非漢族であっても、
「帰明人」として扱われるケースが確認できる15。これは、
同時代人が「帰明人」と「帰順人」との間に、趙升が述べるような明確な差異を認めていな
かったことを示すものであろう。本論ではこうした経緯を踏まえ「帰明人」と「帰順人」に
ついては、大きく「帰明人」と一括して検討を加えていくこととする。
彼らは、宋の領内に入った後は「帰明人」という呼称の元に別途管理され、漢族とは異な
る制度の中に組み込まれていた。例えば、
「帰明人」として宋朝廷に帰順した人々には、生
活基盤として耕作地が提供されていたことが、下記の史料より窺える。
神宗熙寧元年五月二十三日、詔す。「今後、帰明人の子孫の、祖父恩沢を乞うを叙べ
る者は、生長・去処を以てせず、文武の陞朝官以上は、田三頃を給う。如し低郷に在
らば、即ち五頃を給う。以下は、田二頃を給い、如し低郷に在らば、即ち三頃を給う。
曽て田を給せられし者は、一例に支撥するを得ず。如し祖父元と請受を給せられれ
『宋会要輯稿』兵
ば、并せて請を承 せしめ、無き者は、此れに依りて田を給せ。」(
16
17−2)
帰明人の子孫に対する田畑の支給について、その可否及び数量に関する基準を、詔によっ
て定めている。子孫も田畑給付の恩恵に預かっているという事実は、「帰明人」という身分
が当時の北宋社会にあって固定的な、特殊なものだったことを示すものであろう。彼らの祖
父が受けていた「請受」即ち官僚としての俸給までもが「帰明人」に受け継がれていること
も、そうした実態を示すものとして興味深い。
上記に関連して、
「帰明人」で生活が困窮している者には、免税や住居の提供など、様々
な形で経済的な援助が行われていた。
湖北路提点刑獄司言う。
「沅州の新たな帰明人、戸は実に貧乏たり。乞うらくは去
年倚閣せし秋税を除放せんことを。
」之に従う。(『続資治通鑑長編』巻278、熙寧九年
十月辛亥条)17
詔す。「今後帰明人の未だ田を給されざるは、権りに官屋を借りて居住するを聴す。
」
18
(
『続資治通鑑長編』巻491、紹聖四年九月癸丑条)
「沅州の新帰明人、戸は実貧乏たり。」と言った地方官の発言や、田畑を給されていない帰
−21−
明人に対して官の家屋借用を認めるという詔からは、
「帰明人」の当時における経済的困窮
と、その状況に対応しようとする朝廷の意思を見ることができよう。
また、彼らのために、
「帰明官」
という役職も用意されている。北宋時期における史料では、
その名称のみが散見されるに止まり、その制度的実態が明瞭にならない嫌いがあるので、こ
こでは南宋初期の記録を一つ提示したい。
初め、右諫議大夫趙霈、入見して論ず。「今の添差官は、員数は猥多なるも、事に補
する無し。若し減罷せずんば、国用益すます窘しむ。然るに一概に罷するべからざる
者、宗室・帰明・帰朝官・軍班換授、及び軍功優異の人の如き有り。乞うらくは存留
」章して再び上る。進奏
の外、余は悉く罷去せしめ、以て今日用度の闕を紓すべし。
院言う「川・陜を除くの外、諸路の添差官は一千五百四十員なり。戚里の家は七、宗
室は六百六十七、帰朝官は一百六十四、帰明官は二百八十四、三省枢密院遠赴行在官
は十、軍班換授は一百八十八、軍功は一百六十一、隨龍は二十六、帰附官は二十三、
奉使の家は十なり。
」乃ち詔す。「隨龍官は祖宗の旧法に係り、奉使官は理当に優恤す
べし。其の余の忠義嘉すべきは、皆罷する勿かれ。」省く所の者は七員のみ。(『建炎
19
以来繫年要録』巻97、紹興六年正月己卯条)
ここからは、添差官20として「帰明官」が諸路に設置されており、その定数も定められて
いたことが窺える。これまで述べてきたような「帰明人」優遇政策のためか、冗官でありな
がらその削減が困難であったことが述べられており、
「帰明官」が当時どのように認識され
ていたかが窺える。また、
「帰明官」と通常の官職の間には、明確な区分が設けられていた。
(哲宗元祐元年)八月一日、詔す。「今後、蕃官は漢官の差遣に克つを許さず。」是れ
より先、河東提刑兼権管幹経略司公事范子諒言う「国朝蕃官を置くは、必ず沿辺・控
扼の地に於いてし、賜うに田土を以てし、自ら営処せしむ。官資は高しと雖も、漢官
の階墀の礼を用いるを見れば、任ずる所は本部巡検の類に過ぎず。平居事無ければ、
志気は懾服し、故に緩急の際、駆策を為すに易し。近歳、蕃官の漢官を換授せられ、
内地・沿辺の去処に任ぜられる有り。甚だしき者は擢せられて将副と為り、漢官と相
い見えるに、礼は均し。事において礼は未だ順ならざるなり。」故に是の詔有り。(『宋
会要輯稿』兵17−3)21
「蕃官」すなわち「帰明官」を漢官が就任する職務へ起用することを禁じる詔が出されて
