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ドイツ連邦共和国の公民館類似施設 - Seesaa Wiki(ウィキ)
ドイツ連 邦 共 和 国 の公 民 館 類 似 施 設 -都 市 型 社 会 における地 域 センターのありかた- 谷 目次 はじめに 1.都市型社会と地域センター (1)社会教育終焉論 (2)都市と地域 (3)西ドイツ継続教育と地域センター 2.コミュニティ・センター型施設の必然性と制約 (1)教区集会所 (2)フランクフルトの市民館 (3)民衆教育会館の歴史 (4)市民館タイプの施設の必然性と制約 3.公民館型施設の新展開 (1)ベルリンの近隣社会会館 (2)ハノーファーのパヴィリオン 4.まとめにかえて 1 和明 はじめに 80年 代 以 降 の 生 涯 学 習 政 策 の 進 展 に も か か わ ら ず 、 あ る い は そ れ ゆ え に 、 社 会 教 育 の 中 心 施 設 と し て の 公 民 館 の あ り か た が 鋭 く 問 わ れ て い る (1)。こ れ は 、 生 涯 学 習 政策登場の背景、原因である高度経済成長を経た大国日本の社会変化により、公民 館のアイデンティティが動揺と変動にさらされていることを意味するだろう。 公民館は、地域住民に身近な文化・集会施設(地域センター)として、我が国の 社会教育の代表的=中心的な施設として、さらに社会教育全般を提供する総合的施 設 と し て 普 及 し て き た (2)。 こ の 公 民 館 の 地 域 的 - 中 心 的 - 総 合 的 と い う 属 性 は 、 戦 後も存続した農村型社会におけるムラを基盤に構想されたものであり、そこにおい ては現実性を持ちえた。ところが「ある種の<社会革命>、または<受動的革命 > 」 (3) としての高度経済成長により、我が国の社会構造は大きく変貌した。そし て急激な農村型社会から都市型社会への転換の結果、公民館の地域的-中心的-総 合的という属性が問われるに至った。 第1に、都市化の進展とともに公民館が依拠し得る実体としての「地域」は解体 してしまった。地域は今や当為として、あるいは可能性として模索されているので ある。第2に、都市型社会では行政や民間によって多種多様な文化・学習・スポー ツ施設が運営されており、また市民の自主的な文化-学習活動も活発であるので、 公民館の相対的地位は確実に低下している。生涯学習施策が本格的に実行されれば、 社会教育行政内部でも公民館は中心的ではなくなるだろう。第3に、大衆的な文化 の発展は、ジャンルや課題ごとの機能分化・専門化として進行しており、社会教育 全般という意味での総合性は、没個性と水準の低さを意味することになる。こうし て都市型社会における公民館のアイデンティティが危機に陥り、「公民館の独自の 役 割 を “ 再 発 見 , 」 す る (4)こ と が 課 題 と な っ て い る の で あ る 。 公民館の独自の役割を考えるさいに、それが地域センターであることは所与の前 提だといえよう。それゆえ、生涯学習時代における公民館のありかたの問題は、都 市型社会における地域センターのありかたの問題として、より一般的な視点から論 じることができる。問題は、地域的共同性が消失し、人々の行動範囲の広域化や生 2 活形態の多様化が進行し、多様な文化サービス・学習機会が提供されるようになっ た現代社会における地域センターの存在意義や役割を明確にし、その可能性につい ての豊かなイメージを展開することである。その場合、公民館以外の各種の地域セ ンターの実践、さらには諸外国、とりわけ都市型社会である欧米諸国の地域センタ ーの実践を広く検討することも必要であろう。 本稿では、以上のような問題意識をふまえ、フランクフルト、ベルリン、ハノー ファーというドイツ連邦共和国の三つの大都市にある公民館類似施設(地域センタ ー ) (5)の 実 例 を 紹 介 す る 。 言 う ま で も な く 、 ド イ ツ 連 邦 共 和 国 は 後 発 型 資 本 主 義 国 としての、さらに敗戦からの急速な経済復興・成長を遂げた国としての類似性にお いて、我が国と対比されることの多い国である。勿論、歴史的・文化的相違も大き いが、英米のような草の根民主々義的なコミュニティ形成の経験を持たない点でも 共通しており、その地域センターのありかたは必ずしも先進事例ではないかもしれ ないが、それゆえにこそ検討する意義もあると考える。 ただしことわっておくが、本稿での紹介は決して体系的、全面的なものではない。 「公民館のような施設を見たい」という筆者の依頼に対しそれぞれの都市の成人教 育研究者が紹介してくれた施設に関する見聞をもとにした、現象記述的な事例報告 に過ぎない。 また本稿が出版される時点では、ドイツ連邦共和国は統一ドイツの国名となって いるだろうが、ここでドイツ連邦共和国としたのはあくまでも西ドイツのことであ ることも併せてことわっておきたい。 Ⅰ. 都 市 型 社 会 の 地 域 セ ンターの あり 方 本題に入る前に、ここではその予備作業として、まず最初に松下圭一の社会教育 終焉論の批判的な検討を通じて都市型社会における地域センターのありかたという 問題設定の意味を明確にし、ついでドイツ連邦共和国の継続教育と地域センターと の関係について簡単に説明しておきたい。 3 (1) 社会教育終焉論 都市型社会における公民館のアイデンティティの危機を鋭く分析し、そこからか らストレートに公民館不要論を帰結するのが、松下圭一の「社会教育の終焉」論で ある(6 )。 松下は、日本における「市民文化は可能か」という基本的視点から、公民館かコ ミュニティ・センターかという論争点に照準を合わせ、都市型社会における身近な 小型市民施設としての「地域センターのあり方」という問題を設定する(『社』3 6) 。 問 題 の 要 点 は 、 職 員 が 運 営 ・ 管 理 す る 「 事 業 施 設 」 ( 公 民 館 型 ) と 、 市 民 が 運営・管理する「集会施設」(コミュニティ・センター型)とのどちらが「市民文 化」にとって有用かである。両者の相違点は教育(指導、援助)の専門職員の有無 に収斂する(『社』32)。松下は、公民館のアイデンティティの危機を分析した うえで、市民の成熟した都市型社会においては、専門職員による市民の学習、文化 活動の指導・援助はもはや不可能であり、不必要であり、むしろ市民の自主的文化 活動の桎梏に転化しているとして、職員配置を不要だとする。すなわち、市民が運 営・管理するコミュニティ・センター型を勧めるのだ。さらに、社会教育行政その ものを廃止し、自治体(首長部局)が文化行政戦略により図1のような集会施設の ネット・ワークをシビルミニマムとして形成することを提言している。 公民館を地域センターの一種として相対化し、その上で、都市型社会における地 域センター一般のあり方を市民の政治、文化、生活の立場から問う松下の問題設定 自体は正当・有益なものといえよう。本稿の問題設定も松下のこの問題設定を踏襲 したものである。 しかしながら、筆者は都市型社会の地域センターに専門職員は不要、ゆえに公民 館は不要という松下の結論には同意できない。本稿で地域センターのあり方を改め て問題にしたのも、松下とは異なる選択・解答の可能性を提示するためである。 松下の結論に対しては、行政改革や臨教審路線の下で現に進行中の公民館の合理 化・民営化を正当化する議論だという批判がなされている(7 )。ただし、松下は 「既成の保守対革新、あるいは政府対国民という政治・行政軸からだけでなく、農 村型社会から都市型社会への移行という社会形態の変動、さらに官治型行政施策か 4 ら自治型文化活動へという文化状況の転換をめぐる社会・文化軸からの接近」 ( 『 社 』 12) を 主 眼 と す る の で あ る か ら 、 こ こ で は こ の よ う な 政 治 的 批 判 は 保 留 す る。そのうえで、松下の結論の前提をなす、都市型社会をめぐるこの社会・文化把 握そのものを問題としてみたい。 松下の議論の第1の前提は、高度経済成長後の日本で工業化・民主化の成熟の結 果 、 都 市 型 社 会 が 成 熟 し た と い う ( 『 市 』 44、 『 社 』 3 ) 事 実 認 識 で あ る 。 そ れ は 「 《 都 市 革 命 》 と も い う べ き 人 類 史 的 画 期 」 ( 『 市 』 60) で あ り 、 人 口 の プ ロ レ タ リア化、「階層ないし文化の平準化」、「教養」と「余暇」の拡大をつうじて、 「 市 民 的 人 間 の 大 量 熟 成 と い う 《 市 民 革 命 》 」 の 条 件 を 形 成 し て い る ( 『 市 』 75~8 2) 。 他方で松下は第2の前提として、日本の市民文化成熟を阻害する要因を指摘する。 それは、日本の工業化・民主化が後発国の宿命として上からの近代化として強行さ れたため、「社会底辺の権威型政治イメージを吸収し」た「国家統治型政治体制」 をうみだしたという事実である。ここでは、「国家統治型政治統合」から「市民自 治型政治統合」への移行という、「二段階近代化」の第二段階への移行が問題とな る ( 『 市 』 32) 。 松下は、都市型社会の成熟という第1の前提から、農村型社会を立脚点としてき た公民館・社会教育行政が不要となったことを論証する。まず、民主化、工業化の 進展により、戦後社会教育行政の課題であった「民主主義的啓蒙」と「生活改善指 導」は、「市民運動」と「消費革命」によって代位されたとして、その課題喪失を 説 く ( 『 社 』 97~8) 。 さ ら に 、 国 民 の 高 学 歴 化 や マ ス コ ミ - 文 化 産 業 の 過 熟 な ど に よ り 、 社 会 教 育 行 政 存 続 の 条 件 も 喪 失 し た ( 『 社 』 102~6 ) と す る 。 第2の前提からは、現在もなお日本人の意識を規定している「明治国家」的原理、 すなわち未熟な国民を指導、教化する「官治」「無謬」「包括」の国家という国家 観や、それに基づく「官治-集権型」の文化構造や思考方法との批判的対決が重要 な 戦 略 課 題 と な る ( 『 社 』 6 ~ 7 、 11 、 2 4 2 ~ 3 ) 。 かかる視点から、松下は教育基本法に基 づく戦後の教育、とりわけ社会教育を、国民を未成熟な教化対象とみなす「官治- 集 権 型 」 発 想 の 典 型 と し て 原 理 的 に 否 定 す る ( 『 社 』 9~10)。 社 会 教 育 行 政 は 市 民 文 化 成 熟 の 「 決 定 的 阻 害 要 因 」 ( 『 市 』 307)だ と 断 罪 さ れ る の で あ る 。 5 このように、松下は、高度成長を画期とした日本の社会・文化の農村型・官治型 から都市型・自治型への移行という「二段階近代化」論に基づき、公民館・社会教 育行政を有害無益な農村型・官治型の典型として、その「終焉」を宣言するのであ る。 (2) 都 市 型 社 会 の問 題 性 松下の社会・文化把握の特徴は、都市型社会の「市民革命」的側面、いわばプラ ス面を一面的に強調することである。とりわけ社会教育=公民館の役割終焉を論じ る際には、工業化→都市型社会成立がそのまま社会の民主化、市民の成熟であるか のように論じられている。 このような社会・文化把握には以下のような問題点がある。 第1は、現代日本の支配構造を明治以来の農村型=官治型発想に還元する結果、 現代日本の企業社会化に関する批判的視点が欠落していることである。 たしかに、日本の近代化が農村社会の権威的・共同体的秩序を国家統治の原理へ と普遍化した絶対主義的権力により強行されたという事実は、日本の社会・文化に 重大な歪みを残している。とはいえ、それに全てを還元するのは誤りだろう。例え ば渡辺治は、現代日本の権威的支配構造は、戦前社会からの残存ではなく、むしろ 「戦後--それも高度成長以降に形成された」もので、能力主義的競争秩序を中核 とする、「企業の権力による労働者やその家族に対する全面的支配」であるとして いる。もはや農村ではなく企業こそが権威的支配構造の原基形態だとするのである ( 8) 。 松 下 に は 、 都 市 型 社 会 化 に 並 行 し た こ の 日 本 の 「 企 業 社 会 」 化 に 対 す る 視 点 が 欠 落 し て い る ( 9)。 し た が っ て ま た 激 烈 な 能 力 主 義 的 競 争 秩 序 の 普 遍 化 に 対 す る批判的認識も見られない。 企業社会論的な視角からは、高度成長期は国家主義的統合が企業による統合の後 景 に 退 い た 時 期 と し て 、 70年 代 後 半 か ら 現 在 に 至 る 時 期 は 企 業 社 会 確 立 の も と で 社 会の諸領域での新国家主義的再編成・統合が進行している時期として分節される ( 10) 。 6~70年 代 の 都 市 型 公 民 館 の 発 展 は 、 農 村 型 ・ 官 治 型 行 政 の 体 現 と い う よ り も、むしろ企業的社会統合の圏外(地域)における企業社会の周辺人(主婦等)に 6 よる学習活動の発展という意義をもっていた。他方、生涯学習政策やコミュニティ 政策の登場はあきらかに後期の文脈に属するものであり、教育や地域の国家主義的 再編成との関連で批判的に分析すべき側面をもっている。けれども松下には、それ らを区分し、具体的に分析しようとする問題意識が見られない。生涯学習も社会教 育も、ともに農村型・官治型の範疇に属するものとして一括して否定され、他方コ ミュニティ・センターは都市型・自治型の範疇に属するものとして肯定されるので ある。 第2の問題点は、「市民」像の一面性である。松下は高度成長を経て、高学歴化 し、教養と余暇をもち、自主的な判断力・行動力をもった市民が大量に生まれ、そ れが自治体革新の担い手になるという楽観的展望を示している。「市民」は一括さ れ、その内部での階層分化や世代間格差は問題とされない。とくに問題なのは、都 市型社会における平均的市民以外の住民、すなわち最下層労働者や外国人労働者、 社 会 的 不 利 益 層 の 存 在 が 捨 象 さ れ て し ま っ て い る こ と で あ る ( 11 ) 。 この点に関しては庄司興吉が「世界社会論」の観点から提起している「先進的国 民 社 会 の 階 級 構 造 の 世 界 内 定 位 に よ る 変 質 の モ デ ル 」 が 参 考 に な る ( 図 2) 。 庄 司 によれば、先進国もかつては、Aのようにピラミッド型の階級構造を持っていたが、 やがてBのように国民社会全体が世界社会システムの中心・上部に位置すると、下 層部分を周辺部や国内の最下層少数者に転嫁してきた。その結果、先進国だけを見 るとピラミッド型の構造はなくなり、Cのように中央部のふくらんだダイヤモンド 型の構造に変質する。これが先進国における労働者の市民化、新中間層化の客観的 根拠であり、この事実の表面的理解から様々な階級否定論が生まれるのである(1 2) 。 松下の市民像もまた日本社会のダイヤモンド的構造の中太りのみに注目し、その 最下部や周辺を無視したものだといえる。だが、都市型社会周辺に疎外されている 社会的不利益集団こそは、現代社会の地域センターのあり方を考える上で非常に重 要な意味をもっているのである。 第3の、より根本的と思われる問題点は、都市型社会=産業社会の病理について の批判的分析を欠いていることである。 都市型社会の成立が生活水準の向上・平準化や個人の自由を実現したことは、言 7 うまでもない。