いる。范子諒の上言に見える「甚だしき者は擢せられて将副と為り、漢官と相い見えるに、
礼は事において均し。礼、未だ順ならざるなり。」という一文が、
「蕃官」すなわち「帰明官」
への漢人士大夫の感情を良く表している。すわなち当時、
「帰明官」と「漢官」に明確な区
分があったこと、また帰明官は漢官に比べ低く見られていたことがわかる。
こうした「帰明人」の特色は、南宋の朱熹が弟子に対して教示した、
「帰明人」の定義に
おいて端的に指摘されている。
帰明人は、元と是れ中原の人にあらず、是れ䱒洞の人の中原に来帰するなり。盖し暗
−22−
より明に帰するなり。(以下割註)
「西夏人の中国に帰するが如きは。」熹「亦た之を
帰明と謂う。
」
(
『朱子語類』巻111、論民)22
朱熹は「帰明人」を、はっきりと「中原の人ではない」と定義づけ、その具体例として、
「䱒
洞之人」や「西夏人」を挙げている。遼からの帰順者については、すでに遼が滅亡してしまっ
ているためか挙げられてはいないが、彼らもまた朱熹の定義の中に含まれるべき人々である
ことは言うまでもあるまい。
すなわち、受け入れた「帰明人」と、もとから北宋の支配下に入っていた人々の間には、
明確な相違が存在していたと考えるべきであろう。そのため北宋の朝廷は彼らに「帰明人」
の呼称を与え、従来から彼らの支配領域に生活していた人々とは異なる制度の中で管理しな
ければならなかったのである。
「帰明人」という呼称、「帰明官」という官職は、そうした必
要性の中から生まれてきたものと言えよう。
一方で、北宋期において趙宋朝廷が流民受入れを行う際に使用するカテゴリーは、今まで
述べてきたような「帰明人」一つだけで十分対応可能であった。本章において既に述べたよ
うに、
「帰正人」というカテゴリーが北宋期の史料に見えないのは、「帰明人」の他に北宋領
内への移住者を指し示す区分を、当時の為政者達が必要としなかったからに他ならない。
しかしながら、北宋末から南宋初期にかけての遼の滅亡と宋・金交渉の開始、そして靖康
の変を経て大きく変わる当時の東アジア情勢のなかで、上記のような状況にも変化が生じ
る。次章ではその変化を、新たに史料に登場する「帰朝人」というカテゴリーに注目して追
うこととする。
3、
「帰朝人」の登場
北宋末から南宋初期にかけては、宋・金連合による遼の滅亡と領地の分割、宋金連合の破
綻と金による華北への侵入、宋の淮河以南への逃亡と宋金対峙の局面の形成という、それま
での東アジア情勢を根本的に塗り替えるような大きな変化が、ごく短期間のうちに起こった
時代であった。そうした変化と時を同じくして、宋朝廷が受け入れる流民に、これまで存在
しなかった新たなカテゴリー「帰朝人」が登場してくる。
既に挙げた『朝野類要』には、
「帰朝人」を定義して「元と燕山府等路州・軍の人に係り、
本朝に帰する者を謂う。
」としている。ただ、この定義だけでは、そもそも「帰朝人」と呼
ばれた移住者達が、どのような人々であったのか、また、当時の宋朝廷が彼らをどのように
扱っていたのかが分からない。まず検討に先立ち、その実態を見るべきであろう。
まず受け入れに際し、趙宋朝廷では「帰朝人」に「帰明人」と同様の処遇を与えていたら
しいことが、関係の史料から分かる。
時に州・県の添差官猥りに衆し。平江府の監酒は四五員、湖州の監税は五六員、安吉
県の監酒は六七員の如し。是の月詔す。
「官冗にして財を蠧なはば、理は当に澄汰す
−23−
べし。宗室・帰朝官を除く外、余は悉く之を罷めしめよ。監司の属官は、亦た此れに
23
依りて行え。
」
(
『中興小紀』巻6、建炎三年四月丁卯条)
「帰明人」のために「帰明官」が設置されていたことは既に述べたが、「帰朝人」に対して
も同様に、添差官として「帰朝官」が設置されていたことが分かる。また、冗員の削減に際
し、宗室と同列に論じられ、その減員を免れていることも、
「帰明官」の扱いに準じるもの
と捉えることができよう。
また、朝廷からの経済的な援助についても、「帰朝人」に対して同様に行われている。
乙亥、詔す。
「諸州并びに諸軍は、将に帰朝官に応じて常に存恤を加え、流寓して差
遣無きの人に替うるを得べし。仰も守臣相い度り、先次に権を与えて合せて差遣に入
らしめ、請給を支破し、職名を具して枢密院に申し差注せしめ、如し内に能く兵機に
通じ、及び武藝衆に出ずる人有らば、名を具して聞奏すべし。其の寄居する帰明・帰
朝・養済人は、常に存撫を加え、時に依り支給すれば、合(まさ)に銭米を破り、所
を失わしめること無かるべし。
(
『建炎以来繫年要録』巻91、紹興七年七月乙亥条)24
諸州・軍に対して、
「帰朝官」への慰問・救済を行うこと、差遣(実際の職務)を与える
べきことが命じられている。また「帰明人」と並んで、金銭や米などの生活物資を支給する
よう命じられていることにも注目するべきだろう。「帰朝人」というカテゴリーにおいても、
その範疇に含まれる人々には、経済的な援助が必要であると宋朝廷が認識していたことを、
この詔は示している。
こうした朝廷の「帰朝人」に対する対応を見ていくと、「帰明人」に対するそれと比べて
際立った相違を見出すことが難しい。言い換えるならば、「帰明人」というカテゴリーが含
む集合の中から、燕山府路からの移住者のために、何故別途「帰朝人」というカテゴリーを
作ったのか、その必要性を見出すことができないのである。何故、別に名称を立てる必要が
あったのであろうか。
ところで、「帰朝人」というカテゴリーがどのような人々を含むのかを考える上で興味深
い史料が『宋会要輯稿』に収録されている。
欽宗靖康元年十月十四日赦す。
「帰朝官は久しく郡県に在り。訪聞するに官吏過ちて
猜疑有らば、理に非らずして拘囚し、或いは 擅 に殺戮を行う。興言して嗟痛す。応
に天下の燕山或いは山西よりの帰朝官・帰朝人・義軍は、并せて所属をして存恤を照
管せしめ、盤纏を優給し、差人をして訪ね護らしめ、発遣して河に至らば、皆な新辺
の州・軍に交割すべし。
」
(
『宋会要輯稿』兵17−16)25
「帰朝官」が居住している諸郡・県で現地の官吏から疑いの目で見られ、些細なことで牢
獄に収監されたり殺害されたりしていることに対して、欽宗がそうした行為を戒める赦を出
しているが、ここで注目すべきは「燕山或いは山西よりの帰朝官・帰朝人」という一節であ
ろう。すなわち当時「帰朝人」とは『朝野類要』の定義する燕山府路のほかに、山西からの
移住者をも指すカテゴリーだったことが窺える。
−24−
では、燕山府路と山西に、どのような共通点があったのだろうか。そもそも燕山府路とは、
五代十国期に後晋が契丹に割譲した燕雲十六州のうち、涿州・檀州・易州・順州・薊州・燕
山府などの南側を中心とした地域であり、趙宋朝廷が金と連合して遼を滅ぼした後、金より
引き渡しを受け、設置した路である26。既に先行研究で指摘されているように、燕雲十六州
の奪回は北宋一代を通じての趙宋朝廷の宿願であり、金との交渉においてもその割譲が重要
課題として取り上げられていた27。以下に掲げる史料は、そうした宋の意向を示す好例で
ある。
(宣和二年)四月十四日、蘇州関下に抵り、女真の已に出師して三路に分かれ上京に
趍るに会す。良嗣咸州より青牛山に会し、諭令して相い随いて上京城を攻め破るを看
る。遂に阿固達と龍岡に相い見え、議約の意の大抵を致す。燕京一帯を以て、本と是
れ旧漢地とし、欲すらくは相い約して契丹を夾攻し、女真をして中京を取らしめ、本
朝は燕京一帯を取らんと。阿固達訳者をして言わしめて云う。「契丹は無道にして、
我れ已に殺敗す。応る契丹の州域に係るは、全て是れ我が家の田地たり。南朝皇帝の
好意に感じ、及び燕京は本と是れ漢地たる為め、特に燕雲を南朝に与えるを許す。
」
28
(
『三朝北盟会編』
、巻4、燕雲奉使録、宣和二年四月十四日条)
北宋からの使者として金の完顔阿骨打と会見した趙良嗣は、燕京一帯がもともと宋に属す
るべきものと主張し、阿骨打もその主張を受け入れ、燕雲十六州を宋に割譲することを承認
している。
また、山西は、欽宗の靖康元年時点で、金からの割譲要求を受けて領有権が脅かされてい
た地域であった。南宋初期に対金強硬主戦論を唱えた李綱は、当時金が宋に対して要求して
いた和議の条件を、以下のようにまとめている。
今和を議するに、須らく犒師の物は、金は五百万両、銀は五千万両、絹・綵は各の
一百万匹、馬・䨦・驢・騾の属は、各の万を以って計り、其の国主を尊びて伯父と為
し、凡そ燕雲の人の漢に在る者は、悉く之を帰し、太原・中山・河間三鎮の地を割き、
又た親王・宰相を以て質と為すべし。(『梁渓集』巻171、靖康伝信録上)29
金に支払う賠償金の金額、外交儀礼上における称号の優越、燕山府路から宋に逃れた人々
の金への引き渡しと並んで、太原・中山・河間三鎮の地、すなわち山西の割譲が求められて
いる。靖康・建炎年間における対金強硬派が目指したのも、この山西の金への割譲、領有権
の保持であった30。
つまり、上記の燕山府路、山西いずれも、宋が自らの支配権・領有権を主張し、その失地
回復、もしくは割譲阻止を目指していた地域であり、金との間で、支配権の争いがある地域
であったと言えよう。
従って、同地域からの流民者に対しては、みずからの支配領域の外から来た人々に使用し