けれども、それは同時に、地域さらに家庭での人々の連帯・共同を 解体し、希薄化し、社会を孤立した私人の集合に転化しつつある。社会の巨大化・ 複雑化に伴い、生産-消費活動、教育、文化、社会保障、福祉、政治行為などを運 営する経済システムと行政システムの制度化・専門化・肥大化・自立化が進行する。 人々は一方では分業化したそれらシステムの効率化に自己を同化することを強制さ れ、他方ではシステムに依存し、操作・管理される受動的な消費者、受益者(利用 者)という立場に置かれる。こうして、都市型社会では社会の管理化と個人の私 化・受動化が進行し、市民からは公共のことがらについて主体的・共同的に討議し、 合意を形成し、問題を解決していく余地も能力も奪われていく。このハバーマスに よ っ て 「 生 活 世 界 の 植 民 地 化 」 ( 13) と し て 規 定 さ れ る 事 態 は 、 都 市 型 社 会 に お け る地域センターのあり方を考えるうえで充分考慮されねばならない問題である。 勿論、松下も、かつて大衆社会論の立場から「疎外」問題を提起した論客として、 「 都 市 型 社 会 は ま た 固 有 の 問 題 点 を も つ 。 私 も 幻 想 は 持 っ て い な い 」 ( 『 社 』 24 2) と 述 べ 、 「 現 代 型 疎 外 」 問 題 を き び し く 検 討 す る 必 要 に も 言 及 す る ( 『 社 』 7 2) 。 だ が 、 松 下 の 議 論 の 基 調 が あ く ま で も 都 市 型 社 会 の プ ラ ス 面 の 強 調 に あ る こ とは、既に指摘したとおりである。 市川達人は多くの都市論に共通する弱点を指摘して以下のように述べている。 「これまで都市が概して近代化の側面から評価され、封建的閉鎖性や身分的社会 構成へのアンチテーゼという意義が表に立ったため、都市の解放的機能は市民的自 立の方向においてだけとらえられ、共同性の創出ないし享受という側面は必ずしも 自 覚 的 に 取 り 上 げ ら れ て こ な か っ た 」 ( 14)。 この指摘は、松下にもそのまま妥当するだろう。松下は、市民的自立の側面から 公民館の不要を主張するのみで、都市型社会の「内的植民地化」あるいは「現代型 疎外」を克服するための「共同性の創出ないし享受という側面」から公民館型ある いはその他のタイプの地域センターの必要性、可能性を検討しようとする問題意識 を欠いているのである。 以上、松下の社会・文化把握を批判しつつ、都市型社会の問題性をその否定的側 面、病理現象に即して考察してきた。とはいえ、筆者は松下が強調する都市型社会 の革命的なプラスの側面を否定するものではない。工業化の進展による都市型社会 8 の成立が、人々を伝統的共同体の封建的・因習的束縛から解放し、自由かつ合理的 に思考し行為する市民へと成長させる傾向を持つことは言うまでもない。その点に 着目するかぎり、職員による運営・指導型でない、市民が自由に使用できる集会施 設としてのコミュニティ・センター型の地域センターを整備する必要性、必然性は 当然のことだといえる。 けれども都市型社会の否定的側面・病理現象--管理社会化、能力主義的競争秩 序の普遍化、その周辺に疎外された多様な少数者としての社会的不利益層の存在、 社会の分裂と個人の私化と受動化の進行--への着目からは、上とは別の地域セン ターのあり方が要請されるのである。そして、都市型社会の否定的側面・病理現象 を克服していく可能性をもつ場として、地域の再生が求められる現在においては、 この視点から地域センターの可能性を考えることがより重要なのではないだろうか。 これから紹介するドイツ連邦共和国の地域センターの実例もそのことを示唆してい るように思われる。 (3)ドイツ連 邦 共 和 国 における継 続 教 育 と地 域 センター ここでドイツ連邦共和国における継続教育と地域センターとの関係を見ておこう (15)。 ドイツ連邦共和国では、我が国の社会教育に対応する領域は継続教育・成人教育 と呼ばれるが、我が国の社会教育が公民館でのインフォーマルな教育を中心に発展 してきたのに対し、連邦共和国の継続教育の場合は講座提供事業を中心に発達して きた。連邦共和国では教育は各州の管轄事項で、多くの州が継続教育振興のための 法を制定しているが、その内容は共通して、継続的に提供している学習講座の量 (時数)に応じて施設・団体を助成するというものである。しかも一般教養、政治 教育、職業教育の各領域をすべて実施するものとされる。これでは地域センターで 多少の学習講座を実施していても、量が少ない、あるいは一般教養に偏っていると いった理由で継続教育施設としては認定されないこととなる。すなわち我が国では 地域センターの大半が公民館という社会「教育」施設であるのに対し、連邦共和国 では公民館類似の地域センターでも教育施設として公認されることは例外的なので 9 ある。地域センターは一般に社会事業施設、福祉施設あるいは余暇・文化施設とみ なされているのである。 継続教育施設として認定され公的に助成されている講座提供施設には、全国的な 組 織 を も つ 主 要 な も の だ け で 、 公 的 施 設 と し て の 市 民 大 学 ( Vo l k s h o c h s c h u l e ) の ほ か 、 教会系、労働組合系、農業団体系、経済団体系などの施設がある。このなかでも最 大 の も の が 市 民 大 学 で 、 1986年 で 全 国 ( 西 ド イ ツ ) に 8 5 0 余 り 設 置 さ れ 、 多 様 な 講 座 を 3 6 万 コ ー ス 以 上 実 施 し 、 参 加 者 は 500万 人 以 上 と い う 大 規 模 な 事 業 を 展 開 している。専任職員は6千名程度である。 市 民 大 学 で は 他 の 継 続 教 育 施 設 の 分 も 含 め て 、 住 民 1000人 あ た り 500時 間 の 講 座 を実施することを目標に事業を拡大してきた。これは全住民が3年に1度は、定員 20名 、 時 数 30時 間 の 講 座 に 参 加 で き る こ と を 可 能 に す る 数 値 で あ る 。 そ し て 70年 代 の急成長の結果、多くの地域、特に都市部でこの目標値を達成している。市民大学 の成長は、都市型社会の市民の多様化する学習需要に柔軟に対応し、特に語学、余 暇、職業資格の分野の充実を始めとして、科目の多様化をはかることで可能となっ た。テレビ、ラジオでの教育番組も行っている。語学や職業教育の分野では共通カ リキュラム・教材の開発も進み、どんな地方でも一定水準の講座を実施し、全国共 通 の 資 格 試 験 を 行 う よ う に な っ て い る 。 わ ず か 6千 人 の 職 員 で あ る が 、 講 座 の 提 供 という一点に重点をおいた効率的な組織体制(過疎地における広域的な統合化な ど)が整備され、大量の講座を実施しえているのである。典型的な講座提供型施設 だといえよう。 このような講座提供施設と地域センターとのもっとも一般的な関係は、講座提供 施設が地域センターの一部を教室、あるいは場合によっては分館として使用すると いうものである。たとえば大都市の市民大学の場合には本館以外に市内数ケ所に分 館を持っていることが多いが、それでも教室不足と講座の地域内分散という観点か ら、半数以上の講座は外部で実施している。主に学校の教室を利用するが、学校は 昼間は利用できないし、学校の雰囲気に馴染まない講座もある。その点、地域セン ターは市民大学にとって格好の教室なのだ。また地域センターにとっても、市民大 学の講座はセンターの文化・学習活動のプログラムを豊富にできるという利点があ る。 10 講座提供施設が住民の希望する講座を網羅的に実施し、さらに地域センターでも いわば出前講座を行っている状況のもとでは、地域センターが独自の教育・学習プ ログラムを提供する余地・必要性は少ないようにおもわれる。 と こ ろ が 70年 代 以 降 の 継 続 教 育 の 発 展 と と も に 、 市 民 大 学 な ど の 制 度 化 ・ 学 校 化 が進行し、また講座が大衆追従的で政治的・社会的教育が減少していく傾向や参加 者層の中流階層化が指摘されるようになった。このような傾向への反省・批判から、 通常の講座では対応できない社会的不利益層などを対象とする目標グループ活動が、 継続教育の新しい方向として目指されるようになった。このような活動は地域にお けるインフォーマルな教育活動として組織されることが多い。こうして既成の継続 教育施設に批判的な人々によって、新しいタイプの文化・教育活動を展開する地域 センター型の施設が作られていった。この背景には、都市型社会=産業社会のもと での制度化・管理化の傾向や個人の私人化傾向に対抗して、地域を拠点とする共同 性の回復やオールタナティブな生活・文化めざす市民運動の展開もある。市民大学 などでも次第に目標グループ活動や地域活動に積極的に取り組むようになってきて いる。 このように、継続教育施設が社会活動・福祉活動的色彩のつよい活動に取り組む ようになった一方で、これまで社会福祉施設や余暇施設とみなされてきた地域セン ターが文化的・教育的施設として自己主張し、認められる傾向が進んでいるのであ る。これらの施設には、都市型社会の否定的側面を克服するための市民の共同性創 出の場を志向するという性格が強い。また当然、社会福祉的活動や文化・教育活動 に従事する専門職員が働いている。これから紹介する三つの地域センターのうち、 二つはこのようなタイプの施設である。 もちろん、ドイツ連邦共和国における地域センターには、自治体が文化政策の観 点から整備している、専門職員のいない純然たる集会施設もある。都市型社会での 市民の成熟に依拠したコミュニティ・センター型の地域センターである。本稿では まずそのような施設としてのフランクフルト市の市民館を紹介し、その後で上で言 及したそれとは対極的性格の二つの施設を紹介する。 11 Ⅱ.フランクフルトの市 民 館 (1)基 本 的 性 格 フランクフルトは1986年現在で人口60万余、面積約250平方キロの都市 で あ る 。 市 は 4 6 の 市 街 区 域 ( Ortsteil)に わ け ら れ る 。 各 市 街 区 域 の 人 口 は 最 大 3 万人弱、最小2百人強の間に分布しているが、大半は1万人台である。市民館(ビ ュ ル ガ ー ハ ウ ス B ü rg e r h a u s ) は フ ラ ン ク フ ル ト 市 の 文 化 行 政 の 一 環 と し て 設 置 さ れ てきた施設で、この市街区域にほぼ対応して、86年現在で31設置されており、 毎年1館程度のペースで新設、改築される計画がある。すなわち松下のいう「小型 館(地域センター)」的な基準で配置された施設なのである。 市 民 館 は 、 市 の 文 化 ・ 余 暇 局 ( Dezernat für Kultur und Freizeit) が 管 轄 す る 公 共 的文化-集会施設である。その目的は、「市民の連帯性育成、文化的生活の振興、 民 衆 教 育 ( Vo l k s b i l d u n g ) 、 地 域 社 会 形 成 、 青 少 年 育 成 、 健 康 の 育 成 、 ス ポ ー ツ の 振 興 、 市 民 の 社 会 的 扶 助 」 に 資 す る こ と と さ れ て い る (16)。 た だ し そ の 事 業 内 容 は 、 上記の活動を行う市民、サークル、団体等に部屋や付帯設備を利用させるいわゆる 貸し部屋事業であり、市民館が主体となって独自の文化事業等を実施することはほ とんどない。また文化活動等に対する援助、助言、指導等を行う専門職員も一切配 置されていない。その意味で市民館は公民館型ではなく、コミュニティ・センター 型の地域センター施設ということができる。 市民館の運営は民営化され、「ザールバウ有限会社」という市が全額出資する企 業に建設、管理、運営から所有権に至るすべてが委託されている。民間委託形式を いち早く導入しているのである。そして後に見るように、ザールバウ社は貸し部屋 型施設としての効率化、「合理化」に徹した経営を行っている。この点でも公民館 型理念の対局にあるといえよう。 利用時間帯の長いことも特徴である。一部の例外を除き、開館時間は通常午前7 時から午後11時までの16時間となっている。さらに必要ならば、警察が許容す る限度である午前2時まで施設を利用できる。しかも休館日はない。集会施設とし ての利便性を徹底しているのである。 12 (2)建 物 の概 要 市民館といっても新旧、大小さまざまであり、名称も「市民館」に統一されてい るわけではない。 標準的な建物は、収容力500人程度の舞台付きの多目的ホールとクラブ室 ( Clubraum) と 呼 ば れ る 大 小 の 集 会 室 を 5 室 程 度 も つ 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 造 り の 低 層 建造物(高齢者、障害者等の利用の便のため)で、我が国の都市の公民館やコミュ ニティセンターなどと類似した外見、構造となっている。このような規模の施設は、 設 置 さ れ た 地 域 の 名 称 を 冠 し て 「 ××の 家 ( Haus ××) 」 と 称 さ れ て い る 。 こ れ が 最も多いタイプの狭義の市民館である。ところで、近年新設、改築される市民館は 大型化、デラックス化する傾向にあり(これは我が国の類似施設と同様である)、 本格的な舞台設備付きの1000人以上収容可能な大ホールをもつものが増えつつ ある。これらの大型館は「都市ホール」と称されることもある。もっとも、これ以 外にも既存の建造物を転用した市民館も若干あり、この場合には名称や外観も個性 的だし、ホ-ルだけのものや、逆にクラブ室だけのものもある。 ほとんどの市民館には、個人業者が経営する、安くて感じのよいレストランや居 酒屋風食堂が出店している。さらに、小型のケ-ゲルバーン(ボ-リングのような もの)を2~3レーンもつ遊戯場の設置されているものが多い。これはレーンごと に投げる場所が個室になっており、それを家族や仲間で貸切って飲食しながらゲー ムに興じるのである。ボーリングよりもさらにスポーツ性のない、老人仲間や家族 向けの娯楽という性格が強い。ケ-ゲルバ-ンやレストランは市民館にとっては付 随的なものだが、いわゆる「文化」に関心を持たない人々、特に地域の高齢者層の 集いの場として、意外に重要な役割を果たしているのである。 多目的ホールにクラブ室に気軽な雰囲気の食堂、そしてできればケーゲルバーン、 これが建物としての市民館の基本的イメージといってよいだろう。 また、多くの市民館の建物の内部には、青年の家や市立図書館分館などの公共施 設が併設されている。複合施設化が積極的に進められているのである。 では、筆者が訪問した市民館のなかから、いくつか具体例を紹介してみよう。 「 ニ ッ ダ の 家 Haus Nidda」 は 市 の 北 部 ボ ナ メ ス 地 区 に 設 置 さ れ た 、 緑 に 囲 ま れ 13 た平屋の建造物である。ここには地上階に定員500人余の舞台付きホール(体育 館兼用)とクラブ室が1室、地下に軽食堂、ケーゲルバーン遊戯場、シャワー室、 会合用小部屋が6室ある。また、保育所、青年の家(ともに小規模)が併設されて おり、共用の小運動場もある。