ていた「帰明人」というカテゴリーを使用することを避け、「元来趙宋朝廷が領有すべき地
域に居住していた人々」を指し示すカテゴリーとして「帰朝人」が新たに使用されたと考え
−25−
られる。このことは、以下に挙げる高宗の言葉からも窺うことができよう。
(建炎元年)七月五日、宰臣楚州の帰朝官を発来する事を奏す。上曰く「聞くならく、
州郡多く帰朝官を囚禁し、小しく疑い有らば則ち残害を加え、或いは一郡戮して数百
人に至る。朕、甚だ之を憫むに、覆燾間たる。皆な吾が赤子なるに、偶ま辺地に生ま
れ、之を視ること遂に異なれり。然らば豈に金人と一例に之を待すべけんや。金人と
吾と戦うに、初め無罪の人を欧し、又た諸国の衆を率いて荐りに鋒刃を冒し、肝脳を
31
地に塗れしむ。赤子、亦た何をか辜あらんや。」(『宋会要輯稿』兵15−1)
「皆な吾が赤子なるに、偶ま辺地に生まれ、之を視ること遂に異なれり。」という高宗の述
懐は、
「帰朝人」の置かれている立場を的確に示すと共に、「帰朝人」という言葉に込められ
た宋朝廷の思惑を明確に反映している。燕山府路は宋の成立以来一貫してその支配が及ばな
い地域であり、その意味ではそこから来た人々は「帰明人」となんら相違はない。しかし、
北宋一代を通じて燕雲十六州の領有を悲願とし、一時的とは言え領有を果たした以上、燕山
府路から来た人々を従来北宋の領域に居た人々と同様に「赤子」として扱うことが、宋朝廷
の領有権を主張する上で必要になったのであろう。「帰朝人」というカテゴリーが「帰明人」
から独立して設けられるようになった背景には、こうした政治情勢の変遷が存在したので
ある。
そして、こうした情勢は、金が華北を支配し、江南に逃れた南宋と対峙する局面を迎えて、
再び変化を迎える。そうした変化を反映するものとして、次章では「帰正人」の登場につい
て述べることとする。
4、南宋における「帰正人」
裴氏によれば、南宋で一番時期の早い「帰正人」に関する記載は、建炎四(1130)年四月
のものであるという32。これまで度々引用した『宋会要輯稿』兵15、帰正に納められている「帰
正人」関係資料でも、紹興三(1133)年二月の記載が「帰正」という用語を使用する例とし
ては、時系列では一番早いものなので、
「帰正人」というカテゴリーは、南宋に入ってから
使用され始めたものであると考えるべきだろう。
こうした「帰正人」であるが、関係の史料を検討すると、
「帰明人」「帰朝人」と同様に、
趙宋朝廷から一般の民衆とは異なる扱いを受けていたことが分かる。
例えば、「帰明人」「帰朝人」と同じく、「帰正人」には生活基盤(耕作地)の提供が行わ
れていた。
(乾道)五年正月十七日、権発遣無為軍徐子寅言う「数ば請うに、帰正頭首人の傅昌
等八名、帰正願請田王琮等三百九十四名に勧諭し、楚州界宝応県孝義村・山陽県大渓
村等の地を相視し、水陸閑田の耕種は每名田一頃を給せんことを欲し、五家に甲を給
い、一名を推して甲頭と為し、種田の所に就くは頃に隨い、頃畝の人数寡なれば置き
−26−
て一荘を為し、每種田二名ごとに耕牛一頭を借し給え、犁・耙・鎌刀等は各の一事、
每家は草屋二間と牛草屋一間、各の種田一名に種糧銭一十貫を借さんことを。帰正願
請田人を契勘するは、全て部轄の勧率に頼る。乞うらくは元と勧諭せる頭首人進武校
尉傅昌等八名を差し、并せて部轄に充て、先に借りに一官資を転するを加えんことを。
楚州并びに淮南諸州軍、自後更に帰正願請田の人有らば、欲し乞うらくは并せて今の
33
措置に依りて施行せんことを。
」之に従う。(『宋会要輯稿』兵15−19)
上記のケースでは、田畑を支給するだけではなく、五家族ごとに自治組織を編成させ、ま
た耕作用の牛、農機具、種籾を購入するためのお金なども貸し与えるべきことが徐子寅に
よって提案され、採択されている。また、
「帰正人」の生活安定に関連して言えば、生活物
資の支給もしばしば行われていた。
(隆興元年十二月)十七日、中書門下省言う。
「懐遠駅34に停めらるる帰正人凝寒す。
理は宜しく存恤すべし。
」詔す。「帰正人官戸部の人は、絹五疋、綿十両を給う。老小
并びに帰正の百姓は老小の人と偕にし、各の絹二疋・薪炭銭二貫を給う。綿・絹は仍
ち本色を給う。
」
(
『宋会要輯稿』兵15−13)35
経済的に困窮していた「帰正人」に対して、朝廷から絹や綿、それに薪・炭を購入するた
めのお金が、
「帰正官」
などのそれぞれの身分に応じて支給されている。こうした措置も、
「帰
明人」
「帰朝人」に行われたものと同様のものということが出来よう。
「帰正官」についても、その設置が確認できる。
帰正官。乾道二年の指揮たり。紹興三十一年以前、帰正人帥府は大使臣三員なり。