ロビーや廊下には地域の文化サークルの作品やスポ ーツサークルのトロフィ-などが展示され、サークルや市民大学の活動案内も掲示 されていた。地域住民の身近な文化、集会施設として利用されているのである。こ のような施設が、6~70年代に新設された比較的小規模で標準的な市民館の典型 だといえる。 市の北東郊外ベルゲン・エンクハイム地区の「ベルゲン・エンクハイム都市ホー ル St a d t h a l l e B e rg e n - E n k h e i m 」 は 、 近 年 新 設 さ れ て い る 大 型 市 民 館 の 典 型 で あ る 。 ここには本格的舞台を持つ1000名近く収容可能なホールと、定員100~40 人のクラブ室が5室、レストラン、ケーゲルバーン遊戯場がある。またこの建物に は市立図書館分館が併設され、書店も営業している。立派な施設であるが、新しい せいもあるのだろうか、「ニッダの家」のようなアットホームな雰囲気はなかった。 以上は典型的な市民館の例である。次には、少し変わった例を見てみる。 「 民 衆 教 育 会 館 Vo l k s b i l d u n g s h e i m 」 は 、 フ ラ ン ク フ ル ト の 中 心 街 近 く に あ り 、 最 も古くかつ親しまれている筆頭格の市民館である。この建物は、その名称が示すよ うに、フフランクフルト市民大学の母体であったフランクフルト民衆教育同盟の本 拠とされていたところである。市民大学が市立化され、その本部事務所が他に移さ れた後も、ここには市民大学の受付事務所がおかれ、また大小10余りの部屋を市 民大学が教室用に占有的に借りている。他にも、フランクフルト芸術協会など4つ の文化組織がテナント入居している。その結果、一般市民に貸し出されているのは 大小2つのホールだけとなっている。一般向けのクラブ室がなく、市民館としては 変則的である。 「 ウ ェ ス ト エ ン ド 市 民 集 会 所 B ü rg e r t r e ff We s t e n d 」 も 中 心 街 近 く に あ る 。 こ こ はかつてロスチャイルド家の廐舎だった由緒ある建造物を改修したもので、大小1 2のクラブ室があるが、ホールは設置されていない。 「 南 駅 の 家 Haus Südbahnhof 」 は 、 市 の 南 部 地 域 の 中 心 タ ー ミ ナ ル の 駅 舎 を 改 築 する際、駅舎自体を市民館としたものである。地下にホームのある駅舎の2階に定 14 員500人程のホールと2部屋のクラブ室があり、1階の一部にビール酒場が、地 下にケーゲルバーン遊戯場がある。青年の家も併設されている。地の利が良いため だろう、規模のわりに利用者は多い。 「 ヘ キ ス ト 教 育 - 文 化 セ ン タ ー Bildungs-und Kulturzentrum Höchst 」 は 市 の 東 部 ヘキスト地区の国鉄駅の近くにある5階建の大きな建造物である。ここは、ギムナ ジウム上級段階(我が国の高等学校相当で3学年ある)と市民大学ヘキスト支所お よび市立図書館の複合施設として新設された、ユニークな施設である。そして、さ らに平日の午後5時以降および土曜、日曜には、大小ホール、体育館、カフェテリ ア、クラブ室、展示ロビー等ギムナジウム用の施設を市民館施設として市民の利用 に供しており、年間利用者が43万人を越える最大の市民館として機能している。 文字通り、地域の総合的教育-文化センターとなっているのである。 (3)市 民 館 における市 民 の文 化 活 動 の内 容 フランクフルト市民はどのように市民館を利用しているのであろうか。 1986年の内部調査によると、31の市民館で一年間に6万5千件近い催し物 が行われ、その参加者は延べで258万人以上となっている。単純に平均すると、 1館当りの催し物は2100件、参加者が83,000人となる。1年365日で 計算すると、各館で毎日6件近い催し物が行われ、230人近くが利用しているこ とになる。無論、ここにはレストランやケーゲルバーンの利用者数は含まれない。 どのような活動が行われているかを、催し物の種類によって見てみよう。クラブ 室を利用した会合や催し物は全部で41.907件である。その内容を多い順に示 すと、余暇グループ活動(32%)、学習講座(26%)、スポーツ活動(1 8%)、政治的活動(5%)、学校の利用(5%)、老人クラブ(4%)、各種会 議(3%)、社会的活動(1%)、宗教的活動、各種展示会、映画会、演劇、コン サート(宗教的活動以下はいづれも1%未満)となっている ホールを利用した催し物は22,523件で、内容的には、スポーツ活動(7 0%)、余暇グループ活動(11%)、学校の利用(6%)、社会的活動(3%)、 演劇(3%)、映画会(1%)、老人クラブ、学習講座、各種会議、政治的活動、 各種展示会、コンサート(老人クラブ以下はいづれも1%未満)の順となっている。 15 このように、スポーツ、余暇活動、学習活動を始めとした多面的な活動が行われ ていることがわかる。以上のほかにも、結婚パーティなどの宴会場にも利用される。 また、カーニバルや秋祭りの時期になると、地域の出し物の準備会場として、さら に当日はダンス会場などとして利用されている。 なお、上記の活動内容について若干補足しておきたい。 クラブ室利用の26%を占める学習講座とは、主に市民大学が実施している継続 的な講座事業である。継続教育施設による地域センターの利用については既に述べ たが、市民館でも相当の比率であることがわかる。 学校の利用というのは、体育施設の不備な小学校が、市民館のホールを体育館と して、正規の授業に用いる場合や、父母との協議会場に用いる場合のことである。 ドイツの学校施設は日本のようには標準的に整備されていないため、このようなこ とも珍しくない。隣接する市民館と小学校が運動場を共有している例もある。 政治的活動や宗教的活動に関して、我が国では党派色、宗派色のあるものは公共 施設になじまないものとして排除される傾向があるが、市民館ではそのような制限 はない。これは、政党や、宗教団体の公共性に対する日独両社会の評価の相違によ る点もあるが、そもそも市民館が市民のあらゆる活動に開かれていることを示して いる。極端や対立を排除した公共性ではなくそれらを包む公共性が目指されている のである。 4)市 民 館 の利 用 料 金 市民館の利用は無償ではない。施設の使用料は6時間以内が基本料金となってい る。施設の新旧、付帯設備の内容によっても異なるが、千名ほど入る大ホールで1 000~1300マルク(10万円前後)、5百人程のホールが5~700マルク (5万円前後)、50人程入るクラブ室が6~70マルク(5千円前後)、20人 以下の小クラブ室で20~35マルク(2千円前後)であり、6時間を超過する1 時間ごとに1割増しとされている。我が国の類似施設とほぼ同程度、あるいは最低 時間が長い分だけ安いかもしれない。 ただし、市民の文化、スポーツ、余暇活動を振興するため、一定の条件を満たす 団体、組織に関しては使用料の80%までが免除されるようになっている。その条 16 件とは、 ①適法性を満たし、 ②全住民に開かれ、 ③意義のある余暇形成を可能にし、 ④営利を目的としない、 協会、同盟、組織であって、かつ市民館を利用する目的が、社会連帯性の育成、文 化的生活の振興、成人教育、地域と伝統の保持、健康育成、スポーツ育成、社会扶 助、青少年育成、政治教育、社会発展、宗教的目標のいずれかに貢献することであ る (17) 。 具 体 的 に は 、 各 種 の 政 党 、 教 会 、 成 人 教 育 団 体 、 ス ポ ー ツ 団 体 、 学 校 を 始 めとして、様々な分野の市民団体、サークル、同好会が、市の文化-余暇局の『助 成要項』 付属リストに登録されている。前に触れた、カーニバルに参加するグル ープも認められている。そして、市民館の利用者の大半はこのような割引特典のあ る団体なのである。 市民館では使用目的に関するせんさくは行わないが、使用料金の割引によって文 化的-社会的目的の利用に対する誘導が間接的に行なわれているといえよう。 5)市 民 館 の管 理 、運 営 市民館が貸し部屋型施設であり、教育-文化等の専門職員が配置されていないこ とは既に述べた。それだけではなく、市民館には受付、経理など事務系の職員も皆 無である。大型のかなりデラックスな施設でもそうである。 各市民館に配置されている職員はハウスマイスターと称される管理人だけである。 ハウスマイスターは我が国の学校などの用務員と警備員を兼ねたような職で、建物 内部を巡回して部屋の鍵を開閉したり、暖房や照明等の管理、簡単な施設修理をお こなう技能職である。 ハウスマイスターの勤務形態は7~15時の早番と15時~23時の遅番との交 替勤務務となっており、通常の館では早番、遅番とも1名、一部の大型館では利用 者の多い遅番時間帯のみ2名配置となっている。市民館の多くは相当の広さの施設 で、利用時間帯も長く、利用者も多い。にもかかわらず、専任職員は2~3名の技 17 能職員のみなのであり、在館しているのはほとんど1名だけなのである。あとは毎 日定期的にやってくる清掃会社の作業員、これが市民館の職員のすべてなのである。 市民は7時から23時までの間なら自由に市民館に立ち入ることができる。けれど も、そこで何が行われているか、どうすればそれに参加できるかなどについて、情 報や助言を期待できる職員は皆無なのだ。干渉もないが援助もない。施設利用の申 込をすることもできないのである。 市民館の利用申込は、市の中心部にある「ザールバウ」本社受付で、一括して取 り扱っている。31館200室以上の1年間の利用予約を、2名の職員が受付、整 理していた。ほかに監督係というセクションがあり、4人の職員が7~8館づつを 分担して週2回ほど市民館を巡回している。そして各市民館の利用予定をハウスマ イスターに知らせるとともに、ハウスマイスターから施設、設備の故障や利用上の トラブル等について報告を受け、それを本社の技術係や管理係に伝達するのである。 このように市民館の管理-運営は、貸し部屋事業の徹底化、効率化という観点か ら、市民が施設を使用できる状態に維持するという点に限定され、合理化されてい る。そして合理化されているからこそ、人件費や労働条件の問題を考慮することな く長時間の開館が可能となるのである。 (3)フランクフルト民 衆 教 育 会 館 の歴 史 市民館のような貸し部屋専用施設の登場は、都市型社会の必然性とも言えるだろ う。そのような傾向を象徴するものとして、ここでフランクフルト民衆教育会館を 舞台として展開した民衆教育運動の歩みを簡単に見てみたい。 既に述べたように、民衆教育会館という名は、ここを拠点に活動したフランクフ ルト民衆教育同盟に由来する。あるいはこの建物は、ワイマール期の民衆教育運動 =市民大学運動の発展過程で、ドイツ各地に創建された民衆教育会館の一つといっ たほうが正確であろう。 フランクフルト民衆教育同盟の前身は、1890年に労働者教育協会、労働組合、 市 民 団 体 に よ っ て 結 成 さ れ た 「 フ ラ ン ク フ ル ト 民 衆 講 演 委 員 会 A u s s c h u ß für Vo l k s v o r l e s u n g e n 」 で あ る 。 委 員 会 は 「 い わ ゆ る 下 層 階 層 に 芸 術 、 学 術 な ど の 文 化 財 18 を伝達するため」の「知識人と労働者の共同事業」という啓蒙的理念のもとに、知 識人や労働組合代表により構成され、数名の専従職員が多面的な実務をこなすとい う ボ ラ ン テ ィ ア 的 組 織 と し て 事 業 を 展 開 し て い っ た (18)。 中心となる成人教育活動としては、冬季の毎週末に市内8ケ所で開催される啓発 的な夜間講演会、同一テーマで10回程連続する講座コース、さらには職業補習校 への入学年齢を越えた成人労働者を対象とする授業コース、あるいは労働組合の要 請に応じた講師派遣などが行われた。また、自然や社会に対する教養を深めるため に 、 各 種 施 設 の 見 学 や 内 外 の 旅 行 を 組 織 し た (19)。 こ れ ら の 活 動 が や が て 市 民 大 学 に発展していくのである。 さらに、1894年には民衆演劇公演運動が、97年には民衆コンサートや民衆 芸術の夕べ運動が開始され、これらの運動は独自の民衆のための劇場創設へと結実 していく。その他、1900年のフランクフルト民衆コーラス結成、1921年の 「 民 衆 劇 場 Vo l k s b ü h n e 」 ( 演 劇 、 コ ン サ ー ト 等 の チ ケ ッ ト を 安 価 に 提 供 す る 観 賞 団 体で我が国の労演運動にあたる)など、多面的な民衆文化活動を発展させていった (20) 。 1 9 1 0 年 に は こ れ ら の 諸 事 業 へ の 参 加 者 が 1 2 8 , 0 0 0 名 を 数 え る に 至 っ て い る (21)。 事業の発展に伴い、当然、劇場ホールや集会室等をもつ専用施設が必要となる。 フランクフルト市当局も委員会の事業の意義と実績を評価し、1913年には、当 時の金で40万マルクを民衆教育会館設置のための「民衆教育基金」として準備し た。さらに民間からも11万5千マルクの寄付があり、市当局は建築プランのコン テストの準備に取りかかった。ところが翌14年第一次世界対戦が勃発し、この計 画 は 流 産 し て し ま っ た (22) 。 社会民主党を含めた大部分のドイツ人が愛国主義の熱狂に巻き込まれる中で、民 衆講演委員会も例外ではなかった。委員会は「ドイツの栄光ある勝利」を確信し、 戦争への民衆動員のための国粋精神高揚運動を積極的に推進していくのである。従 来の講座の多くは中止され、戦意高揚的な内容の特別講演会が数多く催され、熱狂 的な多数の聴衆を集めた。戦争の長期化、戦況の悪化とともに傷痍軍人が増加する と 、 そ の 社 会 復 帰 講 座 に も 力 を 入 れ て い っ た (23)。 1918年の敗戦後、民衆講演委員会は戦争の反省に踏まえ、平和や民主々義の 19 育成を民衆教育の課題として再出発する。翌19年、委員会は念願の専用施設を入 手した。市が購入していた、かつて商業協会会館であった四階建ての建造物を貸与 されたのである。戦前のプランのような民衆教育の目的のために設計された新設館 ではなかっただけに、若干の不満はあったようだが、再出発の拠点が確保されたの である。この建物は民衆教育会館と命名され、委員会もフランクフルト民衆教育同 盟 と 改 称 し た (24) 。 こ の 年 は ワ イ マ ー ル 憲 法 も 公 布 さ れ 、 そ こ で は 国 家 、 州 、 地 方 自治体による民衆教育振興が規定されていた。ドイツ各地で続々と市民大学が設置 され、市民大学誕生の年とされる年である。民衆教育会館を拠点に、同盟は戦前を 上回る規模の事業を展開していくのである。民衆教育会館はフランクフルトさらに はライン-マイン地方全域の民衆教育運動の殿堂となっていく。 だがナチスの台頭とともに社会民主々義的な同盟指導部は更迭され、1933年 に は つ い に 『 歓 喜 力 行 団 Kraft durch Freude』 と い う 名 称 の ナ チ ス 翼 賛 団 体 へ と 改 組 さ れ て し ま う (25)。 民 衆 教 育 会 館 も 戦 争 末 期 の 空 襲 で 破 壊 さ れ て し ま う 。 敗戦と共に、ナチス体制下で迫害されていた旧指導者達を中心に、ワイマール期 の伝統を引き継ぐかたちでの民衆教育同盟(市民大学)再建が開始される。