(
『淳熙三山志』巻24、秩官類五、帰朝・帰正・帰附・忠順官)36
上記史料は福州37のものであるが、乾道二年に指揮38が設置されたこと、またそれ以前、
紹興三十一年以前から帥府39に帰正人が大使臣40の資格で配備されていたことが窺える。
さて、こうした実態を見る限り、
「帰正人」と「帰明人」、また「帰正人」と「帰朝人」の
間に、さしたる差異は無いように感じられる。では、何故新たに「帰正人」というカテゴリー
が登場する必要があったのであろうか。これまでの「帰明人」あるいは「帰朝人」と区分し
なければならない相違はどこにあるのであろうか。
ここで指摘をしたいのは、当時南宋の朝廷において、「帰正人」とは、かつての支配領域、
つまり華北からの移住者であり、本来は宋朝に帰属すべき存在であるという認識が存在する
ことである。次に掲げる高宗の詔勅は、その好例であろう。
(紹興三十二年五月)二十七日、上、輔臣に宣諭して曰く。「去秋完41顔亮順を犯して
より、中原の民、祖宗涵養の徳を忘れず、相い継いで帰正する者絶えず。朕士大夫の
南北彼此を分け、招来の意を寝め失うを恐る。卿等審処し、如し能く事を弁ずる者有
らば、沿辺諸州・軍の差遣の士人と与にし、入学を願う者は従便ち教養して挙に応ぜ
しめるに及び、其の余は家に隨いて收恤し、庶わくば以て来たる者を得安せしめ、未
だ来たらざる者は欣慕して至らしめんことを。
」宰臣陳康伯等奏して曰く「謹みて聖
−27−
42
訓を領せん。
」
(
『宋会要輯稿』兵15−11)
金の海陵王の南征後「帰正人」が増加したことに触れ、その積極的な受入れを高宗が下命
しているが、ここで注意すべきは、高宗が「中原の民、祖宗涵養の徳を忘れず、相い継いで
帰正する者絶えず。
」と、北宋のころからの趙宋朝廷の徳を慕い、「帰正人」達が南宋の領内
に移動してきているという認識を示していることであろう。このことは、「帰正人」という
カテゴリーに属する流民・移住者が、北宋以来の宋朝廷の支配の延長線上に存在していると
いう意識を反映させたものと捉えるべきである。
また、
「朕士大夫の南北彼此を分け、招来の意を寢め失うを恐る。」とあるように、士大夫
層が華北(北)から来た「帰正人」を自分達と別な人々として差別することの非を説いてい
ることも興味深い。実際の制度上の扱いは「帰明人」「帰朝人」と同じく、「帰正人」も一般
の民衆から切り離され、独自の規定の中で管理されていたが、理念上においては同等に見る
べきであるという意識が存在したのである。
こうした意識は、一視同仁的な理想主義から生まれたものと考えるべきではあるまい。南
宋初期、宋朝廷は政権の基盤の脆弱さに苦しみ、金や、さらには金が設立した傀儡政権であ
る斉に対抗しうる存在意義を模索していたことは、既に先行研究においても述べられている
ところである43。こうした状況下にあって、みずからの政権の正当性を主張するための手段
として、旧領に居住しながら「祖宗涵養の徳」を慕って金・斉の支配を逃れ、南宋の支配下
に移り住む人々の存在は、いずれ金に奪われた華北を奪還するという政治的目標を掲げる宋
朝廷にとって、自らの正義と存在理由を担保する存在であった。
一方で、
「帰明人」や「帰朝人」に関わる記事を見ていくと、「帰正人」のように同一性や
無差別が主張されることはなく、むしろ南北の差異が強調されることが多いのに気付く。
三班院、幽州帰明三班奉職張希正を以って賓州監押と為す。上曰く「南北風土異宣す、
此の行必ず楽しむ所に非ず。
湖北路州軍に改任すべし。」(『続資治通鑑長編』巻65、
44
景德四年六月己酉条)
幽州からの「帰明人」張希正が賓州45の監押に任命された際に、皇帝(真宗)より「南北
の風土の差異」を理由として荊湖北路46に異動させるよう指示が出ている。このことは、南
(宋)と北(遼)とは異なるものだという認識が、根底に存在したことを示すものに他なら
ない。また、
「帰朝人」についても、差異があるという認識が当時一般的に存在していたこ
とが、先述の「帰朝官久しく郡県に在り、訪聞するに官吏の猜疑過ぎる有り」という欽宗の
赦書から窺える。こうした事態が発生する背景には、「帰朝人」に対する元来の宋朝廷の官
僚たちの、
「帰朝人」に対する猜疑心があったと考えるべきだろう。そしてこうした猜疑心
は、彼ら「帰朝人」が、宋朝にもとから支配されていた民衆とは異なる人々であるという、
当時の人々の認識が生み出したものと考えるべきではないだろうか。
−28−
5、まとめにかえて
ここまで、趙宋朝廷の支配領域に移り住んでくる流民達について、
「帰明人」「帰朝人」「帰
正人」というカテゴリーの呼称、及びその実態について検討を加えてきた。
彼らについて、外部から宋朝の領域内に流れこんでくるという現象だけを捉えれば、確か
に先行研究において指摘されているように、同様の存在として概括しうる。また、その実態
を見ても、いずれのカテゴリーにおいても生活基盤の提供や経済的援助、さらにはそれぞれ
の名称を冠した官職の準備など、同様の措置が朝廷によって為されていることも事実であ
る。こうした状態を踏まえ、同時代の文人達の記述から、黄氏・裴氏などの先行研究に至る
まで、これら「帰明人」
「帰朝人」
「帰正人」には大きな相違は存在しないという認識が形成
されてきたのだろう。
しかし、朝廷における制度として「帰明人」「帰朝人」「帰正人」を捉えると、そこには確
固とした区分が存在しているのも、また事実である。この区分は、彼らの出自を根拠として
行われるものであった。すなわち
「帰明人」……宋朝の支配領域外からの移民に対して使用。
「帰朝人」……本来宋朝の支配下にあるべき人々に対して使用。「帰明人」とは区分。
「帰正人」……元来、宋朝の支配下にあった領域(華北)からの流民に対して使用。
という条件によって、彼らは分けられていたのである。
そして、こうした区分の変遷は、宋朝のおかれた状況によって生じたものであった。北宋
には宋朝支配領域外からの流民のみの受入れであったため、
「帰明人」のみでカテゴライズ
は充分だったものが、北宋末∼南宋初にかけて燕山府路・山西(太原・中山・河間三鎮)な
ど、宋が政治的に支配権を主張しなければならない地域からの受入れが発生したため、政治
的必要性から「帰朝人」という名称が出現したと考えられる。さらに金・南宋の対峙局面が
形成されるに及んで、流民の中心は、宋朝のもとの支配領域であった華北からやってくる漢
族が中心になる。華北の支配権を主張する宋朝にとって、彼らは理念上差別をせず、分け隔
てなく領内に受入れなければならない存在であった。こうした存在を受け入れるためのカテ
ゴリーとして、
「帰明人」
「帰朝人」とは異なる扱いをしなければならない「帰正人」という
カテゴリーが新たに設けられなければならなかったのである47。
一方で、
「帰明人」
「帰朝人」は、南宋に入ると共に、その存在感を相対的に減少させていっ
たと考えられる。たとえば「帰明人」についてみるならば、『朝野類要』における「帰明人」
の定義は、西南蕃蛮・渓峒頭目等に限定されている。このことは、そもそも南宋において「帰
明人」というカテゴリーに含まれるべき、契丹・西夏からの移民が減少したことを示して
いる。
また、「帰朝人」については、南宋孝宗期に「帰朝官」に就任させるべき「帰朝人」が不
足していたことを示す記録も残っている。
−29−
(乾道七年)八月十八日支部言う。「帰朝官、州毎に六員の間を添差し、遠州郡は多く
指授せず。欲すらくは帰正人をして帰朝官の闕を借り使わしめ、三分を以て率を為
48
し、一分を借りて一次を差さんことを。」之に従う。(『宋会要輯稿』兵15−22)
各州に定められていた「帰朝官」の定数が埋まらないので、「帰正人」にその欠員を利用
させるべきことが提言されている。燕山府路という限定された領域から来る人々を受け入れ
るための「帰朝人」というカテゴリーは、淮河を境に金と宋とが対峙するという新たな情勢
を受けて、既にその歴史的使命を終えたものとなっていたのであろう。
これまで述べてきたように、
「帰明人」から「帰朝人」、そして「帰正人」というカテゴリー
が朝廷によって設定される過程は、そのまま金の興隆と華北の支配という、当時の東アジア
世界における根本的な国際情勢の変化に対応したものであった。
近年、杉山正明氏が十∼十二世紀の東アジア・北アジア世界を読み解く手がかりとして、
遼と宋の外交関係に着目した「澶淵システム」の存在を提唱され49、それに呼応する形で古
松崇志氏や毛利英介氏らによって、宋と遼・西夏などとの外交交渉過程やその歴史的意義に
ついて活発に検討が為されている50。また、本稿の主題である「帰正人」の時代についても、
度々本論中で言及したように、趙永春氏による詳細な金・宋関係史の単著が出されていると
ころである51。
このように、当時の東アジア国際情勢に対して斯界の注目が寄せられる中にあって、「帰
正人」のような国家間を移動した人々の実態、また彼らを時の政権がどのように扱っていた
かということについては、未だ詳細な検討がなされていないのではないだろうか。本論にお
ける筆者の検討ははなはだ雑駁な私見に止まっているが、こうした状況に対してささやかな
りとも問題提起が出来たとすれば、望外の喜びである。