ドイツ 国民の民主々義的、平和的再教育の必要性を重視した占領軍当局はこの動きを許可 し、財政的に支援した。1946年、同盟は正式に活動を再開する。その本部とな っ た の は 民 衆 教 育 会 館 の 廃 墟 で あ っ た 。 そ れ も 5 3 年 に は 再 建 ( 復 元 ) さ れ る (26)。 そして西ドイツ経済の奇跡の復興-成長と歩を合わせて、民衆教育同盟-市民大学 の事業も急速に発展、拡大していくのである。 事業の拡大とともに、特に70年代以降、各分野の分化、独立化が進んでいく。 既に56年には政治教育セミナー部門が「政治教育セミナー振興協会(公益法 人)」として独立した。76年には同盟の中心的事業であった市民大学が市の部局 となり、分離する。伝統ある民衆教育会館も同盟の手を離れ、ザールバウ社の所有 する市民会館系列に入ってしまう。さらに85年には、民衆演劇公演運動や民衆コ ン サ ー ト 運 動 の 発 展 の な か で 同 盟 が 創 設 し て い た 劇 場 も 独 立 し た 会 社 と な っ た (27)。 いまや民衆教育同盟は、『民衆劇場』事業とフランクフルト歌唱協会(もとの民衆 コーラス)だけを実施する小規模の有限会社となり、民衆教育会館の1室を借りて 数名の職員が細々と営業をつづけている状態である。その『民衆劇場』も、労働者 20 層への良心的な文化・芸術普及という文化運動的側面はなくなり、単なるチケット 販売事業となり、その効率化のためコンピューター化が進められている。 以上、フランクフルト民衆教育同盟の1世紀にわたる発展史は、ドイツにおける 成人教育運動(市民大学運動)の一典型であると言えよう。 ここで特に注意したいのは、社会の近代化=都市化に並行して進行した民衆=市 民文化活動の発展の過程が、その分化・専門化の過程でもあったことである。かつ ての民衆教育会館は学びの場でもあり、創作活動の場でもあり、観賞運動の場でも あり、民衆のたまり場でもあった。これらの運動は少数の専従職員とボランティア によって、アマチュア的な不充分性はあったかもしれないが、統合的、総合的に行 われていた。ところが事業の拡大と共にこのような統合性は失われ、民衆教育運動 が内包していた各機能はそれぞれ専門的な担い手によって遂行される独立した事業 へと分化していくのである。このような専門化-分化によってのみ、都市型社会の 市民の大量で多様化、高度化した文化需要に対応できるのだともいえよう。 そして、あれこれの文化事業の実施は他の施設や利用者に委ね、貸し部屋機能の 効率化に徹し切った市民館のような施設の普及も、現代社会の専門化-分化の傾向 をあらわしているのではないだろうか。多様な文化・教育活動の発展・自立の結果、 民衆教育会館が市民館のひとつになったことは、このような傾向あるいは必然性を 象徴しているように思われる。 21 Ⅲ ベル リン の 近 隣 社 会 会 館 (1)セツルメント=社会的文化的地域活動 第二次大戦後、物質的にも精神的にも貧困・荒廃状況にあったドイツの民主的再 建 の た め の 「 再 教 育 」 と 「 自 助 の 援 助 Hilfe zur Selbsthilfe 」 を 目 的 に 、 ア メ リ カ 人 ク エ ー カ ー 教 徒 の 福 祉 団 体 が ベ ル リ ン な ど 数 都 市 に 自 国 の 「 近 隣 社 会 セ ン タ ー neigh bourhood center 」 を 範 と し た 施 設 を 創 設 し た 。 そ れ が ド イ ツ の 民 間 団 体 に 受 け 継 がれ、自治体の助成をうける公共的な地域センターとして発展したのが「近隣社会 会 館 N a c h b a r s c h a f t s h e i m」 で あ る 。 も っ と も 、 近 隣 社 会 会 館 の 当 事 者 は 、 そ の 起 源 を 、 20世 紀 初 期 か ら ド イ ツ 各 地 の 大 都 市 で 創 建 さ れ た 地 域 セ ン タ ー ( そ の 一 般 名 称 は 「 民 衆 教 育 会 館 」で あ る ) の 伝 統に、さらにその原点であるイギリスのトインビー・ホールにまで遡源させている ( 28) 。 ト イ ン ビ ー ・ ホ ー ル は 1883年 に ロ ン ド ン の 労 働 者 ス ラ ム 街 に 創 設 さ れ 、 イ ギリスはもとよりドイツ、アメリカ、オランダ、日本など世界各地でのセツルメン ト 運 動 の 先 駆 と な っ た 施 設 で あ り (29) 、 近 代 の 都 市 型 社 会 の 地 域 セ ン タ ー の 祖 型 と も い え よ う 。「 民 衆 教 育 会 館 」 は 、 一 般 的 に は 既 述 の フ ラ ン ク フ ル ト 民 衆 教 育 会 館 の例のように、市民大学として結実する民衆教育運動の拠点施設とみるのが妥当で あろう。けれども、なかにはセツルメント型の施設もあったし、そもそも民衆教育 運動そのものがセツルメント活動的モメントを含んでいたともいえる。 このように、近隣社会会館は、アメリカの近隣社会センターおよびドイツの民衆 教育会館という回路を通じて、トインビー・ホール以来のセツルメント運動の系譜 に位置付けられる地域センターである。そしてセツルメント運動の国際組織である 「 国 際 セ ツ ル メ ン ト ・ 近 隣 社 会 セ ン タ ー 連 盟 International Federation of Settlememts and NeighbourhoodCentres」 の 有 力 構 成 員 で も あ る ( 30) 。 国際組織に触れたついでに、近隣社会会館のドイツ連邦共和国内での組織関係を 述べておく。 各近隣社会会館はそれぞれ独立した公益法人によって運営されている。それらの 法 人 は 1 9 5 1 年 に 「 ド イ ツ 近 隣 社 会 会 館 連 盟 Ve r b a n d D e u t s c h e r N a c h b a r s c h a f t s h e i m e 」 ( 7 1 年 に 「 社 会 的 - 文 化 的 活 動 の た め の 連 盟 Ve r b a n d f u r s o z i a l - k u l t u r e l l e A r b e i 22 t」 と 改 称 ) を 結 成 し 、 経 験 交 流 等 を 行 っ て い る 。 「 連 盟 」 は 近 隣 社 会 会 館 を 、 近 隣 社 会 あ る い は 街 区 で 必 要 と さ れ る 教 育 ( Bildung) 、 社 会 奉 仕 活 動 、 余 暇 充 実 の プ ロ グ ラ ム を 発 展 さ せ る た め の 社 会 セ ン タ ー と し て 性 格 づ け て い る ( 31) 。 「連盟」と各近隣社会会館は、さらに大きな上部団体としての「ドイツ無宗派福 祉 協 議 会 D e u t s c h e r P a r i t a t i s c h e n Wo h l f a h r t s v e r b a n d 」 な ら び に 「 無 宗 派 教 育 事 業 P a r i t atisches Bildungswerk 」に加盟している。「無宗派福祉協議会」は連邦共和国の 民間社会福祉事業を担う頂上六団体のうち3番目の規模の大組織で、全国で1万5 000近い医療、福祉施設(その職員は約13万人)を運営する5500以上の社 会 福 祉 組 織 が 加 盟 し て い る ( 32) 。 連 邦 共 和 国 で は 福 音 教 会 、 カ ト リ ッ ク 教 会 、 社 会民主党-労働組合などが公的権力形成を支える協調主義的・体制的大組織として、 多様な公共的(民間・非営利の)社会事業を展開しているが、「無宗派福祉協議 会」はそのような既成党派に属さない独立施設の協力体、利益団体なのである。協 議会は傘下の施設・組織に様々な援助をすると共に、圧力団体として州や自治体の 助成金の斡旋、調整をおこなっている。近隣社会会館の運営にも大きな役割を果た し て い る の だ (33)。 「無宗派教育事業」は協議会加盟組織のうちで特に学校外教育を行う施設が結成 した、いわば弟分の団体である。「無宗派教育事業体」はその教育活動を「社会的 教 育 soziale Bildung」 と も 形 容 し て い る が 、 そ の 目 的 は 「 社 会 的 お よ び 政 治 的 な 決 断過程における市民の自己決定と参加のための諸前提を改善する」ことである。そ してその教育活動の重点を、自己決定や参加に関して困難、不利益をもつ集団、す なわち高齢者、心身障害者、アルコール中毒者、麻薬常習者、犯罪者などに置いて い る ( 34) 。 こ の よ う な 教 育 事 業 は 従 来 の ド イ ツ で は 社 会 福 祉 活 動 の 一 部 だ と 見 做 されてきた。しかしながら近年では、市民大学などオーソドックスな継続(成人) 教育施設でも、目標グループ活動や地域(街区)活動というかたちで積極的に取り 組まれるようになっている。すなわち継続教育の一分野として位置付けられるよう になってきたのである。現にヘッセン州では「無宗派教育事業体」が、成人教育法 の規定により継続教育団体として公認されている。フランクフルトにも近隣社会会 館があるが、ここは州公認の継続教育施設として教育行政からの助成金を受けてい るのである。 23 以上、加盟上部団体の概観からも、近隣社会会館が、地域における社会福祉活動 と 教 育 ・ 文 化 活 動 と の 統 合 的 展 開 と し て の 「 社 会 的 文 化 的 地 域 活 動 Sozialkulturelle Gemeinwesenarbeit」 あ る い は 「 地 域 を 志 向 す る 社 会 的 文 化 的 活 動 gemeinwesenorient ierte sozialkulturelle Arbeit」 (35)を め ざ す 、 地 域 セ ン タ ー で あ る こ と が 看 取 で き よ う。 2)社会的文化的地域活動のルネッサンス ド イ ツ 連 邦 共 和 国 内 に は 30ほ ど の 近 隣 社 会 会 館 が 活 動 し て い る が 、 そ の な か で も 最も旺盛な事業を展開しているとされるのが西ベルリンのシェーネベルク近隣社会 会館である。 で は 、 ま ず シ ェ ー ネ ベ ル ク 近 隣 会 館 の 歴 史 を 簡 単 に 見 て み よ う ( 36)。 草創期の近隣社会会館は、当時のドイツの困窮生活を反映し、裁縫・編み物教室、 靴修理工房、栄養相談などの場であった。とはいえ、その目的は生活扶助だけでは なく、主婦を中心とした参加者が、討論、意見交換、さらには読書会を通じて、生 活難を乗り切る意欲や能力、自助と相互援助の精神、民主的な寛容の精神を形成す ることに置かれた。活動方法としては、アメリカから導入されたグループ・ワーク やケース・ワークの手法を用いたグループ活動方式が採られた。専任職員はパート を含めて1~2名で、多数のボランティア的市民が事業の中心的担い手であった。 5~60年代のドイツの経済復興・高度成長とともに、かつての貧しかった参加 者も豊かな市民に転化し、近隣社会会館の活動も変化していく。ボランティア的グ ループ・リーダーと参加者による自主的なグループ活動方式は続けられたが、内容 的には次第に、音楽、手芸、工芸などを個人や家族の教養、余暇として楽しむ傾向 が生じてくる。他方ではカギッ子や高齢者の増加、大人に理解できない暴走族青年 の登場など、従来のグループ活動では対応できない家庭や地域の崩壊現象が社会問 題化し、それにともなって、専門的な児童活動、青年活動なども始められた。60 年代は、近隣社会会館の新しい活動方向を模索する「動揺の時代」でもあった。 6 0 年 代 末 の 学 生 運 動 と 周 辺 集 団 ( Randgruppen)の 運 動 の 爆 発 に 連 動 し て 、 近 隣 社会会館の活動方向は大転換した。この時期には社会活動の分野で専門教育を受け た青年が大量に近隣社会会館の活動に参加してきた。彼等の多くは、周辺集団や地 24 域を革命の主体、根拠と考える、当時の過激な社会変革理論の影響を受けており、 その理論を性急に実践しようとした。当然、創立以来の古いメンバーとの世代間対 立も生じたが、後者は高齢化していたこともあり、青年たちに席を譲った。こうし て近隣社会会館は、急進的地域活動理論に基づき、社会的不利益グループの反体制 的 政 治 意 識 の 覚 醒 、 組 織 化 を 第 一 義 的 課 題 と す る よ う に な っ た 。 一 般 住 民 ( Normal bevölkerung) を 対 象 と し た 文 化 的 な プ ロ グ ラ ム や 音 楽 、 工 芸 等 は 廃 止 さ れ た 。 周 辺 集団や市民運動との共同行動が始められ、近隣社会会館は社会的抗議運動のセンタ ーのようになった。 けれども、社会的不利益グループを地域のそして社会変革の行動主体として組織 化するということは、現実には不可能といってよかった。一方で従来の参加者層は、 近隣社会会館から遠ざかっていった。運動が高揚期を過ぎると近隣社会会館への来 館者は激減し、職員や活動家は展望を失ってしまった。地域志向的な社会的文化的 活動は危機に陥ったのである。 こ の よ う な 余 り に も 短 絡 的 で 政 治 主 義 的 な 地 域 活 動 論 の 破 産 の 反 省 か ら 、 70年 代 中期以降の近隣会館の再生が始まる。様々な困難をかかえる不利益グループや周辺 集団を重点対としつつも、全住民を視野に置くことが再確認された。そして、職員 や社会活動家が指導して住民を政治行動に決起させるといった発想は否定された。 つまり、様々な社会的不利益グループの問題や欲求に解決策を提示することではな く、自主的解決の基礎能力を形成する地道で禁欲的な対応が志向されるようになっ た。また、現代社会の管理化や分裂の進行とともに強まる、人々の自立、自主決定、 自己実現、社会的統合への切実な欲求を援助するため、その人格の形成・統合を助 ける文化的的活動に重点を置くようになった。そしてこれらを実行するために、声 高に理念を振りかざすことではなく、節度ある職業的・専門的な取り組みが志向さ れるようになった。 そ の 結 果 、 80年 代 を 通 じ て シ ェ ー ネ ベ ル ク 近 隣 社 会 会 館 の 事 業 は 大 き く 発 展 し た 。 例 え ば 78年 に 1 4 名 だ っ た 職 員 が 、 87年 に は 70名 に と 5 倍 化 し て い る 。 施 設 も 主 に 賃借であるが拡張し続けている。このような傾向は他の近隣社会会館にも見られる。 こうして社会文化的地域活動=近隣社会会館のルネッサンスといわれる状況になっ たのである。 25 (3 ) シ ェ ー ネ ベ ル ク 近 隣 社 会 会 館 の 事 業 西 ベ ル リ ン は 、 ド イ ツ 再 統 合 が な さ れ な い 現 在 の と こ ろ は 、 面 積 480平 方 キ ロ 、 人 口 約 180万 人 の 、 連 邦 共 和 国 最 大 の 都 市 で 、 東 京 の 特 別 区 に 相 当 す る 12の 行 政 区 ( Ve r w a l t u n g s b e z i r k ) に 分 け ら れ る 。 