なお、
「帰正人」については、南宋中期から後期にかけて、『朝野類要』でも取り上げられ
ていた「忠義人」というカテゴリーと併用されるようになっていく。「帰正人」への理解を
深める上で、
「忠義人」への詳細な検討と、「帰正人」との比較対象は重要な作業になると思
われるが、紙幅の都合と筆者の力量不足により、これを見送らざるを得なかった。今後の課
題としたい。
注
1 こうした朝廷高官の、流民受入れをめぐる政策論争については、黄1978を参照のこと。
2 黄1985を参照のこと。
3 黄1985。「」内は筆者試訳。
4 裴2003を参照のこと。
5 裴2003。「」内は筆者試訳。
6 帰正、謂元係本朝州・軍人、因陥蕃、後来帰本朝。帰順、謂元係西南蕃蛮・溪峒頭目等、納土帰順、
依旧在溪峒主管職事。帰明、謂元係西南蕃蛮・溪峒人、納土出来本朝、補官或給田養済。帰朝、謂元係
−30−
燕山府等路州・軍人帰本朝者。忠義人、謂元係諸軍人、見在本朝界内、或在蕃地、心懐忠義、一時立功者。
7 丙辰、詔鄧州、賜契丹帰明人李美田十頃。美自言「旧籍邢州之内邱、祖紹温陥契丹、距今八十年。比
歲因飢、挈族来帰。」
8 賜西界帰明人李崇貴開封府界屋租銭、日五百。初、上批賜崇貴田十頃、後復改之。
9 李崇貴については『宋史』巻332、趙़伝に「熙ᆰ初、夏人誘殺知保安軍楊定等、既而以李崇貴・韓道
喜来献、且請和。」とあり、もとは西夏の人だったことが窺える。
10 (紹興)七年六月、張㿋言。「湖外自靖康以来、盜賊盤踞、鍾相・楊太山・雷徳進等相継叛、澧州所属
尤甚、独慈利県向思勝等五人素号溪峒帰明、誓掌防拓、卒能保境息民、使徳進賊党無所剽掠。思勝、後
竟殺徳進。」
11 北宋と契丹との国境策定、及びその実態については、古松2007を、また、西夏と北宋との国境問題に
ついては、金2000を参照のこと。
12 ・広・川峽溪洞諸蛮及部落蕃夷、受本朝官封而時有進貢者、本朝悉制為羈縻州。蓋如漢唐置都護之
類也。
13 渡辺2007を参照のこと。
14 岡田1993。
15 『宋史』巻494、蛮夷二や、『宋会要輯稿』兵17−2などを参照のこと。
16 神宗熙寧元年五月二十三日、詔。「今後、帰明人子孫、叙祖父乞恩沢者、不以生長去処、文武陞朝官以
上、給田三頃。如在低郷、即給五頃。以下、給田二頃、如在低郷、即給三頃。曽給田者、不得一例支撥。
如祖父元給請受、并令承請、無者、依此給田。」
17 湖北路提点刑獄司言。「沅州新帰明人、戸実貧乏。乞除放去年倚閣秋税。」従之。
18 詔。「今後帰明人未給田、聴権借官屋居住。」
19 初、右諫議大夫趙霈、入見論。「今添差官、員数猥多、無補於事。若不減罷、国用益窘。然有不可一概
罷者、如宗室・帰明・帰朝官・軍班換授及軍功優異之人。乞存留外、余悉罷去、以紓今日用度之闕。」章
再上。進奏院言「除川・陜外、諸路添差官一千五百四十員。戚里之家七、宗室六百六十七、帰朝官
一百六十四、帰明官二百八十四、三省枢密院遠赴行在官十、軍班換授一百八十八、軍功一百六十一、隨
龍二十六、帰附官二十三、奉使之家十。」乃詔「隨龍官係祖宗旧法、奉使官理當優恤、其余忠義可嘉皆勿
罷。
」所省者七員而已。
20 宋の制度で、正規の官員以外に特定の用務を主管させるために置かれた人員の総称。官職の名称だけ
あって実際には職務のないケースもあった。
21 (哲宗元祐元年)八月一日、詔。「今後、蕃官不許克漢官差遣。」先是、河東提刑兼権管幹経略司公事范
子諒言。「国朝置蕃官、必於沿辺・控扼之地、賜以田土、使自営処。官資雖高、見漢官用階墀礼、所任不
過本部巡検之類。平居無事、志気懾服、故緩急之際、易為駆策。近歳、蕃官有換授漢官、而任内地・沿
辺去処。甚者擢為将副、与漢官相見、均礼。於事礼未順。」故有是詔。
22 帰明人、元不是中原人、是䱒洞之人来帰中原。盖自暗而帰於明也。(以下割註)「如西夏人帰中国。」熹
「亦謂之帰明。」
23 時州・県添差官猥衆。如平江府監酒四五員、湖州監税五六員、安吉県監酒六七員。是月詔。「官冗蠧
財、理当澄汰。除宗室・帰朝官外、余悉罷之。監司属官、亦依此行。」
24 乙亥、詔。「諸州并諸軍、将応帰朝官常加存恤、得替流寓無差遣之人。仰守臣相度、先次与権合入差遣、
支破請給、具職名申枢密院差注、如内有能通兵機、及武藝出衆人、具名聞奏。其寄居帰明・帰朝・養済
人、常加存撫、依時支給、合破銭米、無令失所。
25 欽宗靖康元年十月十四日赦。
「帰朝官久在郡県。訪聞官吏過有猜疑、非理拘囚、或擅行殺戮。興言嗟
痛。応天下自燕山或山西帰朝官・帰朝人・義軍、并令所属照管存恤、優給盤纏、差人訪護、発遣至河、
−31−
皆新辺州軍交割。」