シ ェ ー ネ ベ ル ク は 市 の 中 心 部 に 近 い 、 面 積 1 2 平 方 キ ロ 、 人 口 14万 程 度 の 行 政 区 で あ り 、 シ ェ ー ネ ベ ル ク 近 隣 社 会 会 館 は 、 こ の 行 政区の一部フリーデナウ地域を主要活動範囲としている。 本館となっている建物は屋根裏を含めて4階の、もとは病院だった煉瓦作りの落 ち 着 い た 雰 囲 気 の 建 物 で 、 1981年 に 宝 く じ 基 金 の 助 成 金 を 得 て 購 入 し た も の で あ る 。 内部は大小12程度の部屋に区切られている。しかし事業の拡大とともに部屋不足 となり、隣接した喫茶室以外に、近辺に6ケ所の建物、部屋を借りて分館としてい る。 シェーネベルク近隣社会会館は、その事業目的を以下のように規定している。 -街区に関連した社会的-文化的活動。 -多様な住民グループの互いの歩み寄りを実現し、相互の理解を促進する試み (万人のための家 EIN HAUS FUR ALLE) 。 -あらゆる人間集団に、館の活動への自由な協力を通じて自己の社会的-文化的 な関心を実現する可能性を保証すること。 このような理念に基づき、以下の12の活動領域に専門化した事業が展開されて いる。 ①社会的-文化的街区活動 広義には近隣社会会館の事業全体が社会的-文化 的街区活動であるが、ここでは地域の全住民を対象にした文化的催し物のことを指 している。 1990年 の 1 ~ 4 月 期 の プ ロ グ ラ ム に は 、 展 示 会 が 6 回 、 映 画 、 コ ン サ ー ト 、 講 演 会などの催し物が13回、週1回で1~3ケ月の講座(内容はヨガ、ダンス、体操、 料理、音楽といったテーマが多い)が24コース、土曜日曜を利用して12~20 時間集中して行う週末講座(ダンス、健康法、ビデオ技術、実用的心理学といった テーマが多い)19コース掲載されている。これらは有料で、コンサート等単発も ので3マルク、通常の講座で40マルク程度の入場料、受講料が必要である(これ 26 は市民大学と比較すると少々割高である)。 ② 自 助 の た ま り 場 S e l b s t h i l f e t r e ff p u n k t 70年 代 の 終 わ り 頃 か ら 、 連 邦 共 和 国 で は 「 自 助 グ ル ー プ Selbsthilfe-Gruppe」 の 活 動 が 盛 ん に な っ て き た 。 自 助 グ ル ー プ と は共通の生活上の問題あるいは共通の目的を持つ人々の互助組織で、表1にもある ように深刻な問題の当事者グループから支援者グループ、社会問題のグループ、さ らには孤独解消や健康維持のための会話や遊戯のグループまで実に多様なグループ が結成されている。自助グループ運動は、肥大化し、官僚主義化、専門化した福祉 国家に対する反発、周辺集団の権利意識の向上、オールタネイティブな市民運動の 発 展 等 を 背 景 に 発 展 し て い る (37)。 自助のたまり場は、ア)自助グループに対する情報サービス、イ)自助グループ 結成、加入、会員募集などの仲介・援助、ウ)グループに対する専門的な助言・援 助、エ)グループ運営上の組織・財政問題の相談、オ)活動場所等の提供のために、 1985年 以 降 ベ ル リ ン 市 内 の 各 行 政 区 当 局 が 設 置 し て い る 施 設 で あ る 。 シ ェ ー ン ベ ル クの場合はそれを近隣社会会館に業務委託するかたちとなっているのだ。したがっ て、自助のたまり場は形式的には独立した公共施設であり、その運営費は行政区が 負担している。とはいえ、実態的には近隣社会会館の事業の中心的部門として有機 的に統合されている。 現在シェーネベルク近隣社会会館では、表1のように50程度のグループが定期 的に活動や会合をおこなっている。これらの多くは近隣社会会館での事業を通じて 結成されたものであり、③以下の様々な対象・課題別の事業と密接に連携している。 すなわち、少なからぬグループ会員は、課題別事業の常連参加者あるいはボランテ ィア的協力者として事業の発展に貢献している。そして逆に、各事業分野の職員か らグループ運営に関して様々な援助を受けているのである。 ③ 老 人 の 場 所 Altentagestatte ここには上述の講座やグループの参加者のうち老 人が集まり、ゲームやおしゃべりを楽しむ。そしてここの職員は、老人を対象とし た講座や旅行、食事会等を企画している。 ④ 託 児 所 Kindertagestatte 3才から12才までの子供36人の保育が可能であ り、異年齢児、障害児との混合保育がなされている。特に片親、失業者、学生、外 国人の子供を優先して受け入れている。近隣社会会館の活動の協力者にはこの託児 27 所の世話になった親が多い。 ⑤ 経 験 の 劇 場 Theater der Erfahrungen 自らの経験を表現し、対象化し、同世代 や若い世代に伝達して共感しあうことをめざす、老人の演劇活動である。現在六つ のグループが活動している。近隣社会会館ではこれらのグループに練習や上演の機 会を提供するとともに、技術指導などもおこなっている。 以上は本館を拠点に実施されている事業だが、以下のものはそれぞれ独立した別 の建物、でおこなわれている。 ⑥喫茶室 本館の建物に隣接して小さな喫茶室を経営しており、来館者や住民 のたまり場に利用されている。また小展示会場としても利用されている。 ⑦ 社 会 ス テ ー シ ョ ン Sozialstation 社会ステーションというのは地域センター的 な 社 会 福 祉 施 設 の 一 般 名 称 で あ り 、 ベ ル リ ン 市 内 に は 多 様 な 運 営 主 体 に よ り 50以 上 開設されている。シェーネベルク近隣社会会館の社会ステーションでは、在宅病人 の介護、病人(障害者、高齢者)の家事援助、保護者が入院している子供の世話を 事業の中心とし、社会福祉相談、独居老人のための共同昼食会、老人精神病理的看 護、健康管理や病気予防のための講演会などの社会福祉事業を実施している。いわ ば、社会的-文化的地域活動の社会活動的側面を集約的に担う事業である。看護婦、 社会福祉職など多くの職員がここで働いている。 ⑧ 若 者 の 場 所 Jugebdtage 10歳 以 上 の 青 少 年 が 放 課 後 あ る い は 勤 務 後 集 ま る 、 た まり場である。学習の援助のほか、ビデオ技術、工芸、スポーツ、旅行など多様な 講座や余暇活動を実施している。 ⑨トルコからきた女性のたまり場KIDOB トルコ人女性は人種的差別や言葉 の壁に加えて、イスラム教的慣習による性差別のために社会参加の機会を奪われて いることが多い。ここではドイツ語、識字学習、裁縫、生け花、体操などの講座を 15コ ー ス 程 度 実 施 し て い る 。 若 干 の 講 座 は 市 民 大 学 と の 共 催 と な っ て い る 。 こ の ほ か、映画、演劇観賞会やハイキングなどの余暇活動、あるいは法律相談や社会相談 も実施している。少女にたいしては学校教育の補習もしている。母親の講座等への 参加を助けるための託児制度もある。これらはすべて無料である。 (10)ア ラ ブ 女 性 の た ま り 場 A L NADI の事業を実施している。 28 アラブ系女性を対象に上記と同様 ( 11 ) 児 童 活 動 K i n d e r a r b e i t 8歳から12歳までの児童を対象にした子供会活動で、 寸劇、音楽、旅行などの余暇活動や、学習援助をおこなっている。 (12)メ デ ィ ア 工 房 Medienwerkstatt ビデオ、写真、オーディオ機器の操作、撮 影、編集にかんする多様な講座を実施している。そして参加者グループとともに、 近隣社会会館の活動や地域の記録作りや、近隣社会会館の紹介ビデオ製作、青年活 動や成人教育のためのメディア教材作成を行い、社会的文化的活動にとってのメデ ィアの可能性を追求することを課題としている。 このような事業への参加者を中心としたシェーネベルク近隣社会会館の利用者は、 1 日 平 均 約 500名 で あ る 。 近隣社会会館の事業は、多様な住民グループの自主活動、対象別・課題別に専門 化したプロジェクト事業、それらを統合する狭義の社会的-文化的街区活動の三層 に分類することができる。そしてこの三つの層の活動の相互促進的な統合こそが、 近隣社会会館の理念とする(広義の)社会的-文化的街区活動にほかならないだろ う。そのため、職員の配置も、各部門の若干の責任者以外は、必要におうじて事業 分野横断的に対応できるようにされている。例えば社会ステーションが忙しくなれ ば手の空いている職員全員が応援する。これにはもちろん職員配置の合理化という 側面もあるが、分野別のタコツボ化を防止しようという意図もあるのである。 以上近隣社会会館の事業内容を概観してみたが、その第1の特徴は、地域内の社 会的不利益層に対する取り組みに非常に大きなウエイトが置かれていることである。 こ こ に は セ ツ ル メ ン ト と し て の 伝 統 と と も に 、 70年 代 の 路 線 変 更 の 影 響 を み る こ と ができるだろう。 第2の特徴は、地域活動への志向が強く、館外での住民の生活に根差した事業を 実施していることである。この点では社会ステーションでの社会福祉的活動が大き な役割を果たしている。 特徴の第3は、たまり場的性格である。自助グループのたまり場だけでなく、課 題別事業の多くが、それぞれの対象集団のたまり場となっている(「万人のための 家」)。 第4は、上述の点とも関連するが、講座等のフォーマルなものよりも、職員と参 加者の多様な交渉を通じたインフォーマルな活動の比重が高いことである。 29 第 5 は 、 事 業 の 専 門 職 業 化 ( Professionalisierung) が 進 ん で い る こ と で あ る 。 対 象 層・課題別の事業の専門化がおこなわれ、専門資格をもった職員が採用されている。 ここで、シェーンベルク近隣社会会館の職員、財政についてみてみよう。 既 述 の よ う に 1987年 の 段 階 で 70名 の 専 任 職 員 が い る 。 た だ し こ の う ち フ ル タ イ ム 職 員 は 12名 で 、 残 り 58名 は パ ー ト タ イ ム 職 員 で あ る ( パ ー ト と い っ て も 勤 務 時 間 が 1/2~ 2/3と 短 く 、 そ れ に 比 例 し て 給 料 が 少 な い だ け の 正 規 職 員 で あ る ) 。 そ れ 以 外 に 57名 の 非 常 勤 職 員 が い る 。 ま た 9 名 の 実 習 生 も 働 い て い る 。 ド イ ツ 連 邦 共 和 国 で は社会福祉関係の専門大学の学生は4年半の課程のうち、1年半は現場で実習する ことになっている。これらの学生が様々な福祉施設、成人教育施設等で働いている のだ。専任職員の多くも、このような課程を修了した有資格者である。そしてこれ ら 専 任 ・ 非 常 勤 の 職 員 の ほ か に 、 50名 以 上 の ボ ラ ン テ ィ ア 的 協 力 者 が い る の で あ る (38)。 財 政 状 況 を み る と 、 1988年 の 収 入 支 出 が 約 3 0 0 万 マ ル ク と な っ て い る 。 収 入 の 約6割はベルリン市(青年-家族省、健康-社会省、経済-労働省など)やシェー ンベルク区などからの公的助成金、および上部団体である「無宗派福祉協議会」の 助成金である。残りの4割は講座受講料や社会ステーション料金などの事業収入で ある。支出のうち約6割は社会的・文化的活動に従事する各種職員の人件費、1割 が事務や清掃業務などの職員人件費、残りの3割がプログラム印刷費、分室の家賃、 備 品 購 入 な ど の 事 業 運 営 経 費 と な っ て い る (39)。公 共 的 ・ 非 営 利 事 業 で あ り な が ら 助成金が6割しかないことは、財政的に常に逼迫状況にあることを示している。そ こでシェーンベルク近隣社会会館では、パソコンの活用などで事務部門の合理化を はかり、少しでも多くの予算を社会・文化活動にまわすよう努力している。 (4)事業の発展と今後の課題 これまでにみてきたように、シェーネベルク近隣社会会館では多数の職員が多面 的な社会的-文化的活動を展開している。何よりも注目すべきは、戦後の1名のパ ー ト 職 員 と 小 さ な 民 家 で 出 発 し 、 70年 代 に 危 機 に 陥 り 、 70年 代 後 期 に も 公 民 館 程 度 の 規 模 で あ っ た の が 、 80年 代 を 通 じ て 急 成 長 し 、 現 在 の よ う な 大 規 模 な 地 域 セ ン タ ー に な っ た と い う 事 実 で あ る 。 上 述 の 課 題 別 の 事 業 も 大 部 分 が 80年 代 を 通 じ て 開 設 30 されてきたものであり、それにともなって多くの専門職員が採用されてきた。 このルネッサンスを可能にした社会的背景を、館長であるチンナーは以下のよう に列挙している。家族の解体と機能喪失、独身生活者の増加、伝統的な共同体結合 や機能の消失傾向、古い都市構造の解体と新しい都市構造の創造、増大する個人の 自由、拡大する社会参加、社会的巨大制度(国家、政党、教会、労組等)への批判、 グループを結成し自己責任によって問題を解決することへの関心の上昇、過度に制 度化した健康-社会保障システムの官僚主義・専門化・非人間化への懐疑、新しい 理念への解放性の増大、充分で情緒的かつ社会的なコミュニケーションへの憧憬、 社 会 的 差 別 傾 向 お よ び 問 題 グ ル ー プ の 専 門 施 設 へ の ゲ ッ ト ー 化 に 対 す る 抵 抗 (40)。 以上のような社会変化に対応して事業を展開してきたというのである。このことは、 近隣社会会館が都市型社会の病理現象に苦悩する人々やそれと主体的に対決しよう とする人々のたまり場、共同性創出の場となることにより発展してきたことを示し ているだろう。 けれども事業の拡大とともに近隣社会会館自体の専門化・制度化という問題も生 じてくる。フランクフルト民衆教育会館の例で見たように、事業の拡大と多面化が やがて各事業分野の専門分化にそして独立化につながるというのは必然傾向といえ よう。たとえ統一を維持しても、組織の肥大化・専門分化にともなって、職員間の 共通理解、職員と参加者の交流や相互理解の維持は困難になる。近隣社会会館が社 会の過度の制度化、専門化を批判し、様々な活動の統合、全ての参加者や職員の交 流と事業運営への主体的参加を理念とする以上、これはそのアイデンティティに関 わる問題である。近隣社会開館が「第2の区役所」化することを危惧し、これ以上 の 事 業 拡 大 に 反 対 す る 職 員 も い る (41)。 とはいえ、都市型社会の地域住民の複雑で深刻な諸問題に具体的、本格的に取り 組もうとするかぎり、特に社会的不利益層の自立を援助しようとする以上、近隣社 会会館の事業の専門職業化は不可欠であろう。現在も、上述の対象・課題別プロジ ェクト事業の多くで職員不足の問題を抱えているのである。必要な専門職の専任化 を進めつつ、いかに制度化・専門分化の弊害を回避していくか、これはシェーネベ ルク近隣社会会館の今後の大きな課題であろう。 31 32 Ⅳ ハノーファーのパヴィリオ ン (1)市民運動ラシュプラッツ ニ ー ダ ー ザ ク セ ン 州 の 州 都 ハ ノ ー フ ァ ー は 人 口 50万 強 、 面 積 203平 方 キ ロ ほ ど の 都市である。