26 『宋史』巻90、地理六には「燕山府路。府一、燕山。州九、涿・檀・平・易・営・順・薊・景・経。県
二十。宣和四年、詔山前收復州県、合置監司、以燕山府路為名、山後䫲名雲中府路。」とある。
27 趙2005第一章などを参照のこと。
28 (宣和二年)四月十四日、抵蘇州関下、会女真已出師分三路趍上京。良嗣自咸州会於青牛山、諭令相随
看攻上京城破。遂與阿固達相見於龍岡、致議約之意大抵。以燕京一帯、本是旧漢地、欲相約夾攻契丹、
使女真取中京、本朝取燕京一帯。阿固達令訳者言云「契丹無道、我已殺敗。応係契丹州域、全是我家田地。
為感南朝皇帝好意、及燕京本是漢地、特許燕雲与南朝。」
29 今議和、須犒師之物、金五百万両、銀五千万両、絹・綵各一百万匹、馬・䨦・驢・騾之属、各以万計、
尊其国主為伯父、凡燕雲之人在漢者、悉帰之、割太原・中山・河間三鎮之地、又以親王・宰相為質。
30 外山1964各論三(一)、趙2005第二章などを参照のこと。
31 (建炎元年)七月五日宰臣奏楚州発来帰朝官事。上曰。
「聞、州郡多囚禁帰朝官、小有疑則加残害、或
一郡戮至数百人。朕甚憫之、覆燾間。皆吾赤子、偶生辺地、視之遂異。然豈可与金人一例待之。金人与
吾戦、初欧無罪之人、又率諸国之衆、荐冒鋒刃、使肝腦塗地。赤子、亦何辜。」
32 裴2003を参照のこと。なお、ここで裴氏が指摘されている史料は『建炎以来繫年要録』巻33、建炎四
年五月乙巳条に見える張斛の上言を指す。
33 五年正月十七日、権発遣無為軍徐子寅言。「数請、帰正頭首人傅昌等八名、勧諭帰正願請田王琮等
三百九十四名、相視楚州界宝応県孝義村・山陽県大溪村等地、水陸閑田耕種欲每名給田一頃、五家給甲、
推一名為甲頭、就種田之所隨頃、頃畝人数寡置為一荘、每種田二名、給借耕牛一頭、犁耙䷤刀等各一事、
每家草屋二間与牛草屋一間、各種田一名借種糧銭一十貫。契勘帰正願請田人、全頼部轄勧率。乞差元勧
諭頭首人進武校尉傅昌等八名、并充部轄、先加借転一官資。楚州并淮南諸州軍、自後更有帰正願請田人、
欲乞并依今措置施行。」従之。
34 宋代の行政組織の一つ。鴻臚寺の下に位置づけられ、主に交州・占城など西・南の諸外国との交渉を
担当した。『文献通考』巻56、職官十には「懐遠駅、監官二人、以監外物料庫官兼。
(以下割註)掌西南
蕃交州・亀兹・占城・注輦・大石・于䌝・甘沙宗哥等貢奉之事。」とある。
35 (隆興元年12月)十七日中書門下省言「懐遠駅見停帰正人凝寒。理宜存恤。」詔。「帰正人官戸部人、給
絹五疋、綿十両。老小并帰正百姓、偕老小人、各給絹二疋・薪炭錢二貫。綿絹仍給本色。」
36 帰正官。乾道二年指揮。紹興三十一年以前、帰正人帥府大使臣三員。
37 現在の福建省福州市。
38 禁軍の編成単位を指す。『武経総要』前集第二、日閲法には「国朝軍制、凡五百人為一指揮。」とある。
39 南宋における安撫使の司を指す。
40 武臣の階級を指す。
41 原文では「元」に作るが、ここで高宗が指しているのが所謂海陵王の南征である以上、
「完顔亮」を誤っ
て書き写したものと考えるべきであろう。よって「完」に改める。
42 (紹興三十二年五月)二十七日上宣諭輔臣曰。
「自去秋完顔亮犯順、中原之民、不忘祖宗涵養之徳、相
継帰正者不絶。朕恐士大夫分南北彼此、寢失招来之意。卿等可審処、如有能弁事者、与沿辺諸州軍差遣
士人、願入学者従便教養及令応挙、其余隨家收恤、庶使以来者得安、未来者欣慕而至。」宰臣陳康伯等奏
曰「謹領聖訓。」
43 寺地1988、趙2005などを参照のこと。
44 三班院、以幽州帰明三班奉職張希正為賓州監押。上曰「南北風土異宜、此行必非所楽。可改任
路州軍。」
45 現在の広西壮族自治区。
−32−
湖北
46 現在の湖北省。
47 黄氏は当時の士大夫が、
「帰正人」の受入れは華北の人心をつなぎとめ、旧領回復の足がかりになると
の認識を持っていたと指摘している。詳しくは黄1978、黄1985を参照のこと。
48 (乾道七年)八月十八日支部言。「帰朝官毎州添差六員間、遠州郡多不指授。欲令帰正人借使帰朝官闕、
以三分為率、借一分差一次。」従之。
49 杉山2005を参照のこと。
50 古松2007、毛利2008など。
51 趙2005を参照のこと。
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(『宋遼金元史論集』
、崇文書店、1971年 原載『文史
雑誌』2巻3期、1941年)
・裴 淑姫(2003)
「試論南宋政府対帰正人的政策─以科挙・授官為中心」
(『中国史研究』2003年第4期)
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