中央駅のすぐ裏手、ラシュプラッツとよばれるところにパヴィリオン はある。「ラシュプラッツの文化-コミュニケイションセンター AV I L L O N パヴィリオン P K u l t u r- u n d k o m m u n i k a t i o n s z e n t r u m a m R a s c h p l a t z 」 と い う の が 、 正 式 名称である。 パヴィリオンは、もともと大型の天幕を意味し、現在では公園や博覧会場などで のイベント用の簡易建造物を指すのに用いられるフランス語起源の言葉である。ハ ノーファーのパヴィリオンは、その名にたがわず巨大な天蓋を被せたような形態の 一部二階建の低層建造物で、我が国の都市郊外にも多い低層の大型スーパーを連想 させる建物である。それもそのはず、この建物は百貨店として建てられたのだ。そ れ が 今 で は 、 「 公 益 法 人 市 民 運 動 ラ シ ュ プ ラ ッ ツ B u rg e r i n i t i a t i v e R a s c h p l a t z e . V. 」 と い う 市 民 団 体 が 自 主 管 理 す る 「 社 会 文 化 セ ン タ ー Soziokulturelles Zentrum」 と なっているのである。「社会文化センター」としてのパヴィリオンを理解するため に も 、 ま ず そ の 経 過 を 追 っ て み よ う (42)。 事の発端は60年代末から市当局が開始した、市中心部の再開発計画であった。 ラシュプラッツを中心とした駅裏地域はその重点区域であり、繁華街である駅前地 域と結ぶ地下通路の建設や、旧家屋を解体しての巨大建造物の新設が進んでいく。 この過程で、更地となったラシュプラッツに、H企業がとりあえず百貨店を開業す る目的で現在のパヴィリオンを建築した。市当局は、ラシュプラッツを商業だけで なく文化的な地域とするため、劇場を作ることを予定し用地を確保した。ところが、 当 時 ( か ら 1981年 ま で ) 市 政 の 多 数 派 で あ っ た 社 会 民 主 党 は 、 党 の 会 議 で 劇 場 の 代 わりに「多機能的なコミュニケーションセンター」を設置することを決定した。こ れは、社会改革的気運のなかで人間的な都市建設を目標とした、社民党の改良主義 的文化政策によるものである。 一方で市は、財政困難のため、駅裏地域再開発を大企業Bに委託してしまった。 再 開 発 の 商 業 主 義 化 に 対 す る 懸 念 が 広 ま り 、 72年 に は 地 下 鉄 建 設 問 題 な ど に 取 り 組 33 んでいた地域の市民運動グループが、コミュニケーションセンター案をさらに進め た「社会文化センター」を要求するに至った。こうして建設予定の公共的文化施設 をいかなるものとするかが、ラシュプラッツの再開発をめぐる大きな争点となり、 市当局、政党、B企業、市民運動、周辺住民等の当事者間で協議、論争が展開され ていく。 市民運動側では、社民党の地区組織の提起により「ラシュプラッツ・プロジェク ト・グループ」が結成された。これに毛沢東主義者等の極左派を主体とする別の地 域運動グループも合流し、やがてオールタナティブな文化を志向する「市民運動ラ シ ュ プ ラ ッ ツ 」 へ と 発 展 し て い く 。 彼 等 は 68年 の 学 生 運 動 の 直 接 、 間 接 の 影 響 を 受 けた世代であって、挫折したユートピア--管理的・操作的ではない主体的参加に よ る 原 民 主 的 ( urdemokratisch) な 政 治 、 疎 外 を 克 服 す る 自 己 実 現 と コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョン、商業化した大衆文化に代わる新しい文化、等々--の実現を、市民が自主管 理する新しいタイプの地域センターとしての「社会文化センター」構想に託したの である。 他方B企業や周辺住民は、「無統制な左翼」のたまり場の出現が、地域のイメー ジダウンや商業活動の障害につながることを恐れた。B企業はラシュプラッツをス ケート場付きの遊園地とする案を市と共同で構想していたが、大勢が地域センター 設置の方向に傾くと、それを市の直接責任で管理することを強硬に主張した。 75年 に は 、 市 政 の 多 数 派 で あ る 社 民 党 と 市 民 運 動 グ ル ー プ の 間 で 、 H 企 業 の パ ヴ ィリオンを公共的センター施設として利用するという案がまとまり、それが現実化 していく。B企業がパヴィリオンを入手し、当初は劇場用とされていた市有地と交 換したのである。こうして76年にパヴィリオンは市の施設となった。 残されたのはセンターの管理運営問題である。B企業等は秩序維持の観点から、 市の直接管理を要求した。市政与党である社民党は、市民の文化・福祉への公共的 保障という改良主義的文化政策の観点から、市職員によって運営される多機能的文 化センター(これはまさに公民館的である)を主張した。市民運動側はあくまでも 市民自主管理に固執し、行政の事業運営への関与を拒絶した。また、パヴィリオン は中央駅至近の非常に交通の便の良い巨大施設なので市立あるいは民間の文化施 設・団体の入居希望も多く、どれを入居させるか、その場合「市民運動ラシュプラ 34 ッツ」との関係をどうするかも問題となった。 やがて、「市民運動ラシュプラッツ」が公益法人化することを条件に、パヴィリ オンの運営主体となることを認めるという合意が、市民運動側と社民党の間で形成 された。その結果、以下のような解決策が承認された。①パヴィリオンを、市が施 設の維持・管理(のみ)に責任を負う貸し部屋型施設として位置付ける(そのため 市は3名の管理人を配置している)。②市営施設である市民大学分館と図書館、お よび民間施設の「演劇工房」と「ワークショップ」が入居する。③残りの部分を公 益法人「市民運動ラシュプラッツ」に無償で使用させる。これは形式的には対立す る主張を取り入れた玉虫色の解決といえるが、「市民運動ラシュプラッツ」は大半 のスペースの自由な使用権を手にいれ、実質的にはパヴィリオン全体の文化活動の 調 整 ・ 運 営 主 体 と し て 認 め ら れ た の で あ る 。 77年 10月 、 市 と 「 市 民 運 動 ラ シ ュ プ ラ ッツ」の間で無償貸与契約が結ばれ、5年以上にわたる運動の成果として「社会文 化センター」パヴィリオンが誕生した。 (2)「社会文化センター」の理念の具体化としてのパヴィリオン改造 パヴィリオンは1階が5520平方メートル、2階が1000平方メートルもあ る、大きな施設である。勿論、地域センターとしての理念に基づき新設されたので はなく、10年近く放置された百貨店舗である。だが、それは「市民運動ラシュプ ラッツ」にとって、むしろ望ましい事態だった。使用されなくなった工場、倉庫、 屠殺場などを再利用することは、「社会文化センター」運動にとって象徴的意味を もつ原則なのである。「市民運動ラシュプラッツ」は、このような観点から彼等の 運動理念にふさわしくパヴィリオンを作り変えていった。 「市民運動ラシュプラッツ」が実現しようとした「社会文化センター」とは、 「文化施設、祭りの場、工房、劇場、社会ステーション、市の立つ広場、居酒屋、 労 働 組 合 集 会 所 を 一 つ に し た 」 「 万 人 に 開 か れ た 家 」 で あ る (43)。 そ の 活 動 原 則 は 以下のようにまとめられる。 ①底辺および利用者を志向すること。 ②多様な年齢層、多様な社会階層、多様な国籍の人々の統合。 ③自主管理の原則に基づく民主的な決定のしくみ。 35 ④ 開 放 性 と 一 目 瞭 然 の わ か り や す さ ( O ff e n h e i t u n d Tr a n s p a r e n z ) 。 ⑤利益を志向しない方向性。 ⑥社会的、政治的、文化的な学習過程のイニシアティブをとる。 ⑦「下からの」文化的・芸術的運動の促進。 ⑧文化の民主主義的でヒューマニズム的な意義を強調し、ファシズム的かつ人間 蔑視的 な 企 て に 抵 抗 す る (44)。 このうちでも特に重視されるのは、事業運営における自主管理(自治)原則と開 放性の原則である。自主管理とは、パヴィリオンを利用する全ての個人、グループ がいかなる干渉、規制も受けず自由に活動できること、およびそれらの参加者や職 員が対等の権利で主体的にパヴィリオン全体の事業運営に参加できることを意味す る。開放性とはパヴィリオンを誰もが利用できること、利用している個人やグルー プ相互の間の開放的な交流、そしてパヴィリオンの事業運営に関する全てが全利用 者に公開されることである。自主管理と開放性とは、自主管理によって隔てのない 開放性が促進され、開放性による全体と部分、あるいは部分相互の分裂・疎外の克 服により、異質な個性間の民主々義的共同としての自主管理が保障されるというよ うに、相互に不可分な条件である。 この自主管理=開放性の徹底化が目指すのは、各文化領域の分化・自立化、文化 の個人消費化、供給者と利用者との役割の固定化、専門家と素人の分裂といった傾 向の克服であり、参加者(市民)が、啓蒙の客体、文化の消費者から、文化創造の 共同主体に転化することである。このことによってのみ「下からの」民主主義的文 化も可能となろう。したがって自主管理=開放性は、単なる運営方式の問題ではな く、「社会文化」運動のめざす新しい文化の質に関わる根本理念なのである。 図 3に 見 ら れ る パ ヴ ィ リ オ ン の 開 放 的 な 内 部 構 造 は 、 ま さ に こ の よ う な 自 主 管 理 =開放性理念を具体化している。中央部に「内部街路」と称される広い通路があり、 この4つの入口は常に開けられていて、パヴィリオンを外部に開放している。大小 の部屋はこの内部街路に沿って配置されており、内部街路は全ての部屋(の参加 者)を一つにまとめる広場として機能している。その中心には多様なグループ相互 の交流の場である喫茶酒場がある。広場といえば、青年と子供のために1メートル 36 程度の高さの仕切りでくぎられた、非常に広い自由スペースもある。機能的に区切 れば何倍ものグループ室を作ることも可能であるが、あえて内部街路や自由空間を 大きくとり、参加者の相互交流をはかっているのだ。 館内の間仕切りもほとんどが天井まで届かないもので、しかも可能なかぎりガラ ス窓を大きくしている。多くの部屋の内部は外から丸見えであり、遮音も完全では ない。完全な個室化が避けられているのだ。つまりパヴィリオン全体が単一の、外 にも内にも開放的な広場、一目瞭然の空間として構想されているのであり、仮の仕 切りとしての部屋ではなく、内部街路や自由空間こそがその本質、実体なのである。 グループ活動のタコツボ化を防止する空間構造だといえる。こうして、すべての利 用者が、経験を共有し、相互に自由なコミュニケーションを行い、他のグループの、 さらにパヴィリオン全体の活動に関心と充分な知識(情報)を持ち、その結果パヴ ィリオンの運営に主体的に参加できることをめざしているのである。 (3)「市民運動ラシュプラッツ」によるパヴィリオン運営 パヴィリオンの内部構造が示すように、「市民運動ラシュプラッツ」は参加者の 自主的・主体的な共同性を楽観的に信頼し、依拠するかたちで、自主管理的=開放 的な生活・文化創造のためのコンミューン的広場の形成をめざした。実施事業の内 容は各利用グループの自主性に委ねられ、全体の調整や運営は全利用者が参加して 常時開催される全体総会で決定するという直接民主主義的でアナーキーな自主管理 方法がとられた。これは都市型社会における管理・操作や分裂・疎外の進行に主体 的・共同的に対抗しようという「市民運動ラシュプラッツ」の活動家たちの理念の 実験的実践であるとともに、パヴィリオン獲得に至る闘争期市民運動の高揚した共 同行動的雰囲気の反映でもあった。 だが、パヴィリオンという施設の日常的運営の現実は、共同性のユートピアを挫 折させた。開館直後の躍動期が過ぎると次のような問題が生じてきたのである。 第1に、中央駅至近の常時開放された場所ということもあって、パヴィリオンは 非行青少年、浮浪者、アルコール中毒者、薬物常用者、保護観察者などのたまり場 となっていった。これらのグループはパヴィリオンという自由な空間を積極的・創 造的に活用する術を知らず、「市民運動ラシュプラッツ」側にも彼等に対応できる 37 体制はなかった。パヴィリオンは暴力や犯罪という都市型社会の病理現象を再生産 す る 場 所 、 多 く の 市 民 に と っ て 閉 鎖 的 な 場 所 と な る 傾 向 が 生 じ た (45)。 第2に、パヴィリオンを利用する多くのグループは、全体運営への参加には消極 的であった。全体総会への参加者は「市民運動ラシュプラッツ」の中心メンバー以 外には数名のみという状態となり、運営のための制度的・組織的整備が必要となっ た (46)。 こ う し て 様 々 な 試 行 錯 誤 や 討 論 を 経 な が ら 、 80年 代 に な る と 運 営 方 針 の 現 実 主 義 的修正がおこなわれた。様々な利用グループ・個人に働きかけてその活動を援助す るために、館全体の運営実務のために、そして事業の企画や活動の調整のために、 必要な専門職員の専任化が進んだ。「市民運動ラシュプラッツ」は、次第に、市民 運動体から専門的・職業的なパヴィリオン運営組織へと変化していった。現在では、 フ ル タ イ ム 、 パ ー ト タ イ ム を あ わ せ て 40名 以 上 の 専 任 職 員 と そ れ 以 上 の 無 給 の 活 動 家が、パヴィリオンの事業全体の企画・調整・広報やそれに伴う管理・運営上の実 務を遂行し、さらに多数の利用者グループの活動を援助し、それらグループやその 他の施設の共同活動を促進するため独自の事業を展開しているのである。 「市民運動ラシュプラッツ」は多様な催し物を実施しているが、パヴィリオンの 自主管理、開放性、共同性の発展という観点から特に重視しているのは、喫茶酒場 「パラベール」の経営と特別企画事業の実施である。 「 パ ラ ベ ー ル ( 長 談 義 ) 」 は パ ヴ ィ リ オ ン の 「 情 報 セ ン タ ー Infotheck」 と し て 位 置 付 け ら れ 、 常 時 10名 以 上 の 職 員 ・ 活 動 家 が 配 置 さ れ て い る 。 そ し て 様 々 な グ ル ー プ・個人間の交流を仲介し、促進するとともに、「市民運動ラシュプラッツ」と利 用者間の情報交換、コミュニケーションをはかっているのである。つまり、パヴィ リオンを開放的な広場とするという理念を具体化したのが「パラベール」なのであ る。また、後述のように、「市民運動ラシュプラッツ」の財源としても重要な役割 を果たしている。 特別企画事業とは、毎年あるいは継年的に5つ程度のテーマを設定し、そのテー マに関連した各種の催し物を、例えば「平和問題週間」のような形で、重点的に実 施するものである。テーマが決まると数名の職員が各企画の担当となり、パヴィリ オン利用グループはもちろん外部の施設や市民組織にも呼びかけて作業集団を結成 38 する。以後はこの作業集団がテーマに関する学習会等を行うと共に、催し物開催の ための様々な実務も行う。そしてこの作業集団を核に、パヴィリオンを利用する全 てのグループや施設が参加、協力して特別企画を実施する体制作りが志向される。 多くの場合この作業集団は企画終了後も存続し、新しいパヴィリオン利用グループ へと、時には独立した活動組織・施設へと発展していく。これまでに、第三世界、 平和、健康、青年の失業、故郷、都市生活、麻薬問題、アフリカ、障害者の文化、 老人劇場、科学・技術批判などがテーマとして取り上げられてきている。特別企画 事業は、「社会文化センター」の原則のひとつである「社会的、政治的、文化的な 学習過程のイニシアティブをとる」という点で、さらに様々なグループ、個人の共 同的・自主管理的な事業運営の促進という点で、核心的な位置をしめる事業である。 パヴィリオン利用グループに対する援助も重要な活動である。「市民運動ラシュ プラッツ」では、特に社会的-経済的不利益者としての外国人、障害者、高齢者、 中年独身者を重点対象としているが、勿論、それ以外のグループもいる。 88年 現 在 で 、 表 2 の よ う な 50に お よ ぶ 多 様 な グ ル ー プ が パ ヴ ィ リ オ ン で 恒 常 的 に 活動している。随時の利用者はもっと多い。部屋の使用は無料である。近隣社会会 館での活動グループと重なり合う部分も少なくないが、近隣社会会館では健康・福 祉・医療分野のグループが多いのに対し、パヴィリオンでは政治的・社会的主張を 前面に出したグループが目立つ。また前者の場合はフリーデナウ地域の住民のグル ープが主体であるが、後者ではハノーファー市全域から集まっている。これはパヴ ィリオンが中央駅に至近であることにもよるが、基本的には、近隣社会会館では特 定地域住民の生活が中心課題であるのに対し、パヴィリオンでは新しい文化のため の市民の共同活動を重視していることを示している。 これらの常連利用グループは理念的、形式的には「市民運動ラシュプラッツ」の 構成メンバーであって、パヴィリオンでの文化活動の中心的担い手として位置付け られる。実際、多くのグループは既に述べたように「市民運動ラシュプラッツ」の 活動のイニシアティブで形成されたものであり、「市民運動ラシュプラッツ」の特 別企画事業などに積極的に協力している。けれども、なかには単に交通の便の良い、 無料の部屋として使用しているグループもあるようだ。グループ活動の例を2つ挙 げてみる。 39 「 5 0 - プ ラ ス - ク ラ ブ 」 と い う の は 1980年 、 老 後 の 生 活 を 有 意 義 な も の と す る ことを目標に12名の老人によって結成され、パヴィリオンで毎週1回の談話会を 開きながら高齢者を対象とした講演会、討論会、旅行、観劇会などを行ってきた。 会 も 大 き く な り 現 在 は 百 名 近 い 会 員 ( 平 均 年 齢 約 70歳 で ほ と ん ど が 女 性 ) が お り 、 この増加に応じて毎週の会合も、談話会が2つになったほか、文芸サークル、ダン スサークルと増加している。単なる年寄りだけの茶飲み友達となることを拒絶し、 他のグループ(障害者、青年等)とも積極的に交流し、老人特有の偏狭、非寛容、 偏見を克服することをめざしている。 「 ハ ノ ー フ ァ ー 市 ア フ リ カ 問 題 運 動 」 は 、 1983年 か ら 3 年 連 続 し て 特 別 企 画 と さ れた「アフリカ問題」の作業グループや参加者を中心に結成された、アフリカ人と ドイツ人のグループである。グループの目的はアフリカの文化・政治について認識 を深め、それを市民に紹介することで、様々な講演会、討論会、展示会、民俗芸能 の公演等を企画、実施している。当然、パヴィリオンの事業には積極的に協力して いる。 (4)パヴィリオンで活動する多様な事業主体 パヴィリオンでの文化活動においては、「市民運動ラシュプラッツ」以外の施 設・組織が実施する事業も大きな比重を占めている。 パヴィリオンには独立施設として、市民大学分室と地域図書館の市立施設のほか に、公益法人である民間施設「ワークショップ」と「演劇ワークショップ」が入居 している。 ①市民大学はパヴィリオンの2階部分を分館とし、4名の専任職員を配置して年 間 200コ ー ス も の 多 様 な 学 習 講 座 を 実 施 し て い る 。 こ れ ら の 講 座 は 市 民 大 学 の 方 針 で編成されるが、部分的に、特に障害者や高齢者を対象とした協力関係がある。ま た市民大学の受講者が1階の催し物に参加する、あるいはその逆といった相互促進 的効果も報告されている。 ②パヴィリオン1階の2割弱は東部街区図書館となっており、9名の専任職員が 勤務している。図書館は地域図書館であると同時に、パヴィリオンの文化活動ため の文献・情報の収集、提供を積極的に行い、各種の企画にも参加している。また中 40 央駅至近という地の利を生かし、市内の「外国人労働者に対する図書館活動の中心 施設」としてトルコ語、アラビア語、ギリシア語等の書籍を集めている。これはパ ヴィリオンにおける外国人のグループ活動に大いに役立っている。 ③「公益法人・ワークショップ」は芸術家、工芸家、デザイナー、建築家、教育 者、テラピスト等が運営する創造性開発センターで、絵画、造形から音楽、ダンス にいた様々なジャンルの講座を実施している。また参加者とともに市内の芸術イベ ントにも取り組んでいる。パヴィリオンの舞台装飾などにも積極的に協力している。 創作・表現活動を通じての自己表現能力の覚醒とコミュニケーションに重点を置い て活動している。 ④「演劇工房」はパヴィリオン内に自前の劇場をもつ劇団である。団員の多くは 「市民運動ラシュプラッツ」の運動に共鳴し、個人的にも積極的に参加している。 外部に拠点を置くが、本来「市民運動ラシュプラッツ」の活動から派生し、独立 した組織や施設、発生的には無関係でも「市民運動ラシュプラッツ」の理念に賛同 しその構成メンバーとなった施設が、パヴィリオンで実施している文化活動も重要 である。このような組織・施設としては、「教育協会」、「都市生活問題研究集 団」、「冬季劇場実行集団」、「メディア工房」がある。 ①「公益法人・教育協会 社会的学習とコミュニケーション」は、「市民運動ラ シ ュ プ ラ ッ ツ 」 の 活 動 家 に よ っ て 1980年 に 結 成 さ れ た 成 人 教 育 実 施 サ ー ク ル が 発 展 し た 、 オ ー ル タ ナ テ ィ ブ な 成 人 教 育 施 設 で あ る 。 84年 に は 州 文 部 省 か ら 公 認 さ れ る ま で に 成 長 し 、 パ ヴ ィ リ オ ン か ら 独 立 し て い っ た 。 88年 段 階 で 年 間 600コ ー ス 、 2 万時間以上の講座等を実施している。講座の分野は社会・政治分野、一般教養・文 化分野、語学分野がそれぞれ3分の1ほどで、市民大学と比較して政治教育に力点 を入れていることが特徴である。また教育-学習方法でも、市民大学などの学校教 育化を批判する立場から、参加者相互の討論、コミュニケーションを重視しており、 菓子や飲み物をふんだんに教室に持ち込み、リラックスした雰囲気を作るなどの工 夫をしている。「教育協会」は「市民運動ラシュプラッツ」や上述の「ワークショ ッ プ 」 と 協 力 し 、 年 間 100近 い 講 座 や 講 演 会 を パ ヴ ィ リ オ ン で 実 施 し て い る 。 ② 「 公 益 法 人 ・ 都 市 生 活 問 題 研 究 集 団 」 は 、 1982年 の パ ヴ ィ リ オ ン の 特 別 企 画 「 都 市 生 活 」 の た め 結 成 さ れ た 行 動 グ ル ー プ が 発 展 し 、 86年 に 公 益 法 人 化 し た も の 41 である。都市の発展、文化-文明史、技術、政治、経済、エコロジーといった問題 をめぐって定期的な学習会、講演-討論会を積み重ね、これらの問題に関したパヴ ィリオンの文化活動に積極的に協力している。 ③ 「 冬 季 劇 場 実 行 集 団 」 は 、 パ ヴ ィ リ オ ン 開 設 以 前 か ら 毎 年 12月 に 10日 間 ほ ど 市 内 の 多 数 の 小 演 劇 集 団 に よ る 演 劇 祭 を 開 い て き た 。 83年 に パ ヴ ィ リ オ ン を 主 会 場 に 利用して以来毎年を利用するようになった。「冬季劇場」はパヴィリオンの恒例の イベントとしてすっかり定着し、「市民運動ラシュプラッツ」や「ワークショッ プ」、「演劇工房」は、その成功のために協力している。「冬季劇場実行集団」も 「市民運動ラシュプラッツ」の理念に共鳴し、その構成員となっている。 ④「メディア工房」は「もうひとつの公共性のためのもうひとつのコミュニケー ション文化」、すなわちオールタナティブなメディア活動をめざす集団で、パヴィ リオン開設と同時期に結成され、以後緊密な協力関係を保ってきている。「メディ ア工房」は既製の公共メディアが無視あるいは歪曲している世界をビデオに記録し、 伝達することを中心的課題としている。その意味でパヴィリオンでの文化活動の記 録も行っている。 (5)パヴィリオンの発展と今後の問題点 以上で見てきたように、パヴィリオンでは「市民運動ラシュプラッツ」を中心に、 多様な利用グループや施設が、単独であるいは共同で、多彩な文化活動を実施して いる。そして、ホールや自由空間での催し物(コンサート、演劇、映画、講演会、 討論会、展示会、リサイクル販売会等)、大小の部屋での学習講座、グループの自 主活動など豊富なプログラムを市民に提供しているのである。利用者数も、「市民 運 動 ラ シ ュ プ ラ ッ ツ 」 の 関 与 す る 事 業 ・ 活 動 だ け で 年 間 20万 人 近 く に の ぼ っ て い る 。 パヴィリオン発展の道程は、もちろん、決して平坦ではなかった。活動理念や運 営方針をめぐる試行錯誤と激烈な内部論争は、今も絶えない。また、オールタナテ ィブな文化を志向し、文化活動を積極的に社会行動、政治運動と結合していくとい う活動スタイルは、「良識的」・秩序的な世間との軋轢を生み出した。反戦活動の た め に 300名 の 警 官 隊 が 導 入 さ れ た こ と も あ る 。 市 当 局 は 何 度 も 施 設 貸 与 契 約 の 中 断をほのめかして圧力をかけてきた。パヴィリオンの猥雑で、アナーキーな雰囲気 42 を拒絶する市民もまだいる。 そのようななかで「市民運動ラシュプラッツ」は、「社会文化」運動の理念に共 鳴する市民・グループを全市的規模で結集し、パヴィリオンの事業を拡大、定着さ せてきた。その結果、パヴィリオンは東部街区の地域センターというよりも、ハノ ーファー全域を対象にしたユニークな文化センター、たまり場として発展してきた。 これは開放的な広場の創造を理念とする「市民運動ラシュプラッツ」の活動の当然 の 帰 結 と も い え よ う 。 「 市 民 運 動 ラ シ ュ プ ラ ッ ツ 」 は 1979年 の 「 連 邦 社 会 文 化 セ ン ター協会」設立にも主導的役割を演じ、社会文化センターの全国的普及と相互援助 のためにも積極的に活動している。 ここで、パヴィリオンの今後の問題点を二つ挙げておこう。 第1は財政問題である。「市民運動ラシュプラッツ」によるパヴィリオン運営経 費 は 、 こ こ 数 年 、 年 間 約 100万 マ ル ク 程 度 と な っ て い る 。 収 入 の 内 訳 は 、 市 か ら の 助 成 金 が 31パ ー セ ン ト 、 そ の 他 の 公 的 助 成 金 が 5 パ ー セ ン ト 、 催 し 物 の 入 場 料 、 参 加 費 等 が 27パ ー セ ン ト 、 喫 茶 酒 場 等 で の 飲 食 物 販 売 が 35パ ー セ ン ト で 、 残 り を カ ン パ 等 で 補 っ て い る 。 支 出 は 、 人 件 費 が 51パ ー セ ン ト 、 文 化 活 動 経 費 28パ ー セ ン ト 、 飲 食 物 仕 入 費 18パ ー セ ン ト 、 事 務 的 経 費 3 パ ー セ ン ト と な っ て い る 。 市 民 大 学 の よ う な 成 人 教 育 施 設 で も そ う だ が 、 公 共 的 な 文 化 、 社 会 施 設 の 場 合 、 運 営 費 の 約 2/3 (これは通常専任職員の人件費に相当する)の公費負担は最低限の条件だといえる。 近隣社会会館の場合にはほぼこれに近い助成があるが、それでも財政逼迫状況にあ る こ と は す で に 述 べ た 。 パ ヴ ィ リ オ ン で は 公 的 助 成 が 1/3程 度 し か な い た め 、 財 政 状 況は極めて苦しく、職員の人件費を始めとした支出を極端に抑制し、それでも不足 する分を飲食物販売の利益で補填する構造となっている。公的助成の金額を現在の 数倍に引き上げ、財政を健全化することが不可欠の課題となっている。 第2は、「市民運動ラシュプラッツ」の専門職業化、制度化の進行の下で、自主 管理原原則をいかに実現するかという問題である。 「市民運動ラシュプラッツ」は、アクティブな市民運動組織として、徹底的な自 主管理によるパヴィリオン運営をめざした。全ての利用グループ・個人が主体的に パヴィリオン運営に参加すること、換言すれば「市民運動ラシュプラッツ」が全利 用者を統合した市民運動・文化運動体に発展することが理想であった。けれども現 43 実には利用グループ・個人の多くはパヴィリオンの運営参加には消極的であり、能 動的な活動家集団としての「市民運動ラシュプラッツ」がパヴィリオン運営に責任 を持たざるを得なくなった。そして事業の発展にともない、活動家の一部が専任職 員 化 し 、 さ ら に 専 門 資 格 (主 に 社 会 福 祉 活 動 分 野 の ) を も っ た 多 く の 青 年 が 専 任 職 員に採用されてきた。専任職員の増加とともに、職員集団にパヴィリオン運営につ いての知識・情報が集中する傾向が生じてくる。また他方では、職員以外の活動家 や利用グループが専任職員に依存する傾向、あるいは面倒な組織的問題や無味乾燥 な実務、雑務を専任職員に押しつける傾向も出てくる。こうしてパヴィリオンの一 般利用者と「市民運動ラシュプラッツ」との分化、さらに後者内部での無給の市民 活動家と職員集団の分化が進行していく。この分化が固定化したとき、パヴィリオ ン設立の根本理念である自主管理は形骸化してしまうであろう。 「市民運動ラシュプラッツ」では情報センターとしての「パラベール」の運営や 特別企画事業の実施により、利用者全員が知識・情報を共有し、運営に参加できる よう努力している。そして現在のところは、市民運動から発生した若い組織である ことも手伝って、無給の活動家やグループ代表が事業の企画・運営に相当の役割を 果たしている。だがこれには、財政難による職員不足という事情もある。今後、公 的助成の増額が実現すれば専任職員はさらに増加するだろう。無給の活動家の参加 がそれに反比例して減少するのか、あるいは正比例して増加するのか、その点に自 主管理の「社会文化センター」パヴィリオンの分岐点があるように思われる。 おわりに 以上、ドイツ連邦共和国の大都市に存在する3つの公民館類似施設(地域センタ ー)をとりあげ、その活動状況や成立経過などをなるべく具体的に紹介することを 試みた。筆者の非力と資料不足のため、断片的記述に終わったかもしれないが、従 来わが国であまり紹介されてこなかった連邦共和国の地域センターについて、その 活動の一端でも伝え得ていれば幸いである。 最後に、本稿の冒頭で提起した、都市型社会の地域センターのありかたという観 44 点から、三つの地域センターについて簡単に述べておこう。 フランクフルトの市民館は、都市型社会の肯定的側面すなわち市民の自主的な文 化活動の発展という傾向に対応した集会施設型の地域センターの典型といえよう。 地域住民の集会や文化活動に必要な場所と設備を保障するためには、松下が提起し たような、住民数に応じた集会施設の計画的配置と維持が重要であって、専門職員 は必ずしも必要ではない。フランクフルト市当局は、この都市におけるシビルミニ マムあるいはインフラとしての集会施設の整備という課題を、徹底して合理的に実 行しているのである。 これに対して、近隣社会会館やパヴィリオンは、都市型社会の否定的側面・病理 現象との対決を課題として多様な事業を実施する施設である。ともに社会的不利益 層に対する積極的な取り組みと、参加者相互の交流・共同の実現に重点を置いてお り、そのために多数の専門職員が配置されていることが特徴である。これは、都市 型社会の地域センターに専門職員は不要という、松下の結論とは異なる地域センタ ーのありかたを示すものといえよう。とりわけ、全利用者による自主管理を理想に しながらも、様々な問題への現実的で責任ある対応のために専門職員の増強をはか らざるを得ないパヴィリオンの経験は、専門職員不要論の観念性を明らかにしてい ると思われる。 とはいえ、注目すべきは、パヴィリオンや近隣社会会館が、行政による管理・運 営を否定するという意味での、市民の自主管理型施設だという事実である。これら の施設は、わが国の公的社会教育施設と比較すれば余りにも劣悪な財政状況である にもかかわらず、職員の創意・努力により社会的に必要な文化・教育事業を積極的 に実施し、規模を飛躍的に拡大している。これらの施設には、予算・人員・施設が 不足しているから実施事業を手控えるといった消極的傾向がない。不足財源は事業 収入を増加したり、様々な官民のスポンサーを見つけ出したりという経営努力で補 う。人はまずパートでもよいから確保する。部屋も借りる。そうして必要な事業を 実施し、その実績に基づいて行政からの助成金を増やし、職員や施設を増やし、安 定させてきたのである。このような市民自主管理、市民参加の運営方法から、私た ちは多くのことを学ぶことが出来るのではないだろうか。 45 (1)小川利夫編『生涯学習と公民館』亜紀書房、1987年。ⅲページ。 (2)宮坂広作は公民館の性格として、①地域主義、②実際主義・生活主義、③総 合 的 性 格 を 挙 げ ( 小 川 利 夫 ・ 倉 内 史 郎 編 『 社 会 教 育 講 義 』 明 治 図 書 、 1964。180~ 1ペ ー ジ ) 、 小 堀 勉 は そ れ に 公 立 主 義 を 加 え て い る ( 古 木 弘 造 編 『 外 国 の 社 会 教 育 施 設 』 光 文 書 院 、 昭 和 4 0 年 。 85ペ ー ジ ) 。 ( 3 ) 加 藤 哲 郎 『 ジ ャ パ メ リ カ の 時 代 に - - 現 代 日 本 の 社 会 と 国 家 』 花 伝 社 、 1988 年、44~54ページ。 (4)小林文人編『公民館の再発見』国土社、1988年。2ページ。 (5)公民館類似施設という概念は、文部省の社会教育調査などでは、社会教育会 館のように法的地位以外は公民館とほぼ同一の施設に限定されている。けれども本 稿ではややルースに、地域住民のための文化-集会施設、すなわち地域センター施 設というほどの意味で用いた。 (6)松下の所論は、次の二著作に基づいて紹介した。 松下圭一『市民文化は可能か』岩波書店、1985年(文中『市』と省略)。 同 『社会教育の終焉』筑摩書房 1986年(文中『社』と省略) なお、上記からの引用に関しては、参照の労を少なくするため、当該語句の後 の括弧内にそれぞれの書名を『市』『社』と省略して表記し、その左に引用ページ を記した。 (7)たとえば、小川利夫「生涯学習の体系化と社会教育の終焉--臨教審「生涯 学 習 体 系 」 論 批 判 」 、 小 川 編 『 生 涯 学 習 と 公 民 館 』 亜 紀 書 房 、 1 9 8 7 年 、 11 5 ペ ー ジ 、 あるいは、小林文人「公民館における学習権創造の歩みと課題」、小林編、前掲、 12ペ ー ジ 、 参 照 。 (8) 渡辺治「現代日本社会の権威的構造と国家」、藤田勇編『権威的秩序と国 家 』 東 京 大 学 出 版 会 、 1987年 、 182~ 3ペ ー ジ 、 188~ 191ペ ー ジ 。 (9)後藤道夫「階級と市民の現在」。石井伸男・清真人・後藤道夫・古茂田宏編 『モダニズムとポストモダニズム--戦後マルクス主義思想の軌跡--』青木書店、 1988年 、 199ペ ー ジ 、 参 照 。 ( 10) 例 え ば 、 渡 辺 、 前 掲 論 文 、 217~ 224ペ ー ジ 。 46 ( 11 ) こ の 点 に 関 し て は 、 後 藤 、 前 掲 論 文 、 2 0 0 ペ ー ジ 、 2 0 8 ペ ー ジ 参 照 。 (12) 庄 司 興 吉 『 社 会 発 展 へ の 視 座 』 東 京 大 学 出 版 会 、 1989年 、 163~ 5ペ ー ジ 。 ( 13) ユ ル ゲ ン ・ ハ ー バ ー マ ス 、 丸 山 他 訳 『 コ ミ ュ ニ ケ イ シ ョ ン 的 行 為 の 理 論 ( 下 ) 』 未 来 社 、 1987年 、 第 8 章 参 照 。 ( 14) 市 川 達 人 「 豊 か な 生 へ の 都 市 の 可 能 性 - - 都 市 と 共 同 - - 」 、 東 京 唯 物 論 研 究 会 編 『 豊 か さ を 哲 学 す る 』 梓 出 版 社 、 1 9 8 9 年 、 11 2 ペ ー ジ 。 ( 15) 以 下 の ド イ ツ 連 邦 共 和 国 の 継 続 教 育 と 市 民 大 学 に つ い て の 説 明 に 関 し て は 、 三輪建二・谷和明「成人教育条件整備の国際的動向」、小林文人・藤岡貞彦編 『 生 涯 学 習 計 画 と 社 会 教 育 の 条 件 整 備 』 エ イ デ ル 研 究 所 、 1 9 9 0 年 、 246~ 2 64ペ ー ジ 、 参 照 。 (16)Saalbau GmbH ; Allgemeine Gescha ftsbedingungen. ( 1 7 ) St a d t F r a n k f u r t a m M a i n ; R i c h t l i n i e n z u r G e w a h r u n g v o n Z u s c h u s s e n a n Ve r e i n u n d O rg a n i s a t i o n b e i d e r U b e r l a s s u n g v o n R a u m e n i n d e n B u rg e r gemeinschaftsha usern. ( 1 8 ) St a d t F r a n k f u r t a m M a i n ( h rg . ) ; We g e d e r F r a n k f u r t e r Vo l k s b i l d u n g , F r a n k furt a.M ,1987,S.60. (19) ebenda,S.61. (20) ebenda,S.7. (21) ebenda,S.62. (22) ebenda,S.62f. (23) ebenda,S.64f. ( 2 4 ) e b e n d a , S . 6 6 ff . (25) ebenda,S.55. (26) ebenda,S.8. (27) ebenda. ( 2 8 ) Z i n n e r , G e o rg ; S o z i a l k u l t u r e l l e G e m e i n w e s e n a r b e i t - - G e s c h i c h t e u n d R e n a i s s a n c e i n d e r B u n d e s r e p u b l i k , i n : B l a t t e r d e r Wo h l f a h r t s p f l e g e 1 2 / 1 9 8 8 S.283. 47 ( 29) ト イ ン ビ ー ・ ホ ー ル お よ び セ ツ ル メ ン ト 施 設 の 発 展 に つ い て は 、 以 下 の 諸論稿を参照のこと。 古木弘造「英国のコミュニティ・センター」、本山政雄「英国の教育セッツル メント」(以上、古木 編『外国の社会教育施設』光文書院、1965、所収) 、山田順一「トインビー・ホールにおける成人教育」、加藤幸次「英国教育セン ターの現状」(以上、古木 編『続・外国の社会教育施設』光文書院、1967、 所収)。 日本では、マルクス主義運動の開拓者の一人である片山潜が、まだキリスト教 社会主義者であった若き日に、ロンドンのトインビー・ホール等を訪問してセツ ル メ ン ト 事 業 に 共 鳴 し 、 1897年 に 琴 具 須 玲 ( キ ン グ ス レ イ ) 館 を 創 立 し た ( 藤 田 秀雄『社会教育の歴史と課題』学苑社、昭和54年、28~58ページ)。 ( 30) 「 国 際 セ ツ ル メ ン ト ・ 近 隣 社 会 セ ン タ ー 連 盟 」 は 1926年 に 創 立 さ れ た 組 織 で 、 現在はイギリスのバーミンガム・セツルメントに本部を置いている。 1988年 に は 西 ベ ル リ ン で 「 連 盟 」 の 第 1 5 回 国 際 会 議 が 「 複 数 文 化 間 の 架 橋 と してのセツルメント--移民および難民との社会的-文化的活動--コミュニテ ィおよび近隣社会活動に対するある挑戦」をテーマに開催された。この会議を準 備したのは西ベルリンの近隣社会会館、とりわけ後に紹介するシェーネベルク近 隣社会会館の職員である。そしてこの会議では近隣社会会館がセツルメントの同 義語として用いられている。 ( 3 1 ) I F S - K o n f e r e n z - B u r o / Ve r b a n d f u r s o z i a l - k u l t u r e l l e A r b e i t e . V. ( H g ) ; D o k m e n tation Ⅹ Ⅴ .Internationaler Konferenz der IFS, Berlin 1989, S.167. ( 3 2 ) D e u t s c h e r P a r i t a t i s c h e n Wo h l f a h r t s v e r b a n d ( H g ) ; I n f o r m a t i o n s s c h r i f t , Frankfurt a.M.1989, S.7. ( 33) 「 無 宗 派 社 会 福 祉 協 議 会 」 を 含 め た 西 ド イ ツ の 民 間 社 会 福 祉 団 体 の 概 要 に つ いては、大西健夫編『現代のドイツ 7 社 会 保 障 』 三 修 社 、 1982、179~ 194ペ ー ジを参照されたい。 ( 3 4 ) D e u t s c h e r P a r i t a t i s c h e n Wo h l f a h r t s v e r b a n d ; e b e n d a , S . 3 9 . ( 35) Zinner;ebenda,S.283 48 (36) 以 下 の シ ェ ー ネ ベ ル ク 近 隣 社 会 会 館 に 関 す る 略 史 は 、 Zinner;ebenda,283~ 5.及 び N a c h b a r s c h a f t s h e i m S c h ö n e b e rg e . V. ( H rg ) ; 4 0 J a h r e N a c h b a r s c h a f t s h e i m S c h ö n e b e rg e . V. , B e r l i n , 1 9 8 8 , S . 1 7 ff . の 記 述 を 再 構 成 し た も の で あ る 。 (37) 自 助 グ ル ー プ に 関 し て は 、 久 保 紘 章 監 訳 、ア ラ ン ・ ガ ー ド ナ ー / フラン ク ・ リ ー ス マ ン 『 セ ル フ ・ ヘ ル プ ・ グ ル ー プ の 理 論 と 実 際 』 川 島 書 店 、 1985年 、 が アメリカでの実践をもとにしたものであるが、参考になる。また、久保紘章『自立 のための援助論--セルフ・ヘルプ・グループに学ぶ』は、日本の自助グループの 事例集であるが、これも参照されたい。 ( 3 8 ) N a c h b a r s c h a f t s h e i m S c h ö n e b e rg e . V. ( H rg ) ; e b e n d a , S . 8 6 . (39) ebenda,S.88. (40) Zinner;ebenda,S.283. ( 4 1 ) N a c h b a r s c h a f t s h e i m S c h ö n e b e rg e . V. ( H rg ) ; e b e n d a , S . 1 0 . ( 4 2 ) 以 下 パ ヴ ィ リ オ ン の 略 史 は 、 B ü rg e r i n i t i a t i v e R a s c p l a t z e . V. ( H rg ) ; D i e ersten zehn Jahre,Hannover 1987,S.149~ 159.の 叙 述 を 再 構 成 し た も の で あ る 。 ( 4 3 ) B ü rg e r i n i t i a t i v e R a s c p l a t z e . V. ( H rg ) ; e b e n d a , S . 9 . ( 4 4 ) D i e L a n d e s a r b e i t s g e m e i n s c h a f t s o z i o k u l t r e l l e r Z e n t r e n N d s ; L A G S i n St i chworten. ( 4 5 ) B ü rg e r i n i t i a t i v e R a s c p l a t z e . V. ( H rg ) ; e b e n d a , S . 1 3 . (46) ebenda,S.129. ( 4 7 ) e b e b d a , S . 1 3 0 , 1 3 2 ff . (48) ebebda,S.16. (49) ebebda,S.66. ( 5 0 ) B ü rg e r i n i t i a t i v e R a s c p l a t z e . V. ( H rg ) ; R e c h e n s c h a f t s b e r i c h t 1 9 8 8 , S . 8 ff . ( 5 1 ) e b e nda,S.20. ( 5 2 ) B ü rg e r i n i t i a t i v e R a s c p l a t z e . V. ( H rg ) ; D i e e r s t e n z e h n J a h r e , S . 8 . (社会教育基礎理論研究会編著『叢書生涯学習 出 版 1991年 Ⅴ社会教育の組織と制度』雄松堂 に 第 5 章 ( 151~ 203頁 ) と し て 収 録 さ れ た 論 文 の 原 稿 り) 49 未校正部分あ 50